バルタザアル

       一

 其頃はギリシヤ人にサラシンとよばれたバルタザアルがエチオピアを治めてゐた。バルタザアルは色こそ黒いが、目鼻立の整つた男であつた。其上又素直なたましひと大様な心とを持つた男であつた。
 即位の第三年行年二十二の時に王は国を出て、シバの女王バルキス聘問へいもんの途に上つた。
 追随するのは魔法師のセムボビチスと宦官くわんぐわんのメンケラとである。行列の中には七十五頭の駱駝がゐて、それが皆肉桂、没薬もつやく、砂金、象牙などを負うてゐるのである。
 みちみち、セムボビチスが王に遊星の力や宝石の徳を教へたり、メンケラが尊い秘文の歌を謡つて聞かせたりする。けれども王は余りそんな物には気を止めない。其代り沙漠のはてにちやんと坐つて耳を立ててゐるジヤツカルと云ふ獣を見て面白がつてゐるのである。
 十二日の旅がをはると、漸く薔薇のにほひがし始めた。それからぢきに、シバの市をめぐつてゐる庭園が見え出した。一行は通りすがりに、花ざかりの柘榴ざくろの木の下で若い女が大ぜい踊つてゐるのに遇つた。
『踊は祈祷ぢや』と魔法師のセムボビチスが云ふ。
『あのをな子どもはよい価に売れるわ』と宦官のメンケラが云ふ。
 市へはひると、倉庫と工場とが何処迄もつづいてゐる。其中には又無量の商品が山の如く積んである。之が先づ一行の眼を驚かした。
 それから長い間市を歩いた。市は路車や搬夫や驢馬や驢馬追ひで埋められてゐるのである。すると眼界が急に開けて、バルキスの王宮の大理石の壁と紫の※(「亦/巾」、第4水準2-8-85)ひらまくと金の円天井とが一行の眼の前に現れた。
 シバの女王は一行を庭上に迎へた。香水の噴きあげが涼を揺つてゐる。噴きあげは真珠の雨のやうなうつくしい音を立てて滴るのである。
 ほほゑみながら、女王は一行の前に立つた。宝石をちりばめた長い袍を着てゐる。
 バルタザアルは女王を見ると何うしたらいいかわからなくなつた。女王が「夢」よりも愛らしく、「望」よりもうつくしく見えたのである。
『陛下、女王と都合のよい商業上の条約を結ぶのを御忘れなさいますな』とセムボビチスが小声で云ふ。
『陛下、御気をつけなさいませ。女王は魔法を使うて男の愛を得るのぢやと云ふ事でございます』とメンケラがつけ加へた。
 それから魔法師と宦官とは伏拝をして退出した。
 バルタザアルはバルキスと差向ひになつたので何か云はうと思つた。そこで口を開いて見たが一言も出ない。王は『黙つてゐたら女王は怒るだらう』と思つた。
 けれども女王は未だほほゑんでゐる。怒つて居る気色は少しもない。先へ口をきつたのは女王である。声は最も微妙な音楽よりも更に微妙であつた。
『よくいらつしやいました。わたくしの側へお坐り遊ばせ』女王は白い光の様な、しなやかな指で、地に鋪いてある紫のしとねを指ざすのである。バルタザアルは坐つて、長いため息をついて、それから両手で褥をつかみながら、慌ててかう云つた。
『陛下、寡人はこの二の褥が、あなたに仇をする二人の巨人であればよいと思ふ。寡人は即座に其頸を※(「てへん+丑」、第4水準2-12-93)切つて御眼にかけたい。』
 かう云ひながら、王は力任せに両手で褥を掴んだ。柔な布が音を立てて裂けると、雪のやうに白い羽毛が中から雲の如く飛び立つた。小さな羽が一つしばらく空にたゆたひながら、女王の胸の上に落ちた。
『バルタザアル陛下。陛下は何故巨人を殺さうと御意遊ばしますの』顔を赤めながら、バルキスが云つた。
『寡人はあなたを愛してゐるからです。』
『陛下のお出でになる市の井戸にはよい水がございますか。お教へ下さいましな。』
『左様』バルタザアルは少し驚いた。
『わたくしは、それから、エチオピアではどうして果物の砂糖漬を拵へるのだか知りたくて仕方がございませんの。』
 王は何と答へていいかわからない。
『ようお教へ下さいましよ。よう』と女王はせがむのである。
 そこで王は畢生ひつせいの記憶力を絞つて、エチオピアの料理人が※(「木+孛」、第3水準1-85-67)マルメロを蜜の中へ入れて貯へる方法を叙述しようとした。ところが女王は、碌々聞きもしないで又急に話をかへた。
『陛下、陛下は御隣邦のカンデエケの女王に恋をしていらつしやるさうでございますね。其方はわたくしより美しうございますか。※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)をおつきになつては嫌でございますよ。』
『あなたより美しい?』王はバルキスの足下に身を伏せて叫んだ。『そんな事がある訣はありません。』
『さう? それなら其方のお眼は? 其方のお口は? 其方のお色つやは? 其方のお喉は?』女王は口を絶たない。
 そこでバルタザアルは両腕を女王の方へのばしながら『寡人にあなたの頸に落ちた小さな羽を下さるなら、寡人は其代に寡人の王国の半を差上げる。あの賢いセムボビチスも宦官のメンケラも差上げる』とかう叫んだ。
 けれども女王は座を立つて、冴々した笑ひ声と共ににげて仕舞つた。魔法師と宦官とがかへつて来た時に、王は何時になく深い物思に沈んでゐた。
『陛下、都合のよい商業上の条約をお結びになりましたか』セムボビチスはかうたづねた。
 其日、バルタザアルはシバの女王と晩餐を共にして、椰子の酒を飲んだ。一緒に食事をしてゐるとバルキスが、『それではカンデエケの女王が私ほど美しくないと云ふのはほんたうでございますか』とたづねた。
『カンデエケの女王はまつ黒です』とバルタザアルが答へた。
 バルキスは意味ありげにバルタザアルを見た。
『黒くつても不器量とは限りませんわ。』
『バルキス!』
 王はかう叫びながら、二言と云はずに女王を抱きしめた。王の唇に圧されて、女王の頭は力なくうしろへ下がるのである。けれども王は女王が泣いてゐるのを見て、甘つたるい、小さな声で話しかけた。乳母が乳のみ児にものを云ふ時のやうな口調である。王は女王を『わが小さき花』と云つたり『わが小さき星』と云つたりした。
『どうして泣くのです? 泣きやむ様にするには何をしなければならないと云ふのです? したい事があるなら仰有い。何でも聞いてあげます。』
 女王は泣きやんだ。けれどもまだ思に沈んでゐる。王は長い間女王に其願を打明けてくれと願つた。其揚句にやつと女王がかう云つた。
『わたくしは怖と云ふ事を知りたいのでございます。』
 バルタザアルには解し兼ねた様に見えた。そこで女王は是迄久しい間、何か未知らぬ危険に出あひたいと思つても、シバの人民と神々とが見張つてゐるので、遇ふ事が出来ないと云ふ事を話してくれた。
『それでも』と女王が云ふ。吐息を洩しながら云ふのである。『それでも夜中よぢう、わたくしは怖の嬉しいをののきが体に通ふのを待つて居るのでございます、おそろしさに髪が逆立つのを待つてゐるのでございます。「こはがる」と云ふ事はどんなに嬉しい事でございませう。』
 女王は両手を黒い王の頸にからんで、子供のせがむ様な声でかう云つた。
『夜がまゐります。仮装をして御一緒に市を歩きませう。おいやでございますか。』
 王は同意した。女王はすぐに窓に走りよつて格子の間から下の十字街路を見下した。
『乞食が一人、王宮の壁によりかかつて横になつて居ります。あの乞食に陛下のお召しをおつかはしになつて、其代に駱駝毛の頭巾とあの男のしめてゐる荅布たふの帯とをお貰ひ遊ばせ。早くなさいまし。わたくしは自分で支度を致しますから。』
 女王は嬉しさうに手を拍ちながら、饗宴の間を走り出た。バルタザアルは金で繍をしたリンネルの下衣を脱いで、乞食の衣を身に纏つた。どう見てもほん物の奴隷である。女王も亦たすぐに縫目のない青い衣をきて出て来た。
 畑で働く女たちが着る着物である。
『さあ、まゐりませう。』
 かう云つて、女王は狭い宮廊を、野へ出る小さな戸口の方へバルタザアルをひつぱつて行つた。

       二

 夜は暗かつた。さうして夜の暗につつまれてバルキスが大へん小さく見えた。
 女王はバルタザアルをある居酒屋へ伴れて行つた。宿無しや立ん坊が私窩子しくわしをひきずりこむ処である。二人は食卓について、いやな臭のするランプの光で不潔な空気の中に浮き出してゐる人の皮をかぶつた汚い獣どもを見た。女一人、酒一杯の争から拳骨とナイフとで、噛合ひが始まる。外の奴は外の奴で、鼾をかきながら、握り拳を拵へて食卓の下に寝そべつてゐる。居酒屋の亭主は又ズツクを重ねた上に横になつて眼を光らせながら、いがみあふ酔たんぼを見張つてゐるのである。バルキスは塩魚が天井のたるきからぶら下つてゐるのを見て、連れにかう云つた。
『わたくしはき葱をつけてあのおさかなを一つたべて見たうございますの。』
 バルタザアルがいひつけた。けれども食べて仕舞つて見ると、王は金を持つて来るのを忘れたのに気がついた。尤もこれは格別苦にならない。勘定を払はず二人で抜け出すのも訳無しだと思つたからである。処が其段になると亭主が『折助め、ひきずりめ』とわめき立てて、何うしても二人を通すまいとする。そこでバルタザアルは拳をかためて亭主を一なぐりに殴り仆した。之を見て酔たんぼが五六人、ナイフを抜いて、二人に向つて来た。けれどもバルタザアルが埃及葱エジプトねぎを撞くのに使ふ大きな杵を取つて、いきなり向つて来る奴を二人叩き仆したので、外の奴はしり込みをして手を出さない。女王はバルタザアルの陰にぴたりくつついて小さくなつてゐる。そこで王は始終バルキスの肌の温みを感じる事が出来た。王をして勇往果敢ならしめた理由は蓋し是にあつたのである。
 居酒屋の亭主の仲間は、側へは寄りつかずに、酒場の隅から油壺だの白鑞をひいた皿小鉢だの火のついたランプだのを抛りつける。仕舞には羊が丸ごと煮えてゐた大きな青銅からかねの鍋さへも投げつけた。鍋は恐しい音を立てながら、バルタザアルの頭の上に落ちて脳天に傷を負はせた。流石のバルタザアルも暫の間は眼が眩んだ様に立つてゐたが、やがて渾身の力をあつめて其鍋を投げ返した。鍋の目方が十倍になる程の勢である。凄じい音を立てて鍋がぶつかると共に名状し難い怒号と断末魔の叫喚とが起つた。バルキスに怪我でもあつてはと、王は生残つた奴の恐れに乗じて、女王を抱いたまま、人通りの無い側路わきみちへ逃げこんだ。路はまつ暗でしんとしてゐる。夜の静けさが地をつつんでゐるのである。逃げて来た二人は、偶然其跡を追つて来た女や酔どれの罵る声が暗の中に消えてゆくのを聞いた。間もなく聞えるのは唯血の滴る音ばかりになつた。血はバルタザアルの額からバルキスの胸に滴るのである。
『わたくしはあなたを愛して居りますわ』とつぶやくやうに女王が云つた。
 雲を洩れる月の光で王は女王の半ば閉ぢた眼が水々しく、白くかがやいてゐるのを見た。二人は小川の水のない河床を、下つて行くのである。不意にバルタザアルが苔に足を滑らせた。緊く抱きあつたまま、二人は地に仆れた。永遠に歓楽の淵に沈んで行くやうな気がする。世界も二人の恋人には何処かへ行つて仕舞つた。夜があけて石間の窪地へ羚羊が水をのみに来た時にも、二人はまだ時間を忘れ、空間を忘れ、別々の体を持つて生れた事を忘れて、温柔の夢に耽つてゐたのである。
 其時に通りがかりの盗人の一隊が、苔の上に寝てゐる恋人を見つけた。そして『奴等は金はないが、いい価に売れるぜ。若くつて、面がいいからな』と云つた。
 そこで二人を取巻いてぐるぐる巻きにした。それから驢馬の尻尾にくくりつけて又路を急いだ。
 エチオピア王は縛られながら「殺すぞ」と云つて盗人を嚇したが、バルキスは冷い朝風に身をふるはせながら、未だ見ぬ物を見るやうに、唯ほほゑむばかりであつた。
 おそろしい寂寞の中に、驢馬は蹄を鳴らしながら行つた。其中にそろそろ真昼の暑さを感ずるやうになつた。日が高くなつてから、盗人たちは二人の俘の縄を解いて岩の陰に坐らせた。それから黴た麺麭を投げてくれた。バルキスはひもじさうに食べたが、バルタザアルは見向きもしない。
 女王が哂つた。盗人の頭は之を何故哂ふと訊ねた。
『今にね、お前たちを皆絞罪にしてやるのだと思ふとをかしくなるのだよ。』
『へん、手前の様な下司の女の口から大層な熱をふくぜ。どうだい、いろ女。お前はてつきりあの黒奴のいい人に己達の首をしめさせようと云ふのだらう』盗人の頭が大きな声でかう云つた。
 バルタザアルは之をきくと火のやうに怒つた。そして矢庭にとびかかつて其盗人の頸を掴んだ。絞め殺し兼ねない勢である。
 けれども相手はナイフを抜いて、王の体へ柄元迄づぶりとつき立てた。可哀さうに王は地にまろんで、最後の一瞥をバルキスの上に投げると、其儘視力を失つて仕舞つたのである。

       三

 此時人馬剣戟の響が騒然として起つた。バルキスには家来のアブナアが護衛兵の先頭に立つて女王を救ひに来たのが見えた。家来は女王が行方知れずになつたのを夜の中に聞いてゐたのである。
 アブナアは三度バルキスの足下に拝伏して、それから女王を迎へる為に用意した輿を持つて来させた。其間に、護衛兵は盗人の手を悉く縛つてしまつた。
『お前さん、あたしはお前さん達を絞罪にすると云ひましたね。約束に※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)はないでせう』女王は盗人の頭に向つて、やさしい声でかう云つた。
 此時アブナアの側に立つてゐた魔法師のセムボビチスと宦官のメンケラとが、おそろしい叫び声をあげた。王が腹にナイフを突立てられて身動きもせずに仆れてゐたからである。
 二人はそつと王を抱き起した。薬物の学に精通してゐるセムボビチスは、王がまだ呼吸いきのある事がわかつた。そこでメンケラが王の唇から泡を拭つてゐる間に仮に傷口を繃帯した。それから二人で王を馬に括りつけ、静かに女王の宮殿へつれて行つた。
 バルタザアルは十五日の間、人事不省に陥つたまゝ横になつてゐた。王は譫言に止度なく、煮え立つてゐる大鍋と谷あひの苔の事とを云ふのである。絶えず大きな声でバルキス、バルキスと叫ぶのである。やつと十六日目に王は眼を開いて床の側にゐるセムボビチスとメンケラとを見た。けれども女王は見えない。
『女王はどこにゐる? 女王は何をしてゐる?』
『陛下、女王はコマギイナの王と密室で謁見して居られます』とメンケラが答へた。
『きつと商品を交易する契約を致して居るのでございませう』と賢人のセムボビチスがつけ加へた。
『御機嫌を悪くなさいますな。陛下、御熱がまた上りますといけません。』
『己は女王に会はなければならぬ』バルタザアルは大きな声でかう云つた。さうして女王の部屋の方へと飛んで行つた。賢人も宦官も止める事が出来ない。女王の寝室に近づくと王は、コマギイナの王が来るのに遇つた。王は金に蔽はれて太陽の様に輝いてゐたのである。バルキスはほほゑみながら眼を閉ぢて、紫の臥榻ぐわたふの上に横はつて居た。
『バルキス! バルキス!』とバルタザアルが呼んだ。けれども女王はふり向きもしない。唯一刻でも夢を延ばさうとしてゐる様に見える。バルタザアルは側へよつて女王の手をとつた。女王は素気なく其手を振離した。そして『何か御用?』と云つた。
『何の用だかわからないのかい』かう云つて黒人の王は涙を流した。女王は瞳を王の上に転じた。つれない、静かな眼なざしである。王は女王が何も彼も忘れて居るのだと思つた。そこであの小川の夜を思出させようとした。けれども女王はかう云ふのである。
『陛下、わたくしには陛下が何を仰有つていらつしやるのだか、まつたくわからないのでございますよ。陛下には椰子の酒が御体に合はないのでございませう。きつと夢を御覧になつたのでございますわ。』
『夢だ?』王は身悶えをして叫んだ。『お前の接吻が、己の体に創痕を残したナイフが夢だと云ふのか。夢だと?』
 女王は身を起した。袍についてゐる宝石が霰のやうな音を立てて、きらきらと光るのである。
『陛下、丁度議会が始まる時刻でございます。わたくしには陛下の御酒機嫌の夢を御解き申上げる暇がございません。少し御休息遊ばしませ。では失礼致します。』
 バルタザアルは立つては居られないやうな気がした。けれども此妖婦に弱みを見せてはならないと、根限りの力を尽して、自分の部屋へ駈けて帰つて来た。帰ると、王は卒倒した。そして傷口が又開いてしまつたのである。

       四

 王は三週間人事不省のまま横はつてゐたが、二十二日目に人心地がついて、メンケラと共に看病してゐたセムボビチスの手をとつた。王は泣きながらかう云ふのである。
『お前たち、お前たちは何と云ふ仕合せなのだらう。一人は年をとつてゐるし、一人は年よりも同じ事ではないか。けれども此世には幸福と云ふものは無い。皆悪いものばかりだ。何故と云ふがいい。恋も禍ならバルキスも不貞ではないか。』
『智慧は幸福を与へまする』とセムボビチスは答へた。
『己もさうして見ようと思つてゐる。が一刻も早くエチオピアへ帰らうではないか』バルタザアルはかう云つた。
 王は愛するすべての物を失つたので、一身を智慧に捧げて魔法師の一人にならうと決心した。此決心は格別王に快楽を与へなかつたにしても、少くとも平静な心だけは回復してくれたのである。王は毎夜、魔法師のセムボビチスと宦官のメンケラと共に王宮の露台に坐して、地平線を遮つてそよりともせずに立つてゐる椰子の木を見つめたり、材木のやうにナイル河を下つて来る鰐の群を月あかりで見守つたりした。
『自然の美しさはたたへて倦む事を知りませぬ』とセムボビチスが云つた。
『それは確だ。しかし自然には其外に、椰子の木や鰐よりも美しい物があるのだ』王はバルキスの事を考へながらかう云つた。
 けれ共年老つたセムボビチスが答へるには、
『勿論ナイル河の氾濫の様な現象もございます。併しそれは私がもう解釈致しました。人間は理解する為につくられたものでございます。』
『人間は愛する為に造られたものだ。世の中には解釈の出来ぬ事が沢山ある。』
 歎息しながら、バルタザアルが云つた。
『それは何でございませうか』とセムボビチスが問ふと、王はかう答へた。
『女の心がはりだ。』
 けれどもバルタザアルは魔法師にならうと決心したから、塔を一つ建てた。其の頂からは多くの王国と無辺の天空とが望まれるのである。塔は煉瓦造りですべての塔の上に高く聳えてゐる。落成するには二年の日子を費した。
 バルタザアルは此塔の建築に父王の全財宝を傾けたのであつた。毎夜王は塔の頂に登つた。其処で賢人セムボビチスの指導の下に天文の研究をするのである。
『天上の星宿は人間の運命を示すものでございます』とセムボビチスが云つた。
『しかし其しるしはよく解らぬものだと云はねばなるまい。唯其研究をしてゐる間だけ己はバルキスの事を忘れてゐる。それが何よりの賜物だ』と王が答へた。
 魔法師は、是非知らねばならぬ真理の一として、星は鋲のやうに蒼穹に固着してゐるものだと云ふことを教へた。それから又空には五の遊星がある。ベルとメロダクとネボは陽で、シンとミリタは陰だと云ふ事を教へた。魔法師は説明の歩をすすめて、
『銀はシンに相当致します。シンとは月の事でございます。又鉄はメロダクに、錫はベルに相当致します。』
 バルタザアルはかう答へた。『己の望んでゐる知識と云ふのはそれだ。天文を研究してゐる間は、己はバルキスの事も思はなければ、其他の地上の塵事をも忘れてゐる。学問はよいものだ。学問は人間を考へさせずに置くものだ。セムボビチス、お前は己に知識を教へてくれるがよい。知識は人間の持つてゐるすべての感情を破壊するものだ。知識を教へてくれるならば、己はお前に万民の瞻仰せんぎやうする名誉を与へてやる。』
 之がセムボビチスの王に知識を教へた理由であつた。
 魔法師は王にアストラムプシコスやゴブリアスやバザタスの道に従つて魔術の力を教へた。バルタザアルは太陽の十二宮を研究すればする程、バルキスの事を忘れて行つた。メンケラは之れを見て歓喜にみたされたのである。
『陛下、バルキス女王の金の袍の下には、山羊の様な趾の裂けた足があるさうでございます。』
『誰がそんな馬鹿な事を云つた。』
『陛下、シバとエチオピアでは誰でも申す事でございます。バルキス女王の片はぎは毛だらけで、片足は二つに裂けた黒い爪ぢやと皆が申して居ります』と宦官はかう答へるのである。
 バルタザアルは肩を聳かした。バルキスが足でも脛でも外の女と変りなく、其上点の打ち所の無い程美しいのを知つてゐるからである。けれども其何でもない考があのやうに深く愛してゐた女の記憶を傷けた。王はバルキスの美しさが、何もしない人々の想像では瑕物になつてゐると云ふ事を考へると、今更のやうに女王が嫌になつた。事実は玉のやうに美しいにせよ、異類で通つてゐる女と関係したのだと思ふと、王ははげしい嫌悪の情を感ぜずにはゐられなかつた。二度とバルキスに逢ふ気は起らない。バルタザアルは単純な心を持つてゐた。けれども恋と云ふものは複雑な情緒だつたのである。
 其日から王は魔術にも星占術にも長足の進歩をした。綿密な注意を払つて星の交会を研究したり、セムボビチスと寸毫も変らず正確に星占図を引いたりする。
『セムボビチス、お前は己の星占図の真だと云ふ事を首にかけてもうけ合ふ心算か』かう王が尋ねたことがある。
『陛下、学問に間違ひはございませぬ。けれども、学者は度々間違ひを致します』と賢人セムボビチスが答へた。
 バルタザアルはすぐれた官能を持つてゐた。そこで『真なる物のみが聖である。聖なる物は人間の智を絶してゐる。人間は空しく真理を探求するに過ぎない。けれども己は空に新しい星を発見した。美しい星である。生きてゐる様にも思はれる。きらめく時はやさしく瞬く天上の眼のやうに見える。己はそれが呼んでゐる様な気がする。此星の下に生れるものは何と云ふ幸福だらう。セムボビチス、此愛らしい美しい星がどんなに己たちを照してゐるか見たがよい』とかう云つた。
 けれどもセムボビチスは星を見なかつた。それは見ようと思はなかつたからである。賢くしかも年老いた魔法師は新奇を好まない。
 夜の沈黙の中にバルタザアルは独り繰返した。『此星の下に生れたものは何と云ふ幸福だらう。』

       五

 バルタザアル王がバルキスを愛さなくなつたと云ふ噂がエチオピアと近隣の王国とにひろまつた。
 其知らせがシバの国に伝はると、バルキスは裏切でもされた様に腹を立てた。そしてシバの都に自分の国も忘れてうかうかと時を過してゐたコマギイナの王の所へ駈けて行つた。
『あなた、今あたしが何を聞いたか御存じ? バルタザアルがもうあたしを愛さないのでございますとさ。』
『そんな事は何でもないぢやないか。己達はお互に愛しあつてゐるのだから。』
 とコマギイナの王が答へた。
『だつて、あなたはあの黒奴がわたくしを侮辱したとはお思ひになりませんの。』
『さうは思はないね。』
 そこで女王は王をさんざん辱めて目通りを却けた。それから宰相に云ひつけて、エチオピアへ旅の支度をさせた。
『わたし達は今夜立つのだよ。日暮迄に支度が出来ないと、お前の首を斬るからさうお思ひ。』
 けれども独りになると女王はさめざめと泣きはじめた。『わたくしはあの人を恋してゐる。あの人はもうわたしを思つてゐないのだ。それだのにわたしはあの人を恋してゐる』女王はかう云つてまごころから歎息をついたのであつた。
 或夜バルタザアルが塔の上であの不思議な星を眺めてゐた時に、ふと眼を地上に転ずると、蟻の群の様に一条の黒い長い線が沙漠の遠いはてに※(「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1-92-52)ゐいとしてうねつてゐるのが見えた。
 蟻と見えた物が少しづつ大きくなつて、やがて王には多くの馬、多くの駱駝、多くの象を弁別する事が出来る様になつた。
 旅人の隊が市に近づいた時に、バルタザアルはシバの女王の護衛兵の黒い馬と夜目にも輝く偃月刀えんげつたうとを認めたのである。否、女王自身さへも認めたのである。王ははげしい懊悩を感じた。それは又女王に恋をし兼ねない様な気がしたからである。星は神秘な光明を放つて天上に輝いてゐる。下には紫と金との輿の上にバルキスが星のやうに小さくきらめいて見えるのである。
 バルタザアルは恐しい力で女王の方に引寄せられるのを感じた。けれども王は猶必死の勇を鼓して頭をそむけた。そして眼を上げて再び星を眺めた。すると星がかう云ふのである。
『天なる神に光栄あれ。地なる善人に平和あれ。国王バルタザアルよ。一斗の没薬をとりてわれに従へ。われ汝を導きて、今や厩の中、驢馬と牡牛との間に生れむとする幼な児の足下に至らしめむ。
 此幼な児は王の中なる王なり。そは慰めを要するなべての者を慰めむとするなり。
 主は汝を主の下に召給へり。バルタザアルよ。汝のたましひは汝の面の如く黒けれど、汝の心は幼な児の心の如くけがれ無し。
 主は汝を選み給へり。そは汝の苦しめるが故なり。主は汝に富と幸福と愛とを与へ給はむ。
 主は汝に云ひ給はむ。「貧しきをよろこべ。そはまことの富なり」と。主は又汝に云ひ給はむ。「まことの幸福は幸福をすつるにあり。われを愛せ。わが外なる一切の者を愛する勿れ。そはわれのみ愛なればなり」と。』
 此言葉と共に神聖な平和が、光の洪水の如くバルタザアルの黒い面に落ちた。
 バルタザアルは恍惚として星の云ふ事に耳を傾けた。王は自ら新に生れた人間になりつつあるのを感じたのである。
 王の傍には身をひれ伏して、セムボビチスとメンケラとが面を石につけて礼拝してゐる。
 バルキスはぢつとバルタザアルを見た。女王は、神の愛にみちた心には己の愛を容るるの余地の無いのを知つたのである。色を変へて憤りながら、女王は一行に直にシバへ帰れと命を下した。
 星が語り止むと共に、バルタザアルと其従者とは塔を下つた。それから一斗の没薬を調へ、旅隊をつくつて、星の導く方に出発した。
 一行は長い間、見もしらぬ国から国へと旅を続けた。其の間も星は常に一行の前に立つて導いてくれるのである。
 或日、三の路が一になる処へ来ると、一行は二人の王が無数の行列を従へて来るのに出遇つた。其一人は若くて美しい顔をしてゐる。
 それがバルタザアルに礼をしてかう云ふのである。
『寡人の名はガスパアと云ふ。ユダヤのベツレヘムに生れようとしてゐる小児へ贈物の黄金きんを持つて行く所なのだ。』
 第二の王が代つて前へ出た。老人で白い髯が胸を掩つてゐる。
『寡人の名はメルキオルと云ふ。人間に真理を教へようとする尊い小児に乳香を持つて行く所なのぢや。』
『寡人も卿等の行く所へ行かなければならぬ。寡人は楽欲に克つた其の為に、星が寡人に言をかけてくれたのだ』とバルタザアルが云つた。
『寡人は驕慢に克つた。寡人の召されたのは其為ぢや』とメルキオルが云つた。
『寡人は虐行に克つた。其故に寡人は卿等と共に行くのだ』とガスパアが云つた。
 かくして三人の賢人は共に旅を続けた。東方に見えた星は彼等に先立つて、遂に其小児のゐる所へ来ると、其上に止つた。星の止つてゐるのを見て、彼等は我を忘れて喜んだのである。
 家の中に入ると、彼等は小児が母のマリヤと共にゐるのを見た。そこで身をひれ伏して、彼等は其幼な児を礼拝した。それから其財宝をひらいて、金と乳香と没薬とを捧げたのは、福音書に書いてある通りである。
(Mrs. John Lane の英訳より)

底本:「芥川龍之介全集 第一巻」岩波書店
   1995(平成7)年11月8日発行
底本の親本:「鼻」春陽堂
   1918(大正7)年7月8日発行
入力:earthian
校正:山本奈津恵
1998年11月26日公開
2004年3月17日修正
青空文庫作成ファイル:
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