「彦太承知だの」
「む、行く」
「二十日の寄合いにゃ、きっと、顔を出してくれや。村の者あ、おぬしが力だ。腕も弁もあるしの、学問だって、青梨村あおなしむらじゃ、何というても、彦太だもんのう」
 大庄屋の息子と、老百姓が二、三名と、それをきつけてる郷士ごうしの伜とが、こっそり籾蔵もみぐらから帰って行った。
 彦太は、家の裏口を見張りながら、時候ちがいの冷露で、黒い枯れッ葉になった桑畑へ消えて行く人々を、見送っていた。
この子四ツじゃに
ぬかより軽い
軽いはずだよ
稗糧ひえかと夫婦の坊子ぼこじゃもの
坊子ぼこにゃ出ぬ乳も
運上にゃしぼる
藁で髪ゆい、縄帯しめて――
 せた畑を、小作の子が、聞き覚えの味噌煮唄みそにうたをどなって通った。彦太は、この痩地やせちと百姓との宿命を、のろうように、腕ぐみしていた。日が暮れても、たね油の灯がともせない村だった。
「いッそ、くわを捨てて、馬口労ばくろうか、木挽こびきかになろうとしても、役銀をとられるし、油屋、酒屋も株もの、川船で稼げば川運上かわうんじょう雑魚ざこっても、網一つに幾らの税だ。――とても食えぬと、他領へ逃げるにも、もし捕れば打首うちくび。子を生めば胞衣金えなきん、死ねば寺金てらきん。――一体、どうしたらいい百姓だ」
 と考えた。
 飢えて死ぬより、強訴ごうそだ、一揆いっきだ!
 と今、ささやいて行った人々の言葉だの、もがいている眼つきだのが、ひしと、心を噛む。
「どうしても、二十日には、顔を出さねばならないかな。俺が出れば、弱音よわねはふけぬ。自分の火が、村を何十ヵ村も、火にしてしまうが――」
 彦太は、自分の熱っぽい性格が怖かった。
 一人の犠牲で、何十ヵ村の飢えが、救えるものならいいが、この真由伊賀守さなだいがのかみの領土では、繭糸一揆まゆいといっきだの、千曲川ちくまがわの運上騒動だの、また、領主がお庭焼の陶器にって、莫大な費用の出所を、百姓の苛税かぜいに求めたので起った須坂の瀬戸物せともの一揆だのと、彦太がもの心ついてからでも、数えきれぬ程、むしろ旗が騒いだが、一つも、成功した例がなかった。
 人国記にもいわれてる通り、由来ゆらい信州人は、智慾はさかんなるも、争気に富み、郷党和せず、という欠陥けっかんがあるのと、痩地の十万石で、貧乏財政をやりくりしてる藩役人は、狡策こうさくけ、一揆の対抗にはれきっているし、そういう方面でも、兵法の家筋だった。だから、騒いだ後は、いつも、千曲川が赤くなるほど、首謀者の首が、並べて斬られ、結局、百姓は又、何も得るところはなく、
坊子ぼこにゃ出ぬ乳も
運上にゃしぼる
 と、味噌煮唄でもうたって、欝憤うっぷんをやるだけのものになってしまう。

 近年は、その真田伊賀守の家臣で、佐久間修理さくましゅりという名が、百姓たちの怨嗟えんさまとだった。修理は、号を象山しょうざんといい、学者で、砲術家で、経世家だと聞えている。一頃ひところは、目付役兼検見方として、千曲川を改修し、山には檜を植林し、低地には、林檎苗りんごなえを奨励した。又、温泉の利用だの、火薬の製法だの、葡萄酒ぶどうしゅの作り方などをも、才学にまかせて試みた。それはいいが、定例じょうれい助郷すけごうのほかに、毎日、植林その他、無給仕事に、お助けと称して一家の働き手を徴発ちょうはつされる百姓たちは、食えない上に、食えなくなった。
 その佐久間象山が、やっと、藩命で京坂の方へ、派遣されたので、百姓たちは、疫病神やくびょうがみでも追ったように、
「佐久間ばらい」
 といって、祝ったくらいだったが、間もなく、その象山の献策とかで、藩の松代まつしろでは、大砲だの小銃、弾薬、科学器械などを、金もないのに買いこんで、毎日、千曲川では、調練兵が、どかん、どかん、ぶっ放していた。
 当然、その金は、百姓の上へ、税となってかかって来た。百姓たちは、四斤よんきん砲一発、いくらという値を知ってから、どかあん、という音を聞くと、自分たちの膏血こうけつがぶッぱなされるように、気がひけた。
 武器の購入は、年々、莫大な額だった。国事御多端ごたたんとき――という諭令が出たが、どう多端なのか、尊王攘夷そんのうじょういということばや、京都江戸あたりの騒がしいくらいな事は、耳にもしてるが、百姓たちには、その必然性が、認識できなかった。
 で――飢え死にするよりは、と何度も苦い経験のある一揆を、又ぞろ、繰返すらしい不穏ふおんさが、何十ヵ村の同じ痩せ村にうずいていた。
 彦太の家は、割に、戸数の少ない村の小庄屋だったが、遺伝的に、血の気の多い人間を代々生んでるので、萎縮いしゅくしてる百姓たちからは、事があると、頼られ、反対に、藩からは、にらまれていた。
「親父が亡くなって、まだ、百日も経たねえだから――」
 と、彦太は、それを理由に、廻状かいじょうがきても、寄合いに出なかったが、もう、退ッぴきならないものが、彼へ迫っていた。そして、顔を出せば、三代前の祖父のように、狂的に、火となって、闘うだろう事は、自分の血液が予感しているが、さて、その祖父のやった犠牲が、どれ程後の百姓を生かしたかと考えると、二の足をふまざるを得なかった。百姓は今も飢え、今も苦しい。
「はて、おらは、この生命を、そんな無駄には捨てられぬぞ」
 彦太は、迷っていた。
 その時、表の土間口で、
「彦よ。おるか」
「誰だあ」
「おらよ。中野宿なかのじゅくの茂作よ」
「お。上がらっしゃい」
「うんにゃ、上がるめえ、迎えに来たのじゃ。延徳沖の酒屋の息子な、要助どんじゃ。七年ぶりで、故郷へえったで、一目会いたいといわっしゃる。来られるかの」
「ほっ、要助が、――そうけ。――長う会わんの、おらたあ、腕白わんぱく友達じゃ、行くとも、すぐ行く」
 もう星が出てるが、野良に出ている者は、まだ帰らなかった。彦太は、広い、真っ暗な家を、空っぽにして、出て行った。

 おさな友達の要助は、中野宿の川魚茶屋で、酒の支度をして、彼を待っていた。
 彦太は、会って、驚いた。
「ほッ、おめえ、侍になったんか」
「む、ずっと京都にいたが、今度、佐久間先生のお供を兼て、松代藩へ用事があって帰郷したよ。達者たっしゃかい、彦太」
「ふーム」
 彦太は、うめいて、急に、対等な口がきけなくなった。この地方で、てッぱ屋と俗にいう、馬口労ばくろう相手の居酒屋のせがれが大小、はかままげや言葉つきまで、見違えるようになっている。彦太は、羨望せんぼうと、反抗と、それから自恥を感じた。
「よく二人で、この中野宿の道場へ、毎晩通ったもんだったけな。あの、棒振り剣術の先生は、まだやっとるか」
「おるが、この頃は、中風ちゅうぶで剣術どころでねえでの。片手にくわ、片手に鎌で、箸を持つ手は、百姓にはねえだ。何んせい、こッぴどい運上やら、助郷やら」
「相変らず、年貢ねんぐ愚痴ぐちか。村は、変らんなあ」
「佐久間修理が悪いというこった」
「象山先生は、達観たっかんの士だ。百姓たちには、あのお方のえらさがわからん。それは、時勢が分らんからだが」
「そうかの。おめえ、象山びいきになったか」
「む。……ウム。……それや拙者も、村にいた頃は、無智の仲間じゃったから、象山先生の馬面うまづらが、しゃくで、石を抛った事もあるが、上方かみがたへ参って、分ったな。今度、高島秋帆たかしましゅうはん先生の砲式を入れるために帰国されたのじゃ」
「あんな、大砲など、莫大な金をかけて、どうするつもりだ。やくたいもねえ」
「ははは。今に、わかる」
「今に――今にといってれば、一揆いっきが起るぞ。百姓は、もうしぼる血もねえで」
「一揆」
 と、要助は憫笑びんしょうするように、
「おぬし、やる気か」
「おらあ、やりともねえが」
「台所喧嘩、よい程に、やめんか。――今はそんな場合じゃない。外夷がいい内憂ないゆうと、日本は、重大なときだ」
「日本――外夷――」
 彦太の頭は、信州の何ヵ村だけの死活でいっぱいだったが、そういわれると、自分の眼界と知識が、要助とは、格段にかけ違っている気がして、
「そうかなあ」
 と、屈してしまった。
 英、露、仏など、各国の黒船に、日本が好餌として沿海をうかがわれている事実や、それをてという朝廷の攘夷派と、幕府の開港策とが、対立してる事や、志士、各藩の動向――水戸学の運動化――それから、支那の阿片戦争と日本の場合との比較までを――約二刻ふたときも、彦太は、要助から、たてつづけに聞かされて、頭へ詰めきれない程、充血を持って、外へ出た。
「――そうかなあ」
 彼は、ばくと、感動し、漠として、百姓以外の天地と生存を考え、青梨村の家へ、帰るまでに、
「自分が生きるにも、人を生かすにも、百姓では駄目だ」
 と、己れへ結論を与えた。
 そして、馬も鶏も、生きるにたえないような痩地やせちを見わたして、
「要助は、台所喧嘩じゃといいよった。それも、そうかな。領主も食えんので、百姓を食う。海から、外夷が日本を食おうとするなら、大砲もなけれゃなるまい。――飢えて死ぬより、一揆なら、一揆で首をチョン斬られるより、外夷と戦って死ぬ方がましだぞ。第一、男らしい。第二には、家名もあがる」と、つぶやいた。

「犬も飯を食うだろうに、江戸って所は、何処を曲がっても、野良犬が多いなあ。これだけの犬の食物があれゃ、俺の村は、一揆など起さずに済むが」
 と、彦太は思った。
 その野良犬と、町廻りに、何度かおびやかされながら、真っ暗な問屋町を、彼は、探して歩いた。そう夜半という程でもないのに、どこ一軒、あかりの洩れている家はない。今こえて来た狭い橋の下から湧くのであろう、腐った汐の匂いがいっぱいにするやみだった。
「あ。此処ここここ」
 幼少の時、一度見た記憶がある。戸をおろした六けん間口まぐち艾屋もぐさやの軒下に、すばらしい大釜おおがまが看板にえてあった。釜で覚えていたのである。
 彦太が、立ちどまったのは、その釜屋艾のすじ向い――弁当仕出し屋の政右衛門の店口だった。
「今晩は――」
 幾度も、戸をたたいて、どなった。
「青梨村の彦太でがす。さま、信州の彦太でがすよ。開けてくんなさい。今晩はっ」
 寝たにしても、このくらい叩いたら――と思っていると、程経て、
「どなた様で――」
 見当違いな、土蔵の金網窓に、灯影がゆらいで、首の影が二つ、
「押し込みの御用意でもねえようだな」と、ささやき合ってから、
「唯今、お開けしますから、お待ちなすって」と、答えた。
 主人の弁政は、奥で、めかけあがりの後妻と、寝酒をんでいたが、あきれたように、
「えっ、信州のおい野郎が来たと。あの、彦太のやつ、とうとう、出て来てしまったのか」
 彦太は、店の若者について、もうふすまの内に立っていた。丸ッこい顔に、羞恥しゅうちたたえて、そこへ、ちょこなんとかしこまった。三十近くにみえるが、まだ二十四歳で、小肥りで背が短かった。百姓じまの下に、稽古着を着、紺のもんぺをはいているのである。初めは、にやにや笑っていたが、坐ると、大きな口を真面目にむすび、伯父の顔いろを、団栗どんぐりのような眼でじっと見ていた。
 厄介やっかいなやつだ――
 そういわんばかりに、弁政は、山国から風で飛んで来てそこへ座ったような朴訥ぼくとつな甥を、いつまでも黙って、眺めていた。頭髪を、使いからしのハタキみたいに束ねて後ろへ下げたていや、稽古襦袢けいこじゅばんを近頃の壮士風そうしふうに襟元から見せてる態や、百姓とも浪士ともつかない稚気満ちきまん恰好かっこうに、思わず吹き出したくなったが、
「――む。出て来たのか、とうとう」
 おかしさを抑えて、わざと苦りきッた。
 彦太は、思いつめた野望と、羞恥とを、脂肪でぶつぶつしてる顔へ、赤く燃やして、
「へい、出てめえりました。さまのお手紙にゃ、江戸へのぼる事アなんねえという御異見でしたが」
「来たはいいが、――いいがだ。――てめえ一体、田舎の家は、どうして来たのか」
「田地も、馬も、家財も、金に代えて、ここに七十両程、持って来ましただ。伯ッ様の手紙も、よく分りますだが、何せい、思い止まれねえでがす。わしは、誓って、侍になって家名をおこすとはらを堅めましたもんでな。どうか伯ッ様、わしを、侍にしてくんなさい」
「馬鹿ッ」
「へい」
「おおたわけの見本だぞ、てめえは」
「…………」
「いくら、山国で、ぬうと、陽あたりよく育ちやがったとはいえ、馬鹿さ加減にも、程があら。そんな世間か、江戸はな、浪人や無職者で、押し合ってるんだ。おかみでも、持て余して、越中島の寄せ場へ、無宿人を集めたり、台場人足で、仕事をこさえたり、浪人徴募ってんで、ごろ浪人へ飯をくれて京都へ向けたり――」
「ま。あなた」
 後妻のお村が、気の毒そうに、さえぎったが、弁政は耳の蠅でも追うように首を振って、
「――いいか、そういう江戸だぞ。それでも、夜は、八刻やつといや、戸をおろし、御用党とか、攘夷党とか、浪士の押込みに、ふるえ上がってる不景気さだ。勿体ねえ、てめえなんざ、田舎に、じっとしてりゃ、庄屋の小旦那で、ばたの地酒でも食らってるか、茶のみ話に、稲の穂の勘定でもしてりゃいい身分。それを打ッちゃって、江戸へ来る。――けッ、馬鹿も底の知れねえ牛蒡ごぼう野郎だ」
ッ様。ちょ……ちょっと、それは違いますだ」
「何が、違う。去年から、おかしな手紙をよこすと思ったら、侍になりてえ? ……。笑わかすな、何だ、てめえの頭は、襦袢じゅばんは」
「これや、国境で、藩の者に捕まると、いけねえで、変えたのでがす。わしが、村の近くで、てッぱ酒売る家の息子で、要助って者も、上方かみがたへ行って、立派な侍になったで、わしにもなれねえ事は」
人真似ひとまねかあ、てめえの発心ほっしんは」
「心外でがす。田舎も、ッ様の考えてるようなもんではなく、一揆か、飢え死にかのさかいでがす。わしら、村にいる以上、そんな家の声を聞けば、犬死と知りながらも、どんな事、仕出来しでかさぬとも限らねえ性質でがすし、それで、百姓衆が、救えるもんならいいが、何度やっても、揚句あげくは裏切者が出て、正直者が、獄門にかるだけのもんで、領主は領主、百姓は百姓、これや元々、痩せ地の上の台所喧嘩でがす。そんな、一揆のお先棒にかつがれて、河原で首をぶち斬られるよりは、さむらいになって、自分も生き、人も生かす工夫をしてえと思うのでがす。侍にならなけれゃ、その力は、持てねえと思いますで」
 感情が先に走って、彦太は、いいたい事が、いえないのだった。鼻を熱くして、こぶしでぼろぼろ流れる涙をこすった。お村は、義理の仲だし、弁政も、江戸人の通癖で、口ではくそけなしにしてるが、肚の中では決してそうでない事を読んでるので、
「ま、ま。話は明日にして、彦さん、どてらを上げるから、脚絆きゃはんだの、そんな物、脱いでおしまい、それに、お腹も減ったろうし、支度のできる間、銭湯へでも行っといでなさい。店の者をつけて上げよう。――誰か、彦さんに、町の湯を、教えておあげよ」
 無理に、立たせて、彼を湯へ出してやった。

 彦太は、弁政の店の帳場へ坐った。
 故郷の家産一切をまとめて来た七十余両は、そのまま、伯父の手へ預けて、帳付けだの、若い者の手伝いをしていた。
 田舎の食えないと、江戸の食えないとは、根本的に違ったものであることに、彦太は驚いた。
 弁当のがらには、白い飯が、ろくに箸もつけず、残って来るし、料理屑は、どんどん捨てるし、これじゃ、野良犬がえるはずだと思った。
「どうして、これで江戸が不景気か」
 彦太には、わからなかった。
 問屋町辺の町人生活は、彼の眼で眺めると、松代藩の武士や、お城の生活よりは、よほど贅沢で放漫だった。この中にこそ、……と思ったが、誰も、そんな話にふれる者はなく、河岸の者や、附近の町人が集まると、黒船がどうの、尊攘党がどうのと、昂奮した。時々には、近くに、時事を諷した落首が貼られたり、瓦版の呼売りが、京都の志士の暗躍や、市井の押込み沙汰などを、触れ廻った。
「小塚ッ原で、京都の梅田雲浜うんぴん頼三樹三郎らいみきさぶろう、橋本左内、その他、京都の志士が、首を並べて、斬られるそうだ」
 そんな、噂もあって、彦太は、胸が躍った。そうした若い人達が、新しい社会をおこすために、幕府顛覆てんぷく目企もくろんでいることも、少し分ってきた。百姓の食えない事が、結局、藩主の所為である前に、幕府の制度がさせている事であるのも分った。
「要助がいったのは、ほんとなのだ。そして俺が、侍になって、自分も生き、人を生かすと決めた方針にも、誤りはないぞ」
 彦太は、帳場のひまを見て、撃剣を習いに通った。
 楓河岸かえでがしに、伊能一雲の子、伊能矢柄が住んでいた。一刀流で人格者だった。
「出精すれば、上がる質だ。まずに、やんなさい」
 代稽古が、いった。
 彦太は、多少田舎で下地があったし、何でも、侍になろうという気ごみが、竹刀にも燃えてるので、伊能矢柄にも、愛された。
 弁政は、女房のお村に、
「どうだ、あいつ、思いとまる風はないか」
 時々、訊ねた。
「思いとまるどころですか、伊能先生の道場へ通って、この頃は、まるで侍気取り、弁政には、浪人が帳場をしてるって人がいってるくらいですよ」
「しようがねえな」と、苦笑した。
 しかし、弁政は、おいのそうした熱心さが、可愛くもあった。
「何とか、してやらなければなるまい」
御家人株ごけにんかぶでも買っておやんなさいな。侍の株は、この頃、値も下落さがっているし、売りたい方は、ザラだって事ですよ。何でも、二本差せさえすれば、本人も気が済むんでしょうから」
「心当りへ、頼んではあるのだが」
割下水わりげすいの御隠居などは」
笹本ささもと様なら、顔はひろい」
「きょう、さらいの撒札ちらしが来てるんですよ。彦さん連れて、行ってみましょうか」
「あんな、がさつ者を連れて行ったら、御連中が、眉をひそめやしねえか」
「いつまで、あの人も、田舎者じゃありませんよ。私にまかしておいて御覧なさい」
 伯父によばれて、彦太は、かしこまった。
「何か、御用ですか」
「お村と一緒に、お旗本笹本金十郎様のお屋敷へゆくのだ。稽古着など、下に着てねえで、きちんと支度をしろ。事によったら、侍の株を、御周旋ごしゅうせんして下さるかも知れねえ」
「有り難うございます。それがかなえば、わしも――」
 彦太は、もう希望をつかんだように、胸をわくわくさせ、伯父夫婦へ、額をつけて、礼をいった。
「礼は、はやい。店の大事なお花客とくいだし、先はお旗本の御隠居、どじをするなよ」
「はいっ」
 彦太は、堅くなって答えた。

 芽柳が、南割下水のゆるい流れと人通りの少ない往来に添って、並木になっていた。
「ここが本所ほんじょか」
 彦太は、大川からこっちへは、初めて来たのだった。お村は、
「この辺、晩になると、夜鷹よたかが出て、彦さんなんぞ、通れない所だよ」
 と、教えた。
「夜鷹って、何ですか」
「ホホホ。まだ、知らないの」
 訊き返す間もなく、お村は立ちどまって、顎をしゃくった。
 広い宅地と、それを囲む塀や木立や、そしていかめしいさびを持った冠木門かぶきもんに、彦太は、
「ここか」
 と、つばをのんだ。
 六尺でもいそうな袖門のくぐりを、お村が、気軽に入って行ったので、彦太は、はらはらした。そして、玄関の前までくると、奥の方で、三味線の水調子が聞えたので、又意外に思った。
 式台の下には、いきな女下駄や、日和ひよりや、駒下駄や草履が、いっぱいに並んでいた。取次について、長い一間廊下を、書院まで通ると、
「おう、小網町の内儀か、めずらしいのう」
 音声の高い――年五十がらみの面長で人品のいい老旗本が、正面の脇息からそういって、
「きょうは、社中が寄って、さらいやら、新曲の評をし合うているのじゃ。ゆるりと、遊んでゆけ」
「いつも、お弁当の御註文をいただきながら、店の者まかせに、御不沙汰ばかりを」
「ま。商売の話はよせ」
「ほんに、皆様も、お揃いのところで」
「弁政の夫婦は、金溜め屋じゃという評だぞ。お前も、社中になって、ちと、芸事にでも金をかんと、わしが、御用党になって押込むぞよ」
「ま、殿様、御冗戯ごじょうだんばかりを」
 すると、旗本隠居の笹本金十郎を取り巻いて、ずらっと、書院いっぱいに居並んでいた男女が一斉に、手を打って、
「ようよう、お村さん、わちきなどもす、覆面して、当世流行はやりの押借りと出かけやすぜ。なあ、みんな」
繰込くりこもうじゃござんせんか、今夜あたり」
「この同勢で――」
 と、一人が、俳優の声色こわいろもどきで、
「御時勢よそに不埒ふらちな金持、軍用金の調達申しつける、嫌と申さば――てな事で、一つ、畳へ刀を突き立てるんでげすな」
「ははは、その事その事」
 はすな女達の笑い声も交じった。
 仲の町の老妓らしいのや、辰巳の羽織かと思われる仇ッぽいのや、堅々しい奥様風や、町娘や、雑多にいた。
 男たちの方は、なお、階級が区々まちまちで、武士もいれば、本多髷の旦那もいる。又、銀鎖のたばこ入れでヤニさがっている唐桟縞のゲビた町人、町医者や、指のふしの太い職人ていの男も、げたげたと、はばかりなく、笑っていた。
 次の間には、緋もうせんが敷いてあって、見台と、華やかな座蒲団が二つ、細棹ほそざおの三味線が一挺、その前においてある。
「旗本? これが旗本の?」
 彦太は、あっけにとられていた。
 すると、その笹本金十郎が、
「お村。うしろへ連れて来たのは、誰じゃ」
「申し遅れました。うちの人の甥で、彦太という者でございますが、折入って、殿様に、お願いがあって、連れて参りました、どうぞ、よろしゅう……」と、お村のことばが終る頃、彦太は、気がついて、頭を下げた。
 金十郎は、のみこんで、
破歌はうたの入門か」
「いえ、その方は、からきし、不器ッちょな人間でございまして――」
「ム、そうか。後で聞こう、後で聞こう」
 気軽に、うなずくと、金十郎は、男女の中から、畳屋寅右衛門とらえもんの顔を拾って、
日本堤にほんづつみ。一つらんか」
 寅右衛門は、煙管きせるで、自分の座から三人目の男をしゃくって、
薪梅まきうめさん、どうかお先へ」
 すると、その男は又、向う側に、羽織袴でいかめしく座っている武家へ、辞儀を送って、
出淵でぶち様。いつぞや、御家中の岡村の旦那から伺いますに、其角きかくの句を読み入れた新作をおくんなすって、それを藤七が節付ふしづけしたってお話じゃござんせんか。そういうものを一つ伺わせて戴きたいもんで」
「いやあ、あれはまだ、お耳に入れるほどでない」
御謙遜ごけんそんでげしょう。のう、みんな」
「それは、聞きたい」
 金十郎も、一緒に和して、
「出淵氏、所望しょもうじゃのう」
「唄うは苦手、身ども、どうも声が悪うて」
「どういたしまして――」
 と、側にいる老妓が、
「姫路侯のお留守役は、お留守居役中での渋いのどだそうで、平清ひらせいや両国あたりでは、もっぱら評判でござんすが。ねえ、小秀ちゃん」
「御卑怯ですよ」
 自分の持ちものらしい若い妓に、出淵は、突きだされて、年がいもない顔を赤らめた。しかし、内心は得意でもあるらしく、
「然らば」
 と、次の間の見台けんだいの前へ坐った。
「役不足でござんしょうが」
 と、老妓が、側へ坐って、細棹ほそざおを膝へのせ、糸をあわせた。
 姫路侯の留守居役、出淵惣次は、くちびるをめ、そして、眼をつぶった。成程、老妓がいったのは、世辞ではなく、多年酒席に洗練されきった、さびのある美音だった。
わがものと思えば軽し
傘の雪
恋の重荷を
肩にかけ
 彦太は茫然として留守居役の顔を見ていた。さしも粋な破歌はうたも、細棹の調べも、彼の耳には、一種の物音に過ぎなかった。頭の中には、田舎の痩せた田地と百姓の影が映っていた。そして松代藩の江戸の藩邸にも、留守居役はいる筈だと思った。
「――出来ましたあっ」
 ぱちぱちと、人々は手を叩いた。
 それから、畳屋の寅右衛門だの、誰だの、彼だのが、交わる交わる、唄自慢をし合って、日の暮れるのを知らない。
 彦太には、後で聞いた知識だったが、旗本隠居の金十郎を中心にしてるこの社中は、江戸の破歌を革命して、歌沢うたざわという低徊趣味な小唄をおこそうとして、ひどくり固まっている連中だった。職業、貴賤をとわず、ふしの工夫と、のどのしぶいところを、競い合って、仲の町や、柳橋や、辰巳たつみへもうひろまっていることを、得意にしていた。
 灯がともると、酒宴になった。弁政の折ですませる日もあろうが、きょうは、平清から板前が出張って、贅沢な向付むこうづけや熱い椀を膳にして配った。
 彦太は、自分の置場をもちあつかって、
「伊能先生の道場へ行かなくっちゃなりませぬで、わしは、一足先に……」と、お村へささやいた。
 お村は、帰りそびれて、酌された盃を幾つも前にならべていた。
「じゃ私は、皆さんがおひらきになった後で、殿様へ、あの事をお願いしておくから」
 といった。
 彦太は、もうどうでもいい気がした。門の外へ出て、芽柳の上の夕星を仰いで、ほっと、かえったような心地だった。すると、樹蔭こかげから、白壁みたいな顔にみだらな笑みをもって、にやにや、近づいてきた女が、
「ちょいと」
 彦太のたもとを、手に巻きつけた。
 彦太は、びっくりして、
「なんだっ」
「ね……いいんでしょう」
「なにが、なにが」
「あそんで……さ」
 頑固な彦太の腕が、いきなり、夜鷹の胸をつきとばした。袂がほころびて、ばくばく口をあいているのも知らずに、彼の逃げ飛んでゆくあしは、後も見なかった。

 雪の江戸が、朝の一瞬によごされて、騒いだ。
「井伊掃部頭かもんのかみが――御大老が、桜田で、水戸の浪人たちに、やられたってえぞっ」
 弁当殻べんとうがらを集めてきた店の若い者が、昂奮して、帳場の彦太へも、小僧へも、奥へもどなった。
 彦太は、憂欝な眼をあげて、雪に埋った三月の往来をぼんやり眺めた。
 弁政は、脚絆きゃはんをかけて、店口で草鞋をはきながら、
「彦太、行って見ねえか」
 彦太は、首を振った。
「行っといでなさいまし……」
 急激に、社会はうごいて行った。首が集まれば、世間は、この状態が、どうなるか? という話題だった。大老殺害の記憶が消えないうちに、又、坂下門に、白昼、安藤対馬守つしまのかみの兇変があった。次の年には、もう大和やまと上方かみがたは、いくさだという、つきつめた噂が、江戸を暗くおおった。
 久世様お留守居屋敷、上弁七十人
 浜町様、仕出し、椀だね十七人
 清風亭へ、月ざらい弁当百二十人
 彦太は毎日、そんな文字を帳面へなすりつけていた。無口が彼の性格になりかかって、店の者は、彼の人間が変って来たといった。
「はやく、どうかしてやらなくちゃいけねえ。預かってる七十両を、俺が、融通ゆうずうでもしちまったように思ってるんじゃねえか」
「そんな事はありませんよ」
 お村と弁政も、彦太が、帳場から往来ばかりじっと見ている眼に気づいて、時々、心配はしているらしかった。
 帳場格子に、ひじをついて、彦太はまったく往来ばかりじっと見ていた。夜こそ淋しいが、昼間は、無数の脚がそこを通った。――りきれた浪人の草履、女の白いかかとはかまの折目正しい白足袋しろたび裾模様すそもよう、と思うと――あだな左褄ひだりづま、物売りの疲れた足。
 それから、野良犬、野良犬、野良犬。
「地べたが流れてゆく――世の中が移ってゆく――。して俺は」
 発作的ほっさてきに、彦太は、帳場の中から突っ立ったりする事があった。だが、この紛雑ふんざつした世相のどこへ一体自分を投げこんだら正しいのか、彦太には、見当がつかない。
 帳面ちょうづらで見ると、高値たかい仕出しの料理や、贅沢な重箱物が、船宿や、妾宅や、ばくち場や、およそ享楽的な集合所へ、どんどん出ている。何が不景気で、どこがいくさだか、数字は、反対を示している。
「一体、世の中ア、どうなるんだ?」
 口癖にいうその言葉を、地震にれた感能とひとしく、江戸の半面は、享楽してるようにも見える。
 で、彦太も、いきみたいに、時々、独りいうことがあった。
「一体、どうなるんだ! この世間は」

 伯父の弁政も、お村も、一緒になって、腹を立てた。
「今になって、嫌だなんていわれちゃ、私たち夫婦が、何といって、割下水の殿様へ、顔向けがなるえ。それじゃ、笹本様へ、まるで、からかい半分にお願いした事になるじゃないか」
「彦太。てめえは、余り話が長びいたので、すねたんじゃねえか。一度、ひきうけたからにゃ、黙っていても、骨身を砕くのが俺たち夫婦の性分なんだ。御家人株ごけにんかぶなんざ、売り手はくさる程があるが、先へゆく程、値は下落おちる様子だし、又、先の家がらや、娘があるなら娘も、出来るだけいい筋をと、殿様も、念を入れて探して下さるからこそ、長くもなったんだ。――それをてめえ、有り難えと思わず、ふさいで、さアあったという段になってから、じぶくるなんざあ吾儘わがまますぎるッてもんだぞっ。俺たち夫婦を、板ばさみにして、腹癒はらいせする気かっ」
 二人の言い条である。
 彦太は、平謝ひらあやまりに謝った。その話は、時間と無言のうちに、解消されて、伯父夫婦も忘れ去った事だとばかり思っていた。
 ところが、伯父夫婦と、割下水の笹本との間に、話は、すっかり進んでいて、急にきょう、例の道楽者の社中である船宿の薪梅で、取引をしようというのだった。その士格の売主うりぬしは、小普請目見得格こぶしんめみえかく小牧甚三郎こまきじんざぶろうという御家人ごけにん、一人娘があるから、むこの形式をもって継いでくれれば、万端ばんたん都合つごうがいいという。――そして、こっちの身がらは、一切承知だし、株の値段も、最初は百二十両を希望していたのを、弁政夫婦が、こぎつけて、まとまったら、七十五両に負けようとまで、内談はできているのだった。
「うんか、嫌かは、家付の娘をてめえが見ての上だが――」
 と、弁政は、ここで、りきんだ。
「自慢じゃねえが、掘出し物だ。別嬪べっぴんだ。それに、歌沢の社中で、糸もいける。まあ、見てからにしろ、なあ彦太」
 四囲の事情は、彦太のためらいを許さなかった。彦太は、はらをきめた。
「伯父さん、見なくっても、ようございますから、何分――」
「それがいけねえ、承知なら、機嫌きげんよく、小牧こまき父娘おやこに、会ったらいいじゃねえか」
 で――彦太は、連れて行かれた。
 娘は、おぬいといって、二十二だという。彦太は、単純に、美人だと感じた。しかし、七十幾両の金が、美人の娘の前で、あかくさい御家人の父親と、取引される時、彼は、顔をそむけた。
 帰り道に、伯父と別れて、彦太は、撃剣の師である伊能矢柄の道場へ寄った。きょうは、稽古よりも、師の矢柄に、直接、訴えてみたい気持だの疑問を、いっぱいに抱いていた。
 しかし、彦太は、例の訥弁とつべんで、師の前に坐ると堅くなってしまった。矢柄は、彼が近く御家人の跡目をついで、士格になるという事をおよそ聞くと、
「それはよかった。腕では、もう立派に武士だけのものはある。大小を帯びて、大小に恥かしい貴公ではない。そう、謙遜せんでもよいわ。何か、祝おう」
 と、いった。
 彦太は、空しい気持で帰った。入家の日どりや支度が、伯父夫婦の手ですすめられた。彦太は、帳場から往来を見ながら爪を噛んだ。
「俺の生きる所は、娘付きの御家人の屋敷でもなし、江戸でもなし、ほかにあるぞ」
 じっと、うごく地面を見た。ぢりめん、福草履、八幡黒やわたぐろ鼻緒はなお、物乞いの黒い足――野良犬、野良犬。――絶えまなく、雑多な人間のあしは時を織っている。
「まちがいはない、この人間達の脚を、一度、焼ッ原から、出直させるこった」
 彦太は、信念の唇を噛んだ。
「俺の体を、役立てる仕事は、千曲川ちくまがわのお刑置場しおきばへ坐るほかに、たしかに、もっとしていい事があった。――七十両は、どうせ今に、路頭に迷う父娘へ涙金をくれたと思え」
 入家の日が来た。
 彦太は、聟殿むこどのだった。
 派手ッぱりな伯父夫婦は、その一夜のために、神田祭りみたいな金づかいをした。割下水の笹本隠居を初め、社中の祝い物は、根太も土台も腐りかけている古い御家人屋敷へ、積みこまれた。師の伊能矢柄や、同門からも、柳樽が届いた。
「めでたい」
 と、みんないった。
 娘付きで、祖先からの士格を売った老御家人も、
「いよっ、めでとうござる」
 と、抜け歯の間から、ほざいた。
 彦太だけは、浅ましいものへそむけるように、顔を伏せていた。そして、無駄に消費される酒だの、祝い物だのを、今でもかすかに残っている彼の百姓気質が、勿体ないものだと感じていた。しかし、それを贈ってくれた人々の好意も、伯父夫婦の派手な散財も、気の毒とは、ちっとも思わなかった。
「どうせ今に、炎の中へ、捨てられる物だ」
 そう考えていたからである。

 酔う者は、酔いつぶれ、帰る人々は、帰った。聟である彦太と、花嫁である家付きの娘とは、当然、一室へはいった。
「悪い気持じゃないなあ」
 彦太は、生れて始めて、ひっそりした深夜の灯と金屏風とに囲まれて、女性と向いあうのだった。
 家付きのおぬいは、灯のそばに、凍った寒椿かんつばきみたいに、じっと、俯向いていた。彦太は、こんな美しい襟あしを見たことはなかった。
 生涯、この家に、踏みとどまる気のない彦太は、肚をきめた最初に、売物の士格の添え物に過ぎない娘には、当然、良夫おっととしての行為は避けようと考えていた。今夜の席にいる間も、その考えは、変らなかった。
 だが、彦太は、彼女のにおいと襟あしが誘うものに、勝てなかった。
 ふいと、気が変った。
「代価が払ってあるのだ。親と同意でないわけはなし、俺が去れば、又、後の男へ、土蔵付き売家で、売りに出る娘。何を、あわれがることがあるものか。――割下水の柳の下からたもとをひっぱる女と思っても、不徳じゃない」
 でも、彦太は、体がふるえた。
 お縫は、俯向いてる上に、さらに、花嫁の重げな髪を、うつ向けた。
「…………」
 彦太は、彼女の手へ、手を触れた。
 何もいえないのである。
 すると、お縫は、とうとう顔を、畳までくッ付けてしまった。そして、の泣くような声で、
「ゆ、ゆるして下さいまし、父の、苦境を救いたいばかりに、こ、こんな御縁を結びましたが、私には、さる御直参ごじきさんの御次男で、言いかわしたお方があるのでございます……」
「えっ?」
「ほかに、女子おなごをお持ちなさろうとも、決して、苦情がましい事は申しませぬ故、あなた様を、あざむいた罪は、ゆるすと、仰っしゃって下さいませ。ゆるさぬと、仰っしゃられたら、私はここで、自害するよりほかございませぬ」
 畳へつけた顔の下に、懐剣を持って、すすり泣くのだった。
「ウーム、成程っ」
 毎日、往来の脚を見ていた彦太も、江戸が、ここまで墜ちて来ているとは、考え及ばなかった。
 戸外では、野良犬の群れが、さかんにえだした。その中で、人間らしい物が――呼び売り屋が――精いっぱいで呶鳴りだした。
「――さあっ、大変じゃっ、見たか、聞いたか、たった今出た瓦版かわらばんじゃ、瓦版じゃ。大和五条の天誅組てんちゅうぐみが、下火したびと見えたら又しても乱が興った。平野国臣ひらのくにおみや、沢主水正さわもんどのしょう、そのほか、京方の志士浪人ばら、生野いくのの銀山に旗挙げしたとある! うっかりしたら江戸へも飛び火じゃぞっ! くわしいことは読んでお知り――さあっ、瓦版じゃあ、瓦版じゃ」
 彦太は、裏の戸をしずかに開けた。
 草履が足にさわる。
 後ではまだ、すすり泣きが聞えた。彼は、戸の外から、低声こごえでいった。
「もう、泣かなくともいい。俺は、急に先がいそがれて来た。何年かのうちには、鉄砲かついで、西の方から、逢いに来よう、小網町こあみちょう伯父貴おじきへも、割下水わりげすいへも、同じようにいっといてくれればいい。……じゃ、おやすみ」
 閉めると、暁闇の頭上に、星だけが白かった。彦太は、塀をのりこえた。
 きゃッん!
 野良犬が、彼の脚もとから、横っ跳びに走った。すると、辻から、その犬へ蹴つまずきそうに駈けてきた町役人の提灯ちょうちんが、
「こらっ、呼び売り屋、待てっ。――不埒ふらちな奴め、又、御禁止の瓦版を売りおるなッ。――待たんかッ、こらっ!」
 犬も迅い。
 呼び売り屋もなお迅い。
「ははは。ははは」
 彦太は、おどけ絵画の影絵でも見るように、腹をかかえて見送っていた。
底本:「柳生月影抄 名作短編集(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年9月11日第1刷発行
   2007(平成19)年4月20日第12刷発行
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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