我々は創作者としてはたらく時、その創作の心理を観察するだけの余裕を持たない。我々はただ創作衝動を感ずる。内心に萌え出たある形象が漸次醗酵し成長して行くことを感ずる。そうして我々はハッキリつかみ、明確に表現しようと努力する。そこにさまざまの困難があり、困難との戦いがある。しかし創作の心理的経路については、何らの詳しい観察もない。創作の心理は要するに一つの秘密である。
 しかし我々は「生きている。」そうしてすべての謎とその解決とは「生きている」ことの内にひそんでいる。我々は生を凝視することによって恐らく知り難い秘密の啓示を恵まれる事もあるだろう。
 昨夜私は急用のために茂った松林の間の小径を半ば馳けながら通った。冷たい夜気が烈しく咽を刺激する。一つの坂をおりきった所で、私は息を切らして歩度を緩めた。前にはまたのぼるべきだらだら坂がある。――この時、突然私を捕えて私の心を急用から引き放すものがあった。私は坂の上に見える深い空をながめた。小径を両側から覆うている松の姿をながめた。何という微妙な光がすべての物を包んでいることだろう。私は急に目覚めた心持ちであたりを見回した。私の斜めうしろには暗い枝の間から五日ばかりの月が幽かにしかし鋭く光っている。私の頭の上にはオライオン星座が、讃歌を唱う天使の群れのようににぎやかに快活にまたたいている。人間を思わせる燈火、物音、その他のものはどこにも見えない。しかしすべてが生きている。静寂の内に充ちわたった愛と力。私は動悸の高まるのを覚えた。私は嬉しさに思わず両手を高くささげた。讃嘆の語が私の口からほとばしり出た。坂の途中までのぼった時には、私はこの喜びを愛する者に分かちたい欲望に強くつかまれていた。――
 私は思う、要するにこれが創作の心理ではないのか。生きる事がすなわち表現する事に終わるのではないのか。

 生きるとは活動することである。生を高めるとは活動を高める事である。従って活動が高まるとともに生の価値も高まる。人格価値というのも畢竟この活動にほかならない。活動の高昇はすなわち人格価値の高昇である。(もとよりここにいう活動は外的活動の意味ではない。全存在的活動、あらゆる精神力、肉体力の統一的活動である。)
 ところでこの活動は同時にまた自己表現の活動である。私の心がある人の不幸に同情して興奮する、私は急いでその不幸を取り除くために駈け出す。私の心が自然の美に打たれて興奮する、私は喜びを現わさないではいられない。すなわち我々の生命活動は何らかの形で自己を表現することにほかならない。
 我々が意志を持つ、そうして努力する。これすなわち自己表現の努力である。
 我々が感情を持つ、そうして喜怒哀楽に動く。これもまた白己の表現である。
 芸術の創作は要するにこの自己表現の特殊の場合に過ぎない。

 生命全体の活動が旺盛となり、人格価値が著しく高まって来ると、そこにこの沸騰せる生命を永遠の形において表現しようとする衝動が伴なう。あらゆる形象と心霊、官能と情緒、運動と思想、――すべてが象徴としてこの表現のためには使役される。そこに芸術家特有の創作が始まるのである。
 第一に高められたる生命がなくてはならぬ。生の充実、完全、強烈、――従って人格価値の優秀……生の意義が実現せられ、人類の生活がそのあるべき方に、その目標の方に導かれて行く所の、白熱せる本然生活がなくてはならぬ。ここに何ものを犠牲にしても自己を表現しないではいられない切迫した内的必然が伴なって来る。次にはこの深い精神内容をイキナリ象徴によって表現し得る素質がなければならぬ。象徴を捕える異様な敏感、自己を内より押し出そうとする(戦慄を伴なうほどの)内的緊張、あらゆる物と心の奥に没入し得る強度の同情心、見たものを手の先からほとばしらせる魔術のような能力。――これが芸術創作における最も特殊な点である。(ここに恐らく天分の意義がある。人がこの方法によって自己を表現しなければならないのは、その性格にひそむ宿命に強いられるのである。)
 しかし、いわゆる創作が必ず右のようなものであるかという事になると、私はつまずく。我々の眼の前には、そうでないらしく思われる創作の方が多いのである。第一、ほんとうに生きようとしていないノンキな似而非えせ芸術家が創作をやっている。それを「ほんとうに生き」たくない読者が喜んで読む。そこに彼らの仕事が何らか社会的の意義を持つような外観を呈してくるのである。で、彼らは乗り気になって、自分がある事を言いたいからではなく読者がある事を聞きたがっているゆえに、その事をおもしろおかしくしゃべり散らす。純然たる幇間である。またある人はただ創作のためにのみ創作する。彼らの内には、生を高めようとする熱欲も、高まった生の沸騰も、力の横溢もなんにもなく、ただ創作しようとする欲望と熱心だけがある、内部の充溢を投与しようとするのでなく、ただ投与という行為だけに執着しているのである。従って彼らの表現欲は内生が沈滞し、平凡をきわめているに比べて、滑稽なほど不釣合に烈しい。
 表現を迫る内生とその表現の方法との間にかくのごとき虚偽や不釣合があり得るとすれば、私が芸術創作について言った事は一般には通じない事になる。すなわち我々はいわゆる創作と呼ばれるものの内に、真の創作と偽りの創作とを区別しなければならない。そうしてただ正直な高貴な創作をのみ真の創作として取り扱わなければならない。この貴族主義的な考え方は近代の心理学的方法とは背馳するが、しかし創作の事については実際やむを得ないのである。
 しからば何によって創作の真偽、貴賤、正直、不正直を分かつか。生きる事が自己を表現することであり、その表現が創作であるならば、いかなる創作も虚偽であり卑賤であるとは言えないはずではないか。
 それはただ表現を迫る生命とその表現方法との関係において(その関係の正不正において)、見るほかはない。人間には感心しない物を感心したらしく詠嘆する能力がある。少しく感心したものをひどく感心したらしく言い現わす能力もある。人によれば自分の感じたことをわざと抹殺しようとする習慣をさえ持っている。あるいはほとんど無意識に自分の感じた事の真相から眼をそむける人もある。これらの事実は表現の虚偽をひき起こさないではやまない。
 表現を迫る内生はそれにピッタリと合う表現方法を持っている。この関係を最も適切に言い現わすため、私はかつて創作の心理を姙娠と産出とに喩えたことがある。実際生命によって姙まれたもののみが生きて産まれるのである。我々は創作に際して手細工に土人形をこさえるような自由を持っていない。我々はむしろ姙まれたものに駆使されその要求する所に無条件に服従するほかないのである。
 特に芸術のごとき複雑困難な表現手段を必然的に必要とする内生は、非常に高められたものであるとともにまたきわめて繊細なものである。その表現に際して虚偽を絶対に避けるためには、姙まれたものに対する極度の誠実と愛と配慮とがなくてはならぬ。――もともと姙まない者が、すなわち高い深い内生を、生命の沸騰を、持っていない者がそれを持っている者のごとくふるまい表現しようとするごときは、頭から問題にならない。しかし何事かを姙んだ者が、ただその産出の手ぎわと反響とのみに気をとられて、姙まれた物に対する正直と愛とをゆるがせにする事は、きわめて陥りやすい邪路として厳密に警戒されなければならぬ。ただ正直に、必然に従って、愛の力で産む、――そこにのみ真の創作があるのである。
 さらにまた芸術の創作については、大いなる者を姙むことが重大である。すなわち自己の生命をより高くより深く築いて行くことが、創作の価値をより高からしめるためには必須の条件である。人は偉大な作品をつくりたいという気をきわめて起こしやすい。しかし偉大な表現はただ偉大な内生あって初めて可能になるのである。何を創作したいという事よりも、まずいかに生きたいという欲望が起こらなくてはならない。人は第一に生きている。表現はその外形である。我々のなすべき第一の事は、決然として生の充実、完全、美の内に生きて行こうとする努力である。

 我々はもういくらかの人生を見て来た、意欲して来た、戦って来た。その体験は今我々の現在の人格の内に渦巻きあるいは交響している。我々の眼や我々の意欲は、このオーケストラを伴奏としてさらに燃え、さらに躍動しようとする。そうしてこの心は自らを表現しないではやまない。たとえ我々の生命の沸騰が力弱く憐れなものであるにしても、我々はなお投与すべき力の横溢を感ずる。我々は不断に流れ行く自己の生命を結晶せしめ、我々のもろい生命に永遠の根をおろさなくてはならぬ。しかし我々はさらに昇るべき衝動を感ずる。我々はさらに見、さらに意欲し、さらに戦わねばならぬ。我々の表現すべき内生は真理の底に、生命の底に、まっしぐらに突進して行く奔流のごとき情熱である。岩壁に突き当たって跳ね返えされる痛苦を、歯を食いしばって忍耐する勇気である。我々の血は小さい心臓の内に沸き返っている。我々の筋肉は痛苦の刺激によって緊張を増す。この昇騰の努力を表現しようとする情熱こそは、我々が人類に対する愛の最も大きい仕事である。

底本:「偶像再興・面とペルソナ 和辻哲郎感想集」講談社文芸文庫、講談社
   2007(平成19)年4月10日第1刷発行
初出:「文章世界」
   1917(大正6)年1月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年3月29日作成
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