美しい日本の歴史

 一夜、ある映画館で私はつい飛んでもない自分の阿呆をあたりのつつましい観客たちに暴露していた。人気者のユル・ブリンナー主演の「大海賊」を観ているうち、誰もがシュンとしていたラストの恋人との別れのシーンへ来てつい私はクツクツ笑いが止まらなくなってしまったのだ。
 主役の海賊のブリンナーが恋人の胸をつき放して言いつづける。『祖国のない海、定住のない海。君は連れて行けない』『君は残れ。愛すればこそ、永遠に愛すればこそ、君を連れて行くわけにはゆかないのだ』。どうもお古いセリフである。
 だが私は、それでおかしくなったわけではない。ちょうど時代もこの映画が扱っている十八世紀ごろの日本にあった一組の男女を思い出して、つい二重唱に画面を観ていたせいなのだった。では日本版のそのラヴ・シーンとは何かというと、大ざっぱに言って、幕末維新の先駆をなした天誅組の首領、藤本鉄石(真金)にこんな一話があったのを、書名は忘れたがふと思い出したのである。
 淡路島の洲本に、廻船や穀問屋などしている旧家があり、当時、志士達のパトロンだった。鉄石も西遊中に、長らく滞留していたことがあって、その洲本屋の娘に絵など教えているうちついいい仲になっていた。しかしその後、いよいよ天誅組一味の大和旗挙げの機も熟したので、鉄石は淡路へ渡って、旧恩のある洲本屋へそれとなく別れを告げ、そして一晩はそこに泊った。
 すると翌朝、いざ立ち際になると、前夜は得心していたはずの娘が俄に泣きみだれて、どうしても一しょに連れて行けといっておさまらない。鉄石も弱ったろうが、然し四十男の彼でもあった。
『よしよし、泣け泣け、連れて行く連れて行く』
 子供をあやすように泣きじゃくる恋人の背を撫でてやった。
『ほんとに』
 と、彼女はうれしげに涙を拭いた。鉄石は大きく『うん』と、うなずきながら、なに思ったか、彼女の鏡台の白粉ツボへ指を入れて、自分の鼻の頭へその白い物をすこしくッ付けて見せた。娘はハッとしたきりで言うべき言葉も出て来ない。そのすきに男はもう座を去って言い捨てていたという事である。
『いいだろ、こうして連れて行けば。――どこまでもお前の匂いは忘れッこないよ』
 この話を、私は総天然色の大がかりなセシル・B・デミル指揮の現代版へ二重写しとして観ていたものだから、何ともはやユル・ブリンナーの藤本鉄石も不粋なでくの坊に見えて手が届くものなら彼の野暮にシャチコ張ッた鼻の頭へ白粉をつけてやりたくなっていたのだった。
 松ニ古今ノ色ナシというが、どうもお約束のラヴ・シーンや別れの会話などになると、男女の古今も洋の東西もないらしい。その中では鉄石の別れかたなど愛情の東洋的表現ではあるがユーモアで気がきいている。後人の作話かもしれないが、作話とすればなお秀逸の方だろう。近代人のドライでもここまでのドライと救いの両方は持ちえない。

 御成婚の挙式をひかえて、山田康彦氏が東宮侍従長に昇格された。と発表のあった略歴記事のうちにこんな数行が載っていた。
 終戦切迫のさいである。旧陸軍の一部では、皇太子を擁して、なおも戦争をつづけようとする計画があるらしいと聞き、時の山田侍従は皇太子とともに群馬県沼田の山野へ奔ろうとしたという事である。万が一にも、一部陸軍のそんな計画がおこなわれていたら、どうなっていたろうか。とても今日の御盛儀などありえたかどうか分らない。
 もっとも旧陸軍教育からいえば、それはたしかに当時の一策であったであろう。太平記の吉野朝を地で行く考え方になる。だが、あんな国内戦争にすぎない南北朝の乱でも、後醍醐天皇のかず多い皇子たちが、みなどんな末路をとげたか、分っていそうなものである。鎌倉の名所の一ツとなった大塔ノ宮の土牢は嘘だが殺されたのは事実である。尊良たかなが恒良つねなが、成良、義良、宗良、懐良かねながなどの諸皇子たれひとり人生を完うされたお方はない。雑兵に交じって火中を馳け歩いた皇子もある。
 直木賞作家の城山三郎氏の「大義の末」を読みながらも思い出されたが、終戦直後のこと。私の疎開していた奥多摩附近の山の洞窟へ詔勅で解散した溝ノ口陸軍部隊の一部が、弾薬、食糧物資などをかくして、不穏なもくろみをもっているという噂が、あの辺の近村に真しやかに拡がった。つまり解散はしたが『おれたちはあくまで降伏せず』[#「『おれたちはあくまで降伏せず』」は底本では「『おれたちはあくまで降伏せず」」]という彰義隊的な一部の壮烈な同志が、騎虎の勢い、なにか密盟を結んで他日を期していたものらしい。
『どうしました、その後、洞窟の志士たちは。それともあれは、単なる流言だったのでしょうか』
 噂もさっぱり消えかけていた頃、私は土地の警察署長が見えたついでに訊いてみた。すると署長さんは、
『いや調べてみたら、まんざら嘘じゃなかったんですな。しかし、附近の農家などから訊いた所を綜合してみると、いやおかしいの何のッて』
 と、ここでげらげら笑い出して、かねて半信半疑だった私の疑問に、こう結論をつけてくれた。
『いったい人員は、何十人だったのか知れませんが、確かに最初の結束だけはどうやら一本気の本物だったらしいんです。調べたところ、穴の中には武器やら何やら持ち込まれてありましたから。ところがですね。砂糖、油、カンパン、煙草といったような物は、もうあとかたもありませんわ。いちどは慨然と殉国を誓った結束組も、別れてみると、やはり穴ぐらの物資というやつがお互いの心配になり気懸りで仕方がない。そこでこッそり単独で穴ぐらを覗きに行ってみると、果たせるかな、もう先に来たやつが砂糖や煙草に手をつけて、はッきりと減っている。すると自分も馬鹿正直が馬鹿らしくなって持って帰る。といった按配に、毛布からガソリンまでいつかしらお互いにコソコソ持ち去ってしまったもんですな。それやあ、農家もくすねたかもしれませんがね。なにしろ極めて自然にかたづいておりますよ。ええ、赤サビの機関銃などは、進駐軍をつれていって、その後われわれの方で処分しましたがね』[#「処分しましたがね』」は底本では「処分しましたがね」」]

 こんど東宮の御新居となる青山御所の正門寄りの鮫ヶ橋に、以前、お歌所の千葉胤明たねあき翁が住んでおられた。
 千葉さんも戦時中、私とおなじ奥多摩の福生ふっさに一時疎開され、そこでついに亡くなられたが、戦前から私も赤坂表町にいたので、早朝の散歩のついでには、よく私の家の縁先へ寄っては、番茶などすすりながら一ト話ししてゆくことがままあった。
 千葉さんは典型的な宮中の、つまり寄人よりゅうどらしい風骨の歌人であった。明治から三代の天皇につかえたというのが何よりのご自慢である。
 わけて明治天皇のはなしというと時をわすれてはなしこまれる風だった。私も興のままに伺っては、ついその場かぎりで忘れてしまった事の方が多いけれど、忘れえない幾つかの話もある。
 天皇が指揮官として整列を命じられるときというと、極っていつも容易に兵列が揃わない。とかく凸凹がちになる。で陛下は、いちいち側へ行って、その兵の姿勢を直される。
 どうも変だ変だと、ほかの武官たちが首をひねッているうちに、やっとその原因が判明した。兵隊たちの意識的な現象だった。故意に分らないほどずつ、列から出たり引っ込んだりしていた兵が少なからずあったらしい。すると天皇がツカツカ進んでいってその兵の姿勢をただす。つまり兵隊たちは天皇のお手に触って貰いたかったものなのである。

 ある朝、千葉さんが私へ言った。『吉川君、東京じゅうで、電燈がいちばん遅くいた所は、どこだか知ってる?』『さあ。いずれ場末でしょうか』『いや、もう東京全市にランプなど見られなくなっていたのに、まだ何年も蝋燭でいた所があるんだ。皇居ですよ。皇居といっても、宮内省にはの一番に電燈も布設されていたが、明治天皇のご起居なすっていた一郭だけが、いつまでも京都御所以来のままな古風な百目蝋燭でお過しでしたよ』
 これが千葉さんの前おきである。そして、話の骨子は、相手の私から『なぜ?』と訊いて貰いたいらしかった。
 文明開化の恩恵として電燈ほど利便あきらかなものはない。なのに明治天皇のお座所を中心とする諸殿しょでんだけは、宮内省やほかの官衙かんががすべて電燈化されても『電気にしていい』というお許しがないのだった。
『陛下はやはり古風がお好きなのかもしれない』
 宮内当局は内々こうも考えてみた。しかしほかの事では洋風化も決してお嫌いな様子ではない。いや進取の御気風は積極的な方ですらあった。で、折あるごとに、大官たちは電燈のこころよさ、火災の危険もないことなど、それとなくお耳に入れてみては、そこで『いかがでしょう、御便殿なども』と触れてみるが、陛下は『まあよい、まあよい』で、いつか二年余も経ってしまった。
 すると宮内官吏の或る者が、自分のふと気づいた儘を、上司へそっと告げてみた。それは陛下のお座所から諸殿の廊下にまでともされる毎晩の百目蝋燭は一本百匁以上もある大きな物であり数も相当な消費になるが、やがて陛下がご寝所にお入りになると、むかしで言う舎人とねりのような下級宮内官吏が、蝋燭バサミと黒塗りの鑵のような物を提げて、その一本一本のとぼし残りをふッと吹いては鑵に入れて消して廻る。
 そこでこの蝋燭屑が、毎晩のことなので、一年には相当な量になる。しかしこれは半年毎に、宮内省御用達の蝋燭屋が、裏門からそっと引き取って行って、代りにこの蝋屑の“お蝋代”なる金一封が、その係りの袖の下へ内々渡されるという多年のしきたりになっている。それから又、このささやかなるお蝋代の分配にあずかって、彼ら薄給仲間のお座所廻りの小官吏たちは、年末ならそれを家庭の餅代に当てたり、中元ならお盆の用途や女房子のために浴衣の一枚ずつも買ってやったりしていたのである。
『どうも、なにも仰っしゃらないけれど、陛下はちゃんとそれを御存知なのじゃないでしょうか。どう考えても、ほかに陛下が電燈嫌いなわけは思い当りませんし、それにお座所まわりの下級官吏たちの給料は、物価はずいぶん上って来ているのに、いぜん昔の儘ですから』
 こう聞いたので、上司がさっそく調べさせてみると、じっさい彼らの薄給はひどかった。で、その年度の代りに、物価とやや均衡のとれた昇給を行って、それからまた折を見て、陛下に伺いを出してみた。
『いかがでしょうか。吹上からごらんになってもお分りでございましょうが、東京全市すべて夜々あのとおりな電燈の灯の海です。ここのお座所もひとつ電燈になされましては』
 すると、今度はすぐ頷かれたとの事である。
『いいだろう、電燈は結構だ、ひくがいい』
 やはり陛下はおそばの下級官吏たちの薄給と蝋燭屑との不可分な関係を知っておられたのだった。電燈をひけばその年の盆暮から彼らの生計の切廻しがつくまいと案じられていたし、そうかといって、そういう宮内行政の末梢におくちばしを出すのも控えられて、結局、数年のご不自由をしのんでおられたものとみえる。
 私は千葉胤明翁から聞いたこの番茶ばなしを、いつも夜の三宅坂あたりでは、つい思い出すのだった。あの辺から見る日比谷、数寄屋橋、銀座へかけての近年の夜景などは、いかにそんな話などは早や古くさいかをわらっている不夜の虹のようなものだ。しかしすぐ横の暗い静かなお濠の水は、明治の水とも余り変ってはいない。私は錯覚することがある。日本の縮図といってしまえばそれまでだが、考えてみると、東京ッてじつに不思議な風景を両極に持って、しかもそれの調和で保っている構造らしい。何よりもバランスが難かしそうだ。

 夕刊一面の各紙の寸鉄欄(たとえば朝日の素粒子、毎日の近事片々、読売のよみうり寸評、産経の夕拾など)などそれぞれ独自な筆鋒で諷刺と諧謔のうちに快感のある論調をみせているが、とくに毎日の近事片々には、折々、痛烈なこと対者の陣に声なからしむるような筆風がある。もう先月のことにはなるが
高利貸森脇将光が政局の中心と
なる。結構な国の、結構な政治。
 とやったなど、一例といってよい。とかく汚職というような活字も一般観念からして何か麻痺状を呈しているようだが、こう書かれると今さらのごとく現代の奇怪な国会風景に肌を寒うせずにいられなくなる。
 誰かが『現代は、いくら内閣が代っても、結局、田沼内閣になっちまう』と言っていたが、この言葉にも半分の真理は観ていい。もちろん収賄はその破廉恥さや利官意識からいっても、二重三重な罪悪だが、同様に、それをさせる贈賄の風潮にも、もっと厳しい社会悪としての蔑視と糾弾をお互いに持ち合わなければ駄目なんじゃないかしら。どうも収賄の淫婦を責めるに急で、贈賄者の方の間男は、これを逃がしもしていないが、とかく軽く見ている風が今の世間には無くもない。
 賄賂というとよく寛政年度の田沼意次おきつぐが例に出されるが、うところの田沼時代でも、そんな時代を作った罪の一半は、意次の幕閣をめぐる猟官連中だの、一般の民間側にもあったのだと言いたくなる。一体、どの程度、田沼という男が無知で強欲だったかしらないが「匏庵ほうあん遺稿」「甲子夜話」「五月雨双子」など、彼の収賄ばなしには、みなおもしろがってその醜聞を千載に書き遺している。
 大老の井伊直幸なおゆきでさえ、大老の職をえたのは、彼へ贈賄したお蔭だと、もっぱら言われた。そしてその贈り物には、四方の盤上に載せた金銀細工の田舎家の盆景が送られた。その敷き砂まで砂金や豆銀であったという。
 また、月見の夕。青竹の籠にきすと野菜をあしらった物を、台所へ送り届けた町人がある。一見、軽い音物いんもつのようだったが、その中の青柚子ゆず一箇に刺してあった小刀を抜いてみたら、当時千金とも評価されていた名工後藤の秋草彫りの小づかだった。
 さらに田沼が下屋敷を新築した時、その稲荷堀の下屋敷の庭を見ながら、ある朝、彼が、
『あの池には、鯉がいてもいいな』
 と、独り呟いた。
 そして夕刻、何気なく下城して帰ってみると、邸内いたる所に鯉を入れた桶やふねがおいてあって、
『なんとした事やら、今日一日中、諸家や諸職の町人から、鯉の到来物で、もう池にははいり切れません』
 と、家臣も途方にくれていたという。
 これで見ると、贈賄する方は、つねづね彼の身辺にまで腐心の末の隠密を用いていた事さえわかる。どうしたら先方の気に入るだろうか。あらゆる苦心をするものらしい。だからこれらの魑魅ちみがなす社会作用も恐るべきではあるまいか。そうした風潮が時の官権へいかに腐心して媚びを競ったかという実例に、当時、吉原あたりでは“ままごとだな”と称する一つの名物を生んだと「匏庵遺稿」は書いている。
 誰が考えたのか。
 指物師の上手に作らせた五尺ほどな小棚の多い水屋棚みずやだなを作らせ、それに数々かずかずな珍味佳肴かこうを入れ、爼板まないた庖丁ほうちょうのたぐいまで、ふさわしいのを添え、或る折、田沼の慰めに送ったらしい。すると忽ちそれの好評がまた拡まって、やれ花見に、やれ隅田川の船遊びにと、ほかの権勢家への贈答にも利用され、指物師は巨利をはくしたという事である。文字どおりなこの大人の、“ままごと棚”一組の価は、当時の金で並製七、八両から上棚だと十五両もしたとある。
 これほどな田沼も、一子の山城守意知おきともが、やはり贈賄の遺恨から、江戸城中の桔梗の間で斬り殺された事件で、一挙に没落してしまった。
 彼の蓄財も、もちろんすべて吐き出された。だが田沼には矢場女上がりの愛妾があって、これはまあ例外な処分ですまされていたらしい。だからその妾の仮親の医師道有の孫道栄の時代になって迄、まだ祖父の頃に諸家から贈られた付け届け物の鰹節、蝋燭、半紙などを、みみッちく出しては使っていたそうである。だが、それを知っている辻駕の駕かきなどは、提灯の蝋燭が失くなると、いやがらせに、
『ええ今晩は。――道栄さん、お達者ですか。またお明りが切れましたから、ご先祖の罪ほろぼしに、一つお蝋を上げておくんなさい』と、道栄宅へ、手を出しに行くのだった。すると道栄は、何ともいえない嫌な顔をしながらも、奥からカビが生えて変色した蝋燭にいくらかの小銭をつけて、潜り戸の隙から外へ、栄養の悪そうな細い手を黙って出すのが毎度だったそうである。

 史上には良吏の例も少くはない。然し良吏の話は話題として伝播性がないのである。現代にも良吏はいよう。いるにはちがいないのだが、良吏は決してニュースにならない。
「窓のすさみ」に一つ見える。
 寛永年代、阿部豊後守忠秋が執政だったころ、江戸府内でうずらを飼うことがたいへん流行した。万年青、さっき、鶉などの流行は周期的世相らしく大正、昭和初期頃にもその例は度々あった。
 忠秋もつい流行にかぶれて、鶉を飼った。流行とは近時のゴルフのようなものである。魅了されるとそれの長所だけしか考えられない。忠秋もそうだった。劇務の寸暇に美声を愉しむ。雛鳥ひなどりの飼育に無情のほほ笑みを禁じ得ない。君子の清雅であるとさえ思っていた。
 すると或る朝。柳営御用達の金持のあるじが彼の私邸をおとずれた。かくべつな用談ともみえず、唯、
『いや、飼ってもみぬ手輩てあいは、岡焼き半分に、鶉狂うずらきょうだの、流行り病の一つだのと、ろくな陰口は申しませんが、やってみれば、もうそれは……』と、この男もまた言うことは、鶉の知識やら自慢やらで、目も鼻もない方なのだった。
 のみならず、やがて持参の一トつがいの鶉籠を、忠秋の前へさしおいて、
『これはまあ、自慢がましゅうございますが、天下一の名鶉めいじゅんとも申せようかと存じます。……じつはその、殿様にも、近ごろ鶉に御執心と伺いまして、さっそくさる上方の鶉通うずらつうに、千金も惜むなと申しやり、漸く手に入れたこの名鶉めいじゅんを、道中二人の鶉師が付きッきりで早打ち駕を打たせ、昨晩、江戸へ到着いたしたばかりなので。はい、夜明けも待ちかねて、ご献上に伺いましたようなわけ。……いやもう日頃から、何か何かと家内とも心がけておりました次第で。ま、お気に召せば、こんな欣しい事はございません』
 鶉もさすがと見えたが、金銀の蒔絵籠、緋の房飾り、善美をこらした物である。忠秋は、感心して見ていたが、ふと近習を振向いて、こういいつけた。
『これを見ては、とても見劣るが、これまでわしの飼って来た鶉をみな、庭先へ並べてみろ』
 家臣はすぐ、邸内の鶉小屋から数十の鶉籠を持出して、庭へならべた。おそらくは、名鶉とくらべて見るお心でもあるかと一同思っていると、忠秋は、すくと立って、
『今日限り、この道楽はやめた。籠の鶉はみんな放せ、一羽も残すな』
 と、命じて、
『さて。わしも登城の時刻』とばかり、身支度に奥へはいってしまった。
 商家の主は、色を失って退きさがった。以来それを気に痛んで、家に引き籠ったまま、後難を惧れていると、時たってから人伝てに聞いた忠秋は、
『いや、それは気の毒な』
 と、その者を通じて、こう伝言してやったという事である。
『彼を憎むなどの念はいささかも無い。むしろこの豊後こそ彼に礼を言いたいとさえ思っている。もしあの朝の事がなかったら、豊後は日々片手で幕政をいじり片手では鶉の糞掃除ふんそうじにいよいよ憂き身をやつしていたろう。ひいては又、この健康な五体も、今頃は羽虫はむし病にとりつかれて悩んでいたにちがいありませんからな。はははは』

 行く春となっても“記念結婚ブーム”はつづく。おかげで私も今月は一組の媒人なこうど役をたのまれている。
 媒人を勤めてみると、自分は男性なのでやはり男の側に立って、選ばれた女性をただの女性としてでなく観ざるをえない。庶民にしてもこの“おきさき選び”には微妙な直感がはたらくものだ。事は古いが「大鏡」のうちにもこんな話が載っている。
 東三条どの(太政大臣兼家)のおん娘は、深窓の佳麗であった。綏子やすこノ君というのである。
 父の兼家の側室には「かげろふ日記」の筆者でもあり、また百人一首の中にも選ばれた――なげきつつ一人る夜の明くるまは、いかに久しきものとかは知る――なんていう男殺しの名歌を詠んだ才媛もそのつぼねにいた程だから、綏子ノ君の教養などもまたいう迄はなかったろう。
 ひく手はあまただったが、しかし綏子には早くも時の皇太子居貞(後ノ三条天皇)のおぼし召しがほの見えていた。父の兼家もほかへやる気はない。やがて皇太子も御元服となられたのをしおに、姫を入内させた。立后りっこうはべつであるが、尚侍ないしのかみじょせられ、お添い臥しはかなうのである。麗景殿でんにおかれたので「麗景殿ノ女御にょうご」ともよばれた。
 けれど、お側においてみると、皇太子にはこの容色すぐれた少女も、何だか少しぴったりしなかったのかもしれない。ある夏の日である。それはたいそう暑い日だったとみえ、大きな銀盤に氷が盛ってあった。皇太子はふといたずら心に、
『姫。……離してはいけないよ』
 と、その氷の一かけを、綏子の両の手に握らせた。そして、
『そなたが私を信じるなら、そして私に生涯の貞操をちかう気なら、よし、と私がゆるすまで氷をすててはいけない』
 と、いいつけた。姫は言われるとおりに、じっと氷を握っていた。
 ところが、次第に爪の色が紫ばみ、皮膚の色さえ変じて来ても、姫はなお本気になって、持ち怺えているのだった。それはもう愛情の誓いなどとは別な我慢のように見えたのだろう。皇太子はついに興ざめを催して言った。
『もういい、もういい』
 そして、そのあとで、近衆へつぶやかれたそうである。
『麗景殿の柔順もいいが、あれでは哀れを通りこして、まったく、たよりないね……自分のした戯れまで、うとましくなってしまったよ』
 ご不幸な予感だった。のちにこの綏子は、東宮のお目を忍んで、源ノ宰相頼定と密通したうえ、妊娠の噂まで立ったので、ついに後宮を退いて、元の東三条の家に帰されてしまった。男の宰相頼定も、これがたたって、三条天皇の治世中は、殿上を遠ざけられ、半生、地下じげ上達部かんだちべというばつの悪い地位にくすぶっていたようである。
 爪が紫いろになる迄、氷を手に載せている女は、愛人ならぬほかの男から強いられても、やはり唯々いいとして氷のこらえをしてしまうものかもしれない。現代の女性間には、こんなひとは探してもいない気はする。しかし、自分でも分らない自分の胸には、案外、どんな自分が潜んでいるかも知れないと考えてみてもいいだろう。
 たとえば、現代の綏子やすこ君なら『いやよ。ばかにして』と、言下に氷を男に打つけて怒るかもしれないし、さもなくば『あら、待てないわ』とばかりボリボリ噛み割って喰べてしまう事かもしれない。ところが、そのどっちにも男は皇太子(三条帝)と同じ興ざめを抱くだろう。どっちにしろ、男の観察が女をこころみる場合の眼は、暴戻無慈悲なものであるから、万一にも男から氷を手に載せられるなどの試しを仕向けられたら、女性はよろしくその処置に女性特有な冷めたい細心と美の放散をあわせ用いて、逆に男へ火をつかませる思いを与えなければなるまい。

 ふと、このごろ奇妙な現象に気がついた。以前はよく『まあ、話にはできるがね。とても、活字には出来ないな』といった類のセックスの問題が、近来はまったく逆である。単行本や雑誌の上で活字にはされている事が、われら明治の末葉生れの人間には、どうも口では話しにくい。
 いやそこ迄でない恋愛の仕方にしてもそうである。つらつら考えてみると、私たち年代の者は、まるで性の清教徒みたいな環境(内実ではない)の中につちかわれて来た気がする。そこで菊池寛氏がかつて好んでやった「名将伝」の講演では徳川吉宗のこんな挿話をよくしていたことなど思い出す。
 八代将軍の吉宗は、前代までの淫靡な弊風を改革するためには自身もつむぎの袴しか用いないほど質素な範を示して、当時の名君といわれた人だが、それでいてなかなかすいなところもあった。――或る時、その吉宗が、大奥からお表へ出る境の杉戸で、吉宗を送って来た奥女中と、表方の小姓とが、そこを閉める瞬間に、そっと手をさわりあっていたのを、吉宗がちらと見つけた。
 何しろ男子禁制の大奥の女人たちには、ここの杉戸をなかに、小姓の手へ触るぐらいなことが最大な愉しい機会だったらしい。だがその日の男女は、やりかたが下手だった為につい吉宗に見られてしまった。すると吉宗は、こう言ったというのである。
『あまり度々はするなよ』
 ここが菊池氏の講演のオチだった。極まって、聴衆は一せいに拍手したものである。おそらく今の若い聴衆にはこんな浪漫は素通りしてしまうだろう。いや拍手があればその中の古めかしい顔を見さがして、その事ではきっとおかしがるに違いない。

 きみ、講演てえのは、挿話が大事なんだよ、挿話でよろこばせといて、主旨を呑み込ませるんだよ。というのが菊池氏のいつも言っていた講演の秘訣だった。それにならって、以前は私も駄弁などこころみたことがある。
 義士のうちで、潮田又之丞うしおだまたのじょうは年少者の方だった。口かずも少なく、武士には柔弱すぎるとも見える。それに一党中での美男でもあったという。だから討入り前には相思の女性もあったらしい。
 が、その相手は町娘やら許嫁いいなずけなのやら、誰も薄々だけで、ほんとのとこは、謎だった。――けれどやがて討入り後、細川家に預けられた期間には、みな退屈なので、毎度話題にされ、又之丞はよく人々から、からかわれていた。
 そんな時の又之丞は、いつも顔をあからめていたが、翌年、いよいよ切腹の日になって、その数ヵ月浪士たちの世話をして来た細川家の家老堀内伝右衛門は初めて彼の恋の相手を眼に見たのだった。
 伝右衛門はその日、長らく馴染みだった浪士たちが、次々に庭上の切腹の座へ呼ばれて、ほぼ十分間に一名ぐらいずつ腹を切ってゆくのを、おそらく目撃しているに耐えなかったものだろう。別室にひかえていて、一人の死がむと、ただちに、係りの武士の声がまた庭上から、『何々殿、お支度を』と、告げるのをただ肌にあわしていた。そして、呼ばれるたびに起って行く次の番の浪士が、そこの控え部屋で衣服をぬぎ、与えられた死装束に着更えてゆく世話などしながら、一人一人の最期のあいさつを受けていた。
 彼はそのあとで、その人が脱いで行った小袖や肌着を畳んでは、それに遺書やら遺品も添えて小札こふだを付け、たんねんに紙縒こよりくくっていたのであった。――するとそのうち、潮田又之丞の番が来た。――又之丞もほかの人と変りなく『永らくお世話になりました』と、伝右衛門へしずかにさいごの礼をのべて、庭先の白い死の座へ消えて行った。
 黙然と、伝右衛門はあとの彼の小袖をたたみかけていた。それにはまだ又之丞の若い肌のぬくみさえ残っている。するとその袂のうちにふと伝右の手へ触った堅い物があった。『……はて何か?』と怪しみながら取出してみると、それは紫の小帛紗こぶくさにくるまれた女性の琴の爪であった。『ははあ、あの若者の秘めていた恋人はこれだったのか』
 武骨な伝右老人も、生前には一ト言も自らその事にふれていなかった又之丞の恋を的確にいま見た気がして、つい涙を禁じえなかったという。
 こんなのも、今日にはどう映るだろう。まるで別世界の星である。だが、元禄期の青少年がみんなこうした浪漫派だったなんて事は決していえない。むしろ元禄の大部分の世間はデカダンな爛熟期でもあったのだ。だから或はこんな例などが逆に珍重されて語り草になったのかもわからない。

 性の点でも、近来ザラに活字では見あたる範囲のことが、なぜ私などには口では語り難いのか。どうも今日のごとき性花斉放が、進歩か頽廃かは知らないが、自分らは振返ってみても、前述の琴の爪や、杉戸の男女みたいな型の恋を至上みたいに思って歯がゆい真似ばかりやって来たようなものだった。のみならず性の青年期には罪の意識に似た怯気おじけがあった。正宗白鳥氏ほどでもないが、正宗さんが何かで書いておられたのに近いものが自分の過去にも考え出される。
 いつだったか、そんな私が、大阪朝日会館の読者大会で“わいだん”という演題をかかげて喋べったことがある。性花斉放もまだ今日の活字面ほど迄にはだらしのない性花斉放でもなかった時だが、それでも石原氏の太陽族ブームがおこり、チャタレー問題や鍵などの話題で相当賑わしい頃だった。
 正直にいうと私は、自分の中に自分への抵抗みたいなものがあったのだ。或はコンプレックスの変型といった方がなお正直であるかもしれない。静粛な紳士淑女や健全な青年男女を前に、演壇からでも話せる明るい“わいだん”というものは出来ないものだろうか。またどういう反応を聴衆が示すだろうか、そんな好奇心や冒険も手つだっていたのである。が、やはり出来るものではなかった。結局、性と文芸とか、本能と人間性の両面とか、性を堂々めぐりして、自分から口にしかける話題に自分でつまずいたり、どもったりしつつやっと四、五十分の責を終ったに過ぎなかった。ところが、あとから編集者は言って来た。
『こないだのは、たいへん面白かったじゃないですか。ひとつあの速記を次の号に載せさせてくれませんか』
 そうかなあと思って、速記の原稿のゲラ刷りを取寄せてみた。これは活字である。こんな話が活字になるのかと思ったら、もうテレくさくてしようがない。かんにんしてくれと頭をかいてあやまった。けれど、それを演壇で喋べったときは、どうしてだか、聴衆はたいへん真面目に聞いてくれた気がする。もっとも一つ二つの例話などのときは聴衆も演壇の私も一しょくたに、笑ってしまったりしたものだった。その後、聴衆の二、三からも、あの折の尼さんの話の出典は何かなどの問合せを受けたりしたが、ついその儘になっているので、こころみに、ここでその一端を活字にしてみる。

 戦後、私は読売に「高山右近」を書いた。右近の青春の蜜と、蜂のような女達を書いて、それから、後の切支丹大名デウス右近へゆくつもりだった。
 ところが上智大学のラウレス教授から痛烈な抗議が来た。デウス右近様は決してそんな行状のお人ではない。青年期といえ淫行があるなどは以てのほかで、恋愛沙汰も断じてあったとは考えられぬ。耶蘇会会報にもかくかく。伝記にもかくかく。総てかくかくの通りであると、自著、記録の類を抱えては、その頃の私の疎開先、吉野村の寓居へ、じつに根気よく抗議と訂正を求めに来られた。
 私はへきえきした。或る日などは、あの奥多摩の山村の雪の降る日にも来て聖デウス右近の清童ぶりを説くのであった。それはちょうど日蓮教徒の折伏しゃくぶくの熱意にも似ていた。ついに私は一日、上智大学へ赴いて、教授の宣教師諸兄へ、「文芸と史実、及び宗教」にわたって、るる一場の咄弁をこころみたが、ついには面倒になって、小説も結びをつけてしまった。
 そのさい感じたのは、ラウレス氏のような学究でもカソリックではおよそ性の問題となると、これを頭からひんしゅくする傾向が強い。恋愛すらも危険がる。依然“マリアは婚せずしてはらむ”を信じるかのようにこの人間性焦点から眼を反らす風がみえる事だった。
 そこへゆくと、東洋に発祥した宗教はそうでなかった。逆に性と取っ組んだ形跡さえある。天台や真言の密教の一部典は性経であったという。村松梢風さんの女経みたいなのではない。水原堯栄氏の「立川流の研究」。守山聖真氏の「文観上人之研究」などにもその実存は窺われよう。しかしカソリックが危険視するごとく天台や真言でもそれはやはり危険視して、いわゆる秘封の経としてしまった。ところが、禅では、恐がったり秘すようなケチなまねはしていない。
 誰かが“禅坊主と性”という課題を持つと面白いがとおもっているが、私にはいとまもないので性急にここでは一人の尼の話だけにとどめておく。
 それは鎌倉時代の慧春尼けいしゅんにという人で、「比丘尼史」に依ると、尼の俗姓は藤原氏、相模の糟谷かすやに住み、容姿絶群であったという。
 婚家はよく分らない。だが三十になるやならずで後家になったとみえる。兄の了庵りょうあんについて、禅門に入った。佳麗な比丘尼びくには、清楚せいそな梅みたいに鎌倉中の山門を色めかせたにちがいあるまい。艶書を送られたり、夜這いに見舞われたり、しじゅう言い寄る坊主が絶えなかった。
 うるさくなって、慧春尼は、自分で自分の顔を後には焼け火ばしでいたという。次の話は、それ以前の事だろう。或る時、尼は公式の使で円覚寺の壇へ参礼さんらいしたことがあった。
 その日、円覚の大衆は、階の両側に、列をして、尼を待った。禅門の習いで、法問答を行うのが例であり、尼の機鋒きほうの鋭さを知っているので、日頃、尼に振られていた業腹ごうはらな連中も手ぐすね引いていたのである。
 ほどなく尼の姿は楚々そそとして、山門から大衆の環視の中を階へ向って進んで来た。すると、一人の若僧が躍り出て、やにわに、尼の前へ立ちふさがったと思うと、法衣のすそを捲り上げた。そして股間の陰茎を白日の下に露出し、しかも身を反らしてそれを赤黒い巨大なものにいからしてみせながら、
『僧の物三尺。如何いかんとなす』
 と、やったのだった。
 すると尼は、微動もせず、即座に、わがを左右へさッとかかげて、その真白な肌はもちろん、ふさやかな毛丘にかこまれた玉門までを、僧の一物の前へ示して、
『尼の物、底無し』
 と、応酬した。
 これは男僧の負けである。三尺と、底無しとでは、スポーツにしたって負けと極まっている。

 この慧春尼には、もう一つこんな事がある。兄の了庵の会下えかの者で死ぬほど尼に恋した若僧があった。
 ある晩、尼の寝床に這いこんで、泣きながら掻きくどいた。尼は『今夜はいけません、次のときに』と、なだめて帰した。そして数日後の、了庵上堂の大会の日であった。尼はわざと、性の大事について、人々へ法問を向けた。誰もが、偉そうに構えながら、性のことにふれると、みな口しぶる。すると尼は、先夜の若僧の名をさして『論議ろんぎではらちがあきません。先の夜、御僧が望んでいたお約束事を、ここで果たそうではありませんか。さあお進み下さい』と、禅床ぜんしょうの真ん中へ出て衣を解きかけた。
 若僧は逃げ出したのみか、山からも姿を消してしまったという。――どうもどッちも意気地のない男共である。いったい男共の性観念は、鎌倉の剛健といわれた時代でさえ、こんな程度の薄弱であったから、ついに昭和の今日になって石原慎太郎氏の「太陽の季節」一編に一世を風靡ふうびされるなどの珍現象を呈したものか。といえなくもない。
 ところで、これと似ている逸話の持ち主に了然尼りょうねんにという尼もある。前の慧春尼けいしゅんにより時代はずっと下がって、武田信玄の曾孫ひまご、武田寿庵の妻だったという前身だ。初め鉄牛の門をおとずれたが『美人すぎるから駄目駄目』と断わられ、白鴎はくおうを師としたが、居るうちにやはり弟子を過まるからと断わられ、その後は自力で大成し、江戸郊外の落合村の泰雲寺に住み六十六で終っている。しかしこの人の逸話は前述「比丘尼史」の慧春尼と全く似ているから、後に誰かが転嫁して伝えたものかと思われる。

 観光地などはべつとして、一般の落書きへきは、都会では近ごろ見られなくなったのではなかろうか。何でも言える、何でも表現できる、こう吾儘気儘のいえる社会では、もう落書き根性も立ち小便も催す壁も見あたるまい。
 が、落書きにも国宝級がある。
 正倉院御物の有名な「大大論だいだいろん」の人物画などそれである。きっと大昔の写経生の悪戯いたずら書きか、即興のスケッチでもあることだろう。写経料紙の端に、ほうを着た※(「巾+僕のつくり」、第3水準1-84-12)ぼくとう(帽子)すがたの大男が、眼玉をむき、肩ヒジを張って、大議論をぶッている絵の落書きだ。さしずめ今なら総評幹部の大物にもなれそうな風貌とその頃のインテリジェンスの代表格といった所がよく出ている。
 いやそれよりも愉快なのは、当時(約千二百年前)――聖武天皇の天平てんぴょう勝宝何年のころ、すでに今でいう公務員であったそれらの写経生たちが、ストをやっていた事実である。
 もちろん、日本労働運動史の初ページは明治初めだが、そんな旗のない時代から、ばくぜんと、千二百年前の人間たちでも、原始ストともいえるうずきを見せていたことが、それらの正倉院文書の中に知るのだった。それは難しい学名でいえば“写経司しゃきょうし解案げあん”と呼ばれる一文である。いうならば、写経生のスト決議文といったような物なのだ。そして、そのストをやった写経生らの指導者こそ、例の大大論のモデルになったような男かとも思われたりして、あの落書き画の人物を見直すと、また一ばい躍如たる者に見えて来て、今日のメーデーの先頭に歩いていても不思議でない気がするのである。

 写経生は当時の下級官吏である。官の各省から東大寺へ派遣された者たちだ。尨大な外来経典の写字、校正、装幀、勘出人、などの各課にわかれて、長期な筆耕仕事に一生をつぶしてゆく。
 とだけでは、現代の「寺」の観念からちょっと呑みこみ難いが、当時の寺院は、国際文化センターみたいな役割を持っていた。宗教だけでなく、学問、医術、伎楽、散楽、美術工芸、みんな寺院を通って消化され、また寺院へ来て学び取ってゆく。写経所などもつまりこの中の一部局だといってよい。
 ところが、一般も低かったろうが、この写経生らの生活はひどいものらしかった。紙、墨、筆などの文房具は官給だが、功賃こうちんは出来高支払いの制になっている。(最低保証の定給制もいくらか有ったのかもしれないが)――たとえば、写経一はりぜにもん、四十張で布一たん、八十張であしぎぬ一匹、といった程度。そして食物は一切精進だ。肉類、魚貝はもちろん口にできない。野菜、海草、漬物の類といっても、じつに限られた物しか記載に見あたらない。
 ところで、飢饉年か疫病流行のためでもあったろう、宝亀三年から四年にかけてインフレがおこった。彼らは自分持ちの宅地や口分田くぶんでんまで質入れして辛くもそんなときを凌いだ。そのりのためにある“月借銭”の官金の利息なるものがまたじつに無茶である。元金百文で月利十三文などとあるから、月一割三歩の高利なのだ。やはり正倉院文書として残っている彼らの借用証文の一例で見ると、銭二貫文を借りるのに、六人が連帯責任の名をつらね、各人が担保にそれぞれ自己の家屋を提出している。
『どうするんだ。生きて行くのもやっとだぜ。百姓なら逃亡も出来るが、筆仕事じゃ他国へ行っても食う道は無しさ』
『ひとつ、上司へ言ってみようじゃないか』
『だめだめ、一喝されるに極っている』
『じゃあ、文書もんじょにして出すんだな、それなら誰が睨まれることもないやね』
 おそらく、こんな会議の末だろう。一人の男の写経机をとりかこんで、わいわい言いながら、各自が思いつきの箇条を「待遇改善の要求書」として練ったのだった。これが今、正倉院に残っている天平十一年の、
写経司ノ
司内シナイ穏便オンビンヲ申スノ事
 と、冒頭にある文書で、いわば日本で最古の公務員ストの一文献といってもいいような内容の物である。
 彼らは当時での知識人であるから、なかなか要求のすじも立っているし、原文も漢文で難かしい。そこを意訳すると、次の六項目になる。
一 新規の写経生の雇用は停止して貰いたい事。
二 時々には浄衣の更えを給与して欲しい。
三 月五日の休暇を要求する。
四 現給の玄米くろごめを中等度にまで精白しらげて貰いたい。
五 薬用として、三日に一度、酒の支給をう。
六 従来、手当てとして給されていた麦が中絶されている。それの実行の事。
 今日から見れば、どの箇条もみなほほ笑ましいほど素朴な要求にすぎないが、しかし当時の公務員たる彼らとしては、それこそ大大論のあげく、ついに『やろう!』となったものだろう。
 だが、右の六項目の第一に、自分たちの職場を守るため新規の増員阻止を述べているのは現代の職場意識を以てしても共感できる。たぶん彼らの写字仕事なるものも、年度年度の途切れやら、しばしば後続きのしない場合などあって、その職場保持は何よりも彼らの念頭におかれていたものらしい。
 休暇も月に五日間をと求めているのは、まず現代の週休並みだ。想像以上、ひどかったのは衣服であろう。繊維は実に貴重だったのだ。皆垢じみたのを着、脂肪臭く、裾切れやボロの穴なども、可笑しくなかったほどだったに違いない。
 問題は「酒」である。薬用にという陳弁の仕方はどうも苦しいが「三日に一度」とあるなどは全く可愛らしいものだ。何しても、これは大勢の写経生らが案をとり囲んで、大大論をやりながら、がやがや書くにまかせて書いて行った全員要望の下書きらしい。それだけにまた自然でもある。そしてその草稿その物は、正倉院関係の諸書や、また大日本史大系などにも写真版になってまま収載されているが、よく見ると、机の向う側から誰か悪戯いたずら書きしたらしく、べつな筆で「酒」の一字が、逆さ書きに付け加えられているのを発見しよう。よくよく、中でも喉を鳴らしていた一人の男がやった芸にちがいない。

「十訓抄」に京極の太政大臣宗輔むねすけの噂がみえる。ふと、昼飯の食パンに蜂蜜を塗りながら、それを思い出したら、私は独りでおかしくなってきた。
 宗輔はたくさんな蜂を飼っていたという。蜂蜜を採っていたとは十訓抄も書いていないが、とにかく蜂を上手に飼い馴らし、
『蜂は小虫だが、蜂には人間にもない勤勉と仁智の心がある』
 などと言って人々を煙に巻いていた。のみならず、蜂の一匹一匹に、何丸だの何助のと名をつけて、何か気にくわぬ横着者でもあると、
『何丸、誰を刺して来い』と、蜂に命じる。
 また、彼が仕出のときには、牛車のまわりを蜂が金色こんじき後光ごこうになって飛び巡って行く。彼が『帰れ』といえば帰り『止まれ』といえば車のおいひさしに止まった。時の人々は、なんとも不思議な器用人も居るものであると、宗輔のことを“蜂飼い大臣おとど”と綽名あだなしたということである。
 その宗輔は、堀川帝のちょうに仕え「管絃譜かんげんふ」の著者としても聞えていたし、また「春鶯囀しゅんおうてんの中将」という別名もあったほどだから、音楽家としてもよほどな人であったろう。だが、蜂が音楽を解すとは聞いていない。彼の秘密の技術は何にあったものだろうか。
 嘘か本当か。ここまでは他愛ない話だからどっちでもいい。私がついおかしくなったのは、この自分に、もしそんな芸当が出来たらおもしろいなと空想してみたからだった。さしずめ私も蜂にいろんな名をつけて、赤坂の家の窓から『……何丸、岸を刺して来い』とやるだろうし、時には批評家、時には国税庁の人、時にはまた、この「週刊文春」が始まったお蔭で、私のゴルフ時間まで失くしてしまった張本の佐佐木茂索などへも放って『チクと茂索を刺して参れ』などとやれたら、どんなによい気晴らしになるだろうか。ちょいと考えても、そんな風に蜂を使ってみたい向きが方々にある。が、そいつは出来ない相談だから、誰かがこれをたねにして、ひとつミュージカルにでも脚色してみたらチクと面白い諷刺物になるのではないか、などと独り思ったからである。

 春行くや、の駄句にもならない風景だったが、東京都知事以下、全国の選挙ビラも、やっと方々で掃かれている。
 この後はすぐ違反検挙、その後はまた議場への闘争の持ち込みだろう。考えてみると、ずいぶん不便で厄介な制度である。いまの政治基本ではこれが最上な人智なんだからその社会体質といい進歩といい、実はまことに心もとないものだ。
 封建時代の素朴な人間たちの智恵の方が、時にはずっと上等なばあいもある。彼らの支えていた社会や制度は、もちろんずっと現代より小型には違いなかったが、然し、はるかに人間と人間の会議であったと言えそうだ。たとえば「黒田家家譜」に見える“異見会”などもなかなかおもしろい仕組みである。
 異見会とは、つまり談合会で、今でいう委員会とか何々会議のつもりであろう。だがそう難しくせず、黒田藩では「腹立てずの夜咄よばなし会」ともいっていた。
 如水じょすいの子、長政が始めたことらしい。
 月々一、二回、家中の各部門から重な者七、八名が、集まって(交代制で、軽輩の加入も許されている)長政を中心に、いろんな註文を出したり懸案を話し合うのである。もちろん日頃胸につかえている不平、忠告、疑問、何でも持ち出して討議しあう事になっていたという。だからこの異見会には、かたい会規が前提になっていた。
 この場のこと、すべて政道施策の最良の一を選ぶに帰一して、いかなる言にも、決して腹立て申すまじき事。また、後々も意趣に残すまじき事。更には、秘すべきは、これを他言いたすまじき事。
 以上が、誓言の要だった。これは愉快な会だったらしく、家中の士も異見会といえば、愉しみにしたそうである。特に長政などは、人々の苦言に触れると、つい大名心理が出て、気色ばんだり不機嫌になったりするので、そんな時は、
『では、会主ご自身、会の清規をお破りになられますか』と、満座の者から痛いところを抑さえられたりして、
『いやいや、つい言葉は激したが、心では何もいかッてなどはいない』
 と、苦しげに顔を和げるような例も一再でなかったそうだ。
 黒田家の治績と藩風が大いに挙がったのは、この異見会の功が大きかったといわれている。長政もそれを認めていたとみえて、死の前には、
「異見会の儀は、年来われわれが致し来りし通り、月毎、かならず城内の釈迦しゃかにて、催し候ふべし」と子息忠之ただゆきへの遺言状のうちにも言い忘れていなかった。これがほんとの“黒田ぶし”と、言っては洒落にもならないが――。
 そこでこんな封建の主従談合から、何か答えを引き出そうなんて無理を私も考えてみたわけでもない。唯、近ごろ多い小型争議の膠着を見るにつけても、また大きくは、こんな大騒ぎをして選挙をやったあげくの後の近代会議制を見ても、なんと人間喪失のはなはだしい仕組みになったものかと嘆じられるだけなのだ。そして人間と人間同士が仲よく話合えた故郷の座が、ときにはふと恋しくもなってくる。
(昭和三十四年)

底本:「吉川英治全集・47 草思堂随筆」講談社
   1970(昭和45)年6月20日第1刷
初出:「週刊文春」
   1959(昭和34)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「又之丞の恋」の「潮田又之丞」は「磯貝十郎左衛門」のこととおもわれますが、底本のままとしました。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年6月4日作成
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