「ちょっと待っててね」
と云って、犬を抱いたままおりて、傍の立派な門構の家へ入って往ったが、一時間近くなって出て来ないので、運転手はしかたなしにその家へ往った。すると一人の老婦人が出て、
「私の家には、女の子はいないのですが」
と云った。運転手はそれまでは[#「それまでは」はママ]乗り逃げをせられたのかと思いながら、やるともなしに土間へ眼をやった。土間には彼女の抱いていた小犬がちょこなんと坐っていた。
「この犬を抱いて来た方ですよ」
すると老婦人の顔色が変った。
「この犬を、この犬ですって」
そこで運転手は一とおりその女の容貌を話した。みるみる老婦人の眼に涙が湧いた。
「それでは、やっぱり家の娘でございますよ、明日が一周忌になりますから、それで帰って来たものですよ」
老婦人はそれから土間へおりてその小犬を抱きあげた。
底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
2003(平成15)年10月22日初版発行
底本の親本:「新怪談集 実話篇」改造社
1938(昭和13)年
入力:Hiroshi_O
校正:noriko saito
2010年10月20日作成
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