目次
一九二六、五、二、
畑を過ぎる鳥の影
青々ひかる山の稜

雪菜の薹を手にくだき
ひばりと川を聴きながら
うつつにひととものがたる
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一九二六、五、二、
陽が照って鳥が啼き
あちこちの楢の林も、
けむるとき
ぎちぎちと鳴る 汚ない掌を、
おれはこれからもつことになる
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一九二六、五、一五、
ぎっしり生えたち萱の芽だ
紅くひかって
仲間同志に影をおとし
上をあるけば距離のしれない敷物のやうに
うるうるひろがるち萱の芽だ
   ……水を汲んで砂へかけて……
つめたい風の海蛇が
もう幾脈も幾脈も
野ばらの藪をすり抜けて
川をななめに溯って行く
   ……水を汲んで砂へかけて……
向ふ岸には
蒼い衣のヨハネが下りて
すぎなの胞子たねをあつめてゐる
   ……水を汲んで砂へかけて……
岸までくれば
またあたらしいサーペント
   ……水を汲んで水を汲んで……
遠くの雲が幾ローフかの
麺麭にかはって売られるころだ
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一九二六、六、一八、
南の風も酸っぱいし
穂麦も青くひかって痛い
それだのに
崖の上には
わざわざ今日の晴天を、
西の山根から出て来たといふ
黒い巨きな立像が
眉間にルビーか何かをはめて
三っつも立って待ってゐる
疲れを知らないあゝいふ風な三人と
せいいっぱいのせりふをやりとりするために
あの雲にでも手をあてて
電気をとってやらうかな
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一九二六、六、二〇、
道べの粗朶に
何かなし立ちよってさはり
け白い風にふり向けば
あちこち暗い家ぐねの杜と
花咲いたまゝいちめん倒れ
黒雲に映える雨の稲
そっちはさっきするどく斜視し
あるいは嘲けりことばを避けた
陰気な幾十の部落なのに
何がこんなにおろかしく
私の胸を鳴らすのだらう
今朝このみちをひとすぢいだいたのぞみも消え
いまはわづかに白くひらける東のそらも
たゞそれだけのことであるのに
なほもはげしく
いかにも立派な根拠か何かありさうに
胸の鳴るのはどうしてだらう
野原のはてで荷馬車は小く
ひとはほそぼそ尖ってけむる
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一九二六、六、二〇、
この萌えだした柳の枝で
すこしあたまを叩いてやらう
叩かれてぞろぞろまはる
はなはだ艶で無器用だ
がらがら蛇でもない癖に
しっぽをざらざら鳴らすのは
それ響尾蛇に非るも
蛇はその尾を鳴らすめり
青い
青い
紋も青くて立派だし
りっぱな節奏リズムもある
さう そのポーズ
いまの主題は
「白びかりある攻勢」とでもいふのだらう
しまひにうすい桃いろの
口を大きく開くのが
役者のこはさ半分に
所謂見栄を切るのにあたる
もすこしぴちゃぴちゃ叩いてやらう
今日は廐肥をいぢるので
蛇にも手などを出すわけだ
けれども蛇よ、
どうも、おまへにからかってると
酸っぱいトマトをたべてるやうだ
おまへの方で遁げるのか
それではひとつわたしも遁げる
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一九二六、七、八、
こゝから草削ホウをかついで行って
玉菜畑へ飛び込めば
宗教ではない体育でもない
何か仕事の推進力と風や陽ざしの混合物
熱く酸っぱい阿片のために
二時間半がたちまち過ぎる
そいつが醒めて
まはりが白い光の網で消されると
ぼくはこゝまで戻って来て
水をごくごく呑むのである
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一九二六、七、一四、
松森蒼穹そらに後光を出せば
片頬黒い県会議員が
ひとりゆっくりあるいてくる

羊歯やこならの丘いちめんに
ことしも燃えるアイリスの花
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一九二六、七、一四、
アカシヤの木の洋燈ラムプから
風と睡さに
朝露も月見草の花も萎れるころ
鬼げし風のきもの着て
稲沼ライスマーシュのくろにあそぶ子
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一九二六、七、一五、
驟雨カダチはそそぎ
土のけむりはいっさんにあがる
  あゝもうもうと立つ湯気のなかに
  わたくしはひとり仕事を忿る
    ……枯れた羊歯の葉
      野ばらの根
      壊れて散ったその塔を
      いまいそがしくめぐる蟻……
杉は驟雨のながれを懸け
またほの白いしぶきをあげる
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一九二六、八、八、
「おしまひは
シャーマン山の第七峰の別当が
錦と水晶の袈裟を着て
じぶんで出てきて諫めたさうだ」

青い光霞の漂ひと翻る川の帯
その骨ばったツングース型の赭い横顔
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一九二六、八、一五、
悪どく光る雲の下に
幅では二倍量では恐らく十倍になった北上は
黄いろな波をたててゐる
鉄舟はみな敝舎へ引かれ
モーターボートはトントン鳴らす
下流から水があくって来て
古川あとの田はもうみんな沼になり
豆のはたけもかくれてしまひ
桑のはたけももう半分はやられてゐる
かたつむりの痕のやうにひかりながら
島になって残った松の下の草地と
白菜ばたけをかこんでゐる
いつの間にどうして行ったのか
その温い恐ろしい磯に
黒くうかんで誰か四五人立ってゐる
一人は網をもってゐる
はゞきをはいて封介もゐる
水はすでに
この秋のわが糧を奪ひたるか
屋根にのぼって展望する
廐肥の束はみなことごとく高みに運び
鍬と笊とは先刻腰まで水にひたって
辛くも奪ひかへして来た
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一九二六、八、二〇、
黄いろな花もさき
あらゆる色の種類した
畦いっぱいの地しばりを
レーキでがりがり掻いてとる
川はあすこの瀬のところで
毎秒九噸の針をながす
上を見ろ
石を投げろ
まっ白なそらいっぱいに
もずが矢ばねを叩いて行く
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一九二六、八、二七、
  あかつめくさと
  きむぽうげ
おれは羆熊だ 観念しろよ
  遠くの雲が幾ローフかの
  麺麭にかはって売られるころだ
あはは 憂陀那よ
冗談はよせ
ひとの肋を
抜身でもってくすぐるなんて
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一九二六、八、二七、
青いけむりで唐黍を焼き
ポンデローザも皿に盛って
若杉のほずゑの chrysocolla を見れば
たのしく豊かな朝餐な筈であるのに
こんなにも落ち着かないのは
今日も川ばたの荒れた畑の切り返しが
胸いっぱいにあるためらしい
  ……エナメルの雲鳥の声……
強ひてもひとつ
ふさふさ紅いたうもろこしの毛をもぎり
その水いろの莢をむけば
熱く苦しいその仕事が
百年前の幽かなことのやうでもある
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一九二六、九、三、
酸っぱい胡瓜をぽくぽく噛んで
みんなは酒を飲んでゐる
 ……土橋は曇りの午前にできて
   いまうら青い榾のけむりは
   稲いちめんに這ひかゝり
   そのせきぶちの杉や楢には
   雨がどしゃどしゃ注いでゐる……
みんなは地主や賦役に出ない人たちから
集めた酒を飲んでゐる
 ……われにもあらず
   ぼんやり稲の種類を云ふ
   こゝは天山北路であるか……
さっき十ぺん
あの赤砂利をかつがせられた
顔のむくんだ弱さうな子が
みんなのうしろの板の間で
座って素麺むぎをたべてゐる
  (紫雲英ハナコ植れば米とれるてが
   藁ばりとったて間に合ぁなぢゃ)
こどもはむぎを食ふのをやめて
ちらっとこっちをぬすみみる
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一九二六、九、五、
濃い雲が二きれ
シャーマン山をかすめて行く

  (何をぬかして行ったって?)
  (雷沢帰妹の三だとさ!)

向ふは寒く日が射して
蛇紋岩サーペンテインの青い鋸
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一九二六、九、一〇、
すゝきの花や暗い林の向ふのはうで
なにかちがった風の品種が鳴ってゐる
ぎらぎら縮れた雲と青陽の格子のなかで
風があやしい匂ひをもってふるへてゐる
そらをうつして空虚うつろな川と
黒いけむりをわづかにあげる
瓦工場のうしろの台に
冴え冴えとしてまたひゞき
ここの畑できいてゐれば
楽しく明るさうなその仕事だけれども
晩にはそこから忠一が
つかれて憤って帰ってくる
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一九二六、九、一三、
霧がひどくて手が凍えるな
 ……馬もぶるっとももをさせる……
縄をなげてくれ縄を
 ……すすきの穂も水霜でぐっしょり
   あゝはやく日が照るといゝ……
雉子が啼いてるぞ 雉子が
おまへの家のなからしい
 ……誰も居なくなった家のなかを
   餌を漁って大股にあるきながら
   雉子が叫んでゐるのだらうか……
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一九二六、九、二三、
江釣子森の脚から半里
荒さんで甘い乱積雲の風の底
稔った稲や赤い萱穂の波のなか
そこに鍋倉上組合の
けらを装った年よりたちが
けさあつまって待ってゐる

恐れた歳のとりいれ近く
わたりの鳥はつぎつぎ渡り
野ばらの藪のガラスの実から
風が刻んだりんだうの花
  ……里道は白く一すぢわたる……
やがて幾重の林のはてに
赤い鳥居やスバルの塚や
おのおのの田の熟した稲に
異る百の因子を数へ
われわれは今日一日をめぐる

青じろいそばの花から
蜂が終りの蜜を運べば
まるめろの香とめぐるい風に
江釣子森の脚から半里
雨つぶ落ちる萱野の岸で
上鍋倉の年よりたちが
けさ集って待ってゐる
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一九二六、一〇、九、
川上の
煉瓦工場の煙突から
けむりが雲につゞいてゐる
あの脚もとにひろがった
青じろい頁岩の盤で
尖って長いくるみの化石をさがしたり
古いけものの足痕を
うすら濁ってつぶやく水のなかからとったり
二夏のあひだ
実習のすんだ毎日の午后を
生徒らとたのしくあそんで過ごしたのに
いま山山は四方にくらく
一ぺんすっかり破産した
煉瓦工場の煙突からは
何をたいてゐるのか
黒いけむりがどんどんたって
そらいっぱいの雲にもまぎれ
白金いろの天末も
だんだん狭くちゞまって行く
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霜がはたけの砂いっぱいで
エンタシスある柱の列は
みな水いろの影をひく
十いくつかのよるとひる
病んでもだえてゐた間
こんなつめたい空気のなかで
千の芝罘白菜は
はじけるまでの砲弾になり
包頭連の七百は
立派なパンの形になった
こゝは船場を渡った人が
みんな通って行くところだし
川に沿ってどっちへも抜けられ
崖の方へも出られるので
どうもこゝへ野菜をつくっては
盗られるだらうとみんなで云った
けれども誰も盗まない
季節にはひとりでにかういふに熟して
朝はまっ白な霜をかぶってゐるし
早池峰薬師ももう雪でまっしろ
川は爆発するやうな
不定な湯気をときどきあげ
燃えたり消えたりしつづけながら
どんどん針をながしてゐる
病んでゐても
あるいは死んでしまっても
残りのみんなに対しては
やっぱり川はつづけて流れるし
なんといふいゝことだらう
あゝひっそりとしたこのはたけ
けれどもわたくしが
レアカーをひいて
この砂つちにはひってから
まだひとつの音もきいてゐないのは
それとも聞えないのだらうか、
巨きな湯気のかたまりが
いま日の面を通るので
柱列の青い影も消え
砂もくらくはなったけれども
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一九二六、一〇、一〇、
水霜が
みちの草穂にいっぱいで
車輪もきれいに洗はれた

ざんざんざんざん木も藪も鳴ってゐるのは
その重いつめたい雫が
いま落ちてゐる最中なのだ

霧が巨きなこごりになって
太陽面を流れてゐる
さっき川から炎のやうにあがってゐた
あのすさまじい湯気のあとだ

気管がひどくぜいぜい云ふ
かういふぜいぜい鳴る胸へ
焼酎をすこし呑みたいと思ひ
ふかした芋をたべたいと思ひ
町に心を残しながら
野菜を売った年老りたちが
みなこの坂を帰ったのだ
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一九二六、一〇、一三、
盗まれた白菜の根へ
一つに一つ萱穂を挿して
それが日本主義なのか

水いろをして
エンタシスある柱の列の
その残された推古時代の礎に
一つに一つ萱穂が立てば
盗人ぬすびとがここを通るたび
初冬の風になびき日にひかって
たしかにそれを嘲弄する
さうしてそれが日本思想
いや栄主義の勝利なのか
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一九二七、二、一二、
プラットフォームは眩ゆくさむく
緑に塗られたシグナルや
きららかに飛ぶ氷華のなかを
あゝ狷介に学士は老いて
いまは大都の名だたる国手
昔の友を送るのです
……そのきらゝかな氷華のはてで
小さな布の行嚢や
魚の包みがおろされますと
笛はおぼろにけむりはながれ
学士の影もうしろに消えて
しづかに鎖すその窓は
鉛のいろの氷晶です
  かがやいて立つ氷の樹
  蒼々けぶる山と雲
  一つら過ぎゆく町のはづれに
  日照はいましづかな冬で
  車室はあえかなガラスのにほひ
  髪をみだし黒いネクタイをつけて
  朝の光にねむる写真師
  東の窓はちひさな塵の懸垂と
  そのうつくしいティンダル効果
  客はつましく座席をかへて
  双手に二月のパネルをひらく
しづかに東の窓にうつり
いちゐの囲み池をそなへた小さな医院
その陶標の門をば斜め
客は至誠を面にうかべ
体を屈して殊遇を謝せば
桑にも梨にもいっぱいの氷華
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一九二七、二、一八、
(こんなところにゐるんだな)
    ビーカー、フラスコ、ブンゼン燈、
(この漆喰に立ちづくめさ)
    暖炉はひとりでうなってゐるし
    黄いろな時計はびっこをひきひきうごいてゐる
(ガラスのオボーがたくさんあるな)
(あれは逆流冷却器)
(ずゐぶん大きなカップだな)
(どうだきみは、苛性加里でもいっぱいやるか)
(ふふん)
    雪の反射とポプラの梢
    そらを行くのはオパリンな雲
    あるいはこまかな氷のかけら
(分析ならばきみはなんでもできるのかい)
(あゝ物質の方ならね)
(はははは 今日は大へん謙遜だ
 まるでニュウトンそっくりだ)
(きみニュウトンは物理だよ)
(どっちにしてももう一あしだ
 教授になって博士になれば
 男爵だってなってなれないこともない)
(きみきみ助手が見てゐるよ)
    湯気をふくふくテルモスタット
(春が来るとも見えないな)
(いや、来るときは一どに来る
 春の速さはまたべつだ)
(春の速さはをかしいぜ)
(文学亜流にわかるまい、
 ぜんたい春といふものは
 気象因子の系列だぜ
 はじめははんの紐を出し
 しまひに八重の桜をおとす
 それが地点を通過すれば
 速さがそこにできるだらう)
(さういふことを云ってたら
 論文なんかぐにゃぐにゃだらう)
(論文なんかぱりぱりさ)
     △
(何時になればいっしょに出れる?)
(四時ならいゝよ)
(もう一時間)
(あゝ温室で遊んでないか
 済んだらぼくがのぞくから
 助手がいろいろ教へてくれる)
(ではさうしよう
 あの玄関のわきのだな)
(あゝさう
 ひとりではひっていゝんだ
 あけっぱなしはごめんだぜ)
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一九二七、三、一五、
鈍い月あかりの雪の上に
松並の影がひろがってゐる
ひるなら碧く
いまも螺鈿のモザイク風した影である
こんな巨きな松の枝さへ落ちてゐる
このごろのあの雨雪で折れたのだ
そこはたしかに畑の雪が溶けてゐる
玉葱と ペントステモン
なにかふしぎなからくさ模様が
苗床いちめんついてゐる
川が鼠いろのそらと同じで
音なく南へ滑って行けば
あゝ その東は縮れた風や五輪峠や
泣きだしたいやうな甘ったるい雲だ
  松は昆布とアルコール
  まだらな草地はねむさを噴く
早池峰はもやの向ふにねむり
ずうっとみなかみの
すきとほって暗い風のなかを
川千鳥が啼いて溯ってゐる
町の偏光の方では犬の声
風がいまつめたいアイアンビックにかはる
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一九二七、三、一六、
土も掘るだらう
ときどきは食はないこともあるだらう
それだからといって
やっぱりおまへらはおまへらだし
われわれはわれわれだと
  ……山は吹雪のうす明り……
なんべんもきき
いまもきゝ
やがてはまったくその通り
まったくさうしかできないと
  ……林は淡い吹雪のコロナ……
あらゆる失意や病気の底で
わたくしもまたうなづくことだ
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一九二七、三、二一、
甲助
今朝まだくらぁに、
たった一人で綱取さ稼ぐさ行ったでぁ
  ……赤楊にはみんな氷華がついて
    野原はうらうら白い偏光……
唐獅子いろの乗馬ずぼんはぃでさ
新らし紺の風呂敷しょってさ
親方みだぃ手ぶらぶらど振って行ったでぁ
  ……雪に点々けぶるのは
    三つ沢山の松のむら……
清水野がら大曲野がら後藤野ど
一人で威張って歩って
大股に行くうぢはいがべぁ
向ふさ着げば撰鉱だがな運搬だがな
夜でば小屋の隅こさちょこっと寝せらへで
たゞの雑役人夫だがらな
  ……江釣子森が
    ぼうぼうと湯気をあげて
    氷醋酸の塊りのやう……
あらがだ後藤野さかがったころだ
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一九二七、三、二三、
野原は残りのまだらな雪と
黝ぶり滑べる夜見来川

雲が淫らな尾を引いて
青々沈む波羅蜜山の、
松のあたまをかすめて越せば
山の向ふは濁ってくらく
二すぢしろい光の棒と
わづかになまめく笹のいろ

野原はまだらな磁製の雪と
温んで滑べる夜見来川
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一九二七、三、二三、
バケツがのぼって
鉛いろしたゴーシュ四辺形の影のなかから
いまうららかな波をたゝへて
ひざしのなかにでてくると
そこに ―ひとひら―
   ―なまめかしい貝―
  ―ヘリクリサムの花冠……
一ぴきの蛾が落ちてゐる
滑らかに強い水の表面張力から
四枚の翅を離さうとして
蛾はいっしんにもだえてゐる
  ―またたくさんの小さな気泡……
わたくしはこの早い春への突進者
鱗翅の群の急尖鋒を
温んでひかる気海のなかへ
再び発足させねばならぬ
早くも小さな水けむり
鱗粉気泡イリデ※(小書き片仮名ス、1-6-80)センス
春の蛾は
ひとりで水を叩きつけて
     飛び立つ
    飛び立つ
   飛び立つ
もういま杉の茶いろな房と
不定形な雲の間を航行する
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一九二七、三、二七、
野ばらの藪を、
やうやくとってしまったときは
日がかうかうと照ってゐて
そらはがらんと暗かった
おれも太市も忠作も
そのまゝ笹に陥ち込んで、
ぐうぐうぐうぐうねむりたかった
川が一秒九噸の針を流してゐて
鷺がたくさん東へ飛んだ
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一九二七、三、二八、
遠くなだれる灰光と
貨物列車のふるひのなかで
わたくしは湧きあがるかなしさを
きれぎれ青い神話に変へて
開拓紀念の楡の広場に
力いっぱい撒いたけれども
小鳥はそれを啄まなかった
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一九二七、四、一、
一昨年四月来たときは、
きみは重たい唐鍬をふるひ、
蕗の根をとったり
薹を截ったり
朝日に翔ける雪融の風や
そらはいっぱいの鳥の声で
一万のまた千億の
新におこした塊りには
いちいち黒い影を添へ
杉の林のなかからは
房毛まっ白な聖重挽馬が
こっそりはたけに下り立って
ふさふさ蹄の毛もひかってゐた
去年の春にでかけたときは
きみたちは川岸に居て
生温い南の風が
きみのかつぎをひるがへし
またあの人の頬を吹き
紺紙の雲には日が熟し
川が鉛と銀とをながし
楊の花芽崩れるなかに
きみは次々畦を掘り
人は尊い供物のやうに
牛糞を捧げて来れば
風は下流から吹いて吹いて
キャベヂの苗はわづかに萎れ
風は白い砂を吹いて吹いて
もういくつもの小さな砂丘を
畑のなかにつくってゐた
そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た
[#改ページ]

一九二七、四、四、
燕麦オートの種子をこぼせば、
砂が深くくらく、
黒雲は温く妊んで
一きれ、一きれ、
野ばらの藪を渉って行く

ぼろぼろの南京袋で帆をはって
船が一さうのぼってくる
からの酒樽をいくつかつけ
いっぱいの黒い流れを、
むらきな南の風に吹かれて
のろのろとのぼって往けば
金貨を護送する兵隊のやうに
人が三人乗ってゐる
一人はともに膝をかゝへ
二人は憎悪のまなこして
岸のはたけや藪を見ながら
身構へをして立ってゐる
  ……あれらの憎悪のひとみから
    あらたな文化がうまれるのか……

どんより澱むひかりのなかで
上着の肩がもそもそやぶけ
どんどん翔ける雲の上で
ひばりがくるほしくないてゐる
[#改ページ]

一九二七、四、五、
四斗の樽を五つもつけて
南京袋で帆をはって
ねむさや風に逆って
山の鉛が溶けて来る、
重いいっぱいの流れを溯り
北の方の
泣きだしたいやうな雲の下へ
船はのろのろのぼって行く

みなで三人乗ってゐる
一人はともに膝をかゝへて座ってゐるし
二人はじろじろこっちを見ながら立ってゐる
じつにうまくないそのつら
じぶんだけせいぜいはうたうをして
それでも不満でしかたないといふ顔付きだ
[#改ページ]

一九二七、四、五、
あの黒雲が、
きみをぎくっとさせたとすれば
それは群集心理だな
この川すぢの五十里に
麦のはたけをさくったり
桑を截ったりやってゐる
われらにひとしい幾万人が
いままで冬と戦って来た情熱を
うらがなしくもなつかしいおもひに変へ
なにかほのかなのぞみに変へれば
やり場所のないその瞳を
みなあの雲に投げてゐる
それだけでない
あのどんよりと暗いもの
温んだ水の懸垂体
あれこそ恋愛そのものなのだ
炭酸瓦斯の交流や
いかさまな春の感応
あれこそ恋愛そのものなのだ
[#改ページ]

一九二七、四、七、
あの大もののヨークシャ豚が
けふははげしい金に変り
独楽よりひどく傾きながら
西日をさしてかけてゐる
かけてゐる
かけてゐる
まっ黒な森のへりに沿って
まだまっしぐらにかけてゐる
追ってゐるのは棒をかざして髪もひかる
日本島の里長のむすめ
うら枯れかかった槻の木に
ぐらぐらゆれてゐるのは夕日

里長が森をぽろっと出る
なにかむしゃむしゃ食ひながら
小手をかざしてそらを見る
[#改ページ]

一九二七、四、八、
夜のあひだに吹き寄せられた黒雲が、
山地を登る日に焼けて、
凄まじくも暗い朝になった
今日の遊園地の設計には、
あの悪魔ふうした雲のへりの、
鼠と赤をつかってやらう、
口をひらいた魚のかたちのアンテリナムか
いやしいハーデイフロックス
さういふものを使ってやらう
食ふものもないこの県で
百万からの金も入れ
結局魔窟を拵へあげる、
そこにはふさふ色調である
[#改ページ]

一九二七、四、一一、
白いオートの種子を播き
間に汗もこぼれれば
畑の砂は暗くて熱く
藪は陰気にくもってゐる
下流はしづかな鉛の水と
尾を曳く雲にもつれるけむり
つかれは巨きな孔雀に酸えて
松の林や地平線
たゞ青々と横はる
[#改ページ]

一九二七、四、一三、
日が黒雲の、
一つの棘にかくれれば
やけに播かれた石灰窒素の砂利畑に
さびしく桐の枝が落ち
鼻の尖った満州豚は
小屋のなかから ぽくっと斜めに
頭には石灰窒素をくっつけながらはね出して
玉菜の茎をほじくりあるく
家のなかではひとり置かれた赤ん坊が
片っ方の眼をつぶってねむる
[#改ページ]

一九二七、四、一八、
うすく濁った浅葱の水が
けむりのなかをながれてゐる
早池峰は四月にはひってから
二度雪が消えて二度雪が降り
いまあはあはと土耳古玉タキスのそらにうかんでゐる
そのいたゞきに
二すぢ翔ける、
うるんだ雲のかたまりに
基督教徒だといふあの女の
サラーに属するひとたちの
なにかふしぎなかんがへが
ぼんやりとしてうつってゐる
それは信仰と奸詐との
ふしぎな複合体とも見え
まことにそれは
山の啓示とも見え
畢竟かくれてゐたこっちの感じを
その雲をたよりに読むのである
[#改ページ]

一九二七、四、一九、
日に暈ができ
風はつめたい西にまはった

ああ レーキ
あんまり睡い
  (巨きな黄いろな芽のなかを
   たゞぼうぼうと泳ぐのさ)

杉みな昏く
かげろふ白い湯気にかはる
[#改ページ]

一九二七、四、二〇、
ひるになったので
枯れたよもぎの茎のなかに
長いすねを抱くやうに座って
一ぷくけむりを吹きながら
こっちの方を見てゐるやうす
七十にもなって丈六尺に近く
うづまいてまっ白な髪や鬚は
まづはむかしの大木彫が
日向へ迷って出て来たやう
日が高くなってから
巨きなくるみの被さった
同心町の石を載せた屋根の下から
ひとりのっそり起き出して
鍬をかついであちこち見ながら
この川べりをやって来た
おまへの畑は甘藍などを植ゑるより
人蔘やごばうがずっといゝ
おれがいゝ種子を下すから
一しょに組んで作らないかと
さう大声で云ひながら
俄かに何を考へたのか
いままで大きく張った眼が
俄かに遠くへ萎んでしまひ
奥で小さな飴色の火が
かなりしばらくともってゐた
それから深く刻まれた
顔いっぱいの大きな皺が
氷河のやうに降りて来た
   それこそは
   時代に叩きつけられた
   武士階級の辛苦の記録、
   しかも殷鑑遠からず
   たゞもうかはるがはるのはなし
折角の有利な企業への加入申込がないので
老いた発起人はさびしさうに、
きせるはわづかにけむりをあげて
やっぱりこっちをながめてゐる
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一九二七、四、二一、
同心町の夜あけがた
一列の淡い電燈
春めいた浅葱いろしたもやのなかから
ぼんやりけぶる東のそらの
海泡石のこっちの方を
馬をひいてわたくしにならび
町をさしてあるきながら
程吉はまた横眼でみる
わたくしのレアカーのなかの
青い雪菜が原因ならば
それは一種の嫉視であるが
乾いて軽く明日は消える
切りとってきた六本の
ヒアシンスの穂が原因ならば
それもなかばは嫉視であって
わたくしはそれを作らなければそれで済む
どんな奇怪な考が
わたくしにあるかをはかりかねて
さういふふうに見るならば
それは懼れて見るといふ
わたくしはもっと明らかに物を云ひ
あたり前にしばらく行動すれば
間もなくそれは消えるであらう
われわれ学校を出て来たもの
われわれ町に育ったもの
われわれ月給をとったことのあるもの
それ全体への疑ひや
漠然とした反感ならば
容易にこれは抜き得ない
  向ふの坂の下り口で
  犬が三疋じゃれてゐる
  子供が一人ぽろっと出る
  あすこまで行けば
  あのこどもが
  わたくしのヒアシンスの花を
  呉れ呉れといって叫ぶのは
  いつもの朝の恒例である
見給へ新らしい伯林青を
じぶんでこてこて塗りあげて
置きすてられたその屋台店の主人は
あの胡桃の木の枝をひろげる
裏の小さな石屋根の下で
これからねむるのでないか
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一九二七、四、二一、
雪と牛酪バター
かついで来るのは詮之助
  やあお早う
あたまひかって過ぎるのは
枝を杖つく村老ヤコブ
  お天気ですな まっ青ですな
並木の影を
犬が黄いろに走って行く
  お早うよ
朝日のなかから
かばんをさげたこどもらが
みんな叫んで飛び出してくる
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一九二七、四、二五、
封介の廐肥こえつけ馬が、
にはかにぱっとはねあがる
眼が紅く 竜に変って
青びいどろの春の天を
あせって掻いてとらうとする
廐肥が一っつぽろっとこぼれ
封介は両手でたづなをしっかり押へ
半分どてへ押つける
馬は二三度なほあがいて
やうやく巨きな頭をさげ
竜になるのをあきらめた
  雲ののろしは四方に騰り
  萱草芽を出す崖腹に
  マグノリアの花と霞の青
ひとの馬のあばれるのを
なにもそんなに見なくてもいゝ
おまへの鍬がひかったので
馬がこんなにおどろいたのだと
こぼれ廐肥にかゞみながら
封介はしづかにうらんで云ふ
封介は一昨日から
くらい廐で熱くむっとする
何百把かの廐肥をしばって
すっかりむしゃくしゃしてゐるのだ
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一九二七、四、二六、
レアカーを引きナイフをもって
この砂畑に来て見れば
うら青い雪菜の列に
微かな春の霜も下り
西の残りの月しろの
やさしく刷いたかをりも這ふ
しからばぼくは今日慣例の購買者に
これを配分し届けるにあたって
これらの清麗な景品をば
いかにいっしょに添へたらいゝか
しばし腕組み眺める次第
すでにひがしは黄ばらのわらひをけぶし
針を泛べる川からは
温いアニマの呼吸が襲ふ
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一九二七、五、三、
おい
けとばすな
けとばすな
なあんだ たうとう
   すっきりとしたコチニールレッド
   ぎっしり白い菌糸の網
   こんな色彩の鮮明なものは
   この森ぢゅうにあとはない
   あゝムスカリン
おーい!
りんと引っぱれ!
りんと引っぱれったら!
山の上には雲のラムネ
つめたい雲のラムネが湧く
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一九二七、五、七、
秘事念仏の大元締が
今日は息子と妻を使って、
北上ぎしへ陸稲をかぼ播き、
   なまぬるい南の風は
   川を溯ってやってくる
秘事念仏のかみさんは
乾いた牛のコヤシを捧げ
もう導師とも恩人とも
じぶんの夫ををがむばかり
   緑青いろの巨きな蠅が
   牛の糞をとびめぐる
秘事念仏の大元締は
麦稈帽子をあみだにかぶり
黒いずぼんにわらぢをはいて
よちよちあるく烏を追ふ
   紺紙の雲には日が熟し
   川は鉛と銀とをながす
秘事念仏の大元締は
むすこがぼんやり楊をながめ
口をあくのを情けながって
どなって石をなげつける
   楊の花は黄いろに崩れ
   川ははげしい針になる
下流のやぶからぽろっと出る
紅毛まがひの郵便屋
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一九二七、五、九、
銀のモナドのちらばるそらと
逞ましい村長の肩
  ……ベルを鳴らしてカーヴを切る
    ベルといふより小さな銅鑼だ……
はんの木立は東邦風に
水路のへりにならんで立つ

はんの木立の向ふの方で
黒衣のこども燐酸を播く
  ……ガンガン鳴らして飛ばして行く……
田を鋤く馬と白いシャツ
胆礬いろの山の尾根

町へ出て行くおかみさんたち
さあっと曇る村長の顔
  ……うしろを過ぎるひばの木二本……
風が行ってしまった池のやうに
いま晴れわたる村長の顔
  ……ベルを鳴らして一さん奔る……
   栗の林の向ふの方で
   ざぶざぶ水をわたる音
   それから何か光など
   崩れるやうなわらひ声
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一九二七、五、九、
……墓地がすっかり変ったなあ……
……なあにそれすっかり整理したもんでがす……
……ここに巨きなしだれ桜があったがねえ……
……なあにそれ
  青年団総出でやったもんでがす
  観音さんも潰されあした……
……としよりたちが負けたんだねえ……
……なあに総一ぁたった一人できかなぐなって
  それでっても負げるんでがんす……
……苗圃のあともずゐぶんひどく荒れたねえ……
……なあにそれ
  お上でうんと肥料したづんで
  これで六年無肥料でがす……
……あちこち茶いろにぶちだしてゐる……
……はあ、
  苹果の枝 兎に食はれあした
  桜んぼの方は食ひあせんで
  桃もやっぱり食はれあした……
……兎はとらなけあいけないよ
  それでも兎の食はない種類といふんなら
  花には薔薇につつじかな
  果樹ではやっぱり梅だらう……
……桜んぼの方は食ひませんで
  苹果と桃をたべたので……
……そらそら
  その苹果の樹の幽霊だらう
  その谷そこに突ったって
  いっぱい花をつけてるやつは……
……はあ……
……針金製の鉄索か
  この崖下で切り出すんだな……
……はあ 鉛の丸五の仕事でがあす……
……そんなにこれが売れるかねえ……
……はあ
  耐火性だって云って売ってます……
……耐火性さなこの石は
  あれだな開墾地は……
……はあ
  上流の橋渡って参りあす……
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一九二七、五、一二、
今日こそわたくしは
どんなにしてあの光る青い虻どもが
風のなかから迷って来て
縄やガラスのしきりのなかで
留守中飛んだりはねたりするか
すっかり見届けたつもりである
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一九二七、五、一四、
エレキや鳥がばしゃばしゃ翔べば
九基に亙る林のなかで
枯れた巨きな一本杉が
もう専門の避雷針とも見られるかたち
  ……けふもまだ熱はさがらず
    Nymph, Nymbus, Nymphaea,……
杉をめぐって水いろなのは
羊歯から花を借りて来て
梢いっぱい飾りをつけた
やくざな※(「木+解」、第3水準1-86-22)の樹ででもあらう
  ……最後に
    火山屑地帯の
    小麦に就て調査せよ……
雲は淫らな尾を曳いて
しづかに森をかけちがふ
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一九二七、六、一、
神話乃至は擬人的なる説述は
小官のはなはだ愧づるところではあるが
仮にしばらく上古歌人の立場に於て
黒く淫らな雨雲ニムブスに云ふ
小官はこの峠の上のうすびかりする浩気から
またここを通る野ばらのかをりあるつめたい風から
また山谷の凄まじくも青い刻鏤から
心塵身ひとしくともに濯はうと
今日の出張日程に
辛くも得たる数頃を
しかく貴重に立つのであるが
そもそも黒い雨雲ニムブス
おまへは却って小官に
異常な不安を持ち来し
謂はば殆んど古事記に言へる
そら踏む感をなさしめる
その故けだしいかんとならば
過ぎ来し五月二旬の間
淫らなおまへら雨雲ニムブス族は
西の河谷を覆って去らず
日照ために常位を欠けば
稲苗すべて徒長を来し
あるいは赤い病斑を得た
おほよそかゝる事態に於て
県下今期の稲作は
憂慮なくして観るを得ず
そらを仰いで烏乎せしことや
日日にはなはだ数度であった
然るに昨夜
かの練達の測候長は
断じて晴れの予報を通じ
今朝そら青く気は澄んで
車窓シガーのけむりをながし
峡の二十里 平野の十里
旅程明るく午を越すいまを
何たる譎詐何たる不信
この山頂の眼路遥かなる展望は
怒り身を噛むごとくである
第一おまへがここより東
鶯いろに装ほひて
連亙遠き地塊を覆ひ
はては渺茫視界のきはみ
大洋をさへ犯すこと
第二にはかの層巻雲や
青い虚空に逆って
おまへの北に馳けること
第三 暗い気層の海鼠
五葉の山の上部に於て
あらゆる淫卑なひかりとかたち
その変幻と出没を
おまへがやゝもはゞからぬ
これらを綜合して見るに
あやしくやはらかな雨雲ニムブス
たとへ数箇のなまめく日射しを許すとも
非礼の香気を風に伝へて送るとも
その灰黒の翼と触手
大バリトンの流体もって
全天抛げ来すおまへの意図は
はや暸として被ひ得ぬ
しかればじつに小官は
公私あらゆる立場より
満腔不満の一瞥を
最後にしばしおまへに与へ
すみやかにすみやかに
この山頂を去らうとする
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一九二七、六、一三、
竟に卑怯でなかったものは
あすこにうかぶ黒と白
積雲製の冠をとれ
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一九二七、六、一三、
憤懣はいまやまひにかはり
わたくしはたよりなく騰って
河谷のそらに横はる
しかも
水素よりも軽いので
ひかってはてなく青く
雨に生れることのできないのは
何といふいらだゝしさだ
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一九二七、六、三〇、
青びかりする天弧のはてに
うつくしく町がうかんでゐる
かあいさうな町よ
金持とおもはれ
一文もなく
一文の収入もない
そしてうらまれる
辞職でござる
そこで世間といふものは
中間といふものをゆるさない
なにもかもみんないけない
悪口、反感、
十八や十九でおとなよりも貪慾なこども
なにもかもみんないけない
おれは今日はもう遊ばう
何もかも
みんな忘れてしまって
ひなたのなかのこどもにならう
甘く熟してぬるんだ風と
なにか小さなモーターの音
この花さいた〔約三字空白〕の樹だ
梢いっぱい蜂がとび
その膠質な影のなかを
月光いろの花弁がふり
向ふでは町がやっぱり
ひかってそらにうかんでゐる
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一九二七、七、一、
わたくしがかつてあなたがたと
この方室に卓を並べてゐましたころ、
たとへば今日のやうな明るくしづかなひるすぎに
   ……窓にはゆらぐアカシヤの枝……
ちがった思想やちがったなりで
誰かが訪ねて来ましたときは
わたくしどもはたゞ何げなく眼をも見合せ
またあるかなし何ともしらず表情し合ひもしたのでしたが
   ……崩れてひかる夏の雲……
今日わたくしが疲れて弱く
荒れた耕地やけはしいみんなの瞳を避けて
おろかにもまたおろかにも
昨日の安易な住所を慕ひ、
この方室にたどって来れば、
まことにあなたがたのことばやおももちは
あなたがたにあるその十倍の強さになって
   ……風も燃え……
わたくしの胸をうつのです
   ……風も燃え 禾草も燃える……
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一九二七、七、七、
さはやかに刈られる蘆や
水ぎぼうしの紫の花

赤くただれた眼をあげて
風を見つめるその刈り手
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一九二七、七、一〇、
あすこの田はねえ
あの種類では窒素があんまり多過ぎるから
もうきっぱりと灌水みづを切ってね
三番除草はしないんだ
  ……一しんに畔を走って来て
    青田のなかに汗拭くその子……
燐酸がまだ残ってゐない?
みんな使った?
それではもしもこの天候が
これから五日続いたら
あの枝垂れ葉をねえ
斯ういふ風な枝垂れ葉をねえ
むしってとってしまふんだ
  ……せはしくうなづき汗拭くその子
    冬講習に来たときは
    一年はたらいたあととは云へ
    まだかゞやかな苹果のわらひをもってゐた
    いまはもう日と汗に焼け
    幾夜の不眠にやつれてゐる……
それからいゝかい
今月末にあの稲が
君の胸より延びたらねえ
ちゃうどシャッツの上のぼたんを定規にしてねえ
葉尖を刈ってしまふんだ
  ……汗だけでない
    泪も拭いてゐるんだな……
君が自分でかんがへた
あの田もすっかり見て来たよ
陸羽一三二号のはうね
あれはずゐぶん上手に行った
肥えも少しもむらがないし
いかにも強く育ってゐる
硫安だってきみが自分で播いたらう
みんながいろいろ云ふだらうが
あっちは少しも心配ない
反当三石二斗なら
もうきまったと云っていゝ
しっかりやるんだよ
これからの本当の勉強はねえ
テニスをしながら商売の先生から
義理で教はることでないんだ
きみのやうにさ
吹雪やわづかの仕事のひまで
泣きながら
からだに刻んで行く勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
どこまでのびるかわからない
それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ
ではさやうなら
  ……雲からも風からも
    透明な力が
    そのこどもに
    うつれ……
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倒れた稲や萱穂の間
白びかりする水をわたって
この雷と雲とのなかに
師父よあなたを訪ねて来れば
あなたは縁に正しく座して
空と原とのけはひをきいてゐられます
日日に日の出と日の入に
小山のやうに草を刈り
冬も手織の麻を着て
七十年が過ぎ去れば
あなたのせなは松より円く
あなたの指はかじかまり
あなたの額は雨や日や
あらゆる辛苦の図式を刻み
あなたの瞳は洞よりうつろ
この野とそらのあらゆる相は
あなたのなかに複本をもち
それらの変化の方向や
その作物への影響は
たとへば風のことばのやうに
あなたののどにつぶやかれます
しかもあなたのおももちの
今日は何たる明るさでせう
豊かな稔りを願へるままに
二千の施肥の設計を終へ
その稲いまやみな穂を抽いて
花をも開くこの日ごろ
四日つゞいた烈しい雨と
今朝からのこの雷雨のために
あちこち倒れもしましたが
なほもし明日或は明後
日をさへ見ればみな起きあがり
恐らく所期の結果も得ます
さうでなければ村々は
今年もまた暗い冬を再び迎へるのです
この雷と雨との音に
物を云ふことの甲斐なさに
わたくしは黙して立つばかり
松や楊の林には
幾すぢ雲の尾がなびき
幾層のつゝみの水は
灰いろをしてあふれてゐます
しかもあなたのおももちの
その不安ない明るさは
一昨年の夏ひでりのそらを
見上げたあなたのけはひもなく
わたしはいま自信に満ちて
ふたゝび村をめぐらうとします
わたくしが去らうとして
一瞬あなたの額の上に
不定な雲がうかび出て
ふたゝび明るく晴れるのは
それが何かを推せんとして
恐らく百の種類を数へ
思ひを尽してつひに知り得ぬものではありますが
師父よもしもやそのことが
口耳の学をわづかに修め
鳥のごとくに軽佻な
わたくしに関することでありますならば
師父よあなたの目力をつくし
あなたの聴力のかぎりをもって
わたくしのまなこを正視し
わたくしの呼吸をお聞き下さい
古い白麻の洋服を着て
やぶけた絹張の洋傘はもちながら
尚わたくしは
諸仏菩薩の護念によって
あなたが朝ごと誦せられる
かの法華経の寿量の品を
命をもって守らうとするものであります
それでは師父よ
何たる天鼓の轟きでせう
何たる光の浄化でせう
わたくしは黙して
あなたに別の礼をばします
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一九二七、八、二〇、
たうとう稲は起きた
まったくのいきもの
まったくの精巧な機械
稲がそろって起きてゐる
雨のあひだまってゐた穎は
いま小さな白い花をひらめかし
しづかな飴いろの日だまりの上を
赤いとんぼもすうすう飛ぶ
あゝ
南からまた西南から
和風は河谷いっぱいに吹いて
汗にまみれたシャツも乾けば
熱した額やまぶたも冷える
あらゆる辛苦の結果から
七月稲はよく分蘖し
豊かな秋を示してゐたが
この八月のなかばのうちに
十二の赤い朝焼けと
湿度九〇の六日を数へ
茎稈弱く徒長して
穂も出し花もつけながら、
つひに昨日のはげしい雨に
次から次と倒れてしまひ
うへには雨のしぶきのなかに
とむらふやうなつめたい霧が
倒れた稲を被ってゐた
あゝ自然はあんまり意外で
そしてあんまり正直だ
百に一つなからうと思った
あんな恐ろしい開花期の雨は
もうまっかうからやって来て
力を入れたほどのものを
みんなばたばた倒してしまった
その代りには
十に一つも起きれまいと思ってゐたものが
わづかの苗のつくり方のちがひや
燐酸のやり方のために
今日はそろってみな起きてゐる
森で埋めた地平線から
青くかゞやく死火山列から
風はいちめん稲田をわたり
また栗の葉をかゞやかし
いまさはやかな蒸散と
透明な汁液サップの移転
あゝわれわれは曠野のなかに
蘆とも見えるまで逞ましくさやぐ稲田のなかに
素朴なむかしの神々のやうに
べんぶしてもべんぶしても足りない
[#改ページ]

一九二七、八、二〇、
もうはたらくな
レーキを投げろ
この半月の曇天と
今朝のはげしい雷雨のために
おれが肥料を設計し
責任のあるみんなの稲が
次から次と倒れたのだ
稲が次々倒れたのだ
働くことの卑怯なときが
工場ばかりにあるのでない
ことにむちゃくちゃはたらいて
不安をまぎらかさうとする、
卑しいことだ
  ……けれどもあゝまたあたらしく
    西には黒い死の群像が湧きあがる
    春にはそれは、
    恋愛自身とさへも云ひ
    考へられてゐたではないか……
さあ一ぺん帰って
測候所へ電話をかけ
すっかりぬれる支度をし
頭を堅く縛って出て
青ざめてこはばったたくさんの顔に
一人づつぶっつかって
火のついたやうにはげまして行け
どんな手段を用ゐても
弁償すると答へてあるけ
[#改ページ]

一九二七、八、二〇、
二時がこんなに暗いのは
時計も雨でいっぱいなのか
本街道をはなれてからは
みちは烈しく倒れた稲や
陰気なひばの木立の影を
めぐってめぐってこゝまで来たが
里程にしてはまだそんなにもあるいてゐない
そしていったいおれのたづねて行くさきは
地べたについた北のけはしい雨雲だ、
こゝの野原の土から生えて
こゝの野原の光と風と土とにまぶれ
老いて盲ひた大先達は
なかばは苔に埋もれて
そこでしづかにこの雨を聴く
またいなびかり、
林を嘗めて行き過ぎる、
雷がまだ鳴り出さないに、
あっちもこっちも、
気狂ひみたいにごろごろまはるから水車
ハックニー馬の尻ぽのやうに
青い柳が一本立つ
[#改ページ]

一九二七、八、二〇、
何をやっても間に合はない
そのありふれた仲間のひとり
雑誌を読んで兎を飼って
巣箱もみんなじぶんでこさへ
木小屋ののきに二十ちかくもならべれば
その眼がみんなうるんで赤く
こっちの手からさゝげも喰へば
めじろみたいに啼きもする
さうしてそれも間に合はない
何をやっても間に合はない
その〔約五字空白〕仲間のひとり
カタログを見てしるしをつけて
グラヂオラスを郵便でとり
めうがばたけと椿のまへに
名札をつけて植ゑ込めば
大きな花がぎらぎら咲いて
年寄りたちは勿体ながり
通りかゝりのみんなもほめる
さうしてそれも間に合はない
何をやっても間に合はない
その〔約五字空白〕仲間のひとり
マッシュルームの胞子を買って
納屋をすっかり片付けて
小麦の藁で堆肥もつくり
寒暖計もぶらさげて
毎日水をそゝいでゐれば
まもなく白いシャムピニオンは
次から次と顔を出す
さうしてそれも間に合はない
何をやっても間に合はない
その〔約五字空白〕仲間のひとり
べっかふゴムの長靴もはき
オリーヴいろの縮みのシャツも買って着る
頬もあかるく髪もちゞれてうつくしく
そのかはりには
何をやっても間に合はない
何をやっても間に合はない
その〔約五字空白〕仲間のひとり
その〔約五字空白〕仲間のひとり
[#改ページ]

一九二八、四、一二、
日が白かったあひだ、
赤渋を載せたり草の生えたりした、
一枚一枚の田をわたり
まがりくねった畔から水路、
沖積の低みをめぐりあるいて、
声もかれ眼もぼうとして
いまこの台地にのぼってくれば
紺青の山脈は遠く
松の梢は夕陽にゆらぐ
あゝ排水や鉄のゲル
地形日照酸性度
立地因子は青ざめて
つかれのなかに乱れて消え
しづかにわたくしのうしろを来る
今日の二人の先達は
この国の古い神々の
その二はしらのすがたをつくる
今日は日のなかでしばし高雅の神であり
あしたは青い山羊となり
あるとき歪んだ修羅となる
しかもいま
松は風に鳴り、
その針は陽にそよぐとき
その十字路のわかれの場所で
衷心この人を礼拝する
何がそのことをさまたげようか
[#改ページ]

一九二八、七、二〇、
わざわざここまで追ひかけて
せっかく君がもって来てくれた
帆立貝入りのスヰトンではあるが
どうもぼくにはかなりな熱があるらしく
この玻璃製の停留所も
なんだか雲のなかのやう
そこでやっぱり雲でもたべてゐるやうなのだ
この田所の人たちが、
苗代の前や田植の後や
からだをいためる仕事のときに
薬にたべる種類のもの
除草と桑の仕事のなかで
幾日も前から心掛けて
きみのおっかさんが拵へた、
雲の形の膠朧体、
それを両手に載せながら
ぼくはたゞもう青くくらく
かうもはかなくふるへてゐる
きみはぼくの隣りに座って
ぼくがかうしてゐる間
じっと電車の発着表を仰いでゐる、
あの組合の倉庫のうしろ
川岸の栗や楊も
雲があんまりひかるので
ほとんど黒く見えてゐるし
いままた稲を一株もって
その入口に来た人は
たしかこの前金矢の方でもいっしょになった
きみのいとこにあたる人かと思ふのだが
その顔も手もたゞ黒く見え
向ふもわらってゐる
ぼくもたしかにわらってゐるけれども
どうも何だかじぶんのことでないやうなのだ
ああ友だちよ、
空の雲がたべきれないやうに
きみの好意もたべきれない
ぼくははっきりまなこをひらき
その稲を見てはっきりと云ひ
あとは電車が来る間
しづかにこゝへ倒れよう
ぼくたちの
何人も何人もの先輩がみんなしたやうに
しづかにこゝへ倒れて待たう
[#改ページ]

一九二八、七、二四、
蜂蜜いろの夕陽のなかを
みんな渇いて
稲田のなかの萱の島、
観音堂へ漂ひ着いた
いちにちの行程は
ただまっ青な稲の中
眼路をかぎりの
その水いろの葉筒の底で
けむりのやうな一ミリの羽
淡い稲穂の原体が
いまこっそりと形成され
この幾月の心労は
ぼうぼう東の山地に消える
青く澱んだ夕陽のなかで
麻シャツの胸をはだけてしゃがんだり
帽子をぬいで小さな石に腰かけたり
みんな顔中稲で傷だらけにして
芬って酸っぱいあんずをたべる
みんなのことばはきれぎれで
知らない国の原語のやう
ぼうとまなこをめぐらせば、
青い寒天のやうにもさやぎ
むしろ液体のやうにもけむって
この堂をめぐる萱むらである

底本:「宮沢賢治集全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年4月24日第1刷発行
   2005(平成17)年7月15日第12刷発行
※日付の区切りの読点は、底本では中央に置かれています。
※底本の組版には、折り返しがないために、行末が確定できませんが、各項の日付は、地付きとして処理しました。
入力:伊藤雄介
校正:米田
2012年1月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。