春の盗賊

――わが獄中吟。
 あまり期待してお読みになると、私は困るのである。これは、そんなに面白い物語で無いかも知れない。どろぼうにいての物語には、違いないのだけれど、名の有る大どろぼうの生涯を書き記すわけでは無い。私一個の貧しい経験談に過ぎぬのである。まさか、私がどろぼうを働いたというのではない。私は五年まえに病気をして、そのとき、ほうぼうの友人たちに怪しい手紙を出してお金を借り、それが積り積って、二百円以上になって、私は五年後のいまでも、それをお返しすることができず、借りたお金を返さないのは、それは見事な詐欺さぎなのであるが、友人たちは、私を訴えることを、ようせぬばかりか、路で逢っても、よう、からだは丈夫か、とかえって私をいたわるのである。返さなければならぬ! いつも、忘れたことが無い。いま少し待っていて下さい。私は、きっと明朗に立ち直る。私は、もとから、自己弁解は、下手へたくそである。ことにも、私的な生活に就ての弁明を、このような作品の上で行うことは、これは明らかに邪道のように思われる。芸術作品は、芸術作品として、別個に大事に持扱わなければ、いけないようにも思われる。私は、あるいは、かの物語至上主義者になりつつあるのかも知れない。私生活に就ての手落は、私生活の上で、実際に示すより他は無い。見ていて下さい。いまに私は、諸君と一点うしろ暗いところなく談笑できるほどの男になります。それは、いつわりの無い、白々しく興覚めするほどの、生真面目きまじめなお約束なのであるが、私が、いま、このような乱暴な告白を致したのは、私は、こんな借銭未済の罪こそ犯しているが、いまだかつて、どろぼうは、致したことが無いと言うことを確言したかったからに他ならない。どろぼうは、致したことが無い。ばかばかしく、こだわるようであるが、これにもまた、わけがあるのである。いったいに、私は誤解を受けている。めちゃ苦茶である。さすがに、言うにしのびない、ひどい形容詞を、五つも六つも、もらっている。これは、私が悪いのである。そんなひどい形容詞を、まっさきに案出して、それを私の王冠となして、得々とくとくとしていたのは、誰でもない、私なのである。この私である。芸術の世界では、悪徳者ほど、はばをきかせているものだ、と誰がそんな口碑こうひを教えたものか、たしかにそれを信じていた。高等学校のころには、頬に喧嘩けんかの傷跡があり、蓬髪垢面ほうはつこうめん、ぼろぼろの洋服を着て、乱酔放吟して大道を濶歩かっぽすれば、その男は英雄であり、the Almighty であり、成功者でさえあった。芸術の世界も、そんなものだと思っていた。お恥かしいことである。
 私の悪徳は、みんな贋物にせものだ。告白しなければ、なるまい。身振りだけである。まことは、小心翼々の、甘い弱い、そうして多少、頭の鈍い、酒でも飲まなければ、ろくろく人の顔も正視できない、わば、おどおどした劣った子である。こいつが、アレキサンダア・デュマの大ロマンスを読んで熱狂し、血相かえて書斎から飛び出し、友を選ばばダルタニアンと、絶叫して酒場に躍り込んだようなものなのだから、たまらない。めちゃめちゃである。まさしく、命からがらであった。
 同じ失敗を二度繰りかえすやつは、ばかである。身のほど知らぬ倨傲きょごうである。こんどは私も用心した。よろいかぶとに身を固めた。二枚も三枚も、鎧を着た。固め過ぎた。動けなくなったのである。部屋から一歩も出なかった。癈人、と或る見舞客が、うっかり口を滑らしたのを聞いて、流石さすがに、いやな気がした。
 いまは、素裸にサンダル、かなり丈夫のたてを一つ持っている。私は、いまは、世評を警戒している。「私はつて民衆に対してどんな罪を犯したろうか。けれども、いまでは、すっかり民衆の友でないと言われている。輿論よろんいて人の誤解されやすいのには驚く。実に驚く。」と、ゲエテほどの男でも、かのエッケルマン氏につくづく、こぼしているではないか。また、私は幼少のころから、ゴオルドスミスという作家を、大いに好きで仕様がないのであるが、この作家は一生涯、たったひとりの人物だけを尊敬していた。ウエークフィルドの牧師である。すなわち、ゴオルドスミス御自身の小説に現われて来る一人物である。そいつだけを尊敬していた。尊敬し切っていた。そいつは、全く、ほとほと、できた牧師である。私も、ひそかに敬慕している。その立派な、できた牧師でさえ、一日、馬市に自分の老いた愛馬を売りに行って、馬をいろいろな歩調で歩かせて商人たちに見せているうちに、商人たちから、くそみそに愛馬をけなされ、その数々の酷評に接しては、「私自身も、ついには、このあわれな動物に対して心から軽蔑を感ずるようになり、買い手がそばに寄って来ると恥かしいような気がした。」と告白し、「私はみんなの言うことをそっくりそのまま信じたのではないが、証人の数の多いことは、その言うところが正しいと推定せしむるに有力であることを思わざるを得なかった。セントグレゴリーも、善行について同様な意見であることを述べているようじゃ。」と、しみじみ気を腐らし、歎息をもらしている。ウエークフィルドの牧師ほどの高徳の人物でさえ、そうである。いわんや私のごとき、無徳無才の貧書生は、世評を決して無視できないはずである。無視どころか、世評のために生きていた。あわれ、わが歌、虚栄にはじまり喝采かっさいに終る。年少、功をあせった形である。どうも、自分の過去の失態を調子づいてののしるのは、いい図ではない。いやらしくないか。悔いあらための、いまは行いすました悟り顔、救世軍か何か。似ているぞ。また、叱られた供奴ともやっこの、頭かきかき、なるほどねえ、考えれば考えるほど、こちとらの考え浅うござんした、えへっへっへ、と、なにちっとも考えてやしない、ただ主人あるじへの御機嫌買い。似ていないか、似ていないか、気にかかる。
 似ていない。ちっとも、似ていない。全然、別種のものである。私は自身で行きづまるところまで実際に行ってみて、さんざ迷って、うんうんうなって、そうしてとぼとぼ引き返した。そうして、さらに重大のことは、私のわば行きづまりは、生活の上の行きづまりに過ぎなかったという一事である。断じて、作品の上の行きづまりではなかった。この五、六年間に発表し続けて来た数十篇の小説については、私はいまでも恥じていない。時折、自身のそれらの小説を、読みかえしてみることもある。自分ながら、よく書けて在る、と思うことだってあります。けれども、私は過去のその数十篇の小説のなかから、二、三、病中の手記を除かなければいけない。これは断じて、断じてという言葉を二度使ったわけであるが、断じて除外しよう。いま読みかえし、私自身にさえ、意味不明の箇所が、それらの作品には散見されるのである。意味不明の文章が散見されるということだけでも、私は大いに恥じなければいけない。これはたしかに、私にとって不名誉の作品である。
 けれども、私が以前の数十篇の小説を相変らず支持しているからといって、私を甘いと思い込むのは、誤りである。私がこのごろ再び深く思案してみたところにっても、私の作品鑑定眼とでもいうべきものは断じて、断じてという言葉を三度使ったわけであるが、断じていんちきではない。私は、何一つ取柄のない男であるが、文学だけは、好きである。三度の飯よりも、というのは、私にとって、あながち比喩ひゆではない。事実、私は、いい作品ならば三度の飯を一度にしても、それに読みふけり、あえて苦痛を感じない。私は、そんな馬鹿である。そう自分に見極めがついたときに、私は世評というものを再び大事にしようという気が起った。以前は、私にとって、世評は生活の全部であり、それゆえに、おっかなくて、ことさらにそれに無関心を装い、それへの反撥で、かえって私はたけりたち、人が右と言えば、意味なく左に踏み迷い、そこにおのれの高さを誇示しようと努めたものだ。けれども今は、どんな人にでも、一対一だ。これは私の自信でもあり、謙遜でもある。どんな人にでも、負けてはならぬ。勝をゆずる、など、なんという思いあがった、そうして卑劣な精神であろう。ゆずるも、ゆずらぬもない。勝利などというものは、これはよほどの努力である。人は、もし、ほんとうに自身を虚しくして、近親の誰かつまらぬひとりでもよい、そこに暮しの上での責任を負わされ生きなければならぬ宿業に置かれて在るとしたならば、ひとは、みじんも余裕など持てる筈がないではないか。世評に対しては、ゲエテは、やはり善いことを教えている。私は、このごろ、ゲエテをこそ、わが師なりとして、もっぱら仰ぎ、学んでいる。ゲエテは、ずいぶん永生きをした。その点だけでも、クライスト、透谷とうこくよりは、たのもしく、学ぶところも多いような気がする。おのれの才能にも、学殖にも絶望した一人の貧しい作家は、いまは、すべてをあきらめて、せめて長寿に依って、なんとか補いをつけようと心ひそかに健康法を案じている様子である。「しかしなんといっても、」とゲエテは、エッケルマン氏に溜息ためいきついて結論を申し渡すのである。「最後には、自己を制限し、孤立させることが、最大の術である。」
 このゲエテの結論は、私にとって、私のような気の多い作家にとって、まことに頂門の一針であろう。あまりに数多い、あれもこれもの猟犬を、それは正に世界中のありとあらゆる種属の猟犬だったのかも知れない、その猟犬を引き連れて、意気揚々と狩猟に出たはよいが、わが家を数歩出るや、たちまち、その数百の猟犬は、てんでんばらばら、猟服美々しく着飾った若い主人は、みるみる困惑、と見るうちに、すってんころりん。当りまえのことである。それ以後は、私はこれら高価に買い求めた猟犬、一匹一匹、手離すことに努力した。私になつかぬ、けれども素晴らしい良種の猟犬をさえ、私は涙をのんで手離した。誰が手離したのか。もちろん私である。けれども世評、そいつが私に手離させた猟犬も二、三あったのである。
 いったい、小説の中に、「私」と称する人物を登場させる時には、よほど慎重な心構えを必要とする。フィクションを、この国には、いっそうその傾向が強いのではないかと思われるのであるが、どこの国の人でも、昔から、それを作者の醜聞として信じ込み、上品ぶって非難、憫笑びんしょうする悪癖がある。たしかに、これは悪癖である。私は、いまにして思い当る。プウシュキンほどの自由奔放の詩人でさえも、その「オネエギン」を物語るにあたり、この主人公は私でない、私は別の、全くつまらぬ男だ、オネエギンは私でない。そういうことを、それはくどいほどに断ってあり、またドストエフスキイほどの、永遠の愛を追うて暮した男でさえ、その作品の主人公には、ラスコオリニコフとか、ドミトリイとかいう名前を与えて、決して、「私」を出さない。たまに、「私」を出すことがあっても、それは凡庸ぼんような、おっとりした歯がゆいほどに善良な傍観者として、物語の外に全然オミットされるような性格として叙述されて在る。ドイルだって、あの名探偵の名前を、シャロック・ホオムズではなく、もっと真実感を肉薄させるために、「私」という名前にして発表したなら、あんな、なごやかな晩年を享受できたかどうか、疑わしい。
 私小説を書く場合でさえ、作者は、たいてい自身を「いい子」にして書いて在る。「いい子」でない自叙伝的小説の主人公があったろうか。芥川龍之介も、そのような述懐を、何かの折に書き記して在ったように記憶する。私は事実そのような疑問にひっかかり、「私」という主人公を、一ばんしょうのわるい、悪魔的なものとして描出しようと試みた。へんに「いい子」になって、人々の同情をひくよりは、かえっていさぎよいことだと思っていた。それが、いけなかったのである。現世には、現世の限度というものが在るらしい。メリメ、ゴオゴリほどの男でも、その生存中には、それを敢えてしなかったし、後世の人こそ、あの小説の悪魔は、ゴオゴリ自身であるとか、メリメその人の残忍性であるとか評して、それはもう古典になれば、どちらでもかまわないことなのである。けれども、メリメにしろ、ゴオゴリにしろ、――また、いま、ふとすこぶる唐突に思い浮んだのであるが、シャトオブリアン、パスカルほどの大人物でも、――どのように、その時代の世評を顧慮し、人しれぬ悪戦苦闘をつづけたことか、私はそれに気がつき、涙ぐましくさえなるのだ。
 つくづく思う。輿論を訂正するということは、これは並たいていの仕事ではない。私には、利用すべき地位もない、権力もない、お金もない、何も無い。ただ、ペン一本で、こうして考え考えしながら一字、一字、書いて、それを訂正して行こうとしているのだから、心許こころもとない話である。げに、焼き滅ぼすは一瞬、建設は百年、である。私は、たしかに、いけなかったのだ。私は、生きながらの古典人になろうとしていた。なれるものだと思っていた。あさましく不埒ふらちである。きょうよりのちは、世評にも充分の注意を払い、聴くべきは大いに容れ、誤れるは、これを正す。
 またしても、これは、私生活の上の話ではないか。おまえは、ついさっき、物語のなかに私生活の上の弁解を附加することは邪道であると明言したばかりのところでは無いか。矛盾しないか。矛盾していないのである。そろそろ小説の世界の中にはいって来ているのであるから、読者も、注意が肝要である。
 立ち直る、ということは、さっきも言ったように、これは、容易のことではない。何故といって、私が、どろぼうの話をするに当って、これだけの、ことわり文句が必要であったのである。私は作品にいてよりも、実生活に就いて、また、私の性格、体質に就いての悪評に於いて、破れかけたのであるから、いま、ひとつのフィクションを物語るにあたっても、これだけの用心が必要なのである。フィクションを、フィクションとして愛し得る人は、幸いである。けれども、世の中には、そんな気のきいた人ばかりも、いないのである。
 私は、実はこの物語、自身お金に困って、どろぼうを致したときの体験談を、まことしやかに告白しようつもりでいた。それは、たしかに写実的にて、興深い一篇の物語になったであろう。私のフィクションには念がいりすぎて、いつでも人は、それは余程の人でも、あるいは? などと疑い、私自身でさえ、あるいは? などと不安になって来るくらいであって、そんなことから、私は今までにも、近親の信用をめちゃめちゃにして来ている。私などは、無実の罪で法廷に立たせられても、その罪に数十倍するくらいの、極刑に価いするくらいの罪状を、検事にせつかれて、むなく告白するかも知れない。もとより無形の犯罪であるが、そのときの私の陳述が、あまりにもに入りさいをうがって、いかにも真に迫っているものだから、検事はそれにて罪状明白、証拠充分ということになって、私は、ばかを見るかも知れない。いままで、二十数年間、何もせずに無用の物語本ばかり耽読たんどくしていた結果であろう。私は自身の、謂わば骨の髄にまで滲み込んでいるロマンチシズムを、ある程度まで、save しなければならぬ。すべて、ものの限度を、知らなければいけない。多少、凡骨に化する必要が在る。何故ならば、くるしいことには、私は六十、七十まで生きのびて、老大家と言われるほどの男にならなければ、いけない状勢に立ちいたってしまっているのである。私はそれを、多くの人に約束した。あざむいては、ならぬ。いまでは私は、世話しなければならぬその義務の在る数人をさえ持っている。高尚の趣味を有する、極めて小人数の読者は、私の骨の固くなるのを、ひそかに惜しむにちがいない。それは、ありがとう。君は、いつでも優しかった。お達者で、いつまでもお達者で、暮していて下さい。けれども、私は、何もせず、このまま君に甘えては居られない。私は、だまっていては、私自身の明日の食糧にさえ困るのだ。ああ、私が、いますこし、お金持であったら!
 それやこれやで、私は、私自身、湖畔の或る古城に忍び入る戦慄せんりつの悪徳物語を、断念せざるを得なくなった。その古城には、オフェリヤに似た美しい孤独の令嬢もいるのだけれど。いまは一切を語らぬ。いい気になって、れいの調子づいて、微にいり細をうがってどろぼうの体験談など語っていると、人は、どうせあいつのことだ、どろぼうくらいは、やったかも知れぬと、ひそひそささやき合って、私は、またまた、とんだ汚名を着せられるやも、はかり難い。それゆえ、このような物語は、私が、もう少し偉くなって、私の人格に対する世評があまり悪くなく、せめて私の現在の実生活そのままを言い伝えられるくらいの評判になったとき、そのときには私も、大胆に「私」という主人公を使って、どのような悪徳のモデルをも、お見せしよう。いまは、いけない。悲しいけれども、いけない。
 次に物語る一篇も、これはフィクションである。私は、昨夜どろぼうに見舞われた。そうして、それは嘘であります。全部、嘘であります。そう断らなければならぬ私のばかばかしさ。ひとりで、くすくす笑っちゃった。
 ゆうべは、おどろいたのである。笑いごとではない。実に驚いた。生れて、はじめて私はどろぼうに見舞われた。しかも、ばかなこと、私はそのどろぼうと、一問一答をさえ試みてしまったのである。大袈裟おおげさに言えば、私たち二人さしむかいで、一夜をしみじみ語り明かしたのである。もとから私は、どろぼうという種属の人間に、馴れ親んでいるわけではない。冗談ではない。全く、生れて、はじめて、どろぼうという者を見たのである。火事は、中学校四年生のときに、はっきり一ぶしじゅうを見とどけたことがあるけれども、どろぼうは、はじめてなのである。火事は、あれも不思議なものである。私のお隣りの家が焼けているのだけれど、私は、どういうものか、ぼんやりして、二階の窓に頬杖ついて、うっとり見ていた。秋の終りの、朝のことである。手にとるようによく見える、というが、そのときには、実際、お隣りの家の燃えている軒と、私の頬杖ついている窓縁まどべりとは、二間と離れていず、やがてお隣りの軒先の柿の木にさえ火が燃え移って、柿の枯葉が、しゃあと涼しい音たてて燃えては黒くちりちり縮み、その燃えている柿の一枝が、私の居る二階の窓から、ほんとうに、ちょっと手を伸ばせば、折り取れるところに在って、それこそ咫尺しせきかんに於いて私は、火事を見ていたのである。軒が燃え出すまでの、ほのおの順序が面白かった。はじめ軒端を伝って、ちょろちょろ、まるで鼠のように、青白い焔が走って、のこぎりの歯の形で、三角さんかくの小さい焔が一列に並んでぽっと、ガス燈がともるように軒端に灯って、それから、ふっと消える。軒端の材木から、熱のためにガスが噴き出て、それに一先ひとまず点火されるのであろう。また、ちょろちょろと、青白い焔が軒端を伝って伸びて、と思うと、ちちと縮まり焔の列が短かくなり、また、ちょろちょろと伸びる。行きつ、戻りつ、それを、五、六度、繰りかえしているうちに、ぼっという荒い音がして、軒が一時に燃え上る。こんどは、ほんとに燃えるのである。黒い煙と、パチパチという材木のぜる音。ほんものの悪性の焔が、ちろちろ顔を出す。かたまった血のような、色をしている。茶褐色である。とげのある毒物の感じである。紅蓮ぐれん、というのは当っていない。もっと凝固して、濃い感じである。いかにも、兇暴の相である。とぐろを巻いて、しかも精悍せいかんな、ああ、それは蝮蛇まむしそっくりである。私の眉にさえ、刺されるような熱さを覚えた。火事は、異様の臭気がする。にしんを焼くとき、あんな臭いがする。なまぐさい。所詮は、物質が燃え上るだけのことに違いないのだけれど、火事は、なんだか非科学的だ。椅子が燃え、柱が燃えるなど、ふだんは、なかなか想像できない。障子に揮発油をぶっかけて、マッチで点火したら、それは大いに燃えるだろうが、せいぜいそれくらいのところしか想像に浮んで来ないのであって、あんな、ふとい大黒柱が、めらめら燃え上るなど、不思議な気がする。火事は、精神的なものである。私は、宗教をさえ考える。宿業に依って炎上し、神の意志に依って烏有うゆうに帰する。人意にて、左右することの、かなわぬものである。そうして、盗難は、――これは火事と較べて、同じ災禍でありながら、あまり宗教的ではない。宗教的どころか、徹頭徹尾、人為的である。けれども、これにも何か不思議がある。人為の極度にも、何かしら神意が舞い下るような気がしないか。エッフェル鉄塔が夜と昼とでは、約七尺弱、高さに異変を生ずるなど、このたぐいである。鉄は、熱に依って多少の伸縮があるものだけれども、それにしても、約七尺弱とは、伸縮が大袈裟すぎる。そこが、不思議である。神意、ということを考えないわけにいかない。私のこのたびの盗難にしても、たしかに数数の不思議があった。
 だいいちには、あのしからぬ泥靴の夢を見たことである。実に不愉快な大きな泥靴の夢を見たのである。いまになって考えてみると、あれは夢のお告げ、というものであった。それは、たしかだ。私は、諸君に警報したい。泥靴の夢を見たならば、一週間以内に必ずどろぼうが見舞うものと覚悟をするがいい。私を信じなければ、いけない。げんに私が、その大泥靴の夢を見ながら、誰も私に警報して呉れぬものだから、どうにも、なんだか気にかかりながら、その夢の真意を解くことが出来ず愚図愚図まごついているうちに、とうとうどろぼうに見舞われてしまったではないか。まだ、ある。なんとも意味のわからぬ、ばかげた言葉が、理由もなくひょいと口をついて出たときには、注意しなければいけない。必ず、ちかいうちにどろぼうが見舞う。私の場合、「やって来たのは、ガスコン兵。」という、なんとも意味の知れない、不思議すぎて、ばからしい言葉が、全く思いがけず、ひょいと口をついて出たのである。それも、一度や、二度では無い。むやみ矢鱈やたらに、場所をはばからず、ひょいひょいと発するのである。「やって来たのは、ガスコン兵。」ちっとも、なんとも、面白くない言葉である。どういう意味であるか、自分で考えてみても判明しない。私は、そのときも不安であった。いま考えてみると、たしかに胸騒ぎがしていた。虫の知らせ、というやつであろう。けれども、まさか、これが、どろぼう入来の前兆であるとは気がつかなかった。私はこれを、自身のありあまる教養の故であろうと、お恥かしい、そう思っていたのである。思い出す。チエホフの芝居にも、ひとりの気のきかない好人物が、「あわや、というまに熊は女を組み伏せたりき。あわや、というまに熊は女を組み伏せたりき。おや、これは、どういうわけだろう。きょうは、朝から、この言葉がふいと口をついて出て来て、仕様がない。あわや、というまに熊は女を組み伏せたりき、か。」などと、一向にぱっとしない、愚にもつかぬ文句を、それでも多少、得意になって、やはり自身の、ありあまる教養に満足しながら、やたらにその文句を連発してサロンを歩きまわって、サロンの他の客はひとしく、これには閉口するところが、在ったように記憶しているが、私は、いまだったら、観客席から、やにわに立ち上り大声あげて、その劇中の好人物に教えてやる。注意しろ! おまえは一週間以内に、どろぼうに見舞われるぞ。
 不幸なことには、私には、そのように親切に警告して呉れる特志家がなかった。私は、それを神の意志に依る前兆のあらわれとも気づかず、あさましい、多少、得意になって、ばかな文句を、繰り返し繰り返し、これは、プルタアクの英雄伝の中にあった文句であろう、どうも文学的教養がありあまって、ちょっと整理もつきかねるて、などと、ああ穴があれば、はいりたい、そう思って湧き上る胸の不安を、なだめすかしていたものだ。
 いま考えてみると、その他にも、たくさんの不思議な前兆があった。ずいぶん猛烈のしゃっくりの発作に襲われた。私は鼻をつまんで、三度まわって、それから片手でコップの水を二拝して一息で飲む、というまじないを、再三再四、執拗しつように試みたが、だめであった。耳のあなが、しきりにゆい。これも怪しかった。何かしらの異変を思わせるほどに、痒ゆかった。その他にも、いろいろある。ふいと酒を飲みたくなる。トマトを庭へ植えようかと思う。家郷の母へ、御機嫌うかがいの手紙を書きたくなる。これら、突拍子ない衝動は、すべて、どろぼう入来の前兆と考えて、間違いないようだ。読者も、お気をつけるがよい。体験者の言は、必ず、信じなければいけない。
 いよいよ、四月十七日。きのうである。この日は、悪い日だった。私は、その日、朝から、しゃっくりに悩まされていた。しゃっくりが二十四時間つづくと、人は、死ぬそうである。けれども、二十四時間つづくことは、めったにないそうである。だから、人は、しゃっくりでは、なかなか死なない。私は、朝の八時から、黄昏たそがれどきまで、十時間ほど、しゃっくりをつづけた。危いところであった。もう少しで死ぬところであった。黄昏どきになって、やっと、しゃっくりもおさまり、けろりとして机のまえに坐っていた。しゃっくりは、それが、おさまったとたんに、けろりとするものである。たったいままでの、あれほどの苦痛を、きれいさっぱり、それこそ、根こそぎに忘却してしまうものである。ああ、いまのしゃっくりは、ひどかったなど、そんな思い出さえ、みじんも浮ばず、心境が青空の如く澄んで一片の雲もなく、大昔から、自分はいちども、しゃっくりなんか、とんと覚えがなかったような落ちつき。私は机に向い、ふと家郷の母に十年振りのお機嫌伺いの手紙を、書きしたためようと、、突拍子もない衝動を感じた。そのときである。パリパリという、かすかな音が、窓の外から聞えて来た。たしかに、雨傘をこっそり開く音である。日没の頃から、雨が冷たく降りはじめていたのである。誰か、外に立っているにちがいない。私は躊躇ちゅうちょせずに窓をあけた。たそがれ、逢魔おうまの時というのであろう、もやもや暗い。塀の上に、ぼんやり白いまるいものが見える。よく見ると、人の顔である。
「やって来たのは、ガスコン兵。」口癖になっていた、あの無意味な、ばからしい言葉。そいつが、まるで突然、口をついて出てしまった。すると、その言葉が何か魔除まよけの呪文じゅもんででもあったかのように、塀の上の目鼻も判然としない杓文字しゃもじに似た小さい顔が、すっと消えた。跡には、ゆすら梅が白く咲いていた。
 私は、恐怖よりも、侮辱を感じた。ばかにしてやがる、と思った。本来の私ならば、ここに於いて、あの泥靴の不愉快きわまる夢をはじめ、相ついで私の一身上に起る数々の突飛とっぴの現象をも思い合せ、しかも、いま、この眼で奇怪の魔性のものを、たしかに見とどけてしまったからには、もはや、逡巡しゅんじゅんのときでは無い、さてはの家に何か異変の起るぞと、厳に家人をいましめ、家の戸じまり火の用心、警戒おさおさ、怠ることの無かったでもあろうに、かなしいかな、この日頃の私には、それだけの余裕さえ無かった。おのれの憤怒と絶望を、どうにか素直に書きあらわせた、と思ったとたん、世の中は、にやにや笑って私のひたいに、「救い難き白痴」としての焼印を、打とうとして手を挙げた。いけない! 私は気づいて、もがき脱れた。危いところであった。打たれて、たまるか。私は、いまは、大事のからだである。真実、そのものを愛し、そのもののために主張してあげたい、その価値を有する弱い尊いものをさえ、私は、いまは見つけたような気がしている。私は、いまは、何よりも先ず、自身の言葉に、権威を持ちたい。何を言っても気ちがい扱いで、相手にされないのでは、私は、いっそ沈黙を守る。激情の果の、無表情。あの、微笑の、能面のうめんになりましょう。この世の中で、その発言に権威を持つためには、まず、つつましい一般市井人しせいじんの家を営み、その日常生活の形式に於いて、無慾。人から、うしろ指一本さされないていの、意志に拠るチャッカリ性。あたりまえの、世間の戒律を、叡智にって厳守し、そうして、そのときこそは、見ていろ、殺人小説でも、それから、もっと恐ろしい小説を、論文を、思うがままに書きまくる。痛快だ。鴎外おうがいは、かしこいな。ちゃんとそいつを、知らぬふりして実行していた。私は、あの半分でもよい、やってみたい。凡俗への復帰ではない。凡俗へのしんからの、圧倒的の復讐ふくしゅうだ。ミイラ取りが、ミイラに成るのではないか? よくあることだ。よせ、よせ。そんな声も聞えるが、けれども、何も私は冒険をするわけではないのである。鴎外なぞを持ち出したので、少し事が大袈裟に響くだけのことであって、これを具体的に言うならば、あまり世間の人に甘えるな、というだけのことなのである。「しかしなんといっても、」ゲエテが、しんみりそう教えたではないか。「自己を制限し、孤立させることが、最大の術である。」ミイラになる心配は、ないようだ。
 すべては、自身の弱さから、――私は、そう重く、鈍く、自己肯定を与えているのであるが、――すべては弱さと、我執がしゅうから、私は自身の家をみずから破った。ばらばらにしちゃった。外へ着て出る着物さえ無い始末である。これでは、いけない。ふんどし一つで、金言を吐いていたんじゃ、まるで何かみたいだ。しかも私には、その金言さえ、おぼつかない。あたりまえの発見を、人よりおそく、一つ一つ、たんねんに珍重し、かなしみ、喜び、歎息している有様である。のろいのである。近ごろ、また、めっきり、のろくなった。いまは、まず少しずつ生活を建て直し、つつましい市井人の家をつくる。それが第一だ。太宰も、かしこいな。何を言ったって、人から相手にされないのでは、仕様がないからね。私は、もともと、そんなに嘘つきじゃないんだ。権威を持ちたい。自身が、死んでから五年、十年あとあとの責任まで持って、懸命に考え考えしながら書き綴る文章の、ことごとく、あれは贋物、なるほど天才じゃなど、いい笑いものにされていて、それで、くやしくないのか。堂々、太刀打たちうちするには、言葉だけでは、だめなんだ。手紙だけでは、だめなんだ。私は、いまは、その興覚めの世のからくりを知った。芸術界も、やっぱり同じ生活競争であった。思考をやめよ! 負けては、ならぬ。どんぐりの背並べ。
 一路、生活の、わば改善に努力して、昨今の私は、少し愚かしくさえなっている。行動は、つねに破綻はたんの形式をる。かならず一方に於いて、間抜けている。完璧かんぺきは、静止の形として、発見されることが多い。それとも、目にとまらぬ早さで走るか、そのいずれかである。沈黙している作家の美しさ、おそろしさも、また、そこに在るのであるが、私は、いまは、そんなに色気を多くして居られない。まごまごしていると、あのむざんな焼印が、ぴったり額に押されてしまう。押されてしまったら、それなりけり。義務の在る数人を世話するどころか、私自身さえ行路病者だ。事態は、緊迫しています。もはや、かの肥満、醜貌しゅうぼうの大バルザックになるより他は無い。ほんとうは、若いままで死にたいのだが、ああ、死にたいのだが、ままにならない。よろめき、つまずき、立ち上り、昨今、私はたいへんな姿である。そのような愚直の、謂わば盲進の状態に在るとき、私は、神の特別のみこころに依り、数々の予告を賜って、けれども、かなしいかな、その予告の真意を解くことができず、どろぼう襲来の直前まで、つい、うっかり、警戒を怠っていたということに就いては、寛大の読者は、これを哀れとこそ思え、決してとがめだてをせぬだろうと信じる。繰りかえして言うが、私は、決して家を粗末そまつにしていたわけではないのである。家を愛している。文学のつぎに、愛している。けれども、何せれいの家の建て直しに、着て出る着物の調整に、やっさもっさ、心をくだき、あまりの向上心に、いきおい守るほうを失念してしまっていた。人間のアビリティの限度、いたしかたの無いものである。たしかに一方、抜けていた。まさしく破綻の形である。私は、そのような奇怪の、ほの白い人の顔の出没に接しても、ただ単に、屈辱を感じただけで、それ以上の深い詮索せんさくをしなかった。ほかに、あれこれ考えなければならぬ事が多く、そんな、黄昏たそがれの人の顔など、ものの数で無かった。ばかにしてやがる。そうつぶやいて、窓をぴたと閉め、それから難渋しながら、たわいない甘い物語を書き綴る。これが、私の天職である。物語を書き綴る以外には、能は無い。まるっきり、きれいさっぱり能がない。自分ながら感心している。ある時は仕官懸命の地をうらやみ、まさか仏籬ぶつり祖室の扉の奥にはいろうとは、思わなかったけれど、教壇に立って生徒を叱る身振りにあこがれ、機関車あやつる火夫の姿に恍惚こうこつとして、また、しさいらしく帳簿しらべる銀行員に清楚せいそを感じ、医者の金鎖の重厚に圧倒され、いちどはひそかに高台にのぼり、憂国熱弁の練習をさえしてみたのだが、いまは、すべてをあきらめた。何をさせても、だめな男である。確認した。そうして、自分にも、あまり優れたものとは思われない、たわいない物語を書いている。夜の九時すぎまで、神妙に机のまえに坐り、仕事をつづけた。きて来た。うんざりして来た。ふっと酒を呑みたく思ったが一家の経済を思い、がまんをした。そうして、寝ることにした。このごろは、早寝早起を励行している。少しでも一般市民の生活態度にあゆみ寄りたい悲壮の心からである。早起のほうは、さほど苦痛でない。私は、老いの寝覚めをやるほうなので、夜明けが待ち遠しいことさえある。睡眠時間が、短いのである。からだのどこかが、老人になってしまっているのかも知れない。朝、寝床の中で愚図愚図していると、のた打つほど苦になることばかり、ぞろぞろ、しかも色あざやかに思い出されて来て、たまったものでない。それにこの部屋は、東側が全部すり硝子ガラスの窓なので、日の出とともに光が八畳間一ぱいに氾濫はんらんして、まぶしく、とても眠って居られない。私は、またそれをよいことにして、貧ゆえでなく、いや、それもあるが、わざと窓にカアテンを取り附けず、この朝日の直射を、私の豪華な目ざまし時計と誇称して、日光の氾濫と同時に跳ね起きる。早起は、このようにして、どうやら無事であるが、早寝には、閉口している。ここは田舎ゆえ、八時すぎると、しんとしている。時々、犬が月におびえて遠吠えするくらいのものである。朝ばかばかしく早く跳ね起きてしまうものであるから、夜の八時すぎになると、おのずから、うんざりして来る。目ざめて、動いていることに厭きて来る。眠りたいと思う。何かと考えているのが、いやになる。眠って、とりとめのない夢を見たいと思うのである。夢を見ることだけが、たのしみである。朝早く起きて、能率は、ちっともあがらないのであるが、それでも遊ぶのが、こわくて、たいてい机のまえに坐って、一日中、勉強のふりをしているのである。まねごとだけでも、机にからだを縛りつけて、もそもそやっていると、夜までには、かなりからだも疲れている。へとへとのことさえ、あります。そんなに自信のあるからだでもないのだから、私は、そろそろ寝なければならぬ。寝る。けれども、すぐには眠れない。絶対に眠れない。からだが不快に、ほてって、頬の皮がつっぱって熱い。転輾てんてんする。くるしい。閉口し切って、ナンマンダ、ナンマンダ、と大声挙げて、百遍以上となえたこともある。そんなときに、たまらず起きて、ひやざけを茶碗で二杯、いや三杯も呑むことがある。模範的市民生活も、ここに於いて、少し怪しくなるのである。けれども誤解なさらぬよう。私は、そんな場合に、いささか乱暴な酒の呑みかたは致しますけれども、しかし、それだけのことである。酔って不埒ふらちの言行に及ぶことは、断じて無い。呑んで、だまってそのまま、直ぐにまた寝るのである。ぐるぐる酔いがまわって来ても、私は、蒲団ふとんの中で、じっとしている。そのうちに眠くなるのである。一先輩は、私のからだを憂慮して、酒をあまり用いぬように忠告した。私は、それに応えて、夜の不眠の苦痛を語った。そのとき、先輩は声をはげまし、
「なにを言うのだ。そんなときこそ、小説の筋を考える、絶好の機会じゃないか。もったいないと思わないか!」
 私は、一言もなかった。ありがたい気がした。五臓ごぞうに、しみたのである。それからは、努力した。ともすると鎌首もたげようとする私の不眠の悲鳴を叩き伏せ、叩き伏せ、お念仏一ついまは申さず、歯を食いしばって小説の筋を考え、そうして、もっぱら睡眠の到来を期待しているのである。それは、なかなかの苦しさであった。謂わば、私は、眠りと格闘していた。眠りと勝負を争っていた。長い細い触角でもって虚空を手さぐり、ほのかに、煙くらいの眠りでも捜し当てたからには、逃がすものか、ぎゅっとひっ捕えて、あわてて自分のふところを裁ち割り、無理矢理そのふところの傷口深く、睡眠の煙を詰め込んで、またも、ゆらゆら触角をうごかす。眠りは、ないか。もっと、もっと、深い眠りは無いか。あさましいまでに、私は、熟睡を渇望かつぼうする。ああ、私は眠りを求める乞食こじきである。
 ゆうべも、私は、そうしていた。ええと、彼女は、いや彼氏は、横浜へ釣りをしに出かけた。横浜には、釣りをするようなところはない。いや、あるかも知れない。ハゼくらいは、いるかも知れない。軍艦が在る。満艦飾である。これを利用しなければ、いけない。ここに於いて多少、時局の色彩を加える。そうすると、人は、私を健康と呼ぶかも知れない。おうい、と呼ぶ。おうい、と答える。白いパラソル。桜の一枝。さらば、ふるさと。ざぶりと波の音。釣竿を折る。かもめが魚を盗みおった。メルシイ、マダム。おや、口笛が。――なんのことだか、わからない。まるで、出鱈目でたらめである。これが、小説の筋書である。朝になると、けろりと忘れている百千の筋書のうちの一つである。それからそれと私は、筋書を、いや、模様を、考える。あらわれては消え、あらわれては消え、ああ早く、眠くなればいいな。眼をつぶるとさまざまの花が、プランクトンが、バクテリヤが、稲妻が、くるくる眼蓋まぶたの裏で燃えている。トラホオムかも知れない。髪に用捨もなき事やといえば、吉三郎せつなく、わたくしは十六になりますといえば、お七わたくしも十六になりますといえば、吉三郎かさねて長老様がこわやという、おれも長老様はこわしという、西鶴さいかくあのころは、四十五歳か。一ばん、いいとしらしいな。「女形、四十にして娘を知る。」けさの新聞に、新派の女形のそんな述懐が出ていたっけ、四十、か。もすこしのがまんだ。――などと、だんだん小説の筋書から、離れていって、おしまいには、自身の借金の勘定なんか、はじまって、とても俗になった。眠るどころでは、無い。目が、冴えてしまった。二時間くらい、そうしていたろうか。蒲団のすそで、ガリガリ鼠の材木をかじる音が、やかましい。もう、いまは眠るのを断念して、無理にそれまで固くつぶっていた眼を、ぱちとあけた。いまいましいから、ことさらに、ぱちと音のするほど強くあけてやったのである。部屋は、ぼんやり緑いろである。まっくらでも眠れず、明るければ、もちろん眠れず、私は緑いろの風呂敷でもって、電燈を覆っているのである。緑いろは、睡眠のために、いいようである。この風呂敷は、路で拾ったものである。私は、八端はったんの黒い風呂敷を持って、まちへ牛肉を買いに行き、歩きながら、いろいろ考えごとをしていて、ふと気がつくと、風呂敷が無い。落したのだ、と思ってしまって、すぐ引きかえし、あちこち見廻しながら歩いていると、よその小さい若いおかみさんが、風呂敷ですか、そこにありますよ、と笑いながら教えてくれた。見ると八百屋のまえに、緑いろのメリンスの風呂敷が落ちている。私のと、ちがうようにも思ったが、あるいは、これだったかも知れぬ、いや、これだろう、と思い、そのおかみさんの親切を無にするのも苦しく、お礼を言ってその風呂敷を拾い、それから牛肉屋へ行って買い物をすまし、家へかえってからも、なんだか不思議で、帯をほどいてみると、黒い風呂敷が、ばさりと落ちた。私は、一時、途方とほうにくれた。拾って来た緑の風呂敷は、メリンスで、こまかい穴が二十も三十もあいている。謂わば、薄汚いものである。これをまた、八百屋のまえに捨てに行ってもいいが、再び、よそのおばさんに、あれ風呂敷おとしましたよ、と注意を受けたならば、私は、たちまちその親切を謝し、この穴だらけの風呂敷を拾って家へ帰らなければならぬ。むだなことである。私は、一時、この風呂敷を私の家にあずかって置くことにした。普通一般の、健康な市民でも、やはりこんな立場に在ったときには、私と同じ処置をとるにちがいない。私は、決して盗んだのではない。自分の風呂敷を、ふところ深く押し込みすぎて、それを忘れてしまって、落したものとばかり思い、きょろきょろ捜していたら、よそのおばさんが親切に、教えてくれて、私は、感謝してその風呂敷を拾い、家へ帰って調べてみたら、ちがっていた。それだけの話なのである。罪になるかしら。いいえ、私は決して、この緑の風呂敷を、自分のものだとは思っていない。返却したくても由なく、こうして一時、あずかって在るのである。どんな人の使用していたものか、わからない。思えば、きたないものである。私は、この緑の風呂敷を、電燈を覆うのに使用したわけは、けれども、その不潔の風呂敷の黴菌ばいきんを、電球の熱でもって消毒しよう、そうして消毒してから、ながくわが家のものとして使用しようなどの下心からではない。そんなことは無い。私には全くそんな悪心がないのだから、いつでもお返ししたいと思っているのだから、正々堂々、誰の眼にでも、とまるように、あかるみに出して置きたく、そんな気持もあって、電燈の覆いに使用したのである。それに、ちがいない。その上、緑色は睡眠のためにも、たいへんよろしいのであるから、願ったり、かなったりというものである。その緑色の風呂敷で、覆われて在る電燈の光が、部屋をやわらかく湿しめして、私の机も、火鉢も、インク瓶も、灰皿も、ひっそり休んでいて、私はそれらを、意地わるく冷淡に眺め渡して、へんに味気なく、煙草でも吸おうか、と蒲団に腹這いになりかけたら、また足もとで、ガリガリ鼠の材木を噛る音。ひょいと、そのほうに眼をやったら、もう、そのときは、おそかった。見よ。
 手。雨戸の端が小さく破られ、そこから、白い手が、女のような円い白い手が、すっと出て、ああ、雨戸の内桟を、はずそうと、まるでおいでおいでしているように、その手をゆるく泳がせている。どろぼう! どろぼうである。どろぼうだ。いまは、疑う余地がない。私は、告白する。私は、気が遠くなりかけた。呼吸も、できぬくらいに、はっと一瞬おどろきの姿勢のままで、そのまま凝固し、定着してしまったのである。指一本うごかせない。棕櫚しゅろの葉の如く、両手の指を、ぱっとひろげたまま、活人形のように、ガラス玉の眼を一ぱいに見はったきり、そよとも動かぬ。極度の恐怖感は、たしかに、突風の如き情慾を巻き起させる。それに、ちがいない。恐怖感と、情慾とは、もともと姉妹の間柄であるらしい。どうも、そうらしい。私は、そいつにやられた。ふらふら立ち上って、雨戸に近寄り、矢庭やにわにその手を、私の両手でひたと包み、しかも、心をこめて握りしめちゃった。つづいて、その手に頬ずりしたい夢中の衝動が巻き起って、流石さすがに、それは制御した。握りしめて居るうちに、雨戸の外で、かぼそい、の泣くようなあわれな声がして、
「おゆるし下さい。」
 私は、突然、私の勝利を意識した。気がついてみると、私が、勝っていたのである。私は、どろぼうを手づかみにした。そう思ったら、それと同時に、くるくる眩暈めまいがはじまって、何か自分が、おそろしい大豪傑にでもなってしまったかのような、たいへんな錯覚が生じたのである。読者にも、おぼえが無いか。私は自身の思わぬ手柄に、たしかに逆上のぼせてしまったのである。
「さ、手を離してあげる。いま、雨戸をあけてあげますからね。」いったい、どんな気で、そんな変調子のことを言い出したものか、あとでいくら考えてみても、その理由は、判明しなかった。私は、そのときは、自分自身を落ちついている、と思っていた。確乎かっこたる自信が、あって、もっともらしい顔をして、おごそかな声で、そう言ったつもりなのであるが、いま考えてみると、どうしても普通でない。謂わば、泰然と腰を抜かしているたぐいかも知れなかった。
 雨戸をあけ、
「さ、はいりたまえ。」いよいよ、いけなかった。たしかに私は、あの、悠然と顛倒していた組に、ちがいなかった。江戸の小咄こばなしにも、あるではないか。富籤とみくじが当って、一家狂喜している様を、あるじ、あさましがり、何ほどのこともないさ、たかが千両、どれ銭湯へでも行って、のんびりして来ようか、と言い澄まして、銭湯の、湯槽ゆぶねにひたって、ふと気がつくと、足袋をはいていた。まさしく、私もそのたぐいであった。ほんとうに、それにちがいなかった。いい気になって、どろぼうを、自分からすすめて家にいれてしまった。
「金を出せえ。」どろぼうは、のっそり部屋へはいるとすぐに、たったいま泣き声出しておゆるし下さいとびたひととは全く別人のような、ばかばかしく荘重な声で、そう言った。おそろしく小さい男である。で肩で、それを自分でも内心、恥じているらしく、ことさらにひじを張り、肩をいからして見せるのだが、その気苦労もむなしく、すらりと女形のような優しい撫で肩は、電燈の緑いろを浴びて、まぎれもなかった。くびがひょろひょろ長く、植物のような感じで、ひ弱く、感冒除かんぼうよけの黒いマスクをして、灰色の大きすぎるハンチングを耳が隠れてしまっているほど、まぶかにかぶり、流石さすがにその顔は伏せて、
「金を出せえ。」こんどは低く、呟くように、その興覚めの言葉を、いかにも自分ながら、ほとほとこれは気のきかない言葉だと自覚しているように、ぞんざいに言った。こん印半纏しるしばんてんを裏がえしに着ている。その下に、あずき色のちょっと上等なメリヤスのシャツ。私の変に逆上のぼせている気のせいか、かれの胸が、としごろの娘のように、ふっくらふくらんでいるように見えた。カアキ色のズボン。赤い小さな素足に、板草履ぞうりをはいているので私は、むっとした。
「君、失敬じゃないか。草履くらいは、脱ぎたまえ。」
 どろぼうは素直に草履を脱ぎ、雨戸の外にぽんと放擲ほうてきした。私は、そのすきに心得顔して、ぱちんと電燈消してしまった。それは、大いに気をきかせたつもりだったのである。
「さあ、電燈を消しました。これであなたも、充分、安心できるというものです。僕は、あなたの顔も、姿も、ちっとも見ていない。なんにも知らない。警察へとどけようにも、言いようがないのです。僕は、あなたの顔も、姿も、なんにも見ていないのだから。とどけたってむだでしょう。僕は、とどけないつもりですから、あなたも、そのつもりで充分、安心して下さいね。」けれども、この表面はみつのように甘い私の言葉の裏には、悪辣老獪あくらつろうかいの下心が秘められていたのである。私は、そう言ってどろぼうを安心させることにって受ける私のいろいろの利益を計算していたのである。だいいちには、どろぼうをそんなに安心させて置けば、どろぼうのたけり猛った気もゆるみ、かれは私に危害を加えるということが、万々ないであろう。それから、後日、このどろぼうが再び悪事を試み、そのとき捕えられて、ろうへいれられても、私をうらむことはないであろう。私は、このどろぼうの風采にいては、なんにも知らないということになっているのであるから、まさか、私がかれの訴人そにんの一人である、などということは、絶対に有り得ないのである。それに私は、警察にはとどけないつもりであります、とはっきり、かれに明言している。かれは、私を、うらみに思うわけは無い。実は、私、このどろぼうが他日、捕えられ、牢へいれられ、二、三年のちに牢から出たとき、そのときのことを心配していたのである。あいつのために、おれは牢へいれられたと、うらみ骨髄に徹して、牢から出たとき、草の根をわけても、と私を捜しまわり、そうして私の陋屋ろうおくを、焼き払い、私たち一家のみなごろしを企てるかもわからない。よくあることだ。私は、そのときのことを懸念し、僕は、なんにも知らないよ、と素知らぬふりで一本、釘を打って置いたのである。また、私は、あとあと警察のひとが、私を取調べるときのことをも考慮にいれて置いたのである。私は、もちろん、今夜のこのできごとを、警察に訴え出るつもりは無い。新聞に出たりなどして、親戚友人などに、心配、軽蔑されるのは、私の好むところでは無いのである。訴え出ないで、だまっていることは、これは、法律に依って罰せられる罪悪かも知れない。けれども、どうにも、気が重い。私は口が下手へただから、そんないかめしい役所へ出て、きっと、へどもどまごついて、とんちんかんのことばかり口走り、意味なく叱責しっせきされるであろう。そうして、私には何となく、挙動不審の影があらわれて、あらぬ疑いさえ被り、とんでもない大難が、この身にふりかかるかもわからない。きっと、そうだ。私は、何かにつけて、めぐり合せの悪い子なのだ。運のわるい男なのだ。私には、とても、警察にとどける勇気が無い。私は、このどろぼうの襲撃を、あくまで、深夜の客人が、つまらぬところから不意に入来した、という形にして置きたかった。そうして置けば、私は、それを警察にとどけなくても、すむのである。私は、あくまで、かれを客人のあつかいにしてやろうと思った。そんな深慮遠謀もあり、私は、ことさらに猫なで声でどろぼうを招じ入れ、そうして、かれがはいるなり、電燈をぱちんと消してしまった。他日、このどろぼうが、何か罪悪を重ねて、そのとき捕えられ、私の家を襲撃したことをも白状して、警察は、その白状にもとづいて、はじめて私に問い合せに来ても、そのときは、私は頭をき掻き、さあ、何せまっくらで、それに夢見ごこちで、記憶が全く朦朧もうろうとしている始末で、どうもお役に立たず、残念に思います、といって、大いに笑えば、警察のひとも、私の耄碌もうろくをあわれみ、ゆるしてくれるのではないか、と思う。重ね重ね、私がぱちんと電燈を消したということは、全く私の卑劣きわまる狡智こうちから出発した仕草であって、寸毫すんごうも、どろぼうに対する思いやりからでは無かったのである。私は、どろぼうの他日の復讐をおそれ、私の顔を見覚えられることを警戒し、どろぼうのためで無く、私の顔をかくすために、電燈を消したといわれても、致しかた無いのである。まさに、それにちがいなかった。
「すみません。」どろぼうは、ばかなやつ、私のそれほどこまかい老獪の下心にも気づかず、私が電燈消したことに対して、しんからのお礼を言いやがった。
「雨が、まだ降っているかね?」
「いいえ、もう、やんだようです。」まるで、おとなしくなっている。
「こっちへ来たまえ。」私は、火鉢をまえにして坐って、火箸ひばしで火をかきまわし、「ここへ坐りたまえ。まだ、火がある。」
「え。」どろぼうは、きちんと膝をそろえてかしこまって坐った様子である。
「少し、火鉢から、はなれて坐っていたほうがいいかも知れないな。」私は、いい気持である。「あまり、火の傍に寄ると、火のあかりで、君の顔が見える。僕は、まだ、君の顔を、なんにも見ていないのだからね。煙草たばこも吸わないようにしましょうね。暗闇の中だと、煙草の火でも、ずいぶん明るいものだからね。」
「は。」どろぼうは、すこし感激している様子である。
 私は、あまりの歓喜に、いよいよ逆上のぼせて、もっともっと、私の非凡の人物であることを知らせてやりたくなっちゃって、よけいなことを言った。
「あ、十二時だ。」隣家の柱時計が、そのとき、ぼうん、ぼうん、鳴りはじめたのである。「時計は、あれは生き物だね。深夜の十二時を打つときは、はじめから、音がちがうね。厳粛な、ためいきに似た打ちかたをするんだ。生きものなんだね。最初の一つ、ぼうんと鳴ると、もうそれで、あとは数を指折って勘定してみなくても、十二時だってことが、ちゃんと、わかるような打ちかたをするね。草木も眠る、というでしょう? 家の軒が、三寸するするさがって、川の水がとまるといいますからね。不思議なもんさ。」
「十一時でした。」どろぼうは、指折って数えていたのである。そう低い声で言って、落ちついていた。
 私は狼狽ろうばいして、話題をそらした。
「少し君は、早すぎたね。どろぼうは、たいてい、二時か三時に来るものです。そのころは、人間が、一ばん深く眠っているものなんだ。医学的には、ね。」少し、面目をとりかえした。調子に乗って、また、へんなことを言ってしまった。「どろぼうは、第一に、勘だね。これが、なくちゃいけない。君は、僕に、お金があると思っているのかね? たとえば、この机のひき出しに、お金がいくらはいっているか。」はっと口をつぐんだ。自身の言いすぎに気がついたのである。私の机のひき出しの中には、二十円はいっているのである。これは四月末日までの、私たちの生活費の全部である。これを失えば、私は困るのである。ごはんをたべるぶんには、いま手許にお金が無くても、それは米屋、酒屋と話合った上で、どうにかやりくりして、そんなに困ることもあるまいけれど、煙草、郵便代、諸雑費、それに、湯銭、これらに、はたと当惑するのだ。私は、まだこの土地には、なじみが薄いし、また、よしんば、なじみの深い土地でも、煙草、切手は、現金ばらいで無ければいけないものだろう。それかといって、友人知己からお金を借りて歩くことは、もうもう、いやだ。死んだほうがいい。借銭のつらさは、骨のずいまで、しみている。死んでも、借金したくない。それゆえ私は、このごろ、とても、けちに、けちに暮している。友人と遊ぶときでも、敢然と、割勘わりかんを主張して、ひそかに軽蔑を買っている様子である。人と行楽を共にする場合でも、決して他人の切符までは、買ってあげない。自分ひとりの切符を、さっさと買ってすましている。下駄ひとつ買うのにも、ひとつきまえから、研究し、ほうぼうの飾窓を覗いてみて、値段の比較をして、それから眼をつぶって大決意をって、下駄の購買を実行する。下駄のながもちするきかたも、私は、ちゃんと知っている。路を行くときは、きわめてゆっくり歩く。それは、着物のすそまわしのすり切れないよう、用心している形なのである。人は、私の守銭奴しゅせんどぶりに、あきれて、憫笑びんしょうをもらしているかも知れないけれど、私は、ちっとも恥じていない。私は、無理をしたくないのだ。このごろは、作品の掲載以前に、雑誌社へお金をねだることも、決してしない。なるべく、知らぬふりをしている。くれなければ、くれないでいい。あとは、書かぬだけだ。世の中は、私にそれを教えた。人に頭をさげて、金銭のことをたのむということは、これは、実に実に、恐ろしいことなのだ。戦慄せんりつの悲惨である。私は、いまこそ、それを知った。作品で、大金を得るということは、なかなか至難のことであるから、私は、ほとんど、それを期待しない。あれば、あるだけの生活をするつもりだし、無ければ無いで、あわてないように、ふだんから、けちにけちに暮しているのだ。そうして居れば、なんにも欲しいものがない。あてにしていた夢が、かたっぱしから全部はずれて、大穴あけて、あの悽惨せいさん焦躁しょうそう、私はそれを知っている。その地獄の中でだけ、この十年間を生きて来た。もう、いやだ。私は、幸福を信じない。光栄をさえ信じない。ほんとうに、私は、なんにも欲しくない。私には、いまは何も、必要なものはないのだ。こうして苦しみながら書いて、転々して、そうして二、三の真実、愛しているものたちを、ほのかに喜ばせ、お役に立つことができたら、私は、それで満足しなければならぬ。空中楼閣は、もう、いやだ。私は、いまは、冷いけちな男だ。私は、机のひき出しの二十円を死守しなければならぬ。私は、平気で嘘をついた。「いや、このひき出しの中にお金が在りそうに思われるのは、それは君の勘のにぶさだ。そう思わなければ、いけない。見せてもいいが、このひき出しには、お金が無い。実を言えば、きょうは、この家には、ほんの五、六銭しか、お金が無いのだ。」いやしい嘘言である。
「あります。」どろぼうは、もそりと言った。
 私は、飛び上るほど、ぎょっとした。
「やあ、君は、」思わず大声になってしまって、「君は、どんな根拠があって、そんな、失敬なことを言うのだ。だいたい、失敬じゃないか。僕の家に、お金が在ろうが無かろうが、君は、それに容喙ようかいする権利は、ないのだ。君は、一体、誰だ!」極度の恐怖は、何か、怒りに似た絶叫をも、巻き起すものらしい。おびえる犬の吠えるのも、このたぐいである。
 どろぼうは、すっと立って、
「金を出せ。」こんどの声は、充分に、すごく気味わるいものであった。
「出すさ。あったら、出すさ。」さすが守銭奴の私も、この暗中の、ただならぬ険悪の気配には、へたばった。それに自身の、守銭奴ぶりも、あさましくなって来て、「そんなに金が、ほしいのかね。待っている女房、子供もあるんだろう。僕にも覚えが有るよ。女房がヒステリイみたいに口やかましく、君の働きのなさを痛罵つうばするものだから、君も大きいこと言って、何か真顔で、きょうすぐお金がはいるあてがあるなんて、まっかな嘘ついて女房を喜ばせ、女房にうんと優しくされて家を出て、さて、なんにも、あてがない。苦しいからなあ。覚えが有るよ。このまま、手ぶらでも、けえられめえ。」私は、もはや、やけくそで、ことさらに下品な口調で言って、「あれも、一種の地獄だあね。どうだい、ちっとは、恥ずかしく思えよ。どだい女房に、まことしやかの嘘をつくのが、けちくさいじゃないか。そんなに女房の喜ぶ顔を拝みたいのかね。君は、女房にれているな。女房は、君には、すぎたる逸物いちもつなんだろう。え? そうだろう?」そんなに、べらべら、しつこく、どろぼうにからみついているわけは、どろぼうは、何も言わず、のこのこ机の傍にやって来て、ひき出しをあけて、中をかき廻し、私の精一ぱいのいやがらせをも、てんで相手にせず、私は、そのどろぼうの牛豚のような黙殺の非礼の態度が、どうにも、いまいましく、口から出まかせ、ここぞと罵言ばげんをあびせかけていたのである。どうせ、二十円を取られるのだ。ちっとは、悪口でも言ってやらなければ、合わない、と思った。どろぼうは、既に財布さいふを捜し当てた様子で、
「もっとないか。」
「興覚めるね。だから、僕は、リアリストはいやだ。も少し、気のきいたことを言ってもらいたいね。どうせ、その金は、君のものさ。僕の負けさ。どうも、不言実行には、かなわない。」私は、しきりと味気あじけなかった。
「金を出せ。」また、言った。
 私は、声のほうへ、ふりむいて、
「ばか! いい加減にしろ! 僕は、ほんとうに怒るぞ。僕は、なんでも知っている。君みたいな奴と、あんまり、あと腐りの縁を持ちたくないから、僕は、さっきから、ばかみたいに、いい加減にとぼけていたのだ。僕は、すっかり知っている。君は、女だ。君は、きょうの夕方、その窓の外で、パリパリと低い音たてて傘をひらいた。あの、しのぶような音は、絶対に女性特有のものだ。男が傘をひらくときは、どんなに静かにひらいても、あんな音は、できないのだ。君は、夕方あらかじめ、僕の家の様子を、内偵しに来たのだ。それにちがいない。君は、僕の家のぐるりをも、細密に偵察した。お隣りの、あのよく吠える犬が、今夜に限って、ちっとも吠えないところを見れば、君は、ゆうべ、あの犬に毒饅頭まんじゅうを食わせてやったにちがいない。むごいことをする奴だ。僕は、ゆうべ、塀の上から覗きこんでいる君の顔を、ちゃんと見て知っている。忘れるものか。僕は、偉い絵かきだから、君の顔を、そのまま、いつでも画いて見せることができる。君の今夜の服装だって、で肩だって、一つも、残さず全部、知っている。電燈を消すまえに、ちゃんと見とどけてしまっているのだ。言ってあげようか。君は、わざわざ、印半纏しるしばんてんを裏がえしに着ているが、僕には、その半纏の裏のえりに、どんな文字が染め抜かれて在るか、それさえ、ちゃんとわかっているのだ。言ってあげようか。今金酒造株式会社。どうだい、おどろいたか。僕は、君の手さえ握っているのだ。男か、女か、その区別さえわからないようで、そんな工合で、偉い絵かきとは、言えまい。いいかい、君は、ことし三十一だ。御亭主ていしゅは、君より年下で、二十六だ。年下の亭主って、可愛いものさ。食べてしまいたいだろう。それに、君の亭主は、気が弱くて、街頭に出て、あの、いんちきの万年筆を、あやしげの口上でのべて売っているのだが、なにせ気の弱い、甘えっ子だから、こないだも、泉法寺の縁日で、万年筆のれいの口上、この万年筆、今回とくべつを以て皆さんに、会社の宣伝のため、無代進呈するものであります、と言って、それから、万年筆の数にも限りがあり、皆さん全部に、おわけすることもできず、先着順に、おしるしだけ金十銭也をいただいて、と急いで言い続けなければいけないところを、無代進呈するつもりであります、と言い切って、ふと客のほうを見ると、ひとり刑事らしい赤らがおの親爺が客のうしろで、にやっと笑って、君の亭主は、それを見るなり、かっと一時にのぼせちゃって、無代進呈するつもりであります、ほんとうに無代進呈いたします、おれは嘘なんか、つかない、なあに、こんな商売していても、お客を、だますことなんか、きらいなんだ。無代進呈します、さあ、みんな持っていってくれ、信じない奴は、ばかだ。無代進呈いたします。露店商人にも、意地は、あるんだ。みんな、ただで差しあげます。ああ、お嬢さん、ほしいの? いいねえ、あなたは、人を疑わない。はじめから、おれが、ただで、この万年筆をさしあげること、はじめっから信じていてくれたんですね。ああ、疑わない人は、とくをする。さあ、さし上げましょう、三本。一本は、お父さんに。一本は、お母さんに。私を忘れないで下さい! さあ、ほかに欲しい人はないか。疑うやつは、損をする。世の中、なんでもそうだ。利巧ぶってにやにや笑っているやつは、かえってばかだ。大ばかの大間抜けだ。素直に信じる人は、とくをする。神さまだって、可愛がる。はい、あなたに一本。はい、あなたにも一本。ああ、おれは、泣くほどうれしい。なあに、おろし値段六円と少しだ。安いものさ。一晩、女を抱いたと思えば、あきらめもつくんだ。安いものさ。おれのことは、心配するな。さあ、ほかに欲しい人はないか、ないか。信じない奴あ、ばかだ! 君の亭主は、こんな工合に、調子づいて、おしまいには泣き声にさえなって、とうとう万年筆全部、一本のこらずくれちゃったんだ。刑事も、あきれたね。君の亭主は、そんな、へまな男なんだ。それゆえ、君は、その無力の亭主の手助けに、こんな夜かせぎに出なくちゃならなくなってしまった。どうだ、あたっているだろう。」あたるも、あたらぬも無い。私は、二十円とられたのが、なんとしても、いまいましく、むしゃくしゃして、口から出まかせ、さんざ威張りちらして、私の夢を、わば、私の小説の筋書を、勝手に申述べているだけなのである。まさしく、負けた犬、吠えるのたぐいにちがいなかった。「僕は、まだまだ知っている。君は、なぜ僕の家を選んだか。僕は、知っている。僕の家は、まあ、若夫婦二人きりの、謂わば、まあ、新家庭だ。君は、そこのところに眼をつけた。若夫婦は、のんびりしていて、何かにつけて、しまりがない。そこに眼をつけた。と言えば上品だが、君、そうではなかろう? それだけではなかろう? どうだい? 君は、まだ、三十一だ。純粋に盗むことだけの目的で、それは、はいるのだろうが、けれども、そこに何か景品的なたのしみも、こっそりあてにしてはいないか。同じことなら、若夫婦の寝所にしのびこんでみたい、そうして、君、ああ、いやしい! きたない! 恥ずかしくないか。君は、そのような興味も、あって、僕の家を襲った。たしかに、そうだ。君は、まだ三十一だ。女のさかりだ。卑劣だねえ、君は。ところがお生憎あいにくさま、僕のところは、このようにちゃんと寝室を別にしている。神聖なものだ。しどけない有様は、どこにも無い。ひっそり閑としたものだ。ここにも、君の失敗がある。つつしむべきは、好色の念だね。君なんかに、のぞき見されて、たまるもんか。君は、ときどき上流の家庭にも、しのび込んで、そうして、そこの大奥様の財布さいふなんか盗んで家へ持ってかえり、そのお財布の中に、奇妙な極彩色の絵なんか在る場合、亭主とふたりで、大いに笑って得意らしいが、何もあれは、大奥様の好色の念から、その絵をいれて置くのじゃないのだぜ。あれは、ね、教えてあげる。つまり、そんな絵がはいっていると、その財布を落さないように、しじゅう気をつけるようになるし、すべての注意力をお財布に集中させて置くようにとの、つつましく厳粛な心から、あの絵を一枚入れて置くのだ。決して、浮いた、みだらな心からでは無いのだ。財布にあれを入れて置くと、お金がなくならないし、箪笥たんすにあれを入れて置くと、着物に不自由しない、というが、それは、ほんとうなんだ。そこに注意力を集中させるためなんだ。ずいぶん恥ずかしいもんだから、その財布にも、箪笥にも、なるべく手をふれないよう、無闇むやみに開閉しないように、そっと大事に、いたわるようになるのだ。いじらしいじゃないか。ずいぶん、つましい奥ゆかしいことなんだ。君は、それから、子供の財布さえ盗んだことがあるね。たしかに、盗んだ。そうして、君は、泣いたろう。女の子の財布には、その子供自身で針金ねじ曲げてこしらえた指輪なんかがはいっていて、その不手際の、でこぼこした針金の屈曲には、女の子のうんうんうなって、顔を赤くして針金ねじ曲げた子供の柔かいちからが、そのまま、じかに残っていて、彎曲わんきょくのくぼみくぼみに、その子供の小さい努力が、ほの温くたまっていて、君は、たまらなくなって顔を覆ったろう。平気だったら、君は、鬼だ。また、男の子の財布には、メンコが一そろいはいっている。メンコには、それぞれお角力すもうさんの絵が画かれていて、東の横綱から前頭まえがしらまで、また西の横綱から前頭まで、東西五枚ずつ、合計十枚、ある筈なんだが、一枚たりない。東の横綱がないんだ。どういうわけか、そこまでは僕も知らない。メンコ屋で、品切れになっていたのかも知れない。持主の男の子は、かねがね、どんなにそれを淋しがっていたことだろう。どんなに、ひそかに気がひけていたろう。どんなに東の横綱が、ほしかったろう。所蔵の童話の本、全部を投げ打っても、その東の横綱と交換したいと思っていたにちがいない。東の横綱は、どこのメンコ屋にも無かった。友だちみんなに聞いてまわっても無かった。そのとき、君が、盗んじゃった。君はそのメンコを調べてみて、その男の子の無念と、淋しさを思いやって、しじゅう、そのことが頭から離れず、その後は、メンコ屋の店のまえをとおるときには、必ずちょっと店先をのぞいて、もしや、東の横綱が無いかしら、と思わず懸命に捜してみるようになってしまっているにちがいない。そうでなかったら、君は、鬼だ。どろぼうなんて、いい商売じゃないね。よしたまえ、おい、聞いているのか。」
 隣室にぱっと電燈がともって、この部屋も薄明るくなって、見ると、どろぼうは、影も形も無い。いやな気がした。
 ふすまをあけて、家内がよろめくようにしてはいって来て、
「どろぼう?」あさましいほどに、舌がもつれていて、そのまま、ぺたりと坐ってしまった。
「そうだ。たしかに、いたのだ。」家内の恐怖の情を見て、たちまち私は、それに感染してしまったのである。歯の根も合わぬほどに、がたがたと震えはじめた。はじめて、人心地を取りかえしたのかも知れない。それまでは、私は、あまりの驚愕きょうがくに、動顛どうてんして、震えることさえ忘却し、ひたすらに逆上し、舌端ぜったん火を吐き、一種の発狂状態に在ったのかも知れない。「たしかに、いたのだ。たしかに。まだ、いるかも知れない。」
 家内は、私が、畳のきしむほどに、烈しく震え出したのを見て、かえって自分のほうは落ちつきを得た様子で、くすくす無理に笑い出し、
「かえりましたよ。あたし知っている。あなたが、ばかッと、どろぼうを大声でお叱りになったでしょう? あのとき、あたし眼をさましたの。耳をすまして、あなたのお話を聞いていると、どうも相手は、どろぼうらしいのでしょう? あたし、だめだ、と思ったの。死んだようになって、俯伏うつぶせのままじっとしていたら、どろぼうの足音が、のしのし聞えて、部屋から出て行くらしいので、ほっとしたの。可笑おかしなどろぼうね。ちゃんと雨戸まで、しめて行ったのね。がたぴし、あの雨戸をしめるのに、苦労していたらしいわ。」
 見ると、なるほど、雨戸はちゃんとしめてある。すると、私は、誰もいない真暗い部屋で、ひとりでいい気になって、ながながと説教していたものとみえる。ばかげている。どろぼうが、すぐにこそこそ立ち去ったのも、そうして、ごていねいに、雨戸までしめていって呉れたのも、ちっとも気づかず、夢中でひとりわめいていたものらしい。
「つまらないどろぼうだね。」私は、仕方なしに笑った。「徹頭徹尾のリアリストだ。おい、お金みんな持って行ったらしいぞ。」
「お金なんか、」家内は、いつでも私にはらはらさせるくらい、お金に無頓着である。芸術家の家内というものは、そうしなければいけないと愚直に思いこんで努めているふしが在る。「それよりも、お怪我けがが無くて、なによりでした。ほんとうに、」と言いかけて、肩を落して溜息ためいきをつき、それから、顔を伏せたまま、「あんな、どろぼうなんかに、文学を説いたりなさること、およしになったら、いかがでしょうか。私は、あなたのところへお嫁に来るとき、親戚しんせきの婦人雑誌の記者をしている者が、私の母のところに、あなたのとても悪い評判を、手紙で知らせて寄こして、そのときは、私たち、あなたともお逢いしたあとのことで、母は、あなたを信じて居りましたし、その親戚の記者も、あなたと直接お逢いしたことは無く、ただうわさだけを信じて、私たちに忠告して寄こしたのですし、本人に逢った印象が第一だ、と私も思いまして、私は、いまは、ちっともあなたのことを疑っていないのですけれども、あんな、どろぼうなんかに、小説みたいなことおっしゃったりなんかして、――」
「わかった。やっぱり、変質者か。」結婚して、はじめて、このとき、家内をぶん殴ろうかと思った。どろぼうに見舞われたときにも、やはり一般市民を真似て、どろぼう、どろぼうと絶叫して、ふんどしひとつで外へ飛び出し、かなだらいたたいて近所近辺を駈けまわり、町内の大騒ぎにしたほうが、いいのか。それが、いいのか。私は、いやになった。それならば、現実というものは、いやだ! 愛し、切れないものがある。あの悪徳の、どろぼうにしても、この世のものは、なんと、白々しく、興覚めのものか。ぬっとはいって来て、お金さらって、ぬっとかえった。それだけのものでは、ないか。この世に、ロマンチックは、無い。私ひとりが、変質者だ。そうして、私も、いまは営々と、小市民生活を修養し、けちな世渡りをはじめている。いやだ。私ひとりでもよい。もういちど、あの野望と献身の、ロマンスの地獄に飛び込んで、くたばりたい! できないことか。いけないことか。この大動揺は、昨夜の盗賊来襲を契機として、けさも、否、これを書きとばしながら、いまのいままで、なお止まず烈しく継続しているのである。

底本:「太宰治全集3」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年10月25日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月刊行
入力:柴田卓治
校正:小林繁雄
1999年11月1日公開
2005年10月25日修正
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