昔、紀州の山奥に、与兵衛といふ正直な猟夫がありました。或日の事いつものやうに鉄砲肩げて山を奥へ奥へと入つて行きましたがどうしたものか、其日に限つて兎一疋にも出会ひませんでした。で、仕様事なしに山の頂から、ズツと東の方を眺めて居ますと、遙か向ふから蜒々とした細い川を筏の流れて来るのが見えました。
「あの筏が丁度この山の麓まで流れて来る間に俺はこゝから川端まで降りて行かれる。そして俺はあの筏に乗つて家へ帰らう。さうぢや、それが宜い。」
与兵衛はさう考へながら、山の頂から真直に川の方へ、樹の枝に攫りながら、蔓に縋りながら、大急ぎに急いで降りて行きました。そして川岸から三十間ばかり上の方まで来た時、右手の岩の上の大きな樫の枝が、ザワ/\と動くのが逸早く与兵衛の眼に映りました。
与兵衛は鉄砲を取直して、そつと木の枝の間から覗いて見ますとその樫の木の上に大きな猿が二疋、頻りに枝を揺ぶりながら樫の実を取つて居るのでした。
それを見た与兵衛は筏の事も何も打忘れてしまつて、忍び足にその樫の木に近寄つて行きました。所が樫の木の枝には二疋の大猿の外に小い可愛い猿が、五疋七疋十疋、ピヨン/\と枝から枝へ、跳びあるいて遊んで居るのです。で、与兵衛は其中の一番大きい親猿を射つてやらうと思つて、狙ひを定めて、ドーン! と一発射ちました。
「しめた!」と与兵衛は叫びました。それは与兵衛の長い間の経験から、鉄砲の音でその弾丸があたつたか、あたらなかつたかが、すぐに知られたからでありました。
与兵衛はすぐ新しく弾丸を込めて樹の上を見ました。もう其時は皆な五疋十疋の猿が幹を伝つて一生懸命に跳び降りて、いづくとも知れず逃げてしまつた後でした。
「はてな、今の弾丸は確かにあたつた筈だが……」と独語を言ひながら与兵衛は樫の大木に近づきました。すると大きな猿が一疋、右の手で技を掴んで、ぶらりとぶら下つてゐました。与兵衛はすぐ鉄砲に弾丸を込めてその猿の右の手をうつたのでした。所が猿は、ばたりと下へ落ちて来ましたが、今度は左の手でまた別の枝を握つて、ぶらりとぶら下りました。
与兵衛は少し気味悪く思ひましたが、勇気を出して三発目に頭の後の方を射ち抜いたので、ドスン! と音がして、与兵衛の立つてゐた二間ばかり上の方へ、大きな親猿が血に塗れて落ちて来たのでした。
与兵衛は早速駈け上つて行つてその親猿の手をソツと掴んで下へ三尺ばかり引摺りますと、山の上の方から土瓶のまはり程の大きな石が、ゴロ/\と転つて来ました。
与兵衛は驚いて飛び退きながら見ますと、鉄砲の音に驚いて山の中へ逃げ込んで居た親猿小猿が出て来て、与兵衛に其の射殺された猿の死骸を渡すまいと思つて、石を転がしたのでした。それと知るや与兵衛は、腰に結んで居た細引で、射取つた猿を確と縛つて川岸の方へ引摺り下しました。
すると山の中から五疋も十疋も、親猿小猿が、キヤーツ! キヤーツ! と叫びながらその死骸を奪ひ返さうとして、追かけて来るのでした。
与兵衛は顔色を変へて一生懸命に川岸へ走り降りましたが、その猿を縛つた繩は、堅く右の手に握つてゐました。
与兵衛が転びながら川岸へ辷り降りた時、丁度川上から筏が流れて来ましたので、早速其筏に飛乗りました。そして親猿の死骸も、筏の上に載せたのです。
筏を流して来た筏師は驚き呆れてこの有様を見てゐましたが、早い流れでしたから瞬く間に筏は五六十間も下の方へ流れてしまひました。川岸の岩の上で、親猿小猿はギヤアギヤア言つて下の方を眺めて居ました。
与兵衛は筏の上にドツカと坐つて、まづ川の水を一口がぶりと両手に掬つて飲みました。それから気を落つけて射取つた大猿を能く能く見ますと、大猿の懐には可愛い/\小い猿の赤ちやんがピツタリと頭を母猿の乳頸の所に押付けて四つの手で、確と母の腹にシガミついて居るのでした。
「おや! 一疋だと思つたら二疋だ!」
与兵衛は眼を円くして驚きました。筏師も
「それは思ひも設けぬ事だ!」と言つて笑ひ興じました。
所が与兵衛はその子猿を母猿から引離さうとしましたが、どうしても離れません。カツチリと四つの手で母の腹に取縋つて、その小い五本の指を堅く/\握つてゐるのです。
与兵衛は仕方なしに、親猿と一緒に其の子猿を家に担ぎ込みました。そして家内中でその子猿を引張つて見たり、煙草の煙で燻べて見たりしましたが、どうしても離れないのです。で、たうとう母猿を水の中へヅツプリと浸けますと、やつと小猿は母の腹から離れました。
「なア、畜生でも可哀さうなものぢや。」と与兵衛が言ひますと、
「本当にネ、死んだ親ぢやと知らずに、その乳首に縋つてゐたのがイヂらしい……」とお熊といふ娘は、涙ぐみながら言ひました。
「なア可哀さうに、お前の母アさんは死んだのぢや、もう乳は出ないんぢやよ、なア可哀さうに。」と言つて、今年六つになる信次といふ与兵衛の孫は、その子猿の頭を撫でながら泣きました。
母猿を最前からぢつと見詰めてゐた与兵衛の眼からは、玉のやうな涙がポトリ/\と落ちました。そして言ひました。
「俺は、今日限り、猟夫は止める。もう一生鉄砲は射たない。信次、お前はその子猿を大事に飼つてやれ、俺はこの母猿を裏の墓場へ叮嚀にお葬式をしてやる!」
二
与兵衛は子猿にはチヨンといふ名をつけました。家内中は皆なそのチヨンを大変大事にして可愛がりました。殊に信次とは、まるで兄弟のやうにして毎日/\跳んだり撥ねたりして一緒に遊びました。
与兵衛が田圃から帰つて来ますと、すぐチヨンはその肩に駈け上つて白髪交りの髪の毛を引張りました。御飯を食べようと思つてお膳の前に坐ると、すぐチヨンは与兵衛の膝の上に入つて、そしてお膳の上にあるお芋の煮たのやら、お豆の煮たのを、お先へ失敬してムシヤ/\と食べるのでした。けれども与兵衛は、ちつともそれを叱らずにチヨンよチヨンよと言つて可愛がつてゐました。
或日の事、与兵衛は川へお魚を釣りに行つたが、どうしたものかその日は不思議にもたいてい一つの淵で大きなが必ず一つづつ釣れるので、もう一つ、もう一つと思つて、つい川を上へ/\と上つて行きました。そしてふと気付いてみると、十四五間上手に大きな樫の木のあるのが眼に止りました。
「あ、あの樫の木だつたつけ、チヨンの母猿を射つたのは?」
与兵衛はかう言つた後で、思はずも南無阿弥陀仏々々々々々々と言ひました。そして川原に立竦んだまゝ、ぢつとその樫の木を眺めて居ました。樫の枝は大きな/\傘のやうに広がつてその片一方がずつと淵の上の所まで伸びて居ました。
「何と大きな樫の木だなア。」と呆れて見てゐると、樫の枝がザワ/\と動くぢやありませんか。与兵衛はギクリ! として釣竿を杖についたまゝ立つて居ると、猿が何疋も枝から枝へ跳びあるいてゐるのです。
「おや! また猿が居るナ?」
与兵衛はブル/\顫へながら見て居ると、川の方に差し出た細い枝の上に大きな親猿が一疋、何を思つたかスル/\と伝つて来て、軽業師のやうにぶら下りました。枝が弓のやうに輪を画いて円く曲つたと思ふと、其枝はポツキと折れて大きな親猿は小枝を握つたまゝ二十間もあらうと思はれる高い所から、ドブン! と淵の中へ真逆様に落ちたのでした。
「あツ!」と叫んで与兵衛は吾知らず川原を上の方へ駈けて行きました。行つて見ると深い/\淵の真中に落込んだ親猿は、樫の枝を握つたまゝ首だけやつと水の上に出して浮いてゐました。木の上ではあれだけ敏捷な猿でも水の中では一尺も泳ぐ事が出来ないのです、猿の一番禁物は水なのです。
「よし/\、今、俺が助けてやる! さアこの釣竿に縋れ!」
与兵衛はかう言つて釣竿を差出してやりましたが、猿は水底深く沈んで行く樫の枝には縋つてゐても、与兵衛の釣竿は見向きもしませんでした。
「助けてやるんだよ、おい、助けてやるツて云ふのに。」
与兵衛はかう言ひましたが、悲しい事には猿に人間の言葉は通じませんから、親猿は却つて歯齦を剥き出して唸るのでした。
すると今度は山の上から小猿が五疋十疋と、ゾロ/\川岸へ出て来ました。彼等は与兵衛が鉄砲を持つてゐないのを見て安心したらしく向ふの川岸へ下りて来て、「その親猿を、そつちへは遣らぬぞ!」といふやうに、キヤツ! キヤツ! 言ひながら、川端の柳の枝に掴まつて水の中へ手を伸して見たり、枯枝を差出して見たりしたが、親猿の浮いて居る所へは届きません。親猿は川の中で、顔だけ水の上に浮べて、悲しさうに時々啼きました。
与兵衛はふと気付いて手に持つてゐた釣竿を、向岸に投げてやりました。けれども自分達に投げつけられたのだと思つたらしく子猿どもは一時藪影へ隠れましたが、また出て来て、今度はその釣竿を一疋の可成り大きい兄さんの猿が掴んだと思ふと、それを淵の中へ差出したので、親猿はすぐそれに取縋つて難なく岸に這上りました。けれどももう其時親猿は余程弱つて居たと見え、大きな岩の上にパタリと倒れたまゝ動きませんでした。子猿達は親の生命を助けたのを喜ぶやうに、また親の身の上を気遣ふやうにそのぐるりを取捲いてゐました。
この有様を見た与兵衛は一生懸命に川原を下の方へ駈けて行きました。そして家へ走り帰つて信次と追駈ゴツコをして遊んで居たチヨンを抱きあげて、
「さア、チヨン、お前をお父さんに返してやるぞ!」と言つて其まゝまた川原を上へ上へと走つて行きました。
行つて見ると川向ふの岩の上には、まだ子猿が親猿を取捲いて日向ボツコをして遊んで居ました。
与兵衛は淵の上手の浅瀬を渡つて向岸に行つて、チヨンを川原に座らせて、
「さア、チヨンよ、彼所にお前のお父さんが居る! お前は――もう、お父さんの所へお出で! さア早くあつちへお出で!」と言ひ聞せました。
けれどもチヨンはうつむいて川原の砂を弄くつて居るばかりで親猿の所へ行かうとはしないのです。与兵衛はポロ/\涙を流しながら、
「左様なら、チヨンよ、私は最う帰るから、早くお父さんの所へお出で、兄さんや姉さん達もあの岩の上に居るぢやないか、左様なら……」と云つて浅瀬の中へ入らうとしますと、チヨンは周章てゝ与兵衛の肩に這上つて、其の襟の所にピツタリ頭を押しつけてゐるのです。丁度母猿が射殺された時、其の乳房に縋つてゐた時のやうに。
「よし/\、お前は俺を恋しいのか、では伴れて帰つてやる! 死ぬまで大事に/\飼つてやらう。そして死んだら、お前のおツ母アと一緒の墓に葬つてやるぞ!」
与兵衛はかう言ひ乍ら川を渡りました。そして、大きな声で川向ふの猿に対つて、
「皆さん左様なら!」と云ひました。けれども猿共は不思議さうな顔でヂロ/\とチヨンと与兵衛とを見て居るばかりでした。
底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「赤い猫」金の星社
1923(大正12)年3月
初出:「金の船」キンノツク社
1920(大正9)年1〜2月
入力:tatsuki
校正:田中敬三
2007年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。