さてデモクラシーの最大要素が自由にあることは論を待たぬ、殊更いわずとも民主主義と自由論とは殆ど同一物の如く思い做して、甲を挙ぐれば乙はその中に含まれている如く認められていて、この事は議論を待つまでもなく常識で、明であると思われている。民本主義といえばその昔に遡れば、西洋ならば少くとも希臘の歴史にまで達してその本を探り、東洋では堯舜の時代にまでも上り得るのである。何れの説によらず、それからそれと本を求むれば何処までも遡ることが出来る。隅田川の水源は果して何処にあるかといえば、武蔵野の奥深く進み行きてチョロチョロの小川を指摘するを得る。なお進めば落葉の下を潜る露の雫をも名けて河といえるようなもので主義の本などいうことも、殆ど言葉の巧なる用法によりて如何ようにも説明されるけれども、実際今日に行わるる民主主義の社会の原動力となりあるいは政治の運動となって現われたのは仏蘭西革命以来といわざるを得ない。少くとも仏蘭西革命なる現象によりて民本主義なる一の主義が世界に知られたというて宜かろう。今日民本主義を説く者は仏蘭西革命の知識なくしてはこれを明にすることは出来まい。
そこで仏蘭西革命で盛に唱導された主義は何かといえば、第一自由、第二平等、第三親睦である。この中でも最も重をなしたのは自由の思想である。この思想は仏人固有のものといわんよりも寧ろ英国より輸入されたものの如き感もある。然らば英人は何処からこれを得たかといえば、これまた談が如何にも学校の講義のようになって、僕が本誌の余白を藉りて日頃説けることとは趣を異にする故これを略すとして、とにかく仏蘭西革命に於て唱えられた自由なるものは、もとは英国民族の固有なりとは学者の教ゆるところである。言い換れば仏蘭西人には新しい思想であったらしい。勿論英国以外でも先覚者及び学者の中には英国人に劣らぬほどよくこれを諒解したものもあろうが、国民一般に就ていえば英人が遺伝的に本能的に理解していたことも、仏蘭西人には耳新しい珍しい面白い福音原理の如く聞えた、殊にこの説の宣伝に有力であったことはかの有名なるルソーの民約説であったから、英人の説き方とは大分異っていた。常識に基いた穏健な実着な思想といわんよりは寧ろローマンチックな奇抜な事を言い出したので田夫野人も趣味を以てこれに耳を傾け、従ってその説の弘まり方も非常に早く、その代りに誤解もまた多くあった。なかんずく応用に至りては仏蘭西革命の歴史の示すが如く独り仏蘭西のみならず人類の歴史を汚す如き乱暴狼藉を来たしたのである。
自由なる言葉に政治的意味を含まして用うるは我国に於ては明治以後である。中村敬宇先生がミルの自由論を訳された時には、あれほどの漢学者でありながら訳語に度々窮せられ原語の意味は能く分っても、それに該当する訳字を発見せぬので、あて字を用い、その下に括弧して後日の訳者を待つなどと附記していた。然るにその後自由民権論が盛に行われ、殊に明治十年前後には民権党、自由党などいう看板の下にこれらの主張が世に弘まった。
然るにこの説を聞く者はさて置き、これを唱うる人さえも、どれほどその意味が解ってるのか、学生としてミルの書を読める最中であった当時の僕は、大にこれを疑わざるを得なかった。また近頃デモクラシーの声が各所に囂々として唱えられ、また僕自身も小さいながらもこれを旗印としているに拘らず、果して自由なるものが如何なる権利あるいは権力であるかを了解する者が少くないかを虞れる。普通凡夫の心を喜ばせるものは煽てることである。彼らに勝手の事をするのが自由である、人権の最も貴いものであるなどと教ゆれば、各自の知識あるいは趣味の程度によりて我儘を働くを以て自由を享有するように思うは当然のことである。仏蘭西革命時代に自由論が教育ある中流社会に唱えられていた間は大した過もなかったようであるが、無教育な下層社会に唱えられ出してからは、有らゆる暴行を促すようになって、遂に乱暴狼藉に反対し合理的の民権自由を主張した者は片端より断頭台上の人となされた。かの有名なるローランド夫人の如きは、革命の当初には自由民主のため大に名望もありかつ実際に尽したことも少なからぬ人であったが、過激党のために遂に断頭台に上らせられ、露の命のまさに消えんとする時、「オオ自由よ、自由よ、幾多の罪悪が汝の名によりて行われしぞ」と絶叫したというのは、デモクラシー即ち自由の誤解濫用を最も能く現わしたものである。
一体自由というは決して自分勝手な事をする意味ではない。即ち放肆とは違う。ルソーの説はともすれば人間と動物との区別を忘れ勝ちであったと思われる。彼は動物社会には何の制限もなく、喰いたい時に喰い、眠くなれば寝る、他より何らの制限を受けぬところを以て自由の如く説き、太古の有様を以て人類社会の理想としたのである。さればルソーがその著書を友人のヴォルテーアに贈った時、後者の書いた挨拶の書状に名著は喜んで拝見したが、御教訓の趣を実行し兼ねることは甚だ遺憾に存ずる。老生既に七十の齢を越えたれば、貴兄の教えらるる如く、今更四ツ這いになって歩くことも致し兼ねると答えたという話がある。動物社会には我々の尊ぶ自由というものはないのであろう。
人間が何事を行うにも必らず二の動機の何れか一によりて為すものである。一は希望、一は恐怖である。物を喰うにさえ美味を楽むという望を以てするか、然らざれば喰わねば餓死する恐あるからである。学問するにも偉い者になりて立身するを希望するのと、学校に通わねば親に叱られたり他人に笑われたりする恐からする。商売するにも政治運動するにも、詮じつめればこの二の動機の何れかによりて人は動いている。希望を以てすることを仮りに積極的行為と名づくれば、恐怖の念より為すことを消極的行為というても可い。積極に出る行為をすることは取も直さず自由の意思によりて動くということになり、消極的に出ることは自己以外の威力に強制されて為るので、独立自由の人格の好まない所、甘んじない所、止むを得ざること、謂わば恐迫され強られて為る如きものである。政治に就ていうも同じ税を払うにも村会なりあるいは議会なりに於て、自分なりあるいは自分が好んで選び出した人が承諾して課する税ならば、これ自由の意思を以て定めた税である。その用途も自分自らなり自分が選んで出した者の承諾した上に使うならば、これまた自由の行為というべきものである。これが昔のように自分は一向承知しないにも拘らず、強て財産の一部を捲き上げたり、あるいはこれを自分の一向賛成せぬことに用うれば、自由のない国家として、今日より見れば専制、独裁、野蛮の政治と非難さるる訳である。
然るに動物社会を見ると自分の意思でどうすることは殆どない、それが有るとすれば食ったり寝たりすることだけで、その他の事は何れも恐怖心より行うている。ある博物学者が書いた旅行書に、全く未開の森林の樹蔭でしばしば夜を明して動物社会の起臥寝食の有様を研究したものの中に、自然の美を喜ぶと同時にいわゆる自然界なるものの如何に不安の念に包まれおるかと感じた。鳥が鳴いたり鹿の声を聞くは風雅であるが、深更に獅子一たび吼ゆればあらゆる動物が大小となく恐怖の念を懐き、あるいは鳴きあるいは隠れ、あるいは慄えたりする様が明に分る。然るに獅子そのものは安心しているかというに、何か自分の身に危害を及ぼすものなきかを思うらしく、安心の態度は更にない。要するに恐怖心が彼らの心理的状態であることを述べてあったが、そうありそうに想われる。いわゆる優勝劣敗の行わるる境遇に於ては優も劣も互に恐れ合い、また疑い合い、辛うじてその存在を全うしているのである。かかる社会に於て如何にして積極的行動が行われ得るであろう。米国の未開地の中央などに行くと、野生の牛がいるという。その群を見るに毎時も戦々兢々としている。無神経と称せらるる牛でありながら僅の声にも戦いている。彼らの仲間の制度として一匹なり二匹なりが小高い丘の上に立って番している。怪しげな者が来ると合図する、番牛が合図するまではいささか安堵の体であるという。この有様を家畜となった牛に比すればどうであろう。乳牛の如き各自の小舎に餌われあるいは牧場で草を喰べる時の有様は、怪しげなる者が来ても更に怖るるの風なく安んじてその所を得ている。もっともこの安心が直に自由の本を為すとはいい兼ねる、寧ろ彼らは絶対的に人間に服従し奴隷となりて安静を保っていることなれば、僕は決して安堵即ち自由とはいわぬ。しかし僕の言わんと思うことはある程度まで生命財産の安固を得なければ自由を得難いものであると思う。衣食足って礼節を知るというが、衣食足って自由を知るというべく、今述べた家畜は衣食を得たいために自由を失っているのである。衣食を人より供給されているから、自分は安全ではあるが、奴隷となっている。
自由にしても自ら階級があってルソーのいうような動物の自由はいわば食うだけの自由で、甲の犬が噛じれる骨を乙犬は力任せにこれを奪う自由を有しているが、奪われまいとするには容易ならぬ心配をせねばならぬ。その食物を得るには痛く艱難せねばならぬ。即ち種々の不自由を経ねばならぬ。然るに何故にこんな不自由なる有様を自由と名づけるかといえば、彼ら動物間には法律や輿論の如き制裁力が弱いからである。しかしこれは最も低い階級の自由であって、我々の尊ぶ自由というはかくの如き野卑なものでない。財産と生命が安固にして夜は戸を閉じなくとも高枕で眠り、他人と説を異にしていても大手を振って往来を闊歩する如きことこそ真の自由というものである。即ち社会に秩序があって暴力に対する恐怖心が不必要になり、あるいは自分の説の行わるる希望を懐き、あるいは自分の疲れた体を憩うて身体の健全を維持する望を懐き、積極的行動を為しても、何人もこれを妨ぐる者なく、相互の生命、財産、思想、人格を尊敬する様になって、始めて自由が実現されるのである。自由の実現には一方必ず社会の秩序、法律の完備が伴うている。故に法律なくして自由は思も寄らない、社会の尊敬なしに個人の自由は実現出来ない。孔子の「心の欲する所に従えども矩を踰えず」というたのは自由の定義として適切である。単に心の欲する所に従うだけでは、あるいは矩を踰えるの恐もある。然らば単に矩を踰えないことのみを恐れるようでは、これまた自由を得たるものとはいわれない。心の欲する所は思い存分に行る、しかしその行うことにも自ら宜しき程度があって、その程度即ち矩を踰えない所に真の自由がある。然るに孔子さえも七十になって始めてこの域に達したので、五十、六十まではまだ心の欲する通り行うこと、矩を踰えたであろう。デモクラシーの経験に最も老練を積める英国民の於てさえいまだ理想的の自由に達しないのである。まして自由なる言葉を五十年前に始めて聞いたような国民がかくの如き意味に於て自由を理解することは、もとより期待されぬことであって、従って仏蘭西革命のワイワイ連中がこれを誤解して応用を過り、悲惨な歴史を演じたような事なきため、デモクラシーを重んずる者は冷静にこの問題を理解することに努めたい。
これだけでは僕は自由論に反対するように聞ゆるが、僕はその誤解を心配するのであって、これより正解に努力したい。
〔一九一九年二月一日『実業之日本』二二巻三号〕