折々の記

目次

ことばは少く、文はみじかいほどがよい。
しかも意ふかく、餘韻あればなほさらよい。しかるに至らざるわたくしの如き、とかく冗語多く筆をもてば更に長きに失し易い。ここにはその無用をのぞいて簡を旨としたつもりであるが、もとより菜園の新味あるではなく、珠中より珠を拾つたものでもない。一書にまとめるこころもなく、あちこち稿勞の餘暇に書きこぼした[#「書きこぼした」は底本では「書きこほした」]寸想寸墨に過ぎない。しかもきのふのことば今日にあたらず、今日の言もあしたの示唆になるほどのものあるやいなを自ら疑ふ。一家言叢書のうちに架せられれば、人或は著者の一家言なりやともするであらうが、僕なほ一家を成すにいたらない者、何ぞ一家の言あらんやである。ただ青年馬上の語も時には君子の窓簾さうれんを捲くにも足らんか。正直、そんなこころもちである。
著者
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 雪を想はす年の暮になると、毎年かならず赤穗義士が語り出される。映畫に、劇に、書物に、ラヂオに、また爐邊の人々のあひだに。
 鹿兒島縣地方では、江戸時代から毎年十二月十四日には、青年子女が各所に寄つて、義士の苦節を偲ぶため、終夜冷たい床に坐つて、義士倫講會をすることが、今でも、年中行事のひとつとなつてゐるさうである。
 四十七人の生命が、日本の精神文化に貢獻したことは實に大きい。それは現實社會が科學的になればなるほど、一面、失つてはならないものとして、その價値と光燿を昂めてくる。
 いまや澎湃たる太平洋の風雲をゆくてに臨みながら、全土一億の民衆の――この際の心がまへに少しなりと顧みてみたい。
とび込んで手にもたまらぬ霰かな
 これは大高子葉(源五)の句のやうにいはれてゐるが、富森助右衞門の句で、討入のとき、槍じるしの短册に書いて、敵中へ突入して行つた彼の心懷であつた。
 覺悟、といふ心境を、これほど清々すがすがしく、さつぱり云ひ放つたことばはない。好漢まだ三十三歳、早くもここを死にどころと見極めて、軍人訓のうちにも見えるいはゆる「生死觀」の眞諦に徹して、血と粉雪にまみれ入つた彼のすがたが眼に見えるやうである。
 助右衞門の句には、このほか、細川邸へ預けられて、元日を迎へたときのものに、
けふも春恥かしからぬ寢臥かな
 と詠んだのがある。――やるべき事はやつたぞといふ氣持。何とおほらかではないか。
 大高源五の句としては、
日の恩やたちまち碎く厚氷
 が有名である。自分の功もいはず、何事も日の恩と觀じてゐるところがゆかしい。
 いつたいに義士たちの辭世や壯擧前後の歌句には秀吟が多い。嘘でないからである。たましひを搏つ眞實があるからである。
 間喜兵衞の辭世、
草まくらむすぶ假寢の夢さめて常世にかへる春のあけぼの
 も私の好きな一つであるが、原惣右衞門の一首、
かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山みち
 を誦すと私は胸にせまつて來るものを禁じ得ない。
 原惣右衞門の母は、わが子の門出にのぞんで、その鐵石心を勵ますため、自刄して果てたと傳へられてゐる。或ひは、病死であつたとも史家はいふが、いづれにせよこの歌を見れば、討入の前、すでに母親にだけは、子の惣右衞門が一黨の大願と祕事を打明けてゐたことは想像に難くない。また、彼の母が、子を旅立たせてやつた心のうちも死別を覺悟してゐたに間違ひない。
 讐討を仕果して――かねてよりと顧み、また、何よりは、君と母とに知らせんと――と云つてゐる惣右衞門の心情を思ふと、この親と子が生前一夜、いかにひそかに細やかにこの世の愛涙を温め合つて家を立ち出たか、さまざまに思ひやられるのである。
 元祿事件の表面の經緯や義士たちの傳は、殆ど語りつくされてゐるが、私はいつも、この快擧の表に出てゐない女性たちの内助の力を考へずにゐられない。
 しようして、四十七士といはれてゐるが、決して四十七人だけの業ではない。その家庭にあつて、よく義士たちをしてそれを成さしめた裏に、幾多の女性の力がある。
 わけて母の力が、子の信念に、どんなに大きな勵みを加へてゐたかは、細川家の家老堀内傳右衞門の日記の一節を見てもわかる。
 お預け中、富森助右衞門が、ある時、朝夕身のまはりの世話をしてゐてくれる傳右衞門に、すこし間がわるさうに、かう云つてゐるのである。
「私の所持品のうちに、女の小袖で袖口も狹いのがありませう。さだめし若い者が、女の小袖など、何しに身に着けてゐたかとおわらひでせうが、實は、ちと仔細あつて、老母の物を討入の夜も下に着てゐたのです。むさい物と、滅多にお取捨て下さいませぬやうに」
「ははあ、さてこそ」
 と、傳右衞門もうなづき、傳へ聞いた細川家の人々も、母子の情、うるはしくも可憐しさよと、みなもらひ泣きしたといふ。
 目的を遂げた朝。
 松坂町から泉岳寺へひきあげてゆく一列の義士たちが、金杉橋までかかると、大石内藏助が、
「ちよつと、母御に會つて來い」
 と、磯貝十郎左衞門にささやいてゐる。
 十郎左は、二十四歳の若者だつた。大石主税などと共に、義士中の年少者である。内藏助は、子をもつ親心を、自身にひきくらべて、最期の暇乞をさせてやらうと思つたのである。――ちやうど通りかかつた金杉橋の近くに、十郎左の母親貞柳が住んでゐるといふことを前から知つてゐたからだつた。
 けれど、十郎左は、内藏助の好意を謝しただけで、
「もう今朝は、母も清々と、思ひ極めて歡んでをりませう。ひとたび別れを告げて出た門口へ、二度と暇乞ひなどに參つたら、何しに來たぞと叱るにちがひありません」
 と云つて、そこの橋を、たうとうわき見もせず、一同と共に渡つてしまつた。
 このほか、大高源五の母にも、近松勘左衞門の母にも、いづれ劣らぬ健氣なはなしが遺つてゐる。けれど、遺つてゐる文獻だけが、全部ではない。もつともつと世の人の眼には見えない家庭の奧に、母の力や妻の内助はかくされて居たらうと思はれる。
 堀部彌兵衞老人と安兵衞の家庭などを見ても、あの中を、實に和氣靄々と過してゐる。十四日の討入を前にして自宅に義士たちを呼びあつめ、門出の祝ひに、さゝやかな酒宴などひらいてゐるが、その座敷や臺所で、かひがひしくも立ち働いてゐる安兵衞の新妻や彌兵衞老人の妻は、いかにも良人の大事を理解しきつてゐる姿である。――死にに行く父や良人を、またその友人を、あんなにも歡んで、賑やかに陽氣に、送り出してやるために雪の降る臺所で立働いてゐる女たちの心ねを考へると、何ともいへず今日のわれわれに至るまでが感謝したくなる。胸がいつぱいになつてくる。
 人間である以上、義士の人々にも、心のこりなものは數々あつたらう。幼い子ども等、弟妹、また老いたる母をのこしてゆく家庭などでは殊さらに。
 小野寺十内なども、孝心の深い人だけに、九十になる老母のことを、くれぐれ妻の丹女にゆだねて京都の家を出發してゐる。それを丹女が大切に守つて、あとあとよく孝養につとめたことは、彼女が、良人の大望達成の後、細川家の邸内へ宛ててしばしば送つてゐる手紙のうちにも細やかに察しられる。
 總じて、義士のなかに、不孝な人はない。忠孝一道といふことばは、義士たちが無言に實體化してゐる。
 義士たちのうちには、まだ家庭ももたない未婚の男性もある。さういふ青年たちには、許嫁といふやうな女性もあつたらう。また誰とて變らぬ多少の思慕を人知れず寄せてゐた對象もかならずあつていいはずである。しかし、それらの女性に關する事は殆ど史として殘されてゐない。もちろん俗説としてはいろいろに脚色された話もあることはあるが。
 しかしこの一事だけは、確なはなしである。義士のお預け中、初めから最期の日まで、親身になつて一同の世話をした細川藩の堀内傳右衞門がその日記「堀内傳右衞門覺え書」のうちに書いてゐることだから疑ひはない。
 引揚の朝、金杉橋近くを通つて、母の家にも立寄らなかつたあの年少な磯貝十郎左衞門のことだ。十郎左は、天性の美貌で、よく同志の人々からも、からかはれたりすると、顏をあかめてゐたさうだが、年明けて二月四日の朝、いよいよ切腹となつて、檢死その他列坐の庭上に呼び出され、義士たちは順々に、潔い死をとげて行つたが、やがて、彼の番が來ると、
「磯貝十郎左どの」
 と、彼の名が、死の庭から呼ばれた。
 平常の衣服を脱いで、水裃みづかみしも水色の袴、扇子ひとつを身に持つたきりで、彼もほかの心友たちと變ることなく、極めて物靜かに、切腹の場所へ立つて行つた。
 その日、堀内傳右衞門は、
「――けふが、お世話じまひ」
 と、部屋に詰めきつて、一人々々、部屋から減つては、花のやうに散つてゆく跡を、涙ながらいろいろ始末してゐた。
 當日、脱いだ各々めいめいの衣服をたたみ、持物や鼻紙まで添へて、やがてそれを、郷里の遺族たちへ――と考へてゐたのである。で、今ふと、十郎左の立つて行つたあとで、その衣服を疊んでゐると、袂のうちから、何やら紫ちりめんの帛紗につつんだ物が出て來た。
「何かしら?」
 と、何氣なく、開いてみると、帛紗のうちから、琴の爪が、たつた一つ出て來た。
 優雅な處女をとめの指を思はす琴の爪――それを見たとき傳右衞門はすぐ、はつと、思ひあたつたことがある。去年の十二月十五日以來、ここにゐた義士たちのあひだに、何か酒でも酌み交される折があると、よく十郎左がからかはれては、顏を紅らめてゐたことである。
「どこの誰とも、おくびにも語つたことはないが、さてはあの十郎左どのの胸に祕められてゐた人は、この琴の爪の持主か」
 傳右衞門が、さう察して、白と黒の幕を張りめぐらした切腹の庭をふり返ると、そのときもう介錯人の一陣の刄風が、戞と彼方にひびいてゐた――といふのである。この事が傳右衞門自筆の「覺え書」に誌してある。
 武士道の書、葉隱のうちにも、
もののふの戀はほのかにゆかしくあるこそよけれ
 といふ意味のことばがあつたと思ふ。私は、武士道と愛との解決をここに見出すここちがする。愛のないやうな人に何で武士道の純熱な道が歩めよう、多涙な艱苦と戰ひきれよう、清々と犧牲の心命を華と永遠の土に咲かし得よう。
 だが、大義の道と、私の愛とを、身一つに渾然ともつには、よほどな難しさがある。それをきれに抱いて、道も誤たず、珠も碎かず、しかも孝行な子でさへあつた十郎左のごときは、典型的な葉隱武士といつてもよからう。強いのみでなく、にほはしさ、ゆかしさ、潔さ、さうした數々な武士の奧ふかい心美の燦きを私は十郎左のすがたに觀る。
 元祿のこの一事件ばかりでなく、國史を通じて、あらゆる時代の波の底には當然、怒濤の上には現はれない女性の力の潜んでゐたことは疑ひないが、ここに歴史の日本的な性格と、また、日本女性の特有な美徳も深くある所以だと思ふ。
 元寇や建武、また幕末維新のときに照らしても、あの國難打開にあたつて、史上にとどめられた人々の名は、極めて稀れな女性の名を除いては、悉くが男性である。――けれど維新の志士たちの背後にも、幾多の母や妻や女性の力があつたかしれないのである。もし各々の身のうしろに、さうした女性たちといふものが絶無だつたら、張合だけでも、おそらく男性の力は半減されてしまふだらう。男性をして、大義の道へ、小さくは日々の職場へ向つてでも、獅子奮進させるものは、有形無形に、うしろにある女性の力が大きい。
 いまこの時、日本は、一元祿事件どころの比ではない曠世の國難に立ち向はうとしてゐる。
 男たるものは、たとへわれらのやうな書齋の一文人にせよ、すでに日々の生活にも肚の底にも無言のうちに或るものを据ゑてゐる。が、この男たるものをして、小野寺十内のやうに、富森助右衞門のやうに、また磯貝十郎左のやうに、安んじて、笑つて、明日へ立ち向はせてくれるものの偉大な力を、世の男性は擧げて今日に欲しいと思つてゐるにちがひない。
 日々、職場へ向つて、朝家を立ち出るわが子、また良人へ、はれやかな安心を添へて見送ることでも、その一つである。夕方、疲れて歸る良人へ、笑顏ひとつ、心をこめて迎へることでも、良人が國家の一翼となつて働いてゐる良人なら、そのひとつの笑顏も、女性の忠義といへるものである。義士の行動とその精神結合の單位を見ても、悉くそれは家庭といふものにある。國史國難、いづこを見ても、日本の力は、家庭が單位だ。日本が家族主義國家といふゆゑんはここにある。
 よし太平洋の怒濤をさしはさんで、暴慢な國々と世紀の戰ひに臨むとも、それに打剋つ力の源泉と單位は、飽まで各々の家庭にある。また日本女性の力も時代の波の底――國難のしぶきの陰にあることを――特にいまの女性にふかく自覺していただきたいと思ふ。

 歳末の七日だつた。早朝、わたくしの家を訪ねてくれた地方のお客がある。草鞋を玄關に解いて、つぎあてだらけの洋服に、脚絆をつけてゐる。童顏で色つやよく始終にこやかなお爺さんである。
 ……かやうな者でござりますが。
 と、自筆の名刺を出された。宮城縣鹿島臺村、鎌田三之助とある。官民懇談會へも、首相官邸へも、翼賛會本部へも、この草鞋ばきでゆくので、草鞋村長の名を得た篤農家である。
 翁を案内して來た私の友人は、翁の徳行やその全生涯にうちこんで來た功績のかずかずを座談した。その忍苦實踐から結んだ實の大きな地方貢獻は夙に有名でもあるし、また一篇の篤農家傳を成すに足るほどなものであるが、翁は始終、少年のやうに羞恥すらおびた面持でにこにこ控へ目がちに默つてゐる。
 けれどひとたび、國家の現状とか、銃後増産の問題になると、
「だいぢやうぶでございまする。わたくしども百姓は、それをもつて、天子樣におこたへするために生れついてをりまするで、日本の百姓がたが、しつかと、自分々々の御奉公をここぞと心得て、一人々々が足に草鞋をつけてゐる限りは大丈夫でござりまする。及ばずながらわたくし共も日頃から村のものたちへ、頭を下げて、おねがひ申してをりまする。そのお蔭か今年などは、夏中の冷雨つづきで大不作にもなるところを、平年作よりも多くの物をお國へさし出すことができまして――」
 と、云ふところは單に質朴で世の篤農家と變りないままであつたが、つらつらその人となりを見てゐると、心のそこから日本の現状と増産の要を憂へてゐる眞實がほの見えて、私はひそかに、
 ――かういふお百姓が居てくれればこそ。
 と、日本の強味と、そして、ひとりの人間の誠心奉公がいかに一田の稻穗のごとく、多くを益するかを、思はずにゐられなかつた。
 ――お幾歳になられますか。
 わたくしの問ひに、翁は、
 ――もう二十日と少し經つとちやうど八十になりまする。
 と、云つた。
 そしてなほ歸りがけには、
 ――東京へ出て參りますると、あれがない、これが足りないと、宿屋へ泊つても、不便不足ばかり聞きまするで、それがみな、わたくし共へもつと精出してくれとおつしやられるやうで、何とも辛うござりまする。けれど、都會のお方たちも、そんな事にのみ心をとられて、この大事な日本の瀬戸際に、迷うたり怯んだりしてゐるやうなことでは成りません。石を噛み、草を食うても、米英と妥協などはいたしていただきたくないものでござりまする。そんな事にでもなつたら田畑に働く百姓どもの力もげつそり落ちて、日本は百年の悔を孫子へのこしてゆくことになりませう。御先祖にたいしましても、子孫に對しましても、それでは昭和に生れましたわたし共は何とも顏むけがならないことになりまするで……
 咄々と云つてゐたが、その質朴なことばの底には、壇上の雄辯にもまさる心もちがひそんでゐた。
 その翌る日である。
 ハワイ襲撃の快報があつた。そして、宣戰の大詔に、わたくし達、一億のものが、肅と、ラヂオに向つて、われ知らず垂るる涙に世紀の大東亞戰爭を迎へたのは。
 ――おぢいさんはどこでこの大詔を耳に拜してゐるか。
 と、わたくしはふと、きのふ玄關に脱がれてあつた草鞋を思ひ出した。そして、その方はだいぢやうぶ、と力強く思はせられるとともに、
 ――自分は。
 と、まづ机に坐つて身をふかく顧みてゐた。

 けふ正月の五日。けふも空には、曉から午後にいたる迄、たえまなき帝都の上空にある轟々のプロペラを聞く。この不斷の守りの下に住んで、火鉢をかかへながら寒いと呟く。何たることだと身を叱る。
 さすがに、ことしの松の内は、酒氣狼藉の客もない。しかもみな元氣溌剌だ。希望的だ。いま迄のどんな正月より明るい顏ばかりである。
 ――長岡地方へ行つて歸つて來ました。歸りに、出征中の兄の留守宅を見舞つて。
 と、一友人が、雪焦けのした顏をかがやかして訪ねて來た。
 この友人は、こんどの旅行で、或る縁故から越後長岡の郷里に今も息災でをられる山本五十六大將の姉上に會つて來たと、はなしの末に語り出した。
 ――越後へ行つてみて、大將の人物といふものをほんとに知ることができたといふ氣がしました。郷土と人物といふものは、やはり血と肉のやうに、濃く深いものですな。ハワイ、グアム、マニラ其他のあの偉大な乾坤一擲の指揮にあたつて、あれだけの戰果をあげたといふ世界驚目の事實も、偶然ではない氣がして來ました。世界人はみな奇蹟のやうに云つてゐますが。
 そんな事から、わたくしもつい長廣舌になつて、郷土と歴史、歴史と人物、そして一貫した日本だましひの底に流るる血潮の神祕――と多岐にわたつて、自分の信念を語つてゐたが、その友人のはなしのうちに、山本五十六大將からことし七十六になられる郷里のお姉上へ宛てて、あのハワイ戰後に送信されたといふ手紙を寫させていただいて來たとのことに、それはぜひと、わたしも自分の雜記帳の端へそれを複寫させてもらつた。
 ――これは大將のお姉上も、ひとに見せては、五十六に叱られるからと、他見をおそれていらつしやるものですから。
 と、友人はわたくしに念を押した。で、ここにその全文をかかげることは出來ないが、そのうちの一節には、大東亞戰の快捷以後、ともすれば銃後の一面に油のごとく浮きやすい勝利の驕氣について、大いに省みられる一節があるから、その要點だけを、これへ拔抄することを大將のお姉上にゆるしていただかうと思ふ。大陸、太平洋に亘つて、水ももらさぬ皇軍のたたかひが全うされようとも、銃後に驕逸の風がわいては何にもならない。その意味で大將もこのわたくしの無斷をおゆるし下さるだらうと思ふ。以下、大將の文中に見えるその一節である。
――いよいよ戰ははじまりましたが、どうせ何十年もつづくでせうから、あせつても仕方はありません。世のなかでは、からさわぎをして、がやがやしてゐるやうですが、あれでは教育も、修養も、増産も、あまりうまくは出來ぬでせう。重大時局になればなるほど、皆が、持場をシーンとまもつて、こつこつやるのが眞劍なので、人が軍艦の三隻や五隻を沈めたとて、何もさわぐには當らないと思ひます。(以下略)
 辭句は至つて短く淡々たるものであるが、世界の耳目を震撼させたあの一瞬を思ひ、その人を想ふとき、しんしんたる滋味をとほして、深くわれわれを省みさせるものがある。三誦、四誦、わたくしはその寫しを机邊においていま座右の銘としてゐる。

 明治生れの僕ぐらゐな年齡の者にとつて、少年時代、最も感銘の深かつた日は、舊天長節十一月三日と、元日の記憶であつたやうに思ふ。紺絣に、小倉の袴の新しいのをつけて、清掃された校庭で「今日の佳き日――」を歌ふ日は、ふしぎに毎年よい天氣で、菊の花と日章旗で象徴シンボルされた日本であつた。故夏目漱石氏の句かと思ふが、
菊の咲く日本に生れ日本ばれ
 といふ句は、十一月三日の感銘そのものをあらはしてゐる。きれいに掃いた街と、校門と、日章旗と、菊の花と、秋の太陽とに、知らず識らず薫育された少年への感化力は大きなものであつたと思ふが、現代の一年間には、さういふ教化力も、「きれいに掃かれた街」の一日すら失くなつた。
 近年の元日の街の穢さといつたらない。去年の疲勞と塵芥が殘つてゐて、街には輝きも清新さもない。又、生活に餘力のある人々の多くは、年の暮から七草頃へかけて、越年の旅行に出てしまふ。元日の都會は留守だ。
 僕は、元日でも、一度は机の前に坐つて、そして障子越しの冬の陽に、元日の靜かさを味はふことに、習慣的な樂しみをもつてゐるので、父母の生きてゐた頃から今日まで、家庭の外で元日を送つたことは一日もない。それも、前の晩の除夜は、たいがいすることもないくせに炬燵で夜明かしをして、年越しの蕎麥を食べて、いはゆる「除夜の感激」に耽るまでの、入念な家庭的習慣人である。
 ここ七八年來は、さうして、まだ夜の白まないうちに、家族達をみんな連れて、明治神宮へ行くのを例にしてゐる。あの大鳥居の前から數町の參道を、いつぱいに流れて行く群衆の中に伍して、凍つてゐる小砂利を踏みしめながら、ざくざくざくと跫音を揃へて、寒烈な曉闇を衝き進む氣もちは、一年の行動の第一歩として、最も清新で、又、反省的な氣がするのである。
 その明治神宮の元日も、やがて陽が高くのぼつて、明るくなると、もう餘りに參拜氣分が濃厚になつて、敬虔な思索的な感激は、篝火の消えるのと一緒に消えてしまふ。まづ曉闇の明治神宮だけは、いちどは歩いてみるとよいと、僕は人にもすすめてゐる。寒烈、鼻柱が曲がるほどであるが、何か得る所がきつとある。自己の生活の歩行に、一つの姿勢を持たうとする意志だけでもきつと起る。
水仙に戯作の恥を思ふ朝
 これは、數年前の元旦につぶやいた、自分の句である。

 十二月になると思ひ出す。
 ハムスンの「飢ゑ」の中に、一週間も胃に物を入れない奴が、路傍の牛骨を拾つて、いきなり、かぶりついた後で、へどを吐く所があるが、彼はまだ幸福だつた。なぜなら、獨身者だつた。
 獨身者なら、何も、ハムスンの「飢ゑ」の人世ぐらゐは、大した事業ぢやない。第一、自分の體一つのくせに、あんなに食へなくなつてるのが滑稽だ。

 三十にして立ち、四十にして惑はず、と曰つた古人の言葉はほんとかしら。あながち空言でない實踐的な人物を、吾人は史上に多く見てゐる。たとへば吉田松陰のごとき、橋本景岳のごとき、他の維新史上の幾多の人々のごとき、多くが三十から四十までの途上に、する事をした。しかし、或る意味では、志士の感情や、憂國や、あの行爲は、未成人であつたから出來たともいへる。ほんとの不惑といふ心境になりきつてゐた人は少なかつたらう。
 井伊直弼のやうな人も、四十五で宰相になつて、おそろしく剛毅果斷の一點張りにみえるが、あの信念的な足もとにも、つぶさに見ると、やはりみぐるしい程な迷ひが絡んでゐる。大鹽平八郎の如きは、五十を越えて身をさへ滅ぼしてゐる。六十にしてすらその轍を踏んだ源三位頼政には、同じ滅んだにしても、死花を求めてやつた生涯の捨て場にも見えるので、大鹽のやうに、迷路で討死した感じはない。だがそれにしても、一つの迷ひは迷ひである。尠くも、不惑の心境ではない。
 そこへゆくと、純粹藝術派の田能村竹田などは、三十にして隱遁し、四十一二歳の年には、書簡にも、田翁だの、竹田叟などと、自署してゐる。ずゐぶん老けた人である。生活そのものまでを藝術化して、詩畫と自然に生きようとした。けれど、その竹田にしても、五十歳近くになつて、友人へ洩らした書簡語のうちには、かういふ心境をもらしてゐる。
 ――若年から今日までを顧み、十から四十までの間は、恥かしいことだが、常に、誰に負けまい、彼に遲れまいと、功利の宇治川に入つて前線ばかり爭つてゐたし、又自分や家族などの滿ち足らない享樂を滿すことで唯一の慰藉としてゐたが[#「慰藉としてゐたが」は底本では「慰籍としてゐたが」]、四十をすこし踏んでからは、これでいいかと考へ出して來た。決して滿足出來なくなつて來た。つまらない雜草の花ではあつても、自分が枯れた後も、この土壤に、自分の種族を、來年の春も、次の春も、咲いてあるやうに欲しいといふやうな本能を感じてくる。極めて平凡な動物的本能でもあるが、又極めて神祕な植物の本能にも似てゐる。しきりと、花粉をこぼしたくなる。風を待つて、仕事の意能を撒布したくなる。これはたしかに三十にはなかつた氣持だ。
 衣食足つて禮節を知るといふが、むろん衣食のこともあるが、年齡からくる本能は、もつと自己の仕事に影響を持つてくるのではあるまいか。はつきりと一段、階梯がちがつてくる所から、迷ひの眼は、新しく自己を見てくる。
 三十代の認識で、あんな男がといはれた者も、四十に面目を改めるのは、そんな場合ではあるまいか。自分なども、至つて、年齡から受ける思想などは馬鹿にして、いくつになつても、變らないつもりではゐたが、これを、身邊の些事や、又妻などに對しての氣持をみても、いつの間にか變化をしてゐる。大ざつぱに云ふと、二十八九歳頃の自分は、妻に對して、ふた言目には、一喝か、手を出すかだつたが、三十になつては、仕事が可愛い爲に、身をかはして逃げてゐる氣持だつたし、四十をこえると、いよいよ、仕事も身も生涯も大切なので、妻の機嫌をとつても家庭を明るくありたいと、時にはどんな無理でも聞いてあげ得るやうになつてきた。
 實業家にしても、政治家にしても、どんな職業のものでも、すでに、衣食足つて、四十にかかる者は、何か、同樣な變化を持つものではないかしら。享樂や、功や、さういふもの以外に、社會へ自己の花粉を、何らかの形で撒布してありたいやうな。
 さういふ意味で、僕は、四十にして不惑といふ古人の言に對して、四十は初惑であるといふことも、云ひ得ると思ふ。

 祭日や日曜日などの汽車の中で、よく見かける微笑ましい家族がある。夫君は三四人の子供を膝に集め、妻君は年に一度か二度の行樂に、ふだんの零細な家計簿や、内助の刻苦から、今日だけは解放されて、自分も子供の一人になりきつてゐる。キヤラメルの一箱が、お母さんの口にも入る。お父さんの口にも入る。
 妻君の半襟は新しい。縫ひ直しではあらうけれど、帶も著物も晴著とみえる物である。子供たちは、今朝土へ下したばかりの靴を穿き、今日のために丹精しておいたらしい洋服を著、女の子は赤いハンドバツグを、男の兒は寫眞機を、それぞれ人中に置いて恥かしくない姿を持たせてある。嬉々として童心は窓外へ聲をあげたり、めづらしく自分たちの中にゐる父の膝に、甘えたり戯むれたりしてゐる。その父の顏はまた、子供以上に他愛もない。まことに※[#「義」の「我」に代えて「咨−口」、U+7FA1、28-5]むべき人生の斷片だと、傍らの乘客も、眼を細めて見入つてゐる。
 さういふ情景を見てゐると、私は眼が熱くなる。夫君は會社員か、役人か、商店員か、いづれ滅多に休日のとれない人であらう。それにしてもこの夫君は、日々の勤務にも、隨分忍びがたい我慢もし、辛い勞力や精神も費し、今日ばかりはかうしてゐるが、常には下げ難い頭も下げて働いてゐるのだらうと思ふ。それが男性の實社會だ。
 男性ほどいぢらしいものはない。家庭でこそやかましい良人だつたり、煙たいお父さんであるが、實社會に出ては、人にいへない忍苦もする。辭表をたたきつけたいことも奧齒の根に噛んで思ひ直す。男泣きをしたい恥も笑顏で歸つて來る。失敗も、不安も、非難も、さあらぬ顏して家庭の外へおいて戻る。あしたの朝は、又、そこへ向つて靴を穿く。
 實社會にある男性は、事毎に「忍」を以て當らなければ、忽ち生活の道を失ふか、人との和を缺いて、世に容れられない生涯を辿るだらう。その爲し難いことを爲して、しかもそれが男性の本望であるといふ意力さへ持たせるものは、ただ家庭あるが爲めである。
 かう考へてくると、外にあらはれない妻君の内助といふものも、勿論、大きな努力に相違ないが、男性の「忍力」といふものも、女性の眼には見えない、日々の苦鬪であるとおもふ。眼に見える働きばかりしてゐるのが、決して男性の仕事の全部ではないといふことを、女性はもつと認識してよい。
 私は多くの社會人に接してゐる。さういふ外にある他家の良人と、日々、仕事の上や社交上で接してゐる。文藝家は元より、實業家にも會ふ、ジヤアナリストとも交渉が多い、宗教家や軍人や思想家や政治家や、さまざまな人にさまざまな場所で會ふが、その折にいつも感じることは、この人も背後うしろに家庭を負つてゐる良人だといふことである。
 どんなに豪快に笑つてゐても、磊落を裝つてゐても、その人の背中を見ると、安心があるかないかわかる氣がする。男性が社會人として、外に働いてゐる間の緊張は、寸秒の弛みもない戰場の心がまへにも劣らないから、人には内部の弱點は見せまいとする。
 家に病人があらうと、男は職業戰線では笑つてゐる。妻に惱みがあつても、人中では極めて快活な人間といはれたりしてゐる。尚更重要な位置にゐたり、日常人に接して要務をさばいてゐる者などは、殊に、自分の職業の上では、他人に壓されまい、負けまい、蔑まれまい、敗れまいと心がける。從つて、職業線から見た男性は、皆、正面は強く、快活で、磊落で、健康さうで、巖のごとく氣負つてゐて、五分の隙もない良人に見える。
 だが、ふとさういふ人々の背中を見ると、いかにも脆さうな人が多い。どこか不安の影がただよつてゐたり、或ひは、苦惱の歪みが見える。正面と裏と、二つの假面を合はせたやうにちがふ。正面には、前に云つたやうな心がまへを怠らないでゐても、裏の心の及ばないためであらう。堂々とした大會社の重役でも、背中を見て、ふとその人の弱點を感じることがある。どんな男性でも、裏はかくせない。
 かういふ話を或る人から聞いた。聯珠の名人高木樂山氏は、自分の年齡を、他の新鋭な競爭者に告げたことがない。社會的にも、常に若く思はれてゐなければならないと心がけて、もう十數年前から、永遠の青年たらんことを、教科書として守つてゐた。その爲めには、青年に交り青年的な生活をし、青年特有な會話を使ひ、裝身洗顏の點まで、緻密なたしなみを怠らずにゐたので、もう五十餘歳になつてからでも、誰もそんな年齡とは氣づかずにゐた。どんな場合でも三十七八歳以上に見られた例はなかつた。
 ところが、或る百貨店で座談會のあつた時、たまたま、年齡の話が出て、誰は幾歳いくつ、誰は何歳と判じ合つてゐたところが、百貨店の支配人が、高木氏の年齡をいくつ位ゐかと問はれたのに對して、言下に、
「五十三四でいらつしやいますか」
 と、※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、31-10]星を云ひてた。
 これには、中てられた本人も一驚を喫した。十數年來の自信を、まつたくこはされてしまつたのである。
 で、自分は嘗つて一度も、ほんとの年齡を他人に看破されたことがないのに、どうしてそれが分つたかと訊くと、百貨店の支配人は、即座に、
「失禮ですが、私は最前から、あなたのお背中に立つて居りましたから」
 と、答へたさうである。
 それとは反對に、前から見ると、くしやくしやな顏をしてゐるけれど、背中から見ると、圓光の輝いてゐる人は、私の知己の中では、菊池寛氏だと思ふ。一緒に歩いてゐる時など、後からあの背中を見てゐると、ただまるツこく肥えてゐるだけだが、縹渺として、何か味がある。その味はどんなものかといふと、「後の安心」といふ相だ。
 私は、菊池氏の家庭を訪れたことはないし、菊池氏はまた、家庭と職業との線にけぢめをつけて、寫眞や家庭記事なども避けてゐるので、何も想像の根據はないが、それでもこの良人の背中には、家庭がそつくり描いてある。いかにも、搦手の木戸は安心して、大手に向つて床几をすゑてゐる城將の趣だといつも思ふ。
 城郭を築く場合でも、後の地相はもつとも嚴密に選擇したものである。山容、樹水、嶮密の徳備があつて、城の正面も初めて搖ぎないものになる。
 佛像だつてさうだ。佛像を背中から拜む人はないが、名匠の作品を見ると、決してうしろだからと云つて力は拔いてない。又、諸佛のうしろから背光を見せてあるのは、いはゆる後の徳備と安心をも現はしたものではないか。人間も、この後光を負つてゐなければ、實社會に立つて、ほんたうに根を下した仕事はできないと思ふ。女房たるものは、どうか良人にこの後光を負はせて、朝な朝な社會へ送り出してもらひたいと思ふ。
 こんなことをいふのも、實は、私自身に、まだ、不徳にして眞の背光がない脆さを感じるからであつて、夢、他人事ひとごとではない。もし菊池氏ほどの後光があるなら、自分は今の倍も仕事ができると思ふのであるが、それもまた、良人として賞めた考へ方ではない。要するに、この光をつくるには、夫婦共作の努力がなければならないから、まづ共作の和に努むべきである。

 轉機は人生をつくる最大な一瞬だ。岐路の人生は、運命と人間の協同創作である。自己の力が勝つてつくる場合もある。運命のつけた題名みだしと、運命の書いた筋書テーマに、もつて行かれてしまふ場合もある。

 僕、毎夜、或ひは毎曉、寢具に入る時、書一册づつを持ちて、やどかりの如く潜りこむの惡癖あり。明机に清讀をゆるさざる稿勞者なればぜひもなしと思ひありしに、一夜、秋田縣の百姓石川理紀之助翁の小傳を臥讀しつつあるうち、
寢てゐて人を起すな
 の一章に會ふ。
 翁の力行的生涯の事蹟、また、僕ら若輩書生の惰眠を撲つ。
 世には、寢てゐて讀まれざる書もありし。

 應接間の壺へ、花屋が來て※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)花をかへて行つた。小皿ほどもある光琳菊の白いのと黄色いのとが、誇らしげに客に侍してゐる。
「温室でせうな」
 と客がいふ。
「西洋菊ですよ」
 と、ある園藝好きの客が説く。
 戸外には春の雪が降つてゐるといふのに、室内では菊が咲くのですから面白いですな、と世辭にいふ人もあるが、自分には、いつかと面白くない。花屋の技巧だから仕方がないものの、出る幕でない時に、ぺちやぺちやしやべり散らす口紅の女のやうに、つまんで部屋の外へ捨てたくなる。
 花ばかりではない。冬でも、春でも、お椀のふたを取ると、さや豆が浮いてゐるし、イチゴや西瓜も年中のものみたいに出るし、家庭の惣菜でさへ、三月といへばタケノコめし、キウリといへば夏を待つまでもない。
 天保頃には、キウリの走りを食つても法令に罰しられた時世もあつたが、かう四季のものが四季を無視して、踊り子みたいにいつでも金で買へる世の中も、進歩かは知らないがうれしいものではない。
 果物でも、たとへば鮎みたいなものでも、鰹でも、食味の世界に、現代の都市人は、四季のおどろきを失つてしまつた。八百屋が春だといつて來ても、魚屋が夏だといつて來ても、待つ物はないし、感覺の新鮮さは一つもない。

 よくある名人會の演出に、少しも名人らしいのがゐないので、名人は滅んだといふ人もあるが、私の思ふには、いはゆる名人肌なる型がかはつてゐるので、やはり名人は滅びてはゐないと考へる。
 畫の一番難かしい點はどこかと問はれたのに對して、大雅堂が「餘白にあり」と答へたといふやうな名人の言葉や、一刀三禮をする彫刻家の話や、極端な唯心的名人生活や、また、權力に反抗したり、日常の畸行に富む逸話的な名人肌なるものは、確かに失くなつたであらうが、現在の名人は、機械科學の中などに多く生れてゐるのではないかと思ふ。
 ある飛行將校の話によると、飛行機にも意志と感情があつて、生き物と違ふところはないさうである。たとへば、機に乘る前に、彼の性能を疑つて、神經質に發動機を調べたり、いぢつたりして來ると、その日は、飛行機が一日不機嫌で、兎角思ふやうに任務が遂げられないことが多いが、彼を信頼して、彼もまたプロペラによろこびを現はす時は、砲彈の中を翔けても、決して凶事は起らないものだといつてゐた。
 プロペラの喜怒哀樂が分るやうになれば、飛行家も名人の方であらう。日本の紡績業が科學萬能國の脅威となつたり、鐵道工業が世界一といはれたりするのは、多分に、機械機能そのものよりは、日本人の感能に、いはゆる名人素質があるからではあるまいか。
 何で讀んだのか忘れたが、釣ずきの朝倉文夫が「おれの釣る魚は一尾も怒つた顏はしてゐない。どの魚も、おれに釣られた魚は笑つた顏をしてゐるのだ」と書いてゐたが、これなどは釣にかけての名人の言葉といへよう。すでに名人的素質のある國民は、魚を釣らせても、飛行機の操縱をさせても、また彫刻に於いても、要するにその性能は働らかずにゐないものなのである。

 人にいふべき信念でないかも知れないが、僕は酒の害といふものを覺えない。量は三獻でよし、一合でよし、半夜でよし、まれならば夜を徹してもよろしい。しかし、すすめる杯はのまない。のみたくなる時に杯を手にする。それも獻酬する時のほかは、決して、底までは乾さない。欲するだけを舌の上にうるほして止める。
 二十四五歳の頃から今日まで、僕には量といふものが少しも變らない。あがりもせねば下りもしないのだ。一酌すれば明りの燭光を増したごとく周圍に清新を加へて來るが、さびた心にならうとは思はない。微醺を尊ぶこと、ペンにインキを濡らす程度。
 つよいばかりが酒のみではないと思ふ。僕は酒のみを以つて自負してゐる。酒を愛すことでは人後に落ちないとしてゐる。たとへば、將棋は下手であつても棋を愛すことでは負けないとしてゐるやうに。
 暢叙譜の愛酒の憲法は、讀んで面白いが、あのうちの「酒飮む時」の憲法どほりにやると、僕など朝夕に飮まなければならないことになる。僕にも酒の憲法はあるが、その第一條は「舌を洗ふために」である。僕の酒は自ら「舌洗」と稱してゐるからだ。
 古人は腸を洗ふといつたが、僕には體力的にさうは飮めない。平常の舌滓を洗つて、まづ酒客との話に新語が吐きたいのである。味覺を研いで料理をあさることもたのしい。舌洗ひならば三獻でも足るし、また、酒の害を考へたこともない。

 益友といふものは、たんとはない。
 心の友といふものは、なほさらない。
 別れても、戀人は、またあるともいへよう。然し、友は、わかれたら、またと得難い。

 木崎光吉氏のお宅で、頼三樹三郎の心事についての意見を拜聽しながら、當年の俊才三樹三郎が友人に宛てた書簡を見た。
 それにも、
お互ひに棺を蓋つた後で恥かしくない歳月を過したい
 といふことばがあつた。
 また、彼は時の爲政者から、梁川星巖、梅田雲濱などと共に、反幕府黨の四天王と目された程の熱血兒であるが、その三樹三郎が、書簡のうちに、
僕は慷慨家はきらひ
 と、いつてゐる。そして、慷慨でどうなる世の中でなし、慷慨どころの場合でなし、ともいつてゐる。時代は違つても、このことばは、現代へ向つても、痛烈な喝破である。

「顏」は意志をあらはす。國家にももちろん大きな顏がある。「顏」は又、時代をあらはす。こんどの戰爭にも一つの顏があらはれてゐる。
 北支の戰線で、私がもつとも襟を正して見たものは、皇軍の兵士の顏である。あの泥土と汗と血にまみれた眞黒な顏だ。
 南口總攻撃の前夜――私は○○部隊の將士の中に交つて、大きな二日月の下に、靴を枕に、露營して眠つた。
 夜明けの五時を期して、この隊は、敵陣の中へ、捨て身の突撃を命じられてゐた。――それまでの僅かな間の睡眠なのである。
 その時、私は沁々と、自分の周圍に銃を抱いてごろごろ眠つてゐる兵士の顏を見たのであつた。何といふ邪氣のない顏だらう! どれもこれも、實にいい寢顏をしてゐるのだ。いや、さう云つては勿體ない。むしろ崇嚴ともいふべき兵士たちの寢顏の美しさなのである。
 都會の中の、白粉や臙脂や、どんな寶玉の中にも、こんな崇高な美は決してあり得ない。こんな顏は、戰場でなければ、人間の中にも見つからない。
 明日は死地へ。――それを前にして、夜明けまでの一瞬を、百年の睡りのやうに、兵士はすやすやと眠つてゐる。その眉、その唇、その眞黒な顏には、何等の惑ひも、不安も、邪智も、心殘りもないのであつた。茲にいたると、人間はもう光風霽月なのであらう。
 平常の修養をもつて、この心境に達しようとするならば、十年の坐禪でもむづかしい。二十年の劍道の修業でもむづかしい。三十年の學問でも迚も至るまい。
 戰爭は、人間をその境地へ、一夜にして到達させてしまふ。
 しかし、それは戰爭そのものの力ではない。[#「ない。」は底本では「ない。 」]天皇を持つ臣民の兵にして初めてさうなれるのである。天皇の軍なればこそ、彼等は銃を抱いて、故國に思ふ心殘りも惑ひもないのだ。すでに、天皇の兵である彼等も亦聖なる戰に立つ時は、一人々々がみな神となつてゐたからであつた。
 神の寢顏だ!
 私は眞實にさう思つて大きな二日月の月あかりに、心の中で兵士たちの寢顏を拜んだ。
 その中には、平常、平和な内地にあつては、家庭で困り者のどら息子も居よう。銀座裏をよく飮んで歩いてゐる良人も居よう。人間だから、時と場合では、その顏が醉つ拂ひになるのはあたりまへだけど、征野の露に臥して、身を皇軍の旗下にささげたとなると、誰も彼もない、日本の兵は、一人々々みな神である。それは、彼等の顏が證據だててゐる。
 兵士の顏ほど立派なものはない。炎熱の下、苦戰の血地、屋上の歩哨、鐵路の守り、何處で見ても、彼等の眞黒な顏は立派だ。邪智がない、迷ひがない、未練がない、光明にあふれてゐる。ニユース映畫に映し出される兵士の顏に意をとめてみるとよい。敢て、戰線へまで行かなくとも、心して見れば、その輝きは内地の人々にわかるであらう。
 人は、戰爭は慘鼻だといふ。しかし私はその征野にこそ、眞の希望と、眞の人間の美とを見る。わけてもその中に、兵士の顏の美に強く心をうたれる。

 戰爭があつて以來、私は人に對しこの畏怖を前より深く持つやうになつた。例へば、家庭の臺所口へ出入りする八百屋、肉屋の御用聞きでも、應接へ來て、飮んだり遊んだりの話ばかりしてゐる男にでも、知己のあひだで、困り者になつてゐる札ツキにでも。
 なぜならば、彼等にも、平常は眠つてゐても、事あれば、日本人として起つ心構へと、起てば燦然と皇國の一民である光を放つ或るものが、總てが、血液の中に持つてゐる人であることが、今度の戰爭によつて、日々立證されてゐるからである。

 個性の本質が、戰といふ超常識な中では、いろいろな形にあらはれるが、平常には、それが人間の表にあらはれてゐない。その見えないものを觀て使ふのが、名將の眼といふのであらう。
 友を選ぶにも、事業の傘下に人をおくにも、そこを見ておかないと、悲境の場合に、落寞を感じるだらう。よく、あいつは見損つたと嘆じる聲を聞くが、それは淺白な自己を告白するも同じである。――けれど、更にもう一歩入つて考へると、その見損つたと腹の立つ人間でも、まだその人間の血液の底に、まだ一滴の尊いものが殘つてゐるかも知れない。
 人は、容易にその價値を、輕々しく決められないものだと、沁々痛感する場合が多い。

 都合で、すこし大きな家を借りて移つたら、訪客に會ふたびに、家の話が出る。非難するのは知己のはうであるが、お褒め下さる人があるから腐る。文士の家がまへといふものは、女の前髮のやうに大き過ぎるのは氣になるものらしい。笑ひながしてゐるのも樂なしぐさではない。伊達正宗の詩をかりていへば、僕らはまだ「青年棲馬上」の時代だ。なかなかこの都門でふさはしき安住はゆるされない。今の家は自分が住んでゐるのではない、仕事が住んでゐるのである。
 大きな家にをさまつて、自分の變化を認めようとするほど、僕はまだ落魄れてゐない。
 この先もさうだし、これまでもさうであつたが、どんなボロ家に住まうと、門戸を張らうと、僕は、家なんていふ形の中に住んでゐるとは思はない。心のうちに住んでゐるつもりである。

 有信館といふのは當代劍道界の巨人中山博道氏の道床である。そこの冷嚴な朝の道場へ出て、稽古にひと汗かいた人々に圍まれて苦茗をすすりながら、或る朝、中山氏が語つてゐた話のこれは斷片である。
 わたしの母は偉かつた。かういふことを今でも覺えてゐる。何か急なことを告げる場合に、私がつい言葉のくせで、お母さん大變ですと云つた。すると母は、私に向つて、大變といふのは、國が亡ぶとか、御主君の身の上に何か凶事が起つた時のほかはつかふべき言葉ではない。この頃の人は、近所から小火が出ても大變といひ、鐵瓶の湯が噴きこぼれても大變といふ。あまり狹量で見つともない言葉である。大變などといふ言葉をつかふ場合は、生涯にさう幾度もあるものではない、と。
 わたしは又、十幾歳の頃からひどく病弱だつた。廿歳を越えた頃には、醫者からも、永くない天命と宣言された程だつた。それから信念に生きようと努めた。その信念を、劍道によせて、生死のなやみを突き破るほど無性に修業へはげんだ。いつの間にか三十、四十、五十となつて愈々體は健康になり、六十に達して、いはゆる心身の強固を一つに持つことができた。これも母の鞭撻と、劍の賜物にほかならないと、今でも感涙がもよほされてくる。
 修業といへば、かういふ體驗がある。
 ひと通りの劍道を修めてから、居合術の必要をおぼえ、居合の修練に熱中してゐた若い旺んな時代のことである。
 山形縣の北村山郡大倉村に、林崎神社といふのがある。永祿年間から戰國時代までは、ここは天童領であつて、本邦の居合術――つまり拔刀法の――林崎夢想流の始祖、林崎甚助を生んだ土地である。
 神社は、その林崎甚助といふ流祖を祀つたもので、徳川時代から今日まで、四百年の間、その社趾は今も郷土に殘つてゐた。
 ここに、自分は、或る念願を抱いて參籠したことがある。もつとも、林崎神社は前にいつたやうな歴史があるので、徳川時代を通じて、武術を志す人々が、非常に多く參籠して、各々、この神苑で、居合の修練を研き合つたものである。
 自分はまづ、參籠修業の期間を七日とさだめ、その前約半月程は、靜に身心を淨めて自適してゐた。――そして愈々、修業の七日參籠にかかつてからは、食物は白湯と粥のほかは何も攝らないで、不眠不休で神庭に立ち、七日七夜、刀を拔きつづけるのであつた。
 エエ――イツと、丹田から精心を凝して白刄を一颯する。そのたび毎に、介添の者が、立木の幹へ一つの傷を加へてゆく。これは三十三間堂の矢數と同じやうに、居合の回數を記録しておくためである。
 自分は、一晝夜で約一萬一千回の記録を擧げた。腕は凝り、身心は綿のやうに疲れて、朦朧となつてくる。けれど午前二時から四時頃の深更になると、神が力をかして下さるやうに、不思議な程、快く拔けてくる。
 七晝夜でおよそ七萬五六千回、この記録はおそらく古今未曾有なものであらうと自分でも思つた。自己の全能全靈は勿論のこと、神の御力もあつてこそ、この精進とこの超人間的な記録を擧げることが出來たのだと思ひ、滿願の朝は疲れも忘れ、心は得意に滿ちて、神前に報告を終り、さて、意氣揚々として、拜殿から起つて、自分の記録を、ここの額堂に誌しのこして置かうと思つたのである。
 ところが、ふと仰ぐと、そこには徳川時代の幾多の武藝家の擧げた記録が掲げてある。過去の道友たちにも、恐らく自分ほどな精進をしたものはあるまいと、それらの奉額をつぶさに見て行くと――正保何年何國の某とか、亨保幾年何流の誰とか、無數にある先輩の修業のあとを見れば――一萬八千刀とか、中には、二萬刀を超えてゐる人すらあつて、私の持つた一萬一千刀などといふ記録は、實に、何十人といつていいほどざらにあるのであつた。
 ここに至つて私は、自分の愚かな自負心と、かりそめにも抱いた高慢らしい氣持が、遽に恥かしくなつて、再び、神庭の大地へ下りて額いてしまつた。――このやうな心で、どうして一派の達人となることができよう。先人の爲した修業の後に對してすら、頭を上げることができなかつた。いはんや、神の前に。
 どうも、人間は誰でも、自分がすこし勵んでゐると、おれはかくの如くやつてゐると、すぐ自負してしまふ所がある。それが、何事に於いても、修業の止りになつてしまふのである。以來私は、いつでも、自分が努力したと自分でゆるす心になる時は、いやまだ自分の先には、自分以上やつてゐる人間が無數にあるぞ――と云ふことを自誡として胸に思ひ出すことにしてゐる。そして、充分にやつたと思ふ以上、猶又以上、やつてやつてやり拔いてこそ、初めて、修業らしい修業をした人間といふことが出來るのではあるまいか。
 ――苦徹成珠
 私は、自分でこの句を額にかいて、人にも與へ、自分も常に壁間に掲げて、修業の心としてゐる。苦徹――それはただ劍道の修業だけとは限らない。人生の道、職業の道、理想への道、あらゆる道は、苦徹を踏んで初めて大道へ達することができるのである。

「四四之金」といふかねは、金の極上品を云つたもので、いはゆる純金の純金である。亨保の頃に幕府の命で金座で鑄いたことがあるが、通用金としては流用にはならなかつたらう。
 どうして、四四之金といふかといへば、甲州金の山吹色四十八匁八分を、更に精鑄して、四十四匁までに純粹にしたものだからとある。
 純粹といふことはいいやうだけれど、活社會の實用には適さない。人間も少しは交じり氣があつて使ひ途になる。
 十四金でも九金でもいい。たいがいなことは許し合ふべきである。鍍金だつて、すぐ剥げない程ならよからう。

 四十そこそこの人がよく、何か失意にぶつかると、僕ももうこの年では――などと大人みたいな嘆息をついたりする。日本人にはわけて強い觀念である。
 迂作「松のや露八」の中に、若い時代の澁澤榮一が登場してゐるが、それを書くべく、澁澤翁の年譜を調べたことがある。その時ふと、自分の年齡も思ひ合せて、澁澤さんて人は四十歳頃にはいつたい何をやつてゐたか?――といふ興味も抱いて見たところ、遉一代の巨人も、四十歳頃にはまだ、事業らしい事業は何もやつてゐない。靜岡で商業會社を計畫したが、見事失敗して、燒打騷ぎやら何やら演じて、東京へ舞ひもどり、一つ橋家の手づるをもつて、古河の臺所へ通つたり、鐵道事業にヤマ氣を起したりして、苦鬪昏迷の最中だつたと云つてもよい。
 五十へかかつてもまだ大したこともなかつた。それが六十から七十歳へ入ると、翁の事業は萬朶の花を開いたやうに榮光に輝き出してゐる。世人が、翁の事業と共に、ほんとにその人格までも認めて許したのは、恐らく八十であらう。だからもし翁が、四十や五十の境で終つてゐたら、今日、誰も澁澤榮一なんて名を記憶してゐる者はひとりもあるまい。――あれば、あれはなかなか遣り手な千三つ屋だつたよ、といふぐらゐに止るに違ひない。

 日の出! 太古より悠久まで、永遠に若く、無窮な希望をもつて、常に彼等の朝を勵ます日の出。
 小さいかな、われらの百年に滿たぬ生涯は、その過去未來、億萬年の生命にくらぶれば、寔に、一瞬一閃光の短い時間に過ぎぬ。その無限の時の流れにある短い一瞬の人生において、われらは彼と知己たり、彼とは親友たり、彼とは血縁たり、又彼とは職業によつて會ふ。會ひ難き一瞬の間において、かく人々と知りあふことの、何といふ不思議なる、神祕なる機縁であらうぞ。
 それを。ああ憶ふだに慚愧。
 知己と知己とは、又、爭ひと謗りとの間であることの多い場合を。うらみ、憎み、陷穽、冷薄などの業も、又、知縁のうちに生るる事を。
 悠々無窮の日の出はわらふだらう。その大十方無碍の愛と、永遠の時の流れの上から。
 われらは、誓はう、今朝。日の出に對して、小心なる爭鬪を捨てることを。せめて知己のうちだけでも。

 むかしの小型本に、燈火占といふ書物がある。
 たそがれ毎に、燈芯皿へともすあの佗しい灯によつて、むかしの人は、夜毎の待ち人や、吉凶などを、心ひそかに占つてみたらしい。
 現代人にはもう、ほんとの暗闇は思ひ出せなくなつてゐる。同時に、燈火の恩や親しみをも忘れてゐるやうに思ふ。
 ネオンサインの群耀よりも、秋は、一穗の灯の下にこそ、味がある、深さもある。

 生涯一書生――といふのが、私の生活信條である。たとへ先生とか、大家とかいつた言葉を以つて他から呼ばれるやうになつても、自分では飽くまでも一書生の氣持を失はない、何處までも一書生の謙虚と精進とで貫いて行く。これが私の生活信條であり、又生活態度である。
 したがつて、私には、一生一書生である者には、「疲れ」とか「倦む」とかいつたことはない。およそ、さうした類の言葉には無縁である。又無縁でなければならぬと思つてゐる。
 そこで、私にはべつにこれといふ「勞れを知らぬ法」などの持ち合せはない。「勞れ」と縁を切ること、すなはち、「勞れ」を知らぬ法ではあるまいか。
 一體私は、規則的なといふよりは、どちらかといふと、自由奔放、思ひのままに仕事をつづけて居る方である。
 朝でなければ駄目だとか、夜でなければ書けぬとか、この部屋、この机に限るとかいつたこだはりは少しもない。隨時隨處に、精魂を打ち込んで仕事に取りかかることが出來る。
 これは、私が強ひて努めるのではなく、生涯一書生といつた建て前から、自然と、本質的に左樣修練が積まれて來たものらしい。さうして、この何事にもこだはりを持たぬこと、思ひの儘に働きつづけること、これが又、おのづと勞れを知らぬ法になつて來て居るらしい。
 いつも高い山の中腹に立つ氣持、そして頂上めがけて一歩々々と踏みつづける氣持、これが取りも直さず、生涯一書生の氣持であるわけであつて、私の心は常にここに住してゐる。
 もうこれで頂上へ來た。もうこれで大成功だ。誰が何と云つたつて動くものではない。もうこれで登る處もなければ、登る必要もない。さういふので、小さな山の頂へ、ドツカと胡床あぐらをかいてしまふやうなことになつては、もう人間もお仕舞である。進歩も發展も何も彼もなくなる。
 ただそこに殘されるものは、大きな「勞れ」と「倦み」でしかない。
 隨時隨處に、働き、學び、又遊ぶ。それが何時であつてもよろしい、それが何處であつてもよろしい、兎も角、「居る處を樂しむ」といふのが、私の主義であり、願ひである。
 他の人がみて、何んだ詰らないとつぶやくやうな處へ行つても、そこに何かしら面白味を發見する。山でも、海でも、都會でも、田舍でも、神社でも、舊蹟でも、大料亭でも、木賃宿でも、そこに必ず興味の對照となるものを見出だす。雨降らば雨もよし、風吹かば風もよし、それに適從し、それを樂しむ自分を常に作り上げる。
 大いに働いた後には、大いに遊ばうといふ氣分になり、又大いに遊ぶのが私であるが、この隨時隨處に適從するといふ、これが、又人をして疲れしめない一つの法になるのかも知れない。
 一仕事終つた後は勿論、山のやうに積まれた仕事を前に、私はよくブラリと机を離れ、門を出る。さうして、机を離れ、門を出ると、もう今迄の一切をカツトして、そこに全くべつな心境、べつな世界を組立てることが出來る。すべてを忘れて散策し、すべてを抛つて、友人などと談笑の中に夕飯の箸をとることが出來る。
 この氣分轉換の法は、べつに努めるのではなく、私にはいつも、自然と無理でなく行へる。
 われわれのやうな仕事には、氣分轉換といふことは最も必要である。泥沼に踏み込んだといふか、壁に頭を突き當てたといふか、どうにもならないやうに行き詰ることが屡々である。こんな時は、先づ第一に氣分轉換をはかる外に手はない。
 つまり、正面から掘り進んではどうにも掘り拔けなくなつた場合、一寸氣分を變へて、今度は横へ廻つてみる。すると、今までどうしても掘り拔けなかつたものが、何んでもなく易々と掘り進めるやうになる。面白いやうに向ふからボロボロ崩れて來ることにさへなる。
 この邊のコツは、獨り執筆に際してばかりでなく、人生のすべてに對して又大切なことがらではあるまいか。
 ともあれ、伊達正宗の詩にもあるやうに、「青年馬上に棲む」といつた氣持、常に戰場に馳驅し、奔走する氣持、そこには、ハチ切れるばかりの精氣と、活氣と、それから餘裕とが充ち溢れる。「疲れ」もなければ「倦み」もない。

 カントの誓言に聞けば、純粹の男性とは、創造力の權化であり、女性の純粹體は、生殖と母性愛の權化でなければならないといふ。
 さうすると、男の抱く幸福感と、女が幸福と感ずる場合とでは、根本から質がちがつてゐるのが、抑々あたりまへなことになる。あやめ太刀よくぞ男に生れける――などといふ自己禮讃も、要するにその違ふ質の仲間が、仲間の共感を誇張してゐるだけのものでしかない。これをそのまま女性に云はせれば――生活やよくぞ女に生れける。とも云へるだらう。不風流だといふならば、「鬼灯や」でも「春雨や」でも、歳時記にある題は何れを冠せても、みんな女性の幸福感に結びつきさうに思はれる。要するに、女は女の世界に於いて、男は男の世界に於いて、どつちも知つてゐる限りの幸福感を知つてゐるに過ぎないものだらう。人間に二種あり、一を男性といひ、一を女性といふ。これを比較して、よくぞ男に生れけるなどといふのは、獨善も甚しい。
 女性のはうがよく云ふ言葉だが、次の世に生れて來るならば、わたしは男に生れて來たいなどといふ繰り言も、ほん氣でさうかと思つて聞いてゐると間違ひである。さういふ女に限つて、最も惡辣に女性の使行權を行使してゐる。それでもまだ吾儘をやり足りないで、男性の生活圈まで慾望してゐる。沙汰の限りなたはごとなのだ。それが人妻などである場合は、この女房は必ず、良人の歡樂面だけの生活を眺めて、良人の慘澹たる社會面の生活苦や創造苦は見てもやらないし、見ても同情を持ち得ない女房殿であるに違ひない。
 男に、女に、生みつけられたといふ宿命の下に、然し人間はよくあきらめを知つてゐる。たとへば、鏡に向つて自分の顏に惚々する者もあるまいが、さりとて、その顏以外、どんな上等な他人の首をすげ代へてやらうといはれても、何の人の首なら自分のと取り換へてもいいといふ首はない。いくら不細工にできてゐる物でも、自分の顏は自分の顏でなければ、絶體に納まらない氣持を、誰でも持つてゐる通りにである。又、その通りに人間は、男女ともに、宿命の下に遺恨を抱き合はないやうに、神は、われ等にうぬ惚れを與へてゐる。
 あぶらや白粉などといふ皮膚の塗料を必要としない男性は、夏となれば、すずやかな、單純な、さつぱりした、清潔な――何處から見ても通風のいい姿を置いて、女性のジレンマの群を、憐れなる美しさと眺めたりする。實際、夏こそは男がいい。
 でも、洋裝は、女をかなり夏の生活へ解放したが、その洋裝をするために、パーマネント・ウエーブをかけ、爪紅を塗り、ハイヒールに灼けた地上を踏んであるく必要を生じるならば、むしろ、帶は幅は厚いにしても、日本服の裳を風にさばいてゐたはうが、男の眼から見ても救はれる。さういふ點では、むしろ江戸時代の素足に、洗ひ髮の女などは、極めて文化的に放膽であつたとも云へよう。平安朝時代の女性などは、繪畫的には、優婉典雅にあらはされてゐるが、夏となれば、路傍に疫痢病者の死骸がいくらも轉つてゐたやうな當時の衞生状態から考へると、女性の化粧や清潔の程度もうかがはれて、およそ今日の颯爽たる夏姿と比較しては、較べものにならない程、暑苦しい粧ひの汗を、髮の根や肌に怺へてゐたやうに想像される。
 焚き香の流行なども、さういふ所に起因があつたのではあるまいか。現代の男性が、香水をしのばせるなどは、およそ自己の不潔か病臭を語つてゐるやうなものである。男の肌の毛穴には、塵のにほひも止めてはならない。いはゆる水拭の肌がいいのだ。焚き香も匂ひ袋も必要としない眞の素肌は、男でなければ持ち得まいと思ふ。若葉時の朝風とか、夏のすず風とかを、肌へじかに感じ得ない女性美は、私たちから見ると同情に耐へない生れつきである。
 こんな問題は末梢だとも云へよう。沼の魚は海の水の味を知らない。限界の中には、馴れるといふいい習性があるし――。だが、思想的な世界に入ると、愈々わたしは女性に憐愍を持たずにゐられない。この點では、救ひ難いものとして、釋尊すらべつものに扱つてゐるから、いかに後世われわれ凡俗が、女人濟度の誠意をささげても、女人自身が進歩的に文化の結界を打破してみても、すこしも彼女たちの幸福が増して來たとはわれ等には見えない。むしろ女性生活の進歩相は、よけいに女性へ不幸な胚子を蒔きちらす開拓となり、不幸な花がいたづらに多く、男性の耕地へ交つて亂れ咲いてゐるやうに、近代世相は見ることもできようかと思ふ。
 わたしはかう思つてゐるが、かういふ定義を女性へ下しては不遜だらうか。
 ――女性の空想力は、男性のそれに比して、遙かに狹い天地しかを飛躍し得ない。
 といふことである。知識的に高いと云はれる女性のどんな人を檢討してみても、さういふ感じがする。閨秀歌人とか、女流作家とか、思ふまま思想の表現をしてゐる人たちほど、かへつてその限界あることを――そして男性の住む想像の世界より、遙かに狹隘なことが明白にわかるやうな氣がする。
 もし人間から空想の世界をとり除けば、地球は地球だけの面積でしかないが、空想の飛躍がある爲めに、人間はずゐ分大きくも呼吸をして生きてゆかれる。その空想に住む面積のせまい女性は、同じ人間として、男性よりも不幸だと云はないまでも、男性よりも幸福が小さいといふことは云ひ得よう。けれど又、女性が戀愛に全部的になり得るところなどは、とても男性には思ひつかない甘醉の菩提境があるに違ひない。結局、どう何を並べてみても、よくぞ男にといふ獨善は、最も獨善性に富む男の仲間だけにわかり合ふだけの話で、これを女性に説いて心から※[#「義」の「我」に代えて「咨−口」、U+7FA1、64-13]望を感ぜしめることはずゐぶん難かしい。
 獨善とはいふが、男性には獨孤の樂しみがめぐまれてゐる。よき女性と巡り會つた時は、勿論、男性の幸福も最大なものとなるにちがひないが、或る變則な場合、たとへば妻にめぐまれない男性とか、獨身をやむなくされたとかいふ立場の男性でも、男性ならば、藝術に生きるとか、事業に生きるとか、自然の中にひそむとか、何ういふ形式の下にも、かなり生命の充實はさがし得られる。生活にしても、奔放に、自由がよけい持てる。女性の場合では、何うしたつてさうはゆかない。――子とか、良人とか、戀人とか、せめて肉身の愛へなりとも、何ものかへ結びついた場合でないと、生活の醗酵は起つて來ないし、獨り樂しむといふ方便も、男性にはあつても、女性には社會組織が備へてくれてゐない。
 夏風の疊の上に、大の字なりになつて晝寢する快味すら、女性と男性とでは、貪りかたがちがふ。だが、暴慢に似た男の自由さと奔放とは、その實、男が對社會的にある時の、忍苦忍從の反面であることを、眞に知つてくれる女性がいくらあるだらうか。殊に女性が自分のものとして持つた男性に對してだけでも。

 日本の娘と、日本の果物は、年々美しくなつてゆくやうだ。フルーツ・パーラーへ入るといつもさう思ふ。世界的に驚異されてゐるこの國の科學のうちでも、著しいもののうちに數へてよからう。女性美と果物美(味は別問題)はたしかに近代人の努力した藝術的産業だ。ただその産業的精神にすこし區別の足りないせゐか、近代の女の感じは甚だ果物に似、近代の果物は又女性に似過ぎてゐる。そしてどつちも大地の乳を離れた手工品になりつつある。たとへば、銀座どほりの往き來の女の影を眼でひろつて、假に果物皿に乘せてみるとすれば、それは枇杷か、メロンか、アレキサンドリヤか、水蜜桃か、梨か、クルミか、黄色リンゴか、どの女も何かしらの果物と似かよつてゐる。西鶴の世之介をして銀座を歩かせたなら、彼はその味惑の[#「味惑の」はママ]、あまりにフルーツ・ポンチに過ぎないことを歎くだらう。
 戯れに、或る實業家が醉つて詠歎するには――吾々廿年早く生れ過ぎたよと。――つまり彼は、近代の女性美が自分には眼だけのものに過ぎないことに腹を立ててゐるらしいのだ。だが、安んじ給へと傍人がしきりと慰めて云ふ。それは、貴下が明治大正の二百三高地といふ洋髮だの、原油にひとしい臭氣の鬢つけ油だの、羽ぼつたい綿入羽織を著た女などを知つてゐるからの嗟嘆であつて、現代の若い男性たちには、さういふ比較觀照はあり得ないから、今の女性の著しい美の進歩も貴下の如くには眼に映らないのだ。だから、今の壯年者が貴下の年齡になれば、やはり同じ歎きを洩らすのさと。――さう慰めてゐるのも五十四五の男性だつた。
 臙脂や眉ずみはずゐぶん古くから婦人の顏を粧つてゐたらしいが、白粉を用ひたのはいつ頃かしらと思つて、古事類苑や女粧考や雜書をくり返してみたが、ちよつと見あたらないのでやめてしまつた。町風呂でさへ、江戸開府の慶長末年にできたのが珍らしがられたといふほどであるから、貴紳の女子などはべつとして、一般の女性といふものは、昔はずゐぶんうす汚いものであつたらうと思ふ。平安朝時代の女性なども、文學や繪畫に現はされたものとはまるでちがつて、齒とか髮とか爪とか、潔癖を要する點だけでも、現代人の女性に對する觀念などからすれば、寄りつき難いくらゐな醜を多分に平氣でゐたらうと思はれる。
 女が美しくなつたのは、何といつても、江戸時代からではあるまいか。それも元祿期にはまだ男女同粧の風が濃かつたから、斷然、女性自身が自身の美を確立し出したのは、浮世繪師がそれに着目して取材し出した江戸の中期以後といつてよい。
 明治から大正迄の女性には、美への努力が鈍かつたやうに思ふ。それだけ女性の生活意志が緩漫だつたといへる。傳統と輸入との混雜した文化を、漫然と髮や體に着けてゐた昨日までの女性から見ると、現代の女性は驚くべき表現を自覺して來た。それだけ、女性の生存もせちがらくなつて來たにちがひない。生活の激しさから女性美が發達する。女性美も産業である。

 何かの雜誌で、あなたは女性のどこを美の焦點に見ますか、とあまり賢問でないハガキ回答が出てゐたが、それに對してのいはゆる名士の審美が、殆んど、眼とか、脚とか、知識美とか、曲線とか、たいがい誰もがいひさうな十目十指を出てゐなかつたが、さて、自分はどこを多く見てゐるかと考へて見ると、やはり一般の男性が見てゐるところからかくべつ離れてゐない。
 ただ、僕には、女性の耳が妙に眼につく。耳は、人間の顏だちを構成してゐるものの中で、いちばん原始的なものだけに、あれが大きすぎたり、汚なかつたり、形がわるかつたりすると、まつたく女性に對する應接に失禮な嫌氣が生じてくる。支那美人が、古代から、耳環を裝身具のうちでも重要なものにしてゐるのは、たしかに理由がある。耳環の風は、日本にも飛鳥時代にあつたし、西洋にも黒人のうちにはあるが、現代人にあまり行はれないのは何故かと考へてみると、これにも見識があることだ。耳へ耳環をぶら下げることは、却つて耳へ人の注視をひくことになる。つまり反對効果を生ずるからである。だから耳の化粧はあまり紅すぎてはいけない。男性のはべつたが、女の耳は、ありや無しや、氣がつかないでゐられる程のがよい。

 去年、平泉の中尊寺で見た天平佛の人肌觀音の耳の美しさはいつまでも眼に殘つてゐた。あんな人間的な佛像を見ると、千年以前に生きてゐた佳人の息までが感じられて來る。佛像や繪畫には、その時代の美人が代表されてゐるといふが、初期浮世繪の又兵衞の美人などは、どう眺めても不美人である。光起、光隆などに現はされた後宮生活の女性たちでも、現代人の眼には落第であるし、假想的に美人の見方をおきかへてみても、どうしてかういふ型の女を好んだか解らないやうなのがずゐぶん多い。現代畫家が古人を最も凌駕してゐる點は、女の美を描いてゐる仕事だと僕は思ふ。南畫も、大和繪も、その他日本畫の全般が、概して、古人の足跡よりあまり進歩したとはいひきれない現状にあるらしいが、女を描くことに於いてだけは、今日の畫家ほど、女性美をつかんだ例は前時代になかつたといつてもよい。
 もつともそこには、現代人の好みに向けた多分な適合性もあるわけだから、今日の美人畫も五十年先にはどんなふうに見られるかもわからない。映畫のスターなどは、三十年も先には、何だつてこんな女優に人氣があつたのかと、滑稽視されるのもあるだらう。志賀曉子をオールの編輯者が連れて來て、推薦文を書いてくれと云はれた時、自分はどこにこの女優の美質を見出したらいいかと思つて書くのに困つたが、その後スクリーンの上では實際に人氣があるので意外に思つたことがある。すでに、僕らの眼は、現代人の眼からはやや遲れてゐるものらしい。
 だが、好みとなれば、主觀の問題だから、いくらでも我が張れるし、又先の苦情も入る餘地がある。たとへば直木の愛人が三人が三人共姉妹みたいな型であつたり、菊池ごのみといへば、友人間ではああさうかといふ程度に見ないでも見當がつくやうなものである。※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)繪畫家の描く女性を見ると、誰のにでも、ふた種の美人は描けてゐない。およそ男性のこのみは直線なものらしい。村松梢風は又、そのこのみにも年齡の階梯があることを、いつか路傍を歩きながら具體的にいろいろ力説してゐたが、すべてがさうも云へないとみえて、僕のごときは、三十歳の境、四十歳の境にも、何の變化も好みには及ぼして來ない。ただ、青年期ほど、風にもたへないやうな腺病質的な女性に多く美を感じてゐたのが、次第に健康な小麥色にも美感を持てるやうになつて來ただけ、違つて來たと云へばいへる。原則としては、自分が小さいから、壓倒するやうな強迫觀念を受ける女には、女としての感じを持ち得ない。

 中學に行つてゐる知人の子が、友達と汐干狩に行つて、溺れかけて歸つて來た。
 それで思ひ出したが、千葉周作が自分で筆記した旅行記の中に、劍道の達人だつた彼も途方に暮れたことを書いてゐる。
 三河の竹内某といふ門人の家に逗留してゐた時の事、一日竹内家の召使に案内されて汐干狩に出かけた。
 三河邊の汐干狩は、貝を獲るよりも、日暮から松明たいまつを持つて、海老や章魚や小魚などを獲るはうが興味がある。千葉周作も、夜更けるのもわすれて、沖へ出てゐた。
 そのうち小雨が降つて來たので、氣がついてみると、汐は四方に滿ち、自分達の身は、沖の洲に取殘されてゐた。
 遽にあわてて、松明をたよりに、汐を渡らうとしたが、暗夜だし、雨雲につつまれて、どちらが西か東か、陸の方角もわからない。
 そのうちに、早汐が上げで來て、脛から腰まで汐になつて來た。周作も、これには途方に暮れて、ただ盲動を誡め合ひながら立つてゐたが、そのうちに、闇の中で千鳥の聲が聞えた。――[#「――」は底本では「―」]千鳥の啼き聲を聞くと周作は、
遠くなり近くなるみの濱ちどり
なく音に汐のみち干をぞ知る
 と云ふ古歌を思ひ出して、
「彼つちだ、あつちだ」
 と、自分が先になつて歩いて行つたら、果して干潟が見え出し、ほつと、蘇生の思ひをしたと――自筆で書いてゐる。
 劍道の達人にも、かういふ不覺があつたのは面白い。同時に、周作ほどな達人であつたから、狼狽の中にも、千鳥の音からすぐ活路を直感したのだとも云へる。
 しかし、なほおもしろいのは、それから一同が、生命びろひして歸宅したところ、主の竹内某がそれを聞いて、ひどく召使を叱つたことが誌してある。
 その理由は、
「松明は、足元の頼りにはなるが、焔のため、眼が甘えて、遠くはかへつて見えぬものぢや。なぜその時、思ひ切つて松明をみな海へ投げ捨ててしまはなかつたのぢや」
 と、云ふのであつた。
 召使よりも、達人の千葉周作の方が、叱られた氣がしたであらうと思はれる。僕等の日常や、生活の上に考へても、なかなかこんな時の松明を、思ひ切つて捨てることはむづかしいことだと思ふ。

 常人の最も苦と感じるのは「行」といふ文字である。
 行について反省すると、自己の知性に對してすら、ほろにがさがある。物は書く、講演はする、意識は持つてみる。しかし、行を踏み切れない。
 僕は十年來の下痢症なんだが、從軍して大地に寢ても下痢はしないし、汚水を飮んでも身體には異状がないばかりか、旺んな健康が取り返されて來る。一年のうち風邪をひかない日の方が少いのだが、それも從軍中、風邪に罹つたことがなく過ぎたのを、あとでは不思議に思つてゐる。
 それが内地に歸つて書齋に戻ると、浴衣になつたその晩から寢冷をする、風はひく、下痢はする。
 我々の友達、そのほか大陸へは大勢行くが、なほ大陸から持つて歸り難い物がある氣がする。
 十年の下痢症も一身から下し切れない。知性の夾雜物を時折り省みて闇然とする。我々が呼ぶところの知性などといふものまで、百腸のうちから下し切つたら定めし凉しからう。

 支那茶の極く上等品に、岩茶といふ種類の物がある。薄手な蓋附の支那茶碗に、一つまみほど入れて湯を注ぐと、その一葉々々が新芽の緑の色そのままに開いて、ちやうど支那美人の小指の爪ぐらゐな大きさになる。
 日本の煎茶でも、佳品を上手にいれると、甘露の油に似て、葉も美しいが、到底、岩茶の美には及ばない。味はもつと爽やかで、甘味があつて、いはゆる支那の香りが濃い。
 この岩茶の産地は、長江の上流から四川の奧地で、その茶の木は、斷崖絶壁の自然生と限られてゐる。その絶壁は又、四川の旅行者がよく紀行にも語つてゐるやうに、どんな登山家も取りつけないやうな嶮しさなので、支那人がその茶の木から新芽の葉を摘み採る時には、猿の腰に籠を結びつけ、それに長い綱をつけて、猿に茶摘みをさせるのだといふことである。
 だが、それに使はれる猿もなかなか摺れてゐて、飼主の待遇が惡いと、絶壁の上へ行つても、自分の半風子しらみをとつてゐたり遊んだりばかりしてゐて、なかなか人間の意志のままにならない。
 そこで支那人は又、引き摺り下して、これに餌を與へたり御機嫌をとつたりして、再び絶壁へ追ひ上げてやる。――さういつたふうに岩茶を採る支那人と猿とが、兩方で懸引をし合つてゐるところがなかなか面白いのです――と、天津の茶房でそれを啜りながら、支那茶の好きな邦人から聞いたことがある。
 ソ聯のルートは、支那を操る綱である。危い斷崖へ追ひ上げられた蒋介石は、ちやうどそれに使はれてゐる猿みたいなものだ。
 然し、猿は天惠の名茶を摘んで、人間に清爽な甘露と瞑想を與へるけれど、蒋は支那へなにを與へたらうか。

 百姓といふ名稱が、階級的に用ひられ出したのは中古以後である。その名稱が又、「この百姓め」とか、土百姓とか、水のみ百姓とか、輕侮の代名詞みたいに、相手を罵しるに呼ばれたりするやうになつたのは、江戸時代になつてからだといつてよい。
 歴史的にいつたら、武家政治の封建制が布かれてから、百姓自身の卑下や、士農工商の分業から、すでにさういふ風が起つてゐたのであらうが、江戸時代になつてからは殊に、百姓輕侮の風と百姓自身の卑下は、ひどくなつたといつてよい。
 都會人同志の喧嘩の場合、「なにを百姓」と、呼べば、相手は怒る。
 農村とか農民とかいひかへてゐる今日でも、なほ一般の潜在意識には脱けきれないものがあるやうである。都會人の輕佻浮薄も嗤ふべきであるが、それには百姓自身の觀念がまだほんとに革まつてゐないことや、自分の天職に自覺を持たないことなどが、原因をなしてゐるのではあるまいか。
 百姓といふ名は、卑むどころか「國創めの族」として、もつと神聖視され、もつと自負してよい稱呼である。
 中世以前は、天皇御一人のほか皆、天皇の公民といふ意味であつた。
 ――百姓は、天皇の大御寶である。
 と故にいはれてゐたのである。
 大御寶は又、大御財とも書くし、上代研究の學問的な考へからは「民」すなはち「田部」であるから「大御田族」と書くのが正しからうともいつてゐる。
 いづれにせよ、百姓といふ名は、征夷大將軍や大臣などといふ俗な名稱より、もつと古く、もつと尊く、もつと清らかなものであつた。天皇の御口づから呼ばれさせ給ふ所に起つてゐる名稱なのである。
 なぜ、今日の百姓は、もつと百姓なるものに、自身氣高い誇りを持たないのであらうか。天職を自負しないのだらうか。
 江戸時代の徳川政治は、そんな自覺を百姓が知ることは好まなかつたに違ひないが、今日は將軍家の治下にある百姓ではない筈である。
 全國民の六割といふ數は百姓なのだ。文部省などが、なぜ國定教科書の一項に、百姓の尊きことを、百姓自身へも、又都會兒童へも教へてゐないのか、自分にはその意がわからない。

 生れ出たばかりの赤ん坊の顏といふものは、皺だらけで、赤くて、梅干漬に眼鼻をつけたやうで、ちつともかはいらしいといふ感じなどはしない。むしろ小さい老人の顏を見るやうな氣がする。
 この三月、私の家庭にも、ひとり生れた。男の兒の二番目だ。私はつらつらと生れ落ちたわが子を見てゐるうちに、その顏が、自分の父か、祖父かもつと遠い祖父か、とにかくまるで見覺えのない顏ではないやうな氣がして來た。自分より何代か以前の祖父が、百年の眠りから今覺めて、再びこの世へ出て來たやうに思はれた。
 さう思つてゐると、赤ん坊は、ほんとに、さもさも窮屈な胎内から出て、
「さあ、これから一人生ひとじんせいだ」
 とでもいひたさうに、大きな欠伸をしたので、私はびつくりした。
 産科の看護婦に聞いたら、赤ん坊は皆、母の胎内を出ると、間もなく欠伸をするものださうである。やがて人生の長途に疲れ出すと、誰も皆、いろいろな場合で、大欠伸をしはじめるが、人間のする欠伸のうちで、この誕生第一の欠伸ほど、清らかな欠伸は成人の後に出來ないであらう。或ひは、聖者の欠伸といふものは、やや、それに近いものかも知れないけれど。

 一夕、曉烏敏氏とお目にかかる機縁を得た。曉烏氏は人も知る宗教家だが、失明してからも十數年になるので、食事を共にしても、どんなに氣づまりかと思つたら、少しも盲人といふ感じもしない明るい人なので、勝手なおしやべりを交した。
 やはり心の眼があいてゐるといふものは偉い力のものである。文壇人には失明者はひとりもゐないが、盲目の人以上、暗い感じのする人はたくさんゐる。いくら賢しげなことを文章には書いてゐても、御本人の心の眼はあいてゐない證據といへよう。

 小閑に膝を抱へて、庭石を觀てゐた。客が來て怪しんで、何を觀てゐるのかと僕に問うた。僕、有態に石と話してゐたのだ、と答へると、客は又、石がものを云ふかと質す。僕、頷づいて、然りと云ふと、客はなほ不審を重ね、では余といへども石と語り得るかと云つて、僕と共に縁に竝ぶ。
 默、默、默、默。
 元より石云はず、人答へずである。市街の中の小庭に、若楓のこぼれ陽が、初夏の影を庭石へ靜かに描いてゐるだけであるが、そのうちに客も亦、何等かの默語をなしてゐるもののやうに、石に見入つて飽きない態である。
 或席で、外務省の細野軍治氏が話してゐたのを、側で聞いてゐたのである。
 細野氏が紐育に在任してゐた頃、一夜、あまりよい月なので、日本人四五名で市街の端れまで行つて月を見てゐた。すると巡査が來て、怪しんで、汝等は路傍で何を謀議してゐるかと詰問するので、生等は月を見てゐるのだと答へると、巡査は愈々いぶかつて、月など見て何のためにするかと叱つて承知しない。日本人等は、心外な顏して、君この月を見ずやと指して、晃々の實在を以て語る以上の釋明としたつもりでゐると、巡査はその手を拉して、社會は月を見る場所にあらず、よろしく獄窓に入つて見るべし、とばかりで、どうしてもこの猜疑を解くことができず、遂に警察まで行つて、日本には、百姓や勞働者の生活にさへ、月見の風のあることを辯證するのに、たうとう一晩かかつてしまつたといふ話である。
「心交」などといふ言葉も外國語に譯語を求めようとすれば、恐らく「月見」以上にこれも至難ではなからうかと思ふ。
 然し、年來の思想の危機に際して、辛くも文化の腐爛を救つてゐるものは、國内日本の底には、常にこの心交が個々の基本となつて、默々の裡に、默考されて來たからではあるまいか。
 假に今、應接間へ七人の客が集まつたとする。
 談笑冗語のうちは一體に見えるが、やや深く一つの問題に入つて行くと、七名居れば七名の觀念や思想が、實にばらばらなことを僕らは屡々接客の間にも感じる。
 職業の差、年齡の差、顏のちがふやうに、各人の色態もちがふのは當然だが、現在の日本の如くその國家に報ずるの念慮、政治に對する考へ方、又、社會に處する、個々の生活に信念する、あらゆる觀念の角度が、今日の日本の如くばらばらになつてしまつた時代は、恐らく曾つての日本には見ることのなかつた現象ではないかと思ふ。
 要するに、東西彼我の文明の交流が、さしも聰明なこの國の民族の、眼底や頭腦の奧までも渦卷いて、未曾有の錯覺と亂觀を與へてゐるのである。近日の新聞に「話せばわかる政治」といふ言葉が度々眼についたが、錯亂症と錯亂症とが駁し合つてみても、かかる時代には話せば話すほど分らなくなる惧れもある。
 先づ文教の府國民の思想情操の貯水池である文部省などから先に、この混濁の燈明作用を活溌に興すべきだと思ふ。現状のやうに、文部省自身が、何十年來のまま、錯覺的な文教事務所となつてゐるのでは、當然、街路や家庭の水道口から蛭や赤い水ばかり出るのもやむを得ない。
 日本には文教の府なしと云つても過言でない程、その機關は錆びてゐる。政變政爭、愈々顧みられなくなつてゐる。しかし猶、國民自體が、自體の力を以つて、日本なる姿に歸一せんと苦悶し、幾度かの危機ある毎には、大同一致の閃めきを見せ、前途になほ光明を思はせるものあるのは、決して政治の力ではあるまい。文教の府の働きとは云へまい。例へ現状觀の上からは、國民同志がどうばらばらな考へ方を抱いてゐても、石に向へば石に聞くを得、月を見れば月と語り得る一致點を持ち合つてゐる國民だからである。ましてや、われわれの人と人との間には、外國人の不可思議とする月以上、不可思議なものが存在する。その力が現代日本を辛くも結んでゐると僕は思ふ。その力が心交だと僕は信ずる。
 この民心の機微すら掴み得ないやうな政治家は、庭石の眺めともならない無用な存在だ。

――地方文化振興の適任者として――
 いまの所の小對策や理念だけでは、當面の急はおろか、將來、萎微褪色のほかはあるまいかに見える懸案として、地方文化の諸問題は大きく至難なすがたを横たへてゐる。その解決に向つては、政府も決して閑却はしてゐないし、民間にも個々樣々な角度から働らきかけてもゐるし、殊に大政翼賛會の機構の下には、想像以上に地方人自體の覺醒と欲求もあつて、各地に文化聯盟結成運動なども見られつつはあるが、遺憾ながらそれに期待してゐられない憂惧を全知識人がいま痛切に抱いてゐることも事實である。かつては地方問題といへば割合に閑却してゐた都會人のはうが、むしろ今日では、郷土人以上、痛切に案じてゐるところに、この問題の重大さと、いまこそ打開を決すべき時に迫られてゐることを、はつきり機運が明示してゐるのではあるまいか。
 理念の提供はもうたくさんだとは、地方からも聞えてくる聲である。具體案か、實踐かだ。さりとて無言や小對策で糊塗されて行くのはなほ危險いふまでもない。で、自分が前から持論の一つとしてゐる「舊藩主の歸郷」をここに提唱してみたい。當局及び讀者の一考に資され、就中、地方民自體と舊藩主の諸氏からの深省を聞かせてもらへば、それもまた問題考察の一助にはなるといふものであらう。
 地方文化の特異性と特徴とは「地方」といふ語そのものが示すとほり、同調一色でないところにある。もちろん都市文化との間には劃然たる性格の差を持つ。これを失ふ時地方力は弱まる。都市確立もない。しかも一貫した統合を時代は要求してゐるのである。組織によるいろいろの文化對策も地方行政の顯著を見ないのも、この複元體な本質のものに向つて、極めて單一な議決を單純に實施して行くからである。まして現代の程度のいはゆる地方文化運動が、いくら日本が小さいからといつて、國土の隅々にまで浸透してゆくわけはない。例證を擧げればいくらでも指摘できるが、敢ていふまい。
 率直にいふ。私はこの際、舊藩主――今日の華族諸氏に、どうかもう一ぺんそれぞれの郷土に、文化的使命をもつて、還元してもらひたいと思ふ。祖先の地に歸つていただきたいと希ふ。――それを論ずるといふよりも先に、私はこの問題に對する時、希ふ、頼む、といひたいやうな氣もちでいつぱいになる。
 傳統に對する強い信奉は、中央の比でないこと明かな地方である。中央においてはあらゆる刷新面に、その傳統が再檢討され、復古的再生を示してゐるのに、地方に對しては、却つて統一歩調のため、抹殺的施政や文化運動は日に多くなつてゆく。
 今日、たとひ如何に地方文化が寥々たる貧困にあらうと、さう中央から思ひつきやお座なりを安手に持つて行つて、地方文化に再生を與へたり、振起せしめるやうなものは、まづこの中央都市にはないと迄いひきつてもいいと思ふ。文化映畫、講演會、ポスター、古雜誌、紙芝居、それらも無いよりはましには違ひないが、果してどれほどの効果をいまに期待していいか。
 もしここに、舊藩主たる人が、この文化的貧困の中に歸地して、實際問題に當つてくれるとしたら、この解決は、案外早く光明を見られるのではあるまいか。「舊藩主歸る」の聲だけでも、地方民は新しい感奮を抱くにちがひない。
 今なほ郷土の人々と舊藩主とのあひだは決して冷却してゐない。しかもその舊文化のあとにも人間的にも、思慕と尊敬と誇りとを抱いてゐる。その人が再び郷土に歸つて、將來の文化指導にあたり、産業、教育、その他にも勞苦を共にすると聞いたら、それだけでも大きな人間政治の意義はあると思ふ。
 もともと華族といふ名門諸氏の今日ある所以は、いふまでもなく聖代の恩浴と、祖先の勳功にある。その祖先たちの業を私たちが史に見ると、かつては戰亂の世に、出でては君前に戰ひ、家に歸つては大小の刀を畦において、一家族泥田の中に働いてをられたやうな人々も見うけられる。
 まして今日の日本が宿命してゐるところは、それらの祖先が克服した艱苦の時代とは、比較にならないほど大きなものである。もし思ひをそこに致されたなら、私のこの提唱が、決してかつての階級意識とか、また今日の空閑地を罵るやうな一片の感情でないことは、舊藩主諸氏も判つて下されるだらうと思ふ。
 もつとも總ての舊藩主諸氏に對して、これを一樣にいふのではない。寡聞にして一々實例をここに擧げ得ないが、すでにずつと以前、私が青年文化協會の微力を農村に働きかけてゐた事變以前、すでに舊藩主たる人で、實際に郷土の文化や産業面に協力し、中には住居までそこに移しきつてをられたひとも幾人かはあつた。また都市にあつても、その指導や育成に吝さかでない舊藩主はもちろん尠くない。
 けれどそれをもつと積極化して、地方文化動脈の聯立を諮つてほしいのである。ともすれば無個性にされ易い國土の四肢たる位置に根をすゑて、指、爪の先まで、強く脈搏つてゐる地方文化をもう一度呼び返してほしいと思ふ。すでに政府の一員なり、或ひは重要な職域に奉じてゐるひとにいふのではない。どうしたらもつとよく名門の子孫として、庶民以上に恥なき今日に處し得るだらうかを、おそらくは考慮してをられる向もあらうが、さういふ諸氏もあればと一考を呈すわけである。
 文化の中央集權的病弊は、もちろん歴史的に必然ここに至つた現象であり、その意味での責任は全日本人の負ふべきものである。が現實の問題として、この際、舊藩主の文化的歸郷は、新にその地方々々へ、精神的に強い支柱を打ち樹て、中央集權的文化の病弊は大いに改められると共に、かつては持つてゐたそれぞれの特有なる生命力や色彩や音階をも、正しく息ふき返すのではあるまいか。
 文化面だけから封建の制を顧みると、そこには水戸には水戸、藝州には藝州、薩摩は薩摩と競ひ輝ける文化があつた。教育、醫學、美術、音樂等獨自なものを持つてゐた。都市文化は長い期間に亘つて、安手な雜貨品的文化と、彼等の持つてゐたあらゆるものとを交換して、つひには郷土の歌謠まで隈なく取り上げて、これを市場化し、その餘剩品を返して來た程度にとどまる。
 今日となつてはもう地方から得るものもなく、中央から與へるものもないといふのが現状である。ここに意識された文化運動は、地方文化とはいへ實は都市文化の生命にもかかはるものである。かさねていふ、今なほ地方人は舊藩主の名を念頭から忘れてゐない。かつての一體協力を辭すものではないと思ふ。その親しみや、相互によく知ることにおいては土は血である。新任の知事などとは雪泥の相違があらう。
 知事行政の缺陷は誰もが指摘するやうに、任期の不定と短年月のうらみにある。地方青年や婦女子は、うごくな、農村に樂土せよといふ。彼等もまた、浮動なき指導者の柱がほしいことはいふまでもあるまい。
 なほ私のいふ舊藩主歸郷論は、ここに改めて斷るまでもなく、封建制度の還元ではない。舊藩主をして地方行政に當らせよといふのでもない。政治力以外の文化面においてである。各地の知事、行政機關などと密接をはかることとか、舊藩主とその郷土とを横につなぐ連繋方法とか、中央集中の複元歸一などの方法は、ひいていくらでも考へられよう。要は、現舊藩主諸氏が、各地の文化的原動となつて再起することにある。事實それだけの大きな力をこの舊藩主たちはもつてゐる。次の新日本文化の發生を、中央の理念や文化的荒廢のあとの都市から生み出さうとすることは、現代人にとつて餘りに悲痛な課題である。
 むしろ土から掘れである。脱落した髮の毛を植ゑようとするよりも、貧血した手脚を温めるはうが結果が出てくるに違ひない。それも中央から一寸指令を發したり、部分的組織を辿つて出張講師が時折の訓話ぐらゐでは、血色を呈してくるわけがない。生々たる文化の樹立は望み得ない。郷土の文化は郷土自身の手で打ち樹てよ、個々誇りを研ぎ競へと私はいひたい。それを誰よりも適任な舊藩主諸氏に至囑するものである。

 歴史を失つてはならない日本は、歴史的にも必然、無數の名門を擁してゐる。
 皇室皇族と庶民とのあひだにあつて、一つの國家組織美をなしてゐる功臣の群裔である。その人たちに國家の優遇と名譽ある所以は、そのまま今日いふところの臣道の實踐者たる範を示した家祖たちの餘徳であつた。だからさうした歴史の家の嚴存と繁榮は、國是からいつても、日本の誇りといつていい。その光輝のいよいよ赫々たることを祈るとも、私は毫もそれに不審を鳴らすものではない。
 日本の名門中、數において斷然多いのは、いふまでもなく舊大小名の華族諸氏である。かつては華胄界自體の一部から、華族一代論がいはれたり、また往年の階級鬪爭の燻つてゐた時代には、無用な空閑地視されたこともあるが、決していい風潮や思想から釀されたものでない。さういふ聲のある時その時代の惡さがわかる。國家として歴史が剥落されてならないやうに、その分子たる歴史の家もつねに光輝あらねばならない。亡んではならない。萎縮してはならないと信じる。
 けれど、これほど大きな時代轉換の時に當つて、現状のやうな無風帶のまま明日もなほあらうとするならば、その間違ひを私は警告したい。とりわけ、明確な祖先の遺業と郷土とに深いつながりを持つ方々に對して、「舊藩主諸氏は健在なりや」とあらためて問はざるを得ない。
 今日、地方へ旅行して、地方人が郷土を語り郷土を誇るのを聞いてゐると、それは大概、今はすでに失はれてゐる過去の文化を云つてゐるに過ぎない場合が多い。
 實際、今日の諸地方には、いかにお國自慢な郷土人でも、文化的には現在のものとして誇る何物をも持たぬといふ所が實状である。
 地方文化の貧困は、あらゆる部面から見ても、事實、そこまで寂寥を極めてはゐるが、ただ彼等の土に對する愛と傳統への信奉は依然深いものがあるので、國力の母胎は今なほここに、ある頼もしさをわれわれに信じさせてゐてくれる。
 かういふ各地の小都市には、かならず今は人無き、舊藩主の城址や邸館の跡がある。老人はもとより女子や小學生にいたるまで、そこの何たるかを知つてゐる。そして曾つての文化をしのび、郷土の先人を慕ひ、その中心として舊藩主に對する尊敬と思慕は、いまも胸底にみな抱いてゐるのである。地方の人々が今もなほ寄せてゐるほどな美しい敬慕を、舊藩主が各々の地元に抱いてゐるだらうか何うか、私は疑はざるを得ない。
 文化的貧困の底にあるばかりでなく、各地方とも正しく世界的な動流に搖り拔かれて、いまやあらゆる問題の山積にその解決を急がれてゐる。増産促進に對する人力不足、出征兵の留守遺家族の問題、教學刷新の急、重工業分布による離農者の増加、産兒奬勵に附隨する幼兒死亡率の防止、經濟統制の波及から生じつつある無數の轉業、また特有なる郷土物産の廢滅、小さくは醫者なき村の解決から、大きくは、各郷土の傳統ある文化を、この際中央の文化政策にのみ委ねて、全土同調一色に化し去つていいか惡いか、といふところへまで、今日本の地方文化問題はさし迫つてゐる。
 かういふ地方情況に對して、それぞれの舊藩主諸氏はどう考へてゐるだらうか。それを知りたいと思ふのは私のみではあるまい。もつとも農村疲弊の聲が高かつた事變前から、夙に思ひをそこに寄せて、祖先地の文化産業の啓發に、孜々力をそそいでゐた舊藩主も決して絶無ではない。私は寡聞にして多くを知らないが、上總一ノ宮へ住居まで移しきつて、ときに農民とともに鍬を持ち、町長もつとめて模範的な効果と實際を示した加納子爵のごときもあるし、上州の沼田における土岐章子爵の郷土運動も眼に見てゐるし、宇和島の二荒伯などもさうだとは聞いてゐるが、大部分の名門諸家がどういふことをして來たか、現在どう郷土を觀てゐるかは、まつたく聞くところがない。
 大政維新の際、聖恩に浴して、華族の榮爵を授けられた舊藩主の數は、明治二年の表によると約二百八十四家(公卿をのぞく)にのぼつてゐる。以後授爵した人々は、郷土はあるにしても、ここでは先づ數へないにしても、それだけ多數の名門が、何ら今日になつても積極的に郷土へ働きかけるところを見ないのは遺憾である。諸氏の名譽ある家門のためにも惜まれるし、各地方へ行つて郷土人士の片想ひ的な誇りを聞いたり、現状の空漠な文化を見るにつけても、あまりに可憐らしい心地がされる。
 皇室の御宸念は、この世界的變革期に臨んでいふも畏れ多い程である。皇族方さへ親しく征地に赴かれ、戰死遊ばした方さへある。庶民もまたそれにこたへ奉つて、とまれ一億一心を誓つて時艱克服の姿を全土に示してゐる。ただここに示されてゐないかに思はれるのは、日本の誇りたる名門の諸氏の積極的な思考なり實踐である。もちろん舊藩地と舊藩主の關係は今も密接であるから、各々土地の社寺、國民學校の建築とか、修養基金、水害、恤兵の寄附などには、むしろ折々といへないほど、應援されてゐるからであらうぐらゐな察しはつくが、私のいふのは決して「物的」なものではない。物質的な基本も元より無視できないが、より以上、郷土への精神參加をいふのである。又、それぞれに傳統もあることだし、一般社會方則の圈内にも入らないものなので、自己の信じる程度に於いてやつてゐるといふ人はかなりあらう。けれど今日の地方文化問題は、すでに銃後の國策問題として重要なものであるから、それを私行的に思惟して、隱徳の美風となし、「人知れず」を獨り尊んでゐるとしたら大きな錯覺だと思ふ。もしさういふ美擧が[#「美擧が」はママ]實行されてゐるなら、廣く範を示すことのはうが、はるかに今日では國民の善行であると信じる。大政翼賛の推進ともなり地方文化黎明の先驅にもなると思ふ。
 私はこの際、まだ何等案のない舊藩主諸氏に對しては「郷土文化再建のため、もう一度祖先の地へ歸つて欲しい」と希望する。熱願する。
 もう當分はこの大都市文化の中には、諸氏に囑する問題は尠いし、まして名門なるが故にきのふまでの晏如もなほあり得るとは考へられない。この際、ふたたび祖業發祥の地へ歸つて、萎微沈衰の底にある郷土民の中へ、文化的使命をもつて還元を約したら、私は私の知る限りな郷土人士の氣もちを察するに、双手を擧げて歡迎するのみか、その事だけでもう大きな人間政治の一役割を果すであらうと思ふ。
 舊藩主歸る! といふ聲だけでも、いまの農村に響き渡つて行つたらどうであらうか。ただ古い森と廣大な廢園とが耕やされもせずにある各地の小都市の舊邸舊城址に、新しい文化の指導者が住んでゐると知つたら、地方民の眸はそれだけでも耀きを加へよう。二年か三年に一度郷土の別邸へ立ち寄る舊藩主を迎へれば、沿道を掃き清め、國民學校生、女學校生は堵列して迎へ、いまでも殿樣といふ敬稱を用ひたり、土下座はしない迄も、それに等しい禮儀や尊敬を忘れてゐない地方人である。これこそは美風でなくて何であらう。滔々半世紀に亙つて[#「亙つて」は底本では「互つて」]、安手な西洋文化や外來思想が、あらゆる手段で注入されながらも、依然としてなほ今日、國民の總力のもつとも實體的なものが地方にあるのは、實に頑固ともいへるし、鈍ともいへる、この傳統精神があつい皮膜を持つてゐるからである。
 しかもこの特有な郷土精神と文化は、皇室と日本的といふことに於いてだけは、まつたく一億一心のすがたを示してゐるが、各々の誇りと好みと適合とはそれぞれの自體によつて、拔くにも拔けない強固な性格の相違を備へてゐる。今日の文化政策の難しさや混亂は、この複元的なものに對して、極めて單的な一元的理念と實施を布かうとするところにあるとも云へよう。しかも國家の大策はその統合を必要としてゐる。ここに介在して地方文化運動の至難に當る者は、徒らに自分の實踐が泡沫の如く浮游する現象を見るばかりである。
 文化政策の地方普遍は、組織とプランと機械だけでは駄目である。やはり人間を基本とする。今朝の新聞面によると、翼賛會はその運動推進員として、地方都市を通じ、最低限三十萬の協力員を網羅するとあるが、數のみが推進力とは頼みきれない。各地においてそれを統御集中する支柱的人材が要る。もちろん人はあるとすればあらうが、肩書や單なる經驗家の手腕だけでは期待できまい。またかういふ組織に對して、將來の地方文化の重要性を期待するのはするはうが無理といへよう。またこの尨大な組織が、どこまで文化に情熱を持つてゐるものや否や、いまの所ではわからない。
 地方文化の諸問題については、よく各縣の知事とも、折あるごとに語り合ふことであるが、結論として、かならず最後にいはれることは、計畫半ばに、更迭に會ふ嘆きである。
 すぐ實施されてすぐ目に見えるやうな文化政策などに、碌なものがあるわけはない。地方民が知事に期待せざるを得ない立場にありながら、心から將來に信頼しきれないのも、知事と同じ惱みを惱んでゐるからである。産業、縣治、施政上の問題は、時務として處理されて行つても、地方文化などといふ遠大な抱負を理想してゐられないのはいふ迄もない。事、文化的な圈内となると、勢ひ放置され易いのもここに多くは原因する。
 地方文化の中心的指導者として、舊藩主ほどな適任者は、色々な點から觀ても、他に見出せない資格を持つてゐる。知事のやうにいつ去るか知れないといふやうな不安がまづ無い。
 また、物的にも基礎をもつてゐる。土地でも舊館でも、何にしても足がかりがすでにある。それといきなり他縣から赴任して臨む知事などと違つて、充分に郷土に對する理解があるし、郷土人の特性も知つてゐる。
 舊藩主さへ郷土へ歸つて、時局下の同郷國民と、今日の苦樂を共に分つとあれば、東京、大阪、京都などの大都市をはじめ、全國の恰好な都會に、まつたく都會人として、郷土あることを忘れてゐる不在地主なども、安閑として傍觀してはゐられまい。懇談的に、舊藩主として共に呼び返すなり、協力を求めることもあながち不可能ではあるまい。
 恩給生活に入つてゐる文官の退職者などにしても、その長い文化訓練と人生體驗とを、可惜、都會の一隅に老朽させておくのは勿體ない氣がするのである。同樣な意味で、郷土ある豫後備軍人にも、惜むべき人材が、隨分空しく脾肉を歎じてゐるのではないかと考へられる。
 一個の舊藩主の歸郷は、かうして各自の郷土へ、萬波を呼ぶことができよう。文壇の一部でも今實際問題として、文士も一年に幾月かは郷土に歸り、小範圍にせよ、各自の地方文化のために獻身しようかといふことすら、痛切に考へられてゐるのである。文士の歸郷もいい。醫者の歸郷もいい。あらゆる文化に携る者が、そこに歸住しきらない迄も、一臂の力を郷土へそそぐべきである。歸郷舊藩士はまた、それらの文化力を吸集して、郷土本來の特性に、寄與するものは容れ、適合しないものは避け、咀嚼して土と人の生命力を培ふべき任にも當れるであらう。ただ問題は方法であるが、國家の令としてではないから、舊藩主たる人々の深省と自發に依るしかない。
 郷土側の希望からいへば、恐らく拒否する理由は何等ないのではなからうかと思ふ。われわれ都市民にも大きな警鐘として響かう。
 もしこの問題に更につぶさな檢討を加へて、その實現を慫慂するによい機關は何かと考へれば、大政翼賛會あるのみである。政令をもつてせず、また民衆直接でもなく、かういふ問題について翼賛會の機能を考へる時、議會以外、やはり翼賛會のなすことは今日に多いと痛感される。ただ囑目して待つに足るか否かは別問題だ。幸、こんどの協力會議には、この提唱に賛意を示してゐる菊池寛氏が、べつな自案の問題とともに、會議へ提出しておいたさうだから、調査委員の取捨はともかく、一應の考慮にはのぼるであらう。
 私のこの一文も、日日新聞の文化欄に載つた談話筆記も、こんどの協力會議へ菊池氏が提出しようと云ひ出したことから、實は※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)忙に持説の概念を發表したにすぎない。當然、大きな問題であるし、わけて舊藩主諸氏の立場に對して、無益に國民感情はうごかしたくないと念ずるので、この問題に關する限り、敢て私は意識的に理論的追求階級意志を衝くことは愼むつもりである。その爲やや情念に訴へ過ぎたり、廻りくどいところがあるが、私の眞情は飽くまで、歴史の家は日本の誇りであり、その名門をして、この時にいよいよ恥なく光輝あるやうにと、衷心から祈るところから發してゐる。また昨年來の文藝銃後運動にあたつて、實際に東北から九州その他全土にわたる郷土を踏んで、眼のあたりに各地方の文化的貧困とその建設的回生の至難を見て、憂ふるの餘り平常の素懷を同感の士に正して見たにすぎない。
 なほ多分に、この提唱に就て、ここには云ひ洩らしてあることもある。例へば、舊藩主といつても、すべての舊藩主を同視して一樣に云つてゐるのではなく、すでに重要な政府の一機能となつて時務に參與してゐるなり、或ひは軍事、經濟、文化面にあつて、その職能を中央で必要されてゐる人などは、自ら別だといふことなどである。その他の愚感は、日日新聞の文化欄のものと重複するからここで筆を擱くこととする。妄言多謝。

 わづか一世紀に滿たないうちに、南京政府は、これで二度まで外敵に攻略された。この前のは、一八四二年の阿片戰爭で、今日、支那が無二の友邦とたのむイギリス軍に包圍され、その時は、揚子江を溯江した英海軍と、僅少な陸戰隊の威嚇の前に、脆くも、支那は城下のちかひを投げ出して、イギリスの「阿片の押賣」の前に、降伏してしまつたのだ。
 多少、東洋の歴史に關心を持つ者ならば、イギリスが阿片戰爭の前後に取つた暴戻貪欲な資本主義的侵略に、人類の正義の上から怒りを覺えない者はあるまい。それが今日の人道主義、平和主義をかざすイギリスのついこの間の履歴なのだ。
 支那はこの前科者に過られた。上海には、當時の凄腕の東洋外交官、パークスの銅像が立つてゐる! 何といふ皮肉だらう。同時に、それを仰いで平然として來た支那の無智を憐れまずにゐられない。
 國民政府の國定中學教科書の地理書を見ると、滑稽にも、我國全盛時代の中國といふ變遷地※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、105-9]が載つてゐる。その失地年代を一眄すると、支那が、支那自身の顏にも當る上海、香港、廣東、厦門その他の租借地といふ特殊區域を作つたのも皆、千八百年代であるし、また、イギリスやフランスやロシヤなどに、北は沿海州から尨大な西部チベツト一帶を――南はアフガニスタン、ビルマ、馬來半島の要地マラツカ、ボルネオ、佛領印度支那などの東洋の關門と豊饒な沃地を、手脚でも切り刻むやうに、※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)ぎ奪られてしまつたのも總て――阿片戰爭以後の千八百年代のことである。
 支那が、ほんとに國民的自覺から、失地回復をさけび、國恥を知るなら、なぜ自國のこの中學地理教科書に教へられなかつたか。
 嗚呼――といふ文字は支那人が作つたのだが、今こそ支那自身だけが痛切にその文字を抱いたらう。總てはもう支那にとつて終つたといつていい、萬恨千悔も間にあはない。永い依存主義國策に過られてゐる間に、現實の世界は、歩一歩、世界改造の大きな推移を告げつつある。――世界的なこの大變革にあつては、支那といへども、決して大なる存在ではない。
 世相の流れにあつては一箇の人間が、微粒に過ぎないやうに、支那も單なる一國でしかない。世界は今それほど大きな變貌をあらはしつつある。南京陷落は、東洋史の一ページを畫するばかりでなく、その意味で、世界への大警鐘として鳴り響くであらう。
 だが今、その快報を手にしつつありながら、この日本の帝都といひ、小春日の下にある全國の農土といひ、なんといふ靜肅な襟度であらうか。へんぽんたる日の丸の國旗が、いつもの歳暮風景に軍國色を加へてゐるほか、輕躁亂舞のふうもなく、市民も百姓も、長期對應の生活から少しも足を離してはゐない。
 日本の陸軍大學に留學したことのある國民政府部内の要人の間には、青山會といふのが結ばれてゐて、曾つては、東京の青山生活を偲ぶために、毎月一回づつ、日本風に酒をのみ、日本式に胸襟を披き合ふことをしてゐたさうであるが、その要人たちは、果して今、日本の帝都を、どう想像してゐるだらうか。
 地を變へて、もし支那が、皇軍の百分の一ほどでも戰果を收めたら、恐らく南京は、狂喜亂舞で發狂するだらう。日本でも、曾つての日露戰爭に、奉天を攻略し、遼陽を收めたあの當時を思ふと、隔世の感がある。自分などはまだ幼少であつたが、全市は戰捷の熱鬧に沸き立ち、仕事も手につかずに、跣足で號外屋を追つたり、假裝した醉つぱらひだの、幾日も幾日も醒めない銃後の熱狂ぶりは、まだ眼にのこつてゐる。
 今日の南京陷落は、その世界的意義においては、旅順・奉天の攻略の時以上に、慶祝していい偉觀であるが、國民が皆、その欣びを肅と抱いて、輕噪に過ぎない點は、むしろ三十年前の國民より、今日の日本國民のはうが、深く戰爭の意義を解し、將來の使命を任じ合つてゐるものと思はれて、一層欣びたいと思ふ。
 歐洲大戰で各國がなめたほどの忍耐まで行くか、或ひは、日露戰爭の折に、熱狂したほどな熱狂をやるまでには、今の日本國民は、まだ多分に、餘裕を持つてゐる。
 しかし上海開戰以來、約數ヶ月に亙つて、今日、南京城頭に立つて、皇軍の一使命を遂げた將士の回望はどうあらうか。僕らは初冬の障子の中に、朝夕膳にむかひ、冬菜の漬物を噛むにつけ、味噌汁の葱を嗅ぐにつけ、深く、征士の人々の艱苦を偲ばずにゐられない。
 潰滅亡散の抗日要人たちが、なほ奧地にあつてどう蠢動するか、國際間の――わけてもイギリスやソ聯の暗黒外交がいかに東洋の現實に對處してくるか、當然、皇軍の將士はなほ冱寒の征土にあるままこの歳暮を送り、新春を迎へることであらう。謹んで北支中支の將兵にわれら銃後から萬歳とお禮を申しあげよう。
 萬歳とお禮と、それ以外に、國民のこの感謝を告げる言葉は見つからない。そしてただもう一言かう強くいへる。前途なほ、いかに長期、いかに萬難があらうと、すでに先驅し給へる卿等の聖戰の銃後は、百年の計にも、必ず耐へ得るものであるといふことを。
 同時に支那の民衆に知らしめたい。抗日支那の態形の崩潰に、徒らに感傷になるなかれと。それは支那そのものではない、僞瞞僞裝せる一政權と、前科者の植民國との野合が作つた偉大なるトリツクでしかなかつたのだ。支那の民衆は、一日もはやく、抗日職業者と戰禍をふりすてて、樂土の建設に、東洋の盟主の力を求むべきである。その賢明は、やがて支那國民の、最も正しい面子メンツとならう。

 文藝人の漢口從軍行について、門出の心構へを聞かせろとよく求められるが、支那人へ向つていふなら聞かせもしようが、われわれ國民同士に對して、僕らの從軍行などは、何ほどの壯擧でもありはしない。今更、心構へなどと、いつて立つのも烏滸がましい。要するに、あたりまへな奉公の一端を爲しに行くに過ぎないのである。それを文人だからといつて、特に派手派手しく書かれたり思はれたりすることは、むしろ僕には心苦しい、また面映ゆい。
 もとより書齋の文柔弱の徒、大劍長槍は吾事に非ず――であるが、かつての國史を顧みても、國家の大事にあたつては、筆もまた劍として、報國の具であることを、文人も示してゐる。これは日本の國風である、慣はしである。敢て僕らが特に畫期的なといふわけではなく、ただ曾つての封建的舞臺から世界的舞臺へと、使命の場所が移つたのみに過ぎないのだ。
 この擧が内閣情報部の發議として、新聞に報じられてから久しく便りのなかつた友達や、まはりの知己や、また讀者などからも、激勵やら、體の弱いことやらを、案じたりして、頻りと懇切な手紙を下さるが、それらの方々に對しても、御芳情はありがたいが、自分としては、あたりまへなことをしに行くのに、過大な聲をかけられる氣がして、何やら甚だ勿體ない心地がする。
 多寡が筆の一兵士、僕らに比してそれでは日々驛頭を立つ郷土の歡呼にも相濟まないと思ふ。
 征地へ行つたら、親しく文人の眼をとほして、事態と實體を觀察されるでせう、などともよくいはれるが、これも自分の心構へとは甚だ違ふ期待で、自分には戰爭を觀察するとか、視察するとか、そんな他國人的な冷靜にはなつてをられないと思ふ。きつと現地へ行つたら現地の雰圍氣にいつしよに溶かされてしまふだらう。平常の狹隘な知性の窓などはぶち壞されてしまつていい。ただこの體に戰爭を感じ、白紙となつた精神に何を與へられるか――である。
 二千六百餘年前、神武の御聖業に先驅した神々は、今、長江の大陸に在りとわたくしは信じてゐる。近代日本から一足跳びに、高天原の神々の陣營へゆくといふ氣もちが、正直、出發前のわたくしの心境である。――もしそこから歸つて來なかつたら、瞑すべし、わたくしも神の一人である。
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 時代小説といふ言葉は非常に漠とした抽象的な言葉であるが、今日、夕刊または雜誌でご覽になるやうな歴史小説、また過去を題材にした小説といふ風にお考へ下されば結構である。
 さて、この頃、新聞なども非常に減ページされ、世界的なニユースの多い時にも拘らず、約二段といふものは朝夕必ず小説欄にとられてゐるのである。
 わけて時代小説といふやうな、過去の、徳川期だとか、戰國期、或ひはそれ以前のものを書いた小説が、※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)繪まで入つてゐるのであるが、あの重要な緊迫した紙面にどうしてこれが必要なのか、さういふご不審をもたれていいと思ふのである。恐らく外國人などは、あのチヨン髷を結つた人物とか、非常にクラシズムな場面を書いたものが、このやうに重要視されることに對して一つの奇蹟とすら考へるんぢやないかと思ふ。だがこれが新聞政策の上から見て、また社會的、民衆的にも娯樂とされ、慾求されて、どうしても拔けないところは、時代小説といふものが、今日の現代的な進歩的な中に、一つの重要な役目をもつてゐるといふことを、事實をもつて示してゐるのである。
 ではそれを執筆する作家はどういふ氣持で書いてゐるか。これは折あらば作家としてもその意※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、116-5]を發表しなければならない義務があるし、また小説を讀まれる側の方たちも、作者の意※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、116-5]をお知りになつて讀まれるならば、なほ深き興味をもつてその意味を發見されるかとも考へるのである。
 私一個の考へでは、人間といふものは白骨になつても決して死なないものであるといふ信念をもつてゐる。さういふことは時代小説を書く上において一つの條件となり、また作家意識の信念となつてゐるものではないかと思ふのである。たとへば今日のやうに、非常に大きな國難を克服しようと民心の燃えてゐる時には、その時代小説に選ばれて來る題材は必然的にそれに相當したものが現はれて來てゐる。近世に例をとると、濱口内閣が節約令を出し、農村の疲弊、都市消費の節約を叫んでゐた時分には、二宮尊徳が喚び返され、尊徳精神があの二、三年風靡したのであつた。また歐米文化が氾濫し、ジヤズとか、銀座街の緩んだ雰圍氣が社會に瀰漫した時代には、これではいけないといふ反省から宗教的に心が動いて、親鸞、法然、弘法といふ人たちが小説や、劇となつたと思ふのである。
 またあの忠臣義士の精神といふものは今日でもさかんに取り上げられ、私たちの日常生活の中に繪となり、音樂となり、劇となつて愬へるのである。私たちのやつてゐる仕事も、それを傳へるべき義務の中に必然と働いてゐると思ふのである。これは日常の生活に、必ずや影響をもたずにはゐないと信ずる。その影響された民心は、意識するとしないとに拘らず、今日の文化に働き、また明日の文化に働いて行くもので、因果といふか、これを考へて見ると、個人といふものはその肉體こそ地下に埋め、白骨と化しても、時に應じ、變に遭つて喚び返せば、いつでもわれわれの今日に生きて來る。そしてまざまざと今日の文化、明日の文化に私たちの血液と化し、思想と化し、日常の精神生活また物質生活に混るのである。さういふ意味から、過去を書いてゐる時代小説といへども、實はその結果から見ると現代小説である。
 歴史といふものが、ただ史實の連鎖、過去の記録に止まるだけのものであつたならば、その價値は半減するのぢやないかと思ふ。私たちの今日の生活意識の中に生き、明日に働きかけるところに歴史の不滅性がなければならぬと思ふ。歴史家のみでは完全にその使命を果すことは出來ないのである。何故ならば、いはゆる嚴正なる歴史學問としての歴史は、その學問に忠實のあまり、文獻とか、史實とかいふものの範圍をどうしても出ることが出來ないのである。たとへば、屋島、壇之浦の次のページをめくつて見れば源氏の時代、大阪落城のすぐ後は徳川時代といふ風になつてゐるが、このやうな點など私たち作家の眼をもつて見ると非常に不滿である。
 なるほど平家が屋島で殲滅されて翌日からは源氏の世になつたかも知れないが、たとへ屋島、壇之浦で叩きつぶされても平家はこの地上からなくなつたのではない。その勢力は失つても人間といふものはあくまで生きんとし、いつかは世に出ようとするのが本能であるから、屋島、壇之浦から逃れ去つた翌日には全然この世になかつたといふことはいへない。その證據には、四國祖谷いや山の山中であるとか、九州、中國あたりの奧深い山村には、今日なほ平家の末孫たちがいろんな傳説をもつて住んでゐるのを見てもわかるのである。史實から見た歴史觀のみに止まつてゐては、世の中の實相を酌取ることが出來ないのである。さういふ場合、何か知る頼りがないかと思つて見ても、史實がなければ歴史家は云々することが出來ないのである。ところが作家であると、たとへ史實はなくとも、自己の想像力を入れ得るのである。
 大阪落城の後、すぐ徳川時代となり、あらゆるものが完全に徳川化されてゐるが、源平の場合と同じく、自分たちの眼から見るとをかしく感ずるのである。歴史といふものは何時の世にあつても勝利を得たもの、或ひは勝利を得たものの命令によつて書いてをるのであるため實相は掴めない。力のあるもの、發言の權利をもつたものが書いたのであるから、文字通り受取れないものがあると見なければならぬ。そこで作家は自由な立場をもつて、歴史家のごとく史實にのみ拘泥せず、また動かされず、自分はかういふ風に考へる、といふことを作品を以て示すのである。時代小説の面白い分野は自分の意※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、119-9]を盛ることが出來る點にあるのである。
 私が時代小説に精進しようと決心したもう一つの動機は、あらゆる文化には絶對に反省が必要だといふことである。私は自分の書く文學を反省の文學と稱してゐる。ご承知の通り、明治以後の日本の文壇は、西洋の思想、また西洋文學のテクニツクに非常に影響されて來て、それがだんだんと今日の現代小説といふやうな形式をもつて來たのである。これは現代小説とか、通俗小説と呼ばれたりして、現代の文化、現代人の生活を書くといふ私たちと別な分野が拓けたのである。これは昨日までは重大な使命をもつてをり、また數ある中には幾つかは殘る作品もあつたと思ふのであるが、大體において、一つの短所をもつてゐたことを否めないと思ふのである。それは、あまりに新しいことを採入れようとする意識に急であつて、たとへば思想でも、共産主義であらうと、歐米の刹那主義、デカダニズムであらうと、これは珍しい面白いと感じると非常に鋭敏に作品へ採入れたのである。その時々の傾向、自然主義であるとか、印象派であるとか名稱づけられ、これが日本の文學道流として今日まで來てゐるが、これには非常な危險があつたことを感ずるのである。
 どういふ危險かといふと、これは文學ばかりでなく、あらゆる文化の本質がさうであるから、ひとり文學のみを責めるわけには行かないが、いいことでも惡いことでも、珍しいこと、或ひは進歩的だと信ぜられることは何でも採入れて、すぐそのままを自分たちの嚴密なる濾過にかけずして讀者に愬へて來たことである。たとへば女の化粧品とか、自動車だとか、ホテル生活といふやうなものでも珍しいものがあれば、丸善あたりで逸早く外國で流行するものを繰展げ、今日、明日の小説欄に使はれてきた。さうすると、あの人は敏感だとか、あの小説は目新しいとかいはれるので得々として書いてゐた。これなんかは端的にその弱點の一つを遺憾なく現はしてゐると思ふのである。その思想にしても、その目標にしても、かくのごとく上摺つた早急な輕卒な進歩といふものは、本當に健全なものとはいへないのであつて、むしろ非常に危險なものぢやないかと思ふ。さういふものの流行した時、私が反對に、つまり逆を行つた二百年、三百年、或は數百年前といふ過去を書いた小説を出したことは、それに對する一つの反省なのであり「よし君たちが民衆を進歩的に進歩的にと踊らすならば、自分は反對に過去をふり返れ、祖先を見よと叫ぶんだ。これが文學運動には必要なんだ」といふことを自分の心に誓つたのである。
 文化の發達して行く姿を一本の木にたとへるならば、大地から生えたところの幹、日本發祥以來次第に大きくなつた文化といふものの幹がある。そしてこれが枝をもち、枝から梢を出し、その梢から細い葉を生ひ茂らせ、そして爛漫と花を咲かして行く。この一本の亭々とした木を文化と見る時、花が梢一ぱいに咲き誇つたならば、さながら文化の盛りだと感じるのである。しかしこれを生命力の上から見ると、この時こそ文化のもつとも危い時だと私は考へる。何となればこの木の生命力は幹よりも枝、枝よりも梢、梢よりも葉、花と末梢に行くほどデリケートに、緻密に美しくはなるが、その生命力は弱まつてゐるに違ひない。花落ち花咲く春秋の姿を見て、これが文化の盛りだ、文化の進歩だと考へるならば、その文化は老齡に入つて行く證據である。そしてその文化の花が咲いたり散つたりする度に國家は動搖を見なければならぬと思ふのである。では文化の逞しき力はどこにあるか、それは幹にあるのだと思ふ。われわれが根と幹を辿つて行く、つまり私たちの祖先の生活なり生命力を見るためには常に過去を反省しなければならぬと思ふのである。私は宮本武藏を書くにしてもこの氣持をもつて書いたのである。あれを題材にしようと思つたのは滿洲事變より少し前で、ジヤズとかデカダンの風靡した時代で、私は前にも述べた通り意識的に「よし俺は野性を書かう」と思つたのである。
 野生といふ文字は亂暴とか、粗野とかいふ風にとられ易いのであるが、これはよく考へて見ると味のある言葉であり、人間の生活また思想が將來どれほど文化的に惠まれて來ようとも、野生といふものを失つたならば人間の衰乏ではないかと考へてゐるのである。いい意味の野生を失つては私たち人類はやがて衰へて來るのだと思ふ。極めて端的な例であるが、私は或る時植物學の雜誌を何氣なく讀んでゐるうち、文化的に見て面白いと思ふことを發見したのであつた。それは葡萄の栽培法でフランス葡萄とか、アレキサンダーであるとか、ああいつた優良のものをつくるには、あらゆる科學的な苦心、いはゆる施肥に注意し人工を加へてあれまでに到達したわけで、その優良種の葡萄も或る時期が來ると、その畑にいいものが出來なくなる。如何にやつても實が萎びて來てしまひ、いぢけた皺だらけのものに退化するのである。栽培家はどうしたらば優良葡萄を復活させることが出來るかと苦心したが、どうも思ふやうにならないため、捨ててやり直さうと考へたのである。その時、或る園藝家がもつとも簡單な方法で、衰へて行く葡萄を再び若返らせることを發見したのである。
 それはどんな方法かといへば、その優良葡萄の木を二、三本置きに拔いて捨て、その後へ山野に生えてゐる野生のものを植ゑたのだつた。「俺は人間に食はれるために生えて來た葡萄ぢやないぞ」といふやうな野生のものを植ゑたところが、萎びてしまつた優良葡萄が、その翌年から再び瑠璃玉のやうにみづみづしい、ハチ切れるやうな葡萄になつて來たといふ實驗が書いてあつたのである。これは實に面白い話だと私は思つた。
 お互ひが文化的な進歩、また發達といふことに對し、あらゆる科學、人智をもつて、政治から私生活にいたるまで、その心構へをもつてやることは、確かに文化人としての磨きをかけるものであり、人類の進歩に違ひないのであるが、この文化性のみをもつて人類は逞しくなり、社會は確固不滅な堅實さを保つて行くかどうか。たとへば、このごろのやうな時局のむつかしい時、文化人ばかり集めた外交、優良人のみ集めた葡萄畑のごとき閣議を開いて、本當に今日に處する力が生れて來るかといふと決して生れて來ないのである。文化的に進んだ優良人には缺如してゐるものがある。それは何かと一口にいへば野性味である。野性といふ言葉は完全でないけれども、本當の生命力といへば、やや近いかと思ふ。本當の生命力がない限り、どんな叡智な文化人とか、巧妙なる組織をもつてしても、眞の力は出て來ないと私は考へる。
 かつて、自分たちの周圍にジヤズが横溢した時、祖先の生活を振返らうぢやないか、俺たちの祖先は國難に遭つた際どう切拔けたか、自分自身の修養鍛錬といふものにどれほどの力をもち、どれほどの生命力をもつてぶつつかつたか、それを振り返るために書き出したのが、あの宮本武藏といふ相當野性な男のことであつた。お互ひの血液の中にはどんなに文化的に磨いても、科學的に磨いて行つても、どうしても失はれないものがひそんでゐるのであるから、作家が讀者に教へるとか、與へるとかいふ必要はないのである。作者はただ暗示を與へる人であればいいのである。讀者の血液にひそんでゐるものを喚起して、それを今日の文化なり、生活のうへに働かすやうにしてやれば小説の使命は足りるのである。
「あの小説は何も與へてないぢやないか」「何も教へてないぢやないか」などとよくいはれるが、文學者が與へるとか教へるとかいふことは、昨日までならいざ知らず、今日においては非常に僣越だと思ふのである。私たちは書齋に籠もつて、象牙の塔において獨善的なものを書いてゐては駄目であり、むしろ民衆の中に机を持込んで行けば、そこから教へられることの方が多いのである。何故ならば、私たちの書かうとしてゐるもの、私たちが愬へようとしてゐるものは、書齋にはなくして民衆の血液の中にある。その民衆の血液にあるものを喚び覺まさうとするのが、作家の明けても暮れても忘れることの出來ないものなのである。
 日本人の血液には確かに特殊なものがある。外國の文學、思想とかいふものでは侵し難い、除き得ないものがある。共産主義などといふ思想が入り、一ころ日本中が赤くなるのではないかと思はれたことがある。その時「君心配することはない。日本人といふものはいろんな文化を採入れられるだけは採入れるが、こいつをよく咀嚼してしまふとすぐ吐出して、あとはケロリとしてゐるんだ」といつた政治家がゐた。これは政治家的な大掴みではあるが日本人の血液の中に特殊なものがあることは信ぜられるのである。何があるか、その政治家の話だけではぴつたり來ないから追究して見たい。それを考へることによつて、自分の小説の上で何を愬へれば讀者が泣くか、怒るかといふことがわかるわけである。今日自分が掴んでゐるところは、この血液を通して祖先といふものを考へて見たいと思ふのである。血液を唯物的に、醫學的に見られたなら誰それはA型だとか、あの人のはB型だとか、白血球が多いとか、赤血球が少いといつた話になつてしまふが、この自分の身體の中に脈々と動いてゐる血液といふものをジツと考へると不思議な氣がするのである。二千六百年はおろか、より以前から脈搏つてゐる血液は一時たりとも停止しなかつたのである。自分には兩親がある。その母の方にも兩親があり、父の方にも兩親がある。さらにその祖父母にも兩親がある。系※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、126-13]學者が具さに調べたところによると、二十代ぐらゐ遡れば廿何萬といふ血液の親が出來るさうで、これを三十代前、四十代前に遡つたならば天文學的數字になるのではないかと思ふのである。太田亮といふ人が書いた系※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、127-3]の本に確か二十四代まで計算してあつたと思ふのであるが、もうその後は面倒臭くなつてやめてゐる。ところがわれわれの國土に分布して來た人口といふものは、時代を遡れば遡るほど少かつたことは事實である。殊に肇國當時においては非常に少かつた。だから、讀者諸君の血液も私の血液も七代から十代ぐらゐ遡ればみんな重なり合つてゐるのである。
 お互ひの血液は全く一つの源泉から流れて來たことがはつきりしてゐるのであり、畏い話であるが、皇室の御血液を私たちの血管に戴いてゐるといふことも、藤原時代をご覽になればわかるのである。その當時は幕府政策に煩はされてをらなかつたから、玉葉の御身をもつて地方の長官となられ遠國へおいでになつてをられる方は澤山にあり、九州に行かれた方もあり、或ひは武藏で權頭ごんのかみとなられた方もある。今日の知事みたいなものとは違つて、御赴任になればその土地に土着された。そしてそこに一門をつくられたのである。
 その一門から一族がわかれ、海濱に住み、山間に住み、その地形を姓として吉川だとか、田中だとか、浦戸といふ風にしたのである。源平時代の戰において、花やかな武者と武者が双方の陣頭に立つて、一方が「われこそは清和天皇の後裔何の某の末孫何の某」とやれば、片方は「われこそは桓武天皇の後裔何代目の誰だ」などとやつてゐる。今から考へると非常に悠長なものであるが、あれは決して自分の門閥だけを誇つてゐるのではなく、俺の血液はかくのごとく正しいのだといふ血液を誇つてゐるのだと思ふのである。
 それからもう一つ面白いことは、日本の二千六百年の文化を繙いて見ると、地方々々に分布された百姓の中で、秀吉のごとく時を得て當時の政治を執り、あの桃山、慶長といふ絢爛な文化を建設したかと思ふと、藤原の末葉のやうに、その一族一門が滅んで野に隱れてしまふ。また源平の兩族が滅されれば山野にひそみ、歸農したり、町人になつたりしたやうに、野にあるものと廟堂にあつて時の權を握るもの、いはゆる文化の建設者が絶えず交流してゐることである。丁度さつきの葡萄の話と同じやうに、一つの文化、たとへば藤原文化といふものはその末期非常に墮落した。さうすると次の建設者が逞しき野性を加へて鎌倉時代をつくつたのである。明治維新を見ても、十五代二百餘年の後に江戸文化といふものは、あの頽廢的な、どうにもかうにもならない時が來た。すると足輕、輕輩のやうな役にゐた人々が強力な力をもつてこの文化を覆し明治文化を建設して行つたのであつた。この文化の交流を見ると、丁度雲と海水のやうなもので、雲は雨となつて降り、また蒸發して雲となる。このやうな文化の姿を考へる時、自分たちの血液は如何に長い間われわれの血管の中で鍛錬せられ、同時に特殊な純粹さをもつて來たかといふことがわかるのである。あの強力な科學力を存分に發揮してゐるヒツトラーが日本の何を※[#「義」の「我」に代えて「咨−口」、U+7FA1、129-6]望してゐるかといへば、何よりもお互ひに日本人だけのもつてゐる血液の純潔さだといはれてゐる。
 かういふものはどこにあるかといふと、今日上層またはインテリにいはれるやうな脆弱なところにはむしろ稀薄である。私たち作家的な氣持から見るならば、いはゆる言葉の上では下層といはれて實社會に苦鬪してゐるものの中にこそ濃厚ではないかと思ふ。この意味において自分は新聞小説を書くにしても、一つの大きな張合ひと責任を感じるのである。
 新聞小説の一回分は廿行の原稿紙わづか四枚である。この四枚を毎日書いてゐるのであり、よく社の人から催促されたりするが、書溜めて置くといふやうなことは到底出來ない。毎日あれだけ書くと、大袈裟にいへば心身ともに疲れるのである。何故疲れるかといへば、文學的な縷身彫骨といふことばかりでなく、讀者のもつてゐる現實な動きの中に愬へようと苦心するからである。
 忠臣藏はあの當時の作家によつて書かれたものであるが、共産主義的な唯物史觀の流行したころには、義士の行動に對し、忠義は表看板だ、あれは就職運動をやつたのである、その證據にはかういふ手紙があるぢやないかなんて批評を加へたものもある。今日はやかましくなつたためそんな書物はないが、十年も前にはこんな觀方で日本の武士道を批評したものもあるのである。
 私はかういふ人に對して非常なる憤りを感じる。なぜならば、忠臣藏はもう決して書いた作者だけのものではないのである。あれは國家のもつてゐる精神的な財産であり、この精神的財産が今日までの日本人に娯樂となり、趣味となり、またその中にある道義觀とか忠義といふものに對するはつきりとした目標を示唆した功績は大變なものである。永遠に傳ふべきこの大切なものをひつくり返し、裏から見て面白がつた時代があるのである。自分が忠臣藏を書いても、むしろ今までのものに磨きをかけて、今日、明日に大きな使命をもつたものを書きたいと思ふのである。
 歴史は繰返されてゐる。歴史を題材にした小説の面白さはここにあると思ふのである。現代の問題をとり上げ、現代人に教へるかのごとく書いた場合、讀者の方から反駁が起きるが、讀者には問題として出して置き、讀者の解釋に委すことが出來るのは時代小説の大きな特徴である。今日の獨ソ戰のごときことは歴史の上に幾つも同じ例を見るのである。ちやうど自分が秀吉の長篠の合戰を書いてゐる時、あの獨ソ戰がはじまり、私は長篠の戰爭といふものを非常に面白く考へ直したのであつた。信玄は死んでをり、武田勝頼といふ人は歴史では暗君のやうにいはれ、芝居では廿四孝の中に美少年となつて出たりするが、事實は非常に豪膽で逞しく、勇猛なことは父信玄以上だつたのである。政治的才略とか經營の才はわからぬが、戰には信玄以上であつたことは事實である。信玄が亡くなつて非常に喜んだ四隣の國が一擧に攻められなかつたのを見てもわかるのである。信玄が死んでも徳川家の領土を侵略して長篠へ出て來たのである。その時の徳川は非常に弱小であつた。當時織田家と徳川家は今のドイツとイタリヤのやうな關係にあり、ドイツが織田家、イタリヤが徳川家であつたのである。この徳川家だけでは武田方騎馬精鋭の軍勢に當ることは到底覺つかないのであつた。軍の裝備、人員からいつても、武田軍二萬に對し徳川は三分の一ほどで、つひに織田軍に援軍を仰いだのである。
 信長はその時確か三萬位な兵をもつて來て援護した。武田勢が一萬五千か二萬出すといふことがわかつてゐながら三萬の軍勢をもつて來た。徳川と合せれば三萬七、八千、武田勢の倍になるのである。そしてその兵隊に杭と繩をもたせた。三萬の軍勢があるから三萬本の杭を、長篠の戰場へもつて行つた譯になる。それで三段に柵を拵へ鳴りをしづめて、自分の方から決して戰ひを挑んで行かなかつたのである。桶狹間の時、今川義元の大軍の中に、清洲の城を後にした七、八百騎をもつて飛込み、義元を制したといふ短氣な信長が、それから何年も經たない長篠で何ゆゑそんな大事をとつたか。これは戰ひが終つてはつきりわかつたのであるが、武田勢は騎馬が非常に強かつた。徳川でも織田でも武田勢に眞正面から來られると戰慄したくらゐ強かつたのである。殊に武田方には馬場信房、山縣三郎兵衞といふやうな猛者がをつた。それで勝頼は信念をもつて織田勢へ突貫させた。そして柵を越えようとした時、織田勢は一度に鐵砲を撃つたのである。これも後になつてわかつたのだが、その時武田の方では五、六百挺位の鐵砲しかなく、徳川に四、五百、織田は何時の間にか三千挺の鐵砲をもつてゐたのである。この新武器の鐵砲も、今のものから見ると、彈丸をこめるのに非常な時間がかかつたので、柵を三段にしたばかりでなく、鐵砲をもつた銃隊も二段にした。そして前段が鐵砲を撃つと、すぐ左右に散開して彈丸ごめしてゐる間に後段が前進して撃つといふやうにやつたため、さしもの武田勢も名だたる勇士悉く戰死、ここに科學力の差が出て來たのである。信長はあれでなかなか新しい文化に對して敏感であつた。そしてそれを採入れることにおいて當時の有數な文化人の一人であつたのである。桶狹間とか本能寺における信長は、實に癇癪もちのやうに見えるが、この長篠の戰法を見ると、これが果して桶狹間と同一人かと思はれるほどである。とに角、光秀、細川藤孝とともに三文化人の一人であつたのである。
 お互ひ人間はどうも自分たちの住んでゐる文化の中に偏し易い。私などは書齋に多く住み、文字を扱ふことを日課としてゐるから、どうしても精神的な文化に偏し、科學的なことをうとんじ易いのであるが、反對に科學的な面における人は、この精神的な面の中に本當の生命力があるとか、信念とか、不滅のものがあることを輕視し易い。これはどの民族でももつてゐる短所ぢやないかと思ふのである。日本は從來どうも日本精神とか東洋哲學の信念に頼り過ぎ、科學的な文化を輕視する傾向があつたのぢやないかと思ふのである。私が眼を患つた時感じたことは、片一方を眼帶されて往來を歩いたところ、どうしても脇の方へ寄る、眞直に歩いてゐるつもりでも何時の間にか曲つて來る。兩眼のある間は一眼でも差支へないやうに思ふのであるが、やはり兩眼があつてこそ中道を眞直に歩いて行けるものだといふことを、そんなつまらないことから感じたのである。ところが自分たちが修業する場合、科學的な正しい理解をもち、併せて精神的にも磨くといふ二つを平均して、人格をつくるといふことは六十年や七十年の生涯では不可能ぢやないかと思ふのである。だから自然的に分業となり、科學文化の中に住む人と、精神文化の面に住む人とが出來て來る。この兩方が深く理解し合はなければ本當の文化は生れないのである。日本の精神力の上に、あの獨ソ戰のドイツの科學力をもつて來たならば、本當に無敵になるのではないかと痛感されるのである。またドイツが起つたあの呼吸は、武藏と巖流が、劍と劍をもつた時と同じやうに、兵法的には實に鮮かで達人の藝だと思へるのであり、ドイツがソ聯未だ起たずと思つて英本土なり、近東の方にでも向つてをつたなら、その後から忍び寄つたソ聯に後袈裟に斬られたであつたらう。ソ聯の動きがきつとあるに違ひないと思つた瞬間、前の敵と斬り合ふやうに見せて、振向きざまといふ形容でも使ひたい位鮮かにやつたのである。
 私が從軍した時に各所の航空隊へ行つたが、私の小説を讀んで下さる方もあつて、いろんな話をしてくれた。陸鷲や海鷲の若い人の中には劍道をやつてゐる人が非常に多いさうで、その人たちがいふのに、劍道で瞬間に斬込む呼吸も、敵の上空に行つて爆彈を落す呼吸もちつとも變らない。飛行機に乘つてゐても、劍道が非常に役に立つてゐるといふことを聞いて愉快に思つたのである。飛行機全體が自分の身體か、自分が飛行機か、ちつとも區別がつかなくなるさうである。爆彈を落すには角度とスピードが微細に計算されてゐるが、加へてボタンを押す一瞬の感覺、この三つが一つの焦點に一致した時に命中するのである。だから、私たちの祖先が殘して行つてくれたものには、如何に戰爭が科學的になつても、生活が科學化されても、不要な、役立たない、活し得ないものは一つもないことを痛感して、自分の書く時代小説の上に、大きな示唆と信念を受けて來たのである。
 私が小説の上で絶えず書いてゐることは、この果しない文化の中に生活しながら常に反省して修行するといふことであり、自分たちの祖先はかういふ危難をこんなにして切拔けた、かういふ問題にぶつつかつた時はかういふやうに考へた、といふ修行を興味づけて、それを無駄なく讀ませて行くことが、私たちの書く小説の使命の中にあると思ふのである。修行といふことは、今日隣組のやうなものでも、その他あらゆる職域でいはれてゐるが、修行的なことをやつても、生兵法の自信は却つて邪魔になる場合が多いと思ふのである。自分の好きな道であるとか、或ひは自分の短所と思ふことは常時において、絶えず修行、反省して行けば必ず生きて來るといふ例を戰場でもいろいろな人から聞いた。
 中山博道氏の話を伺つても、劍道が意識的に役立つといふことはほとんどなく、いざといふ瞬間などにおいて無意識のうちに役立つものである。道場の修行や何段になつたとかいつてそれを恃んでは却つて危いといふ話を聞いたのである。日露戰爭當時の古い話であるが、中山氏の友人で、道場で試合をすると忽ちに相手の竹刀をとつて撃つといふ惡い癖の人がをつたさうである。何しろ自分が自分の竹刀で毆られるので、負けた方は非常に不愉快だつたさうである。どうにかしてその手をやらせまいと意識してやればやるほど竹刀をとられて毆られるので終ひにはこの男と立合ふのが嫌だといつて相手がなかつた。(この人は今でも大連の滿鐵にゐるさうである)ところが日露戰爭のとき應召したので、みんなで刀を贈つた。南山の手前にある小さな橋梁をこの人がゐる一中隊で守つてゐるうち、ロシヤの夜襲を食つてほとんど全滅の災に遭つた。その時この人は隨分善戰したらしい。とも角ここを先途と戰つたが、崖みたいなところから落ちて氣絶してしまつた。夜が明けてほツと氣附いた時、劍道家ですから、頭の中に途端に甦つたものは「俺は昨夜一體何人斬つたか」といふことだつた。他の人が殺したのは突傷であるが、自分のは斬傷ですからよくわかるのである。滿山ロシヤ人の死骸がゴロゴロしてゐる間を數へて歩いたら十六人あつたさうである。必死になると十六人位までは斬れるものと見える。ただしかしその時にしつかと握つてゐた血だらけの刀は、自分の刀ではなくしてロシヤ人將校のものだつたさうである。この話はもう有名な話であるが、修行といふこともここまで徹すれば大したものだと思ふのである。
 これに關聯した話は私が武藏を書いてゐるうちに氣がついたことであるが、慶長のころ、あの時代の武藏の身邊、朋友、グループを調べて見ると本阿彌光悦とか灰屋紹由、遊女では吉野太夫などいろいろをつたのである。この本阿彌光悦はどういふ人かといへば、ご承知の通り室町幕府からの刀劍の鑑定、手入れ、磨ぎ、さういふことをやつてゐる一町人といつてもいい人である。それがいはゆる光悦風な今日にも殘るあの優雅にして典麗な繪をかくかと思へば、天下の三筆とまでいはれる書も書いてゐる。烏丸光廣、近衞信尹、本阿彌光悦と天下の三筆といはれる光悦が、茶碗を燒けば例の光悦茶碗といふやうな名碗を燒く。實に多藝な人であつた。灰屋紹由といふ人は小倉時雨の小説の中に出て來る紹益、あのドラ息子のお父さんである。灰屋といふのは灰をどうするのかわからないので調べて見ると、當時は染物をするのに媒介藥として灰を入れる。今日のごとく、いはゆる化學染料ではないから、この灰の需要たるや非常に多かつたのである。室町幕府には灰座といふのがあつて、全國の灰をこの灰座に集めたのである。そしてその後を問屋に委せて配給させた。この問屋が灰屋紹由であつたのである。この人はこんな商賣をしながら文學にも長けてをり、殘つてゐる俳諧とか紀行文を見ても中々いいものを書いてゐる。
 近代人のやうに「俺は醫者だけれども、どうも患者ばかりいぢくつてゐるのではやり切れぬからゴルフをやる」とか「俺は銀行家だが、窓口ばかりにゐては何だからテニスをやる」とかいつた風に、昔の人がやつた一つの道を磨くためにやつた趣味でなく、むしろその反對にそこを去つて忘れるためにやる。
 要するに私たちが小説を書く上においても、その氣持をもつてやつてゐるといふ作者の文字の裏の決心を幾らかでも察知されて私たちの小説をお讀み下さるならば、その面白さのほかに、もう一つ精神的なものをお掴み願ふことが出來ると信ずるのである。

 文藝懇話會の席上か何かで、内務省の檢閲課の人のいつた言葉と記憶してゐるが、
「いつたい、社會動向に鋭敏なのは、現代物作家か、純文學作家であるはずのものに思つてゐたが、どうも實際において、社會感覺のはやいのは、大衆作家のやうですな」
 と、意外らしく洩らしたのを、傍で聞いてゐたことがある。僕らは、當然なことだと思つてゐるが、一般は、髷や、さむらひによつて表現される時代小説の作家が、現代の社會趨勢に、もつとも關心を持つてゐるといふことすら、案外らしいのである。これは、一般讀書人が、まだまだ、大衆文學の外形だけを見て、内面にまで深く讀み込んでゐなかつた、過渡期の據言である。尤も、僕らの持つ樣式も、ロマンチシズムや、その他の僞裝が多かつたせゐもあらうが、決して今日の大衆文學は、民衆の回顧趣味だけに繋がつて、滿足してゐるものではない。少くも常に、今日を見、明日を考へようとしてゐる。ただそれが、純文學の如く、現代小説の如く、すがたを現代人に借りないだけなのである。

 文士といひ文壇といふものが、緊張した社會から、甚だ、だらしのない、特殊的な存在のやうに、惡い印象で見られてゐたことは事實である。
 文藝家自身の輕んじられることは、文藝家自身の恥とか衰微とかいふよりも、國家の上からみて、まづ嘆くべきことだ。
 しかし、日本の今日の文藝及び文藝家は、一般の人がゴシツプ的に見てゐるほど、嘆かはしいものではない。尠くとも、第一線に立つてゐる程の文士に、さういふ怠惰や放縱があつては、あんな仕事のできようわけはない。
 菊池寛にせよ、加藤武雄にせよ、大佛次郎にせよ、白井喬二にせよ、僕の知る限りに於いては、一般人の想像も及ばない勤勞をしてゐる。ただ、文士の生活には、屋根がない。私公上のこと、家庭のこと、收入や税金の内輪ごと迄、活字になり、それがゴシツプ的な興味にのぼせられると、變な反映を一般にもたせるのぢやないかと思ふ。
 火のない所に煙はたたないから、文壇の底流には、今日もまだ末期的な頭をもつ、頽廢した文人がゐないとは云はない。然し、國民一般が健實ならば、さういふ文人の文章は讀まれなくなるのが當然で、すでに今は、明らかにさういふ傾向が、はつきりと文藝の潮流を清算しつつあるやうである。
 いつたい、文學者の生活態度といふものには、ふたつある。よい文學を書いて、書齋の精進をまもり、餘暇餘力があれば、文人的な自由をたのしむ。地位や金力に惠まれない代りに、最も拘束のない藝術家生活の半面で、瞑目することができる。よい作品をのこし、なほ家庭まで修め得たらば、上乘な文人の生涯といへる。社會に對しても、恥しくない。
 然し、それも時代による。文人だからといつて、書齋以外の關心を避け、小さく、個人的に一身をまもつてゐられない時代もある。
 國家が重大な難局にある場合、文人だからと云つて、以上の特權や、藝術至上の殼の中に、安閑としてはゐられない。それは、俺は坊主だからと云つて、伽藍の奧で、行ひ澄してゐるのみが、決して、名僧でないのと同じである。
 ひるがへつて、過去をみると、文人の生活形態も、明治や、江戸時代には、世相の平穩と共に、極めて逸樂な、琴棋書畫的な半面をもち、維新前期のやうな、内憂外患の時には、文藝家もまた、國民として、同樣な慘苦をしてゐる。今日の日本にあつて、明治期のやうな、また江戸中世期のやうな、文壇的自由思想をもつて、海外問題も、國内問題も、よそ事のやうに冷淡視してゐる文藝家があるとすれば、それは、伽藍を出ないのが名僧の行ひだと考へてゐる坊主にひとしい。社會のすみに、有つても邪魔にならないから、そつと、蜘蛛の巣の掃除でもさせておけばよろしい。
 大衆と伍し、大衆と共に歩まうとする作家には、それができない迄のことである。

 鳥と巣のやうに、動物と自然のやうに、切つても切れない自分だけの好きな部屋に、また自分だけの趣好で、書齋號を名づけることは古くから行はれてゐる。支那の餘風であることはいふまでもないが、この書齋と主人公とは、それが、書室の名であると共に、又、主人公の號にもなつてゐるから、つまり一名同體で、その書屋の趣きと、主人公の風貌との兩面を、同時に窺ふことができる。
 坪内博士の双柿舍などは、書屋の名として、また博士の號として、現代の中では有名な一つである。
 いつぞや、加藤朝鳥氏が、その逍遙博士が描いた、熱海の双柿舍の大きな柿の樹の寫生に、歌は忘れたが、何か狂歌めいたものを書いた戯筆の色紙を携へて來て見せられたが、その折も、双柿舍といふ名が、逍遙博士の晩年を、いろいろな意味でよく現はした文字だと思つた。博士と貞淑な老婦人との姿や、晩年の風貌や生活までが出てゐた氣がする。人と書齋、そこから生む仕事、すべてをこの號が現はしてゐる。
 芥川龍之介氏は、澄江堂といふ堂號を時々使つてゐた。あの藝術的な凝視と、死とを想ふ時、その澄江堂も亦、偶然でないやうな氣がする。ついでだからいふが、芥川氏は、俳句をやるので、俳號をもち、また陶器に深いし、大雅堂の畫に傾倒してゐたりしたので、自分でも、こつそり、繪を描いてゐたらしい。細物の茶掛だの、半切だのが、どうかすると市場へ出てくる。値だんを聞いたら、地下で、苦笑してゐるだらう。
 同じ、墨池の餘技では、有島武郎氏も、繪や詩などを書いて、獨り樂しんでゐたらしいが、堂號などは聞かないし、唐詩を書いた半切などにも本名を書いてゐた。その點、夏目漱石氏には書齋號はあつたかも知れないが、書いたのでは見たことがない。
 室生犀星氏は、魚眠洞と、金澤の郷里の家居かに、寒蝉亭と、二つの書齋號があるやうに思ふ。谷崎潤一郎氏の松倚庵は、すでに賣つてしまつたといふ岡本の家居の姿ではないかしら。そのほか文筆の人々にも、數へれば書齋號のある人がまだ多くあらうが、近頃は作品には本名で通すことが、ふつうになつてゐるので、世間にはあまり聞えてないやうだ。尾崎紅葉の十千萬堂なども、どういふ意味であつたか、寡聞にして僕もまだ聞いてゐない。
 蘇峰氏の山王草堂は、澎大な修史の勞作場として、山陽の山紫水明處と、後にはよい對照になるであらう。そして、あの文字は、地名であり、草堂とはいふが、どこか氏の業績と經歴のやうに對社會的であり、超文壇的な、ひと構へを思はせる。又、不遇で、陋屋にゐる篤學な木崎愛吉氏が、借家から借家へ移してゐる書齋を、惜不發書樓と號してゐるなど、はつきりと、主人公の個性が窺へて、興味ふかい。
 然し、書齋號は、それを古人に見た方が、當然、興味もあり、想像をよろこばせる。いはゆる文人墨客でなくとも、煙草屋の主人、質屋の主人でも、多少素養があつて、雅閑を樂しむ者は、書齋として一室を持つてゐたらしい。ちよつと、狂歌、俳句でもやれば、敢てそれを自分の代名詞にしてゐた。
 畫人の畫室では、文晁の寫山樓、玉堂の琴室、蕪村の夜半亭、雪洞。また木村蒹葭堂の蒹葭堂など、それぞれ、その人の姿と居室のさまを想像するに足るものだ。ことに、竹田などには、補拙蘆、六止草堂、花竹幽窓、對翠書樓、雪月書屋、咬菜※(「穴かんむり/樔のつくり」、第4水準2-83-21)、まだ幾つかの堂號があつて、その一つ一つに、彼の心境が托されてゐるか、生活を現はしてゐるかしてゐる。
 華山の全樂堂なども、いはゆる彼の全樂主義的な畫の心境であらう。椿山の琢華堂は、いかにも彼の寂美の花鳥にふさはしいし、日根小年の、對山樓だの、田崎草雲の白石山房だの、各々、主人公の何ものかを短い文字が象徴してゐると思ふ。
 ひどく文字にやかましい、また凝り性な馬琴が、著作堂といふだけで、はつきりしてゐるのは、いかに馬琴が、世間の毀譽褒貶のなかにも、それを自己の天職とし、精進一途であつたかといふ氣持がわかる。
 西鶴の二萬堂と松壽軒の堂號は、ふたつとも、彼の小説に見るやうな心境的ではないが、來歴は有名である。その點では、上田秋聲が、茶器一組しかない書齋を、身輕に、引つ越してばかりゐたので、自嘲的に、その堂號を、鶉居と名づけてゐた方がおもしろい。
 書齋は、居るところが書齋だといふ風に、決つた住居のない書齋人もある。西行、芭蕉、一茶など、俳人にそれが多いし、桃水とか、賣茶翁とか、良寛とかいふ僧人にもかなりある。
 桃水などは、一日でも二日でも、ゐようと思ふ他人の家の軒下や、樹蔭などへ、一枚の莚を張つて、それへ、携へてゐる小さな軸などを掛け、茶など沸かしてゐたといふから、彼にとれば、忽ちそこは自分の書齋であつたらう。まだまだ、良寛の五合庵などは、よほどぜいたくと言へるかも知れない。だが、五合庵はいかにも良寛らしい。彼の、十字街頭乞食了、八幡宮邊方徘徊、兒童相見共相語、去年痴僧又今來、の詩だの、歌だのをみて、その佗しい一室を考へると、これも亦、これ以外にはない、室の名である。
 要するに書齋は、書齋として特にあらうがなからうが、その人の居る所が、書齋といへるし、なほさら、書齋號などは、あつても、なくつてもいいやうなものだが、自分の精神的な生活の重點であり、また日々夜々の仕事と、思想とを生む、神聖な一室である以上、どう狹からうが、汚なからうが、ひとりでに名のつくものなら、そこに何々書屋と、銘を打つても、これ又、ちつとも邪魔にはならない。
 で、書齋人の堂號につかはれた文字を拾つてみると、ずゐぶん種類がある。極めて平易に多く使はれてゐるものには、亭、庵、居、廬、軒、舍、屋、處、臺、巣、堂、洞、龕、館、莊、室、齋、閣、樓などがある。
 またやや凝つたのになると、
廊、寮、精舍、茨室、窩、舫、書院、山房、草堂、院、小※(「木+射」、第3水準1-85-92)
 まだ種々あるかも知れない。そして、俳人、畫人、市人、僧人、茶人、文人、自らその選ぶところがあつて、およそ堂號によつてその人物は聯想できるし、その室の空氣は、いつの間にか又、その主人公の思想なり、趣味なりに反映して、そこに住む者の土壤となつてゐる。
 書齋は人が作つてゆくが、書齋は、反對に人を作る。さういへると僕は思ふ。室はいつか、人の色になつてゆく。たとへば、鳥と巣のやうに、動物と自然との保護色のやうに、微妙である。
 橋本關雪氏だかが、幼少の時、自分の寢る部屋に、寂巖の書の屏風が常に置かれてあつて、寢入るごとに、それを見てゐた感化が、成人の後にも強い力になつて、今でも寂巖の書に私淑してゐるといふやうなことを書いてゐたが、僕にも、そんな覺えがある。
 子供の頃、僕の寢かされた部屋の欄間には、椿山の名花十友がかかつて居り、床には、藤田東湖の詩と、蕪村だと父がいつてゐた俳畫がかはりばんこにかけてあつた。眠らうとする眼で、うとうとと毎夜それを眺めては寢た。そしてやがて、畫家になりたいといふ志望は、僕が、十四五から廿歳ぐらゐまでの間つづいてゐた。怖ろしい感化と思ふ。
 だから、個性の出來上つた中年以後でも、書齋は眼に見えず、書齋を作つてそこに坐る人間を、反對に、色づけたり、感化してゐるに違ひない。さういふ意味で、自分の信念なり、自分のめどなり、心境なりを、その室の名に託して誡めておくことは、決して、無意義なことではない。
 洋館の書齋も、時に、氣がかはつていいと思つて、自分なども、壁紙やじうたんのデザインに凝つたことがあるが、どうも、精神的な修養の場所には不向だ。他人の書を讀むにはいいが、自分の書を生むには落著かない。僕の趣味が、僕の仕事とは、極端から極端に違つて、孤寂を求めるせゐか、居る所に居るといふ氣がしないのである。
 それは僕ばかりでなく、やや晩年になると、多くの人が、書齋は、やはり東洋的に、と元へ歸つて來るらしい。與謝野晶子氏など、いはゆる、生活も書齋も、洋風の方には、ずゐぶん早い方で、歌の會などもホテルに限つてゐたやうだつたが、近頃では、障子明りの部屋でないと、心から出た歌らしい歌はできないといつてゐる。
 といつて、僕等の職業の者には、まだ、孤寂を愛し、障子紙の和やかさにのみ浸つては居られない。あわただしく推移してゆく近代音響の中へも、好んで飛び出してゆく。そして、書齋へかへると、そこはおよそ、銀座の街光とは、西洋と東洋ほど違つてゐるのである。
 ひどい生活の矛盾のやうだが、僕などは、その極端と極端の間に、生きることと、修業をしなければならないし、また兩方の意義を見出してゐる。就中、獨りゐる書齋の意義を深く感じる。

 大衆文學を、たれも、襟を正して讀むものはない。寢そべつて讀まれて、決してさしつかへないものだ。
 ぢや、作家も、純文學や、學究的なものを書くより、氣がるさうなものだが、さうだつたら、大衆はあんなに讀むまい。
 この雜誌は、賣れるか、賣れないか、といふことは、新刊のページの角を、ぱらぱらとめくつただけでも、はつきりと感じる。ほんとに生々してゐる雜誌は、ページのかぜがちがふ。
 低いといはれる讀者層にだつて、恐いやうな感覺がある。今時、代作なんかを載せて、のほんとしてゐる作家もあるまいが、そんなのは、忽ち觀破するであらう。この小説は、面白いか面白くないか、標題で、書出しの數行で、或ひは、※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)繪や、ずつと見たページの字感(――こんな熟語はないが)で、もうおよそ知つてゐる。知識的にも、大衆の讀者が、育つて來たことは確かだが、さういふ感覺の、特に鋭敏になつたことは、何といつても、出版の氾濫からであらう。
 もう一つ、作家にとつて、氣のゆるせないのは、大衆の綜合知識からくる、作家常識を疑ふ抗議である。愛劍家の劍に對する、工藝家の建築に關する、呉服屋さんの服裝に關する、地方人の植物や地理に關する――すべて、職業か、趣味かに於いて、一人に一つづつは、必ず、何か、作家より專門的な、ふかい知識を持つてゐるものだ。それが、何十萬と綜合された、いはゆる讀者は、大知識といへる。それが、尺八の穴一つでも、間違ひを見つけると、必ず、ヤリが來る。わけて、刀劍家の抗議は、手きびしい。私は、神戸の讀者關五郎といふ人から、よく叱られた。
 史實の扱ひにも、同じやうな例が多い。彰義隊のことを扱へば、仙臺の讀者山崎有信氏からきつと、緻密な訂誤が來る。新撰組を書けば、その血統の遺族から。また、かなり時代を溯つたものでも、どうかすると、末孫が出て來る。
 テーマを考へるのは、もとはよく、道を歩いてゐると浮んで來た。丸の内の歩道を、あの近代的な高層建築とは甚だ遠い、チヨン髷人時代のロマンチックを[#「ロマンチックを」はママ]、夢中になつて、頭の中につくりながら、ぐるぐる歩いてまとめたこともある。その頃は、深夜、どこかの歸り、家まで歩く間に、何かヒントをつかむと、家へはいるのが惜しい氣がした。
 最近は、正しく、机の前に、坐つて考へる。構想のヂレンマに墜ちて、二日もうつろな眼をしてゐる顏は、ゆめ、愛人に見せるべきものではない。

 ほんとの、實話といふものは、あり得ないと思ふ。今日のことを、今日語つてゐる新聞記事にも、多分な、觀方の違ひや、誤報がある。
 實録といふものも、從來、呼ばれて來たいはゆる實録ものは、すべてといつていいくらゐ、甚だ實録でない。ただ、人物の點出ぐらゐが、類似、或ひは、實際ぐらゐなものだ。
 だから、史實に據ると稱しても、その作品は、嚴正な意味の史實小説では有り得ない。明治期の歴史小説にしたつて、今日檢討して見ると、多分なる創作である。
 だから私は、小説は、すべて空想が本則だと思ふ。史實は、時代の地上と空氣を借りるだけだ。實在人物は、その効果を攝るのにある。服裝、家屋、調度、あらゆる背景バツク、時に、微細な女の櫛一つの考證にまで、たがはないことを留意するのは、もちろん、作家常識の當然なつとめではあるが、それに捉はれることは、好まない。
 元祿時代の人間が、國芳風のくりからもんもんの刺青をしてゐたり、慶應年間に、淺草の仲見世で掏摸が逃げたり、近年開通式をやつた白髭橋で、浪人が斬り合つたり、猪牙舟の障子を開けて顏を出したりなどは、あんまりナンセンス過ぎるけれども、さうかといつて、過去の歴史小説作家のやうに、衒學的な通の配列や、用もない考證などは、およそ、近代感覺からはるけきものだ。たまたま、今でも年長の人には、さういふ點を、功名顏に突つこんでくる人があるが、通人語を借りていへば、そんな揚足どりこそ、酢豆腐つてやつだ。
 無智なナンセンスと、與太とはちがふ。又、與太にもいろいろある。作家が知らずにとばしてゐる與太と、史實も、考證も、のみこんで書いてゐる與太は、おのづから一見して、わかるものだ。場合によつて、作家は、そのままできてゐる實際の文字を拾はずに、苦吟して創作による時もある。ほんとに、しつかりした、裏打のある與太が書けたら、私はかなりだと思ふ。

 過去もさうであつたが、將來はなほさら、作家は、絶對に、實社會の訓練を十分に受けた人でなければ立てない。
 時代小説だから、現代の社會のことは、深く知らなくてもと、考へる人があれば、それは非常な間違ひである。
 人間は、永久に人間性である。同時に、社會も永遠に人間の組織する社會性である。いまだに、本を讀むことばかりが勉強だと考へてゐる青年があるとすれば、その人は、非常な時代錯誤だ。
 そもそも又、人生、作家にならうなどといふ理想を持つことからして、餘りにケタが小さい。もつと、社會的に、飛躍のある職業をなぜ選ばないだらう。長谷川伸氏みたいに、いろいろやつて、間違つて作家になつてしまつたつて、天分さへあれば、あれ位ゐになれる。
 また、その才分の先天的にない人が、ない素質へ、鉋をかけて、苦しむことはつまらない。
 私も、作家である以上、自分の天職を尊信すること勿論であるが、いはゆる作家志望者の諸君たちが考へてゐるやうな境遇には決してゐない。一日々々が刻苦と修業である。三十なほ一學生、四十なほ人生の一學生、五十まだ學んで足らないだらう。

 封建政治といつても、いい所はあると思ふ。中央集權の弊が極端に現はれて來た今日では、やはり昔の藩制度などには、今日にない特徴があつたと思ふ。
 藩風といふものの下に、地方文化が一團ごとに嚴存して、常に隣藩に對して、下らない襟度を持つてゐたなどもその特徴であらう。
 たとへば、仙臺には仙臺の文化があり、水戸には水戸の文化があつた。音樂にしても、美術にしても、文學にしても、自己のものを持つてゐた。思想においてすら、同じ勤王といつても、水戸學のそれと、薩摩や長州のそれとは、甚だ違つた派生であるし、武士道といつても、佐賀は葉隱を持ち、赤穗浪士は山鹿の士道を持ち、おのおの特徴のある人文を持つて「わしが國さ」を競つてゐたかたちである。
 現代の郷土は、精神的に空つぽである。思想は愚か、小原ぶしやおけさ節や、娘まで都會に捧げてしまつてゐるのだ。
 どうかならないものかしら。中央集權文化の殷盛はもとよりよみすべきだが、急速な近代發達は、都市と地方とにおいて、現代ではびつこである。封建の精彩や物質はないまでも、音樂や美術や文藝の恩惠を、地方にももつとあらしめたい。
 さういふ點で枯渇してゐる郷土にあつて、郷土に貢獻した隱れた文士の功績を、僕は認めたい。先年、常陸で死んだ横瀬夜雨氏だの、越後の相馬御風氏だの、また信州の高倉輝氏だの、何らジヤァナリズムからは[#「ジヤァナリズムからは」はママ]酬はれないが、文人として、ああいふ存在も、たしかに一見識であり、地方文化の一助である。
 原稿が賣れなくなつても、何でもかでも、文士は都會にゐなければならないといふ理窟はない。故山に歸臥して、老躯を地方文化のために終るなども、いい晩年ではあるまいか。

 もう十日も前に見たのであるが、いまだに眼に殘つてゐる佳人がある。國寶展の一室に掛けてあつた木米の觀音※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、158-10]である。有名な竹田の圓窓觀音※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、158-10]も、草坪の陳賢寫意のそれも、これを眸に入れては前の印象はうすらいでしまふ。
 ある年の國寶展では、新潟の鍋屋の祕藏とかいふ宇治朝敦※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、159-2]が出てゐた。その折も友人の河野通勢と話し合つたことであるが、木米の墨には鬼氣がある、曾我肅白のやうな、覇氣のあらい陰影から湧いてくる鬼氣とはちがふが、一種の鬼墨だと私はいつた。それと、ふしぎな色感と鋭さを持つ藍と代赭のつかひ方も、人間の藝術ではないやうな氣がしてくる。
 陶器へも畫へも、彼は自分の作品へは聾米と署名してゐる。人もまた、つんぼとして彼を扱つてゐたらしいし、傳記の筆者もさう信じてゐるが、ほんとに木米がつんぼであつたとはどうも考へなれない[#「考へなれない」はママ]。なぜならば、彼の親友である竹田とか山陽とかいふ人達との間には、筆談を交したやうな樣子もなければ、そんな文獻の斷片も見あたらないからだ。多少耳の遠いぐらゐなことはあつたかも知れないが、木米の耳は、自分の氣にくはない人間だけに對して聞えなくなる、藝術至上主義者の僞つんぼであつたのではないかと思ふ。
 封建制度の下にゐた藝術家は、偉大な質ほど、たいがいかういふ韜晦たうくわいの蓑をかぶつてゐた。その點で田能村竹田たのむらちくでんとは、思想も氣ごころもぴつたりしてゐたにちがひない。この二人は封建社會の大きな皮肉であるし、今日の藝術家たちをも、憎いほど高い所から睥睨して嗤つてゐるやうに思へる。
 今日の藝術家たちには、木米のやうにつんぼであつたり、竹田の如く隱操生活を守つたりする要のない社會になつてゐるが、作品においてはどうだらう。そのくせ、木米や竹田の畫や詩は、彼等自身が決して自分の本技だとはいつてゐなかつた。全く餘技としてゐた藝術なのである。陶器や畫とは少し畑がちがふといふだらうが、現状の純文學派への一考に供へておく。

 映畫雜誌の映畫評と、偶々、ゴシツプ風に書かれる大衆文藝評とは、共に、不誠實な與太でなければ、おざなりなものが多い。
 正しい大衆文學批評家のないことは、同じ理論で、よき映畫批評家の出ないことをも、語れると思ふ。時代の大衆感覺に、尤も鋭敏な批評家といふものがあつてもいい。
 純文藝派の正宗氏、近松氏などの大衆文藝批評も、一家言として、傾聽の値はあるが、ああした高きから低きを見るやうな、純文學概念などは、この際、もう昨日の聲、をととひの聲だ。
 私たちは、今日を、明日を、歩まなければならない。本則的に、大衆の動向と、時代感覺から、離れ得ない。――映畫と大衆文藝とは、まつたくこの點で、同じ軌道を、同じ意志と目的に結ばれて進んでゐる。よき大衆文藝批評家の出ないわけは、そのまま、よき映畫批評家もゐないわけになる。
 私の書く物は、初めから映畫を意識して書いてゐると、誰かがやや批難した口吻でいつたことがある。
 私は、その批評家の感覺のうまさに、をかしくなつた。
 小説に、形式はない。かりに、あるとしたら、そんな法定式は、破つていい。
 どう書いたつて、小説なら、小説であればいいのだ。そして、少くも大衆の求望に關心をもつて、又、時代人の感覺を、小説機構の上に考へて、ものを書くとすれば、小説が、そのテンポを、表現を、映畫的にリズムを持つのは、當りまへな現象であらう。
 といつて私は、處女作から今日のものまで、映畫を意識して書いたことなどは、一遍だつてない、決して無い。然し、大衆と活字、大衆と時間、大衆と讀物――、それらの關係は、常に意識どころではない、頭のしんに置いて書いてゐる。ことに、現代の形をとらない髷物の小説が、どうしたら、濃厚な近代生活層の音響の中に、隔離性なく、重奏できるか。尤も、効果的な感能の調和を見出すか、といふやうな點には、人一倍、苦心をする。
 その強さが、意識が、私に、前のやうな評言を與へる結果になつたのであらうが、私をもつていはせれば、小説も映畫も、大衆に對して、眞に、大衆のものを、制作しようとする時は、まつたく、相似た表現が生れるのは、當然である。何の不思議もないのである。
 私は近頃、從來の小説のとつて來た一形式――心理描寫といふものに、非常な不滿を持ちだした。
 人間が人間と相對した時、一方は、一方の人間に、何のワキ書も、心理説明もなく、その心理を感得する。
 だのに、小説の場合には、會話と會話とのあひだに、いちいち、あのうるさい、心理描寫がはいる。或る小説になると、その行數は、小説の大部分になつてゐる。賢明な表現法ではない。心理描寫も、もうこれからの小説には、古い、冗漫なる手法ではないだらうか。
 動くといふ上には、どうしても、内面的なものと同時に、形によつて、動いてみなければ、根からの動きにはならない。
 たとへば、時に、十七字詩の形をやぶつてみる俳人の試練のやうにも。
 私は、自分の小説を、より動かしたい。實をいふと、私にも、私の書きよい文章の型があるが、そんな書き易い點に得意がらないで、實質的に、小説そのものの機構を、表現を、より突きすすめて、從來の法定式から踏み出したい。
 たくさんな行數を、心理描寫などに費やさないで、もつと、ぴんと感じるやうな表現を。
 又、構想を、題を、テンポを。――といつても決して、奇を好むのではない。讀者を驚かさうなどといふ氣持ではない。どうしても動かずにはゐられない大衆と共に、時代小説も、徐々と、歩を共にして、研究して行かうと思ふのである。

 小説家は、何の書を讀み、何を學び、つとめてどう心がけたらよいか、と質問した弟子に對して、山東京傳は、
あさることいやしく、選ばず、芥溜ごみだめの汚物もいとはず。捨てること惜まず、こだはらず、八百善の料理の粹を選ぶごとくす。
 といつた。

 けふ迄、ほんとの意味で、大衆文學批評があつたかといへば、私は、無かつたと斷言する。
 偶々、大衆文學に對して、それらしい筆を向ける記事も、多くはいたつて概念的な惡口か、揚足とりでしかない。
 甚しいのは、批評家が、あまりものを讀んでゐないことだ。讀まない批評家が批評を書く。また、或る感情を持つてゐる純文學と稱する人たちが、歪んだ尺度と、狹義な文學至上をもつて、徒らに漫罵する。
 だから、正しい批評は、大衆文學にはなかつた。又、作家は、本質的な人ほど、不言實行で、ただ、よりよきものを書きつづけて來た。
 これからは、大衆作家とならんで、大衆文學批評家としても、正しい見識と、批判力のある人ならば、一家をなすことができるだらう。
 だが、從來の狹い文學尺度ではだめだ。讀むことも、常識も、より以上な、努力と理解が必要だ。

 僕だけの解釋として、僕は、かういふ持論である。
 藝術は、ふたつだ。
 個の藝術か、衆の藝術か。小乘か、大乘か。かう二つの道しかないと――。
 西行の生活、芭蕉の心。
 また、柿右衞門の藝術、竹田の孤寂な精進。
 あれは、個だ。
 個の藝術だ。
 個の藝術は、他人の批判の容喙をゆるさない、絶對なもの。同時に、自己を掘る深さに於いて、哲味に於いて、藝術の核へ、わき眼もふらない。
 これこそ、純粹藝術といへるものである。
 だが。
 百人か、千人か、どつちみち、限られたグループにのみ解り、その範圍だけを目標とするやうな狹義な文字運動は、やはり、個である。
 然し、今日の純文學と稱するものは、いはゆる純ではない、ほんとの個ではない。やはり賣らうとし、讀まれようとしながら、個と衆のあひだに、彷徨してゐるのだ。
 なぜ、いつまで、ふるい、狹い、文學青年的な考へから離れて、衆の文學へ、あの人達は、努力する氣になれないのか。
 大衆は低い――
 と、その人達は、蔑むが、私は反對に、大衆とは大知識のことだと思つてゐる。
 でなければ、社會を背にして、柿右衞門となり、芭蕉となるべきだ。
 さうだ。
 つまり數寄屋の藝術か、高層建築かですね、と中村武羅夫氏が、うまい比喩をしてゐた。

 大衆的に扱はれた史上の人物として、一番古いのは先づ將門であらう。尤も、その前に、素盞嗚尊、聖徳太子などが取扱はれたのがあるけれども、これ等は餘程豫備知識を必要とするからむづかしい。作者自身も亦大いに勉強しなくてはならぬ。中里介山氏の「夢殿」といふのは厩戸皇子を書いたものだが、古いものは實にむづかしい。一體日本の古い歴史を語つてゐる古事記といふものは、日本人にとつて非常に重要なものであるが、日本の民衆の何割が古事記そのままを讀むかといつたら、何パーセントにも出ない。恐らく一萬人に一人ゐるかどうか、僕は徒らに民衆の手の屆かない古事記でなくして、所謂あの古事記の中に持つてゐる僕達の祖先の姿、それからあの當時から今日の僕等の血液にまで傳つて來てゐる日本人の精神、つまり民族的な血液、さういふものをしつかとつかんで、もつと民衆的に書けないものか――これは、始終考へてゐることである。僕は本當の日本的な大衆作家といふものがあるならば、それが出來ても出來なくても、自分の仕事の一つとして持つて居なくてはならないと思つてゐる。

 僕は前にはよく隨筆を讀んだが、此頃は傳記をよく讀む。僕は傳記に對してかういふ私見を持つてゐる。
 それは小説なり歴史なりの上では、その一人の人物に對する書き方が、どうしても抽象的部分的である。ところが、傳記は生れた發足からその人の最後までが一讀できる。そしてその人の生涯といふものを通じ、その人の途中でしてゐることが、その人自身の信じてゐることが結果に於いてどうなつたか。總てのものの結果といふことが、傳記には總決算されてゐる。そこが非常に讀んで面白いし、さうして僕等の反省に非常に益するものだ。
 それから或る人物を批判しようとする場合には、敵方に廻つた人の傳記も詳しく知らなければならぬ。それは一つの人物傳の觀方ばかりでなく、歴史全體を觀る時も、正しい客觀をしなければならんと思ふ。歴史を辿つてゐると歴史の中に引き入れられてしまふ。しかし歴史には多分な錯誤があり庇曲がある。それを直ちに信じてしまふといふことは危險である。
 だから僕は作家といふ立場からすると、歴史は非常に忠實に讀む。忠實に讀み、尊重もする代りに、同時に歴史といふものを、何といふか、輕くも見る。馬鹿にするというては語弊があるが先づ輕く見る。といふのは歴史の總てが眞實でないといふことと、これはやはり人が書いたものである、歴史家は色々な場合に總勘定をしたがる、決算報告をしたがるといふ點からである。
 例へば、大阪落城から徳川の初期に移る大阪落城の次の頁をめくつて見ると、もう徳川幕府の時代になつてゐる。壇の浦で平家の一門が亡んだといふと、もう次の頁からは源氏全盛時代で、その間の移り行く世相といふものは何にも書かれてゐない。
 所が人間自體の本能を考へて見ても、人間といふものはどこまでも生きよう生きようとする。だから、壇の浦で平家の總ての人間が必ずしも死んでしまつてゐるわけではない。大阪落城で豊臣方の總てが沒落したわけではない。飽くまでも自分たちの勢力を挽回しよう、自分達の持つた文化を再び世の中に生かさうといふ考が、殊に武士階級には激しい。だから、壇の浦の次がすぐ源氏時代になつたり、大阪落城の次がすぐ徳川幕府に入るといふことは非常に不自然で、ここに大きな餘白があるわけで、その大きな餘白が僕等作家にとつて最も面白い所なのである。
 所が歴史家はここは厄介だから口を拭つてしまふ。又實際厄介でもある。然しそこが人類の文化史に於いて、最も複雜である、又最も面白い所ではあるまいか。これがわれわれ作家から見ると、歴史家に對して最も大きな不服でもあり、或る意味から有難いわけでもある。詰りさういつたやうな要所々々の餘白に對して、僕等は必ず零細な埋もれたものを拾ひ上げて、ここに僕等だけの世界を作り上げて行くのである。
 一面歴史家にはつきり書き過ぎて貰ふと、僕たちは全く手も足も出ない。例へば傳記でいふと、頼山陽などを若し書く場合――普通傳記では、可なり細かく分つてゐる人でも、大概年譜位のものであるが、それが頼山陽に至つては、月譜といふよりも日譜がある。例へば五月二十四日なら五月二十四日に、どういふ友達が來て、夕方どこの會へ行つて、晩には誰が來て、翌日は誰が來る、どこへ御見舞に行つたといふことがはつきり書いてあり、その時の食ひものまで分つてゐる。かういふのになると、あまりに餘白がなくて、吾々としては全く困つてしまふ。
 僕は「梅※(「風にょう+思」、第4水準2-92-36)の杖」といふ、頼山陽のお母さんのことを書いたことがあるが、さて書き出して見ると、今云つた何日にはどこへ行つて、何日にはどうしたといふことが分つてゐるから、事實を書くにしても、小説として二進も三進も行かない。嘘も書けない。そこで旅先などで書いてゐる場合には、參考書といふものに非常な不便を感じる折が偶々ある。

 小説と史實の關係――これは可なり面倒なことで、最近、僕の書いたものでも問題になつたから、此際一言しておくが、一體史實なんといふものは、どこまでが事實か分らない。假にどこかに行く途中で、一つの事件を或る三人が見て來るとする。偖て、後で三人が各々その觀察を述べれば、そこにもう喰ひ違ひが出來て來る。
 例へば櫻田の事變の時でも、井伊掃部頭の駕籠へ一齊に切り込んで行つた瞬間、あの事實を隨分多勢の人が見てゐる。松平出雲守の窓からそこの家臣が見てゐたり、それから又往來の者が見てゐたり、あの邊にゐた葭簀張の親爺とか非常に澤山のものが見てゐるのである。それを後で幕府が、當時目撃したといふ人間に皆書き上を出さしてゐる。その寫本を僕は持つてゐるが、それを皆照し合せて見ても、結局に於いて皆違ふといふことになつてゐる。
 掃部頭の駕籠へ切り掛る前に、合※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、173-8]に短銃を撃つてゐる。それを關鐵之助が撃つたんだといふものもあるし、森五六郎だといふものもある。誰だ彼だというて、同志の中でも四人も違つた名前を擧げてゐる。それで結局に於いて、後の記録方が色々なものを綜合して、まあ誰々だらうといふことに決定してゐる。
 しかし、小説を書く場合事實を拾ひ上げるに、若し事實といふものの價値を非常に極端に考へ過ぎたらば、所詮いい小説は書けない。さうかというて事實を輕蔑したら絶對にいけない。どんな空想にしても、それは正確に事實は事實として究明して、さうしてあらゆるものから推理的に突き進んで行く。つまり事實でなければならないといふ把握がなくてはならないと思ふ。
 その基準は、要するに小説といふものは、讀んでゐる讀者の心理が、これは嘘だといふことが頭にぴんと來たら、その小説は失敗と思ふ。だから作者がどんな空想を書いても、讀者の頭の中には、どうあつてもこれは事實であるといふ感じを持たすことが、小説といふものの一つの使命というてもよいと思ふ。

 僕は歴史上の人物、故人といふものは決して死んだ人でないと考へてゐる。何時でも今日の社會の状勢に應じて、つまり聲をあげて呼べば、歴史上の人物といふものは地下に生きて來て日本の文化を手傳つてゐる。平易に具體的な例にして言へば、濱口内閣が非常に節約政策を採つたといふ時には、二宮尊徳が民衆の間に甦つて色々なものに書かれたり、もて囃されてゐる。それから歐米文化主義が發達し過ぎて、少し日本固有の文化を自覺し直さなければいけないといふやうな時には、楠木正成とか、最も日本精神を具體化した人が史上から拾ひ上げられて民衆の間に讀まれて來る。少し唯物的に人間の生活があまり騷がしいために、考へる暇もなくなり過ぎたやうな反省の状態。

 さういふ觀念の上から、今日大衆小説を書くにも、民衆の血液の中に入つて行つて、生きて行くものでなければならない。人物を拾ふ場合には殊に然りと思ふ。
 例へば、數年前、僕が宮本武藏といふものをなんで拾ひ上げて書いたかといへば、その當時の、思想の流れを考へてみると、所謂ニヒリズム、リベラリズム、さもなければ極端にどつちかに偏した思想。その眞中にどうでもいいといふ全然無思想といふ潮流もある。しかし今日民衆の中に何が一番缺けてゐるか――小説を選ぶ前に考へて見ることは先づこれである。すると前に述べたやうに、信ずるといふことが一番缺けてゐると思ふ。つまり自分を信じ、人を信じ、自分の仕事を信じ、自分の今日の生活を信じて行くといふやうな信念が非常に弱いと思ふ。それからもう一つは、さつき云つた希望の世界、それからもう一つ考へられることは、人間が非常に理智的になつて來てゐることだ。僕等の遠い過去の中には、もつと今日にあつて欲しいやうな強さ、強靱な神經。今日々々をもつと希望と力を持つて歩いて行くといふやうな生活力。さういつたものがあつた筈だ。それが今日は可なり稀薄になつてゐる。
 だから、今日の文化に對する反省として、僕等が今日忘れてゐる神經を持つてゐる人間をここに持つて來れば、僕等の神經が覺める。さうしてそこに小説としての興味と、生活の上での意味と二つを持つて來る。かういつたやうな目的を以て、僕は、宮本武藏なんかは理想的な人間だと考へて選んで行つたのである。
 然し、理論的に説明しなくても、大衆作家といふものは、いつも絶えずさういつた注意を持つてゐる。謂ゆる勘である。時には勘で失敗することもある。例へば僕が「貝殼一平」といふ小説を書いた時は、愈々本格的なものが行き詰つて、この次に來るものは長い時代でなくても、ユーモア時代が來やしないか。又ユーモア時代が欲しいといふやうな氣持から、ユーモリストを主人公にして書いた。所がこれは、結果に於いて僕の勘の方が少し早かつた。大概一年か二年は早いのが普通だが、それが餘り早過ぎると失敗になる。一歩前といふ所が丁度よい。
 結局、大衆作家が最も時代感が鋭いといはれてゐる。然し、先へ先へと逸るばかりではいけない。大衆文學の本旨といふものは反省の文學でなければならぬ。文化といふものは、唯さう前へ無自覺に出ることだけが進歩ではない。本當の進歩といふのは、そこに何時も正しい反省がなくてはならない。その反省は、僕等の過去の文化といふものを絶えず振り返つて見て、さうして新しくて健全な認識を、自分の生活の中に注入させて行く。現在の文化と同時に、過去の文化を振り返つて、兩者を渾然と、自分の正確な批判の中に入れて、これを調和し、篩をかけて、さうしていいものだけを自分自身に吸收し、堅實に前に出て行くといふのが、本當の進歩だと思ふ。
 その點から、僕自身の考へ方なり著述なりを、一部の批評家が「強烈な保守主義だ」といふやうなことを書いて居つたが、僕は決して保守主義ではない。大衆文學は反省の文學だと自覺してゐるのだ。若し反省といふものがなく、徒らに尖端を狙つた輕佻浮薄ばかりを全部としてゐたら、日本の文學は片跛で、極めて不健全なお先走りのものになり終つてゐることと思ふ。
 この信念を以て宮本武藏のやうな小説を書いた。

 昔の封建制度といふものの中にも、文化的に非常にいい所があつたやうに思ふ。今日はあまりに都市中心になり過ぎた。都市中心、中央集權になり過ぎた文化の下では、文學、美術、工藝、個々の僕達の生活の細かいものに至るまで、總てが都會のものでないものはない。例へばおけさ節といひ、小原節といつた所で、今日のおけさ節は越後のものではない。小原節にしても小原の郷土のものではない。あれは東京の歌になつてしまつてゐる。古くから持つてゐる各地方の郷土的のいいものは、各戸に傳はつてゐる固有の美術に至るまで、皆中央に集められてしまつた。そして、各地方には最も幼稚な印刷物だの、安つぽいレコードだの、さういつたものしか返されてゐない。だから地方に於いては、文化が封建時代よりずつと低下してゐると見ても誤りでないやうだ。即ち都會だけが爛熟して、一つの腦充血みたいな形になつてゐる。漢方醫にいはせると、頭寒足熱といふのが健康體だといふが、日本の文化の姿からいふと、今は頭熱足寒になつてしまつた。
 これを封建時代の文化に飜つて反省してみると、例へば水戸に行けば、文學の方面には藤田東湖とか、美術の方では立原杏所だとか、經學の方では誰だとか、皆それぞれの人物がゐる。又藝州藩なら藝州藩だけの一つの學系もあり、文學もあり、美術もあるといふ風に、各々が一つの分野を境にして、劃然とした文化の特色を持つて競ひ合つて、結局に於いて全體的に充實してゐる所がある。今都會を除いた日本では、さうした特色がだんだん失はれて行くといふことは、迚も淋しいことである。
 その中に於いて僅かながらも、めいめいの郷土に持つてゐるものを再檢討してゐるのは大衆作家である。
 由來日本の國民性といふものを見ると、郷土愛と、それから、僕達にいつまでもいつまでも繋がつてゐる歴史性がある。この二つを破壞しては、日本の國民性といふものは殆ど成立たない。だから、一つの人物を見ても、歴史を見ても、郷土色といふものが非常な影響を與へてゐる。今日の文學といふものが、進歩的な文學に對して鋭敏であつても、さう云つたものを持ち得ない。郷土的な國民性と何かアツピールを持たないといふことは、非常な缺點だと思ふ。――大衆文學の總てといふことは迚も云へないが、少くも大衆文學の稍々優れたものと、常に心掛のいい作家といふものは、郷土性、所謂郷土文化といふものには、關心を多分に持つてゐると思つて居る。そこにも僕は大衆文學の特殊性があると思つてゐる。要するに、今日の大衆文學といふものは、一面、反省の文學であると同時に、郷土的のものでありたいといふことを僕は望んでゐるものである。

 いつも云つてゐるのは、結局に於いて勉強するといふことだ。僕はよく本を讀むといはれるが、しかし、新にする仕事にすぐ役に立てるために本を讀まない。人が見たら、こんな忙しい場合に何だつて縁も由りもない本を讀んでゐるか、といふやうな本しか讀んでゐない。
 そして別に讀書の時間は持つてない。結局寢るときに、一册づつ持つては先づ寢床のなかに腹這ひになつて讀む。それは大概、現在してゐる仕事とは、殆んど縁も由りもないやうなものばかりだ。
 今讀んで今それを役立ててゐるやうなあわただしいことでは、實際に於いて間に合ふものではない。時偶人の使つてゐるのを見ると、如何にも消化されてゐないことがありありと分る。胃も腸も素通りして出てゐる。
 自分が目的もなく、興味で讀んだものは、何年か經つてゐるうちに、それは一體本から得た知識だか、自分に生れながら持つてゐる知識だか分らなくなる。さうなつてから、蠶のやうに手繰ると糸になつて出て來る。そこに價値があるのだ。所が多くの人はさうではない。今讀んだものをそのまま出したといふのが多い。だから利用の仕方も小さく狹く、十分に消化もされてゐない。
 ここを讀んで何かに使つてやらうといふ氣で讀むのは、骨を折つて使つても、十行のものは十行、或は五行、六行にしか使はれてゐない。
 それから例へば、ある小説を依頼されたといふ場合に、それを書くため、それを調べるため急に旅行するといふ人がある。あれなんか僕は凡そ意味はないと思ふ。何故かといふに、長崎なら長崎を書く場合には、長崎を實際に知らなくても、長崎については有ゆる文獻がある。切支丹の歴史もあれば、長崎の貿易史もあり風俗史もある。有ゆる長崎の歴史を坐つてゐて幻想することが出來る。その幻想を捨てて、自分が實際長崎に行つて、長崎に現存してゐる文化の中へ沒入したら、却つて分らなくなつてしまふ。
 それから小説なんか書く場合に、誰れそれのことは何處そこへ行けば分るからというて旅行しても、そこで聞いたり何かすることで頭が一杯になつて、肝腎な作家として興奮させる頭の餘地がなくなつてしまふ。だからさういふことを調べるのもいいが、それを直ぐ明日から書くのに使ふといふ目的の下に調べたのでは面白くない。興味をもつて讀むといふことでなくてはいけない。僕が本を讀むのはすべて興味だ。だから何でもいい。陶器の本でもいいし、書畫骨董の本でもいい。興味に觸れたものを讀んでいつでも面白い。それだから、僕は割合に努力しないで、面白かつたなと思ふだけで、それがいつか役に立つ。
 それから今の人は根氣が足りない。それについて僕が親父に叱られた思出がある。僕が山の手に移る前に、下町の隅田川のほとりに住んでゐた。朝夕隅田川を眺めてゐると色々なことが想像される。さうして、唯漫然と、東京の中に流れてゐる隅田川だけを書いて居れなくなる。隅田川を一つ研究してやらうと思つて、隅田川に關するものを調べにかかつて、半年だか一年だかそればかり調べた。親父がそれを見て、「お前この頃勉強するが、何を勉強するのか」といふので、「隅田川を勉強してゐる」といつたら、「馬鹿なことをする奴だ」といつて叱られたことがあつたが、親父が死ぬ前に「彼奴はあれで何をして生きて行かれるか」というたさうだ。親父にとつては非常に嘆じられたことであらうが、結局に於いて、それが色々な場合に、非常に役に立つたことは勿論である。

 これから僕が書きたいと思ふ人物は、漫然とした考だが、織田信長があるし、曾呂利新左衞門がある。平將門がある。それから三人一緒には書けぬけれども、勝海舟と山岡鐵舟と高橋泥舟、この三人を通じて、維新から明治への文化の遷り變りといふやうなことを書いて見たいと思つてゐる。
 織田信長や平將門を書きたい氣持は、要するに日本文化の過渡期に於いて非常に特殊な存在であるからだ。
 それから曾呂利新左衞門は、あの時代の成功者の代表だつた秀吉と反對の側を代表してゐる。詰り同じ時代に出發をして、同じ時代に出掛けて行つた人間の運命律といふものが、秀吉のやうにトントン拍子に行く場合と、反對に行かない人間が居るべき筈だ。今日の社會でも――さういふ脾肉を嘆ずる不遇な人間といふものは何日の世の中にもある。さういつたやうな不遇な人間の味方になつて、秀吉の裏を書いて行く。さうして晩年になつて、とにかく一方は人臣の榮を極めたのに、自分は斯く不遇であつたといふ時に、そのまま失望してしまつたり、詰らない生活に凋んでしまはない。逆境に行つた人間でも尚ほ且つこの世の中を樂しんで、しかもあの秀吉の頭に乘つかつて行つたといふ、この負けた人間の價値を書いて行かうといふのが、曾呂利新左衞門を書いて見たい趣旨であるが、果してうまく書けるかどうか。

 いはゆる現代小説と時代小説との間には幾分か讀者の分野があるらしい。また文化に對する各々のもつてゐる使命からみても相違があると思ふ。文化の進歩相に對して、批判、助成していくのは現代小説のもつてゐる一つの分擔だと思ふ。從つて現代小説は、さういふ圈内にゐる、都會的な、比較的新しい文化の要素の中に生活してゐる讀者には、非常に支持されてゐる。文化といふものはそれ自體性が休止なく進んでいく――生活を進展させていかうとする性質をもつてゐるから、日本みたいに感受性の強い文化と國民性の中では、殊にそれが慌しく發程の經路を辿つて來た。
 文學などもさういふ中にあつて、ある場合には取捨反省する暇なく、どういふ傾向でも新しい要素を帶びたものを、無選擇に採り入れて來過ぎた嫌ひがあると思ふ。さういふ弊害は純文學と、いはゆる現代小説のうちに隨分あつた。時代小説といふものが非常に反文化的な形態をもつて、尚その間に今日のやうに擡頭して來たといふところには、やはり進歩的な文化の中にあつて、さういふものもなくてはならないといふ必然的な使命を帶びてゐると思ふ。
 それは何だといふと文化に對する反省といふことである。僕らの否でも應でも刻々に前へ押出されていく形式の、物心兩面の生活が、堅實な反省を持たずに、唯流行的な主張や科學的進歩にばかりのせられて駈足になつて行くことは非常に危險があると思ふ。いつも進歩の中に正しい反省を持ち、飜つては自分たちの過去に持つてきた本質的な物を失はないで、新しい影響との調和を根念として行く所に、本當の堅實な進歩がある。さういふ點で、いはゆる大衆小説の中の時代物は、文化に對する一つの反省の文學だと思つてゐる。例へば、特に今日の文化的民衆の間には殺伐だといはれたり、餘りに復古的だといはれたり、また退歩的だと見られたりするやうな封建的な人物、道徳、時代相などを書くうちに、人物には宮本武藏のやうな劍客とか、股旅的人物とか、また戰國の鬪將連が登場する。然しこれは單に、今の近代生活からロマンチツクにだけ眺められてその興味だけが讀者をつないでゐるものではないと思ふ。
 僕の信念では、近代文化人といふものは非常に鋭感になつて、知性が細やかになり、リアルに聰明な、いはゆる知識人を民衆の基礎としてゐるやうになり、これが文化の進歩の如く見えるが、人間の知性が生活の眞理を追つて知性的に進歩すればするほど、文化といふものは末梢的に繁茂して行く。一見それが非常に近代文化の進歩かのやうに見えるけれども、末梢になればなるほど、人間の原始に持つてゐた生命力が稀薄になつていかざるを得ない。例へば萬葉文學が今日から眺めて、そこに人間の生地の艶があつたり、遠い繪畫、美術、わけても建築などに於いて、近代科學が驚嘆のみしてゐるといふやうなことは、末梢的にのみ進歩して來て生命力が稀薄になつて來た文化人の自白に外ならないと思ふ。
 大衆文學が最も力を入れていいと思ふ點は、前述の反省と、衰弱し末梢的になり易い生命力に對して、絶えず逞ましい、またこの國體に適つたところの國民性――獨自性を嘆いて甦へらせていくといふところに、大きな役割があるんではないかと思ふ。

 外國文學がその國の民衆に對する關係とちがつて、日本の文學では、特殊な國民性といふものから考へて、郷土愛に對する郷土史といふものが、大衆文學の仕事として見逃せないものの一つであると思ふ。
 日本人ほど郷土に對する愛著、また郷土から受ける影響を強くもつてゐるものはないと思ふ。さういふ點で現代小説は、比較的に日本の郷土、殊に地方文化に對しては置き去りを食つてゐる。これを時代小説から取材する場合には、その採る舞臺、人物、時代といつたやうなものから、郷土と密接に讀者と共感することができる。大衆文學が民衆に支持されてゐる原因の一つには、その點が可なりあると思ふ。そして日本の國是としても、國體觀念の自覺といふことは政治の根本になつてゐるから、國民性のうちには必然に、日本人といふ血液的な自覺が、外國のどこの民衆よりも強いと思ふ。
 この血液的な自覺をもつてゐる讀者に對する文學の影響を考へてみると、非常にデリケートな考證が、科學的に多分に考へられて來ると思ふが、そのうちの一例としても、都會文化の中に住んでゐる都會人にしても、郷土の話、それから自分の父母系の話、さういつたことになると、誰でもひとくさりの、ロマンチツクな又誇りに近いやうな追憶をもつてゐて、現實の中にある自分とのつながりを可なり濃厚に持つてゐないものはないと思ふ。
 時代小説の取扱ふ世界が知らず知らずにさういふ血液的な環境を叩いてゐることも、比較的單純に無自覺に、さういふ要素をもつてゐる大衆に聲援されてゐるところから、大衆文學の愛好者は一と口に「低俗」だと言はれてゐるらしいが、この「低俗」といふ言葉は文學者たちがどういふ角度から言つてゐるのか知らないが、小説の讀者はどんな人々かを考慮するに當つては、この低俗といふ言葉を愼重に吟味して見なければならないと思ふ。單に獨善的な文壇意識から、調子の高い文學が解らないからさういふ讀者は低俗だとするのなら、これは非常に單純すぎる解釋だと思ふ。
 廣い社會人として相當な事業に從事し、知識に於いては可なり高い人でも文學に對しては全然低い解釋しか持たない人もある。それは文學者が事文學に對しては非常に賢くても、他の社會面においては、まるで子供みたいな幼稚極る知識しか持ち得ない人が多いのと同じで、理解者だけに對して文學するといふ特殊な節操をもつて足れりとする純文學者ならば問題は別であるが、全般的に大衆文學も純文學も通じて、文學者も社會人でなければならぬ。また文學は一部の理解者に支持されるのでなく、國民の支持にのつて成り立つ文學でなくてはならないとするならば、從來の文學者が、徒らに己れ高しとして言つて來た「低俗」といふ民衆に對しての無禮なる言葉を、一應文學者自身が自省して、眞率に考へて出直さなければならないと思ふ。

 實際問題として、從來の新聞小説には一つの定義といふやうなものがあつて、執筆者は觀念的に色々な定石をもつて臨んでゐた。例へば、毎日の切りには無くもがなのことであつても、何か翌日に引つかける宿題を殘して置くとか、二人、三人といふ人物が三日に亘つて、同位置で長い會話が續くともう讀者は讀まないとか、エロチズムが讀者を喜ばす常備藥だといふやうな常套手段の手法を、新聞小説の鐵則かのやうに考へてゐるらしいけれど、さういふことが餘り常識的になりすぎてゐるために、近年の新聞小説の振はない原因も來てゐると思ふ。
 宮本武藏なんかの場合においては、あの小説の構成を分解してもらふと、その中にさういふ定石を打破してみようといふ自分の試みが、隨所に實行されてゐる筈である。前に擧げた三つの例なども意に介さずに書いて來てある。例へば武藏といふ一人の人物が病んだ足を引きずつて山巓に登つて行くといふだけのことを、作者として讀者の氣持を非常に危險に感じながらも四日間書いてみたこともある。そんな場合でも作家の意※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、192-4]と小説中の人物の意識が強く讀者に映つてゐる場合は、讀者も一緒に默々と山を登つて行くやうについてくる。一人の人物が山を登るだけのことだから會話も事件もないわけである。かういふ事は從來の通俗小説でも時代小説でも全然とんでもない冒險の筈である。してみると、從來の新聞小説に對する作家だけの決めてゐた定石的手法などといふものも、改められなければならない點が澤山あると思ふ。これは純文學から出て來て大衆作品を書かうとする人も、これからより以上大衆文學を開拓して行かうとする人も、ここに發見をして行かなければ、誰が書いたつて類型的な物ばかり出來て行くのだと思ふ。
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 勇氣といふものは、いはゆる生死のさかひとか、非常なときにだけ奮ひ起されるもののやうに、自分なども常識づけられてゐたが、ふと大原幽學の傳記を見てゐるうちに、むしろその必要は日頃の何でもない中にあることを教へられた。
 それはかういふ話である。
 天保初年時代のことだらうと思ふ。彼の出身は尾張藩でそこの家老の子であつたが、劍道、儒學、神道、佛法、あらゆる修行の迷悟を踏破したのち、中年思ふところあつて、常陸の香取郡に落着いてゐた。そしてひとつの教學塾をひらき、今でいふ地方文化の啓蒙にあたつてゐたのである。
 或る時、塾生のひとりの家が、他へ移ることになつて、先祖傳來の古家も、そのまま毀してほかへ建て直すといふので、同門の者がみんなして手を借してゐた。
 ところが最後に、ちと運び難い物が一つ殘つた。捨てて行くには惜しいし、さりとて運ばうにも、始末の惡いものだつた。
「どうも、かうも、ならんなあ」
「埋めてゆくしかあるまいて」
「だがそれも、勿體ないし」
 よほど持て餘したとみえて、大勢はそれを取圍んで空しく腕を拱いてゐた。なにを噪いでゐるのかと、幽學が覗いてみると、それはこの家の者が先祖代々重寶にして來た糞甕くそがめであつた。
 かめの首に繩をかけてみたり、まはりを掘つててこを入れてみたり、いろいろ苦心してみたが、甕は根が生えたやうに土中に深く坐りこんで、引つ越すのはいやだと云はぬばかりに構へてゐるのである。
「ちよつと、退いてみい」
 幽學は前へ出た。
 先生の學徳を以てしても、これだけは何うにもなるまいと、一同が眺めてゐると、幽學は糞甕を股いで、甕のふちに兩手をかけた。
 うむと一つ力を入れると、甕は苦もなく拔け出した。實に何でもない事だつた。――しかしこの何でもない事に脅やかされて、片づける勇氣を缺いてゐる仕事が、われわれの日常にもずゐぶんあるやうな氣がされる。大原幽學は、無言のうちに、それを人々に訓へたものだらうと思ふ。
 古人は死んでゐない。これは私の信條である。時代は必要に應じて、生ける國民ばかりでなく、過去の偉人にいたるまで、これを時艱の中に、文化建設の中に、土中から呼び起す。動員する。
 秀吉なども今、いろいろな角度から、再認識されようとしてゐる。
 總力戰研究所長の飯村穰中將からふいに手紙をいただいた。自分の近著「太閤記」を課題として、研究所生の考察を集められてみたといふのである。その答案文を一册にコツピーされたものも併せて送つて下さつた。これは原著者として、今の指導的立場に立つ智識階級の諸子が、われわれの書く小説をどう讀んでゐてくれるかを知る上に於いて、また一部の讀書子が作家に求めるものの何であるかを知る點に於いて、作家にとつても貴重な教材となるものであつた。それについて自分も小感のひとつをここに答へてみる。
 秀吉の「孝行」だつたことは、誰をも異存なく同感させてゐるらしい。秀吉の親孝行は決して小説の構造ではない、史實である。子に目のない親の愛を、親ばかと俗諺にいふが、秀吉の母に對する孝養の篤さは、逆に、子ばかといつてよい程で、それは幼少日吉時代から晩年太閤となつた後までも變つてゐない。否、むしろそれはいよいよ深くなつてゐた。
 ――人間五十になつてもなほ親を慕ふ心のあるは孝行の至高である。
 と古人は云つてゐるが、秀吉の親思ひは、それどころではない。彼が日常孜々として小事に勵み、烈々と大志に燃えて働いたのも、その一面の目的は、母をよろこばせる爲にあつたといつても、決して過言ではないといつていい。それほど何事につけ彼は母のよろこびを見ることを以て自分のよろこびの第一にしてゐた人である。
 もし彼の少年逆境のころ早くからあの母親といふものをなくしてゐたら、或は、漂泊不定な一不良となつたまま、後の秀吉はなかつたのではあるまいか――とさへ私は考へるのである。あの中村の貧家と冷たい郷土を追はれて漂泊しながら、たえず郷土と母を忘れさせなかつたものは、彼の骨身に沁みてゐた「悲母の愛」であつたにちがひない。そして、信長に仕へる迄は、ずゐぶん世路に虐げられたり惡い環境の中にもゐたが、すこしも朱に交はつて朱に染まることなく、飽まで天質の良さを保つて行つたのは、ひとつは彼の個性にもあるが、また彼の胸には、常にその「悲母」が棲んでゐたからであらう。母を想ふとき、彼はどんな惡い環境につつまれてゐようと、「良き子にならう」と誓つて勵まずにゐられなかつたものであらうと――私はいつも秀吉をとほして秀吉の母の力の偉さを考へさせられる。
 信長の出先を川遊びの河原のほとりに待つてゐて、いきなりその馬前へとび出し、「わたくしを召仕つて下さい」
 と思ひ入つて動かなかつたといふ秀吉の奉公初めの事なども、近代人にはない氣魄である。學歴や手づるを力に理智的にふみ出す實社會への發足とは――その時代環境がちがふにせよ――いまの青年たちとは覺悟がちがつてゐる。
 あの場合の日吉の就職のしかたは、採用されるか斷はられるかなどといふ生ぬるいものではなく、死ぬか生きるかだつたのである。時まだ彼の年は十七、八歳だつたといふ。元より身なりも見すぼらしい一放浪兒にすぎない。まちがへば供の武將の槍先に突きころされる惧れは多分にある。國主の列へ駈け寄るといふだけでも、それは充分な生命がけでなければできなかつた。
 そのとき信長が、不愍に見て、
「召仕つてくるるが、いつたい汝は何の能があるか」
 と、訊ねると、日吉は、
「何の能もありませんが、ただ事あるときには、いさぎよく死ねる覺悟だけを習ひ覺えてをります」
 と、答へたといはれてゐる。
 この答へを含味してみると、そこへ出て來る迄の覺悟のほども充分に讀めるし、またその後の彼の奉公ぶりや、晩年の大志をも、よく一言のうちに吐きつくしてゐると思ふ。必死の聲とか、眞情のさけびとかも、時を過ぎれば、自ら裏切りやすいのが人間だが、彼は信長へ向つて初めて吐いた一言を、信長の死ぬるまでも、決して裏切つてゐなかつた。だから信長が秀吉を信頼した第一のものは、おそらく、
「彼は正直者である」
 といふ所にあつたにちがひない。その正直さをよほど見込まれてゐるのでなければ、秀吉のやうな大才の器は、却つて信長に忌まれる要素になつてゐたらうと思はれる。秀吉の同僚の諸將のうちで、幾人、さういふ禍に亡びた者があるかを數へてみても明らかなことである。
 秀吉といふとすぐ「出世」といふことばが聯想にのぼる。出世太閤記などといふ戯曲があるばかりでなく、從來の太閤傳がことごとく彼の立身出世とその才器縱横を誇張してゐるからである。「猿々」といふ蔑稱に甘んじながら、猿的な狡智をもつて、立身出世の梯子をあざやかに駈けのぼつた人のやうに、かなり權威ある歴史家までが肯定して來た結果である。
 秀吉にとつて、少し心外な解釋だらうと思ふ。むしろ彼は、破格な昇進などをつねに警戒してゐた方であらう。信長の寵が加速度に加はつてゆくほど、よほど戒愼してゐなければ、あの中で無事を保つてはゐられない。後年、彼が天下の諸將をつかふやり方を見ても、外交や戰の手口を見ても、決してそんな反省の足らない人ではない。大まかだが要心ぶかい。――ましてその階段を最下級の御小人組から踏み出す途中においては、一歩々々心したらう。或る場合は、餘りに早い昇級や信長の偏寵は、ひそかに迷惑と思つたほどではないかしらと考へられるふしもある。
 また、彼の偉大を、その發足から考へに入れすぎて、秀吉自身が、若冠のときからすでに、天下に志があつたやうにいふのも、決して眞に觸れてゐるものではない。秀吉がまだ日吉の頃、信長の馬前に身をひれ伏して、お小人こびとの端でも馬の口取りにでもお召仕ひ下さいといつたあの叫びは、正味正直、それを最大の希望として訴へたものに違ひない。そしてまた、草履取から上げられて、士分の端に加へられれば、それを以て、最大なよろこびとし、最大な恩と生きがひを感じて、奉公に誠意したにちがひがない。彼にも夢はないではなかつたが、いたづらに梢の柿を見あげて足もとの熟柿を踏みつぶすやうな愚はしなかつた。
 その證據には、彼はどんな職域に身をおいても、かならずその職域の人に成りきつてゐた。――成りきる! といふことは怖らく彼の職に對する信念の第一でなかつたかと私には信じられる。
 草履取の職につけば、飽まで良き草履取に成りきるのだ。臺所方の役人になれば、實に又とない臺所役人となつて心をくばり骨身を惜まない。普請をやらせても、使を命じても、一城を持たせてみても、その在るところの職域に對して、彼ほど他念なくそれに打込んでゐる人間は滅多に見られない。それを信長は觀てゐたのである。
 もし反對に、秀吉が、草履取につけば士分をねらひ、士分になれば一郡の將になりたがり、一郡の將に取立ててやればまた一城の主を窺ふ――といつたやうに、居る所の職に心がうすく、野心勃々の氣はいが見えてゐたりしたら――あの信長の性格としても、結局、秀吉に與へるのはその望むものとは反對な物を與へたに相違あるまい。
 いや信長でなくても、世の中とは、いつの時代でも、さういふ酬はれ方を示して來るのがどうも定則のやうである。

 古英雄にも運不運がある。
 あひにく、楠正成とぶつかつたので、三百年祭の伊達政宗のはうは、いつかうに頌揚されなかつたが、東北文化、東北産業、東北救民と、いくつもの問題が國策にのぼつてゐる時ではあり、とかく、ひつ込み思案な東北人の元氣を鼓舞するためにも、政宗はもつと現代に生かしてみたい人物の一人である。
 家康が、政宗を評して「膽剛大才」といつたが、かういふ先入主や、獨眼龍などといふ名稱が、かへつて政宗を過まつてゐると思ふ。線の太いことでは、元龜天正の大物ばかりにぶつつかつてゐる家康の眼にも、恐ろしい荒削りに見えたに違ひなからうが、謙信や信玄よりも、遙かに、政宗の性格や經綸は複雜であり、また、思想があつた。
 歐洲へ支倉六右衞門を遣つたことも、史書の多くが、彼の征服慾としてゐるが、事實は、文化使節なのであつたし、あの片嵎へんぐうにゐて、宗教政策に眼をつけてゐたなど、戰國そだちには稀れである。
 青葉城に、帝座の間をおき、瑞巖寺に王座をしつらへておいたなど、政宗のあたまには、將軍家はお人形だつた。何の時であつたか、家光をかう叱つてゐる。
「天下は、誰のものであるか、あなたは考へたことがあるか」
 朝鮮役の時には、自分の陣に、天照皇太神を奉安し、日の丸の旗さし物をさして働いた。士卒にも、日の丸を用ひさせた。一秀吉のために働くのではないぞといふ意氣がわかる。家光など、子どもに見えたのも至極である。
 君臣のあひだは、どこの大藩より濃かつたらしい。情義の美には、東北人特有な所もあつて、いい話がたくさんある。
 その一つに。
 家來の石母田景頼に政宗が急用をいひつけた。所が、陣屋の蔭にうづくまつて、なかなか使に立たないので、
「何してるかつ」
 と叱ると、
「惡路ですからわらぢを新らしくして參ります」と答へた。
 政宗はその心がけが非常に氣に入つたらしく、
「さうか、片方はわしがなつてやらう」
 と、家來と並んで一足のわらぢをなひ上げ、やがて出立させたといふことである。

 三餘堂の古書目録に、珍らしくも寂巖の書幅が出てゐた。キズ有、黒し、聯落としてある。黒からうが、何があらうが、東京の古書目録に、寂巖が出るなどは甚だ稀れである。眞僞はさて措き、早速、家人をやつてみると、三餘堂の曰く、實はあれは、目録の印刷の中に、もう望みてがあつて他へ讓りました、と。
 かう迅いのがゐるのだから、蟹の穴みたいな書齋にのみ引つ込んでゐる僕などに、物漁りなど烏滸の沙汰である。然し、先手があつたとすると、眞物らしいぞといふ氣持まで加つて、いまだに微かな惜みすら、心の隅に持つのである。
 詩は作つたらうが、自分の詩はとんと書かない寂巖だつた。寂巖のよさは、僧人にして僧臭のないところにある。然し、僕等のやうな若さには、まだあまり遠い枯淡でもある。そのくせ、ひどく親しみ深い魅力を感じさせられるのは、あの奇韻と高格な書のうちにもどこか、良寛のごとく、墨そのものに童顏の光りが和やかにこぼれてゐるからであらう。書も解さぬ僕のごとき若輩が、寂巖を愛すのは、その字文に立ち入るのではなくて、その人の膝へ、唐子のやうになつかしむ氣持なのである。
 大徳寺派の僧人の書は、江月といひ、清巖といひ、また澤庵のごときでも、共通した臨濟病ともいふべき類型をもつてゐる。茶室の構成といふものへ、意識的に調和をとり過ぎた爲であらう。横もの、一行ものの語句、すべてがその病根を語つてゐる。
 黄檗系の書風には、さほどの房臭はないが、やはり黄泉以下の教化の書を通じてみるに、劃然と、ひとつの色と匂ひとが、いはゆる一派の畑を爲して、ここにも僧人書の病がないとはいひきれぬ。好む人には、その病はむしろ愛掬するよさでもあらうが、僕ら、書解のない者には、野の聖の自然な慈顏に親しむのとは、まことに遙かな相違がある。藝術としても、むろん、茶室の爲の藝術よりも、後者の方が、價値のたかいことはいふまでもないと考へてゐる。
 良寛の草體などは、或物は、僕など淺學には讀めぬ文字が多い。僕は書を愛する場合、あながち、讀めると讀めないとは問題にしない。讀めれば、それに越したことはないが、讀めぬというて、あかの他人のごとくその書に親しめぬといふことはない。書は人である以上、或る程度まで、感覺的に向ひ合つてゐるといふ氣持でも結構である。良寛の草體などには、往々さういふのに出會ふ。
 けれど、無言の書も、朝暮對してゐると、いつか、物をいひ出してくるのもふしぎである。讀めてくるのである。ぽつん、ぽつん、と良寛の草字が、毎朝、一つぐらゐづつ讀めて來るのは、まことに樂しい。
 鞠をついてる手のやうな線、破れ笠でも抛つてゐるやうな點、良寛の書には、いつも大地の草の香と、蒼空とが感じられる。然し、僕が、良寛に對してもつと好きなのは、いとのどけく、まるで王朝時代の宮人でも書いたかのやうに、長歌などを認めた行楷の間の字である。わけて小判紙などへ書いた場合、著しく良寛の細字には氣品がある。さながら平安朝の貴族である。
 寒國の書で、良寛のやうに、素直な藝術は尠い。良寛の書を、藝術と見てはあたらないかも知れないが、とに角、ああいふ澄明と自然さを生活に持つことすら、北國の人には、めづらしい。
 山一脈を隔てて、一茶となると、いかに、彼の句境が樂天的であつても、到底、人世の慘苦と涙のない藝術ではなかつた。文字さへ、夏も凍つてゐるやうな筆である。みづツ洟をこすりつけたやうな一茶の書は、北邊の痩土と人とを、そのままな相である。
 越後に、良寛と雲泉のあるのは、九州文人畫と、京都の文雅に對して、誇れるものである。信州に春臺鴻山、象山あるも、なほ、山陽時代の京都の文雅に對比して、甚だ語るに足らない。信州人の誇る象山のごとき、むしろ惡書の代表的なものであらう。唯その人をとらん乎、僕は、生憎と、象山の仕事は認めるが、人がらも餘り好きでない。
 信州では、むしろ雲坪をとる。又、雲坪に藝術的な同情はもつ。然し畫績はまだ甚だ僕らの求めるものとは一致しない。果亭に至つては、直入よりましな程度だ。
 關東雅人のうちでは、餘り、書については語りたくない。徂來は、學究としても、書人としても、ひとかどではあらうが、感情的に僕はきらひである。白石と雖も同斷。かうなると、書を離れて、幕府、社會、儒者、權謀、よけいなことを考へ交ぜるためであらう。幕府の祿に狎れた人々の書は、見るにたへないのである。書に鑑眼のない素人は、これだから困ると古人はいふかも知れないが、さういふ見解でも書を見るの自由を、僕は、素人であるがために持てる。
 杏所の書は好きである。繪もこのましいが、書にも氣凛があつて、關東文人畫では、まづこの人に第一の愛執を感じる。
 杏所は、武士を捨てない竹田ともいへる。華山の奔筆には、全的に、彼の鬪つてきた人世の慘涙と剛氣とが迸る痕があるが、杏所は、士太夫の態度をいつも失つてゐない。彼がもし、畫にのみ、書にのみ、隱操の道へ方向をとつてゐたら、竹田にも劣らない深奧へ行つてゐたかも知れぬ。
 然し、恨むらくは、杏所には、詩がとぼしい。彼は士太夫として、詩作を避けたのではあるまいか。いや詩はその人の天禀の才であるから、つつまうとしてもつつめるものではない。やはり、杏所に一つ物足らないものは、詩のないことだ。
 詩のない點では、文晁はより以上である。畫題の如きでも、詩畫交響の面白さは、無視してゐる程缺けてゐる。もし、文晁に詩才があつたら、恐らくは、江戸文雅の精華は、ああまで、關西に奪はれてはゐなかつたらう。
 山陽の書、竹田の畫が、不滅の光をもつてゐるのは、詩の基調が、畫を生み、書を爲さしめてゐるからである。竹田の畫に、もしあの詩がなかつたなら――又山陽の書にもし山陽の詩がなかつたら――今日僕らのもつ魅力は殆ど半減する。いや、知己の光榮を得ないかも知れない。

 表面の歴史にはまるで出てゐないと云つていい位だが、幕末維新の底流には、女性の力も大きかつたのだ。もつと認めていいと思ふ。いはゆる内助、蔭の者として、女性が好んで外面へ出なかつたので、わづかに、奧村五百子とか、野村望東尼とか、祇園の侠妓とかいふ類の女性しか傳へられてゐないが、あの無數な犧牲となつた志士たちの、母性や愛人たちの苦衷は、實際、史上に殘された人以上のものだつたらうと想像される。
 又、朝に生れて夕方に死ぬのを、日々の心がまへにしてゐた當時の青年たちにも、勿論戀愛はあつたが、女性のはうはさういふ場合、むしろ男性以上の氣の強さを持つてゐなければ、あの中で戀はできなかつたらう。木戸松菊と幾松の例でもさうだし、ほかの妓園の妓たちでも、單なる職業婦人ではない情熱を示してゐる。青年たちの背には、常に、さういふ社會の女性やまた、純情な愛人の眼があつたといふことだけでも、彼等の正義をどれ程強くさせたかわかるまい。さういふ巷でなくても、女性の眼は男性の力へ常に拍車をかけてゐる。

 私の曾つて發表した短篇のうちに「鬼」といふ小説がある。
 寛文年間、津輕藩に於ける藩政改革とその治水工事に當つた一武士の業蹟を扱つたものであるが、現代の吏道精神にてらして、又、民衆と爲政者との推移を見たり、行きづまつた農村治策などの上からも、何か示唆するものがありはしまいかと思つて書いてみたものだつた。
 短篇の「鬼」は、云ふ迄もなく、脚色も加へてあるし、主人公の名も、わざと別名を用ひて書いた。なぜならば、その史料の主人公は、小やかな宮ながら、現在、神として祀られてゐる人だからである。又、その人の世に遺した業蹟と精神に對しても、脚色した小説に、本名を冒贖して、小説的興味の主役として躍らすことは、私の氣持ちとして、何となく古人にすまないやうに思はれたからである。
 だが、茲では、その史實のみを、單的に記録しても、充分賢明な讀者の翫味を得られるにちがひないから、主人公の姓名は元より、總て、藩史の素材のままを抄出しておく。

 青森縣北津輕郡は、面積約七十方里、現在二十三ヶ町村の沃土であるが、寛文延寶あたりから以前は、俗にその下流を十三潟といふとほり、縱横な河川と河原の荒蕪地で、一粒の米すらとれなかつたものであつた。
 あの附近の地名を見ても、それが推知できる。御所河原だの、十川とがはだの、浪岡だの、そのほか地名に「川」のついた地方が無數である。
 津輕藩は、表高僅か四萬六千石ぐらゐなもので、その上に、かういふ廣漠な荒れ地を擁してゐるので、藩政の苦境は、數代の君臣に亘つて、實に慘たるものだつた。
 で、その打開策として、北津輕の開拓は幾度となく、多大な工費と人力を賭して試みられたが、津輕半島を圍む陸奧連山の雨水が落ちる季節になると、岩木川その他無數の河川は堤を切つて、そこはいつも一夜で泥海に歸してしまつた。
 貧窮の藩中に、輕輩の士で武田源左衞門といふ者があつた。藩に乞うて、わづかな工事費を策し進んでその難事業の衝に當つた。
 源左衛門は、土民の中に住み、土民と共に喰ひ、寛文から延寶に亘る十數年間、殆ど、寢食を忘れて、土木を督勵した。
 だが、年毎に、洪水に襲はれ、農民の汗は、一夜で泥土に葬られた。農民は皆、彼を憎み彼を呪咀し、彼の身には常に、暗殺の危險すらあつた。
 然し、源左衛門は屈しなかつた。自然に屈伏しないのみか、民衆に對して、更に酷烈に臨んだ。藩の吏をもつて任じる彼の手には、常に、怠惰な者を打つ鞭がにぎられてゐた。
 彼は農民から「鬼」とよばれた。然し鬼は遂に北津輕の大自然を征服した。彼の大業がほぼ完成した翌年の初夏は、今までの荒蕪な河原は、青田のそよぐ豐饒な沃地と變つてゐた。
 農民は、祭りをした。豐年祭りに躍り狂つてよろこび合つた。その一日、武田源左衛門は、多年苦役に服さしめた土民たちをこぞつて呼び迎へ、私財を拂つて、これに馳走を施した。
 そして彼は、民衆の前に立ち、深く謝して云ふには、今日までの無慈悲は、今日の慈悲のためにほかならぬものである。これでおん身達は、子々孫々までの安住と食を得、わが藩主もいささかこの開田かいでん新菜しんさいをもつて、窮せる臣下と藩政とを潤すことができるであらう。君への奉公は、又、民への奉仕である。兩者の間に立つて爲す、わが吏の道はここに遂げた。どうか、源左衛門が今日まで振舞つた鞭は、遺恨としてくるるな、ゆるしてくれ――と。
 農民は皆、號泣して、小屋の一室へ引き籠つた彼のすがたを追つて行き、外から戸を打つて、各々、かへつて謝罪した。然し、源左衛門はすでに、見事に、自刄して死んでゐた。

 今、北津輕岩木川村の丘の夏木立に圍まれてゐる貧しい一村社は、この武田源左衛門を祀つたのである。
 吏たるの道、又難い哉と思ふ。

 英雄には二種類あると思ふ。破壞的な英雄と建設的な英雄とである。破壞的な英雄は末路が悲慘な割合に、その生涯は非常に華やかであるが、建設的な英雄は反對に非常に理性に富んでゐる。總て破壞後の合理化のために、人間までが面白くなく見えるのである。
 頼朝と義經の二人が女性に對する場合でも、頼朝は政治上その他のことでも分るやうに、頗る理性家で、詰り情熱家ではない。政子との關係にしても非常にロマンチツクのやうだが、その實、戀愛の動機にもだいぶ北條氏との政策が絡んでゐる。しかも後になると、政子が頼朝を馭してゐるやうな形で、少しもそこにロマンチツクのところがない。
 そこへ行くと義經はちがふ。前にいつたやうに義經はどこまでも破壞的だ。新らしいものを建てる前に、古いものを破壞して行くといふのが義經の仕事になつてゐる。この仕事は理性家では駄目だ。むしろ情熱家でなければ出來ない仕事だ。さういふ情熱はやはり戀愛にも現はれる。だから義經と靜との物語など多分に詩である。殊に義經の女性の相手が大勢なかつたことが、われわれによい感銘を與へる。

 何かで人の寄つた後、酒の後とか茶話の後とかに、色紙が出される。短册にでも何かと求められる。
 わけて此頃は、趣味のある者ない者のけじめなく、そんな風潮が流行りのやうでもある。旅館に泊つても、一飯をたべに行つても、甚だしいのは講演會の控へ室に押しかけて來てまでも。
 こちらも句の一つも作らうといふ氣のある時なら知らず、迷惑は申すまでもない。然し又、實をいへば、旅先の忙しい中にも、案外、強ひられたが爲にまづい句の一つもできて、後ではなつかしいこともあるし、思ひやうに依つては、女給氏からハンケチにサインを乞はれるよりはまだましでもある。そんなつもりで私は、書ける暇があれば書く。
 だが、この揮毫家は無料であるから勝手は云ふ。半紙などへは御免かうむる。墨汁もいやだ。手帖など出せば出す顏を見てやる。旅館の畫帖などにしても、その中に自分のいやな人が先に書いてゐれば、所詮、書く氣にはなれない。
 五六名して屋島へ遊んだ時である。あそこには樂燒のかまどがあるので、高松市の觀光局だの、市の何だのといふ人たちが、私たちへ陶繪の具と素土の皿や銚子をたくさん持ちかけ、何でも書けといふので書き出すと、妓たちまでが樂燒屋から生地を買つて來て、後から後からと求めるままに、半日そこで樂燒屋になつてしまつたことがある。
 氣らくに何でも、乞はれるままよく書いてやる人は久米正雄氏、ぶつぶつ云ひながらも嫌と云へない人が菊池寛氏、書いてくれるんだかくれないのだか分らない間に書いてゐるのが横光利一氏、頼まれると欣しがつて、頼まれた以上丹念をこめて、目高だの、松の木だの一所懸命に書くのが村松梢風氏、きつと書かないで逃げてしまふのが大佛次郎氏――限りがないからもう止めるが、みんなその點も一風ある。
 潔癖に書かない人もある。いやしくもしない氣持である、たとへば死んだ泉鏡花氏のやうに。
 書かない人の心理をいへば、恥、それを思ふのであらう。文人として當然な潔癖である。まして色紙短册などにあらぬいたづら事が殘されるのは、死後までの笑ひ草をのこすに過ぎない。活字のうへの生き恥だけでもたくさんなのに、何を好んでぞやとも云へる。
 けれど私は、かういふ見解を持つ。
 何もさう心配することはいらないと思ふ。求めるのは一時の風潮や流行が求めるので、之を百世に保存するはずもなし、市塵の流れに任せてゆくのである。衆の眼と、永い時間は、その無數な反古を選擇してゆく。價値のない物はいつか捨て去る。そして、價値のある物だけが殘る。
 價値のある程の物なら殘されてもよからうが、僕等の惡筆がさう殘されてゆくはずもない。さすれば、いつかきれいに時が掃除してくれようではないか――と私はしてゐる。
 たとへば、鎌倉だの足利だのと、さう遠く遡らなくても、桃山以後の禪門その他の墨跡や繪畫にしても、どれほど今日に遺つてゐよう。春屋のゐた當時、春屋以上の坊主顏した坊主は雲霞の如くゐたにちがひない。澤庵の當時、澤庵何者ぞと睥睨してゐた禪骨はたくさんあつた。筍はみな竹になるが、墨跡はみな後世の鑑賞とはならない。
 光悦、宗達の藝術の世界でも同じである。四條派の發祥する時代、應擧、呉春なみの畫家を以て自ら任じた者はどれほどあつたか知れない。元信、探幽は選して、御用狩野の輩の幾人を今に遺してゐるだらう。いはんやその末の末に至つては。
 反對な場合もある。いやその方がむしろ多いだらう。たとへば、生前には一紙を求める人すらなかつたほど、無價値に見られてゐた田能村竹田を、いかにとはいへ、あの通りに勿體ながる。その詩、その畫心を、眞に味得するの知己はまだ尠いかも知れぬが、ともあれ雙軒庵の目録やら、百年祭やら、驚目に値するほど認め直す。
 明治初年版の俳人番附なるものを見ると、小林一茶などの名は、隅つこの方に小さく出てゐて、虫眼鏡で探さなければ見出されないやうな所へ置かれてゐる。當時の横綱格といへば、雪中庵某、夜雪庵誰、およそ今日、その名を知る人もなく、その色紙など、屑屋も買ふまい。
 そして一茶の筆といへば、幾多の僞筆家を養ひ、その日記は、著述家の半生を奪ひ、その句は、英譯され獨逸語にも譯されてゐる。
 かう觀じてくれば、僕らのすさびことなど、後世の恥を思ふなどが、すでに僣上な自己評價に過ぎない。求めらるるままに書いた所で、その場所その數も大した程ではないし、又、春塵去つて秋水に見ずである。
 ただ困るのは、難題をいふ人である。畫を描いて欲しいなどといふのだ。稀にではあるが、斷れない人などが殊にさういふ無理を云ふ。
 それにも私は易々として描いてやる。もちろん國民學校の兒童にも劣るまづさであることは云ふ迄もない。然しとにかく畫は畫であるから、ねだつた人も一應は首をかしげて、頗るあいまいな讃辭を云つて引きさがる。
 友達がよく云ふ。君は大膽だなあ。犬養毅は生前、あなたの書には實に蒼古な趣がありますが、いつたい宋元のうちの何に據つてお書きになりますので、と訊ねた人間に對して、おれは面の皮で書くよ、と答へたといふ話があるが、吉川君の畫は、犬養毅以上の面の皮で描くんぢやないか――などと云つてよく私をからかふ。
 さう私は不敵ではない。けれどすでに、色紙とか短册とかいふ形のものを、一時の戯れにせよ、興をもつて書くからには、前に云つたやうな見解と共に、畫に對しても、わたくしだけの考へはもつてゐる。
 元々、畫を描くといふ性能は、人間の誰でもが生れた時から持つてゐるものだといふ事である。原始人すら畫を描いてゐるのではないか。文字の方がむしろ後天的で知性である。畫は先天的に人間の官能にあるもので本能に近い。
 色紙といふ一つのいかめしい傳統的な形式――それを出されて、ひとつ畫を、と求められると、その形に恐れたり囚はれたりして、多少描ける手を持つてゐる人でも、まづ尻込みする、遠慮する、逃げまどふ。
 それは私にしても一應はよくやることであるが、考へてみると、さうした大人びた知性など、要らざるものだし、又自分にあるはずな折角の美の性能を、いよいよ盲目にしてしまふものだとも考へる。
 自分には畫が描けないものと、自分へ思ひこませてしまつたのは、誰でもない自身の智惠である。畫人の畫だの、生半可な美術を見る眼だのを持つたために、それに對して、その道の技法を知らない自分を、さう智能の中で、いつのまにか諦めをつけさせてしまつてゐる。
 又、人前の恥だの、笑はれまいとする心理だの、複雜な氣まはしも手傳つて、固辭することを當然にし、少しぐらゐ描けたとしても、再三再四、強ひられても猶、固くなる。
 ここに今ふと語録のことばや詩語を思ひ出せないが、わたしは田能村竹田が、その知性の邪氣に氣づいて、深く素白な稚拙に返らうと、生涯苦しんで畫のうまくなるのを嫌つたあの氣持が思ひ出される。
 竹田は題語や詩の中で、いつも呟いてゐた。畫が上手くならうなどとは思つたこともないと。そして自分の痴、稚、拙、鈍、さういふ生れながらの有の儘を、ただかざり氣なく出せたらいかにそれで自分は欣しいかと。
 だから自分の畫は自分が見ても實にまづい。けれどそれは、人に賣り人に娯しませるための畫として作るのではなく、自己が娯しみ、自分のために作るにすぎないものであるから、これでいいのだ――と。
 竹田は自分ほど才のない不器用者はないとしてゐる。彼が怖れたのは、その不才と不器用を、淺い小智惠でつつんで、上手らしく飾らうとする人間の誰にでもある――竹田自身にもある――その賢しげな虚飾であつた。
 で彼は、性來の稚拙や鈍才を、そつと幼いままに抱擁しようとした。それが竹田の畫であつた、詩であつた、又生涯であつた。
 竹田をひきあひに出したのは少し大それてゐるが、私とても思ふのである、もつと素白な氣持にならなければいけないのだと。まして戯れにひとしい素人描きなど、下手なのが當然であり、その下手をうまさうに見せる必要など更にないし、折角、乞ふ人がせめてそれでも氣がすむならば、筆と手と氣のうごくまま、私の畫はこんなですといふ程度に描いてあげてもいいではないか。
 竹田にさへ畫が描けたのに、私にだつて畫が描けないわけはない。わたくしはさう思ふのである。
 茶はやりませんと云つて、茶など知らないことをかへつて、近代人かのやうに云ひ誇る者もある。
 折にふれて、思ひがけない抹茶に會ひ、又、茶を好む人からふと招ぜられたりすると、ひどく窮屈がつたり、固辭に苦しむ人もよく見かける。
 さういふ人の氣持はちやうど、自分には畫が描けないと決めこんでゐる一般的な觀念と同じものだと思ふ。白い四角な色紙へ、その傳統と形におそれて、畫筆が落せないやうに、茶席の傳統と形に、敬遠を持つのであらう。
 わたくしも茶碗の持ちやう一つ知らない野人ではあるが、茶の歴史や大風流の生涯に徹した先人の心をひそかに窺つてみると、さういふ氣がねや、はにかみなどして窮屈がる小智は要らないことだと思ふ。道法の深遠や約束の作法の意義には、充分な尊敬も持ち必要も感じるが、もつと風流精神に大事なものは、有の儘なことではあるまいか。小智や窮屈を脱ぐことではあるまいか。虚飾から離れて素心になることではあるまいか。さう信じてゐるので私は、多忙のため今猶、茶の約束や道法は知らないが、茶を窮屈なもののやうに思ふ人みしりは少しも覺えない。むしろもし徒然の折に一服のすすめにでも會へば、その好意を迷惑に思ふどころではない。茶に達した人と、茶を知らない者との一席も、ひろく觀じればやはりこの世の一期一會にちがひないのである。知らないものは仕方がないから知らない儘に、ただ素直に常識だけで先の心をいただけばいいと思つてゐる。たとへそこに名工の釜、名匠の茶席がいかめしく構へられてあつても、ただ有體に、馳走になるぶんには差支へないと思ふ。もちろん、色紙の中に致す私の素人畫と同じ筆法にそれも起ち居するほかないが、雅を亂さぬ程な動作は、ふつうの生活常識で間に合せる。さういふ氣易さなら誰でも親しめよう。親しんでからの深さは分つてくるのである。此頃はやや一般にもそれが解りかけて來たらしいが、まだまだ、茶と實社會との通念は、ほんとに結ばれてゐるとは云へない。そのくせ私たちの日常坐臥、家庭の中の器物建築、茶にかかはりなく、茶の影響のない物はない程深く、生活の構成には入つてゐながら、生活の心には沁み入つてゐないのは、いつたい何故であらう。
 思ふに、そこに將來の新しい茶道が、東山、醍醐以後の、次の一時代を大きく劃さうとして、道法の曙光と、大きな茶人の出現を待つてゐるのではあるまいか。
 京都や大阪には、もつとあるかも知れないが、東京では、街頭でちよつと抹茶を飮ませる家は、銀座の宇治園の二階しかないやうである。
 卓で用談を交しながら、脚を組んだり、帽子のまま、外套も著て、雜多な街頭人が、黒燒の茶碗で不器つちよに茶を飮んでゐる。
 あれもなかなかいいと思ふ。さういふところから、ふと、茶の味、未知の味に、氣がついて來て眼をひらくものである。
 飮まず嫌ひといふのが大部分である。茶はきらひだといふ人に訊いてみると、殆どは、嫌ひではなく飮んだことがないのだつた。
 わたくしの父なども、終生、朝暮、茶がなくては居られない愛茶家であつたが、それは煎茶のみで、抹茶の味は、やはり飮まず嫌ひの一人だつた。
 どんな形式でもいいから、まづ茶と生活との機縁をとりもつことが、茶道にある人々のつとめではないかと思ふ。いはゆる佛法の佛縁である。色つぽくいふならば、ふとした縁のはづみからであつて欲しい。
 理くつ、形、やかましい道行は、それからでいい。やかましくいはないでも、味を知れば、自ら求めるやうになるものである。
 一碗の茶をのむのに、茶碗を押しいただいて飮むなどといふ約束は、わづらはしい。作法のための作法にすぎない。――さう私なども始めは思つたし、殊に、人前などであると、よけいに嫌だつたが、これも茶に教へられて、近頃はいやさうでないと思ふやうになつて來た。
 茶を押しいただくことは、畢竟、茶をのむ前に、茶と一味にならうとする心の用意である。沁々と茶を舌へ流すには、ぜひ一應、さうして雜念を拂ふ必要がある。烈しい生活意識の中にある社會人ほど、その必要がある。
 茶碗に禮をして掌から唇へ移してゆくあひだに、心じたくができるのである。沁々と、舌を通る茶のうまさが味得される。
 いきなり、日常の煎茶や番茶を喫むやうに喫むのと、そこに大きな「味の差」が當然にわかつて來た。
 で、私は近頃、茶に禮儀をしてのむことが、不自然なことでなく思はれて來た。うまくのむためには、どうしても、心から茶碗を押しいただいてのまなければ、のめないと考へられて來た。
 ところが、多年茶道にある人ののむのを眺めてゐると、茶碗を押しいただくのも、餘りに洗練され技巧化され、そこに「心から」といふ眞實さが見られなくなつてゐる。あれでは、いきなり引つ掴んでのんでゐるのと、何の變りもない。
 東京あたりでも、もつと街頭で、氣輕に茶ののめる家があつていいと思ふ。宇治園の二階も、靴先の引つかかるやうな冷たいリノリウムにニス塗の卓しか出してないが、もう少し親切に落著きを考へてくれたら猶いいだらう。やり方に依つては、街の賣茶は、きつと或る程度成功するだらうと思はれる。
 閑を愛して、柴戸の露地に、清友を持つのもよからうが、ひとつ、醍醐の花見に假裝して路傍の茶賣りになつたつもりで、街の中に素知らぬ顏をしながら、未知の衆に茶の味を傳へるやうな大茶人が、茶人の中にひとりぐらゐ居ないものか。
 花柳壽美氏はやはり名人だと思つた。何かの時、茶の話が出て、わたしの茶は踊りを磨くためにはじめたのですと云ふのである。自分の踊りを反省してみると、全姿に心が行き亙つてゐる[#「行き亙つてゐる」は底本では「行き互つてゐる」]つもりでも、まだ指の先まで踊りが行き亙つてゐない[#「行き亙つてゐない」は底本では「行き互つてゐない」]ことに氣がついて――それを修練するには、茶にこしたものはないと考へて、茶を習ひ出したといふのであつた。
 さう云はれて、茶のてまへを見てゐると、成程茶をたてる姿態――殊に指さきのはたらきは、微妙な魅力をもつて動く。壽美氏がそれへ氣づいて、猶も自己のものに取入れようとする心懸は、やはり名人のつよい求道心と云つてよい。
 踊りの美は「動」の美であり、茶の美は「靜」の姿態美である。ひとりの女性が茶のてまへをする間に、その女性の姿態や性格は、あらゆる角度から茶に見えてしまふものである。踊りでも音樂でも圍碁でもさうだが、茶ほど隱されないものはない。
 光悦と母の妙秀尼が、枯野見のむしろに、通りあはせた武藏が、一碗の馳走になるくだりを作中に書いたので、よく人から、宮本武藏も茶をやつたらうかと問はれるが、勿論、武藏も茶道には達してゐたらうと思はれる。その道も、名人であつたと斷言してもよい。
 彼の手づくりの茶碗とか、茶杓とかは[#「茶杓とかは」は底本では「茶酌とかは」]殘つてゐないし、茶書にも彼の名は見當らないが、晩年の武藏が、畫に彫刻に、禪に茶道に、閑日を娯んでゐたことは、細川藩の幾多の記録にも見えてゐる。
 劍と禪とは、殆ど一體である。又、禪と茶とも一味である。殊に、彼の遺作の畫風を見ると、松花堂風の茶味が横溢してゐる。それに、身を託した細川藩が、幽齋、三齋とつづいて、茶道や文雅の家であるから、家中一般にもその風があつたらう。
 從來、武藏の畫は、雲谷派とか、狩野風とか、いろいろに臆測されてゐたが、私の考へでは、當時の武者修業者の宿泊は、多く寺院に選ばれてゐたし、その寺院には多數の名畫が藏されてゐたから、さういふ物に接する間に、自然、感得して、誰に師事するともなく――彼自身の劍道のやうに、會得から得た自己流であらうと思ふ。
 海北友松に習つたと、畫人傳には記載してあるが、つぶさに友松の畫風をみると、さうとも頷けきれないものがある。たとへば彼の布袋※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、232-6]とか、鬪鷄※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、232-6]であるとか、などを見ると、むしろ松花堂風に近い。
 光悦との交りばかりでなく、松花堂と彼の交渉も、いろいろな點から考へられるのであるが、それは彼が浮浪の間であつたためか、確とした史證に乏しいことが遺憾である。
 武藏の畫については、これ迄にもいろいろ檢討されてゐるし、畫人傳にもつぶさであるが、武藏の書に關しては、少しも研究されてゐない。むしろ、この方が、畫以上に、武藏の性格や人となりを知るには、適切な氣がするので、私は今、彼の書の方にむしろ興味を持つてゐる。
 中年期から晩年期にかけても、武藏の書はいちじるしく變つて來てゐる。大體、その書系を分けてみると、やはり最初は、支那の古帖などを基本としてゐることが分る。もつとも初期のものは、宋元あたりから、大師流あたりを加味してゐる。そして、中年期には、松花堂の影響が見られ、晩年の書には、近衞三藐院の書風が、著しく、彼の書風の中に指摘できる。
 たとへば、三藐院の獨特な平べつたい假名の「の」の字のごとき、偶然な暗合でないことが、双方の文字を照合してみると實によく分るのである。
 民間の者が、近衞家から書を得て、手本にするなどといふことは、武藏の時代では、たやすいことではない。それなのに、どうして、近衞三藐院の書にそれほど影響をうける機縁があつたらうか。
 この難問は雜作なく解ける。それは武藏の身を寄せた細川家が、幽齋三齊以來、近衞家とは昵懇な[#「昵懇な」は底本では「眤懇な」]間がらである。從つて、細川家には三藐院の筆蹟は充分あつたにちがひない。武藏は客として、親しくそれらの墨蹟を見ることが多かつたのである。
 又、松花堂との交友がもしあつたとすれば、松花堂と三藐院とは、殆ど親戚といつてもよい間がらなので、直接、武藏が近衞家に出入りしたといふやうなことも、考へられないではない。
 松花堂は、當時から、關白秀次のおとし胤だなどと噂された人だが、ひどく身裝などもかまはない人らしく、瀧之本坊の草庵から、近衞家へ遊びに行くにも、汚ない草履ばきでひよこひよこ出かけるので、近衞家の家從がそつと、これからお館へお越しの時は、どうか羽織だけは召て來てくださるやうにと頼んでゐることが、何かの記録に見えた。
 松花堂は今まであまり研究されてゐない。此頃、知恩院の定慶さん(今は京大※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、234-5]書館にゐる井川氏)が、近衞家の古文書の整理をたのまれてせつせと調べてゐるうちに、まだ世に出ない松花堂の手紙が、ざつと、五百通もあるさうである。これからもつと調べて行つたら、まだ二百通や三百通は出て來るでせうと云つてゐた。
 その大部分が、松花堂から近衞家へ宛てた手紙であるから、いかに松花堂と近衞家とが、密接であつたかが分る。
 松花堂といへば、今年はたしか、松花堂の三百年忌に[#「三百年忌に」は底本では「三百年期に」]なるのではないか。よく調べてみないがそんな氣がする。
 從來、茶のはうでも、松花堂は親しまれて來た人であるし、光悦や吉野太夫あたりは、いくたびも顯揚されてゐるのに、まだ松花堂供養はいつぺんも聞いてゐない。ひとつ井川さんあたりが骨を折つて、松花堂忌か遺墨展覽會でもやつてはどうか。
 いつか星ヶ岡の中村君と、茶室めぐりをした時、眞珠庵だつたか孤蓬庵だつたかわすれたが、閉めきつた濕つぽくなつてゐる小襖に、松花堂のあざやかな小品が畫いてあつたのを見て、暫く、足の冷える迄、恍惚と立ちすくんでしまつたことがある。
 人物も、當時の誰よりも劣らないし、藝術家としても、もつと松花堂は認められてもいいと思ふ。わけても、まんざら無縁でもない茶道の方で、ひとつ、今年は彼の何百年にあたるか、歿年ぐらゐは調べて、一ぷくの茶を獻じて欲しい。

 三百年前の社會に、孤衣孤劍の生涯を、漂泊のうちに終つた彼といへば、非常に遠いむかしの人を語るやうな感じもするが、法隆寺の塔は、解體改築されて後も、なほ千載の嚴存を約束されてゐるし、紫式部の源氏が今日も愛誦されて、なほ文化の底流に若い生命を息づいてゐることなど思へば、宮本武藏などは、つい近世の人だつたと見て決して不當ではない。
 殊に、彼が生長し、又、志望して生き通した天正、慶長、元和、寛永、正保の長い期間は、戰國の動亂と苦境をのりこえて、若い文化日本の近世的な基礎をすゑた黎明期であつて、新興日本の誕生と共に誕生した彼は、やはり時代の孕んだ子のひとりであつたことに間違ひはない。その點でも、武藏は、近世人の圈内に置かれるべき人だし、思考してゆくにも、萬葉の歌人うたびとや、記紀の史上の人々の血を汲みとるよりも、われわれには遙かに身近いここちがするのである。
 だが一應、彼をはつきり觀るには、その少年期と、中年期と、晩年との三つぐらゐに分けて、時代の社會相を考へておかねば眞を掴みにくいと思はれる。その時代も亦、われわれの豫備知識にかなり持つてゐる年代であるから、分りよい事も分りよいし、分つてる人には一口ですむ事だが、順序として一通り云つてみる。

 中國山脈の山間の一城下に、彼が呱々の聲をあげた年は、天正十二年の三月だつたといはれてゐる。(一説に十年説や異説もあるが二天記に從つておく)
 武藏の生れたつい二年前は、秀吉の中國攻略が行はれた年だつた。武藏の郷土、作州吉野郷の竹山城下は、浮田家の所屬であつたから、秀吉の織田軍に合體して、有名な「高松の水攻」などには、その背道の嶮や糧道の遮斷に當てられたらうが、この地方は豪族赤松の分流やら、その他の土豪の支族が小勢力にわかれてゐて、各々が毛利方に加擔するもあれば、織田の統制に合流するのもあつたりして、中央の動流と共に、いつも小合戰の絶え間なかつた地方であつた。
 わけて秀吉の中國征下は、大規模な大軍をうごかして、中國一帶を、一時戰時色に染めた役であつたから、およそ戰爭といふものの實感は、この地方の郷土には、農民の端にまで、よく分つてゐたに違ひなかつた。
 老人は老人で、それ以前も絶え間のなかつた――三好、細川、赤松、尼子氏などの治亂興亡の戰語いくさがたりを、爐ばたに寄れば、見たこと聞いたこと、幼い者に聞かせた事であらうし、若い者は、すぐ眼近にあつた、高松城の水攻めの陣だの、その年の本能寺の變だの、すぐ翌年の小牧の大會戰だの、さうした話題に、明け暮れ送つてゐたらうと思はれる。
 その小牧の合戰があつた年に、武藏は一歳だつた。
 そして彼が、十七歳で臨んだといふ關ヶ原の役までは、實に社會は、秀吉の創造した、秀吉文化に彩られた時代だつた。

 小牧の合戰から關ヶ原までの十七年間。――武藏の一歳から十七歳までの間の――彼の郷土である山間の人心は、どんなだつたらうかと考へるに、その平和中、多少の泰平は謳はれたらうが、なかなか中央に於ける醍醐の茶會とか、桃山文化の、あの爛漫な盛時や豪華ぶりは、夢想もできないものだつたらうと思はれる。
 現に小牧の合戰の時でも、
天下動亂の色顯はる。いかが成行べき哉らん。細ぼそきものなり[#「細ぼそきものなり」はママ]。神慮にまかせて、明暮あけくれするまで也。無端事はしなきこと。無端事。
「多聞院日記」の筆者は、その天正十二年三月二十二日の頃で、さう日記にけてゐるのである。中央の知識人でさへ「――いかが成行べき哉らん」と觀たほどの脅えを抱いたのであるから、地方民の心には、もつと恟々としたものがあつたであらう。
 小牧の合戰とはいふが、事實は秀吉と家康との二大勢力の衝突で、極く偏境な九州の一部と東奧の一地方をのぞいた以外の土地は、すべて動員された戰爭だつたから、武藏の郷土美作地方にも、當然戰波は起つてゐたし、そして「多聞院日記」の筆者同樣、「……いかが成行やらん」と暗澹としてゐた世間の顏の中に、彼は呱々をあげてゐたのである。
 秀吉でさへ、北陸の丹羽長秀へ出した指令の文の一節には、
――此表、十四五之内に、世上之物狂ものぐるひも、酒醉之醒たるごとくに(後略)
 と見えたりしてゐる。その後には「筑前覺悟を以てしづめ申す可」といふ文字なども見える。いかに戰士自身も緊張してゐたか、日本中の大動亂と前途の暗黒を意識してゐたかが分る。
 けれど事實は、後世になつてみると、それから關ヶ原の役までが、すでに戰國日本の奔波は絶頂をこえてゐたのであつた。人心は暗かつたが、大地は平和を芽ざしかけてゐた。
 それが、武藏の生れた頃から青年期への時代であつた。

 關ヶ原の役の結果は、「……いかが成行やらん」としてゐた人心に、明白な方向を示した。長期の風雲時代は、もう終熄して來たのである。
 二つの勢力が一つに統一されかかり、同時に時代の分水嶺から、不遇に去る者と、得意な機運に乘つて出る者とが二分された。
 武藏は弱冠十七歳で、關ヶ原の戰塵の裡へ身を投じてゐる。どういふ隊で、どういふ資格で、と云ふやうな所屬は明白でないが、彼の父祖以來の郷土的な關係から推して、浮田中納言の一部隊につき、輕輩な一兵士として出陣したに過ぎないことは想像に難くない。
 それから戰後の行動は審かでない。竹山城の新免家の家士としてだとすると――新免家の落武者は九州へ落ちのびたり、黒田家に頼つたり、其他の地方へも分散したらしいが、徳川家の勢力地方は避けて潜んだに違ひあるまい。
 けれどそれは名のある重臣の事で、十七歳の一輕輩なら、どうにでも方針はつく。詮議もそこまでは屆くまい。武藏などは、さういふ點で身の處置は困難でなかつたらうと考へられる。
 その證據には、數年後に、京都一乘寺村のさがり松で、吉岡憲法の一門と試合をしてゐる。その時二十一歳だといはれてゐるから、約四年の後である。
 どういふ素質があつたか、どういふ修業をしたか、この間はよほど考究してみる必要がある。
 一乘寺村の試合などは、あの名だたる名家の劍と一門の多勢たぜいに對して、一個の武藏が、ただよくそれを克服したとか、強かつたとかいふのみでなく、精神的に觀ても、すでに或る高い境地にまで到達してゐた跡が見える。
 巖流島で佐々木小次郎を打つたのが二十九歳だつた。それから三年後、元和元年の大坂陣の折には、西軍について實戰もしてゐる。
 それ以後又、杳として、彼の足跡はあまり分つてゐない。分つてゐない間は、樹下石上の武者生活をしてゐたものと觀るしかないのである。唯、その間に飛石のやうにぼつぼつと地方的な逸話だとか、他の武人と試合つた話とかが、稀々遺されてゐるに過ぎない。
 彼の全貌が、やがて大成されたすがたを以て、はつきりと再び吾人の眼に浮び出して來るのは、何といつても、晩年熊本に定住してからの武藏である。五十七歳以後、六十二歳で示寂するまでの彼である。もつともその前にも、五十五歳で養子の伊織を具して、小笠原忠眞の軍監として島原の亂に出征してゐたり、二三明白な事蹟もあるけれど、その言行までは詳しく遺つてゐないのである。
 見るが如き彼の風采や、聽くが如き彼の言葉は、およそ熊本に落ち着いてから後の武藏のものであつて、それを通して彼の青年期や少年時代を推知する便宜も少くはないが、餘りに晩年の彼をもつて、生涯の彼を律してしまふ事も、過りが多いのではないかと考へられる。

 以上、武藏の生きてゐた時代を、その年齡に應じて、四期に分けてみるならば、
天正十二年から、慶長五年の關ヶ原の役までを――(彼の少年期に)
慶長五年から、元和元年の大坂陣までを――(彼の青年期に)
大坂落城の元和元年から、五十一歳小倉の小笠原家に逗留までの間を――(彼の壯年期に)
 それから後、六十二歳の最期までの間が、彼の晩年期として考へられるのである。
 そこで第一期の少年時代の世状と、彼の郷土に於ける逸話や、關ヶ原へ出たことなど思ひ合せてみると、大體、その心持や當時の四圍の事状も[#「事状も」はママ]頷づけてくるし、殊に關ヶ原以後の彼が、その戰爭の結果に依つてどんな示唆を受けたか、そして何うして「劍」へ突き進んで行つたかも、薄々ながら分る氣がするのである。
 まづ、思想的にも、彼は大きな教訓を、時勢の事實から與へられたらう。それから片田舍の眼界を、急激に、中央の趨勢から世上へみひらいたことであらう。
 彼の素質が、關ヶ原を契機として、一轉したことは疑ふべくもない。
 それから第二期の――大坂落城と世間の趨勢を見ては、愈々、彼自身の向ふ道も、胸底に決してゐたに違ひない。それは名利の外表に浮び出ようとするよりも、更に潜心的になつて「道」への究明に沒して行つたことが窺はれる。年表によつて考へてみても、それ以後五十年近くなるまでの彼の足跡は、青年期よりも更に不明瞭にぼかされてゐるからだ。――道から道へ、道から道へ、たとへば、西行の旅にも似て、芭蕉のさすらひにも似て、それとは、求めるものも意志も行も、形ではまつたく違ふが、遍歴に暮してゐたものと思はれる。
 すでに二十一歳の折に、又二十九歳の青年時代に、一乘寺村だの巖流島で、あれほどに、しかも京都や九州の中央の地から、武藏の名は、相當に當時でも喧傳されてゐた筈である。――さうした時代の寵兒が、餘りにも今日、遺されてゐる事蹟の少ない點から見ても、彼の旅は、又その修業は、極めて地味な、――雲水的な、孤高獨歩の境を好んで歩いたものであらう。

 彼の目がけた「道」への究明と、それに伴ふ「人間完成」の鍛錬の爲には、どうしても成らざるを得なかつたに違ひない。たとへば、武藏が生涯、妻を娶らなかつたといふ問題などでも、よく「なぜ?」といふ話題を生ずるが、それは身を賭して一道に潜心することが、いかに血みどろな苦鬪精進を要するかを知る人には、すぐ解ることだと思ふ。なぜ芭蕉は妻を持たなかつたか、西行は妻を捨てたかとか、人は不思議にしないが、武藏の場合には、よくそれが不思議がられるのである。然し、「道」のみでなく「劍」そのものには、いつも生死の覺悟がいる。宗教的求道者の多くが、又、旅の空に生涯する者の多くが妻を持たない以上に、武藏が妻を娶らなかつた事は、不思議ではないし、無理もないのである。
 彼が細川忠和から宅地をもらつて、安住の日を得た時は、もう五十七歳だつた。
 妻を娶る間も、何を顧る間もなかつたのである。それでもまだ究める「道」に對しては、これでいいと安んじないで、六十をこえた後まで、熊本市外の靈巖洞へ通つて座禪をしたり、燈下に著述をしたり、苦念したりしてゐたのだつた。實に、生きるに飽くを知らない人だつた。

 彼の一生涯のうちに、世の中は、前にいつたやうな急轉變を告げた。暗黒な戰國末期から、その次への過渡期を越え、江戸文化の初期にまで亘つてゐる。この波の中に、彼は決して、處世には上手な人であつたやうに思れない。いやむしろその轉機の大波のたびに、不遇な目に遭つたやうである。おそらく二十歳未滿に抱いた志であらうが、唯、その間にも目がける「道」だけは離れなかつた。
 急變してゆく世相の中に立つても、彼の志操は變らなかつたが、境遇はそれに順應して行つた。彼は處世下手でも、決して逆劍を使ふ人でなかつた。獨行道どくぎやうどうの冒頭に、「世々の道に反かず」と書いてゐるのを見ても窺はれる。彼の孤獨と不遇を、生涯、彼に持ち續けさせたものは、やはり「道」の爲だつた。求道すぢへの犧牲だつた。彼自身は、それに就いて、みぢんでも悔いたやうな痕はない。だから今日の僕らが、彼の生涯とその姿の一面を、「慘心の人」とは觀るものの、武藏自身は滿足して、いつぱいな志望と愉悦を持ちきつて、終つたらうとも考へられるのである。他の漂泊さすらひ歌人や、涙痕の行脚者を想ふほどな傷みがない。そして、それらの歌人や俳人の遍歴は、人を避けて自然へ行つてゐるのであるが、武藏のは行雲流水の裡に身をおいても、いつもその視界は人間の中にあつた。人間が常に解決しようとして解決できない生死の問題に、その焦點があつた。その究明の目的として、形に取つてゐるものが、即ち彼の「劍」なのである。

 それにしても、彼の「劍」の哲理の深さだの、晩年の高潔な隱操生活などから推して、武藏が弱冠からすでに大成した、聖者めかした人間とは、私も考へてゐない。
 むしろ人なみすぐれた體力と意力の持主であつた事から考へて、缺點や短所も多分にあつたと觀たはうが本當だらう。得て一道に沒入したひたむきな人間は、社交的には、人あたりのごつい、我を曲げない、妥協しない、曲解され易い性情のあるものである。江戸幕府の一員と成らうとして成れず、尾張の徳川家に仕官のはなしがあつて又成らず、其の他の藩にも據つて志を展べようとしたがそれも果さず、五十七歳で初めて細川忠和の知遇を得たなどといふのも、どこか世と折合はない性格の一證ではあるまいか。
 その他にも、隨所隨時に、武藏の言行や逸話などを檢討してゆくと、かなり肌に粟を生じさせるやうなふしもあるし、もし現代のわれわれの中に住んだとしたら、ずゐぶん交際ひにくい人だらうと思はれる點もあるが、それは時代の道徳や社會性格などをも、よく考慮してみなければ、一概に彼の短所とも云ひきれない事かと思ふ。
 それと又、武藏が、天正十二年の頃に生れたといふことが抑々、すでに彼の素質に不遇を約束されてゐたやうな氣もするのである。なぜならば、時流の大勢はもうくべき方向を決してゐたからである。槍一すぢで一國一城を克ちる時代は、秀吉の出現と、その幕下の風雲兒たちを最後として、小牧、關ヶ原以後に於いては、もうさういふ野の逸駿は求められなくなつてゐたし、又躍り出る機會も稀れになつてゐた。
 だがのあたりに、秀吉やらそれを繞る無數の風雲兒の成功を見てゐた時代の青少年たちは、多分に自分も英雄たらんとする熱意と夢に囚はれてゐたらうと思はれる。そしてもう武力よりは文化的知性を、破壞よりは建設を――より多く求めつつ推移してゐた時代の境を誤認して、いつまでも室町期以後の戰亂と機會ばかり窺つて、遂に過つた者がどれ程あつた事かと想像されるのである。
 それは寛永や慶安の頃になつてもまだ、夢から覺めない無數の浪人があつた程だから、大坂陣、關ヶ原役前の時人に、時流が見えなかつたことは、むりもないのだつた。武藏なども、その弱冠の多血多恨な年頃には、やはり時流の誤認者のひとりだつたかも知れないのである。そして時には時流に逆行し、時代に抛り捨てられ、苦悶や滅史の底をずゐぶんと、彷徨つたことだらうとも考へられる。
 然し、それに訓へられて、彼の奉じる「劍」は亂世の劍から、平和の劍へ推移して行つた。亂脈な武力の器具に、神嚴な「道」を與へた。破壞や殺戮の劍から、修身の道と心的な道味を酌んで行つた。

 彼以前にも、上泉信綱があるし、塚原土佐守があるし、柳生宗巖があつて、すでに劍技は禪、茶、儒學、兵、治、武士訓などの日常のあらゆる生活のものをにして「道」として確立しかけてはゐたが、以上の三者は皆それぞれ一國一城の主や、豪族であつて、身をもつて世路の危難や艱苦の中を、行雲流水する位置の人々ではなかつた。
 武藏はその點で、道風の興立と達成に、選ばれて生れ出た使徒であるといつていい。彼の生ひ立や境遇からして、約束づけられたもののやうに、自然に實踐を重ねて行つた。
 武藏以前の、上泉、塚原、柳生の三聖は基本的な理論の發見者であり、武藏は後輩ではあつたが、身をもつて實踐した「道の行者」であつた。
 幼少からの不遇や、時勢誤認の失意や、次々の苦惱のうちから、武藏自身も亦、自己の行くべき目標をその一路に見出して、初めて「行」から「信」を得て行つたものであらう。それがかへつて不遇な彼を、より偉大なものにして行つた。又、それへ攀ぢつくべく、自分の短所を壁書にして自誡獨行道としたり、座右の銘としたりして、不斷に自分の慾望や缺點を誡めてゐた。反省力の強いといふこと、それは武藏の性格中に見られる著しい長所の一つだと私は思ふ。
 有名な彼の遺文「獨行道」の句々は、今日でも、愛誦されたり、青年間の教材になつたりしてゐるが、その題名が明示してゐるとほり、あれは武藏が人に訓へるために誌したものではなく、彼が自己の短所の鏡として、自分のために書いた座右の誡であるところに、獨行道二十一章の眞價はあるのである。
 だからあれをよく觀て武藏の心胸を汲んでみると、武藏自身が認めてゐた短所と性格の一面が歴然と分つてくるのである。たとへば、
我れ事に於いて後悔せず
 と、書いてゐるのは、彼がいかに嘗つては悔い、又悔いては日々悔を重ねて來たかを語の裏に語つてゐるし、又、
れんぼの道、思ひよる心なし
 と自ら書いてゐるのは、彼自身が自身の心へ云ひ聞かせてゐる言葉であつて、その情血のうちには常に手綱を離せない煩惱の駒やら、れんぼの愚痴やら迷ひやらが、いかに複雜に潜んでゐたかが、讀みとれるではあるまいか。
 もし表面の文字どほりに、自身に何の不安も認めないし、枯木寒巖の高僧のやうな心境であつたとしたなら、何も、物にさういふ言葉書を誌して、自誡とする必要はないであらう。唯あの辭句を批判的にのみ見て、武藏の道念を高いとか低いとか、論じる人もあるが、私は以上のやうな見解から、他の五輪書や兵法三十五箇條などの遺文以上に、彼の獨行道といふものは、深く翫味してみると、そこに人間武藏のおもしろさが津々とつつまれてあるやうな氣がする。そしてここにも彼の強い反省心の特質と、不斷の心がけが窺へると思ふ。

 飛行機と飛行機との空中戰の場合でも、劍道の體や心境が、科學力と合致して、偉大な働きを發顯することは、今では多少日本研究をした外人なら、氣がついてゐるだらう。
 將來も、空中戰はいよいよ戰爭の大局に重要性を加へてくるばかりだから、支那事變に鑑みて、今に西洋でも、武士道復興だの、西洋劍術フエンシングの再檢討などが叫ばれだしてくるかもしれない。
 青龍刀でやる支那流劍法も、決して絶滅してゐるわけでなく、すでに北京の保安隊などにも專門家の教士がゐるが、西洋にも、曾ては劍術もあつたし、武士道もあつたのである。唯、その内容と精神はだいぶ日本のそれとは似て非なるものである。先年、獨逸、伊太利を訪問した日本の武道使節が、日本から贈つた甲胄と刀劍を持つてムツソリニ首相の室を訪れた際、ムツソリニ首相はその贈り物をたいへん欣びながら、居室の壁間に懸けてあつたフエンシング用の針金入面覆ワイヤーフエンシング・マスクを指し、「自分も青年時代には、これでも十數回、劍を把つて、決鬪したことがあるんだ」
 と、愉快な氣焔をあげたさうである。だからそれで見ると、西洋にもまだ中世紀の劍術は全然後を絶つてしまつたわけではないらしい。
 だが恐らく、西洋劍道精神では、飛行機へ乘つても、空中戰の役には立つまい。
 西洋の武士道華やかだつた時代は、何といつても十一世紀から十二世紀頃の十字軍時代であらう。劍術などもその頃は、後の生やさしいゼスチユアのものではなく、封建武士學校ともいへるツルノアの戯鬪祭などの慘状を書いたものだの、繪畫や詩などを見ると、日本の慶長武士が、木劍と木劍で仕合して、相手が死んでも、誰も怪しまなかつたといふやうな程度は、戯鬪祭の試合から見ると、比較にならないほど穩健なものである。
 もつとも、戯鬪祭の方は、個人同士の立合でなく、何百、多い時は千餘の武士が、實戰の試合をやるのであるが、これは戯刀ではなく、眞劍で鬪ひ合ふので、双方とも、車輛に何臺も載せて引くやうな負傷者を出してしまふ。勿論死者も出るし、千二百四十年頃のガルリアの格鬪には、八十人も死んでゐる。
 この大規模な試合場には、棧敷があつて、血に熱狂する者は、婦女子だつたといふ。そしてこの戯鬪祭は、佛蘭西から起つて獨逸、英國にまで流行したといふから、いかに西歐武士も亦、棧敷の婦女子へ自分の鮮血を誇らしく鬪つたかが想像される。
 西洋の中世武士のあひだにも、武者修行は行はれたが、目的はだいぶ違つてゐた。武者修業同士が何かの事で果し合をするにも、動機は多く女性の意地であつたり、又、斬り合ふにも、一方が彼女から贈られた手袋をはめたり、楯を片手に立つと、一方も亦、愛人が贈つた絹を劍の柄へリボンのやうに飜して鬪ふといつたやうに、非常に派手やかなものだつたらしい。
 もつとも日本の武士も、戰に臨む時は、派手を好んだ時代があるが、それは死を飾る、潔くする、といふ爲であつて、女の贈つた物を、見よがしに身に着けて果し合つたなどといふ例は、高田の馬場の堀部安兵衞のほかにはちよつと見當らない。
 西洋劍術フエンシングにも二刀流があつたやうである。だが武藏の二刀流とは、それも天地の差がある。片手に持つ楯の代りに、左手に小劍ダツガーを持ち、右手に長劍レピアーを持つてするのだ。技術が進歩するに從つて、突き、面斬り、受止め攻撃、廻轉、伴撃、防禦などのいろいろな型もできて來たが、遂に西洋では、それがわざと見得だけに止つて萎んでしまつたのである。日本の劍道の如く――劍法から心法へと、精神的な發達を遂げずにしまつた。
 武士道の究極の理念は、葉隱の中にあることばの、
=武士道とは、死ぬことと見つけたり
 で既に云ひ盡してゐるし、劍道の極意とする眞理も、柳生宗巖が遠い以前に云つてゐる、兵法の奧義は、劍より入つて劍より脱す「無刀」といふので盡されてゐると思ふ。武藏の圓明流――五輪書の最後の一句も亦、
=萬理一空
 で結んである。
 山岡鐵舟の無想劍も、反町無格の無眼流も、要するに、戰國末から徳川初期の間に、「無刀」といひ「萬理一空」といふ所まで行つてしまつてゐる。これ以上、日本の劍道と武士道とに遺されてゐる宿題は唯、科學との合致と、近代生活とそれとの飽和である。再言すれば、鎌倉武士のそれを戰國期から江戸初期に再生したやうに、江戸武士のそれを更に幕末維新の呼吸に革新したやうに、時代の煉冶をかけて、不朽に生かすことであると思ふ。

 武者修業といふと、もう語感が古いし、過去の浪漫的世界のもののやうだが、現代に於いても武者修業は、べつな形と使命の下に猶、行はれてゐると云つていい。
 京大劍道部の學生諸君は、師範に引率されて、よく各地へ劍道旅行に出かけるし、先年も、高野佐三郎氏の息、弘正氏が桑港大學から私へよこした通信には、昨年から米國で、劍道を以て同地の二世教育をやつてゐる。そして自分も海外に行つてから、猶更、劍道精神にべつな角度から研きをかけられてゐるとあつた。かういふ人々の目的は、その姿や形に於いては、まつたく違ふが、やはり一つの武者修業だと云へると思ふ。
 滿鮮武道視察といふ名目の下に、武徳會の内藤、磯貝範士たちが、大正十四年頃、西久保副會長を先頭に大勢で遊歴しながら、實戰武道の研究をしたことなども、現代武者修業ともいふべき一つの例であらう。
 今度の事變にも、武道家であつて應召した者とか、或は希望して從軍した人々などには、その志望するところに於いて、昔と變らない武者修業精神があるに違ひない。
 海軍省の山口肇少佐の紹介で、先頃私の宅へ見えた劍道家の高山政吉教士などの體驗を聞いても、戰國時代の武者修業などよりは、遙かに辛酸な、廣汎な地域に亘つて、つぶさに生死の境と、現代戰術中の劍道の機能について、生きた經驗を收めて來たやうである。
 高山教士は皇軍に從つて、上海戰から南京入城まで從軍した人であるが、その間、科學戰の戰場を馳驅して、餘暇「近代戰用の白兵拔刀術」といふ尨大な研究の結果を著述して歸つて來た。現代の科學戰にあつても、劍道及び劍道精神が、重要な日本軍の基本的な力の一つになつてゐることは、すでに誰にも認められてゐるが、高山教士のやうな、實踐家の研究のあるのを見ても、現今でも猶、武者修業はその形式をかへて行はれてゐる實證の一つと云へよう。
 大坂陣の折に、大坂城と西軍の陣地には、「御陣場借の者」といつて、無數の浪人が集つて、東軍徳川へ當つたが、さうした藩籍のない武士のうちには、元より機會をつかんで、生涯の後※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、258-6]を獲ようといふ功名慾も熾であつたらうが、一面には、多數の武者修業者が、
「實戰を實踐する又とない機會」
 として參加した者も、多分にあつたのは事實である。
 又、諸國を修業の床とし、旅を研磨の道とする――遊歴の方法は、ひとり武道家が武者修業としてしたばかりでなく、學問を求める學術の志望者にも行はれ、僧門の、わけて禪家では、古くから行道の本則としてゐた程であり、又、技能美術を磨く者のあひだにも、かつては唯一の修業法とされてゐたのである。
 士道に對して、百姓道を唱へた、秋田の篤農家石川理紀之助翁などの事歴を見ると、百姓も亦、農法研究の爲に諸國の農土を百姓修業して歩いてゐる。
 そんなふうに廣汎に觀たら限りもないが、要するに、武者修業と、武者修業的な人間の心的事業は、いつに始まつて、いつに終るといふものではない。
 ただ時代に依つて、それにも幾多の變遷はある。

「室町殿日記」に見られる十二代將軍義晴の天文十一年に、中國の武士山内源兵衞といふ者が武者修業にあるいてゐた記載があり、又、十三代將軍義輝の天文二十二年に、三好長慶との合戰に際して、諸國から牢人や武者修業共が駈け加つて働いたといふくだりもある。
 武者修業といふ文字はまだ用ひられてゐないが、武士の中に、それらしい一色彩が書物に見え出してゐるのは、以上の二項あたりが、最も古いかと思ふ。
 虚無僧寺史を見ると、それより以前、楠正勝が、普化僧の群に入つて、宗門を漂泊してゐたことなど誌してあるが、これは社會韜晦で、武者修業ではなかつたであらう。
 總じて武者修業と呼ばれる者には、べつに一定の風俗扮裝があるわけではなく、その目的が他日の武門生活の修業にあれば、虚無僧でも何でも、それを武者修業と呼んで差閊へないわけであるが、軈て、それが社會の表面に、殆ど流行的な勢で數を増して來、武者修業といふ稱呼が生じて來た頃には、自ら、いはゆる一見して、
「てまへは諸國修業の兵法者である」
 と名乘らないでも知れるやうな、獨自な特徴を持つた一つの風俗が生れて來たであらうことは想像に難くない。
 上泉伊勢守や、塚原土佐守などが現はれた天文、永祿、元龜の戰國初期になると、もう武道は社會の一角面に確立し、それを奉ずる兵法者といふ專門家の地位も明らかに出來てゐたやうである。
 卜傳、伊勢守等の名が、兵法家として、又、その道流を興して世上に認められてゐた天文、永祿、元龜年間に亘る時代には、一方に松本備前守とか、富田勢源とか、北畠中納言顯房とかいふ上手も輩出してゐた。そして、宮本武藏などはまだ生れてもゐなかつたし、伊藤彌五郎一刀齋なども、桶挾間の合戰のあつた永祿元年の年、伊豆で産聲をあげてゐたので、武藏はそれより遲るること、約二十二年後に生れてゐるのである。
 かういふ時代潮流の中で、武者修業は、その發生期を經、愈々、殖えて來たものと思はれる。
 上州大胡の城主だつた上泉伊勢守は、川中島の合戰の永祿四年の翌年、その城地を去つて、兵法修業を名として遊歴の途に上つてゐる。
「看聞日記」には、伊勢守上洛の記事や、又、伊勢守が禁庭に召されて、その劍技をもつて、正親町天皇の天覽の榮に浴したことなどを屡々記載してゐる。その道中には、一族の郎黨と弓馬を率き具し、諸國遊歴とはいふものの、堂々たる武者行列で往來したものらしかつた。
 塚原土佐守(卜傳)にしても、東海道を上下する折は、いつも六十人位な從者門人をひき連れ、先供の者には拳に鷹を据ゑさせ、乘換馬二頭を率かせて歩いたとあるから、その行裝に威容を心した有樣はほぼ想像がつかう。
 かう二人も、勿論、諸國廻歴と稱し、當時の武者修業者のうちに加はるものではあるが、その生活や風俗は、決して、後に考へられたやうな樹下石上の旅行でなかつたことは確である。
 だが、前の兩者とか、伊勢の北畠顯房とか、大和の柳生家とかいふ兵法家は、やはり當時でも、少數な宗家さうけ的な存在であつて、一般の武者修業といへば、型の如く、一劍一笠で樹下石上を行とし、克己を主旨として、諸國を踏破するのが、本來であつたにちがひない。
 林崎夢想流といふ拔刀(居合)の流祖林崎甚助重信などは、やはり天文、永祿の時代を、その郷土出羽國を出て、諸州を歩いてゐるが、彼の武者修業ぶりなどは、典型的な孤行獨歩だつた。しかし、その武者修業に出た動機には、修業といふ本質のほかに、亡父の仇敵坂上典膳を討つといふ目的があつた。
 漸く、武者修業の風が興ると共に、武者修業を名として、仇討、隱密、逃避、その他いろいろな内情をも祕して歩くものが、混入して來る傾向にあつたことも、爭はれない事實であつた。
 そしてそれらの雜多なものと、純粹なる求道的廻國者とは、殆ど、見分けもつかず、一樣に武者修業の名をもつて、戰國期から江戸初期にかけては、諸國の都會を又山村を、流寓して歩いてゐる武士がずゐぶんとあつたものに思はれる。
 明智光秀は、信長に仕へるまでの壯年期を、武者修業して送つたと、どの傳記にも書いてあるが、さてうだらうか。
 山本勘助の傳にも、同樣な履歴が見える。
 かういふ人たちの武者修業が、どんなものだつたか、知る手がかりもない。光秀や勘助などは、後に、各々一個の謀將として立身してゐるので、その青年期の不明な頃は、諸國の築城兵力地理などを考察して、他日に備へたものであらうといふ、後人の臆測が、多分に、傳記の餘白を埋めてゐるのではあるまいか。
 しかし、以上の戰國の武將たちの經歴として、一部にいはれてゐる武者修業も、又、上泉伊勢守や卜傳のそれも、猶、仇討とか隱密とか別箇な目的をもつて歩いたそれも、純粹な意味では眞の武者修業ではない。姿を借りてその群の中に伍してゐたか、或は時流が一樣にそれらの人をもくるめて、武者修業とんだだけに過ぎない。
 武者修業には、やはり武者修業精神がなければならない。克己と求道のやむにやまれないものが、安住を捨てて、進んで艱難に就くところに、その純粹な目的があつた筈である。
 禪門の雪水のやうに。
 又當然な、求道精神の昂まる意志の前に、
 すでに足利末期の暗黒混濁な世相の底流には、その頽廢期に躍る人間とは正反對に、時流の息ぐるしさや腐敗から離脱して、甦らうとする新生な思想が、武士の中には芽をふいてゐた。
 武者修業の世界ばかりでなく、純粹を求めるならば、その數は、その流行相と反比例して。[#「。」はママ]極めて少いのは當然である。
 伊藤一刀齋、丸目藏人、柳生兵庫、小野典膳、諸岡一羽その他、多くの劍客たちでも、等しく武者修業はしたらうが、各々、意※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、264-6]する所があり、純粹な劍道修業であつたかどうかは疑はしい。
 柳生兵庫などはべつだが、その殆どが流浪の牢人であつたから、先づよき主を探して、仕官するといふ目的が誰にも一應はあつたであらうと思はれる。武藏にも勿論、彼の理想も註文もあつたが、その氣持があつたことに變りがない。
 應仁の亂以後、その牢人の數は、夥しく殖えてゐたし、又、戰國期になつての風雲は、山野の青年をその郷土から活動の巷へ、ずゐぶんと呼び出したでもあらう。
 興亡の激しい豪族間の遺族や郎黨たちも、踵を追つて牢人の群に落ち、そして牢人の境涯から浮び出るべく、諸國を歩いた。
 それ等も、武者修業者の流れの中に、多分に交つてゐた。
 武者修業者の殖えたもう一つの理由としては、そこに自然、生活方法が開けて來たことにもよるであらう。いつたい、當時のさうした遊歴者が、何うして生活の資を得てゐたかといふ、經濟面の點を、現代人はよく不審とするが、戰國時代などにあつては、その生活の自由性からも、又、四圍の社會状態からも、衣食に於いては、さして困難はなかつたらうと考へられる。
 塚原、小泉といつたやうな豪族は、たとへ城地を去つても、猶、多くの家僕や門下を從へて往來してゐた程だから、これは問題ではない。
 問題は、短くも數年、長きは十年も二十年も、一定の住居も持たないで、廻國と武藝に精進してゐる澤山な孤行の劍人たちである。
 が、それにも、主君の命を帶びて、表面は牢人し、敵國の地理兵力の状態を探つてゐるのもあるし、又特殊な使命をおびて歩いてゐる者などには、それぞれな資力が背後にあるから、これも問題ではない。
 まつたく、何の背景もない、當時の武者修業者にとつて、唯一の生活方法は、やはり他人の合力と、指南の報酬が唯一だつたに違ひない。
 戰國期の中層民以下の社會では、彼等がさうして生活して歩くには、最もいい状態だつたことは事實であらう。
 まづ、武者修業たちにとつては、寺院が開放されてゐた。武士と寺院との密接な關係、又、武者修業者の心的修養に、打つてつけた場所として、寺院はいつでも、彼等の一泊の乞は容れてくれたらう。
 それから、足利中期以後の物騷な世態の反動として、庶民級の中に、百姓にいたるまでが武術を愛した。領主の統治が行亘らず、茨組のやうな暴徒や、匪賊のやうな野武士の襲來に備へて、何の警察力もない民は、それが僻地の村落であればある程、彼等自身が武力を持たなければ、安心して業にも就てゐられなかつたであらう。
 又、個人のあひだにも、殺伐な風や、詐謀や、油斷も隙もならない道義の頽廢があつた時代では、その各々も、何よりも武技を身に備へておくことが、力だつたに違ひない。
 信長か、秀吉だつたか、制令を出して農家が武器を蓄藏することを禁じ、各村落から押收したところ、驚くべき大量な刀槍が發見されたといふ例など見ても、當時の社會不安が窺へよう。
 武者修業の徃來は、そんな時代の村落では、むしろ自分等の防衞者として、歡待して迎へた。山賊の話、人身御供の傳説などは、僻地の村民と武者修業との生活關係にも、一つの示唆をもつてゐる。
 宿泊や衣食は、さういふ地方でも、彼等は因らなかつた。又武技の教を乞ふ者は、百姓町人のあひだにもあつた。
 假にさういふ便宜のない都會地でも、武藝者同志の相互扶助的な方法もあつたらうし、又、手蔓から手蔓をもつて歩けば、然るべき武家の門でも應分の好意は示したであらう。
 武藏の青年期から壯年時代などにあつては、殊に武者修業の多かつた時勢でもあり、又、それらの生活し易かつた頃ではないかと思はれる。
 關ヶ原前後、又、大坂夏冬の陣の前後には、どこの大名も、いつ合戰が起るか、いつ陣務を急とするか知れなかつた中に、表面は幾年かの小康的平和にあつた時勢だつた。
 當然、全國の大名は、朝夕に武備を怠らなかつた。然し、限りある財力で限りない兵は養へないし、殊に、實力と人品の双備な人物と見ても、戰後の長い經營を思ふと、目前の必要を感じても、さうさうは召抱へられなかつた状態であつた。
 で、自然、捨扶持、隱し扶持といふものを、牢人に與へてゐた。いはゆるかうと思ふ人間には、平常に息をかけておくのである。九度山の眞田幸村などは、その尤なるものであらう。幸村へは平時に於いても、大坂城の秀頼から、尠からぬ金力が密かに送られてゐたといふ。然し、幸村自身は傳心月叟と世捨人めかして、草庵に質素な生活をしてゐたし、そんな莫大な金を費ふ途はない。
 それが關東大坂の開戰となつて、彼が廬を出る日となると、幸村父子が高野の麓から紀泉を通つて、大坂へ入城する迄の間に、途々、忽ち人數に加はる牢人者が四方から馳せ參じ、無慮二千餘の手兵になつてゐたといはれてゐる。
 さういふ牢人の生活費は、總て幸村の手を通して、大坂城の經濟から出てゐたことはいふ迄もないが、かういふ一朝の場合に備へて心がけておく牢人扶養の仕方は、諸國の大名も皆やつてゐたこと勿論である。
 で、多少なり、一かどといはれる武者修業は、何らかの形で、その系統のどつちかに扶助されてゐたらうと思ふ。
 武藏も三十一歳の時、大坂陣の折には西軍に參加したといはれ、その所屬や功績の程は明らかでないが、西軍に投じたには、何か一片の義心なり理由がそこにはあつたものと想像される。
 いづれにしろ、武者修業の生活は室町期の初期にあつては、禪僧の行脚に倣つたやうな所もあらうし、そしてもつと亂脉な、雜多な、無秩序に行はれてゐたらうが、戰國期に入つて、元和の頃までは以上のやうにその生活に一つの軌道があり、又、活溌な意志をも持つてゐた。けれどやがて江戸時代にはいつて、世間が平靜になり、統治者の制度が緊密になつてくると、武者修業の生活は、次第に難しくなつて來たやうである。
 又、多くの僞裝浮浪者に對して、法令もやかましくなつた爲、正しい目的をもつて廻國する者までが、いろいろ牽制されて來た。然し、ずつと後の千葉周作の廻國日記などを見ても、まだまだ江戸末期までも、武者修業の數は非常に多かつたものらしく、幕末頃には又、その人たちの生活も、もつと合理的な社交性すら持つて、相變らずさう不自由なく、諸國を歩けたものらしかつた。
 それはちやうど、現在の社會でも、舌一枚で地方を講演に廻るとか、講習會をしたり、或は無名畫家が畫筆をもつて旅行しても決して、飢ゑることがないのと相似て遠くないものであつた。
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 むかしは、百姓には「百姓道」があつた。町人には「町人道」があつた。さむらひには「武士道」があつた。政治をする者にも亦「王道」があつたのである。
それらの「道」はすべて文化の改革と共に壞されてしまつた。一時はそれがいいことだと考へられた。けれど今日となつてみると、鼠巣そそうを燒くために家まで燒いてしまつた觀がないでもない。ヒツトラーの苦惱は今、軍事でも科學でもなく、獨逸の國民に對して與へる「國民道」のないことだといはれてゐる。
 日本は祝福されてゐる。わたし達には、國土二千六百餘年のあひだ一貫して來た道がある。右でもない、左でもない、眞ん中といふやうな漠としたものでも決してない。そこに立てば、將來の日本文化のあらゆる角度へ向つて「これから」の任務を負擔してゐる現下の青年たちの行くべき道は自ら明確である。
 武士に「武士道」があつたやうに、これからの青年にも、確乎として歩み立つところの「道」が見えてゐなくてはなるまい。私はまづ青年に向つてこの「道立」の必要を提唱して來た。
 然し、わたくし自身が實はまだ童學の一書生にすぎないのだ。文壇の一隅から乳臭の作品を書いて作家とか呼ばれてゐる人間である。しかも狹隘な書齋にのみ多く日を消してゐる身なのに、どうして現下の烈しい時勢の潮流と、その中にある青年層へ向つて、かくあれといふ「道」などを示す資格があらうか。
 又、私は決して、思想運動家でもないし、教育者でもない。飽まで單なる一文人にすぎないのであるが、國民的詩人はいつも時代の先驅者である。國民の先に立つて道をさけんでゐた。文人が文に立つて道を語ること必ずしも異端ではあるまい。
 忠
 の道に對して。又、餘りに舊道徳のうちに定義づけられてあるために却つて現代人のうちには顧慮されてゐない。
 孝
 の問題。
 忠も、孝も、共に現代の青年にはただ漫然たる忠孝の文字だけがあつて、清新溌剌な將來への精神文化の信念でなくてはならないと思ふが、それに對して、この書がまだ及んでゐないことは御諒恕を乞はなければならない。
 なほ、酒に對してすら言及してゐるのであるから、當然、戀愛に就ても言を盡すべきであるが、それもまだ脱稿してゐないので、他日、その他の諸項をあはせて、更に完成した一書を出すつもりである。
 斷つておきたい事は、私は、人に教へる力は持たない。けれど、信念は持つ。それと、自分もなほ前述のやうに、童學の一書生たることを忘れてゐない青年の一員なのだ。この一文を私が成す資格があるとすればその點だけである。

 なにも皮膚をやぶるにはあたらない。自分の血液を見ようと思ふならば、赫々たる太陽に直面して自分の指を大空に向けてかざしてみるとよい。
 百萬の富より尊く、どんな寶玉よりもうるはしい鮮紅のものが透いてみえる。それが自分の血だ。
 科學は、或る程度まで、人間の血液をかういふものだと顯微鏡的に説明するだらうが、それは生理學上のものだ。日本人と歐米人の血液の差を示すことはできない。
 資本主義は、あらゆる物質に對して勢力を持つが、自分以外の者の血液に對しては、その一滴たりとも搾取的に購ふ力はない。
 この地上において、最高價値のあるその血液を、われらは一人のこらず滿身にも湛へてゐるのだ。これだけには、貧富も階級もない、絶對の平等である。
 ただ、民族がちがへば、血液もちがふことはある。然し、それにも各々ちがつた特質をもつてゐて、歐米人種には歐米人種の長があるし、日本民族には、日本民族の固有性がある。
 その現はれを、精神といふのである。
 太陽にかざして、自分の血液の色をじつと見た時、諸君は同時に、かういふことを考へてみたことはないか。
 この血液は何千年、肉身から肉身をとほつて來たものであるといふことを。
 又、祖國の土と太陽のあひだにながれて、幾千年の文化にされて今、自分といふものの血管に脈々と生を搏つてゐるものであるといふことを。
 そして今日の、毎日の、一刻ごとの、自分の精神となつて發顯してゐるふしぎさを思つてみたまへ。自分の血液が決して自分だけのものでないこともわかるし、自分の精神も決して自分だけの意力だけでうごいてゐるものでないことが感じられよう。
 なぜならば人間には、自分で行はうとすることも、るまいとする精神に抑止される事もあるし、自分がとどまらうとしても、やむにやまれない氣持に驅られる時もある。
 さういふ一方のものを、理智といふが、理智も精神にほかならないものである。では、精神の複雜性は何がうごかすかといへば、血液の中にある祖先の性格といふよりほかにない。科學的にいふところの血球の一粒々々には祖先の何ものかが影響してゐるとみてまちがひない。
 遺傳學者は、それを優生學的に、また病理的に研究してゐるが、ここに云ふものとはその目的が根本的にちがふ。
 おまへが怒る時はおぢいさんにそつくりだとか、おまへの涙つぽいのはおまへが母の氣性をうけたのだとか、さういふ風によく簡單に云はれることも、ふかく考へると自分といふものの反省になる重大な一提案である。
 孤兒にも、數千年先から祖先があつた。祖先を考へないで、自分を、單一に考へる癖のついてゐる人物には、ほんとにこの國土といふものもわからないし、自分といふものも生涯知ることはできない。
 祖先を知るには系※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、278-5]でもなければわからないときめこんでゐるのは淺はかな常識である。系※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、278-6]書などはむしろ信ずるに足らないものである。それよりはまづ自分の父と母と二人のあつたことを基點にして、その父にも、二人の兩親があり、その母にも二人の兩親があつたと考へを溯つてゆくがよい。
 すると、自分といふ一の數は、父母の代で二になり、祖父の代で四になり、曾祖父の代では八になる。その先の代では十六になり、卅二になり、六十四となり、百廿八になり、二百五十六といふやうに、祖先は先へのぼるほど數がふへてゆく。
 さう過去へ順を追つてゆくと、千年二千年以前には、何萬人、何十萬人といふ血縁を、われ等は、自分といふ一箇のものの血管にもつてゐるわけである。だから戰國時代の武將が、系※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、278-13]に威嚴をかざるため、遠祖は藤原鎌足であるとか、清和源氏であるとか、桓武天皇から何代の後裔平の誰の末葉であると記録しても、それが正系ではないにしても、まるで嘘にはならないのである。何萬人、何十萬人の血縁のうちには、必ず名門もあるし、偉人や英雄にも必ずつながりがあるはずであるし、帝系からもたくさんなお方が民間へ下つてゐるので、清和天皇や、桓武天皇の御名をうたつても、不敬にあたらないわけは、さういふ血液の分派が確な爲である。
 戰國の武將のみには限らない、諸君にしてもさうである。今は、一職工であり、一百姓であり、一店員であり、或は、孤獨赤貧の一青年であつても、その血液のうちには、藤原氏の血液もあらう、源氏の武將の血液もあらう、平氏もあらう、また、畏れ多いことのやうであるが、さらに溯れば、帝系から臣下に降つた血液もわれ等の中には流れてゐるのである。
 どうしてさう斷定できるかといへば、數千年の社會の變革によつて、前に述べたやうな、無數の祖先は、てうにあつて權を執つたこともあらうし、に下つて庶民の下層にかくれたこともあらう。殊に近世史の初期から以後は、農より立つて武士となるもあるし、武士から下つて商や農に歸つた者も頻繁にあり、その幾變遷が、雨と海水のやうに繰返されて來てゐるからである。
 太陽に血液をかざしても、その色を見ただけでは意味がない。幾千年の培ひを層積してきたわれ等民族の文化と、祖先のすがたとを認識して、いかに自分の血液が、國土日本の偉大な濾過をうけてこの五體にあるか。そしていかに自分の血液の尊いものであるかを充分に自覺した時において、初めてわれ等の生命は、眞に祖國の太陽を浴び、大氣を吸つて、
「われ、日本に生れり」
 と、新たなる眼をもつて、國土のすべてを見直す心地がしてくるものだ。その感激と信念の土から、生きがひの芽はふいてくる。
 修養といふことは、血液を研くことだ。どんな尊い血液をたたへてゐても、爲すこともなく老い朽ちてしまへば、人間の血液を容れた袋に過ぎない。研きをかけない血液は水にも等しい。
 さういふ水にも等しい血液をもつた人間が、世に出ようの、幸福になれないのともがいた所で誰のせゐでもあるまい。不斷に研かなければ、誰の血液でも、濁る、澱む、鈍る、落伍する。
 しかし研磨された青年の血液は、不斷の希望を一身に負うて向上を辿るばかりでなく、郷土に祖國に、太陽のやうな力と光輝をもつて、同胞の柱石となり、社會の動流をうごかしてゆく。
 さういふ血液をわれ等は持ち合つてゐる。よく隣人愛といふことばがつかはれるが、西洋語の意譯から出たことばで、われらの日本精神ではまだ云ひ足りない。私と諸君とも、血においては同身なのだ。また、天皇は民の父母とあがめ奉る意味も、ことばのうへだけではなく、建國以來日本民族の血液はまさに君民一體のものにほかならない。
 われ等が、わが皇室の萬世一系連綿たることを誇るゆゑんは、もつて、自分の誇りともするからである。從つてこの血液は、天皇の御命にあらざれば捨てることはゆるされぬものである。

 高い低いを敢て問はない、誰でも山へ登つて、崇高な大自然の氣に衝たれた覺えはあるであらう。そして日常の社會雜念から離脱して、默々たる天地運行の中に、まつたく生れながらの新たな「我」を見出し、常に固執してゐた狹い人生觀から豁然かつぜんと思ひを革める心地がしてくる。
 山は人間の故郷だといふ。山は人間を神に近づける。山に立つ時、われ等は最も人間の本身に立ち回つた自分を見出すものだ。
 太古三千年餘の前、われ等の血液を生んだ祖人は、神の眷族として、山に立つてゐた。
 天照大神の御勅、(日本書紀)
豐葦原ノ千五百秋ちいほあき瑞穗みづほノ國ハ、我ガ子孫うみのこきみタルベキくにナリ、いまし皇孫すめみまゆきしらセ。
 の御精神を享けて、神すなはち、皇孫瓊々杵尊ににぎのみことは立ち給うたのである。われ等の祖人は、神勅の御精神を奉じて、まだ國の構成を爲さない低土のうへに、「王の道」を建つる大聖業をおたすけする爲に神の眷族とし、遣はされた一員だつた。まぎれもなく、われ等の遠い先の血液は、神のお側にあつたものである。
 まだ國の構成を爲さないその頃の日本を想像してみたまへ。ただ見る東半球の荒海のまつただ中に細長く横たはつた蒼々茫々たる土の塊でしかない。火を噴く山と、密林と、一鍬のあともない湖沼や草原と、怪鳥と野獸と、そして文化なく人倫なく原始民のわづかな數がその中に爬蟲類のやうな棲息を營んでゐたに過ぎない。
「皇孫よ、ゆきて治めよ、撫育し、教化し、王の道を布きて、千五百秋に榮えよ」
 天祖の御旨は、神の御意志であり、又われ等の祖人の一致して捧げた奉公の的だつた。その大聖業が神代とよぶ七世の長い御經營を經て、神武天皇の御即位に至つて始めて大成し、土の塊でしかなかつたものに精神がうちこめられ、祖人の血液がひろく分布され、人倫と文化が行はれ、王の道と眷族の道を明かにし、萬世の後までもこの創世の精神を違へまじといふ君民一如の誓ひの下に政治は立てられたのである。
 それを建國といふ。
 神武天皇の建國の詔勅は、かうして神と人との完き一心一體の天業から發せられた日本の生聲であつた。
 天壤無窮に、わが皇室とわれ等民族は、一器の水を器から器へ移すやうに、歴世、その建國の大精神をこぼすことなく傳へてきた。その純潔を護るためには、海ゆかば水浸く屍の歌とあらはれ、又源實朝の、
山は裂け海はあせなむ世なりとも君にふたごころわれあらめやも
の誓ひを泰平の裡にも忘れなかつた。苟めにもこの日本に神の御旨を違ふやうな世相が現はれる時は、必ず神人が出てこれを排除した。建武の人々、維新の人々、今も見たまへ、澎湃たる現下の國體擁護の聲を、日本精神に目醒めよの聲を。
 なぜ日本を神國といふか。なぜ日本は世界の類型たぐひのない皇室を持つといふか。なぜ[#「なぜ」は底本では「なぜ 」]天皇と臣民とが日本だけかく密接なものであるか。なぜ日本の國家が外國の理論では律せられないのか。さういふ幾多の問題も、われ等の祖人以來一貫してゐる民族精神を以てすれば明瞭な理解が自ら湧いてくる。
 最近、頻りに國體論がことあげされて、日本は君民同治であるとか、君主國體だとか、ちやうど外國の帝制や共和制や聯邦制を思惟するやうに、理智的な角度から日本の「體」を一箇の「物」とする觀方で究明しようとする――或はそれで分つたといふやうな顏をしてゐる人々の思想が文化の表面に出て著しく日本を濁してゐるが、日本の國體は、決して一面的法理論や、文字で組み立てた機械的理論で眞の相がわかるものではない。むしろ誤ることの甚しいものになる。なぜならば、絶對にそれは精神であるからだ。物を基調とし文化精神として發達した諸外國國家の建國とは根本的にちがつて、神人一如の精神の結晶體が、そのままの日本であり即ち國體であるからだ。眼に見せよといふならば、唯物的國家科學、社會科學、政治科學、また箇人的利己主義の小智を地に措いて、まづ山へ登れ、雲表に立つて、民族の本身に回つて思へ。
 諸君にしてもさうである。すでに「我」といふ一箇のものの何であるかを知つた後は、この「我」を生み育くみつつある國の「體」に對して明確な信念と認識を持たなければならない。なぜなら諸君自身がすでに國家の一分子であるからだ。誤まつた分子、認識も信念も持たない分子、さういふ分子が多い時に、國家は衰退を辿る。
 然し、一髮一毛と雖も、間違ひなく日本人であるわれ等にとつて、今更、自身の持つ國體が何ういふものであるかなどといふ事は、思索する迄もない氣がするのであるが、魚に河が見えないやうに、口が酸素の味を知らぬ爲に呼吸が生命であることを忘れてゐるやうに、餘りに大きな恩澤なるが故に、却つてそれに狎れ甘え、當然なこの國民的常識も、日常觀念の裡に、漠と霞んでしまつてゐるのではなからうか。
 花に棲む鳥は花を蹴ちらす。われ等はややともすると狎れる。人間の性能である。宏遠な天業の大範と祖神人の恩惠は忘れがちになつて、その道統から發達した現状の物質的文化の動きや色や音響の方にのみ多くを囚はれがちになり、それを基調とする輸入思想や學問の小智は、國家の母胎も、民族的本性を反省するに遑なく、唯、現代の機械的組織のみを論議するのであつた。われ等をして天祖なき光輝なき他の白色民族と同視して、祖神人の建國精神をも喪失した國民となして、惑説を囁いて熄まない。
 狎れたる者ほど怖しいものはない。國體輕視の風潮や思想は、國體の恩に狎れた者の口から出る。魚が河の存在を否定し、口が酸素の無味を惡罵するやうなものだ。要するに「我」といふものの深い個念を爲さず、自己忘却の結果、文化に對して不遜な甘え過ぎをしてゐる暴兒の所作に他ならない。
 人類の棲む世界のどこにこの天業的建國があつたか。天惠的國家があるか。物質科學基本の他の民族の將來に幸福と光輝があるか。見ずや、それ等の米、英、露、幾多の列強が今日の精神的枯渇のさまと、科學的破産の醜しい狼狽ぶりを。
 理論にのみ「我」を陶醉させるな。常に民族性のつよき本身であれ、國體は空漠として彼方にあるものではない。「我」すでに國體の一分子であることを思へ。
 さうして後、折あらば靜に繙きたまへ。古事記、日本書紀などを見れば、祖神人たちの建國前期からの天業と精神とがなほ明白に酌みとれよう。けれど、如何にそれらの最古の文典を探り、難解な記紀の二書を初め神皇正統記から大日本史に至るまでの史を讀破しても、ただ讀み、ただ知るだけでは、何の意義もない。國體を認識するといふことの極致は、要するに、
國體の心そのものが自分の一身
 になることに極まるのである。研究するとか考察とかなど問題ではない。身に體すことだ。古事記、日本書紀を讀まなくとも、唯ひとつの精神を一身に堅持してさへ居れば、野に耕すも、鐵槌を打ちふるふも、都塵と山澤に汗して働くも、すでに、皆國體を身に體してゐる人といへるのだ。天祖の眷族の末たる者であり、天皇の赤子として、太陽の下、この國の上に、恥しくない「我」なのである。

 先頃、未知の一青年から私信を受け取つた、信州諏訪郡の農村の人である。眞面目な文體であるし、農村苦境の迷ひを訴へてゐる内容にも、淳朴人を衝つものがあるので、すぐ返辭を上げようと思つたが、考へ直してその返辭をここで書くことにした。理由は、その青年の求めてゐる所のものは、等しく、他の農村青年や商工青年の多數も無言のうちに墜ちてゐる懷疑ではないかとも考へられたからである。その私信のうちに提示された問題といふのは、次のやうなことばであつた。
――學問をしなければ今の農村からでも遲れてしまひます。然し、學問をすれば今の農村を捨てたくなると私共の友達はみんな云ひます。いつたい何うしたらいいのですか。(後略)

 現代人が學問に對して或る懷疑を抱いてゐることは事實である。農村青年のみではない。工場青年の場合でも假に前掲のやうな認識をもつ者は、やはり同じやうな訴へを云ふだらうと思ふ。
 ――學問をしなければ今の工場からも遲れる、學問をすれば工場などは捨てたくなる。
 主人を持つ實業青年にも同樣な事が云へよう。不遇な家庭にある青年の多數も無意識のうちにこんな懷疑をもつて、學問の必要を感じながらも、學問を嫌厭し、學問を敬遠し、或は、學問を輕蔑してしまふ傾向があるのではあるまいか。これは獨り諏訪郡の一青年ばかりでなく、現代社會の全般が、學問そのものに認識を誤まつてゐる事に起因するのであつて、殊に、青年にとつては、由々しい問題だと私は思ふ。
 誤つた認識の下に爲された學問から考へれば、成程、今の農村は捨てたくならう。然し農村を捨てて都會へ來れば、やがて、都會も捨てたくなるに違ひない。學問には窮極がないのだ、都會人になれば都會人としての學問をせざるを得ない、都會を捨てた次は何處へ行くか。
 又郷土を捨て、都會を捨て、遂には學問をさへ捨て、あらゆる人生の意義を虚無に觀じて、自分で自分をむしばんでしまふ人間もある。最後に捨てるものが無くなつて、自己の生命までを死へ向つて抛り出してしまふ愚な心理の持主さへある。學問とは、さういふものだらうか。根本的に「學問とは何か」といふ定義を持たないで學問する事はすでに、學問にはならない。
 青年の學求心はその旺なるにまかせて、學問の選擇を誤りやすい。腹の底に、「學問とは何か」といふ定義が据つてゐないからだ。學問は決して功利的にやつてすぐ効果の實に舌皷を打つものではない。學問はどこまでも修養の一課目である。修養を離れての學問に價値はなく、學問を無視して修養はあり得ない。從つて、學問とは何かといふ問題は、修養とは何かといふ定義に依つて決定する。それを一口に云へば、
修養とは我を愛する者の我への大願
 だと私は思ふ。學問はその大きな希望の下に初まる修養の一課目なのだ。自分を愛するがために力弱く、缺點多く、又不遇不才に生れついた我をして、後天的の實力を持たせようとする努力が學業であり、やがてその一箇の力が、一家を興し、一村を益し、國家に貢獻する時に至つて、初めて學問は光を放ち、學問をした人間といふことができる。
 よく封建時代の町人や農土の老人たちが、勉學な子に向つて「學問をしたつて腹は張らないぞ」と叱つたが、決して、笑へることではない、一面の眞理はある。學問をすれば腹が張るやうに教へたのは、西洋的な利己思想である、腹が張るつもりで、大學へ入つたり、書物にのみ噛りついてきた人間たちの今日は何うであらう、博士の失業者すらあるではないか、學士に至つてはルンペンの群の中にも見出される。
 學問で腹は張らないといふ言葉は幾分ほんとだつた。功利的な學問はその功利さへ與へない。「我への大願」である修養の一課目としてるのでなければ學問は死物だ。
 又、學問は、絶對にその國土の上に正しく立つた學問でなければならない。國體精神に據らない學問はその國家の上に於いては、學問の意義もなさないし、學問の使命に反してゐる。
 又「我」を力づけず、却つて「我」を誤つ學問も學問にならない。學問の光は、充實と、希望と無窮な人類の幸福を築いてゆく智惠の綜合光線だ。自己破壞、國家不安などを、學問は目的としない。學問と呼ぶも、それは人智で組みたてた文字の器械である。
 俺は農だ、俺は工だ、俺は商だ、食へてゐる以上、面倒な學問などはしないでもいい。
 假にさう考へてみたら何うなるか。それでも生きて行かれることは確であるが、だが人生の途中で後悔をしないだらうか。
 人間の生活が、原始的なままでゐるものなら、人間は學問をしないでもすむ。然し、人類が穴を掘つて棲むことを覺え、石で鏃や食器を作ることを考へ初めた時代から、すでに學問の力は生じてゐるのだ。まして現代のやうな社會に於いては、それに怠る人間の敗北は當然のことだ。農村であらうと、漁村であらうと、進歩性のある地上に、學問のなくてすむ所はない。
 自分の現在に即した學問を選べ、それが眼目である。職業の現在、境遇の現在、心の現在、自分といふものの立場を遊離しての學問はない筈だ。飽まで、現在のままにと私は望む。現在を充實し、現在の眼をひらかせ、現在の上に希望を持たせてくれる學問。
 勝利は、焦心あせらずに、やたらに動かない人に降る榮冠である。不斷に學問してゐる人物の「現在」は、決して前進のない現在ではない。われも人も氣づかぬまに、その人間の高さはいつのまにか違つてゐるものだ。
 地球のうちに國は多い。その多い國々の中で、僕等は何の天縁か日本に生れ、何の幸か世界に類のない皇天皇土に育まれ、五體のうちには又、地球上のどういふ民族よりも優美な「やまと・ごころ」に現はさるる血液を湛へて、しかも世界有史以來の今日といふ重大な時代に、青年として生れてゐるのだ。
 さういふ「我」である、一箇の「現在」なのである。又と生れ難い身と時だ、何んなに大切に持つても足らない程ではないか、その「我」を研かずに、碌々と朽ちてしまふのは口惜しいことではないか。
 繰返していふ。「修養とは我を愛する者の我への大願」である。
 いかによく「我」を持ち、「我」を生かし、悔なき一箇の人生を完うするか爲ないかの眞劍な祷りをもつて打つてかかる死ぬまでの心がまへなのだ。學問はその希望に伴うて起る當然な一つの行ひである。

 もし訊く人があつて、人生の快事と妙味はどこにあるかと問ふならば、私は言下に、逆境のうちに有ると答へる。
 順境は短く、逆境は長い。順境は滅多に訪れないが、逆境は頻々と來る。人生は逆境の連鎖だと覺悟してよい。たとへ今が順調らしくある時でも、いつ背後から組みついてくるかも知れぬ敵である。それに負け、それに飜弄され、一波々々の逆境の襲ふたびにいちいち溺れたり泣いたりして居た日には、人生は嘆きそのものである。
 然し事實は、逆境の裡にこそ、眞の人生味があるのであつて、逆境の快を味はなければ、遂に人生を味はずしてしまふのも同じことだ。
 元より無事なのに越した事はないが、どうせぶつかる逆境である、なるべく大きな逆境に立つて、まづ社會進出する前の自分を確乎と試錬してみるがよい。
 系累苦、事業苦、思想苦、戀愛苦、貧困苦、又あらゆる目的の蹉跌などに當つて、克ちとほすか、腰をついてしまふか、兩手をひろげて艱難に當つてみて差閊へない。諸君の精神は若いのだ、決して、避けるべきではない。
 だが現在、そのうちの何れかに直面してゐる人々は、必ずさうは考へられまい。十方暗黒な滅失の中に墜ち入つて、生涯の人世觀を黒くぬりつぶしてゐるだらう、困惑の檻に囚はれてゐるだらう。働けど働けど貧困は救はれないもの、歩めど歩めど目的は近づかないものといふ觀念に壓されては居はしないか。その結果、社會機構のせゐに考へてみたり、或は「俺は駄目だ」と自分を安價に見限つて、自暴自棄の穴へ逃げこんでゐる卑怯者はそこらに居ないか。
 嘘だ。目前の運命から襲はれる黒い錯覺を捨てたまへ。人生は刎ね返しの利くものだ、必ず打開の道のあるものだ。駄目といふのは、老衰と不治の病だけである。古人は「物窮まれば通ず」と云つた。ナポレオンは「不能とは佛蘭西の國語に非ず」と云つた。――相手を斬り伏せなければ相手から斬り伏せられる――あの劍道の生死の境地は瞬間のものだが、逆境はそれの長いものと思へば間違ひはない。克服して、逆境を後に見送つてやる時の快さは、嶮しい山岳を征伏して絶巓に立つた時のあの愉快さを千萬倍にも膨らませた心地と同じである。僞りなく、
「よくやつたぞ」
 と、自分を自分で慰め稱へて遣れる時こそ、人間は、眞實の人生を噛み味はふことができる。生命をよろこばす光輝をいつぱいに彩る。
 誰でも、現實にぶつかつてゐる逆境に對しては、息喘いきぎれと、困憊を感じ、とてもやりきれないと思ふ。然し、青年時代の苦勞などは、殆ど、なぎさのさざ波である、三十歳臺、四十歳臺と、沖に出れば出るほど、次々に大波が待つてゐるものと思はなければならない。青春早くもこの波涛に弱音を吹いてしまふやうな事では、所詮長途の難を越されまいと思ふ。すでに活社會の選手權を放擲した者に等しい。その社會組織に對し、周圍に對し、批判や不平を鳴らす資格もない者である。――例外な病者でもない限りに於いては。
 人間は誰でも、世の中で自分ほど苦勞した者はないと思つてゐるらしい。すこし逆境らしい道を通つて來た者ほどさう考へてゐるのが多い。殊に、三十歳を出たか出ないの青年が、
「私ほど辛酸を嘗めてきた者はありません」
 などと人前で語るのはをかしい。それがどれほど深刻な事情であらうと、慘澹たる窮乏であらうと、要するに、思想も社會立場も青年でしかない時代の辛酸である。嬰兒の齒痛であつて、晩年の大患とは比較にならぬものである。それをもし大きな辛酸を經て來たなどと考へてゐたら、やがて來る次のものには一たまりもなくベソを掻いてしまふだらうと思はれる。
 ましてその辛酸が、一家の老幼を負ふのでもなく、自分一箇だけの衣食の問題に過ぎぬやうな事であつたら、猶さら人に語るのも見つともない。よく俺は幾日食はなかつた事もあるなどと、過去の荊棘を語る人もあるが、一家の爲とか、主人の爲とか、社會の何かに貢獻する爲でもあつたのなら知らず、わづか一身だけの貧困などが、なんで苦勞といへるか、人に話せることか。
 押すか押し倒されるかの※(「口+云」、第3水準1-14-87)あうんのあひだが逆境である、張りきつた生活力がそこに湧く。人生の最高な緊張を歩みつづけることは、即ち人生の最高な眞實を味はふ事でなければならぬ。
 自分には無いと思ふ力も、逆境に強要されれば出て來るものだ。一度出た力は信念になる、次の艱難に當れば更に次の力を引きだされ、一難ごとに、信念の上に信念を加へて行く。そこに強固な生活力を持つた自己が作られてくるのである。越えては迎へ、越えては迎へて、人生の萬波を半にしながら後を省みる時、心から感謝することは、強い生活信念と生活皮膚を養つてくれた逆境の訓育である。逆境はきびしい恩師だつたとその時になると沁々有難く思ふ。
 息づまるやうな暴風雨を正面にうけながら顏を俯向けて一歩々々押しきつて歩いてゆくあの時の氣持で、一つの逆境を歩みぬけた後の爽快さは、到底、無爲平凡な日ばかり送つてゐる形だけの幸福者には味はへないものである。幾度の逆境との鬪ひに、信念がついてからは、この社會を生きてゆくといふ事にひとつの「底」が肚にすわつて來る。山中幸盛が詠じたやうに、
憂き事のなほ此上につもれかし限りある身の力ためさん
 鎧袖がいしう一觸の氣をもつて、それを克服しつつ處世するところに、無駄なく、不斷に自分をも鍜錬してゆかうとする快活な餘裕さへ自ら保たれてくる。
 肉身と肉身との愛情なども、濃いが上に濃くなつて來るものだ。艱苦にふき曝されて、兄弟や親子のあひだに、物質的な冷たさを抱きあふ場合などは、まだまだそれが眞の逆境とはいへない程度の淺い貧しさだからである。ほんとのどん底といふものは、人間を情美の權化にさせてしまふ。惡の棲む餘地はない。
 肉身以外の者の、蔑みとか、冷淡とか、嘲笑などには、胸をひらいて受けておくがよい。そして忘れなければいいのだ。
「今に見ろ」
 といふ他日のことを、將來のことを。
 自分の現在がどうやら衣食に足りてゐるが故に、かういふ言を弄ぶのでは決してない。
 逆境はおもしろい。
 苦勞を苦勞だけのものに思つて閉ぢこめられてゐたら、人生は、苦勞の箱だ。苦勞を人生の快味として噛みしめるところに、初めて、複雜な生の味覺が生じても來るし、常に、爽快な運命の展開が面へ吹きつけてくる。
「今に見ろ」
 は、山の中腹だ。
 頂上の平地は坦々として無味か、或は、上り切つた行きどまりを意味する。ただ中腹から仰ぐ憧憬の焦點であるが故に頂上の尊敬はあるのであつて、眞の人生味は、中腹の嶮にあると思ふ。
 逆境にある青年は、果して、今の自分を幸福だと自覺してゐるだらうか。怖らく反對だと思ふ――さう考へられないのは、やがて將來には、今の境遇を見返してやるのだといふ自信が持てないからではないか。

 生活してゆくには食はなければならない。職業は、食ふ爲であることに間違ひはない。
 然し、職業を、金や物資に換へるだけのものとの考へで爲てゐたら、人間の汗ほど、安ツぽい物はあるまい。努力の終日を、金に換算してみて、それだけで、滿足が感じられる人間はあるまいと思ふ。
 わけても、百姓の仕事等は、換算率に於いて、歩が惡いのである。工場に働く者だつてさうだ、漁業でも同じだ。都會の種々な職業線にしたつて、決して、職業は、報酬の額のみで、勤勞の精神を滿足させてはくれない。
 田を植ゑてみる。
 泥土の中に、汗を流して、この苗一つが、幾値いくらになるかといふやうな考へだけで働いてゐたら、沸いてゐる泥田の蛭に食はれて、半日も、働いてはゐられまいと思ふ。よしんば、それも生きる爲と、宿命的にか、或は、無自覺な我慢の下に働いてゐるとしても、それでは、餘りにも、人間が不幸ではあるまいか。又、そんな無自覺や、我慢が、何處までつづくか。
 艱苦と、窮乏は、今の農場では、※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしツても※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)ツても生えてくる雜草と等しく、殆ど、清掃される遑もない時代にあるが、鎌に觸るる朝露の音にも、鍬を立てて四顧する山野にも、朝夕の道の邊にも、農村には實に自然の伴侶がある。植ゑてきた苗を渡つてくる田水のそよぎにも、すぐ、その自然美と、
「俺の植ゑた田だ」
 といふ實際の結果とに、尊い汗の報はれを感じることができる。
 農村生活の特長は、數へれば、まだ幾らも擧げ得られるが、單純に云つてそんな點だけでも、工場で働く者や、都會の熱鬧の中で呼吸してゐる者とは、較べものにならない。
 だが、常に、向ふ河岸の、よく見えるのが、人間の眼である。
 農村の人は都會を――都會の者は自然に富む郷土を――、兩方から向ふ河岸は※[#「義」の「我」に代えて「咨−口」、U+7FA1、301-13]望され易い。從つて、自分の工場に、又職業に、不滿を抱く、信念を缺いてくる。
「私は百姓です」
「私は八百屋です」
「私は職工です」
 そんな事すら、改まつた場所だと、云ひ憚る人がある。職業に信念のない證據であらう。何といふケチな態度かと思ふ。自分の職業を自分で卑下してゐるやうな事ではその人間の發展も覺束ない。又、職業といふものと、人間の價値といふものと、混同してゐるものである。
 自分の天職に對して、その職に成り切つてゐる人を見ると、私は自然に頭の下がる氣がする。――交通巡査が交通巡査に――看護婦が看護婦に――百姓が百姓に――職工が職工に――すべての職業人が天職に向つて他目わきめも觸らないでゐる働きぶりを見かけると、偉い、と眞底から思ふ。その姿こそ、人間として實に立派だと思ふ。然し、職を持たない人は殆ど無いわけだが、その職に成りきつてゐる人間は、之又、殆ど少いと云つてもよい。
 秀吉の偉さは、その職に成りきつた所にあると思ふ。草履取になれば、彼は又と無い草履取になつた。足輕になつても、侍格になつても、彼は、與へられた職分に於いて、その人になりきつてゐる。職業を變へてゆく事が、向上のやうに考へて、現在に懶怠らいだな人物などは、いくら方向の轉換を繰返しても、徒らに、さかとんぼを打つてゐるに過ぎない。ほんとに向上する人物は、紙屑屋なら、死ぬまでも、紙屑屋をしてゐるやうな顏をしてゐるものだ。
 生活力といふものは不思議な力のものである。自分一人の口を糊しようと思つて、あくせく背骨を曲げて歩いてゐるやうな者は、およそ、その人自身の口一つさへ食ひかねてゐるものだ。
 一家の責任を負つて、六、七人もの糊口を過さんと、孜々として働いてゐる者が、やつと自分と女房子ぐらゐを細々養つて行かれるぐらゐが關の山な實社會である。それが多數の生活實態である。
 一村の計を、一町の計を、自分の腕で立ててみせるといふ程な心ぐみで、驀しぐらに働く時、初めて一家の計が立ち、やつと、幾分かの餘力を生じて來るのではあるまいか。大言壯語といふものは、口から外へ出しては、兎角ゆかしげのないものであるが、百姓は、り下ろす鍬の下に、
「この鍬で、おれが日本の臺所を背負つてゐるのだ」
 と云ふ位な信念はあつてもよい。工場に汗と油でまみれてゐる者も、
「おれの汗は、日本の産業を動かしてゐる油だ」
 と、信念していい。
 商業に、漁業に、又どんな雜業と雖も、職業には、かういふ光輝があるのだ。「食」は、働く者に當然與へられる天祿であり、「職」の使命は、もつと高い人類への貢獻にあるのである。「天職」といひ「職業の神聖」とは、そこで初めて云ひ得るのである。
 更に、もう一歩、われ等の天職と、使命について、深く考へてみる必要がある。
 非常時といふ聲は、流行的な時潮に乘せられて、すでに昨日の叫びかのやうに薄れ去つたが、依然として、皇國の前途には、非常時以上の難礁が、世界的に狂瀾の底に、根ぶかく横たはつてゐることは、諸君とても、否み得まい。
 一日々々の生活道に於いて、すでに一身一業を持ち、しかもその上[#「しかもその上」は底本では「しかも その上」]、青年として、重大な未來を期待されてゐる諸君である。今を――この一日々々を、いかに信念して働いて行くのが正しいか。この稿は、それ一つを、諸君に告げ得ればそれで足りる。
 幸ひ、先賢の言葉がある。幕末の人、大和五條の森田節齋の一詩に、
長槍ちやうそう大劍たいけん非我事わがことにあらず
ふでをとつてむくはんとほつす聖明君しやうめいのきみ
 と云ふのがあるが、その節齋が、中川親王へ上せた書の中に、
殉國之具は、獨り刀劍のみと爲さず
文筆も亦、殉國の具たり
 といふ一節がある。節齋は文人なので、かう云つたのであるが、私は、更にそれへ次の一章を加へて、彼の信念を普遍して、その儘、諸君へ贈つても、節齋に不服はあるまいと思ふ。
殉國之具は、獨り文筆のみと爲さず
鍬、亦然り
鐵槌、算帖、亦然らざるは無けん。
 繰返して云ふ。「食」は天祿である。働く糧である。食ふことは、鳥獸ですら爲る。――然し、「職」は、貢獻だ。鳥獸の爲ないことである。

 起て、叫べ、躍進せよ。かう云へば青年の氣に入る、青年自體が、その精神期と生理状態が、すでに躍動的なものだから。
 その意力や體力は尊いものだ。だが、いたづらに用ふべきものではない。動くべきではないと思ふ。動にも正動と盲動がある。
 山陽の子、頼三樹だつたと思ふ、知人へ宛てた手紙のうちにかう云ふ意味の語を洩してゐるのを見た。
――近頃は國事横議ばやりにて、悲憤慷慨せざれば人でなきが如く世事相見え候も、由來、昂肩横刀の唾辯家にまことの志あるは見難しと存候小生など元々悲憤慷慨嫌ひの小膽者にて……云々。
 安政の大獄にあの壯烈な殉國死をとげた人にして、平常、かくの如き沈湎ちんめんな謙讓を洩らしてゐるのである。
 文化や國情は變化しても、人間のもつ本質はかはらない。兩刀こそおびてゐないが、今日でも悲憤慷慨の唾はずゐぶん吾々の顏にかかる。然し、それが何の益ぞ。
 さういふ聲に青年はめつたに動いてはならないし、又自分がかぶれてもならない。たとへば、一頃の赤化運動とか、政黨鬪爭とか、さういふ熱の昂つた時でも、すこし沈着な靜思を平常に持つてゐたなら、ああいふ盲動やお先棒を青年は擔がずに濟んでゐたらうと思ふ。
 地方を旅行してみると、選擧肅正の運動の下から、すぐ違反事件がとび出したり、政治運動化してゐたり、又、いたづらに國事に名づけて青年を糾合したり、目まぐるしい現實を隨所に見せつけられる。
 又、都會にあつては、ここにも青年の神經を徒らに騷亂するものがある。むかしの浮世風呂にかはつて、近頃では公然と刊行物がものをいふ。
 職業へ驀ツしぐらにかかる、生涯の或る目標へ必死にすすむ、勿論いいことだ、さういふ正しい奮鬪をやすめとは云はない。私の云ひたいのは、ここ數年青年は動搖期だつた。それも體驗にはなつたが、一應この邊で各々が落着いて、靜思の一時間でも持つてもらひたいといふことである。偉大なる青年の「正動」は、靜かな「蓄力」から生まれないで何處から出て來よう。
 前章にも云つたが、
「うごくな、うごかされるな!」
 これを私は暫く同氣の諸君と共に目標として在りたい、無爲に居るといふのでは勿論ない。
 靜心蓄力
 だ。また靜觀養心だ。ほんとに國家が全青年の奮起を要する大事にいたる迄は、山の如く林の如く、われ等はつまらない事々にうごくまい、うごかされまい。
 備へておかう、身を精神こころを、養つてゐよう。
 秋である。燈下書に親しむの時だ、一日寸念でもよい、一日一章でもよい、業の餘暇、靜思して日本の明日を見まもらう。

 人智――進んでやまない吾々の科學的なものの考へ方は、遂に、神へまで及ぼしてゐる。いや神は無いものとして、失ひかけようとすらしてゐる。
 神とは何か。
 神はあるか、無いか。
 神は、眼に見えない。然し、神は屡々僕らの眼にその力を顯然と示してゐる。日本の建國史は神々の業である。史上の國難のページには必ず神力があり、神人の犧牲がある。
 神國といふ言葉は、日本に於いてのみは、決して、架空ではない。それを「無」とするならば歴史を「無」としなければならない。
 正しく、われ等の踏んでゐる國土は、神土である。
 信仰、又精神、さういふ幽玄な學問から神を觀るならば、神は、この宇宙と大自然のそのままが神のすがたであるともいへよう。われ等を生んだ創造の母胎こそ神であるといふのも一説である。いはしの頭も信心といふ諺は、萬物すべて神であり、唯一信心に依るといふ説き方であるが現代人に、殊に青年の思想では、さういふ盲拜的な信心力は沸り得ない。
 定義し得ないものが神だ。
 神とは、かかる物なり、と人間の使用してゐる言葉のうちでは云ひ得ないものが神である。
 神は、ほかに有るものではない。我といふこの身こそ、神である。
 これはやや神に近いものを云ひ現はしてゐるけれど、また、そんな言葉では足りない。又、淺く考へられると、神を誤まる惧れがある。
 やはり、神は、人間より遙かに遠いものだ、高いものだ。
 然し、求めれば、自分の内にさへ、頭にさへ、神は宿る。
 人間は、神になれる。だが、人間は神と正反對なものに成る性能も多分に持つてゐるものだ。
 もし吾々の住む社會に神が無かつたら何うだらう。まづ、人類の精神美は、殆ど、眞つ黒に消える。恐怖と、不安ばかりの社會にならう。警察力などは、何の用もなさないに違ひない。猛獸に、智惠を加へたやうな生き物と生き物とが、唯、生存を爭ふのみの怖しいこの世を現出するに極つてゐる。
 なぜならば、人間が、他の幸福を尊重することや、他を愛する心などは、すべて、神の働きだからである。
 大きな愛郷心や、愛國心は、その儘が、神である。史上の偉人を祠り、郷土の恩人を祠るのはその人の赫々とした權化の鏡を、われ等に反映して、われ等の血のうちにもある。神の働きを墮眠させない爲である。神前に立つて禮拜する時、拍手は大きく打て、われ等のうちの神も醒めよと。
 唯物主義者は、自分たちの偏頗な學理に、勝利の定義を確證しようとして、神の無を主張し、神の衣を剥ぎ、神の正體を、人間生活のうちから否定し去らうとするが、遂に、また彼等の理智は、それを爲し得ない。いや、爲し得ないのみでなく、遂に、彼等も亦、いつのまにか神のうちに住み、自身のうちに神を抱いてゐる。
 ロシアのマルキシズム國策は、神を否定し、宗教を破壞し去つて、國民から、神を奪りあげたが、國民は熾烈に神を求め、いつのまにか宗教を、再建してゐるといふ最近の實相などを見ても頷ける。神の否定はそのまま、人間否定である。
 先頃、東京灣に、第一艦隊が入港した折、參觀を許されて徳田秋聲、上司小劍等と共に、三隈を觀た。
 その折、感じた事であるが、軍艦ほど、科學的なものはない。あらゆる科學の精粹と最新式な人智を以て人間の腦髓のやうに科學を詰めこんだものが近年の軍艦である。三隈は昨年の八月に竣工して、世界的な優秀巡洋艦と云はれてゐるものだけに、その威力は驚くべき超科學的なものである。
 又、その艦内に住む士官、水兵、火夫の衣食住に至るまで、すべて嚴密な數學と科學化に統制されたものであつて、ここに微塵の土もないし草もない。
 處が、副艦長と海軍省の將校に導かれて、上甲板から順次、中甲板まで觀てゆくと、鋼鐵の壁と、鋼鐵の梁とで組まれた狹い天井の一端に、小さな一すゐの燈芯がともつてゐるので、よくよく凝視すると、それは、僕らの家にあるやうな檜の板で吊つた神棚であつた。
 何か、異樣な氣持に打たれて、私たちは、その神棚の下に佇立した。三隈といふ艦名は、飛騨の三隈川の地名をとつたので、その河川の上流にある郷社の神魂みたまを艦に移して來たのです、と案内の副艦長は僕らに説明した。
 神を禮拜せよといふ規則はべつに設けてないが、士官、水兵たちは、必ず毎朝の起床後には、ここへ來て拍手を打つといふ事でもあつた。
 又、海洋遠く故國を離れてゐる時は、この一穗の神灯みあかしが、日本そのものの一點の明りに見えるとも副艦長は云つた。水兵たちの故郷の家から、老いたる母が病氣であるとか、弟妹の身に心配事があるとか便りのあつた時は、その水兵は、日に幾度も、この神棚の前へ來て、默祷してゐるさうである。
 郷里の風水害と聞けば、水兵等は、郷土のつつがない事をここへ祈念し、演習といへば、戰といへば、こぞつて、ここに報國の誓ひをするのですともその副艦長は僕等に話した。
 世界優秀な科學と威力の鐵壁、その中に住んでも、人間は、遂に、一穗のあかし――精神の燈火――それが無くては居られないものだといふ實際を僕は軍艦の中で觀た。
 帝國軍艦の超弩級戰艦をはじめ、日本の軍艦には、すべて、三隈と同じ神棚が必ず一ヶ所に祠られてあるのですと聞いて、猶更、その感を深くした。
 渺々の海洋上に於いてさへさうである。いはんや、われらの遠い祖神人の踏み耕やして來た農土の上には、神、顯然と在さずして何うしようか。
 ビルデイングの内、機械油の煤る工場の内、われ等の生活の灯ともる所、神のおはさぬ所はない。神が無くてよい所はない。
 科學萬能的な考へ方と、科學至上的な現代社會相のうちでは、ともすると、一穗のその灯が、人々の心から、消えなんとし、細々と捨ておかれ勝になる事は怖ろしい。
 と云うて、われ等は、神の存在を信奉する餘り、神に恃む心を起してはならない。その場合こそ、心のうちにも外にも、神はない。
 宮本武藏は、自著獨行道のうちでかう誡めてゐる。
 われ、神佛を尊んで、神佛を恃まず。

 あらゆる事相に對して、明確な認識を青年は持つべきである。青年道に、忌避、回避はない。澄徹した觀照の下に、理解を信念化して、常に丹田にすゑて置くべきだ。わけても、金は、精神に對立する最も大きい物的存在である。それに對して、はつきりした心構へと定見を持つことは、云ふ迄もなく、處世の備へであり、又、青年道の大事でもある。――然しながら、私はいはゆる利算の法を説くには適しない人間である。ここに云ふところの信念は、即ち、それに不適な人間の信念であつて、利殖拜金の學問ではないことを斷つておく。

 金は大いに儲けたいものだ。正々堂々、儲けるべきものだ。
 大いに意義のある仕事を爲すためには。
 小さくは寒い一家の計を暖かにさしてやる爲にも。
 郷土、或は、國家の爲ならば、猶、わき目をふらず蓄めてもいい。
 金は、懷中に入れると、血管にまで浸みこんでゆく。なぜならば、持たない前と、持つた後とは、その人間の心までを變化させる力があるからである。
 金は、懷中で持つものだ。血管にまで金が浸みこんだ人間の人格は、もう、人間の人格とは云へない。それは金の人格である。
 金以外に、昂奮も感激もできなくなつた人間は、モルヒネがなければ生きてゆくかひが無いと云ふ人間と同じ不幸者である。金以外に感激のない人間は又、危險である。友情も、恩義も、或る場合は骨肉をも裏切るくらゐの兇勇を金の爲には奮ひ出すからである。
 金、金、金と、口癖に云つてゐる人間が、金から滿足を得た例しは殆どない。
 なぜならば、社會は、餘り露骨に欲する者には、却つて與へたがらない、意地のわるい反對心理をも多く作用するものだからである。泳ぎながら水の上の西瓜を追つてゐるやうな男の人生を見ると、滑稽と憐愍を感じる。假に、滿足を感じ得る僥倖に遭遇しても、途端にその男は、金の下になつて溺れてゐるにちがひない。
 銘刀を持つにも、銘刀を持つだけの腕が要る。
 金を持つにも、程度に依り、それだけの人間の格が要る。
 不要意に、金を持つた人間が、金の爲に生涯を害されるのは、金に暗殺されたのと同じである。
 自己の素養ができないうちに、金のみを渇望してゐる人間がよくあるが、さういふ人間に、持つだけの素養を人格に心がけてゐる者は尠い。
 大きな金を望まないから、今日をもうすこし樂に切りぬけるだけの金が欲しいなどと嘆いてゐては、所詮、零細な端た金の餘裕もついて來る筈はない。
 眼の前の百難と鬪ひぬいてみる。汗も血も絞りつくしてみる。氣がついてみた時は、必ずそんな程度の望みはいつのまにか遂げられてゐる筈だ。今の社會組織は、金力が多くを支配するかはりに、努力に對して金が無反應であることは絶對にない。
 もし、かりにである。
 飢渇と寒さにふるへてゆく十二月の晦日に近い道に、金が落ちてゐたとする。
 それへ、手を出す前の人間の心理は、どう動くだらうか。
 やはり誰でも無意識にも一度はその前に立ちどまるだらう。――然し、その一瞬におよそその人間の將來は計ることができる。
 もし、その金を、一笑して、石のやうに見て去る人だつたら、その男は、生涯金に困らない人間になると思ふ。
 反對に、それを拾つて、一時の飢寒をなぐさめた方は、その後も、更にひどい飢寒に度々見舞はれる人だらうと思ふ。
 青年時代には、衣食とたしなみの金にさへ事を缺かねばよい。場合に依つては、生きて行かれる程度の金さへあればよい。修養鍛錬は、後にはでき難いが、金はいそぐにあたらない。又急いで得られる物でもない。たとへ僥倖な利を青年期に占めた例外があつても、それが終生の幸福になつた例外は殆ど稀れである。
 無視できない、卑しむべきでもない、日々に、事々に、金の力は、精神力へ向つて、威を誇り鬪ひを挑む。
 精神力だけでは生きてゆかれないが、金だけならば何といはれても生きてゆかれさうな氣がするので、人間は、脆くも、自己鍛錬も、道義も、人格も、放抛してしまふのである。金錢至上主義の小さな殼に入りこんで蟲の如く棲んでしまふ。
 だが、事實は、反對だ。
 金だけでは、人間は、天與の生活を宏大清明に樂しむことはできないが、精神的に生きるぶんには、悠久な富國長春の人生を樂しみあふことができる。
 なぜならば、正しい精神力には、必然物質を生じてくるからである。
 悲劇、罪惡、あらゆる人生の醜惡面を、金は惡魔的に孜々として描き出す。
 然し、人間の美――文化への貢獻、周圍への救援、弱い骨肉への扶養――と云ふやうな涙ぐましい善事も金がする。
 紙幣は、人間が、便法としてつくつた假定の證標であつて、眞實は、金のやり取りが社會でも人生でもない。精神の代表を運輸してゐるのだ。
 要するに、金は、やはり單なる「唯物」ではない、「精神」である。

 正月だ、酒の香ひに充ちる新春だ。酒を語るも又よからうと思ふ。
 酒に飮み方はない、米に喰ひ方がないやうに――。だが、米や物を喰べるのは、肉體を養ふのが目的だし、酒を飮むのは、精神を樂しましめる所に本來の目的があるのであるから、盃を持つ場合と、茶碗を持つ場合とでは、自ら心の措き方が違つてゐる筈のものだ。從つて、そこに作法の相違はあるわけになる。そして、かういふ事が先づ酒を飮む折の原則として心になければならないと思ふ。
 物を食ふごとく酒は飮むべきものでない。
 酒は米の水だといふけれど、僕に云はせれば、酒は日本刀を液體にしたやうなものだと云ひたい。洋酒は音樂に近い。日本酒はさながら日本刀の味に似てゐる。
 あの清淨冷徹なにほひ、あの芳烈無比な味。
 酒は斬れるものだ。
 まちがふと、人も斬る、自分をも斬る。
 銘刀をあつかふには、名匠のたましひに觸れるだけの心構へが要る。酒を飮んでたのしむには自分のたましひに怪我をさせない程な要意がいる。人と交つて飮むには更に戒心を要する。
 手――盃に觸れる時、心に、日本刀のあの冴えたる斬れ味やにえやみだれを思うて見る。色、香、味。さながら銘刀を飮むやうに美味くなければならない。
 組し易しと侮つて、酒をいじると、酒のために斬り伏せられる。當然なことだ。青年が酒の爲に過つのは、酒がわるいのではなく、酒のあつかひ方を知らぬ爲である。子供が日本刀を弄具にして血みどろになるのと同じ事だ。指ぐらゐ落して濟んでゐるうちはまだよいが、しまひには、生涯の運命を血みどろにしてしまふ。
 酒を惡魔視してゐる人がある。酒の害ばかり觀念して、酒を罪惡のやうに見る。恐いもの扱ひにする。あれもいけない。
 恐いと云つたら、人間が何より恐いものだ。惡魔質も害毒性も、酒よりは人間の方が持つてゐる。その人間の中に住んでゐる人間である。酒を恐がつて、酒と交際はないほど偏狹を持つなら、人間とも交際ひを斷たなければなるまい。
 友を選ぶが如く、程よく、酒とも理解を持合ふべきである。――自分が飮んでも飮まないでもである。
 吾人の周圍をながめると――知己の間にも、系累のうちにも、酒に肉體を害され、酒に人生の行路を過つた者は、ずゐぶん尠くない。
 時には、酒毒、九族にも祟る。
 だからと云つて、僕は酒の害のみを説けない。むしろ、さういふ一面があればこそ、僕は、酒に學びたい。師に師事するごとく、敬虔に酒につかへ、酒からも人生を學びたい。
 飮むと赤くなる。あのやうに、酒は、常にひそんでゐるその人間の性格をも外へあらはしてくる。
 友と飮めば、忽ち親しくなる。初めて會つた人と飮んでも、十年の知己のやうに振舞ふやうになる。
 酒のうへでは、性格をかくされないものである。で、酒を人と飮む事は――人間のたましひとたましひとが素肌で觸れあふやうなものだ。
 醉ふ人を見たまへ。
 痴人は痴を吐く、狂人は狂を吐く、利己人は利己を吐く、詩人は詩を吐く。
 ふだんの賢人も、ここでは、本音をふいてしまふ。素肌のたましひが躍動して出る。血管にない血が色に出る筈もないやうに、たましひに無いものは決して言語や振舞に出る譯のものではない。酒の上などといふ云譯は絶對に爲ないものだ。酒のうへの事も亦、人間の眞實を表現してゐるものに他ならない。
 酒のうちが、いちばん人間がわかる。同時に、酒のうちでは、自分といふものも、最もむきだしに人中へ見せてゐる。
 戯れつ、唄ひつ、笑ひつ、心をたのしませて飮んでゐても、酒は、いつも眞劍勝負である。さういふ時ほど、實は白刄の中である。
 白刄の中に樂しむ事が大勢で飮む酒である。白匁にすくんでしまつてもいけないのだ。妙に構へてゐてもいけないのだ。春風と柳の葉の樣に睦じくなければ酒をのむかひもない。大勢で飮む樂しみはない。
 飮むといふのでは、まだ酒を解さぬ人である。仰飮あほるなどは、愚の沙汰だ。よく酒量を誇つて大杯で鯨飮をやつて痛快がる人があるが、小便の逆さま事にひとしい藝である。
 たしなむといふ言葉。酒はたしなみでありたい。
 又、飮むといふよりは、酒を愛するのでなければならない。愛することは、淫することではない。名墨を摺るごとく、黄金をながす如く、一滴も惜み味はふこと。
 又、酒以外の境地――ゆるされたる人生のうちの少時間を、生命のふくらみを和やかに醗酵された氣分のうちに樂しむのでなければ酒は何等の意味もない。
 舌で飮む酒は危險が多い。
 人のたのしむを以て、自分もたのしむ。
 酒の眞味は、これ以外にない。
 獨り酒をのむ場合も同じ氣持ちでなければならぬ。
 自分を自分で、つつましく、宥はり、なぐさめ、感謝し、鼓舞する。さういふ慰勞の一酌こそ酒は米にも優る氣がする。
 自暴、狂噪、愚痴、麻睡、怠惰を求めて飮むなどはおよそ滑稽な自殺行爲にひとしい。青年の最も唾棄すべきものだ。かりにさういふ性癖が自己のうちに微量でもあると自覺したら、今のうちに戒心して、敬虔に酒に師事せよ。酒に修養せよ。
 出來ない者は、盃を石に向つて捨てろ。

底本:「折々の記」一家言叢書、全國書房
   1942(昭和17)年5月10日初版発行
   1943(昭和18)年3月1日4版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「源左衞門」と「源左衛門」の混在は、底本通りです。
※3ページ9行目と284ページ3行目の「湃」は底本では「湃」のつくりの4本の横棒が3本です。
※「體」は底本では「體」のへんの「「」が「人」です(281ページの中見出しを除く)。
※「折々の記」六興出版社、1953(昭和28)年12月25日初版発行のものは戦後の随筆を収録したもので、本編は「窓辺雑草」「草思堂随筆」からテーマ別に抜粋収録したものです。
入力:川山隆
校正:トレンドイースト
2013年10月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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