目次
 自分は一昨年の秋から、昨年の十月に懸け、一年間餘歐洲諸國を遊歴し、其傍巴里・倫敦・伯林・聖彼得堡等の國都で、先般燉煌及支那の西陲から發見されて、一時斯學界を賑はした、漢代の木簡、及び※(「糸+賺のつくり」、第3水準1-90-17)に書いた漢人の尺牘、六朝及び唐代の舊抄卷子本やら、且つ古抄本の一部を筆録して歸つた。又同時に歐洲に名高き支那學者の門を叩きて、其緒論を聽き、支那學を一科目と立てある大學若しくは東洋語學校などゝ名の附く所は、必ず參觀して、支那に關する各般の研究が如何に行はれつゝあるかを見て尠なからぬ利益を得たが、以下歐洲に於ける支那學の現状を國に順うて略敍して見たいと思ふ。
 佛國 公平にいつて、將來はいざ知らず、過去及現在に於いて、支那學の最も盛んなるは佛國であらうと思ふ。尤獨逸でも、伯林大學に『デ・ホロート教授』(Prof. Dr. De Groot)大學附屬東洋語學校支那語科に『フヲルケ教授』(Prof.Dr.Forke)ハムブルグ殖民學院に『フランケ教授』(Prof. Dr. Franke)ライプチヒ大學にドクロル・コンラデ(Dr. Conrady)氏等あつて熱心に研究をやつて居り、又彼得堡大學にも昨年正教授に榮陞したイワノフ(Prof. Dr. Ivanow)や助教授アレキシエーフ(Alexief)など少壯有爲の人達が居て、將來歐洲に於ける支那學は、種々の點より露獨兩國が他國を凌駕するやうにならぬとも限らぬと思ふが、兎も角今日までの處では、佛國が斯學に於て覇權を握つて居る。それは如何なる理由かといふに、必竟歐洲に於て佛國人が最も早く支那の文學宗教言語の研究をやつた、佛國が支那學研究の最も古き歴史を有するからである。其一例として歐洲諸國の大學で、支那學の講座を一番先きに置いたのは、何處かといふに、自分の寡聞を以てすると、彼のコルレヂ・ド・フランスでアベル・レミュサ(Abel R※(アキュートアクセント付きE小文字)musat 1788-1832)が最初の支那學教授として同校の校堂で就任演説をしたのは實に紀元一千八百十五年正月十六日の事で(一)、即ち今を距る九十九年前、佛國の大學では已に支那學專門の教授が居たのである。飜つて英獨露諸國の大學は何如であるかといふと、英國牛津大學でかの支那學の老兵ゼームス・レツグ(James Legge 1815-1897)の爲めに、支那學の講座が設けられたのは、やつと紀元一千八百七十六年で(二)、又同じく八十八年(三)ケムブリチ大學でトーマス・ウ※[#小書き片仮名ヰ、192-9]ード(Sir Thomas Wade 1818-1895)が支那學最初の講座を充たした、獨逸ではウ※[#小書き片仮名ヰ、192-10]ルヘルム・ショツト(Wilhelm Schott 1807-1889)ゲヲルグ・フ※[#小書き片仮名ヲ、192-11]ン・デル・ガベレンツ(Georg von der Gabelentz 1840-1893)又先年物故したグルーベ(W. Grube)などいふ支那學者が、何れも伯林若しくはライプチヒ大學に關係を持つて居たが、自分の知る所では、此のうち正教授であつたのはガ氏一人で、然かもガ氏といひ、グ氏といひ、寧言語學者といつた方が適當で、純粹な支那學者で、正教授となり、ゲハイムラートの榮稱さへ有するのは荷蘭から引張つて來た現任伯林大學教授ホロート氏が最初であらう。それから露國は何如であるかといふに、該國の學者で、支那塞外民族の言語地理を研究したり、又隨分支那本部の文學史學とか、地質植物などまで調べた人は少くないが、彼得堡大學東洋言語科大學に、支那語言科(此には語言科といふ。他國にて支那學、支那文學科といふが如し。)、が始めて入つたのは、紀元一千八百五十四年(四)、彼のワシリエフ(V. Vasilief)が實に最初の支那學教授であつた。以上擧げた所で、佛國の大學で最も早く支那學の講座が置かれた事が分る。尤も此丈では穴勝現在佛國で支那學が最も盛んな唯一の證據とはならぬ。何故となれば、西洋で支那學をやる人には、從來二つの種類がある。即ち一は本國に居てやる人で、一は支那に往つてやる人である。前に擧げたレミユーサでも其弟子でコルレヂ・ド・フランス支那學の講席を襲いだヂユリアンの如きは前者に屬し、彼等も我國從來の漢學者同樣で、支那に往つたこともなければ、支那語を話すことも出來ぬ。唯本を讀んで理解する丈の人であつた。第二類の人は支那に往つてやる人である。英國の如きは此種類の人が多く、彼等は本國に在るときは、支那の事物に就き何等の智識なく、外交官志望とか、又宣教師として支那に派遣され、多年其地にあつて、獨學で支那の學問をなし、遂に立派な支那學者と成つた人が隨分多い樣な譯で、或國の大學に支那學が閑却されたから、必ずしも其處に此學が振はなかつたとも言へぬが、一方から見れば、支那に關する興味が一般に擴がつて、其研究をやつて見ようと思ふ人があればこそ、講座も置かれた譯で、佛國に於ける支那學の淵源が、他國よりも遠い事は爭はれぬと思ふ。
 話が岐路に入る虞はあるが、序に歐洲に於ける支那學の起源に就いて申述べたい。抑歐洲人が歐洲に於いて出版した著書中に支那文字の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入されたのは、イスパニヤ人で、アウギユスタン派のジユアン・ゴンサレ・デ・メンドウサ(P.Juan Gon※(セディラ付きC小文字)alez de Mendo※(セディラ付きC小文字)a)の支那史(五)が最も古いといふ。原本は紀元一千五百八十五年に羅馬で出版され、其後歐洲の諸國語に飜譯されて、大に世人の注意を惹いたといふが、其内に支那の文字見たやうなものが載つて居て、支那では一語に對し一字を有すなど書いてあるさうだ。其次にはかの有名なゼェシュイット派のポルトガル人ソメド(Alvaro Somedo 1585-1658 漢名魯徳照)の支那帝國史にも、支那語言文字に就いて、別に一章を設け、王玉等の字を標本として擧げて居る。此等の著書は或一部の歐洲人に、支那の文字に關する智識を與へた最初のものとなつて居る。一體歐洲人にて當時支那の文學等を研究するものは申迄もなく、支那で宣教をなしつゝあつた教士連で、彼等が支那の語言を解し、又支那從來の道徳宗教に關する思想を知ることは職務上極めて必要であつたからである。其以外の人士殊に歐洲本國の人には支那に關する興味は初めは全くなかつた。然るに茲に偶然なる出來事があつた。それは何かといふに、ゼェシュイット派の僧侶が、支那人を教化するに、數千年來の風俗となつて居つた祖先崇拜は、一の典禮に過ぎない。宗教的性質を有つて居ないからといふ理由で、此れを信者に許るして居たが、ドミニカン・フランチスカン派の僧侶は大いに其の不可を鳴らし、之を羅馬法皇廳に訴へ、ゼェシュイット派は又これに駁論をするとか、態々仲間のものを選んで羅馬へ往き辯解をなさしむなどの大騷ぎで、典禮問題といふ矢釜しい事件が持ち上つた。この論爭が激しくなると共に、各派共に盛んに支那の宗教道徳思想と、風俗習慣とを研究したが、此れと同時に歐洲に於ける僧侶以外の學者連も宣教師等の話をきゝ、此につり込まれて支那といふ事に興味を有つた樣になつた。
(大正三年二月、藝文第五年第二號)
(一)Abel R※(アキュートアクセント付きE小文字)musat.M※(アキュートアクセント付きE小文字)langes Asiatiques.Tome.II.P.1
(二)Henri Cordier.Half a decade of Chinese Studies(1886-1891)
(三)Ditto
(四)イワノフ氏が予に與へたる書翰
(五)Henri Cordier,Notes pour servir a l'Histoire des ※(アキュートアクセント付きE)tudes chinoises en Europe(Nouveaux M※(アキュートアクセント付きE小文字)langes Orientaux 1886 p.400以下)
 前に述べた如く、支那人の祖先崇拜につき、『ゼシュイット派』の僧侶は單に典禮儀式に過ぎないもので、宗教的の性質はないといひ、一方『ドミニカン』『フランチスカン派』では宗教的のものであるから、之を教民に許すべからずといひ、互に激烈な爭議があつた。其結果として、『ゼシュイット派』から代表者を選び、羅馬法皇廳に赴き、同會がとり來つた態度につき辯明をさせたが、其任に當つたものは Martino Martini(漢名衞匡國[#改行]1614-1661)といつて當時有名な支那通であつた。彼は支那布教中、眞主靈性理證、述友篇などいふ漢文の著述もあり、支那の歴史文學に關して餘程智識を持つて居たらしい。其人が今申した理由で、歐洲へ派遣されたが、其滯歐中に彼の著述たる支那地圖(Atlas Sinensis)が、『アムステルダム』市の書坊で出版され、それが幾ならずして、歐洲の諸國語に飜譯されたが、此書こそ歐洲に於いて刊行された支那に關する最初の地理書となつて居る。又當時歐洲に於て支那に關する興味が漸く起りかけて居たので、彼れは到處種々支那の事情について質問を受けたと見え、支那に於ける天主教徒の現状や、また彼自身の目撃した明朝滅亡の有樣につき各々一書を著はした。後者は即ちかの有名な韃靼戰記(De Bello Tartarico Historia)で、これも歐洲の諸國語に飜譯され尠なからざる注意を惹いた。かくて彼は歐洲に留まること六年、其使命を果たし數多の少壯傳教士を伴なつて支那へ還つたが、彼は其滯歐中歐洲各地に支那學の種子を撒き散らし、それが後世に至つて、立派な果實を結ぶ樣になつた(一)。それから同じゼシュイット派の僧侶に Michel Boym(漢名卜彌格[#改行]1612-1659)といふ人があつた。此人も千六百五十年に或る重大な事情の爲め、歐洲へ一寸歸國したが、其著 Flora Sinensis は極めて有名なもので、支那の書籍に見えた植物を歐洲に紹介し、又かの Athanase Kircher が China Illustrata に載せた景教碑文の如きも Boym に負ふ所多し(二)と言はれて居る。予輩は今此處で、此の如く傳教士の中に支那の歴史文學言語などを研究し、歐洲へ還つて親しくこれを彼地の人士へ紹介した人達の姓名を一一臚列しない。但序に一言したいのは、凡べてゼシュイット派に限らず、支那に於ける傳教士が歐洲に還るとき、往々支那の教民を連れて往つた事で、此れがまた歐洲に於ける支那學の成立について、影響を有つて居る。其例を擧ぐれば、ゼシュイット派の人で Phillip Couplet(漢名伯應理[#改行]1622-1693)がある。これもかの典禮問題に關し、一千六百八十年に羅馬へ派遣されたが、其時江寧の人某を連れていつた。然るに此の教民は、多少學問があつたとかで、英國牛津大學にいつたら、同大學の東洋學者で、『ボドレアンヌ』圖書館館長をして居た、『トーマス・ハイド』(Thomas Hyde)から、支那の度量衡やら何やらの事を質問され、之に答へた、所が其答辯が『ハイド』の著書となつて出たといふ。又ゼシュイット派ではなく巴里の『ミスシヨン・ゼ・トランゼー』に屬する Artus de Lyonne といつて四川に於ける最初の長老をした人があつた。これもかの典禮問題に少からぬ關係を有つて居たが、其歸國するに及び、福建興化府生れの黄姓で Arcadius といふ名を持つた支那人を連れて往つた。この支那人は巴里『ミスシヨン・ゼ・トランゼー』の研究所に暫時居て、それから巴里の婦人を娶り、千七百十六年同地で客死した。抑々この支那人が巴里へ來たときは、恰も傳教士等の支那に關する著述や報告により、支那に關する興味が非常に高まつて居た折で、本物の支那人が來たといふので、興化府出の田舍漢は巴里人から非道く珍重された。先づ王立圖書館に支那在住の傳教士から送つて來た許多の漢籍が、館員に支那文字を解するものがない爲め、其儘になつて居たものを、この支那人に囑託して整理して貰つた。又巴里の學者 Fr※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)ret とか Fourmont などいふ連中が、支那學を研究する志望を起したのも全くこの支那人に遇ひ、種々支那に關する智識を得たからだと言はれて居る。この支那人が死んだとき、オルレアン公は佛王路易十五世の勅諚を Fourmont に傳へ、其家に就いて遺著を檢査せしめたが、大したものはなかつたとあるが、とに角この一流寓の支那人が佛國に於ける支那學の歴史に、少なからざる關係を有することは疑ふことは出來ぬ。
 前に擧げた Fourmont(※(アキュートアクセント付きE)tienne 1683-1745)は佛國に於ける最初の支那學者である。少なくとも彼れは僧侶でない。普通の學者で而も佛蘭西の本國で、支那の文學語學をやつたといふ點に於て最初の支那學者といつて差支はない。勿論彼れが學力の極めて淺薄なものであつたことは申す迄もない。『レミユサ』が指摘した如く、其手になつた王立圖書館漢書目録を見れば、實際普通の支那文字が讀めたか頗る怪しい位である。其上彼の人格に就いても多少の非難がある。例せば其得意とする Meditationes Sinicae の一部たる支那文典はドミニカン派の僧侶 Varo の文典が世に知られざるを幸に、全くこれを剽竊したものといはれて居る。又支那から常に學術上の材料を供給しつゝあつたゼシュイット派の Pr※(アキュートアクセント付きE小文字)mare(漢名馬若瑟[#改行]Joseph 1666-1731)が其著、Notitia Linguae Sinicae を彼に送つたとき、彼は其及ぶべからざるを知り、故意にこれを圖書館の奧に葬り去つて、己の書のみを世に出し、且つ其書が遙に Pr※(アキュートアクセント付きE小文字)mare の作に優ることを公言したるが如き、學者の道義上赦すべからざる罪過である。是れ必竟其勝を好むの念よりかゝる罪過を犯したものなるが、一方より見れば彼が斯學に於ける篳路藍縷の功は、其人格の何如によつてこれを沒することは出來ぬ。殊に彼れが門に Deshauterayes(1724-1795)Deguignes(Joseph 1721-1800)の如き出藍の才を出したことは彼の名譽とせねばならぬ。
 かくの如く佛國では他の歐洲諸國よりも早く專門の支那學者を出して居るが、何如にせん本國では書籍も少なく、且つ支那と懸離れて實際の樣子を知らないから隨分可笑しき間違もある。又讀書力に於いても同じ歐洲人ながら支那在住の傳教士には及ばぬ。それで彼等は勢材料を支那に於ける傳教士から取らねばならぬ。即ち前に擧げた『フルモン』の『プレマール』に於ける其の一例である。而して此處に注意すべきは、支那に於ける天主教の歴史を調べて見ると、其初期に於ては「ゼシュイット」派といつても佛國人は比較的少なく、以太利、西班牙、葡萄牙、獨逸、瑞西、フラマン等の人が多かつたが、千六百八十七年頃から、佛國生れの傳教士が非常に多くなり、又從つて傳教以外に支那について種々の學術的研究をなしたものが佛國人に多かつた。即ち Bouvet(Joachim 漢名白晉 1656-1730)Le Comte(Louis-Daniel 漢名李明 1655-1728)Gerbillon(Jean-Fan※(セディラ付きC小文字)ois 漢名張誠 1654-1707)Couplet(前出)Visdelou(Claude de 漢名劉應 1656-1737)Pr※(アキュートアクセント付きE小文字)mare(前出)等で又少し遲くれては Gaubil(Antoine[#改行]1689-1756)Amiot(J. J. Marie 漢名錢徳明 1718-1793)等がそれである、此等の人は皆有益な著述を遺したが其外にも Lettres Edifiantes とか M※(アキュートアクセント付きE小文字)moires などといつて、支那に於ける傳教の有樣を述べたものとか、支那の文學宗教歴史科學等に就て研究した報告類のものが、澤山出て、之が佛國の支那學者に非常な利益を與へた。かゝる次第であるから前に述べた如く、佛國では他の諸國よりも早く傳教以外に專門の支那學者を輩出し又『コルレヂ・ド・フランス』に於て一千八百十五年に支那學の講座が置かれ(同校にては此の講座を Langues et litteratures chinoises et tartares-mantchoues といふ。)『アベル・レミユサ』が其教授に選ばれた。『レミユサ』死して其高足弟子たりし Stanislas Julien(1799-1875)之に代り教授たりしこと四十餘年、歐洲に於ける第一流の支那學者として四方從遊のもの甚だ多かつた。ヂユリアンの後を襲つた者が、Marquis d'Hervey de Saint Denys(1823-1892)で、其の死後多くの候補者があつたが、史記の譯者として早く名を知られし Eduard Chavannes 氏が推されて之れに代り、以て今日に至つたので、『レミユサ』より『シヤバンヌ』氏まで、已に四人の教授を經たのであるが、これを見ても現今まで支那學が佛國に盛んなる理由は首肯することが出來る。序に『コルレヂ・ド・フランス』では現今シバンヌ氏の外に燉煌遺書の將來者として有名なる Paul Pelliot 氏が中央亞細亞諸國言語、歴史及び考古學の講座を擔任して居る。
 佛國にて支那關係の學科を加へて居る學校では猶東洋語學校(L'※(アキュートアクセント付きE)cole des Langues Orientale Vivantes)がある。同校に支那語科の入つたのは一千八百四十一年で、最初の教授は元雜劇の飜譯者紹介者として知られて居る Bazin(A.P.Louis 1799-1863)であつたが、此處も現任の Vissi※(グレーブアクセント付きE小文字)re 氏まで六人の教授を經て居る(四)。目下 Vissi※(グレーブアクセント付きE小文字)re 氏の外に支那書史の著者として有名なる Henri Cordier 氏も依然教授として相變らず支那の方面に關する研究を發表して居る。それから L'※(アキュートアクセント付きE)cole Pratique des Hautes ※(アキュートアクセント付きE)tudes といふ學校に宗教學科の一部があつて『シヤバンヌ』氏が支那宗教の講義を受持つて居るが、今は都合あつて休講になつて居るとのことであつた。以上三校の内で『コルレヂ・ド・フランス』は教授が各自研究した事項を發表する機關で、授業よりも學術の研究が重なる目的であると聞いたが、支那學の方面に於ても亦同樣で、其遣方は純粹に學術的で、所謂實用とか學生の教育といふやうな事は目的になつて居らぬらしい。獨逸や露西亞の大學では、支那と特別の關係を持つて居るから、それで支那の研究を奬勵するといふ風が見ゆるも、『コルレヂ・ド・フランス』はさうでない。東洋語學校は、即ち支那の實用語學を教ふる所で學生には支那の領事となつたり、又商業をする等の目的で入つて居るものが多いが、其教授たる人は唯語學を教ゆる計りでなく矢張學術的研究をする人が少なくない。
 佛國ではリオン市にもモリス・クーラン(Maurice Courant)といふ支那學者があつて講師かなにかであつたが、昨年七月同市商業會議所から支那學講座資本を寄附した爲めに、同氏が其正教授に任命された(五)
(大正三年三月、藝文第五年第三號)
(一)Henri Cordier,Notes pour servir ※(グレーブアクセント付きA小文字) l'Histoire des Etudes Chinoises en Europe(Nouveaux Me'langes Orientaux 1886 p. 409)
(二)桑原博士西安府の大秦景教流行中國碑(藝文第壹號)
(三)Abel R※(アキュートアクセント付きE小文字)musat,Nouveaux M※(アキュートアクセント付きE小文字)langes Asiatiques Tome I. p. 258[#底本の本文にこの注釈場所を示す注釈番号なし]
(四)Notice Historique sur l'※(アキュートアクセント付きE)cole des Langues Orientale(M※(アキュートアクセント付きE小文字)langes Orientaux 1883 p. XL.)
(五)通報(Jnillet 1913 Vol. XIV)
 自分は本誌第五年第二號及び第三號に續狗尾録の題目を以て歐洲に於ける支那學の歴史と其現状とを略述し、僅かに佛國を敍して其儘筆を輟めて居たが、再び狗尾を續けて英國と伊太利に及ぶことゝする。
 抑※(二の字点、1-2-22)英國の支那に對して通商を始めたのは、歐洲大陸の諸國、葡萄牙・西班牙・荷蘭等よりは遲くれて居るけれども、其結果に於ては誠に重大なる者があつて、康煕の末期には、東印度會社の商船が續々として支那に來て、其貿易は甚だ盛んであつた。かく支那との通商が盛んとなるに從ひ、必要上、英國人の中に支那の語言を學ぶ者が出て、それから支那の文學や歴史等の方面に手を出すものがなくてはならぬ譯だが、事實は之に反し、彼等は支那語に對しては全く興味を感ぜず、寧ろ輕蔑をして居つた。彼等は支那人に對しても英語で押通して居たから、支那人の方で英語を使つて用を辨ずる、即ち今日でも猶支那の各通商口岸で、支那人が外國人に對して使つて居る「ピヂン、イングリシユ」はこれで、英國人の方でも東洋に來ると、態々これを學んで、支那人と思想を交換する道具にして居るが、此奇怪な言語は今申した理由に本づくのである。併しこれは一般に言つた話で、昔でも英國人の或者は實用の支那語だけは熱心に勉強したものもあつたと思はるゝが、此語を利用して又溯つて支那の文字を味はひ、支那の書籍を英文に飜譯するとか、或は英文を以て紹介した樣な人は殆んどなかつた。之を耶蘇會士の人々が支那に來るや直に支那の語言文字を研究して十數年を出でずして種々の學術的著作をなしたのと大に其趣を異にする。英國人で初期の支那學者の一人たる『フランシス・デビス』曰く『英國人は何等か利益を得る目算あるに非ざれば妄りに時間と精力を費すことを欲せず。但一たび利益の之に伴ふことを知れば全力を注ぎて之をなす(一)』と。英國人が支那の研究に手を着けなかつたのも、所謂之より生ずる直接の利益を左程感ぜなかつたからで、又一方より見れば英語ばかりで天下を横行しようといふ一種英國流の自尊自大心にも其原因を求むることが出來る。
 英國人が支那の文學を飜譯し若しくは紹介した最初のものは無名氏の手になつた支那小説『好逑傳』の英譯であらう。『デビス』が其著『Chinese Novels』の卷首に『マカートニー卿』の支那派遣以前になつた英國人の支那に關する述作としては唯一部の極めて不完全な小説のみといつたのは即是れである(二)。此書は題して Hau Kiou Choaan or the Pleasing History, a Translation from the Chinese Language to which are added, I. The Argument or Story of a Chinese Play, II. A Collection of Chinese Proverbs and III. Fragments of Chinese Poetry. 4 vols. London, Dodsley, 1761 といふ。『ヰーリー』の支那文學書目解題に據れば、此書の原稿は、Wilkinson といつて長く支那に在住し、又支那語も可なり出來て居つた人の手にあつたもので、原稿の末に 1719(康煕五十八年に當る)の識語があつたが、それは所有者 Wilkinson が支那を去つた年に當る。又其第四卷は葡萄牙語にて書かれてあつたのを、Dr.Percy といふ人が英譯し倫敦で出版したとある(三)。これを除きては、別に英國人が支那の文學歴史等に關し著述若しくは飜譯をしたものはない。
 一千七百九十二年(乾隆五十七年)英國と支那との貿易が盛んになるに連れ、大使を簡派し、兩國の關係を一層親密ならしめ、又兩國臣民との間に起る紛爭を少なくする目的を以て、前に擧げた『マカートニー卿』(Lord Macartney 馬戞爾尼)が大命を拜し、支那へ出發することゝなり、隨員なども澤山任選し、大英國の使節として愧かしからぬ威儀を具へた。それにも關らず此一行に缺くべからざる譯官を物色しても、英國内にて之を得ることが出來なかつた。そこで態々人を巴里に派して支那語に堪能で、通譯の任に膺るものを探したけれど折惡しく巴里の Maison de Saint Lazare でも Maison des Missions Etrangeres. でも人が見當たらないので、羅馬教皇宮殿の文庫に貯藏されたる漢籍の整理を命ぜられ居る支那人あることを聞いたから、巴里より轉じて羅馬に往き尋ねて見たが、かゝるものは已に居ない。そこで又『ナポリ』まで下り同處に嘗て支那に傳道して居た天主教の神父 Ripa(馬國賢)が建てた中國書院といふ若い支那の教民を教育する所があつたので、同書院に就いてやつと二人の支那學生を得、これを倫敦に伴ひ還つて大使の譯官とした。彼等は英語は分らぬけれど、拉丁語と以太利語に通じて居たから、譯官として双方の意思を通ずるには差支なかつたとある(四)。堂々たる英國使節の譯官として、支那の教民を使用せねばならぬことになつたのを見ても、當時英本國で、支那の語言文字を知つた人のなかつた事が分る。從來英國人が支那語を馬鹿にして遣らなかつた咎は當時痛切に感ぜられた。然るに馬大使一行の内に副使 Staunton の子同苗 George Thomas Staunton (司當東)といふものがあつた。當時十二歳の童生で、大使の侍者として一行に加はつて居たが、天資聰敏な人で、船中にて已に幾分か支那語を習ひ覺えた。支那に着いてからも熱心に研究し、又支那文をも讀み出し、數年ならずして非常な進境があつた。彼れは其後長く支那に留まつて居たが、支那通として東印度會社に入り、其辣腕を奮ひ、支那官憲を苦しめた。國朝柔遠記に嘉慶帝が兩廣總督に降したる諭旨を録した中に「聞有英吉利夷人司當東。前於該國入貢時。曾隨入京師。年幼狡黠。囘國時將沿途山川形勢。倶一一繪成圖册。到粤後。又不本國。留住澳門已二十年。曉漢語。」云々の文句があるが(五)、支那人の側でも、彼れが當時如何に支那通として憚かられて居たかゞ分る。彼が支那文を研究した結果として第一に發表されたものは、大清律例の英譯で、題して Ta Tsing Leu Lee,being the Fundamental Laws and a Selection from the Supplementary Statutes,of the Penal Code of China……Translated from the Chinese & accompanied with an Appendix, Consisting of authentic documents and a few occasional notes, illustrative of the subject of the work: By Sir George Thomas Staunton Bart. F. R. S. London 1810 といふ、出版されて程なく佛伊二國語にも重譯されたが(六)、此書が出來て英國人に對して寡からぬ利益を與へたといふのは、かの南京條約の結果として香港が英國に割讓され其統治を受くることゝなつたとき、爲政者が從來支那に行はれた律例を知るの必要を感じたが、Staunton の飜譯は直ちに其必要を充たすを得た。又判官の案上にも必ずこの一册が備附けてあつて、香港住民の多數たる支那人の獄を斷ずるに缺くべからざる參考書となつた事はかの支那學者で且つ香港太守たりし『デビス』の自白する所である(七)。勿論 Staunton が律例を譯するには將來支那の領土が英國に割讓さるゝことを豫想して居たとも思はれぬ。然れども大清律例が英國人の手になつた殆んど最初の飜譯たることを思ひ、之を明末より清初に懸けて支那に居つた耶蘇會士の連中が、四書五經といふ樣な古典より研究を始めたことゝ比較して考へると、少からぬ興味がある。前に擧げた『デビス』の『英國人は何等の利益あることを明にせねば妄りに時間と精力を費やさぬ』といつた言葉も思ひ當るのである。序に申して置くが、この『デビス』なども色々飜譯をやつて居るが、其種類を擧げると、小説とか劇とかいふ樣な方面を重に遣つて居る。尤も耶蘇會士中にも Pr※(アキュートアクセント付きE小文字)mare の如き學者は元雜劇趙氏孤兒などを譯してそれが佛國の文豪『ヴオルテール』にまで影響を與へた事は有名な話で、耶蘇會士にも丸るで俗文學の方面を顧みなかつた譯ではないが、どちらかと言へば古典の方であつた。英國人の考は之と變なつて、古典も支那を理解するに必要だが、それよりも俗文學即ち小説とか劇などの方が支那の風俗人情を知るに尤も便利と見た。此等が英國人の實際的な所とでもいへよう。
 Staunton に繼いで支那學者として指を屈すべきはかの Robert Morrison(1782-1834)即ち馬禮遜である。彼は實に支那に於ける Protestant mission の創設者であるが、其支那學の方面に於ける功績も亦偉大なもので、彼の著はした字典丈でも、どの位學界に貢獻したか知れぬ。馬禮遜の傳記によれば、彼は倫敦で當時在住の支那人に就いて少し許り支那語を學び 1807(嘉慶十二年)布教の目的を以て米國を經て澳門に來り程なく廣州に轉じたが、同處に居た Staunton とも交を結び大に益する所あつたといふ。それから專心支那文學を修め、東印度會社に聘せられて支那文の飜譯を擔當したが、比較的閑散なる儘、力を著述と支那文研究に費やすことを得て、耶蘇教の教義に關する種々の漢文著述――神天聖書即ち The Holy Bible の漢譯も其一である――をしたが、同時に英國人が支那文を學ぶことを容易すくする爲め支那文典若しくは其他語學に關する著述をした。然れども尤斯學に裨益する所ありしは其心血を注ぎしかの有名な全部六册の漢英對譯字典 A Dictionary of the Chinese Language in three Parts. Part the First; containing Chinese and English,arranged according to the Radicals; Part the Second, Chinese and English arranged alphabetically; and Part the Third, English and Chinese. By the Rev. Robert Morrison 6 Vol. in-4 1815-1823 である。今でこそ Giles や Williams などの字典があるので、Morrison の方は餘り顧みるものがないけれども、當時にあつて此書が學者に裨益を與へたことは非常なもので其勞は實に多しといふべきであるが、東印度會社が常に其事業に同情を有し、前後一萬磅の大金を支出して之を助けた事も特筆すべきである。Morrison に關聯して記載すべきは William Milne(米憐 1785-1822)の事である。この人も London Missionary Society から支那に派遣され常に Morrison と事を共にし聖書の飜譯も舊約全書の一部は其手になつたものだか、支那文も能く出來たと見え、かの清朝の教育勅語ともいふべき聖諭廣訓を譯し、題して The Sacred Edict といひ 1817 に倫敦で出版して居る。同時英國人にて宣教師たる Joshua Marshman(1768-1837)といふ者が居た。此人は支那學者ながら支那には來なかつた。印度カルカッタから程遠からぬセラムポールで布教して居たうち、支那文を學び支那文典を著はし、又論語の一部分と大學を譯述して居るので(八)、『デビス』の如きは Morrison と同じく英國人で支那學をした初期の仲間に入れて居る。次に申すべきはこの『デビス』(Davis, John Francis, 1795-1890)である。彼れは支那に來て東印度會社の書記から大班に進み、貿易監督官、香港太守等の劇職に居ながら、立派な支那學者で、其著述も極めて多い。漢詩を論じたるものあり、元雜劇、小説を譯したるものもあり、其の中に文句の意味を誤解した點も少なからぬが之を責むるは酷である。殊に其著 The Chinese. A General Description of the Empire of China and its Inhabitants. London 1832. は支那に關する種々の智識を與ふるものとして歐洲人士に歡迎されたと見え、屡※(二の字点、1-2-22)覆刻され又初版の世に出でゝ間もなく、佛獨蘭伊の四國語に譯されて居る(九)。以上は一千八百年以後英國人で、支那學の先驅をした重な人々である。前にも申す如く『マカートニー卿』が大使となつて支那に來るまでは、譯官を得るさへ困難した位であるが、其後英國人が其國と支那との通商上若しくは支那に布教する點について支那の語言文字を知る必要あることを感じたから數年ならずしてかゝる人を出したもので、一千八百十六年(嘉慶二十一年)に Lord Amherst(國朝柔遠記には羅爾美都と書いてある)が大使となつて支那に來り、北京に乘込んだときは隨員として Staunton あり Morrison あり、又 Davis あり、何れも當時錚々たる支那通で、然かもそれが『マカートニー卿』の派遣されしより僅に二十四年に過ぎぬが、兩者を比較して誠に霄壤の差があつた。
(大正三年十二月、藝文第五年第拾壹號)
(一)Davis, Chinese Miscellanies. p. 50
(二)Davis, Chinese Novels. p. 4
(三)Wylie, Notes on Chinese Literature. p. xxxiii.
(四)Sir George Staunton,An Aushentic Account of an Embassy from the King of Great Britain to the Emperor of China. & c. pp. 45-47.
(五)國朝柔遠記卷七
(六)Henri Cordier, Bibliotheca Sinica. p. 546
(七)Davis, Chinese Miscellanies. p. 51
(八)Memorials of Protestant Missionaries to the Chinese. pp. 1-2.
(九)Henri Cordier, Half a Decade of Chinese Studies. T'oung Pao III.

底本:「支那學文藪」みすず書房
   1973(昭和48)年4月2日発行
底本の親本:「支那學文藪」弘文堂
   1927(昭和2)年発行
初出:「藝文 第五年第二號、第三號、第拾壹號」
   1914(大正3)年
※注釈中のローマ数字は半角ラテン文字で代用しました。
入力:はまなかひとし
校正:染川隆俊
2011年1月17日作成
2013年4月17日作成
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