忠義

     一 前島林右衛門まえじまりんえもん

 板倉修理いたくらしゅりは、病後の疲労がやや恢復すると同時に、はげしい神経衰弱に襲われた。―― 
 肩がはる。頭痛がする。日頃好んでする書見にさえ、身がはいらない。廊下ろうかを通る人の足音とか、家中かちゅうの者の話声とかが聞えただけで、すぐ注意がみだされてしまう。それがだんだんこうじて来ると、今度はごく些細ささいな刺戟からも、絶えず神経をさいなまれるような姿になった。
 第一、莨盆たばこぼん蒔絵まきえなどが、黒地にきん唐草からくさわせていると、その細いつるや葉がどうも気になって仕方がない。そのほか象牙ぞうげはしとか、青銅の火箸とか云う先のとがった物を見ても、やはり不安になって来る。しまいには、畳のへりの交叉したかどや、天井の四隅よすみまでが、丁度刃物はものを見つめている時のような切ない神経の緊張を、感じさせるようになった。
 修理しゅりは、止むを得ず、毎日陰気な顔をして、じっと居間にいすくまっていた。何をどうするのも苦しい。出来る事なら、このまま存在の意識もなくなしてしまいたいと思う事が、度々ある。が、それは、ささくれた神経の方で、許さない。彼は、蟻地獄ありじごくに落ちた蟻のような、いら立たしい心で、彼の周囲を見まわした。しかも、そこにあるのは、彼の心もちに何の理解もない、いたずらに万一をおそれている「譜代ふだいの臣」ばかりである。「おれは苦しんでいる。が、誰も己の苦しみを察してくれるものがない。」――そう思う事が、既に彼には一倍の苦痛であった。
 修理の神経衰弱は、この周囲の無理解のために、一層昂進の度を早めたらしい。彼は、事毎ことごとに興奮した。隣屋敷まで聞えそうな声で、わめき立てた事も一再ではない。刀架かたなかけの刀に手のかかった事も、度々ある。そう云う時の彼はほとんど誰の眼にも、別人のようになってしまう。ふだん黄いろく肉の落ちた顔が、どこと云う事なく痙攣けいれんして眼の色まで妙に殺気立って来る。そうして、発作ほっさが甚しくなると、必ず左右のびんの毛を、ふるえる両手で、かきむしり始める。――近習きんじゅの者は、皆この鬢をむしるのを、彼の逆上した索引さくいんにした。そう云う時には、互にいましめ合って、誰も彼の側へ近づくものがない。
 発狂――こう云う怖れは、修理自身にもあった。周囲が、それを感じていたのは云うまでもない。修理は勿論、この周囲の持っている怖れには反感を抱いている。しかし彼自身の感ずる怖れには、始めから反抗のしようがない。彼は、発作が止んで、前よりも一層幽鬱な心が重く頭を圧して来ると、時としてこの怖れが、稲妻のように、おのれおびやかすのを意識した。そうして、同時にまた、そう云う怖れを抱くことが、既に発狂の予告のような、不吉ふきつな不安にさえ、襲われた。「発狂したらどうする。」
 ――そう思うと、彼は、にわかに眼の前が、暗くなるような心もちがした。
 勿論この怖れは、一方絶えず、外界の刺戟から来るいら立たしさに、かき消された。が、そのいら立たしさがまた、他方では、ややもすると、この怖れを眼ざめさせた。――云わば、修理の心は、自分の尾を追いかける猫のように、休みなく、不安から不安へと、廻転していたのである。

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 修理しゅりのこの逆上は、少からず一家中の憂慮する所となった。中でも、これがために最も心を労したのは、家老の前島林右衛門りんえもんである。
 林右衛門は、家老と云っても、実は本家の板倉式部いたくらしきぶから、附人つけびととして来ているので、修理も彼には、日頃から一目いちもく置いていた。これはほとんど病苦と云うものの経験のない、あから顔の大男で、文武の両道にひいでている点では、家中かちゅうの侍で、彼の右に出るものは、幾人もない。そう云う関係上、彼はこれまで、始終修理に対して、意見番の役を勤めていた。彼が「板倉家の大久保彦左おおくぼひこざ」などと呼ばれていたのも、まったくこの忠諫ちゅうかんを進める所から来た渾名あだなである。
 林右衛門は、修理の逆上が眼に見えて、進み出して以来、夜の目も寝ないくらい、主家のために、心をわずらわした。――既に病気が本復した以上、修理は近日中に病緩びょうかんの御礼として、登城とじょうしなければならない筈である。所が、この逆上では、登城の際、附合つきあいの諸大名、座席同列の旗本仲間へ、どんな無礼を働くか知れたものではない。万一それから刃傷沙汰にんじょうざたにでもなった日には、板倉家七千石は、そのまま「お取りつぶし」になってしまう。殷鑑いんかんは遠からず、堀田稲葉ほったいなば喧嘩けんかにあるではないか。
 林右衛門は、こう思うと、居ても立っても、いられないような心もちがした。しかし彼に云わせると、逆上は「体の病」ではない。全く「心の病」である――彼はそこで、放肆ほうしいさめたり、奢侈しゃしを諫めたりするのと同じように、敢然として、修理の神経衰弱を諫めようとした。
 だから、林右衛門は、爾来じらい、機会さえあれば修理に苦諫くかんを進めた。が、修理の逆上は、少しも鎮まるけはいがない。むしろ、いさめれば諫めるほど、れれば焦れるほど、眼に見えて、進んで来る。現に一度などは、危く林右衛門を手討ちにさえ、しようとした。「しゅうしゅうとも思わぬ奴じゃ。本家の手前さえなくば、切ってすてようものを。」――そう云う修理の眼の中にあったものは、既に怒りばかりではない。林右衛門は、そこに、また消し難い憎しみの色をも、読んだのである。
 そのうちに、主従の間に纏綿てんめんする感情は、林右衛門の重ねる苦諫に従って、いつとなくすさんで来た。と云うのは、独り修理が林右衛門を憎むようになったと云うばかりではない。林右衛門の心にもまた、知らず知らず、修理に対する憎しみが、芽をふいて来た事を云うのである。勿論、彼は、この憎しみを意識してはいなかった。少くとも、最後の一刻を除いて、修理に対する彼の忠心は、終始変らないものと信じていた。「きみ君為きみたらざれば、臣臣為らず」――これは孟子もうしの「道」だったばかりではない。そのうしろには、人間の自然の「道」がある。しかし、林右衛門は、それを認めようとしなかった。……
 彼は、くまでも、臣節を尽そうとした。が、苦諫の効がない事は、既に苦い経験をめている。そこで、彼は、今まで胸中に秘していた、最後の手段に訴える覚悟をした。最後の手段と云うのは、ほかでもない。修理を押込め隠居にして、板倉一族の中から養子をむかえようと云うのである。――
 何よりもまず、「家」である。(林右衛門はこう思った。)当主は「家」の前に、犠牲にしなければならない。ことに、板倉本家は、乃祖だいそ板倉四郎左衛門勝重かつしげ以来、未嘗いまだかつて瑕瑾かきんを受けた事のない名家である。二代又左衛門重宗しげむねが、父の跡をうけて、所司代しょしだいとして令聞れいぶんがあったのは、数えるまでもない。その弟の主水重昌もんどしげまさは、慶長十九年大阪冬の陣の和がこうぜられた時に、判元見届はんもとみとどけの重任をかたじけなくしたのを始めとして、寛永十四年島原の乱に際しては西国さいごくの軍に将として、将軍家御名代ごみょうだいの旗を、天草あまくさ征伐の陣中にひるがえした。その名家に、万一汚辱を蒙らせるような事があったならば、どうしよう。臣子の分として、九原きゅうげんもと、板倉家累代るいだいの父祖にまみゆべきかんばせは、どこにもない。
 こう思った林右衛門は、ひそかに一族のうちを物色した。すると幸い、当時若年寄を勤めている板倉佐渡守さどのかみには、部屋住へやずみの子息が三人ある。その子息の一人を跡目あとめにして、養子願さえすれば、公辺こうへんの首尾は、どうにでもなろう。もっともこれは、事件の性質上修理や修理の内室には、密々で行わなければならない。彼は、ここまで思案をめぐらした時に、始めて、明るみへ出たような心もちがした。そうして、それと同時に今までに覚えなかったある悲しみが、おのずからその心もちを曇らせようとするのが、感じられた。「皆御家のためじゃ。」――そう云う彼の決心の中には、彼自身おぼろげにしか意識しない、何ものかを弁護しようとするある努力が、月のかさのようにそれとなく、つきまとっていたからである。

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 病弱な修理は、第一に、林右衛門の頑健な体を憎んだ。それから、本家ほんけ附人つけびととして、彼がいんに持っている権柄けんぺいを憎んだ。最後に、彼の「家」を中心とする忠義を憎んだ。「しゅうしゅうとも思わぬ奴じゃ。」――こう云う修理の語のうちには、これらの憎しみが、くすぶりながら燃える火のように、暗い焔を蔵していたのである。
 そこへ、突然、思いがけない非謀ひぼうが、内室ないしつの口によって伝えられた。林右衛門は修理を押込め隠居にして、板倉佐渡守の子息を養子に迎えようとする。それが、偶然、内室の耳へれた。――これを聞いた修理が、まなじりを裂いて憤ったのは無理もない。
 成程、林右衛門は、板倉家を大事に思うかも知れない。が、忠義と云うものは現在つかえている主人をないがしろにしてまでも、「家」のためを計るべきものであろうか。しかも、林右衛門の「家」をうれえるのは、杞憂きゆうと云えば杞憂である。彼はその杞憂のために、自分を押込め隠居にしようとした。あるいはその物々しい忠義よばわりの後に、あわよくば、家を横領しようとする野心でもあるのかも知れない。――そう思うと修理は、どんな酷刑こっけいでも、この不臣のおこないを罰するには、軽すぎるように思われた。
 彼は、内室からこの話を聞くと、すぐに、以前彼の乳人めのとを勤めていた、田中宇左衛門という老人を呼んで、こう言った。
「林右衛門めをしばり首にせい。」
 宇左衛門は、半白の頭を傾けた。年よりもふけた、彼の顔は、この頃の心労で一層しわを増している。――林右衛門のくわだては、彼も快くは思っていない。が、何と云っても相手は本家からの附人つけびとである。
「縛り首は穏便おんびんでございますまい。武士らしく切腹でも申しつけまするならば、格別でございますが。」
 修理はこれを聞くと、嘲笑あざわらうような眼で、宇左衛門を見た。そうして、二三度強く頭を振った。
「いや人でなしに、切腹を申しつけるかどはない。縛り首にせい。縛り首にじゃ。」
 が、そう云いながら、どうしたのか、彼は、血の色のないほおへ、はらはらと涙を落した。そうして、それから――いつものように両手で、びんの毛をかきむしり始めた。

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 縛り首にしろと云う命が出た事は、ただちに腹心の近習きんじゅから、林右衛門に伝えられた。
「よいわ。この上は、林右衛門も意地ずくじゃ。手をこまぬいて縛り首もうたれまい。」
 彼は昂然として、こう云った。そうして、今まで彼につきまとっていた得体えたいの知れない不安が、この沙汰を聞くと同時に、跡方なく消えてしまうのを意識した。今の彼の心にあるものは、修理に対するあからさまな憎しみである。もう修理は、彼にとって、主人ではない。その修理を憎むのに、何のはばかる所があろう。――彼の心の明るくなったのは、無意識ながら、全く彼がこう云う論理を、刹那せつなの間に認めたからである。
 そこで、彼は、妻子家来を引き具して、白昼、修理の屋敷を立ち退いた。作法さほう通り、立ち退き先の所書きは、座敷の壁にってある。やりも、林右衛門自ら、小腋こわきにして、先に立った。武具をになったり、足弱をたすけたりしている若党草履ぞうり取を加えても、一行の人数にんずは、漸く十人にすぎない。それが、とり乱した気色もなく、つれ立って、門を出た。
 延享えんきょう四年三月の末である。門の外では、生暖なまあたたかい風が、桜の花と砂埃すなほこりとを、一つに武者窓へふきつけている。林右衛門は、その風の中に立って、もう一応、往来の右左を見廻した。そうして、それから槍で、一同に左へ行けと相図をした。

     二 田中宇左衛門

 林右衛門りんえもんの立ち退いた後は、田中宇左衛門が代って、家老を勤めた。彼は乳人めのとをしていた関係上、修理しゅりを見る眼が、おのずからほかの家来とはちがっている。彼は親のような心もちで、修理の逆上ぎゃくじょうをいたわった。修理もまた、彼にだけは、比較的従順に振舞ったらしい。そこで、主従の関係は、林右衛門のいた時から見ると、遥になめらかになって来た。
 宇左衛門は、修理の発作ほっさが、夏が来ると共に、漸くおこたり出したのを喜んだ。彼も万一修理が殿中で無礼を働きはしないかと云う事を、おそれない訳ではない。が、林右衛門は、それを「家」にかかわる大事として、惧れた。併し、彼は、それを「しゅう」に関る大事として惧れたのである。
 勿論、「家」と云う事も、彼の念頭にはのぼっていた。が、変があるにしてもそれは単に、「家」を亡すが故に、大事なのではない。「しゅう」をして、「家」を亡さしむるが故に――「しゅう」をして、不孝の名を負わしむるが故に、大事なのである。では、その大事を未然みぜんに防ぐには、どうしたら、いいであろうか。この点になると、宇左衛門は林右衛門ほど明瞭な、意見を持っていないようであった。恐らく彼は、神明の加護と自分の赤誠とで、修理の逆上の鎮まるように祈るよりほかは、なかったのであろう。
 その年の八月一日、徳川幕府では、所謂いわゆる八朔はっさくの儀式を行う日に、修理は病後初めての出仕しゅっしをした。そうして、そのついでに、当時西丸にしまるにいた、若年寄の板倉佐渡守を訪うて、帰宅した。が、別に殿中では、何も※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そそうをしなかったらしい。宇左衛門は、始めて、愁眉しゅうびを開く事が出来るような心もちがした。
 しかし、彼の悦びは、その日一日だけも、続かなかった。よるになると間もなく、板倉佐渡守から急な使があって、早速来るようにと云う沙汰が、凶兆きょうちょうのように彼をおびやかしたからである。夜陰に及んで、突然召しを受ける。――そう云う事は、林右衛門の代から、まだ一度も聞いた事がない。しかも今日は、初めて修理が登城をした日である。――宇左衛門は、不吉ふきつな予感に襲われながら、あわただしく佐渡守の屋敷へ参候した。
 すると、果して、修理が佐渡守に無礼の振舞があったと云う話である。――今日出仕を終ってから、修理は、白帷子しろかたびら長上下ながかみしものままで、西丸の佐渡守を訪れた。見た所、顔色かおいろもすぐれないようだから、あるいはまだ快癒がはかばかしくないのかと思ったが、話して見ると、格別、病人らしい容子ようすもない。そこで安心して、暫く世間話をしている中に、偶然、佐渡守が、いつものように前島林右衛門の安否を訊ねた。すると、修理は急に額を暗くして、「林右衛門めは、先頃さきごろ、手前屋敷を駈落かけおち致してござる。」と云う。林右衛門が、どう云う人間かと云う事は、佐渡守もよく知っている。何か仔細しさいがなくては、みだり主家しゅかを駈落ちなどする男ではない。こう思ったから、佐渡守は、その仔細を尋ねると同時に、本家からの附人つけびとにどう云う間違いが起っても、親類中へ相談なり、知らせなりしないのは、おだやかでない旨を忠告した。ところが、修理は、これを聞くと、眼の色を変えながら、刀のつかへ手をかけて、「佐渡守殿は、別して、林右衛門めを贔屓ひいきにせられるようでござるが、手前家来の仕置は、不肖ながら手前一存で取計らい申す。如何に当時出頭しゅっとうの若年寄でも、いらぬ世話はお置きなされい。」と云う口上である。そこでさすがの佐渡守も、あまりの事にあきれ返って、御用繁多を幸に、早速その場をはずしてしまった。――
「よいか。」ここまで話して来て、佐渡守は、今更のように、苦い顔をした。
 ――第一に、林右衛門の立ち退いた趣を、一門衆へ通達しないのは、宇左衛門の罪である。第二に、まだ逆上の気味のある修理を、登城させたのも、やはり彼の責を免れない。佐渡守だったから、いいが、もし今日のような雑言ぞうごんを、列座の大名衆にでも云ったとしたら、板倉家七千石は、たちまち、改易かいえきになってしまう。――
「そこでじゃ。今後は必ずとも、他出無用に致すように、別して、出仕登城の儀は、その方より、堅くさし止むるがよい。」
 佐渡守は、こう云って、じろりと宇左衛門を見た。
しゅうにつれて、その方まで逆上しそうなのが、心配じゃ。よいか。きっと申しつけたぞ。」
 宇左衛門は眉をひそめながら、思切った声で答えた。
「よろしゅうござりまする、しかと向後こうごは慎むでございましょう。」
「おお、二度とあやまちをせぬのが、何よりじゃ。」
 佐渡守は、吐き出すように、こう云った。
「その儀は、宇左衛門、一命にかけて、承知仕りました。」
 彼は、眼に涙をためながら懇願するように、佐渡守を見た。が、その眼の中には、哀憐あいれんを請う情と共に、犯し難い決心の色が、浮んでいる。――必ず修理の他出を、禁ずる事が出来ると云う決心ではない。禁ずる事が出来なかったら、どうすると云う、決心である。
 佐渡守は、これを見ると、また顔をしかめながら、面倒臭そうに、横を向いた。

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しゅう」の意に従えば、「家」があやうい。「家」を立てようとすれば、「主」の意にもとる事になる。かつては、林右衛門も、この苦境に陥っていた。が、彼には「家」のために「主」を捨てる勇気がある。と云うよりは、むしろ、始からそれほど「主」を大事に思っていない。だから、彼は、容易たやすく、「家」のために「主」を犠牲ぎせいにした。
 しかし、自分には、それが出来ない。自分は、「家」の利害だけを計るには、余りに「しゅう」に親しみすぎている。「家」のために、ただ、「家」と云う名のために、どうして、現在の「主」を無理に隠居などさせられよう。自分の眼から見れば、今の修理も、破魔弓はまゆみこそ持たないものの、幼少の修理と変りがない。自分が絵解えどきをした絵本、自分が手をとって習わせた難波津なにわづの歌、それから、自分が尾をつけた紙鳶いかのぼり――そう云う物も、まざまざと、自分の記憶に残っている。……
 そうかと云って、「しゅう」をそのままにして置けば、独り「家」が亡びるだけではない。「主」自身にも凶事きょうじが起りそうである。利害の打算から云えば、林右衛門のとった策は、唯一ゆいいつの、そうしてまた、最も賢明なものに相違ない。自分も、それは認めている。その癖、それが、自分には、どうしても実行する事が出来ないのである。
 遠くで稲妻いなずまのする空の下を、修理の屋敷へ帰りながら、宇左衛門は悄然しょうぜんと腕を組んで、こんな事を何度となく胸の中で繰り返えした。

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 修理しゅりは、翌日、宇左衛門から、佐渡守の云い渡した一部始終を聞くと、忽ち顔を曇らせた。が、それぎりで、格別いつものように、とりのぼせる気色けしきもない。宇左衛門は、気づかいながら、幾分か安堵あんどして、その日はそのまま、下って来た。
 それから、かれこれ十日ばかりの間、修理は、居間にとじこもって、毎日ぼんやり考え事に耽っていた。宇左衛門の顔を見ても、口をかない。いや、ただ一度、小雨こさめのふる日に、時鳥ほととぎすの啼く声を聞いて、「あれは鶯の巣をぬすむそうじゃな。」とつぶやいた事がある。その時でさえ、宇左衛門が、それをしおに、話しかけたが、彼は、また黙って、うす暗い空へ眼をやってしまった。そのほかは、勿論、おしのように口をつぐんで、じっと襖障子ふすましょうじを見つめている。顔には、何の感情も浮んでいない。
 所が、ある夜、十五日の総出仕が二三日の中に迫った時の事である。修理は突然宇左衛門をよびよせて、人払いの上、陰気な顔をしながら、こんな事を云った。
先達せんだって、佐渡殿も云われた通り、この病体では、とても御奉公は覚束おぼつかないようじゃ。ついては、身共もいっそ隠居しようかと思う。」
 宇左衛門は、ためらった。これが本心なら、元よりこれに越した事はないが、どうして、修理はそれほど容易に、家督を譲る気になれたのであろう。――
御尤ごもっともでございます。佐渡守様もあのように、仰せられますからは、残念ながら、そうなさるよりほかはございますまい。が、まず一応は、御一門衆へも……」
「いや、いや、隠居の儀なら、林右衛門の成敗とは変って、相談せずとも、一門衆は同意の筈じゃ。」
 修理、こう云って、苦々にがにがしげに、微笑した。
「さようでもございますまい。」
 宇左衛門は、いたましそうな顔をして、修理を見た。が、相手は、さらに耳へ入れる容子ようすもない。
「さて、隠居すれば、出仕しようと思うても出仕する事は出来ぬ。されば、」修理はじっと宇左衛門の顔を見ながら、一句一句、重みをはかるように、「その前に、今一度出仕して、西丸の大御所様(吉宗)へ、御目通りがしたい。どうじゃ。十五日に、登城とじょうさせてはくれまいか。」
 宇左衛門は、黙って、眉をひそめた。
「それも、たった一度じゃ。」
「恐れながら、その儀ばかりは。」
「いかぬか。」
 二人は、顔を見合せながら、黙った。しんとした部屋の中には、油を吸う燈心の音よりほかに、聞えるものはない。――宇左衛門は、この暫くの間を、一年のように長く感じた。佐渡守へ云い切った手前、それを修理に許しては自分の武士がたたないからである。
「佐渡殿の云われた事は、承知の上での頼みじゃ。」
 ほどを経て、修理が云った。
「登城を許せば、その方が、一門衆の不興ふきょうをうける事も、修理は、よう存じているが、思うて見い。修理は一門衆はもとより、家来けらいにも見離された乱心者じゃ。」
 そう云いながら、彼の声は、次第に感動のふるえを帯びて来た。見れば、眼も涙ぐんでいる。
「世のあざけりはうける。家督は人の手に渡す。天道の光さえ、修理にはささぬかと思うような身の上じゃ。その修理が、今生の望にただ一度、出仕したいと云う、それをこばむような宇左衛門ではあるまい。宇左衛門なら、この修理を、あわれとこそ思え、憎いとは思わぬ筈じゃ。修理は、宇左衛門を親とも思う。兄弟とも思う。親兄弟よりも、猶更なおさらなつかしいものと思う。広い世界に、修理がたのみに思うのは、ただその方一人きりじゃ。さればこそ、無理な頼みもする。が、これも決して、一生に二度とは云わぬ。ただ、今度こんど一度だけじゃ。宇左衛門、どうかこの心を察してくれい。どうかこの無理を許してくれい。これ、この通りじゃ。」
 彼は、家老の前へ両手をついて、涙を落しながら、ひたいを畳へつけようとした。宇左衛門は、感動した。
「御手をおあげ下さいまし。御手をおあげ下さいまし。勿体もったいのうございます。」
 彼は、修理しゅりの手をとって、無理に畳から離させた。そうして泣いた。すると、泣くに従って、彼の心には次第にある安心が、あふれるともなく、溢れて来る。――彼は涙のなかに、佐渡守の前で云い切ったことばを、再びありありと思い浮べた。
「よろしゅうございまする。佐渡守様が何とおっしゃりましょうとも、万一の場合には、宇左衛門皺腹しわばらつかまつれば、すむ事でございまする。わたくし一人ひとり粗忽そこつにして、きっと御登城おさせ申しましょう。」
 これを聞くと、修理の顔は、急に別人の如く喜びにかがやいた。その変り方には、役者のような巧みさがある。がまた、役者にないような自然さもある。――彼は、突然調子のはずれた笑い声をらした。
「おお、許してくれるか。かたじけない。忝いぞよ。」
 そう云って、彼は嬉しそうに、左右を顧みた。
「皆のもの、よう聞け。宇左衛門は、登城を許してくれたぞ。」
 人払いをした居間には、彼と宇左衛門のほかに誰もいない。皆のもの――宇左衛門は、気づかわしそうにひざを進めて、行燈あんどう火影ほかげに恐る恐る、修理の眼の中をうかがった。

     三 刃傷にんじょう

 延享えんきょう四年八月十五日の朝、五つ時過ぎに、修理しゅりは、殿中で、何の恩怨おんえんもない。肥後国熊本の城主、細川越中守宗教ほそかわえっちゅうのかみむねのり殺害せつがいした。その顛末てんまつは、こうである。

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 細川家は、諸侯の中でも、すぐれて、武備に富んだ大名である。元姫君もとひめぎみと云われた宗教むねのりの内室さえ、武芸の道にはあかるかった。まして宗教のたしなみに、おろそかな所などのあるべき筈はない。それが、「三斎さんさいの末なればこそ細川は、二歳にさいられ、五歳ごさいごとなる。」とうたわれるような死を遂げたのは、まったく時の運であろう。
 そう云えば、細川家には、この凶変きょうへんの起る前兆が、のちになって考えれば、幾つもあった。――第一に、その年三月中旬、品川伊佐羅子いさらご上屋敷かみやしきが、火事で焼けた。これは、邸内に妙見みょうけん大菩薩があって、その神前の水吹石みずふきいしと云う石が、火災のあるごとに水を吹くので、未嘗いまだかつて、焼けたと云う事のない屋敷である。第二に、五月上旬、門へ打つ守り札を、魚籃ぎょらん愛染院あいぜんいんから奉ったのを見ると、御武運長久御息災ごそくさいとある可き所に災の字が書いてない。これは、上野宿坊しゅくぼう院代いんだいへ問い合せた上、早速愛染院に書き直させた。第三に、八月上旬、屋敷の広間あたりから、夜な夜な大きな怪火が出て、芝の方へ飛んで行ったと云う。
 そのほか、八月十四日の昼には、天文に通じている家来の才木茂右衛門さいきもえもんと云う男が目付めつけへ来て、「明十五日は、殿の御身おんみに大変があるかも知れませぬ。昨夜さくや天文を見ますと、将星が落ちそうになって居ります。どうか御慎み第一に、御他出なぞなさいませんよう。」と、こう云った。目付は、元来余り天文なぞに信をいていない。が、日頃この男の予言は、主人が尊敬しているので、取あえず近習きんじゅの者に話して、その旨を越中守の耳へ入れた。そこで、十五日に催す能狂言のうきょうげんとか、登城の帰りに客に行くとか云う事は、見合せる事になったが、御奉公の一つと云うかどで、出仕だけはめにならなかったらしい。
 それが、翌日になると、また不吉ふきつな前兆が、加わった。――十五日には、いつも越中守自身、麻上下あさがみしもに着換えてから、八幡大菩薩に、神酒みきを備えるのが慣例になっている。ところが、その日は、小姓こしょうの手から神酒みきを入れた瓶子へいしを二つ、三宝さんぼうへのせたまま受取って、それを神前へ備えようとすると、どうした拍子か瓶子は二つとも倒れて、神酒が外へこぼれてしまった。その時は、さすがに一同、思わず顔色を変えたと云う事である。

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 翌日、越中守は登城すると、御坊主おぼうず田代祐悦たしろゆうえつが供をして、まず、大広間へ通った。が、やがて、大便を催したので、今度は御坊主黒木閑斎かんさいをつれて、湯呑み所際じょぎわかわやへはいって、用をした。さて、厠を出て、うすぐらい手水所ちょうずどころで手を洗っていると突然うしろから、誰とも知れず、声をかけて、斬りつけたものがある。驚いて、振り返ると、その拍子にまた二の太刀が、すかさず眉間みけんひらめいた。そのために血が眼へはいって、越中守は、相手の顔も見定める事が出来ない。相手は、そこへつけこんで、たたみかけ、たたみかけ、幾太刀いくたちとなく浴せかけた。そうして、越中守がよろめきながら、とうとう、の縁にたおれてしまうと、脇差わきざしをそこへ捨てたなり、慌ててどこか見えなくなってしまった。
 ところが、伴をしていた黒木閑斎が、不意の大変に狼狽ろうばいして、大広間の方へ逃げて行ったなり、これもどこかへ隠れてしまったので、誰もこの刃傷にんじょうを知るものがない。それを、暫くしてから、ようやく本間定五郎さだごろうと云う小拾人こじゅうにんが、御番所ごばんしょから下部屋しもべやへ来る途中で発見した。そこで、すぐに御徒目付おかちめつけへ知らせる。御徒目付からは、御徒組頭久下善兵衛くげぜんべえ、御徒目付土田半右衛門はんえもん菰田仁右衛門こもだにえもん、などが駈けつける。――殿中では忽ち、はちの巣を破ったような騒動が出来しゅったいした。
 それから、一同集って、手負ておいを抱きあげて見ると、顔も体も血まみれで誰とも更に見分ける事が出来ない。が、耳へ口をつけて呼ぶと、漸くかすかな声で、「細川越中」と答えた。続いて、「相手はどなたでござる」と尋ねたが、「上下かみしもを着た男」と云う答えがあっただけで、その後は、もうこちらの声も通じないらしい。きずは「首構くびがまえ七寸程、左肩ひだりかた六七寸ばかり、右肩五寸ばかり、左右手四五ヶ所、鼻上耳脇またかしらきず二三ヶ所、背中右の脇腹まで筋違すじかいに一尺五寸ばかり」である。そこで、当番御目付土屋長太郎、橋本阿波守あわのかみは勿論、大目付河野豊前守こうのぶぜんのかみも立ち合って、一まず手負いを、焚火たきびかつぎこんだ。そうしてそのまわりを小屏風こびょうぶで囲んで、五人の御坊主を附き添わせた上に、大広間詰の諸大名が、代る代る来て介抱かいほうした。中でも松平兵部少輔ひょうぶしょうゆうは、ここへかつぎこむ途中から、最も親切にいたわったので、わき眼にも、情誼のあつさが忍ばれたそうである。
 その間に、一方では老中ろうじゅう若年寄衆へこの急変を届けた上で、万一のために、玄関先から大手まで、厳しく門々を打たせてしまった。これを見た大手先おおてさきの大小名の家来けらいは、驚破すわ、殿中に椿事ちんじがあったと云うので、立ち騒ぐ事が一通りでない。何度目付衆が出て、制しても、すぐまた、海嘯つなみのように、押し返して来る。そこへ、殿中の混雑もまた、益々甚しくなり出した。これは御目付土屋長太郎が、御徒目付おかちめつけ、火の番などを召し連れて、番所番所から勝手まで、根気よく刃傷にんじょうの相手を探して歩いたが、どうしても、その「上下かみしもを着た男」を見つける事が出来なかったからである。
 すると、意外にも、相手は、これらの人々の眼にはかからないで、かえって宝井宗賀たからいそうがと云う御坊主ごぼうずのために、発見された。――宗賀は大胆な男で、これより先、一同のさがさないような場所場所を、独りでしらべて歩いていた。それがふと焚火たきびの近くのかわやの中を見ると、びんの毛をかき乱した男が一人、影のようにうずくまっている。うす暗いので、はっきりわからないが、どうやら鼻紙ぶくろからはさみを出して、そのかき乱したびんの毛を鋏んででもいるらしい。そこで宗賀そうがは、側へよって声をかけた。
「どなたでござる。」
「これは、人を殺したで、髪を切っているものでござる。」
 男は、しわがれた声で、こう答えた。
 もう疑う所はない。宗賀は、すぐに人を呼んで、この男をかわやの中から、ひきずり出した。そうして、とりあえず、それを御徒目付の手に渡した。
 御徒目付はまた、それを蘇鉄そてつへつれて行って、大目付始め御目付衆立ち合いの上で、刃傷にんじょう仔細しさいを問いただした。が、男は、物々しい殿中の騒ぎを、茫然と眺めるばかりで、更に答えらしい答えをしない。偶々たまたま口を開けば、ただ時鳥ほととぎすの事を云う。そうして、そのあい間には、血に染まった手で、何度となく、鬢の毛をかきむしった。――修理は既に、発狂はっきょうしていたのである。

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 細川越中守は、焚火の間で、息をひきとった。が、大御所おおごしょ吉宗よしむねの内意を受けて、手負ておいと披露ひろうしたまま駕籠かごで中の口から、平川口へ出て引きとらせた。おおやけに死去の届が出たのは、二十一日の事である。
 修理しゅりは、越中守が引きとったあとで、すぐに水野監物けんもつに預けられた。これも中の口から、平川口へ、青網あおあみをかけた駕籠かごで出たのである。駕籠のまわりは水野家の足軽が五十人、一様に新しい柿の帷子かたびらを着、新しい白の股引をはいて、新しい棒をつきながら、警固けいごした。――この行列は、監物けんもつの日頃不意に備える手配てくばりが、行きとどいていた証拠として、当時のほめ物になったそうである。
 それから七日目の二十二日に、大目付石河土佐守が、上使じょうしに立った。上使の趣は、「其方儀乱心したとは申しながら、細川越中守手疵養生てきずようじょう不相叶あいかなわず致死去しきょいたし候に付、水野監物宅にて切腹被申付もうしつけらるる者也」と云うのである。
 修理は、上使の前で、短刀を法の如くさし出されたが、茫然と手を膝の上に重ねたまま、とろうとする気色けしきもない。そこで、介錯かいしゃくに立った水野の家来吉田弥三左衛門やそうざえもんが、止むを得ずうしろからその首をうち落した。うち落したと云っても、のどの皮一重ひとえはのこっている。弥三左衛門は、その首を手にとって、下から検使の役人に見せた。頬骨ほおぼねの高い、皮膚の黄ばんだ、いたいたしい首である。眼は勿論つぶっていない。
 検使は、これを見ると、血のにおいをぎながら、満足そうに、「見事」と声をかけた。

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 同日、田中宇左衛門は、板倉式部の屋敷で、縛り首に処せられた。これは「修理病気に付、禁足申付候様にと屹度きっと、板倉佐渡守兼ねて申渡置候処、自身の計らいにて登城させ候故、かかる凶事出来きょうじしゅったい、七千石断絶に及び候段、言語道断の不届者ふとどきもの」という罪状である。
 板倉周防守すおうのかみ、同式部、同佐渡守、酒井左衛門尉さえもんのじょう、松平右近将監うこんしょうげん等の一族縁者が、遠慮を仰せつかったのは云うまでもない。そのほか、越中守を見捨てて逃げた黒木閑斎かんさいは、扶持ふちを召上げられた上、追放になった。

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 修理しゅり刃傷にんじょうは、恐らく過失であろう。細川家の九曜くようの星と、板倉家の九曜の巴と衣類の紋所もんどころが似ているために、修理は、佐渡守をそうとして、誤って越中守を害したのである。以前、毛利主水正もうりもんどのしょうを、水野隼人正はやとのしょうが斬ったのも、やはりこの人違いであった。殊に、手水所ちょうずどころのような、うす暗い所では、こう云う間違いも、起りやすい。――これが当時の定評であった。
 が、板倉佐渡守だけは、この定評をよろこばない。彼は、この話が出ると、いつも苦々しげに、こう云った。
「佐渡は、修理に刃傷されるような覚えは、毛頭もうとうない。まして、あの乱心者のした事じゃ。大方おおかた、何と云う事もなく、肥後侯を斬ったのであろう。人違などとは、迷惑至極な臆測じゃ。その証拠には、大目付の前へ出ても、修理は、時鳥ほととぎすがどうやら云うていたそうではないか。されば、時鳥じゃと思って、斬ったのかも知れぬ。」
(大正六年二月)
底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年9月24日第1刷発行
   1995(平成7)年10月5日第13刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月6日公開
2004年3月7日修正
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