南洋パラオ島の汽船會社に勤めてゐる從兄があります。名前を云へばわかるかも知れませぬが、わざと書かない。この從兄は十年前に或る政治運動に獻身して捕へられ、殆ど十年近く世の中から遮斷せられ、このごろ出ることを許され、今は南洋パラオ島で懸命に働いてゐるのであります。先日南洋から手紙が來て「東京の家にはお前の唯一人の叔母たる小生の母と、小生の妹と家内と三人で侘しく留守をしてゐるから一度訪ねて行きなさい」とそれに書かれてありましたが、私はそれに返事して「僕にはとても行けない。僕は今まで色々の馬鹿の事をしてゐるので、肉親とは當分、往來出來ないことになつてゐるのだ、故郷の家とも音信さへ許されてゐない有樣だし、また僕がのこのこ親戚のお宅へ顏を出したら故郷の母や兄はやがてそれを聞いてあの馬鹿がと恥かしい思ひをするであらう、いい恥さらしだといつて嘆くかも知れない、僕は肉親の誰とも顏を合せることが出來ないのだ、僕は叔母さんの所へ行きません」と書きました。
 折り返し南洋から繪葉書が來て「おまへの手紙を讀みました。おまへの之までの業蹟に就いては親戚の者共、いづれも心配してゐた樣である。けれども、過去のことは申すな。過去の事を申せば、小生ごとき天下に隱れも無いではないか。さういふことは氣にかけないやうにしませう。是非いちど小生の東京の母を訪ねなさい。小生の母も病弱で、おまへの父上同樣、長命は保證できません。おまへの故郷の方には、小生の家の方から別に何とも言ふわけで無し、誰にも知れる氣づかひは無いのだから、安心して一度たづねてやつて下さい。母も、どんなに喜ぶか知れない。小生、このごろボオドレエルを讀み返し、反省悔恨の強烈を學びつつあります」といふ言葉だつたので、私も之以上、愚圖愚圖してゐるのは、かへつて厭味な卑下だと思ひ、叔母を訪ねることにしました。
 省線の四谷驛で降りて、薄暮、叔母の家を搜し當て、殆ど二十年ぶりで叔母と對面することが出來ました。叔母はもう、いいお婆あさんになつてゐました。從妹など、以前見たときは乳呑兒であつたのですが、もう、おとなになつてゐました。その夜は叔母から、いろいろ話を聞きました。歸途は、なんだか、やり切れない氣持でありました。肉親といふものは、どうして、こんなに悲しいものだらう。省線に乘つてからも、あれこれ思ひ、南洋の從兄の健鬪を一心に祈つてゐました。

 Tといふ友人があります。この人は、いま北支に居ります。兵隊さんなのです。私とは未だ一度も逢つたことが無いのですが、五、六年まへから手紙の往復して居ります。五、六年まへにその人は小さい同人雜誌にいい小説を一篇發表しました。私はその小説に就いて或る雜誌に少し書きました。それから手紙の往復がはじまつたのです。T君は、朝鮮の或る會社に勤めてゐたのです。一昨年、應召して、あちこち轉戰して、小閑を得る度毎に、戰爭を題材にした小説を書いては、私のところに送つて來ました。拜見してみると、いづれも、上出來では無いのです。T君ともあらうものが、こんな投げやりな文章では仕樣がないと思ひましたので、「實に下手だ。いい加減な文章だ」と馬鹿正直に、その都度私の感想を書いて送つたのであります。T君も、ちやんと出來た人でありますから、私の罵言の蔭の小さい誠實を察知してくれて「しばらく小説を書かず、ゆつくり心境を練るつもりだ」といふ手紙を寄こして、それから數囘の激戰に參加なされた樣子で、二月ほど經つてから、送つて寄こした小説は、ぐんと張り切つて居りましたので、私は早速、或る雜誌社にたのみ、掲載させてもらひました。その雜誌と、それから雜誌の新聞廣告の切拔きとを戰地に送つてやりましたら、T君は「いや實に恥ぢいつた。あんな中堅作家の作品と並べられて、はじめて僕の下手さ加減が、わかつた。きつと僕が、戰地で働いてゐる兵隊だから、そのハンデキヤツプもあつて、掲載されたのだらうが、いや、實に恥づかしい。僕は、H・Aといふ人の戰爭の小説を讀んで、何これくらゐならば僕だつて書けると思つてゐたのだが、とんでも無いことであつた。僕は、またしばらく小説から離れたい。實際、今は、穴あらばはひりたい氣持です」と書いて寄こしました。私はT君に貧しい慰問袋を送りました。タオルや下帶の他に唐詩選、上下二卷をいれてやりました。
 唐詩選は、成功したやうでした。T君は、各地を轉戰しながら、此處は李太白の醉つぱらつたところ、此處は杜甫の哭いたところと唐詩選に照らし合せて、戰ふ心も豐かになり、さながら詩聖たちと共に且つ醉ひ且つ哭く氣持だと、書いて寄こしました。T君はいまにきつと、立派な小説を書けるやうになるのではないか、と私は樂しく、同時にT君の武運長久を祈つてゐました。何かまた本を送つてよこして下さい、と戰地から頼んで來ましたので、私は新宿へ行き、華麗な裸婦のたくさんある泰西の畫集を三册買ひました。この美しい畫集も、戰地を少しでも明るく彩色してくれるにちがひ無いと思ひ、勇んで家へ歸つて來ましたところ、戰地からの繪葉書が一枚、机の上に載つてありました。T君からの、おたよりでした。「もう手紙を寄こさないで下さい。慰問袋も寄こさないで下さい。寄こしても、返送されるでせう。私の宛名もまるで變るかも知れません。しばらく、何も送つて寄こしてはいけません」と書いてあつたので、私は實に不吉なものを感じて、ぎよつとしましたが、その葉書の隅に小さく「to see you 遠からず一緒に呑めます」と書かれてありました。T君萬歳。ちかく凱旋するのです。

 Y君といふ友人があります。私も、とかく理窟つぽい男ですが、Y君ほどではありません。Y君は、實に議論の好きな男であります。先日かれは人力車に乘つて、三鷹村の私の家へ議論しにやつて來ました。夜明けの三時までさまざまの議論をいたしましたが、雌雄決せぬままに蒲團にぶつたふれて寢てしまひました。翌る日、起きて、ふたりで顏を洗ひに井戸端へ出て、そこでもう藝術論がはじまり、一時間ちかく井戸端をぐるぐるめぐり歩いて最近の感想を述べ合ひました。朝ごはんを食べて、家のちかくの井之頭公園へ散歩に出かけ、行く途々も、議論であります。
「それでは一たい」とY君は一段と聲を張り上げ「君の最も、書きたいと思ふものは、なんだね。君のパツシヨンをどこに置いてゐるのか。それから、さきに決定しよう」と詰め寄り、私は少し考へて、「それは、弱さだ」ドストと言ひかけた時、突然、右手の生垣から赤犬が一匹わんと言つて飛び出し、私は、あつと悲鳴を擧げて體をかはしましたがその犬は、執拗にも私にばかり吠えつき、白い牙をむき出してかかつて來るので、私は今は見榮も外聞もなく、Y君の背後にひたと隱れて、
「だめだ、だめだ、これあいけねえ、わあ、いけねえ」などと意味不明の言語を發するばかりでありました。
 Y君は、持つてゐたステツキを振り上げて、悠然とその犬を撃退してくれたのですが、私は一時、死ぬばかりでありました。
「なるほど、弱さ、かね」とY君に、笑はれても、私は抗辯することもできず、かの赤犬の出現以來、もう、めつきり氣が弱くなつて、それからの議論は、ことごとく私の敗北になりました。何を言つても私の語調には勢ひが無く、ちつともいいところが無くなりました。ねつから、その日は駄目でした。犬は、私の仇であります。昨年の秋に、私が或る雜誌に犬のことを書いたら、二、三の知人から大いに面白かつたと褒められて、その作品は、實に粗末なものでしたので、私は愈々恥ぢて、それ以來、犬の話は努めて避けてゐました。いままた犬の話などを持ち出しては、調子に乘つていい氣になつてゐるやうで、まるで見つともないのですが、私の家の小さい庭は日當りのよいせゐか、毎日いろんな犬が集まつて來て、たのみもせぬのに、きやんきやんごうごう、色んな形の格鬪の稽古をして見せるので實に閉口してゐます。仕方が無いので縁側に出て、
「前田さん、靜かにして下さい。西郷さんもお止しなさい。荒木さんも、うるさいね。みんな、あつちへ行つて下さい。お菓子を、あげますから」と言つて、せんべい一枚をヒユウと向ふの畑地へ投げてやります。みんな競爭して飛んで行きます。前田さん、西郷さん、荒木さんは、それぞれ、その犬の飼ひ主の名前であります。みんな立派な邸宅を構へてゐます。このごろ、たいてい、どの犬はどこのものだといふことが判つて來ましたから、わざと飼ひ主の名でもつて、私は犬どもを呼んでゐます。犬は、それぞれ、その飼ひ主の氣質を餘すところなく暴露してゐるものでありますが、ご近所の惡口は言ひますまい。ひよつとしたら、この新聞を讀んでゐる御家庭もあるかも知れませんから。
 このごろは、私もおとなしくしてゐるから、故郷の家でも、少しづつ私を信用して來た樣子で、うれしくてなりません。けふは、故郷の姉上から、お餅をこつそり送つていただきました。ことしは、きつと、いいことがあるでせう。

底本:「太宰治全集11」筑摩書房
   1999(平成11)年3月25日初版第1刷発行
初出:「國民新聞 第一七三〇九号〜第一七三一一号」
   1940(昭和15)年1月30日〜2月1日
入力:小林繁雄
校正:阿部哲也
2011年10月12日作成
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