金銭の話

 宵越しの金は持たぬなどといふ例の江戸つ子氣質は、いまは國家のためにもゆゆしき罪惡で、なんとかして二、三千圓も貯金してお國の役に立ちたいと思ふものの、どういふわけかお金が殘らぬ。むかしの藝術家たちには、とかく貯金をいやしむ風習があつて、赤貧洗ふが如き状態を以て潔しとしてゐた樣子であつたが、いまはそのやうな特殊の生活態度などはゆるされぬ。一億國民ひとしく貯蓄にいそしまなければならぬ重大な時期であると、嚴肅に我が身に教へてゐるのだが、どういふわけか、お金が殘らぬ。私には貧乏を誇るなんて厭味な、ひねくれた氣持はない。どうかして、たつぷりとお金を殘したいものだと、いつも思つてゐる。恆産があれば恆心を生ずるといふ諺をも信じてゐる。貧乏人根性といふものは、決していいものではない。貯金のたくさんある人には、やつぱりどこか犯しがたい雅操がある。個人の品位を保つ上にも貯金は不可缺のものであるのに、更にこのたびの大戰の完勝のために喫緊のものであるのだから、しやれや冗談でなく、この際さらに一段と眞劍に貯蓄の工夫をこらすべきである。少し辯解めくけれども、私の職業は貯蓄にいくぶん不適當なのではあるまいか、とも思はれる。はひる時には、年に一度か二度、五百圓、千圓とまとまつてはひるのだが、それを郵便局あるひは銀行にあづけて、ほつと一息ついて、次の仕事の準備などをしてゐる間に、もう貯金がきれいに無くなつてゐる、いつのまにやら、無くなつてゐるのである。こまかい事は言ひたくないが、私の生活などは東京でも下層に屬する生活だと思つてゐる。文字どほりの、あばらやに住んでゐる。三鷹の薄汚い酒の店で、生葡萄酒なんかを飮んで文學を談ずるくらゐが、唯一の道樂で、ほかには、大きなむだ使ひなどをした覺えはない。學生時代には、ばかな浪費をした事もあるが、いまの家庭を營むやうになつて以來は、私はむしろ吝嗇になつた。けれども、どうもお金が殘らぬ。或ひは、私は、貧乏性といふやつなのかも知れない。一文惜しみの百失ひといふやつである。一生お金の苦勞からのがれられぬ宿業を負つて生れて來たのかも知れない。私の耳朶は、あまり大きくない。けれども、それだからとて、あきらめてはいけない。お國のためにも、なんとかして工夫をこらすべき時である。結局、私は、下手なのである、やりくりが上手でないのであらう。再思三省すべきであらう。
 私は西鶴の「日本永代藏」や、「胸算用」を更に熟讀玩味する事に依つて、貯蓄の妙訣を體得しようと思ひ立つた。西鶴は、いろいろと私に教へる。
「人の家にありたきは、梅櫻松楓、それよりは金銀米錢ぞかし、庭山にまさりて庭藏の眺め、」と書いてある。全く贊成である。さうして西鶴は、さまざまな貯蓄の名人の逸事を報告してゐるのである。
「この男一生のうち草履の鼻緒を踏み切らず、釘のかしらに袖をかけて破らず、よろづに氣を付けて其の身一代に二千貫しこためて、行年八十八歳、」で大往生した大長者の話や、または、「腹のへるを用心して、火事の見舞ひにも早く歩まぬ」若旦那の事や、または、「町並に出る葬禮には、是非なく鳥部山におくりて、人より跡に歸りさまに、六波羅の野邊にて奴僕でつちもろとも苦參たうやくを引いて、これを陰干にして腹藥になるぞと、ただは通らず、けつまづく所で燧石ひうちいしを拾いて袂に入れける、朝夕の煙を立つる世帶持は、よろづ此樣に氣を付けずしてはあるべからず、此の男、生れ付いてしはきにあらず、萬事の取りまはし人の鑑にもなりぬべきねがひ、(中略)よし垣に自然と朝顏の生へかかりしを、同じ眺めには、はかなき物とて刀豆なたまめに植ゑかへける。娘おとなしく成りて、やがて嫁入屏風を拵へとらせけるに、洛中づくしを見たらば見ぬ所を歩行ありきたがるべし、源氏伊勢物語は心のいたづらになりぬべき物なりと、多田の銀山かなやま出盛りし有樣書せける」などの殊勝な心掛けの分限者の事やら、「ぬり下駄片足なるを水風呂の下へ燒く時つくづくむかしを思出し、まことに此の木履は、われ十八の時この家に嫁入せし時、雜長持に入れて來て、それから雨にも雪にもはきて、齒のちびたるばかり五十三年になりぬ、われ一代は一足にて埒を明けんと思ひしに、惜しや片足は野良犬めにくはへられ、はしたになりて是非もなく、けふ煙になす事よと四五度も繰りごとを言ひて、」やがて、はらはらと涙を流す隱居の婆樣の事など、あきれるばかり事こまかに報告してゐるのである。すべて、仰望して以て手本となすべき人たちの行跡である。
 私は熟讀して、それから立つて臺所へ行き、何かむだは無いかと、むづかしき顏をして四方を見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)せども、足らぬものはあつても、むだのやうなものは一つも發見できなかつた。
 一億國民、いまはこの西鶴の物語の中にある大長者たちの如く、こまかき心使ひして生活をしてゐるのである。私の家の狹い庭に於いても、今はかぼちやの花盛りである。薔薇の花よりも見ごたへがあるやうにも思はれる。たうもろこしの葉が、風にさやさやと騷ぐのも、ながなか優雅なものである。生垣には隱元豆の蔓がからみついてゐる。けれども、どうしてだか、私には金が殘らぬ。
 どこかに手落ちがあるのだ。或る先輩が、いつか、かうおつしやつた事がある。
「自分の收入を忘れてゐるやうな人でなくちやお金が殘らぬ。」
 してみると、金錢に淡泊な人に、かへつてたくさんお金がたまるものかも知れない。いつもお金にこだはつて、けちけちしてゐる人にはかへつてお金が殘らぬものらしい。
 純粹に文章を創る事だけを樂しみ、稿料をもらふ事なんぞてんで考へてゐないやうな文人にだけ、たくさんの貯金が出來るものかも知れない。

底本:「太宰治全集11」筑摩書房
   1999(平成11)年3月25日初版第1刷発行
初出:「雜誌日本」
   1943(昭和18)年10月1日発行
入力:小林繁雄
校正:阿部哲也
2011年10月12日作成
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