下頭橋由来

 十八になるおつぎが、ひとつの嫁入りの資格にと、巣鴨村すがもむらまで千蔭流の稽古けいこに通い始めてから、もう二年にもなる。
 その間ずうっと、彼女は家を出るたび帯の間へ、穴のあいた寛永通宝を一枚ずつ、入れて行くのを忘れた日はなかった。
「あんな、張合いのある乞食ってないもの――」
 と、自分の心へ言い訳する程、彼女はそれを怠らなかった。
 河原からあわれっぽい眼を上げ、街道の旅人へ、毎日、必死に頭を下げているおこも岩公いわこうが、自分の姿を仮橋の上に見ると待っていたように百遍もお辞儀をする。
「――あんな一生懸命なお辞儀って、誰だってしやしないもの」
 と、それを受けるのも、楽しみだった。
 きょうも、石神井川しゃくじいがわにかかって、
(岩公、いる?)
 と、お次は、下をのぞいた。
 一ぺんも言葉こそ交わしたことはないが、きょうは岩公が何かよろこんでいるか、考えているか、体の具合がいいか悪いか、お次にはよく分った。
(あ。お嬢様)
 岩公も、大家たいけの娘へ、声をかけては悪いと思うのか、眼で、眸で、お辞儀だけで、もうその姿へ呼びかけた。
 ぽちゃん、と仮橋の下で、小さな水音がした。
「あら」
 あわてて、お次の手は、髪へ行った。泣きたい顔になった。
 銀のかんざしが沈んでゆく。
 嫁入りまで、してはいけないと、母にいわれたのを――
 沼尻の川なので、浅そうにとおっては見えるけれど、底泥土そこどろがやわらかで、仮橋から墜ちた子供などが、何人もそこでは死んでいた。
 怨めしげに、水を見ていた。
 でも、仕方がないと、あきらめたように、お次が悄々しおしおと立ち去ってゆくと、河原にいたお菰の岩公は、泥土の中へ、そろそろと入って行った。
「おお深けえ」
 底はすべる。
 いくらでも、脚が入る。
 でも岩公は、やめなかった。腰から胸までへ、泥だらけの蓮根掘れんこんぼりみたいに、釵を探した。
「ねえってことはねえ。ねえってことはねえ」
 独りでぶつぶつ言いながら、日が暮れるのも知らなかった。
 紫木綿むらさきもめんの包みを胸に、稽古を終えて帰って来たお次は、星明りの水に、かわうそみたいな人影が、ざぶざぶ動いているので、
「おや、誰?」
 と、眼をまるくして、
「――岩公じゃないの。何してるの」
「不思議だ。ねえ筈はねえ」
「何が」
「お嬢様の」
「あら。おまえ私の釵を探していてくれるのかえ。そんなら、もうよしておくれ。風邪をひくよ、寒いのに」
 お次が、しきりに止めたので、岩公はむっそりと河原へ上がった。
「――有難うね」
 初めて口をきいたのだった。
 仮橋をこえて、振りかえると、岩公が薄暗い河原で、大きなくさめをしていた。
 翌る日、お次はまたそこへ来て、
「まあ岩公、まだ探してるの」
 と、吃驚びっくりした。
「ねえ筈はねえもの」
 岩公は、同じことを答えた。
 三日目も四日目も真っ黒になって、泥土の中を脚や手で探っている彼を見た。お次は、街道の旅人や、土地の人にも、きまりが悪くなって、
「頼むから、もう止めてね」
 と、いった。
 岩公は、やめなかった。
「ねえ筈はねえ」
 と、いった。
「後生だから、止してよ。止さなければ、私、もう明日あしたからここを通らないから」
 そういって、おどかすと、やっと次の日は、飯櫃いいびつを前において、岩公は河原に坐っていた。
 慾でやっていたのか。
 でなければ、少し抜けているのか。
 お次は何だか、岩公に少し嫌な気がさしてきた。
 もうそんな事も忘れて、冬を越した。春は、大根の花が咲く。
 練馬といえば大根の産地なので、ことさら、沢庵漬たくあん問屋とは呼ばない。樽屋という旧家だった。彼女はそこの娘だった。
 石神井川の仮橋は、豪雨があるとすぐ流された。
 また、半町ばかり、新しい仮橋は、位置が変った。お次はこの頃、橋の下を見ないことにしていたが、その日、
「お嬢さん。ありましたぜっ」
 と、ふいに河原から声をかけられて、吃驚した。
 かんざしを持って、岩公が駈け上がって来た。
「ま」
「あったよ。あったよ」
 お次は、眼が熱くなった。
 彼女へそれを渡すと、岩公は、満足そうに河原へ降りて行った。飯櫃の前に坐って、もう後へ来る旅人の影へ、頭を下げていた。

 根からの乞食でもあるまいに、
 土地の者は、岩公を理解するに苦しんだが、この頃では彼の姿が見えない日は、みんなして、
「どうしたのか、病気じゃないか」
 と、心配する程だった。
 なぜなら、岩公がこの土地に流れて来てから、泥棒や火事がなくなった。また、石神井しゃくじい川へ墜ちた子や子守を、四度も救っていた。また、汚い物は人が寝ている間に、河原へ運んで焼いてくれるし、後はきれいに箒目ほうきめが立っていた。
「変な男だ。だが可愛い奴だ」
 と、練馬板橋の人々は、余る食べ物があると、河原のかまぼこ小屋へ、やりに行った。
 この土地へ流れて来てからも、十二、三年になる。酒を飲むふうもなし、女が欲しそうな顔でもない。年もまだ三十四、五だろう。身体も満足なら顔だちも人並だった。背が小っちゃくって、丸顔で、笑うと愛嬌さえある。
 村の悪童たちは、
「岩ンベ。岩ンベ」
 と、石をぶつけたり、上から小便をひっかけたりした。岩公は笑ってるだけだった。ここは、甲州の裏街道なので、旅人もよく通る。岩公が一心に頭を下げるのを見ると、
「一文は安い」
 と、よく合羽の袖から、鐚銭びたせんが投げられた。
 ひるまえの稼ぎを数えて、岩公は、わらを穴にとおしていた。それから飯櫃のめしを食べ、首をのばして川の水をすすった。
 陽炎かげろうが立って、眠くなるような昼だった。仮橋の上に、旅支度の武士が、じっと下を見ていたが、
「はてな」
 と、つぶやいた。
 岩公は、仰向いて、
「がぼ、がぼ、がぼ……」
 と、口の中で水を鳴らしていた。
 いきなり、羽織を脱ぎ捨てた武士は、
「おのれっ、佐太郎だなっ」
 と、上から呶鳴った。
「げっ」
 岩公の口から、水が、ぴゅっと走った。
「うぬ、よくも多年、姿をくらましおったな。勝負をしろっ」
 河原へ、飛び降りた。
 反対に、岩公は、上へ逃げ上がった。まるで転がるように、はやかった。
「卑怯者っ」
 武士もつづいて、飛び上がった。しかし、街道にはもう人影が見えなかった。
 草鞋わらじに白いほこりを立て、
「亭主っ、今この前を、乞食が逃げて行ったか」
 と、居酒屋の前で、息をはずませた。
「なに、通らん。――すると、畜生」
 引っ返して、横道へ走った。葭簀茶屋よしずぢゃやを目がけて、
「ちょっと、物を訊くが」
「え」
 休んでいた町人達が、
「何です、お武家さん」
「今、そこの河原から逃げ上がった若い乞食、どっちへ行ったか知るまいか」
「知りませんね」
「はてな」
 と、茶屋の裏へ廻って、
「あっ向うだっ」
 と、仮橋の板を踏み鳴らして、どんどん駈け出した。大根畑の白い花をちらして、岩公の逃げてゆくのが、はるかに見えた。
「おういっ。佐太郎」
 武士は、二度も転んだ。
「貴様も武家の飯を食った男でないか。卑怯な奴。待てっ」
 だが、岩公は、振向きもしなかった。練馬の部落へ逃げ込んだ。
 水車が止まる。あっちこっちで、鶏の群れが、けたたましい叫びをあげ、翼をった。
「臆病者ッ、人非人めっ。返せっ、待てっ、弟のかたきだ、妹の」
 呶鳴りながら、旅の武士は、目や鼻をひっつらせて、泣いていた。そこへ持って来て満面の汗とほこりが、凄い形相をいろどっている。
 旧家らしい土蔵つづき、そこの母屋の前庭へ、向う見ずに駈け込んだのである。どこかで一度、斬りつけたとみえ、右には抜刀ぬきみをさげていた。
 樽屋たるやの家族は、お次の婚礼が近いので南縁にものをひろげていたが、
「きゃっ」
 と、逃げ惑って、
「あれっ、誰か来て――っ」
 と、叫んだ。
 漬物蔵から、向う鉢巻の若い者が大勢駈け出して来た。
「やいっ武士さんぴん、うぬあ気狂いか」
 と、武士を支えた。
「狂人ではないっ、拙者は小田原の大久保加賀守の家来、岡本半助という者。今そこの漬物蔵へ逃げ込んだは、隣家の秋山家にいた若党の佐太郎という者。……あ、水を一杯くれ」
「水だとよ。贅沢ぜいたくをいってやがら」
かたじけない――。話が、前後したが、それはもう十三年も前だ、若党の佐太郎めにたばかられて、拙者の妹八重は家出した。それを連れ戻そうとして、追って行った拙者の弟は、佐太郎めに討たれ、妹は、前非を恥じて、自害いたした」
「へえ?」
弟妹きょうだい二人のかたき、佐太郎めを、以来尋ね廻ること十年あまり。それを、見つけたのだ。――この床下へ隠れ込んだ乞食めが、昔の若党佐太郎に相違ない。各※(二の字点、1-2-22)、恐れ入るが、ここへもぐって、追い出して下されい」
 誰も、返辞をしなかった。
 お次は、老母のうしろに、白い顔をして、おののきながら聞いていた。
「たのむ。武士がこうして――」と、見苦しい程、昂奮してる岡本半助は、膝の下まで手を下げて、
「お情けじゃ、追い出して下され」
 でも、みんな、黙然としていた。
「御承知なくば、やむを得ん、拙者自身で入る程に、無作法、おゆるし願いたい」
「あ……」
 お次は思わず伸びあがった。
 すると、若いのが、
「おっと、待ちねえ」
「なんじゃ、何で止める」
「あのおこもは、村の者はよく知ってるがそんな悪人じゃねえ。かたきなんか討ったってつまらねえ話だ。堪忍かんにんしてやんねえ」
「黙れっ、町人とはちがう。また佐太郎が悪人でないと、何を証拠に」
「だって、どう考えたって。――なアおい」
「よし、其方そのほうどもが拒むなら、彼奴きゃつが、這い出して来るまで、ここに頑張っておるぞ」
「それや、勝手だ」
 武士は、そこにあった竹竿に目をつけ、蔵の中へ、突っ込んで、掻き廻した。
「佐太郎っ、出て来い。もはや、汝の天命は尽きたのだ。いさぎよく、半助に討たれろ」
 若い者たちが、舌打ちして、
「やかましいや」
 と、竹竿をくった。
かたきを討つのが、武士さむらいの商売なら、こちとらにも、かせがざ飯にならねえ商売があるんだ。邪魔だから、退いてくれ」
 わざと漬物樽を幾つも転がして半助を追い退けた。
 半助は、歯がみをしたが、どうも出来なかった。ここから近い川越かわごえ藩へ行って、仇討免状を示し、正当な手続きをとれば、捕えられぬこともないが、その間に佐太郎を逃がされると、何にもならない。
「ううむ、こんくらべだ。彼奴きゃつも、食わずにはおられまい」
 半助は、蔵のまわりを歩き出した。五日でも、十日でも、こうしているぞというように、唇を噛んでいた。

 ぴた、ぴた、と半助の跫音あしおとが、夜半よなかでも外に聞えた。
「お次、そなたは、こんな果報が、嬉しゅうないのか」
 と、樽屋たるや三右衛門は、父として嫁入り近い彼女の沈んでいることが、気懸りでもあり、不足でもあった。
 島台しまだい、紅白の縮緬ちりめん柳樽やなぎだる、座敷は彼女の祝い物で一杯だった。家族たちは、毎晩のように、せわしげに、夜をかした。
「いいえ」
 お次は笑ってみせた。
 でも、えくぼに何となく陰があった。
「まだ、何か不足があるのか」
「勿体ない」
「あるなら、言うがよい。……なんだ……なんだお前、泣いてるじゃないか」
「だって、あたし、可哀そうでならないんですもの。こんな倖せな私にくらべて」
「誰が。アア後に残る祖母ばあさんの事か」
「いえ、あの……岩公が」
「何をいうかと思えば、お菰の岩公を。はははは、おかしな奴じゃ、なるほど、岩公もふびんだがした罪業ざいごう、悪因悪果じゃ。あのお武家の熱い根気にも、わしは感じた。もう今夜で、三日三晩、ああしてござる」
「嫌な人ですね」
「お武家として、立派な事だ。でも、若い奴らは、がんとして意地張ったまま、岩公を渡さぬようだが、もう輿入こしいれも近いのに迷惑千万、あしたは、わしが若い者を説いて、渡してやろうと、思うているのじゃ」
「お父さんの情なしっ」
 と、お次は、たもとで父を打つ真似して、
「嫌です、私は嫌」と、かぶりを振った。
 泣いているのである。三右衛門は、単純な処女おとめの感傷とおかしく眺めていたが、果てしのない彼女の涙に、
「なぜ、そんなに」
 と、少しきつい眼でとがめた。
「でも、私は何だか。――お父様、後生ですから、助けてやって」
「そうは行かない。お武家様が、見張っているものを」
「けれど、こうなれば……」と、お次は、一心になって考えたような智慧を、父の膝に甘えてささやいた。
「庄吉をよべ」
 しばらくすると、彼の居間で、手が鳴った。若い者の庄吉は、主人の三右衛門と何か密々ひそひそと話し込んでいたが、翌朝になると、向う鉢巻をした十人ばかりの男達と一緒に、
「それ、積んだ、積んだ」
 と、蔵から二十樽ほどの、沢庵漬を転がし出した。
「届け先は、日本橋の大丸だぜ」
 大八車へ、それを積むと、縄をかけて、勢いよく曳き出したのである。お次は、心配そうに、窓から見ていた。
「さすがのお武家も気がつかない。どうじゃこれでよかろう」
「え」
 にこと、淋しくうなずいた。
 窓からその顔が消えると、じっと、蔵の蔭に立っていた岡本半助は、道をかえて、外へ駈け出していた。そして、乾いた街道を、白い埃につつまれて行く荷車の後から、
かたきっ、佐太郎待てっ」
 と呶鳴った。
 きらっと、陽の光をかすめた刀の白さを見ると、若い者たちは、
「来やがった」
 と、叫んで、われ勝ちに、けた。
 大八車の梶が、どんと前に落ちた弾みに、半助の刃が、樽の縄を、めちゃめちゃに切った。山に積んだその上から、一つの空き樽が真っ先に落ちた。
 ころころと、生き物みたいに、樽が先へ出た。そして、ぽんとふたれると、その中から、ぬかだらけになった岩公が、飛び出した。
「このッ――」
 がつんと妙な音が聞えた。
 畑にもぐって見ていた若い者たちが、思わずわっと言った時は、そこが真っ赤になってもう岩公の首が見当らなかった。
 右に血刀と、左の手に、生々しい首を引っ掴んで、岡本半助は、気が狂ったように、畑の中の裸街道を一目散に駈け出していた。げらげらと笑ってゆく声が、茫然と見ていた若い者たちの耳に残った。
「岩公が殺された。岩公が――」
 と、村の者が、真っ黒に集まって来た。そして、口をきわめて侍をののしった。
 首のない死骸が河原のかまぼこ小屋へ、運ばれた。ここで通夜をしてやろうと、いう者も出て来た。
 すると、小屋の中を、掻き廻していた男が大変なものを見つけた。造り酒屋でかすを絞るのに使う真っ黒な麻の袋だ。それに、岩公がきょうまで、頭を下げて稼いだ金が、ほとんど、一文もつかってないように、くしにして、いっぱいに詰っていた。
 かぞえてみると、ひどいもので、七十四両と若干なにがしになっていた。そして、袋のうえには、なるほど、武家奉公もしたらしい見事な書体で、
下頭億万遍げとうおくまんべんざい消業しょうごう
 と、書いてあった。
 そのほかには、何にもない。
 代官所の認可ゆるしを得て、村では、それから間もなく七十余両の鐚銭びたせんで街道安全の橋普請はしぶしんに取りかかった。
      ×   ×   ×
 月が美しかった。
 大根の花だの、菜の花だの。
 畑の中を提灯ちょうちんがたくさん並んで、江戸の下町へとついでゆくお次の輿こしがゆられて来た。
「おじさん、ちょっと止めて」
 石神井川の上だった。
 普請なかばの仮橋の上に、お次は、駕をとめさせた。紋付袴もんつきはかまの叔父だの伯母だのに囲まれながら、大根の花の村を、じっと見ていた。
「――別れじゃもの」
 と、伯母も、媒人なこうども、駕のうしろでそっと眼をふいた。
(岩公、左様なら……)
 晴れの黒髪から、銀のかんざしを抜き取って川の中へ、そっと落した。――細い月の光が、キラキラと沈んで行った。

底本:「柳生月影抄 名作短編集(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年9月11日第1刷発行
   2007(平成19)年4月20日第12刷発行
初出:「オール読物 五月号」
   1933(昭和8)年
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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