それは夏の夜の事であった。木客たちは夕飯の後で、例によって露骨な男女の話をしていると、谷を距てた前方の山から、
「おうウイ」
と云う声が聞えて来た。それは何人かが此方へ向って呼びかけている声であった。ところで木客だちは、そのおうウイの声を酷く忌み嫌っているので、何人もそれに応ずる者はなかった。と云うのは、その声は山の怪異の呼びかける声で、万一それに応じでもすると、一晩中応答しなくてはならぬが、そんなに長く声の続くものでない。それで声が続かなくなるような事でもあると、得態の知れない毒素に当って血を吐いて死ぬると云われていた。木客たちは顔を見合わして黙っていたが、前方の声は後から後からと聞えて来た。ところで、前方の声は魅力のある人を惹きつける声で、うっかりしていると引きこまれて返事をしたくなるのであった。
広島県の者だと云う壮い木客の一人が、その時ふらふらと起って外へ出て往った。一座の者は便所にでも往ったろうと思っていると、小舎の外の崖の方から、
「おうウイ」
と云う壮い木客の声が聞えて来た。すると前方の声はそれに纏りつくように、
「おうウイ」
と応じて来た。と、又壮い木客の声がそれに応じた。
「おうウイ」
「おうウイ」
「おうウイ」
「おうウイ」
壮い木客の声と前方の声は交互に聞えだしたが、その声はしだいしだいに熱を帯びて来た。小舎の中の者はじっとしていられなくなった。
「こりゃ、いかん」
「此のままにしておかれない」
「負けたら、大変だ」
「山の者を皆呼んで来い」
小舎の中の者は蜘蛛の子を散らすように外へ出た。そして、壮い木客の傍へ往く者もあれば、近くの小舎から小舎へ同儕を呼びに往く者もあった。その時壮い木客は、月の光を浴びて狂人のようになって呼び続けていた。
「おい、おい、休め、休め、俺が代ってやる」
木客の一人は、壮い木客を突き飛ばすようにしておいて、自分で代って、
「おうウイ」
をはじめた。そして、その男が疲れて来ると他の者が代ってやった。木客の数は多いので幾何でも応ずる事ができた。と、そのうちに前方の声が弱って来て、小さな声になり、やがてそれがぴたりやんだ。一同は勝鬨をあげて壮い木客を伴れて小舎の中へ入ったが、その時はもう黎明に近かった。
朝になって彼の壮い木客は、谷の前方の声のしていた方へ往ってみた。そこに杉の大木があって、その根元に大きな狒狒が口から血を吐いて死んでいた。
底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
2003(平成15)年10月22日初版発行
底本の親本:「新怪談集 実話篇」改造社
1938(昭和13)年
入力:Hiroshi_O
校正:noriko saito
2010年10月20日作成
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