吾輩ハ猫デアル

吾輩ハ猫デアル

夏目漱石




 

 「吾輩は猫である」は雜誌ホトヽギスに連載した續き物である。固より纒つた話の筋を讀ませる普通の小説ではないから、どこで切つて一册としても興味の上に於て左したる影響のあらう筈がない。然し自分の考ではもう少し書いた上でと思つて居たが、書肆が頻りに催促をするのと、多忙で意の如く稿を續ぐ餘暇がないので[#「ないので」は底本では「なので」]、差し當り是丈を出版する事にした。
 自分が既に雜誌へ出したものを再び單行本の體裁として公にする以上は、之を公にする丈の價値があると云ふ意味に解釋されるかも知れぬ。「吾輩は猫である」が果してそれ丈の價値があるかないかは著者の分として言ふべき限りでないと思ふ。たゞ自分の書いたものが自分の思ふ樣な體裁で世の中へ出るのは、内容の價値如何に關らず、自分丈は嬉しい感じがする。自分に對しては此事實が出版を促がすに充分な動機である。
 此書を公けにするに就て中村不折氏は數葉の挿畫をかいてくれた。橋口五葉氏は表紙其他の模樣を意匠してくれた。兩君の御蔭に因つて文章以外に一種の趣味を添へ得たるは余の深く徳とする所である。[#「。」は底本では「、」]
 自分が今迄「吾輩は猫である」を草しつゝあつた際、一面識もない人が時々書信又は繪端書抔をわざ/\寄せて意外の褒辭を賜はつた事がある。自分が書いたものが斯んな見ず知らずの人から同情を受けて居ると云ふ事を發見するのは非常に難有い。今出版の機を利用して是等の諸君に向つて一言感謝の意を表する。
 此書は趣向もなく、搆造もなく、尾頭の心元なき海鼠の樣な文章であるから、たとひ此一卷で消えてなくなつた所で一向差し支へはない。又實際消えてなくなるかも知れん。然し將來忙中に閑を偸んで硯の塵を吹く機會があれは再び稿を續ぐ積である。猫が生きて居る間は――猫が丈夫で居る間は――猫が氣が向くときは――余も亦筆を執らねばならぬ。

 明治三十八年九月  夏目漱石



 第一

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生まれたか頓と見當がつかぬ。何ても暗薄いじめじめした所でニャー/\泣いて居た事丈は記憶して居る。吾輩はこゝで始めて人間といふものを見た。然もあとで聞くとそれは書生といふ人間で一番獰惡な種族であつたさうだ。此書生といふのは時々我々を捕へて煮て食ふといふ話である。然し其當時は何といふ考もなかつたから別段恐しいとも思はなかつた。但彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフハフハした感じが有つた許りである。掌の上で少し落ち付いて書生の顏を見たが所謂人間といふものゝ見始であらう。此の時妙なものだと思つた感じが今でも殘つて居る。第一毛を以て裝飾されべき筈の顏がつる/\して丸で藥罐だ。其後猫にも大分逢つたがこんな片輪には一度も出會はした事がない。加之顏の眞中が餘りに突起して居る。そうして其穴の中から時々ぷう/\と烟を吹く。どうも咽せぽくて實に弱つた。是が人間の飮む烟草といふものである事は漸く此頃知つた。
 此書生の掌の裏でしばらくはよい心持に坐つて居つたが、暫くすると非常な速力で運轉し始めた。書生が動くのか自分丈が動くのか分らないが無暗に眼が廻る。胸が惡くなる。到底助からないと思つて居ると、どさりと音がして眼から火が出た。夫迄は記憶して居るがあとは何の事やらいくら考へ出さうとしても分らない。
 ふと氣が付いて見ると書生は居ない。澤山居つた兄弟が一疋も見えぬ。肝心の母親さへ姿を隱して仕舞つた。其上今迄の所とは違つて無暗に明るい。眼を明いて居られぬ位だ。果てな何でも容子が可笑いと、のそ/\這ひ出して見ると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。
 漸くの思ひで笹原を這ひ出すと向ふに大きな池がある。吾輩は池の前に坐つてどうしたらよからうと考へて見た。別に是といふ分別も出ない。暫くして泣いたら書生が又迎に來てくれるかと考へ付いた。ニャー、ニャーと試みにやつて見たが誰も來ない。其内池の上をさら/\と風が渡つて日が暮れかゝる。腹が非常に減つて來た。泣き度ても聲が出ない。仕方がない、何でもよいから食物のある所迄あるかうと决心をしてそろりそろりと池を左りに廻り始めた。どうも非常に苦しい。そこを我慢して無理やりに這つて行くと漸くの事で何となく人間臭ひ所へ出た。此所へ這入つたら、どうにかなると思つて竹垣の崩れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もし此竹垣が破れて居なかつたなら、吾輩は遂に路傍に餓死したかも知れんのである。一樹の蔭とはよく云つたものだ。此垣根の穴は今日に至る迄吾輩が隣家の三毛を訪問する時の通路になつて居る。偖邸へは忍び込んだものの是から先どうして善いか分らない。其内に暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、雨が降て來るといふ始末でもう一刻も猶豫が出來なくなつた。仕方がないから兎に角明るくて暖かさうな方へ方へとあるいて行く。今から考へると其時は既に家の内に這入つてたのだ。こゝで余は彼の書生以外の人間を再び見るべき機會に遭遇したのである。第一に逢つたのがおさんである。是は前の書生より一層亂暴な方で我輩を見るや否やいきなり頸筋をつかんで表へ抛り出した。いや是は駄目だと思つたから眼をねぶつて運を天に任せて居た。然しひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出來ん。吾輩は再びおさんの隙を見て臺所へ這ひ上つた。すると間もなく又投げ出された。吾輩は投げ出されては這ひ上り、這ひ上つては投げ出され何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶して居る。其時におさんと云ふ者はつく/″\いやになつた。此間おさんの三馬を偸んで此返報をしてやつてから、やつと胸の痞が下りた。吾輩が最後につまみ出され樣としたときに、此家の主人が騷々しい何だといひながら出て來た。下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けて此宿なしの小猫がいくら出しても出しても御臺所へ上つて來て困りますといふ。主人は鼻の下の黒い毛を撚りながら吾輩の顏を暫らく眺めて居つたが。やがてそんなら内へ置いてやれといつたまゝ奧へ這入つて仕舞つた。主人は餘り口を聞かぬ人と見えた。下女は口惜しさうに吾輩を臺所へ抛り出した。かくして吾輩は遂に此家を自分の住家と極める事にしたのである。
 吾輩の主人は滅多に吾輩と顏を合せる事がない。職業は教師ださうだ。學校から歸ると終日書齋に這入つたぎり殆んど出て來る事がない。家のものは大變な勉強家だと思つて居る。當人も勉強家であるかの如く見せて居る。然し實際はうちのものがいふ樣な勤勉家ではない。吾輩は時々忍び足に彼の書齋を覗いて見るが、彼はよく晝寐をして居る事がある。時々讀みかけてある本の上に涎をたらして居る。彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帶びて彈力のない不活溌な徴候をあらはして居る。其癖に大飯を食ふ。大飯を食つた後で「タカチヤスターゼ」を飮む。飮んだ後で書物をひろげる。二三ページ讀むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。是が彼の毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時々考へる事がある。教師といふものは實に樂なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寐て居て勤まるものなら猫にでも出來ぬ事はないと。夫でも主人に云はせると教師程つらいものはないさうで彼は友達が來る度に何とかゝんとか不平を鳴らして居る。
 吾輩が此家へ住み込んだ當時は、主人以外のものには甚だ不人望であつた。どこへ行つても跳ね付けられて相手にしてくれ手がなかつた。如何に珍重されなかつたかは、今日に至る迄名前さへつけてくれないのでも分る。我輩は仕方がないから、出來得る限り我輩を入れてくれた主人の傍に居る事をつとめた。朝主人が新聞を讀むときは必ず彼の膝の上に乘る。彼が晝寐をするときは必ず其脊中に乘る。是はあながち主人が好きといふ譯ではないが別に構ひ手がなかつたから已を得んのである。其後色々經驗の上、朝は飯櫃の上、夜は炬燵の上、天氣のよい晝は椽側へ寐る事とした。然し一番心持の好いのは夜に入つてこゝのうちの小供の寐床へもぐり込んで一所にねる事である。此小供といふのは五つと三つで夜になると二人が一つ床へ入つて一間へ寐る。余はいつでも彼等の中間に己れを容るべき餘地を見出してどうにか、かうにか割り込むのであるが運惡く小供の一人が眼を醒ますが最後大變な事になる。小供は―殊に小さい方が質がわるい―猫が來た/\といつて夜中でも何でも大きな聲で泣き出すのである。すると例の神經胃弱性の主人は必ず眼をさまして次の部屋から飛び出してくる。現に先達て抔は物指で尻ぺたをひどく叩かれた。
 吾輩は人間と同居して彼等を觀察すればする程、彼等は我儘なものだと斷言せざるを得ない樣になつた。殊に吾輩が時々同衾する小供の如きに至つては言語同斷である。自分の勝手な時は人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶせたり。抛り出したり。へ―つ―つ―いの中へ押し込んだりする。而も我輩の方で少しでも手出しを仕樣ものなら家内總がゝりで追ひ廻して迫害を加へる。此間も一寸疊で爪を磨いたら細君が非常に怒つてそれから容易に座敷へ入れない。臺所の板の間で他(ひと)が顫へて居ても一向平氣なものである。吾輩の尊敬する筋向の白君抔は逢ふ度毎に人間程不人情なものはないと言つて居らるゝ。白君は先日玉の樣な猫子を四疋産まれたのである。所がそこの家の書生が三日目にそいつを裏の池へ持て行つて四疋ながら棄てゝ來たさうだ。白君は涙を流して其一部始終を話した上、どうしても我等猫族が親子の愛を完くして美しい家族的生活をするには人間と戰つて之を剿滅せねばならぬといはれた。一々尤の議論と思ふ。又隣りの三毛君抔は人間が所有權といふ事を解して居ないといつて大に憤慨して居る。元來我々同族間では目刺の頭でも鰡の臍でも一番先に見付たものが之を食ふ權利があるものとなつて居る。もし相手が此規約を守らなければ腕力に訴へて善い位のものだ。然るに彼等人間は毫も此觀念がないと見えて我等が見付た御馳走は必ず彼等の爲に掠奪せらるゝのである。彼等は其強力を頼んで正當に吾人が食ひ得べきものを奪つて澄して居る。白君は軍人の家に居り、三毛君は代言の主人を持つて居る。吾輩は教師の家に住んで居る丈、こんな事に關すると兩君よりも寧ろ樂天である。唯其日/\が何うにか斯うにか送られゝばよい。いくら人間だつて、さういつ迄も榮へる事もあるまい。まあ氣を永く猫の時節を待つがよからう。
 我儘で思ひ出したから一寸吾輩の家の主人が此我儘で失敗した話をし樣。元來此主人は何といつて人に勝れて出來る事もないが、何にでもよく手を出したがる。俳句をやつてほとゝぎす[#「ほとゝぎす」に傍点]へ投書をしたり、新體詩を明星[#「明星」に傍点]へ出したり、間違ひだらけの英文をかいたり、時によると弓に凝つたり、謠を習つたり、又あるときはワ゛イオリン[#「ワ゛」は「ワ」に濁点の一字]抔をブー/\鳴らしたりするが、氣の毒な事には、どれもこれも物になつて居らん。其癖やり出すと胃弱の癖にいやに熱心だ。後架の中で謠をうたつて、近所で後架先生と渾名をつけられて居るにも關せず一向平氣なもので、矢張是は平の宗盛にて候を繰返して居る。皆んながそら宗盛だと吹き出す位である。此主人がどういふ考になつたものか吾輩の住み込んでから一月許り後のある月の月給日に、大きな包みを提げてあはたゞしく歸つて來た。何を買つて來たのかと思ふと水彩繪具と毛筆とワットマンといふ紙で今日から謠や俳句をやめて繪をかく决心と見えた。果して翌日から當分の間といふものは毎日々々書齋で晝寐もしないで繪許りかいて居る。然し其かき上げたものを見ると何をかいたものやら誰にも鑑定がつかない。當人もあまり甘くないと思つたものか、ある日其友人で美學とかをやつて居る人が來た時に下の樣な話をして居るのを聞いた。
「どうも甘くかけないものだね。人のを見ると何でもない樣だが自ら筆をとつて見ると今更の樣に六づかしく感ずる」是は主人の述懷である。成程詐りのない處だ。彼の友は金縁の眼鏡越に主人の顏を見ながら、「さう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像許りで畫がかける譯のものではない。昔し以太利の大家アンドレア、デルサルトが言つた事がある。畫をかくなら何でも自然其物を寫せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獸あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉[#底本は、「鴉」の「牙」の上に「一」がついている]あり。自然は是一幅の大活畫なりと。どうだ君も畫らしい畫をかゝうと思ふならちと寫生をしたら」
「へえアンドレア、デル、サルトがそんな事をいつた事があるかい。ちつとも知らなかつた。成程こりや尤もだ。實に其通りだ」と主人は無暗に感心して居る。金縁の裏には嘲ける樣な笑が見えた。
 其翌日吾輩は例の如く椽側に出て心持善く晝寐をして居たら、主人が例になく書齋から出て來て吾輩の後ろで何かしきりにやつて居る。不圖眼が覺めて何をして居るかと一分許り細目に眼をあけて見ると、彼は餘念もなくアンドレア、デル、サルトを極め込んで居る。余は此有樣を見て覺えず失笑するのを禁じ得なかつた。彼は彼の友に揶揄せられたる結果として先づ手初めに吾輩を寫生しつゝあるのである。我輩は既に十分寢た。欠伸がしたくて堪らない。然し切角主人が熱心に筆を執つて居るのを動いては氣の毒だと思ふて、ぢつと辛棒して居つた。彼は今我輩の輪廓をかき上げて顏のあたりを色彩つて居る。我輩は自白する。我輩は猫として决して上乘の出來ではない。脊といひ毛並といひ顏の造作といひ敢て他の猫に勝るとは决して思つて居らん。然しいくら不器量の我輩でも、今我輩の主人に描き出されつゝある樣な妙な姿とは、どうしても思はれない。第一色が違ふ。我輩は波斯産の猫の如く黄を含める淡灰色に漆の如き斑入りの皮膚を有して居る。是丈は誰が見ても疑ふべからざる事實と思ふ。然るに今主人の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ褐色でもない、去ればとて是等を交ぜた色でもない。只一種の色であるといふより外に評し方のない色である。其上不思議な事は眼がない。尤も是は寢て居る所を寫生したのだから無理もないが眼らしい所さへ見えないから盲猫(めくら)[#「盲」の「目」は、底本では「月」]だか寢て居る猫だか判然しないのである。吾輩は心中ひそかにいくらアンドレア、デル、サルトでも是では仕樣がないと思つた。然し其熱心には感服せざるを得ない。可成なら動かずに居つてやり度と思つたが、先っき[#「っ」は底本のまま]から小便が催ふして居る。身内の筋肉はむづ/\する。最早一分も猶豫が出來ぬ仕儀となつたから、不已得失敬して兩足を前へ存分のして、首を低く押し出してあ―あと大なる欠伸をした。さてかうなつて見ると、もう大人しくして居ても仕方がない。どうせ主人の豫定は打ち壞はしたのだから、序に裏へ行つて用を足さうと思つてのそ/\這ひ出した。すると主人は失望と怒りを掻き交ぜた樣な聲をして、座敷の中から此―馬鹿―野―郎と怒鳴つた。此主人は人を罵るときは必す馬鹿野郎といふのが癖である。外に惡口の言ひ樣を知らないのだから仕方がないが、今迄辛棒した人の氣も知らないで、無暗に馬鹿野郎呼はりは失敬だと思ふ。それも平生吾輩が彼の脊中へ乘る時に少しは好い顏でもするなら此漫罵も甘んじて受けるが、こつちの便利になる事は何一つ快くしてくれた事もないのに、小便に立つたのを馬鹿野郎とは酷い。元來人間といふものは自己の力量に慢じて皆んな増長して居る。少し人間より強いものが出て來て窘めてやらなく[#「やらなく」は底本では「やならく」]ては此先どこ迄増長するか分らない。
 我儘も此位なら我慢するが余輩は人間の不徳について是よりも數倍悲しむべき報道を耳にした事がある。
 我輩の家の裏に十坪許りの茶園がある。廣くはないが瀟洒(さつぱり)とした心持ち好く日の當る所だ。うちの小供があまり騷いで樂々晝樂[#「晝樂」は底本のまま]の出來ない時や、餘り退屈で腹加減のよくない折抔は、吾輩はいつでも此所へ出て浩然の氣を養ふのが例である。ある小春の穩かな日の二時頃であつたが、吾輩は晝飯後快よく一睡した後、運動かたがたこの茶園へと歩を運ばした。茶の木の根を一本/\臭ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒して其上に大きな猫が前後不覺に寐て居る。彼は吾輩の近付くのも一向心付かざる如く、又心付くも無頓着なる如く、大きな鼾をして長々と體を横へて眠て居る。他の庭内に忍び入りたるものが斯く迄平氣に睡られるものかと、吾輩は竊かに其大膽なる度胸に驚かざるを得なかつた。彼は純粹の黒猫である。僅かに午を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に抛げかけて、きら/\する柔毛の間より、眼に見えぬ炎でも燃え出づる樣に思はれた。彼は猫中の大王とも云ふべき程の偉大なる體格を有して居る。吾輩の倍は慥かにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に佇立して餘念もなく眺めて居ると、靜かなる小春の風が、杉垣の上から出たる梧桐の枝を輕く誘つてばら/\と二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。大王はくわつと其眞丸の眼を開いた。今でも記憶して居る。其眼は人間の珍重する琥珀といふものよりも遙かに美しく輝いて居た。彼は身動きもしない。双眸の奧から射る如き光を吾輩の矮小なる額の上にあつめて。御―め―へは一體何だと云つた。大王にしては少々言葉が卑しいと思つたが何しろ其聲の底に犬をも挫しくべき力が籠つて居るので吾輩は少なからず恐れを抱いた。然し拶挨をしないと險呑だと思つたから「吾輩は猫である。名前はまだない」と可成平氣を裝つて冷然と答へた。然し此時余の心臟は慥かに平時よりも烈しく鼓動して居つた。彼は大に輕蔑せる調子で「何、猫だ?猫が聞いてあきれらあ。全てえ何こに住んでるんだ」隨分傍若無人である。「吾輩はこゝの教師の家に居るのだ」「どうせそんな事だらうと思つた。いやに瘠てるぢやねえか」と大王丈に氣焔を吹きかける。言葉付から察するとどうも良家の猫とも思はれない。然し其膏切つて肥滿して居る所を見ると御馳走を食つてるらしい、豐かに暮して居るらしい。吾輩は「さう云ふ君は一體誰だい」と聞かざるを得なかつた。「己れあ車屋の黒よ」昂然たるものだ。車屋の黒は此近邊で知らぬ者なき亂暴猫である。然し車屋丈に強い許りでちつとも教育がないからあまり誰も交際しない。同盟敬遠主義の的になつて居る奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々輕侮の念も生じたのである。吾輩は先づ彼がどの位無學であるかを試して見樣と思つて左の問答をして見た。
「一體車屋と教師とはどつちがえらいだらう。」
「車屋の方が強いた極つて居らあな。御―め―へのう―ちの主人を見ねえ、丸で骨と皮ばかりだぜ。」
「君も車屋の猫丈に大分強さうだ。車屋に居ると御馳走が食へると見えるね。」
「何にお―れなんざ、どこの國へ行つたつて食ひ物に不自由はしねえ積りだ。御―め―へなんかも茶畠ばかりぐるぐる廻つて居ねえで、ちつと己の後(あと)へくつ付いて來て見ねえ。一と月たゝねえうちに見違へる樣に太れるぜ。」
「追つてさう願ふ事に仕樣。然し家は教師の方が車屋より大きいのに住んで居る樣に思はれる。」
「箆棒め、うちなんかいくら大きくたつて腹の足しになるもんか。」
 彼は大に肝癪に障つた樣子で、寒竹をそいだ樣な耳を頻りとぴく付かせてあらゝかに立ち去つた。余が車屋の黒と知己になつたのはこれからである。[#「。」は底本にはない]
 其後吾輩は度々黒と邂逅する。邂逅する毎に彼は車屋相當の氣焔を吐く。先に吾輩が耳にしたといふ不徳事件も實は黒から聞いたのである。
 或る日例の如く吾輩と黒は暖かい茶畠の中で寐轉びながら色々雜談をして居ると、彼はいつもの自慢話しを左も新しさうに繰り返したあとで、吾輩に向つて下の如く質問した。「御―め―へは今迄に鼠を何匹とつた事がある」智識は黒よりも餘程發達して居る積りだが腕力と勇氣とに至つては到底黒の比較にはならないと覺悟はして居たものゝ、此問に接したる時は、さすがに極りが善くはなかつた。けれども事實は事實で詐る譯には行かないから、吾輩は「實はとらう/\と思つてまだ捕らない」と答へた。黒は彼の鼻の先からぴんと突張つて居る長い髭をびり/\と震はせて非常に笑つた。元來黒は自慢をする丈にどこか足りない所があつて、彼の氣焔を感心した樣に咽喉をころ/\鳴らして謹聽して居れば甚だ御し易い猫である。吾輩は彼と近付になつてから直に此呼吸を飮み込んだから[#「から」は底本では「たら」]此塲合にもなまじい己れを辯護して益形勢をわるくするのも愚である、いつその事彼に自分の手柄話をしやべらして御茶を濁すに若くはないと思案を定めた。そこで大人なしく「君抔は年が年であるから大分とつたらう」とそゝのかして見た。果然彼は墻壁の缺所に吶喊して來た。「たんとでもねえが三四十はとつたらう」とは得意氣なる彼の答であつた。彼は猶語をつゞけて[#「て」は底本では「で」]「鼠の百や二百は一人でいつでも引き受けるがい―た―ちつてえ奴は手に合はねえ。一度い―た―ちに向つて酷い目に逢つた。」「へえ成程」と相槌を打つ。黒は大きな眼をぱちつかせて云ふ。「去年の大掃除の時だ。うちの亭主が石灰の袋を持つて椽の下へ這ひ込んだら御―め―え大きない―た―ちの野郎が面喰つて飛び出したと思ひねえ」「ふん」と感心して見せる。「い―た―ちつてけども何鼠の少し大きいぐれえのものだ。此畜生つて氣で追つかけてとう/\泥溝(どぶ)の中へ追ひ込んだと思ひねえ」「うまく遣つたね」と喝采してやる。「所が御め―えい―ざって―え段になると奴め最後っ屁をこきやがつた。臭えの臭くねえのって夫からってえものはい―た―ちを見ると胸が惡くならあ」彼は是に至つて恰も去年の臭氣を今猶感ずる如く前足を揚げて鼻の頭を二三遍なで廻はした。吾輩も少々氣の毒な感じがする。ちつと景氣を付けてやらうと思つて「然し鼠なら君に睨まれては百年目だらう。君は餘り鼠を捕るのが名人で鼠許り食ふものだからそんなに肥つて色つやが善いのだらう」黒の御機嫌をとる爲めの此質問は不思議にも反對の結果を呈出した。彼は喟然として大息していふ。「考げえると誥らねえ。いくら稼いで鼠をとつたつて――一てえ人間程ふてえ奴は世の中に居ねえぜ。人のとつた鼠を皆んな取り上げやがって交番へ持つて行きあがる。交番じや誰が捕つたか分らねえから其た―ん―びに五錢宛くれるぢやねえか。うちの亭主なんか己の御蔭でもう壹圓五十錢位儲けて居やがる癖に、碌なものを食せた事もありやしねえ。おい人間てものあ體の善い泥棒だぜ」さすが無學の黒も此位の理窟はわかると見えて頗る怒つた容子で脊中の毛を逆立てゝ居る。吾輩は少々氣味が惡くなつたから善い加減に其塲を胡魔化して家へ歸つた。此時から吾輩は决して鼠をとるまいと决心した。然し黒の子分になつて鼠以外の御馳走を獵つてあるく事もしなかつた。御馳走を食ふよりも寢て居た方が氣樂でいゝ。教師の家に居ると猫も教師の樣な性質になると見える。要心しないと今に胃弱になるかも知れない。
 教師といへば吾輩の主人も近頃に至つては到底水彩畫に於て望のない事を悟つたものと見えて十二月一日の日記にこんな事をかきつけた。[#「。」は底本にはない]
[#引用文、本文より2字下げ]
○○と云ふ人に今日の會で始めて出逢つた。あの人は大分放蕩をした人だと云ふが成程通人らしい風采をして居る。かう云ふ質の人は女に好かれるものだから○○が放蕩をしたと云ふよりも放蕩をする可く餘儀なくせられたと云ふのが適當であらう。あの人の妻君は藝者ださうだ、羨[#「羨」の さんずい は、底本では にすい]しい事である。元來放蕩家を惡くいふ人の大部分は放蕩をする資格のないものが多い。又放蕩家を以つて自任する連中のうちにも、放蕩する資格のないものが多い。是等は餘儀なくされないのに無理に進んでやるのである。恰も我輩の水彩畫に於るが如きもので到底卒業する氣づかひはない。然るにも關せず、自分丈は通人だと思つて濟して居る。料理屋の酒を飮んだり待合へ這入るから通人となり得るといふ論が立つなら、我輩も一廉の水彩畫家になり得る理窟だ。我輩の水彩畫の如きはかゝない方がましであると同じ樣に、愚昧なる通人よりも山出しの大野暮の方が遙かに上等だ。
[#引用文、ここまで]
 通人論は一寸首肯しかねる。又藝者の妻君を羨[#「羨」の さんずい は、底本では にすい]しい抔といふ所は教師としては口にすべからざる愚劣の考であるが、自己の水彩畫に於ける批評眼丈は慥かなものだ。主人は斯の如く自知の明あるにも關せず其自惚心は中々拔けない。中二日置いて十二月四日の日記にこんな事を書いて居る。[#「。」は底本では「、」]
[#引用文、本文より2字下げ]
昨夜は僕が水彩畫をかいて到底物にならんと思つて、そこらに抛つて置たのを誰かゞ立派な額にして欄間に懸けて呉れた夢を見た。偖額になつた所を見ると我ながら急に上手になつた。非常に嬉しい。是なら立派なものだと獨りで眺め暮らして居ると、夜が明けて眼が覺めて、矢張り元の通り下手である事が朝日と共に明瞭になつて仕舞つた。
[#引用文、ここまで]
主人は夢の裡迄水彩畫の未練を負脊つてあるいて居ると見える。是では水彩畫家は無論夫子の所謂通人にもなれない質だ。
 主人が水彩畫を夢に見た翌日例の金縁眼鏡の美學者が久し振りで主人を訪問した。彼は座につくと劈頭第一に「畫はどうかね」と口を切つた。主人は平氣な顏をして「君の忠告に從つて寫生を力めて居るが、成程寫生をすると今迄氣のつかなかつた物の形や、色の精細な變化抔がよく分る樣だ。西洋では昔しから寫生を主張した結果今日の樣に發達したものと思はれる。さすがアンドレア、デル、サルト、だ」と日記の事はおくびにも出さないで、又アンドレア、デル、サルトに感心する。美學者は笑ひながら「實は君、あれは出鱈目だよ」と頭を掻く。「何が」と主人はまだ※はられた事に氣がつかない。「何がつて君の頻りに感服して居るアンドレア、デル、サルトさ。あれは僕の一寸捏造した話しだ。君がそんなに眞面目に信じ樣とは思はなかつたハヽヽヽ」と大喜悦の體である。吾輩は椽側で此對話を聞いて彼の今日の日記には如何なる事が記るさるゝであらうかと豫め想像せざるを得なかつた。此美學者はこんな好加減な事を吹き散らして人を擔ぐのを唯一の樂にして居る男である。彼はアンドレア、デル、サルト事件が主人の情線に如何なる響を傳へたかを毫も顧慮せざるものゝ如く得意になつて下の樣な事を饒舌つた。「いや時々冗談を言ふと人が眞に受けるので大に滑稽的美感を挑撥するのは面白い。先達である學生にニコラス、ニツクルベーがギポンに忠告して彼の一世の大著述なる佛國革命史を佛語で書くのをやめにして英文で出版させたと言つたら、其學生が又馬鹿に記憶の善い男で、日本文學會の演説會で眞面目に僕の話した通りを繰り返したのは滑稽であつた。所が其時の傍聽者は約百名許りであつたが、皆熱心にそれを傾聽して居つた。夫からまだ面白い話がある。先達て或る文學者の居る席でハリソンの歴史小説セオフアーノの話しが出たから僕はあれは歴史小説の中で白眉である。ことに女主人公が死ぬ所は鬼氣人を襲ふ樣だと評したら、僕の向ふに坐つて居る知らんと云つた事のない先生が、さう/\あすこは實に名文だといつた。それで僕は此男も矢張僕同樣此小説を讀んで居らないといふ事を知つた」神經胃弱性の主人は眼を丸くして問ひかけた。「そんな出鱈目をいつて若し相手が讀んで居たらうどうする積りだ」恰も人を欺くのは差支ない、只化の皮があらはれた時は困るじやないかと感じたるものゝ如くである。美學者は少しも動じない。「なに其時や別の本と間違へたとか何とか云ふ許りさ」と云つてけら/\笑つて居る。此美學者は金縁の眼鏡は掛て居るが其性質が車屋の黒に似た所がある。主人は默つて日の出を輪に吹いて吾輩にはそんな勇氣はないと云はん許りの顏をして居る。美學者はそれだから畫をかいても駄目だといふ眼付で「然し冗談は冗談だが畫といふものは實際六づか敷ものだよレオナルド、ダ、井゛ンチ[#「井゛」は「井」に濁点の一字]は門下生に寺院の壁のし―みを寫せと教へた事があるさうだ。なる程雪隱抔に這入つて雨の漏る壁を餘念なく眺めて居ると、中々うまい模樣畫が自然に出來て居るぜ。君注意して寫生して見給へ屹度面白いものが出來るから」「又欺すのだらう」「いへ是丈は慥かだよ。實際奇警な語ぢやないかヰ゛ンチ[#「ヰ゛」は「ヰ」に濁点の一字]でもいひさうな事だあね」「成程奇警には相違ないな」と主人は半分降參をした。然し彼はまだ雪隱で寫生はせぬ樣だ。
 車屋の黒は其後跛になつた。彼の光澤ある毛は漸々色が褪めて拔けて來る。吾輩が琥珀よりも美いと評した彼の眼には眼脂が一杯たまつて居る。殊に著るしく吾輩の注意を惹いたのは彼の元氣の消沈と其體格の惡くなつた事である。吾輩が例の茶園で彼に逢つた最後の日、どうだと云つて尋ねたら「い―た―ちの最後屁と肴屋の天秤棒には懲々だ」といつた。
 赤松の間に二三段の紅を綴つた紅葉は昔しの夢の如く散つてつ―く―ば―ひに近く代る/″\[#「/″\」は底本では「/\」]花瓣をこぼした紅白の山茶花も殘りなく落ち盡した。三間半の南向の椽側に冬の日脚が傾いて木枯の吹かない日は殆んど稀になつてから吾輩の晝寢の時間も狹められた樣な氣がする。
 主人は毎日學校へ行く。歸ると書齋へ立て籠る。人が來ると、教師が厭だ/\といふ。水彩畫も滅多にかゝない。タカチヤスターゼも功能がないといつてやめて仕舞た。小供は感心に休まないで幼稚園へかよふ。歸ると唱歌を歌つて、毬をついて、時々吾輩を尻尾でぶら下げる。
 吾輩は御馳走も食はないから別段肥りもしないが、先々健康で跛にもならずに其日/\を暮して居る。鼠は决して取らない。おさんは未だに嫌ひである。名前はまだつけて呉れないが、欲をいつても際限がないから生涯此教師の家で無名の猫で終る積りだ。

[#本文中の「丸」は、「九」の中に「ヽ」の小さいものを打った字]
[#本文中の「減」の さんずい は、底本では にすい]
[#本文中の「熱」は、底本では「執に れっか」]
[#本文中の「焔」は、底本では 火偏に「稲」の旁]



底本:「新選 名著復刻全集 近代文学館 吾輩ハ猫デアル」財団法人 日本近代文学館
   1974(昭和49)年12月1日発行 第13刷
入力:柴田卓治、かなゐ
校正:かなゐ
ファイル作成:野口英司
1999年9月17日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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   1974(昭和49)年12月1日発行 第13刷
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1999年9月17日公開
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●表記について

本文中の/\は、二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号) 本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。

※はられた事に氣がつかない
第4水準2-88-74
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