小説のタネ

 いま帰って来たばかりなんですよ。大映の試写室で、「鳴門秘帖」を見たんですがね。考えてみると、あれを書いたのは三十年前なんだな。てれましたね、たいへんに。映画化は今度で七回目なんです。はなはね、ひと頃の競映時代で、東亜キネマとか、松竹日活だとかで、さんざん競映でやったもんですよ。だが僕は、正直いうと、自分の古いもんの映画化は、ほとんど見たことないんです。少々気味がわるくってですね。だがあの頃は一つの新聞小説勃興期でもありましたなあ。三十年前だから、今度の終戦後に興った機運とはまた違うしね。いわば関東大震災を境にしたものさ。文芸でも何でも、復興期には復興機運の波が起るんだね。当時もロマンと興味追求のああしたものが、ちょうど沢田正二郎君が新しい剣の味を舞台に見せてうけた風潮などと共に一頃非常に盛んだったわけです。その一例が「鳴門秘帖」やまた同時に掲載され出した大仏次郎氏の「照る日曇る日」なんかだったわけですね。そして僕なんかも、まだ無名の駈け出しでしたし、年も三十三、四歳でしたかな。それを僕に書かせたのは阿部真之助氏で、その大毎にはまだ千葉亀雄氏がいた時分ですよ。けれど、社から伝言の人が来たとき、僕は驚いて、たしか断ったと思いますよ。
『とても、そんな大新聞に。自分なんかには、大任過ぎる』
 と、真正直にかしこまって断ったもんですよ。
 夏でしたがね、ちょうど、日頃よく僕のうちへ遊びに来る木彫家の伊上凡骨が、隣りの部屋で、昼寝していたんです。そいつが、あとでむっくり起きてきて、
『断るやつがあるもんか、絶好のチャンスだよ、書けよ、書けよ』
 と唾を飛ばしてさかんにケシかけてくれたのを覚えています。それで、とにかく、おっかなびっくり始めたのが、あの「鳴門秘帖」の書き出しですよ。
 吉井勇氏におあいすると、よく凡骨のはなしをしますが、あれは珍重すべき畸人でしたね。長谷川如是閑さんがよくいう職人の伝統をもっていた男でもあったし、とにかく変っていて、僕の上落合の家へ遊びに来ても、喘息が持病なので、どうかすると、十日も半月もゴホンゴホンやりながら泊っている。そして、無類のぜいたくで、朝寝坊と来ているから、起きると、手を叩いてうちの女中へ『ねえさん、今朝は納豆がいい』とか、朝から、何を買ってこいとか、言っている。だから台所へくる御用聞きなどが、凡骨がいないと、
『今日は御隠居さまはお留守ですか』
 と言ったりしましたよ。その凡骨にベンタツされて初めての新聞小説をひきうけたんですから、およそ僕にそんな用意も野望もなかったことがわかるでしょう。
 そこでまあ、書きだしたもんの、正直夢中でしたね。まず予告のタイトルを社へ渡すと、千葉亀雄さんから、「鳴門秘帖」の“帖”は“帳”の間違いだろうといって来られた。間違いじゃない“帖”ですと言うと、あの人のことだから、イヤ帳の方が正しい、とその根拠や引例を電話で三十分も論じたてる。それに強情を張って、まず書くまえから一悶着でしたから、いよいよ重荷を感じましたね。
 次に、あれのヒントですが、種をあかすと、司馬江漢(江戸中期の洋画家)の随筆「春波楼筆記」があれのタネ本です。
 有朋堂文庫に入ってますね、その中に活字にして約十五、六行の一章がある。あれなんですよ、「鳴門秘帖」のエキスは。
 一口に話すとこうですね。ある年、司馬江漢が熱海へ入湯に行ったんです。すると、宿屋の裏に、大名の湯御所がある、つまり別荘です。江漢が早起きなので、未明に眼をさます頃というと、塀を隔てたその湯泉屋敷で弓弦ゆづるが聞こえる。かなり長い間、ピシッピシッと盛んな朝稽古の弓鳴ゆなりが聞え、それが止むと、やがて今度は、音吐朗々と経書を読む声がするんです、それが逗留中、毎朝、欠かすことがなかった。そこで江漢が宿の主人に、
『いったい隣りの湯屋敷は、誰のお下屋敷か?』
 と訊いてみた。すると主が、阿波の藩主蜂須賀重喜しげよしの屋敷だというんです。ところが、『それは奇異だ』と江漢がいぶかった。当時、巷の風説では、阿波の藩主蜂須賀重喜は本国で非常な暴政をやったため、幕府の譴責を受けて蟄居を命ぜられた人だということを江漢も聞いている。もし隣邸の湯御所の主君がその重喜であるならば、これは暴君どころじゃない。世には、おかしいこともあるものだ――ということを、その紀行「春波楼筆記」の中で諷刺的に書いているんです。これをヒントに僕は二、三年にわたるあんな長い空想の中に遊び呆けて書きつづけたわけなんですね。
 よく辰野隆さんなんかが、
『吉川氏は「鳴門秘帖」の前にも後にもいろいろな物を書いてるけど、面白いということにかけちゃあれが一番だな』
 と云われますが、自分にしてもそうかなアと今にして思いますね。自分が少年時代から持ってた空想の習癖をあんなに、思い果たすほど、ほしいままに駆使したことは以後無いような気がします。ただ一途でした。ですから、今日読み直すと、再版のさいも、文章など、むずむず直したくなるが、直し切れないし、直してはいけないとも思って、そのまんまにしています。
 尤もあの時代には、中間小説というケースはなかった。純文学とは河をへだててはっきり領野を対峙していたかたちでしたね。純文学の方はあくまで孤高をとって下らない矜持と作品が特徴でした。一方、新聞小説、特に夕刊面の、われわれ、直木氏、三上於菟吉氏、大仏次郎氏、白井喬二氏、長谷川伸氏といったような人々がよく書いた、ひとっきりの新聞小説っていうものは、絶対にまず面白いということをもう殆ど主眼にしてましたね。

 僕っていう人間は、少年時分からまるで空想で生きてるような奴でしてね、「忘れ残りの記」にもちらちら書きましたが、早熟な方でしたろうね、すれ違う少女の匂いに敏感でしたよ、近ごろの十代みたいに直接行動はなんにも考えないんですがね、内攻性はかえって逞しかったんじゃないですかね、その結果が空想に遊び空想を愉しむ習癖に行ったのかもしれませんね。あの時代の家庭や世間の躾もそうでしたから、その拘束が自然、少年の胸に、多感を醸す酒ツボになるわけです、だから一篇の物語みたいなものは始終胸に出来ていましたよ。
 小説みたいな物を書いてみた初めは十一、二の時でしたね。もう盛んに江戸文学やら翻訳物の柔かいのを匂いで嗅ぎ分けては読んでいたんです。ところが、それを親父に見つかって、風呂場の焚きつけにされたとき、
『読んでばかりいないで、書いてみろ』
 と言われたんです。それへ、むきになって、ちょうど、自分の家の近くの普門院に捨子があったのを、或る朝、見に行って、捨子を題材にして書いたんですよ。それも、親父には示す勇気もなかったですが、義兄に見せて、笑い草にされました。だから、その頃の空想癖は、ただ空想の中で堂々めぐりしてるだけでなく、それの噴出口を与えられれば、いつでも、書くなり行動に移せるほどな大真面目なものだったことがわかります。稚気は苦笑されますが、こわいもんですな。だから「忘れ残りの記」に書いた貧乏も、その頃、自分自体はそう深刻にはちっとも思ってなかったですね。おそらく空想の遊びが助けていたんでしょう。切れ草鞋を履いて歩いた朝でも僕は必ず空想していたんだよ。たとえば、ドックの高い足場板を渡るときは恐らく足がすくむんですよ。しかし、仕事に向うと手だけの事で頭は完全に遊べるからすぐ空想に入るんです。つまり仏典でいう末那識まなしきの境になるんですね。まあ、白昼夢でしょうな、それで救われてましたがね。やがて、そのドックで落ちて一ヵ月余入院しましたが、その時、いよいよ退院の日は淋しい気がしましたよ。なぜかって、入院中、ベッドでの空想をあんなに愉しめたことはなかったからです。ちッとも退屈しなかった。そういう空想ぐせは、今日もまだ続いていますね。
 戦時中なんかも、殊に僕はそれで救われたな。終戦近い時に、忘れもしない、神田の駿河台辺で、空襲警報が鳴り、右往左往、人影も無くなっちゃった。空にはB29の巨体が見える。夢中で町の横丁の防空壕へ駈け込んだ。防空壕の入口に残雪があったのでまだ二月頃だったでしょう。ふるえながら、中のムシロにちぢまっていた。長いんだなあ、解除になるのが。だが、そんなときも、空想に遊んでましたね。幾つもの俳句が出来たりしたね。句は忘れましたが、そんなときも、僕はすぐそっちへ自分を持って行けるたちなんですよ。自然、恐さも忘れるんです。
 大体、作家というものは、みんなそういうものを持ってるんじゃない? つまり、西鶴が世之介をつかって、渡し舟に乗り合せて隣り合った女の肉体を、空想の中で完全に自分のものとして味得してしまう、ああいうものを持ってると思うな。作家ならたれでもですよ。ですから作家の隣りに自分の女房はうっかり腰かけさせられないよ。すました顔していても、人妻でも美人だと或る場合には彼に姦せられているかも知れないからね、アッハッハッハ。

 え、「宮本武蔵」これも古いな。もう何度も話した気がするが、あれ書いた動機は、もう二人とも故人ですが、菊池寛氏と直木三十五氏の論争からですよ。読売新聞が、赤坂の山の茶屋で座談会をやったことがあるんです。その時、直木氏の「武蔵非名人論」と、菊池氏の「武蔵名人説」が席上、派手な議論をたたかわせたんです。もちろん、談笑のうちにですがね。
 そのうちに、聞き役だった僕へ、どっちかが、
『吉川君はどう思います?』
 と、云われたんで、僕は、やっぱり菊池氏に幾ぶん加担したようなことを云ったか知らん。僕自身、たいした自説も持っていなかった。
 すると、翌月だったか、直木氏がすぐ「武蔵非名人論」というのを「文芸春秋」に書いたんですよ。その論拠をいうと長くなるんですがね。そりゃア何も直木氏の独創的な論でもない。天保時代にやっぱり剣客の間で盛んに武蔵の非名人論が一時唱えられたことがあるんです。それに幾らか直木的逆説を加えたのが直木氏の非名人論なんですな。それはいいが、終りの方で、
「吉川も同調し武蔵は名人であるなどといったが、どこが名人か、聞きたいものだ。いざ出て来い」
 と、ホコ先を僕にむけて結んである。つまり答えを「文芸春秋」に書けというわけなんだ。待てよと――僕は思ったね、これは直木流の手ですからね。そこで『僕は作家だから小説で書く』と、逃げちまったんだ。それが、いつのまにか、三人の公約みたいなかたちになって、『吉川君、小説に書くそうだね』と菊池氏にもいわれたんで『ええ、あの返事は、小説で書く』となっちまい、知らず知らず、その後、武蔵研究をひそかに企むようなことになっちまった。ものの動機っていうか、生れるってえことは、妙なもんですな。
 武蔵のときでも、掲載前に朝日からタイトルで問題が出ました。学芸部の後醍院氏から電話で、『どうも申上げにくいんだけど、宮本武蔵じゃという社内の幹部会の声なんですが』と暗に題材を更えてほしいような口吻なんです。『それはきっと講談の宮本武蔵を連想されてるんでしょうが、少し変って書きますから、まあそれにしておいて下さい』と、まあ何とかそこを云い張って、とにかく始めたものでした。それが僥倖にあんな長くつづくことになったんですよ。
 もちろん、宮本武蔵も史料といっては、ほとんど少く、空想が大部分です。熊本で出版された「宮本武蔵顕彰会本」「小倉碑文」それらをあわせても、ほんとの史実は、漢文なら百行とはありません。また「むさし」を「たけぞう」と読ましたのも僕の創作といっていいし、佐々木小次郎も、「武芸小林」そのほかの小伝記には、巌流島の時、六十何歳の老人であるとも、また二十歳がらみであったとも、両説があったんですね。北陸の梅津清源という人の弟子でね。どっちを採ろうか、迷ったんです。そして結局、小次郎の年齢は若い方をとったんです。そしてああいう扮装のアイデアも僕のデザインで拵えたもんですが、それを固定させたのは石井鶴三氏の筆技ですね。今では小次郎スタイルっていうともうあれでないと小次郎らしくなくなっちゃった。また、掲載中には、剣道の方の高野佐三郎さんだの中山博道さんなどの専門家から、
『吉川さんも、あれで剣道二段ぐらいやるのかね』
 などと人づてにいわれたことがありましたよ。ところが、僕は竹刀の持ち方一つ知りません。道場をふんだこともない。すべて空想です。そして、そういう空想は「宮本武蔵」を書こうとして忽然と湧いて出てくる空想ではないんでね。考えてみると、やはり少年時代の空想のつづきですね。つまり白昼夢の繰返しが偶※(二の字点、1-2-22)物に触れてふき出してくるにすぎない。「水元声無みずもとこえなシ、石に触レテ即チ鳴ル」あれですよ。
 例えば、好きな少女があるでしょう。なんにも話しかけられもしない、けれど、空想の中ではその少女の前で自分の姿を英雄的に置いてみたりして独りひそかに空想感にひたるような頭の遊びを少年時にはたれもよくするでしょう。お通なんかもそれでしょうな。僕はお通っていうものは意識的にやや理想像を書いていますし、朱実の方はその反対を幾らか現代の女性にちかいものにしています。又八と武蔵のような対照的にね。ところが、書いてみて、その当時、僕は自信を得ました。というのは、お通的な性格っていうのは、やはり日本の女性は誰もといえる位なパーセンテージで幾分かをみなもっているんですね、ウイスキー・グラスを傾けて飲むような女性でも、朱実かお通かと、好みをきくと、多くは、お通といいますね、お通的性格を彼女たちも採るんです。妙だと思うけれど、小説の中に自己を読むばあいは、自分の日常には行動もしてないし表現もしない別の自分にマッチしたものを、読者は恋うというところがあるものとみえますね。

「新・平家」なんかもそれじゃないですかね。あれが七年も続けられたわけは、つまり読者は、小説を読むとおもいつつ、実は七年間の自分を読んでいたことなんです。また、僕もあんなに迄、長篇になろうと予期して始めたんではありません。尤も、高田保氏の病気見舞に行ったら、病人が坐り直して、『あれは君、どうしても、七、八年仕事だよ、頑ばって、少くも六、七年は書き給え』と、途中でべんたつされたことはありましたがね。初めは、壇ノ浦の辺から書こうと思ったんです。壇ノ浦のうらぶれ平家と淪落した平家の女御達、それと浅間しい敗戦世態を古今に対比させて、そこから出発しようとしたのです。所が時日をかけて考えてるうちにだんだんだんだん構想が変っちまって、いつもの空想癖なんですね。いっそ書くならと、青年清盛から筆を起したのです。「週刊朝日」の方でも、受ける受けないっていうことは度外視して腰を据えてもいいということだったので、一そう、あんな厖大なものになってしまったわけですね。
 だが、何しろ清盛っていうと、長い間、旧国民読本の歴史教育の中にまで植え付けられて来ていますからね、その先入主の清盛観は頑固で根強いもんなんです。それを訂正するのは骨が折れました、つねにその先入観との抵抗を感じますからね。それだけにまた、書き甲斐があったとも云えます。要するに、歴史小説も自分を書いてることですよ。清盛の青年を書くことは、僕自体が青年になることでしたよ。自分の血液が青年になる。そう思いますな。だから青年を書くのが僕は一番興味がある。若い清盛がボロ垂衣を着、泥草履を履いて、小バカにされながら歩いてる姿を書くとき、知らず知らずそうなっています。宮本武蔵も「たけぞう」時代を書くのが愉快なんです。「太閤記」なんかもそうですね。彼の日吉丸時代と藤吉郎の頃を僕はいちばん愉しく書いてますよ。秀吉になり太閤になり、彼が少し生意気になると書くのも余り面白くないんですな。出来上ったらつまらない。未完成への愛着、すべて僕のやりばは、そうですね。山腹をよじ登ってる人の姿が僕は好きなんです。山の上まで登っちまうとつまらんという気がするんですね。だからその点において僕の主人公に類型がありましょうな。どうもこれは、しかたがない。

「平将門」は将門の死まで書きましたけど、「高山右近」は途中で切れています。つまり、デウス右近とまで成らない、彼がほんとのクリスチャンにならない辺で終ってます。あれを読売新聞に書いたのが終戦後で、当て込みに書いたように云われましたが、決してそうじゃありません、戦国時代の切支丹大名の生態もおもしろいし、キリスト教の持ってる恋愛観っていうものに僕は問いたいものがあったんです。いってみれば、キリスト教では“マリアは婚せずして孕む”といったような口を拭いてるところがあるでしょう。僕は禅のことなんかは詳しく知らないんですが、少なくとも東洋の禅なんかだと、そこはもっと突っこんでますね、恋愛、性慾そのものへ、生身でぶつかっているところがある。捨身でそこを割り切ろうとした人間もいますよね。
 終戦直後の、一頃、激しい性行動の混乱時代があったでしょう。文壇では「肉体の門」あたりを契機にして、あれが作品でなく、街上そのものに溢れていろんな現象の見られたことがあったでしょう。それを、その性慾の問題などを「高山右近」では書きたいとしてかかってみたんですよ。ところが、デウス右近はローマにおいても日本の使徒として絶対のセントですからね、ゆめゆめ、そういう女性関係なんかはないとしてるんだな、信徒の間ではですよ、だが、右近その者を、よく調べてみると、そんなに純潔でもないらしい。そこで僕の例の空想は、青年時代の右近には、幾多の女性もあり、やはり迷路の子羊だったことにして書いたんです。そしてそこから解脱してゆく右近を書こうとしましたね。
 ところが、これがいけない。さっそく、上智大学のラウレス教授などを初め、多くのクリスチャン読者から抗議が出ました。ラウレス氏などは、新聞を見ますと、はるばる奥多摩の吉野村の僕の家までやって来て、
『絶対に、デウス右近さまは、そういうお人ではない』
 というんですな。当時の文献、著書、史料をかかえては、雪の降る日にも、奥多摩の家まで議論に来る。こっちは、議論ばかりしていては、その日の原稿も間にあわない。けれど信仰ですから、熱いんです。また親切心をもって教えるという態度ですから否みもできません。とどのつまり僕は一日、上智大学へ行って、「文芸と宗教」という演題をかかげて、あそこの講堂で二時間ばかりしゃべッたりしました。けれども結局、わずらわしさに、こちらは根負けしてしまいましたし、なお続ければ、以後の高山右近も相当長くかかるので、切れ目を作って、右近のごく若い時代でひとまず終りを作ったわけです。どうも宗教関係のものは、右近だけでなく、たとえば法然、親鸞、日蓮、道元といった人を書くのでも、よほどな用意をもっていないと、信仰的反ばくがつよいから、むずかしいようですな。「文芸と史実」「文芸と信仰」とは、結局、水かけ論になって、双方が釈然とするわけにゆかない場合がまま多いんです。
 そこで、僕には、いつも負債に思ってることが一つあるんです、例の「親鸞」なんですがね。あれは自分の三十歳台に書いて、四十台にまたすこし書き直して、それから、出版になるとき「どうも、いま見直すと、じつに恥しい。自分の年齢の背丈けで、親鸞などをこう書いたのは、めくら蛇におじずであった。だから、自分が五十歳になったら、もう一ぺん書き改める」と、序文へ公約的に書いてしまったんです。ですから、どうかすると皮肉な読者が「その公約はいつ果すのか。貴下はもうたしか六十へ入ったはずだが」などと、からかって来たりする。そのたびに、ひやりとしますね。だけど、いまだに果せないでいるんです。
 それと、応仁以後の暗黒時代をバックとした一休禅師もおもしろい。「一休さん」も、いつか書いてみたいと思ってる宿題です。ついこの間も、白木屋で、博物館と毎日主催の「墨蹟と水墨画」の展観があったでしょう。あの中に一休のじつにおもしろい墨蹟がありましたよ、一つ。竪幅で、紙中の上の方に“尊林”と大きく二字書いてあり、その下に細字で細々と(詩)が書いてある。ちょうど居合せた田山方南氏に読んでもらうと、つまりそれは「子雀の死を弔う」という詩なんです。一休が雀の子を飼っていたとみえる。その子雀が死んだのをかなしんで、偈を作って弔っているんですよ。じつにおもしろいじゃないですか。応仁の乱世ですよ。人間の命なんかもゴミあくたに見られていた頃ですからね。それにまた、一休には、めくらの森の瞽女という愛人もいましたし、色道にかけては、さきに右近の例で云ったように、捨て身で、人間の性慾なるものへ、身をつッこんだかと思われるふしもあります。それを真似て、彼の息子が放埓な堕落僧となったりして、父としての苦渋を舐めた一休です。子雀の死なども、その息子をいたむ心とつながっていたものだかもしれませんね、とにかく一休さんは、むかし話の一休さんとして、あの儘にしておくのはもったいない存在ですよ、いちどは書いてみたいと思ってます。だが、そんな事蹟から起ったことばでしょうか。誰が云ったか、
「一休は愛すべし、一休の禅は学ぶべからず」
 ということばがありますよ。だから書くにしても、うかつには持ち出せませんね。

 僕の読書ですか、読書といっても、くつろぎの気持で手を伸ばす本は、きまって美術書だとか、平易な科学書とか旅行記みたいな物ですね。この頃は怠けぐせになったんでしょうか、勉強のためになんて、読みませんな、ひとの小説もよほどでないとめったに読まない。以前は、暇さえあると、神田、本郷の古本屋街を日課のように歩いては買い集めましたがね、またその当時は片っ端から買って来るとすぐ読んだものですが、近年は買ってもすぐには読まんですな。読まないくせに、古書目録を見るとつい買いこんで、それがだんだん溜っちゃうんで、いまでは書庫に困ってますよ。けれど唯、カードだけは頭にあるんで、必要にせまると、もちろん役に立つわけです。ともかく、雑書雑然というやつです。
 最近、ちょっと思い寄りがあって、「西遊記」に関する本を大分集めましたよ。あの中の、孫悟空ってものは実におもしろい。少年時代から「西遊記」は三、四回ぐらい読んでいますね。今年は軽井沢で暇があったので、孫悟空研究ってほどじゃないけど、ひとつ、おさらいをしてみようと思って、もう一回全編を読んでみました。そして「西遊記」の作者の空想力にあらためて驚嘆したですよ。いかに僕が空想家だと云っても、あれにはとてもかなわない。日本の古典とおなじように、「西遊記」の作者も誰なのか、よく分ってませんが、魯迅の説だと、明代の呉承恩だといってますね、ま、それはとにかく、あの雄大な空想力というものは、島国に生れた作家の小ッさい空想などとはてんでケタが違うんだな。まったく天衣無縫ですよ。
 けれど、あの「西遊記」も、今日読んでみると、おもしろいのは、全編の五分の一ぐらいのところ迄でしょうか。あとはどうも面白くない。然し、その空想力の逞しさは、たとえば今日の科学者が電子、量子へ向って、挑みかけている夢とも匹敵するほどなもんですよ。東洋の四大奇書の一つといわれるわけですね。惜しむらくは、前半以後になると、悪魔外道の出没とおなじ手法のくり返しになっちゃって、退屈を感じ出させますが、少年時分によくも克明にあんな大部な物を読んだもんだと、幼い頃の読書慾にも、われながら、つくづく感心しちゃったな。
 ところで、その「西遊記」は、今日までに幾たびも翻訳翻案されてますが、これを現代にとって書いたらどうなるかなんて、ついまた空想をほしいままにしてみたんです。
 悟空というあの半人半猿の性格は、現代人のたれの中にもいる一種の怪物ですからね。三蔵法師が天竺に経を求めにゆく願望を、今にすれば、さしずめ、人類の浮沈にかかわる原水爆のことになるでしょうな。人類が原水爆を使うか使わないかというのがラストでいいでしょう。悟空がよく駈けつける観世音菩薩は、真理の象徴とか、愛の具現とかになりますね。猪八戒と沙悟浄とは、われわれ仲間の現代人です。そういった仮設で、あの悟空を現代に用いて、二十世紀の三千世界を舞台にする。地球はもちろん、地軸から地上、天上から九天までを大舞台として現代を書けば今のあらゆる世態が書けると思う。思想、政治諷刺、小さくは銀座から汚職までね、飯茶碗の中まで書けるんじゃないですか。僕の空想癖でやれば……いや今は書きはしませんよ、もし書くとすればですね、悟空が自分の毛を抜いて、ふッと吹きさえすれば、変身の術を行うから、彼を用いて、一度は女体の子宮にも入れてみたいなんて思いますね、悟空という半人間の生命を一ぺん精子に戻して、そこから再出発させてみたい。まだ世に出ない子宮の中で、篤と、人間っていうものの出発を考え直さしてみたいような気がしますね。そして現行の政治方式というものやら何々主義などと絶対的に思われているものが、果してほんとに人間の社会の暮し方に好適なものか、どうかなんてことを、悟空に考えさせてみるわけです。
 いや、そんなことを云っても、やっぱり書くのはむずかしいな。一朝一夕にはやれないな。空想ってやつは、孫悟空が何万里を一瞬に駈けるようなもんで、とめどもないが、われに返ッてみたら、如来の手のヒラを駈けていたに過ぎなかったっていうようなもんですな。……しかしこの夏は「西遊記」を手に悟空と共に宏大無辺を遊びましたよ。
「西遊記」には、後代に書かれた「後西遊記」もあるけれど、「後西遊記」はつまらない。「続金色夜叉」の類で、いけないですね。また、小説の「西遊記」には、史実の種本があるんですよ。千三百年の昔、大唐の長安から、その頃の中央亜細亜を通って、十八年がかりで印度へ行った玄奘三蔵法師の旅行記がそれなんです。その「大唐西域記」は三蔵自身の記録といわれてるから、ほとんど史実ですからね、そんな厳然たる史実をとって、あんな奔放きわまる空想を書いたんですから、じつに自由無礙な想像力です、いわゆる大陸文学というもんでしょう、とても小国作家の頭脳ではありませんね、敬服しますな。

 一つ終って、また何か、そろそろ始めようと思うと、僕は、日頃抱いている空想の卵を胸で孵そうとし出すんですよ。作家は誰でもだが、いつか書きたいと思う宿題は、僕にも幾つかいつも持っているわけですからね。それを温め直してみる、そしてまた、新たに気が付いてくるものがあったり、構想のうちに変型して来たり、いろいろな場合はありますがね。「宮本武蔵」なども、いまだに、あのつづきとして「続宮本武蔵」を書けという読者と、書かない方がいいという読者と、半々にいって来ますね。自分としては、あれでいいと思うんですが、単行本が再版されると、きまって、読者がいってくる。あの後を書けという人、また書かない方がいいという声、ふたいろですね。また「新・平家」なども、ひと時代の大曼陀羅ですから、続けようと思えばまだ幾らでも書けはするが。さあ。どうでしょうか。そうなるのも。
 いってみれば、平家にしろ、なんにしろ、歴史の一つの転換期に、歴史家が清算して、大坂落城の次ページは、すぐ徳川幕府初期時代に入っちゃう。そう清算しなくちゃあ、歴史としては、まとまりがつかんですね。けれど、文芸として観れば、人間の興亡は、時の現象ですから、生き永らえようとする本能はあくまで生きつづいていると見えて来ます。そして生きている限りの生命は必ず次代にも何かの影響と結縁がなくてはいない。つまり歴史に切断はないんです。だから作家の眼で見れば、何々時代なんて区切りは無いんですよ。あくまで歴史は一本の大河ですよ。
(談話筆記)
底本:「吉川英治全集・47 草思堂随筆」講談社
   1970(昭和45)年6月20日第1刷
初出:「文藝春秋」
   1957(昭和32)年11月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年5月4日作成
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