こなひだ三幕の戲曲を書き上げて、それからもつと戲曲を書いてみたくなり、長兄の本棚からさまざまの戲曲集を持ち出して讀んでみたが、日本の大正時代の戲曲のばからしさには呆れた。よくもまあ、こんなものを、書く人も退屈せずに書いたもの哉、讀む人も退屈せずに讀んだもの哉、さうしてこんなものでもたいてい大劇場に於て當時の名優に依つて演ぜられたものらしいが、よくもまあ、名優たちもこんなつまらない臺詞を大眞面目で暗誦したもの哉、よくもまあ、觀客も辛抱して見てゐたもの哉、つくづく呆れ、不愉快にさへなつた。
 女  此頃お仕事をなさいませんのね。
 男  出來ないのです。行き詰つて其處から奧へどうしても突き入れないんです。
 女  今にお出來になりますわ。せきとめられた水がせきを破つて出るやうな勢で。
 馬鹿にするな、と言つてやりたい。これはほんの一例であるが、まあ、たいていこんな按配で、とても讀んで行けない。戲曲に限らず、大正時代の文學で、たいへん有名なものでも、今讀むと實にひどいのが多い。いちど全部、大掃除の必要があるやうに思はれる。それで、その戲曲の話だが、いろいろ讀んで、私にはやはりチエホフの戲曲が一ばん面白かつた。チエホフの有名な戲曲は、たいてい田舍の生活を主題にしてゐる。いま私は、戰災のため田舍暮しを餘儀なくされてゐるが、ちやうどいまの日本の津輕地方の生活が、そつくりチエホフ劇だと言つてよいやうな氣さへした。津輕地方にも、いまはおびただしく所謂「文化人」がゐる。さうしてやたらに「意味」ばかり求めてゐる。たとへば、「伯父ワーニヤ」のアーストロフ氏の言の如く、
――インテリゲンチヤには閉口です。あの連中は我々の善良なる友人であるが、考へが偏狹で感情はうそ寒く、自分の鼻からさきの事はまるで見えない……何の事はない、ただもう馬鹿なんです。少し利巧な見ばえのするやうな人間は、これはまたヒステリイ、疑ひと卑屈に蟲食はれてしまつてゐます……かういふ手合ひは愚痴を言ふ、人を憎む、病的に讒謗を逞しうする。そして人に接するのにも、わきの方からそつと寄つて行つて、じろりと横目で見て、「ああ、あれは變態だ!」とか、「あれは法螺ふきだ!」とか一口に言つて片づけてしまふ。ところが、例へば私の額に、どういふレツテルを貼ればいいか分らないやうな時には、「あれは妙な奴だ、どうも妙な奴だ!」と言ふ。私が森がすきならこれも妙、私が肉を食はなければこれもやつぱり妙だと來る。まあ、かう言つたやうなもので、自然や人間に對する素直な、清い、鷹揚な態度は既にないのです……ない、全くない!
 それからまた「櫻の園」のトロフイーモフ氏の言の如く、
――僕の知つてゐるインテリゲンチヤの大部分は、何物も、求めてゐないし、さうして何一つ仕事もせず、勞働に對しては今のところ無能です。彼らは自らインテリゲンチヤと稱しながら、召使に向つては「お前」と呼び捨てにするし、百姓などはまるで動物扱ひにして、ろくすつぽ勉強はせず、本氣に讀書といふ事もしない。全く何一つしないで、科學もただ口先で云々するだけだし、藝術の事だつてろくろく分りやしないんです。その癖、みんな眞面目で、みんな嚴肅な顏をして、みんな高尚な事ばかり言つて、哲學者氣取りでゐますが、それでゐて我々の大多數は百人のうち九十九人まで、まるで野蠻人のやうな生活をして、ちよつとどうかすると、すぐいがみ合つたり、惡口をつき合つたりします。そんなわけで我々の口にする美しいみたいな話は、みんなただ自他の目を誤魔化すために過ぎないのです。それはもう見え透いてゐます。現にこの頃やかましい勞働者の小兒預り所は、一體どこにあるんです? 國民圖書館はどこにあるんです? 一つ教へて下さいませんか。そんなものは小説に書いてるだけで、本當にはまるでありやしない。あるものはただ垢と、凡俗と、アジア風の生活ばかりです……僕はあまり糞眞面目な顏が、おそろしくもあれば嫌ひでもあります。僕は糞眞面目な話を恐れます。それよりいつそ默つてゐた方がいい。
 さらにまた「三人姉妹」に於ては、トウゼンバツハ氏とマーシヤさんが、次のやうな會話を交してゐる。
トウゼンバツハ――二百年三百年後はおろか、たとへ百萬年の後でも、生活はやはりこれまでの通りです。我々に何の關係もない――少くとも、我々の到底知ることの出來ないやうな、それ自身の法則に從ひながら、生活は永久に變ることなく、常に一定の形を保つて續いて行くでせう。渡り鳥、まあ、例へば鶴などが飛んで行くとする。そして高級なものか低級なものか、とにかく、どんな考へがその鶴の頭に宿つてゐるとしたところで、彼等は依然として飛んで行きます。そしてなぜ、どこへといふ事は知らないのです。たとへ、どんな哲學者が彼等の間に現れようと、彼等は現在も飛んでゐるし、また未來も飛んで行くことでせう。何とでも勝手に理窟をこね※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)すがいい、おれ達はただ飛べばいいんだつてね……
マーシヤ――それにしても意味といふものが――
トウゼンバツハ――意味ですつて……いま雪が降つてゐる、それに何の意味があります?
 津輕地方のインテリゲンチヤたちも、實にこの「意味」の追及に熱心である。月日は流れる水の如く、と言へば、それはどんな意味ですとすぐに反問する。
 所謂サンボリスムの習練などは全く無い。

底本:「太宰治全集11」筑摩書房
   1999(平成11)年3月25日初版第1刷発行
初出:「アサヒグラフ 第四十五巻第十四号」
   1946(昭和21)年5月15日発行
入力:小林繁雄
校正:阿部哲也
2011年10月12日作成
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