それは静な黄昏であった。ゆっくりゆっくりと吹かす煙草の煙が白い円い輪をこしらえて、それが窓の障子の方へ上斜に繋がって浮いて往った。その障子には黄色な陽光がからまって生物のようにちらちらと動いていた。省三はその日公会堂で話した恋愛に関する議論を思い浮べてそれを吟味していた。彼が雑誌へ書こうとするのは某博士の書いた『恋愛過重の弊』と云う論文に対する反駁であった。
「御飯を持ってまいりました」
婢の声がするので省三は眼をやった。二十歳ぐらいの受持ちの婢が膳を持って来ていた。
「飯か、たべよう」
省三は眼の前にある煙草盆へ煙草の吸い殻を差してから起きあがったが、脇の下に敷いていた布団に気が注いてそれを持って膳の前へ往った。
「御酒は如何でございます」
婢は廊下まで持って来てあった黒い飯鉢と鉄瓶を執って来たところであった。
「私は酒を飲まない方でね」
省三はこう云ってから白い赤味を帯びた顔で笑ってみせた。
「それでは、すぐ」
婢は飯をついでだした。省三はそれを受け執って喫いながら、こんな世間的なことはつまらんことだが、こんなばあいに酒の一合でも飲めると脹みのある食事ができるだろうと思い思い箸を動かした。
「今日は長いこと御演説をなされたそうで、お疲れでございましょう」
その婢の声と違った暗い親しみのある声が聞えた。省三はびっくりして箸を控えた。そこには婢の顔があるばかりで他に何人もいなかった。
「今何人か何か云った」
婢は不思議そうに省三の顔を見詰めた。
「何んとも、何人も云わないようですが」
「そうかね、空耳だったろうか」
省三はまた箸を動かしだしたが彼はもうおち着いたゆとりのある澄んだ心ではいられなかった。急に憂鬱になった彼の目の前には、頭髪の毛の数多ある頭を心持ち左へかしげる癖のある壮い女の顔がちらとしたように思われた。
「おかわりをつけましょうか」
省三は暗い顔をあげた。婢がお盆を眼の前へ出していた。彼は茶碗を出そうとして気が注いた。
「何杯目だろう」
「今度おつけしたら、三杯でございます」
「では、もう一杯やろうか」
省三は茶碗を出して飯をついで貰いながらまた箸を動かしはじめたが、膳の左隅の黒い椀がそのままになっているのに気が注いて蓋を除ってみた。それは鯉こくであった。彼はその椀を執って脂肪の浮いたその汁に口をつけた。それは旨いとろりとする味であった。……省三は乾いた咽喉をそれで潤していると、眼の前に青あおとした蘆の葉が一めんに見えて来た。そして、その蘆の葉の間に一条の水が見えて、前後して往く二三隻の小舟が白い帆を一ぱいに張って音もなく往きかけた。舵が少し狂うと舟は蘆の中へずれて往って青い葉が船縁にざらざらと音をたてた。微曇のした空から漏れている初夏の朝陽の光が微紅く帆を染めていた。舟は前へ前へと往った。右を見ても左を見ても青い蘆の葉に鈍い鉛色の水が続き、そのまた水に青い蘆の葉が続いて見える。
(先生、これからお宅へお伺いしてもよろしゅうございましょうか)
壮い女は持前の癖を出して首をかしげるようにして云った。
(好いですとも、遊びにいらっしゃい、月、水、金の三日は、学校へ往きますが、それでも二時比からなら、たいてい家にいます。学生は土曜日に面会することにしてありますが、あなたは好いんです)
(では、これから、ちょいちょいおじゃまをいたします)
(好いですとも、お出でなさい、詩の話でもしましょう、実に好いじゃありませんか、この景色は)
(ほんとうにね、何人かの詩を読むようでございますのね、蘆と水とが見る限りこんなに続いてて)
「鯉こくがおよろしければ、おかわりは如何でございます」
省三は婢の声を聞いて鯉の椀を下に置いた。鯉の肉も味噌汁ももう大方になっていた。
「もうたくさん、非常に旨かったから、つい一度に喫べてしまったが、もうたくさん」
省三は急いで茶碗を持って飯を捲き込むようにしたが、厭なことを考え込んでいたために婢が変に思ったではないかと思ってきまりが悪かった。そして、つまらない過去のことは考えまいと思って飯がなくなるとすぐ茶を命じた。
「もう一つ如何でございます」
「もうたくさん」
「では、お茶を」
婢は茶器に手を触れた。
けたたましい汽笛の音が静な空気を顫わして聞えて来た。それはその湖の縁から縁を航海する巡航船の汽笛であった。省三は婢が膳をさげて往く時に新らしくしてくれた茶を啜っていたが、彼の耳にはもうその音は聞えなかった。彼は十年前の自己の暗い影を耐えられない自責の思いで見詰めていた。
それは己が私立大学を卒業して、新進の評論家として傍ら詩作をやって世間から認められだした比の姿であった。その時も彼はやはり今日のようにこの土地の文学青年から招待せられて講演に来たが、いっしょに来た二人の仲間はその晩の汽車で帰って往ったにもかかわらず、彼一人はかねて憧憬していたこの水郷の趣を見るつもりで一人残っていた。
それは初夏のもの悩ましい壮い男の心を漂渺の界に誘うて往く夜であった。その時は水際に近い旅館へわざわざ泊っていた。その旅館の裏門口ではやはり今晩のように巡航船の汽笛の音が煩く聞えた。
その夜は蒼い月が出ていた。彼は旅館の下手から水際に出て歩いた。そこは湖と町の運河がいっしょになった処で、彼の立っている処は石垣になっているが、前岸はもとのままの湖の縁で飛とびに生えた白楊が黒く立っていて、その白楊の下の暗い処からそこここに燈の光が見えている。彼は一眼見てそれは夕方に見えていた四つ手網を仕掛けている小屋の燈だと思った。
湖の水は灰色に光っていた。省三は飯の時にみょうな好奇心から小さなコップに二三ばい飲んでみた葡萄酒の酔が頬に残っていた。それがためにいったいに憂鬱な彼の心も軽くなっていた。
湖の縁はそこから左に開けて人家がなくなり、傾斜のある畑が丘の方へ続いていた。黒いその丘は遥の前に崩れて湖の中へ出っぱって見えた。その路縁にも、そこここに白楊が立ち、水の中へかけて蘆の嫩葉が湖風に幽かな音を立てていた。白楊の影になった月の光の射さない処に一つ二つ小さな光が見えた。それは蛍であった。彼はその蛍を見ながら足を止めてステッキの端を蘆の葉に軽く触れてみた。
軽いゴム裏のような草履の音が耳についた。彼は見るともなく後の方に眼をやった。そこには壮い女が立っていた。女は別に怖れたような顔もせずにこっちを見ながら歩いて来た。
(失礼ですが、山根先生ではございませんか)
女は頭をさげた。
(そうです、私は山根ですが、あなたは)
(私は何時も先生のお書きになるものを拝見している者でございますが、今日はちょうど、先生のお泊りになっていらっしゃる宿へ泊りまして、宿の者から先生のことを伺いましたものですから)
(そうですか、それじゃ何かの御縁がありますね、あなたは、何方ですか、お宅は)
こう云いながら彼は女の顔から体の恰好に注意した。すこし受け唇になった整った顔で、細かな髪の毛の多い頭を心持ち左にかしげていた。
(東京の方に父と二人でおりますが、この前の△△△に伯母がおりますので、十日ほど前、そこへ参りまして、今日帰りに夕方船でここへまいりましたが、夜遅く東京へ帰ってもめんどうですから、朝ゆっくり汽車に乗ろうと思いまして)
(そうですか、私も今日二人の仲間といっしょにやって来ましたが、昼間は講演なんかで、このあたりを見ることができなかったものですから、見たいと思って朝にしたところです)
(それじゃ、また面白い詩がお出来になりますね)
(だめです、僕の詩はまねごとなのですから)
(先生の詩は新らしくって、私は先生の詩ばかり読んでおりますわ)
(それはありがたいですね、じゃ、あなたも詩をお作りでしょうね)
(ただ拝見するだけでございますわ)
そう云って女は笑った。
(詩はお作りにならなくっても、歌はおやりでしょう、水郷は好いのですね、何か水郷の歌がお出来でしょう)
(それこそほんのまねごとをいたしますが、とても、私なんかだめでございますわ)
湖畔の逍遥から伴れだって帰って来た二人は彼の室で遅くまで話した。女は伯母の家で作ったと云う短歌を書いたノートを出して見せたり、短歌の心得と云うようなありふれた問いを発したりした。
(明日、私は、船を雇うて、××まで往って、そこから汽車に乗ろうと思うのですが、あなたはどうです、いっしょにしませんか)
話の中に彼がこんなことを云うと女は喜んだ。
(私も、今日舟をあがる時に、そう思いました、小舟で蘆の中を通って見たら、どんなに好いか判らないと思いました、どうかお邪魔でなければ、ごいっしょにお願いいたします)
(じゃ、いっしょにしましょう、蘆の中はおもしろいでしょう)
彼は翌日宵の計画どおり女といっしょに小舟に乗って、湖縁を××へまで往ってそこから汽車に乗って東京へ帰った。女は日本橋檜物町の素人屋の二階を借りて棲んでいる金貸をしている者の女で、神田の実業学校へ通うていた。女はそれ以来金曜日とか土曜日とかのちょっとした時間を利用して遊びに来はじめた。
彼はその時赤城下へ家を借りて婆やを置いて我儘な生活をしていた。そして、放縦な仲間の者から誘われると下町あたりの、入口の暗い二階の明るい怪しい家に往って時どき家をあけることも珍らしくなかった。
ある時その時も大川に近い怪しい家に一泊して、苦しいそうして浮うきした心で家へ帰って来て、横に寝そべって新聞を読んでいると女の声が玄関でした。婆やは用足しに出かけたばかりで取次ぎする者がないので己で出て往かなければならないが、その声は聞き慣れたあの女の声であるから体を動かさずに、
(おあがんなさい、婆やがいないのです、遠慮はいらないからおあがんなさい)
と、云って首をあげて待っていると女が静に入って来た。
(昨夜、お朋友の家で碁がはじまって、朝まで打ち続けてやっと帰ったところです、文学者なんて云う奴は、皆痴者の揃いですからね、……そこに蒲団がある、執って敷いてください)
女はくつろぎのあるな顔をしていた。
(ありがとうございます、……先生にお枕を執りましょうか)
彼は昨夜の女に対した感情を彼女にも感じた。
(そうですね、執って貰おうか、後の壁厨にあるから執ってください)
女は起って往って後の壁厨を開け、白い切れをかけた天鵞絨の枕を持って来て彼の枕頭に蹲んだ。彼はその刹那、焔のように輝いている女の眼を見た。彼はその日の昼比、帰って往く女を坂の下の電車の停留場まで見送って往った。そして、翌々日の午後来ると云った女の詞を信用して、その日は学校に往ったが平常の習慣で学校の食堂で喫うことになっている昼飯をよして急いで帰って来た。
しかし、女は夜になっても来なかった。何か都合があって来られないようになったのなら、手紙でもよこすだろうと思って手紙の来るのを待っていたが、朝の郵便物が来ても手紙は来なかった。彼は手紙の来ないのはすぐ今日にでも来るつもりだから、それでよこさないだろうと思いだして散歩にも出ずに朝から待っていたが、その日もとうとう来もしなければ手紙もよこさなかった。
彼はそれでも手紙の来ないのはすぐ来られる機会が女の前に見えているからであろうと思って、その翌日も待ってみたがその日もとうとう来なければ手紙もよこさなかった。彼は待ち疲れて女の往っている学校の傍を二時比から三時比にかけて暑い陽の中を歩いてみたが、その学校から数多の女が出て来てもあの女の姿は見えなかった。
彼はまた檜物町の女の棲んでいると云う家の前をあちらこちらしてみたが、それでも女の姿を見ることができなかった。しかし、隣へ往って女の容子を聞く勇気はなかった。
そのうちに一箇月あまりの日がたってから、もう諦めていたあの女の手紙が築地の病院から来た。それは怖ろしい手紙であった。女はあの翌日から急に発熱して激烈な関節炎を起して、左の膝が曲ってしまったために入院して治療をしたが、熱はとれたけれども関節の曲りは依然として癒らないから、一両日のうちに退院して故郷の前橋へ帰ったうえで、どこかの温泉へ往って気長く養生することになっている、明日は午後は父も来ないからちょっと逢いに来てくれまいかと云う意味を鉛筆で走り書きしたものであった。
彼は鉄鎚で頭を一つがんとなぐられたような気もちでその手紙を握っていた。彼は一時のいたずら心から処女の一生を犠牲にしたと云う慚愧と悔恨に閉ざされていた。心の弱い彼はとうとう女の処へ往けなかった。
女からはすぐまたどうしても一度お眼にかかりたいから、都合をつけて来てくれと云う嘆願の手紙が来たがそれでも彼は往けなかった。往けずに彼は悶え苦しんでいると、女から明日の晩の汽車でいよいよ出発することになったから、父親がいても好いからきっと来てくれと云って来た。そして、汽車の時間まで書いて病院まで来てくれることができないなら、せめて停車場へなり来てくれと書き添えてあった。
心の弱い彼はその望みも達してやることができなかった。そして、二三日して汽車の中で書いたらしい葉書が来た。それは(先生さようなら、永久にお暇乞いをいたします)と書いてあった。
それから二日ばかりしての新聞に、前橋行の汽車の進行中、乗客の女が轢死したと云う記事があった。……
「先生、先生」
黙然と考え込んでいた省三はふと顔をあげた。微暗くなった室の中に色の白い女が坐っていて、それが左の足をにじらして這うように動いた。と、青い光がきらりと光って電燈がぱっと点いた。
室には何人もいなかった。省三はほっとしたように電燈を見なおした。
廊下に跫音がして初めの婢が入って来た。婢は手に桃色の小さな封筒を持っていた。
「お手紙がまいりました」
省三は桃色の封筒を見て好奇心を動かした。
「どこから来たのだろう、持って来たのかね」
「俥屋が持ってまいりました」
省三は手紙を受けとりながら、
「俥屋は待ってるかね」
と、云って裏を返して差出人の名を見たが名はなかった。
「お渡ししたら好いと云って、帰ってしまいました」
「そうかね、何人だろう、今日の委員か有志だろうが」
それにしては桃色の封筒が不思議であると思いながら開封した。罫のあるレターペーパーに、万年筆で書いた女文字の手紙であった。省三はちらと見たばかりで婢の顔を見て、
「よし、ありがとう」
「お判りになりましたか」
「ああ」
「では、また御用がありましたら、お呼びくださいまし」
「ありがとう」
婢が出て往くと省三は手紙の文字に眼をやった。それはその日公会堂に来て彼の講演を聞いた地位のあるらしい女からであった。彼はその手紙を持ったなりに女の地位を想像しはじめた。彼の心はすっかり明るくなっていた。
省三は好奇心から八時十分前になると宿を出て、運河が湖水に入っている土手の上へ出かけて往った。そこには桃色の封筒の手紙をよこした女がいることになっていた。
宵に二時間ばかり闇をこしらえて出た赤い月があった。それは風のない春のような夜であった。二人伴の労働者のような酔っぱらいをやり過して、歩こうとして右側を見ると赤いにじんだような行燈が眼に注いた。それは昔泊ったことのある旅館であった。しかし、彼はその行燈に対して何の感情も持たなかった。
彼は甘い霞に包まれているような気もちになっていた。路の右側にある小料理屋から三絃が鳴って、その音といっしょに女の声もまじって二三人の怒鳴るような歌が聞えていたが、彼の耳には余程遠くの方で唄っている歌のようにしか思えなかった。
微白いぼうとした湖の水が見えて、右側に並んでいた人家がなくなった。もう運河が湖水へ入った土手が来たなと思った。そこには木材を積んだりセメントの樽のような大樽を置いたりしてあるのが見える。彼は二三年前の事業熱の盛んであった名残であろうと思った。
月に雲が懸ったのかあたりが灰色にぼかされて見えた。省三は東になった左手の湖の中に出っぱった丘のうえを見た。微黄ろな雲が月の面を通っていた。
「先生、山根先生ではございますまいか」
女が眼の前に立っていた。面長い白い顔の背の高い女であった。
「そうです、私が山根ですが」
「どうもすみません、私はさっき手紙をさしあげて、ごむりを願った者でございます」
「あなたですか」
「はい、どうも御迷惑をかけてあいすみませんが、今日、先生の御講演を伺いまして、どうしても先生にじきじきお眼にかかりたくてかかりたくて、しかたがないものですから、先生のお宿を聞きあわして、お手紙をさしあげました、まことにあいすみませんが、ちょっとの間でよろしゅうございます、私の宅までお出ましを願いとうございます」
「どちらですか」
女はちょっと後をふり返って丘の端へ指をさした。
「あの丘の端を廻った処でございますが、舟で往けば十分もかかりません」
「舟がありますか」
「ええ、ボートを持って来ております」
「あなたがお一人ですか」
「ええ、そうです、お転婆でございましょう」
女は艶やかに笑った。
「そうですね」
省三はちょっと考えた。
「婢と爺やよりほかに、何人も遠慮する者はおりませんから」
「そうですね、すぐ帰れるならまいりましょう」
「すぐお送りします」
「ではまいりましょう」
「それでは、どうかこちらへ」
女が前になってアンペラの俵を積んである傍を通って土手へ出た。そこには古い船板のようなものを斜に水の上に垂らしかけた桟橋があって、それが水といっしょになったところに小さな鼠色に見えるボートが浮いていた。
「あれでございますよ、滑稽でしょう」
「面白いですな」
省三は桟を打って滑らないようにしたその船板の上を駒下駄で踏んでボートの方へおりて往った。船板はゆらゆらとしなえて動いた。ボートは赤いしごきのようなもので繋いであった。
「そのままずっとお乗りになって、艫へお懸けくださいまし」
省三はボートに深い経験はないが、それでも女に漕がして見ていられないと思った。
「あなたが前へお乗りなさい、私が漕ぎましょう」
「いいえ、このボートは、他の方では駄目ですから、私が漕ぎます、どうかお乗りくださいまし」
省三は女の云うとおりにして駒下駄を脱いで、それを右の手に持ちやっとこさと乗ったが、乗りながら舟が揺れるだろうと思って、用心して体の平均をとったが、舟は案外動かなかった。
続いて女が胴の間に乗り移った。その拍子に女の体にしみた香水の香が省三の魂をこそぐるように匂うた。省三は艫へ腰をおろしたところであった。
女の左右の手に持った二本の櫂がちらちらと動いて、ボートは鉛色の水の上を滑りだした。月の光の工合であろうか舟の周囲は強い電燈を点けたように明るくなって、女の縦模様のついた錦紗のような華美な羽織がうすい紫の焔となって見えた。
「私がかわりましょうか、女の方よりも、すこし力があるのですよ」
省三は眩しいような女の白い顔を見て云った。女はそれを艶やかな笑顔で受けた。
「いえ、私はこのボートで、毎日お転婆してますから、楊枝を使うほどにも思いませんわ」
「そうですか、では、見ておりましょうか」
「四辺の景色を御覧くださいましよ、湖の上は何時見ても好いものでございますよ」
女は左の方へちょっと眼をやった。省三も女の顔をやった方へ眼をやろうとしてすぐ傍の水の上に眼を落してから驚いた。その周囲の水の上は真黒な魚の頭で埋まって見えた。それは公園や社寺の池に麩を投げたときに集まってくる鯉の趣に似ているが、その多さは比べものにならなかった。魚は仲間同士で抱きあったり縺れあったりするように、水をびちゃびちゃと云わして体を搦ましあった。
「鯉でしょうか」
省三は眼をった。
「そんなに騒ぐものじゃありませんよ、静になさいよ、お客さんがびっくりなさるじゃありませんか」
女は魚の方を見てたしなめるように云った。省三の耳にはその女の詞が切れぎれに聞えた。省三は女の顔を見た。
「このボートで往ってると、湖の魚が皆集まってくるのでございますよ、でも、あまり多く集まって来るのも煩いではございませんか」
「鯉でしょうね、私はこんな鯉を、はじめて見ましたね、この湖では鯉をとらないでしょうか」
「とりますわ、この湖で鯉を捕って生活している漁夫は数多ありますわ」
「そうですか、そんなに鯉を捕ってるのに、こんなに集まって来るのは、鯉がたいへんいるのですね」
「先生をお迎えするために集まったのでしょうが、もう、帰りましたよ」
省三は水の上を見た。今までいた鯉はもういなくなって鉛色の水がとろりとなっていた。
「もう、いなくなったでしょ、ね、それ」
省三はあっけにとられて水の上を見ていた。と、一尾の二尺ぐらいある魚が浮きあがって来て、それが白い腹をかえして死んだように水の上に横になった。
「死んだんでしょうか、あの鯉は」
「あれは、先生に肉を饗応した鯉でございますわ」
「え」
「いいえ、先生は、今晩宿で鯉こくを召しあがったのでございましょう、このあたりは、鯉が多いものですから、宿屋では、朝も晩も鯉づくめでございますわ」
女はこう云って惚れ惚れする声を出して笑った。
省三は眼が覚めたように四辺を見まわした。青みがかった燈の燭った室で己は黒檀の卓を前にして坐り、その左側に女が匂のあるような笑顔をしていた。
「私は、どうしてここへ来たのでしょう」
省三はボートの中で鯉の群と死んだような鯉の浮いて来たことを見ている記憶はあるが、舟からあがったことも、路の上を歩いたことも、その家の中へ入って来たことも、どう云うものかすこしも判らなかった。
「私といっしょにずんずんお歩きになりましたよ、よく夜なんか、知らないところへまいりますと、狐につままれたようにぼうとなるものでございますわ、ほんとうに失礼いたしました、こんな河獺の住居のような処へお出でを願いまして」
「どういたしまして、静な、理想的なお住居じゃございませんか」
省三はその家の位置が判ったような気になっていた。
「これから寒くなりますと、締っきりにしなくてはなりませんが、まだ今は見晴しがよろしゅうございますわ」
女は起って往って省三から正面になった障子を開けた。障子の外は小さな廊下になってそれに欄干がついていたが、その欄干の前には月にぼかされた湖の水が漂渺としていた。
「すぐ水の傍ですね、実に理想的だ、歌をおやりでしょうね」
省三は延びあがるように水の上を見ながら云った。女は障子へ寄っかかるようにして立っていた。
「まねごとをいたしますが、とてもだめでございますわ」
「そんなことはないでしょう、こう云う処にいらっしゃるから」
「いくら好い処におりましても、頭の中に歌を持っておりません者は、だめでございますわ」
女はこう云って笑い声をたてたが、そのまま体の向きをかえて元の蒲団の上へ戻って来た。
「そんなことはないでしょう、私もこんな処に一箇月もおると、何か纏まりそうな気がしますね」
「一箇月でも二箇月でも、お気に召したら、一箇年もいらしてくださいまし、こんなお婆さんのお対手じゃお困りでございましょうが」
女はこう云って卓の上に乗っている黒い罎を執って、それを傍のコップに注いで省三の前に出して、
「お茶のかわりに赤酒をさしあげます、お嫌いじゃございますまいか」
「すこし、戴きましょう、あまり飲めませんけれど」
「婢を呼びますと、何か、もすこしおあいそもできましょうが、めんどうでございますから、どうか召しあがってくださいまし、私も戴きます」
女も別のコップへその葡萄酒を注いで一口飲んだ。
「では、戴きます」
省三は俯向いてコップを執った。
「私は先生が雑誌にお書きになるものを平生拝見しております、それで一度、どうかしてお眼にかかりたいと思っておりましたところ、今日、先生の御講演があると家へ出入の者から伺いまして、どんなに今日の講演をお待ちしましたか、そして、その思いがやっとかなってみると、人間の慾と云うものはどこまで深いものでございましょう、遠くからお話を伺ったばかしでは、気がすまなくなりまして、こんな御無理をお願いしました、こんなお婆さんに見込まれて、さぞ御迷惑でございましょう」
女はまた笑った。省三も笑うより他にしかたがなかった。
「私は判りませんけれども、今日先生がなさいました、恋愛に関するお話は、非常に面白うございました。あのお話の中の女歌人のお話は、非常な力を私達に与えてくださいました。もっともこんなお婆さんには、あの方のような気の利いた愛人なんかはありませんが、あのお話で、つまらない世間的な道徳などは、何の力もなくなったような気がしますわ」
「あなたのように、心から、私のつまらない講演を聞いてくだされた方があると思うと、私も非常に嬉しいです、しかし、私がほんとうの講演ができるのは、まだ十年さきですよ、まだ、何も頭にありませんから」
「そんなことがあるものでございますか、今日の聴衆という聴衆は、先生のお話に感動して、涙ぐましい眼をして聞いておりましたわ」
「だめです、まだこれから本を読まなくては、もっとも、これからと云っても、もう年が往ってますから」
「失礼ですが、お幾歳でいらっしゃいます」
「幾歳に見えます」
「さあ、そうですね」女は黒い眼でじっと正面に省三の顔を見つめたが、「三十二三でいらっしゃいますか」
「そいつはおごらなくちゃなりませんね、六ですよ」
「三十六、そんなには、どうしても見えませんわ」
「あなたはお幾歳です」
「私、幾歳に見えます」
「さあ、三ですか、四にはまだなりますまいね」
「なりますよ、四ですよ、やっぱり先生のお眼はちがっておりませんわ」
「お子さんはおありですか」
「小供はありません、一度結婚したことがありますが、小供は出来ませんでした」
省三はその女が事情があるにせよ、独身であると云うことを聞いて心にゆとりが出来た。彼は女が二度目についでくれたコップを持った。
「それでは、目下はお一人ですか」
「そうでございますわ、こんなお婆さんになっては、何人もかまってくださる方がありませんから、一人で気ままに暮しておりますわ」
「かえって、係累がなくって気楽ですね」
「気楽は気楽ですけれど、淋しゅうございますわ、だから今日のように、我ままを申すようなことになりますわ」
「こんな仙境のような処なら、これから度たびお邪魔にあがりますよ」
省三はもう酔っていた。
「今晩もこの仙境でお泊りくださいましよ」
牡丹の花の咲いたような濃艶な女の姿が省三の眼前にあった。
「そうですね」
「私の我ままをとおさしてくださいましよ」
女の声は蝋燭の燈のめいって往くようなとろとろした柔かな気もちになって聞えて来た。省三は卓に両肘を凭せて寄りかかりながら何か云ったが聞えなかった。
女は起って己の着ている羽織を脱いで裏を前にして両手に持って省三の傍へ一足寄った。と、廊下の方でぐうぐうと蛙とも魚ともつかない声が数多の口から出るように一めんに聞えだした。女は厭な顔をして開けてある障子の外を見た。今まで月と水が見えて明るかった戸外は、真暗な入道雲のようなものがもくもくと重なり重なりしていた。
「ばかだね、なにしに来るのだね、ばかなまねをしてると承知しないよ」
女は叱るように云った。それでもぐうぐうの声は止まなかった。黒い雲の一片はふわりふわりと室の中へ入って来た。
「おふざけでないよ」
女の右の手は頭にかかって黒いピンが抜かれた。女はそのピンを室の中へ入って来た雲の一片めがけて突き刺した。と、怪しい鳴き声はばったり止んで雲はピンを刺したまま崩れるように室の外へ出て往った。
省三は夢現の境に女の声を聞いてふと眼を開けた。それと同時に女が後から着せた羽織がふわりと落ちて来た。
省三は女に送られてボートで帰っていた。それは曇った日の夕方のことで、鼠色に暮れかけた湖の上は蝸牛の這った跡のようにところどころ鬼魅悪く光っていた。
省三は女の家に二三日いて帰るところであった。彼は艫に腰を懸けて女と無言の微笑を交わしていたが、ふと眼を舟の左側の水の上にやると一尾の大きな鯰が白い腹をかえして死んでいた。
「大きな鯰が死んでますね」
省三はその鯰をくわしく見るつもりでまた眼をやった。黒いピンのようなものが咽喉に松葉刺しにたっていた。
「咽喉をなにかで突かれているのですね」
「いたずらをして突かれたものでしょう、それよりか、次の金曜日にはきっとですよ」
「好いです」
すこし風があって青葉がアーク燈の面を撫でている宵のくちであった。上野の山を黙々として歩いていた省三は、不忍の弁天と向き合った石段をおり、ちょうど動坂の方へ往こうとする電車の往き過ぎるのを待って、電車路をのそりと横切り弁天の方へ往きかけた。そこにはうっすらした靄がかかって池の周囲の燈の光を奥深く見せていた。
彼は山の上で一時間も考えたことをまた後へもどして考えていた。……こうなれば、世間的の体裁などを云っていられない、断然別居しよう、小供には可哀そうだがしかたがない、そして、別居を承知しないと云うならひと思いに離別しよう、小供はもう三歳になっているからしっかりした婆やを雇えば好い、今晩まず別居の宣言をしてみよう、気の弱いことではいけない。どうも俺は気が弱いからそれがためにこれまで何かの点に於て損をしている、断然とやろう、来る日も来る日も無智の詞を聞いたり厭な顔を見せられたりするのは厭だ……。
彼はその夕方細君といがみ合ったことを思い浮べてみた。先月のはじめ水郷の町の講演に往って以来、長くて一週間早くて四五日するとぶらりと家を出て往った。そのつど二三日は帰って来ない彼に対して、敵意を挟んで来ている細君は隣の手前などはかまわなかった。
……(さんざんしゃぶってしまったから、もう用はなくなったのでしょう)
……(私のような者は、もう死んでしまや好いのでしょう、生きて邪魔をしちゃ、どっさりお金を持って来る女が来ないから)
細君は三千円ばかりの父親の遺産を持って来ていた。……
その日は神田の出版書肆から出版することになった評論集の原稿をまとめるつもりで、机の傍へ雑誌や新聞の摘み切りを出して朱筆を入れていると、男の子がちょこちょこ入って来てその原稿を引っ掻きまわすので、
(おい、坊やをどかしてくれなくちゃ困るじゃないか)
と云うと、
(坊やお出でよ、そのお父様は、もう家のお父様じゃないからだめよ)
と、云って細君が冷たい眼をして入って来た。
(ばか)
(どうせ、私は痴ですよ、ばかだから、こんな目に逢うのですよ、坊や、おいで)
細君はまだ雑誌の摘み切りを手にして弄っている小供の傍へ往って、その摘み切りを引ったくっておいていきなり抱きかかえた。その荒あらしい毒どくしい行が彼の神経を尖らしてしまった。彼は朱筆を持ったなりに細君の後から飛びかかって往って、両手でその首筋を掴んで引き据えた。細君は機をくって突き坐った。と、小供がびっくりして大声に泣きだした。
(痴、なんと云う云いかただ)
彼は細君の頭の上を睨みつけるようにして立っていた。
細君の泣き声がやがて聞えて来た。
(何と云うばかだ、身分を考えないのか)……
彼は楼門の下を歩いていた。白い浴衣を着た散歩の人がちらちらと眼に映った。
……この後、こんな日がもう一箇月も続こうものなら、頭は滅茶苦茶になって何もできなくなる、できなくなればますます生活が苦しくなる。このうえ生活に追われて立ちも這いもできないことになる、どうしても、別居だ、別居して静に筆をとる一方で、己の哲学を完成しよう、そして、その間に時間をこしらえてあの女と逢おう……。
彼は弁天堂の横から渡月橋の袂へ往った。そこは弁天堂の正面とちがって人通りがすくなくて世界がちがったようにしんとしていた。彼は暗い中を見た。
「先生じゃありませんか」
と、聞き覚えのある女の声がした。省三は足を止めて後の方をふり返った。白い顔が眼の前に来た。それは水郷の町の女であった。
「何時いらしったのです」
「今の汽車でまいりました、ちょうど好かったのですね」
「どこへいらしったのです」
「銚子の方へ往こうと思って、家を出たのですが、先生にお眼にかかりたくなりましたからまいりました、これからお宅へあがろうと思いまして、ぶらぶら歩いてまいりましたが、なんだか変ですから、ちょっと困っておりました」
「そうですか、それはちょうど好かった、飯はどうです」
「まだです、あなたはもうおすみになって」
「すこしくさくさすることがあって、まだです、どこかその辺へ往って飯を喫おうじゃありませんか」
「くさくさすることがあるなら、いっそ、これから銚子へ往こうじゃありませんか」
「そうですね、往っても好いのですね」
二人は引返して弁天堂の前の方へ往った。
省三は電車をおりて夕陽の中を帰って来たが、格子戸を開けるにさえこれまでのように無関心に開けることができなかった。
彼はまず細君がいるかいないかをたしかめるために玄関をあがるなり見附の茶の間の方を見た。そこはひっそりして人の影もないので左側になった奥の室を見た。
細君の姿はそこに見えた。去年こしらえた中形の浴衣を着てこっち向きに坐り、団扇を持った手を膝の上に置いてその前に寝ている小供の顔を見るようにしていた。
彼はそれを見つけると、「うむ」と云うような鼻呼吸とも唸り声とも判らない声をたててみたが、細君が顔をあげないのでしかたなしに書斎へ入って往った。
暗鬱な日がやがて暮れてしまった。省三は机の前に坐っていた。彼は夕飯に往こうともしなければ、細君の方からも呼びに来もしなかった。その重苦しい沈黙の中に小供の声が一二回聞えたがそれももう聞えなくなってしまった。
省三は気が注くと手で頬や首筋に止った蚊を叩いた。そして、思いだして鉛のようになった頭をほぐそうとしたがほぐれなかった。
不思議な呻吟のようなものが細ぼそと聞えた。省三は耳をたてた。それは玄関の方から聞えて来る声らしかった。彼は怖ろしい予感に襲われて急いで起ちあがって玄関の方へ往った。
青い蚊帳を釣した奥の室と茶の間の境になった敷居の上に、細君が頭をこちらにして俯伏しになっている傍に、壮い女が背をこっちへ見せて坐っていたがその手にはコップがあった。省三は何事が起ったろうと思い思いその傍へ往った。と、壮い女の姿は無くなって細君が一人苦しんで身悶えをしていた。
「どうした、どうした」
その省三の眼に細君の枕頭に転がっているコップと売薬の包らしい怪しい袋が見えた。
「お前は、何んと云うことをしてくれた」
省三は細君の両脇に手をやって抱き起そうとしたが、考えついたことがあるのでその手を離した。
「お前は小供が可愛くないのか、何故そんな痴なまねをする、しっかりおし、すぐ癒してやるから」
省三は玄関の方へ走って往ってさっき己が脱ぎ捨てたままである駒下駄を履いて格子戸を開け、締めずに引いてあった雨戸を押しのけるように開けて外へ出た。
「やあ、山根君じゃないか」
と、むこうから来た者が声をかけた。省三は走ろうとする足を止めた。
「何人だね」
それは野本と云う仲間の文士であった。
「野本君か、野本君、君に頼みがある。妻室がすこし怪しいから、急いで医師を呼んで来てくれないかね、ここを出て、右に五六軒往ったところに、赤い電燈の点いた家がある、かかりつけの医師だから、僕の名を云えばすぐ来てくれる」
「どうしたんだ」
「痴なまねをして、なにか飲んだようだ」
「よし、じゃ、往って来る、君は気をつけてい給え」
野本は走って往った。それと同時に省三も家の中へ走りこんだ。
細君は両手をついて腹這いになり、ひっくり返ったコップの上から黄ろなどろどろする物を吐いていた。
「吐いたか、吐いたなら大丈夫だ」
省三は急いで台所へ入って往って手探りに棚にあった飯茶碗を執ってバケツの水を掬うて持って来た。
「水を持って来た、この水を飲んでもうすこし吐くが好い」
省三は蹲んでその水を細君の口の傍へ持って往った。細君はその茶碗を冷かな眼で見たなりで口を開けなかった。
「何故飲まない、飲んだら好いじゃないか、飲まないといけない、飲んで吐かなくちゃいけない」
省三は無理に茶碗を口に押しつけた。水がぽとぽととこぼれたが細君は飲まなかった。
「お前は小供が可愛くないのか、何故飲まない」
がたがたとそそっかしい下駄の音がして野本が入って来た。
「先生はすぐ来る、どうだね、大丈夫かね」
「吐いた、吐いた、吐いたら大丈夫だと思うのだ」
「吐いたのか、吐いたら好い」
野本は傍へ来て立った。
「奥さんどうしたのです、大丈夫ですから、しっかりしなさい」
細君の顔は野本の方へ向いた。その眼にはみるみる涙が一ぱいになった。
「野本君、僕が水を飲まして吐かそうとしても、飲まない、君が飲ましてくれ給え」
省三は手にした茶碗を野本の前にだした。
「そんなことはなかろうが、僕で好いなら、僕が飲ましてやろう」
野本はその茶碗を持って蹲んだ。
「奥さん、どんなことがあるか知りませんが、山根君に悪いことがあるなら、私が忠告します、おあがりなさい、飲んで吐くが好いのです」
細君はその水を飲みだした。省三はその傍へ坐って悲痛な顔をしてそれを見ていた。
赧ら顔の医師が薬籠を持ってあがって来た。医師は細君の傍へ往って四辺の様をじっと見た。
「吐きましたね」
「吐いてます、まだ吐かしたら好いと思って、今この茶碗に一ぱい水を飲ましたところです」
野本は手にしていた茶碗を医師に見せた。
「それは大変好い」
医師は今度は細君の方を向いて云った。
「奥さん、大丈夫ですよ、御心配なさらないが好いのですよ」
細君は声をあげて泣きだした。
「先生お恥かしゅうございます」
省三はやっとそれきり云って眼を伏せた。
「どれくらいになりますか」
「私が気がついて、まだ二十分ぐらいにしかならんと思いますが」
「そうですか」
医師は薬籠を開けて小さな瓶を出し、それを小さな液量器に垂らした。
「水を持って来ましょうか」
野本が云った。
「そうですね、すこしください」
野本は茶碗を持って台所の方へ往ったがやがて水を汲んで帰って来た。
医師はその水を液量器の中に垂らして細君の口元に持って往った。細君は泣きじゃくりしながらそれを飲んだ。
「これで大丈夫だから、静にしててください」
こう云って医師が眼をあげた時には、省三の姿はもう見えなかった。
省三はその翌日の夕方利根川の支流になった河に臨んだ旅館の二階に考え込んでいた。
「関根さん、お伴様が見えました」
関根友一は省三がこの旅館で用いている変名であった。省三は不思議に思って婢の声のした方を見た。昨日の朝銚子で別れた女が婢の傍で笑って立っていた。女は華美な明石を着ていた。
「びっくりなすったのでしょう、なんだかあなたがここへいらっしゃるような気がしたものですから、昨日の夕方の汽車で引き揚げて来たのですよ」
女は笑い笑い入って来た。
省三と女は土手を下流の方へ向いて歩いていた。晴れた雲のない晩で蛙の声が喧しく聞えていた。
「いよいよ舟に乗る時が来ましたよ」
女が不意にこんなことを云った。省三はその意味が判らなかった。
「なんですか」
「舟に乗る時ですよ」
省三はどうしても合点が往かなかった。
「舟に乗る時って、一体こんな処にかってに乗れる舟がありますか、舟に乗るなら、宿へでもそう云って拵えて貰わなくちゃ」
「大丈夫ですよ、私が呼んでありますから」
「ほんとうですか」
「ほんとうですとも、そこをおりましょう」
川風に動いている丈高い草が一めんに見えていて、路らしいものがそのあたりにあるとは思われなかった。
「おりられるのですか」
「好い路がありますわ」
省三は不思議に思ったが、女が断言するので土手の端へ往って覗いた。そこには一幅の土の肌の見えた路があった。
「なるほどありますね」
「ありますとも」
省三は前にたってその路をおりて往った。蛍のような青い光が眼の前を流れて往った。
「蛍ですね」
「さあ、どうですか」
黄ろな硝子でこしらえたような中に火を入れたような舟が一艘蘆の間に浮いていた。
「おかしな舟ですね、ボートですか」
「なんでも好いじゃありませんか、あなたを待ってる舟ですよ」
そんな邪慳な詞は省三はまだ一度も女から聞いたことはなかった。彼は女はどうかしていると思った。
「お乗りなさいよ」
「乗りましょう」
省三は舟を近く寄せようと思って纜を繋いである処を見ていると、舟は蘆の茎をざらざらと云わして自然と寄って来た。
「お乗りなさいよ」
「綱は好いのですか」
「好いからお乗りなさいよ」
省三は舟のことは女が精しいから云うとおりに乗ろうと思ってそのまま乗り移った。舟のどこかに脚燈を点けてあるように脚下が黄ろく透して見えた。
「いよいよ乗せたから、持ってお出でよ」
女はこう云いながら続いて乗って胴の間に腰をかけて省三と向き合った。女の体は青黄ろく透きとおるように見えた。
「皆でなにをぐずぐずしているのだね、早く持ってお出でよ」
省三は体がぞくぞくした。と、舟は発動機ででも運転さすように動きだした。
「この舟は一体なんです、変じゃありませんか」
「変じゃありませんよ」
「でも、機械もなにもないのに動くじゃありませんか」
「機械はないが、数多の手がありますから、動きますよ」
「え」
「今に判りますよ、じっとしていらっしゃい」
「そうですか」
女は大きな声をだして笑いだした。省三は怖る怖る女の顔に眼をやった。黄ろな燃えるような光の中に女の顔が浮いていた。
「なにをそんなにびっくりなさいますの」
女の顔は左に傾いて細かい数多ある頭の毛が重そうに見えた。それは前橋の女の顔であった。
「わっ」
省三は怖ろしい叫び声をあげて逃げようとして舟から体を躍らした。
二日ばかりして山根省三の死骸は、壮い女の死体と抱きあったままでその川尻の海岸にあがって細君の手に引きとられたが、女は身元は判らないので、それはその土地の共同墓地に埋められたと云うことが二三の新聞に現れた。
底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会
1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第四巻」改造社
1934(昭和9)年
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年5月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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