私本太平記(08 新田帖)

目次

 不破から西は、一瀉千里いっしゃせんりの行軍だった。この日すでに、足利軍五千は、湖畔の野洲やすの大原をえんえんと急いでいた。
「都へ着いても、おそらくは食糧難か」
 と、三河仕立ての輜重隊しちょうたいをひきつれていたことである。たくさんな牛車や馬列はいつもおくれがちで、ムチを振る足軽たちは、顔まで泥のハネにしていた。
 伊吹いぶきでは、道誉どうよが、加盟のあかしにと、自己の兵二百を加勢にさし出していたし、そこの難関をこえてからの高氏たかうじは、まったく、何の屈託もなさそうに見えた。いま行く道こそこの人の本来の面目であったように、しきりと前後の将へ、馬いきれの中で、はなしかけたりしていた。
「暑いなあ。このぶんでは、いくさは夏戦なついくさになるだろうよ。なあ直義ただよし
「は」
「あすからは、夏支度にかえようわい。伊吹とはまるで季節がちがうようだ。都の内は、なお暑かろう」
「ことしはうるうのうえ、はや四月も半ばですから」
こよみのうえも忘れて来た。おおあれは三上山みかみやま、そのてまえは鏡山だな。するとここらは天智天皇が御猟みかりのあとか」
「さればで」
 と、いったのは、直義と駒をならべていた今川範国いまがわのりくにで、言下に、万葉のひとつを、駒ひびきのあいだで、高吟していた。
あかねさす
むらさき野ゆき
しめ野行き
野守りは見ずや
君が袖振る
 すると高氏もすぐ言った。
「君が袖振る! ……。かがみ宿しゅくには、上杉と細川がわれらを待ちかねているだろうぞ」
 そこの古駅は、まもなくみえた。先ぶれが一騎、早くにつたえていたとみえ、宿しゅくの入口までくると、上杉憲房のりふさと細川和氏かずうじのふたりが迎えに立っていた。
 こう二人は、先に高氏の秘命をおびて、矢作やはぎから鏡へ先発していたものである。そして、ここの歌野寺のうちで、宮方の密使と出会い、
 後醍醐ごだいご綸旨りんじ
 をうけていたのであった。
 こんな手順は、彼の鎌倉出発いぜんに取られていたのはいうまでもないが、その仲介者はたれなのか。「梅松論」以下の書にも、それはたれとも明記はしてない。しかし前後の事情からみて、おそらくは、かの岩松経家の弟吉致よしむねあたりの才覚ではなかったかとおもわれる。
 いずれにせよ、高氏のむほんは初めから独走して起ったものではない。やはり後醍醐の綸旨をうけ、それによって、こころざしを遂げようとしたものだ。
 が、宮方にすれば、彼の幕府離反は、まぎれない彼の勤王精神とみたであろう。そこで、あらゆる困難の中を、鏡の宿まで、勅の密使をくだして来たものにちがいない。――ただ、後醍醐に後醍醐の理想があったように、高氏にもまた高氏のいだく未来図はあったのだ。それは元々、似ても似つかぬ理想であったし、初めから妥協の余地もないものだった。
 四月十六日。
 はやくも、高氏以下の軍は、洛中へ入っていた。
 廃墟。都の今はそれにつきる。
 大内の森や里内裏さとだいりにも、住まうお人はいなかった。
 平家都落ちのむかしとて、こんなではなかったろう。焼けのこった公卿館や死の町の一角はみえるが、昼も人影は稀れで、ふと生き物の声がすると思えば、犬が子を産んでいる。
 そのくせ、夜になると、夜の闇は不気味な脈を生き生きと打ち出して人間のうごきを感じさせてくるのであった。あらゆる悪と兇暴がその中でおこなわれているらしい。また敵とよび合う者同士が嗅覚きゅうかくぎあって諜報の取りやりもしているらしい。しかし草ぶかい野の禽獣きんじゅうの生態みたいに、眼に見えるものではなかった。
「これが都か」
 足利軍五千は、当座、二条の河原へかけて、野陣した。
 予期に反して、入京早々にもと覚悟していた合戦もなく、張りあいのないくらいな無人の曠野に、ふた晩ほどは、大かがりを焚き、その焔の下で兵は言った。
「ここの都には、薪だけは、有りあまるわ!」
 六波羅ろくはらからは、さっそく両探題の名で、着陣のよろこびを言って来た。
 高氏は会わず、直義と師直が会った。使者の口吻こうふんからも、六波羅側ろくはらがわでは、ここまでの高氏の行動については、まだなにも知ってないふうだし、疑ってもいないらしい。
 もっとも、六波羅の苦境は、いまや想像外なもののようだ。――そのご叡山の山門勢力を手におさめていた大塔ノ宮は、きょをついては、六波羅をなやましぬき、淀、山崎方面の赤松勢も、いぜん執拗にくいさがって、六波羅ノ守備を、ほとんど手薄にさせている。
 また。千早、金剛の楠木も、関東の数万騎を引きよせたまま、いよいよゆるぎもせぬという。
 そのうえ、はるか伯耆ほうき船上山せんじょうせん行宮あんぐうからも、千種ちぐさノ中将忠顕ただあきが、山陰中国の大兵を組織して、丹波ざかいから洛中をうかがっていた。いや或るときは、赤松勢と共に市街地まで突入して、五条大橋をも焼き落したほどだった。――からくも、それは撃退しえたものの、いくたび、六波羅側は、同様な危機に瀕していたことやらしれない。
 だから六波羅とすれば、高氏の到着は、唯々、
「援軍来たる!」
 の、よろこびだった。
 つづいて、なか二日おいての四日めには、名越尾張守高家の七千余騎の入京を見、また同時の鎌倉令をうけた地方武族も、五百、七百、あるいは千と、ぞくぞく諸道から会合し、たちまちこの新手は、精鋭二万余騎とかぞえられた。
 ところで、総大将の名越尾張守はまだ若かった。北条一族中での名門であり、れの総帥そうすいの名に気負ってもいた。高氏は、その着陣早々に、じぶんのほうから彼の陣を訪ねて行った。そして、ことばも低く、
「諸事、おさしずを」
 と、指令を仰いだ。
「む、両探題も加えて、作戦には、遺漏いろうなきを期したい。足利どのも、明日は同道されよ」
 と、尾張守は高氏を誘い、その日は共に六波羅に出向いた。
 そのあとで、直義は気をもんだ。もし尾張守高家が上洛途上で、矢作やはぎの事件からすべてを看破かんぱしているとしたら? ――兄高氏は六波羅の内で手もなく逮捕されてしまうにちがいない。そう案じられたのだった。
「いや」と、師直もろなおは見通していた。
「尾張殿はまだお若い総大将。かりに道中でな風聞をお耳にしても、そこは、伊吹の道誉が、ていよく申しくるめたことにちがいありませぬ」
「む、そうは思うが?」
 直義はなお、不安でならず、万一のときには、どうするか。上杉憲房や三河党の面々とも計って、夜すがら、対岸の六波羅を、注視していた。
 だが、杞憂きゆうにすぎなかった。翌日のひる、高氏は、つつがなく川向うから帰ってきた。――六波羅での軍議は、夜どおしであったと語り、万端の打合せもすんだと言った。そして、
「協議のすえ、尾張どのの本軍を大手と呼び、われらの軍勢は、からめ手を行くものとする」
 と、沙汰ぶれさせた。
 直義は愁眉しゅうびをひらいた。どうやら、これまでのことは、名越軍も六波羅でも、まったく感知していないらしい。天のたすけぞと思われた。なお、偶然でもあったのは、この数日のあいだに、高氏ならぬべつな離反者が出て、六波羅側を、てんどうさせていたことだった。
 それは、東軍の一将、奥州白河の結城光広ゆうきみつひろの子、親光の一軍で、さきごろから狐河きつねがわの辺で敵の赤松勢と対峙していたが、俄に旗を巻いて、宮方へとうじてしまったものである。
 それの余勢で、前線の一角では、毎日のように逃亡兵が出ていたので、六波羅から関東勢のうけた衝撃は、一にも二にも、
「裏切り者の結城めが!」
 であった。しぜんその一方へのみ注意も憎しみも向けられていたのである。そしてまさか、前執権ぜんしっけん妹聟いもとむこの高氏のふところにも、後醍醐の綸旨りんじがかくされていたなどとは、疑ってみる者すらもなかったのだ。
 着京の日から九日め。
 名越尾張守は、その本軍七千余騎のうえに、“三ぼんからかさ”の旗のぼりをみせて、
「さきをとるぞ」
 とばかり、はや前線へ出ていった。いわゆる“大手の軍”とは、敵の主力へあたることである。若い総大将の彼みずからが、のぞんで行った戦場だった。
 本軍を見送って、やや小半日の後。高氏もまた、
「したくがよくば」
 と、馬を陣前にやって、貝を吹かせた。
 彼が前線へひきつれた兵力は、当初の五千だけだった。あとの数千は、後備として、いや意識的に、洛内へのこして行ったものだろう。
 とまれ、からめ手軍の足利勢は、大手の軍勢とはやや方角をことにして、北野から洛外ざかいの山添いを、丹波口のほうへゆるぎ出していた。
 が、その日は合戦なし。
 そしてあくる日、桂川の一端へ、兵馬をならべ立てたが、なお高氏はうごかなかった。
 ――すでに下流の久我畷こがなわてやら淀方面では、終日、敵へいどむ本軍のたけびがしていたが、彼は、やがて赤々と沈む陽をただ見ていた。

 夜半。全戦場。
 一ときしいんとなった。
 そのさいの高氏を、古典「太平記」では、
からめ手の大将 足利殿は桂川の西の端に下り居て 酒もりしてぞ おはしける
 といっているが、どんなものであろうか。
 彼の一刻一刻は今、あらわに態度を示そうか、もすこし待とうか。生涯の運を賭けた機微なわかれめといってよい。
 床几しょうぎのままで、一わんの酒を仰飲あおるぐらいはしたかもしれぬ。が、おそらく酒もりと呼べるような酒などみあう余裕はなかったとみられよう。
 下流の大手軍、名越尾張守からは、いくたびとない伝令で、
「総がかりは、明朝たつこく(午前八時)。おぬかりあるな」
 と、念に念をおすように、つたえて来ている。
 下流にある主力と上流側面軍との両方から、淀、山崎にわたる敵を同時に打つ申しあわせであったのだ。で、いつでも桂川を渡渉としょうする陣容は成っていた。
 ところが、宮方の赤松勢は、はやくもこれを知っていたようである。ことによったら高氏の手の者がそっと密報していたかもしれない。いずれにしろ赤松勢は逆に、夜もまだ明けぬうち、下流の名越尾張守の陣地へ、奇襲をかけてきたのだった。
 附近は、久我畷こがなわてにちかい野で泥田が多く、地理にくらい東軍は、大混乱におちいった。このごろの合戦によく使われる新手な“乱波らっぱこえ”がここでもさかんに用いられて――「大塔ノ宮が叡山を下りた」、「洛中にも敵が入った」、「いやいや、味方の裏切りだ」などとたれがともない流言るげんが、寝ぼけまなこの兵のなだれを、いやが上にも吹き惑わせた。
 こうなると、ひとかどな武士までも、かえって、味方が足手まといとなって、軍の機能は、まったく寸断といったかたちである。馬ぐるみ、深田へ落ちこんで、日頃の名だたる将も、あえなく、雑兵たちの槍さきにたたき伏せられたり、まるごと、一軍団のなだれが、追いつめられて、藪川やぶかわの底を埋めるなど、ありえないほど無造作にあまたな人命が夜明けのつかのまに失われていた。
 ここに、赤松一族の者で佐用さよノ三郎範家のりいえというのがあった。
 日ごろ、この界隈かいわいの野伏をかたらって、乱波組らっぱぐみ(第五列)をつくり、放火とともに、敵の中へみ入るのを妙としていた男だが、この朝も、狐河きつねがわから鳥羽とばへのあいだで、ふと目ざましい大将姿が六、七騎で落ちてくるのを見つけ、ただ一矢のもとに、木蔭からその将を射落した。
 元来彼は郷里の佐用さよでも“たか範家のりいえ”といわれる弓の上手であったが、射落したこの日の鷹は、敵味方をわきかえらせた。ころげおちた将の放れ駒には“三本からかさ”の金貝かながいったくらがおかれてあり、この鞍といい、また花曇子はなどんすのよろい直垂衣ひたたれや、おびていた鬼丸の太刀も、名越尾張守高家のものにちがいなかった。
 主力の、しかも総大将が討たれた。――とわかったので、朝霧の引くように、全軍の関東勢が乱離らんりとなって逃げ薄れたのはぜひもない。しかし副将足利高氏の上流軍は、まだ健在のはずである。そのため、上流へ落ちて行く兵も少なからずあった。――時に、高氏はもう桂川を西へ、渡渉にかかり出していた。
 五千の人馬は、橋みたいに、桂川を二つに見せた。
 そこから下流は水の色も変り、対岸は白いしぶきでけむり立った。――直義、師直たちも、水を切って、
「殿、殿」と、さきに駈け上ったひとを追っかけていた。
 高氏が振返った。その姿も、しずくだった。何か、二人から不安そうな注意をうけていたが、
「すてておけ」
 と、聞き流し、
「大事ない、大事ない」
 とばかり、彼は、もっと先の諸将のあいだへ、駒をすすみ入れて行った。
「よいかしら?」
 直義は、不安らしく、まだ後方をふりむいていた。
 大事ない
 よくいう兄の口ぐせである。だが、うしろからは、下流で敗れた本軍の名越勢の残兵が、かなりな数、この軍を味方と信じて、たよるように、くっついて来るのであった。
「とんと、お胸はわからぬ」と、師直もつぶやいた。「が、あの大腹中は、あとになってみると、いつも無策ではおざらなんだ。われらが取り越し苦労にはおよびますまい」
 直義も近ごろそれは信じている。兄の馬群をすぐ追った。やがて、ばくばくたる土ぼこりで、かぶとの耀かがやきも、よろいの色も、黒い怒濤となってゆく。
 不審な?
 と、このとき早や誰かは感づいていていいはずだった。――なぜならば、夜来やらい、足利軍のまえにも、重厚な敵陣はしかれていたのに、これだけの兵馬が川を渡って来るあいだ、敵から一ト矢のひびきもないのはなぜか。
 あるいは、敵のはかりだろうか。引きよせてつつむ法もなくはない。しかし、それなら高氏に、それらしい予見があろう。こう緩々かんかんと、無人のきょうでも行くようなのは、何とも怪しむべきかぎりであった。
 やっと、一部の将士が、この点に気づき出したときは、高氏以下、人馬の流れは、桂川の西、松尾寺の山ぎわから、北へ転じて、大江越えの山坂を前に仰いでいた。
「まてよ。これやこのままいては行けぬぞ」
 摂津の人、奴可ぬかの四郎は、戦友の中吉なかぎり十郎を押しとめて、俄に、おもての色を変えた。
「足利殿その人も、この軍勢の様子も、心得ぬことばかりだ。おぬしどう思う?」
「もしやと、おれもさっきから疑っていた。問わずもがな、ふた心にちがいないわ。さりとて、ただ引っ返すのも業腹至極ごうはらしごく。あれゆく高氏の姿に、狙い矢一つ射て立帰ろう」
「よせよせ。しょせん、かなわん。こっちは小勢だ、命あっての物だねよ。引っ返して、ことのよしを六波羅へ告げ知らせるこそ、おれどもの急務であろう。おういっ、もどれ、もどれっ」
 この二将は、わざとおくれて、手の者三、四百をまとめ、大江山の麓からどっと元の道へ駈け去ったのだ。そのため、これを動機に、全軍も大いに揺れ、諸所で逃げ出す者も少なくなかった。が、高氏は「大事ない、大事ない」としているように、振向きもせず、駒は、おいさかへかかっていた。
 老ノ坂は、昔の大江のせきあとである。酒呑童子しゅてんどうじの首塚がある。またよくよくこの地は天下反覆はんぷくの人物に縁がある。
 後の天正年間に、桔梗ききょうの旗を、西にあらず、本能寺へ行けと、京のあかつきへ指さした光秀も、ここ老ノ坂を踏み、いま、道順は逆だが、高氏が越えるところも、老ノ坂だ。
 そこから一里で、丹波篠村しのむらへ着くのである。すなわち足利家の飛び領で、大江山そのものも、篠村領に入っている。
 篠村の領家りょうけには、長々、今日の時節を待っていた引田妙源やそのほかがいた。また一色右馬介について、これまで、さまざま働いてきた者どももいた。どれも熱いうるみを眼にもって、高氏を迎えあった。
 とまれ、その日はすぐさま、大江山一帯の陣地構成がいそがれた。例の、源氏相伝そうでんの白旗も高々とひるがえされ、ここに初めて、時の世上へむかっての、足利家の“旗幟きし”はあきらかにされたのだった。
 高氏は、国じゅうの武士へ、即日、れさせた。
 すぐさんじろ。
 篠村へ集まれ。
 このに姿を見せぬやつは、末しじゅう用いまいぞ。
 こう申すは勅命でもある。
 綸旨りんじをいただいてのことだ。かしこくもわが足利家へ、かくべつな、おたのみたるによって、ここに義戦の旗を上げる。ゆく末、よい世に巡り会いたいなら、父子、叔父おじおい、かたらいあってみなやって来い。
 こう、つたえ聞いて、大江山の陣場は、日ごとに人数を加えていた。
 いまもって、ふんべつもつかず迷っていた者、日和見ひよりみでいたやから、野伏、半農、そうした者は多かったらしい。みなサビ刀やボロ具足に、身なりの恰好をつけて、
「ご陣の端に」と、小者は小者なりに、一個の運を、これへ賭けてくるのであった。
 そんな中に、郎党二百人もつれた、久下弥三郎時重くげのやさぶろうときしげなるものがいた。笠じるしに、ただ太く“一”と書いてあるのがめずらしかったので、高氏が、
「元からの家の紋か」
 と、たずねたところ、時重の答えには、
「さようです。家の先祖、武蔵の久下二郎重光が、頼朝公のお旗上げのさい、土肥といの杉山へ一番にはせ参じたところから、御感ぎょかんによって、一と賜わった重代じゅうだいの紋にございまする」
 とあったので、高氏は、
「それは、めでたい。当家にとっても吉瑞きちずいだ」
 と言って、ひどくこれをよろこんだという。これをみても、彼の自負が、ひそかに自己を頼朝の再来にしていた理想のほどもうかがわれようか。
 けれど、続々集まってきた武士どもには、綸旨のしめす王政復古も、高氏のいだく未来図も、問うところではなかったのだ。彼らはただ天下大乱のなかに泳ぎ迷っていた濁流の群魚にすぎない。また多くは世に不遇だった不平武士でもある。そしてそれらの下積み武士の不平をたれよりも身に知っていたのは高氏だった。
 五月。雨期に入る。
 が、ことしは梅雨つゆも少ない。
 ただ、ここの兵力だけは、梅雨の大河のように刻々とその勢いを増していた。
 十人の筆役ふでやく(書記)を使って、毎日、新参の武士どもの氏素姓うじすじょうを名簿に書きあげていた兵事奉行の吉良貞義は、
「いや、驚き入りまする」
 と、高氏の床几所しょうぎじょへ、その簿を持って報告にくるたびに、こういうのが常だった。
「わずか十日にもみたぬまに、御軍勢は今日にて、一万をすこしこえました。はや倍加したわけにござりまする」
「ちと、ふえすぎたな」
「なんで多すぎるということがございましょうや」
「したが、兵庫氷上ひょうごひかみ高山寺こうせんじっていた一派の宮方武士などは、ついにこれへは参加せず、山越えにて、鞍馬方面へ移り去ったと聞くではないか」
「さようで――」と、吉良は恐縮していった。「二度も高山寺へ使いをやって、呼びかけましたが、そこの足立、荻野、小島、和田、位田いんでん、本庄などのやからは、大言のみきおりまして」
「なんと」
「たとえ足利殿たりと、人の下風につくは面白からず、と」
「そういって、ほかへ移ってしまったのか」
「おろかな奴どもでございまする」
「いや、そうでない。そういうやからこそ、我には欲しいさむらいどもだ。いたずらに、ここのあたまかずだけで、有頂天うちょうてんにならぬがいい。……ところで」
 と、高氏の胸は、さまざま、忙しそうであった。
「うちあわせのため、山崎にる赤松円心のもとへつかわした今川、仁木の両名は、すでに帰っておるのに、直義はまだもどらぬ。どうしたものか」
「その御舎弟ごしゃていには、千種ちぐさとうノ中将忠顕卿ただあききょうへ御会見のためまいられたこと。千種どのの御陣地は、淀の川向う男山附近とあれば、おもどりも一両日はおくれましょう。お案じにはおよびますまい」
「これからは、いくさにつけ、諸事につけ、いちいち事の運びは公卿相手だ。上杉は付けてやったが、武辺のほかは、公卿振りも知らぬ直義、つつがなく、使いをすましてくればよいが」
 高氏は、吉良へも洩らさなかったが、ここ刻々な憂慮は、ほかにもある。――たとえば、六波羅が高氏の叛旗はんきに大恐惶をおこし、急遽、そこの守りに、思いきった非常手段をとりつつあることなど、目に見えるようなのだ。
 とくに彼がおそれていたのは、鎌倉の再援軍でもなく、六波羅固めの逆茂木さかもぎでもなかった。――千早をかこんでいる関東の二万余騎が、千早をすてて、河内野からうしろへ廻ってくることだ。そうなれば、男山附近の千種忠顕を大将とする官軍などは、まっさきに蹴ちらされるものでしかない。それも読めずに日を送っている公卿大将が心もとなくてならないらしい。
 が、翌日。彼は直義の姿を見た。
 その直義と、叔父の憲房のりふさは、あらまし復命をすますと、千種の陣から同道してきた一人の武将を高氏のまえにひきあわせた。
「これは」
 と、背のずんぐり低いその武将は、与えられた床几しょうぎへかけて、
「足利殿でおわするか。それがしは備後の住人、児島三郎高徳たかのりと申し、副将として、千種どのをたすけ、目下、男山の陣に在る者にござりまする」
 と、中国なまりそのまま、ぼくとつなあいさつをしてみせた。
 名を聞くのも、高氏には初めてな人だった。
 しかし、千種殿の副将にえらばれたほどなら相当な武者ではあろう。また、伯耆ほうきのみかど後醍醐の信任もあさからぬ人物であるにちがいない。
 さて、高氏が礼を返して、
「ご用命は」
 と、いうのに対して、児島三郎高徳はまず言った。――さっそくな貴所のお使いにむくいて、自分はその御返礼使にこれへつかわされたにすぎぬものと、前提して、
「千種殿には、すぐさま船上山の行宮あんぐうへ、足利帰順きじゅんのよしを、奏上いたしおかん、と大そうな御満足。なお以後のいくさには、万事官軍とひとつになって、めざましきご忠勤あるようにと、すなわちここに」
 と、当座の感状と共に、預かって来た一りゅうの錦旗を高氏へ直接さずけた。
 高氏には高氏の心のなかの旗がある。しかし彼は錦旗をかろんじるものでは決してない。うやうやしく拝受した。そして領家の奥に席をうつし、あとは高徳をねぎらいながら雑談に入っていた。
 高氏は彼とのはなしで多くのものをまなびとった。
 伯耆の船上山の御座おましには、名和長年なるものが守備に当っていること。そして後醍醐には隠岐脱出いらい、いよいよ意気おさかんで、大山だいせんの祈祷の壇に、みずから護摩ごまいて七日の“金輪こんりんほう”を修せられ、
 北条討伐
 のお祈りもすさまじく、都への還幸をかたく期して、しかもなお、そこを大本営ともなして、諸州の宮方へ、親しく軍議の令もおさしずしているおすがたでもあるという事。
 いやみかど以上にも、いまや気負うているのは、千種の頭ノ中将殿(それ以前は少将)でと、高徳はなお言った。
「――中将どのは、つまり帝のご還幸の露払いとして、山陰山陽の兵二万余騎をようし、この四月頃から六波羅攻めを開始されておりますなれど、いかんせん、お公卿さまです。われら武人の意見は、なかなか用いてはくれず、さんざんな敗北をくりかえし、ために兵力も半減し去って、意気もおとろえ果てていたところへ、ご当家足利勢のお味方と聞え、俄に、士気をもり返したようなわけでござりまするわい」
「が一方には、赤松勢という精鋭がお味方のはずだが」
「さ、それも」と、高徳はふと眉をひそめた。「一こう千種殿との折合いが悪く、功をきそッてばかりいて、これまでは、互いに勝手戦略のありさまでしたが、いやもう以後の行動は一致しましょう。ご当家も加わり、日を期して、三道の三軍一せいに六波羅攻めと、かたい戦略の立ったことでもおざれば」
 高徳は、まもなく、淀南岸の自分の陣地へ帰って行った。
 なるほど、公卿には信頼されそうな武将であった。その心にみえるぼくとつな武人気質ぶじんかたぎや朝廷を思う一途いちずな意気もわかって、高氏は、それにはそれへの尊敬をもった。また副将の彼の苦しい立場にも同情した。
 こうして翌々日。五月七日のとらこく(午前四時)といわれる。
 篠村しのむらまんに勢揃いの貝が鳴った。大江山諸所の兵は、ここ一つところに集められた。
 勢揃いと共に、
「戦勝の祈願もかねて」
 と、高氏はそこを、旗上げの地とえらんだのだ。
 神だのみを事とする彼でもないが、篠村は、むかし源義経の所領地であった。またここの八幡宮は、源頼義が参籠さんろうして、四方の兇徒を討ち平げ、諸民を安からしめたという縁起えんぎがある。その縁起もよい。
 とらの一天(午前四時)といえば初夏でもまだ暗かった。やしろは小さい。祈願が行われるあいだ、万余の兵は村道から森にあふれ、しゅくと、黒い霧の下に濡れ沈んでいた。
 禰宜ねぎ(神職)の振る鈴の、かすかな燎火にわび、そして拍手かしわでのひびきなど、遠くの兵たちにもあわくわかった。
 やがてのこと、
「妙源、願文がんもんを」
 という高氏の声がきこえる。
 願文四百余字の漢文体のそれは、かねて命をうけた引田妙源がしたためておいた物。
 高氏は、神前へすすんで、
「――ウヤマツテマウス。祈願ノ事」
 と、奉書の冒頭から、次第に、音吐おんとをたかめて行った。
ソレ八幡大菩薩ハ
聖代前烈ゼンレツ宗廟ソウベウ
源家中興ノ霊神レイジンナリ
 黒い霧のなかの者は、わからぬまでも、耳をすまし、気をましあった。
 漢文四百字はかなり長い。
 だが高氏の声はつかれなかった。何かへ、迫らずにいないものがあった。そして、いよいよ朗々と、声に汗をすら思わせてゆくうち、
……マサニ、コノ義戦ニ
神モ霊威ヲ耀カガヤカシ給ハバ
神光、剣ニ代ツテ
一戦ニ勝ツコトヲ得ン
シカモ丹精タンセイハ誠ニアリ
アヤマナカラン
元弘三年五月七日
  源朝臣高氏ミナモトノアソンタカウヂ 敬白
 と、特にわが名へ初めて、朝臣あそんと名のりかぶせて、読み終るとすぐ、
「筆を」
 と、弟の直義から筆をうけとっていた。そして花押かきはんをそれに加え、背のえびらから上差うわざし鏑矢かぶらや一トすじ抜きとって願文に添え、神殿のまえの壇に納めた。
 それに、ならって。
 舎弟の直義も、一トすじの矢を壇にささげてはいをおこない、以下一族の吉良、石堂、一色、仁木、細川、今川、荒川、こう、上杉などみな順次に奉納矢を上げたので、祭壇は、矢の塚になった。
 さいごに、ここで高氏は、
「一色右馬介に、一番の矢を命じる。右馬介、旗上げの祝い矢いたせ」
 と、その名誉を、彼に、名ざした。
 右馬介は十年の苦もむくわれて、じんと全身熱くなった。引きしぼったかぶら矢はうなりを曳いて雲間に破軍はぐんの笛をふいた。と共に、一万余の諸声もろごえが、三度、山こだましてあかつきを揺りうごかした。――すでに高氏の駒をつつんだ旗本たちの影は流れをなして、社前から大江の山道を発している。
 王子、老ノ坂は、またたく越えた。ひがしには大きな日輪が霧の海を敷き、桂川も洛中も、白い霧の下でしかない。ただ目をさえぎるものは、この人馬に驚いて、金色こんじきの中をしきりにけちがう飛天の山千禽やまちどりだけだった。

 六波羅もすでに強力な備えに入り、これまでにない決意のそうを偵知のうえで否みなくされていた。全兵力を洛外の防禦線に配して、庁内の皇居の守りに、わずか千余騎を、内に残していただけだった。
 こうして何と索莫さくばくな……。
 逆にここの六波羅の府は、颱風の目をおもわせるようなひそまりをたたえ、夜来やらい、人もかがり火も疲れきった色で七日をむかえかけていた。わけても、
 北の探題、越後守北条仲時
 南の左近将監さこんしょうげん北条時益
 の二人は、困憊こんぱいそのものの姿にみえる。
 いずれも、庁の大庭に床几しょうぎをおき、ほんの夜明け前の一ときを、眠るがごとく眠りえぬがごとく、腕ぐみのままでいたにすぎず、それもたちまち、
「大物見か」
 と、仲時がつぶやいた一ト言に、一方の時益も、ぴくりと顔をあげていた。
 乾門いぬいもんの外に、一隊の馬たけびをのこして、前夜、大物見に出た先から、本庄鬼六がこれへ帰って来たものだった。
「鬼六か、待ちかねていた。敵のけはいは?」
 そういう両探題の前に、鬼六は、部下の偵察網から次のような判断を打出して報告した。
 敵は、三方にみられる。
 本軍はもちろん男山八幡の方面にあった千種ちぐさの中将と、児島高徳こじまたかのりの約一万で、たれやら後醍醐の皇子のうちの御一名を上にいただき、小幡こばた、竹田方面から、六波羅の背後を突くかたちと見て間違いない。
 第二軍の赤松円心には、先ごろ寝返ッた結城勢も加わっておよそ四、五千だが、たびたび洛中突入の経験もある猛気の兵だ。少ないとて、あなどれない。そしておそらくこれは東寺とうじから九条口へかかるだろう。
 ところで。その出かたに、全然、予見がつかないのは、第三軍とも呼びうる――そしてもっとも憎い怖るべき――足利高氏の叛軍で――老ノ坂をこえて、山崎道へ出るか、桂川へ旋回するか、これはどうも……と、鬼六は口をにごして、
「いまのところ、まだ、なんとも申しあげられませぬ」
 と、復命をむすんだ。
「よしっ、また出てもらおう。休息しておれ」
 そのあとは、両探題ともまた、だまりあって、今日の作戦図の中に苦慮していた。といっても、これ以上加えるなんの策も今はない。ただかえすがえすも“足利”という名がのろわれてくるばかりだが、それとて一時の驚愕などはとうに通りすぎて、
「高氏の首をけずにおくまいぞ」とは今や六波羅中の合い言葉であり憤怒ふんぬであった。
「北殿っ。ちょっと、おいで下さいませぬか」
 すると。いちど立ち去った鬼六が、何事かまた、戻ってきた。
 北の越後守仲時は、振向きざま、
「なんだ? 鬼六」と、彼のことばをいぶかった。
 鬼六は、告げた。
「例の、樗門おうちもんの内にいる毛利時親とやらいう怪態けたいな老兵学者が、どうしても、お目にかかりたいと、ごくを叩いて、わめきおりまする。……あの吐雲斎とうんさいとも申す老いぼれでございますが」
 それは両探題とも、あたまから忘れていた人間だが、
 吐雲斎とうんさい、毛利時親
 と聞けば思い出される。
 あれは四月の初めごろか。検断所の兵が、
「洛中をうかがいに出て来た正成の師にして千早の軍師吐雲斎なる者を、引っ捕えてまいりました」
 と近くの羅刹谷らせつだにから、しょっ引いて来たものだった。
 調べてみると、その怪異な老人はすこぶる能弁で、探題の前でもたかくしてくだらず、正成の幼時に兵学を教授したことはあるが、千早の籠城などには一切関知してないといい、その理由として、自分は元々、北条一族の者である、鎌倉へ問い合せみよ、と大言を払ってひるまなかった。
 すでに洛中は“赤松焼き”に会って、諸所に焦土をただらし、六波羅中も戦争以外何をかえりみているいとまない中だったので、
「ひとまず、樗門おうちもんの内へ入れておけ」
 と、監禁を命じ、吐雲斎のことは、さっそく鎌倉表へ問い合せを発したものの、そんな一風来人ふうらいじんの身元調査に、今どき、手間暇かけて返牒へんちょうしてくるはずもない。つまりは相互で忘れ放しになっていたのである。
「鬼六。その老いぼれが、会いたいと吠えるのか」
 仲時は、床几しょうぎを立った。次いで、
「将監どの。ちょっと見てまいる、時も時だ、何を訴えたいと申しおるのか」
 と、一方の床几を振向いたが、時益はなんの興味もないらしい。ただうなずいてだけ見せた。
 だが仲時には今、ワラをもつかみたい気もちがある。偽者にせよ本物にせよ、とにかく、聞くだけはその言を聞いてみよう。と、鬼六を先に樗門の内へ大股に入って行った。
 そこの大きな一むねは、獄屋ごくや作りになっている。
 かつての日には、後醍醐と三人の妃が、押しこめられていた獄舎の一部だ。――そこにいまは、かのおしノ大蔵にあざむかれた吐雲斎の毛利時親が、茶いろの眸を、らんといで、太い獄格子ごくごうしに、つかまっていた。
「おうっ、やっと来たか。……若い方だな。すると、北の探題か」
 なるほど、白髪もばさと、声には鬼気があって、寄りつき難い。
 仲時はすぐ悔いた。
 が、狂人へするような、あのあいまいな温顔に似た顔を作って。
「されば、身は北の北条仲時だが、なんぞ、このほうに?」
「おうさ」と、吐雲斎は相手のことばも奪いとって「なぜ、もそッと早く、これへ見えなかったか。ばかな大将だ、おなじやって来るものなら」
「ついいま聞いたものを、これ以上早く来ようはない」
「なんのなんの。そこらの武者ばらへ、わしからは、何十ぺん、探題へ告げよと言ってあるかわからん。とき早や遅しじゃ。六波羅の守りもいまは危なかろうがの、苦しかろうがの」
「老人」
「わしには名がある」
吐雲斎とうんさい
「なんじゃ」
「さまでとは、いったい、何を本心申しのべたいのか」
 すると、吐雲斎は、
「何をいう。身のためではない」
 と、むッつり顔して、だまりかけたが、また。
「探題には、まだ疑っているのか。ここにおる兵学者へ、なぜ早くに教えを乞わぬか」
「策を問えとな」
「そうじゃ」
「いくさの妙策があるというのか」
「あらいでか! 大言と聞いたかしれぬが、孫呉そんごから大江流の兵学も究めた者とお告げしてあるはずだ。しかるに下手な戦のみくり返して、これへ物問ものどいにも来ぬ両探題は、ばかか、うつけか、気が知れん」
「……ふうム?」
 仲時は、獄中に光ってみえる茶いろの眸を見てうなった。――やはりこれは狂人だ。耳をかす値打もない、と。
 が、獄中の眸は仲時の惑いなど意にしているふうでもなかった。吐雲斎の言は、彼自身のもだえらしいのだ。だから狂語でもなし、嘘でもない。
 つまりは骨のずいまでの古兵学の権化ごんげなのだ。獄にいても、彼は日夜、退屈は知らないのである。朝夕、身近に来る雑武者から全戦場のいろんなことを聞きほじっていた。足利の叛旗もすでに知っている。そして夜来やらい異常な六波羅中の空気から、今日の危機までよくそのはだで感知していた。
 また、たびたび彼が探題へ面会を求めていたのも事実である。抑えようもなく胸中に湧いてくる必勝の策を、たんなる兵理でなしに実戦に行わせてみたいからだった。官軍賊軍、いずれが、どうだというのでもない。ただそれだけのことなのである。しかしそれは彼の千ざいぐうであり彼のたましいを燃やすに足るものではあった。
「探題、探題……。聞いておるのか」
「む、聞いておる」
「ちと、手おくれだが、ここを三日ささえ得れば、六波羅はかならずつ。おそくはない、手配をいそげ」
「どう、いそぐ」
「わずか千早の城一つに、去年こぞいらい、関東二万余騎を金剛山の下に釘づけにされているなどは、愚の骨頂こっちょうだ。六波羅の一令にて、なぜこれへ呼び返さぬか」
「…………」
「いや、楠木が暴れ出よう、追討ちかけよう。また寄手よせての十二大将、阿曾あそ、金沢、大仏、淡河おごう、二階堂道蘊どううんなどは、みな北条歴々の大将ゆえ、指令に従わぬとでもいうおそれか」
「…………」
阿呆あほうやな、もし六波羅が落ちたら、どうなるのじゃ。六波羅はいま、新帝(光厳帝こうごんてい)の皇居でもあろうによ! ……なぜ勅命を仰がぬか。勅をとなえて、金剛山の囲みを解かせ、そこの二万余騎を一せいに、河内野から洛中へ振向け、一手は敵の千種軍へ、一手は赤松勢へ。すべて横、後ろから突きくずせ。また足利勢のごときも一兵たりと内へ入れるな。……たとえ楠木が追討ちかけて来たところで、千早の兵は、たかだか一千。平野へ出したら、一トつかみの木の葉を撒いたほどでしかない……。それがこわくて、うごきがつかぬとは。あはははは、ばかないくさだ。ワハハハハ、ようも暢気のんきな大将が揃うたものだ」
 いかに半狂人の言としても、吐雲斎の悪罵あくばは聞きづらい。無礼きわまる。
 だが仲時は正直おどろいた。いうことはよく当っている。六波羅の弱点をついて、兵法の理にもはずれていない。
 ただしかし、自分たち六波羅の主脳が、彼の指摘したような点に、全然無知でいたとするなどは、まちがいである。それだけをのぞけば、一つの大きな抜かりを彼もはっと気づかせられたことは否みえなかった。それは、
 なぜ勅をもって、六波羅の令に代えぬか!
 の点だった。
 なにぶんにも、金剛山の寄手にある諸大将は、みな北条幕府の歴々たちであるために、六波羅の令などは、とかく軽んじられていた。まして、いくさに関しては、
 探題などに何がわかる?
 の風でしかない。
 元々、探題職は平和時の半文官だし、越後守仲時も若年の人なので、現地の老将軍や頑将をうごかすには、どうしても、いちいち鎌倉の府を通し、鎌倉の指令としなければ行われぬような状態にあったのだ。しかもいまはそんなまどろい機能など用もなさない。――仲時は天来てんらいの声をけたように、すぐ飛んで帰ろうとした。一刻もはやく、時益とはかって、その事を行おうと、とっさに、思い立ったからだった。
 すると、獄のうちから、
「やあ、仲時殿待て」
 と、吐雲斎がふたたびどなった。
「わしの言をれるのか、容れないのか。だまって立去る法はあるまい」
「むむ、そちの忠言をむだにはすまい。よいことを聞かせてくれた。さっそく皇居へ伺って、勅をいただくことにする」
「ならばこの吐雲斎を、獄から出せ。胸にはなお、いくらでも秘策がある。両探題の蔭の軍師となってしんぜようわ。獄を開けろ、出してくれい」
「いやそのことは、一存でまいらぬ。南の左近将監にもはかって、のちほど解かせる。かならず解かせよう。暫時ざんじ、待たれよ」
 言いすてて、仲時は庁へ走り戻って来た。ときに早や白々明けの下で、南の左近将監時益以下は、庁の大庭で朝の兵糧をとっていた。
 仲時は、彼との立話で、吐雲斎の言った一策について協議した。そして時益も同意のもとに、すぐその足で、六波羅北殿の方へ、わき目もふらず駈けて行った。
 そこの一かくには、三月十二日の合戦いらい、北条氏の奉ずる光厳こうごん天皇をはじめ、以下の公卿百官が、こぞって避難してきたため、大内の皇居はいまや、そのままここに移された恰好だった。
 さはいえ、新帝のほかにも、父の後伏見法皇、叔父の花園上皇、東宮、皇后、梶井ノ二品親王にほんしんのう(光厳の弟)までも、みなお一つにここへ難をのがれ、むかし平家一門が栄えたあとの法領寺殿ほうりょうじでん池殿いけどの、北御所などに御簾ぎょれんを分けておられたのである。そのそれぞれには、かしず上達部かんだちべがあり、お末の小女房だの六位ノ蔵人くろうどたちもいることなので、仮の宮苑とはいいながら、その優雅みやびも麗わしさも、あわれ嵐に打たれたものでしかなく、あるまじき、ごッた返しの宮居みやいを描いていたのであった。
 後醍醐の軍勢が来る!
 千種、赤松、足利が、三方から攻めて来る!
 今朝はここの仮御所も、池殿の御簾ぎょれんから公卿溜りまで恟々きょうきょうとおののいていた折も折であったのだ。
「おお、探題が」
 と、公卿たちは、たのひとの姿を見たので、たちまち仲時をとりかこみ、そして口々に、
「いくさは?」と、模様を問い、
「ここは大事あるまいか」
 と、さまざま、性急な質問を浴びせかけた。
 仲時も、当惑顔のほかなく、
「ま、おしずまりください」
 と、左右をなだめ、
「仲時がこれにおりますからには」
 と、わざと落着いてみせ、しかる後、堀川ノ大納言へ、次のような奏請そうせいを仰いだ。
「火急、金剛山にある寄手にたいし、勅令をお発しねがいとうぞんじまする。――即刻そこの囲みを解いて、千種、赤松、足利の敵に当れ、と」
「えっ? 軍令を」
 坊城ぼうじょう宰相さいしょうが、おどろきを面にみせた。
「天皇にそんな機能はない。前例としても、朝廷が直接、軍令を出すなどというためしは」
「いや!」
 仲時は、力をこめた。
「ぞんじておりまする。……なれどここの危急を超えて勝つには、それ以外にみちはありませぬ。遠い鎌倉の令を仰いでいたのではまにあいませぬ」
「どうしたものか?」
 公卿溜りでは、左大弁資明さだいべんすけあきや鷲尾中納言まで加えて、協議に首を寄せあつめていたが、ほどなく三条の源大納言ひとりが、法領寺殿ほうりょうじでんの法皇と上皇の許へうかがって、やがて、みゆるしをえて来たらしい。しょうをささげて退がって来た。
「かたじけのうぞんじます」
 と、仲時は勅を拝して、押しいただき、
「これによって、河内の二万余騎は、すぐ六波羅のたすけに引っ返しましょう。そのあいだ、あるいは敵影の近々とせまることもございましょうが、ここだけはあくまで静かに、ご籠城をねがわしゅうぞんじます。万一にも、ここの皇居に混乱が生じましては、はや収拾しゅうしゅうもつかぬことに立ちいたりますれば」
 くれぐれも、仲時は、公卿一同へ言いのこした。それほどに、この仮皇居を、六波羅の内に抱えていたことは、目前の大決戦を果たすうえに、大きな負担であったには相違ない。
 それからすぐであった。
 勅をおびた六波羅の密使は、大和口から金剛山のふもとへ早馬を飛ばして行った。――すでにもうは高まりかけ、六波羅諸門へは、前線からの物見知らせが、ひっきりなしに敵の行動をこれへつたえていた。
 さきに本庄鬼六の報でも、
 今暁、なお不明
 と、いわれていた足利高氏のうごきも、ようやく、その出方がわかってきた。
 大江山をまだきに降りた高氏の一手は、山崎へ出ず、桂川を渡っていた。そして嵯峨さがから内野方面へよくをひろげ、その本陣を神祇官じんぎかん(太政官の一庁)附近において、東南遠くの六波羅の府にたいし、すでに戦闘態勢に入ったということであった。
 高氏に対する六波羅方の憎しみは想像以上なものがある。
 その朝。――二条大宮からしも七条へまで充満していた六波羅の陶山備中すやまびっちゅう斎藤玄基さいとうげんき河野対馬守こうのつしまのかみなどの諸将は、
「憎さも憎し、高氏の首を見ずにはおくまいぞ。這奴しゃつ一人さえ討ち取れば、赤松勢も怖れるに足らず、公卿大将の千種ちぐさなど、追わでも腰がくだけ去ろう」
 と、異様なまでのときこえを、何べんとなく揚げていた。
 なおまた、五条辺に後詰ごづめしていた糟谷三郎宗秋かすやさぶろうむねあきの軍や、上加茂方面からも、六角時信の兵がじりじり寄せて、
「足利を。ただ足利を突け」
「期して、高氏を討て」
 と、するようなかたちを厚く作ってきた。
 このさかんな意気に出会って、高氏は、いかに六波羅方が自分への反撃に燃えているかを知り、それへぶつかるのは得策でないと思った。
 彼は神祇官じんぎかんの附近を床几場とし、弟の直義をそばにおいた。直義が血気な突撃に出かねないのを、あんに抑えていたのである。
 吉良、今川、細川の各部将は、まず分別もある者と、それらには安心して部署をまかしておいていいとしている。
 だが、直義に劣らないはやり気の将校はほかにも多い。仁木義勝にっきよしかつ石堂綱丸いしどうつなまるなどは、とかく功名あせりをしそうである。斯波しば、畠山、こうなども目が放せない。で、そういう荒武者の統御とうぎょには、上杉憲房を副将の資格で上に据えてあるのだった。
「……始まったな」
 と、高氏はその五体で全戦場の響きをく。
 馬けむりが揚げる砂塵と音響を交ぜて、各所に始まった戦端は、そのまま五月の空に映写される。焼けあとのほこりは黒く舞い立ち、大路や野原の戦いは黄いろいつむじを吹き起す。
兄者あにじゃ
 直義は、気が気でない。
「二条方面の敵、六角勢が、あなどり難い勢いのようです。たすけを引っ提げ、一撃を加えてまいりましょうか」
 うん、ともいわず、高氏は野面のづらや焼けあとの空を見ていたが、独り言のように言っていた。
「大事ない、大事ない……」
 喊声かんせいや矢さけびのきゅうにも似ず、どの方面も半日の駈引きは、あらまし小合戦で日が暮れた。そして夜に入ると、不気味さはいや増して、地獄の火みたいな赤い光が、五月の闇の彼方此方おちこちつづり出された。
 夜半ごろから小雨こさめともいえない小雨がシトシト天地を濡らしていた。
 高氏は、床几を退いて、神祇門じんぎもんひさしの下に、つかのまを、まどろんでいたが、
「おうっ、深草あたりだ」
「伏見、山崎、竹田の空までも、真っ赤に見ゆる」
 と、口々に言い騒ぐ兵の声に、ふと目をさまして見ると、なるほど、洛外の西から南へかけて、燎原りょうげんの火ともいえる炎の波がえんえんと横に長く望まれた。疑いもなく、友軍の千種ちぐさ、赤松の二タ手が、互いに、六波羅突入の一番の功を争いあっているものと思われた。

 みじか夜だ。すぐ明けてくる。
 八幡やわた、山崎、竹田、宇治、勢多せた、深草、法勝寺などにわたる夜来やらいからの赤い空は、ただまっ黒なものとなり、小雨はやんで、東山のみねには、かつてこの世へ現わしたこともないような色をした不吉な太陽が、のっと顔を出していた。
「暑くなる」
 高氏は、神祇門の下で、悠長にも、大よろいを解いて、よろい下着を一枚脱いでいた。
「兄者。お綿入わたいれは脱がずにおいたほうがいいでしょう」
「なぜ」
矢防やふせぎになりまする」
「あたる矢なら――」と高氏は笑った。「のど首へでも、真額まびたいにでもあたるだろう。大事ない、大事ない」
「いかさま」
 直義は、だまった。
 しかし彼には自分のうなずきもじつはよく分っていない。いったい、兄は臆病なのか、その逆なのか、と。
 これだけの精鋭をもち、また天下に義戦の叛立はんりつをとなえながら、さらに積極的な戦術には出たがらないのだ。
 で、あけがた。直義は、帷幕いばくの面々と共に、即時、総がかりの開始をと、高氏の床几へせまったものである。
 ところが、高氏は依然、
「待て待て」
 と、ばかりであった。そして、
「まだちと早い」
 と、うごく気色けしきもないのである。
 理由を問えば、こうなのだ。
 千種忠顕も赤松円心も、おそらくは六波羅おとしの一番乗りを心がけているのだろうが、そんな目先の手柄は彼らにくれてやってもよいではないか。
 むしろ、欲しい者には、誇らせておけ。
 とにかく、播磨はりまの円心入道などは、たれより早く洛内突入の旗をすすめ、身を挺して、多くの犠牲も払っている。
 それをついきのう起った足利勢に、横から功を奪われてしまっては、円心の顔が立つまい。武門の意地でも、彼はここを一と、部下のかばねをいくら積んでも惜しまぬ腹でいるものだろう。
 また友軍の一方の人は、公卿大将の千種殿だ。これまた、円心におくれては、自身のこけんにかかわるような気位きぐらいで、ありもせぬ兵略や猛気をふるッているものと思われる。――そのため友軍二タ手が先を争い合って、やたらに民家へ火をかけちらし、無二無三多くの兵を死なしているにちがいない。
 おろかなことだ。犠牲はぜひがないとしても最小限にとどめねばならぬ。あまつさえ罪もない民家をあんなに焼き払うなどはちと気狂い沙汰だ。――ゆくすえ世の上に立って民治を考えるものが、あのような狂暴を民衆の前に演じてみせるなどは、みずからその無資格を衆へさらすにひとしい愚であろうに――高氏は言って、
「一ちょうの軍功などは、何の、彼らにまかせておけ。高氏には、より以上、兵が大事だ、後日が大切だ。六波羅もはや死相がみえている。われらの六波羅入りは、ゆるゆる、三番乗りでよかろうわい」
 と、一同をなだめたままでいたわけだが、もちろん直義たち幕僚の将には、何ともジリジリするような我慢以外なものではなかった。
 こことはちがい、洛南洛西方面の様相は、きのうも今日も、激烈をきわめていた。
 はじめ六波羅方では、対足利の陣に重点をいたらしいが、その足利勢はたいした戦意でなく、かえって千種ちぐさ、赤松の連合軍が、しばしば突破口を作って、九条や月輪つきのわあたりまで兵火に煙らせて来はじめたので、
「今は」と急に、兵力の配備をかえ出していたのであった。
 そのうごきを今、高氏の本陣神祇官じんぎかんの大屋根の上から、物見の者が、いちいち、視野に拾って、
「敵の陶山すやま、河野、斎藤の三陣のうち、陶山勢の一陣は、九条方面の加勢になだれ行きまする」
 と下へ告げ、つづいて、
「六角勢の一部も、加茂川の向うを、大和口の方面へ、大きく移動しつつあります」
 とも、どなっている。
 これを高氏が耳にしたのは、初夏の烈日も、いつかすぐ曇って、東山一帯に、雲の帯がまたどんよりとがりはじめた午後のむし暑い草いきれを感じる頃だった。
「直義っ」
 大きく呼んで、
かねだっ、進撃する、総がかりの早鉦を打たせろ」
「かかりますか」
 答えもせず、高氏は、
「馬を」
 と、すぐまたがって、
「師直は、側にあれ。斯波しば、桃井は前に立て。大伍や綱丸もつづいて来い」
 と、自分を中心にえんを作って駈け出していた。
 陣鉦じんがねの乱打が地をつつむ。
 高氏も直義の影も、はじめて、いくさぼこりの中に薄れ込んだ。
 その乱軍の中で、
「あれは五郎左の子だな」
 ふと、高氏の目に入った若者がある。
 鎌倉の大蔵おおくら屋敷に留守としておいて来た設楽しだら五郎左衛門の子、権之助であった。
 一瞬。彼のあたまを、「留守に残してきた幼い千寿王やら妻の登子とうこは?」と、遠くのものが、流星のようにかすめていた。
 奇妙な幻覚だった。こんな中で思いもしなかったことである。思惟でも思慕でもありえない。
 ぶンと、敵の中から、まだら羽の矢が一本、彼の体のどこかにあたった。
 高氏は覚えもしない。
 草摺くさずりにも、折れ矢が立っている。いつかだいぶ深く入っていたのだ。横にもうしろにも、敵方の武者声がする。
 そのうちに、
「足利殿の旗もと、大高二郎重成っ、敵将河野対馬こうのつしまの子通治みちはるを討ちとった」
 と、どこかで聞えた。
 濛々もうもうと剣の光も土ぼこりで煙ってみえる。その口の手勢のくずれは、あきらかだったが、さらに驟雨のような一陣の敵の長柄隊を、焼け跡の一角に見たので、高氏は、
「あれはわせ」
 と、急に駒をめぐらした。
 その転陣の先へ、設楽五郎左の子権之助が、敵将斎藤玄基げんきの首をひッさげて来て彼の見参げんざんに入れた。
 もちろん、足利方でも、このわずかなまに、数百の死傷は出していた。雲の低い夕方である。暗くなるのが早かった。

 そのころ羅生門方面のたたかいも惨烈をきわめていた。まっかな光焔こうえんと黒けむりのうちに、昨日からでは千をこえる敵味方のかばねが方々にすてられたままで、げたり踏みつけられたり、収容のひまもなく屍に屍をつみかさねていた。
 寄手は東寺とうじを本陣とするわずか四、五千の赤松勢であったのだが、これがすばらしく強いのだった。友軍の千種ちぐさ、足利にもおくれを取るなとの武者気質かたぎから、死傷のかずなど物ともしない猛攻をくり返し、敵に息つくひまも与えなかった。
 しかし六波羅方でも、ここでは自信をもって、
「やわか洛内の大手を」
 と、よくふせいでいた。
 羅生門のいしずえをまんなかに、四塚よづかの流れを引き込み、巨大な逆茂木さかもぎさくをめぐらし、また民家の屋上にまで、矢倉足場を作って、数万射の矢かずをこの二日間についやしていたのである。
 だが、赤松勢には、円心入道の子、律師則祐りっしそくゆうなどのごうの者が多く、九条から西八条一帯の民家へところきらわず火をかけたうえ、農家や牛飼町の車をあまた徴収して来て、車陣をきならべ、それをたてにジリジリつめよせたのち、やがては車に車を積みあげて、ついに防禦の一角を破っていた。
 一角が破れると内はもろい。
 河原方面でも、
「七条へ敵が入った」
 と叫ばれ、そのころには、夜空の色でもわかる伏見、小幡こばた方面の千種軍ちぐさぐんまで、はや南の大和大路一ノ橋から六波羅のうしろへ迫っているらしく思われた。
 そして宵すぎると。
 六波羅数万の兵は、各戦線から急激に減っていた。
「だめだ」
 と、そのころから逃亡兵の群れは跡を絶たず、公然、戦衣を脱いで空家のうちへもぐり込むのやら武装のままで山野の闇へあてなく落ちてゆく群れなど、ぞくぞく見られ出していた。死ぬためでなく生きるために彼らはっていたのである。その彼らの直感に大勢はもうきまったと見捨てられていたのだろう。
 でもなお、洛中のいたるところでは、市街戦が交わされていた。かなしいもののふの最期をあくまでその武者だましいにかけていさぎよくしようとする東国武者も決して少なくはなかったのだ。とはいえ、すでに残骸の姿にひとしい五条の一橋いっきょうと六波羅総門のふせぎぐらいが、よくこの頽勢たいせいをもり返しうるものとは今は誰にも思えていなかった。
「おお……。あの炎」
「やがて、ここへも」
「どうしたものぞ」
「ここを落ちよとて」
「落ち行く先はあるまいに」
 六波羅北御所の仮皇居の内こそは今、どうしようもない騒ぎであった。小女房たちの悲泣をなだめてやる人すらなく、公卿すべても動顛のていだった。右往左往の影が、あらぬ口走りを放ち合い、ただ「素破すわや」とのみで、たれひとり生色はない。
 そこへたった今、探題の郎党小串おぐし兵衛ひょうえじょうが来て、
「はや、ここもあぶない。主上、両院、皇后みきさき、すべての方々にも、お立退きのご用意を! 一刻もはやくお立退きを!」
 と、どなり捨てて行ったばかりなのだった。
 さすがこんなさいになっても、主上の御簾みすのあたりはなお、しずかだった。
 光厳帝こうごんていはまだお若くて何もご存知でないとすらいってよい。けれど北条幕府のこしらえで擁立された天皇である。こうなれば北条氏と運命を共にするしかないというご観念だけはかたかった。
「まろは、あとでよい」
 泣き伏す皇后の背へお手をかけて、別離と、いとしみの耐えを、お唇もとに、
「ともあれ、皇后きさきやらあまたな女房たちを先に、ここから落すことにせい。……敵とて、よもや女子供に、むざんな所為しょいもいたすまい」
 と、うろたえている三条、鷲尾わしのお、坊城などの諸公卿へ、くれぐれ、皇后のおからだをお頼みであった。
 光厳すら二十歳である。皇后はもっとお年下でまだあどけない姫宮ともみえるほどだった。お身をもだえて、なかなか帝のお袖を離れるふうもなかったが、そのときほかの女院からまた女房や女童めのわらわまで、みな泣き顔をつつんで帝へお別れをつげに来たのをしおに、皇后もやっと泣く泣くお手をとられて立った。――と、もう濁流にせかれる花と泡沫うたかたの明滅みたいに、白い素足やら夜風のなかの被衣かずき、また、みだれにまかす黒髪などが、むかし薔薇園しょうびえんとよばれた六波羅北苑ほくえんの木戸から東山のほうへ落ちて行き、それには一部の公卿と大勢の舎人とねりなども付いて行った。
「……あわれ。女たちさえここを去らせば」
 光厳帝は、いっそもう、おちつかれたようであった。御父の法皇がおられる方へと、やや濶達かったつに廊を渡っておいでだった。
 帝が近づいてゆかれると、そこではまぎれない御父の後伏見法皇のお声が、
「今となって……」
 と、簾下れんかにひれ伏している一武臣を、あららかに、満身のおいきどおりで叱ッていた。
「そちはなんと言った! かならずここはちささえますゆえ、ただ金剛山の寄手へたいし、勅をくだし賜われと、それをうてまいったのも、つい昨朝のことではないか。――なぜそんな強がりの擬態をかまえて、俄に、鳥の立つような退去をみかどにせまるのじゃ。やくたいもない大将かな。仲時! それでそちの奉公が相立つのか」
「……はっ。ただもう」
 ことばもなく、ひしがれたような姿の人は、探題の越後守北条仲時だった。
「おわびのほかはございませぬ。……腹切っておわびのほかには」
「腹切りなど見とうない。わびられたとて、どうなろう」
「なにとぞ、いまは早や一刻もおはやく」
「落ちろとか」
「仲時、また時益も、斬り死にいたさんと申し合いましたなれど、いや、主上をはじめ両院その他の方々を、ここで敵手にまかせては、御運のほどもいかがあらん……。それよりは生き恥たえて、いずこまでもおん供すべきであるまいかと」
「それ、すすめるなら、なぜ昨日のうちにすすめぬ。せめて今日の早くにすすめざりしか。ええもう、追いつかぬわ。仲時、供の人数はどれほどある?」
「まだ千余騎はおりまする」
「たった千騎か」
 刻々、敵軍のせまるらしい物音は夜の潮鳴しおなりにことならない。後伏見ごふしみ(法皇)は、仲時を烈しくお叱りになりながらも、ついにはおしとねを立って、
「ぜひもない。……花園」
 と、弟ぎみの花園上皇へ、
「落ちよう!」
 とお声をかけた。
 そして、みかどへも、といわれたが、その光厳帝は、もうこれへ来ていて、
「おんを。……おはかまのすそを」
 と、後伏見の身まわりに、かいがいしいお手をかしておられたのだ。
 それすらお目にうつらなかったほど、とっさに近侍の公卿から宮人みやびとのすべてがまわりをお囲みしていた。なおまだ落ちずにいた女院や女房たちもオロオロ見え、それの介添かいぞえして行く老いたる尼の※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうたけた気なげさには、死も一つに、としている容子ようすがたれの姿よりは濃くみえた。かくておよそ宮廷人ばかりの百二、三十名が、どっと北御所から薔薇園しょうびえんの大庭へまろび出て、あとは暗い夜風のなかをヒタ走りにあえぎあった。
 たれも身に持った物など何一つない。すでに、賢所かしこどころ神鏡みかがみ(三種の神器の一つ)も、こうなるまえに、北山の西園寺公宗さいおんじきんむねの邸へひそかにうつしてあった。
「や、あの兵は」
「お驚きなされますな。お味方です」
「探題たちか」
「六波羅松原に残余の兵を呼びあつめて、共々落ちゆく者どもでござりまする」
 そこではみな、つかのまながらほっとした。
 千余騎の将士など、たのむに足らない少数だが、それさえ心づよく見えたのである。
 光厳の弟ぎみ、梶井ノ二ほん親王しんのうもここへ来合わされ、御門徒の勝行房、上林房以下二、三十人の法師武者らとともに落人おちゅうどの列に入った。――火の粉をもった黒けむりが団々だんだんと西から南から三十六峰の上をたえまなくかすめてゆく恐い夜空の下なのである。
「いくさには敗れましたが」
 と、探題の仲時、時益のふたりは、みかどの前にひざまずいて、こもごも、なぐさめを言上していた。
「六波羅一つが、北条のとりでとはかぎりません。金剛方面には、なおつつがなき数万騎をひかえ、鎌倉までの途中とて、諸国には、頼みあるお味方も少なしといたしませぬ」
「わけて近江伊吹には、執権しっけんのご信頼あつき佐々木道誉もおりますこと。……また佐々木の同族、六角時信も、粟田口あわたぐちあたりで加わるはずでござりますゆえ」
「なにとぞ、お心づよくおぼしめし賜わりますように」
「こう、われらがお付添いまいらすうえは……」
 みかどは、ただぼうとして、
「鎌倉へ行くのか」
 と、心細げに、うなずかれる。びんを吹くかぜが白いお顔をぐ。
 両探題は、すぐ、
「御馬上へ」
 と、みかどへも、法皇上皇へも、駒をすすめた。輿こしもおびただしく用意され、女院や尼前あまぜの足弱は、兵にかれた。
 蹴上けあげには、六角時信の兵二、三百がお待ちしていた。しばらくは坂である。ふりかえると洛外洛中の暗々黒々な一地界は、ただ炎、炎、炎……の糜爛びらんだった。

 あけがたの星はまだ白かった。瀬田ノ大橋があわく見え出す。
「やれ……」
 と、みな眉をひらいた。
 足弱な公卿宮人くげみやびとを連れての兵馬としては早かった。それにまず途中の難にもあわなかった。じつは内心、叡山えいざんにある大塔ノ宮一味からの襲撃をなにより怖れていたのである。
 けれどその千余騎の落人おちゅうど――主上の駒から女院たちの輿こしまでが、とどろに、瀬田の大橋の上へかかるやいな、
「敵がいる」
 と、意外な方から、あとの足なみを押しもどしてきた。
 とつぜん、橋詰の口をはさんで射浴びせて来た矢かぜであった。数騎は落馬し、あとの駒も、けたたましく、いなないた。
「油断すな。伏勢らしいぞ」
「もどせ、もどせ」
「足場がわるい」
 声々、立ち騒ぐ中で、
「知れたもの! 駈け抜けろ」
 左近将監時益ときますは言った。
「射て来るものは、どれもこれも古矢ばかりだ、みがきのない拾い矢ばかりぞ。察するに敵らしい敵ではない。野伏だわ。野伏ばらに足もと見さすな」
 なるほど橋づめの柳の原にチラチラ隠現している黒いものにはたても旗も陣容らしい秩序はなかった。漁夫、半農のたぐいが、野太刀や弓を持ち、それに半端はんぱな具足をつけ、また中には、ゆうべ限り六波羅方に見切りをつけて、たちどころに、野盗と変じた逃亡兵なども交じっているかと思われる烏合うごうだった。
 しかし、数には驚くべきものがあった。追えば追うほどわんわんふえてくるのである。――ひとたび権力の座をすべれば――こうも彼らおおかみの群れにまで足もとを見くびられるかと、仲時も時益も、暗然と、思い知らされたことだった。
「しょせん、いちいち相手にしていては、果てしないぞ。ただ追ッ払え。討っては駈け、おどしては駈け、道ばかりをただ急げ」
 こうさけんで、主上の先を払っていた時益だったが、その南の探題時益も、ついに瀬田と守山のあいだの野路のじ附近で野伏の流れ矢にあたって、あえなき最期をとげてしまった。
 いや、光厳のみかどすらも、ひだりのひじに一矢をうけて、鞍つぼを鮮血に染められていたし、まわりの女房輿にょうぼうごしにも、仮借かしゃくなき矢がブスブス立って、みかど同様、駒の背にお姿をさらしている法皇、上皇など、もちろん、お人心地もないすがたであった。
 もともと伊賀山脈に沿う近江路の野洲やす篠原しのはらあたりは野伏の巣といってよい。平常はうららかな湖畔の景をみせているが、時乱に敏感で、もう六波羅のやぶれもよく知っていたのである。そしてこういう時こそが彼らにとっては稼ぎの日で、その目標が高貴なお人であればあるほど日ごろ眠らせていた貪欲と兇悪をふるい立たせてくるのだった。
 公卿の落伍はかずもしれない。彼らはみなくくりばかまのすはだしであったから、当然、騎馬にも兵にも見すてられ、たちまちその衣冠は野伏たちにぎとられていた。いや裸にされるなどはまだいい方で人質に拉致らちされてゆく者もあった。さらに途々、斬り死にした将士のからだも同様に、その武器からよろい下着まで、すべてみな“皮剥ぎ”の好餌とならぬものはなかった。
 古典「太平記」によれば、
主上、その日は
篠原しのはら宿しゆくに着かせ給ふ
 とあり、また
梶井ノ宮には、これよ
り引別れて、伊勢の方
へぞおもむかせ給ふ
 と見える。すなわち梶井ノ宮だけは、鈴鹿越えをとって伊勢路へ別れて行かれたのだ。そしてしつこい野伏たちの襲撃も、人家の軒が接している宿駅のなかではさすが行われず、疲れはてた仲時以下の者も、篠原ノ宿では、ほっと一ト休みもなしえたかと思われる。しかしまたすぐ、あとの長途の難をのぞみ「いかにせばや?」の協議となっていたのではあるまいか。
 そこで考えられるのは、六角時信の発言である。
 道が犬上郡へ入れば、そこはもう六角領であり、すぐ隣郡には、同族の佐々木道誉が伊吹の城をかまえている。
「かならずや道誉も、忠誠を示して、お迎えに出で、われらの難を見すててはおりますまい」
 時信は、そういって、人々をはげましたにちがいなく、仲時以下、悲腸にとらわれていた面々も、
「そうだ、この難行も、ともあれ伊吹へ着くまでのことだ」
 と、考えたに相違ない。
 つかのま、ご一すいもあって、みかどは左のひじの矢傷を白布で巻き、ここからは怪しげなあじろ輿ごしの内になって行かれた。
 おなじく後伏見も花園上皇も、馬には馴れぬお身を、ここまでは、夢中であったが、
「もう鞍ズレに耐えぬ」
 とのお訴えで、いずれもここで輿こしとなった。
 輿をになうのも輿丁よちょうではない。どれもさんざんに戦い疲れた兵どもである。日ごろは小指の血にすら色青ざめる女院にしてさえ、いつか兵の血まみれ姿にもさまでなお感じもなくなっていた。なお幾人かはつき従っていた公卿どもの素足にも血泥が黒く乾いていた。
 それら供奉ぐぶの人々も、今は、
 按察使あぜちノ大納言資名すけな
 あや小路こうじ中将重資
 宰相の有光
 勧修寺中納言経顕つねあきなど、ほんの七、八人に過ぎず、かえりみ合って、
「みなどうしたか?」
 と、憮然ぶぜんであった。
 たれよりも力としていた南の探題時益の落命を途中にみてから、越後守仲時のすがたにも一そう孤愁の影と悲壮が濃かった。しかも従う兵は、半分以下にまで減っている。
 が、その夜は、六角領の観音寺城泊り。眠るだけはよくやすまれた。
 問題はつぎの日だった。
 ――愛知川えちがわ、小野、四十九院、摺針すりばり番場ばんばさめ柏原かしわばら。そして、伊吹のふもとまで、つつがなければもう近い。しかし、遠いここちでもあった。
 仲時は大事をとって、
「六角勢は後陣ごじんとなって、きまとう野伏ばらに、防ぎ矢しつつおあとからまいられい。――また糟谷三郎宗秋は、さきを駈けて、よりつく賊を打ち払い、おん輿こしの行く道を開け」
 と、命じて出た。
 伊吹までは、あと一日半か二日路ふつかじである。伊吹の城にさえたどりつけばと、とくに仲時は細心であったが、やはりこの日も先々で野伏の襲撃は依然まぬがれえなかった。
 野伏が襲ってくる地点にはほぼ条件がある。「出そうだ」と思われる所に出てくる。おおむね、埋伏まいふく、視野、遁走とんそうに都合のよい山岳をうしろにしている。
 その夕。すでに犬上郡へ入って、摺針峠すりばりとうげから不破にわたる山々の重畳ちょうじょうをまえにしていた主上、法皇、女院らの輿こしと輿廻りの人々は、
「はや山風も……」
 と、それのおびえに吹かれていた。
 折も折にである。道の不安を打ち払うため、一隊で先駆していた糟谷宗秋が、
「お止まりください。この峠、うかとは進めませぬ」
 と、引っ返して来て、仲時以下を寒からしめた。
「夜をかけても、番場までは」
 と、むりを承知で将士をはげましていた仲時も、
「またもか」
 と、途方に暮れた眉だった。
「それが、これまでの野伏らともちがいまして」
 と、糟谷は言った。
「錦の御旗を持ち、数も二、三千か。山のひだ、峰の要所などに、むらがりおりまする」
「なに、野伏が錦の旗を? ……。そんなものはとるにたらん。下種げすどもの擬勢だろう。……でなくば、伊吹の佐々木道誉が、お迎えのための軍ではないのか」
「そうあれかしと、てまえも祈って、いろいろ探らせましたところ、やはり、さにあらで、賊は野伏や土民兵らしく、また御旗は、這奴しゃつらのなかまの内に、先帝(後醍醐のこと)の五ノ宮(皇子)とかがおられるためととなえております由」
「はて、そんな宮が、野伏山賊のなかまにようせられているなどはいぶかしいぞ。六波羅にいるうちにも、かつて五ノ宮とは聞いたこともない」
「あるいは、宮は偽者かもしれませんが、おととい以来、伊賀、鈴鹿すずか、美濃ざかいの野伏山賊のたぐいが呼びおうてここにむらがり、お道をはばまんとしていることだけはたしかでおざる。一戦のおかくごなくば、なんとしても通れますまい」
「そうか」
 仲時は低くつぶやいた。
「越えるには、覚悟をということなのだな」
 しずかに彼は全軍の士へ露営を命じた。またせめて、主上、法皇、上皇、女院がたなどには、のみしらみのなやみや馬の尿いばりに近いむしろはぜひないとしても、露をしのぐ茅屋根かややねの下でもと、自身奔走していくつかの山家を御宿所にさがし求めた。
 この仲時は、さきに六波羅を捨てると決して、天子の蒙塵もうじんをおすすめしたさい、天子の御父後伏見からいたく責められたことを、心魂に徹していた。
 また、勅を請うての一策も手おくれに終り、万策ここにつきるにいたった責任も、探題として、つよく感じているらしい。それがだんだん彼をしてまだ二十八の人ともみえぬくすみをその満面にただよわせていた。
「朝となれば、後陣の六角時信も追いついて来ようし、使いを派せば、伊吹の道誉も、加勢に討って出てくれるにちがいない」
 彼自身は、天子のお小屋のそとなる樹下に眠って、なおそうした希望の東雲しののめを、胸にえがいていたのではあった。
 たえず油断がならない。賊の奇襲が恐ろしい。
 それと山は五月の湿度だった。山蛭やまひるやヤブ蚊の責めや、また、一種の青葉れが、よろい固めの五体をやりきれなくして、仲時はつい眠りもえなかった。そして、
「……どう、ここの大難を」
 と、ついあしたの峠を思い悩んだ。
 たのみとみられるものは、二つしかない。
 あとから来る六角時信の加勢と、伊吹の城の合力とである。それだけは、たのみに出来よう。間違いあるまい。
 だが、みかどを思うと、お気のどくだった。しんじつ、おいたわしいといってもなお言いたりない。武家として、いやひらの人間と人間としても、相すまないことになったと、仲時はひそかに悔やむ。
 なにもご存知でないお若い天皇――光厳こうごんのみかどのやすまれている炭やき小屋のほうへは――彼は横たわっても足を向けていなかった。心のうちでお詫びばかり思っていた。
 なにも、彼がこうしたわけではない。後醍醐を追って、あとの帝位に、持明院統の皇族からおひとりを選び、
 この君を
 と、北条氏がその政略から新帝として、あがめ立てたことである。後伏見、花園も御賛同のことだった。だから何も仲時がひとり自責にもだえるいわれはないようなものなのだ。
 しかし彼にはなお古風な、鎌倉武士の匂いがあった。
 たとえ職は一探題の若年でも、まぎれなく自分も北条一族の一人ではある。責任がないとはいえない。いわんや、いくさにも敗れ、天子以下、両院や女御にょごの方々までを、こんなけんにさすらわせたのは、ひとえに自分の落度であると、めを、身一つにしていたようなのだ。
「……大納言どの」
 仲時は、いつか木蔭から起き出て、炭焼き小屋の土間をそっと覗いていた。
 灯はなく、天皇の御寝ぎょしの場とて、すぐそこの炉の床だった。そして按察使あぜちノ大納言資名すけなは、土間へじかにむしろを敷き、破れ壁にもたれて、眠るともない姿でいた。
「オ、仲時よな。……?」
「ご一筆、花押ごはんをねがわしゅうぞんじますが」
「どこへやる書状か」
「思い立って、これを伊吹の佐々木が許へつかわそうとぞんじまして」
「途中、賊の手に、使いが捕まるおそれはないかの」
「たぶんにそれはありまする。……が、むなしくいるよりは、一策でも手を打っておくべきかと思い直し、屈強くっきょうな者をえらんですぐ持たせてやるつもりです。そこでこの召状めしじょうに、廷臣のおん名と花押がいただけますれば、書状を受ける道誉の方でも、いちばい合力に力をそそいでまいろうかと思われまする」
 もちろん大納言にいなみはなかった。仲時の使いはまもなく暗黒な峠をのぞんで立って行ったようである。もうなんとなく、明けまぢかな感がある。――法皇、上皇のお寝小屋でも、恟々きょうきょうと何かおささやきが洩れ、ひとしくどこの寝小屋もよくお眠りではなかったらしい。
「探題、探題」
 そのあたりで、宰相の有光、勧修寺の中納言などが、仲時をよんでいた。なにかおいそぎな上意でもあるらしかった。
 山小屋ののみしらみやら、夜風の音も御不安のせいか、後伏見といえ花園のきみも、夜すがら、おやすみのていもないような――と、公卿たちは言って。
「ただいま、その両院からの、仰せ出しじゃが」
 と、仲時へはかって言った。
 仲時はつつしんで。
「何事にございましょうか?」
「仰せには、こうしてあしたを待つよりは、いっそ夜明けぬまに峠を越えて、柏原かしわばらへ急いではとのおことばだが」
「それがかなえば、それにこしたことはございませぬ。したが、賊の出方によりますこと。われら武者どもは、どうにでも、血路を開いて通りますが、みかどを初め、足弱な女房がたもおられましては」
「しかし、昨夜はどこも静か。賊とて、いうほどな大群ではないのであろ」
「いや、わざと鳴りをひそめているものと思われます。そのうち伊吹の佐々木道誉もお迎えに出て、後からは六角時信がお供に追ッついてまいりましょう。ま、いましばし、ここにご辛抱を」
 仲時はなだめた。
 彼にすれば、落人おちゅうどのままならぬ身でさえあるに、宮廷そのものを背負って行くにひとしいような重さであったことだろう。この人々さえ連れてなければ、賊の大群を突破して通るぐらいな難に、かくまで、ためらいなどはしていない。何としても、鎌倉へ行きつくまでは、主上両院のおからだに、いささかなお怪我もさせてはならぬとしているため、つい大事に大事をとるのであった。
 ところが。
 やがて白々と明けてきたが、どうしたわけか、殿軍しんがりの六角時信の兵はまだやって来なかった。のみならず、後方の連絡の者からは、しからぬ風聞さえ、こう伝わってきた。
「六角どのは、昨夜、愛知川えちがわの辺から俄に方向を変えて、京へ引っ返してしまったもようでございますぞ!」
 人々は、仰天して、
「そんなはずはない」
流説るせつであろう」
「何かの、まちがいか?」
 と騒いだが、それの実否をただすまもなかった。――峠の上や諸所の間道からは、すでに賊徒の群れが、あらわな喊声かんせいをあげ出していたし、一方、仲時がたのみとする伊吹の城からは、まだ何の音沙汰も加勢もない。
 ついに、仲時も意を決したものか、
「宗秋、先を払ッて進め」
 と、糟谷三郎の一隊をまず先頭にたてさせた。そして主上、両院のおん輿こしは、自分らのおもなる者で護りかためる。また女院の輿へは隅田すだ源七、高橋又四郎らをつき従わせ、後陣は壱岐孫四郎いきのまごしろう、安藤太郎左衛門たちの手にゆだねた。こうして総勢四百余名――それがいま残っているすべてであったが――お互いに扶けあい、励ましあって、
「離れまいぞ」
「散っては弱まる」
「峠の上、番場の宿しゅくまで出れば、防ぎはなしやすい」
「伊吹の城とも、目と鼻のさき」
「そこまでのこらえだ。賊の難も、そこまでのこと」
 と、必死な将士は、やがて摺針峠のおよそ一里を、えいえいと、気勢を高めて登り出していた。

 ときどき、山こだまが方々で聞える。不気味さは言いようもない。
 けれど賊徒のほうでも、さすが決死の武者へ当るのは恐いのか、なかなか姿をみせて迫っては来なかった。
「もうわずかだ」
 全将士が、そこではほっと大息をやすめた。峠の上、番場ばんば宿しゅくは見えている。
「案じたよりは」
 と、仲時もいくらか眉をひらいた。――これで六角時信の異心がたんなる誤伝とわかり、また伊吹の道誉が、柏原かしわばらへお迎えに出ていてくれれば、申し分はないが、と思ったほどである。
 けれど彼がそんな希望を持ち直したときこそ、じつは最後だったのだ。とつぜんな叫喚きょうかんが、列の末尾からわき起って、
「すわ」と、坂道を下へ、ふりかえった刹那せつなには、味方より多い賊のむらがりが、高い所、低い所、いちめんからおめきかかっていたのであり、仲時の手が、
「しまッた」
 と、弓をつがえる暇すらないまに、列は、賊徒のために両断されていた。
「下へ駈けるな」
 仲時は、あえて味方の一端を見捨てた。どよめき立つまわりの駒や徒士かちを指揮して、峠の九合目をのぼりつめてしまった。そして番場ノ宿へ入るとすぐの一叢ひとむらの林のうちへ駈けこんだ。
「おん輿こしを、みなそこへ」
 彼のさしずは、急であった。ここらへまでバラバラと賊徒の矢が飛んで来る。どの輿丁よちょうの兵もみなあえぎ喘ぎで、来るやいな、各※(二の字点、1-2-22)の肩の輿を、身ぐるみ、ほうり出すように、どんと置いた。
「あ」
 と、光厳帝は、輿からおからだを投げ出されていた。法皇上皇も、女院がたも次々に、輿の内からまろび出た。
 人心地のあるお顔はなく、みずからとうとなさるおひとりもない。仲時は、そこの一堂をさしながらおき立てした。
「万が一のばあいにも、仲時がおりますからには、めったなことはさせませぬが、もし流れ矢などに触れ給うてはなりません。しばしそこの御堂へお潜みねがわしゅうぞんじまする。決してご心配なされますな」
 子をあやすようだった。喪心そうしんのお手を取ってあげたり、おからだを持ちささえたりして、やっと、主上以下の方々を、堂のうちへ隠し終ると、仲時は、はじめて多少のおちつきをえた。
 ここは時宗寺じしゅうでら蓮華寺れんげじの地域らしく、堂の廂には、
 一向堂いっこうどう
 のがくがみえる。
 たちまちここを中心にやや遠くまでの防衛線が仲時の指揮にかれ、やがて峠の途中で切断された残余の兵も来て、まんまるな一陣となった。
 いつか陽は高く、今日にかぎってまた、真夏のような照り方だった。――六波羅を落ちていらい、食も眠りも足りていない人々には、この日射ひざしに目がくらみそうだった。かぶとの鉢金にされた頭には、視野の物さえかすんで見え、死もさまでにはこわくなく、生きんとすることさえあわい妄念でしかなくなっていた。ただ入れ代り立ち代り襲ってくるものとの闘いに疲れていた。
 賊徒の群は、刻々ふえて来るばかりであった。
 古典には、この賊徒なるものをたんに「――近江、伊賀、鈴鹿すずか、この界隈かいわいまでの強盗山賊あぶれども」としかその質を言っていないが、はたしてそんな有象無象うぞうむぞう手輩てあいばかりであったろうか。
 疑わねばならぬと思う。
 その解明はあとにするが、天皇、上皇、仲時らの四百余人を遠巻きにしつつだんだん迫ってきた賊の数も「いつか五、六千人にも余るほどなもの」が一向堂を包囲したとなっている。古典の誇張と割引きして、約半分とみても二、三千だ。
 こんな数は容易でない。
 乱世の下、たしかに野伏、追剥ぎ、あぶれ者は多かったが、六波羅陥落の実相も、よほどな早耳でなければ、まだよく知りえないはずの直後であった。それが山奥の伊勢ざかいまで聞えて、はやくも美濃近江の要路、摺針峠すりばりとうげから番場へかけ、こんな結集をみせたのは、どうもただの烏合うごうしゅうにしては出来すぎている。
 たれか、この烏合には、指揮者があったに相違ない。
 その指揮者もだ、よほどな策士がいたといえよう。――なぜなら、このあぶれ者の大衆のうえに、錦の御旗を持たせ、上には、後醍醐の御子“五ノ宮”がおられるのだととなえていたのでもそれがわかる。おそらくこれは衆愚をり立てる策士の策であったろう。これまで“五ノ宮”などという皇子の存在は世間のたれも知っていない。あんずるに、錦は錦でも、それは無知な野性を駆るための衆愚の旗、つまり擬勢ぎせいだったにちがいない。
 その旗を、仲時も見た。むらがり寄る野伏勢の、うしろの遠くに、ひるがえるそれを見て、
にせ錦旗?」
 怪しむと同時に、
「しまった」
 と、今はさとった。
 ここから伊吹の城はいくらの距離でもないはずだ。二里余の彼方にすぎない。
 野の野伏すらみな知っている六波羅のへんを、また、天皇上皇の御落去を、そこの佐々木道誉が耳にしてないはずはよもなかろう。そしてもし道誉が、いぜん、鎌倉方に忠誠をもつものならば、たすけを求められないでも、われから馬にムチ打って、みかどのおん輿こしを迎えに出て来るはずではないか。――この敗残の探題軍の難を、ただながめていられるはずのものではない。
 第一、かかる万一の日のために、その道誉は、かねて執権高時の厚い信任をうけて、この近江の要害に、たのみある者として、おかれたものではなかったか。
 それが、どうだ?
 伊吹からは一兵のたすけも来ない。このとなってもなお見えない。夜明け前にやった使いの反応もさらにない。伊吹の空は、つんぼのような太陽にかんと澄み、伊吹山は、白い雲に、顔をかくしているだけである。
 仲時が絶望を感じたのはそれひとつでなく。――たのみと待っていた六角時信が、姿をみせず、愛知川から逆に京へ引っ返してしまったというのも、あるいは、道誉のさしがねではなかろうかと、気がついたことだった。――元々、六角は佐々木の同族だし、その領地も隣し、道誉の下風につかねばならぬ家柄でもある。

 賊の射る矢は、ほとんど集中されてくるので、小半日の合戦には、一向堂のかべ、とびら、ひさしなど、まるで傘の骨みたいに矢が刺さッた。
 しかも、こなたからは、射る矢もすでに尽きていた。敵の矢を拾ッてつがえる弓の悲しさは言いようもない。口惜しさ、苦しさに、たえられなくなり、
「くそうッ」
 と、顔を阿修羅あしゅらにして、むらがるなかへ、えつつ駈けこんで行った者は、すべてそれきり帰って来なかった。
 はじめは、六波羅落人おちゅうどのみなゆゆしい甲冑かっちゅうに、多少おそれを示していたあぶれどもも、次第に相手の足もとを見、わんわんとその包囲をいよいよ厚く、また近々と、圧縮してきた。そして口々から揚げる口ぎたない呶罵どば嘲弄ちょうろう、笑い声まで、あらしとばかりきこえてくる。
「三郎っ……。宗秋」
 仲時の声だった。それも喉にひッつくような、かすれ声で、
「来てくれ」
 と、一向堂の階に、あけまみれな姿を、よろと、くずして呼んでいた。
 糟谷三郎は、その声を、顔で捜している。目から半面へかけての血しおで、人相も変っていた。
「お。北殿」
「三郎か。もうだめだ」
「な、なんの……」
「いやだめだ、残念だが」
「ならば、一せいに、賊のうちへ駈け入り、斬ッて斬って斬りまくりましょう。まだこれほどな御人数はある」
「やめよう。烏合うごう雑人輩ぞうにんばらなど、いくら斬っても、ほまれにはならん」
「では、降伏して出ようとでも仰せられますか」
「降伏」
「心外でも、みかどにまで万一を、およぼさぬためにはと」
「この仲時も、それはいちばん苦慮していることだ」
「はやお味方の者どもも、斬り死にか、降参か、それしかないぞと、しどろに防ぎ疲れておりまする。今はもうただ苦しいだけです。はや精根せいこんもありません。あれ、あのように地を這っているだけの兵も多い有様で……」
「三郎。味方すべてを、この辻堂のぐるりにいちど呼び集めよう。そしてわしからいおう。降伏しても、生は望みえられない。無念だが、わしたちはまんまと裏切り者の奸計に陥ちていたのだ。六角を力とたのみ、伊吹の城を救いの城と見たなどは、あやまりだった。世路せいろのけわしさを知ってないこの仲時の不覚だった。罪のすべてはわしにある。わしは部下にあやまりたい! みなここに呼びあつめてくれ」
 やがて。――一向堂の縁からしゃがれ声をふりしぼッて呼ばわる糟谷三郎の声に、どれもこれも幽鬼ゆうきのような血みどろ姿がよろめきよろめき集まって来た。地にあってうごけぬ者も扶けられてみな一つに寄りかたまった。
 仲時は思うところを部下一同に告げて、責めはすべて自分にあると、六波羅いらいの事ごとな手ちがいを詫びた。また皇室の方々へも申しわけないと深くこうべれていった。
 将士はみな泣いた。しゅくと泣いた。けれどたれも彼を恨みには思わなかった。みなひじをまげて顔をおおった。そしてはっとその顔をまた何かにました……。
「……お。北殿」
 堂をめぐって坐っているすべての者が、こううつろになって呼んだとき、越後守北条仲時は、もう答えのない人となっていた。みずからの短刀でわき腹をえぐって、がくと、肩を落していたのである。
「……おしめしなされた」
 一とき、たれのおもても悽愴せいそうに変ったが、先に行く人をしずかにただ見まもり合う眸であった。仲時からさいごの言を聞いたときに、ここの全部の者もまた仲時とおなじ覚悟になっていた。
 みなそれほどに困憊こんぱいしきって、死以外になにも考えられなくなっていた。顧慮もなく、むしろ、やすらかなものへ抱かれたいような焦躁で、一人が叫ぶと、いッせいに、死のう、死のう、と死のこだまを交わし合っていたのであった。
「お供つかまつる。北殿」
「野伏などの手に、かからんよりは」
「生き恥かくなどは、鎌倉武士の名おれ」
「いっそ、この一堂を一れんうてなとなして」
「いざ、いさぎよく」
 声から声へ、次々に、自身の刃でうッ伏していたのであった。また互いに刺しがえ、あるいは、なにか天へむかって怒るようにどなったせつなに、立ち腹切って、朽木のようにどうと仆れる者もあった。また母や妻子の名を心に呼びつつ、ふるさとの方をのぞみながら、のどへ刃をつき立てて伏す兵もあった。
 みるみる、一向堂のまわりは、血のうみをなし、越後守仲時以下、糟谷三郎宗秋そのほか都合四百三十二人ことごとく、枕をならべて、自害してしまったのだ。
 むざんである。過去の歴史とはみても、胸がいたむ。何とか生きようもあったろうにと、その一途いちずな集団死を、理性で問うのは、後世の、そして平和時の、幸福なるあげつらいというものであろう。乱世下に掻き立てられる生命の灯とは、自分自身ですら、そよぎの中のまたたきを、こんなにもふと断ちやすく、持ちきれなくもするのであった。わけて、もののふという者のあわれは、そこに死すことを死に花とすらしようとする。
 それにしても、四百余人の集団死とは、あまりに酸鼻さんびもはなはだしい。あるいは、これも古典常套の誇張でないかとの疑問もおこるが、しかしこれには疑いえない史証もある。
 後年、附近の八葉山蓮華寺のうちに、
 蓮華寺過去帳
 なるものが伝えられた。
 それの伝写に依ると。
 元弘三年五月・執筆・糟谷かすや十郎
 と、供養者の氏名まで明記されて、それには仲時以下の死者四百三十二人の俗名が洩れなく書きのこされてきたのであった。なお執筆者の糟谷十郎とは、おそらく当年の糟谷三郎宗秋の縁故の人か。
 くだって、江戸時代の「木曾名所図会」などみると、街道に沿うた番場ノ宿の町なかに“仲時の塚”というのが載っており、そばの丘には“六はら山”とちゅうがある。そして附近は、時宗じしゅうでら蓮華寺の門前町と移り変って、そのむざんな遺跡も、街道の一点景にすぎない風物と化し去っている。

 矢うなりや、石つぶてもやみ、やがて賊徒も鳴りをしずめた。そして、賊たちはこわごわと寄って来た。
 いかに彼らでも目をおおったことだろう。血のうみである。四百余人の声なきかばねだけである。
「……?」
 そのうちに賊の部将らしい男どもが、目と目を見交わしていたとおもうと、勇をすがごとく、一向堂の縁へとびあがった。そして堂の扉を蹴った。つづいて六、七名が躍りこんだ。
「……あ」
 と、かすかなふるえ声を、彼らは薄暗い中に聞いた。
 しかし、それきりであった。凝然ぎょうぜんと、彼らの土足は棒立ちをつづけてしまった。
 大納言資名、宰相ノ有光、中納言経顕つねあきらのわずかな公卿が、身をたてとするように坐ったままこっちを見て、
「玉座であるぞ」
 叱ったように聞きとれる。
 下に居よ、との意味であったろうが、かすれて、声もなさず、なお、何か言ったことも、よくは分らなかった。
「うーむ」
 と、賊どもは、うめいただけで、めずらしいことでも見たように、よけい無遠慮な眼を光らせた。
 光厳、後伏見、花園、女院の二、三みなお体をひとつに寄せ、寄りかたまったそのままに、半ば失神していたのである。まるで落雷下の物のように。
 ともあれ、ご無事ではあったのだ。――堂外では供奉ぐぶの六波羅武士四百余名が、枕をならべて自害したが、まずまず、おつつがなきをえたのである。古典ではここの所を、
主上、上皇は
この死人共の有様を
御覧ごろうずるに
きも、心もお身に添はず
ただあきれてぞ御座おはしける
 とばかりで、つぶさな描写を避けているが、およそ、ばかげた書き方である。越後守仲時らが、ことごとくそのめに任じて自刃しているものを「――ただあきれてぞおはしける」などというお心でいられたろうか。死者への詫びやら慙愧ざんきやらに、ここのお人々も、かなしみにもだえ、果ては茫然と、そのご運命をぜひなく賊手にまかせられたものだとおもう。
 ところが古典の文章は、奇怪にも、ここでまた一転して、
さる程に、五ノ宮の官軍ども
主上上皇を取進とりまゐらせて
その日まづ、長光寺へ入れたてまつる――
 と、それまでは、野伏強盗あぶれどもの集まりとしていた賊方を、急に“官軍”とよんでいる。
 が、ひとまず、それは措くとしても。
 長光寺とは、一体どこか。
 種々調べてみると、番場、柏原附近にも古くからの寺院は多いが、どうも伊吹山四院とその頃よばれていたうちの一寺らしい。「大日本史」にこういう記載がある。
元弘三年五月中
光厳帝、後伏見、花園
六波羅ヲ落去
伊吹山太平護国寺ニカウ
トドマルコト十八日
京師ニ帰ル
 これでみれば、みかどたちのお身柄を、やがて一向堂からそこへお移しした者は、決して賊徒の輩ではなかった。伊吹の佐々木道誉であったことはもう明白といってよい。
 伊吹の西のふもと、伊吹山太平護国寺はたんに、太平寺おおひらでらともいわれ、佐々木道誉の城府とは、ほとんど森を接していた。
 また太平寺にはそれいぜん、亀山上皇の御子が僧化そうげしておられたことがある。そこで「五ノ宮」などのお名が偽称されていたのではなかろうか。
 とにかく道誉とすれば、わが自領の下である。何をたくむにも都合はいい。
 いまとなって思えば。
 仲時がここの加勢を待ったことも、なしつぶてだッたはずである。なおまた六角時信が、京へ返ってしまった急変なども、そのときすでに、道誉から時信へ、何らかのむねがとどいていたにちがいなかった。
 しかしその道誉は、「これもまたやむをえぬこと」と一人割切ッていたことであったろう。
 すでに足利高氏とは先頃の密約がある。高氏との盟約を履行したまでのことにすぎぬと、道誉は、そらうそぶいているのかもしれない。――とはいえ、もし高氏の叛軍が六波羅に破れていたら? ――それはまた、どういう構えを取ったかは分らぬ彼だが――なにしろ目前に、持明院統の帝室が蒙塵もうじんして来たのである。勃然ぼつぜん、手につばして、小鳥網へかかった物でも捕るように、「今は」とばかり、彼の非情が、むごさをほしいままにしたものとは、うなずかれる。
 が、なお用心ぶかい彼は、それをすら、土民の怪軍と覆面でやりのけていた。
 みずから手をくだす寝ざめの悪さもあったであろうが、四隣の聞えや鎌倉の方へも気をくばっていたものとおもわれる。むりはなかった。世はあしたに夕べも分らない乱脈さだった。どこのたれがいつ仮面をぬぎ、またいつ寝返るやらも計りしれない。勝敗も一朝いっちょうには信じられず、人間同士もすべて狐たぬきの化かしあいだ。でなければ餓狼がろうの噛み合いである、――と彼は、自分自体のものからして現世を見ていた。疑いぶかいのもそのせいであり、人いちばい貪欲どんよくなくせに、一面消極的なのも、そのせいであった。
 ところが時運じうんはやさは、はるかに、彼の予想を超えていた。
 ほどなく彼も知った。
 飛報は、東国の空からだった。
 この五月八日。
 上野国こうずけのくにの新田義貞が、郷土生品明神いくしなみょうじんの社前で、旗上げを宣言していた。
 すぐ十一日、十二日と。
 新田軍は早や鎌倉への急進をみせ、鎌倉勢はこれを武蔵野にむかえ撃ッて、いまや東国の天地も両軍の激戦場と化しつつある。――くわしいことはまだ後報によらねば分明しないが――と、ここへも聞えてきたのであった。
 道誉はおどろいた。過ぐる日、高氏が洩らした言を、いまさらのように思い出していたのである。六波羅の陥落と遠い東国の蜂起ほうきとが、日まで、符節ふせつを合わしたごとくおこなわれたその遠謀のたしかさに、
「はて! 足利という奴は」
 と、舌を巻いたことだった。そしてあの薄あばたの、とかくくみしやすくも思っていた高氏を、もいちど深く見直さずにいられなかった。で、もう何のためらいもなく、道誉はその急傾斜のままに、洛中の高氏へむかって、われから頻々ひんぴんと使いを派し、高氏の指示を仰ぎ出していた。

 六波羅松原はあるが、六波羅の府は変った。
 すべて人も昨日の人ではない。
 占領二日後には、一切のあとしまつも完了していた。だがこれで大乱が終ったのでもない。進駐の千種ちぐさ、赤松、足利の三大将は、協議のすえ、各※(二の字点、1-2-22)の任を分担して、すぐそれぞれの陣所を、他方面へ移して行った。
 千種忠顕の軍は、二条富ノ小路の旧里内裏さとだいりへ。
 赤松円心は、洛外警備へ。
 そして高氏は、六波羅の府に、そのまま残った。
「殿。……わかりました。やっと、お二人のご避難先が」
「お、右馬介、知れたか」
「はい。いぜんの羅刹谷らせつだににはおいでなく、あれよりもっと山深い木挽こびきの小屋に兵火の難を避けておられました」
「それはよかった」
 高氏はしんから言った。
 めしいの覚一と草心尼とを、彼も忘れていなかった。とくに一色右馬介は、六波羅攻めの当夜から、兵をつれて捜し求めていたが、今日までその安否も分らずにいたのである。
「あのあたり、阿弥陀あみだみねまで、いやもう難民の群れでたいへんでございまする。見るもお気のどく。さっそくこれへお連れしてはと存じますが、いかがなものでございましょう」
「待て。ここはまだまだ母子ふたりを置けるような所ではない。そうだ、そちの手に預けておく。羅刹谷の元の家へ入れて、よう面倒を見てやるがいい。それに近傍は大和口の要所、兵も付けて」
「かしこまりました。時に……もひとつお伺いを」
「まだ用か」
「小右京どのの安否についてでございますが」
「む、後家の君か」
「兵を見せにやりましたところ、仁和寺長屋なども、みな逃げて、住人は人ッこ一人おらぬそうでございます。あの小右京どのも、ひとり殿をたよりとしておられました。捜させましょうか」
「まあこう。そこまでは手がまわらぬわい」
 高氏は彼をおいて、もうほかへ歩いていた。見廻りの途中だったのである。南北両六波羅の広い地域だ。一回の巡視もなかなかそれは容易でなかった。
「殿」
 またも彼の姿をみて、用を持ってきた者がある。師直もろなおの弟、高ノ師泰もろやすだった。
「例の……兵学者なりと自称する奇怪な老爺のことですが、あの者の処分は、いかがしたものでございましょうな」
吐雲斎とうんさいか」
「さればで」
樗門おうちもんの獄を出して、飯をたくさん食わせてやれ」
「それは仰せどおりしておきました。また先夜の兵火で、大火傷おおやけどをしていますので、それの手当もさせてはおきましたが」
「ならば、それでいい」
「ところが、きかぬ老爺で、火傷の苦しみにもめげず、高氏どのに会いたい、何でも会わせろ、と申し立ててやみません」
「ははは」と高氏は歩きながら笑い捨てた。「獄中にいて、あの夜の炎にくるまれたのだ。まだ半狂乱のてりが冷めぬのももっともだ。放ッておけ、ほうっておけ」

 一巡を終って、高氏は、庁の床几場へもどって来た。
 すると、ここにも彼を待つ時務や訴えが山積していた。
 訴えの中には、山野へ避けた難民の代表者もいて、庁の一隅で、それを訊く高ノ師直にどなりつけられ、二の句もなく恐れ縮んでいるようだった。
 高氏は小耳にはさんで、
「何か」と、師直をよんで訊ねた。
 師直がいうには。
「いやはや、単純なもので、難民どもは、はや御合戦もすんだごとく思い込み、一日も早う元の家々へ帰りたいとか、商売をしたいなどと陳情を持ちこんでまいりますゆえ、たわけども、戦はまだこれからだわ、命が不用なら、おのが家へでも焼け跡へでも戻るがいいと、這奴しゃつらの虫のよさに、只今、一かつをくれていたところでござりまする」
 高氏はつぶやいた。
「虫がいいのは彼らの方ではあるまい。……さての」
 一ト思案してから。
「洛民のうちでも、悪徒なんどのしぶとい奴は、わがもの顔に元の巣にいる。山野に伏して元の屋根を恋しがっているのはなべて良民だ。長く憂き目を見させてはおけまい。――師直」
「は」
「申し渡してやれ。安心してみな洛内へもどるがよいと。そして何事によれ、訴え事は六波羅へ持って来い。また夜昼の物騒も、われらが守ってつかわすゆえ、一日も早くそれぞれの職やあきないに励むがよい、と」
「大事ございますまいか」
「いくさは地ならし、それがわれらの耕作というものだ。それすらが出来なんだら、いくさはしない方がいい」
 師直が去って、その旨を代表らへつたえてやると、法師、医者、町長まちおさなど交ぜた一ト群れの市民は、はるかから高氏の床几の方へ、低い礼を見せながら、庁の一門を出て行った。
 高氏は、即日、六波羅内に、
 奉行所
 を、設置した。六波羅奉行所とは、となえなかった。みゆるしにも職制にもよらず、占領下さっそくな行政の一役所としてわたくしに設けたものであったからである。けれど北条氏百数十年らいの六波羅政庁の陥落は、そく、無政府状態を発生していたことなので、
「奉行所ができた」
 と知っただけでも、一般には暗夜の灯ともよろこばれた。また事実、これが焦土の洛内に初めての、政治らしきものの芽生えであった。
 こうした洛内へ、やがて伊吹の太平護国寺からは、光厳帝をはじめ、後伏見、花園たちのとらわれ輿ごしが、佐々木家の手で送り返されてきた。
 それら持明院統の方々の処置は、それを千種忠顕のふんべつにまかせ、高氏は、庶民のいとなみを見はじめると、軍令を出して、市中における将士やあぶれどもの横行を取締り、その悪にたいしては、
「用捨なく、厳罰でのぞめ」
 と直義ただよしにいいつけた。
 直義には適任だった。彼は、洛内四十八ヵ所の篝屋かがりやを復活させ、強盗、追剥ぎ、ゆすり、残党など、片っぱしから処刑に付していたが、そのうちに意外な或る大物をも逮捕した。
 事のわけはこうである。
 ある小雨の晩。
 今出川御門そとの篝屋(町方警士の詰所つめしょ)へ、髪ふりみだした女が急を訴えに駈けこんできた。
 酢屋某すやぼうの妻女であった。
 それいぜんから、たれいうとなく、酢屋の二つの土蔵には、六波羅落ちをした公卿衆から預かった財宝がかくされているといわれていた。それを狙われたものだろう。たったいま強盗が押入り、あるじ、雇人をみな縛りあげ、土蔵を破りにかかっているとの訴えだった。
 それ行け。
 と、居合わせた篝屋武士十人ほどがすぐ駈けつけた。
 ところが強盗は、いわゆる群盗であって、それ以上な徒党であり、しかもおそろしく勇猛で、歯が立たない。
 そこで辻々の篝屋へも、馬触れを廻し、相互、幾人もの死傷を出したあげく、やっとのことで、首魁しゅかいと見られる者四人を、数珠じゅずツナギとして、これを直義の前につき出した。
 直義は見て憎んだ。
 うち一人は大法師である。
「きさまらは、そも、どこの何奴だ。かりそめにも、悪事濫行らんぎょうにおよぶは首斬るぞと、辻々にも、足利殿の御教書みぎょうしょ(軍の政令)を以て、げん布令ふれてあるを知らぬはずはあるまい」
 と、きびしく責め、
「坊主の寺はどこだ。また三名の主人はたれだ。所属を申せ。いわねば、拷問ごうもんにかけるぞ」
 と、脅したが、四名とも唖かつんぼのように一言の答えも吐かない。のみならず、直義が“御教書みぎょうしょ”といったときは、ふんと、鼻さきで笑うような風があった。
「こやつ。ただのあぶれや強盗とも思われぬ。よし、ひとまず六条の獄へ放りこんでおけ」
 こんな小事件などは、高氏には小耳にも入っていない。市中取締り令を発し、みずからそれを“御教書”ともよばせていたが、関東の空、千早金剛の方面、そのほか彼にはまだ当面、安からぬものが山ほどだった。
 そこへある日、奉行所の内へ、
「大塔ノ宮の候人こうじん殿でん法印ほういん良忠どのがお越しでございますが」
 という取次ぎ。
 殿ノ法印というのは、一時捕われて、六波羅監禁をうけ、その監視を破って宮の吉野、十津川とつがわの挙兵にはしり、いまは信貴山しぎさんにいて、大塔軍随一の、股肱ここうの将と評判のある叡山の巨頭である。さっそく高氏が会って、来意をきいてみると、
「じつはさき頃、ご舎弟しゃてい直義殿のお手にかかった四名の者。酒の上にて町家へ押入り、なにか乱暴をしたよしなれど、ここはひとつ無条件に、ご釈放くださるまいか。こう申せば、いわでもがな、はや、ご推量でおわそうが、彼ら四名は、宮が日常お目をかけて来られた者なので、宮にもいたく、ご痛心のことでして」
 という申し入れなのだった。
 宮のご幕下ばっかとは。
 と、高氏は内心あきれた。しかし、ほかならぬおたのみと思うとむげにもできない。で、その日は「直義に申しましょう」と約してひとまず良忠を返した。
 彼はさっそく弟をよび、四名の釈放をあんすすめた。すると直義は、憤然とそれをこばんだ。――そんなことではこの占領下の、治安の維持いじはたもてぬと、つよく言い張るのであった。
 高氏は弱った。彼に潜む政治性が弱りぬいた。
 その政治的な考慮から、大塔ノ宮の腹心殿ノ法印へは、先に「何とかいたしましょう」と、口約してあるのである。
 しかし直義が、がんとして、
「いやです、いかに仰せでも、治安の任にある者として、さような計らいは出来かねまする」
 と、受けつけないのにはどうにもならない。主張は、正しいにちがいないのだ。
「先夜とらえた群盗の首魁しゅかいが、大塔ご幕下ばっかの者とわかれば、なおさら以て、厳罰に付すべきで、それをゆるしなどしては、治安もくそもありません。ご粛正も空念仏に帰しまする」
 直義は、むきになって、言いまくしたものだった。
「なんのための御教書みぎょうしょであったでしょう。かつは宮の御家来ならどんな非理でも通ると心得おるその思い上がりが小面憎い」
「まあ直義、そう一途いちずに申すなよ。世相にはうらおもてもある。むずかしい……まことにむずかしいこのさいなのだ」
「いや何とはなく、大塔ノ宮なる御存在が、兄者あにじゃのお胸をむずかしくしているのでございましょうが」
「む。宮とのあいだに、あえて感情のもつれを持つなどは、おそれておる」
「では、恐れなので」
穿きちがえるな。こわいのとは違う。したが何といっても、後醍醐の御子みこのうちでも、また宮方軍すべてのうちでも、第一の御方にはちがいあるまい」
「兄者。こうなっては、じつを申しあげますが」
「じつをとは」
酢屋すやに押入った先夜の首魁しゅかい四名の者は、はや六条河原で首斬ってしまいました。いかに吟味しても、一言も吐きませぬゆえ、河原へ曳き出し、つい昨日、処分をすませたばかりなのです」
「なに、すでに斬ってしまっているのか」
 これには高氏も、次のことばを失った。事後では今さらどうしようもない。ただかえすがえす、直義の用い所を、ひそかに悔いるのみだった。
 殿ノ法印からは、かくとも知らず、しきりに引渡しを迫って来る。しかし高氏は、それを弟のせいにはしなかった。返答は腹をすえたものだった。四名の罪状は明白なので、宮方のご名誉のためにも、これを不問には付しかねる、悪しからず、と断わったのだ。
 すると、信貴山しぎさんからは、ふたたび大塔の御名をかざして「処分はこちらでする。ともあれ四名を引渡せ」と、高圧的に言ってきた。もちろん高氏は、すでに斬刑ざんけいずみのよしを答え、その群盗どもが、酢屋すやへ押入った当夜のもようを詳しい書類として、殿ノ法印まで送りとどけた。
 事件は終った。
 めずらしいことでもない。今の洛中には毎日あるようなものだった。けれど大塔ノ宮の幕下ばっかは、これをゆゆしい問題とし、恨みにとった。「足利こそは」と、以後は何かにつけ、丸に二引の紋をべつな眼で見た。――初めからの後醍醐方でもない、つい昨日の寝返り武者が――という軽蔑なども多分にある。しかし当の高氏には今、そんな瑣末さまつを目のチリともしているひまはなかった。

 洛中も洛中だが。なお幾多の事がらは後にゆずっておくべきだろう。ゆるがせにできないのは、河内方面の急である。千早のどよめき、金剛いったいの寄手の崩れだ。
 六波羅陥落
 の報が金剛山のふもとを驚かせたのは、おそくも九日か、十日も朝のうちと思われる。いずれにせよ、
「何、何。六波羅が?」
 と、寄手の諸大将は、その飛報に、仰天したことにちがいない。
 それまでの、ここのおちつきぶりからみても、
「しょせんは、長陣」
 と、夏越しの蚊帳まで持ちこんでいたような寄手の首脳だったのである。「――京では、足利が寝返った」との取沙汰なども聞かないではなかったが、「足利とは、あの、ぶらり駒の高氏か」と、その憎しみも嘲弄ちょうろうに交ぜて、たかをくくッていたほどだった。
 もちろん高氏以外に、鎌倉からの援軍は刻々増派されているものと、まったく、ここをすてて六波羅の救援に駈けつけるなどの戦法は度外視していたのである。というよりも、阿曾あそ、長崎、大仏おさらぎ、二階堂の諸大将二万余騎ともいわれるここの大軍は、千早の城ただひとつに、意地でもとする攻略の妄念に吸いつけられていたのだろう。さもなくば攻めるに攻め飽き、秘策に秘策もつきはてて、いまはもう半歳の長陣に意気もみ腐ッてしまっていたか。
 どっちにしろ、鎌倉の錚々そうそう十二大将が、ただひとりの楠木正成くすのきまさしげを、こうまで持てあましてきた帰結が、ついに足もとの大地盤を先に失う日をいま見てしまったこととしか言いようはない。六波羅の失陥は、そく、都の喪失である。鎌倉との連絡もこれからはおぼつかない。
「さて、いかにすべき?」
 を、彼らは、いくさ奉行長崎四郎左衛門しろうざえもんじょうを中心に、その日、悲壮なまでに、こらしあったに相違なかろう。
 しかしここでも、古戦記のうえだけでは、さっぱり呑みこめないことばかりである。古記録のいずれもが、六波羅の敗亡を知るやいな、寄手の十数万騎、見えもなく、なだれを打って、逃げ退いたとある。はたして、そんなものだったろうか。
 もすこし古記録の説を引いてみると――同時に千早の楠木勢が追い討ちに出で、そのため寄手は自分たちが設けておいたさく逆茂木さかもぎにさまたげられ、道にふみ迷い、あるいは谷にころげ落ち、十万余騎の攻囲軍も、残り少ないまでに討たれてしまった。――それゆえ後々までも、金剛山のふもと、東条谷のあたりには、矢の穴や刀創のある髑髏どくろが、いつの世までも草むらにゴロゴロころがっていたという。
 古来、戦ばなしとしては、以上のようなことに語りつたえられているが、ほんとはそんなわけではあるまい。
 近江の番場では、同じ鎌倉武士の探題仲時以下四百何人が、ことごとく、枕をならべて壮烈な自刃をとげた。いかに衆をたのんでいたものにしろ、金剛山の下に埋まった白骨のみが、いたずらにそんな周章狼狽ろうばいだけの犬死をとげたなどとは思われない。
 おそらくは味方同士のあいだから、さまざまな誤伝や流説がわきおこり、また事実、たちどころに、
「いまからは宮方へ」
 と、裏切りに出るなどの同士討ちもおこなわれたのではあるまいか。
 戦局に敏感なのは、上よりもむしろ下部である。――六波羅が落ちるいぜんからとうにここへも聞えていた――足利殿の離叛などは、とくに彼らの士気を大きくゆすぶッていたにちがいない。
 それと、見のがせないのは、古記にちょうしてみると、寄手の総退却となって、
二里三里が間の山路を
敵には追つたてられ
今朝までは十万騎の勢も
残り少なに討たれて
わづかに生けるものも
馬物具うまもののぐを捨てぬはなし
 というほどなのに、
されど宗徒むねとの大将達は
一人も討たれずして
その日の夜半に
南都にこそは落着かれける
 と、ある一事だ。
 これでみれば、歴々の大将たちは、長崎以下すべて、もっとも早く、またもっとも無事な逃げ口をとって奈良方面へなだれ落ちたとしか考えられない。
 けれど、それにせよ、ただ六波羅の悲報ひとつで、こんなにまでの、俄なみにくい総くずれをおこしたとするには、まだすこし疑問があろう。思うに、ここの味方内から離反者が簇出ぞくしゅつしたばかりでなく、せつせんいったいにわたる日和見ひよりみ的な武族もまた、
「すわや洛中が宮方のものとなっては、すえの勝敗もおよそみえたぞ」
 と、がぜん態度を変え出したのではあるまいか。
 さらには野伏から土地の散所民さんじょみんまでが、こぞって寄手方の背へ、けわしい形相をしめしたなどが、鎌倉勢には腹背ふくはいおびえとなって、さしも大軍とみえた金剛山麓のありのようなものも、一陣のくずれが、二陣三陣のくずれをよび、ついには収拾もつかない大混乱をみずから招いてしまったものとおもわれる。
 偶然ではあろうが。和泉国の松尾寺まつのおでらでは、かねがね北条退治の如意輪にょいりんほうを修していたところ、ちょうどその満願にあたる日に、千早の囲みが解けたと、その「松尾寺文書」は仏徳をしるしている。事の真偽はともかく、摂、河、泉いったいの潜伏勢力が、いかに鎌倉勢の破綻はたんうかがっていたかは、これらの例にみてもわかる気がする。
 そして、時の芽ぶきを待ちつつ、近国近郡のひろい山野にその気運を鬱然うつぜんえ出させた原動力は千早であった。千早にって、よく今日までを耐えてきた超人的な人々の力であった。
「やっ?」
 城のやぐらで誰か叫んだ。
 そのとき、物見山のとりでの方でも、
「おうっ、ただごとでない」
「寄手の内に何かがある」
「何か起った!」
 と、異様な昂奮をみせていたが、たちまち楠木正季まさすえと二、三の将が、坂道を駈けくだって、正成のいる三の曲輪くるわの方へと、
「兄上、兄上っ。お気づきですか。麓の方を」
 あえぎのぼって行くのも見える。

 はや、正成のすがたも大勢にかこまれて、やぐらの上に立っていた。
 一、二ノ曲輪くるわ妙見みょうけん出丸でまる、そのほかの諸将もみな一つに寄りかたまり、ここではかえって声もなく、ただ金剛全山の異様な敵のうごきに、ひとみをこらし合っていた。
「お、ご舎弟」
 正季がのぼって来たのを知ると人々は正成のそばを少し離れてけた。その正季には、ここのすべての顔がみなゆるされない悠長なものに思われた。
「兄上、兄上には、どうごらんになりますか。籠城百七十日いらい、寄手のこんな動揺は初めてです。ただ事でございませぬ」
 正成は、
「むむ、……」
 と、のみであった。
 ひとみも彼方のままだった。
「遠くの陣ばかりか、近くの木見、猫背山、多聞寺たもんじ下の敵兵なども、あわてふためいて、なだれ退がって行きまする。一兵も打って出ず、ここはこうしておりますのに」
「正季、やっと、時が来たらしいな」
「てっきり六波羅が陥ちたものと思われます。まだおしノ大蔵のしらせはありませぬが」
「ム、あれほどな敵勢が、致命ちめいをうけたような狼狽ぶりは、まさにそれか?」
「兄上っ」と、正季は迫って「――即刻、追い討ちかけろと、ご指揮をおくだしくださいまし。浮き足のあの敵勢へ、ここからも打って出れば」
「いや」
 と、正成は、彼のせきこむ語気をさえぎった。
「そのことは今も、これへ集まった和田、松尾、南江、神宮寺、佐備さび、橋本らの部将が、口をそろえてわしにすすめていたところだ。……だが、待て」
「待てと仰せのまに、機をいっしましては」
「図に乗るまい。――籠城の兵は、病人負傷者をのぞけば千人を欠いておる。それも草を食って、飢餓きがにたえつつ、この孤塁こるいをささえてきた骨と皮ばかりな兵でしかない」
「でも決死の千人なら」
「しかし敵にも侍はいるぞ。たとえ戦意を失った寄手にしろ、総勢二万余騎の大軍だ。この城と、この天嶮にればこそ、よくふせぎえたものの、ただの野戦に出れば、その芸はできぬ。まちごうたらみな返り討ち。いや、もすこし見ていよう」
 もすこしとは何を待てというのか。正季だけでなくみな疑った。しかし、いくらも時をおかないうちにであった。寄手方から混乱の中を脱して、千早へ落ちてきた一勢がある。旗を巻き、つるはずし、全兵、降伏のかたちをとっている。
 正成、正季について千早の内にいた石川豊麻呂の父、散所ノ太夫義辰の手勢だった。義辰は子を助けたさに、先月らい、望んで寄手の陣に加わり、その子をかいして、ひそかに二心をかよわせていたのである。
 これと同時に、おしノ大蔵も一群のおし手下てかをつれてこれへ姿をみせた。正成もここに初めて外界の全貌がわかった。敵二万余騎の不可解なあわてぶりも、故なきではない事情をいまは信じていいとして来た。
「よしっ、打って出ろ」
 と、正成は、正季以下の者の望みを、そのごにおいて、初めてゆるした。
 あらゆる観点から、寄手はもう必然な自解をおこしている支離滅裂と見たからであったが、しかしなお正成は、諸将のはやるにまかせて、ただ盲目的な追撃を誇ってよしとするのではなく、
傷負ておいは行くな」
 と、いましめ、
「いささかでも体に故障ある兵は残れ。とりでにいて、あとを守れ」
 と、その号令にもとくに心をつかっていた。
 今や全城の士気は沸くばかりであったにせよ、どれもこれも、幽鬼ゆうきのような籠城やつれだったのはぜひもない。病者怪我人のそれらをはぶくと、城外への急追撃にたえうる将士は、せいぜい六、七百か、あるいはもっと以下とすら想像される。
「つづけ」
 ほどなく、正成は、率先して城を出た。
 その正成も満足な体ではない。矢傷をこじらせた深股ふかももの傷口にはうじさえわいていた。だが彼は、自分を押し進めることが、そのまま千早城の前進であり、敵に多くの死者を捨てさせるより、もっと有利で意味の大きな味方の拡充と見ていたにちがいない。
「旗を振れ」
 正成は、途々みちみち言った。
「菊水の旗を、高々と振って、旗の下へ、降伏してくる者、降伏せぬまでも、これへ刃向かって来ぬ敵には、手出しをするな。やがてはみな寝返ってくる者ぞ。――ただ追い声かけて追いまくせ。いたずらに敵を殺して快とするな。逃げまどう雑兵など、いくら斬っても益はないぞ。ただ追えばよし。敵は敵みずからの恐怖に追われて潰走をつづけ、自身の馬蹄で自身の犠牲を止めどなく捨てて逃げよう」
 これらの令を、正成はいちどに叫んでいたのではない。
 敵を追いつつ、機に応じて、いくたびにも、馬上から前後へ言っていたのである。
 馬は、見事なくらをおいたのさえ、敵の去った諸所方々の陣のあとに、放れ駒となって捨てられてあった。正季もその駒の一つを拾ってまたがっていた。彼のほか、
 和田正遠まさとお正高まさたか兄弟
 神宮寺ノ正師まさもろ
 佐備正安さびまさやす
 安房あわ四郎左衛門
 安間了現やすまりょうげん――なども駒をひろって先駆し出した。
 また、その日、返り忠してきたばかりの散所ノ太夫義辰とその子石川豊麻呂も、手勢をつれて追撃に加わっていた。
 いやこの少ない千早勢が、赤坂ともう一方の間道を駈けくだして、西条川と東条川とをむすぶ麓の石川河原へと出てきたころには、おどろくべき人数にふくれあがっていた。敵の数千ともみえる部隊が、逃げおくれを装ってふみとどまり、正成たちと、その菊水の旗をみると、
「いまからは御麾下ごきかへ」
 と、旗の下に、降を乞うのやら、あるいは、
「宮方へのおとりなしを」
 と、部下の簿を呈して来る者やらで、そこは諸国の武者の色で、さながら武者市のかんを呈し、正季らも、それらの降人を受け容れる忙しさに手いッぱいで、遠く潰乱しつづけてゆく敵へ、俄に追い迫って行くひまもないほどだった。
 葛城かつらぎ、金剛、それに和泉山脈の一端がのびている。
 為に、寄手数万の兵は、石川の流れと共に、北へ北へと、その潰走を一方へ争ッて行くしか、外界への吐け口はなかった。そのうえ、彼らが、もっとも恐れていたものと、予期せるごとくぶつかった。
 なにかといえば。
 古市や道明寺あたりの散所民さんじょみんらの反感だった。
 かねがね、東国勢にたいする散所民らの反感は、露骨なほどだったのである。遠征二万余の将士が、威張って、しかも半年も、設営で暮らしてくるには、その期間どうしても、彼ら細民を牛馬のごとくコキ使い、その労働力から膏血こうけつまでを、しぼり上げてするのでなければ、行われない仕事であった。
 だから関東の兵馬とみれば、日ごろから怨嗟えんさまとで、散所では、女子供までが、
「けなくそわるい、くそ蠅や」
 と、白い眼で見ていたのだ。
 反対に、弱者は弱者に同情を持つ。
 彼らに何の理解があるわけでもないが、朝夕に金剛山の空を見ては、楠木一族の孤塁を思い、この大軍の包囲によくもと、心で讃嘆したり、寄り寄り小声で声援もしていたのだった。わけて楠木家の祖は、玉櫛たまぐししょうに住んで、散所民との縁も浅からぬ家柄だったことでもある。
「千早、がんばれ」
ちてくれるな」
 関東勢の下に使われながら、ひそかには、そんな祈りをもっていた彼らなので、ひとたび、六波羅の敗亡を聞き、今日の寄手崩れを、寸前に知ると、
「わああっ」
 と、各所でかん声をあげ、
「ざまを見さらせ」
 とばかり、その退路の妨害に出たのは、たんなる暴徒の敗者いじめだけでもない何かであった。
 石川の流れは、当時、大小幾すじにもわかれていたが、随所の橋は、橋板を取って捨て、巨木や石を、ころがしておき、小さい橋はみな、ぶちこわしてしまった。また道には大穴をほって、さりげなく見せておき、そんな陥し穴を、いたるところにこしらえておくなど、とにかく、河内平かわちだいらの散所民がこぞッてやったことである。だからその迅速さは、東国の軍隊が千早攻めにほどこした程度のような小規模ではなかったのだ。
 しかもまた、六波羅陥落を知ると同時に、難波、住吉、堺あたりにいた宮方の遊撃部隊や、和泉の一端からも急進して来た武族があって、東国勢の逃げなだれて来た行くてをさえぎり、
「みなごろしに」
 と、つるをならべて待ちかまえていたのであった。ここにいたってはもう、当初、二万余といわれた関東の寄手も、ただ支離滅裂な叫喚きょうかんに落ち、吹き捲かれる枯葉こようのような、無力な渦と渦を描いて見せるだけだったであろう。
死傷、ソノ数ヲ知ラズ
 といわれ、そして、
味方ノカバネヲ踏ンデ逃グル者、マタ忽チカバネトナツテ、他ノ馬ニ踏マル――
 と、古戦記にある惨状は、まさに、ここらで現出されたことだったのであるまいか。
 もちろん、楠木勢も、この辺までは、追撃をゆるめず追ッかけて来ていたに違いあるまい。
 敗走の兵馬ほど、怪しまれるものはない。これがきのうの、あの大軍か、あの歴々な大将たちの軍旗かと、あきれもされる。
 その東国勢は。軍のすがたもなく、ちりぢり、奈良へ逃げ込んだようだった。
 逃げおくれた兵は、生駒いこまや龍田あたりで殲滅せんめつされたり降伏した。あるいはまた、自国へさして、逃げ帰った武族も少なくなかったろう。
 いずれにせよ、二万の軍も、雲散霧消のていだった。阿曾あそ、長崎らの諸大将は、ひとまず南都興福寺に拠って、残兵をかりあつめ、
「このうえは、洛中へ出て六波羅をかえさん」
 と、再起をはかってみたものの、もう昔日せきじつの士気はない。それにここでも、奈良の土民の眼は冷たかった。また僧団側も、食糧の協力をさえ、はや拒み出す有様だった。
 結局。――彼らも今は、鎌倉へ落ちようにも行く道なく、やがてはみな、首を揃えて降伏に出るしかないものと見られるにいたっていた。「保暦間記ほれきかんき」には、五月中、なおしばしば、奈良近傍に宮方の出撃あり、とみえるが、それは以後ひきつづいて、敗残の鎌倉諸将を、興福寺へ狩り立てるための行動だったに相違ない。
 時にさて、正成の方はどうなっていたか?
 このさいにおける楠木正成の態度は、よほどよく、見ておく必要があろう。
 いまや勝者の陣でも、彼こそは、武勲第一と自他共にゆるされるものだった。
 いや、武門列だけでなく、民衆の声望もまた誰より高い。領下の民はもちろん散所民まで、
「ようも、あのとりで一つで」
「関東の大軍を。……」
「しかもそれも、六波羅へ向った宮方とは、わけがちがう。楠木勢だけの一手じゃった」
 と、熱狂的にほめたたえた。沸騰ふっとうすると、民衆は、事実以上にも、誇張したがる。
 しかし、野につるそんな声に、正成は酔ったであろうか。自身の武勲におごったろうか。どんな史にちょうしても、このときの正成に、それらしき風はみじん見あたらない。
 もしその正成に、他日への野望があり、また当初の“笠置出仕かさぎしゅっし”の腹が、栄達への野心であったら、それへ登る階梯かいていは、
 今こそ目の前
 に、あったといえよう。――孤塁千早を開いて、百七十日ぶりで降りてきた菊水の旗の前には、数千の降兵と、また和泉、紀伊、摂津せっつの各地から呼応こおうしてきた味方とに、
「たのもしい楠木殿」
「わが多聞兵衛たもんびょうえどの」
 と、それこそ、時の氏神うじがみ顕現けんげんのように、囲繞いにょうされていたのである。――だから今なら、それら参陣の武族へ、彼がどんな高い床几しょうぎから尊大な一をくれても、人々はみな彼を大将と仰いで、行く末までの随身も惜しまなかったに相違ない。
 ところが、彼には、その気がなかった。そしてそのことが後には逆に、野心満々な時人じじんからは、物足らない人と見られて、やがては彼から人の離れて行く、一因にもなっていたかと思われる。
 とにかく河内平野は、この戦勝で沸騰ふっとうしていた。兵はかちどきに酔い、散所民には、豊年だった。彼らは山野を走りまわって、東国勢のかばねから、その持物をぎ、肌着はだぎまで奪って、一夜のうちに、どの死骸もみな、まる裸にしてしまった。その景気が飢餓の町を、近年になくさんざめかせた。
「正季」
 そんな中で、正成は弟をよんで、告げていた。
 石川河原の、仮陣かりじんの夜だった。
「わしは明朝、いちど千早へ引きあげる。あとを、ようせよ」
「ここは」
「そちにまかす」
「かしこまりました」
「安間了現、神宮寺正師なども残しておく。なにせい、数千の降兵と、俄に、宮方へなびいた近国の武者どもが、河内一円にひしめき出していることだ。よほど統御がむずかしい」
「お案じなされますな。安間、神宮寺などは、武者扱いにそつのない老臣、よく相談してやりまする。はや掠奪りゃくだつ乱暴などの雑訴が、寺や百姓のうちから頻々と出ておりますが」
「さっそく諸所へ、厳戒の制札せいさつを立てろ。また、令旨りょうじは、大塔ノ宮のおん名を以てするがいい」
「楠木家の名ではいけないのですか」
「領下だけならよいが、わが家は近郷の地主にすぎん。千早の籠城ろうじょうには、少なからず、宮のお援けもあったこと。広くおよぼす沙汰には、宮のおん名を以ていたさねばなるまい」
「それもこころえました。して、赤坂へはいつ?」
「移り住むかと申すのか。そうだの、しも赤坂の城は、日を待たず復旧させよう。わけて山上にある女子供は、一日もはやく、そこへ帰りたがっていることでもあろうしの」
 こうして、正成が、いちど千早へ引きあげて行くまでには、信貴山しぎさん毘沙門堂びしゃもんどうにある大塔ノ宮へも、洛中の千種忠顕ちぐさただあきへも、使いをたてて、つぶさにここの戦捷せんしょうを報告していた。
 そして、彼の姿が、千早のとりでへ帰ってきた日は、あの河内平野に沸いた物狂わしい屍山血河しざんけつが勝どきとはことなって、しずかな青葉のうちから、よろこぶとも泣くともつかない、ただ高い感動にせまった人々の諸声もろごえが、わあっと、こだまし合って、彼を争い迎えたのだった。
「おお、御本屋さま」
「おやかた
 正成の姿は、たちまち、留守していた骸骨がいこつのような人々や、傷負ておいの片輪たちに、取りすがられ、また行く道をふさがれて、歩けないほどだった。
「よろこべ。いくさは勝った。みなのお蔭で勝った」
 正成もまた顔をらした。勝ったというよろこびも、彼にはこの群れの中で初めて実感のものになっていた。
「あとで。あとで、また」
 と、正成はすぐその足を、さらに山上の、転法輪寺の方へ向けていた。
 凱旋がいせんの彼を迎える祝いの鐘が、戦勝祈願の達成を告げる勤行ごんぎょうのそれか、上の転法輪寺の鐘がごんごんと鳴っている。その声音のなかに、妻子の顔があった。坂へかかると一ばい歩行に困難な正成は、部下たちの手でその腰を押され押され登って行った。
 彼の姿が山上へ出ると、ここでもまた、五月の青嵐あおあらしに声を染めて、
「おお、おやかたじゃ」
「わが殿、わが殿」
 と、歓呼の迎えだった。
 転法輪寺の門前には、兵といわず、すべて半歳の籠城を共にしてきた雑人ぞうにんから老幼男女まで群れ立って、どれも狂喜の顔をくずし合っていた。わけても、別院の病棟から、ころげるように走り出てきた八尾ノ新助、さぎ十郎、矢尾常正らの重傷者たちは、
「お帰りなされませ」
「めでたく、ご凱旋で」
 と、口々に、
「とはいえ、てまえらは、ご馬前にも立たず、かようなざまにて、面目もございませぬ」
 と、さけび、果ては、
「不忠のほどおゆるしを」
 と、正成の足もとに、それぞれ、その口惜しげな体を伏して、あやまるのだった。また、泣くのであった。
 正成は、それらの者を見ると、
「ばかを申せ」
 と、わざと笑ってみせた。
「きょうの勝ちいくさは、おまえたちが、身を片輪にまでしてちとってくれたものだ。うれし泣きなら聞えるが、愚痴はないはず。たれにも増してよろこぶがいい。おまえたちは勝ったのだ」
 それから、彼の一歩一歩の前へ寄って来る男女の手放しなよろこびようは、むしろ彼を途方に暮れさせた。しかし彼はなによりもまず、転法輪寺の内にある総帥の前に伺わねばならないとしていたのであった。
 そこの寺中には、四条隆資しじょうたかすけの陣所がある。
 この法体ほったいの公卿大将は、千早の上にいただけで、いわば名ばかりの大将ではあったが、そんなかざりものにすぎないお人へも、正成は決して非礼をしなかった。かつての、後醍醐の近臣であるので、その御名代のごとく仕えてきた。そしていまもつぶさに、その床几へむかって大捷の報告をすました後、
「なにもかも、これは天佑てんゆうと申すべきでしょう。勝ってもまだ、勝ったことが、夢心地のように存ぜられます」
 と、正成はほんとの気もちのまま述懐じゅっかいしていた。
「いや、兵衛ひょうえじょう
 と、隆資は、彼があまり誇らないのを、むしろ物足らないようにめそやした。
「まったく、其許そこ一人の智謀がよく今日を招来したのじゃ。勲功随一と申してよい。早々に、伯耆ほうき船上山せんじょうせんのみかどの御本営へ、事のよしを使いにのぼせ、奏聞そうもんに達しおくぞよ」
 隆資のそばには、大塔ノ宮の家来、高間秀行、僧快全なども、その帷幕いばくを一つにしていたのである。
 彼らとしては内心、自分たちが、裏金剛から千早をたすけていたことが、千早の命脈をささえて来た唯一の源泉力であったのだ――という自負満々であったが、しかし一応は口をそろえて、正成の殊勲を共にたたえ、他日の恩賞には、正成こそ、その筆頭であろうなどとも言いはやした。それを正成はただを垂れて聞いて退がった。
 そしてまもなく彼は、隣坊りんぼうの朝原寺へ移って行った。朝原寺には、彼の妻子が待ちわびていた。

 たいへんである。生きて帰った父を見た多聞丸や三郎丸は、正成が坐ると共に、この人を自分らのものとして、つかまえたきり離しもしない。
 いくさに勝ったと聞く昂奮こうふんはこの子供らをも異常にしていた。それにまかせて、ただ眺めている久子も涙ばかり先立って、いつまでことばもないのであった。
「さ、もうよかろう」
 まといつく子供らの手をそっと解いて、
「晩にしよう。のう、夜さりまた、ゆるりと、はなしをしようわえ」
 正成もここではもう、そのいくさ疲れを隠そうとしていなかった。
 子供たちは、なお、ねばって。
「では、今夜は、お父さま、ここへ泊まるの」
「ね。一しょに寝ような」
「晩のごはんも」
「お、久しぶりで、みなと共に喰べようぞ」
「あしたの晩も」
「いや、こん夜だけ」
「どうして?」
「ははは。よう聞けよ。近くのいくさは終ったが、まだまだ遠い九州や東国では、合戦の最中なのじゃ。そこで今のうちに、赤坂のたちをこしらえ直して、母者やおまえたちを、元の住居へ返したり、父や一族どもも、次の備えをしておかねばなるまいがの。……また何事が起ってもビクともせぬように」
「うれしい。赤坂へ返るんだとさ」
 子供らは手をたたいた。そして、父と母のまわりを、めぐり廻った。
「殿」
 久子は、やっと、子供らから譲られたような良人のそばへ、こころもちすり寄った。
「わたくしたちは、なおここにいても、さして不自由はございません。それよりは、お体のご養生を、幾日なりと、ひとまず先に遊ばしてから……」
「いや、いや」と、正成はかろく首を振って「たちの修築を急ぐといえば、わたくし事のようだが、それも軍事の急なのだ。畿内きない洛中も、まずは宮方一色に風靡ふうびされたが、いつまた、意外な兵変を見ぬ限りでもない。――それのためには、下赤坂を復旧して、ふたたび木の根や草を食わぬ用意だの要害もる……」
 ふと、彼は耳をそばだてた。
「久子」
「はい」
「ここの奥か、外の小屋か。生れたばかりのような嬰児あかごの声がどこかでするが……。あれは?」
「お妹の卯木うつぎさまが、ついさき頃、御安産なされました。まだ産屋囲さんやがこいのうちにおせりではございますが」
「え。卯木が産んだか」
「それもほんに玉のようなよいの子を」
「ふうむ」
 正成は、唇をむすんで、やがて、そのおもてにあった戦場いらいの硬ばったものを、自然な微笑にほぐしていた。
 黒い戦雲の下では、あんなにも人が死んで行き、ここには、呱々ここの声が一つ新たに生れている。
「ふしぎだなあ!」
 沁々しみじみと、彼は肺の深いところから、つぶやいた。
「こんな籠城の中からでさえ、宿やどったものは、ついに生ぶ声をあげずにいない。しかも木の根や草で養われた胎内の子ではなかったか。……ああ、やがて次代に、そんな子がどう成人してゆき、またどんな宿業しゅくごうを課せられた人となって行くのか。思えば、おもしろい宇宙だ。いや不思議きわまるものだ。人間の子が生れるというこの争いえない神わざは!」

 五月二日の朝だった。
 ここで断わっておかねばならないが、以下の時局は、日時を少しさかのぼって、もいちど、元弘三年の“五月ごよみ”をくりかえさねばならなくなる。
 ところでその二日の早朝。東国鎌倉ノ府ではまだ寝起き顔の人々のあいだに、ふと小さい噂がかもし出されて、いえごとで、
「おかしいよ、どうも」
「何かヘンだぜ?」
 と、不安な朝食をすましているまに、はや若宮小路わかみやこうじ執権しっけんノ御所でも、あきらかに、何かあったらしいうごきを総門の内外に見せていた。
「わかった、わかった。いやもう、たいへんだ」
 たれが、どうぎつけて、つたわり出すのか。
 町の目や耳は、ひるごろには、事のあらましを知って、一そう心ぼそげな眸を、武者の馬ぼこりに、そばめあった。
 でなくてさえ、彼らは、上方における鎌倉軍の旗いろは知っている。――武者所や政所まんどころでは、やっきとなって、
「東国勢はくところで勝っている!」
 と、偽報を公示して、人心の揺れを抑えていたものの、しかし昆虫のように、また蝶や鳥みたいに、府民は生活を託しているここの土壌に敏感なのだった。ただいやおうなしの権力下にあるばかりに、その労働力や技術や商戸のいとなみを、軍幕府の強要にささげてはいたが、もうどこかには、この鎌倉の運命を感じとっている顔つきばかりなのである。
「えっ、何が? どこで何があったんだね」
大蔵おおくらのおやしきだよ。……あの足利屋敷の内に、御執権の命令で、質子ちしとして、足止めをされていた足利どののお子が、いつのまにか、いなくなったという騒ぎなんだ」
「へえ、あの千寿王せんじゅおうさまか」
「まだ四ツ五ツの、お小さいお方だそうだ」
「もうひとかたの、竹若さまとか仰っしゃる方は」
「それも、叔父御おじごの法師にお預けとなり、伊豆の寺に閉じこめられているそうな」
「じゃあ、その和子も、逃げ出したろうか」
「さあて。そこまでは分ってないが、質子が脱け出したのは、父御ててごのさしずにちがいない、すわやもう、足利のむほんときわまッたぞ、と執権御所のご評議やら、すぐ八方へ追手が駆けるやらで……それでこんな、馬ぼこりが舞う始末じゃげな」
「ふーむ、足利殿がの」
 町じゅうは沈んだが、しかしまだ、半信半疑ではあった。
 けれど午後にはまた、大蔵屋敷のほか、二軒の館が、幕府の兵にかこまれたのを、彼らは目で見た。
 一つは、鶴ヶ岡下の赤橋守時の邸であった。高氏の妻、登子とうこが預けられていた実家である。
 が、登子は、姿を消しもせず、ちゃんとそこにいたという。
 さらにもう一軒の方は、小町ノ辻の新田義貞の屋敷で、昨今、義貞も妻子もいないことは、幕府方にもわかっていたのに、あえて差向けられた兵は、土足で乱入するやいな、すぐ屋敷じゅうの家捜しにかかっていた。
「ない」
「なにもないわ」
「目ぼしい物は何ひとつ」
「まるで空家だ!」
 家捜しの物音は、兵たちの張合いなげな口々のうちに終っていた。
「ひきあげよう」
 幾通かの、公卿名の書簡ぐらいを獲物として手にかかえた部将が、こう、あごをしゃくッて、兵たちと共に、いちど新田屋敷の門を出たが、
「いや待てよ。いかに当主義貞や家族がおらぬ屋敷にせよ、余りな無人さは、いぶかしい」
 彼の再度の命で、兵はまたあとへもどった。そして留守居の老臣、小者、釜屋かまや働きの男女十七、八名の者を残らず、じゅずつなぎとして引きあげて行った。
 この光景も、町の人々の目を刺した。
 今暁、足利屋敷から、質子ちしの千寿王が、とつぜん、姿を消したことにまたをかけての噂が、
「新田どのも怪しいのか?」
 と、波長をひろめた。
 その新田義貞は、過ぐる三月下旬ごろ、たった二、三日この鎌倉にいたことがある。
「心なくも病気のため」
 というとなえで、金剛山の攻囲軍のうちから、いとまを願って、郷里へ帰る途中であった。
 幕府では、彼が、現地からそのまま帰国のをとらず、病中なのにわざわざ鎌倉へ立寄って、正しい届け出での手続きに出たことを、
「神妙である」
 として、そのさいの彼には、おおむね寛大だった。
 小町の留守には、彼もまた、ほかの御家人並に、正妻がおいてあった。で、病身の看護みとりの手に、ぜひその妻を、連れ帰りたいと願い出たのである。
 義貞の室は、北条氏の重臣、安東左衛門高貞(入道聖秀ともいう)のむすめであり、その安東家からも、
「よろしきように」
 との口添えが、幕府へなされていたので、その妻と共に、上野こうずけへ帰って行った。
 ところが、帰国以後の義貞の身辺には、とかく病身ともみえぬという報告が、近くの国府から幕府のうちに聞えていた。――それいがいにもチラホラにおちぬ風聞があり、さらに今暁の、足利千寿王の失踪しっそうという突発事も起ったので、
「念のためだ。新田の小町屋敷もいちど洗ってみよ」
 との高時の命から、俄な家捜しとなったものだった。
 が、結果は何もうるところがない。数通の公卿手紙も、四季のたよりや、持明院統の人の筆で、幕府として、何ら敵視されるものでなかった。
 それと留守居の老臣も、ほんとに世事にもくらい老家職にすぎず、小者、釜屋働きにいたっては、論外な無知で、取調べの労にも足らない。
 しかし幕府は、これでいいとはすまさない。むしろ、積極的な一策へと移行した。すなわち、その日すぐ
 明石出雲介親連あかしいずものすけちかつら
 黒沼彦四郎伴清くろぬまひこしろうともきよ
 のふたりが、上野国こうずけのくに新田ノ庄へ急いで行ったことでもその関心のほどが知れよう。がこの両武将は、決して武力をかざして向ったのでなく、表面、幕府の徴税使ちょうぜいしとして下向して行ったのだった。

 質子ちしの足利千寿王のとつぜんな失踪は、諸書、どれにも、
五月二日夜半ノ事
 と見えるから、それが下野しもつけ上野こうずけあたりへわかったのは、おそくも五月五日以内であったにちがいない。
 とすれば、すでに新田義貞は、自己の諜報網からそれは耳にしていたと見るべきであろうが、彼の住む世良田せらたやかたは、さくら若葉のなかに、きょうもいたって森閑しんかんとしていたのみならず、その奥まったところからは、笛、つづみ、太鼓のなど、いともび暢びとながれていた。
 考えてみると。
 この日、五月五日は男の節句せっくであった。武家ではとくに、端午たんごノ節句は、おごそかにやる。
 わけて義貞には、幼名を辰千代といった義顕よしあきや、その下の徳寿丸(後の義興)などの男子があった。それで今日は近親者の子や父兄まで招かれて“あやめ酒”をいただいたり、五月遊さつきあそびにきょうじあっていたのであろう。――とにかくその賑やかなささら歌や笑い声の興もまだ尽きない午過ひるすぎ頃のことだった。
「おそれいるが」
 と、息をきッている家臣の里見新兵衛という者が、中次ノの侍へ、
脇屋わきや殿のお顔を、ちょっとこれへおかしいただきとうぞんずる。せっかく、お遊びの中ではあれど、すておけぬ火急な大事がおこりましたので」
 と、上がりもせずに、庭口からの願いであった。
 ご無礼には当るまいか。
 はじめ、中次の侍たちは、それですこし渋っているやに見えたが、新兵衛の血相もただならずと思ったか、やがて一人が立って奥殿おくでんのにぎやかな大一座のほうへ廊を渡って行った。
 と。まもなく、
「新兵衛か」
 廊の上に、顔へ酔を花やがせている人がみえた。義貞の弟、脇屋ノ二郎義助である。
 近くの宝泉寺村脇屋に別所をかまえているので、脇屋殿とみなよんでいた。
「申しわけございませぬ。お座立ちをねがいまして」
「かまわぬよ、そんなことは。それよりは何事がおこったのだ?」
「ただいま熊谷くまがいから早馬が飛んでまいりまして」
「む!」
「鎌倉表の同勢五十人ほどの一隊が、これへまいるとの知らせです。いや、すでに利根とねの渡しへかかっているよしにございますが」
「鎌倉の?」
「はい。明石出雲あかしいずも、黒沼彦四郎、そうふたりが、幕府の使者として、新田ノ庄へくだるものと、道ではいわれておりますそうな」
「ふーむ。なんの前ぶれなしにだな?」
「怪しまれまする。しかもこのさいのことではあり……」
「待っておれ。一おう、殿のお耳へ入れてくる」
 義助は、いちど奥へもどったが、またまもなく姿をみせた。そして新兵衛を近くにまねき、廊の上と下とで、なにかを、ひそかに耳打ちしていた。
 新兵衛は、主命をのみこむと、ひざまずいて、
「こころえました。では、そのように」
 と、すぐどこかへ走り去った。

 世良田のみなみへ半里、利根川べりに行きあたる。
 そこの川岸の里は地名を徳川といい、新田家の一支族、徳川教氏とくがわのりうじの住地だった。――この世良田徳川の子孫が、遠いのちに、江戸幕府の徳川将軍家となったのである。だから代々の徳川家は、祖先新田氏をおろそかにしなかった。
 さて余談はおき、いま、利根を渡って来た徴税使ちょうぜいしの一行は、河原の辺で、しばらくいこうていたが、
「まず近くの徳川家へ、沙汰の使いをやってみようか」
 と、宰領さいりょうの明石出雲介と黒沼彦四郎とが、やおら、腰をあげはじめる。
 ところへ、駈けつけて来た里見新兵衛が、馬を下りて、二人の前へつかつかと歩みよって行き、そしてたずねた。
「あいや近国の衆ともお見うけ申されぬが、いずれからお越しあって、いずれへおわたりの人々か」
「わしらか」
 傲然ごうぜんと、出雲介がうけて、
「鎌倉から」
 と、単にいう。
「はて鎌倉のご上使なら、前もってお館へ、何らかの触れもあるはずですが」
「いや、自分らは政所まんどころ直属の者でおざる。つまり貢税こうぜいの急務をおびて、当地のみならず、東国諸所へまかりくだるもの、いちいちの先触れなどはしておらぬ」
「ははあ、税物ぜいもつのお役儀で」
「いかにも」
「これは、率爾そつじを」
 と、新兵衛は自分の思いちがいをそう詫びた。けれど決して、先方のことばどおりなものとも受け取っていなかった。
「して、当所への、ご用向きは」
「たれぞ、しかるべきじんに会うて申し渡そう。そこもとは、新田殿の家臣か」
「さようにござります。いつも街道木戸番所に詰めておる検見役けみやく、里見新兵衛ともうす者で」
「ならばちょうどよい。新田殿へも税物ぜいもつの御下命があり、そのため当所へくだり申した。ひとまず宿所へご案内ねがいたいが」
「かしこまりました。しばらくお待ちを」
 新兵衛は、いちど去った。そして近くの徳川教氏や大関平馬の門へ告げて、それぞれ家来を糾合し、出迎えの列を揃えて、そのさきに立った。
 徴税使の下向ときくと、どこの領土でもこの頃は、またかと、おののいたものである。大戦いらいの出費に次ぐ出費から、幕府としてもムリは承知で諸国へ苛烈な追徴の使をのべつ派遣していたところなのだった。
「いざ、どうぞ」
 新兵衛たちは一こう四、五十人の徴税使をつれて世良田へ入った。といっても、義貞の居館へではない。その隣の“たちぼう”とよぶ寺だった。
 館ノ坊と、義貞の館とは、べつなようで一つでもあった。徴税使の宰領さいりょうふたりは、やがてその陀羅尼院だらにいんの客殿におさまった。そして新兵衛から、
「ほどなく、脇屋どのが、ごあいさつにお伺いいたしまする」
 と聞いていたが、しかしとうの脇屋義助は、いつまで見えはしなかった。のみならずその夕、義貞のたちでは、いよいよにぎやかな端午たんご遊びの笛太鼓だった。
「耳ざわりな」
 と、ふたりの徴税使は、にがりきって、
「なんだろう、あの無遠慮な、浮かれ囃子ばやしは」
 と、陀羅尼院のうちから、義貞の館のほうを、木のま越しにうかがって言っていた。
「いや忘れていたが、きょうは五月の節句。端午の客の騒ぎとみえる」
「それは合点がてんだがよ」
 と、出雲介は、彼方の大屋根の灯へ、目をすえたまま、
「ここは上野こうずけの僻地だが、天下、戦にあえいでいる今だというのに」
「それも、来てみて分った。新田は戦の外に立ってついえを避け、このすきに、自領の力を養っているらしい」
「では、足利千寿王の逃亡と義貞とは、かかわりがないと、貴公は見るのか」
「まず、ないと見てまちがいあるまい。一方の高氏は遠い上方の戦場へ出ていることだし……。またもし新田に策があるものなら、このさい、笛や太鼓の端午遊びどころではないはずだ」
「それもそうか……」出雲介は肯定して。「では、さっそく評定所のほうへ、それは早打ちしておくとして、明日は足利領へ廻ってみるか」
「それにも及ぶまい」
 彦四郎は打消した。
「それよりは、当初の名分どおり、税をちょうして立帰ったほうが、公辺へは、よい御首尾ではあるまいか。数日ここに構え込んで」
「なるほど、そのうちもし新田の内輪にな気振りでもあれば、ぎ出せることにもなるの」
「しっ。……」
 ふたりは口をつぐんだ。
 たれか見えたのである。里見新兵衛であった。またすぐうしろに、武者むさえぼし、狩衣すがたの、かっちりと肉のしまったおもざしをもった二十六、七歳の人が来て、新兵衛を下においたまま、ずっと室内へさきに通って大きく坐った。
「脇屋殿でいらせられます。御当主の弟ぎみ、脇屋の二郎義助さまで」
 新兵衛が、両使へ言った。
 つづいて、その義助が、あいさつを述べた。そして、いかなる政所命まんどころめいか、兄義貞は病中なので、自分へ仰せ聞けられたいと、いんぎんに言った。
 ことばは、なるほど、いんぎんであったが、しかし脇屋義助のからだからは、昼からの酒がふんぷんと匂っていた。それだけでも、むかっと、相手は反撥を持つに充分だった。――で、黒沼彦四郎伴清がまず政所ノ状をとりだして読みきかせ、状はそのまま義助へ手わたされた。
ゼニ五万グワン
五日ノ内ニ上納ノ事
右、領主庄家シヤウケ、一致シテ違反ナカルベキムネ、御上意ナリ
 と、いう令であった。
「……脇屋殿」
「は」
「いつまで、無言でおいでられるか、お受けのことばは?」
「出てまいりませぬ」
「出ぬとは」
「何ともお受けあいいたしかねまする」
「なにお受けできぬ? これは聞き捨てならん」
 黒沼と明石の両使は、ひらき直った。そしてその高圧的な態度を、もっと露骨に。
「脇屋殿! 政所まんどころの徴税の令は、台命ですぞ。執権しっけん殿のおことばもおなじものだ! 台命にそむき召さるか」
「いや、そむきは仕らぬ」
「でもいま、できぬと申されたではないか」
「さよう、五日の内に、銭五万貫の上納などは、できぬゆえに、できぬと申しあげたまでで」
「それが上命をこばむものでなくて何であろ。相次ぐ戦いのため、幕府のお手もともいまや容易なご出費ではない。北条殿九代にわたるご恩顧おんこをおもえば、このさい諸大名が、それぞれの力において、兵糧や銭の徴募に応じるぐらいは、あたりまえなご奉公ではあるまいか」
「そうです!」と、脇屋義助は相手がたかぶればたかぶるほどおちつきはらって。「――さればこそ、わが家においても、さきには金剛山の寄手にも加わり、一そう、二倉とあるかぎりな蓄備ちくびの稲も税物ぜいもつにささげ、また去年もぜに一万貫、この一月にも五千貫と、仰せつけのまま課税はずいぶんさし出しておる」
「それや何も、ご当家だけではない。しかも新田殿はこの三月いらい、病のためとて、戦陣からご帰国のままではないか。ほかの諸大将にくらべれば、それだけでも、楽をしておる。せめて税物ぜいもつの面でその不奉公をつぐなわねば、相すむまいが」
「とはいえ、わが新田領の稲も銭も、まったく余力はありませぬ。領民どもからも、しぼれるだけの物はしぼって、すべて軍費にささげつくしています」
「そうはいわさん。国府の調べでも、また近国の目でも、新田ノ庄ほど富有ふゆうな所はないとみないっておる」
「よそ目には、でしょう」
「いやいや、そうでない。この天下大乱の折に、悠々と、節句せっく遊びの豪奢ごうしゃなご酒宴ぶりなどは。……柳営ですら、ことしはお取止めになった」
「子供のための祭りぐらいがなんで悪い。とまれ、五日以内に、銭五万貫の調達などは思いもおよばぬ。政所へは悪しからず、おとりなし給わりたい」
「虫のいいことを。さような悪例をひらいては、よその領主への徴税にも事を欠く。よろしい、世良田のお館でできぬなら、直接、われらの手で当地の庄家しょうけ(庄屋)や富豪から、それだけの物を徴発して行こう。さもなくば、むなしく鎌倉へも立帰れぬ」
「ご存分に」
 と、義助は言って、それ以上は、さからいもしなかった。そしてすぐ座を立ちかけ、
「新兵衛。ご両使はまだ当分ここにおいでらしい。せめて、おもてなしでもしてさしあげろ」
 と、いいのこして館の方へもどって行った。
 もう宵をすぎている。
 節句の客の、小さい者たちはみな帰ってしまっていたが、その近親者やら家臣のおもなるものは、なお広間で酒をのんでいた。義貞も上座のしとねに、やや居ずまいをくずして、義助がみえるのを待ちかねていたふうだった。そして義助が来てからは、いちばい声もひそまって、そこはそのまま密議の車座となっていた。

「よし」
 義貞は言った。
 密議のすえにである。
 さんざんな議論も出たが、彼のくちからさいごのだんがそうくだると、とたんにみな黙って、どの顔にも悲壮な色がみなぎった。
「ぜひもない」
 と、義貞はかさねていう。
「まこと、当家の旗上げは、もすこし先にとしていたが、千寿王の逃走、徴税の催促、かたがた四囲の情勢も、いまは一刻の猶予もしてはいられぬようだ」
「いられませぬ」
 と、義助も和して。
「いたずらに、大事をとって、上方の戦況を、にらみ合せていたのでは、ついに機をいっすばかりか、逆に鎌倉方の先手を食うかもしれませぬ」
「が、そうなると邪魔なのは、陀羅尼院だらにいんへ入れおいたあの徴税使の二人だが」
「いや、義助におまかせおきください。むしろここは彼らのなすがままにさせておいたほうが、鎌倉の目へは“まぎれ”となって、よい都合かと存ぜられます」
「それもそうだ……」
 と、義貞はすぐほかの顔へ。
「事俄かなので、岩松経家はまだ、今日のことは知っていない。かねての手はず通り、都にある足利から再度の飛脚がくるのを待った上でと心得ているだろう。……たれか岩松の許へ、かくかくと、報じておけ」
 そのほか、新田ノ庄の郷々さとざとに散在していて、ここには居合さなかった大胡おおご額田ぬかだ、一ノ井、細谷、綿打、横瀬、堤などの一族へもこの場からすぐおなじ旨をおびた使いが立って行った。
 が、そうした近郷のほか、新田の同族は、なお遠国にもたくさんいる。
 たとえば、足利家における三河の三河党のように、新田氏の分家や累葉るいようは、越後の魚沼郡地方に多くかたまっていたのである。――で、それら越後党の味方へは、どういう方法で知らせるのがもっとも速いか。――この問題がまだのこっていた。
「それも、岩松経家に託しましょう。すべて岩松家の者は、そうしたことには、ずぬけて、熟練しておりますれば」
 義助のすすめに、
「よかろう。では、そちが経家と共に、計ろうてくれ」
 と、義貞はまかせた。
 やがて脇屋義助が、その経家と会ったのは、まだ夜のうちであった。経家が住む岩松村は、世良田の館から、馬なら一トむちの距離ではあり、さきに使いもうけていたので、経家はもう急な旗上げとなったことは聞いていた。
「いや、何とか思案もございましょうわい」
 経家は、案外なほど、義助が持ってきた至難な任務を、むぞうさにひきうけて、
「では、ついそこまで、ご同道をねがったうえで」
 と、彼をつれて、屋敷裏からすぐ近くの安養寺の地内へ案内して行った。
 岩松の祖、新田義重をまつってある菩提寺ぼだいじである。また明王院と号する一宇いちうの不動堂もある。
 その不動堂の扉をたたいて、
吉致よしむね、吉致」
 と、彼はよんだ。
 すると内から「おうっ」と、いらえて顔を見せた男がある。これが、かの岩松吉致であったのだ。
 あらためていうまでもないが、この吉致は、経家の弟で、かつては、島商人しまあきんどとなって隠岐の配所へ近づいたり、また唐梅紋からうめもんの海賊旗のもとに、後醍醐のご脱出をたすけたりしてきた、あの岩松吉致なのである。
「や、この深夜に」
 と、驚き顔に。
「何事のお越しで?」
 やがて、明王院の一室に小さい灯がともされた。
 その座で彼は、兄の経家と脇屋義助から、予定の旗上げの日が、俄にくりあげられたと聞かされたが、それにはかくべつ意外な容子でもなかった。
「して、その日はいつとおきまりになりましたので」
「極秘だが」
 と、義助が声をのんだ。
「――八日の朝、生品明神いくしなみょうじんの前に勢揃いの事――と触れ出された」
「八日」
「む」
「すると、あと二日しかありませんな」
「それよ」
 と、経家は事の要点へ入った。
「何せい火急だ。これを越後の同族たちへ、ちょうじ合わしているいとまもない。……そこで、脇屋殿がそちをたのんでお見えなされたようなわけだが」
「わかりました。すぐ越後へ発足いたしましょう」
「そちが」
「いや一人では足りません。同坊ども五、六名を連れ、風のごとく急いで、越後じゅうの新田一味へ触れを廻しまする」
「が、幕府の国府や途中の武辺に怪しまれては一大事だが」
「ご懸念には及びませぬ」
 自信をもって吉致は言った。
 こういうことには吉致は馴れている。
 いつか九州一円にわたって、船上山の御旗上げを数日のまに触れ廻ったのも、彼の指揮だった。
 また、都へ出ては、阿波の勝浦ノ庄を根じろに、大塔ノ宮との連絡にあたったり、さらに鎌倉へも忍んで、幾たびか、足利高氏を訪い、高氏と義貞とのあいだに、東西同時旗上げの密約を運ぶなど、それらの下拵したごしらえをしてきたのは、みなこの吉致の暗躍にあったのだ。
 そうした、むずかしい裏面工作にくらべれば、こんどのただ時速だけを尊ぶ“越後触えちごぶれ”の一ト役などは、さして彼には至難でもなかったにちがいなく、
「しばらくお待ちを」
 と、やがて彼は、身支度のため、ふたりをおいて、どこかへかくれた。
 明王院の内には、つねに数十人の不動行者ふどうぎょうじゃ(山伏の一類)が住んでいた。すべて吉致の家来であった。そして事ある日には、この白衣びゃくえじょうの行者が、どこへでも秘命をおびて飛んで行くのである。吉致はいま、その中から最も足の早い者ばかり六人をえらび出し、自身も不動行者に装って、
「では」
 と、ふたたび元の座に、その姿をそろえて、義助、経家のふたりへ告げた。
「同行七名の不動山伏。すぐお触れ状をたずさえて、越後路へむかいまする。とは申せ、いかに急いでも、八日には間にあいませぬが、ご出馬の途中にては、きっと、越後軍のこらずお旗の下にせ加わりましょうゆえ、どうぞ、ごしんぱいなく、予定のおすすめを」
 そのころの、不動行者なるものは、どんな服装をしていたろうか。
 ふつうの山伏ともちがって、白木綿の手甲脚絆てっこうきゃはんに、白木のつえをもち、不動明王の像をまつったおいを背に諸国をあるく者が江戸時代にはあった。またおなじ行装で、大きな天狗の仮面めんを背負っているのを、天狗山伏とも呼んだものである。
 とまれ古くから山伏類似のそんな不動行者もあって諸国の山川さんせん跋渉ばっしょうしていたにはちがいあるまい。またそういう遍歴者のすがたこそが、岩松吉致のような、多忙なる風雲の策士には常々恰好な“かくみの”として、利用されていたことかとも想像される。
 いずれにしろ、その吉致をかしらに、不動行者にふんした七名の武士が、新田ノ庄を六日の未明に立って、利根の上流を赤城山麓あかぎさんろくから北方へ飛行するがごとく急いで行ったのは事実としてよい。――とすれば、次の七日には、上野こうずけと越後との国境、三国みくに山脈をも、はや踏みかけていたのではなかったか。
 その三国峠を越え、浅貝、三俣みつまたから神立村かんだちむらへ下りると、もう越後新田党の領土になる。
 また、べつな清水越えをとっても、行く先々の村には、新田の支族が住んでいた。
 さらに信濃川流域の小千谷おぢや、十日町の地方まで、魚沼郡の三郡ほとんどは、新田の党が、古くから耕してきた土だった。
 それらの門戸の党首を、誰々といえば、
 大井田経隆おおいだつねたか
 羽川刑部
 風間信濃之助
 烏山からすやま太郎時成ときなり
 中条ノ入道、その子佐渡
 五十嵐文四、文五
 そのほか田中家、一ノ井家、籠沢家こもりざわけ、細谷家、坂口家、山上家など、幾十家やら分らないほどだった。
 ところが、義貞旗上げの数日前に、この地方には一つの不思議があったという伝説がある。
 どこから来たとも知れぬ天狗らしき者が、一日のまに国じゅうを駈けまわって、
「かねてのさだめどおり、勅諚ちょくじょうを奉じて、いよいよ新田殿のお旗上げなるぞ」
 と、触れまわり、また、
「時は八日。おくれぬように、各※(二の字点、1-2-22)家の子郎党をひきつれて参陣せよ」
 と、出兵の急をうながしていたというのである。
 そこで、越後、信濃の族人ばらは、義貞の挙兵におくれることなく参加しえたが、あとで思うに、あのときの軍触いくさぶれは、何とも人間わざではない、あれは新田ノ庄の不動堂の尊像天狗が抜け出して、沙汰ぶれしたものに相違ない。「あの天狗山伏は、不動の化身であったのであろ」「触れ不動だ!」「触れ不動の奇瑞きずいであった」と、みな信じて疑わなかったと「参考太平記」までが伝えている。
 が、それもまんざら根のない荒唐無稽こうとうむけいとはいいきれない。岩松吉致たち七人が、すべて白衣びゃくえの行者姿で、三国越え、清水峠、渋峠などから手分けして、一時に諸方の在所ざいしょ在所へ触れたとすれば、おそらく同一人の所業にもみえたであろうし、日かずといっても須臾しゅゆのまに、それは国じゅうへ知れ渡ったにちがいないからだ。

 節句すぎの六日から七日。新田ノ庄の領民は、とつぜん大恐惶におそわれていた。
 富有な商戸や農倉を目ざし、強制的な戦時税の税物の供出が命ぜられて来たのである。
 それも莫大な割当を、
「即日に」
 という厳しさだった。
 のみならず、しがない小農家の戸ごとへまで、ぜに何貫、あるいは、穀物、布、皮革、うるしなどの物税を課してきて、
「それぞれの庄家しょうけまで、ただちに持参せよ。おこたる者は、重科に処す」
 との催促だ。
 領民はふるえあがった。従来の貢物こうもつは、それぞれの庄家をへて、世良田せらたの“みつぎ倉”へ運びこまれ、やがて牛馬車の列になって鎌倉ノ府へ輸送されていたのであったが、こんどはちがう。鎌倉幕府直々の徴命であるという。
 なんで世良田のお館をこえて、直接こんな課税がきたのか。上のいきさつは、もとより彼らに分ろうはずもない。ただ鎌倉の御用ときかされ、また、陀羅尼院だらにいんに滞在中の徴税使や、国府役人の恫喝どうかつに会って、
「このうえ何を出す物があるだよ」
 と、隠し納屋の穴ぐらから自身の血肉を裂くような蓄えの物を取出していた。いや強奪にあったといったほうが彼らの気もちに近いだろう。なにしろ、世良田を中心に、いたるところこの騒ぎと悲鳴でない村はない。
「なに、なかには公命に応じぬやからもあると申すか」
 徴税使の出雲介と彦四郎は、部下五十人に加え、近くの国府から国府役人の手までかり出して、世良田の辻に、仮の税物収納所をおいていた。そして、不穏な声をきくとすぐ兵をやって、
「さような奴は、家族どもをひっくくれ」
 と命じ、また、
「家に土倉つちぐらを持つ者なら、その土倉や納屋なやふうをして、稼業も差し止めい」
 とばかり、終日諸所方々へむかって、馬ぼこりをけむらせ、有無うむをいわせず、権力の遂行をほこっていた。
 こんな恐怖の日も暮れた七日の夜である。――七日の半月はんげつが空にあるほか、世良田をはじめ、新田ノ庄の闇は声もなかった。その眠りのなかで領民たちは、鎌倉の吏の苛烈を怨むより以上に、世良田ノたちをうらんでいた。どうして、ご領主たるものが、よそ事みたいにこれを黙ってているのであろうかと。
 すると、夜半すぎだった。
「な、なんじゃろ」
「あの人声は?」
 世良田の民は、大地震かとでも慌てたように、寝まき、はだしのままで、みな外へとび出していた。
 いくさだ、いや火事だ、と彼らの識別もまださだかでないうちだった。陀羅尼院だらにいんの森はまっ赤に映え、火の粉が降り、黒けむりの下から逃げ出してくる徴税使の兵が、すぐ目のまえの辻や畑で、次から次と、新田家の武士の手で殺されていた。
「わあっ、お館の衆だ、お館がおいかり召された!」
 領民は快を叫んだ。それを自分らのためになされた報復かのように見たものらしい。
 逃げる者は逃げ、逃げおくれた兵はあちこちで殺され、陀羅尼院の火もまた、まもなく黒ずんでいた。
「ほぼ終ったな」
 床几しょうぎの、義貞は微笑をみせ、
「つないである奴をこれへ曳いて来い」
 と、かたわらの武者へむかっていいつけた。
 世良田ノ館は、すぐ森隣りであった。余燼よじんはもうもうと、ここの庭をもけむらせている。
 その、けむりの中でさえ、彼のすがたは、キラめかしかった。家重代いえじゅうだいのよろいを着、美刀を横たえ、かぶとは、床几わきの小姓武者に持たせている。
 彼ばかりでない。家中の士全部もみな身をよろって、足には新しい武者草鞋むしゃわらんじをしめ、家の内もそれで歩いていたのだった。その様子でもわかるように、はやここには婦女子ものこさず、館一切を捨てて立つ準備がなされていたのらしい。
「おん前に」
 やがて、二人の縄付きが彼のまえに曳きすえられた。
 鎌倉下向の、黒沼彦四郎と明石出雲介のふたりだったが、出雲介だけは、何といっても、下にかず、
「むほん人に、土下座するいわれはない」
 と、義貞を面罵した。
 九代を通じての北条氏の恩顧をわすれたか、日和見ひよりみ武士、忘恩のと、つばしてののしる。
 日和見といわれた一語は、ひどく義貞のかんを突いたらしい。でなくてさえ、義貞にはよくカッと色をなす性情がある。つと、義貞の顔が横を向く。その面の冴えなど、美しい太刀のにえのようだった。
「新兵衛っ、ものいわすな、血祭りにしてしまえ!」
「はっ」
 縄尻にひかえていた里見新兵衛のからだがとたんに躍ッた。おそろしく迅かったのでその太刀は出雲介の首の根を狙ッて右肩からあばらへはすに通ったか否かも目にとまらないほどだった。だが、ぎゃっと声がした。下に坐っていた黒沼彦四郎の声だったのである。彦四郎のあたまの上へ、出雲介が仆れてきたので、同時に二人が斬られたような鮮血をかぶっていたのであった。
「船田の入道」
 義貞は、うしろへ言った。一族の船田ノ入道善昌ぜんしょうへあごをしゃくって。
「たしか、黒沼とかは、そちが妻の縁類にあたる者だったな」
「さようにござりまする」
「ならば、黒沼の身柄は、そちの手に預けてくれる。どうにでもいたせ」
「これは、お情けな」
「晴れの門立かどだちだ。縁類を悲しめてここを出たくない。出雲介の首だけを辻にけて、領民どもへ見せてやれ」
「こころえました」
大館おおだて(宗氏)、大館」
「はっ」
奥方おくや女子供は」
「仰せつけのとおり、せがれ氏明うじあき、氏兼がお供をして、遠くの山へおかくし申しあげました」
「一族各※(二の字点、1-2-22)の女たちも」
「は。みなひとつに」
「よし、それで足手まといもまず安心ぞ。義助(脇屋)、貝を吹け。はやほかの一族ばらは、生品明神いくしなみょうじんで待ちかねていよう。いざ、わしたちもここを出よう」

 生品明神は、東山道に沿う道ばたの小社こやしろで、世良田ノ館からほぼ二里、方角は、北にあたる。
 だが、鎌倉は真南だ。
 一路、南進すべきはずの新田軍が、そのかど出になぜ北方へ逆行したのか。旗上げ場所を、生品明神の社頭としたのか。
 理由はいくつもあったであろうが、鎌倉がたの代官がいる群馬郷の国府(現・前橋市と高崎市の中間、元総社と呼ぶ地)をうしろに、それを措いて南進するのは無謀であり、危険と考えられたことも一つにちがいない。
 それとまた。
 義貞の別館(しもやしき)のある反町そりまちにも近く、脇屋義助の脇屋ノ里や、そのほか江田、綿打わたうち、田中、額田などの同族たちが一瞬にあつまるにも生品明神がもっとも地の利であったなどの点も考えられる。
 ともあれ、それは五月八日もまだまっ暗なとらノ上刻(午前三時)ごろ。
 黒い魚紋ぎょもんのように、社頭に群れて、はやくからはやる駒を泳がせていた武者ばらの影は、やがて、
「しいーっ」
 と、制し声を交わしながらわらわらと駒をおりた。世良田から義貞、義助たちの一勢が着いたのである。その声なき影の群れを割って、義貞の影は黙々と社殿の前へすすんで行く。そしてすぐ、かねて賜わっていた綸旨りんじと、願文がんもんを読みあげた。
 とくに綸旨は、彼の挙兵の動機を正当づけ、また将士をして、それに死なしめる思いを与えるのでなければならない。
頃年キヤウネン 北条高時入道
朝憲テウケンヲ軽ンジ
逆威ヲホシイママニ振ヒ
積悪セキアク スデ天誅テンチユウアタヒ
ココニ至リ 累年ルヰネン宸襟シンキンヤスンゼンガ為
マサニ一挙ノ義兵ヲ起サントス
叡感エイカン 尤モ深シ
抽賞チウシヤウ何ゾ浅カラン
ヨロシク 早クニ
関東征伐ノ策ヲメグラ
静謐セイヒツノ功ヲイタセ
 これを読みあげているうちに、義貞はいまや自分は神に選ばれた武の権化ごんげみたいな心境にみちびかれていた。決してふと湧いてきた驕慢きょうまんではなかった。――八幡太郎いらいの源家の血は自分にある。足利家にもおとらない嫡系ちゃっけいの家柄でもある。――こんな世に自分が起つのは当然であるとする日ごろからの、自己の再確認だった。
「船田の入道」
「はっ」
簿を点したか」
点呼てんこいたしまするか」
「む。呼んでみい」
 執事の船田善昌ぜんしょうは、社頭に立ち出て、軍の名簿を星あかりに。
 脇屋ノ二郎義助以下、大館宗氏、堀口貞満、同行義、岩松経家、里見義胤さとみよしたね、江田行義、篠塚伊賀守、瓜生保うりゅうたもつ綿打わたうち入道にゅうどう義昭ぎしょう、世良田兵庫助、田中氏政、山名忠家、額田為綱ぬかだためつな、等、等、等……
 呼ぶ。答える。
 呼ぶ。答える。
「船田、もうよい、すべてで何人?」
「およそ百五十騎にございまする」
「百五十騎か」
 少ないのは覚悟のまえであった。馬上になった義貞は、すぐ鞭を西北へして「行くぞ」と、麾下きかの将士へ目合図を配った。
「明けぬまにこそ」
 義貞は号令する。
「国府を蹴ちらせ。かど出の血まつりにだ!」
「おうっ」
 騎馬の者全部のムチの手が一せいに唸った。
 道はいい。東山道の街道である。一陣の疾風はやては駈けた。義貞は先頭だった。そしておそらくいまの伊勢崎から利根の上流を望んだころも、まだ夜は明けず赤城山も見えそめていなかったろう。
 いかに義貞が、時を惜しんでいたかがわかる。このさいの彼は、桶狭間おけはざまの織田信長に似ている。いや信長は後代の人だから、故智こちまなんだものではない。義貞の天分だった。
 たとえ成算はあったにしろ、一族悉皆しっかいでもわずか百五十騎という小勢で起ったその勇気は驚目にあたいする。――それも四隣すべて北条勢力けんとみられていた関東平野のまん中から起ったのだ。
 ひとつには、あの徴税使ふたりが、旗上げの時期を早めさす口火にもなっていたわけだ。――で当然、陀羅尼院だらにいんの炎の下から逃げのびた両使の部下は、ことの大変をすぐ国府へ急報してもいただろう。
 と、すれば。この朝、いや朝ともならぬうち、国府がわの守護代官も、ただちに軍備をととのえ、新田ノ庄へ出勢していたに相違ない。古典「太平記」にはこのへんのことはなんら見えず、ただ「梅松論」の一節に、
然る間、当国ノ守護、長崎孫四郎左衛門、すぐさませ向つて、合戦におよぶといへども……
 と、一戦の下に敗れて逃げたとあるばかりである。思うに現今の前橋、高崎附近で遭遇戦となり、新田軍は、これをかど出の一撃に撃破して、
「いざ、南へ」
 と、即時にその進路を、鎌倉の方向へ、向けかえていたものとみてまちがいない。
「さいさきはいいぞ」
「うしろで、赤城の山も見送っている」
「おお赤城の山とも」
「しばらくは……」
 軍は、どこかで、朝兵糧あさがてをとったとしても、ひる頃には、本庄から武蔵ノ国児玉郡へ入っていたはず。そして比企郡ひきぐんの将軍沢、須賀谷を経、やがて高麗郡こまぐんの一端をさらに南へ、女影おなかげヶ原、広瀬、入間川という順に、いよいよ、武蔵野の青と五月の雲をのぞんでいた。
 この間のこととされる。
 はるか北の三国みくにを越え、清水を越え、渋峠を越えて、例の“触れ不動”で急を知った越後新田の諸党も、手勢をつれて、それぞれに追いついて来た。
 大井田経隆をはじめ、羽川、烏山からすやまなどの諸将である。また、その使いを首尾よくした岩松吉致たちである。義貞もそれはよほどうれしかったにちがいない。また士気に一ばいの拍車をかけることも忘れなかった。
 鞍つぼから身をのばして、彼は全軍の将士へいった。
「みな聞け。不思議のそうろうぞ。北越の一族がかくも早く来たり会すなどは、まったく八幡はちまんのご加護によろう。新田ノ庄を出ていらい、われには事ごと、吉瑞きちずいがある。行くところで味方は勝とう。いくさは勝つ。勝つにちがいないぞ」

 義貞の語尾について、全軍は、わあっ……と三たびの諸声もろごえをあわせた。
 中黒なかぐろの軍旗の下は、こうして越後同族を合流し、その日から一やく、四千騎ぢかい奔流となっていた。
 もっとも、それが南下してきた道すじの児玉郡や比企ひき地方は、古来“武蔵七党”の山野であり、熊谷、秩父ちちぶなどの無数の古源氏ふるげんじ蟠踞ばんきょしているところである。――だから越後兵以外、奥武蔵の郷武者さとむしゃばらせ参じて、
「お味方に」
 と、多少は傘下さんかへ来ていたろうと思われる。
 だが、義貞の腹づもりにしてみると、
「それにしては?」
 と、参加者の数になお不足だったに相違ない。そして、武蔵野一帯から、多摩、秩父の山波にもひそまっている不気味な古源氏の武族が、
「いったい、敵にまわるものか。中立の腹か?」
 と、その出方に、たえまなき警戒を持ちながら、進路を南へしていたのだった。
 そして、十一日の昼。
 女影おなかげはら――いまの川越市の西北方面――まで進んでくると、とつぜん、前哨隊の騎兵が、
「やっ、敵がみえる」
「追ッかけろ。敵の物見か」
 と、はや彼方の丘陵へむかって数十騎は突撃していた。
 黄色い花山吹の花粉のような埃りが夏草の上をながれた。行々子よしきりの啼き声がハタとやんだのをみると、その前方には高麗川のわかれが、道をさえぎっていたのだろう。弓の弦音つるおとだけがビンビンと澄んだ大気に鳴り出していた。
「待てっ。射るな」
 あとから近づいて来た義貞の声だった。
 義貞は、もしやと思っていたものを、見つけたのである。川向うの丘に立っている一人の男が、竹竿のさきに、童子の水干すいかんらしい紫いろの羅衣うすものをくくしつけて、しきりに振りぬいている様子なのだ。――武蔵野の紫草にちなんで、それを目じるしに――とはかねて義貞と義助だけが胸の奥においていた密契みっけいの一ツであった。その紫と知ったので、
「義助、行って止めろ。そしてすぐこれへ迎えて来い」
 と、そばの脇屋義助を川べりへ駈けさせた。川幅といっても狭い支流である。しぶきを見せて、はや騎兵の一部は、向うの岸へ駈け上がりかけている。
「やあいっ、はやまるなッ。見かけたのは敵ではないぞ。足利殿のおん曹司ぞうしだわ。ひかえろ、ひかえろ」
 義助のこの大声には、たれもが耳を疑った。しかし、彼らがやっとその弓をおさめたと知ると、こんどは先の男が、丘の上なる雑木林の蔭へむかって、その手にしていた竹竿の紫の水干を振っていた。
 するとはじめて、そこらの木の間から、百人ほどな兵や雑人ぞうにんたちが、ぞろぞろ姿をあらわした。また、一ト張りの粗末な童輿わらべごしも見え、一人の老武者は、すぐこっちへ向けて駈け降りてきた。
「お越しありしは、脇屋殿か」
「おお、義助です!」
「やれよかった。足利殿の留守居、紀ノ五左衛門でおざる。千寿王さまのお供して、からくもこれまでお連れ申しあげまいた」

 まもなく義助は、千寿王の輿に付きそい、供の紀ノ五左衛門ら百人ほどをみちびいて、引っ返してくる様子だ。
 遠くで、義貞はそれを見、ほほ笑ましげに、
「来たわ、稚子ちごが」
 と、つぶやいていた。
 全軍へは「休メ」の号令がかかり、兵は急に、そのへんの青芒あおすすきを大鎌でバラバラ刈った。
 草ばかりな武蔵野の空の下である。ぎられたすすきのあとは義貞のしとねと千寿王のすわる座敷になった。――やがて輿からおろされた千寿王はほんとにきれいな稚子ちごだった。かぞえ年五ツであった。でもしつけはある。五左衛門に介添かいぞえされて、義貞の前に、ちょこんと坐った。そしてお辞儀をした。義貞もていねいに礼儀を返した。
「よう、つつがなく、わせられたの」
 やさしいまなざしをして見せながら、何かと、義貞はいたわった。
「さだめし、ご苦労なされたろうが、もう何もご心配はいらぬ。……この新田は、父御ててごの足利どのとは、仲のよい友達じゃ。先祖もひとつの家同士よ。……されば和子もこの陣中では、父御になり代って、一方のおん大将であらねばなるまい。足利軍の大将は、千寿どの、あなたなのだ。……おわかりか」
「はい」
「む、よいお子だ。どこやら又太郎高氏のおもかげもある。……船田の入道」
「はっ」
「なんぞないかの。甘い物でも」
てまいりましょう」
「さしあげておけ」
 そのまに、義貞は、紀ノ五左衛門から、これまでの経過を親しく訊いていた。
 さきに、高氏と義貞との盟約のあいだには、
「鎌倉攻めの日には、一子千寿を御軍中に預ける」
「こころえた。しかと預かる」
 という一条項も、ふくまれていたのであった。
 他のどんな軍事上の提携よりも、高氏は、このクサビに他日のふくみを打ちこんでいた。――子を鎌倉の質子ちしとして去る親の立場から、その千寿王の生命を、義貞に保護させておくことにもなるし、また、
(鎌倉攻めは、新田だけの催しでなく、足利の一子と一軍も、参加していた)
 となす、発言権をも、ここで将来のため、確保しておこうという考えがある。
 義貞は、善意だった。この一約にかんするかぎり、彼はきわめて単純に、
「千寿王の参陣は、よろこばしい。新田、足利、両源氏の双璧そうへきが揃うことだ。名分も一ばい大きく聞え、足利有縁うえんの武士など、こぞッて寄って来るだろう。かたがた高氏の一男を、わが手もとにおくことは、何かにつけ、不利ではない」
 と、していたのだった。
 かりに碁将棋ごしょうぎでいうならば、ここらの遠謀がその人の“読み”そのものではあるまいか。もちろん義貞とて、全運命を賭けて踏みきった戦局である。それには人知れぬ読みの苦心も存していたにちがいない。――だがこの、幼い一本ひともとの武蔵野の草をわが畑へ入れたことが、どんな結果をまねくにいたるか、そこまでは彼も思いおよんでいなかった。

 ところで足利千寿王は、いったいどうして鎌倉脱走の冒険に、成功したのか。
 いま、紀ノ五左衛門が義貞に語るところによると、次のようなわけだった。
 さきに、足利高氏は、その上方出征の途中、箱根路の山中で、家士二十人を抜擢し、これをひそかに変装させて、元の道へ返している。
 質子ちしの千寿王を、他へ隠す計が、そのとき早や彼らへふくめられていたのである。
 密命をうけた彼ら二十人の家士は、笠売り、鏡研かがみとぎ、馬飼い、放下師ほうかしなどのさまざまに姿をやつして、鎌倉府内へ入りこんでいた。そして五月二日に事を決行したのだった。
 その五月二日は。
 上方では高氏が、丹波篠村しのむらで離反を宣言したあの七日前にあたっている。で、高氏は丹波入りの直前に、都から隠密たちへ、
「時を移さずれ」
 と、飛報していたものに相違ない。
 同様な飛命は、伊豆山へもとどいていたろう。伊豆山には、もうひとりの庶子の竹若がとなっている。
 かねがね、用意のことなので、千寿王の大蔵脱走はさして困難でもなかった。紀ノ五左衛門が馬の前つぼにお抱きして、みのをかぶせ、百姓親子のごとき恰好で、夜の白々明けごろ、雑人通行の群れに交じって山ノ内街道の木戸を越え出ていたのである。また身なりさまざまな二十人の家士も、前後して藤沢方面へ走り、後、奥武蔵の丹党たんとうの間に匿われてきたものだった。
 これを諸書には、下野しもつけに隠れたとあるが、足利の国元へはすぐ追捕ついぶが廻っていたろうことはいうまでもない。またすでに高氏はむほんしたのだ。千寿王がわざわざ危地へ行くはずはない。
 武蔵七党の一つ、丹党の一族安保あほ丹三郎たんざぶろう忠実ただざねが彼を守った。そして義貞の南下の日を待ったのである。
「そうか」
 義貞は、聞き終って。
「では、安保ノ丹三郎も供のうちか」
「は。これへ千寿王さまのお供をしてまいったのは、あらまし安保の人数でございまする」
「手柄な者だ。五左衛門、丹三郎を呼ぶがいい」
「お会い賜わりますか」
 五左衛門にさしまねかれて、丹三郎忠実も、そこへ出て、何かと義貞の問いに、答えていた。義貞はまた、その二人へむかって。
「もう一名の、足利殿の庶子しょし、竹若ぎみは、その後、いかがなされしか」
「されば、その君は、伊豆山から叔父の法師ほか十数名に守られて落ち行く途中、御運つたなく、駿河の浮島うきしまはらにて、幕府の武士にみなごろしにされたとかの噂にござりまする」
「みなごろしに。……では竹若どのもか」
「は、聞きおよぶところでは」
「それやむごい。残念だったの。したが、日ならずして千寿王どのが、その恨みはお晴らしあろう。そうだ、一方の大将千寿王どのにも、何ぞお旗じるしがなければならぬが」
 さしあたって、足利家の丸に二引両の旗はここになかった。借陣かりじんながら千寿王にも旗がなくては一軍の形をなさない。
「いかがでしょう?」
 丹三郎忠実の智恵だった。
「さいぜん、若ぎみの水干すいかんを拝借して、竹竿のさきに付け、新田殿のご軍勢へ、丘から合図いたしましたが、あれを当座のおしるしとなされましては」
「旗にか」
「さようで」
「紫だったな」
「紫の水干でございました」
「なるほど。紫なら乱軍のなかでも、千寿王どののいる所は遠目にもすぐ知れよう。稚子ちご大将にふさわしいお旗だ。よい思いつきと存ずるがの」
 と、義貞は言っただけで、ほかならぬことだけに、紀ノ五左衛門の意へまかせた。
 五左衛門も異存はない。さっそく水干をって、白布に縫い合せ、白と紫つなぎの一りゅうの旗を作らせた。そして、
「ご守護あれ」
 と、それの旗手を丹党の丹三郎忠実へ嘱した。
 とうの丹三郎だけでなく、丹党の武士は、譜代ふだいでもない自分らの手に旗が預けられたことを誉れに感じたようだった。まもなく、義貞以下、全軍の人馬は、また武蔵野の野路のじを分けて、南へ南へ、さぐるように、えんえんと流れて行った。
 千寿王の輿こしは、義貞、義助らの中軍からもう一段あとの馬群にくるまれて進んだ。――輿わきは、老臣紀ノ五左衛門、足利の士二十人が、厚くつつみ、丹三郎が持つ象徴の紫を、折々空に仰いでは行く。
 夕がせまった。
 入間川を前に夜をすごすか、越えて野営するかは、問題である。が、そのうち物見の情報に「数里の先にも敵を見ず」とあったので、全軍、夕川を押し渡る。
 するとその夜早や、足立あだち豊島としま葛飾かつしかなどの近郡から、
「鎌倉攻めのお催しとか。年来、今日を待っていたやからでおざる」
 と、言って来たり、
「足利殿の稚子大将も御在陣と聞き、合力にさんじ申した」
 などと味方に馳せ加わって来る武士が、ぞくぞく、絶えないほどだった。
 彼らはまた、新たな情報を、それぞれにもたらして来た。――義貞が綜合してみるに――敵は目に見えないが、もうまぢかにありと思わずにいられない。
 草枕、また、短か夜だ。
 まどろむまもなく、
「昨夜のうちに、鎌倉軍一万以上の大兵が、多摩川を押し渡り、府中、立川をこえて北上中との聞えです」
 と、夜明けの一報が、物見隊から響いてきた。
「まず腹拵はらごしらえだ」
 義貞は騒がなかった。
「早飯も戦のうち――」と。
 この日、十二日、初めて両軍は久米川(所沢附近の南方)をはさんで矢合せの序戦を切った。
 幕府が、へんを知ったのは、どんなに早くても、九日の夜であったろう。即時、桜田治部大輔さくらだじぶのたゆうを大将に、兵五万騎を派すと号された。しかしそんな余力は鎌倉にない。時間的にもまにあわない。一万余でもたいへんである。ただその速さには、いかに幕府が仰天して、これへ全力を傾けて来たかがわかる。
 序戦、半日の矢戦では、新田軍はほとんど所持の矢束やたばつかいつくし、ぜひなく小手指こてさしはらの北方へ、一時その陣を遠く退いた。
 なぜ、義貞は退却したのか。
 思うに、持ち矢は尽き、代え矢も不足してきたのであろう。矢束やたばの量は、半日の矢戦でも、たいへんな数を消耗する。
 これを積み歩く輸送力など容易でない。矢三百本を一トからげとした矢束一カは水を充たした桶ほどな重量である。四千騎で射れば、一瞬ごとに、四千本は消えてゆく。――それだけの物を、牛馬車の輸送隊で、えんえんと持ち歩くなどは、こんどのような急行軍のばあい、不可能だし、義貞の本意でもない。
 疾風迅雷、鎌倉の不意を突く。
 また。日ごろ鍛錬の鉄騎と白刃にものをいわせ、あくまで野戦の騎兵主力で突入する。
 その腹だったにちがいない。
「船田の入道」
「はっ」
「千寿王どのの手勢も無事に退いたろうな」
「されば、ずんと後陣でしたから、はやあれなる低い丘に、紫のお旗を見せておられまする」
「オ、あれがそうか。紀ノ五左衛門を、ここへと呼べ」
 その伝令をうけると、五左衛門はすぐ馬でとんで来た。
「五左衛門、すさまじい矢戦やいくさだったが、そちの主君の稚子大将は、輿こしの内で、お泣きになった容子でもないか」
「なかなか」
 と、五左衛門は笑ってみせた。
「お泣き遊ばすどころか、ややもすれば輿からお顔を出して飽きもし給わぬご容子です。われら輿側こしわきの随身どもが、かえってハラハラいたしおりまする」
「さすが、たのもしい」
 語気を、一転して。
「ところで、昨夜来、ずいぶん足利殿有縁うえんの武士が、近郡からお供にまいったと聞くが、いま御人数はどれほどぞ」
「いつか二千を超えております」
「二千?」
「はい、続々と。昨夜、今朝、そして今も今とて、下総しもうさ常陸ひたちの遠い所の武族までも」
「それはめでたい」
 かろい嫉妬の感じを、義貞はそう言いかえた。
 自分の麾下きかへ、自分を慕って来る武族もあるにはある。しかし五歳の稚子大将をたよって、足利殿と聞いただけで、はや遠国の武者までに、そんな参陣の決意を奮わせている事実は、何と見たらいいのだろうか。
「五左衛門。馳せ加わる味方はなお、刻々ふえるのみだろう。鎌倉入りは、新田、足利、くつわを並べて、果たすもの。いずれが主、いずれが従でもない」
「もとよりわれらも、おゆるしとあれば、先陣に出て、一死を惜しむものではございませぬ」
「いやいや、そちなどは幼君のおそばにあって、どんな乱軍の中でも離れてはならん。したが新参の兵は、ことごとく、義貞の麾下きかへ廻してよこせ。先陣、または二ノ陣に加えよう」
「望むところにござりまする。一切は、ご指揮の下に」
「船田の入道。――このひまに夜来の人名を簿に書きあげ、またその新参どもを、岩松、脇屋、そのほか諸将の隊に配属して、たそがれまでに、すべて陣容を新たにしておけ」
 原より出でて原に入る――といわれる武蔵野の陽は、大きく赤く、西にうすずきかけていた。
 退いたとみせ、じつは兵力の充足や陣組みを新たにしていた新田軍は、十二日朝のまだ暗いうちに、久米川の敵陣へ朝討ちをかけた。
「鎌倉勢は疲れている。また急遽、馳せ向ってきた驕慢な兵でもある。そのうえ序戦にもまず勝ったと思い、この暁は正体なく寝入っているに違いない」
 こうた義貞の“かん”はあたっていた。
 数においては、はるかに多い鎌倉軍であったが、
「すわ」
 と、なったときすでに、その野営地帯は、新田方の騎兵を主力とする斬込み隊によって、寸断され、駈けちらされ、
「退くなっ」
「あわてるな!」
 ぐらいの上将の叱咤しったでは、どうにも立直りえない大混乱におちてしまった。
 下部だけではない。
 桜田治部ノ大輔の中軍にしてさえ、やがて東村山から恋ヶ窪(現・国分寺駅附近)の方へ、われがちな退却をおこしていたし、左右両翼の一つは、横田から拝島へかけ、もう一軍は田無たなし方面へと、三分裂の潰走かいそうを止めどなくして、かず知れぬ捕虜や死傷者を途中に捨てた。
 もちろん、踏みとどまって、新田勢をなやました敵もまた少しではない。それらは、ひろい武蔵野の雑木林や丘や部落などの遮蔽物をめぐって、終日、頑強な抵抗をくり返した。しかしもう主力をぐれた孤軍である。ついには随所で殲滅され、やがて夜の曠野には、その雄たけびもなくなっていた。そしてただ、しいんと血ぐさい風がこの世の草木を吹きなでており、遠くの赤い火だけが勝者のどよめきを次の朝までほこっていた。
 こうして、きのう今日の戦場になった所は、すべて鎌倉街道の“古道こどう”であった。――で、その宿々しゅくしゅくにあたる入間川、所沢(古くは野老沢ところざわとも書く)、恋ヶ窪などには、例外なく、遊女のねぐらもあったし、また立川には、当時、おそろしい勢いでまんえんのきざしをみせ出していた性慾往生せいよくおうじょうを教義とする新興宗教の立川流とよぶ、真言秘密道場なども流行はやっていた。
 おそらく、義貞の姿は。
 そんな庶民の目からは、こつねんと、世に現われた将軍のように見えたであろう。坊主、遊女、土地ところの名代などが、さっそくその陣営には、うるさいほど、献上物をたずさえて、びを呈しに寄ってきた。
 さらにはまた、この夜も甲斐、信濃、そのほか国々から来たり投じる武族がたえない。
「まさに、諸方のは、自分が出るのを待っていたのだ」
 義貞自身も、はや他日の将軍のえを身に擬して半ば鎌倉を呑んでいた。一日ごとに地位の一階段をのぼってゆく自分に思えた。また国々の新参武士らは、すでに彼を昨日の「新田殿」と見ず、もう新たな司権者として、ただの礼を超えたうやうやしさで、あがめたてまつり出すのであった。
 わるくない。義貞でなくても、自然、こういう形には乗せられてゆく。わけて義貞はえを好む。見得を大事に思う。で、大将の気を映して、軍は破竹はちくの勢いをしめし、次の日もさらに南下をつづけていた。
 多摩川が見えだしていた。
 義貞は、多摩野の中ほどで、やや駒足を落しながら。
「義助義助。府中へ物見を入れてみたか」
「は。宿場しゅくばには一人の敵も見えぬそうです」
「河原の方は」
「かなりいたはずの敵勢も、お旗の近づくを知るやいな、みな鳥影のごとく川向うへ逃げ失せましたそうな」
おびえ立ったの」
「北条も平家。ゆらい平家にとって、川は鬼門きもんなのでございましょう。富士川の水鳥以来」
「いかさま。あははは」
 前後の将も、みな笑った。
 府中の六所神社ろくしょじんじゃで義貞は願文がんもんをあげた。また千寿王へは、全軍が多摩川を渡りきるまでここにいるようにといって、その紫の旗を玉垣の外に立てさせた。何かと悠々たる義貞の指令ぶりだった。すでにきのうの一戦で敵は完膚かんぷなきまで叩いてある。川向うに拠った残軍が、その陣容をたとえどう立て直していようとも、ほぼその抵抗ぶりなど知れたものとしていたのであったらしい。
 ところが。
 やがて江田行義、篠塚伊賀守、綿打わたうち入道にゅうどう義昭ぎしょうらの三隊が、川へ先陣を切ってゆくと、がぜん、対岸から猛烈な弓鳴ゆなりがおこった。およそ相手が渡渉としょうして来そうな浅瀬は敵もよく見ていたのである。川のなかばを越えるやいな、白い死線のしぶきが描かれ、みるまに、騎馬歩兵、次々に泡沫うたかたとなって消えうせる。
 上流にも備えがあった。
 また下流でもおなじ犠牲がかず知れず出ていた。
 ようやく、義貞も、
「これは」
 と、この渡河戦にやや用意を欠いていたことに悔いの汗をにじませていた。しかしもう消極な作戦には返りえない。彼の命令で、水馬すいばに自信のある者は、敵影のない深瀬のふちを通って馬を泳がせ泳がせ渡っている。――また一部の兵は、矢をくぐって、向う岸へかけあがり、阿修羅あしゅらの吠えを放ッていた。
「とどいたぞ。岸を踏んだぞ。脇屋どのの一手、瓜生保うりゅうたもつ
「田中氏政ッ」
「越後党の烏山時成」
 声々に、敵のなかへ斬り込んでゆく。たちまち影も見えなくなる。いつか敵の陣はおそろしい数を加えていたのだった。
 そのはずなのだ。
 きのうの残軍だけがここに備えていたのではない。――二日おくれて鎌倉を出た幕軍の第二軍三軍がすでにがっしていたものだった。その兵力も先の比でなく二万五、六千はかぞえられる。また総大将には、執権高時の実弟北条泰家やすいえをあげ、その領袖りょうしゅうにも、塩田陸奥守しおだむつのかみ新開左衛門しんかいさえもんノ入道、安東高貞あんどうたかさだじょうノ越後守などの幾十将をえらび出し、およそいまある鎌倉の府の人材と現兵力とを傾けつくして来たともいえる大軍であったのだ。
「退けッ」
 義貞は俄に叫んだ。
「船田の入道。退き貝吹かせろ。味方にとって地勢もまずい」
 しかし、退くには多くの犠牲が出よう。義貞はそれも覚悟か、一たん渡りかけた多摩川から全軍をひきあげさせた。そして分倍河原ぶばいがわら(現・府中競馬場の西)の小高い端に旗をおいて、なお、下流上流の将士までも呼び返した。
 かたちは逆転した。
 いちど乱離と崩れた陣は、容易にこれを組み直せない。かなり沈着な部将にしてさえ、呶罵どば、地だんだ、ただ、てんやわんやのおめきの中に吹きくるまれる。
 はやそのうちに。
 鎌倉軍二万余騎の新手は川を地つづきにして押渡って来た。――見つつどうしようもない新田勢であった。その騎兵主義もはや威力はなく、弓隊を持たないので、みすみす敵をして、難なく分倍河原ぶばいがわらの陣地も彼の蹂躪じゅうりんにまかせてしまった。
義貞、散々さんざんに打負けて
すでにここにて
討たれ給ふべかりしを
堀金をさして、引退ひきしりぞく。
 一方、府中の六所神社にいた足利千寿王とその随身たちも、合戦の悪化に驚き、幼君の輿こしいて、共に逃げ退いたのはいうまでもなかったろう。――ともかく、新田軍は、ここでその三分の一兵力を失ったといわれている。
 もうこのさい、鎌倉勢が猶予をおかず、さらに新田勢へ追撃に追撃を加えていたら、義貞も討たれ、千寿王もまた、捕われていたかもしれない。――だが、なぜか追わなかった。多摩川北岸にとどまって、明日を待ってしまったのである。
 天佑とはこんなことか。
 その晩である。
 三浦三崎の族党、三浦兵六左衛門義勝が、おなじ陣にいた松田、河村、土肥、本間などの相模党さがみとうの武士を誘って、総勢で約千四、五百人、
「今からは」
 と、義貞の許へ投降してきた。
 そして投降の将は口々に、
「かねがね、宮方へ心をよせていたのですが、よい折もなく、心ならずも、今日まで幕府の下にいた者どもです。ご疑念を解くため明日の合戦には、われらが先陣して鎌倉入りのおみちびきを仕らん」
 と、いうのだった。
 いぶかしいのは、これだけではない。明け方にもまた、大量な投降者があった。
「何で敗者のわが陣へ?」
 と、夜来やらい、不審にしていた義貞にも、ようやく、その真相がわかってきた。
 六波羅滅亡!
 それの噂がここへも知れてきたのである。
 もちろん、幕府は極力それを秘して来たにちがいないが、近江番場における探題以下の自決だの、光厳、後伏見、花園上皇のとらわれなど、次々の悲報も風のごとく海道にひろまり、事の真相は、むしろ下部の兵や荷駄の者から、ぱっといわれ出して、俄な動揺となったのらしい。
 これでは当然だ。内にそんな動揺があっては、勝機をつかんだ鎌倉勢も、一頓挫を来たさないわけにゆくまい。――逆に、義貞の方とすれば、都の聞えは、まさにここでの起死回生となっていた。
「まだ聞かぬ者は聞け。六波羅は陥ち、箱根以西はみな宮方に降伏したというぞ。余すは鎌倉の府のみ。余命いくらもない鎌倉に手間暇かすな」
 義貞は、その朝、声を大にして全軍へ告げ、さらに分倍河原への逆襲をはかっていた。
 高時の弟、北条泰家は、右近ノ大夫入道恵性えしょうともいって、まだうら若いが、兄高時とひとしく法体ほったいの武人であった。が、今日はもちろん大鎧おおよろいに身を装い、総大将として、多摩野たまのに駒をたてていた。
 陣は、あけがた、分倍河原から多摩野へわたって、
「ござんなれ」
 と、新田の逆よせにそなえていたが、きのうは大捷をはくし、なお、敵に三倍する大軍を持ってもいるのだ。それが俄に、こんな守勢に転じなければならぬとは――と彼の若さは、心外でたまらなかった。
「いったい、鎌倉武士のほこりは今、どこへ失せてしまったのか」
 索莫さくばくたるひとみで、味方の陣をながめわたし、そばにいる長崎時光、城ノ越後守、安東高貞あんどうたかさだ安保あほ道勘どうかん、塩田陸奥守らの副将たちの顔へ、
「いいのか。こんな手当てで。大丈夫か」
 と、くりかえしていた。
鶴翼かくよくの陣形です」
 一将が、指さしつつ説明する。
「敵が、まともに来れば、両翼でおおいつつみます。右端へかかれば、しもの河原にかくしてある一軍が出て、敵のうしろを取る。また、左端へまいれば、彼方の森蔭にある遊軍が突いて出ますから」
「そんなことは分っておる。わしが念をおしているのは、このうえにもまた、裏切り者が続出せぬかという惧れだ」
「いや」
 と、塩田陸奥しおだむつがこんどはいう。
「昨夜らい、六波羅失陥の噂やら、上方の敗報しきりと聞いて、急に、お味方を捨て去った卑劣なやからは、もう出つくしておりまする。またそのような二タ股者が、ふみとどまっていたにせよ、何ら頼みにはなりませぬ。むしろ、脱落するものは脱落し去って、いまは堅くなったといえましょう」
「そうかな?」
「そうです。鎌倉武士もすたれかといまお嘆きでしたが、何の、臆病武士や二タ股者は、いつの世でもいること。――たとえば、これにおる安東高貞をみても、まだ御譜代ごふだいの中には人もいるとおぼし召されませぬか」
「いかにも」
 人々の眼は、高貞へそそがれた。高貞は、さしうつ向いた。
 ここに一将として加わっていた安東左衛門高貞は、敵の新田義貞のしゅうとである。義貞の妻は、この人のむすめであった。
「…………」
 泰家は、眸をそらした。気の毒さに何もいいえず、すぐ馬をめぐらした。そして親しく中軍の士気をはげましているうちに、野末のずえの一端が、黄いろい砂塵さじんにけむり出した。――するとその土ぼこりはたちまち全面にひろまってきた。もうもうと、何かが泰家に迫っている。しかし泰家にはその塵煙じんえんや草ぼこりのうちを駈けみだれるすさまじい騎影や歩兵が、敵か、自軍か、それすら見分けられなくなっていた。すぐそばの一将が、あけになって落馬し、彼の馬も、いななき狂った。
「塩田っ。どうしたのだ?」
「寝返り者です」
「それ見ろっ。して何者が」
「どの手勢とも分りませんが、新田の騎馬隊に陣をひらいて、わざと中軍へみちびき入れた不届者があります。ここは危ない。はや川向うへお立退きを」
「ばかなっ」
 泰家はきかなかった。
「なお、二心のやからもあろうことは、あらかじめ覚悟していた。退くやつは退け。泰家は死ぬまで戦うのだ」
「死に場所もございましょう。ご短気すぎる」
 老将の塩田陸奥は、耳もかさない。
 かえってあたりの近習たちへ。
恵性えしょう(泰家)どののお身に万一あらすな。お怪我なきよう、ともあれ先に川向うまでお連れ申せ。危険だ。わからぬ。逆睹ぎゃくとしがたい形になった。決戦はわれらの手でする」
「塩田。わしには、見物していよと申すのか」
「ぜひもございません。裏切り者につづく裏切り者の続出。これが、どこまで出たら止まるものか」
「その非武士めをらしめてやるのだわ。泰家、何の面目をさげて、このまま鎌倉へ逃げ帰れようか」
「それこそ、ご血気。塩田が思うに、御府内もまた、ただ事ではありますまい。高時公の御安否すら気がかりだ。それでも、あたらこんな場所で、死をお急ぎなされますや」
 極言だった。
 しかしこの老将には、頼みがたい人心の浪の逆巻きが、もうそんなにまで急迫したものに見えたのだろう。――よもやと、これほどとは予想もしていなかった塩田だけに、失望の度もつよかったにちがいない。
 事実、二次の分倍河原の合戦は、いわゆる“味方破れ”というもので、鎌倉勢は、自軍から出した昨日の味方と戦ってやぶれたようなものだった。そしてほぼ一昼夜にわたる激戦のはて、多摩野や多摩の川原には、さんなき死骸をそのあとに捨てみだし、逆に新田軍は、多くの投降者やまた新たな“馳せ参じ”を容れていたから、その兵力はいよいよ激増をみせていた。
「まず、大物見を」
 と、義貞は初手しょての苦戦にかんがみて、大部隊の偵察や、また三浦義勝などの投降部隊に先導させて、多摩の南岸へわたり、その日、関戸の宿に陣取った。
 そして、十六日は、うごかなかった。
 兵馬をやすめ、また帷幕いばくではひそかに、鎌倉入りの作戦、部署の秘など、っていたもの。
 またこのうちにも、武州の熊谷直方、直春。常陸の塙大和守はなわやまとのかみ、陸奥の人石川義光など、一族して投じてきた。上方では六波羅の滅亡、東国では新田軍の優勢と、いまや幕府の悲境は、諸州、かくれもなくなっていた。
 それと、武人の間では。
 足利どのの若御料わかごりょう
 という呼び声が、一種の人気のようによく人の口端くちはにのぼった。若御料とは、千寿王への敬称である。たんに可憐であるためか。それとも別な何かであるのか。とにかく、陣中の人気はこの稚子君ちごぎみにさらわれたかんがある。
 いよいよ十七日。――関戸陣を払って、鎌倉攻め開始の日には、彼ら、若御料を愛する武士たちは、幼君の輿こしを牛車の上に組み立て、紫の小旗をひるがえし、前後、ものものしい騎馬鉄槍で守りながら、中軍について前進した。――義貞はふといやな顔したが、また児戯に似たわざとも見直したように苦笑していた。

 みな黒髪を投げ伏せて泣いていた。柳営の大奥なのである。……むつら御方おんかた、おさいつぼね百合殿ゆりどのの小女房、常葉ときわの局など、なぐさめてもなく、とり乱している。
 藤も散り、なぎさの菖蒲やつつじの花も黒ずんできた五月の蒸し暑い昼だった。すると、庭の遠くで、
「女房がた。女房がた」
 と、男の顔が垣越しに、
「なんとなされましたぞ。ご執権しっけんのお焦立いらだちにふれぬうち、早ようお持ちなされ。いつものものを」
 と、内へ告げて立ち去った。
 われに返ったや黒髪は、あわててそれぞれの局へかくれた。そして顔のくずれを鏡に直し、やがてのこと、お妻の局がお薬湯の天目てんもくをささげ、また、ほかの局も、お手ふきやら、ぬる湯を入れた耳盥みみだらいなどを持って、廊から廊を、執権のいる表小御所おもてこごしょのほうへ渡って行った。
 これは、いつも、
「お目ざめ」
 と聞くとすぐ彼女らがする御起居の習慣となっている。
 とかく夜は眠れず、昼は時を問わず、疲れるとすぐ横になる高時だった。その錯倒さくとうもここ数日は極端になり、いまもむっくり起きたところであった。
 夢見でも悪かったのか。めて安居あぐらしていたが、不きげんだった。またひどく青白い。
 もっとも、具足のままだ。浮かないのはムリもない。小手指ヶ原、分倍河原と、新田勢の南進を刻々耳にしはじめてからは、さすが戦嫌いくさぎらいな彼も、かたい腹巻と、籠手こて脛当すねあては、寝るまもいでいなかった。
 彼のよろい具足は、お抱えの明珍みょうちんに図案させ、おどしから彫金のかな具一ツまで、粋をらしめたものである。それをいま彼は着ていた。しかし自分の好みといえ、それは工芸家の技術を見たいために作らせたもので、かかる日の実用に着るのは、彼の本意でない。――だから昼寝の汗を拭くだにも、この窮屈な物が、小癪こしゃくにさわるらしかった。
「新右衛門っ」
 近習の長崎新右衛門を見て。
「はやく汗拭あせぬぐいをてまいらんか。なにしておる」
「は。いま、ごさいそくを申しやりました」
「いまごろか」
 そのすきに、伊具いぐ越前えちぜん前司ぜんじ宗有むねありが、横から注意をうながした。
太守たいしゅ。……」
「伊具か。なんだ」
「戦場からのご急使が、さいぜんより、お目ざめをお待ちしておりますが」
「どこに」
 あらためて、寝ざめの目をさまよわすほど、周囲は武臣の姿で埋まっていた。いまやこの表小御所は陣営中の陣営だった。いわば死か生かの、鎌倉さいごの命脈を支配している心臓部なのである。
 見ると、二名の血まみれな武士が庭前にぬかずいていた。その背に、午後の陽が直射していた。ひとりの方は虫の息らしく力がない。身じろぎもしないので血に蠅の群れがたかっていた。高時は本能的に眼をそらして、ついと座から立ってしまった。
「たれか聞いておけ。つかのま、具足を解いて、肌の汗を拭いたい。崇顕そうけんでも駿河でも、その間に戦況を聞きおいてくれい」
 ちょうど廊に女房たちの列が見えたしおだったのである。
「ここへよこせ」
 高時は、石ノ庭のひさしへ坐った。血まみれ武者の虫の息を見て、寝起き顔の貧血を、よけい青白いものにしていた。
 耳盥みみだらいのぬる湯でしぼる白い布を見て。
「おさい、もいちど絞れ」
「お肌もお拭きあそばしますか」
「この汗だわ。ぞ、具足の紐を解け。そして襟もとから手を入れて、背を拭うてくれ」
 そのあいだに、常葉ときわの局は、唐団扇からうちわで横からりょうを送り、百合殿ノ小女房は、天目台てんもくだいにのせたお薬湯の※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)わんをすすめた。
 高時は一ト口ふくんで、石ノ庭へ吐きすてた。
「こんなもの、たれが持って来いといった」
 彼女らは、遠くすべって、おののきの指をそろえた。
「ご近習や典薬頭てんやくのかみから、お目ざめの都度つどには、きっと、さし上げるようにとのことで」
「ばかな。この高時のどこが病者か。病人は天下の奴輩やつばらだ。上は主上公卿の堂上から下種げすにいたるまで、天下惣気狂いとなっている現状には相違ない。しかるに、この高時ひとりをみな狂人視いたしおる。おまえたちまでがわしを変だと思うのか」
「め、めっそうもない。ただおからだをお案じ申しあげるばかりに」
「おや。泣いているな。……どうした。いま泣きらした顔でもないが。……みんな揃いも揃って、何を泣いていたのだ」
「おゆるしくださいませ」
「もどかしい。ほんとのことをいえ! ほんとのことを」
「うえ様……」と、常葉の局が、むせびあげて。「ほんとは、たったいま、六波羅の御合戦から近江番場のくわしいことが、さる御僧おんそう文知ふみじらせで、わかって来たのでございまする」
「そして」
「むつらの御方おんかたいとやら、おさいの局の父御ててご、百合の小女房の良人、またわたくしのただ一人の身寄りも」
「死んだのか」
「討死したり自害したり、有縁うえんの者、ひとりも生きたという名は見えませぬ」
「しかたがあるまい。人間がみんなどうかしてしまったのだ。冬のこずえのように、一ト葉も残らず、枯れつくし、死に尽くさねば、このごうまないかもしれないのだ。おそろしいことになった。ああ、にがい。口が苦い。酒をもってこい」
「ごしゅを」
「くすりとは、それのことだ。わしは負けたくない。こんな世に負けたくない。一日でも愉しまなくて何の生きてきたいがあろうや。生きぬいてみせる!」
「――太守たいしゅ
 それは、廊の外へきていた金沢ノ入道崇顕そうけんの声だった。が、目もくれずに。
「おさい、むつら。酒を早よう持ってこい」
「はい」
 彼女らが起つとふたたび、
「太守」
 と、崇顕は、沈痛ないろを眉いっぱいにたたえて、ゆるしも待たず、内へにじり入ってきた。
「またも凶報でございました。新田勢およそ二万騎とか。はや、両三日中にはここへ迫るかもしれませぬ」
「また、負けたのか」
 何か、遊戯の上の負け事みたいに高時はそう言ったが、やはり落胆は大きいのであろう。肩を落して、
「ふうむ……」
 と、うつろに鼻腔を鳴らした。
 ふと、崇顕は涙ぐんだ。
 一族中の長老である。十五代の執権代しっけんだい、十二代の連署れんしょなど、補佐ほさの重職を歴任してきた彼だった。
 だからこの金沢ノ老大夫には、ことし三十一歳となった人の恐れる相模入道高時も、まだ子供みたいな、言ってみるなら天真らんまん、幼いままなお人としか見えないのであった。
 お気のどくな。
 こんな世に、こんな家に、お生れなくば。
 と崇顕は、いつもそうした同情につい先立たれる。
 世評、ややもすれば、高時を暗君と見、また“うつつなき人”といったりして、一族御家人までが、腹のなかでは、軽んじているのだが、崇顕からみると、すべてそれは、高時自身の罪ではない。
 朝廷では、この人を、鎌倉の司権にすえておくことが、なんにつけても、都合がよかった。高時だと、諸事、言いなりになるからである。
 また幕府内でも、高時をはずせば、その執権の職には、一族みな虎視眈々こしたんたんで、たちまち、内紛のおそれがあり、そのもつれは、今日までたびたび、くりかえしてきたのであった。
 で。たとえ、かざり物でも暗君でも、この君を立てておくしかないとされて来たのである。
 要するに四囲のためだ。
 政略、勢力争い、すべて四囲の人間が、自分らの保身と、相手の擡頭をふせぐため“うつつなき人”高時は道具にされていたようなものでしかない。――しかもその人は、生れながらの病弱で、ちょうじてからも瘋癲ふうてんの持病があり、周囲はそれも知りぬいていた。そして暗君、風狂、奢侈しゃし、安逸、あらゆる悪政家の汚名はいま高時の名にかぶせられて来たが、高時にいわせれば、じぶんの知ったことではあるまい。
 だが決して、そうとはいわず、また考えるでもなく、我には当然な天職と思いこんで、その執権の座に、衆臣の畏伏や美言をそのまま信じている高時が、金沢ノ老大夫には一そうあわれでならなかったのだ。
「太守。……なにとぞ、おこころしずかに。……いかなる事態が迫りましょうと、この崇顕から長崎、伊具いぐ普恩寺ふおんじらのたくさんな御一族も、おそばにおりますことなれば」
「気をしっかり持てというのか。これ金沢のじい、わしのどこが取り乱している」
「いや、念のためのみでございまする。なにせい、新田勢は日ましに数を加え、はや武州多摩川をこえ、関戸の辺までも」
「待て待て。どうしてそんな俄に新田勢が近づいて来られるのだ。味方の左近大夫(泰家)や桜田などの諸大将は、いったい、どこで何しているのか」
「ぜひなき仕儀しぎとなって、総崩れを来たし、急遽、鎌倉さして、おひきあげと聞えまする」
「ぜひなき仕儀とは」
「されば……。ついきのうまでは御幕下ごばっかたりし大名から、国々の地方武士じかたぶしまで、手のひらかえすごとく、お味方を裏切って、敵に廻ったためと聞きおよびまする」
「では、新田が強いのでもなく、味方の負けは、裏切り者が出たせいだの」
「いやそうとばかりも」
「ほかに理由は?」
「六波羅の敗報などが一時に知れて、それがお味方の士気を一挙にくじいたやに存ぜられます」
「おなじことだわ」
 高時は、嘲笑ちょうしょうした。
 誰へでもない。嘲笑は、日頃もよくする人だった。彼の娯楽の一つなのである。
 そこへ、おさいノ局と小女房が、銚子をもって来た。酒は、なみなみと※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)ぎんわんがせ、三こんほど、息もつかずに傾けて、
「持ってゆけ」
 と、すぐ追いやった。
 ぼうと、瞼に生気の色がさしてくる。高時の中の、もひとつの高時が、やっと眠りをさましたふうだった。
いくさ! それもはや近ごろは耳新しいことでもない。……わけて世は裏切り流行ばやりだ。この鎌倉も落日とみて、裏切らぬやつは、近頃、ばかみたいなものだからの。はははは、そうじゃあるまいか、金沢の爺」
滅多めったな仰せ事を。かりそめにも、ご執権おんみずから。……彼方の侍どもにも聞えまする」
「聞えてもいい。わしは世間を眺めて思うのだ。裏切ったやつがまたいつか人を裏切り自分を裏切る日が来なければ倖せだと。……恐ろしさも、こうなると、いっそ、面白の世やと、謡拍子うたびょうしにして謡いとうなる」
「太守。ここは御陣中です。浮沈のさかいです。なにとぞ、ご酔言もちとおつつしみを」
「だまれ。いまほどな酒で酔いはいたさぬ。ほんの鬱気うつきさんじるため、薬湯代やくとうがわりに、折々、用いているまでだわ。この高時に酒進さけまいらせぬと、わが軍の士気は揚がらぬぞ、はははは」
 彼は立った。
 歩き方まで違っている。
 以前の、表小御所の陣座へもどって、どかと坐り直したのだった。そしてキラキラよくうごくその酔眼が、居ならぶ一族、御家人を睥睨へいげいして、
「ち」
 と、癇性な舌打ちをもらした。――いまの大敗報にひしがれてか、満庭まんてい、しゅんとしていたからだった。
 その陰気さが、彼には堪らなくいやらしい。じつは自分の本質にも、平常、孤独な陰気がこもっている。そこで、こういう情景には人いちばい陰々滅々な感を深くして、逆な放言をし出すのだった。
「みな聞け。いまも金沢ノ大夫に申したが、近ごろ武門は寝返り流行ばやりとか。遠慮はないぞ。鎌倉を出たい者はこのさい新田へ走るがいい。――さきには足利、結城ゆうき、いやあんなに、わしが可愛がっていた道誉すらもだ。見事な寝返りを見せおった。……いわんや、高時がさして目もかけなかったやからの寝返りはむりとも思わん」
「…………」
「だが言っておく。高時は一人となってもここで戦う。高時にはほかへ逃げて行く国もない。鎌倉はわが祖先の地だし、わしが当代の工匠たくみどもをあつめて地上の浄土をつくるべく工芸の粋で飾った都だ。人間の都とは、人間がたのしく暮らしあうための楽園だろ。その花園を兵馬で蹂躪じゅうりんするやつがあれば、高時とて坐視していられぬ。高時と鎌倉とは一つものだ。守って見せる。見せいでか」
 そのとき、中門の外でなにか言い争う武者声がしていた。
 高時はすぐ気づいて。
「赤橋の声もする。守時が来たのか?」
 すると、駈け入って来た一将が、こう訴えた。――かねてから謹慎中の赤橋殿が、無断、きんをやぶってこれへ出仕してまいられ、しかも家の子郎党を連れた御出陣のていである。「いかがしたもので?」と台下の命を仰ぐのだった。
「上げるな」
 高時は言って立った。
 誰もが、ご赫怒かくどと見て、はっとしたらしいが、高時は階を下りて、大庭に立っていた。そして、
床几しょうぎを二つそこへおけ」
 と、近習へ命じ、その一つに腰かけてから中門の将へ。
「赤橋をつれて来い」
「おともないいたしますので」
「なぜ問い返す」
「はっ」
「別れに来たに相違ないのだ。死んだら死んだ先までの憎しみなどは誰へもない。みなもさようには思わぬか」
 彼に添って、ぞろぞろ、庭上へ降りてきた金沢ノ大夫以下、同族の武将の群れをふりむいて、そう話しかけなどしている。
 ――と、もう彼方の内門に赤橋守時の顔が見えた。高時だけでなく、その姿はここにいる限りな人々の視線にさらされつつ、おそるおそる、その一歩も重そうに、こなたへ歩いてくるさまだった。
 足利高氏の妻の兄。
 いわば反逆人の片われ。
 と見る衆人の目のトゲが、わけて千寿王の失踪いらいは、彼の頬をも肩の肉をもけずりとっていたかのようなやつれにみえる。
「…………」
 無言のまま、守時は、高時の床几のまえに、ぬかずいた。
 高時は、日頃のような口吻で、床几をすすめた。
「赤橋。かけたらどうだ。まずそれへ」
「謹慎の身です。ありがたくは存じますが、いただきかねます」
「遠慮はいらん。わしがゆるすのだ。また、無断出仕の胸もほぼ分っておる。赤橋、出陣のゆるしを求めに参ったのであろ」
「ご明察の通りです。新田の大軍は、はやこれへ近づき、西の海道からも、大塔ノ宮の指令による海道の宮方武士が、新田に呼応こおうして、攻めくだッてまいるよし。なにとぞ、守時に一手の防ぎをお命じ給わりますように」
「望みか」
「さもなくては、この守時、死にきれませぬ。――守時とて北条一族の内、その妹聟いもとむこに、宗家そうけへ弓を引く反逆の子を出したことです。世間の疑いの目、そしりの声、それはまだ忍ぶとしても、この御存亡の日を、ただよそ目には見ていられません。宗家へのおわび、かつは武士として、身の面目の上からも」
「もっともだ。人はみな依然、赤橋を疑っている。兵馬を持たせて前線へ出すなど、とんでもないことだというだろう。……だが、高時はそう思わん。疑うくらいなら八ツ裂きにしてしまう。御辺ごへんに謹慎を命じおいたのは、坊主にでもなる心かと察したからだ。……が、そうではなく、やはり武士なれば武士で死にたいというならば、それもよからむ。一方の大将を御辺に託そう。戦ってくれ。高時も降伏などはせぬつもりだ」
 守時は、落涙した。なんども、高時の床几を拝して、
「かたじけのう存じまする」
 と、身を沈める。
 その手をとって、高時は抱くように、彼を床几へかけさせた。
「赤橋。いまからは、御辺も一方の大将としてたのむのだ。もう謹慎の身ではない」
不覚ふかくてい。面目もございませぬ。幾十日ぶりかで、守時の上にも、青空があったようなと、つい心をとりみだしまして」
「いや。御辺がこれへ来たことは、高時にもうれしいのだ。人間同士が信じられぬままでは何とも浅ましい。わけて高時は人一倍の淋しがり。わしの陣に、赤橋のごとき者が一人ふえたと思えば、心も少し賑やかになる」
「おことば、一生の賜物と、えを感じまする。御意ぎょいを胸に持ち、笑って討死も……」
「ときに……」と、高時はふと、語気をかえた。
登子とうこはどうしておるな?」
「はっ、その妹は」
 守時は、さしうつむいて。
「子の千寿王が、大蔵のお固めを破って脱走したのも知らず、良人高氏の反逆いらい、この守時の実家で、尼同様な仏間籠ぶつまごもりの日々を送っておりましたが、ついに今暁……」
「今暁、どうかしたのか」
「仏間にて、わが手でのどを突き、相果てておりました。……宗家そうけ御一統や、またこの兄へ、深くわびた遺書一通を、経机の上にのこしまして」
「やれ……。ふびんであったな。あんな明るい、よいむすめであったのに」
 高時の一語には、嘘でないいとしみがこもっていた。いまだに高時は、高氏と初めて会ったときの印象や、酒の上で、彼に投げられたことなども忘れていず、まして高氏が離反してからは、一ト通りでない憎しみも持っていたが、妻の登子へは、血につながる一族のせいもあろうが、いたって寛大であったのだった。
 しかし、周囲は決してそうばかりではない。
 ご寛大もがすぎる!
 となし、千寿王の失踪などは、母として登子も未然に知っていたにちがいなく、赤橋殿もまた、知りつつ見のがしていた同穴のむじなか? とさえ極言する輩もないではなかった。
 現にいま、この場で高時のことばを聞いていた一族御家人の将星の中には、
 ああ、暗君だ
 暗君はついにどこまで来ても暗君だった!
 と、なんら明察のびんもないその凡人なみな感じ方や赤橋守時の処置ぶりなど見て、ひそかな慨嘆がいたんを胸につつむらしい不平顔もかなり目立った。
 ――とはいえ、高時の性情はいま始まったことでもない。
 また彼ら自身も、いまさら、北条血族のきずなは切れないし、恥を敵に売って、あげくに、首斬られる恐れもあることは知っている。ここはただ阿修羅になって守りぬき、ひとまず外敵を追った日こそ、この暗君を、他のよき人に代える絶好な機会としているものだった。
 しかし、北条九代の府、鎌倉武士の名もここから出たのである。禅もここで栄え、学問も政治も、かつての日には生きていたのだ。一概に武士はすたれたともいえない。人は元来いろいろだ。この日に会して、生き方、死に方、武人もさまざまだったのは是非がない。

 十七日の夕。
 海道の一駅、藤沢の宿しゅくでは、小合戦があった。
 しかし物見隊同士の遭遇戦にすぎないもので、いつか、夜半の暗い雨となっていた。
 雨は風を加え、そのなかを、先鋒、本軍、後続部隊まで、新田勢はぞくぞく藤沢の宿へこみ入って来た。――足利若御料わかごりょうの紫の旗もまた、明けがた、遊行寺ゆぎょうじの門に濡れ垂れた。
「ここの寺は時宗じしゅうだの」
 義貞は、これへ着いても休息をとる容子はない。ただ雨も小やみと見、船田ノ入道が、寺内の広場に床几場を設けて。
「されば。一遍上人いっぺんしょうにんの起した藤沢道場とはここの由でございます」
「では、寺中には、たくさんな男女の阿弥衆あみしゅうがおりはせぬか」
「おるかもしれませぬ」
「まず、それを洗え。とかく念仏一向いっこうの仲間には、まま敵がたの曲者がまぎれこんでいるものだ。――義助にそう申せ」
 その脇屋義助は、兄の旨をうけると、まもなく二人の虚無僧ぼろんじを寺中かららっして来た。
 笠、尺八は持っているが、後世の普化僧ふけそうみたいなものではない。雑多な物乞い法師や旅芸人のなかに生じた一種の半俗僧といってよい。
「義助、怪しい奴か。この二人は」
「いや、お味方です。遊行寺に潜んで、今日のご着陣を、待ちかねていたものと申しまする」
「ほ。たれのお使いだの?」
 義貞は、ていねいになった。虚無僧二人は、大塔ノ宮の党人、三木俊連みきとしつらの家来であり、合力の牒状を持って、これへ潜行して来た者とのことだった。
 その合力状によると。
 かねがね、大塔ノ宮の密命の下に、三河半島の一角で待機していた船団がある。伊勢、熊野などの海党も交じっていて、三木俊連がそれのたばねであった。――そして義貞が起つ日を、その鎌倉入りの日を――待ちすましていたものと、書面に見える。
「かたじけない」
 義貞は書面を巻いて、ちょっと、はいを見せながら、船田ノ入道へ手渡した。
「つとに、宮のご令旨りょうじはいただいておったが、作戦のうえにも、それほどまでのお手廻しがおありとは、ここへまいるまで、義貞、つい存じもよらなかった。――なにぶんにも野戦一しきの兵馬、海手うなではいかがせんと案じていたが、これで上々の配置がなると申すもの。……して、すでに三木殿以下の船手は?」
「はい」と、三木の家来、奥富三郎兵衛が、それへ答えた。「四日ほど前、それは風浪の高い日でございましたが、武蔵野からの早打ちに接するやいな、兵船九隻に、兵千七百を乗せ、鎌倉の海へさして船出なされました」
「では、その船手は早や、ついそこへ来ておるのだな」
「まいっております。江ノ島の島蔭まで」
「よしっ、さらば、こちらも急ぐ」
「その総がかりは、いつとなりましょうか。おそれながら、ご軍勢のくばりと、また、三木勢の上陸地、攻め入る口など、おさしず仰ぎとう存じますが」
「それは秘中の秘。……さ、それはだな」
 義貞は口を渋った。まだいくらかの疑惑を二人へもつらしく、その人態にんていなどを眼でぶるがごとく見直すのだった。
 ここは“ツメ手”というところである。
 天下諸州にわたる宮方と北条幕府とのたたかいも、ほぼ終盤に入っている。
 そして、北条氏の王将の府「鎌倉」だけが、いまむか詰まないかの境にある。だがまた、もし下手に詰めそこねたら、これまでの宮方の優勢とて、さてどうなるかわからない。
「七郎っ」
 義貞は見まわした。
 呼ばれて、
「これにおります」
 と、諸将のうちでも一トきわ若いひとりの若武者が、すすんで、義貞のことばを待った。
 一族の、新田蔵人くろうど七郎氏義というものだった。
「七郎、大手への先陣をつとめろ。――すぐ腰越から七里ヶ浜を駈けて、極楽寺の下へせまるのだ」
「これは……」と、蔵人ノ七郎は武者ぶるいにふるえ。「身の面目にござりまする」
「待て。まだある」
「は」
「海上に船手をつらねて待つと聞く三木俊連の一勢は、すべてそちの指揮下とする。――よいか、三木の使い両名も、すぐ馬をとばして、このむねを俊連以下の人々へ達しておけ」
 この朝、これが義貞の最初の軍令であった。
 それまでは、あるいは義貞もまだ“つめ大事だいじ”に迷うところもあったであろう。が、詰手は幾つもあるものではない。徐々じょじょかんか、電撃の急かである。彼がこうして速戦即決の打込みへ踏み切ったのは、浜手にも三木俊連の新たな味方があることを知ったからにちがいない。
 ここ数日で、その持チ駒も、二万余騎とふえていたが、大半以上は利を見て傾いて来たものである。新田の一引両、足利若御料の旗、それの景気が招いた烏合うごうの武族だ。
 ――が、瀕死ひんしの府といえ、北条方はそうでない。窮鼠きゅうその強さに加え、鎌倉最期の日とも覚悟してこぞり起てば、府内、なお三、四万の兵力は優にあろう。
 そのうえ、地勢のこともある。嶮ではないが、鎌倉四境はすべて山だ。また山に沿う丘やらやつやら狭道で攻めるにかたい。――のみならず、南は海で、その海面に義貞はなんら攻め手を持っていなかった。
 もし高時以下、一族北条が、
 他日を期して
 と、するならば、海上から船で遠く逃げおちることもできなくはない。
 あれこれ、義貞も思いめぐらしていたことだろう。が今は何の逡巡しゅんじゅんもない。まず蔵人ノ七郎をして、浜寄りの腰越方面へ走らすと、以下、彼の一令一令のもとに、全軍は藤沢ノ宿を引払って、三方面へわかれだした。
 これを藤沢から見ると。
 左翼の一軍は、堀口貞満、大島守之もりゆきがひきいて、鎌倉の北ノ口、小袋坂方面へ。
 また右翼は。
 大館宗氏、江田行義が将となって、さきに新田蔵人が急いだ鎌倉の大手、極楽寺の切通し口へ。
 そして大将義貞の中軍は、おなじく大将足利若御料の輿こしと共に、ちょうど左右両翼軍の中間の路にあたる仮粧坂けわいざかの方へと、その陣足を雲のようにはやめていた。

 鎌倉攻め。それの総がかりは、十八日その日から始まった。
 迅かった。
 北条方でも、もちろん、迅雷じんらいの急とは予測していたろうが、こうまでとは、考えきれなかったものとみえる。
 相模原から藤沢まで、暗夜、雨にさえ濡れてきた連戦の兵が、眠りもとらず、すぐ鎌倉へ肉薄するはずもない。――などと府内へ報じていた物見隊の観測などが、かえって、あやまらせていたものか。
 いやそればかりでもない。前線でやぶれた将士が一時にせまい鎌倉じゅうに込み入っていたのである。わけて下郎、雑武者などは、自分らの敗北を聞えよくかざるため、競ッて敵方の兵力を誇大にいう。またその惨烈さを吹聴ふいちょうする。裏切りの続出をののしりわめく。
 街は、釜の湯が沸くような騒ぎに落ちた。一面の海をのぞけば、鎌倉の街そのものが釜の底といってよい。その中で煮られる豆みたいに府民は家もすてて泣きさまよった。山へ走れば山はどこも兵の陣場になっているし、浜へ逃げれば、沖には兵船だけで、小舟一そうなぎさにはない。
 けん、けん……と、どこかでは群犬の声が雲にこだましている。鳥合とりあいはらのお犬小屋の狂いであろう。動物的な官能は彼らのほうがずっとするどい。人間は眼前のものと戦い、なお頽勢たいせいをもりかえそうとくらんでいるが、天に吠える群犬の声にはいんいんとこもる悲哭ひこくがあって、すでに未然の何かを知っていたかと思われるものがあった。
「二度とは見まい」
 守時は、誓って出た。
「ここ、住み馴れた鶴ヶ岡も、赤橋のわが家も」と。
 執権御所の内で、
け」
 と高時から令をうけたのが十七日のひるさがり。家は柳営に近く、勢揃いも八幡社頭でおこなわれたので、つかのま、彼はやしきへも立寄っていた。
 女童めのわらわや老女まで、およそはみな暇をやってあったので、百年の歴史をもつここの門も空風からかぜが鳴っているだけだった。ただひとり残されていた老家職が、守時のすがたに、さんぜんとむせいた。
「よいか。心得たるか」
 くれぐれも念を押して、彼は門前の赤橋を渡って戻った。いや橋の上で立ちどまった。――そして行く谷水を見ていると、かつての年、妹の登子とうこが足利家へとついだときの白い姿や、あの夜のさかんな庭燎にわびやらがふと目に浮ぶ。
 ここを出るとき、花嫁すがたの妹は泣いた……。
 しあわせになれよ。
 女は良人しかないものぞ。
 もどるな。よい妻になれ、よい母に。
 守時は忘れはしない。妹へ言った。鎌倉武門のあいだではあたりまえな庭訓ていきんだった。わけてその妹聟に高氏を選んだ責任の多くも兄の自分にあるとしていた。
 守時は兄だが、両親とも早世だったので、父同様な心で登子を手もとにそだてて来たのである。で、実感からも責任感としても、彼には父以上なものがあった。それが今日の愛別の苦となっていた。――しかし、彼はいささかも悔いている色ではない。妹の良人高氏が、謀反とわかったときでさえ、そうかといっただけの彼だった。
 ほどなく、赤橋守時の一軍は、前線のふせぎに急いだ。
 その下には侍大将の南条左衛門高直以下のぜい六万騎と、古典では誇張してある。が、実数はほぼ一万弱か。
 それでも、府内の残存兵力とすれば少なくはない。主戦場は、三街道の口と見られ、仮粧坂けわいざかのかためには、金沢左近大夫有時を大将に。
 また、極楽寺方面へは、大仏陸奥守貞直を将とし、ここへは兵力も一万以上、もっとも、重厚な守備をみせている。
 いや、守備籠城のかたちではなかった。
 敵に長陣を強いて、長期籠城の戦法なら、こう全力をあげて、打っては出まい。
 一気に、迎え打って、敵を粉砕するの気でいたのである。――鎌倉武士の気負いとして軍議は必然そうなったろう。――また連戦の息やすめもせず、ひたぶる急下してきた敵勢でもある。
「疲れを打て」
 ともしたにちがいない。とにかく、上方でも武蔵野でも連敗はきっしてきたが、なおそれくらいな意気はあった。また自信していい兵数もあった。しかも、受けて立つ位置からみれば、北の山ノ内、仮粧坂の隘路、大手の浜道稲村いなむらさき、三方面どこも地の利は味方にある。
 十七日の夕、赤橋軍は山ノ内を北へ越えていた。
 同夜、雨の中。
 洲崎、青船に陣す、とある。
 洲崎はいまの北鎌倉の山崎あたりか。
 青船あおふな、あるいは、青船原ともよばれていたのは、現在の大船である。
 あけて十八日のたたかいは、まずこの辺の喊声かんせいからわき起った。あかつきまだ暗いうちの情報で――新田軍、藤沢ノ宿に着く――とは聞えていたのだが、よもやまだ朝のまに、もう敵騎を目に見ようとは、赤橋勢も予期していなかったことらしい。夜来、陣容もまだととのっていないうちのことではあったし、序戦まず、混乱を突かれた。
「あれ見よ」
 と、守時は味方へ言った。
「敵は、馬も兵も、泥土にまみれ、相模野から駈けつづけて来た疲れのままだ。味方は新手の精鋭、なんでひるむ。――新手の弱味は、捨て身の戦胆いくさぎもが、とっさ、腹にすわらぬところにある。――南条、押し返せ」
 侍大将の南条高直は、これをはじとして、自身陣頭に出た。
 そして、たちまち、新田がたの両将、堀口貞満、大島守之の二軍を追いしりぞけた。
 だが、すぐ敵は逆巻いてきた。
 とくにこの手についていた越後新田党の北国武士は果敢だった。山国の痩地でそだち、累代、半百姓の飢寒と不平にたえてきた欲望の猛兵である。とかく栄耀えようの中にあった府内の幕士や、御家人勢の比ではない。
 ぶつかるやいな、とッさから激突だった。追ッつ追われつだ。新田勢も鎌倉勢も、いきなりどうしてこんな形相ぎょうそうとなったものか。まず矢合せを序曲じょきょくとした源平時代の合戦には見られなかった激烈さである。
 思うに新田方は策として、一挙決戦をはやっていたし、一方、赤橋守時の兵も、大将守時が、ひそかに抱いていた悲壮な決意をそのままうつして、全軍決死のそうをおびていたものにちがいない。
 そのころの武蔵路、大船から戸塚街道へかけて。また藤沢寄りの丘や野づらでも――両軍の衝突は、地形に制せられて、幾十ヵ所にも分裂していた。
 卯ノ刻――午前六時ごろから暮れがたまで、各所での白兵戦六十余たび、なお、ひからびた両軍の武者吠えはやまず、敵か味方かの、けじめもつかなくなっていた。
 すでに白い夕星ゆうずつを見、風にはなんともいえぬ血臭くて重たい湿度があった。とくに赤橋勢の損害はひどく、るいるいとかばねを野にみだしていたが、そんな中をいま、
「殿ッ」
 足もとの見さかいもなく、一人の小冠者が狂奔して行き、
「殿っ。殿はどこです?」
 と駈けぎる騎馬をみるたび、手をあげていたが、耳をかす一騎もない。すべて逃げ退いてゆくらしかった。
 そのうちに、小冠者も、空馬を拾った。そしておなじ方向へ駈けた。すると山崎の上に密集している軍があった。彼は馬を捨て、またおなじ叫びをくりかえしながら崖をのぼッた。
 やっと尋ねるお人に会えたのである。さんざんな敗北となった残余の勢を退きまとめて、主将の赤橋守時は、悽愴せいそうな味方の者の影にかこまれていた。
「小市か」
 守時は、人なき木蔭に腰をおろして、
「こころ待ちにしていたぞ。女どもはみな無事か。それとも、そちが来たのは、なにか異変か」
 と、たずねた。
 紀ノ小市丸は、千寿王の侍童で、また紀ノ五左衛門の孫でもある。だから元々は、大蔵屋敷の者だが、登子とうこの身が実家方さとかた預けとなったとき、共に赤橋家へ移って行き、今なお、登子のそばから離れてはいないのだった。
 一書をのこして、
 良人の罪をわびて、
 妹は自害いたしました。
 と、守時は先に執権の前でも答え、そとにもそう信じさせてきたが、まことは、幾人かの侍女老女に、紀ノ小市を付けて、ひそかに、他へ身を隠せと、追いやっていたものだった。
 おそらくそこには、他人には想像もしえない涙と涙の顔で、愛情にもとづく言い争いもあったであろう。兄を死地に立たせてまで生きようとしない登子であったにはちがいない。けれどそれを叱ッて、鬼のごとく叱ッて、しいて登子をやつの隠れ穴へ追いやったのち、身の出陣を、高時の前へ、願い出ていた守時だった。
「ご無事でいらっしゃいます。誰にも見つかるやつほらではございませぬ。けれど、以後は明けてもくれても、兄君へ申しわけないとばかりに」
「まだわかっていないのか。……わが子の千寿王は、もうついそこの陣へ、父に代って来ておるのに」
「いえ、まずはごらん下さい。おそらくは今明こんみょう中がお別れかと、さいごのおふみを、これへお申しつけでございますれば」
 守時は受け取って、星あかりにかざして読んだ。そして返書代りにと、静かに言った。
「生き抜くお覚悟とのふみを拝見して、守時も満足。これで思いのこすことはない。さように守時が申していたと、妹の登子へ、いや、足利御台所へようおつたえ申してくれい。くれぐれ、世に長くお倖せにと」

 紀ノ小冠者が、そこを駈け去ってから、時間としていくらでもない。
 殺到さっとうした新田勢は、
「あれだ。赤橋の崩れ本陣は」
「西道を取れ」
「そこの崖をのぼれ」
 と、昼からの勝ちに乗じて、肉薄してきた。
 丘一帯は、松の暗がりは、たちどころに鳴動しだした。相打つ怒濤の吠えと、白い穂先やつるぎの飛沫しぶきに。――それも時たつほど、獣林の揺れに似ていた。
 侍大将の南条高直は、
「や。あのお声は」
 と、乱刃のなかを退いて、ひと息入れ、またすぐ、自分を呼ぶ声をあてに駈けだした。
 守時が待っていた。
 背を大樹にもたせて、髪もみだし、槍を杖に、
「南条か」
 やっと、立ちささえている姿だった。
「ア、どこを。いますぐお手当てをいたしまする」
「それには及ばぬ」
 青い眼のふちは笑っていた。
「……わしは果てる。本望と思って死ぬ。あとをたのむ」
「なんの、まだ」
「いや死なせてくれ。そちは侍大将。退けまいが、はや退くがいい」
「思いもよらぬ仰せ。伊豆田方いずたがた郡で重代ご恩をうけた鎌倉殿の臣。退くほどなら斬り死にします。自分の郎党も目の前に死なせておるものを」
「そうだったな。惜しい者ほど、散りいそぐか。ならば行け。思うさま武士の名に生きるがいい」
「赤橋どのは」
「あれで」
 と、守時は槍を杖にすこし歩いた。すぐそばに小さい北野天神のほこらがあった。縁にあぐらして、守時は静かによろいを脱いだ。――見るにたえず、高直は下にうずくまったが、顔を上げたとき、もうその人はくれないの座に前身をせていた。
 敵の目にふれてはと、首を掻いて、祠の裏に穴を掘った。気づいたのはそのときで、守時の首は一通のふみをかたくくわえていた。なぜかは知らず、南条は自分の口からしぜんに出た念仏と共に土をかけた。そろそろと掛けて行ってその穴のあとを足では踏めなかった。病葉わくらばを掻き寄せて来て、そこらにかぶせた。
 ゆらい守時最期の地は、
 洲崎千代塚
 と、古典にみえる。が、千代塚の名も洲崎も現地名にはない。ただ「相模風土記稿」によれば、わずかに北鎌倉の寺分てらぶん、町屋の辺かと考えられるばかりである。
 南条高直の戦死も、同夜の宵過ぎてはいなかった。――主将守時の死を見とどけ、直後、敵のなかへ駈け入っていたのであろう。なにしても、鎌倉の北の口はこれで突破され、越後新田党の猛兵や、堀口、大島の二隊も勢いを駆ッて、夜半にはもう山ノ内まで進出していた。
 もっとも、分断された赤橋軍の残兵は、まだ藤沢街道の村岡や深沢あたりで戦っているらしくもある。夜更けるにつれ、遠く民家の焼ける火が赤かった。
 しかし、ここ以外は、中軍の義貞が陣した仮粧坂けわいざか方面も、右翼軍が迫った腰越、極楽寺の方にも、まだなんのうごきはなかった。ただ刻々が不気味なほどの夜半であった。

 仮粧坂は、どの攻め口よりも、鎌倉の腹部に近い。だが、幕府もここへは大兵を当て、道には樹林をッて仆すなどの万策もとっているので、ひよどり越えの故智こちにも出られず、
「さて?」と、義貞も足ぶみしたことにちがいない。
 だから彼の本陣を仮粧坂とはんでも、じっさいには仮粧坂まで進出できず、当夜まだ、葛原くずはらおかの西で形勢を見ていたものとおもわれる。
 そこへ、左翼軍から、
「お味方は敵将赤橋守時を討ちとって、はや小袋坂をまえにしております」
 との捷報しょうほうが入った。
 義貞は、もうわが物と思ったろう。夜明けへかけてはまた、諸方の火の手もますますふえ、くるまれた鎌倉の府の屋根は、海までも、薄墨いろの底だった。
 ところが。その十九日のひる、様相は逆転しだした。一大凶報が入ったのである。
 浜手へ向った右翼、大館宗氏の一隊が、この朝の引潮どきを狙ッて、稲村ヶ崎の干潟ひがたつたい、敵中突入への“抜け駈け”に出たのであった。
 奇功をそうした大館勢は、府内へあばれ入って、前浜の民家に火を放った。鎌倉じゅうは為にどよめきを起したが、当然な猛反抗に、大将大館宗氏が、まず稲瀬川のへんで斬り死にをとげてしまい、そのほか、部下の多くも討たれたので、残余の兵は、からくも霊山りょうぜんさきの上へ逃げ上った。とはいえなお生き残りの七、八百人は完全な敵前の孤児になっているという報であった。
「……しまった。左に赤橋を討って、右で大館を失ったか」
 おおいえない色が、義貞の眉をいだ。
 なによりは、敵に士気を振わせたことこそ重大である。手薄になった浜手は苦戦におちるだろう。また小袋坂の方まで盛りかえされるかもしれない。
「いや、そんなことよりもだ」
 と、彼は意を決した。
 霊山の上で、危険にさらされている敵中の孤児を見ごろしにはならない。このさい、救うにためらいを示していたら、義貞の威信はなくなろう。坂東武者というやつは、元来がそういうところで自己を託している人間の将器というものの軽重けいちょうを、内々、はかっているやつだ。
「義助。そちの一手はここへ残すぞ。擬勢のためだ、さとられるな」
「兄上は」
「自身、ここにある岩松、里見、山名。また越後党の一ノ井、烏山からすやま、羽川などの諸隊をひきいて片瀬、腰越を迂回し、極楽寺坂へついて出る」
「ならば、それがしに代らせてください」
「いやここには足利若御料もおる。万一、正面の敵金沢有時の知るところとなったら、味方は分断され、勝目のほどもおぼつかない。ここも大事だ。義貞に代ってここにおれ」
 あぶない戦法ではあるが、腰越までの間は、低い独立した小山群であり、またそれを縫うやつつづきだった。旗、槍、馬上の影を低く沈めて、迂回潜行の奇策へ出るにはその地的条件は絶好といってよい。

 義貞は、そもそもの、生品明神の旗上げからこの日まで、終始、捨て身の戦法、
 いちか、ばちか
 で通してきた。また、勝ってきた。
 だが、ここはかたい。
 敵の大手だ。平常ふだんでも、京と鎌倉間の街道口なので、府境第一の関門となっている。
 その極楽寺坂は、みさきの山の横腹を中断した開鑿かいさく道路で、両がわ木も草もない岩壁だった。そのうえ前面の極楽寺川、針摺橋に二段陣地の防寨ぼうさいを構築していた。
「あれしきの逆茂木さかもぎ
「なじか破れぬことがある」
 浪となって、新田勢の部隊は、交互、われこそと、ぶつかって行く。また引き返す。
 そのつど犠牲は少なくない。敵は、尽きない矢のかずを持っており、矢かず惜しまず射あびせるのだ。どうしても白兵戦に持ち込まぬかぎりは勝負にならない。
 二十日、二十一日、攻めあぐねた義貞は、
「七郎を呼び返せ」
 と、藤沢遊行寺の陣からこの口へ、一番に立たせておいたおいの新田ノ蔵人七郎氏義を、行合ゆきあい(行逢)がわの本陣へ呼びつけた。
「ま。食べないか」
 義貞は、自分も手づかみで取っていた玄米くろごめのにぎり飯を盛った大鉢を眼でさしながら、
「七郎。こう力押しのくりかえしはこけなことだ。いわば敵の思うつぼに乗っているもの。なにか戦法を変えずばなるまい」
「はや、味方の堀口、大島などは、功をあげたと申すのに、面目もございませぬ」
「いやその山ノ内方面のじょノ勝ちも、小袋坂で食いとめられているのか、あれ以後の捷報も聞かぬ。――仮粧坂けわいざか口はもとより動きがとれず、また義助にかたくうごくなとも命じてある。なんといたせ、ここを破らねば、一期いちご大事だいじだが」
「おやかた。一策がないでもございませぬが」
「聞こう。どんな策か」
「この附近の田鍋谷から北へ入って、長谷山へ出て、極楽寺の敵の背後へ突き出でまする」
「いい考えだ。が、義貞もこの辺の姥ヶ谷、田鍋谷などの八方へ兵を入れては間道をさぐらせてみた。しかしいずれも兵馬の通れるような所ではないという」
「いや田鍋谷なら越え行けぬことはないと、三木俊連が申しおります。おゆるしとあれば、三木の一勢が」
「行くというのか」
「望んでおりまする」
「俊連のひきいて来た船手も、かくては用をなしていないな」
「なにせい、わずか九隻。それにくらべ、敵の兵船は大小百余艘もありましょうか。くがにおいて、攻め口を開かぬうちは、船手の者も、突ッこむわけにはゆきませぬ。……で、俊連も加勢に上陸あがり、まいど歯がみを噛んでおりますわけで」
「七郎」
「はっ」
「こよい、深夜の干潮は、正しくは何刻なんどきごろに相なるな?」
「このところ、夜々、月の出はこく(午後十時)過ぎ、従って、潮のざかりは、四こう丑満うしみつさがりとなりましょうか」
「すると? ……」
 義貞は何か考えこんだ。
 或る確信をえたらしい。
「潮は今だ、潮時もいい」
 と、義貞はいった。
 すぐ彼は、帷幕いばくの面々を、よび集めた。
 もうここでは床几なぞは使っていない。帷幕といっても、行合川のほとりの草原に、各※(二の字点、1-2-22)、あぐらをくんだままのものだ。
 鳩首きゅうしゅして、やがての後、
「よろしいか」
 義貞は、念をおした。
 諸将、ことばもなかった。しかしことば以上なもので深くを下げた。
 岩松経家と吉致よしむねの兄弟は、すぐ九隻の船手の指揮者として、船馴れた一隊をつれて腰越の磯へいそいだ。
 また、三木俊連は、陣借じんがりの身分なので、同族の行俊、貞俊ら以下、手飼いの郎党小者ばかり二百余人の小勢で、かねて調べておいた“田鍋谷”へ分け入って行った。
 道もない道を迂回路として行くのであったから、三木部隊はみな徒歩だった。馬一頭いていない。
 こうして、夕までに、海陸ふた手は、夜を待つべしと、義貞の計をうけて立ち去ったが、この間にも、行合川の陣場には、二家の新しい参陣者があった。
 ひとりは伊豆の天野経顕つねあき
 もひとりは、父におくれて駈けつけてきた武州熊谷の小四郎直経の子、熊谷虎一だった。
 どっちも、ひきつれて来た人数は少ないものだが、
「折もよし」と、義貞は、うれしく会って、
「そちたちは、運のいいやつだ。もしこよいを過ぎて来たら、秋の扇か、日和の傘、用にもされず、自分でも、武運つたない者と悔やんだろうに」
 と、いって笑った。
 そして虎一はすぐ父と同陣の、新田又五郎常政の手へ配属された。
 どの部隊も、この宵は、たらふく食わされて寝ころんでいた。牛の群れみたいである。黒々と、行合川の海口ぢかい砂丘一帯にまでみえる。
 いつか深々、寝込んでしまっている顔もあった。泥ンこな兵たち、欲も得もないような寝顔、それでも誰かが、
「月の出か?」
 つぶやくと、すぐ薄目をあく。
 こく――十時ごろ――の月の出を合図にここの本軍全部は前進との内示だった。前進とは極楽寺坂の敵へぶつかることにほかならない。それまでの命かと観念の瞼もある、ふてぶてしい。
 まもなく、彼らの草枕は、伝令の騎馬に蹴ちらされた。
「起きろ。起きろっ」
「用意、用意」
 すでに中軍の旗本群は、馬首をそろえていた。その中に、義貞の影もある。
「山国勢は、先に出ろ」
 これは夕方の陣替えに編成され直していた約束だった。――まだ一度も海を見たことがなく、初めて海を見たという兵もかなり多かったのである。
 そういう山国兵は、すべてこれを選りのけて、蔵人ノ七郎氏義の手勢に付け、その氏義を先鋒に、総勢、義貞の旗本もくるめて四千騎たらず、縦隊三段になって、極楽寺坂へ攻めよせた。ただの一兵も、あとには残しておかなかった。
 兵家のあいだの兵法言葉に“まぎれ”という語が広義な意味でよくつかわれる。極楽寺坂の総がかりもまた、この“まぎれ”戦法にほかならぬものだった。
 うおうっっっ
 わああっ……
 迫ってゆくが、たちまち、わざと崩れをみせて退く。また肉薄する。猛攻をしめす。
 そして敵をここ一点に充血させ、干潮が来るまでの、時をかせぐのが主目的であったのである。
 極楽寺坂の敵の主将は、大仏おさらぎ陸奥守貞直さだなおだった。
 長谷はせ大仏だいぶつ辺に館があったので、地名オサラギを当てて、大仏殿とよばれ、北条一族中ではもっとも声望があった人だから、この手の総大将としては申し分のない人だった。
 しかし、その大仏貞直にしてさえも、
「新田勢のこよいの攻め方は、これまでのようではない。逆軍の義貞も今やあせって、気短に、雌雄しゆうをわれと決せんとするものか」
 と、当面の猛攻撃が、相手の“まぎれの攻め”とは気づいていなかったふうである。
 もし気づいていたならば、「ここよりは」と、まず稲村ヶ崎の突端の防禦と、干潮時の時刻とに、最大な注意を払っていなければならなかった。
 もちろん、彼も細心な防禦法は講じていた。
 わけて、つい三日前、新田がたの大館宗氏の一勢が、昼の干潮時をうかがって、突如、干潟伝ひがたづたいに、郭内かくないへ斬り込んできた前例もあることなので、そこは海面だからといって、決して安心はしていない。むしろ一そうげんにはしてある。
 だが先の大館勢は、これを袋の鼠にして殲滅せんめつし、主将の大館宗氏の首をも挙げていたことなので、自然、郭内の兵はおごっていた。あの失敗をみては新田方のどんな命知らずも、ふたたび無謀な危険はおかして来まい。よしややって来ても、海上には北条家の船手が船列をしいて見張っているし、みさきの突端から前浜へかけては、幾多の防寨ぼうさいが築かれてもいる。
「来るなら来い。ござんなれ」
 と、多少のたかはくくっていたに相違ない。
“まぎれ”はつまり、心理戦でもある。こうした郭内の将士の心理が、義貞のおもわくを都合よく進めていたことも否まれまい。やがて深夜もすぎ、うしノ刻(午前二時)ごろにもなると、七里ヶ浜のなぎさも、稲村ヶ崎のみさきの磯も、目立って、干潟ひがたの砂を、刻々にあらわしてきた。
「七郎。敵の木戸へ、また一ト押し、押し迫れ」
 義貞は、次いで、もっと烈しい命をくだした。
「このたびは、そちの部下のみで、小勢になるぞ。その小勢をまぎらすため、敵の逆茂木さかもぎ、道の木々、所きらわず、火をかけろ、火を用いろ!」
 このとき、義貞自身は、またその本軍の大部隊は、大きく急旋回して、稲村ヶ崎の磯根づたいに、岬廻りの道へ向い出していたのであった。
 そこは昔、鎌倉開府のころには、磯根に沿って、細い岬廻みさきまわりの往還おうかんがあった所だが、荒天の日には道も洗われ、上からは絶壁の石コロなども落ちてくるので、極楽寺坂の切り通しが成ると同時に、いつかあとかたもない廃道になってしまったものだという。
岬、南へ突出すること
十町ばかり
海崖、およそ三十間
切岸の「石くえ」絶えず
峰の北は
霊山りやうぜん、長谷の山に連なる
 いまはどうか。古記にはそんな形容がつかわれている。「石くえ」とは、石ナダレのことである。
「切岸に沿って行くのはかえって危ないぞ。なるべく干潟ひがたの遠くを通れ」
 口から口へ、義貞は、うしろの隊へ伝令させた。
 陰暦五月二十二日は、まだ俗にいう“大潮”の季間である。かなり沖遠くまで潮は引く。
 その時刻も、後世幾多の考証で、あきらかに算出されており、正しくいえば、最干潮時は、いまの時間で午前二時五十七分であった――という。
 まさに時こそであったのだ。義貞以下、江田、里見、烏山、羽川、山名などの旗本、諸部隊、多くは騎馬で、むら千鳥ちどりのように駈けみだれた。
 けれど古来、この新田義貞の稲村ヶ崎駈け渡りの事は、古典から伝説化されて、例の有名な史話となっている。
 それは義貞が、いていた黄金こがねづくりの太刀を海中に投じて、龍神に祈念をこめたところ、彼の忠烈を龍神も納受のうじゅましまし、
その夜の月の入る方へ、
前々、る事もなかりし稲村ヶ崎
俄に二十余町も干あがりて、
平沙渺々へいさべうべうたり。
横矢、射んと、待ち構へぬる数千の兵船も、
落ち行く潮に誘はれて、
遥かの沖にただよへり。
不思議といふもたぐひなし。
 という奇蹟話になっているのである。これがよく、いぜんには歴史画の画題などにも取り上げられ、新田義貞といえば、稲村ヶ崎の龍神祈りが、かつての童幼がいだく唯一の影像にもなっていたものだった。
 せっかくな古典もこんな分りきった作為さくいろうしたりするものだから、後世の学者に「太平記は信ずるに足らず、史料に益なし」などとほかの箇所まで全面的に無視されることもあったりしたのだが、しかし、こんな笑うべき舞文のうちにも、たった一つ、一ト握りの砂にも似たような史料だが、信じていい史片はある。
 なにかといえば、
横矢射んと、待ちかまへぬる数千の兵船――
 と、あるそのことだ。
 当然、北条方には、数千ほどではなくても、兵船の配備はあったはずである。――ところが古典太平記の荒唐無稽を笑って、ただしい推理や傍証を加えてきた多くの学説も、どうしたわけか、干潮時間や、渡渉進軍の可能だけをいって、海上に兵船のあったことにはほとんど言及していない。思うに、学者がそれをいわないのは、傍証の史料を欠いてるためだろうが、さりとてそれをいま「私本太平記」のここでは無視するわけにはゆかない。
 新田方にも、十そう前後の兵船はあった。
 先に大塔ノ宮のさしずで、三木俊連が伊勢、熊野の遠くからひきつれて来た加勢である。
 が、指揮の将には、新田一族の、岩松経家と吉致が乗りこんで、宵から沖で待機していた。そして今し、義貞の本軍が、みさき廻りの奇襲に出たとみるやいな、彼らのみよしも一せいに、突端の干潟ひがたへさしていそいでいた。
 掩護戦えんごせんのためにである。
 一方。極楽寺川の下から、干潟十町を駈けて、
「ここ一ト息ぞ」
 と、すでに、驀進ばくしんをみせていた新田勢は、ちょうどその曲折線の所で、当然な、一大苦戦をよぎなくされた。
 かねて、警戒の船列をしいていた北条方の船手が、これを見ているはずもなく、
「すわ」
 と、ゆづるをそろえて“横矢”の矢ぶすまを浴びせて来たし、また船上の海兵もただちに、その舷々げんげんを跳び下りて来て、直接、新田勢の前進をはばめにかかッて来たものだった。
 加うるに、干潟にも、逆茂木さかもぎやら粗朶垣そだがきやらの障害はあったろうから、新田勢がここでの死闘は、これまでの、どこの戦闘よりは苦しかった。おそらくは義貞も、心中、
「これまでか」
 と、早や討死の覚悟もしたほどではあるまいか。
 しかも、干潮の最頂期を境として、潮位はまたすぐ、上げ潮へ変ってゆく。
 いくさの駆け引きはしていられないのだ。あくまで無二無三でなければならない。海面で岩松の船手が、敵の大船列へ突ッこんで、元寇げんこうえきさながらの船戦ふないくさを展開して、いくぶんの牽制けんせいはしていたものの、ここの干潟合戦ひがたがっせん咆哮ほうこうは、いつ果てるともみえない死闘の揉み合いだった。
 そのうちに。
 これがわあッと、北条方の敗勢と気崩れになって来たにはべつな理由がある。
 彼らの心臓部――つまり極楽寺坂の郭内かくないから――またその附近の高所低所から――火ノ手があがり出したのだった。潮風だし、傾斜地だし、一瞬に海をも染めてきたのである。
 いうまでもなく、それはさきに田鍋谷から長谷山へ分け入った三木俊連の一隊が、霊山りょうぜんそのほかの高地をとって、敵の不意をつき、敵の本陣地への乱入に成功したものにちがいなく、そのため大混乱におちたらしい長谷、前浜あたりの叫喚きょうかんがこの沖近くまで聞えてくる。
「勝ッたぞ」
 義貞は、絶叫した。
「宮ノ党人三木勢にのみ名を成さすな。極楽寺坂はもう味方の足もとに踏まれている!」
 新田勢はそれに乗じて、干潟を駈け抜け、極楽寺下、前浜あたりへ、一せいに駈け上がったが、郭内の防衛陣は、もう四分五裂となっていた。――稲瀬川をこえ、由比ヶ浜の一ノ鳥居方面へ。――あるいは、大仏下の山ノ手づたいに、黒けむりの下を、ぞくぞく町屋の方へ逃げ退いてゆく長蛇の敵しか見られなかった。
「朝を待とう!」
 義貞は令した。もう鎌倉そのものは、袋の中と見たのである。

 朝になって分ったことだが、極楽寺口の大将大仏貞直は、乱軍のなかで戦死していた。
 彼のまわりには、十数人の将士の屍が、殉じていた。抵抗振りの烈しさもしのばれる。
 また、仮粧坂口では、そこの守将、金沢貞将が討死をとげ、脇屋義助の手勢は、同朝、府内へ突入していた。
 これで鎌倉の守りは、
 小袋坂こぶくろざか
 仮粧坂口けわいざかぐち
 極楽寺坂ごくらくじざか
 三道とも突きやぶられ、あとは狭い府内の主要地を残しているだけのものになり終った。
 ――が、諸所の合戦は、んではいない。
 むしろ死相の死にもの狂いと、滅前めつぜん一閃いっせんともいうべき、凄絶さを極めていた。
 義貞は、甘縄山の下、無量寺谷のへんに、陣場をすすめて、由比ヶ浜から、町の内までを、一望に見ていた。
 そのうちに、一ノ大鳥居のあたりにむらがる敵軍のうちから、ただ一騎、いかにも見事な敵振りの武者が、浜を駈けて、味方の陣へ突進して来た。
 これは、島津四郎といって、長崎円喜の烏帽子子えぼしごといわれ、相模入道高時にも、日ごろ可愛がられていた者である。
 だから、敵味方とも、
「あわれ、島津が寵恩ちょうおんにこたえて、いまを一と、働く気か」
 と見ていたところ、さはなくて、島津は新田勢の前まで来ると、馬をすて、かぶとを脱いで、降参に出たのであった。
敵味方、これを見て
あなきたなし、と、
にくまぬ者はなかりける
 と、いかに降人も多かったかの一例として古典は彼を挙げている。だが、
年来、重恩の郎党
或は、累代るゐだい奉公の家人共
主をて、親を捨て
敵方につき
目もあてられざる有様なり
 ともいっている。それが実状であったであろう。
 とはいえ、そうした武士ばかりでもない。さきには赤橋守時がある。また大仏貞直や金沢武蔵守のような華々しい者もあった。とくに長崎一族は、みなよく戦って、北条最期の日に殉じた。
 長崎ノ入道思元しげんと、その子、為基ためもとのふたりも、辻の一手を防いでいたが、そのうちに父思元が、扇ヶ谷の黒煙を見て、その方へ行きかけると、為基が、
「父上っ」
 と、呼びかけ、
「お別れとなりましょう。よくお顔を見せてください」
 と、瞬間だが、涙ぐんだ。
 すると思元は笑って、
「なにをいう。長いことなら知らず、鎌倉の運命もきょう限りのこと。夕にはあの世の辻でまたすぐ会えようものを」
「ああ、そうでした」
 為基は引っ返して、由比ヶ浜で奮戦して果て、思元は、扇ヶ谷方面で討死にした。
 またべつな辻では、塩飽しあくノ入道聖恩せいおんが、禅僧みたいに、辞世のをのこして割腹し、その子忠頼も、父にならって自害した。
 ――時に、ここで寄手の総帥義貞が、何とかして敵の中から救い出そうと、その救出にあせッていた者がある。妻の父、彼には舅の安東左衛門高貞だった。だがその高貞は、いくら誘ッても来なかった。最後の最後まで戦って、ついに新田勢の矢風のなかで戦死していた。

「いやだっ」
 高時は、なんとしても、きかなかった。
「ここは、うごかぬ」
 としているのである。
 しかしその執権御所も、新田勢が三方面から府内へ火をかけ出してからは、まもなく、四面楚歌しめんそかの潮の中だった。
 あの石ノ庭、局々つぼねつぼね、およそ柳営の隅々までをいま、足音のない闖入者ちんにゅうしゃのような薄煙が、所きらわず這いまわっている――。
太守たいしゅ
 うごかない高時の姿をめぐッて、墓場のような沈黙におちていた周囲から、長崎ノ入道円喜が、彼の床几へ、再度のいさめをこころみていた。
「……ご無念はよう拝察いたされますが、なにせい小袋坂、仮粧坂けわいざか、極楽寺坂、三道ともに、撃ち破られましては」
「逃げろというのか」
「たちまち火の手も街の四方に廻りましょう。また、こうなっては、辻々のお味方が、どうよく防ぎ戦いましても、あと半日か、今日じゅうのもの」
「では、どう逃げる?」
「時早くば、朝比奈の切通シから六浦越むつらごえに出る一策もございましたが」
「ばかな」
 と、高時はわらった。ひと事みたいにいうのである。
「その方面は、寝返りの将、千葉貞胤が新田に付いて、金沢の爺の息子、武蔵守貞将を破り、はや金沢街道をふさぎ止めたというではないか」
「は。……それゆえに、くがでは早や落ち行く道はただの一つもありませぬ」
「それ見たことか。――足掻あがいたところで、どうにもなるまい」
「いや、さきに金沢ノ崇顕がおすすめ申し上げましたごとく、小壺ノ浦には、日ごろの御遊船やら大船八、九そうを武装させ、万一の用意につないでございまする。……ひとまず、海上へおのがれあって」
「くどい」
 烈しく、高時は首を横に振った。こんどは、ひと事みたいでなく、彼自身の自尊心がゆるさぬような青筋だった。
「円喜、一つことを、一体なんど繰返すのだ。長崎の息子、おいども、いずれもよく戦って、これへ返ってくる者がないのに、年も八十近いそのほうが、いちばん死に慾かいて惑うているのは、みぐるしいぞ。はははは、そんなにここが恐いなら、そち一人で鬼界ヶ島へでも何処へでも落ちて行け」
「…………」
 円喜は黙った。赤面して、うしろへ隠れた。
 一族御家人、なお千余人は、大庭せましと、充満していたのである。上を行く煙は刻々と黒さを増し、一報の聞えるたび、悲痛な揺れが、外門げもんから内門を押し返していた。
 すると、そこへ、
尼公にこうのお使いがお見えなるぞ。そこを通せ。武者ども、開け」
 と、大声がした。――尼公といえば、高時の生母、覚海尼のことでしかない。その人からの急使だろうか。見れば妙齢なひとりの尼が、静かに、刀槍のあいだを平然と、高時の床几の前に案内されて来るのであった。
「おっ。春渓尼しゅんけいにか」
 高時は驚きの目をみはった。こんな修羅しゅらの戦場を、若い尼がどうしてただ一人で来られたかと、その姿へ、
「やれ、思わぬ客を見るものだ。ぞ、尼へ床几を与えよ。春渓尼、まずそれへかけろ。……して、母の尼公には、いかがしておいでになるぞ」
 と、たてつづけに訊ねた。
「いただきます」
 尼は一礼して、与えられた床几へかけた。
 彼女は、この陣中にいる常葉駿河守範貞ときわするがのかみのりさだの妹であった。また姉の常葉ノ局は、現に、高時の側室でもある。
 そして、その姉にもまさる美貌なのに、なぜか嫁ぐことも栄耀えようもきらって、高時の生母、覚海夫人の許でその黒髪をおろしてしまった。
 それには、姉、高時、彼女自身の恋。いろんなもつれの結果だと、噂は一時さまざまだったが、しかし彼女の道心は堅固で、また尼公のちょうもあつく、いつか四、五年は過ぎていた。
太守たいしゅさま」
「春渓。とうとう最後が来たらしい。して、母ぎみのおふみか。おことばか」
「待たぬ日は早くまいりました。いつかはとは知りながら」
「いつかは……と。それは母公ぼこうが仰っしゃっておいでたのか」
「はい。お口ぐせのように日頃から」
「むむ、思い出す。こんな日が来るぞよと、母の尼公は、わしの顔さえ見れば、きつう申した。それがうるさいので寄りつかなんだが……。今朝からはしきりと、幼い頃の、添い寝の母が思い出されてならなんだ」
「尼公さまも、ここ幾夜もお嘆きでございましたが、はや東慶寺の御門も危うくなりましたので、今暁、五山の僧衆に守られて、円覚寺の奥まった一院へお身をお移しなされました」
「そうか。……高時が行くところたちまちそこは兵火となる。……お会いは出来ぬが安心いたした。長い間ご不孝をおかけしましたと、おつたえ申しあげてくれい」
「尼公さまからも、今生の後先あとさきなどは、つかのまのこと。どうぞおとりみだしなく、北条九代の終りを、いさぎよく遊ばすようにと……」
「いさぎよく?」
「満つれば花にも落花みじんの日が否みようなくまいりまする」
「いや、人間の子にはごうがある。花のようにはまいらん。……だが言ってくれ。高時は高時の死に方をしよう。死にたくないと泣き吠えて死ぬかもしれん」
「ホ、ホ、ホ、ホ。それもおよろしいかもしれませぬ」
 彼女は笑った。
 白い顔の一微笑に、まわりの甲冑かっちゅうは、その血まなこをしゅんとました。高時もまた、彼女のくちもとにつりこまれてか、胸をらして哄笑した。すべての眼には、二人の姿が、一対いっついの狂人みたいに怪しく見えた。
尼前あまぜ
「はい」
「大儀だった。はや帰れ。ここもあぶない」
「いいえ」と、彼女は顔を振った。「ご最期をお見とどけするまで、ここにおかせていただきまする」
「なに」
 高時は、耳を疑って。
「わしの最期を見とどけるまで、そなた、ここの陣中におかせて欲しいと申すのか」
「はい。尼公さまのおいいつけでもございまする」
 春渓尼は明晰に言った。あくまでも冷静である。
「おん母の尼公さまにも、ただ一つのお気がかりとみえ……あわれ吾子あこ崇鑑そうかん(高時の法名)が、今日こんにち、どのような最期をとげるやらと、しきりに、黒煙の空を見ては、身も世もなくお念じ遊ばしておられますゆえ」
「それで?」
「それで私が、こうお使いをうけたまわってまいりました。この目で、太守のご最期の様を親しく拝してまいりましょうと」
「…………」
 高時は黙った。しかし母の覚海尼公かっかいにこうの心配と願いが、何にあるかは、やっと、それで得心がいった眉だった。
 母の秋田氏、覚海夫人は、高時の父貞時が亡くなるとすぐ、仏国禅師の禅門に入り、また疎石和尚そせきおしょうを鎌倉へしょうじるなどのことにも熱心だったひとで、女性ながら五山の叢林そうりんでもおもきをなしている尼だった。
 春渓尼は、そのひとの法弟でもあり、いわばまた侍女でもある。尼公の胸はたれよりもよく察している。
 尼公の日ごろからの悩みといえば、ただ一つ、俗身のとき産んだ、高時という奇矯な子ひとりにあった。だからその高時の世上の悪評も、生れながらの病弱も行状ぶりも、すべて母の自分のせいのように、蔭で世に詫びてきたのであった。
 いや世へだけでなく、子の高時へも、覚海夫人は、母として、子に詫びていた。――本来は、邪心もなく、生れついたままのさがをただ振舞っているだけにすぎない者を――しいて執権の座にあがめて、あらゆる悪政は、みなその暗君のせいかのように、罪を高時ひとりにかぶせている中央や幕府のむごい機構が真に憎かった。――で、どうかして、そのむごい機構の歯車から、わが子を救い出し、そして禅門にでも入れたいというのが彼女の多年な願望だったわけである。
 しかし、いまはもうどうしようもない。
 このうえは、高時が、よくその天命を自覚して、最期をきれいに。北条九代の終りを、かざらぬまでも、世の物笑いになってくれぬように。――と、産みの子の瘋癲ふうてんには人いちばい苦労をしてきた母だけに、その祈りも切だったにちがいない。
 そしておそらくは、春渓尼からの報告を聞いたのち、彼女自身も、母としてのとるべき道を、心しずかに選ぼうとしているのではなかろうか。
 とにかく、春渓尼が、高時の床几の前にいたのもほんの一ときだった。しょせん、こまかい話などはしていられない。――黒煙はいよいよ濃く、一ノ鳥居の陣地も危うしと聞え、柳営の内も外も、いまはまったく叫喚の坩堝るつぼだった。
「これはいかぬ。ここは捨てよう。東勝寺へ退け。葛西かさいやつの東勝寺へ移ろうぞ」
 高時は、急に左右の将へ言って、ただちにここの移動を命じはじめた。
 移動には、何の危険もともなわなかった。葛西ヶ谷は、すぐ近くなのである。
 柳営のひがし裏、小町門からあふれ出た人数は、東南の低い山ふところへ、熔岩の流れみたいにどろどろ移りはじめていた。
 高時をつつむ、一門眷属けんぞく甲冑かっちゅうから、常葉ときわノ局やおさいの局や、また春渓尼の姿もそのなかに交じって見える。そしてこのときまだ、武士千余人はいたはずであるが、はやくも混雑まぎれに、
「いまをいては」
 と、附近の藪へ物ノ具を脱ぎすてて、身一つ、どこへともなく落ち去った武士も少なくはない。
 ところがまた、その半面には、思いがけない者どもが、やつの奥から東勝寺の山門へむらがり出て来て、
「おおう、ご執権さま」
「御所さま」
 と、高時の姿のまえへ、口々に何かさけびながら、身を投げだしてぬかずいた。数も何十人かわからない。
「や、や」
 高時は、そのたくさんな顔の、濡れている頬を、一つ一つ拾って、なつかしそうに呼びかけた。
「そちは仏師の隆慶りゅうけいよな」
「は……。はい」
「また、鋳物師いものし艮斎こんさいか」
「さ、さようで」
「大工の木曾ノじょう蒔絵まきえの遠江ノ介、塗師ぬしの源五郎。いや居るわ居るわ……鼓打つづみうちの桐作やら仮面めん打ちの道白どうはくまでが……。して、なんじらも、家を焼かれて、このあたりのやつの穴へ逃げ隠れておったのか」
「ご執権さま! ……」と、扇絵師の翁と、染革師の老職人が、声をひとつに、おなじことばを泣いて放った。
「な、なんとも、なさけないことに相なりました。申しあげようもございませぬ」
「やい、やい、泣くな」
 高時は、どなった。
「おまえらの顔を見たら……おまえらが泣くのを見たら……どうしたことぞ、急にわしも泣きたくなった。泣いていられる場合かわ。戦争なのだ、新田との合戦なのだ」
「わ、わかっておりまする」
「みんな遠くへ行け。とッとと、退散しろ。ここにいては、あぶないぞ」
「いいえ、御所さま!」
 また一人がさけんだ。
「この東勝寺は、北条泰時さま御草創の、御菩提所ごぼだいしょとうかがっておりまする」
「さよう。この高時には父祖代々のびょう。それゆえ、おなじことならここを死に場所にせんと、俄に、陣所を移してきたのだ。ここもたちまち敵のつつむところとなろう。はやく去れ」
「何の、鎌倉の滅亡は、てまえどもには、世の終りもおなじことでございまする。父祖百年らい、稼業をつづけ、ご恩顧をうけ、わけて、ご当代には、なんぼう、おいつくしみを受けたやらしれませぬ。てまえどもが仕事に腕を磨きあい、仕事にいを持ちえてきたのも、上に御所さまのような、ご庇護と理解のあるお方が、おいでたからでございまする」
「むむ、おもしろかったな鎌倉づくりは。だが、気狂いが火をつけ出した。もうお仕舞いだ」
「くやしゅうございます。御所さまも世にいなくなり、この鎌倉も灰かと思えば、私どもも、もう生きるささえはございませぬ」
「何。死にたいと?」
 高時は、かえって、きょとんとした顔つきで、
「武士でもない仏師やら笛吹きどもが、死んでどうする! 高時は死なねばならぬゆえ死ぬまでのこと。おまえらにはもう長のいとまをくれたのだ。……去れ、邪魔くさい」
 また、左右の武士へも、こう命じた。
「やい。そこらでベソベソ泣いておる遊芸人や工匠たくみどもを追っ払え。そして寺門を堅め、新田が来たら一ト泡ふかせろ」
 声にヒビが入って、それがひどく非情に聞える。
 でもなお、ここにいる諸職諸芸の雑人ぞうにんたちが、高時を慕う眼には変りもなかった。すがりつかんばかりですらある。その眼のなかを、高時は、雑草でも踏んで行くように、山門のうちへ通ってしまった。
 そのあとで、武士はがなりつけていた。
「虫ケラども、ほかへ失せろ」
「ほかのやつの穴へ行け」
「ご執権を暗愚にして、今日のやくを招いたのも、多年、遊宴のお取巻きばかりをのうとしていた、きさまらのなせるわざだわ。この、うじ虫めら!」
 日ごろ、高時が庇護を加え、つねに宴遊の相手としていたべつな人種とも見ていたので、武士たちは、その忿懣ふんまんも槍の柄にこめ、彼らを蠅みたいに叩き追った。
 しかし、ここのそんな狂暴も、虚空こくうのけむりや、煮え沸くような大地をみれば、一トひらの、火炎のわざにもおよばなかった。若宮小路にはまだ敵影を見ないから、飛び火にちがいあるまいが、柳営の一角からさえ、すでに煙の渦を噴き、真ッ赤な舌が、めろと、小御所の棟木むなぎをなめている。
 ほかの遠くは、いうまでもない。
 北は雪之下、扇ヶ谷、南は、きのうからの前浜一向堂へんから佐々目ヶやつ、塔ノ辻まで、炎を見ない所はなかった。山も焼け、海では兵船も焼けているのである。自然、熱風のつむじが捲き起って、あらゆる地の物を枯葉のごとく宙へ奪い去ってゆくと、あとには一瞬、乾き切った巨大な真空帯が生じ、およそ虫一匹の生物もないかのような死界に似たしじまが耳をツーンと通る。そしては海嘯つなみのような武者声がまた、わああっとく。
 それも、乱打の陣鉦じんがねや矢うなりは今朝から聞えず、ただ人間の吠えと叫喚ばかりだった。すでに合戦は、街なかの辻々に圧縮され、いずこも肉闘の白兵戦となってきた証拠であろう。そして寄手は、浜辺と山の手から、北条勢のことごとくを、市街のなかへ追い込んで、鎌倉じゅうの殿舎でんしゃ、諸屋敷、寺院、町屋のすべてを薪木たきぎとし、四方から蒸し殺しに焼き亡ぼそうとするものらしい。
「ちいっ」
 高時は、しばしば、床几をはなれて、東勝寺の広前を、おりの中みたいに歩いた。
「畜生」
 青白い顔だった。その白さも、くらべる物のない白さである。眸はいよいよ鋭く、
崇顕そうけん。……金沢のじい。爺はいないか」
 と、急に、何か不安にかられ出したように、呼びたてた。
「太守。……崇顕はこれにおりまする」
「オ。金沢の爺。あれを見い、あの炎を」
 高時は、扇ヶ谷の方をさして。
「いま燃えさかッている所は、ちょうど二位ノ局(高時の愛妾)の家あたりではないか」
「まことに」
 崇顕はその老眼をしばたたいて、あと何もいえなかった。
「爺っ」
「は」
「ほかの局とちごうて、二位の手もとには、わしとの仲の幼い者がふたりいる」
「お案じなされますな。御家人中でも、日ごろ厚くお目をかけ給うた五大院ごだいいん宗繁むねしげが、お救い出しに、まいったはずでございますれば」
「いやその五大院ひとりでは、万寿まんじゅ亀寿かめじゅの幼い兄弟ふたりを、しょせん一時に助け出すことはなるまい。兄の万寿はよそへ落したろうが、弟の亀寿は、たれの手にまかせたことか」
「噂では、ご舎弟泰家やすいえさまの郎党、諏訪すわ三郎と申すものが、まだ火のまわらぬうち、亀寿さまを負うて、鶴ヶ岡の峰ふかく逃げ入ったとのことでございますが」
「たしかか。それは」
 念をおされると、金沢の崇顕そうけんは、それにも、あとのことばが出なかった。
 覚海尼公が、子の高時を、どこかで見まもっているように、高時も二児の父として、さっきからここで胸をかれていたのらしい。
 だが高時も、どうにもならない現状は知っている。煩悩ぼんのうにすぎないものとは分っている。ぬかずいている爺をすてて、彼はもう荒々と歩いていた。また、くるりと、こっちへ引っ返していた。その足もとを、火のチリを交ぜた熱風が、いくたびとなく掃いて行き、やつのふところは、夜のような煙にとじこめられ、一瞬、東勝寺堂塔の瑶珞ようらくが、遠くの炎に、チカと光った。
「まっ赤だな、今日の太陽は」
 高時は、上を見た。
 たえず何か言ってないと、おそろしい寂寥に体のうちを吹き抜かれる。そしてたまらない淋しさが襲いかかり、自分を虚空こくうさらッて行きそうにでも思われるふうだった。
「見ろ……」
 ふと、あたりの沈黙の陣を見て言った。堂の下、山門の蔭、広前いちめん、高時と共に在る一族御家人の影は、このかなしい主君をめぐって、みな岩のように固く黙っていた。
「あの不吉な色の日輪を見ろ。この業火では蝶も鳥も生きてはいられん。こんな後で、何が生き残るのだ。生き残って何の愉しみがあるというのだ。ろくな世が来るはずはない」
 たれへともなく罵ッていたが。
「秋田の延明えんみょうじょうすけ延明はいるか」
「はっ。おりまする」
刈田式部かったしきぶは」
「はっ。篤時あつときはここに」
伊具いぐは。小町こまち中務なかつかさは」
「いずれも、これにひかえております」
「武蔵ノ左近時名もいるな」
「はいっ」
「総勢どれほど?」
「お心づよくおぼし召されませ。なお千人ほどは、おそば離れずこれにおりますれば」
 ――事実は、もうそんな大勢はいなかった。逃げたい者なら、やつから峰づたいに、どこへでも逃げ落ちられぬことはない。
 一片の義にとらわれ、主従骨肉のきずなにしばられて、高時と共にいた者でも、ふッと、ここで姿をまぎらせた武士もずいぶん多かったことだろう。当然、柳営を出たときの、三分ノ一以下に減っている。
 だが、武蔵ノ左近時名が、
「まだ、千ほどは、君のおそばにおりまする」
 と答えたのは、高時の心を少しでも、気丈にさせようとする思いやりにほかならなかった。それを高時も、覚ってはいたろうが、
「むむ!」と、満足そうに。そして、その武蔵ノ時名へ、
「時名。寺中には、たくわえの酒もあろう。ありったけの酒甕さかがめをここへ運び出させろ」
 と、いいつけた。
 歴代の菩提寺である。客院用の酒壺はもちろん庫裡くりに充ちていよう。高時もかつての春には、ここの山門で小袖幕を張らせ、舶載はくさい毛氈もうせんをのべて、花見の宴に遊び暮らしたこともある。――そんな日の幻影を、ふといま、思い出したことでもあるのか。
 やがて、兵たちが、数十箇の酒がめをそれへ運んできて並べると、
「これは壮観だ。さすがは東勝寺の庫裡くり
 と、唇をゆがめて笑った。そしてみずから場所をえらんで、地にたてを敷かせ、
「みんなここへ寄れ。鎌倉の終りもほぼ見とどけた。このうえは、高時の身の処置いたす。高時がさいごを、皆して、見とどけておくりゃれ」
 と、言って胡坐あぐらした。
 一族の面々は、かえって首をたれてしまった。驕慢な瘋癲ふうてんの君が、いまは神妙な、いかにも素直な君に見えたからだった。
「……さては、お覚悟よ」と、諸将はみな胸をうたれ、仰ぐにたえない容子だった。とまれ、このまで高時のそばに残っていた人々は、少なくも高時にたいして、なお臣節を捨てず、理解か同情か、何かは寄せていた者にちがいない。とつぜん、涙を拭く者が多かった。すると、
「まず、太守たいしゅさまから」
 と、杯をささげて、彼の前へ銚子ちょうしを持って進んだ者がある。
 春渓尼しゅんけいにであった。
 常葉ノ局、むつらの御方、おさいノ局なども、うしろへ来ていた。
 高時は見て。
「おう、みなまだいたのか。いかに悪鬼羅刹らせつせいでも、女子供までは殺すまいに。……そうだ、そなたたちは、高時のさいごを見たら、東勝寺のおくに姿をひそめて、後日、新田へ命乞いして出るがいい」
「いいえ」と彼女らは、口を揃えて。またむせぶとも叫ぶともつかない声で――「お供をひとつにいたしまする。世に生き残る心はさらさらございませぬ」
「では。そなたたちも」
「はい」
「わしに殉じて死にたいと望むのか。……はての。この高時が、そんな倖せ者とは思わなんだ。死出の道、賑やかなことではある。さあ、みなも飲め、あるかぎりな酒がめ相手に、討死しよう。なまじ雑兵の手にかからんよりは、酒を相手に、杯を手に」

 日は暮れかけ……。
 しかも暮れ迷う夕の黒白あいろがいつまで長い。
 終日の黒けむりだ。日輪の所在もよくわからない一日だった。ただ晩涼ばんりょうの風がそろそろ葛西かさいやつにも冷たくなり出していたのである。
 高時はすでに、斗酒をほしていた。
 青白くいよいよ冴えた顔を、きっと、虚空こくうへふりあげて。
「火の雨だな。月雪花、この世の物、さまざま見たが、火の雨とは、思わぬ景色を見るものだ。あわれ、馬鹿者」
 彼は次第に、ふんまん、やるかたない語気を、たれへともなく、吐きちらしていた。
 すでに塔ノ辻、大町、若宮小路は、炎の大河だった。
 なかでも巨大な紅蓮ぐれんは、柳営一帯をめ狂ッている風火で、そこを焼き尽くせば、炎は滑川なめりがわもこえて、ここ東勝寺の山門へ移ってくるしか火魔の目標となる物はない。
「いわれなくても、わしは自分を知っていた。高時は悧巧な人間では決してない。ましてや、北条氏中興のお人、泰時公やすときこう、また最明寺時頼公さいみょうじときよりこう。そんなお方にくらべられたら、途方もない、不肖な子孫ではあったろうよ。……だが聞け。一族の衆」
 と、高時は、その大杯を、下へ置くこともなく。
「この火の雨を避けたいばかりに、わしは朝廷へは、できるだけ譲って来たぞ。諸大名にも、権力をかざすなく、諸民にも、仲よく暮らせと祈って来た。人のためにではない、わしのためにだ。何よりも高時の念願は、せっかく、北条九代のえいに生れたのだから、世の人々と共に世を愉しみ、与えられた身の生涯を一代おもしろく送りたかった……。そこが暗君か。はははは、何せいこの高時、凡君にはちがいなかった」
「た、太守ッ」
「誰だっ。わめいたやつは」
摂津せっつ宮内くない高親たかちかでございまする。ただいま、てまえのそばで、明石あかしノ入道忍阿にんあが、太守の死出のさきがけ仕ると申しながら、腹掻ッ切って相果てましてござりまする」
「さても気短な。忍阿はわしの乳母の良人。もう死んで行ったかや……。まだ酒甕さかがめの酒は残っておるに。他の面々は死に急ぐなよ。飲み尽くそうぞ。飲めや、各※(二の字点、1-2-22)
「太守!」
「また誰か、腹切ったか」
「いや、ただいま戦場のまッただ中から、長崎次郎高重が、あえぎあえぎ、山門までせもどってまいりました」
「や。約束をたがえず、高重がこれへ帰って来たか。今朝、敵中へ馳せ入るまえに、どんなことになりましょうとも、もいちど帰って、おそばで一しょに相果てますると、約束して去ったやつだ。すぐ連れて来い」
「ただ今、手当を加えておりまする」
「そんな深傷ふかでか」
「全身の矢傷刀傷です」
「高重は、円喜の孫。……円喜、早よう行って見てやれ」
 ほどなく、その高重は、人々に抱きささえられて来た。しかし、高時の前では、しっかりしていた。「敵将義貞の首を、お目にかけるつもりでいたのに、事成らず、いっしました」と、しきりに残念がるのでもあった。
 醜いもの、美しいもの。
 また、裏切りだの、壮烈なる昇華しょうかだの。
 亡滅の一瞬には、人さまざまな生命の持ち方とその閃光をチリヂリに見せたが、中でも長崎次郎高重は、鎌倉最後の日をかざった一条の若いにじだったといってよい。
 高重は、武蔵野合戦の当初から、一軍の将として、戦場へ出ていたが、さんざんに負けて、
「面目もありませぬ」
 と、いちどは高時の前に、ひきあげて来た。
 彼は一族の長老円喜の孫で、少年の日から小姓として仕え、高時とは主従の半面、いわば竹馬ちくばの友でもあった。
 だから、今朝の出勢にも、
「かならず、もいちど帰ってまいります。そして最後の最後には、きっと御一しょに死にましょう」
 と、高時へ約し、高時もまた、
「きっと帰って来いよ。それまでは死なずにいる」
 と、ことばをつがえたことだった。
 その高重には、今日、深く期すところがあったので、どこの防禦陣地にも付かず、日ごろ教えをうけていた崇寿寺そうじゅじの南山和尚をたずねて別れをつげ、決死の部下、百五十騎に、みな笠印かさじるしを取りけさせ、山寄りの間道から、敵の中軍へまぎれ込んで行ったのだった。そして、
「目ざすは、義貞一人」
 と、不敵な意図のもとに、敵の大将旗が見える辺まで近づいたが、
「や、旗も差さず、笠印もない一隊の兵が来る?」
 新田の部将、由良新左衛門に怪しまれ、
「来るは、何者ぞ」
 と、はばめられてしまった。
 高重は、これまでと思い、
「忘恩の賊、新田小太郎が首をとりに参ったり。これは高時公の侍臣、円喜入道が孫、長崎次郎っ」
 と、高名たかなのりを合図に、むらがる敵中へ躍りこんだ。
 そして、新田の旗本、横山太郎を討ち、庄ノ三郎為久の首をもあげた。もちろん彼自身も、部下あらましを失ったし、身には満身のいたでを負ったが、一時敵の核心部を大混乱に落して、義貞のきもを寒うさせた。
 しかし高時との約束もある。からくも血路を切りひらき、葛西かさいやつへいま引きあげて来たものだった。
「次郎、よく帰った」
 と、高時はうれしそうだった。いまは臣下でもない。一人の幼友達と見るような眼で、
「その深傷ふかででは、酒はのめまいが、杯だけを持て。新右衛門、兄の手へ持たせてやれ」
 と、小姓の長崎新右衛門をふりむいて言った。新右は十五歳、次郎高重の弟なのである。
「おさかずき……、ありがたく」と、高重は杯を胸に抱きしめ。
「……いただきます」と、しいて笑った。笑いつつ刻々にせまる死がその若い目もとを青ぐろくしかけていた。
「高重、高重。もすこしこらえろ。今生の名残りに、高時がさかなしてみせる。新右衛門、わしの薙刀なぎなたをよこせ」
 高時はそれを持って、得意の舞を見せようとするのらしい。すっと起って、足拍子あしびょうしを踏み出しながら。「みなもうたえ。高時と一しょに謡え」と、あたりの諸将へ合唱をうながした。
年へたる
鶴ヶ岡べの
やなぎ原
 高時は舞いながらうたい出した。
 薙刀なぎなたを手に。
茂るもくるし
青のみだるる……
 そこでまた、舞をやめ、彼はあたりへ、さいそくした。
「やい、みなの者、なぜ声を合わせて、謡わぬか。高時一人ではおもしろうない。一同唱和せい、一同唱和せいっ」
 しかし、無理だった。虚空こくうには火のつばさが飛び、火のチリは雨とここへも降りそそいでくる。――すぐ丘の下、滑川なめりがわのむこうには、たそがれの黒白あいろも分かず、たくさんな兵が、ひしめき合い、呶号のうしおを逆巻いているのだった。
 すべてみな敵の新田勢ばかりにちがいない。東勝寺の大外おおそとにある総門の築土ついじもどうやらあぶなそうなのだ。それへたいして武者吠えなら振るい出せもしようが、謡などは、歌のことばも心の上に思い出しようのないここの人々なのである。
 むしろ彼らは、ひそかに高時を心のうちであわれんだ。また羨ましくもあった。
 自分らにはまだせきれない正気がある。だが「高時公には、早や全く、ご狂乱よな」と、なげき合うらしい態だった。
 すると、春渓尼しゅんけいにがそれへすすんで言った。
「太守。舞をおすすめ遊ばしませ。尼が相拍子あいびょうしをつかまつりましょうほどに」
「おう春渓、そなたが相拍子いたすとか。満足満足……」
なぜ騒ぐ
やなぎの糸は……
 と、高時はすぐつづけ、
世のかぜがむごいゆゑと
鎌倉のからすは言ふよ
烏に似たる天狗ども
やつの穴にや巣食ふらむ
夜々七郷の空に出て
華雲殿げうんでん棟木むなぎをゆすり
わが枕べに笑ひどよめく……
 薙刀なぎなたの光芒を描きながら、身をかろがろと躍らして舞う。自身を天狗にして、舞と薙刀の妙を、妖しいばかり描き尽くす。
 これは、ひと頃、鎌倉の辻で、童謡わらべうたにまで流行った“天王寺の妖霊星ようれいぼし……”を、誰かが改作したものらしく、高時は思うこと、言いたいことを、即興的に加えて、酒間、酔うとよく、謡い踊っていたものだった。
 火の雨、ときの声、めくら撃ちの矢かぜ。――それなのに、ここの真っ暗な無反応の真空帯。
 ……敵も、狐疑こぎしてか、急には近づかず、ただ遠巻きのうしおを、また山鳴りを、こだまにしていた。
 ……と。突然。
 高時の舞に合わせて、鼓を打つ者があった。また謡を唱和し、鈴を振り、銅拍子どびょうしを鳴らす大勢の者があった。
 いつのまにか、東勝寺の楽殿がくでんの楽器を持ってきて、高時の陣座のうしろに、たむろを作っていた諸職の雑人ぞうにん――あの笛師、太鼓打ち、仏師、鋳物師いものし塗師ぬし仮面めん打ち、染革師などの工匠たくみや遊芸人たちだった。
「やあ、おのれらは、まだそこにいたのか」
「ご執権さまには、淋しいのがお嫌い。また常にお孤独ひとりがお嫌いでした。みなして、さいごのお相手を勤めさせていただこうぞと、申し合せて、これにひかえておりました」
「うれしいぞ。おまえらまでが。そう思うてくれる高時は日本一の倖せ者。さらば、もひとつ舞おう。その間は、敵も寄るまい」

 一瞬……。
 新田勢は立ちすくみ、
「や? あれは?」
 耳をすまして怪しみ合った。
 執権以下が立てこもった北条勢の最後のとりでとそこを見て、その遠巻きをきわめて慎重に押しちぢめていた山門の内から、突如、大勢の謡声うたごえが、しかも銅拍子どびょうしや鼓の音まで交えて聞え出したのである。
「はてなあ?」
「計略か」
「そうだ、敵は何か策をかまえているのかもしれぬ」
「しばらく、様子を見ろ。放ッておいても、早や東勝寺の内も火だ。敵は、し殺しになるだけのもの」
 たしかに、東勝寺五大堂の上にそびえている五重ノ塔の三層目あたりにも、ピラと、真っ赤な火焔がひらめいている。
 そのほか、木々にすら火の火花がチラめき、伽藍がらんいらかやつの奥まで、暗さと煙にされながら、その底にはまだ、たくさんな生命のうめきと、異様な人影の息吹きがうかがわれるだけのものだった。
「息つぎに、ひとつ、飲もう。……新右衛門、杯を」
 高時は、薙刀なぎなたを肩に立てて、美味うまそうにそれを飲みほし、また謡った、また舞った。それが彼の最大ないきどお[#ルビの「いきどお」は底本では「いぎとお」]りを世へむかってする反抗かのようだった。
天狗、天狗車
人の世の人をきらつて
天狗が廻す
此世車このよぐるま
修羅を行くごふの焔
乗るは大天狗
引くは木ツ葉天狗
押すは何天狗
人の心のやつに棲む※(二の字点、1-2-22)もろもろ天狗
みにくい外道げだう
美しい夜叉やしや
この鎌倉にも百八のやつあり
しかるがゆゑ、やつの上に
鎌倉の一法師高時
誓願せいぐわん輪奐りんくわんをきづき
七宝の精舎しやうじやを建て
此世車には
人を乗せ人に引かしめ
春は春をたのしみ
秋は秋を……
「いや、だめだった。わしは暗君。わしの願望などは、たわけた痴人の夢だったぞ。わはははは」
 高時はここで、息も疲れたのか、また薙刀の柄を肩へ立てて杖としながら、
「世の中、謡のようには参らん。さようなおしえにはなったことか。さらば高時もあまんじて地獄に落ち、世の畜生道を、しばし泉下せんかから見物するか。……」
 と、笑ったが、そのとき、どこか遠くの方で、天狗の声でもない、人間の吠えでもない、いんいんと、赤い夜空にこもるようなものを聞いて、彼は俄に、ぶるッと、身ぶるいして、こう叫んだ。
「あっ、うかと、忘れていたわ! 新右衛門」
「え? 何事を」
「畜生たちをだ。あわれ、ほんとの畜生たちをつい忘れておった。この有様では、鳥合ヶ原の犬小屋も火の雨をまぬがれえまい。かしこの犬小屋には、高時を慰めてくれた高時の愛犬何百匹が、おりをも出られず、餌のくれてもなく、き悲しんでいることだろう。犬小屋のじょうを破って、犬どもをみな放してやれ。新右衛門、すぐ行って、放してやれ」
 それを言い終ると、高時は黄金づくりの小刀を解いて、たての死の座に、あぐらをくんだ。
 彼の覚悟の容子に。
 ……さては早や。
 と人々はとむねをつかれた。
 意外でもあった。
 万一、狂噪きょうそうして、どうしても御自身で処決のない場合には、臣下の刃でお首を打つもまたやむをえずと、自分の刀へ、ひそかに、いいきかせていた側臣もあったのだ。
 が今、その高時には、何ら狂噪の風もない。自己の運命に素直すぎるほど素直な姿で、
「春渓尼……」
 と、呼び、
「わしの前へ」
 と、さしまねいていた。よろい下着となった半身の白さもいとど澄明なものに見えて、彼らは逆に、自分らの死出の立ち遅れに、そぞろ慌てた。
「太守。おこころ支度ができましたか」
 言ったのは、春渓尼。
 その、さり気なさは、まるで遊山ゆさんの誘いかのようで、手くびの数珠ずずが、美しい指に懸け直されただけでしかない。
尼前あまぜ……。そこにいて、よう見とどけておくりゃれ」
 すぐ、手の短刀はさやを捨てた。しかし、そのとき高時の眼は発作的に、あらぬ方を見て光った。……わああっという新田勢の潮の声が体を吹き抜け、ふと彼の病質と肉の薄い兎耳をぴんと尖がらせたのだった。
「来たか! 来たのか?」
「いえ」
 と春渓尼は、一ばい静かに。
「ごゆるりと遊ばしませ。敵を山門内に見るには、まだ間がございましょう。……オオ死出の道、お淋しそうな。むつらの御方おんかた、お妻のお局、常葉の君も、みな私にならって、太守のおそばにいてさしあげたがよい」
 花の輪が、高時をかこんだ。彼女らはそれぞれ泣き乱してはいたが、このとなると、一人も泣いていなかった。春渓尼の唇から洩れる名号みょうごうとなえに和しながらみなを合わせた。
 するとその中のまだ十六、七にすぎぬ百合殿の小女房が「皆さま、おさきに!」と、まっ先に刃でのどを突いて俯っ伏した。その鮮紅にかれて、高時もがくとうなじを落し、そして脇腹の短刀を引き廻しながら、
「尼前……。これでいいか。高時、こういたしましたと、母御前ははごぜへ、おつたえしてくれよ。よう、おわびしてくれよ」
 と、かすかな息で言った。
 たちどころに、春渓尼のまわりは、すべてくれないになった。高時に殉じて次々に自害して行った局たちは血の池に咲いた睡蓮すいれんみたいに、血のなかに浮いた。
 そのほか一門三十四人。譜代ふだいの側臣四十六人。すべて北条氏の門葉もんよう二百八十三人、みな差し違えたり、腹を切った。
 すでに、葛西かさいやついちめんは、冷たいような猛火みょうかだった。極熱のほのおが燃えきわまると、逆に、しいんと冷寂な「」の世界が降りて来る――。
 東勝寺の八大堂は、二日二た晩、燃えつづけた。あとには、八百七十余体の死骸があった。死なずともよい工匠たちの死体も中には見られたとか。――総じて、鎌倉中での死者は、六千余人にのぼったという。
 また。それから二日後。
 五山の一つ、円覚えんがくの一院では、高時の生母覚海尼公と、法弟の春渓尼とが、五月の朝の朝ほととぎすをよそに、姿を並べて自害していた。

 鎌倉幕府はここに亡んだ。
 炎々数日らいの湘南の兵火は、昨日までのあらゆる権力のあとを焼きつくして、時の空に、
 夢
 ただそれしか思わせない余燼よじんのけむりを描いていた。そして新たな“時の人”新田義貞の名が、焦土鎌倉を産土うぶすなとして、はや次代の人心に、すぐ大きくうつりはじめている――。
 だが、一夜に百五十年の武家機構とその経営の府が根こそぎ崩れ去ってみると、こことて、ただの関東の一海浜で、しかもあわれな瓦礫がれきの町にすぎない。
 時の人。それは誰か。果たして自分か。義貞といえ、まだまだ、おごってはいられなかった。
 五月二十三日である。それは鎌倉占領のすぐあくる日だった。彼は長井六郎、大和田小四郎の二名を選んで、
「今日、立て」
 とばかり、西への使いに急がせた。
 伯耆ほうき船上山の行在所あんざいしょ――すなわち後醍醐ごだいごのみかどのもとへ――ここの大戦捷を、上奏じょうそうするための早馬だった。
 ところが。偶然といえようか。
 もちろんまだ、後醍醐には、鎌倉がほろんだなどのことは、ご存知もなかったが、すでに六波羅陥落の報につづき、千早城もまた大捷たいしょうと聞えたので、同じ五月二十三日、還幸かんこうの沙汰を布令ふれだされ、晴れの都門凱旋がいせんの途についておられたのである。――そして、その龍駕りゅうがを待つ都には、高氏がいた。
 足利殿
 この名もまた、いまや洛内では、義貞以上にも、時運の波に乗ってきた“時の人”のひとりであった。
 しかし高氏自身は今、そんな誇りどころな立場ではない。――洛内の治安から、そして西の龍駕へも、東の義貞へも、心くばりの多さは、多忙というもおろかなほどだ。まさに、忙中ぼうちゅうの人といってよい。旧六波羅探題のあとに住んで、みずからとなえてそこを、
 六波羅奉行
 となし、また、わが名による“御教書みぎょうしょ”を発して、はやくも独自な政治的手腕のはしを見せていたが、なおかつ、東国の空をのぞんでは、
「さて、どうしているぞ? どうなることか?」
 と、早馬のひづめに、胸の明け暮れ、かきたてられていたことにちがいない。
 鎌倉には、妻の登子とうこを残していた。また、新田軍のうちには、嫡男ちゃくなんの千寿王を、あえて参陣させてある。
 ――で彼は、先に、千寿王の鎌倉攻め参加が首尾よくおこなわれたと聞くやいな、家臣細川和氏かずうじに、旨をふくませて、
「もうここはよい。ここは一トかたづきした。おぬしは急遽、鎌倉へくだって行き、千寿王を補佐ほさしてくれい」
 と、命じていた。
 乳臭にゅうしゅうのきみの補佐と聞けば、主眼は政治的な意味にあることはあらためて訊くまでもない。細川和氏は、そのてん、高氏が深い意中のものを託すに足る思慮のある人柄だった。和氏は、弟の頼春、師氏もろうじと共に、兵三百をひきつれ、即日、海道を下って行った。

 美濃。尾張。天龍の渡し……。
 海道もひがしへくだるほど、途々、旅人の口々にも、
「東国はたいへんだぞよ」
「わけて鎌倉は」
 と、行くところで、新田勢と幕軍との耳新しい戦況を聞く。
 細川和氏の一勢は、そんな風説のあらしのうちを、急ぎに急いだ。小夜さよの中山越えにかかった日である、一人の旅人は、ついに鎌倉もちたと言った。
 その旅人は、和氏の前でこう話した。
「……てまえは、酒匂さかわの宿でその騒ぎを知りました。あくる日、箱根路へかかって、ひがしを眺めますと、なるほど、鎌倉の方は、いちめん墨のようで、江ノ島の影も、相模の海も、見えたものではございませぬ。……箱根権現の僧や神人らも、高い所へ出て、さて北条殿が亡んだら、次の世はどういうことになるのかと、みな言い合うておりました」
 和氏は、それでほっとした。
 加勢に駈けつけるわけではない。――千寿王のきみが、ご無事であればいいのである。
「これでまず、幼君のご無事なことは確かだが、もうかた御台所みだいどころ登子とうこ)のご安否は、いかがなものか?」
 こうして、駿河の浮島ヶ原(沼津附近)まで来た日だった。――彼方から十騎ほどな旅装の武士が道をいそいで来る。――細川の隊とスレちがいかけた。すると、中の二人が、こなたの兵の笠印かさじるしを見て、
「足利殿のお身内か」
 と、訊いていた。
「されば」
 和氏の弟、頼春が列を出て。
「これは仰せをうけて鎌倉へくだる細川一族の者でおざる。して、あなたがたは」
「や」
 と、二人は馬を降りた。
「われらは、新田殿の家臣にて、鎌倉大捷の吉報を、みかどへお聞えに上ぐべく、上奏の御書をたいして西へ急ぐ、長井六郎、大和田小四郎と申す者にござりまする」
「それはまた、はからずも……。兄者あにじゃ、何ぞお訊ねなされませぬか」
 そう聞いて、和氏も何かと、鎌倉入りの実状を二人へただした。長井と大和田とは、知るかぎりを、こまごまと話して、さて、先を急ぎますゆえ――と、別れぎわに。
「ここは浮島ヶ原、このあたりで、足利殿のご庶子しょし、竹若ぎみが、無残にも北条方の武士の手で殺されました。……千寿王どのが鎌倉府内から逃げ出られたあの直後にです。――そのことは、ご存知か」
 二使は、供の郎党をつれてすぐ駈け去った。よほど急ぐらしい様子だった。
 和氏たちも、やがて列を進め出していた。
 主君の一子、竹若ぎみの横死おうしは聞いていなくもない。だが、そのいたましい血汐を泥土にした場所がこの辺とはいま知ったのである。と、俄に、蕭殺しょうさつたる風の傷みに胸を吹かれ、思わず口に念仏がついて出た。――またさらには、義貞の鎌倉入りに、足利家もまた、無傷ではなかったのだと、はっきり思う。
 かくて和氏が、鎌倉へ着き、そして義貞と会ったのは、瓦礫がれき余燼よじんも、ややめていた戦後六日目のことだった。

「めでたく、鎌倉入りの御本懐をとげられて、大慶至極にぞんじまする。――在京中の主人高氏殿からも、右、くれぐれもとのおことばで。……ついては、お祝の辞を今日こんにちこれへまかりくだりました私は、細川和氏と申す者。以後なにとぞ、ご昵懇じっこんを賜わりますように」
 義貞とは、初めての面識だ。
 これが和氏の、彼への最初のあいさつだった。
「ほ。三州足利党の一家にて、音に聞ゆる細川殿とは、御辺ごへんであったか。お名は前々から聞いておる」
 と、義貞は如才じょさいなく。
「――天下はいつか宮方にすべき機運となっていたのだろ、望外な武運に会い、時も措かず、北条一統、余類よるいともがらまで、ことごとく義貞が一手にて、討ちほろぼしおわった。……されば足利殿にも、ずいぶん、よろこんでおくりゃるに相違ない」
「わが足利家は都の戦後を。新田殿にはここ鎌倉を。――これからは車の両輪、わだちを揃えて、天下の処理にあたるのだと、主人も申しおりました。……上に英邁えいまいなみかどをいただき、新しい世づくりのためにだ、と」
「いうまでもない。両家は仲よくしよう。何事も申しあわせて」
「そのため、千寿王さまの補佐として、不肖、当地へ任ぜられてまいりました。諸事、よろしくおさしずを仰ぎまする」
「そうだ。さっそく、若御料わかごりょうをこれへ呼んでしんぜよう。……そのあいだ、まず一こんまいるがよい。これは鶴ヶ岡の神酒みき、きのう、全軍の将士へ勝ち祝いとしてけたものよ。まず一杯ひとつまいれ」
 と、義貞は上々の機嫌で、侍臣をして、さっそくに、杯台をそこにおかせる。
 ここは、彼の仮館かりやかた、いや仮陣所といっていい。
 鎌倉じゅう、八割は焼け野原なので、宿所割りもなかなかつかず、一部の将士はまだ焦土に野陣している有様だから、義貞すらも住居に困った。――で、鶴ヶ岡の鶯谷一帯にわたる神官や僧侶の邸宅をたちのかせて、当座の本営としていたのだった。
 また。
 足利若御料わかごりょう(千寿王)の宿所には、近くの八正寺ヶ谷の別当屋敷をあてていた。――義貞の家臣は駈けて、まもなく、千寿王をこれへ迎えてきた。
「ああ、おつつがなくて」
 と和氏は、その姿を拝してから、義貞へむかって言った。
「共に、鎌倉入りの御陣をおつとめ遊ばしたお蔭で、かく御無事なるをえましたが、一方、わが足利家においては、竹若君たけわかぎみと申される庶子しょしの御長男をくされました。……ご落命のやくに会った浮島ヶ原は、戦場ではなかったにせよ、いわばご戦死も同様なこのたびの犠牲にえ。そのことのみが、家臣としても、ふかく胸いたまれてなりませぬ」
「むむ、まことに」
 義貞もそれには、共に眉をいたんでみせた。
 しかし、和氏の狙いは違う。
 さきに義貞が、鎌倉攻略の功を「義貞が一手にて」と、ふと誇ったことばにたいし、思慮ふかい彼は、そのときは「いや」とも逆らわず、ただここで、足利家もまた大きな犠牲をこの戦いに払っていることを、やんわり、言外にほのめかしていたものだった。
 戦いは戦いだけで終らない。
 敵を消し去ると、すぐまた、味方同士、味方内の仮想敵を見つけ出す。それは政略という互いの腹の中で始まる。
 千寿王を前において。
 足利――新田
 と合併してなされる諸般の打合せが、義貞と和氏とのあいだで、酒間しゅかん、仲よくいろいろと語られていた。が、そのうちに。
「はははは」と、義貞は笑いくだけて。「……このような小むずかしい談合、若御料わかごりょう(千寿王)にはご退屈らしいの。細川どの。あとは後日としよう」
「これはしたり! 小さい欠伸あくびをしておいでられる。なにぶんにも、おいとけなき君、おゆるしを」
「なんの、なんの。むりはない」
「やがて朝廷のおさしずも待たねばならず、都との時務の往来にも、一致を欠いてはなりませぬ。この後は、和氏もしばしばここへ伺候しこういたしますれば」
「ウむ。そうありたいもの。……さしずめまた若御料のお住居も、こう御家来がふえては、いまの別当房では、どうにもなるまい。それからめよう。ぞ、義助をよんでまいれ」
 その脇屋義助が見えると。
「義助か。……どこぞに、焼け残っておるよいやかたはあるまいかの」
「さあて?」
 と、義助はそこへ焼け跡の図面をひろげた。そして。
「ごらんのごとく、武家屋敷も軒なみ焼けせ、雪之下、塔ノ辻、大町、佐介さすけ、すべてぼうたる焦土でございまする。たまたま残った門や家には、はや諸国の武士が混み入っておりますし」
大蔵おおくらの、かつての足利殿の屋敷はどうなった?」
「もとより灰燼かいじんです」
「二階堂の、道誉が屋敷跡は」
「焼けました」
「では、寺よりないな」
「その寺院とてあらましは瓦礫がれきとなり果て、火をまぬがれた円覚、建長寺などへは、五山の僧が、ひしと詰まって、兵馬を入れる余地はございませぬ」
「しからば、何としたものか」
「いかがでしょう。――おうぎやつの、元、上杉憲房うえすぎのりふさどのがおられた家は」
「扇ヶ谷は、ここより地の小高い場所になるな」
 義貞は考える。
 自分の館のある所より、足利若御料の邸が、高くにあるのはまずいらしい。
 しかしその附近は、高時の愛妾二位ノ局の家も焼け、また上杉の館といっても、半焼け同様なすがたと聞くと、
「ぜひもない。ひとまず、そこを修理して、おしのぎしてもらおうか」
 と、和氏へはかった。
 宿所の結構などはいま問題でない。和氏は異議なくそこへ移るときめた。そこで千寿王を奉じて、その日のうちに、足利方は扇ヶ谷のほうへ移った。
 だがこのさい、義貞はふと、安からぬものを感じだした。
「若御料は、扇ヶ谷へ」
 と、つたえ合うやいな、別当房にいた人数はもとより、焼けあとに野屯のだむろしていた諸国の勢の大半が、みな扇ヶ谷へいて行ってしまったのだ。という報を、その晩、弟の義助から聞いたのである。義助はまた、こうも言った。
「……ちと、ご戒意かいいを要しましょう。どうも武士どもの心は、二つに割れているように見えまする」
 どうしてなのか。
 足利若御料
 なる者の小さいはずな存在が、ここでは時の人新田義貞の名にも均衡きんこうするほどな戦後人気を、俄に武士間にかもし出している。
 高氏の意をおびて、その幼主の補佐にくだって来た細川すらも、
「はて?」
 と、小首をかしげたほどだった。
 ともあれ、扇ヶ谷へは、招かずして、諸家の家の子郎党が移ってしまった。彼らは即日、附近の山林をばっさいして、丸木小屋をつくり、長屋をこしらえ、そして元々、こんどの鎌倉参戦は、新田殿のためにあらず、足利殿のために働いたものであると、口にも出して、千寿王一辺倒にかたむいて臣事しはじめるふうなのだ。
「これはちと急変すぎる。新田殿の嫉視しっしのほども恐ろしい。そちたちは、どうこれをる?」
 和氏は、たずねた。
 弟の頼春、師氏もろうじのふたりを前においてである。
「わかりませんな。諸国の武士どもが、何を考えていることやら」
「もっとも、われらが六波羅を出てくる折、殿(高氏)が申された一言はある」
「どういうことでした」
「義貞について、鎌倉入りした武士どもも、味気ない鎌倉には安心しておちつきえず、そのおもても心も、いずれは皆、西向きに向けるだろう。しかしそのあいだただ、千寿王の名において、大きな過ちを犯させるな、と」
「ははあ、ではこんなことも、遠地におわしながら、お見とおしなのでございましょうか」
「……と、うかがわれる。……人とはちがう怖ろしい眼をお持ちの殿だ。その眼はいつも遠くを見ておいでられる。だからわしたちは、ここにあっても下手な小才やわざを振舞ってはならんのだ」
「こころえておきます」
「特に、部下の喧嘩に気をつけい。新田殿と張り合ったりせぬように」
「いやもう、喧嘩沙汰は、焼け残りの辻々で、毎日のようだと聞いておりまする」
「それはいかんな。軍令を出しておけ。厳罰にすと」
「令ぐらいでは止みますまい。なにせい、戦に勝った驕兵です。酒をさがし出す、財物をかすめる、女をさらう。わけて、女あさりはひどいそうで」
「ここの兵もか」
「その欲望一途いちずな餓鬼のざまは、わが足利の兵も新田の部下も、ひとつもので、行儀ぎょうぎに変りはございませぬ」
「困ったものだな」
「それが楽しみで命がけの戦争に身を賭けたのだと、放言するやからさえあるほどです。山野へ避難した女も、深窓の諸家の女も、彼らの目には、捕るにまかせた好餌こうじと狙われているらしく、聞くにたえないみだらも、昨今、めずらしくはありませぬ」
 ふと。和氏は顔をくもらせた。
「……まだ今日も、お行方が聞えて来ぬな」
御台所みだいどころ登子とうこ)の御安否でございますか」
「そうだ。新田殿の手でも、合戦直後、八方捜してくれたとは申しているが」
「新田の言など、あてにはなりませぬ。ただ紀ノ五左衛門も鎌倉じゅうの山々からやつの穴まで、毎日、尋ね歩いておりますゆえ、やがては何か手懸りも……」
 ここへ、下向げこういらい、細川和氏が「――急務第一の任」とばかり、八方手をつくしていたのは、主君高氏の夫人、登子とうこかたの捜査だった。
 若御料わかごりょう(千寿王)には、おつつがなく御安泰ごあんたい
 と、そのことは、すぐ都の高氏へ飛報してある。
 だが主君の胸になってみれば、敵国の中においたままの妻が、生きてか、死んだか、今は一刻も早く安否を知りたいとしているだろう。
 千寿王附きの紀ノ五左衛門も、この数日らい寝食もわすれて、捜しに出ていたが、
「……とんと、聞きうる所は何もござりませなんだ」
 と、その夕も、悄然としてもどって来た。
 これまでの間に分っていたことといえば、登子の兄守時が、山ノ内合戦における悲壮な死と、それの数日前までは、たしかに登子の姿を、おやしき内で見たという赤橋家の老婢ろうひの言をつかみ得たことだけでしかない。
 ところが、また一面には、
「いやいや登子の御方は、それいぜんに、ご自害なされた。――千寿王どのの鎌倉脱走の騒ぎと共に、罪が兄の守時どのにかかって来たので、或る朝、お仏間のうちで」
 と、まことしやかにいう者もかなりある。
 しかし、その説には、紀ノ五左衛門が首を振った。かたく否定していうのである。
「それこそは、巷話ちまたばなし。まこと御自害なら戦後ただちにここへ小市がまいらねばなりませぬ。……なぜなれば、それがしの孫、小市丸と申すわっぱは、御台所へ附いて赤橋家におり、さいごまで、お側に仕えていたこと確かでござりますゆえ」
 要するに、登子の行方は、皆目かいもく不明というしかない。――さればとて、生死なにかの確証でもあげぬかぎり、たんに「……わかりません」とは、都の高氏へ申達しんたつのしようもなかった。
 新田方でも同情して、八方詮議中とおおやけに言ってはいる。だが、義貞には義貞の室もあり、始末もあり、ひとの協力どころではあるまい。――その日の夕も、細川和氏は、ほかの時務で義貞に会い、鶴ヶ岡下から駒で焦土の街のあとを帰って来た。
「あ、喧嘩か」
「喧嘩とみえます」
師氏もろうじ
「は」
「困ったものだ、もし足利党の武士と新田兵との喧嘩だったら、ぜひをとわず、こっちの者をしょッ曳いて来い。見せしめのため厳罰に処してくりょう」
 彼方の人だかりを見て、末弟の師氏はすぐ飛んで行ったが、どうしたのか、戻って来ない。そして、そこの男女は、焼け跡のほこりと人の輪をいよいよ濃くして、たえずドッと、笑いどよめいているふうだった。
「はて。喧嘩でもないのか?」
 和氏の駒が、そこへ近づきかけたときである。とつぜん、髪ふりみだした一人の女が、つむじのように、浜の方へ走って行った。ばされた者は腰をついて、あッけにとられ、群集はまたまた笑って見送っていた。
「師氏、なんだあれは?」
「ごらんなされましたか。近ごろやたらに多い犬神憑いぬがみつきです。そのあわれな一人でございまする」
 犬神きとは。
 いまでいう恐水病、あの狂犬病のことだろうか。
 鎌倉の戦後には、それに類した病症の男女が焦土のちまたにいくらも見られた。
 焼け落ちた門、はや、夏草を見せだした瓦礫がれきのかげなどに、よだれを垂らして、よく昏々こんこんと、うつむいている。
 うっかり寄って、その目に射られたらことである。すぐみつく。犬のまねして、けんけんと啼き狂う。女は女を忘れ、少年は少年の含羞がんしゅうもなく荒れたけぶ。
まれると、咬まれた者へ、犬神がのりうつるぞ。ぶっ殺すしかなおすみちはない」
 それを悲しんで、縁につながる家族らが、よく巷で追っかけ廻している図も見るが、当人は骨肉の見さかいもなく、身のかろいこと、おおかみか飛鳥のようで、たれの手にもつかまらない。
 由比ヶ浜の波は、そうした犬神憑きの死骸を、もう幾十体呑み去っていたことか。犬神憑きはたいがいここへ走ッて来ると死ぬのであった。そして浜の砂丘には、身寄りの者が建てたらしい卒都婆そとばが毎日のようにふえていた。
師氏もろうじ
「は……」
「供を返せ。駒も一しょに」
「お帰りは」
「すこし浜を徒歩ひろってみたい。土用のような猛暑だが、この夕凪ゆうなぎの一ときで、あとは晩の涼風になろう。なにせい、やりきれん」
「新田殿との駈引きやら、諸国の武士の統合、それに御台所みだいどころのお行方もわからず、さすがお疲れとみえますな」
「いや、疲れとも違う。……ただなんとなく、やりきれぬという気もちだ。武士が口外すべきではあるまいが、師氏、戦とは、外道げどうなものだな。修羅、地獄、かさかさな焼野原」
兄者あにじゃ。……ちょっと、お待ちを」
 師氏は数歩、あとへもどった。そして駒を曳いてついて来る後ろの従者たちを、先へ扇ヶ谷へ返してから、ふたたび兄のそばへ来て肩をならべた。
「……ですが兄者、戦はまだこれからでしょう。大殿(高氏)に深いご大望のあるからには」
「むむ、多難だな。……ご前途は」
「新田殿も、お腹では」
「むろん次代の棟梁とうりょうは、ご自分ときめておる。そこのごきげんもとりながら、諸国の武士どもの心を、こッそり、足利家の大網のうちへ曳きこむには……。いや、むずかしい」
「……あ。お気をつけなされませ。咬まれますぞ」
「なんだ、はやほの暗いが」
「さっきの、犬神憑きの女がたおれています。海藻うみものように」
「さいぜんの女か」
「べつじんかもしれませぬが」
「犬神憑きは、鳥合とりあいはらのお犬場の囲いから解かれた犬が、何百匹も狂い出て、それから流行はやり出したものゆえ、亡き高時公の怨霊おんりょうにちがいないと、町の男女はみな信じているようだな」
「いや武士たちもです。……乱暴な兵までが、犬神憑きには、乱暴をいたしませぬ」
「妙に、死後この鎌倉では、高時公というと、一様にみな涙を寄せているらしいの」
「逆に、その人を討った新田殿は、冷たい眼で見られがちです。こちらにとっては、まあ倖せともいえますが」
 波音は屈託がない。なぎさに沿って、二人はだいぶ歩いた。いつか夜の海だった。この日頃こびりついていた焦土の屍臭ししゅうも、やっと心から洗われたここちがする。
「もどろうか」
 和氏が言いだしたときである。
兄者あにじゃ」と、師氏はうしろへ目をやって「――ちょっとお待ちなされませ」
「なんだ?」
「いま私たちを見て、そこの漁師小屋のうちへ……塩焼き小屋か……ひどく慌てたさまをして逃げこんだ女がいます」
「女? 女など」
「いやそれが、ここらの磯女ともみえません。眉目みめい……」
売女ばいただろう。だんうらのむかしに似て、北条氏の諸家の奥に仕えていた女たちが、あわれ、色をひさいでいるとか」
「でも、そんな者からでも、御台所(登子)のご消息が聞き出されぬともかぎりますまい」
 師氏はもう歩いてそこを覗いていた。屋根には石はのせてあるが強風にあえば吹き飛ばされそうな板囲いとむしろ戸だけの浜小屋だった。
 覗いても、よくよく、ひとみをこらさねば内のもようは分らない。小さい灯皿ひざら。そしてやら網やら雑器などが鼠の巣みたいなワラの中に、骨と皮ばかりなひとりのおきなが虚脱したような眼でぼやッと坐っている。
「女は? ……たしかいま、女がここへ走りこんだはずだが」
 翁は唖か。ただ首を振る。
 何もいわない。
 やや威嚇を用いてみても、老いた鹿のような湿しめッぽい眼をただショボショボさせるだけだった。
 だが、師氏はやがて知った。翁のうしろに、女のか袂かがチラと見え、上からみのをかぶッて打臥している様子なのだ。彼は、はったと翁をにらみつけて、
「なぜ隠す! 居るではないか」
 と、近づきかけた。
 翁は、ぱっと立って、師氏の胸をさえぎった。
「お近づきなされますな。咬みつきたがる病人でございまする」
「なに」
「もう咬まれたら、犬神憑きが、あなた様へもうつりますぞ。狂い出したらどうもなりませぬ。かまわんでおいて下され」
「うそを申せ」
 翁は腰をついた。師氏の手がもう蓑をつかんでねのけていたのである。
 女は小娘だった。十六、七。眉目みめや身なりからみても北条一族の奥にでも仕えていた小女房か何ぞにちがいない。――しかも、師氏を見上げた眸は、敵意にみちている目であった。
「師氏」
 と、和氏が後ろで言った。
「……手荒にするな」
「手荒になどはいたしませぬ」
 小女房はそれでやや安心したらしくはあるが、何を問われても、翁同様、答えもしない。けれど師氏がよくさとすと、だんだん、この二人だけは近ごろ鎌倉じゅうで女漁りや掠奪を事としている乱暴な武士とは違うことが分って来たらしく、ついにはサメザメと泣き出して、やっとその身の上を語り出した。
 戦火で焼けるその日まで、扇ヶ谷の二位どの御所(高時の側室)に仕えていた小女房のなつめというものです……と、たえ入りそうな声でいった。
「棗というか」
「はい」
「いくさもすんだのに、なんでこんな浜小屋に隠れているのか」
「…………」
「そうか。まだわしたちをこわがッておるな。むりもない」
 師氏は、兄と目をみあわせ、自分らは、足利若御料のお附人つけびと細川兄弟である。だが心配するな、たとえ北条方の縁故であろうと、女子供にまで危害を加えるものではないと、なだめた。
 漁夫の翁は、目を白くして、急に小女房の袖を引いて言った。
「おはなしなされませ。なつめさま……いっそお訴えして、お情けにすがらっしゃれ」
 敵意の殻にとじていた棗も、それでやっと、何かと口を開きだした。彼女の境遇はこうなのだった。
 鎌倉さいごの日――
 彼女の仕えていた二位どの御所は、女御所なので、あの炎に会った泣き叫びも、ひと通りでなく、わけて二位どのには、高時との仲にした当年九ツと七ツになる二人の和子があったので、わが身もなく、兄の万寿まんじゅを、五大院宗繁にあずけて先へ逃がし、弟の亀寿かめじゅは、諏訪すわ三郎盛高が、これを負って、遠くへ落ちた。
 二位どのは、それを見てから、炎の中で自害した。
 棗は、どう生きたのか、わからない。――われに返ったときは、鎌倉はなく、見るのは敵軍の兵だけだった。その敵兵に色を売って生きている旧主の友の女もあれば、良人を敵に討たれた後家が、その敵に身をまかせているのもある。いなめば生きていられぬ畏怖いふは男たちの生き方にも変りがない。それもただの庶民ならばだが、そのごちまたに聞えた五大院宗繁の噂だけは、ゆるせなかった。彼女は憎んだ。
 五大院宗繁という侍は、生前の高時には、ずいぶん厚く用いられ、二位殿からもまたなき者と愛されていた。さればこそ万寿ぎみの身をゆだねられて落ちたのだろうに、近ごろ、我慾に目がくらんで、新田義貞のもとへ密訴して出た。
 義貞は仮借かしゃくなく、すぐ船田ノ入道をさしむけて、わずか九ツでしかない万寿を、相模川のへんで首斬らせた。また、これに味をしめて、
「高時の子は、も一人いる」
 と、新田方では、さらに弟の亀寿(後の北条時行)の行方を、八方、重賞を懸けていま、詮議中せんぎちゅうとの評判だった。
「……でも。その高札こうさつが、私の力になりました」
 棗は言った。
 無残な鎌倉の焦土が、ひとりの乙女のなかに、こんな不敵な眸を作っていたかと、怪しまれるような強さで、
「……生きよう。生きぬいて、兄の盛高のところへ行き、亀寿さまをお育てして、もいちど、鎌倉へ帰ってみせる。そういう気もちになったのです」
 と、ひるみなくいうのであった。
「盛高とは?」
 和氏がたずねた。
「――高時公の二男亀寿どのを負うて落ちた諏訪三郎盛高のことか」
「ええ……」と、棗は、はじめてニコとした。それもやや誇らしげに「そうです。私の兄盛高は、五大院宗繁みたいな腰抜け武士ではありません」
「国元はどこ」
「信濃です。兄と共に、私も小さいとき、信濃から来て、御所へご奉公にあがったのです」
 師氏が代って訊いた。
「……では、そなたの兄、諏訪盛高が落ちて行った先は信濃だな」
「たぶん……」
 なつめは、すこし口を濁して。
「そうだろうと思いますが」
「して。この浜小屋の漁夫は、何者か」
「見たとおりのよいお人です。むかしから独りぼッちでここにいました。あるとき、二位のお局さまが、浜御遊はまごゆうのとき憐れんで、じいよ、おまえのすなどりしたお魚はなんなと御所へ持っておいで……と仰っしゃって下されてから、一匹のたいでも、一トざる雑魚ざこでも、れればきっと御所のお台所へ持って見えました。それで私たちとも仲よくしていたおじいさんです」
 横で、おきなは涙をふいていた。
 嘘がない。真情があらわれている。いまの武士間にもちまたにもはやすたれきッているかに見える、人と人との信頼や温め合いも、まだ、こんな磯小屋の孤独な翁や乙女の中には残っていたかとまばゆくおもう。――もう訊かずとも、棗が、ここの翁にかくまわれているわけもわかった。
「棗とやら」
 こんどは和氏が。
「安心して、ほんとを申せ。そなた、胸では、自分も信濃へ落ちて行きたいものと念じているのであろ」
「ええ。……でも街道の木戸はどこも通れません」
「ム、軍兵でな」
「それに兵隊の目も恐いのです。何をされるかわかりません。おじいさんは言ってくれます。犬神憑きじゃとわしがいう。人が来たら犬神憑きの真似おしやれと。……生きるためには色をひさぐ女子おなごもある、それを思えば何でもない、そのうちわしが何とか小舟を手に入れて、武蔵国の遠くへぎよせ、きっと無事に逃がしてあげる。そういって力づけてくれていましたが。……運命でございましょう。お恨みはいたしません。お二人の目に見つかった上は、もう覚悟をいたしました」
 棗は、目をふさいだ。
 もういうこともないように。
 ほとほと、和氏は、そのけなげさに見とれてしまった。故郷三河の細川村には、ほぼおなじ年ごろの娘がある。思いくらべて、心をうたれずにいられない。
「師氏」
「はい」
「貧しい翁のすなどり舟も軍に取られてしまったとみえる。こよいのうちに、どうかしてやれ」
「舟を。……与えるのですか」
「そうだ。棗とやら、それへ乗って、どこへなと翁に送ってもらうがよい」
「えっ。で、では」
 ぼろぼろ……と二つの顔から涙が散った。感情に富むらしい乙女の泣き顔も、皺くちゃとなった翁の嗚咽おえつも、せつな自分までがつりこまれそうで、和氏には見るにたえないものに見えた。で、師氏がなお何か、ふたりへ告げている声もあとに、和氏は先にむしろ小屋を出て、もう砂浜の彼方をうつつない姿で歩み去っていた。
「兄者」
 追いついて来て。やがて師氏が、ぼそッといった。
「つい、うかと、御台所のご消息などのことは、訊くのも忘れてしまいましたが」
「いや、訊いても知るまい。さっそく小舟一つ廻してやれ」
「こころえました。ですが兄者、思わぬ者に会いましたな」
「ムム、あれも一つの犬神憑きか。いわば美しい犬神憑きともいえるだろう」

底本:「私本太平記(五)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年4月11日第1刷発行
   2009(平成21)年10月1日第25刷発行
※副題は底本では、「新田帖(にったじょう)」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2012年11月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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