澄江堂雑記

     一 大雅の画

 僕は日頃大雅たいがを欲しいと思つてゐる。しかしそれは大雅でさへあれば、金を惜まないと云ふのではない。まあせいぜい五十円位の大雅を一ぷく得たいのである。
 大雅たいがは偉い画描ゑかきである。昔、高久靄崖たかひさあいがい一文いちもん無しの窮境にあつても、一幅の大雅だけは手離さなかつた。ああ云ふ英霊漢えいれいかんの筆に成つたは、何百円といへども高い事はない。それを五十円に値切りたいのは、僕に余財のない悲しさである。しかし大雅の画品を思へば、たとへば五百万円を投ずるのも、僕のやうに五十円を投ずるのも、安いと云ふ点では同じかも知れぬ。芸術品の価値も小切手や紙幣しへいに換算出来ると考へるのは、し難い俗物ばかりだからである。
 Samuel Butler の書いた物によると、彼は日頃「出来のい、ちやんと保存された、四十シリング位のレムブラント」を欲しがつてゐた。処が実際二度までも莫迦ばかに安いレムブラントに遭遇した。一度は一ポンドと云ふあたひの為に買はなかつたが、二度目には友人の Gogin にはかつた上、とうとうそれを手に入れる事が出来た。そのはどう云ふ画だつたか、どの位の金を払つたか、それはどちらも明らかではない。が、買つた時は千八百八十七年、買つた場所はストランド(ロンドン)の或質店しちみせの店さきである。
 かう云ふ先例もあつて見ると、五十円の大雅たいがを得んとするのは、かならずしも不可能事ではないかも知れぬ。何処どこか寂しい町の古道具屋の店に、たつた一幅売り残された、九霞山樵きうかさんせうの水墨山水――僕は時時退屈すると弥勒みろくの出世でも待つもののやうに、こんな空想にさへふける事がある。

     二 にきび

 昔「羅生門らしやうもん」と云ふ小説を書いた時、主人公の下人げにんほほには、大きい面皰にきびのある由を書いた。当時は王朝時代の人間にも、面皰のない事はあるまいと云ふ、謙遜けんそんすれば当推量あてずゐりやうに拠つたのであるが、その左経記さけいき二君とあり、二君又は二禁なるものは今日の面皰である事を知つた。二君等は勿論当て字である。もつともかう云ふ発見は、僕自身に興味がある程、傍人ばうじんには面白くもなんともあるまい。

     三 将軍

 官憲くわんけんは僕の「将軍しやうぐん」と云ふ小説に、何行なんぎやうも抹殺をほどこした。処が今日けふの新聞を見ると生活に窮した廃兵たちは、「隊長殿にだまされた閣下連の踏台ふみだい」とか、「後顧するなと大うそつかれ」とか、種種のポスタアをぶら下げながら、東京街頭を歩いたさうである。廃兵そのものを抹殺する事は、官憲の力にも覚束おぼつかないらしい。
 又官憲は今後と雖も、「○○の○○に○○の念を失はしむる」物は、発売禁止を行ふさうである。○○の念は恋愛と同様、虚偽きよぎの上に立つ事の出来るものではない。虚偽とは過去の真理であり、今は通用せぬ藩札はんさつたぐひである。官憲は虚偽をひながら、○○の念を失ふなと云ふ。それは藩札をつきつけながら、金貨に換へろと云ふのと変りはない。
 無邪気なるものは官憲である。

     四 毛生え薬

 文芸と階級問題との関係は、頭と毛生けはぐすりとの関係に似ている。もしちやんと毛が生えてゐれば、かならずしも塗る事を必要としない。又もし禿げ頭だつたとすれば、恐らくは塗つてもかないであらう。

     五 芸術至上主義

 芸術至上主義の極致はフロオベルである。彼自身の言葉によれば、「神は万象ばんしやうの創造に現れてゐるが、しかも人間に姿を見せない。芸術家が創作に対する態度も、またくの如くなるべきである。」この故にマダム・ボヴアリイにしても、ミクロコスモスは展開するが、我我の情意には訴へて来ない。
 芸術至上主義、――少くとも小説に於ける芸術至上主義は、確かに欠伸あくびの出易いものである。

     六 一切不捨

 なんなにがし帽子ばうしばかり上等なのをかぶつてゐる。あの帽子さへなければいのだが、――かう云ふ言葉をす人がある。しかしその帽子を除いたにしても、何の某の服装なるものは、寸分すんぶん立派りつぱになる次第ではない。唯貧しげな外観が、全体に蔓延まんえんするばかりである。
 なんなにがしの小説はセンテイメンタルだとか、何の某の戯曲はインテレクチユアルだとか、それらはいづれも帽子の場合と、選ぶ所のない言葉である。帽子ばかり上等なるものは、帽子を除き去る工夫くふうをするより、上着もズボンも外套ぐわいたうも、上等ならしむる工夫くふうをせねばならぬ。センテイメンタルな小説の作者は、感情を抑へる工夫をするより、理智をかすべき工夫をせねばならぬ。
 これは独り芸術上の問題のみではない。人生においても同じ事である。五欲の克服のみに骨を折つた坊主ばうずは、偉い坊主になつた事を聞かない。偉い坊主になつたものは、常に五欲を克服すべき、他の熱情をいだき得た坊主である。雲照うんせうさへ坊主の羅切らせつを聞いては、「男根だんこんすべから隆隆りゆうりゆうたるべし」と、弟子でし共に教へたと云ふではないか?
 我等の内にある一切いつさいのものはいやが上にも伸ばさねばならぬ。それが我等に与へられた、唯一ゆゐいち成仏じやうぶつの道である。

     七 赤西蠣太

 或時志賀直哉しがなほや氏の愛読者と、「赤西蠣太あかにしかきたの恋」の話をした事がある。その時僕はこんなことを言つた。「あの小説の中の人物には栄螺さざえとか鱒次郎ますじらうとか安甲あんかふとか、大抵たいてい魚貝ぎよばいの名がついてゐる。志賀氏にもヒユウモラス・サイドはないのではない。」すると客は驚いたやうに、「成程なるほどさうですね。そんな事には少しも気がつかずにゐました」と云つた。その癖客は僕なぞよりも「赤西蠣太の恋」の筋をはつきり覚えてゐたのである。
 客は決して軽薄児けいはくじではない。学問も人格も兼備した、むしろ珍しい文芸通である。しかもこの事実に気づかなかつたのは、志賀氏の作品の型とでも云ふか、かく何時いつか頭の中にさう云ふ物をこしらへた上、それにとらはれてゐた為であらう。これは独り客のみではない。我我も気をつけねばならぬ事である。

     八 釣名文人

 古来作家が本を出した時、その本の好評をはかる為に、新聞雑誌に載るべき評論を利用する事はまれではない。中には手加減を加へるどころか、作者自身然るべき匿名とくめいのもとに、手前味噌てまへみその評論を書いたのもある。
 ド・ラ・ロシユフウコオルは名高い格言集の作家である。処がサント・ブウヴの書いたものによると、この人さへジユルナアル・デ・サヴアンに出た評論には、彼自身修正を施したらしい。しかもジユルナアル・デ・サヴアンは、当時発行された唯一ゆゐいちの新聞であり、その評論の載つたのは、千六百六十五年三月九日だと云ふのだから、作家の評論を利用するのも、ずいぶん淵源えんげんは古いものである。僕はロシユフウコオルの格言を思ひながら、この記事を読んだ時、実際苦笑くせうせずにはゐられなかつた。それを思へば日本の文壇は、新開地だけに悪風も少い。売笑批評とか仲間褒なかまぼめ批評とか云つても、まづ害毒は知れたものである。
 ちなみに云ふ。この評論の筆者はマダム・ド・サブレ、評論されたのは例の格言集である。

     九 歴史小説

 歴史小説と云ふ以上、一時代の風俗なり人情なりに、多少は忠実でないものはない。しかし一時代の特色のみを、――殊に道徳上の特色のみを主題としたものもあるべきである。たとへば日本の王朝時代は、男女関係の考へ方でも、現代のそれとは大分だいぶ違ふ。其処そこ宛然ゑんぜん作者自身も、和泉式部いづみしきぶの友だちだつたやうに、虚心平気に書き上げるのである。この種の歴史小説は、その現代との対照のあひだに、自然或暗示を与へ易い。メリメのイザベラもこれである。フランスのピラトもこれである。
 しかし日本の歴史小説には、いまだこの種の作品を見ない。日本のは大抵たいてい古人の心に、今人こんじんの心と共通する、云はばヒユマンなひらめきをとらへた、手つ取り早い作品ばかりである。誰か年少の天才の中に、上記の新機軸を出すものはゐないか?

     十 世人

 西洋雑誌の載せる所によると、二十一年の九月巴里パリにアナトオル・フランスの像の建つた時、彼自身その除幕式に演説を試みたと云ふ事である。この頃それを読んでゐると、かう云ふ一節を発見した。「わたしが人生を知つたのは、人と接触した結果ではない。本と接触した結果である。」しかし世人は書物に親しんでも、人生はわからぬと云ふかも知れない。
 ルノアルの言つた言葉に、「を学ばんとするものは美術館に行け」とか云ふのがある。しかし世人は古名画を見るよりも、自然に学べと云ふかも知れない。
 世人とは常にかう云ふものである。

     十一 火渡りの行者

 社会主義は、理非曲直りひきよくちよくの問題ではない。単に一つの必然である。僕はこの必然を必然と感じないものは、あたか火渡ひわたりの行者ぎやうじやを見るが如き、驚嘆の情を禁じ得ない。あの過激思想取締法案とか云ふものの如きは、正にこの好例の一つである。

     十二 俊寛

 平家物語へいけものがたり源平盛衰記げんぺいせいすゐき以外に、俊寛しゆんくわんの新解釈を試みたものは現代に始まつた事ではない。近松門左衛門ちかまつもんざゑもんの俊寛の如きは、最も著名なものの一つである。
 近松の俊寛の島に残るのは、俊寛自身の意志である。丹左衛門尉基康たんのさゑもんのじやうもとやすは、俊寛成経なりつね康頼等やすよりら三人の赦免状しやめんじやうを携へてゐる。が、成経なりつねの妻になつた、島の女千鳥ちどりだけは、舟に乗る事を許されない。正使せいし基康もとやすには許す気があつても、副使の妹尾せのをが許さぬのである。妻子さいしの死を聞いた俊寛は、千鳥を船に乗せる為に、妹尾太郎せのをたらうを殺してしまふ。「上使じやうしを斬りたるとがによつて、改めて今鬼界きかいしま流人るにんとなれば、かみ慈悲の筋も立ち、上使の落度おちどいささかなし。」この英雄的な俊寛は、成経康頼等の乗船をすすめながら、従容しようようと又かうも云ふのである。「俊寛が乗るは弘誓ぐぜいの船、浮き世の船には望みなし。」
 僕は以前久米正雄くめまさをと、この俊寛しゆんくわんの芝居を見た。俊寛は故人段四郎だんしらう千鳥ちどり歌右衛門うたゑもん基康もとやす羽左衛門うざゑもん、――他は記憶に残つてゐない。俊寛が乗るは云云うんぬんの文句は、当時大いに久米正雄を感心させたものである。
 近松ちかまつの俊寛は源平盛衰記げんぺいせいすゐきの俊寛よりも、遙かに偉い人になつてゐる。勿論舟出ふなでを見送る時には、嘆き悲しむのに相違ない。しかしそのは近松の俊寛も、安らかに余生を送つたかも知れぬ。少くとも盛衰記の俊寛程、悲しい末期まつごにははなかつたであらう。――さう云ふ心もちを与へる限り、「苦しまざる俊寛」を書いたものは、つとに近松にあつたと云ふべきである。
 しかし近松の目ざしたのは、「苦しまざる俊寛」にのみあつたのではない。彼の俊寛は「平家へいけ女護によごしま」の登場人物の一人ひとりである。が、倉田くらた菊池きくち両氏の俊寛は、俊寛のみを主題としてゐる。鬼界きかいしまに流された俊寛は如何いかに生活し、又如何に死を迎へたか?――これが両氏の問題である。この問題は殊に菊池氏の場合、かう云ふ形式にも換へられるであらう。――「我等は俊寛と同じやうに、島流しの境遇に陥つた時、どう云ふ生活を営むであらうか?」
 近松と両氏との立ち場の相違は、盛衰記の記事の改めぶりにも、うかがはれると云ふ事をさまたげない。近松はあの俊寛を作る為に、俊寛の悲劇の関鍵くわんけんたる赦免状のくだりさへも変更した。両氏も勿論近松に劣らず、盛衰記の記事を無視してゐる。しかし両氏とも近松のやうに、赦免状のくだりは改めてゐない。与へられた条件の内に、俊寛の解釈を試みる以上、これだけは保存せねばならぬからである。
 丁度ちやうどその場合と同じやうに、倉田氏と菊池氏との立ち場の相違も、やはり盛衰記の記事を変更した、その変更のし方に見えるかも知れぬ。倉田氏が俊寛の娘を死んだ事にしたり、菊池氏が島を豊沃ほうよくの地にしたり、――それらは皆両氏の俊寛、――「苦しめる俊寛」と「苦しまざる俊寛」とを描出するに便だつた為であらう。僕の俊寛もこの点では、菊池氏の俊寛のあとを追ふものである。唯菊池氏の俊寛は、むしろ外部の生活に安住の因を見出してゐるが、僕のはかならずしもそればかりではない。
 しかしうたひ浄瑠璃じやうるりにある通り、不毛の孤島に取り残された儘、しかもなほ悠悠たる、偉い俊寛を考へられぬではない。唯この巨鱗きよりんとらへる事は、現在の僕には出来ぬのである。
 附記 盛衰記に現れた俊寛は、機智に富んだ思想家であり、つるまへを愛する色好いろごのみである。僕は特にこの点では、盛衰記の記事に忠実だつた。又俊寛の歌なるものは、康頼やすより成経なりつねよりつたないやうである。俊寛は議論には長じてゐても、詩人肌ではなかつたらしい。僕はこの点でも、盛衰記に忠実な態度を改めなかつた。又盛衰記の鬼界が島は、たとひタイテイではないにしても、満更まんざら岩ばかりでもなささうである。もしあの盛衰記の島の記事から、辺土へんどに対する都会人の恐怖や嫌悪けんをを除き去れば、存外ぞんぐわい古風土記こふうどきにありさうな、愛すべき島になるかも知れない。

     十三 漢字と仮名と

 漢字なるものの特徴はその漢字の意味以外に漢字そのものの形にも美醜を感じさせることださうである。仮名かなは勿論使用上、音標文字おんぺうもじの一種たるに過ぎない。しかし「か」は「加」と云ふやうに、祖先はいづれも漢字である。のみならず、いつも漢字と共に使用される関係上、自然と漢字と同じやうに仮名かなそのものの形にも美醜の感じを含み易い。たとへば「い」は落ち着いてゐる、「り」は如何いかにも鋭いなどと感ぜられるやうになり易いのである。
 これは一つの可能性である。しかし事実はどうであらう?
 僕は実は平仮名ひらがなには時時ときどき形にこだはることがある。たとへば「て」の字は出来るだけ避けたい。殊に「何何して何何」と次に続けるのは禁物きんもつである。その癖「何何してゐる。」と切れる時にはにならない。「て」の字の次は「く」の字である。これも丁度ちやうど折れ釘のやうに、上の文章の重量をちやんと受けとめる力に乏しい。片仮名かたかなは平仮名に比べると、「ク」の字も「テ」の字も落ち着いてゐる。或は片仮名は平仮名よりも進歩した音標文字なのかも知れない。或は又平仮名にれてゐる僕も片仮名には感じがにぶいのかも知れない。

     十四 希臘末期の人

 この頃エジプトの砂の中から、ヘラクレニウムの熔岩の中から、希臘ギリシヤ人の書いたものが発見される。時代は 350 B.C. から 150 B.C. 位のものらしい。つまりアテネ時代からロオマ時代へ移らうとする中間の時代のものである。種類は論文、詩、喜劇、演説の草稿、手紙――まだほかにもあるかも知れない。作者は従来書いたものの少しは知られてゐた人もある。名前だけやつと伝つてゐた人もある。勿論もちろん全然名前さへ伝はつてゐなかつた人もある。
 しかしそれはかくも、さういふ断簡零墨だんかんれいぼくを近代語に訳したものを見ると、どれもこれも我我にはお馴染なじみの思想ばかりである。たとへば Polystratus と云ふエピクロス派の哲学者は「あらゆる虚偽と心労とを脱し、人生を自由ならしむる為には万物生成の大法を知らなければならぬ」と論じてゐる。さうかと思へば Cercidas と云ふ所謂いはゆる犬儒派けんじゆはの哲学者は「蕩児たうじ守銭奴しゆせんどとは黄白くわうはくに富み、予ばかり貧乏するのは不都合ふつがふである! ……正義は土豚どとんのやうに盲目なのか? Themis(正義の女神)のめいおほはれてゐるのか?」と大いに憤慨をらした後、「遮莫さもあらばあれ我徒は病弱を救ひ、貧窶ひんるを恵むことを任にしたい」と勇ましい信念を披露ひろうしてゐる。更に又彼に先立つこと三十年余と伝へられる Colophon の Ph※(リガチャOE小文字)nix は「何びとも金持ちには友だちである。金さへあれば神神さへ必ず君を愛するであらう。が、万一貧しければ母親すら君を憎むであらう」と諷刺ふうしに満ちた詩を作つてゐる。最後に ※(リガチャOE大文字)noande の Diogenes は「予の所見に従へば、人類は百般の無用の事に百般の苦楚くそあぢはつてゐる。……予はすでに老人である。生命の太陽も沈まうとしてゐる。予は唯予の道を教へるだけである。……天下の人はことごとく互に虚偽を移し合つてゐる。丁度ちやうど一群いちぐん病羊びやうやうのやうに」と救援の道を教へてゐる。
 かう云ふ思想はいつの時代、どこの国にもあつたものと見える。どうやら人種の進歩などと云ふのは蛞蝓なめくぢの歩みに似てゐるらしい。

     十五 比喩

 メタフオアとかシミリイとかに文章を作る人の苦労するのは遠い西洋のことである。我我は皆せちがらい現代の日本に育つてゐる。さう云ふことに苦労するのは勿論もちろんかく意味を正確に伝へる文章を作る余裕よゆうさへない。しかしふと目に止まつた西洋人の比喩ひゆの美しさを愛する心だけは残つてゐる。
「ツインガレラの顔は脂粉しふんに荒らされてゐる。しかしその皮膚ひふの下には薄氷うすらひの下の水のやうに何かがまだかすかにほのめいてゐる。」
 これは Wassermann の書いた売笑婦ツインガレラの肖像である。僕の訳文はつたないのに違ひない。けれどもむかし Guys のゑがいた、優しい売笑婦の面影おもかげはありありと原文に見えるやうである。

     十六 告白

「もつとおのれの生活を書け、もつと大胆だいたんに告白しろ」とはしばしば諸君のすすめる言葉である。僕も告白をせぬわけではない。僕の小説は多少にもせよ、僕の体験の告白である。けれども諸君は承知しない。諸君の僕に勧めるのは僕自身を主人公にし、僕の身の上に起つた事件を臆面おくめんもなしに書けと云ふのである。おまけに巻末の一覧表には主人公たる僕は勿論、作中の人物の本名ほんめい仮名かめいをずらりと並べろと云ふのである。それだけは御免ごめんかうむらざるを得ない。――
 第一に僕はもの見高い諸君に僕の暮しの奥底をお目にかけるのは不快である。第二にさう云ふ告白を種に必要以上の金と名とを着服するのも不快である。たとへば僕も一茶いつさのやうに交合記録を書いたとする。それを又中央公論か何かの新年号に載せたとする。読者は皆面白がる。批評家は一転機を来したなどとめる。友だちは、いよいよ裸になつたなどと、――考へただけでも鳥肌とりはだになる。
 ストリンドベルクも金さへあれば、「痴人ちじん告白こくはく」は出さなかつたのである。又出さなければならなかつた時にも、自国語の本にする気はなかつたのである。僕もいよいよ食はれぬとなれば、どう云ふ活計を始めるかも知れぬ。その時はおのづからその時である。しかし今は貧乏なりにかく露命をつないでゐる。且又体は多病にもせよ、精神状態はまづノルマアルである。マゾヒスムスなどの徴候は見えない。誰が御苦労にも恥ぢ入りたいことを告白小説などに作るものか。

     十七 チヤプリン

 社会主義者と名のついたものはボルシエヴイツキたると然らざるとを問はず、悉く危険視されるやうである。殊にこの間のだい地震の時にはいろいろその為にたたられたらしい。しかし社会主義者と云へば、あのチヤアリイ・チヤプリンもやはり社会主義者の一人ひとりである。もし社会主義者を迫害するとすれば、チヤプリンもまた迫害しなければなるまい。試みに某憲兵大尉の為にチヤプリンが殺されたことを想像して見給へ。家鴨あひる歩きをしてゐるうちに突き殺されたことを想像して見給へ。いやしくも一たびフイルムの上に彼の姿を眺めたものは義憤を発せずにはゐられないであらう。この義憤を現実に移しさへすれば、――かく諸君もブラツク・リストの一人ひとりになることだけは確かである。

     十八 あそび

 これはサンデイ毎日所載、福田雅之助ふくだまさのすけ君の「最近の米国庭球界」の一節である。
「テイルデンは指を切つてから、かへつて素晴すばららしい当りを見せる様になつた。なぜ指を切つてからの方が、以前よりうまくなつたかと云ふに、一つは彼の気が緊張してゐるからだ。彼は非常に芝居気があつて、勝てるマツチにもたやすく勝たうとはせず、或程度まで相手をあしらつてくらしかつたが、今年度は「指」と云ふハンデイキヤツプの為に、ゲエムの始めから緊張してかかるから、尚更なほさら強いのである……」
 ラケツトを握る指を切断したのち一層いつそう腕を上げたテイルデンはまことに偉大なる選手である。が、指の満足だつた彼も、――同時に又相手を翻弄ほんろうする「あそび」の精神に富んでゐた彼もかならずしも偉大でないことはない。いや、僕はテイルデン自身も時時はちよつと心の底に、「あそび」の精神に富んでゐた昔をなつかしがつてゐはしないかと思つてゐる。

     十九 塵労

 僕も大抵たいていの売文業者のやうに※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうばうたる暮しを営んでゐる。勉強も中中思ふやうに出来ない。二三年ぜんに読みたいと思つた本も未だに読まずにゐる始末しまつである。僕は又かう云ふわづらひは日本にばかりあることと思つてゐた。が、この頃ふとレミ・ド・グルモンのことを書いたものを読んだら、グルモンはその晩年にさへ、毎日ラ・フランスに論文を一篇、二週間目にメルキユウルに対話を一篇書いてゐたらしい。すると芸術を尊重する仏蘭西フランスに生れた文学者も甚だ清閑せいかんには乏しいわけである。日本に生れた僕などの不平を云ふのは間違ひかも知れない。

     二十 イバネス

 イバネス氏も日本へ来たさうである。滞在日数も短かかつたし、まあ通り一ぺんの見物をすませただけであらう。イバネス氏の評伝には Camille Pitollet の V.Blasco-Ib※(アキュートアクセント付きA小文字)※(チルド付きN小文字)ez, Ses romans et le roman de sa vie などと云ふ本も流行してゐる。と云つて読んでゐる次第ではない。唯二三年ぜんの横文字の雑誌に紹介してあるのを読んだだけである。
「わたしの小説を作るのは作らずにはゐられない結果である。……わたしは青年時代を監獄かんごくに暮した。少くとも三十度は入獄したであらう。わたしは囚人しうじんだつたこともある。度たび野蛮やばんな決闘の為に重傷をかうむつたこともある。わたしは又人間の堪へ得る限りの肉体的苦痛をめてゐる。貧乏のどん底に落ちたこともある。が、一方いつぱうには代議士に選挙されたこともある。土耳古トルコのサルタンの友だちだつたこともある。宮殿に住んでゐたこともある。それからずつと鉅万きよまんの金を扱ふ実業家にもなつてゐた。亜米利加アメリカでは村を一つ建設した。かう云ふことを話すのはわたしは小説を生活の上に実現出来ることを示す為である。紙とインクとに書き上げるよりも更に数等巧妙に実現出来ることを示す為である。」
 これはピトオレエの本の中にあるイバネス氏自身の言葉ださうである。しかし僕はこれを読んでも、文豪イバネス氏の云ふやうに、格別小説を生活の上に実現してゐると云ふ気はしない。するのは唯小説の広告を実現してゐると云ふ気だけである。

     二十一 船長

 僕は上海シヤンハイへ渡る途中、筑後丸ちくごまるの船長と話をした。政友会せいいうくわいの横暴とか、ロイド・ジヨオジの「正義」とかそんなことばかり話したのである。その内に船長は僕の名刺を見ながら、感心したやうに小首を傾けた。
「アクタ川と云ふのは珍らしいですね。ははあ、大阪毎日新聞社、――やはり御専門は政治経済ですか?」
 僕はい加減に返事をした。
 僕等は又少時しばらくのち、ボルシエヴイズムか何かの話をし出した。僕は丁度ちやうどその月の中央公論に載つてゐた誰かの論文を引用した。が、生憎あいにく船長は中央公論の読者ではなかつた。
「どうも中央公論もいですが、――」
 船長はにがにがしさうに話しつづけた。
「小説を余り載せるものですから、つい買ひしぶつてしまふのです。あれだけはやめるわけかないものでせうか?」
 僕は出来るだけ情けない顔をした。
「さうです。小説には困りますね。あれさへなければと思ふのですが。」
 爾来じらい僕は船長に格別の信用を博したやうである。

     二十二 相撲

「負けまじき相撲すまふを寝ものがたりかな」とは名高い蕪村ぶそんの相撲の句である。この「負けまじき」の解釈には思ひのほか異説もあるらしい。「蕪村句集講義」によれば虚子きよし碧梧桐へきごどう両氏、近頃は又木村架空きむらかくう氏も「負けまじき」を未来の意味としてゐる。「明日あすの相撲は負けてはならぬ。その負けてはならぬ相撲を寝ものがたりに話してゐる。」――と云ふやうに解釈するのである。僕はずつと以前から過去の意味にばかり解釈してゐた。今もやはり過去の意味に解釈してゐる。「今日けふは負けてはならぬ相撲を負けた。それをしみじみ寝ものがたりにしてゐる。」――と云ふやうに解釈するものである。もし将来の意味だつたとすれば、蕪村は必ず「負けまじき」と調子を張つた上五かみごの下へ「寝ものがたりかな」と調子の延びためを持つて来はしなかつたであらう。これは文法の問題ではない。唯「負けまじき」をどう感ずるかと云ふ芸術的触角しよくかくの問題である。もつとも「蕪村句集講義」の中でも、子規居士しきこじ内藤鳴雪ないとうめいせつ氏とはやはり過去の意味に解釈してゐる。

     二十三 「とても」

「とても安い」とか「とても寒い」と云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかつたわけではない。が従来の用法は「とてもかなはない」とか「とてもまとまらない」とか云ふやうに必ず否定を伴つてゐる。
 肯定に伴ふ新流行の「とても」は三河みかはの国あたりの方言であらう。現に三河の国の人のこの「とても」を用ゐた例は元禄げんろく四年に上梓じやうしされた「猿蓑さるみの」の中に残つてゐる。
秋風あきかぜやとてもすすきはうごくはず 三河みかは子尹しゐん
 すると「とても」は三河の国から江戸へ移住するあひだに二百年余りかかつた訳である。「とても手間取つた」と云ふ外はない。

     二十四 猫

 これは「言海げんかい」の猫の説明である。
「ねこ、(中略)人家ジンカチヒサキケモノヒトトコロナリ。温柔ヲンジウニシテヤスク、マタネズミトラフレバフ。シカレドモ竊盗セツタウセイアリ。カタチトラ二尺ニシヤクラズ。(下略げりやく)」
 成程なるほど猫はぜんの上の刺身さしみを盗んだりするのに違ひはない。が、これをしも「竊盗せつたうノ性アリ」と云ふならば、犬は風俗壊乱の性あり、燕は家宅侵入の性あり、蛇は脅迫けふはくの性あり、てふは浮浪の性あり、さめは殺人の性ありと云つても差支さしつかへない道理であらう。按ずるに「言海」の著者大槻文彦おほつきふみひこ先生は少くとも鳥獣魚貝ぎよばいに対する誹謗ひばうの性を具へた老学者である。

     二十五 版数

 日本の版数は出たらめである。僕の聞いた風説によれば、或相当の出版業者などは内務省への献本二冊を一版に数へてゐるらしい。たとひそれは※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそとしても、今日こんにちのやうに出たらめでは、五十版百版と云ふ広告を目安めやすに本を買つてゐる天下の読者は愚弄ぐろうされてゐるのも同じことである。
 もつと仏蘭西フランスの版数さへ甚だ当てにならぬものださうである。例へばゾラの晩年の小説などは二百部を一版と号してゐたらしい。しかしこれは悪習である。何も香水やオペラ・バツクのやうに輸入する必要はないに違ひない。且又メルキユルは出版した本に一一何冊目と記したこともある。メルキユルを学ぶことは困難にしろ、一版を何部とさだめた上、版数もいつはらずに広告することは当然日本の出版業組合も※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)れいかうして然るべき企てであらう。いや、かう云ふ見易いことは賢明なる出版業組合の諸君のとうに気づいてゐる筈である。するとそれを実行しないのは「もし佳書を得んと欲せば版数の少きを選べ」と云ふ教訓を垂れてゐるのかも知れない。

     二十六 家

 早川孝太郎はやかはかうたらう氏は「三州横山話さんしうよこやまばなし」の巻末にまじなひの歌をいくつも揚げてゐる。
 盗賊の用心に唱へる歌、――「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、夢のに何ごとあらば起せ、桁梁けたはり
 火の用心の歌、――「霜柱、氷のはりに雪のけた、雨のたる木に露のき草」
 いづれも「いへ」に生命を感じたいにしへびとの面目めんもくを見るやうである。かう云ふ感情は我我の中にもとうの昔に死んでしまつた。我我よりものちに生れるものは是等これらの歌を読んだにしろ、なんの感銘も受けないかも知れない。或は又鉄筋コンクリイトの借家しやくや住まひをするやうになつても、是等の歌はまぼろしのやうに山かげに散在する茅葺かやぶき屋根を思ひ出させてくれるかも知れない。
 なほ次手ついでに広告すれば、早川氏の「三州横山話」は柳田国男やなぎだくにを氏の「遠野物語とほのものがたり」以来、最も興味のある伝説集であらう。発行所は小石川区こいしかはく茗荷谷町みやうがだにまち五十二番地郷土研究社きやうどけんきうしや、定価は僅かに七十銭である。ただし僕は早川氏も知らず、勿論広告も頼まれたわけではない。
 付記 なほ四五十年ぜんの東京にはかう云ふ歌もあつたさうである。「ねるぞ、ねだ、たのむぞ、たる木、はりも聴け、明けのつには起せおほびき」

     二十七 続「とても」

 肯定こうていに伴ふ「とても」は東京の言葉ではない。東京人の古来使ふのは「とても及ばない」のやうに否定に伴ふ「とても」である。近来は肯定に伴ふ「とても」も盛んに行はれるやうになつた。たとへば「とても綺麗きれいだ」「とてもうまい」の類である。この肯定に伴ふ「とても」の「猿蓑さるみの」の中に出てゐることは「澄江堂雑記ちようかうだうざつき」(随筆集「百艸ひやくさう」のなか)に辯じて置いた。その島木赤彦しまきあかひこさんに注意されて見ると、この「とても」も「とてもかくても」の「とても」である。
秋風やとてもすすきはうごくはず 三河みかは子尹しゐん
 しかしこの頃又乱読をしてゐると、「続春夏秋冬ぞくしゆんかしうとう」の春の部の中にもかう言ふ「とても」を発見した。
市雛いちびなやとてもかずある顔貌かほかたち 化羊くわやう
 元禄げんろく子尹しゐんは肩書通り三河の国の人である。明治の化羊くわやう何国なんごくの人であらうか。

     二十八 丈艸の事

 蕉門せうもん龍象りゆうざうの多いことは言ふを待たない。しかし誰が最も的的てきてき芭蕉ばせを衣鉢いはつを伝へたかと言へば恐らくは内藤丈艸ないとうぢやうさうであらう。少くとも発句ほつくは蕉門中、誰もこの俳諧の新発知しんぽちほど芭蕉のびをとらへたものはない。近頃野田別天楼のだべつてんろう氏の編した「丈艸集ぢやうさうしふ」を一読し、殊にこの感を深うした。
  前書まへがき
木枕のあか伊吹いぶきにのこる雪
大原おほはらや蝶の出て舞ふおぼろ月
谷風や青田あをためぐいほきやく
小屏風こびやうぶに山里涼し腹の上
いなづまのさそひ出してや火とり虫
草芝をづるほたる羽音はおとかな
鶏頭けいとうの昼をうつすやぬり枕
病人と撞木しゆもくに寝たる夜寒よさむかな
蜻蛉とんぼうの来ては蝿とる笠のうち
夜明よあけまで雨吹く中や二つ星
ほたの火やあかつきがたの五六尺

 是等これらの句はただびを得たと言ふばかりではない。一句一句変化に富んでゐることは作家たる力量を示すものである。几董輩きとうはい丈艸ぢやうさうわらつてゐるのは僣越せんゑつまた甚しいと思ふ。

     二十九 袈裟と盛遠

袈裟けさ盛遠もりとほ」と云ふ独白どくはく体の小説を、四月の中央公論で発表した時、或大阪の人からこんな手紙を貰つた。「袈裟はわたるの義理と盛遠のなさけとに迫られて、みさほを守る為に死を決した烈女である。それを盛遠とのあひだに情交のあつた如く書くのは、烈女袈裟に対しても気の毒なら、国民教育の上にも面白からん結果をきたすだらう。自分は君の為にこれを取らない。」
 が、当時すぐにその人へも返事を書いた通り、袈裟と盛遠との間に情交があつた事は、自分の創作でもなんでもない。源平盛衰記げんぺいせいすゐき文覚発心もんがくほつしんくだりに、「はやきたつて女と共にし居たり、狭夜さよやうやう更け行きて云云うんぬん」と、ちやんと書いてある事である。
 それを世間一般は、どう云ふ量見か黙殺してしまつて、あのあはれぢよ主人公をさも人間ばなれのした烈女であるかの如く広告してゐる。だから史実を勝手に改竄かいざんした罪は、あの小説を書いた自分になくして、むしろあの小説を非難するブルヂヨア自身にあつたと云つて差支さしつかへない。改竄かいざんするしないは格別大問題だと心得てゐないが、事実としてこの機会にこれだけの事を発表して置く。勿論源平盛衰記の記事は※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそだと云ふ考証家が現れたら、自分は甘んじて何時いつでも、改竄者の焼印を押されようとするものである。

     三十 後世

 わたし知己ちきを百代ののちに待たうとしてゐるものではない。
 公衆の批判は、常に正鵠せいこうしつしやすいものである。現在の公衆は元より云ふを待たない。歴史は既にペリクレス時代のアゼンスの市民や文芸復興期のフロレンスの市民でさへ、如何いかに理想の公衆とは縁が遠かつたかを教へてゐる。既に今日こんにち及び昨日さくじつの公衆にしてくの如くんば、明日みやうにちの公衆の批判といへどまた推して知るべきものがありはしないだらうか。彼等が百代ののちよく砂ときんとを辨じ得るかどうか、私は遺憾ゐかんながら疑ひなきを得ないのである。
 よし又理想的な公衆があり得るにした所で、果して絶対美なるものが芸術の世界にあり得るであらうか。今日こんにちの私の眼は、唯今日の私の眼であつて、決して明日みやうにちの私の眼ではない。と同時に又私の眼が結局日本人の眼であつて、西洋人の眼でない事もたしかである。それならどうして私に、時と処とを超越した美の存在などが信じられよう。成程なるほどダンテの地獄の火は、今もなほ東方の豎子じゆしをして戦慄せんりつせしむるものがあるかも知れない。けれどもその火と我我とのあひだには、十四世紀の伊太利イタリイなるものが雲霧うんむの如くにたなびいてゐるではないか。
 いはんや私は尋常の文人である。後代の批判にして誤らず、普遍ふへんの美にして存するとするも、書を名山に蔵するていの事は、私の為すべき限りではない。私が知己を百代の後に待つものでない事は、問ふまでもなく明かであらうと思ふ。
 時時私は廿年ののち、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、うづだかほこりうづもれて、神田かんだあたりの古本屋のたなの隅に、むなしく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館としよかんにたつた一冊残つた儘、無残な紙魚しぎよゑさとなつて、文字もじさへ読めないやうに破れ果ててゐるかも知れない。しかし――
 私はしかしと思ふ。
 しかし誰かが偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行なんぎやうかを読むと云ふ事がないであらうか。さらに虫のい望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
 私は知己ちきを百代ののちに待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が如何いかに私の信ずる所と矛盾むじゆんしてゐるかも承知してゐる。
 けれども私はなほ想像する。落莫らくばくたる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人いちにんの読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、おぼろげなりとも浮び上る私の蜃気楼しんきろうのある事を。
 私は私の嗤笑しせうすべき賢達けんたつの士のあるのを心得てゐる。が、私自身といへども私の愚を笑ふ点にかけてはあへて人後に落ちようとは思つてゐない。唯、私は私の愚を笑ひながら、しかもその愚に恋恋たる私自身の意気地いくぢなさを憐れまずにはゐられないのである。或は私自身と共に意気地ない一般人間をも憐れまずにはゐられないのである。

     三十一 「昔」

 僕の作品には昔の事を書いたものが多いから、そこでその昔の事を取扱ふ時の態度を話せと云ふ註文が来た。態度とかなんとか云ふと、はなはだ大袈裟おほげさに聞えるが、何もそんな大したものを持ち合せてゐる次第では決してない。まあ僕の昔の事を書く時に、どんな眼で昔を見てゐるか、云ひかへれば僕の作品の中で昔がどんな役割を勤めてゐるか、そんな事を話して見ようかと思ふ。元来かみしもをつけての上の議論ではないのだから、どうかその心算つもりでお聴きを願ひたい。
 お伽噺とぎばなしを読むと、日本のなら「昔々」とか「今は昔」とか書いてある。西洋のなら「まだ動物が口をいてゐた時に」とか「ベルトが糸をつむいでゐた時に」とか書いてある。あれは何故なぜであらう。どうして「今」ではいけないのであらう。それは本文ほんもんに出て来るあらゆる事件に或可能性を与へる為の前置きにちがひない。何故かと云ふと、お伽噺とぎばなしの中に出て来る事件は、いづれも不思議な事ばかりである。だからお伽噺の作者にとつては、どうも舞台を今にするのは具合ぐあひが悪い。絶対に今ではならんと云ふ事はないが、それよりも昔の方が便利である。「昔々」と云へばすで太古緬※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)たいこめんばくの世だから、小指ほどの一寸法師いつすんぼふしが住んでゐても、竹の中からお姫様が生れて来ても、格別かくべつ矛盾むじゆんの感じが起らない。そこであらかじめ前へ「昔々」と食付くつつけたのである。
 所でもしこれが「昔々」の由来だとすれば、僕が昔から材料をるのは大半この「昔々」と同じ必要から起つてゐる。と云ふ意味は、今僕が或テエマをとらへてそれを小説に書くとする。さうしてそのテエマを芸術的に最も力強く表現する為には、或異常な事件が必要になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、異常なだけそれだけ、今日こんにちこの日本に起つた事としては書きこなしにくい、もししひて書けば、多くの場合不自然の感を読者に起させて、その結果折角せつかくのテエマまでも犬死をさせる事になってしまふ。所でこの困難を除く手段には「今日こんにちこの日本に起つた事としては書きこなしにくい」と云ふことばが示してゐるやうに、昔か(未来はまれであろう)日本以外の土地か或は昔日本以外の土地から起つた事とするよりほかはない。僕の昔から材料を採つた小説は大抵たいていこの必要に迫られて、不自然の障碍しやうがいを避ける為に舞台を昔に求めたのである。
 しかしお伽噺とぎばなしと違つて小説は小説と云ふものの要約上、どうも「昔々」だけ書いてすましてゐると云ふ訳にはかない。そこでほぼ時代の制限が出来て来る。従つてその時代の社会状態と云ふやうなものも、自然の感じを満足させる程度において幾分とり入れられる事になつて来る。だから所謂いはゆる歴史小説とはどんな意味に於ても「昔」の再現を目的エンドにしてゐないと云ふ点で区別を立てる事が出来るかも知れない。――まあざつとこんなものである。
 ついでにつけ加へて置くが、さう云ふ次第だから僕は昔の事を小説に書いても、その昔なるものに大して憧憬しようけいは持つてゐない。僕は平安朝へいあんてうに生れるよりも、江戸時代に生れるよりも、はるか今日こんにちのこの日本に生れた事を難有ありがたく思つてゐる。
 それからもう一つつけ加へて置くが、或テエマの表現に異常なる事件が必要になる事があると云つたが、それには其外そのほかにすべて異常なる物に対して僕(我我人間と云ひたいが)の持つてゐる興味も働いてゐるだらうと思ふ。それと同じやうに或異常なる事件を不自然の感じを与へずに書きこなす必要上、昔を選ぶと云ふ事にも、さう云ふ必要以外に昔そのものの美しさが可也かなり影響を与へてゐるのにちがひない。しかし主として僕の作品の中で昔がつとめてゐる役割は、やはり「ベルトが糸をつむいでゐた時に」である、或は「まだ動物が口をいてゐた時に」である。

     三十二 徳川末期の文芸

 徳川末期の文芸は不真面目ふまじめであると言はれてゐる。成程なるほど不真面目ではあるかも知れない。しかしそれ等の文芸の作者は果して人生を知らなかつたかどうか、それは僕には疑問である。彼等通人つうじんはらの中では如何いかに人生の暗澹あんたんたるものかは心得てゐたのではないであらうか? しかもその事実を回避くわいひする為に(たとひ無意識的ではあつたにもせよ)洒落しやれのめしてゐたのではないであらうか? 彼等の一人ひとり、――たとへば宮武外骨みやたけぐわいこつ氏の山東京伝さんとうきやうでんを読んで見るがい。ああ云ふ生涯に住しながら、しかも人生の暗澹あんたんたることに気づかなかつたと云ふのは不可解である。
 これは何も黄表紙きべうしだの洒落本しやれぼんだのの作者ばかりではない。僕は曲亭馬琴きよくていばきんさへも彼の勧善懲悪くわんぜんちやうあく主義を信じてゐなかつたと思つてゐる。馬琴は或は信じようと努力してはゐたかも知れない。が饗庭篁村あへばくわうそん氏の編した馬琴日記抄とうによれば、馬琴自身の矛盾には馬琴も気づかずにはゐなかつた筈であらう。森鴎外もりおうぐわい先生は確か馬琴日記抄のばつに「馬琴よ、君は幸福だつた。君はまだ先王せんわうの道に信頼することが出来た」とかなんとか書かれたやうに記憶してゐる。けれども僕は馬琴もまた先王の道などを信じてゐなかつたと思つてゐる。
 若し※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそと云ふことから言へば、彼等の作品は※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそばかりである。彼等は彼等自身と共に世間をあざむいてゐたと言つてもい。しかし善や美に対する欣求ごんぐは彼等の作品に残つてゐる。殊に彼等の生きてゐた時代は仏蘭西フランスのロココ王朝と共に実生活の隅隅くまぐまにさへ美意識の行き渡つた時代だつた。従つて美しいと云ふことから言へば、彼等の作品にあふれた空気は如何いかにも美しい(勿論多少頽廃たいはいした)ものであらう。
 僕は所謂いはゆる江戸趣味に余り尊敬を持ってゐない。同時に又彼等の作品にも頭のさがらない一人ひとりである。しかし単に「浅薄せんぱく」の名のもとに彼等の作品を一笑し去るのは彼等の為にどくであらう。若し彼等の「常談じやうだん」としたものを「真面目まじめ」と考へて見るとすれば、黄表紙きべうし洒落本しやれぼんもその中には幾多の問題を含んでゐる。僕等は彼等の作品に随喜ずゐきする人人にも賛成出来ない。けれどもまた彼等の作品を一笑してしまふ人人にもやはり軽軽けいけいに賛成出来ない。
(大正七年―十三年)
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
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