前に言ひし文章の音律とは、今の小説では、十七八の娘だと地の文に書いてあるから、其會話が十七八だと思つて見るが、此れは眼に見せる文章で、十七八の娘とも何とも斷り書をしなくとも、讀んで十七八の娘だと聞えなければいけない。眼を閉いで會話を讀むのを聞くと、十七八の娘か六十幾歳の老婆か分らぬなどは心細い。當りさはりがあるから例は出さぬが、ひどいのは、口に出して讀んで見ると、男か女か分らぬのさへある。予は文章は見るべきものでなく、讀むべきものだと思ふ。口に出して分らぬやうなのは好く無い。會話のみを云ふのでは無い、例へば「雨が降る」と云つても、雨の音が聞えなければならぬ。文章でいかにも雨が降つてるなと感じさせねばならぬ。「雨が降る」といふ文章を見て、其の感の無いのは眼に訴へるので、書いてあるから、雨が降つてるのだなどは宜しく無い。ツマリ、耳に聞かす注意がないからである。「ユツタリと……」とか「悠然として……」とか書いても、其文の音律が沒却されてゐては、讀んで見ると悠然でも何でもない、文字には悠然として何とか書いてあるに拘らず、其悠然が駈つこしてるなどがある。
音律といふ事は、文章の一機能である。文章に音律を沒却しては苟も文章とは云へない。さうでせう。「いづれのおんときにかありけん」と源氏の書出しであるが「何時だつたかね」と云つては、源氏も何もあつたものぢやない。曉臺の句に
まくり手に踊くづして通りけり
といふのがある。此句に音律があるから、讀んで――見ただけではない、如何にも腕まくりした男が、盆踊か何かの踊の一團を崩して、悠々として通るのが表れてゐる。「まくり手して踊を崩して通つた」では其趣が出ない。白雄の句にも夕月や柳がくれに魚わかつ
といふのでも「夕月に柳のかげで魚を分けてる」では矢張趣が出ないと云つたやうな譯である。それで音律を忽せにして、眼にのみ見せようとするのは、文章ではないと思ふ。女房が借金取が來て仕樣がないといふと、亭主が借金取が來ても、泰然自若たりだといふと假定する。處で、此女房が眼に一丁字の無いもので、泰然自若の意味が分らなくても、其言葉で如何にも泰然自若たる處が表れてゐなければいけない。是が音律を忽にすべからざる點だと思ふ。無學の者でも、文章を聞いて其趣を捉へることの出來るやうに書くのが、文である。其れは一にまた音律の如何に依るのであると思ふ。
明治四十二年五月