講和近づけりという噂がある。しかし戦争はまだやむまい。ばかばかしい話だが、英独両国で面目をつぶすのをイヤがっている間は、とうてい仲なおりはできぬ。
 戦争はまだ幾年も続くだろう。そうして結局、各国ともに、社会的不安と政治的革命とを経験する事になるだろう。つまり現在露国で露国風に起こっている状態が、英国では英国風に、仏国では仏国風に、ドイツではドイツ風に、必ず起こるに相違ない。そうして一般民衆は現戦争の罪が敵味方共通のある種の資本家やユンケル連にあることを正直に認め、人類の光栄のためにこの種の階級に対して神聖な戦いを宣するだろう。そうなると今対峙たいじしている敵味方の間の勝敗などは、どうでもよくなってしまう。今までの軍国主義者や愛国狂は顔をあおくしてすみの方へ引き込んで行く。その代わり、英、独、仏、露、敵味方各国の人民はお互いに暖かい情をもって手を握り合い、お互いの民族の優れた性質や高貴な文化を賞讃し合う。そうしてこの恐ろしい悲惨な戦争を起こした少数の怪物たちを、共通の敵として憎むことに同意する。
 ここでばかばかしく無意義に見えた現戦争が、文化史的に非常に重大な意義を獲得する事になる。すなわち文芸復興期以後二十世紀まで続いて来た自然科学と国家組織との発達が、その極点に達して破裂してしまうのである。そうして旧来の自然科学的文化の代わりに理想主義的文化が、利己主義的国家の代わりに世界主義的国家が、力強く育ち始めるのである。
 低級な戦争目的が世界的問題となるようなことは、その時にはもう起こらない。新しい世界人の関心事は人生の目的である。人間の生活そのものが、すべての問題の焦点に来る。国家は、人生目的の実現に対して有利であるという事をほかにして、もはや存在の理由をもたないのである。
 かくて人間の生活は、永い間の抽象化を脱して、久しぶりに具体的になる。
 人類の運命はやっと常軌に返る。
 その先駆としての露国革命はきわめて拙く行った。しかし、露国の革命には五十年の歳月が必要だと言われているくらいだから、今の無知無恥な混乱も露国としてはやむを得ないかもしれぬ。同じ革命がドイツや英国に起こる時には、決してあんな醜態は見せまい。民衆の教養は共同と秩序とを可能にする。現在民衆の人間らしい本能を押えつけている力の組織は、やがてまたそれを倒す民衆の力の内にも現われて来るだろう。
 もし近い内に真実の講和が来るとすれば、それは右の機運が内部に熟している証拠である。
 そうでなくただ妥協的に、戦前の状態に復するような講和は成立するわけがない。これほどの大事件が深い痕跡を残さずにすむものか。

 われわれの経験は時間と空間との相違によって著しく強さを異にするものである。
 ある事件を一か月の間に経験するのと、一か年に引きのばして経験するのとでは、その印象の深さがまるで違う。すぐそばで経験するのと遠く離れて経験するのとの相違も同様である。
 この心理的事実のゆえに我々は現在世界に起こりつつある大事件をさほど強く感じてはいない。最近一か年の露国の急激な変化すらも、毎日の新聞電報に注意を払っているものにはともすれば緩徐かんじょに過ぎるごとく感ぜられるのである。戦争のもたらした残酷な不具癈疾、神経及び精神の錯乱、女子及び青年の道徳的頽廃、――これらの恐ろしかるべき現象も、ただ空間のへだたりのゆえに我々にはほとんど響いて来ない。
 しかしこの直接印象の希薄は、想像力の集中と、省察の緊張とによって、ある程度まで救うことができる。そうしてそれは我々日本人が世界的潮流に遅れないために不断に努力すべき所である。
 ヨーロッパ人は今異常に苦しんでいる。日本人はその苦しみを自分の身に分かつ代わりにむしろうれしそうにおもしろそうにながめている。他人の不幸を喜ぶのである。しかし苦しむものは育つ。この一、二年間のヨーロッパには、日本人の容易に窺知きちし難い進歩があった。ヨーロッパが苦しみ疲れるのをあたかも自分の幸福であるがごとく感じている日本人は、やがて世界の大道のはるか後方に取り残された自分を発見するだろう。それはのんきな日本人が当然に受くべき罰である。
 我々はこの際他人の不幸を喜ぶような卑しい快活に住していてはならない。我々は今人間生活の大きい厳粛な転向点に立っているのである。

 現戦争がこのように大きい変革を世界史の上にもたらすとすれば、戦後の芸術はどうなるであろうか。
 第一に考えられるのは、一般民衆が勢力を得るとともに、在来の貴族的芸術を虐待するだろうという事である。露国の農民や労働者がレムブラントを虐待する。婦人運動に加わっている英国の女がレムブラントを破壊しようとする。ドイツの砲兵が美しい寺院建築を平気で目標にする。彼らの眼にはこの種の芸術は貴族や金持ちの道楽品に過ぎぬので、それを破壊するのが何ゆえ大きい罪であるかという事はほとんど理解せられないのである。この種の民衆は、たとえばトルストイの芸術論を基礎として、多くの優秀な芸術品の破壊を命令しないとも限らない。
 もしこうなるとすれば、ロマン・ロオランのごとき人が、殉教的な熱情をもって高貴な芸術と民衆との間に通弁すべき時が来るのである。ここで真に芸術の使徒となろうとする人は生命を賭してロマン・ロオランのごとき人を支持するのである。
 人間は神の前において平等である。しかしある人は他の人よりも多くの稟賦ひんぷを恵まれ、そのより多くの力をもって指導者の位置につくことができる。あるいは、つかねばならぬ。生来の芸術家はこの種の人である。いかに平民主義が栄えても、天与の才に対する尊敬の念は失わるべきでない。――この点を明らかにするのが第一の任務である。
 一般民衆が圧抑に対する反動をもって動くときには、ともすれば群集心理的のうわついた気分になって、芸術を受用し得るような心の落ちつきを失うものである。しかし民衆の教養は、西ヨーロッパにおいては、必ずしも上流社会の教養よりも劣っているとは限らない。むしろ中流以下の民衆の方により多く精神的教養への欲望が認められるくらいである。彼らを理解に導いて行く機会と設備とをさえ整えれば、――そうして国家が精神的才能の活用法に十分心を用うれば、――平民主義の下にもより美しい芸術の時代が現出し得るだろう。――この民衆教化が第二の任務である。
 しかし現在露国の一部労働者が芸術を虐待したからといって、それで戦後の芸術を推しはかるのは少し無理だと思う。一般的に言って教養ある民衆の方が官僚政治家や金持ちなどよりもよりよく芸術を解するのである。

 次に考えられるのは、戦争のもたらした生活の変化が著しく芸術の上に現われるだろうという事である。
 まず急激な物質的進歩がある。この点についてはすでに最近十年の変遷が実に目まぐろしい。古い歴史を読む場合には十年という年月はさほど注意するに当たらないきわめて短いもののように思える。しかし我々の前の十年は、汽車、汽船、電信、電話、特に自動車の発達によって、我々の生活をほとんど一変した。飛行機、潜航艇等が戦術の上に著しい変化をもたらしたのもわずかこの十年以来のことである。その他百千の新発明、新機運。それが未曾有みぞうの素早さで、あとからあとから人間に押し寄せて来た。その目まぐろしさが戦争突発以後ますます物狂おしく高まって来る。あらゆる発明と発達とはその成果を戦場に並べ立て、あらゆる個々の進歩はその戦争への貢献によって一時に我々の注意を刺激する。戦前の十年もついに戦争中の一年にかない。
 このことはおそらく狂気じみたいら立たしさ――持続の意力をほとんど完全に欠いた神経の慄動りつどう――をもって芸術に影響するだろう。十九世紀末のデカダンスを普仏戦争の影響と結びつけて考え得るものは、現戦争の後にさらに強度のデカダンスを予期しなくてはならぬ。
 しかしもっと重大なのは、急激な精神的変化である。現戦争によって自然科学はそのあらゆる威力を発揮した。人間は自然力の上に未曾有の強大な支配者となった。しかしそれで人間はどれほどよくなったか。お互いに殺人器をますます精鋭にし、殺人法をますます残酷にしたというほかに、どれほど人間を進歩させたか。――我々は現戦争のあらゆる著しい特質を見まわしたあとで、結局、最近の自然力支配は人間の罪悪と不幸とを一層深めた、という結論に到達する。すなわち解放せられた自然的欲望はその自由の悪用のゆえに貪婪どんらんの極をつくしてついに自分を地獄に投じた。人智の誇りであるべき自然力征服は、それ自身においては「文化」を意味し得るようなものでないということを遺憾なく立証した。ここで自然科学崇拝の傾向を破産しなければならぬ。この気分の変化は少なくとも人生をまじめに考える人々の間では、十分強く経験せられたように見える。文芸復興期以来しきりに重ねられて来た人間の妄想が再びまた「人道主義」の情熱によって打ち砕かれるのである。世界史の大きい振り子は行き詰まるごとに運動の方向を逆に変えるが、しかしその運動の動因は変わらない。
 それとともにもう一つ見落としてはならぬ変化は、社会組織の基礎として民衆の共同や協力を力説する思想が著しく栄えて来たことである。服従の代わりに協力。命令の代わりに協議。従ってまた個人は、社会に安全に生息するために、ある型に自分をはめ込まねばならぬ、というような必要から全然解放せられた。何人なんぴとも、何らの束縛なしに、彼自身であってよい。何者にも盲従するには当たらない。しかし人間が超個人的な永遠な事業を完成するためには、できるだけ有機的に個々の力を共同させねばならぬ。その組織が完全になればなるほど人生の目的は力強くつかまれる。――この事情は勢い民衆の間の心と心との交通を力づけるだろう。
 そこでキリスト教的心情の強く現われた芸術が、この時代の心から生まれて来るだろうと考えられる。十九世紀にはやった物質的な社会主義の代わりに、キリスト教的平民主義が力を得、トルストイやドストイェフスキイのいて行った種が勢いよく育って行くであろう。
 涙を冷笑した時代の後に、また涙を尊ぶ時代が現われるのである。

 次には芸術家の問題である。
 現戦争は人に人生の意義と目的とを反省させないではおかない。従ってまた人類の有史以来数千年の業績をも、しみじみと自己の問題として回顧せしめる。この事がもしある芸術的天才の心裡に起こったならば、そこに何らか雄大な結晶物が生まれないではいないだろう。
 考えてみると、古来の芸術的傑作には戦争に刺激せられてできたものが非常に多い。造形美術ではペルシア戦争後のアテナイの諸傑作などがその最も著しい例である。文学でも『イリアス』が戦争の詩である事は言うまでもなく、ダンテの『神曲』は十字軍から百年戦争までの間の暗い時代にダンテ自身の戦争経験をも含めて造られ、ゲエテの『ファウスト』は仏国大革命の時代をその製作期として持っている。これらは戦争の刺激によって芸術家が人生全体を通観する機会を与えられた、という事実を語るものではなかろうか。『イリアス』が古代世界を代表し、『神曲』が古代と中世とを包括し、『ファウスト』が古代中世近代の全体を一つの世界にまとめ上げた、というように、大仕掛けな、時代全体のみならず、人類の運命全体を表現しようとする芸術品は、我々の時代においても、現戦争のすさまじい刺激の下から、生まれて来はしないだろうか。
 私はその出生を予期するのが根のない空想だとは思わない。
 現戦争はヨーロッパの人民全体を、戦場にあると否とにかかわらず、魂の底から震駭しんがいさせた。この深刻な経験が結晶せずに終わるだろうと信ずるのは、世界のすみにあって戦争の苦しさをのんきに傍観している浅薄な国民だけだろう。
 しかし世界はそう単純には行かない。世界が何かの単色に塗られるだろうなどと考えるのは、正気の沙汰さたではない。
 近代文化の総勘定。それが現に行なわれつつあるのである。そうしてこの二、三年の間にその大体の計算ができあがるのである。近代文化が多種多様な内容を持っていただけに、その計算の結果も定めて複雑なものだろう。

底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「新小説」
   1918(大正7)年2月号
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
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