ふと眼を覚ましてみると、電燈の光が微紅うすあかへやの中を照らしていた。謙蔵けんぞうはびっくりして眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。彼は人のいない暗い空家の中へ入って寝ているので、もしや俺は夢でも見ているのではないかと思って、じぶんの体に注意してみた。右枕みぎまくらに寝て右の手を横にのびのびと延ばし、左の手を胸のあたりに置いている己の姿が眼に映った。そのうえ駒下駄こまげた裏合うらあわせにして新聞でくるんで作った枕の痛みも頭にあって、たしかに宵に寝たままの姿であった。故郷くにの父親が病気になったと云う電報を遅く受取って、牛込うしごめ天神町てんじんちょうへ往き、もう寝ていた先輩を起して旅費を借り、小石川こいしかわ原町はらまちの下宿へ帰るつもりで、十二時近くなって大日坂だいにちざかまで来たところで、大きな雨になったので、坂をあがりつめた処にあった家の簷下のきした駈込かけこんでみると、その戸口に半紙はんしってあるのが見えた。それで煙草をむ拍子にマッチの火で見ると、それは貸家のふだであった。それに雨は急に晴れそうにもないし、汽車も翌日の午後でないと乗れないから、そこで一夜を明かすことにして雨戸に手をかけると、苦もなくいたので、内へ入って寝たところであった。
 彼は半身はんしんを起すように体を俯向うつむけにして顔をあげた。八畳ばかりの何も置いてないへやががらんとしている。頭の往った方はとこになっているが、そこも亀裂ひびの入ったきいろな壁土かべつちわびしそうに見えるばかりで、軸らしい物もない。見た処どうしても空家としか思われない。電燈のいたのは、借家人が引越した時に、スイッチを切らずにそのままにしてあったのが、故障のために消えていて、それが何時いつの間にか点いたのであろうと思った。
 戸外そとには物のうみつぶれるような雨がびしょびしょと降っていた。彼はいよいよ空家と云うことをたしかめたので、安心して横になって駒下駄こまげたまくらに頭をつけた。あたたかな空気のふわりと浮んだであった。彼は病気だと云う父親のことを考えだした。古い古い家の奥の間で、煙草のやにで黒くなった二つ三つ残った歯を出して、仰向あおむけに寝ている父親の姿を浮べた。
 その時物の気配がした。それはしわぶきとも何んともつかない物の音であったが、どうも人の気配であった。苦学しながら神田の私立大学へ通って法律をやっている彼は、体に悪寒おかんの走るのを感じた。平生いつも疏放そほうから他人の住宅へ侵入した結果になり、その上強窃盗ごうせっとうの嫌疑をかけられてもしかたのないようになったおのれ所業しわざを恐ろしく思った。隣の室ではまたものの気配がした。彼は怪しまれて騒がれないうちに、こっちから声をかけて事情を話してあやまろうと思った。
「もし、もし」
 咽喉のどからびて声の出ないのを無理に出して、体を起して坐った。
 隣の室と境になったふすまがすうといて、背の高い女が入って来た。
「私は決して怪しい者じゃありません、雨に降られたものですから、空家と思って入ったのです、んとも申しわけがありません」
んとも思ってやしませんよ、もう、お眼がさめましたの」
「空家と思ったものですから、すっかり眠ってたのです、どうもすみません」
 謙蔵は安心して女の方をはっきり見た。せぎすの体に友禅ゆうぜん模様の長襦袢ながじゅばんを着た、二十四五に見える廂髪ひさしがみの女であった。
貸家札かしやふだって置いたから、空家と思ったのも無理はありません」
「どうもすみません」
「なに好いのですよ」
 女はその前へ坐って白い顔を重そうにした。
貴郎あなたは福岡の方でしょう」
「福岡です、が、どうして知れます」
「おことばのぐあいで知れます」
「あ、そうですか」
「近いうちに、お帰りになるようなことはございませんか」
おやじが病気で、明日あすの汽車で帰ります」
「そう、明日の汽車で、では、すこしお願いしたい事がございますが、聞いていただけませんでしょうか」
「どんなことですか」
「なに、ちょっとしたことでございます、お手間をとるようなことではございません」
「承知しました」
「ではお願いいたします。貴郎あなたは福岡市の××町を御存じですか」
 それは停車場ていしゃじょうじぶんの家の途中にある町であった。
「好く知っております、家へ帰るには、どうしてもそこを通りますから」
「では、どうかお願いいたします」
「××町に御存じの方でもおありですか」
「あすこに山路やまじと云う酒造家さかやがありますが、御存じでございましょうか」
「山路なら知ってます」
「その山路でございますが、すこし私に考えがありますから」
 と、女はひざの上に置いていた左の指に右の指をやって、さしていた黄金きん指環ゆびわを静かに抜いて、
「これを貴郎にお願いいたしますから、福岡へお帰りになるまで、指にはめていてくだすって、山路の前へ往いた時に、抜いて地べたへ落してください」
 謙蔵はみょうなことを云う女だと思って耳をたてた。
「べつに何んでもありません、ただちょっとした禁厭まじないでございますから、一度地べたへ落してくだすったら、もう用はありませんから、ぐ拾って、貴郎の所有ものにしてください、お礼にさしあげますから」
 謙蔵はうす鬼魅きみ悪く思わないでもないが、生死の判らない病人のもとへ帰って往くのに、汽車賃以外に一銭の小使こづかいのないのを心苦しく思っている処であったから、その心は黄金きん指環ゆびわきつけられた。
「じゃ、山路の前へ、ただ落したら好いのですか」
 と、云って彼は女の差しだした指環を受けとった。
「それでよろしゅうございます、ただ落してくだされば」
「僕には意味が判らないが、落すくらいの事なら何んでもないのです」
「で、何人だれにもおっしゃらずに、人に知らすと駄目だめになりますから」
「何人にも知らしません」
「それから、どうぞ、ここから差して往って、どんなことがあっても、途中で抜かないように、抜くと駄目になりますから」
「それは大丈夫です」
「では、お願いいたします」
「承知しました」
 雨の音はもうしなかった。謙蔵はぼうとしていた気が引締ったようになった。彼は指環を左の指にさした。
「もうが明けたのですね、雨もやんだようだ、じゃ、失敬しましょう」
「まだお早いでしょう」
 女はあおい顔をしていた。謙蔵は女が冷たくなったように思った。彼は早く下宿へ帰りたかった。
「荷物がありますから」
「そうですか、では、何分なにぶんよろしく」
「承知しました、それじゃ失敬します」
 謙蔵は女に挨拶あいさつして傍にあった新聞づつみ下駄げたを持ってった。女もすうと起ってうしろから送って来たが、謙蔵が玄関を降りてもう一度挨拶しようとして背後うしろを見た時には、もういなかった。そして、気がいてみると玄関は真暗で今まであった電燈の光はなかった。彼は消燈の時刻にしてはすこし早いと思い思い雨戸を開けた。はたして戸外そとはまだ真暗で、処どころ雨雲の切れた空に、あかつきの星が物凄ものすごく光っていた。

 街路とおりには晩春の午後のが明るくして、町はひっそりとしていた。そこここの塀越しに枝を張っている嫩葉わかばにも風がなかった。今、着いたばかりの謙蔵は、黒い袱衣包ふくさづつみ小脇こわきかかえて××町の方へ曲って来たが、彼は奇怪な指環を酒造屋さかやの前で落そうとして、左の指にさした指環を気にしいしい歩いていた。
 四辻よつつじになった左側のむかう角が、昔から見馴みなれている酒造家の山路であった。謙蔵は四辻を歩きながら店頭みせさきへ注意した。店の横手に二人の店男みせおとこが大きなおけ徳利とくりひたして、それをせっせと洗っていた。店頭みせさきには暖簾のれんがだらりと垂れて人の姿はなかった。指環を落すにはまたとない機会であった。彼は急いでその前に往って、そっと指環を抜いて顔をむこうに向けたなり落した。指環はちろちろところんで店頭みせさきの敷石の上へ往って止まった。同時に彼は物を落して驚いたようなふうをして、その四辺あたりをきょろきょろと見廻みまわし、やっとそれを敷石の上に見つけたようにして急いで拾った。店の内に人のいたかいないかはきまりが悪いので顔をあげて見ることができなかった。彼は走ってその前を往き過ぎたいのをじっとこらえて、その指環を元の指に持って往った。
 女の悲鳴が不意に起った。謙蔵はびっくりして立ち止まったが、その眼は視線がさだまらなかった。続いて数人の男女の叫ぶ声がした。それは酒造屋さかやの内からであった。謙蔵はり返って店の中をのぞいた。ののしり叫ぶ声がそこにも起って黒い人影が入り乱れた。あから顔の大きな男が悶掻もがき走るように店の中から飛びだして来た。それは山路の主人であった。と、そのあとからわかい男が血に染まった白刃しらはりながら追っかけて来た。謙蔵は恐れて半町はんちょうばかりも逃げ走って、やっと背後うしろり向いた。壮い男が街路とおりの真中で倒れている山路の主人の上に腰をかけて、腹に刀を突っ刺したところであった。
 謙蔵は気が遠くなってしまった。彼は非常を聞きつけて来た町の人の手当を受けて我に帰った。しかし、たしかに差したはずの指環はもう指になかった。

 山路の主人を殺した者は、一二年前に法科大学を卒業した主人の弟の法学士であった。彼は不意に日本刀を抜いて、裁縫さいほうしていたじぶんの女房を殺して、それから店へ出て主人を殺し、そして、己もそのやいばたおれたものであった。
 世間ではこれを財産の争いとしたが、謙蔵はこれを恐ろしい因果話として、何時いつか私に話したことがある。
 指環の奇怪を見せられた謙蔵は、それとなしに山路法学士の素行そこうを調べてみると、山路は在学中、某官吏の未亡人と関係して、その未亡人から金をりだして、それで放蕩ほうとうをしているうちに、未亡人は一人むすめを残して病死した。病死する時未亡人は、山路にむすめと結婚してくれと頼んだ。山路は好いかげんな返事をして、病人を安心さして置いて、いよいよ未亡人が亡くなると、残りの財産を蕩尽とうじんしてしまった。むすめは母のめいもあるし、すっかり山路を信頼して、山路のするままにしていると、山路は卒業してふいと福岡へ帰り、何時いつの間にか土地のおんな細君さいくんにしていた。そんなことがあってから東京にいた官吏のむすめは、不意に家出をして生死が判らなくなってしまった。
 謙蔵はまた某人あるひとからじぶんが女から指環を頼まれた家は、最後にむすめの住んでいた家であったと聞かされた。謙蔵は私の知りあいの某宗教家の変名である。

底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会
   1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第三巻」改造社
   1934(昭和9)年
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年5月22日作成
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