囚われ

 孝太郎が起き上った時恒雄夫妻はまだ眠っていた。彼は静に朝の装いをすまして、それから暫く二階の六畳に入ってみた。その時ふと、今朝何かそうそうと物の逃げ去るような気配けはいに眼を覚したのだということが、彼の意識にちらと浮んでまた消えた。
 彼は椽側に立ち出て冷たい秋の朝を眺めた。桜の黄色い葉にさしている尖った光線、垣根のうっすらとした靄、立ち並んだ人家の湿った屋根、それから遠く高い青空、それらが彼の睡眠不足な眼にまぶしいような刺戟を与えた。然し彼の心の中には懶い倦怠と、それからある専念とがあった。――昨日のことがしきりに気に懸ったのである。
 室の中央には大きい黒檀の机が据えられてその上に二三の雑誌がちらかっている。床の間には旅行鞄や手提などがごたごたと並べられて、その上の花籠には菊の花がそれでも美しい色を呈している。それから椽端の籐の寝椅子には白い毛布がしいてある。凡てそれらのものが乱雑と一種の落ち付きとを室に与えていた。其処には一定の主人が無かった。孝太郎は隣りの室を自分の書斎と寝室とにしているし、恒雄夫妻は階下したに幾つもの室を持っていたから。そして其処で彼等の隙な時間がよく交る交るに過された。孝太郎はそれを家のサロンだと呼んでいた。其処で孝太郎は恒雄の苦悶をまし、また彼と恋愛を論じた。其処で富子とみこ(恒雄の妻)は孝太郎に彼女の過去をうちあけ、また彼の同情ある慰安の言葉を聞いた。そして其処で咋日の夕方孝太郎と富子とはふと唇と唇と、腕と腕との抱擁を交わしたのである。
 孝太郎は今恒雄夫妻の顔を見る折の自分の心が気遣われた。昨日の出来事が彼の心の中で何か重大な形を取っては居なかったけれど、それからある暗い影が生じて来るかも知れないことを恐れた。実際それは富子と彼との間の同感と気分とから来た自然の行為ではあったけれど、そしてまた静な夕暮に惑わされた単純な行為であったかも知れないけれど、強いた人工の其処に無かったことが彼に却って不安を齎したのである。
 孝太郎が静に二階から下りて来た時、茶の間で恒雄は新聞を見ていた。そして孝太郎に「お早う!」と云いながら、やはり新聞から眼を離さなかった。
 孝太郎も黙って別の新聞を手に取ってみた。その時彼は全く落ち付き払っている自分を見出して、少し意外な感じがした。
「何か面白いことがありますか。」と彼はきいてみた。
「何も無いようですね。何時も同じような記事ばかりで少しき倦きしますね。」
 それから彼等は、早朝の新聞紙の匂いも暖い夏間に限るものだというようなことを話した。
 孝太郎は暫くしてから座を立った。そして台所の方から出て来る富子に出逢った。彼は彼女のふっくらとした※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)おとがいと房々とした髪とを見た。
 彼女は一寸立ち留って孝太郎を見た。それから急に快活な調子で、「あちらに行らっしゃい。今お茶を入れますから。」
 彼は何故ともなくひどく狼狽した。そしてそのまま富子の後についてまた茶の間に帰った。
 彼等はいつでも朝食の前に紅茶を一杯のむことになっていたのである。孝太郎はその朝何だか新奇な気持ちを覚えた。そして紅茶をのみ自分の手付がまずいように思えるのが気にかかって、おずおずと恒雄と富子との方を見た。彼等は何時ものように自由にそして言葉少なに紅茶を飲んだ。
「今日は少し時間に遅れたようだ。」と云って恒雄は柱時計を見上げるようにした。
「そうですか。」
 こう云った富子の方を恒雄はじっと見やった。然し彼はそれきり何とも云わなかった。
 富子はまもなく立ち上った。その時ふと自分の方に向いた彼女の眼の中に孝太郎はちらと昨日の感覚を見出して喫驚びっくりした。彼女の眼はいつも何かしら肉感的な濡いを持っていた。

 孝太郎は次第に落ち付きのない日を過すようになった。何か息苦しいものが彼の心のうちに醸されてきたのである。
 彼は富子の悩んだ心を見る時、その求めて得られざる永久の不満を包んだ心を見る時、その前に手を合したいような気がした。どうかして柔い涙で彼女の心を浸すような慰安の言葉をかけてやりたいと思った。それが彼女のために、恒雄と二人のためではなくただ彼女の魂のためにいいであろう、と思った。然し彼のそういう言葉の下から、訴えるようなまたよりかかって来るような彼女の眼差しを見る時、彼はもうどうすることも出来なかった。其処にはもはや何の言葉も意志も用をなさなかった。彼はただ彼女の唇に引きつけらるるの外はなかったのである。
 そういう自分をふり返ってみる時、彼はいつも恒雄の心を下から見上げるようにして覗いた。そしてやがては……と思った。然し何の「やがては」であろう?――彼はよく恒雄夫妻の間を知っていたのである。
 恒雄は孝太郎の近い親戚に当る。彼はまだ年若くて父の声望の御影でさる会社に重要な地位を占めてから、富子を迎えて別居したのであった。二人の間には甘い一年が過された。それからふとしたことで恒雄は、妻が以前に通じた男のあることを知った。それから彼はまた妻が今もなお秘めて持っているその男の写真を見た。彼はそういう彼女の心を悪んだけれど、彼女の美しい肉体を愛した。その憎悪と愛着とが彼を苦しめたのである。
 恒雄はある時孝太郎にこう云った。
「僕は妻に幾度も過去をすっかりうち明けてくれと頼んだのです。実際僕はあれの過去をすっかり知りたかった、ほんとうに愛したいためにです。然し妻はいつも、もう忘れてしまった過去のことを今新らしく思い出さして下さるなと答えるきりです。それが僕を益々苛ら苛らさしたのです。けれど僕が妻のそういう心を憎むのは、その肉体を愛することを少しも妨げなかったのです。実際僕のうちには妻の肉体に対する愛着が深く喰い入っていました。そしてその愛着がなお僕を執拗にならしたんです。僕も君が云うように、僕を知らない前に妻が他の男を愛したことを責めるのではありません。然しその男は今も生きています、そして時々は妻のことを思い出すでしょう。妻もその男のことを時々思い出しているに相違ありません。よし離ればなれにせよ、二人の心が時々相顧みて過去を現在に生かしているという事実は、僕にとって堪えられない苦悶の種です。実際僕はそのために妻を責めながら、益々妻の心にその過去の記憶を蘇えらすようにしているのかも知れません。然しそれならばと云ってどうすればよかったのでしょう? 或は僕か妻か何れかが間違っていたかも知れません。と云って今になってはもうどうすることも出来ないんです。……あの男か妻か、どちらかが死んでいればよかったのです。」
 こう云って恒雄は顔面の筋肉をぴくぴくと痙攣さした。そして、「あなたが愛を信じるなら現在の愛着の上に新らしく未来を築き上げてゆかれる筈です。」と彼に云った孝太郎は、この告白をきいて彼の顔を見るに忍びなかった。
 恒雄のこういう心を富子は理解していないであろう。そしてまた、富子は過去にかの男の胤を宿したことがあるけれど、それは自然の流産に終ったという事実を、恒雄はまだ少しも知らないでいる。それからまた富子と孝太郎との新らしい間を恒雄が知ったなら……。
 孝太郎は心が何かに搾らるるような気がした。そして単なる同情の接吻というものは……と考えてみたけれど、その先を見つめるのに堪えられなかった。
「何処かへ行きませんか。」とある時恒雄は孝太郎に云った。
 それは綺麗に晴れた日曜の朝であった。静かな小春の日光が、何処かに小鳥の囀るような気持ちを齎していた。
「そうですね。」と孝太郎は曖昧な返事をした。
 種々な郊外の名所の名が恒雄の口から出た。そしてしまいには鎌倉附近を一日遊んで来ようということになった。
 然しその時孝太郎は一種の懶い疲労を感じて、白日の下に恒雄と一緒に歩くことが何とはなしに躊躇された。澄み切った空に満ちた光線や、黄色い銀杏の葉や、静かな野や海が彼の頭に映じたけれど、それを見る自分の心が何となく気付かわれた。
「富子さんは?」と何気なく聞いた。
「富子も一緒につれてゆきましょう。」と恒雄は答えた。
 富子が来た時、恒雄は孝太郎の顔をちらと見てこう云った。
「今日鎌倉に行かないか。」
「え? どうして。」
「ただ遊びに行くのさ。」
「私は……、」と富子は顔を上げて二人を見た。「あなた方二人で行っていらしったら。」
 三人の間に訳の分らない躊躇と不決断とが暫く続いた。
「私が留守居してあげましょう。」と孝太郎は云った。そして富子の方に向いて、「ねえ、行っていらっしゃい。」
「だって……。」と云いかけたまま富子は心持ち首を傾げた。
 そういう時富子の肉体は特に魅力を増した。彼女は頬から頸へかけて柔いふっくらとした肉がついている。それをけだるそうに左に傾げて、左手の指先で軽くそれを支えるようにするのは彼女のいつもの癖であった。その手指と頸の肉との接触にある感覚が漂っていた。
 それをじっと見ている恒雄の眼を見た時、孝太郎は一人苛ら苛らして来た。
「それに私は今日少し用がありますから。」と孝太郎は云った。
「それじゃ僕一人行って来ましょう。」と恒雄は眉をあげて云った。
 恒雄が仕度している間、孝太郎はまだ行こうか行くまいかと迷っていた。
 そしてぐずぐずしている間に恒雄は家を出て行った。
 その時、富子はほっとしたように孝太郎を見た。彼は何だかひどくそわそわとして、そのまま黙って二階に上ってしまった。
 一人になった時孝太郎はやはり行かなくてよかったと思った。もう身を動かしたくないような気分が彼のうちにあった。然し富子と二人で家に残ったことが深く彼の心を咎めた。それは恒雄に対する単なる思いやりばかりでなかった。こうして一人富子の姿を思い浮べるのが自分自身に対しても何となく憚られたのである。それにも らず[#「 らず」はママ]、彼はやはり階下したに居る富子のことを思い、また彼女と恒雄との間を思っていた。そしてふと或る時恒雄が興奮しながら語ったことが彼の記憶に浮んできた。
 ――それはある狂わしい晩春の頃であった。恒雄と富子とはよりそって、夕暮の空に流るる悩ましい雲を見ていた。富子は指先を男の手に嬲らせながら、そっと横顔を男の顔にあてた。
「耳を……。」と彼女は囁いた。
 恒雄は柔い女の耳朶を唇に挾んだ。
「もっと強く。」
 それで彼は強く歯でそれを噛んだ。
「いたい!」と女は云ってつと顔を引いた。それからちらと夫の顔を見た。彼女は何だか狼狽し、それから顔を赤くして俯向いてしまった。
 恒雄はじっとその姿を見た。「俺よりも妻の方がよほど処女バージニチイに遠い!」と彼は思った。それから後で彼はそれを思い出す度毎に、妻の感覚のうちにはあの男との過去の回想が交っていると推定したのである。
 孝太郎は今その話を思い出して、ある嫌悪の情が起った。然しそれは富子に対してではなく、それを云った恒雄に対してであった。そしてまた今日恒雄と一緒に行かなかった富子に対して、わけもなく腹立たしいような思いをした。
 その午後富子と顔を合した時、彼は一人胸を苦しめながらこう云った。
「あなたはなぜ今日行かれなかったのです。」
「それじゃあなたは?」と富子は云った。
「行きたくなかったからです。」
「私も。」
 二人はそのまま其処の椽側に屈んだ。富子は訴えるような眼付を彼の横顔に投げた。
「もう何かを余り考えないで下さいね。」
「何にも考えてはいません。」孝太郎はやはり正面を真直に見ながら答えた。
「ねえ!」暫くして富子はほっと息をした。
「私ほんとにあなたに済みませんわね。」
「そんなこと仰言っちゃいけません。誰も悪いんじゃないんですから。」
「私はもう何にも云うまい、自分一人で自分の苦しみを堪えてゆこうと幾度思ったことでしょう。それでもやはり何かに頼りたかったのでした。あなたの前に何だか黙っては居れなかったのですもの。……ほんとに私はどうすればよかったのでしょう。」
「過去のことはもう何にも云いますまい、ね。ただ未来を見つめて生きましょう。それの方がいいのです。」
「未来ですって?」
「ええ、」と答えたが孝太郎は急に何かに引き戻されたような気がした。「余り考えるといけません。」
「偽りを仰言っちゃいやです。私は苦しいんですから、そして迷ってしまいますから。偽りが一番今の私にはつらいのです。」
「もうそんなことを云うのは止しましょう。」と孝太郎は云った。「私達の間に何の虚偽があったでしょう? 種々な言葉をもてあそぶより黙っていましょう。ねえ、黙っている方が心が静まるでしょうから。」
「ええ、」と富子は低く答えた。
「ただあなたは自分のお心を静に保っていらるればそれでいいのです。何にも考えないで心を静にしておいでなさい。そのうちには恒雄さんだって……。」
「恒雄!」と富子は思わず叫んだ。そして身を堅くしてきっと孝太郎を見た。然しそれは一瞬のうちに過ぎ去った。彼女はまた力なく首垂れてしまった。
「どうなすったのです。」と彼はきいた。
「いいえどうも。」
「私は恒雄さんを信じています。」
 富子は眼をあげてただじっと孝太郎を見た。
「此の頃では、」と彼女は云った、「何かしきりに考え事をしているようです。そしておこることがよほど少くなりましたけれど……。」
「けれど?」
「私には温くして貰うより、冷たくして貰う方がいいんです。」
 孝太郎は一寸身を震わした。そしてじっと彼女を眺めた。その頬から頭への肉付を見ていると、何か悩ましいものに襲われた。
 富子はほっと吐息をした。重苦しいものが二人の間に挾ったのである。二人はそれきり沈黙のうちに、静に移ってゆく庭の日影に眼を落した。狭い庭にも秋の凋落が何時とはなしに襲っている。淋しく立った樹々の幹には孤独の影が冷たく凝結して、その向うを限った板塀の節穴から、ほろろ寒い気が流れてくる。
 孝太郎は過ぎし日を思った。初秋の頃、彼は富子と二人でよく黙ったままいつまでもじっとしていることがあった。その頃女の心には悩みとはかない希望とが満ちていた。彼はその心をやさしい慰安の眼でじっと見守った。そして二人の間にはしみじみとした温情が流れていた。それがいつのまにか、彼の心には暗い影がさし、女の心にはフェータルな影がさしてきた。二人の間に交わされたものは止むすべもない数度の唇と腕との抱擁にすぎないけれど、それが二人の間の気分を全く初めと異る色に染めなしてしまった。
「私もうあなたなしには生きてゆけない。」と富子は思いつめたように囁いた。
「私達はお互に悔いの無いような途を進まなくてはなりません。あなたはふっと嫌な影が心にさすことはありませんか。」
「いえ、どうしてでしょう? 私あなたにお目にかからなかったら今頃はどうなっていたことでしょう。」
「私も多少でもあなたのお力になったのならどんなにか嬉しいんです。」
「いつまでも私のお友達になって下さるんでしょうね。」
「ええあなたさえそうでしたら。」
「私あなた一人がお頼りですもの。」
「私は何だか自分に力が無くなってゆくような気がします。何だかこう自分の足下が不確かなような……。」
「私ももう……。」そう云って突然富子は孝太郎の肩を捉えた。
 二人はじっと互の眼に見入った。その時、孝太郎の云った言葉の真の意味は、富子の眼差しに征服されてしまっていた。孝太郎ももうそれを意識してはいなかった。
 彼等のうちには一瞬間凡ての忘却があった。そしてその周囲に淡い日の光りがあった。

 恒雄はいつも午後の五時頃に社から帰って来た。でも時によると三時頃に帰って来ることがあった。そういう時は大抵孝太郎の所謂サロンで彼と何かの話をしながら、夕食までの時間を過すのが常であった。或る日もやはり彼は早く帰って二階に上って来た。
 その時孝太郎は寝椅子の上に横になって空を見ていた。恒雄はすぐに其処にあった坐蒲団の上に大儀そうに坐った。それは先刻まで富子がしいていたものであった。
「職業の方はどうです。」と恒雄はきいた。
「さっぱりまだ手掛りがありません。」
 孝太郎はこう答えながら自分の身をかえりみた。彼は学校を卒業してある職業を探しながら閑散な日を送るようになってから、種々の都合上恒雄の家に起臥するようになったのである。それからもう半歳余りの日が過ぎた。彼はただ閑散なるままに懶惰な生活をして時を過した。
「君のように何時も呑気だといいですね。」
「そう呑気だというんでもありませんけれど、何だか世間のことはうるさくて。」
 それから二人は暫く種々な世間話をした。けれど孝太郎はそうしているのが次第に不安になって来た。恒雄が何かを押し隠すような風にしているのが気にかかったのである。それで直接にこう尋ねてみた。
「何だか今日は少し苛ら苛らしていらるるようじゃありませんか。」
「ええそうかも知れません。」と恒雄は平気で答えた。
「何か御心配のことでも?」
「やはりいつもの問題なんです。僕は常にそればかり考えさせられるようになったんです。そして次第に悲しい結論に達してきます。」
「結論だと仰言ると?」
「さあ何と云ったらいいですかね。……まあ一口に云えば僕は到底富子と根本から相容れないということです。」
「それは無理にそういう風に考えようとなさるからではないでしょうか。実際あなたは余りに富子さんの過去に拘泥しすぎていらるるようです。」
「いやそうでもないんです。と云うのは、僕は今迄と別な方面から考えたんですがね。実際僕は今迄ただ妻をじっと見ていたきりで、自分の方はお留守にしていたんですね。それも妻というものに余り期待を大きく持ちすぎていたからでしょう。僕の理想は現実から美事に裏切られてしまったのです。それを僕はなぜだなぜだと云って妻に責めまた自分に責めたんです。現実の姿に向って何故だと問うのは過去を現在に返せというのと同じに馬鹿げたことなんですね。で僕はもう妻に向ってなぜ僕の理想通りでないのかと責めはしませんでした。その代りに富子という者と僕という者とを別々に引き離して見てみたんです。すると僕と富子とはどうしても相容れない二つのものだと思うようになったんです」
「するとあなたは全く孤独を見出されたわけですか。」
「いや全くの孤独というものを僕は信じません。実際僕は自分を見る時、自分のうちに妻の……そうですね、匂い、息、いや兎に角何かを見出すんです。僕のうちにはあれの肉体が深く喰い込んでいます。それにどうでしょう、僕の心とあれの心とは全く背中合せに反対の方を向いているんですからね。」
「それはあなたが富子さんの心に触れる場所が悪いという故じゃないでしょうか。どんな人の心にも屹度ある方面から見れば温い柔い部分があると私は信じますね。そして其処からその人の心に触れる時には、手を合わしたいような敬虔な心持ちが起る筈です。そういう態度を押し進めてゆくと、しまいには愛ばかりが残る筈だと思っています。」
「君はそれを広い愛というものよりもっと狭くて深い所謂恋愛というものにもあてはめようと思っているんですか。」
「私の恋愛観は別の問題です。然しともかくもあなたの富子さんに対する態度は其処から初めるのが正当だろうと思いますが。」
「或はそうかも知れません。然し僕の妻に対する強い愛着をどうしましょう。現在の妻のうちにある彼女の過去をどうしましょう。それから二人の間の冷たい反目をどうしましょう。今になってはもう後戻りの出来ない位、それらのものが深く根を下しています。僕はまあ云ってみれば美しい栗のいがを胸に抱いているようなものです。もう離れて見れないほど強く密接に抱いているんです。それでも畢竟は僕の胸と栗の毬とは相容れない別々のものなんです。何れかが壊れなければ……。」
「それでは毬を壊して中だけを抱くだけでしょう。」
「それには僕と妻と全く別々の離れたものにならなくては……。」
「え!」と孝太郎は声を立てた。
 二人は黙って顔を見合った。彼等の興奮した頭に不祥な影がちらっと閃き去った。
 孝太郎はつくづくと恒雄の顔を見守った。その心持ち下脹れの顔の輪廓と、多少角ばった※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)の筋肉と強い眼の光とを彼は見た。
「一体それでどうなさるおつもりです。」と孝太郎は云った。
 恒雄はにがい表情をして遠くの方を見つめた。
「やはり僕と富子とは夫婦ですからね。」
 孝太郎は何かに冷りとして黙し込んでしまった。彼は顧みて、自分と富子と、それから恒雄との間を思ってみた。そして其処に何か調子外れたような不安を見た。
「もう下らない話は止しましょう。」と暫くして恒雄が云った。彼はきっと唇を結んで、右手の拳でじっと畳の上を押えつけていた。
 彼等はそれから何かつまらぬことを暫く話していた。然し妙に冷たいへだたりが二人の間にあった。
 時が次第に冷やかなものを三人の間に持ち来した。彼等は何とはなしにただじっと互の心を探るように黙ってしまうことがあった。そして孝太郎は一人で、どうにかしなければ、どうにかしなければ……と苛ら立った。
 或晩皆で茶の間に集った時、富子の顔には執拗な高慢の影がさしていた。そしてその凡てを反撥せんとする冷静と、恒雄のじっと動かない瞳とが、相互にある反映をし合って昂じてきた。で孝太郎は勉めて快活を装った言葉を発してみたけれど、すぐに恒雄と富子との緊張した沈黙に感染して黙り込んでしまった。
「葡萄酒を少しくれないか。」と恒雄が云った。
 富子は黙ったまま立ち上って壜とグラスとを持って来た。それから女中の手から水菓子の盆を受け取って恒雄の前に置いた。そして「はい。」と云った。
 恒雄はその言葉に眉をぴくりとさした。それでも黙ってグラスを干した。
「どうです。」と恒雄は孝太郎にもそれをすすめた。
「今御飯を召し上ったばかりなのに……。」と富子がはじめて口を開いた。
 孝太郎は苦しくなってきた。
「妙にむし暑いような晩ですね。」と彼は云って、そっと座を立った。その時ふと富子の顔を見たら、冷い瞳の光りが彼の胸を射た。
 孝太郎は障子を開けて縁側に出た。冷たい空気が彼の熱した額を流れた。それは静かな空虚な夜であった。暗い物の隅々が妙にすかし見られた。彼は張りつめたままの気分で長く其処に立ちつくしていた。
 その時、がらがらっと物の投り出されるような音がした。孝太郎は駭然として茶の間に走り入った。
 颶風のようなものが突然彼の頭に渦巻き去った。彼は息を止めて其処につっ立ってしまった。そして次第にはっきりと室の中の有様が彼の眼に映ってきた。
 葡萄酒の壜とグラス盆とが其処に投げ出されていた。だくだくと壜からこぼれた葡萄酒は赤い血のように静に畳の上を滑って流れていた。富子はその前に蒼白な顔をして、それでもじっと坐ったまま室の片隅を見つめている。その上に充血した眼を据えて石のように堅く恒雄はつっ立っている。彼等の間には今にも張り切れそうな緊張した沈黙と反撥とがあった。そして何かがじりじりとし潰すように迫ってくるがようであった。
「どうしたんです!」と孝太郎は叫んだ。
 その声は急に何かを煽るように響いた。恒雄は肩のあたりをぴくと震わした。孝太郎は自ら自分の声に懼然とした。そして殆んど本能的にこう云った。
「外に出ましょう。」
 恒雄は二三度頭を強く横に振った。それからしかとした調子で孝太郎に応じた。
「外に出ましょう。」
 二人はそのまま表に出た。その際孝太郎はふとふり返って富子の顔を見た。彼女はその堅く引きしめた顔の眉一つ動かさなかった。そして何かを挑むような高慢な眼が、動物的な冷たい光りに輝いていた。
 外に出ると彼等の緊張し興奮した精神はそのままに堅く凝結してしまった。彼等はもはや語るべき何物も、考うべき何物も持たなかった。ただ漠然と引き緊ったものを頭に持って、うら寒い通りを真直に歩いた。
 点々と軒燈に輝らされた通りには、物の遠近を無くする空虚が拡がっていた。そして凡てのものの上に、曇ったまま澄みきった暗い空が蔽うていた。
 二人はただ足に任せて歩いた。そしてとある掘割の袂に出た。彼等は云い合したようにその冷たい欄干にもたれて、下に澱み流るる黒い水面に見入った。
「どうするつもりです。」と突然恒雄が口を開いた。その言葉は殆んど挑戦的にあたりの空気に響いた。
 孝太郎は一寸唇をかみしめた。それから静かな落ち付いた調子でこう云った。
「あなたはどうしてあんなことを……。」
「僕ばかりの責任ではないんです。」
「ですけれど少しは反省なさるが至当でしょう。」
 恒雄は急に真直な上半身を、よりかかるように橋の欄干に落した。
「僕も恐らく君が想像し得ないほど苦しんでいます。」それから暫くしてまた云い続けた。「全くそれは必然の勢で仕方はないんです。例えば妻が僕に茶を汲んで出すとします。その時どうかしてあれの冷たい眼差しが僕の胸を刺すんです。僕の心は急に堅くなり、妻の顔には執拗な反撥が浮ぶんです。そして互に相挑むような気分を反射し合って、それが必要の勢で昂じてきます。どうにも仕方はないんです。……実際妻には僕の胸を刺すように冷たいとげがあるんです。」
「あなたにも富子さんに取っては冷たいとげがあるんでしょう。」
「そうかも知れません。然し要するに如何とも仕方がないんです。」
「けれどあんな乱暴なことをなさらなくても……。」
「それは妻の方からも挑むんです。妻の眼の中にはそれがありありと読まれます。まあ何という高慢な女でしょう。」
「それならあなた自身も高慢だと云えるでしょう。」
「高慢でもかまいません。僕が高慢だから妻の高慢が許されるという理由はないんです。」
「それであなたは富子さんを愛するというんですか。」
「愛するから苛ら立つんです。」
 恒雄は真直に立ち直って、どす黒い水面を睥むようにした。
 孝太郎は何かに突然打たれたような気がした。恒雄と富子との間の愛を願ったことが訳もなく腹立たしくなった。そして反抗の気がむらむらと湧き立った。
「あなたは余りに富子さんの性格をふみ蹂っていらるる!」
「だから何です?」
「それでいいんです。」
「何も君に関したことじゃない。」
 二人はそれきり堅く口を閉じた。彼等の上には陰凄な夜の空があり、下には濁った水が澱みながら動いていた。そして遠くに、水面に反映する赤い灯が揺ぎもなく浮んでいた。
「僕はもう帰ります。」と恒雄が云った。
 孝太郎は、その反感と軽侮とに拘らず、何か怪しい糸で引きつけらるるかのように、恒雄の後に黙然として従った。
 家に入った時、女中が玄関に彼等を迎えた。そして家の中の空気と電燈の光りとに、二人の心は何とはなしにほっとした。
「お休みなさい。」と二人は云った。
 孝太郎はすぐに冷たい床の中に入った。そして頭から蒲団を被ってしまった。
 彼の頭に一杯もやもやと立ち罩めていたものが次第に晴れていった。そして先刻恒雄と共に表に出る瞬間に見た富子の顔がちらと浮んだ。彼はそれを追っかけるようにして思い浮べてみた。其処には自分自身に対するまた富子に対する、云い知れぬ腹立たしさがあった。彼は自分自身の何かを富子の掌中に握られているとはっきり感じた。そして彼女の肉体とその高慢とが、彼に漠然とした憤りと恐怖とを与えた。
 彼はもう恒雄に対して何等の反感も軽侮も持ってはいなかった。彼は恒雄を自分と親しい所に置いて見た。そして……恒雄と富子と床を並べた姿を思い浮べて凝然とした。――恒雄と富子とは夫婦である。悩みながらも彼等は永久に夫婦の生活を破りすてることが出来ないであろう。
 孝太郎は心が苦しくなって来た。彼は眼を閉じて凡ての想像を閉じてしまいたくなった。重苦しい動かす可からざるものに突然ぶつかったような気がしたのである。
 彼は大きく眼を見開いて何かを睥みつめるようにした。それから急に顔、そして眼を蒲団に押しあてた。胸づまるような涙が眼に溢れてきた。

 孝太郎はなるべく恒雄と富子との前を避けるようにした。彼等の前に落ち付いてじっと見つめている眼を置くのが、何となく自分自身にもすまないように思えたのである。
 それでも恒雄は彼に他愛ない様子を見せようとしているらしかった。然しわざと装った平気が却って往々彼を狼狽させることが多かった。そしてそれが二人の間にある距てを置くように見えた。
「気持ちのいい晩ですね。」とある爽かな夜、彼は孝太郎に云った。
「ええ、」孝太郎は彼の顔を見上げた。
「こんな晩はぶらぶらと当もなく歩き廻るといいですがね。」
「そうですね。」
 然し妙な沈黙が一寸彼等の間に落ちて来た。と急に恒雄は何かしきりに袂の中を探しはじめた。
「あそうだ……一寸急な手紙を一つ書くのがあったっけ。」
 恒雄は独り言のようにこう云って自分の書斎に入ってしまった。
 然し孝太郎はもう余り恒雄のことを気にかけてはいなかった。彼は自分自身に大きい問題を持っていたのである。
 富子の様子が次第に変って来た。彼女は孝太郎に対しても大層言葉少なになった。然し彼女は彼の心をじっと探り当てようとでもするかのようであった。時々そっと覗くように彼の方を見る彼女の眼がそれを示していた。孝太郎はいつもそういう彼女の眼差しの前にたじろいだ。
 孝太郎はよく自分の書斎の机に靠れて、日のさした障子の紙を見つめながら、富子と自分との間を考えてみた。進むか退くかどちらかに決定しなければならない問題が其処にあった。富子が暗々裡にその解決を迫っているのが彼にはよく分っていた。それでもいつまでも愚図愚図と引きずられるような日が、二人の間に過ぎた。
 孝太郎は男女の恋愛、殆んど盲目的な不可抗な力に支配せられて男と女との心が結びつく力強い恋愛、そういうものを信じていた。其処から男と女と二人のほんとうの生活は初ってゆかなければならないと思っていた。そして彼は自分に対してそういう女が世界に一人は必ずあると信じていた。恒雄夫妻の間を見る彼の眼が、何処か一方に偏しているのは其処から出でた結果であった。そしてその唯一の女は固より富子ではなかった。
 その上彼には富子の本体がよく分らなかった。いつぞや彼に「永久の友達」を願ったような彼女と、恒雄の憤怒の下の執拗な彼女とは、二つのものとして彼の眼に映じた。それからまた彼女の肉体を遠心的だと考え、彼女の心を求心的だとも考えた。彼がその時々に触れた富子の姿は、それ全体が一つの統体を為さなかった。
 それなら彼は何故に富子の唇に引きつけられてきたのであろうか? それは単なる同情と慰安との行為であったであろうか? 男女の唇はさほど安価なるものであるだろうか? 其処まで考えてくる時、彼の心にはすぐに富子と恒雄との性交が眼の前に浮んだ。そして強い嫌悪と腹立たしさが彼の頭脳をめちゃくちゃにかき乱した。
 孝太郎は彼の所謂サロンの寝椅子にねそべって、また同じことを幾度もぐるぐると考え直してみた。そして終りには訳の分らない模糊たる霧と懶い疲労とを覚えた。
 その時富子が静に梯子段を上って来て黙って彼の前に立った。
「どうしたんです。」と彼は云った。
「あなたこそどうなすったんです、そんな顔をして。」
 孝太郎はただ何とはなしに片手のひらで額をなでた。それから椅子を下りて、富子と並んで足を投げ出した。そして何時までも黙っている富子を見て、妙に堅くなってしまった。
「あなたは近頃どうかなすったのではありませんか。」と富子が暫くして云った。
「どうしてです。」
「いえただ一寸そんな気がしたものですから。」
「あまり何やかやお考えにならない方がいいんです。考えるとだんだんむつかしくなるばかりですから。」
「むつかしいことなんか私は考えはしませんけれど……もう何だか苦しくなって来ました。」
「あなたは余り外のことばかり見て被居るからいけないんです。自分の心をお留守にしてはいけません。」
「それをあなたは私に……、」と云いかけて富子は孝太郎の眼の中を見入った。
「いいえあなたは御自分におし隱して被居ることがあるでしょう。あなたのうちにはもう、はじめにあなたが悩み悶えられたものが深く喰い入っています。あなたと恒雄さんとは互に心と心と相反して立っていられながら、あなたには恒雄さんが無くてはならないものになっているし、恒雄さんにはあなたが無くてならないものになっています。勿論そうあるのが本当でしょうけれど、あなた方は全く普通と違った悲惨な仕方でそうなられたのです。あなた方は全く出立が間違っていた。」
「それは私一人の罪ではありません。」
「でもなぜあなたは初めに過去を恒雄さんにうち明けてしまって、冷たい反抗の代りに熱い涙を示されなかったのです。私はずっと前に度々それをお勧めしたじゃありませんか。」
「恒雄は一度きいたらそれを許すような男じゃありません。あんな……あんな乱暴なことをする人ですもの。」
「それはあなたからも挑むんでしょう。」
「え!」
「あなたの高慢な執拗な眼付が恒雄さんをあんなにしたんです。……それに、自ら知らないであなたもそれを求めていらるるんです。」
 富子は心持ち蒼ざめてきた。彼女は眉のあたりに細かい痙攣を漂わしながら云った。
「だってそのあとで私がどんなに苦しんでいますか……。」
 孝太郎は突然喫驚したような気持ちを覚えた。今迄の言葉は富子に対してよりも寧ろ自分自身の心に向って云ったもののような気がしたのである。彼はじっと富子の顔を見た。
「もう過去のことは云っても仕方がありません。」
「ではどうしたらいいんでしょう。」
「どうするって……。」
「私もう、」と云いかけて富子は一寸息をついだ。「もう何もかも、私とあなたのこともすっかり恒雄に云ってしまおうかと思っています。」
「え!」と孝太郎は声を立てた。
「もう仕方がありませんわ。」
 孝太郎は何かにぐっと突き刺されたような気がした。凡てをかまわず投げ出したいような気分と、凡てから免れたいというような気分とが、彼の胸の中で渦巻いた。
「どうなさるおつもり?」
「どうって私には……。」
「もう仕方がありませんわ。」と富子はくり返した。
「私はまだ……。」と孝太郎は云った。そして頭の中で、「そんなことは考えていません。」と云った。
 富子は黙って孝太郎の眼の中を見入った。そしてそのまま、真直にしていた身体を少し斜にした。彼女の堅くなっていた肉体は急にしなやかに弛んできた。その眼には人の心を魅惑せねば止まない本能的な光りがあった。唇が殆んど捉え難いほどにちらと動いた。ふっくらとした頬の皮膚には滑らかな感覚が漂っている。
 孝太郎はつと手を延して彼女の手を取った。温い触感が彼の全身を流れた。とそれが突然彼の胸をぎくりとさした。彼は喫驚して女の顔を見た。怪しい鋭い眼が其処にあった。
 孝太郎は我知らず急に立ち上った。頭の中で何かがわやわやと立ち乱れた。そして彼の室の中を歩き廻った。
 二人の間にちぐはぐな沈黙の時間がすぎた。午後の弱い日の光りの障子に写している木の枝が、ちらちらと揺れていた。
「あなたはまだ決心して被居らないのね。」と富子が静に云った。
「私には分らない。」
「何が?」
「何にも。」
 それきり二人はまた黙ってしまった。富子はじっと畳の上を見つめていた。そしてやや暫くして彼女は、孝太郎の方は見ないで口早にこう云った。
「あなたは私をどうなさるおつもりです。」
「あなた私に何を求めるんです。」と孝太郎はすぐに我知らず反問した。
 富子はぶるぶると肩を震わした。と間もなく彼女の眼から大きい涙がぽたりと膝の上に落ちた。それから彼女はじっと坐ったまま止度なく涙を流した。
 孝太郎は物にかれたように茫然として富子の前に立った。何かが彼のうちに平衡を失していた。
 彼は身を屈めて富子の背に手を置いた。
「どうしたんです……え?……え?」
 富子はやはり黙ったまま涙を落した。
「私はどうしていいか分らない。何とか仰言って……え、何とか。」
 と富子の涙はぴたりと止った。彼女の眼は空間を見つめたまま動かなかった。そしてはっきりした調子でこう云った。
「あなたは恒雄よりも残酷な方です。」
 二人はじっと互の眼に見入った。冷たい大理石のように静まって動かない頬の肉と、涙に満ちた美しい眼とを孝太郎は見た。彼女の言葉に拘らず、涙が彼女のうちの凡てを洗い静めたがようであった。それほど彼女の顔には澄みきった冷たい清らかさがあった。
「もう何もかも忘れましょう。」と富子は云った。
「え! どうして。」
「いえいいんです。」
 富子は静に立ち上った。孝太郎も何とはなしに彼女と一緒に立ち上った。一瞬間二人の間に緊張したおずおずとした眼が光った。
 富子はそのまま室を出ていった。
 孝太郎は惘然と立ちつくしていた。やがて彼はまたぐたりと寝椅子の上に身を投げた。彼の前には暮れ方の冷たい空気があった。そして高い青空が一杯に明るい夕陽の光線を含んでいた。
 落ち付いた孝太郎の頭に過ぎ去った光景がありありと蘇ってきた。彼はそれをじっと見つめた。そして其処に、物に惑わされたようなものを見た。それからまた取り返しのつかない心苦しいものを見た。
 孝太郎は新たに過去をずっと見渡した。――凡てを投げ出して富子の云う所に従うが正当だろうか、万事を排して自分一人を守るが至当だろうか。または過去の自分の態度が間違っていたのであろうか、それならば悩んだ富子の魂を他処よそに見るべきであったろうか。或は富子の求むる所が誤っていたのであろうか。そして富子と自分とは熱い唇を交わしてはいるけれど……。
 孝太郎は此処まで考えてぐっと何かに引き戻されたような気がした。そして胸が重苦しいものにしめ付けられた。凡てをずたずたに引き裂き掻きむしりたいような強暴な精神が彼のうちに乱れた。
 けれど夕食の膳に着いて恒雄と富子とに顔を合した時、彼の頭には重い固まりが出来ていた。凡てが生命のない石の塊りのような姿を帯びて彼の眼に映じた。

 孝太郎は次第に自分の書斎にとじ籠るようになった。急に寒気が増してきたせいもあるけれど、新らしい悩みが彼の心を捕えたからである。苛ら苛らした日が事もなく明けては暮れた。
 孝太郎の心は寒さが増すにつれて次第に深く沈まんとした。然し一層の強さでぐいぐいと外の方へ引きずられた。過去の姿が茫とかすんで、現在の悩ましいものが彼の心に止って来た。
 富子が殆んどその姿を二階に現わさなくなった時、孝太郎は自分のうちに彼女に対する愛慾の念が深く萠しているのに眼を見張った。富子との過去の瞬間、凡てを切りはなしたあの息を潜めた瞬間のみが、度々彼の心に蘇ってきた。そして彼は狂わしい眼付でじっと富子のあとを狙った。
「この頃はなぜ黙ってばかり被居るんです。」と孝太郎はある時富子に云った。
 その時富子は縁に佇んで、さびれて来た庭の方をぼんやり見ていた。彼女はふと眼をあげて孝太郎の顔を見たけれど、すぐに視線をそらした。
「黙っている方がいいような気がしますから。」と彼女は云った。
 孝太郎はそれきり黙っている彼女の横顔を喰い入るように見つめた。とその頬の筋肉がちらと動いた。
「何をそんなに見つめて被居るんです。」と富子は云ってちらと微笑みかけた。然しその微笑はすぐに冷たく凍ってしまった。
「私は此の頃あなたの心がちっとも分らなくなってしまった。」
「もとからお分りになっては被居らなかったでしょ。」
せんには分っていたようです。」
「え?」と富子は急に孝太郎の方を向いた。
 孝太郎は何か彼女の眼の中に恐ろしいものを見た。
「あなたは此の頃すっかりお変りなすった。」
「みんなでそう私をなすんです。」
「ではなにか……恒雄さんが。」
「何を仰言るんです。」
 富子はこう云って自分でも喫驚したように一寸呼吸を止めた。孝太郎はその横顔の上に震える後れ毛を見た。すると彼の心は急に堪えられなくなった。其処に身を投げ出して叫びたくなった。
「許して下さい。私は苦しいんです。」
「そんなことを仰言るものではありません。私は……いえこうしていちゃお互に悪いでしょうから。」
 富子は黙って向うへ行ってしまった。
 孝太郎は二三歩その後に従った。けれど突然彼は何かにぶつかったような気がした。彼は自分のまわりに冷たい壁と、それから自分のうちに熱い呼吸とを、殆んど同時に見たのである。そして喘ぐような処で、庭に一杯さしている弱い尖った日の光りを見やった。
 孝太郎はまたも茫然と佇んだまま富子の姿を思い浮べた。執拗な沈黙と孤独とが、何時のまにか彼女のまわりにたれ籠めていったのである。そして凡てを反撥せんとする冷酷と息を潜めたような内心とが其処にあった。
 彼は投げ出されたような自分を見出して、しきりに富子の上に貪るような眼を向けた。然し富子はいつも彼の前から逃げるように避けるのであった。
 けれどどうかすると彼等は恒雄と三人で暫く茶の間に一つ火鉢をかこむことがあった。そういう時はいつも恒雄は孝太郎の視線に自分の視線を合せないようにした。
「この頃は会社の方はお忙しいでしょう。」と孝太郎は何気なく彼に云った。
「ええ。それに何だかさっぱり面白くありません。」
「一体職業となるとそう面白いものはありませんでしょう。」
「そうですね。けれど……。」と云いかけて恒雄は、黙って眼を伏せている富子の方をちらと見た。
「この頃御病気の方は?」と孝太郎はまた尋ねてみた。
 恒雄は脳が悪いと云って、大分前から医者の薬をのんでいた。
「病気というほどのことはありませんけれど、何だか一向さっぱりしません。」
「どんなにお悪いんです。」
「そうですね、いつも頭がぼーっと熱でも出たように熱くなって、それに何だか物を考える力が無くなってくるようです。」
「余り脳を使いすぎたんではありませんか。」
「ええ。」と答えたが、恒雄はそれから急に両肩を聳かして黙り込んでしまった。
「何処かへ暫く転地でもなすったらお宜しいでしょう。」
 恒雄は何とも答えないで孝太郎の顔を見た。孝太郎はその眼の中にある犯し難い反抗の色を見た。そして彼はただわけもなく苛ら苛らしてきた。
「あなたも余り……。」と云って孝太郎は口を噤んだ。
「何です?」
「いえ、」と云ったまま彼は、執拗だ! という言葉を口に出し得なかった。そしてじっと恒雄の乱れた頭髪を眺めた。恒雄はその心持ち円い眉をあげて火鉢の炭火に見入っていた。
 孝太郎は苦しい沈黙のうちにふと、こういうことを思い出した。――いつかやはり三人でこうしている時、「何か遊びごとでもあるといいですね。」と孝太郎が云うと、「黙ってばかり被居るからでしょう。」と富子が応じた。その時恒雄は「お前の方が黙っているじゃないか。」と云った。その言葉が冷たく孝太郎の心を刺した。そして富子がすらと眉根を震わした。
「あなたもうお薬を召し上がって?」と富子が突然沈黙を破った。
「いやまだ。」と恒雄は答えて顔を上げた。そして彼は孝太郎の視線をさけるように室の隅に眼をそらした。
 けれど富子は暫くじっと坐っていた。それから座を立って薬瓶を黙って恒雄の前に置いた。薬をのむ恒雄の手が少し震えた。
「僕は今日何だか寒気がするから先に失礼します。」と彼は云った。それから彼について立とうとした富子に、「いいよ。」と云った。富子はじっと夫の顔を見たが、そのまま身を動かさなかった。
つね(女中の名)が仕度をしています。」と彼女は恒雄の後から呼びかけた。
 恒雄はそのまま室を出ていった。
 孝太郎は自分の前に坐っている富子を見守った。彼女のうちには悲愴な忍苦の影があった。彼女は殆んど息を潜めたように黙っている。然し孝太郎はまた彼女の頬から頸へかけての柔い肉体を見た。それから赤い肉感的な多少低い鼻の形とを。そしてその堅い内心と、少しも窶れの見えない美しい肉体とが、彼にある惑わしを投げかけた。
 孝太郎は心苦しくなって来た。そしておずおずしながらこう云った。
「あなたはどうしてそう堅く堅く自分の心を秘めていらるるんです。」
「え、私が?」
「なぜ物を隠すようにして被居るんです。」
 富子は顔をあげて孝太郎を見た。彼女は急に夢からさめたように狼狽の色を浮べた。孝太郎も何とはなしに胸の騒ぎを禁じ得なかった。そして自分の狼狽と富子の狼狽とは意味のちがったものであるという明かな意識が、なお彼の落ち付きを無くした。
「私はもう何にも、誰にも云うまいときめています。」と富子は云った。
 富子の顔には、緊と両手を胸に握りしめているような表情があった。そしてその奥に何か解くべからざるものに触れて、孝太郎は悚然とした。
「あの一寸……。」と暫くして云いながら富子は恒雄の居間の方へ出て行った。
 富子が出ていった後、孝太郎は何とはなしに立ち上った。自分で自分の身をどうしていいか分らないような思いが彼を捕えた。そしてただぐるぐると室の中を歩き廻った。
 間もなく富子が静に入って来た。
「何をそんなにつっ立って被居るの。」と彼女は其処に立ったまま云った。
 孝太郎は富子の束髪の下にぼんやり輝いている眼を見た、輪廓が長い睫毛にぼかされた黒い濡っている眼を。
「もう寝ようかと思って……。」と彼は平気を装いながら答えた。
「お休みなさい。」とすぐに富子が云った。
 孝太郎は自分の室に一人になった時、云いようのない寂寥と苛ら立たしさとを感じた。彼は何かに胸をわくわくさせながら、恒雄を呪い、また富子を呪った。呪いながらも彼はいつしか富子の姿を眼の前に想い浮べていた。そしてそれに沈湎してゆくと共にある重苦しい恐怖を感じた。底知れぬ悩ましい淵を覗いたような気がしたのである。

 ある寒い夜、孝太郎と恒雄とは外套の襟を立てて一緒に街路まちを歩いた。
 その夜、富子がどうかして恒雄の薬瓶を壊したのである。三人は黙ってつっ立ったままつねが畳を拭うのを見ていた。
「お薬が溢れますと御病気が早く癒るとか申しますよ。」とつねが云った。
 然し誰もそれに何の答もしなかった。そして恒雄と孝太郎とは云い合したように一緒に散歩に出たのである。
 彼等は一言も言葉を交えなかった。互の心には、しきりに胸の奥へ奥へと沈みゆくような思いがあった。そしてただ歩くことそのことが、彼等の思いを軽く揺った。
 薄い靄の立ち罩めた夜であった。軒燈の光りが寒く震えていた。そして月が朧ろに暗い空に懸っていた。行き交う人は皆堅くなって爪先を見つめながら足早に通りすぎた。
「僕はこの頃生活がいとおしうなって来た!」と恒雄は搾り出すようにして云った。
「あなたの心はこの頃静かではありませんか。」と孝太郎は一寸恒雄の方を見ながら、心にもないことを云った。
「静かと云えば静かですね、少くとも外面的には。」恒雄の眼はちらと光った。「然し何かが力強くじりじりと迫ってくるようです。」
「一体終局というものは一時にどさりと来るんでしょう。」
「然しそれまでの間が……。僕は人の行為にある一定の動機とか結果とかいうものを信じなくなりました。丁度濁った水の流るるようなものですね。そして運命などと云うものもそれを指していうんでしょう。」
「そうです。然し何かしら誰もみんな毎日些細なものを積んでいって、それが一緒に集って頭の上に重苦しいものを蔽い被せるようです。運命が……と思う頃には、もうあとにも先にも恐ろしいものが見透しのつかないほど深く立ち籠めています。」
 孝太郎はいつしか自分自身のことを口にしていた。
 彼等は明るい電車通りを通ったり、狭い横町へ折れたりした。息が白く凍って流れた。
「この頃富子さんはどうかなすったのじゃありませんか。」
 恒雄は一寸足を止めて孝太郎の方を見た。それからまた眼を地面に落して歩き出した。
「何だかひどく黙っています。僕は時々恐ろしくなるんです。……何かをひそかに計画でもしているようで。」
 孝太郎はぎくりとした。然し彼は自分でそれを押し隠そうとでもするかのように云ってみた。
「富子さんには何だか二つの矛盾したものがあるようですが……。」
「そうかも知れません。その一つは僕が拵えあげたようなものです。」
 こう云って恒雄は少し足を早めて歩き出した。孝太郎はその後から追っかけるようにして云った。
「あなたは真実富子さんを愛していますか。」
「偽りの愛というものがありますか。そして僕は妻に対する自分の愛着を見る時、云い知れぬ恐怖に駆られるんです」
 二人は暫く黙然として歩き続けた。
「一体どうなるんでしょう。」と突然恒雄が云った。
「どうすればいいんです。」
「えっ!」
 二人は一寸顔を見合った。それからすぐに対手の意味を失って視線をそらした。
「ビールでも飲みませんか。」
「そうですね。」と孝太郎は躊躇した。「一寸用が……。」
「それじゃ此処でお別れしましょう。」
 二人は互の顔を見ないようにして右と左に別れた。
 孝太郎は真直に歩いた。とある並木道に出て、葉の散りかかった樹の下を歩いていると、すっと一筋の蜘蛛の糸が彼の眉のあたりに懸った。手を挙げて払ったが、幾度してもやはりその細い糸が眼に懸っているような気がした。何かちらちらと光っている枝葉の間をすかして見ると、朧ろな月がぼんやり空に浮んでいた。
 孝太郎の混乱した頭に、富子と恒雄と彼自身の姿が浮んだ。三人のまわりには脱すべくもない惑わしが立ち罩めているような気がした。いつまでもじりじりと苦悩にせめられて生きるであろう。遁るべき道はもはや一つもない、何処にもない。ただ……。孝太郎はその時凝然として立ち止った。
 彼は富子の死をふと考えたのである。富子が居なければ二人は助かるであろう。そして凡にやさしい愛が蘇るであろう。然し彼女はどうして死ぬであろうか。劇薬、短刀、拳銃、溺死、縊死、何れも皆彼女にはふさわしくない。然し屹度彼女は死ぬる……。
 孝太郎はいつのまにか、富子が死を決心しているもののように思い耽っていた。彼の頭にはある機会をねらっている彼女の姿がはっきり浮んだ。そして恒雄の言葉が思い出された、「何かをひそかに計画でもしているようだ。」……今恐らく恒雄はまだ家に帰ってはいないだろう。そして富子は一人で……。
 孝太郎は悚然として眼を見張った。危険だ! という思いが彼の脳裡に閃いた。
 孝太郎は馳けるようにして、寒い空気を衝いて家に帰った。何にも彼の眼には入らなかった。そして彼はいきなり富子の部屋の襖を開いて、其処につっ立った。
 富子は火鉢にもたれてじっと坐っていた。その前には縫いかけの何かのきれが放り出されていた。
 彼女は静に顔をあげて孝太郎を見た。然しその眼にはいいようのない不安の光りがあった。
「どうなすったんです、」と彼女は口早にいった。
 孝太郎は茫然と自失して棒のようにつっ立ったまま大きく見開いた眼を漠然と富子の上に据えていた。
「どうなすって?」と富子はくり返した。
 と突然物に脅えたように富子は立ち上った。
 孝太郎は駭然とした。そして殆んど本能的に富子の前を逃げるようにして二階の書斎にかけ上った。それから彼は机の上によりかかるようにぐたりと坐った。
 彼の頭の中で何かががらがらと壊れるような気配がした。そして頭に一杯満ちていた潮が急に引いたように思えた。凡てのことがぼんやり彼に分ってきた。
 胸にはまだ高く動悸が打っていた。その中で彼はきれぎれに悪夢のように、自分の後ろに覗いても底の知れない暗い大きいものを引きずっているように感じた。後頭部が石のように重いのを感じた。そして何かに喫驚して、ふと後ろをふり返ってみた。

底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」未来社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「早稲田文学」
   1915(大正4)年1月
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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