終戦の年の北海道は、十何年ぶりの冷害に見舞われ、米は五分作か六分作という惨めさであった。豊作でさえ米の足りない北海道のことであるから、この年の冬は、だれも彼も皆深刻な食糧危機におびやかされた。
 それにこの冬は、例年にない珍しい大雪であった。毎日のように、暗い空からは、とめどもなく粉雪が降りつづき、それが人々の生活の上に重苦しくおおいかぶさっていた。この雪にうずもれた不安な生活の上に、陰鬱いんうつな日々がただ明け暮れて行くのを、じっと我慢して春を待つより仕方がなかった。
 私たち一家は、この冬を、羊蹄山麓ようていさんろくの疎開先で送った。此処ここ有島ありしまさんの『カインの末裔』の土地であって、北海道の中でも、とくに吹雪の恐ろしいところである。「吹きつける雪のためにへし折られる枯枝がややともすると投槍なげやりのように襲って来た。吹きまく風にもまれて木という木は魔女の髪のように乱れ狂った」というのは、有島さんの有名な描写である。この荒涼たる吹雪の景色は、今日も少しも変らない。そしてこの無慈悲な自然の力にしいたげられている人間の姿もまた、往年の名残りをとどめている。
 終戦の年の冬は、この自然の猛威のほかに、今一つ食糧危機という恐ろしい脅威きょういが加わっていた。見渡す限りの土地は雪に埋れている。吹雪の日には、雪までも白くはなく、死んだような灰色である。葉の落ちた闊葉樹かつようじゅはもちろんのこと、雪におおわれた針葉樹にも、緑の色は全然見られない。この一点の緑もない世界、満目まんもくただ灰色一色の世界では、食糧の不安感が、ひしひしと人の心に迫る。「雪が解けて、たらの芽でも何でも、青いものが出て来るようになれば」と、人々は遠い春をはるかに望んで、力弱い溜息ためいきをもらす。
 北海道の長い冬休みを、子供たちとこの疎開先ですごした。遊び道具も本もない疎開先の生活で、とくに連日の吹雪の夜など、子供たちはよく私に話をせがんだ。幸いまきだけは豊富にあったので、どんどんストーヴにくべて、その周囲に皆が寄りそっていた。いきおいよく燃える薪の音が、戸外の激しい風の叫びをわずかに押えて、生命の営みを辛うじて表象しているというような夜が、毎晩つづいた。電燈でんとうはもちろんうす暗かった。すさまじい風の音につつまれながら、それは妙に気の滅入めいる沈黙の世界であった。

 子供たちは、もう浦島太郎うらしまたろうの時代をとっくに過ぎていたので、話といっても、そう種はなかった。それに本も手近かにはないので、すぐ話の種につまって、大いに弱らせられていた。ところがどうしたはずみか、荷物を片づけているうちに、妙な本が一冊ころがり出て来た。コナン・ドイルの『失われた世界ロスト・ワールド』の廉価本れんかぼんである。
 これはもう二十年も前に、倫敦ロンドンでディーケ博士からもらった本である。オランダの理論物理学者であるが、理研りけんしばらく一緒にいたことがあるので、その後も親しくしていた。そのディーケが倫敦の学会へやって来た時、ホテルのロビイでこれを読んでいた。そして別れしなに、丁度読み終ったこの本を、私に残して行ってくれたのである。その時はすぐ読んでみて、たいへん面白かったのであるが、それなりに忘れてしまっていた。それが二十年の後に、敗戦後の北海道の僻地へきちで、わずかな疎開荷物の中から、ひょっくり現れたのである。
 これはまことに大助りであった。南米アマゾンの秘境、人界から遠く隔絶された「失われた世界」に、ジュラ紀時代から生き残っている巨大爬虫類はちゅうるいんでいる世界がある。その秘密を求めて、英国の科学者たちが、敢然魔境に踏み入って行く。この「探検記」こそは、カインの末裔の土地で、連夜の吹雪にとじこめられている敗戦国の子供たちにとっては、何よりの贈り物であった。
「この本は、英国のチャレンジャー教授という先生が、南米のアマゾン河のずっと上流のところ、もちろん人間など一度も行ったことのない秘密の世界なんだが、そこへ探検に行った時の報告なんだ。古代の恐ろしい竜だの、怪獣だのが其処そこに本当にいたんだよ。何時いつか雑誌で見たでしょう。ディノザウルス(恐竜)なんていう竜の中には、このおうちの三倍くらいもある大怪物もいたんだが、それがのそっのそっと歩いていてね。イグアノドンなんていうのもいたんだよ。ああいう竜は、ジュラ紀といって、一億年以上も昔の時代には、たくさんいたことがよく分っているんだ。化石になって残っているからね。それが今でも生きていて、そういう古代の生物ばかり住んでいる世界が、アマゾン河の上流にはあるんだ。どうだ、今夜からこの本を一節ずつ読んでやろうか」というと、もちろん子供たちは、歓声をあげた。
 まだ小学校へ行っている下の男の子などは、もうそれだけで、すっかり上気してしまった。ほおを赤くしながら、眼を輝かせて、「本当? 本当?」と、のぞき込む。もちろん小説であるから、写真や図などはない。幸い秘境にいたる道順を描いたスケッチ地図が、一枚だけついていたので、それを説明してやると、この方は簡単に承服してしまった。
「これが断崖だんがいだよ。低いところで千じゃく、高いところは三千尺もある。真直まっすぐにつき立った岩壁でずっと囲まれているんで、このがけの上は、外の世界からすっかり切り離されているんだ。だからこういうところに、古代の生物が生き残っていても、誰も知らなかったわけだよ。もっともこの断崖へ行くまでが、たいへんなんだ。これがアマゾン河の上流で、ここだって普通の船は行かないところなんだ。これからこの支流を小さい丸木舟でのぼって行くんだが、もちろん普通の人間はだれも行ったことのないところさ。それでもこの辺までは、まだ人食ひとくい人種がところどころにいてね、道など一本もない恐ろしい密林の奥から、首切りの祭の太鼓の音が、かすかに聞えて来ることもあったのさ。しかしこの細くなっているところね、これから先は、カヌーも行けなくなるんで、みんなで荷物をせおって歩いて行ったんだよ。もうここまで来ると、人食人種だっていなくなって、人間なんて、全然いないところになっちゃうのさ。ほら此処ここに印をつけてあるだろう。此処で初めてプテロダクティルを見たんだよ。プテロダクティルって、翼のある竜なんだ。戦闘機くらいもあるかな」
 ここらあたりで、下の子供はもうすっかり興奮してしまって、すうすうと寝息のような息をしている。そして眼を光らせながら、身動きもしない。二番目の娘も「本当らしいわ。よくそんな本があったね」という。唯一人、もう女学校にはいっていた長女だけが、なかなか承知しない。「小説でしょう。小説みたいな本じゃないの」と、英語が分りもしないくせに、生意気なことをいう。
 科学の素晴しい進歩によって、人間はもう地球上のことは、何もかも知り尽くしたように思っている。しかしまだ何が隠されているか知れたものではない。『ロスト・ワールド』の恐竜や翼肢竜よくしりゅうこそは、さすがにその現存の可能性は考えられないが、それに類する事件は、近代になっても、時々実際に起っている。少し昔の話でよければ、南米の海岸に、牛くらいの大きさの動物で、脚が六本ある怪物の屍体したいが、漂着したことがある。大部分腐っていたので、その詳細な記録は残っていないが、そういう怪物が、まだ神秘の大洋の何処かで、ひそかに棲息せいそくしているのかもしれないと考えた方が、かえって科学の心に通ずるであろう。

『コンティキ号漂流記』の著者は、まことにうまいことをいっている。古代インカ帝国の住民が使っていたのと、全く同じいかだを造って、この若い探検家は、南米からタヒチ島の近くまで、自分で漂流をしてみたのである。そして南太平洋の大洋の真中まんなかで、いろいろ不思議な生物に遭遇している。
 近代の文明人は、大きいそして強力な汽船を造って、即ち科学の巨大な力を利用して、七洋をくまなく調べつくしているが、ただ一つ大切なことを忘れている。それはそういう立派な汽船は、船体も大きくまたスクリューの音も大きいということである。近代の探検船では遭遇しなかった怪物を、筏の漂流者が目撃することがあっても、別に不思議ではない。海面すれすれのところに、じっとすわり込んで、二カ月以上も潮流と風だけに送られて、あの広大な太平洋の真中を漂ってみた人はほかにはいない。そういう人間だけにその姿を見せる怪異な生物がいたとしても、別に不思議ではない。この漂流者は若い考古学者であって、小説家ではない。しかもこの冒険は、今度の大戦後に行われた、ごく最近の話である。
 海はあまりにも広く、船が通るところは、その極めてわずかな部分にすぎない。しかもわれわれの知識は、海面からごく近いところの水中だけに限られている。深海探測といっても、調べ得るところは、海の面積から見たら問題にならない。大洋の唯中、その深所には、何がんでいるか、人間の想像の及ぶところではない。その一番良い例としては、先年南アフリカの海底から、少くも五千万年以上、多分一億年くらいの太古の怪魚が、本当に生きた姿で出現した異常な事件を挙げるべきであろう。
 それは昭和十三年十二月二十二日のことであった。即ち日華にっか事変が最高潮に達していた頃の話である。英領南アフリカ喜望峰の近くに、東倫敦イースト・ロンドンという小さい漁港がある。その西方数マイルの海底から、トロール網にかかって、不思議な魚があがって来た。全体長一メートル半、目方七十五キロの大きい魚で、全身は青色に輝いた金属光沢を帯び、魚体はあぶらぎってぴかぴか光っていた。頭は西洋かぶとのような形をし、胸及び腹のひれは、赤児の腕の先に羽がついたような怪異な恰好かっこうになっている。更に著しい特徴は、脊柱せきちゅうがずっと尾鰭おびれの真中をつき抜けて伸び出ていることである。如何いかにも古色蒼然そうぜんとして、一見古代生物の異風をそなえた曲者くせものであった。この怪魚こそは、中生代の白堊紀はくあき、即ち少くも五千万年以上の太古において、既に地球上からその姿を消していた、総鰭魚類そうきぎょるい空棘魚科くうきょくぎょかに属する化石魚であったのである。
 この種類の化石魚は、古代生物としても、非常に古いもので、巨大爬虫類はちゅうるいのディノザウルスなどが、その怪異な姿を見せていた時代、即ちジュラ紀よりも、更に一億年近い太古において、既に地球上に出現していたものである。最初にこの魚類の化石の現れるのは、古生代のデヴォン紀であって、それは現在の知識では、現代から、二、三億年も昔のことと推定されている。それからずっとこの異魚は、たいした体形の変化もなく、中生代末の白堊紀即ち、ジュラ紀の次の時代まで、太古の海中に種属の繁栄をつづけて来た。そして巨大爬虫類の怪物たちが、地球上からその姿を消した次の時代には、この魚たちも完全に絶滅してしまったのである。少くも昭和十三年の十二月二十二日までは、そう信ぜられて来ていた。
 ところがその五千万年乃至ないし一億年以前の魚が、突如として南阿なんアの一角に出現し、暫時ざんじではあったが、現にこの太陽の光の下で、その生命を見せてくれたのであるから、この方面の専門学者たちはもちろんのこと、世界中の人々をあっと驚かせたのも、当然のことである。当時この話は日本の新聞にも載り、また翌年の『科学』には、詳しい紹介がなされた。それは匿名とくめいの紹介であったが、原著よりも分りよい立派なものであった。しかし丁度その時期は、漢口陥落かんこうかんらく提燈行列ちょうちんぎょうれつを過ぎて間もない頃であった。日本人の大多数は、南アフリカでれた奇魚などに、かかわりあってはいられなかった。
 この話は、コナン・ドイルとはちがって、本当の話である。その標本は、漁獲後間もなく東倫敦イースト・ロンドン博物館の主事ラチマー女史の手許てもとに送られた。同女史はこの方面の専門家ではなかったが、その怪魚の異風に驚き、標本のスケッチに簡単な説明をつけて、グラハムスタウンの大学のスミス博士に手紙で報告した。ところが時偶々たまたまクリスマスの季節にあたったために、手紙の配達がおくれ、僅か四百マイルを隔てたスミス博士の手に入るまでに、十日以上の日子にっしを要した。そしてことの重大さに驚愕きょうがくしたスミス博士が、折返し電話で連絡した時には、残念ながら、魚体は既に腐敗し、外形だけが剥製はくせいとなって残っていたのである。それでも確かに五千万年以上の昔に絶滅したはずの空棘魚であることは、確認されたのであるが、学問的に最も重要な部分、即ち内臓その他の軟体部分は、遂に神秘のヴェールの彼方かなたに隠されたまま、やみから闇へ葬り去られたのである。
 世界中のこの方面の学者たちは、スミス博士の第一報を、英国の科学専門雑誌『ネーチュア』誌上で知って、驚愕と歓喜との念に打たれ、この発見を「今世紀における動物学界随一の大収穫」とした。まさに文字どおりの奇蹟きせきであったのである。この発見の意義が、あまりにも大きかっただけに、その重要部分の喪失は、甚しい失望感をもって迎えられた。その詳細を記述したスミス博士の第二報が、同じく『ネーチュア』誌上に出た時は、世界各国の学者から、激越な批判の手紙がたくさん来たそうである。これは突如冥界めいかいからの通信に接して驚愕した人間が、いざ話しかけようとした時に、その通信が切れたような感じである。惜しいといえば惜しいが、またそれでよいのだという気もする。それほどの異常事件なのである。
『ロスト・ワールド』の話の前置きとしては、この「化石魚の蘇生」の話くらい巧い話は、ちょっと他に類がないであろう。それで第一夜は、子供たちにこの現世化石魚の話をすることにした。ストーヴに薪を追加しながら、南アフリカの海底から突如として出現した、五千万年乃至一億年前の太古の怪魚の話を聞いている子供たちは、戸外の吹雪も、乏しい食糧のことも、すっかり忘れたようであった。
 幸いこの詳しい紹介の載っている『科学』が手許にあったので、一通り話をしたところで、写真を見せてやった。剥製にされた怪魚の写真と、ジュラ紀の空棘魚の復原図とを並べたところを見ると、両者は全く一致している。これにはさすがの長女もいささか驚いたようであった。
 復原図の方が、もちろんこの現世空棘魚の出現以前に描かれていたものである。化石として残るのは、たいてい硬骨部分の一部と、その他の部分のかすかな痕跡こんせきとである。そういう断片的な材料をもとにして、化石学者たちは、原体制の復原という困難な仕事をなしとげる。それはいわば「小説」をつくるのである。しかしこの場合は、その「小説」にぴったりとあった生きた証拠が出て来たのであるから、その点だけでもまさに驚くべきことである。「ほんとにねえ」と、最後に長女が陥落する。これで『ロスト・ワールド』の話に、安心してはいって行けるわけである。

 この「探検記」は、チャレンジャー教授の探検隊に参加した『デイリー・ガゼット』の記者マローン君の手記から成っている。チャレンジャー教授は、癇癪かんしゃく持ちで、人間嫌いで、時々狂暴性を発揮する人物である。学界からも倫敦ロンドン人からもひどく嫌われているが、動物学者としては、独創的な考えを持ち、かつ甚だ実行力に富んだ人である。そのチャレンジャー教授は、かつて単身南米アマゾン上流の秘境を探検したことがある。アマゾンの上流は、たくさんの支流に分れていて、その中には、まだ白人の足を踏み入れたことのない支流がいくつも残されている。
 チャレンジャー教授は、カヌーに乗って、その支流の一つを遡航そこうした。そしてインディアンの部落で、丁度今息を引きとったばかりの白人の遺骸いがいにあう。そのわずかな遺品を整理して、この白人は、アメリカのデトロイトの市民ホワイトという人であることを知る。画家でありかつ詩人であるこのホワイト君は、アメリカの物質文化にき果てた挙句あげく、新しい霊感を求めて、アマゾンの秘境を放浪していた男であるらしい。「疲れ切った姿で、クルプリのむ密林の方から、さまよい出て来て、部落にたどりついた途端に倒れた」という以外には、この男のことは何も分らない。クルプリというのは、南米インディアンの間に広く行き渡っている伝説で、山の精を意味する。この山の精にった人は、再び生きて人間の社会には戻れないと、昔から確く信ぜられていたのである。
 ホワイト君は、死ぬまで肌身はなさず、一冊の写生帳を持っていた。ぼろぼろになったジャケットの下から出て来たこの写生帳が、話の発端である。その中には、いろいろな写生があるが、終りの方に、平原の彼方かなたに、切り立った断崖だんがいふちどられた高台の絵がある。そしてその次に、巨大な怪物の写生があって、それでおしまいになっている。そしてそれはジュラ紀の恐竜の一種ステゴザウルスそのままの姿なのである。
 初めてチャレンジャー教授を訪れた時、マローン君は、この写生帳を見せられる。そしてランケスター氏の著書に出ているステゴザウルスの復原図とくらべて見て、両者が完全に一致していることにひどく驚いたのである。これが始りで、いろいろな経緯の末、けっきょくチャレンジャー教授を首班とする探検隊が、この失われた世界に出かけ、ステゴザウルスやイグアノドンの生きた姿を見ることになるわけである。南アフリカにおける現世空棘魚くうきょくぎょの発見の話は、このコナン・ドイルの小説を、まさに地で行ったものといえよう。
 昨年の暮、英国のエヴェレスト遠征隊が、ヒマラヤで奇怪な人獣の足跡を発見したという記事が、一時新聞紙上をにぎわしたことがあった。その時、食卓の話題に上ったのは、この五年前の『ロスト・ワールド』の話である。もう大きくなった子供たちには、「おやじさんのうそ」もすっかりばれてしまっていたが、人界を遠く離れた、アマゾンの秘境がもつ特異のあやしい美しさは、依然として頭の底に残っていたらしい。「ほら、あの失われた世界への入口のところ、カヌーがもう行けなくなるあたりね。あの細い川のところ、あそことても綺麗きれいだったわ」といい出したのは、そんなことなどとてもおぼえていそうもない二女であった。
 探検隊を乗せた二せきのカヌーは、隠された細流の入口に達する。浅黄色あさぎいろあしが一面に生い茂った葦叢あしむらの中を、数百ヤードばかり無理にカヌーを押して行くと、突如として、静かな浅い流れに出る。水は驚くほど透明で底は美しい砂になっている。川幅は二十碼くらいの狭い流れであって、両岸の植物は、自然の豪奢ごうしゃの限りを見せている。それはまさに仙境であり、これこそ失われた世界への入口なのである。しげり誇った熱帯の草木は、水面の上に生いかぶさって、自然の天蓋てんがいを作り、緑の葉をとおして来る黄金色の日光は、黄昏たそがれを思わせる美しさである。その青緑のトンネルの下を、緑の静かな流れが行く。流れの美しさは、樹間をれる光によって異常な色調を帯び、不思議な美しさを呈している。その輝く水面の上を、カヌーの一櫂ひとかいごとに、数千のさざなみが伝わってゆく。それは神秘の国への通路として、まことにふさわしいものであった。
 コナン・ドイルもこのあたりの描写には大分馬力をかけているようである。どうも本人自身が、ロスト・ワールドにあこがれているらしいところが大いにある。彼は、何時いつまでも童心を失わなかった人なのであろう。子供というものは、魚粉と稲茎の粉とのまじった団子だんごを食ったことは忘れるが、そのとき聞いたアマゾンの秘境の情景は、なかなか忘れないものである。

 もっともすべての大人にも、多かれ少かれ、この童心は残っている。ヒマラヤの怪巨人にしても、何も今度突然出現した話ではない。昭和十一年に、立教大学のナンダ・コット登攀隊とうはんたいが、印度に遠征した時にも、たいへんな騒ぎが起きていたそうである。ヒマラヤ山麓さんろくの村に、身のたけ四十フィートの怪物が現れ、土地の住民はもとより、全印度人の間に大評判になっていた。この怪物は、汽車をまたいだり、大きい樹木を踏み倒したり、婦女子を気絶させたり、散々あばれまわった挙句あげく、再び山中深くその姿を消してしまった。その時足跡が残されたのであるが、それは長さ二十二インチ、幅十一吋もある巨大なもので、人間の足跡に似た形であったという。
 ヒマラヤの山中に巨人かゴリラか分らない怪物がんでいるという伝説は、土地の人たちばかりでなく、印度人の中でも信じている人がかなりある。昨年のエヴェレスト登山隊長シプトン氏の手記によると、ヒマラヤの住人たちは、この怪人をヤティ(縁起の悪い雪男)と呼んでいるそうである。シプトン氏の案内人の一人は、二年前にこのヤティにったといっているが、それは半人半獣の怪物で、背丈は五呎六吋くらい、全身赤味がかった栗色くりいろの毛でおおわれていたが、顔だけは毛がなかったという話である。
 シプトン氏が写真に撮った奇怪な足跡を、動物学者たちは、ラングール猿だと鑑定したが、シプトン氏は大分不服のようである。『朝日新聞』に連載された氏の手記の中から、これに関係した部分を抜萃ばっすいしてみるのも、興味あることであろう。この足跡を発見したのは、昨年の十一月八日のことで、エヴェレストに近いメンルンツェの氷河の上である。「われわれは午後三時半、峠の向う側の氷河に達し、南西の方向に下って行った。丁度午後四時、行く手の雪の上に奇妙な足跡を発見した」「奇怪な生物は少くとも二頭以上が打ち連れて通ったことが、入り乱れた足跡によって確認された。その大きさはわれわれの山靴の跡よりは幾分長く、幅は非常に広かった。詳しく調べると、三本の幅広い足指と、別に横に張り出した大きな親指とが認められた。われわれはその足跡を追って一マイルあまり氷河を降ったが、氷がモレインに蔽われた場所で、はっきりと切れていた」
 この足跡は、写真撮影もされ、また観察者がちゃんとした人だけに、汽車をまたいだ怪巨人の話とは少しちがった意味がある。従って動物学者たちも、放っておくわけには行かない。鑑定の結果、ラングール猿ということになったのであるが、これに対するシプトン氏の反対意見には、もっともなところがある。
 第一に、ラングール猿は菜食動物であるが、高度一万九千呎の氷河の上で、植物は何があるのだろうか。肉食動物ならば、氷河の下部にはモルモットもチベットねずみも棲んでいるので、それらを常食として生きて行けるが、菜食動物は、こういうところでは、生存し得ないはずである。
 第二に、ラングール猿の足形は、どんなに大きいものでも、長さ八吋を越えるものは、今まで知られていない。ところが問題の足跡は、十二吋以上と実測されている。もっとも多くの足跡は形が崩れているので、雪解けのために、幾分大きくなったと考えられる。しかし氷河の氷の上に積っていた雪は、きわめて薄く、かつ足形がはっきり残っていたところから見て、雪が解けて大きくなったとしても、大したちがいはないはずである。それでこの怪物は、既知のラングール猿よりは、はるかに大きい生物にちがいない。
 この議論の当否は、ここで論議すべき問題でない。ただ一つ確かなことは、シプトン氏が「私はこの問題については門外漢で、くちばしを入れる筋合すじあいのものではないが」動物学者の鑑定には異論があると言った、そのこと自身の中に、彼の童心が認められる点である。
 ヒマラヤでは、この前年、即ち一昨年にも、アッサム州の密林ジャングルの中に、体長九十呎、身丈みのたけ二十呎の怪獣が出現して、住民をふるえ上らせたという話がある。体長九十呎のこの怪物は、ジュラ紀の恐竜ディノザウルスに似た形をしていたといわれている。ロスト・ワールドの夢は、原子力の世界にも、なおその生命を保っているのである。

『ロスト・ワールド』の話の中で、一番子供たちに人気のあったのは、大きいくせにおとなしいイグアノドンであった。このジュラ紀の菜食性巨大爬虫類はちゅうるいを、コナン・ドイルは原始人類の家畜となし、象の皮膚のようなその皮の上に、粘土のマークをつけさせた。それを地質年代の錯誤と早まってはいけないので、同じ時代の空棘魚くうきょくぎょが、喜望峰州の住民と、先年ちゃんと対面をしているのである。
 イグアノドンが、子供たちの間で如何いかに人気があったかは、次の唄でも十分うかがうことが出来る。
イグアノドンの背中に
 ゴリラが乗ってった 乗ってった
ゴリラの背中に
 お猿が乗ってった 乗ってった
お猿の背中に
 ねずみが乗ってった 乗ってった
鼠の背中に
 とんぼが乗ってった 乗ってった
蚊とんぼの頭の上を
 艦載機が飛んでった 飛んでった
 このイグアノドンの唄を作ったのは、下の男の子である。自分の国の敗戦も、自分の身体の栄養低下も、実感としては何も知らなかった子供たちは、カインの末裔まつえいの土地で、「イグアノドンの唄」をうたって、至極御機嫌ごきげんであった。しかしその男の子は、その後間もなく、栄養低下がわざわいして、仮りそめの病気がもとで、急に亡くなってしまった。しかし生き残った娘たちは、今はきわめて元気である。
 この暮から正月にかけて、私は扁桃腺へんとうせんの除去と、蓄膿症ちくのうしょうの手術とのために、K病院へ入院した。二十年来の懸案を片づけるためである。この道では、日本一の名国手こくしゅたたえられているK博士の手術を受けるのであるから、何の不安もなく、経過もきわめて順調であった。
 時々妻と交替に附き添いにやって来た長女は、何も用事がないので、初めは少し手持無沙汰てもちぶさたのようであった。それで或る日、『ロスト・ワールド』を持ってやって来た。昼寝をするために、夜早く寝つかれなかった私は、十二時頃まで寝つこうとしないことにして、ベッドの上でぼんやりしていた。時々ちょっと目をやると、長女は夢中になって、読みふけっている。「どうだい、面白いのかい」ときくと、「うん、とっても」と、返事をするのも億劫おっくうなように、ほおをほてらせている。
「分るのかい。大分むつかしい名前があるだろう」といっても、「そうよ。でも辞書なんか引いていられないのよ。今失われた連鎖ミッシング・リンクがやって来るところよ」と、受け附けもしない。もう夜中近いらしい。それでよいのだ、生きる者はどんどん育つ方がよいのだと、私は目をつぶって寝入ることにした。
(昭和二十七年四月一日)

底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1988(昭和63)年9月16日第1刷発行
   2011(平成23)年1月6日第26刷発行
底本の親本:「イグアノドンの唄」文藝春秋新社
   1952(昭和27)年
初出:「文藝春秋」
   1952(昭和27)年4月1日
※表題は底本では、「イグアノドンの唄(うた)」となっています。
※初出時の表題は「大人のための童話」です。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月4日作成
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