どこかで見たような顔だね
花を咲かすのが雨なら散らすのも雨。
隅田川木母寺梅若塚の大念仏は十五日で、この日はきまって雨が降る。いわゆる梅若の涙雨だが、それが三日も続いた末、忘れたようにからりとあがった今日の十八日は、浅草三社権現のお祭、明日が蓑市、水茶屋の書き入れどきである。
阪東第十三番目の聖観世音。
今も昔もかわらないのが浅草のにぎわいだ。軒堤燈がすうっとならんで、つくり桜花や風鈴、さっき出た花車はもう駒形あたりを押していよう。木履の音、物売りの声、たいした人出だ。
「おい、姐さん」
と呼びかけられて、本堂うら勅使の松の下で立ちどまった女がある。うらうらと燃える陽炎を背に、無造作な櫛巻き、小弁慶の袷に幅の狭い繻子と博多の腹合わせ帯を締めて、首と胸だけをこう背へ振り向けたところ、
「おや! あたしかしら?」
という恰好。年のころは廿と四、五、それとも七、八か。
「おうっ、嬉し野のおきんじゃあねえか。いやに早え足だぜ。待ちねえってことよ」
紺看板に梵天帯、真鍮巻きの木刀を差した仲間奴、お供先からぐれ出して抜け遊びとでも洒落たらしいのが、人浪を分けて追いついた。
「あんなに呼ぶのに聞こえねえふりしてじゃらじゃら先へ行きなさる。お前も薄情な罪つくりだな」女はすこしきっとなった。
「あの、お呼びなすったのは、あたしでございますか」
「いまお前が随身門をくぐったときから、おいらあ跡をお慕え申して来たんだ。はははは、いつもながらお前の美しさは見たばかりで胆魂もぶっつぶれるわ。どうぞなびいてやりてえものだが――おいどうしたえ、いやにすましているじゃあねえか」
女はちらと眼を動かした。護摩堂から笠神明へかけて、二十軒建ちならぶ江戸名物お福の茶屋、葦簾掛けの一つに、うれし野と染め抜いた小旗が微風にはためいているのが、雑沓の頭越しに見える。
女はにっこりした。男はぴったりと寄りそって、
「なあ、おきんさんがおいらを見忘れるわけはあるめえ。何とかいいねえな」
「でも――」
「なに?」
「いやだよ、この人は!」がらり、女の調子が変わった。月の眉がきりりと寄ると、小気味のいい巽上がりだ。
「何だい。人だかりがするじゃないか。借金でもあるようでみっともないったらありゃあしない。お離しよ」
とんと一つ、文字どおりの肘鉄をくわせておいて、女はすたすた歩き出した。
水茶屋嬉し野の釜前へ?
そうではない。もと来た道へ帰ると、お水屋額堂を横に見て仁王門、仲見世の押すな押すなを右に左に人をよけて、雷門からそのまま並木の通りへ出た。
青い芽をふくらませた辻の柳の下を桃割れの娘が朱塗りの膳を捧げて行く。あとから紅殻格子が威勢よくあくと、吉原かぶりがとび出して来る。どうもえらいさわぎだ。
「どこかで見たような顔だねえ」
人ごみのあいだを縫いながら、女はふとこう思って、うしろを振り返った。のっそり、のっそりと、さっきの奴姿がついて来る。四、五間うしろにその赫い平べったい、顔を見いだしたとき、女は、
「まあ、いけ好かない野郎だよ。酔っているんじゃないかしら」
とかすかにくちびるを動かしたが、また小走りに急ぎ出す。男も、にやりと笑みをもらして、尻っぱしょりをぐいと引き揚げると、今度はおおびらに跡を追いはじめた。
広小路を田原町へ出て蛇骨長屋。
角に四つ手がおりて客を待っている。
「駕籠へ、駕籠へ。ええ旦那、駕籠へ」
「ちょいと駕籠屋さん」女が駈け寄った。「神楽坂上の御箪笥町までやっておくれ。あの、ほら、南蔵院さまの前だよ。長丁場で気の毒だけれども南鐐でいいかえ」
「二朱か。可哀そうだな。一分はずんでおくんなせえ。なあおい勘太」
「そうよ、そうよ――しかし兄貴、いい女だなあ!」
「よけいなことをおいいでないよ。じゃ酒代ぐるみ一分上げるから急いでおくれ」
「あいきた。話あ早えや。ささ乗んなせえ――よしか勘太、いくぜ」
つういと駕籠の底が地面を離れると、た、た、たと二、三歩足をそろえておいて左足からだくをくれる。あとは肩口のはずみ一つだ。
右へ折れて御門跡前。
ほうっ、ほっ。
えっさ、えっさ。
えっさっさ。
息杖がおどる。掛け声は勇む。往来の人はうしろへ、うしろへと流れてゆく。
家なみの庇や紺暖簾に飛びちがえる燕くろの腹が、花ぐもりの空から落ちる九つどきの陽ざしを切って、白く飜えるのを夢みるような眼で、女は下からながめて行った。これも祭の景物であろう。やぐら太鼓の音が遠くにひびいている。
「えい、はあ!」
腰をひねって、駕籠は角を曲がる。
新寺町の大通りだ。
油を浮かべたような菊屋橋の堀割りへ差しかかったとき、女は駕籠の垂れを上げて背後を見た。と、あの執念深い折助が、木刀を前半に押えて、とっとと駈けてくる。気のせいか、真っ赤な顔が意地悪く笑っているようだ。
「ほんとにどこかで見たような顔だよ」
つぶやいたとたん、女は何事か思い当たったとみえる。さっと頬から血の気が引いた。そして、ほとんど叫ぶように、甲高い声を前棒の背へ浴びせた。
「駕籠屋さん、一両だよ。もちっと飛ばせないかねえ。じれったいじゃないか」
湯灌場買い津賀閑山
紺絣の前掛けさえ締めれば、どこから見ても茶くみ女としか踏めない客だし、それに何かいわくありげなようすだが、そんなことはどうでもいい、一両と聞いて駕籠屋は死に身だ。
刺青の膚に滝なす汗を振りとばして、車坂を山下へぶっつけ御成街道から[#「街道から」は底本では「街頭から」]筋かえ御門へ抜けて八辻の原。
右手、柳原の土手にそうて、供ぞろい美々しくお大名の行列が練って来る。
挟箱、鳥毛の槍、武鑑を繰るまでもなく、丸鍔の定紋で青山因幡守様と知れる。
「したあに下に、下におろうっ――」
駕籠はひたひたとこれに押されて、連雀町の横丁へ逃げこんだ。このとき、太田姫稲荷の上から淡路坂をおりてくる大八車が二、三台つづいた。大荷を積んで牛にひかせているから、歩みがのろい。
一時、あたりは行列で混乱し、今来た道は荷車でとだえた。駕籠屋は駕籠を下ろして往来の人といっしょに、大通りを往く行列を見物していた。ほんの一瞬間、が、人の気はむこうへ取られて、駕籠はちょっと物かげになった。
と見るや、すばやく履物をそろえて、女はすこしも取り乱さずに、するりと駕籠を抜け出ると、べつに跫音を盗むでもなく、鷹揚に眼の前の一軒の店へはいって行った。
ほの暗い古道具屋の土間。
「いらっしゃいませ」
茶筌頭の五十爺、真鍮縁の丸眼鏡を額部へ掛けているのを忘れてあわててそこらをなでまわす。
「あの、しばらく」
とそれを制した女、にっと白い歯を見せたかと思うと、表からは見えない戸の内側へ、ぴったり蝙蝠のようにはりついた。
老爺はあっけにとられている。
まず大八が通り過ぎた。
すると、例の悪しつこい仲間奴が、遠くに駕籠をにらんで立っている。駕籠は駕籠だが、これはもう藻抜けのかごだ。しかし、奥山からここまで女をつけて来るなんて、いったいこの男は何者だろう?
そういえば、かくまで男の手からのがれようとする女も――?
嬉し野のおきんも眉唾者だが、奴もただの奴ではあるまい。
狐と狸。お化けにお化け。当たらなくても遠くはなかろう。
女がそこの古道具屋へはいったことは、誰も知らない。ほど近いお上屋敷へ青山因幡の殿が繰り込んでしまうと、知らぬが仏でいい気なもの、
「姐さん、お待ち遠さま――さあ、やるべえ」
「どっこいしょっ、と」
二人の駕籠屋、声をそろえて肩を入れた。重いつもりで力んで上げたのが、空だから拍子が抜けて、ふらふらと宙に泳ぐ、。
「おっとっとっと!」
踏みしめたが遅かった。
「わあっ!」
と駕籠をほうり出して、
「兄い、こりゃどうだ!」
「やっ! 消えてなくなるわけはあるめえ。ちっ、まんまと抜けられたのよ」
「確かに足はあったな。幽霊じゃあなかったな」
「おきやがれ、面白くもねえ」
「どろんと一つ、用いやがったかな」
「伊賀流の忍術じゃあるめえし」
「まだ遠くへは突っ走るめえぜ。おらあ追っかけて――」
「よせよせ、手前なんかに歯の立つ姐御じゃねえ。器用な仕事に免じて、こちとら旗あ巻くのが上分別よ」
「駕籠屋さん一両だよ、ってやがらあ! あの声が耳を離れねえ」
「ぐちるなってことよ」
「しかし、兄貴の前だが、水っぽい女だったなあ。むっちりした膝をそろえて、こう揺れてたのが眼を離れねえ」
「いろんな物が離れねえな」
「畜生っ! たた、たまらねえやっ」
「勘太っ! 妙な腰っ張りするねえ! 駕籠をかつげ、帰るんだ」
わいわいいっている。
これを見た古道具屋の主人、なんとかいってやりたいが、そこに女の眼が光っているからただもじもじ控えているばかり――。
仲間体の男が駈けつけて来た。
駕籠屋から一伍一什を聞くと、男はつかつかと古道具屋の店頭へ進んで、
「ちょっと物を伺います」
ちゃんとした口調だ。
「はい、はい」
「お店へ水茶屋風の年増は来ませんでしたかね?」
爺さん、つい口ごもって戸の内側の女を見る。女の眼が恐ろしい無言のことばと、底に哀訴の色をひらめかしていた。
「いいえ」われ知らず、爺さんはうそぶいてしまった。「どなたもお見えになりませんで。はい」
ちょっと首をかしげたので、これあはいってくるかな。とひやりとすると、男はそのまま立ち去った。
駕籠屋はもう姿がない。
ほっとしたらしく、女はあでやかにほほえんだ。思わずつり込まれて、老爺も皺だらけの顔をほころばせたほど、それは魅力に富んだ笑いであった。
「大丈夫?」
立ったままで女がいった。娘にでも対するように、いかにも自然に、そしてきさくに、老爺は大きくうなずいてみせた。
親船に乗った気でいるがいい――。
こういいたかったのだ。実際、このへんてこな初対面の二人のあいだに、十年の知己のような許し合った心持ちが胸から胸へ流れたことは、不思議といえば不思議、当然といえば当然かもしれない。
女は出て来て、薄暗いところを選んで上がり框に腰をおろした。ちらり、ちらりと戸外を見ている。
ほんのり上気した額に、おくれ毛がへばりついて、乱れた裾前吐く息も熱そうだ。
「年増だって!」と嬌態をつくって、「年増じゃないわねえ」
同意を求めるように見上げるまなざし、老爺は黙っていた。忘れていた女の香にむせて、口がきけなかったのである。
「お爺つぁん、何ていうの、名は」
女がきいていた。その声で、はっとして年寄りの威厳を取りもどした。
「どうしたんだ。今の騒ぎは」
最初からこんなことばづかいが出ても、二人はすこしもおかしく感じないほど、父娘といっても似つかわしい。
「悪い奴に追っかけられたのさ」女はまだおどおどしていた。
「でも、お爺つぁんが助けてくれたから、もう安心だわねえ。たのもしいよ、ほほほほ、あんた何ていうの」
「わしの名か、津賀閑山」
「津賀閑山? 湯灌場買いね」
「口が悪いな」
「ほほほ、けどお手の筋でしょ?」
「まあ、そこいらかな」
「面黒いお爺さんだねえ。いっそ気に入ったわさ。惚れさせてもらおうよ」
閑山は出もしない、咳をして、吐月峰を手にした。
「いまお前さんを捜しに来た男は何だ」
「まあ可愛い! もう妬いてるの?」
「いや、お前さんはあの男を知っているのかね?」
「お爺つぁんは?」
「知らいでか!」
「じゃあ、それでいいじゃないの」とほがらかに笑って女はいきなり閑山の背後を指さした。
「あれ売っておくれよ、あたしにさ」
お釈迦さまでも気がつくまい
新仏といっしょに檀家から菩提寺へ納めてくるいろいろの品物には、故人が生前愛玩していたとか、理由があって自家には置けないとか、とにかく、あまりありがたくない因縁ものがすくなくない。
ところで、これを受け取った寺方では、何もかもそう残らず保存しておいたのでは、早い話がたちまち置き場にも困ることになるから、古いところから順に売り払って、これがお寺の所得になり寒夜の般若湯に化けたり獣肉鍋に早変わりしたりする。そこはよくしたもので、各寺々にはそれぞれ湯灌場買いという屑屋と古道具屋を兼ねたような者が出入りをして、こういう払い物を安価く引き取る。
商売往来にもない稼業だが、この湯灌場買いというものはたいそう利益のあった傍道で、寺のほうでは無代でも持って行ってもらいたいくらいなんだから、いくらか置けばよろこんで下げてくれる。二両二分出した物が捨て売りにしても三十両、こういうばか儲けはざらにあったというから、こりゃお寺方の払い物を扱っちゃあ忘れられないわけだ。
したがって、何でもその道にはいればむずかしい約束があるとおり、湯灌場買いにも縄張り付きの株があって、誰でもかけ出して取っつけるという筋あいのものではない。また、湯灌場物のなかから掘りだしをつかむには、それ相応の鑑識が要って、じっさい、湯灌場でうまい飯が食って行ければ、古手屋仲間ではまず押しも押されもしない巧者とされていた。
江戸の東北、向島浅草から谷中根岸へかけて寺が多い。その上どころの湯灌場買いを一手に引き受けて、ほっくりもうけているのが神田連雀町のお古屋津賀閑山。由緒ある者の果てであろうことは、刀剣類に眼が肥えているのでも知れるし、茶筌髪のせいか、槍はさびても名はさびぬ、そういったような風格が閑山のどこかに漂っている。めっきり小金をため込んで、なかなか福々しい老爺っぷりだ。
独身の女ぎらい、なんかと納まってみたところで、今こうして女の白い顔をながめて眼尻に皺を寄せているところ、おやじまんざらでもないらしい。
湯灌場物が主だが、場所柄お顧客にはお屋敷が多いから、主人の好みも見せて、店にはかなり古雅なものがならべてある。刀、小道具、脇息、仏壇、おのおのに風流顔だ。
正面、奥とのさかいに銀いぶし六枚折りの大屏風、前に花梨の台、上に鎧櫃が飾ってある。黒革張りに錠前角当ての金具が光って、定紋のあったとおぼしき皮の表衣はけずってあるが、まず千石どころのお家重代のものであろう。女はこれへ眼をつけた。
「ねえ、あの鎧櫃を売っておくれよ」
こう甘えるように身をくねらせて、畳の上へ乗り出して来る。閑山は笑った。
「うん。売ってやろう。が、何にしなさる?」
当惑の色が女の顔に動いた。それはまたたくまに笑い消して、鈴をころがすように屈托なげな高調子。
「ほほほほほほ、いいじゃあないの。売り物を買おうというのにそんな詮議だてはいらぬお世話さ」
「ははは、おおきに――」
「けれども、お爺つぁんだから話して上げよう」と女はちょっと真顔になって、「あたしゃもう何もかもいやになった。いっそあの中へはいってどこかへ行ってしまいたいのさ」
閑山老は眼をぱちくり。
――これは、ことによるとき印しかな?
だが、そうも見えないぞ――。
とっさに思案がつかずにいると、女は妙にしんみりして来て、
「ねえお爺つぁん、世の中なんて変なものさね。こっちで死ぬほど思っている人は鼻汁もひっかけてくれないし、いやでいやでたまらない奴は振っても巻いてもついて来やあがるし、うっかりそれを義理人情のしがらみに取っ付かれるはめになりゃあしまいかと思うと、そいつの執心よりはあたしゃ、このこころがこわいのさ、どうしてくらすも一生なら、ねえお爺つぁん、山王のお猿さんじゃないけれど、なんにも見ず聞かずいわずに過ごせないものかねえ、なんかとならべたくもなろうじゃないか」
何かしら迫って来る力に閑山はいつしかひき入れられていた。
「色界無色界というてな、到るに難しかの」
湯灌場買いらしい、こんな抹香臭いあいづちを打ったりした。そして、思い出したように、
「あんたはどこのお人かな? 失礼だが、素人衆とは見えんようだが」
女はやにわに突っ立った。
「そうかしらねえ、ほほほほほ」
別人のようにいきいきしだして、ちらと戸外へ眼をやってから、
「さ、あたしもこうしちゃいられないよ。あの鎧櫃はいくらなのさ」
八両、と閑山が吹っ掛けると、女はぐっと前へこごんで、すごいほど透んだ低声で、
「お爺つぁん、黙ってあたしのいうとおりにしておくれ。いいかい。鎧櫃をここへおろして、あたしを入れてふたをおし」
こいつあいよいよ桁がはずれているわい――逆らわぬに限ると閑山、鎧櫃を戸外から見えない土間の隅へすえた。そうしておいて、試みに代金を請求してみると、今上げるからちょっと場をはずしてくれという女の註文。
閑山は奥へはいって行った、と見せかけて、屏風のかげから女をうかがっている。
知るや知らずや、壁のほうを向いた女、手早く袷のまえをひろげて、帯の下、お腹のあたりを探りはじめる――。
ちょうどその前面に、大鏡が立て掛けてあるからたまらない。閑山老人、見てはならないところをことごとく見てしまった。そそくさと眼鏡を直して、鏡の中の白いまどらかな線に、からだじゅうの神経を吸い取られている閑山、いい図ではないが、本人は魂ここにあらずだ。
やがてのことに女は、肌膚に着けた絎紐をほどくと、燃えるような真紅の扱帯が袋に縫ってあって、蛇が蛙を呑んだように真ん中がふくれている。
ざく、ざく、ざく、と山吹色の音。
豪気な額だ――金座方でもなければ手にすることもなさそうな鋳きたての小判で、ざっと五百両!
「こ、この女が五百金! はてな」
と小首をひねると、色から欲へ、閑山ずんと鞍がえをした。
いるだけ抜いてもとのとおりにあとをしまい、衣紋をつくろい終わって女が呼ぶ。
「佐渡の土さ。落とすとちりんとなくやつだよ」
閑山はふらふらとして現われた。
白痴か茶番か、女は自分で今買い取った鎧櫃の覆をあけて、裾を押えてはいり込もうとしている。
ほんとにこの中へこもる気!
閑山は真剣にまごつき出した。と、思い当たったのがさっき顔を見せた仲間奴のこと。
識っている! あの男なら記憶がある。
なぜ早くここへ気がつかなかったろう?
この女は捕吏に追われているのだ!
「そうだっ」
とこの考えがぴいんと頭へ来ると同時に、別のたくらみが白雨雲のように閑山の胸にわく。
このからだとこの金、これだけの代物と五百両、誰に渡してなろうか――。
「お爺つぁん、覆しておくれよ」
女の声で閑山はわれに返った。
「よし。が、どこへ届けてやろう?」
「どこでもいいよ。どこか遠くへ持ってっておくれ」
「遠くへ?」
「ああ、面白いところへさ」
「ふうむ」
「あれさ、冗談だよ。本所石原新町の牛の御前のお旅所へ届けておくれな。これから行けば夜になるから、木立ちのかげへでもほうり出しさ。あたしゃあそこの割り下水に化けて出たい殿御があるの」
「承知した。うちの飯たきにひかせてやるのだから、怪しまれんように声を立てなさんな」
女は櫃の中で膝を抱いた。
「伊達緒だけ掛けたように見せて錠は下ろさないでおくれねえ。出られないと事だから」
「窮屈だろうが、すこしのしんぼうだ」
「おとっつぁん、お前のなさけは忘れないよ」
「なんの」
ばたん、と覆をおろすと、にっと笑った閑山、音のしないように伊達緒をぎりぎりに締めつけてそっと鍵をかけた。
軽く外からたたいてみる。
「居心地は、どうだ?」
というこころ、内部はいっぱいだから動けないし、何かいうのも聞こえない。
しめしめ!
すぐに向島の自分の寮へ運ばせておいて、あとから行ってしっぽり楽しんでやろう。さっき鏡で見た女の膚が、まざまざと閑山の眼へ返って来た。
それに、あの五百両。
あれも筋を洗えば、この女のことだ。案外話がわかるかもしれぬ。何しろ、可愛いのに痛い目を見せたくはないからな。しかし、出ようによっては――、
「久七、久七」
閑山は声高にたった一人の下男を呼んだ。出て来た久七、酒好きだが愚鈍実直な男、閑山には無二の忠義者だ。その耳へ口を寄せて、閑山がささやく。
「あの鎧櫃をな、向島へひいて行ってくれ。具足が詰まっているから重いぞ」
「手車でようがしょう」
「御苦労だが頼む。晩には一升買おう」
支度に行こうとする久七を、閑山は急いで呼びとめた。
「ほほうっかり忘れよった。饗庭様へこの花瓶をお届けせにゃならぬ。口やかましいお方だ。またぽんぽんいいおるだろう。お前、すまんがな、どうせ少しのまわり道だ。往きに妻恋坂へ寄って、閑山からよろしく申しましたと口上を述べてこれを置いて、それから向島へ行ってくれ。わかったかな」
まもなく、とんだ具足を入れた鎧櫃と、ついでに、妻恋坂の殿様お買い上げの九谷の花瓶を積んだ小手車が、久七の手で閑山の店から引き出された。帰途は夜と覚悟してか、まのぬけた小田原提灯が一つ梶棒の先にぶら下がっていた。
上には上がある。これで見ると津賀閑山、いっぱしの腕のきく小悪党らしい。
久七の車が店を離れてだんだん小さくなって行くのを、すこし隔たった連雀町の通りに立って見送っていたのは、浅草からつけて来た仲間奴だが、車の上の鎧櫃にめざす女がはいっていようなどとは、お釈迦さまでも気がつくまい――。
いつまで張り込むつもりか。
春永とはいえ、もう往来の土に冷たい影が細長く倒れて、駿河台の森の烏の群れがさわぎ出したのに男はまだそこらをぶらついている。
そいつあわからねえ話だな
あくる日の朝。
日本橋浮世小路。
出もどりの姉おこよにやらせている名物いろは寿司、岡っ引きいろは屋文次が住まいである。
あるかなしかのさわやかな風が伊呂波ずしと染め抜いた柿色の暖簾をなぶって、どうやら暑くさえなりそうな陽のにおい。
朝湯から帰って来た文次、まだ四十にはまもあろう、素袷を引っ掛けてこうやっているところ、憎いほどいなせな男だ。
長火鉢のまえにどっかりあぐらをかいて、鰹のはしりか何かでのんびりと盃を手にしている。
朝から酒というのもちと変だが、これにはわけがある。
ほかでもない。
公儀のことは文次などにはよくわからないが、彦根様が大老職について、以前から持ち越していた異国との談判、つづいて何だかんだと鼎のわくような世のさま。今にも黒船が品川の海へ攻め寄せて来て御本丸へ大砲をぶっ放すことの、いや、それより先に江戸に大戦がおっぱじまるのと、寄るとさわると物騒な噂ばかり。
そういえば、毎年おりるお堀の鴨が今年は一羽も浮かんでいない、これは公方さまの凶事をしらせるものだ。なお、夕方永代の橋から見ると羽田の沖に血の色の入道雲が立っているがあれこそ国難の兆であろう――流言蜚語、豆州神奈川あたりの人は江戸へ逃げ込むし、気の早い江戸の町人は在方を指して、家財道具を載んだ荷車が毎日のように日光街道、甲州街道をごろごろ、ごろごろ、いやもう、早鐘一つで誰も彼も飛び出す気だ。
恐怖の都。
国を挙げて騒擾の巷。
この間、幕府が一番手を焼いたのは、お公卿さまと学者と倒幕浪士との握手であった。
そのころ、毎夜戌亥の空に一つの箒星が現われて、最初は長さ三、四尺で光りも弱いが、夜のふけるにつれて大きくなって行く。
どこかに天下をねらう者が潜んでいる。
人々はこう噂して不安を増した。
そこで幕府は、大小目付三奉行の五手掛りのお役かえを断行して、野火をあおるように一挙に安政の大獄に取りかかる。するとここに不思議なことには、井伊掃部頭さまの信任厚い町奉行、池田播磨守の用人や、加役の組下、三廻りの旦那方などの下を働く者のあいだに、実に奇妙な変死が絶えない。
刀で命を落とすのなら、当時のこと、珍しくはないが、これは、花が咲いて死ぬのだから、風流どころか薄気味が悪い。
江戸じゅうの手先が、猿眼をして探索にかかったが、毎日のようにお役向きが急死するばかりで、何が何やら、さっぱり眼鼻がつかないのだ。
花が咲いて死ぬとは?
それはこうだ。
出先からかえってくると、にわかに大熱が出て息を引き取る。遺骸のどこかに、必ず紅い小さな花が、幻のようにぽっかり咲いている。人間に根をおろして花を咲かす草。
まことに怪しい話。
それが役人ばかりでなく、講武所雇いの御用浪人から町方の眼明かしまで赤い花のために続々殺られるに及んでは、何者かはしれないが、この植物を流用する者の目的は知れた。
幕府方への欝憤と復讐!
小額付に一文字の大髷、打割羽織に小倉の袴、白柄朱鞘の大小を閂のように差しそらせて、鉄扇片手に朴歯の下駄を踏み鳴らしてまわるいかつい豪傑が、まるで順番のようにばったばったと他愛なく死る。
死に花を咲かせた、などと洒落ている場合ではない。
本八丁堀屋根屋新道、隠密まわり税所邦之助の役宅へ呼ばれて、この花の一件をしかとおおせつかったいろは屋文次、かしこまりましたと立派にお受けして引きさがりはしたものの、てんで目ぐしというものが立たない。
それから三日。このとおりふさぎこんで、今日も朝から酒。
が、何かしら考えるところはあるのだろう。
つと顔を上げると、そこに行儀よく控えている男を見て、にっこり笑った。
御免安で通っている乾分の安兵衛である。
こいつどこかで見た顔――そうだ、あの昨日の仲間奴。今日は穀屋の若旦那というこしらえで、すっかり灰汁が抜けてはいるが紛れもない、女にまかれた彼である。
下町もちょいと横丁へはいると、こう静かになる。
「まあ、ひどいほこりだよ」
姉のおこよがせっせと店先へ水を打っている。
そもそも何であんなでたらめのかまをかけて女をつけたのかわからないが、逃げられたのがくやしいか、昨日は一日あちこち歩いたとばかりで、安兵衛、女のことはおくびにも出さずにいる。
そのうちに格別話もないとみえて、名前のとおりに、
「ごめんやす」
とお尻を上げて、安兵衛は帰って行った。
文次は相変わらずちびりちびりと杯を重ねている。
小半時たった。
おもてで何か話しているおこよの声がして、
「ええ、おりますよ」というのが聞こえる。
はてな、誰だろう――。
と思っていると、おこよが顔を出して、
「津賀とかっていう人が来たよ、お爺さんの」
「津賀? 知らねえな。ま、通してくんねえ」
手早くそこらを片づけながら、文次ははいって来る男を見た。
連雀町の湯灌場買い、例の津賀閑山で、閑山は閑山だが、これはまたおそろしくしょげ返った閑山である。蒼い顔に眉根を寄せて、今にもべそをかきそうなようす。いったいどうしたということだろう。
「お初に――」挨拶がすむとすぐ、閑山は、早瀬の堰がとれたように一気にしゃべり出した。
かれの話はこうである。
昨日、飯たきの久七という者に車をひかせて、商売用の大切な品を入れた鎧櫃と、お得意へ届ける九谷焼きの花瓶とを持たして出した。
花瓶は妻恋坂の旗下饗庭様のお邸へ、鎧櫃は向島関屋の里の自分の寮へ。
ところが、ゆうべ向島へ行って見ると、座敷の真中に花瓶が一つころがっているから、閑山驚いた、急いで駕籠を飛ばして店へ引っ返すと、ちょうど久七も帰っていたが案の条、喰い酔っていて、さっぱり要領を得ない。押したりゆすぶったりして、やっとのことで訊きただしてみると、いやはや、とんだ間違いをしたものだ!
久七め、鎧櫃を妻恋坂のお屋敷へ渡しちまって、花瓶を向島へ持って行ったという。
もちろん、最初妻恋坂へ寄るつもりで、明神下へさしかかったところが、一軒の縄暖簾が眼についた。好きな道。す通りはできない。どうせ帰りは夜になる、使い先だが、まあ一杯ぐらいはよかろうとはいりこんだのが、ついに二杯三杯と腰がすわって、久七すっかりいい気持ちになってしまった。
で、品物をあべこべに届けたのだ。
さあ、驚きあわてた閑山、しかってみたところでおっつかない。朝になるのを待ちかね、自身妻恋坂へ出かけてゆうべの粗忽を謝し、あらためて花瓶を渡して、さて、鎧櫃を下し置かれましょうと申し入れると、
鎧櫃! そんな物は知らぬ。さらに受け取った覚えがない。
――というきつい挨拶。頭からかみつくようにどなられて、閑山すごすごと引き取って来た。
しかし、酒こそ呑むが、久七は長年勤めた忠義者、まさかに嘘をついているものとは思われない。そうすると、やっぱり鎧櫃は饗庭の屋敷へ行っているのだろうが、そんなら気軽に渡してくれてもよさそうなもの。それをああ剣もほろろにしらを切るとは、どうも変だ。
こう考えて来ると、閑山いても立ってもいられないのでふだんは毛虫のようにきらっている岡っ引きのところへ、鎧櫃の取りもどし方を頼みに来たのだ。文次は黙って聞いている。
「一刻も早く出しませんと、その、役に立たなくなる大事な物がはいっておりますんでどうでがしょう親分、一つお手掛けなすって、ここ二、三時のあいだに手に入れてくださるというわけにはまいりませんでしょうか。お礼は、へえ、まあ、百金」
「なに、百両?」文次はびっくりしてすわり直した。そして、
「ふうむ」とうさん臭そうにくちびるをかんでいる。
「軽少ですが、どうでしょう」閑山は乗り出した。
「いったい何ですい、品物は」
「鎧櫃ですよ」
「いや、鎧櫃はわかっているが内部の物さ」
「こ、小判ですよ。小判が五百両」
「五百両? なるほどでっけえな。で、先じゃあ受け取らねえというんですね?」
「はい、さようで」
「ところがお店の久七どんは確かに渡したと――」
「はい」閑山は気を詰めて、文次の答えを待っている。
「ちっ、困ったなあ」腕組みをほどいた文次が、「この稼業ばかりは何からどう糸を引くかしれねえから、では、ちょっくら出張って――」
閑山は平蜘蛛のように額を畳にすりつけた。文次はたち上がる。
「姉さん、そっちの帯を出して。そいから、すまねえが、雲母橋へ走って、安にすぐ来るようにいって来てくんねえ」
湯上がり姿にゃ親でも惚れる
そうだ、違えねえ――。
あの女、あの女、紛れもねえ彼奴だ。顔にこれぞという眼じるしがないのも、一点非の打ちどころがなければこそで、ああ生きの好い江戸前の小魚が、そうざらにおよいでいるわけはない。
待てよ。眼じるしがないとはいわさぬ。
まなざし口もと、あれが何よりの人別ではないか。恋の諸分によくいうやつだが「眼も口ほどにものをいい」全くだ、あれは無情の石でも木でも草でも、眼に映る物なら何にでも色をしいている眼だ。あの女に見られた男は、誰でもただじろりやられただけで、ぞっと襟もとから恋風を引き込む。
そうだ、違えねえ。
あの女、あの女、紛れもねえあいつだ。
昨日の正午、藪の内まで用たしに行ったついでに、祭の景気を見に随身門から境内へはいって、裏手念仏堂から若宮稲荷へかけての人ごみの中を、あわよくば掏摸の一人も揚げるつもりでさんざほうつきまわった末、かねがね顔見識りの水茶屋嬉し野の床几へ腰を掛けると、儲け潮にうるさいやつが舞い込んだものと思ったらしく、
「おや、親分さん、ようこそお越しでござんした」
親分さん、と来た。そして、看板女のおきんに茶をくませて出したが、その湯呑の下に、案の条、二朱包んであった。奴体に、出盛りの店頭をふさがれてはたまらないから、何にもいわずにわかってもらおうという袖の下だ。心得て立ち上がったとき、ちらと見たのがあの女である。
そこはこっちも八丁堀お箱持ちの端くれ、決してむだに歩いてはいない。こぼれがあったらいつでも拾う気でいるところへ、その女のことが、
「や! あれじゃないかしら?」
ぴいんと頭へ来たことがあるから、
「そこへ行くのは嬉し野のおきんさんじゃあねえか」
と一つ、時代にぶっつけておいて口裏を引いてみると、女は何にもいわずにまじまじとこっちの顔を見ていたが、そのうち捨て科白を残して逃げ出した。しかも女だてらに辻駕籠を飛ばして、神田連雀町の横丁で小器用に抜けやがった。
ううむ、違えねえ。
あれに相違ねえ。
――浮世小路から帰って来た御免安兵衛、雲母橋際の裏店に寝そべって、しきりに昨日のことを考えている。
二本の脚を柱へ突っかえて、あおむけのまま、黄色くなった畳のけばをむしっているのだが、さすがに戸外は春、破れ障子にも日影が映えて、瀬戸物町を往く定斎屋の金具の音が手に取るよう――春艶鳥の一声、あってもいい風情だ。
あの女は――と御免安、柄にもない物思いにふけりつづける。
湯屋のを借りてすましたのだろう、手ぬぐいは持っていなかったが、ほんのりとした顔や首筋の色艶、確かにあれは風呂のもどりのようだった。それに、神田で駕籠屋に聞いたところでは、神楽坂お箪笥町の南蔵院前まで行くようにといったとのことだが、これはどうせでたらめにきまっていらあ。
あいつ、俺の意中を知ったら、よもやああまでまこうとはしなかったろう。いや、それを感づいたればこそ、あんなに智恵を絞って後白浪と逃げたのかもしれぬ。あの女が果たしてあれなら、昨日ぐらいの芸当は朝飯前のはずだからな。
が、どっち道、広いようで狭いのがお江戸だ、いずれそのうちにまた顔が合う。
今度見かけたら――。
しょっぴいて引っぱたいて、一件の泥を吐かせて、みごとおいらが手柄にするか? 一件とは何だ?
なあに、それよりゃあ――とここまで考えて来て、安兵衛はにっと笑った。
「湯上がり姿にゃ親でも惚れる、ふふふふ、こいつあ存外面白えぞ」
なに、面白いものか。女のことをひとり胸に畳んで、手前の親分いろは屋文次にさえぶちまけないのを変だと見ていたら、それも道理、お役徳という小者根性から、虎の威を嵩にきてだいぶちょくちょくうまい汁を吸っているものとみえ、御免安のやつ、何かとんでもないことをもくろんでいるらしい――。
ところへ、
「お前さん、何だねえ、寝てばかりいてさ。根が生えるじゃないか。親分さんとこからお迎いだよ、すぐ顔出すようにって」
と女房のお民が、濡れ手をふきふき水口からがなり立てたので、安兵衛、悪いところでも見られたように、起き上がりこぼしみたいにむっくと立ち上がって、
「はてな、いま帰ったのに、急にまた何用だろう――?」
小首をひねったが、考えるよりは行ってみたほうが早いと気が付いたから、気と口と尻と、軽いものずくめの御免安、たちまち、
「ありゃ、ありゃ、ありゃあい!」
と威勢よく駈け出して使いよりも早く、
「ごめんやす」
とばかりに、伊呂波寿司の暖簾へとび込んで行くと――驚いた。
結城の袷に白の勝った唐桟の羽織、博田[#「博田」はママ]の帯に矢立てを差して、念入りに前だれまで掛けた親分の岡っ引きいろは屋文次、御用の御の字もにおわせずに、どこから見ても相当工面のいいお店者という風俗で、待遠しそうに土間の框にきちんと腰をおろしている。
「安、御苦労だがな、ちっとわれのからだを借りてえことがあるんだ」
「へえ、何でごわす?」
「なあに、半ちく仕事よ。ま、つきあってくんねえ。途々話すとしよう」
自分の頼みだけ頼んでしまうと古手屋津賀閑山はさっさと先に帰ったと見えて、他には誰もいない。したがって安兵衛には、何だかいっこうにわからないが、その場の出幕以外に、絶えて通しの筋趣向というものを、終了までは誰人にも明かしたことのないいつもの文次親分を知っているから、安も、
「あい、ようがすとも」
とがっくりうなずくと同時に、さては死に花の探索に思わぬ眼鼻がついたのか、あるいはあの、満願寺屋水神騒ぎの一件か、それとも、ことによったらいろはがるたの――ではあるまいか、ともう歴然と持ち前の気負いを見せて来るのだ。
それにはかまわず、銀磨きを掛けたばかりの十手を、くるくると袱紗包みにして、すっぽり懐中へのむと、そいつを上からぽんと一つたたいて、文次は先に立って浮世小路の家を出た。
一歩踏み出すと、世はまさに陽光の世界である。
お捕物の出役。なに、それほどのことでもないが、若いころの源之助そっくりないろは屋が、ふところ手の雪駄ばき、花曇りの空の下をこうぶらりと押しだしたところ、これが芝居なら、さしずめ二つ三つ大向こうから声がかかろうというもので、粋な三味がほしいような、何ともうれしいけしきである。
春霞ひくや由緒の黒小袖。
名にしおう日本橋の大通りだ。
ずらりと老舗がならんでいる。
右へ向かって神田。
焙烙で、豌豆をいるような絡繹たるさんざめき、能役者が笠を傾けて通る。若党を従えたお武家が往く。新造が来る。丁稚が走る。犬がほえる。普化僧が尺八を振り上げて犬を追っている。文次は安と肩をならべて、黙りこくって歩いて行く。
話は途みちするといったくせに、何一つ口火を切らないうちに、二人は柳原の火除御用地へ出てしまった。すると、思い出したように立ちどまった文次、
「安」
「へえ」
「汝あ何か、湯島妻恋坂上のお旗下、饗庭亮三郎様のお屋敷てえのを知っているか」
「へえ。知ってますよ。知ってまさあね。あっしゃあね、以前よく、三組町の御小人長屋へ行きやしたから――」
「手慰みか」
「あわわ、いえ、なにその、へへへへ」
「まあいいや。それで、饗庭の屋敷は知っているというんだな」
「へえ」
「安、お前はな、これからその足で妻恋坂へ出向いて、それとなく、その饗庭の屋敷を張り込め。何だぞ。大きな荷が出たら跡をつけて、行き先を見届けるんだぞ。大きな荷だ。わかったか」
ききかえすことは許されない。安兵衛、いささかぼんやりしていると、
「俺はちょっくら寄り道して、すぐに屋敷の前で落ち合うからな、きっと俺が行くまで待っていろよ。よしか、わかったな。さあ、行け」
「あい。ごめんやす」
で、親分と乾分は土手の柳の樹の下で、左右に別れたのだった。
初見参は妻恋坂の殿様
「おう、小僧さん、ちょっときくがな、饗庭さまのお屋敷はこれかね?」
それらしい門の前で、文次が確かめようもなくて困っていると、ありがたいところへ酒屋の御用聞き、生意気にうろ覚えの端唄かなんかを、黄色い声で鼻に歌わせて通りかかった。これへ文次がこう声をかけた。
「ああそうだよ。これが饗庭様のお屋敷だよ。だが、お前さん何の用だか知らないけれど、お金や商売のことなら、悪いことをいわないぜ、よしなよしな。ちっ、こんな払いのきたねえ家ったらありゃしねえ。あばよ、さばよ、さんまの頭だ」
おしゃまな小僧、むだ口をたたいて行ってしまった。
ふうむ、よほど踏み倒すと見える。これはちと相手が手ごわいかな。ま、そんなことはどうでもいい。
が、いったいどうしたというのだ?
またしても安の野郎、明らかにどじを踏みやがって、この邸を見張ってここで俺を待つように、あんなにいっておいたのに、それにどうだ、影も形もない!
あれから小半刻、どこをうろついているのだろう。そのあいだに何が持ち出されたかしれやしない。
むっとした文次、往来の上下を睨めまわすと、屋敷町の片側通りだ、御府内といえ、一つ二つ横町へそれたばかりなのにもうこの静けさ、庫裡のように寂寞としたなかに、八つ下がりの陽ざしがやけにかんかん照り返って、どの家からともなく、美しい主をしのばせぶりに、ころりんしゃん、かすかに琴の音がもれている――。
あてにならない御免安を、いつまで怒っていたところで果てしがないと気が付いた文次は、ふとわれにかえったように、改めて眼の前の、饗庭の屋敷というのへ瞳を凝らし出した。
禄高四百石、当時小普請入りのお旗下饗庭亮三郎が住まいである。
一口に旗下八万騎といっても、実数は二万五千から三万人、その中に一万石譜代大名に近い一から槍一筋馬一頭二百石の十まであって、饗庭はどっちかといえば、まずきりに近いほうだから、この屋敷にしたところで五百坪はないくらい、決してたいした構えではないが、それでも格式だけは大事にして、明様の土塀に型ばかりのお長屋門、細目に潜りをあけてのぞくと、数寄屋詰道句風をまねた前庭の飛び石づたいに、大玄関の敷台が見えて、何年にも手入れをしないらしく雑草にうずもれて早咲きの霧島がほころびているぐあい、とにかく、町人づらをおどかすだけのことはある。
すばやくはいり込んだ、文次、折よく誰にも見とがめられずに、追われるように表玄関へかかって、土間に立って案内を乞うた。
「お頼み申します――お頼み申します」
しいんとして、人の気配もない。
広い邸内に反響して返って来る自分の声を聞いたとき、何となく文次は、ぶるると身ぶるいを禁じ得なかったが、気を取り直して、もう一度。
「おたのうもう――」
とやろうとすると、
「誰だ」
低い、けれども霜のように冷たい声、それが、意外にもすぐ前でしたから、文次はちょっとどきんとした。声の主は以前からそこにいたものらしい、同時に、黒光りの重い板戸が音もなくあいて、敷居ぎわに、半白の用人が端然と控えている。
いろは屋文次、そもそも何のためにこの家を訪れたか。
それはいわずと知れた今朝がた、津賀閑山に持ち込まれた鎧櫃取りもどしの件である。
閑山の話では五百両の金を入れた鎧櫃を下男久七の間違いから饗庭へ届けてしまった。それを、あとから返してくれと申し入れても、そんな物は頭から受け取った記憶がないという応対。
これだけのことは閑山の口ででもわかっていたが、一応当の久七からじかに聞き取るために、柳原で安兵衛とわかれたのち、文次は連雀町の津賀閑山方へ立ち寄って、そっと裏から久七を呼び出してきいてみると、閑山のいったところとたいして違いはない。
使いの途中、明神下できこし召したばかりに品物を反対に、鎧櫃を饗庭様へ、九谷の花瓶を向島関屋の里の主人の寮へ――。
「へえ。確かに置いてまいりました」
という。確かに間違うやつもないものだが人間は田舎者まる出しの朴訥者だ。こいつは嘘はいわないと文次はにらんだが、念のため、饗庭の屋敷でどんな人が出て受け取ったかと尋ねると、
「若いきれいなお武家さんで、へえ、まるで女のような方が、ていねいに礼をいって受け取りました」
そりゃそうだろう、買いもしない、みごとな品が飛び込んで来たんだ、これあ馬鹿ていねいに礼の一つぐらいはいったかもしれねえと、文次はこみ上げるおかしさをこらえて、なおも、主人閑山の在否、問題の鎧櫃の内容などをきいてみると――。
鎧櫃には具足がはいっていたそうだがそれも何だか、よほど金目の物らしく、主人はあれから狂気のように飛び歩いていて、今も店にいないとの答え。はてな?
よほど金目の具足? よくいった。小股の切れ上がった美人がひとりと数百両の現金、これ以上に金めのものもちょっとあるまい。
が、そんなこととは夢にも知らないから、ただ、さぞかし安兵衛が待ちくたびれているであろうと、急いで妻恋坂を上った文次の頭には「女のような、若いきれいなお武家」というのが、焼き印みたいに、強く大きく押されているばかりだった。
ところが、来てみると、いべきはずの安がいない。のみならず、単身饗庭邸に案内を求めると、取り次ぎに出たのが、
「女のような」どころか蟇蛙みたいな、久七のお武家とは似ても似つかぬこのごま塩頭だ。
さすがの文次もいささかあわて気味で、
「あの、こちらは饗庭様の――」
といいかけるのを、
「いかにもさよう」と引き取った老用人、「いかにも当家は饗庭じゃ。饗庭亮三郎様のお屋敷じゃが、して、お手前は?」
要を得た呼吸だ。文次はますます下手に出て、
「私は、神田の津賀閑山の店から参りましたが、毎度お引き立てをこうむりまして――」
「黙れ、黙れ」
突如老人は湯気を上げて怒り出した。
「またしても鎧櫃とやらのことを申して参ったのだろうが、今朝も閑山にしかと申し聞かしたとおり、そのような物は当家においてとんと受け取った覚えがない。一度ならばそのほうかたの思い違いということもあろうと存じ、いずれはわびに参るであろうと大眼に見てつかわしたに、いま二度まで乗り込み来たるとは当家に難癖をつけようの所存であろう。
第一、そのほうごときは、門番の許しを受けてお裏口へまわるべきに、誰に断わって大玄関へかかった? ううん? これ、無礼者めが! 帰れ、帰れ。帰って閑山に以後出入りかなわぬと申し伝えろ。不敵な奴じゃ」
文次はここを先途ともみ手をして、
「しかし、間違いでも難癖でもござりません、へえ。あのう、御当家に、お若い美しいお侍さまはいらっしゃいませんでしょうか」
文次も、眼だけは争われない。鋭い光を増してくる。
「なに? 若い美しい侍とな? 知らん、そんな者はおらん」
「へえ、ごもっともさまで、へえ」
と、殊勝げに文次が、ぴょこりとおじぎをして顔を上げたとき、いつのまに来たものか、青筋を立てて威猛高に肩を張っている老用人の背後、陽の届かない薄紫の室内に、煙のようにぼうっと、糸のように細長い人影が立っている。
唐流をななめに貼って貸家札
黒羽二重の着流しに白っぽい博多の帯を下目に結び、左手に大業物蝋色の鞘を、ひきめ下げ緒といっしょにむんずとつかんで、おどろいたことには、もうその、小蛇のかま首のようなおや指が、今にも鯉口を切ろうとしているのだ。
年齢のころは四十あまり、剃刀のような長い蒼白いあばた面、薄い一文字の口、鴨居をくぐりでもしそうな珍しい背高、これぞ饗庭亮三郎その人である。
口尻がぴくぴくと動いて、細い眼が、笑うように泣くようにじいっ――自分をみつめているのに気がつくと、文次は不吉なものにつかれたようにぞっとした。
「まあま、どうぞお気を悪くなさらないように、何ともあいすみません、へえ」
そんなような逃げ口上を用人に残して、早々に屋敷を出たのだった。
戸外に立って、門の奥を振り返りながら、文次は考える。
あれが妻恋坂の殿様か。へん、えらくにらんでいやあがったぜ。
武士が何でえ。
二本差しがこわかった日にあ鰯は食えねえんだ。ばかにするねえっ!
だがよ、だがまあ、何て眼つきをする野郎だ! ちっ、胸っくそがわるいたらありゃしねえ。
しかし、ああまでいい切る以上は受け取って隠しているものとも思われない。すると、例の鎧櫃は、いったい全たいどこへ行ったというのだ?
「おうい、親分、ひでえや」
遠くから声がする。見ると、むこうから御免安がかけて来る。
「ひでえや、親分、待ちぼけを食わせるってなあひでえや」
何がひでえのか、不平たらたら、ふだんから寸の詰まった出上がりが今は仏頂面と来ているから、何のことはない、灯のはいった河豚提燈だ、これを見ると文次、何やかや、今までのかんしゃく玉を一時に破裂させてしまった。
「安っ? どこへ行ってやがったっ?」
「へ?」
と立ちどまった安兵衛、鳩が豆鉄砲をくったようだ。
「だって、親分はわっしに、饗庭の屋敷へ張り込むようにいったじゃありませんか」
「だからよ、だから何だって手前はここに立って、俺を待っていなかったてんだ?」
「おっと親分、待ってもらおう、饗庭の屋敷は此家じゃありませんぜ」
「なにを? 何いってやんでえ、俺はな、いま邸内へへえって用人にも殿様にも会って来たんだ。これが饗庭の屋敷でねえなんて、ぼやぼやするねえ。手前はなんだな、夢でも見ていやがるんだろう。面を洗え、面を」
ぽんぽんやられて、安はすこし不審な面もち、しばらくそこの饗庭の門構えをながめていたが、やがてのことに、だんだんと顔に驚異の色が浮かんで来て、
「親分!」と叫ぶように、「こいつあよっぽど妙でげす、おんなじ家が二つありやすぜ」
そういいながら安はやにわに文次の腕を取ってぐいぐい引っ張って歩き出した。
「どうせお前、旗本屋敷だ。同じ建造の二つはおろか、江戸じゅうにあ何百となくあるわさ」
うす笑いを浮かべて、それでも文次は安のなすがままに、そのうちに二人は、どっちから先ともなく、一散に道を走っていた。
妻恋稲荷の杉並木に沿うて、二、三丁南へ下ると立売坂。
登りつめればお駕籠者の組屋敷。
と、その中途に、ちょうど饗庭の屋敷と背中合わせに、一軒の家が建っている。
「これだ、親分。どうでごわす、見分けがつきますかね」
安兵衛が指さした。
なるほど、これでは誰でも間違うのがあたりまえ、どう見ても全く同一で、ちょいと見分けがつかない。
不思議といえば不思議。
真昼間の妖術といおうか、薄っ気味の悪いほど似ているではないか。
「あっしはさっきからここに立って見張っていやしたが、誰一人出たものも、へえった者もござえません。しかし、あれが饗庭の屋敷とすると、これあどなたのお住まいですえ?」
安がいった。誰の屋敷? 文次も知らない。
鷹のような険しい眼をすえて、文次は黙って、その屋敷をみつめている。
明様の土塀に型ばかりのお長屋門、そっと潜りをあけてのぞくと、数寄屋詰道句風をまねた飛び石づたいに正面の大玄関が見えて、何年にも手入れをしないらしく、雑草にうずもれて早咲きの霧島がほころんでいるぐあい、とにかく、一本一石、松の枝ぶり、枯れ案配、壁の汚点から瓦のかけ方、あたりのただずまい何から何まで、似ているのではない、全然同じなのだ。
単なる偶然の一致?
それにしては、すこしく念が入り過ぎていはしないか。
裏はすぐ、饗庭の屋敷につづいている。
とすると――?
影武者というのは軍談で聞いたこともあるが「影屋敷」はこれがはじめて。
はてな?
いやいや、まさか! そんなばかな!
文次は空を仰いで、からからと笑った。
「なあ安、世に間違えほど恐ろしいものはねえな。最初の間違えにまた間違えを重ねて、すんでのこっておっかねえお武家に一つ抜かせるとこだった。わかってみれあなあんのこった、われでせえ取りちげえるくれえだから、酔いと薄暗黒のなかで、久七めが――いや、これあむりもなかろうじゃあねえか」
「久七? 久七たあ、どこの久七でごぜえます?」
「ほい、まだ話さなかったか、きのうの暮れ方、神田連雀町の津賀閑山の下男久七てえのが――」
「え? へえへえ」
「なにか、われ何か知っているのか」
「いいえ、どう致しまして、全くの初耳でげす。ところで、その久七てのがどうかしましたかえ」
「うん、主人の鎧櫃を饗庭へ届けたというんだが、それあ饗庭じゃなくて、このお屋敷に相違ねえ」
「よ、鎧櫃を? ふうむ」
「安、心当たりでもあるのか」
「とんでもねえ! がしかし、何がへえっていたもんでごわしょうの」
「さ、中はよくわからねえが、久七がここへ持ち込んだ物を、饗庭のほうへたびたび催促に行ったもんだから、短慮者をすっかり怒らせてしまったんだ。なあに、こう割れてみれあ世話あねえ。こちら様でもうっかり受け取りはしたものの、今は持ち扱っていなさるだろう。わけを話して下げてもらいさえすれあいいんだ。とんだお門違えだったもんよなあ、笑わしやがらあ、はっははははは、安、いっしょに来い」
傍門をあけて文次がずいとはいり込むと、それに「ごめんやす」とも何ともいわずに安兵衛が続いて、陽だまりの草のなかを、
「おう、めっぽうな荒れようだなあ」
と二人は何ごころなく石づたいに、ゆるくまわって、玄関の前へ出た。
と、見るがいい!
ぴったり締まって乾破れのした玄関の雨戸に、もう黄色くなりかけた一枚の白紙が、さも二人をあざけるように貼り付いて、墨痕鮮やかに――「かしや」と読める。
「ううむ」
思わずうなると、文次はそのまま腕をこまぬいた。
声はすれども姿は見えぬ
「安」
「親分」
「空屋とは驚いたな」
「驚きましたね」
おなじことをいい合っている。
棒立ちになったきり、四つの眼は貸家札から離れない。主なき家のほとり、ひっそり閑として、春日いたずらにうららかである。
二ひら三ひら、微風に乗って舞うともなく白いものが落ちてくるので、振り仰ぐと、いままで気がつかなかったが、屋敷の横から饗庭家との境へかけて、これはまたみごとな老桜の林、八重には早いから今が彼岸の花盛りだ。ほめて酒を汲む人もないのに、惜しげもなく爛漫と咲き誇って、さながらうす紅色の綿雲をかけつらねたよう――。
うっとりとなった二人の頭へ、すぐに眼前の問題がかえって来る。
文次と安兵衛は顔を見あわせた。
「ねえ親分、ゆうべのうちに夜逃げしたものでしょうかねえ」
「いんや、そんなこたあるめえ。このはり紙がこう古くなるまでにあ、どうみたって二月、三月はかかろう。それに久七だって空家へ荷を入れるわけもねえし、また、ちゃんと出て来て受け取った者があるというんだからなあ」
「へえい! 狐につままれたような話ですねえ」
「そうよなあ」
感心とも当惑ともつかない体、二人ともぼんやりして、たがいの顔と表戸のはり紙を見較べているばかり。
これではきりがないと思ったか、文次は、
「へたの考え何とかといわあ。なあ安、どうだ。屋敷を一まわりしてみようじゃあねえか」
「ようがしょう、何かとび出さねえとも限りやせんから」
「うむ、化け物が巣をくった跡でもあるかもしれねえ」
玄関から建物にそうて、横手へまわって裏へ出る。亭を張った井戸がある。
のぞいていると、
「えへん」
遠くで咳払いがする。
水の底から?
文次はぎょっとしてそこらを見まわした。ひら、ひら、ひら、と花が散る。
「えへん」
何だ、おどろくことはない。饗庭の邸に人がいるのだ。
一面の桜の上に、船のように遠く浮かんで、饗庭の二階が見える。その縁に立って、じっとこっちを望んでいる人物、豆のように小さく、黒文字のように細いが、忘れもしないさっきのお殿様、饗庭亮三郎である。
「またにらんでやがらあ」
こう思うと文次は、わけもなくおかしくなった。
「ねえ親分――」
妙にしんみりした口調で、御免安がいっている。
「その鎧櫃とかに何がへえってたのか親分はほんとに御存じねえんですかえ」
「それがよ、閑山は俺にあ五百両の金を入れといたと話したが久七には具足といったらしいんだ。何だかわからねえ」
文次はちらと安兵衛を見る。
昨日の女が気にかかるらしい安兵衛、いつになくしょげているようすだ。
こいつ、ことによったら何かのんでいやしないか。
――と文次はきっとなったが、さあらぬ態で微笑にほぐらかし、そこから中庭を横切って、散りかかる桜花の下道を背戸へまわって二階建ての母屋、焼きつくような饗庭の視線を絶えず首筋に意識しながら、ここが奥座敷と思われるあたりへ出た。
ずらりと閉切った縁側の雨戸に、白っぽい日光が踊っている。
「どこかはいれるところがあるだろう。安、あけてみな」
文次のさしずに、安兵衛はさっそく、戸袋に近い一枚へ手をかけて、どうもしようのない剽軽者だ。
「ちょっと切り戸をあけてんかいな、あけてんか、お隣さん、もし、お内かお宿か、おるすさんかいなあ。いぬのにとんとんとたたいても、ええ、ほんにじれったいではないかいな」
唄に合わせてがたぴしやっている。のんきな奴だ。
やっとのことで、どうやら、横にはいれそうなすきまができる。
そこから上がり込んだ。
明るい戸外から来た眼が、しばらくすっかりくらんで、黒闇に慣れるまでにかなりのまがある。
ほこりのにおいがむっと鼻を打つ。
水のようにひえびえとした空気に、板戸の継ぎ目や節穴をもれる陽が射しこんで、玄妙な明暗の縞を織り出していた。
内部から桟をはずして、順ぐりに雨戸を繰ると、さながらどっと音を立てて、この家にも、はじめて春が流れ込んだ。
さすが饗庭邸と同じ建築だけあって、いかさま、これなら数百石のお旗下が住んでも恥ずかしくない屋敷だ。欄間といい、床の間、建て具、なかなかどうして金をくっている。
何の間、かにの間とそれぞれ用途によって名があるのであろう。広やかな座敷がいくつもならんでしいんと墓場のよう、きのう人のいたけはいなぞはみじんもない。
中廊下の取っつきの梯子段の裾が見える。
襖のかげや小暗い隅へ気を配りながら、二人は階段を踏んで二階へ上がった。
真の暗。
縁のほうへ手探り寄って、戸をあける。
外光に照らし出された十畳の間、三方唐紙に閉ざされている。
何気なく足を入れた。
と、その真ん中に置いてある一つの物。
鎧!
黒革張りに真鍮の鋲を乱れ打ちに打った、津賀閑山が騒ぎまわっている、あの鎧櫃だ!
これだっ!
あった、あった!
と見るや、文次よりも安兵衛があわてた。ころがるように走りよって、
「親分、骨を折らせやがったが、これでげしょう? あけやしょうか」
手は早くも蓋にかかっている。
そのそばに、文次はのっそりと立った。ごくりと唾を飲んで、眼であいずをすると、錠はこわれているから、安の手で難なく蓋が持ち上がった。
思ったとおり、も抜けの穀だ。
が、底に、何やら光った物が落ちている。
「何だい、これあ」
安から受け取って、文次が掌に置いて見ているうちに――、
はてな――という面もち、
「お、これは――」
といおうとすると、くす、くすくす、くす、どこかで人の忍び笑いがする。
はっとして身を引くとたん、
「おい」
突き刺すような一言、ひしがれたかれ声が耳の近くで。
文次と安、思わず眼を見合う、二人のほか誰ひとりいないこの部屋である。
「おい」
またしても声だ。が、どこからするのか見当が立たない。
隣室からか、天井裏からか。
いや、声だけが眼の前の空にただよっているのだ。
「いけねえ!」
つぶやいた文次、安を促してあとずさりしようにも、これが不動金縛りというのか、足がくぎづけになって身動きが取れない。
「動くな、逃げようとて逃がしはせぬぞ」
どこからか見ているものとみえて、声は静かにつづける。
「そのほうども何用あって参った。いやさ、誰に頼まれて当屋敷へ踏み込みおった?」
ひしひしとあたりに人体の気を感ずる。四方八方から眼が光っているようだ。迫る鬼気に呼吸がかたまって、二人はもう額に汗をかいている。
そこへ、一枚あけ放した戸から、風とともに吹き込むおびただしい桜の花びら――花ふぶきだ。
さらさらと生あるごとく、畳をなでている。
散る花の命。
文次は手を握りしめた。
二寸、三寸、五寸、むこうの襖が、すべるようにきしむように、見えぬ手によってあきつつある――。
青山夢に入ってしきりなり
「また、春じゃのう」
相良玄鶯院は、熊手を休めて腰をたたいた。ついでに鼠甲斐絹の袖無着の背を伸ばして、空を仰ぐ。刷毛で引いたような一抹の雲が、南風を受けて、うごくともなく流れている。
今そこらをはきおわったところであろう。狭い庭の隅に、去年の落ち葉をあつめて小さな塵塚ができている。
永日閑居とでも題したい、まことにのんびりした図。
ここ本所割り下水といえば小役人と浪人の巣だが、その石原新町お賄陸尺のうら、とある巷路の奥なるこの庵室は、老主玄鶯院の人柄をも見せて、おのずから浮世ばなれのした別天地をなしている。
白髪を合総に取り上げた撫付け髷、品も威もある風貌、いわば幾とせの霜を経た梅の古木のおもかげでこの玄鶯院と名乗る老翁、どうもただの隠者とは受け取れない。
遠くの物音に耳を傾けるように、たとえば世の中の動きを聞きとろうとするように、老人は態手にもたれて立っている。
近所の道場に、お面お小手と稽古の音がする。
雨のような日光――。
やがて老人はうしろを振り返って低声に呼んだ。
「守人殿、守人殿」
「は、はい」家のなかから含み声の返事。
「お呼びになりましたか」
といったが、出ては来ない。
内と外とに静かなやりとりがつづく。
「どうじゃ、新太郎は眠っているかの」
「はい、さっきまでむつかっておりましたが、今はよく眠っております」
「はははは、厄介坊主め、さすがの篁守人もそのあくたれにはほとほとてこずりおると見えるのう。はははははは」
老若二人の笑い声が、愉快そうに一つに合う。が、家の中の笑い声には、何がなし一脈のさびしさが響いていた。
玄鶯院は何事か思いついたように、
「守人殿」
「はい」
「ちと戸外へ出られてはどうじゃな」
「――」
「下世話にも病は気からと申す。いまの若さに欝気は大の禁物じゃ。ああ、ええ陽気じゃわい。枯れ木にも花が咲いて、わしがごとき老骨でさえ浮かれ出しとうなるて。わっはっはっは」
「先生、そんな大きな声をお出しになると、新太郎さんが眼をさまします」
「おお、さようじやったな。しかし、今年の春はまた格別じゃぞ」
「わたくしには、その春の命がいかにも短いように思われてなりませぬ」
「またしてもそのような述懐! 京表よりもどって以来、そこもとはどうも気が弱うなった。いいやいや隠さんでもよい。人の心はさまざまの日が来るものじゃ、うむ、それよりも守人殿、ここに一つ、ぜひ御辺に見せたいものがある」
年寄りだけあって、玄鶯院は古風ないい方をする。
家内では守人がたちあがるようす。
「先生、何でございます」
「まずこれへ出られい」
とうとう引っ張り出された形、竹の濡縁から庭下駄を突っかけて、ゆらりとおり立った一人の若者。
水戸の浪士篁守人である。[#「篁守人である。」は底本では「篁守人である」]
まだ前髪を落としてまもなかろう。色白の中肉中背、といっても野郎風ののっぺり顔ではない。気骨凌々たる眉宇と里見無念流の剣法に鍛えた五体とがきりりと締まって、年よりは二つ三つふけても見えようが、病み上がりとはいえ、悍馬のようなはなやかさが身辺にあふれているから、苔臭い庭がぱっと明るくなったほど、なんとも立派な若衆ぶりだ。
ことに切れ長にすんだその眼、それには異性の琴心をかき乱さずにはおかないあるやさしい悩ましさを宿しているところを見ると、この守人、ことによると、いたるところで思わぬ罪つくりをしているかもしれない。
それはそうと、相手が洒落気たっぷりの老人だ。何か見せる物があるとのことだが、真に受けていいものかどうかとあやぶむように、守人はくすぐったそうにほほえみながら近づいてゆく。
そんなことにはおかまいない。玄鶯院は石のように大まじめだ。
「これじゃ。何としても御辺に見せたいと思うたは、これじゃよ」
といきなり足もとの落ち葉を指さした。
「ははあ」
感心を装った守人、来たな、また何か人の悪いおちがあるのだろう、と考えたのでにやにや黙っている。
ところが、玄鶯院は珍しく口がすくない。しゃがんで、棒きれで落ち葉の山を突ついてる。
いつまでたっても突ついているから守人のほうからきいてみた。
「それが、何でござりまする」
「これかの」
と老人が顔を上げたとき、黒豆のような瞳がきらと輝いているのに、守人ははっと息を呑んだ。
「これか」玄鶯院がいう。「これは、見らるるとおりの朽ち葉じゃ。冬を越した腐れ葉じゃ。もはや役を済ましたもの、あって益のない物、いや、益のないばかりならええが、あるがために新芽の邪魔をするものじゃ、どうじゃ、おわかりかな」
たましいからたましいへ話しかけることばである。守人はうなずいた。
にっこりして、玄鶯院は語をつなぐ。
「古い物がのさばっておっては、誰しも見苦しい。な、心中快くない。ただ口に出していうといわぬの相違だけじゃ。そこでどうする? うん? なんとする?」
ちょっと切って、ささやくような自問自答。
「焼くのじゃ」
と一言。
それから大声をあげて下男を呼んで、
「平兵衛、これよ、平兵衛、火を持て」
「おうーい。今行くだあよ」
たった一人の老僕へらへら平兵衛、これは面白い癖のある男、酔うと膝小僧をたたいて陶然と歌い出すのだ。
「へらへらへったら、へらへらへ。あ、へらへらへったら、へらへらへ。あ、へらへらへったら――」
どこまでいっても同じことだ。へらへらへの一点張り、際限がない。
が、いまは白昼、素面で風呂をたいていたのが、釜の下から一本抜いて、燃えているやつをはさんで来る。
「さ、これじゃ」
と玄鶯院は受け取って、きっと守人の顔を見すえた。
「誰が火を放つ?」
「私が焼きましょう」
守人の手で、薪が落ち葉の底へ差し込まれると、むせるような土の香とともに、白い煙がぶすぶすともつれのぼる。
「古い物は焼け滅びる。これでよいのじゃ。これがその最後の勤めなのじゃ。この灰の中から、新しい力が抬頭して来る。のう、やがてはその天下じゃわい」
「先生、すこしおことばに気を付けて――」
「大事ない。ここはわしの庭じゃ。ごみを焼こうと世話を焼こうと、何人に気がねがいるものかい」
相良玄鶯院、両手を腰に、高だかと哄笑をゆすり上げた。
「お爺ちゃま」
という声がする。
いつのまにか起きて来たものか、これが新太郎であろう。河童頭にじんじんはしょり、五つ六つの男の子が、てんてこてん、てんてこてん座敷の縁ではねている。
「お! あぶない!」
それを見ると玄鶯院は、古いものも新しい物も忘れて走り寄った。
「おお、よちよち。起きたか、うん? 眼がさめたか」
抱き上げざま頬ずりをして、そのまま家へはいって行った。
あとには篁守人が、ひとりつくねんと燃えしぶる枯れ葉をみつめて考えている。
寝食を廃して国事に奔走する。なるほど雄々しい美しい名には違いないが、それがややともするとうつろな人間の、しかもほんの上っ面に過ぎないような気がしてならない。さればといってどうすればいいか。
自分一個の道――こう押し詰めて来ると、そこに忽然と浮かび出るあの女の幻。
守人はそれを打ち消すように、たき火へ風を入れた。勢いを得た焔とともに、自責と羞恥が紅潮となってかれの頬をいろどる。
俺はこのごろ、全くどうかしているかもしれない。今まで考えなかったことを考えるようになったが、その機縁も俺にだけはわかっている。しかし、ここまで来たのだ。
もう引っ返すことはできない――この若い浪人、何か事を進めているものとみえる。
「そうだ、やるところまではやろう」
がしかし、ぬぐい切れないで残っているこのわびしさを何とする?
このうつろな心をどこへやろう?
江戸へ出て数年、陋巷にうずもれているあいだに、少壮の剣客篁守人もこうまで弱気になったのか。
病後のせいもあろうが、彼は近ごろ、毎夜のように故郷の夢をみるのだ。眠りに入るとすぐ、満山の緑清冽な小川の縁を、酔っぴて幼児となって駈けまわるのである。
くすぶる火を前に、いつまでもいつまでも守人は庭にたたずんでいた。夕ぐれがはい寄るのも知らずに。
凝った普請だが住み荒らした庵のうち、方来居と書いた藤田東湖の扁額の下で、玄鶯院がお盆をかむって新太郎をあやしている。
ひところ、匙一本で千代田の大奥に伺候したことさえあるので、いまだに相良玄鶯院と御典医名で呼ばれている名だたる蘭医、野に下ってもその学識風格はこわ面の浪士たちを顎の先でこき使って、さて、何をどうしようというのでもない。
足らないがちのなかに食客を置いて、こうのんこのしゃあと日を送っているのだから、確かに変物は変物だ。
食客というと、この新太郎も怪しくなる。独身の謹直家だからもちろん実子ではあり得ない。では養子だろうというに、そうでもない。棄児かといえばこれまたしからず。じゃあ何だということになると、実は何でもないのである。
ただへらへら平兵衛の相識の按摩の夫婦がどこからかもらって来て育てていたのが、去年女房に死なれて盲目ひとりで困っているのを、平兵衛が勝手に引き取ってきただけのことなのだから面白い。
のんきな話もあったもの。
が、今では主人の玄鶯院が新坊でなくては夜も日も明けないありさまで、夜中に咳の一つもしようものなら守人と平兵衛を起こしまわっててんてこまいを演ずるという騒ぎ。
きさくな連中がそろっているからどこの誰の子かは知れないが、新太郎も温い人情に包まれて、幸福に健やかに五つの春を迎えている。
三人の男世帯へ夜が来た。
夕餉を済ますと、和漢洋の書籍が所狭く積んである奥の一間で、玄鶯院は新坊を寝かしにかかる。
「坊やのお乳母はどこへ行た、あの山越えて里へ行た。里のお土産に何もろた。でんでん太鼓[#「太鼓」は底本では「大鼓」]に笙の笛――」
調子はずれの子もり歌が、薄暗い行燈の灯影に揺れる。
と、守人は、すでに幾人かの生血を知っている水心子正秀の作、帰雁の一刀を腰にぶち込んで、忍びやかに方来居を立ちいでようとした。
「えへん」
玄鶯院の咳払いだ。
「守人殿、今ごろからどこへ行かるる?」
守人は土間にすくんだきり、返事がない。
「そこもとの身にはある筋の眼が光っていることを、よもやお忘れではあるまいの。昨日今日とでも怪しき風体の者が、この界隈に出没するということじゃ。夜歩きには充分に気をつけたがよいぞ」
「御心配御無用。私には供がございます。帰雁と申す――」
戞然と鍔を鳴らして、守人は蒼白く笑った。
「さようか。それもよかろう。が、帰宅のほども知れまい。雨催いじゃ。守人殿、傘を持たれよ」
あとはまた子もり歌に変わって、
「西が曇れば雨となり、ひがし曇れば風となる。千石積んだる船でさえ、暴風雨となれば出てもどる」
唄声を背後に、やがて守人は宵闇の中へさまよい出た。ひやりと横鬢をかすめる水気に、ぱっと蛇の目を差し掛けて、刀の柄を袖でかばった篁守人、水たまりを避けて歩き出した。
この、人が家に納まるころおいに家を出て、いったいどこへ行こうというのだろう?
しとしとと春の夜の小雨が煙っている。
ぬれ燕
とんだあぶねえ二枚目だぜ
真昼間の恐怖は、白っぽいだけに人の背筋へ氷のような戦慄を注ぎ込む。何やら得体の知れぬ力に押えつけられてただしいんと心耳に冴え返るばかりだ。百万千万の視線が、眼に見えぬ槍ぶすまとなって、前後左右と上下に迫って、動いたが最後、ぷすっとどこからでも血が出そうな気がする。
悪熱のようなこの静寂の中に、戸外から舞いこんだ桜ふぶきが悩ましく乱れ飛んでいる。
この一刻は長い。
湯島妻恋坂の影屋敷。
花の吹き込む二階で、いろは屋文次と御免安が、手に汗を握って前方をみつめていると――。
ざ、ざざ、ざ――と襖があき出したが、これは向こう側に人がいるのだろう。いくら怪しい家でも唐紙がひとりで動くわけはない。
とはいえ、この空家にさっきからの人声。さては、鬼が出るか蛇が現われるかと、文次と安は上半身を前へかがめて互いに充分な気配り。何かは知らぬが、相手しだいではもちろんどんなにでもあばれるつもりだ。
と、さらり、襖があいた。
縁から射す未の刻の陽をまともに浴びて、ひとりの若侍が立っている。
ぞろりとした着流しに長い刀をりゃんときめて、所在なげに両手を帯前へ突っこんでいるのだが、それが、早い話が若様御成人といった形で、このところすくなからずあっけない感じだ。
文次はほっと息をもらした。気負いかかっていただけにいっそうきょとんとして、取って付けたようなおじぎをすると、侍はもうこっちの部屋へ踏み込んで来て、二人の鼻っ先に迫っている。
その顔を見て今度は文次、思わず、
「や! これは!」
と心中驚愕の声をあげた。
まるで歌麿の女である。月の眉、蕾の口、つんと通った鼻筋に黒みがちの瞳、江戸じゅうの遊里岡場所をあさっても、これだけの綺麗首はたくさんあるまいと思われるほど、名代の女形が権八にふんしたような、実にどうも優にやさしい美男。
これにつけて思い出すのは、津賀閑山の下男久七が、確かに女のような若いお武家さまが鎧櫃をお受け取りになりましたと申し立てていること。ははあ、さてはこいつだな、と文次はひそかにうなずいたが、それにしてもこの二枚目、何しに空屋にうろうろしている。
白粉焼けのような、荒淫にただれた顔に桜花の映ろいが明るく踊っているのが、男だけにへんに気味が悪い。
「何だ。貴様らは何だ?」
口の隅から侍がいった。文次は二度びっくりした。その声であるが顔や姿とは似も似つかない。これはまたどら猫を金盥へたたきつけたような、恐ろしいじゃじゃら声なのだ。
「何しに参った?」と手を帯へはさんだままで、「うむ、これ、何しに来たのだ」
文次があきれて黙っていると、侍は、ぞっとするようななよなよしたからだつきで鼻がくっつくほどひた押しに押して来る。
「へえ、あの」勝手が違うので文次もまごつかざるを得ない。
「通りすがりに貸家札を見ましたので、実はその、お邸を拝見に上がりました。あなた様はこちらの――?」
しどろもどろにいいかけると、色気たっぷりな若侍の眼に、魅殺するような悩ましい笑いがのぼった。
「あなた様はこちらの――どなたで?」
文次はくり返した。組しやすいと見たのだ。金と力のないのが色男の相場、こんな陰間の一匹や二匹、遠慮していては朱総が泣かあね。
「なに? どなた? 貴様らこそ何だ」
侍は一本調子だ。
「ですから今も申し上げますとおり、ちょっと貸家を見に――」
文次の口の動くのをみつめて、侍は片えくぼを深めている。安兵衛め、少しずつ安心してにやにやし始めた。
文次は手を振った。
「まあま、御安心なせえまし。わたしどもは決して貸家にはいり込んで他人様の荷を知らん顔して着服するような者じゃあごわせん。ねえ、あなたはここで鎧櫃を受け取ったそうですが、ちと悪戯が過ぎませんか。まあさ、仮に、仮にですよ、泥棒――といわれても、いい抜けはござんすまい」
「なんのことだ、それは」
白い顎を襟へうずめて、侍は上眼使いに媚びを送る。いやな野郎だな、と思うと、文次はかあっとなった。そして突然そこにあるからの鎧櫃を指さした。
「おうっ、お侍さん。これだ! ね、内部の物はどうしましたえ?」
ずばりといってのけた。
ところが侍、雨蛙のような声で笑い出した。
「げげげげ、知らんぞ、そんな物」
「知らねえはずがござんすまい」文次は強くはね返した。
「この鎧櫃に五百両さ」
「くれるのか」
「ちっ、ふざけっこなしに願いますぜ。ねえ、あんたは悪気はなかろうが、こちとらあ頼まれて鉦や太鼓で捜してるんだ。こうっ、返してやんなよ。え? いい功徳になるぜおい」
「無礼な口をきくな。貴様たちは何だ?」
「あっしは櫃の内容をいただきに参った者でごぜえます」
「この中に何がはいっていたというのだ?」
「それはあなたが御存じでがしょう。ともかく、この鎧櫃はひいて来た奴の間違えでお手へはいったんで――どうぞお返しを願います」
「わしは何も受け取った記憶はないぞ」
侍がからだを揺すぶるのが、わざと嬌態をつくるとしか見えない、威嚇のきかないことおびただしい。
「いったいここの家主さんはどちらですい」
文次がとぼけた顔できいた。
「向島六阿弥陀の辻善六殿だ」
「して、あなたはどうしてここにいなさるんで?」
侍は黙っている。この問答、要領を得ないことこの上ない。
「だめだ」安兵衛が口を入れた。「親分、引き上げ引き上げ、このお方に係り合っていちゃあ日が暮れまさあ」
うなずいた文次、安を従がえてつと縁のほうに動こうとしたとき、
「待て!」
侍が呼んだ。
二人が振り返ると、蒼白くすみ切った若侍、ぺっと掌に唾をして、眠そうな声だ。
「ふん、いつまでもよけいなことを申しおると、用捨はない。殺してくれるぞ。この家から生きて出た者はないのだ」
つぶやいたとたん、おや! と思うと、ぐっとひねった居合腰、同時に眼にもとまらぬ早技でひゅういと空にうなった切支丹十字の呪縛剣、たちまちそれを、やんわり振りかぶった大上段の構えは――寂としてさながら夜の湖面。
眼がすわって、眉が寄って、美しい顔が血にうえているではないか!
「ひゃあっ! 抜いたっ!」
安はてんてこまいだ。そこを文次が、逃してやる気でとっさに突き飛ばしたから、安兵衛、一枚繰った縁の戸から都合よく階下の庭へころげ落ちた。いや、何とも大変な騒ぎ。
別人のような侍の爪先がさざなみを立てて畳の目を刻んで来る。
たいした手きき、えらい隠し芸、細腕に似合わぬ太刀さばき、人は見かけによらねえものだ。
「町人、参るぞ!」
刹那、冷気が頬をかすめる。かいくぐった文次、縁側へ出た。追いすがる無反りの一刀、切っ先が点となって鶺鴒の尾みたいに震えながら、鋩子は陽を受けて名鏡のようにぴかありぴかりと光る。
「こいつはほんとに斬る気だな」
と覚悟した文次は、ぱっと刀影が流れるのを機会に、手近の障子を蹴倒した。
じゃりいん!
障子の悲鳴を背後に聞いて、文次は外光のなかへおどり出た――。
芝生に立つやいな、振り仰いで見ると、早くも今の雨戸は締まって心ありげに落花が打っているばかり、空家はやっぱりただの空家で、物音一つしない。
戸外はのどかな春の真昼だ。
小鳥の影が地をすべる。
門まで来て、裏の饗庭の屋敷を望むと、依然として遠くに釘のような立ち姿、殿様の亮三郎がじいっとこっちをみつめていた。
何が何やら文次には考えがまとまらない。夢? 京の夢大阪の夢というが、すりゃこれがお江戸の夢だろうか。
――さて、鎧櫃はみつかったが、からでは閑山もほしがるまい。
いや、それよりもこの貸家で、狂気めいた鋭刃をふるうあの男美人の正体は?
文次は袂に手を入れて何かを握った。
思案にふけりながら妻恋坂の通りへ出ると、はるか下で御免安がびっこを引いている。
「親分」と急に威勢のいい大声だ。「御無事で何より――へへへへ、どうも何ともはや――」
「安、歩けるか」
「え? へえ」
「向島の六阿弥陀道までのしてな、辻善六ってのを当たって来い辻善六だぞ」
安兵衛、急に顔をしかめた。
「あ痛た、た、たっ! おう、足が痛え!」
「すまねえが、頼むぜ。おらあちと思惑があるんだ。首尾は夜自家で聞こう」
「しかし親分、ここは一つ手を借りてあの稚児どんを引っくくったほうが早計でがしょう」
「まあいいや。御苦労だが、行って来てくんねえ」
しかたがないから安兵衛、
「ごめんやす」
と一言仏頂面に頬かむりをして歩き出す。
別れた文次は、あとをも見ずに急いで昌平橋へかかった。まず連雀町へ寄るつもりであろう。が、橋の半ばで歩がゆるむと自然とその場に立ちどまって、袂から取り出したのは、一枚の小判。
さっき二階の鎧櫃の底にあったものだ。
人間の悲願煩悩を一つにこめて、いつ見ても燦たる光を放っている。
欄干へ寄って、いろいろと陽にあててながめていると、
「おや! ふうむ、これあ妙だわい」
何か発見したらしい。おどろきと喜悦、つぎにこわい表情が文次の顔に三つ巴を巻いた。手早く金を袂へ返して、何思ったか走り出そうとしたが、よっぽど泡を食っていたものと見える。どうんとぶつかるまで向こうから来る人に気がつかなかった。
「お! ごめんなさいよ」
「気をつけやがれ、ど盲め!」
声ではっとすると、そこは職掌、手がひとりでに自分の袂をつかんだ。
と、小判の手ごたえがない!
「はてな、落としでも――」
振り向くと、めくら縞長袢纒の頸に豆絞りを結んだ男が、とっとと彼方へ駈けて行く。
「うぬ!」
歯ぎしりをして、文次は跡を追った。が、逃げ足は早い。見る見るうちに男は遠ざかる。たまらなくなったいろは屋文次、見得も外聞も捨てて大声をあげた。
「すりだ、巾着切りだ。つかまえてくれ!」
往来がにわかにざわめき立って、両側の家からも人がとび出て来る。
あけられたら百年目
前の晩のことである。あれで五つごろだったろうか。
女はいつのまにか気を失ったものとみえる――。
こつん、と誰かが軽く外部から蹴りながら、
「何だ、鎧櫃ではないか」
頭の上で声がするのが、ちょうど水の中を通って来るようにかすかに耳にはいると、女は、ぽうっと、たとえば水蓮の蕾が割れるように、おぼろげながらも意識を取りもどしたのだった。
が、身はいまだ鎧櫃にこもって荷物のように折れ曲がっている。濃い小さな闇黒が、眼に近くしっくりと押し包んでいて、朝眼がさめたときのように、女が前後の事情を思い出すまでにはちょっとのまがあった。
どこだろうここは。
本所牛の御前のお旅所のはず!
――とこの一つが心によみがえると、引き出した端をくぐらせて、もつれた糸玉を解くように、あとは、小口からすらすらと女の記憶に浮かび上がって来た。
あれは神田連雀町津賀閑山の古道具店だったかしら?
そうそう、あそこでこの鎧櫃にはいったのだったっけ。
そして、あれから?
こうっと、あれから?
本所割り下水石原新町のそば、牛の御前の旅所へ届けるように頼んで、ぱたんと覆をしてもらったのだが、あの閑山とかいうお爺さん、だいぶあっけに取られていたようだよ。でもまあ親切なおやじでよかったこと。こうしてあたしのいうとおりに路を運んでくれたんだから――。
それにしても、浅草から駕籠を追っかけて来たあの仲間、ほんとにしつこいったらありゃあしない。だけど、いくらお祭日でもまさかあたしが古鎧櫃のお神輿になって車で出て来ようとは思うまいから今度こそはまんまとまいてやったというものさ。ほほほ、兄さんさぞかし今ごろは奴凧みたいに宙に迷っていることだろうよ。御苦労さま、いい気味、ほほほ。
鎧櫃の中で、ひとりぼんやり薄笑いをもらしていた女は、このとき愕然として呼吸を呑んだ。
何だか場所が違うような気がして来たからである。それに、
「何だ。鎧櫃ではないか」といった今の声。
おやっ、妙だよ、これは。
本所ではないらしいよ。
はあてね! 考えてみよう――。
ごろごろと引き出されて、すぐどの方角へ向いたかはもとよりわからなかったが、それでも、しばらく行って橋を渡ったことは、箱へ伝わる車輪のひびきででもはっきりと知れた。連雀町から本所へ出るのに、ああ近くに橋があるわけはない。
これはちと変だよ――と実はあのときも思ったのだったが、思っただけで、中からはどうすることもできないし、そのうちに、狭い鎧櫃の中で窮屈に揺られているあいだに、長いこと猿ぐつわをかまされたように気がぼうとなったと見えて、どこか路ばたに車がとまっていたことや、それから、ずずっと二、三寸鎧櫃があとずさりして、頭が背後へ倒れて車が坂道へ差しかかったらしいことやなどは、今でも夢か現に覚えているが、その余のことはさながらこの櫃の中の四角い暗闇同然、女はいつしか失神していたのだった。
で、今ここで気がついたときも、まだがたびし車上におどっているように感じたが、その心持ちがしずまって、いままでのことが走馬燈のように、一瞬に女の頭を走り過ぎると、突如いいようのない新しい不安が羽がい締めのように、鎧櫃の中の女をとらえた。
鎧櫃は確かに下におりている。
が、外部の気配が、不思議にも櫃の中の女の心眼に映じて、どうもここを牛の御前のお旅所とは受け取れないのだ。
戸外ではない。なんとなく屋根の下らしい――家の中?
とすれば、いったい全体自分はどこへ、誰の家へ来たのだろう?
思い切ってあけて出ようか。と考えて、下からそっと覆を押し上げていたが、中の女は知らないもののがんじがらめの締め緒に錠がかかっているから、持ち上がるどころか一分だって動かばこそ。はっとした女、あらいやだ、冗談じゃないよこれは――と真剣にあわて出したとたん、またもや鎧櫃の真上に当たって、何やらひそひそささやきかわす人声。
墓場のような重苦しいあたりのようすに、それは一脈のすごみを投げて、啾々乎たる鬼気を帯びている。
「ど、ど、どうしたのだ、こ、この、よ、鎧櫃は? だ、誰が持って来おった」
きいているのは岩鼻をかむ急湍のような恐ろしい吃りだ。女は聞き耳を立てた。
「は」他の一人が答えている。「ただいま神田の津賀閑山より届けて参りました品、具足でもはいっているとみえ、だいぶ重うございまする」
具足とはよく当てたね、と女はふっとおかしくなった。
「か、か、閑山から?」
さては閑山の相識らしい。
「は、閑山からと申して、下郎が引いて参りましたで、何はともあれ、ひとまず納め置きました」
何はともあれもないものだ。めったな奴に納められちゃあかなわないねえ、この先どうなるんだろうと鎧櫃の内部で、女が息を凝らしていると、そとでは二人がなおもしきりに話し合っている。
ことばづかいから察して、どうやらお武家の主従らしいが、これはとんだことになったもの。うっかり出ちゃあどんな眼にあうかしれやしない――といってから、息苦しくてはもう一刻も我慢がならない。いっそ声を立てようか。いや待て待て。が、それはそうと、どうしてあたしをこんなところへ置いてけぼりにしたんだろう?
ことによると津賀閑山に、うまうま一杯食わされて――。
そういえば、湯灌場買いだけあって、爺いめ食えない面をしていたよ。
そんなこと、今となってはいくら悔んでも追っつかない。ああ、あたしどうしよう。
ほんとにどうしよう。どうしたらいいだろう――
すると、まるでこの女の心に答えるように、
「な、何だか知らぬが、か、閑山から、かような物を受け取る筋はないぞ」
と言う声。
「しかし、遅くなってあいすみませぬと、使いの者が立派に口上まで述べて帰りました」
「こ、こ、この家へ来たのか」
「察するところ、これもまた例の門亡者にござりましょうか」
「うむ、亡者かな」
門亡者? 門亡者とは何だろう――地獄とやらへでもおちたのかしら、中の女は気が気でない。
突然、主人らしい吃りのほうが笑い出した。
「ははははは、うむ。裏面の家を違えて、ま、ま、迷い込んだというわけじゃな。か、かまわぬ。ここ、これ、あけてみい」
「は」
いよいよ来た! もうだめ。あけられたら百年目。どういう連中か知れたものではない。何といってのがれようと、女は内部であせったが、さて、こうなってはどうすることもできない。もはや手が鎧櫃へかかったらしい。
とうとうこいつらの手に落ちるのか。
近々と力を入れる呼吸づかいが荒い。
「なかなか固うござります――厳重――念入りに――いや、からげたわ、からげたわ」
いうまもぱらり、ぱらりと締め緒の解ける音。
これが運命!
死んだ気。
いも虫じゃあないけれど、丸くなってじっとしているに限る。しかし、乙に変なまねでもしかけたら何としよう!
それにこのお金!
と、女が内懐を押えた刹那、ぱっと頭上の覆があいて、外部の冷気とともに黄色の光線の帯が、風のように流れ込んだ。
手燭を持ち添えた大きな顔が二つ、凹凸をくっきりとくま取らせて、赤鬼のようにのぞいている。
女は観念の眼を閉じた。
こんなところに長居はごめん
「おう! な、何じゃこれは」
「――女子? ではござりませぬかな」
「ややっ! ど、どれどれ、ううむ、いかにも女子じゃ。まさしくこれは女の死骸と見える。かか、閑山め、な、なかなか味をやりおるわい。手を貸せ」
「は。なれど万一生きておりますると、お顔をさらすは不得策かと存じます。まずこの頭巾にてお包みなされて」
「なに。と、灯しを消せばよいではないか」
ふっと吹く音、蝋のにおいが闇黒に漂う。
四つの手が肩と腰を抱いて、女を櫃から取り出した。
おろされたところは、しっとりとした冷やかさ、案の条、畳の上である。
が、一色に深い闇黒があたりをこめて、からだ中の神経を眼と耳に集めても、女には何も見えないし、聞こえない。ただときどき家を鳴らして渡る小夜嵐が、遠くの潮騒のように余韻を引いて過ぎるばかり。
動いてはならぬ。
この一事を、呪文を唱えるように、心中自分にいい聞かせてしめっぽい畳表に頬を押しつけながら、まこと死んだつもりで横ちょに倒れている女。暗いからいいようなものの、さすがにそこは婦人、今にも手をやって着物のくずれだけは直したいが――。
動いてはならぬ。
動いてほならぬ。
頭をはさんで、長短二つの人影が立っている。
やがて、一つの影が、二つ折れにしゃがんで膝を突いた。人の香がむっと女の鼻をくすぐる。
他の影は、棒立ちのまま足先で女の背中を押している。
「こ、こりゃ女の仏じゃな。はっはっは、し、し、し、信女じゃ。か、門亡者にはうってつけじゃて」
動いてはならぬ。
動いてはならぬ。
背筋の足がだんだん脇腹へ移って、しまいには所きらわずからだじゅうを押してまわる。その太い爪先がむさぼるように肉へ突き入るたびに、女は思わず歯を食いしばって、ぎりぎり――ともすれば音を立てそう。
「ふふふ、ええ肉置きじゃ」
とまたしても踏んでみながら、独語のつぶやき。
「と、年がいもない閑山、あったら逸物を、なな、何としおった。つ、罪作りな奴め!」
動いてはならぬ。
声を出してはならぬ。こう念じて、いっしょうけんめいにじっとしていると、侍の足がすうっと上へ伸びて来て、腹から胸へかかった。女ははっとした。
そこへ当たれば小判の音がする。
南無三! と覚悟を決めたとき、足は、懐中の小判を越えて、はうように咽喉から顎へ――。
「しばらく、御前、しばらくお待ちを」しゃがんでいる侍が制した。
「ううむ。いや、これは美形、世にも珍しき美女にござりまする」
「な、な、何じゃ。美しいとな!」
きき返した主人の驚きを無視して、侍が暗黒を透かして女の顔に瞳を凝らしているぐあい、感に打たれたといった態だ。
「く、暗がりで物の見えるそちの申することじゃから、こ、こりゃ間違いはなかろう」
「は。提灯なしに、手前は[#「手前は」は底本では「打前は」]夜道で針が拾えまする。十本が十本まで」
くだらないことを自慢しているようだが、ほんととすれば猫みたいな侍、猫侍これだけはちょっと真似人があるまい。
「その手前、こうつくづくと観じまするところ、御前、この者は江戸広しといえども、まず比類なき美人にござりましょうな」
「ほほう」
猫侍と主人、長ながと足もとに横たわる女の黒い影を見下ろしていい合わしたように黙り込んだ。
しかし、立ち去りはしない。だから女も、指一つ曲げるわけにはゆかないのだ。
動いてはならぬ。動いてはならぬ――。
ここは二階らしい。
樹々の梢に風が吹くのが、同じ高さに聞こえる。
夜もふけたよう――めいるような陰気さが、御府内とは思われない。
ほほっ、ほっ。どこかで梟がないている。
お江戸ではないのかしら?
そうだ、ここはきっと江戸ではないのだ。鎧櫃の中で自分が気を失っているあいだに、車がお江戸を出はずれて、こんなところへ来たのかもしれない。そういえば、何刻、あるいは幾日気絶していたものか。あたしにはてんで時の覚えというのがないのだから。
そうだよ。ほんとにここは、もう富士の見えない国かもしれない。
何の因果でこんな遠方へ来たんだろうねえ。
雨! と女は、場合を忘れて、危うく顔を上げようとした。
おっと!
動いてはならぬ。
動いてはならぬ。
雨ではない。縁とおぼしき一方の締め切った板戸を、立ち木の枝がなでているのだ。
古沼にでも近いか、織るような蛙の声。
いよいよもってお江戸を離れている。本所の割り下水と今の自分とのあいだには、何十里、何百里の山河があるのだ、と思うと、女の眼頭が自然に熱くなって、どうすることもできない涙が一筋、ほろりと畳をぬらした。
はだけた襟もとや四肢には、春とはいえ、深夜の空気はあまりにも寒々しい。
が、動いてはならぬ。
動いてはならぬ。
たとえこのまま死んでも、このお武家たちに生きているからだをさとらせてはならない。
それまで妙に考え込んでいた吃りの主人と猫侍、女の身柄を[#「身柄を」は底本では「 柄を」]中に、どっちからともなくぽつりぽつりと話し出した。
「わ、わしに、こ、このような進物をするとは、つ、津賀閑山の気が知れぬ」
「もとより進物ではございますまい。やはりその、屋敷を取り違えて届けられた門亡者と存じまする」
「が、門亡者にしたところで、わしのもとへ送ろうとしたものではないか」
「なるほど。では、当初から何かの行きちがいでござりましょうな」
「こ、これをひいて参った下郎は、ほほ他に何か積んでおったか」
「その儀、手前いっこうに存じませぬ。ただ手前が門内へはいりましたゆえ、そっと玄関に出ておりますとわれんばかりに戸をたたきますので、こう内からあけてみましたところ――」
「うむ」
「せっせと鎧櫃をおろして、閑山から参りました。お受け取りください、とがなりおりますから、さようか、御苦労と手前が出ましてな、その者と二人でかつぎ入れましたうえ、時分を見て御前にお越しを願った次第、腑に落ちぬと申せば、第一にあの下郎が不審でござります」
「わしが参ったときは、そ、そちはこれを二階へ引き上げおった。それはよいが、か、閑山の下僕、と、戸を乱打致してがなり立てたと?」
「は。いささか酒気を帯びておりましたようす」
「なんじゃ。く、くく、食いよったか。はははは、そ、それで解せたぞ」
「と申しますと?」
「し、知れたこと、その者の間違いじゃ」
その者のまちがい?
というと、車をひいて来た閑山の飯たきが、誤って自分をここへ送り込んだのか。
さては閑山爺さんは恨む筋ではなかったとみえる。また、その閑山の知り人でこうして、自分を持てあましているこの方々も存外狼ではないかもしれない。が、それというのも、自分をすっかり死人と思い込んでいればこそで、ま、も少しじっとしてなりゆきを見るのが、このさい、何よりも利口なやり口。
動いてはならぬ。
動いてはならぬ。
主従、とぎれたことばを続けている。
「御前、この女は何者でござりましょう?」
「かか、閑山が殺したのじゃ」
「閑山が――?」
「こ、殺したのじゃ。殺して、よ、鎧櫃へ詰めて、いずくへか取りすてようと致したものであろう。し、仔細はわからぬ」
「しかし御前――」
「とまず、申して、こ、これを種に閑山をゆするのじゃ」
この侍、一枚上をいっているよ、と女が感心していると、鞘走りの音がして、侍の手にぎらりと長刀が光った。
「死肉じゃが、久しぶりにためし斬り――」
これはたまらない。思い切って飛び起きようか。
なにさ、この辛棒が肝心!
動いてはならぬ。
声を立ててはならぬ。
すると、猫侍が吃りの刀を押しとどめて、ぴったり据わっている女の額部に手を当てた。
どきりとした女、胸の早鐘に合わせて、自分と自分へ一心に念じる。
動いてはならぬ。
動いてはならぬ。
と、その胸に、猫侍の耳がくっついて、じいと感[#「感」はママ]をきいている。
動いてはならぬ。
動いては――。
「御前」
「な、何じゃ」
「この女、生きておりまする」
はっとした瞬間。
「死美人生けるがごとしか。どけ」
と猫侍を押しやった主人の足、またどっかりと今度は女の顔の真ん中を踏まえた。
眼と鼻と口をふさいで、大きな素足が載っている。
あまりといえばあまりな!
女の全身に持って生まれた血がおどった。が、ここが我慢! 苦しいだろうがこらえておくれ! と必死に呼吸を詰めて、断末魔のような無言の叫びが身内に渦まく。
動いてはならぬ。
息をしてはならぬ!
足の重みが増してくる。
息をしては――息をしては――動い――足が――足――押す――息――。
あっ!
と思った刹那、咽喉の奥でぐうというような音がして、侍の足の裏がすうっと細い、熱い女の吐息を感じた。
「あ、ああう」
うめき声が女の口からもれて出た。
それでもまだ、動いてはならぬ。
動いてはならぬ。
「い、生きとる、はははっははは」足を引いて、侍は笑った。
「なに、わしははじめから、立派に、い、生きとることは知りおった」
「死んだまね、ちっ! 強情な奴にござりますな」
「いや、し、失神致しておるようじゃ」
「いかが取り計らいましょう」
「そ、そちの申すとおりの美人なら、つ、使いみちもあろうて。休ませて、て、て、手当てをしてつかわせい」
「と致しますと、むこうのお屋敷へでも?」
「そうじゃ。一間に、と、床を延べて、寝かす用意を調えたうえ、たた、丹三を連れて参って、しょわせて行くとしよう」
もうのがれる術はないと、女は闇黒の中に大きな眼をあいて、二人の会話を聞いている。
「ではすぐあちらへ?」
「うむ。そ、そちも来い」
「しかし、この女をひとり残して――」
「あ、足腰が立つまいによって、にに、逃げる心配は無用じゃ」
どうぞ二人で行ってくれますようにと祈っていると。しめたっ!
しめた!
部屋を出た二人の跫音。それが前後して階段をおりて、しばらく階下に響いていたが、おいおい遠ざかっていっしょに家を離れて往くまで、女も身動き一つせずに畳にはっていた。やがて、広い邸内に人のいないことを確かめた女は、両腕に力を込めて、むっくりと起き上がった。
「馬鹿にしてるよ、ほんとに」
と手早く帯を締め直して、
「さんざ人を踏み付けにしやあがって、くやしいったらありゃあしない。足の指へでもくらいついてやりゃあよかった。何だい、だからあたしゃ屋敷者はきらいさ」
こんなところに長居はごめん。
今のうちに一時も早くと、かいがいしく裾をからげて、女は手探りで縁へ出た。
家には調度もなく、がらんとしたようすが空家らしい。
さっきの足音のあとをたどる気。
梯子段をおりて下座敷。そろり。そろりと中廊下を、突き当たっては曲がり、ぶつかっては折れして往くと、行く手から露っぽい外気が、煙のように暗黒をさいて来て、廊下のはずれは出入口らしく、ほんのりと夜光が浮動している。
われ知らず、女の歩調が早くなったとき、
「ちっとあやかりてえものでごぜえます。へえい! そんな美的がころげ込んで来るたあ、殿様も有卦に入りましたね」
という大声がして、ぬっと戸口がふさがった。
生返事の殿様の先を、二人の男が上がってくる。
猫侍の主従が、丹三とやらをつれて来たらしい。
この長廊下、とっさに隠れ場はない。
ええままよ、猫侍にみつかったらその時のことだ!
女は暗い側を選んで、廊下のかべに腹合わせに、身を押し付けて立った。
声高に笑いあって、三人の男が近づく。
みっし、みっしとうしろに板敷きがきしんで、今手がかかる! と思ったとき、三人の着物がすれすれに女に触れて、話し声とともに夏の雷のように通り過ぎた。さすがの猫待もうっかりしていたものと見える。
その足音が階段を上るのを聞きすまして、女はちろりと戸外へ出た。
夜の庭。
ぴったりと建物に沿うて、陰を縫ってしゃにむにに走ると、夜眼にも白い門内の小砂利道、ちょっと背後の気はいをうかがったのち、まもなく女は、横町と見える狭い往来に立っていた。
ほっと安心。
「ああ、よかった!」
命拾い。
どこでもいい。どっちの方角でもかまわない。このうえはただ一歩でも遠く、この気味の悪いがらあきの屋敷を離れたいと、女は、はだしに夜露を踏んで、よろめきながら、かけ出した。
このとき、二階の部屋へはいった三人の男、見まわすまでもなく女の影も形もない。
「それ御覧じ、御前、みんごと抜けられたではござりませぬか」
いまいましそうにいったのは猫侍。
「えっ! 逃げた」
丹三がとんきょうな声をあげた。
「なあに、きっとまだお庭にうろうろしていまさあ。私が行って引っつかまえて来やしょう」
「まま、待て。た、丹三、待て」
とび出そうとするところを、呼びとめた吃りの侍、ぐっと丹三の肘をとって引き寄せて、何事か低声にいい含める。
こうしてああしてと、計略でも授けているらしい。
三人寄れば文珠の智恵。
どうせろくな相談ではあるまい。
「では、あの、私が――」
丹三がうれしがって叫んだ。
「そ、そうじゃ。き、貴様、誰か四、五人連れてな」
「名案々々」
猫侍も小手を打っている。
「あい、ようがす。ちょうど部屋に場ができて、けちなのが集まっていますから、加勢を頼んで、これからすぐに追っかけましょう」
「頼むぞ」
「なあに殿様、一本路に女の足だ。世話あござんせん」
いうまも丹三、どどどどうん、と階下へおりて、ぱっと外へ出るが早いか、仲間を呼びに、庭木のむこうに灯のもれている部屋へ走った。
雲の底には月があると見えて、うっすらとした光が一面にこぼれてはいるが、それとても足もとを見定めるたしにはならない。
何度かつまずいてのめりながら、ちらちらとうしろを振り返って、女は泳ぐように道を急いだ。
追っ手らしい影も見えない。
往っても行っても果てしのない屋敷町。
大きな家が黙々として両側に眠って、塀内の杉の巨木が笑うようにざわめく。
夜空の一角がほのかに赤いのは下町の灯。
すると、ここもお江戸のどこかだろう。
ほつれた鬢の毛を口にくわえて、女は長い坂を下った。
曲がり角。
遅じまいの一軒の小店、お内儀らしいのが大戸を閉てている。
それへ女が声をかけた。
「今晩は、ちょっと伺いますが、あの、あたし、すっかり道に迷ってしまって、ここはどこでござんしょうねえ?」
内儀はうさん臭そうに、女をすかし見て黙っている。
女は懸命。
「これから本所へ行きたいんですけれど――」
「本所ならお前さん、こんなほうへ来ちゃあ大変なまわりですよ」内儀が口を開いた。「ここは――」
といいかけたが、とたんに、何を見たか、内儀は驚きあわてて、店へ飛び込んで、ぴたり戸をおろしてしまった。
あれ!
振り向くと、今来た坂を、黒い人影がばらばらばらと駈けおりて来る。
追っ手だ!
剣光影裡春雨冷
しとしとと春の夜の小雨が煙っている。
ほどよく水を含んだ土は、足駄の歯にこころよい。
歩きたい晩である。
割り下水の方来居、相良玄鶯院の宅をあとにした篁守人は、愛刀帰雁を落とし差しに、片手に傘を傾けて、暗い裏町づたいに大川の縁へ出た。
埋堀のあたりらしい。
杭を洗って流れる黒い水が、ざぶうり、ざぶり――音を立てている。
対岸はお米蔵、屏風を立てならべたような甍が起伏しているなかに、火見櫓などが空明りに浮いて見える。
墨絵にはなろうが、淡いさびしさだ。
そのさびしさはやがてはっきりした形をとって、追っても払っても若い守人の胸をむしばむ。
雲のようにむらがり起こる恋情を、守人はどうすることもできないのだ。
思う女に思われる身は楽しいはず。現世にこれ以上の幸福はないかもしれない。
しかし、それは、思ってもいい女を思い、思われていい女に思われる場合に限る。思われてならない女に思われ、思ってならない女を思う守人の恋、そこに名刀帰雁でさえ断ち切れない哀愁と苦悩がある。思い思われていればそれでよいではないか、と考えてもみるが、こんなあきらめが何になろう。身と心を一筋に向けるのが恋の情感だ。
では、この胸の疾風に乗って、女のもとに走り、自分を待ちわびているからだを抱いて、心ゆくまで泣こうか。女と二人で泣こうか――。
なんの五千石、君と寝よ。
恋はすべてである。
この水底に大小を沈めて、丸腰の気もすっぱりと、前掛けでも締めて世を渡ろうか。
川風が雨を吹き込む。
守人は身震いをして、悪夢からさめたように慨然と襟を正した。
天下の安危、静かなること林のごときあいだにも機をねらって東西に奔馳しつつある同志の誓言、これらのことが守人の頭脳にひらめくと同時に、たった今までの思慕の感傷を、われから蹴散らすような足取りで、かれは川に沿うて歩き出した。
たとえ瞬間にしろ、あんな妄念にこころをゆだねるとは、俺は何たる見下げ果てた男であろう。ことに自分には、墓へはいる前に、必ず一度はこの帰雁に血を塗らなければならない仇敵があるではないか。先哲の書、父や恩師の教えを、俺はいったいどこへきいて来たのだ。
こうして自らをしかっているうちにも、嵐に似た恋ごころは守人の心身をかきむしる。
この雨の夜を、あれは今ごろ、どこに何をしているだろう――。
眼をあいたままうなされているのが今の守人だ。
駒留橋から両国。
お江戸名所九十六間の板張りが、細かい飛沫に白じらと光っている。
渡れば広小路。
番所を右に、風流柳橋の紅燈。
春宵一刻価千金、ここばかりは時を得顔[#「顔」は底本では「顔」]の絃歌にさざめいている。
が、守人の胸中は外部の闇黒よりも濃い。
どこまで行くつもりか、傘を持ちかえて、平右衛門河岸の通りへかかった。
このときだ。
一つのがんどう提灯と、それを取り巻いて七、八人の影とが、あとになり前になり、音を忍んで守人のみちにからみ出した。
守人は気がつかない。興の趣くままに、彼はふと高らかに吟じた。
「今日危途春雨冷やかなり――」
すると、すぐうしろに太い声がして、
「檻車揺夢度函関」
と、すばやく次の句をつけた者がある。
驚いて振り返ると、他の影はさっと左右の軒下に分かれて、頭巾の中からほほえみかけて立っている大男の侍一人。
黒ずくめにがんどう提燈、あまり安心のゆける装束ではない、それが軽く頭を下げて、
「はからずも愛吟の詩を耳にして、つい口に出ました。無礼の段平に御容赦を」
いいながら寄り添う。
「どうつかまつりまして、うろ覚えの一節、拙者こそお恥ずかしく存じます」
辞儀を返して、守人は歩き出した。
ところが侍、なれなれしくならんで来る。
「このごろ物騒な夜道を、貴殿これからいずくへおいででござる」
自分こそ物騒だ。大きにお世話、と守人が黙っていると、
「ははははは、この刻限にこの道、これはいかさま野暮なことをおきき申した。雨の夜の北廓もまれには妙でござろう。下世話にも気散じとか申してな、武骨ながら拙者もお供つかまつろう」
守人にしては迷惑しごくな話、べつにどこといって目的のあるわけでもないが、大門をくぐろうとは思っていない。で、すぱりといってやった。
「拙者は吉原へ参る者ではござらぬ。どうかかまわずお先へ」
「いやなに、情夫は引け過ぎと申すで、そう急ぐこともござらぬ、はっはっは」と相手は少しも動じない。「それとも、惚れて通うに田舎武士は邪魔だといわるるか」
へんにもつれてくる。
喧嘩を売る気。うるさい奴につかまったな、と守人は眉をひそめた。黒い影が三々五々、すこし遅れて左右からつけて行く。
黒頭巾がひとりでしゃべりつづける。
「先刻の詩、惜しい先生が揚げられたものでござるな。拙者ごときも痛憤に耐えぬ一人じゃ」
彼がここで惜しい先生というのは、詩の作者頼三樹三郎のことで、旧臘廿五日、頼は梅田雲浜老女村岡ら三十余人とともに京師から護送されて、正月九日江戸着、目下は松山藩松平隠岐守の屋敷に預けられて評定所の糺問を受けているのだった。この詩は、豪放磊落な三樹が、終天の恨みをこめ軍駕籠で箱根を越えるときに詠じたもの、当時勤王の志士たちは争ってこれを口ずさんでいた。
「頼先生始め同士先輩の上を思えば、時世時節とは申せ、お痛わしい限りじゃ。拙者は、幕府の仕儀が一から十まで気にいらぬ。徳川の流れに浴する身ではあるが、その水も濁ったわい。なあ、貴殿はそうはおぼしめされぬか」
侍はちらと守人を見る。守人にも油断はない。
「さようなこと拙者はいっこうに存じ寄りませぬ」
「いんやいや、胸底おのずから相通ずるものあり、警戒は御無用」
「と申したところで――」
「赤鬼め、長いことはあるまい」
赤鬼とは大老井伊のこと。守人はどきっとして口をつぐんだ。これは――うっかりできないぞ。
雨がしげくなった。
二人は黙って二、三間歩いた。
「貴殿はいずれの御藩かな。それとも御浪士か」
こうききながら、侍は、手にした提灯の灯を、それとなく何度も守人の袖へ向けて、定紋を読もうとしている。
どっこい!
そこらにぬかりはあるものか。
このとおりちゃあんと無紋を着ている。
「水戸が彦根殿の首をほしがっておるそうじゃが、貴殿水戸ではあるまいな」
「――」
守人はひそかに刀の目釘を湿した。
沈黙のうちにまた四、五間。
と、二、三歩前へ出た侍、いきなり守人の往く手に立ちはだかった。
「これ、篁守人、はっはっは、どうじゃ、驚いたか」
守人は立ちどまって静かに傘をすぼめている。
「おい、篁、何とかぬかせ」
侍が詰めよせた。守人はにっこりして、
「うん。そういう貴様は何者か。名をいえ」
「名乗りはできぬ。が、役目をいおう」
「うふふふ、役目はいわいでもわかっておる。捨て扶持をもらって幕府のために刺客を勤むる痩浪人であろう! 拙者はいかにも篁守人、それと知ったらなぜ斬ってかからぬ? 来い!」
侍が提灯を上げた。これが合図。うしろに数人の跫音が迫る。
が、守人は見むこうともしない。
どこを吹く風か、といったふう。
気を焦った長身肥大の侍、足を開きざま、
「やっ!」
抜き打ちにざーあっ! と横なぎ、傘を切った。
がっし!
青い火花が雨に散って、いつのまに鞘を出たか、帰雁の利刃が押して来る。
ぎ、ぎ、ぎ、と鍔ぜりあい。
深夜。
もうここは堀田原の馬場。
久しぶりに一つ帰雁に血膏をなめさせようか。
ぐるりと右にまわって見ると、刀を伏せた黒法師の群れが、はうように慕い寄っている。
「こしゃくな!」
気合いとともに、無念流引きよせの一手、つつと手もとをおろした。虚をくらった侍、思わずつり込まれて体がくずれる。
そこを!
ざっくり一太刀、帰雁が黒頭巾を割り下げた。
苦もない。今までしゃべっていたやつが、脳漿を飛ばしてそこにころがっている。
死骸をまたいで、守人は帰雁を青眼に影の円陣に立った。さっと輪が開く。手近の一人にいどみかかると、たじたじとさがって溝板をはね返した。
そのすきに、守人は走り出した。懲りずまに、人影が一団となって追って来る。
しかし、それもだんだん遠のいたようなので、守人は駈けながら懐紙で刀をぬぐって鞘に納めて、それでも、大事を取って、雨を衝いて一散に急いだ。
気がついてみる、ここは橋場の浄徳寺門前だ。
道路に一すじ赤っぽい光を投げて、まだ一軒の煮売り屋が起きている。
めし、有合せ肴――野田屋と書いた油障子をあけた守人、
「許せよ」
ずいとはいり込むと、客が一人、酒樽に腰を掛けて、老爺を相手に盛んに弁じ立てている。
「どうも今夜ってえ今夜こさあえれえ目にあったよ」
これが例の御免安兵衛だ。野郎、こんなところに神輿をすえて、だいぶきこしめしているとみえる。
「何がってお前、向島まで、いもしねえ人を尋ねて行ったんだ。辻善六なんて名はどこをきいてもありゃあしねえ。おかげでずぶぬれよ。ちっ、馬鹿を見たの何のって――」
とそこへ、守人の侍姿が眼にはいったので、安兵衛、恐縮して黙りこんだ。
狭い土間、守人は気軽に、安とならんで腰をおろして、蒼白くほほえんでいる。
お愛想ぶりにちょっと行燈をかき立てて、注文の小皿盛りと熱燗を守人の前へ置いてから、老爺はまた安へ向かって、
「向島はどこへ行きなすったい」
「六阿弥陀よ」
と調子づいた安兵衛、
「ねえ旦那」と今度は守人へ、「あっしゃあどうしても旦那に聞いてもらいてえことがあるんだ。この雨の中をいってえどこへ行って来たとおぼしめす? 向島六阿弥陀! いや全くのはなしでさあ。まったくの話」
くどいのは酔漢の癖。老爺ははらはらしている。
「そうか。それは気の毒だったな」守人はくだけて出て、「貴様だいぶいける口と見える。まあ一杯やれ」
「へえ。ありがとうございます。どうも旦那を前にしていうのは気がさしやすが、お侍さんにしちゃさばけたお方で、お若えのにえれえ。見上げたもんだ」
「うむ。面白い奴だな。貴様稼売は何だ」
「何に見えやす?」
「当ててみいと申すか。そうよな、どうせろくなものではあるまい。まず博奕打ちかな」
「えっへっへ、お眼がお高い、へへへへへ」
酒杯を中に笑い合っているところへ、
「ここだろう」
「ここだ、ここだ」
「ここへはいったらしいぞ」
と表に当たって、にわかに人の立ち騒ぐ声。
安兵衛はぽかんとして守人を見た。と、守人の手がそっとそばの刀に伸びている。
さては――と安が腰を浮かしたとき、戸外では、
「なに、ここではあるまい。もっと先へ走ったようだ」
「そうだ。先だ、先だ」
「それ行け」
と口々に叫びかわして立ち去った模様。
眼の前の侍は、しずかに盃を口へ運んでいる。
その袖を見て、安兵衛、愕然とした。
べっとりと血糊がついていた。
酔ってはいても、蛇の道は蛇。
「おい、爺さん、代はここへ置くよ」
安は蒼白になってそそくさと立ち上がった。
変に思った守人、ちらと自分の袖を見てどきりとしたが、ぐっと呑んでさあらぬ顔。
「行くのか」
「へえ」
「まだ雨が降っているぞ」
「よく――よく降りますね」
「うん。青い物が助かる」
「青い物が助かります。旦那、お先へごめんやす」
裾をまくって頭からかぶった御免安、達磨に足が生えたような恰好で、野田屋の店をとび出した。
同時に、守人もたった。
おっ取り刀である。
「老爺、今の男は定連か」
「いえ、初めてのお顔でございます」
「よし!」
うなずくが早いか、ばらりとそこへ小銭をつかみ出して、物をもいわず守人は外へ出た。
さっきの人数を呼び返す気であろう。暗黒をのぞきながら、安兵衛が駈けて行く。
「おのれっ! 見んでもいい物を見おって――いらぬ筋へ忠義立てする気だな。ひょっとすると不浄の小者であろうも知れぬ」
ぷつり、帰雁の鯉口をひろげて、ぴしゃぴしゃ――守人は飛泥を上げて追いすがる。
雨脚が太くなった。
犬もあるけば棒にあたる
守人はあきらめた。
泥濘をとび越えて走って行く御免安兵衛の姿は、鳥羽絵の奴のような恰好に、両側の家をもれる灯のなかにおどったり消えたりして、見るみるうちに小さくなる。
やがて、浅茅原の闇黒にのまれてしまった。
あとには、夜の春雨が霏々としてむせび泣いて、九刻であろう、雲の低い空に、鐘の音が吸われていった。
ふと気がつくと、帰雁の柄へかけた右手の甲に、夜目にも白い雨滴が流れて、さっきの騒ぎに傘を切られた篁守人、頭からびしょぬれになって橋場の通り銭形のまえに立っている。
ぱちんと鍔を落とすと、守人は、
「ちっ」と舌打ちをした。
「下郎め、この袖の血を見てとび出しおったが、追っ手の者に訴人致す気に相違ない。万一、不浄の小者ででもあってみれば、存分に顔を見られた以上、どうあっても生かしてはおけぬ奴――ううむ、これは惜しいものを取り逃がしたぞ。血しぶきついでに斬って捨てようと存じたに、いつのまにやら見えずになった。いま眼の前にちらつきおったかと思うと、もう半丁さきを駈けおる。いや、脚の早いやつだ。
まま、おかげでおれも、いやな殺生を一つせずに済んだというもの。また彼奴とても命拾い、こりゃいっそ両得かもしれぬ」
往来の真ん中で、守人は遠くへ耳を澄ました。あたりを打つ雨音の底に、夜のふけるひびきが陰深と鼓膜を[#「鼓膜を」は底本では「鼓膜と」]衝いて、安兵衛も、黒装束の人数も引き返してくる気勢はない。雨に眠る巷の、真っ暗なたたずまい[#「たたずまい」は底本では「ただずまい」]である。守人は小手をかざした。
「や、降るわ、降るわ。天の箍がゆるんだとみえる。うむ、このこころの塵を洗い清めるまで降れ! 世の人も押し流して、降って降って、降り抜くがよい。ははははは」
口の中で笑って、かれはもと来たほうへ歩き出した。いつしか風さえ加わったらしい。大粒の水が頬をたたいて、ぬれた裾は、板のように足の運びを妨げる。
それはもう春雨などという色っぽいものではなかった。新しい時世を生み出そうとする陣痛と、わずかに残骸の威をかりて一日の余喘を保とうとしている今日の徳川幕府、この衝突を中心に、目下全国いたるところに血を流し、肉を飛ばしている悲雨惨風、これをそのまま形に表わしたような、すさまじい暴風雨の夜となっていた。
が、守人の心中には、浮世のあらしよりも、今夜の雨風よりも烈しい、大きな渦がまいていた。近寄る人をまき込まずにはおかない愛慾の鳴門だ。守人は全身に雨を受けて、手負いのようにうなりながら、帰路を急いだ。
「そこもとの身にはある筋の眼が光っておることをよもやお忘れではあるまい」
方来居を出るときに玄鶯院がこういった。このある筋とは何をさすものか、それは、いうまでもなく守人にはわかっている。わかっていて、なおかつ愛刀帰雁を唯一の護身者として、こうして暗黒に紛れて出て歩くには、守人にしても、そこによほど重大な用向きがなくてはかなわぬ。
じっさい守人は、このごろ毎晩のように歩きまわるのだ。月が照れば照ったで月夜烏のように、雨が降れば降ったで雨を切ってぬれ燕の飛ぶように、かれは夜ごとに家をあけて、どこをどうぶらつくのか、暁近くこっそりと方来居の裏木戸をくぐるのが常だった。
そのときいつも必ず目をさましている玄鶯院は、そばの冷たい寝床へはいる守人をただじろりと見やるだけで、ついぞことばをかけたことはなかったが、守人は蒲団をかぶるまえに、玄鶯院に指を出して見せるのだ。それが人さし指一本のこともあるし、中指を加えて二本のことも、あるいは三本四本と指を突き出すことも、または一本も出さないこともある。
そうすると玄鶯院は、さむざむしい明け方の光のなかで、口をへの字なりにしてうなずいたり、眼を輝かしてにっこりしたり、守人の指の多いときにはほうというようにくちびるを丸く開いて見せたりする。しかし二人とも声を出すことは決してない。そして守人は、昼間は病気とか病後とかいい立てて引きこもっているのだ。
新太郎を遊ばせて他意なく見える守人と、蝙蝠のように陰から陰へと夜歩きをする守人、このふたりが同一人であるさえ、すでに奇怪なのに、朝帰って守人が老主に示す指は、果たして何を意味する?
数。もとより何かの数を語るものではあろうが。
それはさておき、守人のこの夜あるきも、単なる散歩にしては危険が伴い過ぎる。かといって、どこと定まる目的もないらしく、今夜のように足にまかせてほうつきまわるのだが、公儀を向こうへまわす身にとっては寸刻の油断もあってはならぬ。ことに、今日このごろのように浪士狩りが辛辣になって、しかもああ顔を見識られていることを思えば、守人も今さらのように身内が引き締まるのを覚えるのだ。
国表里見無念斎の道場において、師範代の遊佐銀二郎とともに無念流双璧とうたわれた篁守人、帰雁の柄をたたいて肩をそびやかした。
「未熟な手腕をもって刺客などとは片腹痛い。それにしても、きやつかっぷくに似ずもろかったなあ」
雨の矢をまっこうから向けて[#「向けて」はママ]、守人は高だかと笑った。
しかし、これあ何も相手が弱いのじゃなくて、守人が人なみはずれて強いのだからしかたがない。久しぶりに生きてるやつをすっぱりやって、守人の腕もうなれば、帰雁も、鞘の中でひくひく動いている。
人を斬るとあとをひく。
あきらめられぬとあきらめた悲しい恋に苦しむ守人が、よしや血にすさんだとてもむりからぬ次第、考えてみれば御免安兵衛、今夜はまことにあやういところをのがれたわけで、帰雁に追いつかれたあとから、いくら「ごめんやす」をきめ込んでも納まる騒ぎではなかったのだ。
足の早いのも確かに一得。守人をねらう黒法師の群れを見失った安は、今ごろは吉原へでもしけ込んでどこかのちょんちょん格子で枕の番でもおおせつかっていることであろう。
暴風雨をおかして帰り着いた篁守人。
もうここは割り下水の方来居。
相良玄鶯院が草庵だ。
ぬれ鼠の守人が、そっと裏口の腰高障子をあけると、乱雑に脱ぎ捨てたおびただしい高下駄で、土間は足の踏み場もない。
奥の八畳に徹夜の寄り合いが開かれている。
目をつぶって腕組みした白髪童顔の玄鶯院を中央に、十五、六の人影が、有明行燈の灯をはさんで静まり返っていた。
幕府が最も苦手とする水藩志士の面々である。
筆初めに首領高橋多一郎、関鉄之助、森五六郎、広木松之助、鯉淵要人、岡部三十郎、斎藤監物、佐野竹之助、蓮田市五郎、稲田重蔵、増子金八、大関和七郎、広岡子之次郎、遊佐銀二郎、山口辰之介、海後磋磯之助――名を聞いただけでも恐ろしい面だましい。
大関をはじめ神田お玉が池千葉周作先生の門弟が多いから、いずれも北辰一刀流の使い手がそろっている。
よくもこう網の目をくぐって集まったもの。二百石小姓佐野竹之助なぞは、あくまでさようしからばで四角張っているが、岡部の三十はぐっとくだけて小意気な縞物、ちょっと口三味線で小唄でもやりそう。おのおの器用に化けてはいるが、なかでも奇抜なのは森五六郎の乞食姿だ。おんぼろを一着に及んで御丁寧に頭陀袋まで下げているところ、あんまり真に迫って、一同いささか恐縮の態。
動かざること林のごとし。
佐野の声が大きいので、一座がときどきはっとするほか、斎藤監物なんかは、隅っこに片づけられて丸くなって眠っている無心な新太郎の足の指をいじっては、故郷に残して来たわが児のうえでも思うのだろう、かわいくてたまらなそうにひとりほほえんでいる――。
高橋多一郎が、薩摩の高崎猪太郎の手紙を読み上げているのだ。
「近年幕吏妄動し、かつ君臣の名義大いに混乱致し、はなはだしきは徳川幕府あるを知りて、天皇のあるを知らずに至り候――」
惻々として胸を打つ声。
そこへ守人が帰って来たわけ。
茶のしたくをしていたへらへら平兵衛と二、三言話をしていると、物音を聞きつけて遊佐銀二郎が立ってきた。
と、台所の軒下、滝と落ちる雨だれのなかを、黒い影がすうっと横ぎるのを守人は見た。さっと戸をあけて――、
かあっ、ぺっ!
守人が唾を吐きかけると、影はころぶように生垣の闇黒に消えた。
「何でござるな?」
銀二郎がきいた。守人はぴしゃりと戸を締めた。
「御用心! 手がまわったと見えまするぞ」
「何の」銀二郎は一笑に附した。「犬じゃ、犬じゃ。雨に迷うた宿なし犬じゃ。おそるることはあるまい」
「さよう」
何ごころなく眼を返した守人は、銀二郎の顔が、不純な心配と恐怖にゆがんでいるのをみて取った。
さては此奴め内通でも――?
いやいや、 まさか!
「さよう」と守人がにっこりして、「だがしかし、その犬も歩けば棒に当たるとか申しましてな」
といった時、篠突く雨の音を消して、家の周囲にどっと人声が沸き立った。
「しらべの筋あって南町奉行隠密まわり同心税所邦之助出張致した。開門、かあいもうーん!」
奥と台所で同時に燈火を吹き消した。
漆黒の闇。
やけのやん八どうなとなれ
鎧櫃で、どこともなく変な旅をしたあの女。
ようようのことで吃りの殿様と猫侍の屋敷をのがれ出て、だらだら坂をおりてほっと一息。
まずよかった。
ここもお江戸の町らしい。
――角の小店で途を聞いているところへ、背後で多勢の跫音がしたので、振り返ってみると、いま来た坂を五、六人の男がばらばらばらっと駈けおりてくる。
追っ手だ!
と知るや、女はきっとなった。
同時に振りから腋の下へ手を差し入れて懐中の小判包みをしっかり押えて、しゃなり、しゃなりと歩き出した。
うまくゆくかどうか、ま、一つとぼけてやれという気。
で、夢のような夜気のこめる往来に立って、女はつと空を仰いだ。白じらと七つのお星さまが光っている。
「まあ、夜分はわりかた冷えるねえ」
早鐘のようにときめく胸から出る声にしては、あっぱれ落ち着いたものだ。ちょいと斜めに小襟を突き上げると、
はあくしゃん!
と色気抜きのくしゃみ。
が、そのときはもう荒くれ男がぐるりとあたりを取り巻いて、あとへも先へも動きがとれない。
女はすっかり度胸をきめた。
思い思いにはんぱな服装をした三下が、めいめい一かどの悪らしい顔つきで、雲助然と通せんぼうをしている。
「やいやい。阿魔っちょ、どこへ行くんでえ」
坊主頭に腹掛け一つという、山賊の走り使いみたいな玄妙不可思議なのが前へ出て来た。
「手前のからだに用があってな、ちょっくら引っかついで行くからそう思いねえ」
「なあ姐さん、悪いこたいわねえからおとなしく来なよ」
「こうっ! じたばたすれあおっかねえ目にあうばかりだぜ」
「なあに、おいらがおんぶしてってやらあ。ねえお神さん、お嬢さん、何だか知らねえが、あいよ、お頼みしますよ、なんていい声の一つも聞かせてくんねえ。うふっ」
「亀っ! われの突ん出る幕じゃあねえ、[#「ねえ、」は底本では「ねえ 」]俺さまがお抱き申して往くんだ」
「うめえことをいうぜ。このふっくらしたやつを一人で抱いてくなんて理窟はねえ」
「じゃあ、恨みっこねえように坊主持ちだ、坊主もちだ!」
「なにを! 坊主はひとりここにいらあ」
「わあい! わあい!」
「やっちゃえ、やっちゃえ!」
「手取り足とり別の間へ、と出かけべえ」
「おらあ脚を持つ」
「こん畜生! 脚はおいらが先約だ」
どういう量見か、みんな脚部のほうを受け持ちたがってがやがやいっている。こうして、文字どおりかついでゆくつもりらしい。
いくら気丈夫でも、女一人に相手はあぶれ者が五、六人、どうしてかなう道理はない。
わざとおずおずとあとずさりした女、今にも泣き出しそうな顔で、
「あの、お前さんたち、感違えをしちゃあ困りますよ。あたしゃこの先のお店のもので、あれ、あそこへ良人が迎えに出てるじゃありませんか」
向こうをのぞくようにしたが、もとより人っこひとりいはしない。
「ふむ。いい土性っ骨だぜ」妙に感心して坊主頭を振り立てた奴、「だがね、その手は桑名の焼き蛤だ。なあ、お前が今しがたあそこのお邸を抜けて来たてえこたあこちとら百も、承知なんだ」
女はしゃがんで、はだしの足を隠している。
「四の五のいわずにお供させてもらいてえな」
「えこう、殿様あお待ちかねだぜ」
「じゃあ何かえ」と急に歯切れがよくなった女、そっと土をつかみながら「お前たちは、あの吃りのお侍さんに頼まれて、わたしを連れもどしに来てくれたとおいいかえ。そうかい、それは御苦労だったねえ」
と、いい終わるが早いか、女の手がすっと上がって、ぱさっ――物のみごとに眼つぶしをくらった坊主頭、だつっととび下がって、
「わあっ!」
顔を押えた。女が土をぶつけたのだ。
同時に、二、三人を左右へ投げ飛ばして、女はすきをねらってかけ出した。
口々にののしりさわいで追って来る。
足弱のところ、勝手の知れない町なみだ、とても逃げおおせるわけはない。
「ひーとーごーろーしいーっ!」
とっさの機転に叫んではみたものの、物騒な真夜中のことだから、たとえ聞きつけても雨戸一枚あける人はない。そのうちに、ゆるんでいた帯がずるずると解けて蛇のように地面をひきずる。
そのままで女は走った。
走りながら帯をたぐろうとすると、どしんとからだがうしろへ引かれたように感じて、追っ手の一人が帯の端を踏んだ。
ええ面倒な!
くるくるとまわして帯を残して、また一走りと踏み出したが、押えた前のあぶないのに気がつくと、女はぺたりとその場にすわってしまった。
そうして追っ手が駈け寄ったときには、女は蝦のように、大地にごろりと寝そべっていた。
自棄のやん八、どうなとなれ。
女の姿がそういっていた。
くくりのない着物から土の上に蒼白い膚がこぼれているぐあい、凄艶すぎて妖異な情景。
「洒落たまねをしやあがって――」
「太え女だ」
「白え歯を見せるから悪いんだ」
なに、たいして白い歯でもない。真っ黄色な乱杙歯だ。
「人の面に泥を塗りやがったぜ」
こりゃ全くおおせのとおり。
追いついた連中、ふうふう呼吸をしててんでで女のからだに手を掛けた。
「それ、やれ!」
「よいと来た!」
「わっしょうい!」
木遣りでも出そうな騒ぎ。やがて、総がかりで女をかつごうとしていると、そばの闇黒から、凛として科白もどきの声が響いた。
「待て。その女に用がある」
今夜はよくよく女に用のある晩だと見える。
これはえれえ手ちげえになったもの
そもそも女が逃げ出したのを知ったとき、吃りの殿様が丹三に含めた計略というのはこうだった。
丹三が、折助部屋に集まっている小博奕打ちをまとめて跡を追う。が、丹三は陰に隠れていて、他の連中だけが女を取り巻く。こうしてあわやと見えるところへ、丹三が通りかかったように見せかけて飛び出して行って、なれ合いの立ちまわりよろしく、とど女を助ける。
こうして恩にきせておいて、丹三は女を自分の家へつれて行き改めて殿様へ差し出す――というのだから、丹三としては役不足のあろうはずがない。友だちを取って投げて、女にありがたがられて、きれいな身柄を二、三日預かって、そのうえ殿様からはたんまり御褒美をもらう。こんなうまい話はまたとあるまい。
帝釈丹三と異名をとった三角の眼をくりくりさせて、丹三が勇躍したのももっとも至極。頼まれた仲間にしたところで、ちょいと女をこづいてから、痛くないようにころがりさえすれあ、殿様が酒代を下しおかれるというので、みんな手をたたいて喜んだ。
「丹あにい、お手やわらかに願えやすぜ」
「芝居ってことを忘れねえように。なあ丹さん、頼むぜ」
「おらあ右手をくじいてるんだ。帝釈の、やんわり扱ってくんねえよ」
というわけで、それっとばかりに女を追っかけると、遅れて丹三が、にわかに強くなって、いい気持ちそうにぶらりと出かけたのだった。
だから、坊主頭をはじめ投げられ役の一同、実はさっきから、まだか、まだかと丹三の出を待っていたのだ。
そこへ今の声だ。
「待て。その女に用がある」
と筋書きどおりに来たから、おとなしく待つ気で手を控えると、かたわらの暗いところからのっそりと現われた人影。
通人めいた頭巾なんかかぶりやがって、丹三の野郎、乙に片づけやがったなと、まず坊主頭がせいぜいいきり立って突っかかった。
「待てたあ何でえ。この女に用のあるわけはねえ」
「そっちになくともこっちにあるから呼んだのだ」
ようよう! 丹三、なかなかうめえぞ!
ごろつきたち心中いっせいに感心している。
「おや、しゃら臭えことをぬかすぜ」
八百長だと思うから坊主頭が鼻息が荒い。
「用てえのは何だ。さっさといわねえか」
「そこにいる女を貰い受けたいのだ」
いよう! その調子、その調子!
めりはりが合ってだんだん雲行きが急になる。
連中はもう投げられる心構え。
「何をっ! 女がほしい? へっ、女がほしけりゃ腕で来やあがれ」
「ようし! では、腕で取るからそう思え」
「そう思えが聞いてあきれらあ」
「ならば取って手柄にせよ、だ」
「畳んじまえ、畳んじまえ」
縁日に夕立ちが来たよう、しきりに畳め畳めとどなっている。肝心の女が片隅で見物しているうちにとんとんとんと運んでどっちからともなく手が出る。お約束に従って大立ちまわりの場となった。
はじめから負けるために出張っているんだから世話はない。
ちょいと手がさわるが早いか、どいつもこいつも思い切りよくそっくり返る。
やっ!――ずでんどう。
ええっ――すってんころり。
まるで柔術の乱取りのありさま、一人を中に起きたり倒れたり、誰が誰だかわからないが、景気のいいことこのうえない。なかにこすいやつは、ひとり勝手に尻餅をついて、
「参った!」
いや、このほうは手がかからない。
組んずほぐれつといいたいがてんで組まないのだからしょうがない。取っては投げ、取っては投げ、さながら男は無人の境を往くようにあばれまわる。
ほうられ続けて腰の立たない一同が、首を上げて見ていると、男が女をいたわってはるか下手の町角を曲がって行った。
あとには不平たらたら。
「畜生、さんざ痛え目にあわせやがった」
「帝釈め、女に礼をいわれてることだろうが、礼ならこっちへもらいてえもんだ」
すると、坊主頭が、
「おい、間抜け、これあひょっとすると大変なことになったぜ。あれあどうも丹三じゃねえようだ」
「なに? 丹三でねえ? どどうしてだ?」
みんなぴんとなってはね起きた。
「お、おう、何だ、何だ、え? あいつ丹三でねえ?」
「丹三じゃあなかったのか」
「やっ! しまった! 道理で丹三兄にしちゃあ荒過ぎるようだった」
「それに、身長もすこし高かった」
あとからいろんなことをいっている。
さあ、大事!
こうしちゃいられねえ、すぐにあとを!
とたけり立って駈け出そうとするのを、
「まあ、待て」坊主頭が止めた。「待ちねえってことよ。これから追ってどうする気だ」
「知れた話よ。野郎、たたっ殺してくれる!」
「うふふっ。口だけあでっけえが、あれあお前、どうしてどうして体術の名人だ」
「するてえと、知らずにひっくり返っていたのが、結局こっちの拾い物かもしれねえな」
「そうよ、そうよ」
「残念だが、これで引き下がるほうが無事らしいぜ」
まるくなってしゃべっている。
「亀なんざ小指でころりだ」
「そういうお前も、あんまりほめたざまじゃあなかったぜ」
「なんにしてもまあ、えれえ手違えになったもんよなあ」
「狂言だと思って投げられていたこちとらこそいい面の皮だ」
「全くだ。こんな御難はねえ」
「おらあ投げられてもいいから、もう一度あの女を見てえ」
「ちえっ! それだけ鼻の下が長けれあ豪気なもんだ。丹三はどうした、丹三は」
「丹三の来ようが遅いから起こったこった」
「丹三はどこにいる? 丹三!」
「丹三あっ! たんざあああうっ!」
「丹三、丹三い!」
「えおう、たんざあい!」
丹三、丹三と丹三を売りに来たようなにぎやかさ。
丹三やい、帝釈やいと呼ばわっていると――、
「おい、ここだ、ここだ、助けてくれ」
という情けない声がして、路傍の大溝から帝釈丹三が今やはいあがるところ。
寄ってたかって引き揚げたが、その臭いこと、一同あっと鼻をつまんだ。
いい若い者がどぶ泥まみれ、名前のとおりに帝釈さまの金仏そっくり。
「どうした、丹兄い」
「どうもこうもねえ。背後からかぶりついたら振り飛ばされてこの始末よ」
「おうやおや、お前も投げられた組か」
「自慢じゃねえが、真先にやられた。俺が来たときあちょうど始まるところだったから、おのれってんで武者振り――」
「おいおい、わかったってことよ。そう身振りをしちゃあ泥が飛んでしようがねえ」
「そうか。どっちへ行った、女は?」
「野郎といっしょにあっちへ行った」
「あっちへ行ったといって、立って見てるやつもねえもんだ。追っかけねえのかよ。じれってえな、こいつら」
やつ当たりの丹三について、一丁先の曲がり角までぞろぞろ行ってみたが、男も女もとうの昔に姿を消している。
「おらあ帰って、殿様に合わす顔がねえ」
丹三が泣き出しそう。
「なあにお前、案ずるこたあねえさ。そのまんま持って行くがいいや、どうも裏表なしの塗りつぶしと来てらあ」
ひどいことをいうやつもある。
頭巾で包んでいたから相手の顔はわからないが、明らかに武士ではない。
かといって、あんなに強い町人があろうとも思われぬ。
男を売るのが商売の侠客か。
とにかく、網の中の魚を大海に逸したも同様で、今さらこぼしても六日のあやめだ。
美人をかつぐ代わりに、臭気ふんぷんたる真っ黒くろ助の帝釈丹三を遠巻きにした一行が、すごすごともとの坂へかかったころ。
東天紅。
と一声、早い一番鶏の鳴く音。
お江戸の朝は、まず薄紫の空から明けはじめる。
三味線堀の宗匠手枕舎里好
ここは下谷、三味線堀。
めっかち長屋の一棟、狂歌師手枕舎里好と名乗る男の家である。
よほどぐっすり眠ったとみえて、女が眼をさましたときは、一間きりない部屋に、もうだいぶ長い陽脚がさし込んで、勝手もとで主人の里好の味噌をする音がしていた。
寝過ごしたのが気恥ずかしくて、いそいで、起きようとすると、夢で泣いたものか、枕紙がひんやり湿っている。きのうからのことが思い出されて、おびえたこころは泪っぽくなっていた。
手早く床をたたんで身じまいをした。敷き蒲団の下に入れておいた金包みを肌へ巻くには、音のしないように気をつけなければならなかった。もうどうしても人を信じられない気もちになっていた。
昨夜助けられた男に伴なわれて来て、女はここに泊まったのである。
古びてもいるし、狭いも狭いが、なんという取り散らした部屋の中。
皿小鉢が衣類や襦袢と同居して、徳利のそばには足袋がころがり、五郎八茶碗に火吹き竹が載っかっているかと思うと、はいふきに渋団扇がささっている騒ぎ。おまけにほこりで真っ白だ。
男やもめに蛆がわく。
家具といっては、洪水に流れ寄ったような長火鉢が一個あるきり、壁のすきまから月が拝めそうな風流ぶり。
見ると、その長火鉢の向こう側に座蒲団が二つならべて、小掻巻が丸めてある。
ははあ、里好宗匠、ゆうべは天にも地にもたった一組の夜着を女にとられて、ここの配所に御寝なすったものとみえる。
なかなかの堅人、これなら当分いっしょにいても、さして間違いはあるまい。
と思うと、女は急に気やすになった。髪をかき上げて台所の障子をあけた。
「おはようございます」
「や、これは嫁御寮、お眼ざめかな、わっはっはっは、いや、おはよう」
あから顔の四十男、でっぷりふとって、狂歌師よりも質屋のおやじという人がら。不器用な手つきでお米をといでいる。
「どうかね、よくお休みになれたかな」
「はい。どうも昨晩はいろいろとお世話様になりまして、ありがとうございます。おかげ様で――」
「おっと! 礼には及びません。わしもまだ御挨拶をしない。ま、そんなかたっ苦しいことは抜きにしましょうや。さ、顔を洗ったり、顔を洗ったり。井戸かね。長屋の裏にある――お! お前さん、気にさわったらごめんなさいよ。何かいわくがありそうだからきくんだが、戸外へ出てもいいからだかね? なんならわしがくんで来てやるが」
「はあ、いえ、あの、かまいません」
渡る世間に鬼ばかりもいない。
何から何まで届く人、伯父さんとでも呼びかけたいような――。
釣瓶うつしに冷たい水で顔をしめしながら、女は、幾年にもなくふと甘い幼ごころに返った。
誰かの胸に泣いても泣いても泣き足りないのはこのはかなさ。
思えば、津賀閑山の店からこの家へ来るまで、なんというめまぐるしい運命の手にもてあそばれたことであろう。
が、ここが当座のねぐらという気がする。
袖すりあうも他生の縁、この人とならば膝をつき合わしていても安心だ。
――添われまいとて苦にせまいもの、命ありゃこそ花も咲く。
どうせ恋しいお方と住めない以上は、広い浮世に宿がないのも同然、誰と暮らそうとおんなじことで、大事なものだけは大事にして、まあ、しばらくここに腰をすえましょう。
井戸をのぞいて水鏡。
気のせいか、一昼夜の心労にげっそり痩せて見える。
女はさびしくほほえんで空を見上げた。
からりと晴れ渡った初夏の朝。
松平下総守様の高塀が三味線堀のさざなみに揺れて、夜露に翼を光らせたぬれ燕が、つうっ、ついと白い腹をひらめかせている。
女が家へはいると、里好先生の心づくしの、貧しい朝飯が待っていた。
こう差し向かいで猫板の上を突ついているのだが、里好師がすっかり解脱しているだけに、双方すこしも艶っぽい気は起こらない。
それどころか、熱い御飯に情けを感じて、女はともすればほろりと来そう。
やがて番茶をすすりながら、そそくさと楊枝を使って、里好がちょっと改まった。
「昨夜はひどく疲れていなすったようだから、そのまま寝かして進ぜたが、お前さんはどこの人かね?」
よくきかれる問いである。女はさっそく用意の嘘を出した。
「はあ。浅草のお福の茶屋、うれし野のおきんと申す者でございます」
御免安のことばがこのさい大いに役に立ったわけ。
「へえい!」と里好はすっとんきょうな声を出した。「今評判の別嬪嬉し野のおきんさんてなあお前さんのことかえ。いや、知らぬこととはいいながら数々の無礼、このとおりおわびを、はっはっは」
「あれ、おなぶりなすってはいやでございます。別嬪などと、ほほほほ」
「いや別嬪だ、誰が何といっても別嬪だ。ふうむ、してまた、その嬉し野のおきんさんがどうして昨夜のようなことに?」
「はい」と口ごもったが、一つ嘘をつけばあとはわけはない。
神田の親類に用たしに行った帰り、途に迷って悪者に襲われているところへ、通りすがりのあなた様に助けられまして――と女は鎧櫃のことなぞおくびにも出さずに、すらすらといってのけた。そして、
「あの、あそこはどこでござんしたろうねえ」
「明神下の四つ角だったよ」女は低声につぶやいた。
「するとあの家は、湯島妻恋坂の上あたりかしら?」
里好が聞きとがめた。
「あの家たあどの家だね」
「いえね」女はあわてた。「その、ただ空家でござんす」
「お前さん、何かえ」と里好は用事でも思いだしたように立ち上がって、「これから浅草へ帰る気かね。わしゃもう米櫃がからだから一まわりして友だちをいたぶって来るが」
「いえ、あの、自家へ帰ってもつらいことばかしでござんすから、もしお差しつかえないようでしたら、しばらくお宅へ置いてくださるわけには参りませんでしょうかねえ」
ここを先途と送る秋波は、里好には通じない。先生さっぱりとしたものだ。
「かまわないとも。独身者ののん気な世帯だ。お前さんさえいたいなら、いつまででもいなさるがいい。だが待てよ、この節はばかに人別がきびしくてな、大家のほうへは何と届けておこう?」
「さあ――妹とでも」
「冗談じゃない。わしみたいな唐茄子に、そんなきれいな妹があってたまるもんか。が、まあ、そこは何とかつくろって妹ということに口を合わせよう。はははは。では、わしは出かけるからね、寝るなと起きるなと気ままにして留守を頼みますよ。なに、夕方までには帰ります」
いいながら里好、すっぱり脱いで着かえにかかった。
手を添えに立った女は、その牛のようにたくましい体格に驚いてしまった。
狂歌の先生には必要のない、隆々たる肉の瘤、しかも鍛えのあとが見えている。
「面白かったな昨夜は」里好腕をさすってひとり悦に入っている。「木っ葉野郎どもを投げ飛ばしたが、しかし、考えてみると、めっぽう弱いやつがそろっていたようだ」
といささか不審そうな顔。そりゃそのはず。むこうは自力でころんだんだ。が、たとえ真気にかかっても、このからだには歯が立つまい。
これが道楽であろう。服装だけはりゅうとして凝ったもの。蔵前の旦那みたいに気取り返って、雪駄を突っかけて出て行った。
「行ってらっしゃいまし」
と送り出した自称おきん、自分の何者であるかを棚へ上げて、
「はて、あのお方は何だろうねえ。ときどきこわあい眼をするようだが――」
考えていたって始まらない。
まあ、いいさね。
そのうちにはわかるだろうよ。
ひとり者の乱雑さは、いつも女性を親しい心持ちに微笑させるものだ。
姐さんかぶりに女房々々した女、やがてかいがいしくばたばたそこらの掃除をはじめた。
「まあ、たいそうなほこりだこと!」
押入れをあけると洗濯物の山。
「ほほほほ、よくもこうためたものだねえ」
べったりすわってくすくす笑っているうちに、女はふっとさびしくなった。これが、思う殿御との新世帯なら――。
三輪あたりに住まいして、わたしは内で針仕事。
丸髷姿の自分を描いて、女は小娘のように、ぽうっと頬をあからめた。
壁に三味線がかかっている。久しぶりの爪びき。
「恋すちょう身は浮舟のやる瀬なさ、世を宇治川の網代木や、水にまかせているわいな」
夢みるような瞳、横ずわりの膝をくずして、女は、いつまでもうっとりとひいていた。
すべての憂さが忍び音の唄と糸とに溶けて行く。
女の頬に、涙の糸が白く光っていた。
そうしたまま、夕風の立つのも知らずにいた。
突然、戸外にあわただしい跫音がして、がらりと格子があいた。一拍子に飛び込んで来た異様な男。
盲目縞の長袢纒、首に豆絞りを結んでいる。
よく見れば、主人、手枕舎里好ではないか!
どこで着かえたものか、まるで別人だ。それが、
「お、おきんさん!」
と血相を変えて駈け上がったが、とみには口もきけずに縦横無尽に手まねをしている。
女はうろうろするばかり。
このとき、三味線堀へ出る韓信橋を、昌平橋から掏摸を追っかけて来たいろは屋文次が、息を切らして走っていた。
渡ればこの家の前。
「野郎、どうもこのへんで消えたようだて――はあてね」
――と、そこの格子が文次の眼にとまった。
御用帳
お人違いでござんしょう
「野郎、どうもこのへんで消えたようだて――はあてね」
妻恋坂影屋敷の鎧櫃の底で拾った小判を、神田の昌平橋ですり取られたいろは屋文次、掏摸を追って三味線堀までくると、今まで眼の先を走っていた盲目縞長袢纒に首に豆絞りを結んだ当の男が、ふっと見えなくなった。
おや! 立ちどまると、めっかち長屋の前だ。たった今人を呑んだらしい格子戸が、さあらぬ態にしまってる。
「ふうむ。鼠の穴はこれだな」
眼をとめた文次、二、三軒行き過ぎると井戸があって、山の神がひとり、何かせっせと洗濯をしている。文次は丁寧に腰をかがめた。
「ちょいとうかがいますが、この三軒目はどなたのお住まいで?」
「三軒目かえ」おかみは振り返りもしない。「里好さんてってね。狂歌とかなんとかやる人だとさ」
「へえい! 狂歌師の里好さん――?」
「ああ。手枕舎っていうんだよ」
手枕舎里好――聞いたことのねえ名だ。いずれ一皮むけばれっきとした御仁には相違なかろうが、それにしても化けたもんだ。世の中は手枕で渡るのが利口とは、なるほどこれあ御託宣だわえ――文次はちょっと吹き出したかったが、しかし考えてみると、たといはずみにもせよ、浮世小路の親分として人に知られた文次の懐中物を抜くんだから、この里好宗匠、よほどの腕ききとみえる。
ことにあの小判、あれはこのさい、文次にとっては何者にも代えがたい手がかりだ――と思うと、文次も笑っている場合ではない。すっとお神のそばへ寄って行って、
「おう、出入口はあの一つか」
と、急に変わったこの番頭ふうの男の調子に、おかみは眼をまるくしてどぎまぎしていた。
家の中では里好と女がてんてこまいを演じている。
今朝がたあんなにめかして出て行った里好が、いま駈け込んで来たのを見ると、なんのためにどこで着かえたものか、松坂木綿のよれよれになったやつへ煮しめたような豆しぼりというやくざな風体をしているのだから、女が面くらったのもあたりまえで、立て膝のまま、
「あ! お前さん!」
ぽかんとして見あげる顔の上へ、里好は大あわてにあわてて、手早く脱ぎ捨てた長袢纒をふわりと掛けてしまった。
「あれさ。何をするの」
女は着物の下でもがいたが、里好はそれどころじゃない。顔色を変えて騒いでいる。
「いや、勘弁々々、すまねえが、そいつにこの三尺と手ぬぐい、丸めて押入れへ押し込んでください。わたしは病人だ」
いいながら、はや蒲団を引き出して敷きかける。女はびっくりして立ち上がった。
「あの、どこか、お加減でも――」
「なに、あとでわかる。ただね、わしは病人なのだ。いいかえ、病人だ、病人だ」と頭からすっぽり蒲団をかむって、
「後月から腰が立たねえで寝ているというこころ。誰が来ても会わねえぜ。あんたは女房の役、な、看病やつれを見せてやんな。さ、今にも来る。頼みましたよ」
一息にしゃべって黙りこむ、やがて、低くかすかにうめく声――どうもお手に入ったものだ。
はっとした女。
もしかするとこの人はお役人にでもつけられたのじゃあないかしら?
気がつくと他人事ではない。高麗ねずみのようにきりきり舞いをして、薬罐、水差し、湯呑みなど病床の小道具一式を枕もとへ運んだのちそこらの物を押し入れへ投げ込んで、まずこれでよし――さあいつでも来るがいいよと女が長火鉢の前へ横ずわりにくずれたとき、がらり格子があいて、
「ごめんなさい」
いろは屋文次だ。
「はい、どなた?」
と女はゆったりした声、長煙管のけむりをぽっかりと吹いている。
「あの、里好先生のお宅はこちらでしょうか」
「はあ、さようでございます。どちら様から?」
鷹揚に首をまわした女、土間の文次とぱったり顔が合った。とたんに「や! この女は!」という色が文次の表情にゆらいだが、たちまち追従笑いとともに、文次は米つき飛蝗のように二、三度首を縮めておじぎをした。
「いますかえ、これ?」
となれなれしくおや指を出して見せる。
「はあいるにはいますが――」女は迷った。
この人はだいぶ親しい仲とみえる。
上げても差しつかえないんだよ、きっと。
が、「誰が来ても」といった里好のことばを思い出すと、女はぎくりとして文次へ向き直った。「いるにはいますが」と、にっこりして、「ご存じのとおり一月ほどからだを悪くして寝たきりなんでござんすよ」
「だが、いまそこから来てここへはいるのを見ましたがねえ」
「お人違いでござんしょう」
突っ放すようにいい切ると、文次の顔にちらと険が動いた。
これは油断がならない。女はいっそうやわらかに出る。
「ほんとに困ってしまうんですよ。病身でしてねえ。はあ、この一月ってものは、まるで脚腰が立たないんでござんす。ま、お掛けなすって、お茶でも一つ――」
「いや、もうおかまいなく」
文次もすまして上がり框に腰をおろし、ちら、ちらと女を見ると、女は物思わしげにうつむいて、火鉢の灰をかきならしている。貧乏世帯を苦にせず病夫にかしずいている世話場の呼吸だ。おくれ毛が二、三本、艶に悩ましい気色である。
たそがれ刻の裏町。
鉄瓶が松風の音を立てている。こっとりとした静寂だ。
「あのう、何ですかえ」と文次。「師匠はお眠みですかえ」
「はあ、よく寝ておりますから失礼させていただきます」
あとは二人、またしてもばつの悪い無言の行。いつ果つべしとも見えない。と、つと文次がたち上がった。
「一つ上がってお見舞い申しましょう」
框に足を掛けると、愁いを含んだ女の眼にあざやかな嬌笑が流れた。
「さあ、どうぞ――むさくるしいところでお恥ずかしゅうござんすけれど」
ともう立って来て、そこの座蒲団を裏返して、晴れやかに文次を待っている。
こうなっては明らかに文次の負けだ。
「いえ、なあに」文次はまごついた。「何も今日とは限りません。はいいずれそのうち、またゆっくりと寄せてもらいましょう」
「でも、せっかく――」
「へへへ、つい御近所まで来たもんですから」
「あの、御用は?」
「へい、いや、師匠によろしく」
「ほほほ、お名前は――」
「名なんざあ何でもようがさあ」
このところ文次さんざんのていたらくだ。逃げるようにとび出して、うしろ手に格子をぴしゃり――ほっとすると同時に、急にしっかりした見得が文次の胸を衝いた。
「そうだ、あいつに違えねえ、たしかお蔦とかっていったっけなあ」
と戸外で文次が、きっと何か思案を決めたらしかったが、これは家内の女は知らないから、しばらく呼吸を凝らしていると、どうやら文次も立ち去ったようすで、小窓からのぞけば、水のようなうっすらとした宵闇が三味線堀を渡って来るばかり、人影はない。
女はそっと里好の枕べにしゃがんで、
「さあ、うまくいきましたよ。お起きなさいな」
大事をとって声を忍ばせたが、里好の返事がないので、もう一度くり返そうとすると、すうすうと他愛のない鼾、いい気なものだ。里好先生、時ならぬ熟睡の最中とある。
寝たふりをしているうちにほんとに眠ってしまったものとみえるが、何にしても人を食った度胸といわなければならぬ。さすがの女もこれには舌を巻いた。
「まあ! あきれた人だよ。さんざあたしに骨を折らしておいてさ」
口には恨みがましく出ても、何ともいい知れないたのもしい気がこみ上げてくる。微笑を残して眠りをさまさないようにと跫音を忍ばせ、もとの座へ帰ろうとすると、枕の下に、ちらと光る物が女の眼にはいった。
気味の悪い風が吹いて来たぜ
小判である。
拾い上げて見ると、眼印がある。
抜けるように白い女の顔に、驚愕が紅をさした。
「あれ!」危うく声を立てようとして口を押える。「まあどうしてこの人がこの小判を」
これは確かに自分の小判。もっともあの神田の津賀閑山の店で鎧櫃へひそんでから、まだ一度も財布をあらためたことはないけれど、もし落としたとすれば鎧櫃に揺られていたときに相違ない。それをどうしてこの人が持っているのだろうか?
この人とてもまともの渡世でないことはさっきの騒ぎでもおよその想像はつこうというもの。今来た男からでもとったのだろうか。とするといまの男は何者で、いったい全体、どこから小判を手に入れたか?
考えていたって始まらない。とにかく一応自分のほうを数えてみようと、里好が眠っているのを幸い、小窓に寄って女は胴巻きを抜き出した。
触れ合うたびにちろちろと鳴る黄金の木の葉が、一枚二枚と白魚のような指先に光を添える。五枚六枚七、八、九――勘定していくと、どうしても一つ足らない。
特別の御用金に金座から大奥お賄方へ納めた分として一つ一つの小判の隅に、小さな桝目の印が打ち出してあるのだから金輪際間違いっこない。里好のはまさしく女のもので、これを入れれば数もそろう。女はひとりごと。
「どこをどうまわって来たのか知らないけれど、こりゃあたしんだから、いっそもらっておこうよ」
と女が、里好の小判も入れてすっかりしまい込んだとき、犬のようにはいながら窓の下を離れた黒い影がある。
二、三間行って伸び上がると、いろは屋文次だ。
さては今までのぞいていて、委細を見届けたものとみえる。
何か考えるところがあるのだろう。ぱっぱっと土を払うと、わざと雪駄をちゃらつかせてそのままうす闇に呑まれてしまった。
灯りのない屋根の下は、暮れやらぬ外光が物の姿を浮き出させて、海の底のようにひっそりとしている。そのなかで女はつくねんと長火鉢にもたれたまま、身じろぎ一つしない。里好の寝息が、まを置いて安らかに糸を引いている。
と、だしぬけに声がした。
「えらい大金を持っていなさるのう」
女はぎょっとして顔を起こした。が、案ずることはない、里好が寝言をいっているらしい。
「うむなかなか金を持っている」
里好がつづける。寝言は寝言だろうが、これはまたずいぶんと壺にはまった寝言である。
ことによると最初から狸寝入りをして見ていたのかもしれない。
こうなると女も驚かない。くらやみに白い歯がちかと光った。
「ああ、もってるとも。だがね。これはいわくつきのお金でね。あるお方からお声がかりがあるまではあたしが預かっているようなものなのさ」と十二分に要心して「お礼をいわしてちょうだい。小父さんが拾って来たのもこの中の一枚だったよ」
眠っているはずの男と、起きている女とのあいだに、小声に珍妙な問答がはじまる。里好は相変わらず軽く鼾をかいている。
「わしは拾って来たのではない。どうしてあのどうろくがその小判を持っていたのか知らないが、昌平橋のうえで掏ったのだ。巾着切りだよ、わしは」
里好子、寝言に事寄せてみごとに名乗りを上げた。これで女は結句安心したとみえる。
「そうかえ、おおかたそんなところだろうと思ったのさ」
格別面白くもなさそうだが、伝法なことばづかいはもう里好を仲間扱いにしている。
「そんならこれから親分さんと呼ぼうかねえ」
里好が眠たまねをしているせいか、どうも女のほうが一桁上を行ってるようだ。
「よしてくれ」と里好はまだ合の手に鼾を入れて、
「こうやきがまわってはあがったりだ。今日なんかも、この手を引く拍子に小指が襟へかかってな、それであの野郎に感づかれたらしい。脚の早えやつだったよ。すんでのことで追っつかれるとこだったが、ついぞない自分の失敗を考えると、わしは安閑としてはいられないのだ。このごろおっかねえ風が吹いて来たぜ」
「ほんとにねえ。そういえばあの男、気になる眼つきをしていたよ」
と女もちょっとしんみりする。
「あんたは姿見の井戸てえのを知ってるかね」
きいたのは里好である。
「何だい、その姿見の井戸とかってのは」
「井戸の底だ。江戸じゅうの大悪党の寄り合い場。御存じかな」
「初耳だねえ。どこにあるのさ」
「井戸の底にあるのだ。ある大きなお屋敷のな。――ところで、さっきみてえなことがあってみると、わしもつい弱気になってちっと草鞋をはきてえと思うが、さて、江戸を離れるのは業腹だ。そこで当分この井戸のたまりで暮らすつもりだが、あんたはここに残ろうと浅草へ帰ろうと、つれないようだが自儘にしてもらおうじゃないか」
と寝言の里好、やにわに変なことを切り出した。
「水臭いことをいうじゃあないの。それあひょんなことからこうしてお前さんの厄介になって、まだほんとの名前も明かさないあたしだけれど、一日だって一つ釜のお飯を食べれあまんざら他人でもないはず。今朝も出がけに自分からわしの妹にしておこうなんていったくせに、忘れっぽいったらありゃあしないよ、ほんとに」
「では、あんたは、お福の茶屋嬉し野のおきんさんではないのか」
「うれし野のおきんとは、世を忍ぶ仮の名、ほほほほ、はばかりながら茶くみ女に見えますかねえ。あたしゃ宿なしのお蔦というふつつか者、幾久しくお見限りなく――とまあ、いうようなわけでさ。一つ気をそろえてその姿見井戸のたまりとやらへ出かけようじゃないか。いろいろ話もあることだし」
「うむ、ついて来るものならとめもしない。よかろう。面白い。またいい目が出ないものでもないからな」
里好はがっぱとはね起きると、今眼がさめたという形。
「あああうあ!」と、両手を張ってのんきなあくび、別人のような大声。「ああよく眠った。あっはははは」
「ほんとによくお眠みになりましたねえ」
女も即座にけろりんかんとよそ行きの口調に返っている。
「面目ないが、何か寝言でもいいましたかえ」
「いいえ。べつに。ほほほ」
と要領を得ている。
「そうですかえ。とにかくまあ、かぎつけられた巣に長居をすることはない。そろそろお出ましということに。――いや、これは暗いな。なあに、灯はいらない。からだ一つ持ち出せばいいので。はて、と。――この辺に矢立てが――お! あった、あった。これでこのへんのところへこう一つ――」
何一つ盗まれる心配はないから、家の中なんかそのままにして二人はさっそく土間へおりた。
外部からしめた障子へ、手探りながら筆太に何かすらすらとしたため終わると、里好は女を促して悠然とめっかち長屋をあとにした。
行く先は奇怪至極な井底の集会所。
大股に肩を振って行く里好宗匠のあとから、両袖を胸へ重ねたお蔦が、白い素足を内輪に運ぶ。
先に立ったまま里好がいう。
「井戸の入口で黒い袋を渡されて、顔もからだも包むんだがな、あんたは髪をもっと引っ詰めて、それから声に気をつけて、中へはいったら万事男のつもりでふるまいなさい」
こういわれて、お蔦がさっきの里好のかえ衣装を思い出していると、その心を読んだらしく里好は、
「いや、あの袢纒は違う」
と打ち消して、
「新網に瑞安寺という寺があってな。江戸中の掏摸の根城になっている。わしはそこで姿を変えてかせいでいたのだ。江州雲州などという、わしの頼みとあらば灯の中水の中へも飛び込もうというすごいのがそろっているが、毎夜本堂に故買の市が立って、神田の閑山なんかが出張って来てうるさくて寝泊まりはできぬ」
「神田の閑山というのは、あの津賀――」
「さよう、津賀閑山――お相識かな?」
とんだ相識、とお蔦が黙っていると、
「食えない爺だ」
いかさま食えない爺である。
「瑞安寺では顔役で、両国のびっこ捨、日本橋の伊勢とならんで鼎の足と立てられているこのわしだが、姿見井戸へ行ってはまるで嬰児だて。えらい奴がおるでな。もっとも、顔や名はわからぬが――まま、保養と修行をかねて身を隠すには、この姿見の井戸に越したところはなかろう」
というきてれつな話。
同伴があると道は早い。
いつしか広小路へ出ている。
上野の森へかけて流れ星が一つ夜空をかすめた。
あの女は生きております
神田連雀町の裏、湯灌場買い津賀閑山の古道具店へ、一人の侍がはいって来たのは、小半刻まえのことである。
主人の閑山とは顔識りの仲とみえて、親しげに腰をおろして、それからこっち、またぽそぽそと話しが続いている。
ここへ、三味線堀からいろは屋がまわって来たが、店にお武家の客がおると見ると、横手の露路について勝手口へ顔を出した。
「今晩は。おう、久七どん、俺だ、文次だ、いるかえ」
そうっとあけると、鎧櫃以来おなじみの飯たき久七が、おびえたような恰好できちんと板の間にすわっている。
「どうした。久七どん、えらく片づけているじゃあねえか」
「しっ!」久七が制した。「来てるだあよ。お店へ来てるだあ」
「来てる? 何が来てる?」
「湯島の家で俺がから鎧櫃を受け取った女郎みてえなお侍さんがねじ込んで来てるだ」
とたんに、泣くような閑山の声に押っかぶせて、記憶のあるじゃじゃら声が大きく響いてきた。
「なに? まだそのようなことを申しおるか」
昼間、饗庭の影屋敷の、不可思議な空家の二階で、突如文次たちに斬りつけたあの男美人の猫侍、内藤伊織である。
文次は四つんばいにはって行って、店のすぐ背後に息を凝らした。
しゃがれ声を押しつけて伊織がしきりにいばっているのが聞こえる。
「何だと? 鎧櫃へ入れたときは生きておった? 黙れ黙れ、それが出したとき死んでおれば貴様が殺したも同然ではないか」
「殺したなぞとめっそうもない。野原の一軒屋ではござりません。隣近所の手前もあります。どうかそう大きな声をなさらずに――」
閑山はおろおろ、手でも合わしているらしい。
「いいやいや、貴様が殺した。何といっても津賀閑山があの女を殺したのだ」
妻恋坂の殿様御名代として推参した猫侍の内藤伊織、面白ずくにだんだん声を高めて行くところ、だいぶ脅迫の場数を踏んでいるとみえて、なかなか堂に入っている。
「さ、性根をすえて返答してもらいたい。そもそも何の恨みがあって、女の死骸を鎧櫃へ詰めて届けたのだ? いやさ。それを聞こう。それを聞こう」
「しかし、饗庭様では鎧櫃を受け取らぬときっぱりおおせられましたが――」
「それは、拙者が出て応対したことゆえ、本人の拙者がこうしてここへ正式に談じに参るまでは表向き受け取らぬということにしておいたのだ」
受け取ったのは影屋敷なのに、なんとうまい嘘をついている――文次は感心した。それに女の死骸とは!
蛇ににらまれた蛙同様、閑山はぐうの音も立てずにすくんでいるらしい。それとも相手が猫だから、まず鼠というところかもしれない。悪党らしくもないようだが、何とかして金を出さずにこの場をすませたいというのだから、閑山の苦しがるのもむりもないわけで、かげで一伍一什をきいている文次には、当初からのいきさつが掌を指すようにわかってしまった。
鎧櫃の底で、あの眼じるしのある小判をみつけたとき、すでに文次は櫃の中には女が隠れていたことをみぬいたのだ。
小判には桝目の印が打ってある。
江戸中の岡っ引きがいま地をかぎまわって捜しているのが、この桝目の小判で五百両と、それを持ち歩く女とであってみれば、その一枚の小判からすぐと女を頭へ浮かべたのは、この場合、文次でなくても誰でも見通しのきくところであろうが、女はただ女とだけでぼんやりした人相書き以外は、どこの何者とも知れていなかったのを、途中で掏摸にあったばかりに、三味線堀手枕舎里好の家で残余の小判を呑んでいる女を突きとめることができたとは、人間万事塞翁が馬、何からいい蔓をたぐり当てるか知れたものでない。
いわばこれ、今日という日はいろは屋文次の大吉日だったが――。
お蔦――はもう網の中の魚である。
いつでもとれると思ったので、即座に手を下さずに来たのだが、一つには里好もともども器用に挙げてしまいたかったからで、また、踏み込む前に、念には念を入れてお蔦という女をもう少し洗ってみたい文次一人の心持ちもあった。半当てずっぽうにしょっぴいて来て「さあ、申し上げろ。申し上げねえか」と番屋の薄縁へこすりつけるのは、文次の手口ではなかった。
だからいろは屋文次はめったにお縄をしごかなかった。が、一度しごけば、それは必ず大きな捕親として動きのないところであった。
お蔦は俺の掌の内だ。明日にでも御用にしよう――。
文次はにっとして、聞き耳を立てた。
津賀閑山が何かじめじめいい出したからである。
「全く識らない女でございますよ。はい、お手先らしい男に追われて店へ飛び込んで来ると、突然、あの鎧櫃を買って自身ではいりましたんで、まことに藪から棒のようなお話ですが、真実真銘、この白髪頭に免じて――」
手先らしい男――? と文次が小首をかしげると、猫侍のかれ声だ。
「さようなこと聞く耳持たぬ。神田の閑山として多少は人に知られた貴様と暖簾のためを思えばこそ、内済にしてやろうとこうまで骨を折っているのだ」
大変恩にきせている。かと思うと、
「すこしは考えてみろ、出るところへ出れば、貴様の首はたちまち胴を離れるぞ」と一たん張り上げた持ち前の咽喉をぐっと落として、
「それとも、俺の手にかかりたいか。こら、ぶった斬るぞ野郎、武士たる者へ死んだ女なんぞ送りつけやがって」
科白はだんだんへんにくずれてくるがそれだけ危険の度を増すのが内藤伊織だ。こいつのことだから、閑山の細首ぐらい笑いながらいつぶった斬らないとも限らない。役者のような容相にすさまじい殺剣の気と技を包んでいることは、昼の騒ぎで文次と安がよく知っている。
そろそろ顔を出そうかなと文次が動きかけたとき、
「旦那、まだ往生しませんかい」
と伊織へ声をかけて、表にはまた一人新手が助けに出たようだ。
帝釈丹三である。
溝泥を呑んだ腹いせに、眼玉を三角にしてがなり出した。
「えこうっ、爺つぁん、やに手間あ取らせるじゃあねえか。人殺し兇状は、人ごろし兇状はな。いいか、人殺し兇――」
「これこれ、そう大声を発せんでもわかる。なあ閑山」
伊織がとめている。
「なあに、こんな唐変木にあこのくれえでなけあ通じねえんで、大きな声は地声だ。やい人殺し兇状は――と来やがらあ。どうでえ」
何が何んだかわからないが、はや往来に人が立つほど、丹三の声は威勢がいい。これが閑山には一番痛いとみえて泣かんばかりにあやまっている。
ふと文次が台所を見ると、もとは自分から起こったことというので、自責と悲憤に耐えないのだろう。飯たき久七が茶碗酒をあおって、泪と鼻汁をいっしょにこすり上げているさわぎ。いやもう、裏もおもてもたいそうなにぎやかさ。
この騒動の最中に、伊織がそっと手でもひろげて見せたものと見えて、
「へえ、五両で。よろしゅうございます」
という閑山の声。つづいて伊織が、
「ばかを申せ。五百だ、五百両がびた一文欠けても引きはせぬぞ」
いよいよ本筋へはいったのが聞こえた。
もうよかろうというので、文次は腰を曲げて店へ出て行った。
ぽんと前掛けの裾をたたいて、ぴたり伊織の前へすわる。
「どうも先ほどは」
伊織も丹三も驚いたが、あっけにとられたのは閑山老だ。ぽかんとしている。
「何だ。貴様は」
伊織、白を切った。文次は笑う。
「よく御縁がござります。へへへ、手前は此店の手代で」
「手代? 見たことのないやつだな」
「御冗談でございましょう。お! 御冗談といえばもう一つその御婦人とやらでおなくなりなすったというのもあんまり破目をはずした御冗談じゃありませんかね」
「何だと!」
「あの女は生きております」
「どこに、どこにいる?」
丹三が思わず口を出した。
「ここから丑寅の方に立派に生きております」
「何をいやんでえ! うせ物じゃああるめえし」
「心配するねえっ」文次は急に巻き舌に変わった。「いどころは俺が知ってらあ」
「な何と申す?」
「知ってるから知ってるといったんだ。それがどうした?」
「おのれ、無礼なやつ」
「はっはっは、刀に手をかけてどうなさるお気だ。ねえ、物は思案ずく、出るところへ出てちいっと困るのはお前さん方じゃござんせんか。白痴が犬の糞を踏みあしめえし、下手なしかめっ面あ当節流行らねえぜ」
「うぬ、いわせておけば――」
「いくらでもいいます。女が生きてたら文句はあるめえ。見たけれあ明日お奉行所へ来なさるがいい。帰れ、帰れ」
いいながら、文次は、ずかりと胡坐を組んだが、わざと膝で胸を突き上げたから、はらりと懐中の袱紗が解けて、十手の先が襟もとからのぞく。
これでたくさん。
柄へ掛けた手のやり場に困って、内藤伊織はごそごそ脇腹をかいている。
「覚えておれ」
「きっとこの返報はするからな」
せいぜいすごみを見せて、伊織と丹三、早々に引き上げて行った。
「いや、どうも悪いやつらで、一時はどうなることかと思いましたが――あ! ところで親分、女はどうしましたえ?」
閑山は文次の手を取らんばかり。が、
「爺つぁん、あんまり灰の強い悪戯はしないがいいぜ」
言い捨てて文次が立とうとすると、手早くいくらか紙に包んだ閑山、文次の手に押しつけようとしたが――、
「おら、その金を閑山のしゃっ面へたたきつけて来た」
と、もうこれはつぎの日である。
浮世小路いろは寿司の奥。
朝寝の床から手を伸ばして、こういいながら文次が煙草を吸いつけているそばに、きちんと膝っ小僧をそろえているのは、久しぶりに乾分の御免安兵衛。
金魚売りの声が横町を流れている。
風のほしい陽気だ。
「なあ安」文次は眠そうな声、「つい先ごろまで両国に人魚の見世物が出ていたなあ」
「へえ」と安兵衛おどおどしている。
「あの人魚の女は何ていったっけなあ、てめえ日参してたようだから忘れあしめえ」
「お蔦――とかいったようにおぼえていやす」
「さよう。そのお蔦よ。どこにどうしているかなあ」
「へ?」
「安」と起き上がった文次、「われあ妙う隠し立てをするぜ。てめえをまいたお蔦あ俺が突きとめてあらあ。これからばっさり網を打ちに行くんだが、ま、そこの御用帳をおろして来い」
文次は壁にかかっている帳面を指さした。
月の十日は御下問日
あれだけの人数がどうして音もなく消えうせたのか、それが税所邦之助にはわからなかった。
考えれば考えるほど気が詰まってくる。
ゆうべの方来居の手入れである。
水戸藩の志士が一団二団と分かれて江戸に潜入し、佐久間町の岡田屋、馬喰町井筒嘉七、さては吉原大門前の平松などに変名変装で泊まり込んでいることはとうに調べがついているのだが、顔の識れない連中が多いし、なまりも、耳に付くほどではないので誰が誰だかいっこうにしっぽをつかませない。
そこへもって来て上司からは警戒を厳にするようにとの矢のようなお達しだ。いわれるまでもなく役儀の表、充分に監視したいとはあせるものの、さて相手を知らないのでは暗中の一人相撲、的なしに弓を射るようなもので、警戒しようにも、全然策の施し方がなく、これではてんでお話にならない。
おまけに、坊間ひそかにもれ伝わる不穏の計画がある。
係り役人が躍気になって、走りまわっても、得るところは雲のような臆測か、煙みたいな風聞ばかり、事実はおろかとんと方向がつかないのだから、一同奔命に疲れた形で、青息吐息、ほとほと困じ果てて[#「困じ果てて」は底本では「図じ果てて」]いたところへ――。
昨朝、内部へ放ってある信ずべき密偵からの告知。
本所割り下水、もと御典医の蘭学者相良玄鶯院の隠宅方来居で、水藩高橋一派の会合があるという。しかも十五、六人は集まる予定だとあるから、隠密まわり同心税所邦之助、こおどりしてよろこんだのも道理だ。もちろん先方の議いまだ熟さず、確たる証拠を収めることはできなかろうが、十五、六人も顔をならべているとは首実験にこれ以上の好機はない。
税所邦之助が夕刻から方来居の近く要所々々へ腹心の者を伏せて待っていると種々雑多な風体の輩が、闇黒に紛れ、続々と草庵の裏木戸に吸い込まれたとの吉報。
時分を計って、自身精鋭の組下手付を率い、ひしひしと方来居を押っ取り囲んだ。
昨夜のことだ。
よく蟻のはい出るすきまもないということをいうが、全くそのとおりの手配。
万端遺漏なしと見て不意に家内を捜索すると――驚いたことには家人のほか客ひとりいない。土間をうずめていたはずの履物さえどこにも見当たらないのだ。
乱打に応じて戸をあけたのは、年寄りの下僕だった。家の中は真っ暗で、上がり込んでみると、玄関とおぼしき一間に食客なる若い浪人が蒲団の上に端坐し、奥座敷には庵主玄鶯院が幼児に添寝していた。ただそれだけ。
老僕を引きすえて糺問してみたが、寝ぼけているのか顛倒したのかいうことがさらに判然しない。
広くもない家のこと。
他に隠れ場があろうとも見えぬ。
が、念のためと畳を上げ、壁をたたいて、竈の奥から雪隠の中までほとんど夜っぴてのぞきまわったが、猫の子一匹出て来はしない。屋根裏、床下も見落としはしなかった。
とど朝になって報いられたところは、何らの抵抗を示さない老主玄鶯院の無言の嘲笑と、それから捕方の意気の沮喪のみという税所邦之助としてははなはだ面白からぬ結果であった。
加うるに今朝はまた、幕府方秘密の刺客の一人が堀田原の馬場に死体となってころがっていたとのはなし。
それに、近ごろことに頻々として起こる死に花の一件――人体に根を張って生命を奪う怪しい草花。
「いろは屋はいったい何をしているのだ」
この場所柄を忘れて、独語が邦之助の口をもれる。
待つ身はつらいというが、もう一刻にもなろうとするけれど、税所邦之助はその点ではちっともつらくなかった。それどころか今は緊張と動悸とではち切れそうで腋の下に汗をかいている。
生まれて始めてすわった壮麗な座敷に、邦之助はひとり控えさせられているのだ。
袴の両わきから手を入れて頭を下げたまま、上座には主待ち顔の大褥、それに引き添って脇息が置いてある。
やがて、はでやかな衣類に胸高に帯を結んだ奥女中が、燭台を捧げてしとやかにはいって来た。白い顔が夢のように浮かんだと思うと、ゆらりと一揖して出て行く。
金泥と蒔絵に明るい灯が踊っている。
八百八町の雑音もここまでは届かない。
桜田御門外はさいかち河岸、大老井伊掃部頭様お上屋敷の奥深い一間である。
この直弼という人は『作夢記事』などという本は「井伊掃部頭殿は無識にして強暴の人なり」とだいぶこっぴどくこきおろしているが、強暴というのはいってみれば闘志熾烈の別名で、あくまでも我を貫こうとする見識は、往々にして無識にも見えようというものだ。剛腹で自主の念が強かったというが、これは何事も調べ上げ、きわめ尽くした事実の上に立っていたからこそで、そこで無識とののしられ強暴と折り紙を附けられたのであろう。
とにかく普通一般の殿様が下情に通じようなどという道楽気分からではなしに、井伊直弼は政務の一端としてよく市井の音に耳を傾けていた。
で、月の十日には南北両奉行附与力同心放火盗賊改方の役々などを一人ずつ私の格として邸に招じ、半刻ほど巷のほこりをかぐのが定例になっている。
この前代未聞破天荒の無礼講制度を彦根様の御下問日と称してお召しに預かった者は羽振りがきくし、第一役離れの心配がなくなるから下吏のあいだには大いに受けがよかったもの、今度こそは俺の番だろう――なんかとめいめいが内心ひそかに申し上ぐべき事柄などをえらそうに考えたりしていると、そいつが当たったりはずれたりする。
そりゃそのわけだ。掃部頭十日の朝になると役人名簿を取り寄せて、眼をつぶって扇子か何かでぐるぐるぐるとんとでたらめに名を突いて、夕方その者を呼び出させたということだから。
そこで今日の十日。
お召しによって控えましたるは本八丁堀屋根屋新道隠密まわり同心税所邦之助、まだお眼通りにもならない前から、このとおり真赫に鯱張ってござる。ふだん自家でいばっているだけ、こんなところは女房子供にゃ見せられない。
大老が出て来たらああもいおう、こうも述べよう。こっちの才も見せてやろうと、邦之助しきりに胆田に力を入れている。
と、しいっしっという警蹕の声。
襖の引き手にたれた紫の房が、一つ大きく揺れて、開くまももどかしそうに肥った小男がはいって来た。
近江国犬上郡彦根藩三十五万石の城主、幕府の大老として今や飛ぶ鳥を落とす井伊掃部頭直弼だ。
七夕さまより情けない
彦根様の御下問日――。
こうして、どうした風の吹きまわしか、一同心の身をもって大老にお目通りすることになった税所邦之助、相手はいまでこそ幕閣の司だが、もとは長いこと部屋住みの次男坊で、相当浮世を見て来た苦労人だとのことだから、一つ怯めず臆せずすべてをぶちまけようとかたくなりながら考えている。
申し上ぐべきことが山ほどあるのだ。
それにしてもずいぶん待たせる。もうお出ましになってもよさそうなもの――と邦之助がちょっとからだを動かしかけたとき、さらりとあいだの襖が開いて、ふとった小男がはいって来た。
近江国犬上郡彦根藩三十五万石の城主、幕府の大老として今や飛ぶ鳥を落とす井伊掃部頭直弼だ。
大股に、といいたいが、小柄でせっかちだからちょこちょこと出て来て、足で蒲団を直してちょこなんとすわった。
「よい、よい。往け、ゆけ。あっちへ、あっちへ、あっちへ往け」
いらいらして御近習にいっている。
脂肪肥りのしたからだのうちに、四角なだだっ広い顔が載っかって、細い眼がつり上がっている。あまりいい御面相ではない。
家来が引っ込んで行くと、
「面を上げい」
というお声がかりだ。どことなくがさがさして、構えていないだけに、邦之助なぞにも話しがしやすい。わりに気軽にことばが出て、すぐにこのころの江戸の民状へ話題が向いた。
が、貫目というものは争われない。会ったらこうもいおう、あれをああ述べてこっちの才に驚かしてやろう、なんかと考えて来たことはすっかりどこかへ消し飛んでしまって、邦之助、きかれた答えを歯から先へ押し出すだけで精一杯だ。
「死に花とか申したな、皮膚に根をおろして人を殺める花、あの件はどうなった? やはり刺客の業か」
ずけずけと持ち出してくる。邦之助はまごついた。
「さように存ぜられまする。これにつきましては手前方出入りの下賤の者に申し付けまして、着々探索の歩を進めておりまするが、何を申しますにも、その植物なるものが――」
「うむ。その探索方に当たりおる者は何と申す?」
「は、いえ、お耳に入れる名もない下素な者にござります」
「たわけめ! 名のない者があるか」
「恐れ入りましてございます。いろは屋文次と申しまして、御用の走り使いを勤むる町人にござりまする」
「いろは屋文次! 侠気めいた殊勝な名じゃ。さだめてやりおることであろう。そちから厚くねぎらって取らせい」
「はっ。ありがたきしあわせに存じまする」
「うむ。で、下手人と申すか、つまりその、花を使う者だな。これという見込みでもついたか」
「それがでござります。まことに申しわけございませぬがその毒草」
「毒草?」
「は。毒草ということだけは判明致しましたが、それ以外はいっさい――」
「いまだもって密雲の底に包まれておるという仕儀か」
「おことばのとおりにございます」
「自慢にもならないことに力を入れていうな。が、しかし、その毒物、本朝の産ではあるまい」
「と手前ども一統も愚考致しておりまする」
「うむ。つぎに、烏羽玉組とやら申す斬り取り強盗の輩がいよいよ跳梁しおるとのことだが、また、例のあの一派の浪人ばらの動静はどうじゃな」
「御前」
「何だ」
「それについて失礼ながらお耳を」邦之助はいっしょうけんめいだ。「お耳打ちをお許しくださいますよう」
「おお誰もおらん、そこでいえ」
「なれど、念には念を、とか申しまするで」
「さようか、では苦しゅうない。近う」
一世一代の勇気を出した邦之助、手を膝がしらに、腰をかがめて大まわりにまわって直弼の耳もと近くかしこまった。
咽喉仏をがくがくさせて何かささやいている、細かくからだを振りながら聞いている平べったい彦根殿の顔が、見るみる驚愕にゆがんだ。
「うむ、うむ――なに? そうか。ううむ、そち、それは真実だろうな」
「まずこのねらいははずれますまいと存じます」
「ふうむ。彼奴か。あの男なら識っとる。それくらいのことはいかさまやりかねんやつじゃて」
「時に御前」
また邦之助の口が直弼の耳へ寄ると、しばらくして、
「うむそのことか」と聞いていた直さんが笑い出した。
「はっはっは、それなら先夜も志賀の金八が参って申しおったし、殿中においてもたびたびそれとなく忠告を受けおるが、直弼の眼中一身なしじゃ。かれら痩浪士に何ができようぞ。あはははははは」
けれども、そのうちに邦之助がまたもや何事か耳へ吹き込むと、今度は、
「うむ」
といったきり――すると赤鬼といわれたその赫ら顔が一時に蒼ざめて大老掃部、畳をけるように突っ立った。
そしてどんどん奥へはいってしまった。
邦之助が何をいったのかそれはわからないが、定めの半刻がたったので、世の格式を無視した会見はこれでおしまい。
済んでみるとあっけない。大老と一同心。もう一生涯に顔を見ることもかなうまい。年に一度会う七夕さまよりも情けないわけだ。
邦之助がぽかんとしていると、お小姓が菓子折と金一封を持って来て、御苦労さまと口上を述べている。
はっと気がついた税所邦之助、いざ座を離れようとすると、足がしびれて袴の裾を踏んだ。
小姓がくすっと笑って下を向いた。
邦之助の役宅は八丁堀屋根屋新道、帰路について、往来を歩きながらも、邦之助の頭は死に花の一件や烏羽玉組の跳躍[#「跳躍」はママ]、さては今いってきた大老様に対する水戸藩一派の策動などでいっぱいだった。考えれば考えるほど、このごろは人間がめだって不敵になったように思われる。
「しかし、これも世の中かな」
と思う。
が、得体の知れない草花を使う刺客やら、江戸中に出没する黒装束の強盗団、人もあろうに大老の首をねらう一味のことなどを、同心としての自分の立場からつぎからつぎと心に浮かべてゆくと、その一つにすらはっきりとした眼串が立っていないのが、役柄の手前はなはだふがいない気がする。穴あらばはいりたい。――ほとんどそんな悩みを覚えるのだった。
何も自分ひとりの手落ちというわけではなし、また仮に邦之助が単身ふんばってみたところで天下の大勢をどうすることもできないのだが、そこが苦労性の生まれつきでしようがない。まるで青菜に塩の体で、考え込みながらふらふらと数寄屋橋御門から西紺屋の河岸っ縁へ出た。
もう四刻をまわっている。
暗いなかにどこか空あかりが漂っている美しい晩だ。
思案に沈んでいた税所邦之助、背後の供が何かいうのも聞こえなかったが、やにわに横合いから提灯を突きつけられてびっくりした。
「お! な、何者だ?」
急の光に眼がくらんで相手の顔は見えない。
と、すっと提灯が下がった。
「人違いでござる。粗忽、ごめんを――」
声に記憶があった。とたんに、提灯の火が消えた。
「や!」
邦之助の手が、思わず刀の柄にかかる。ところが男は、慇懃に小腰をかがめているようだ。
こやつ、見たことのある顔!
ああ、そうだ。確か名を篁守人――本所の玄鶯院宅方来居へ乗り込んだとき、玄関に寝ていたあの若い浪人者――。
怪しい! 寄って来たら真っ二つと! 邦之助が構えていると、守人は一歩下がって、
「失礼致しました」
立ち去るかと見えて、すたすた歩いて来る。
はっとして、さては、と邦之助が腰をひねったとき、守人は邦之助とすれすれにそのまま通り過ぎて行った。
振り返って見ると、もういない。
「何じゃ、妙な奴じゃな」
邦之助、供をかえりみる。
「さようで――おおかた夜遊びの御勤番衆ででもございましょう」
見間違いということもある。守人ではなくて、たぶんそんなところだろう――ということになって、主従無言で歩き出した。
あそこから八丁堀までかなりある。で、帰り着いたころは夜もすっかりふけ渡っていた。
と、疲れ――もちろん邦之助はつかれていた。が、疲労以外のからだのぐあいが邦之助を襲い、その四股をしばっているように感じられた。門から玄関へかかるのが邦之助にはいっしょうけんめいだった。式台へ上がろうとして、彼はくつ脱ぎの上へべたりとくずれてしまった。それでも夢中でうめくように何かいいつづけた。
「花――ことによると、死に花かもしれぬ! か、からだをあらためてみい。は、早く、早く!」
とせき立てながら、自分は泥沼へでも沈むように刻々気を失ってゆくらしかった。
迎えに出た妻と供の男が驚いて、邦之助のからだをしらべてみた。
と、長さ五分に足らぬ小さな草が、邦之助の首筋に吸い附いて、皮の下に、青い細い根を網のように張っているのを発見した。白い茎の中に一すじ赤く血を吸い上げているのが見える。その血を受けて、毒々しい真紅な花が今や咲きかけているのだ!
これぞ話に聞いた死に花である。
大変! 一刻も早く!
というので、供の男はそのまま近所の町医へ走り、ほかのひとりがいろは屋を呼びに日本橋浮世小路をさして駈け出した。
たびたび来てもくるたびにむだ
日本橋の浮世小路である。
出もどりの姉おこよが出しているいろは寿司の奥の一間。
暑くなりかけた陽ざしを避けて、文次と安兵衛が話している。文次は[#「文次は」は底本では「文次郎は」]いま、御用帳を読みおわったところらしい。膝に帳面が載っかっている。
「なあ安、そこでだ――」
と文次が安に鋭い一瞥をくれた。
「へえ」
なぜか御免安はおどおどしている。
「お前がお蔦をつけたことを今までおれに隠していたかと思うと、おらあ正直いやな気がするぜ」
「へえ」
といったきり、すぐとごめんやすとやるわけにもゆかず、安兵衛ことごとく恐縮の態だ。
「耳にゃ痛かろうがいうだけあいうつもりだ」文次がつづける。「お前がお蔦を見かけて、あとをつけて、神田の連雀町でまかれたってこたあ俺にあちゃんとわかってる。安、なぜいままで黙ってた?」
「ごめんやす」
「ごめんやすじゃねえ」
「へえ」
「へえじゃねえ。こうっ、安、われあ何だな俺を出し抜いて一人功名を立てようとしたな。どうだ。図星だろう?」
「と、とんでもない! そ、そんな――」
「なら、何だ? 何だよ? その理由ってのをいってみな。え。おう聞こうじゃねえか」
「へえ。実は親分」と安は頭をかいて、「実あその、もうすこしはっきり見当がついてから申し上げようと思っていましたんで……ついその、胸一つに畳んでおく、ってなことに。へへへへ、ごめんやす」
文次の眼がぎょろっと光った。
「嘘をつけ! てめえは何だろう、あのお蔦に惚れてやがって、それで、俺にこっそり女をつらめいて味なまねをしようとたくらんでいたんだろう? いうことを聞けあ眼をつぶって放してやるとか何とかぬかすつもりで」
「じょ、冗談じゃねえ!」
「そうよ冗談じゃねえぜ。それに安、お蔦あ桝目を打った小判で五百両も持ってるから、なあ手前の考えそうなこった」
「まあ、親分、何もそうぽんぽん――」
「ぽんぽんいいたくもなろうじゃねえか――それによ、お蔦がまだ両国で人魚に化けて小屋へ出ていたころから、てめえいやに熱心に通ったじゃあねえか」
「面目ねえ。ごめんやす。へへこのとおり――」
「ま、いいやな。だがなあ、安、てめえの情婦のお蔦も、おれみてえな野暮天にかかっちゃあ災難よなあ。おらあこれから三味線堀へ出向いて、お蔦を挙げてくるつもりだ」
「えっ! すると何ですか。やつあ今三味線堀にいるんですかえ。へえっ! こりゃ驚いた」
「おどろき桃の木山椒の木だろう。しかもお蔦ばかりじゃねえ。お蔦といっしょにいる手枕舎里好とかいう狂歌の先生もしょっ引いてくるんだ」
「狂歌の先生がどうかしましたかえ」
「なあに、そいつあ掏摸よ。おれあゆうべ神田の津賀閑山の店へ寄ってな、ちょうど脅迫に来ていた女侍の話を聞いてしまった。
お蔦は鎧櫃にへえって閑山の店を出て、それから久七のまちげえであの空家へ届けられたんだが、そこから逃げて、今あ下谷の三味線堀の里好てえ野郎の家に隠れているんだ。あの女のお蔦に相違ねえことは、まず人相が合うし、何よりもお前桝目の印を打った小判を持ってやがる」
「するてえと何ですかえ、神田の津賀閑山も同類なんで?」
「いや、そんなこたああるめえ。とはいうが、これあほんの俺の気持ちだからな、閑山も当分にらんでおかざなるめえて」
「なるほど。妻恋坂の饗庭は? 親分」
「饗庭は臭え。が、大物だからな。よほどつかんでかからねえことにあ思わぬどじを踏むぜ。まあ、遠巻きだ。それが上策よ」
いい終わって、文次は腕を組んだ。
眼を伏せて、膝の上の御用帳をみつめている。
この御用帳というのは、いわばいろは屋の自家用覚え書きで、お役人からおおせつかった探索の用事、市井で起こった事件、それらに関する聞き込みなどを、忘却を防ぐために雑然と書きとめておく帳面であった。大福帳みたいに筆太に御用帳と書いた、半紙を横折りにとじた帳面がいつも居間の壁にかかっていた。それが、いろは屋名代の御用帳であった。
文次は今この御用帳のあるところを開いて、しきりに眼を走らせている。
――こんなことが書いてある。
先般来、江戸に男女二人づれの押し込みが横行して、昨夜は本郷、今夜は芝といったふうに、ほとんど毎晩八百八町を荒しまわったが、先夜この男女の強盗が万願寺屋という品川の造り酒屋へはいって、大奥のお賄方から酒の代に下しおかれた五百両の小判を奪い去ってからというものは、いっそう詮議がきびしくなった。
というのは、あまり眼にあまるというので江戸中の岡っ引きが真剣になりだしたわけであるが、実をいえば、眼じるしのある小判を持って行ったというところに御用聞きは非常な望みをかけたのである。遠からず一枚ぐらいは市へ出てくるだろう――というので、それぞれ町方へ手配をして桝目の小判の現われるのを待っていたが、いくら待っても一枚も出てこない。
これは出ないわけだ、お蔦が大事をとって使わないで、肌身離さず胴へ巻いて持ちまわってるのだから。
で、いろは屋文次をはじめ岡っ引き一同が手のつけどころがなくて困っていると、いわゆる天の助けというやつで、津賀閑山が例の鎧櫃取りもどしの一件を頼みこんで来たところから、はしなくもお蔦の居所だけは文次はつきとめることができたが――。
お蔦の相棒だった男は何者であろう?
押し込みのさいには、いつも必ずお蔦が先にはいり込んで、なかから締まりをはずして男を入れて仕事にかかったということだ。
ひょっとすると、あの掏摸の里好という男ではないかしら。
こう思って、文次は顔を上げた。
「安」
「へえ」
「お蔦が両国に出ていたころ、男があったといったっけなあ」
「へえ。何とかいう水戸っぽで」
「水戸っぽ?」
「遊佐銀二郎とかって――男の子がひとりありやした。が、それも夫婦別れをしたそうで」
「てめえ惚れた女のことだけあっていやにくわしいぜ。しかし、武士がついていたんじゃあ、手前なんかに鼻汁もひっかけやしめえ。お気の毒さまみたようだなあ」
「御挨拶。が、まあ、そんなとこで、へへへ」
「笑いごっちゃあねえぞ。その遊佐ってのが実は手枕舎里好でせいぜいいっしょにかせいでいたという寸法かもしれねえ。とするとこれあ思ったより大捕物だて。安、鼻の下を詰めてついて来い」
「いえ、もう髱にあこりごりで」
「えらく色男めかしたことをいうぜ。勝手に振られてる分にあ世話あねえや。ははははは」
「どうも親分はお口が悪い――それにしても侍的がいるんならあぶのうがすな。だいぶやっとうができますかい」
「先様がやっとうならこちとらあ納豆だ。一つねばってやれ。久しぶりにあばれるんだ。出かけようぜ安」
というわけで、それから文次は、すぐに御免安兵衛を連れて下谷三味線堀のめっかち長屋、手枕舎里好の家へ出かけて行った。
来てみると、昼なのに雨戸がしまって、陽がかんかん照りつけている。
おや! 変だぞ。
「里好さん、お留守ですかえ、もし、里好さん! いねえのかえ」
どん、どんどんどん――戸をたたいた。返事がない。
「かまうこたあねえ。あけてみな」
「あい」
安が手をかけると、意外にも、戸はさらりとあいた。日光といっしょにはいり込んで、文次は土間に立った。
そして、そこの正面の障子に、墨くろぐろと書かれた手枕舎里好宗匠つくるところの狂歌一首を読んだのである。
このたびは急な旅とて足袋はだし
たびたび来てもくるたびにむだ
たびたび来てもくるたびにむだ
南国の妖花嗜人草
あれだけの人数がどうしてああ音もなく消えうせたのか。方来居の手入れに、蟻のはい出るすきまもないほど取り囲んでおいて、万遺漏なしと不意に侵入して家内を捜索すると、おどろいたことには家人のほかに客一人いずに、家の中はがらんどうで、家族は今の今まで眠っていたらしかった。
しかし、今晩この庵で水藩高橋一派の秘密会合があって首領高橋多一郎以下十五、六人の人間が集まることになっているのは、かれらの仲間の一人となって隠密の役をつとめている遊佐銀二郎の口から知れているし、のみならず、夕刻から方来居の近くに伏せておいた腹心の者どもからも、種々雑多な風体の輩が闇黒にまぎれて続々と草庵の裏木戸に吸い込まれたというしらせもあって踏み込んだことだから、よもや間違いとは思われない。
広くもない家のことだ。他に隠れ場があろうとも見えないが、念のためと畳を上げ、壁をたたき、竈の奥から雪隠の中までほとんど夜っぴてのぞきまわったが、猫の仔一匹出て来はしない。屋根から、床下も見落としはしなかった。
これは税所邦之助が不思議に耐えなかったところだが、そうした家探しの結果も無効に終わって、邦之助はその十五、六人集まっていた水戸藩の人々を一人も発見することができなかった。
では、かれら志士はいったいどこに隠れたのか。
答えは簡単である。
家の中? もちろん家の中だ。
「屋根うら――も見落としはしなかった」
と邦之助は考えているし、じっさい捕手の四、五人が台所の梁の上から天井裏へはいりこんで、隅から隅まで見届けて異常なしと復命したくらいだから、まったく「見落とし」たわけではなかったが――いや、やっぱり見落としたのだ。
というのが、天井裏は天井裏でも、その天井うらが二枚になっている。これが方来居のからくりであった。
老主玄鶯院が無言で捕吏をにらみつけながら新太郎を寝かしていた奥座敷に、上へついた違い棚がある。これが通路だ。
黒くなった銀紙の戸棚をあけると、手もとの右側の柱のかげに、一本の紐が下がっている。これを引くのだ。
これを引けば、ぐっと手ごたえがあって、戸棚の天井が一枚の板となって釣り橋のように口をあけるであろう。ひとりずつ静かに上がりこめばわけはない。
上がり込んだ上は、下から見た天井と、上から見た天井とのあいだに、つまり二重に張った天井の中間がようように腹ばいにはえるくらいの空隙になっていて、それが家じゅうの天井をおおいつくしていた。
この低い二重天井へはい上がって、一同鳴りをしずめていたのだから、税所邦之助の一行が捜し当て得なかったのもむりではない。やっと腹ばいになってはいれるくらいの高さだから、二重天井になっていても、気のつくほどではないのだ。これでまんまと捕方を煙にまいたわけである。
さて、この箱のような二重天井の一隅に砂を敷き、藁で囲って、いつのころからか不思議な植物が栽培されていた。玄鶯院が呼んで「嗜人草」といっているのがそれである。
千代田城の伺候を辞してから、蘭医玄鶯院はしばらく曽遊の地長崎に再び自適の日を送ったことがある。そのとき、ある和蘭船のかぴたんから隅然手に入れたのがこの妖異きわまる嗜人草の苗であった。
嗜人草は、南方の砂原須原の内地に産する怖草の一種で、むかしはこれのために旅人が悩まされ、隊商のむれがたおれたものであるが、いまはだんだん少なくなって、それほどの害も及ぼさないが、それでも、南の国では名を聞いただけでも人を戦慄させる植物であるとのことだった。
ことにその苗は強く、何か月何年紙に包んでおいても死ぬということはない。そして、砂におろしたのちも、根が砂についてあるところまで成長するまでは無害だが、いったん成長しきって、といったところで元来小さな草だから五分くらいにしかならないのだが、蕾を持ってくると[#「持ってくると」は底本では「持ってくるし」]、急に猛毒を含むようになる。
それだけでは他の毒草のごとく、口中に入れたり触れたりしない限りまず心配はないわけだが、この嗜人草はその名のとおりに、毒を持つようになると人体に根をおろすことが大好きで、須原の砂漠などでは、毒の蕾を持ったこの嗜人草が砂を離れ、群をなして風に乗って人血の香をさがして吹いてくるので、この毒草の風幕に包まれて、数百人から成る一隊商が全滅してしまうことも珍しくなかったというかぴたんの話だった。
つまり、五分くらいの長さに伸びて蕾を持つようになれば、ちょっとした風にでも根が砂を離れて、ひとりで人体を求めて空中を吹かれて歩くのである。それほどだから、茎をつまんで人のからだに近づけてやれば、必ずしも、根を押しつけなくても、自分から吸い着いてゆく。そうして一度人の皮膚に根をおろすが早いか、すぐに血を吸い上げて花が咲き出す。
同時に、その根から猛毒を人体へ吐き出して、それを受けた人は、ただちに高熱を発し、夢をみるように、死んでしまうとのことで、玄鶯院はこの嗜人草の苗を数十本もらい受け、そのとき栽培法をもくわしくきいておいたのだった。
まもなくのちに幕府の役人を殺しまわり、御用の者を当惑させた嗜人草はこうして玄鶯院の手を経て、本朝へ持ち込まれたのである。白い細い茎に、蒼白い葉の二、三枚と網のような青い根、それに、毒を帯びてくると紅い小さな蕾を持つ、ちょっと見たところ蓴菜のような植物であった。
が、玄鶯院にしたところで、何もはじめから幕吏暗殺の目的をもってこの嗜人草を請い受けたわけではない。やむにやまれぬ研究慾を満たすため、いわば材料として分けてもらったのであった。
だから江戸へ持ち帰ったのちも、危険だというのでそこらへ試植することをせず、わざわざ人眼をさけるために下男のへらへら平兵衛と二人きりで天井を二重にしてそこへ砂を運んで苗をおろし、ひそかに研究の資に供していただけなのである。
ところが、動こうとする世の中を、古い力で押し止めようとする幕府の仕打ちが玄鶯院の気に入らなかった。長らく自分たちを圧迫して来た徳川家である。ことに、掃部頭直弼が大老職についてからというものは、暴圧に暴圧を重ね、諸国の志士を眼の敵にして、ろくに罪の有無もしらべずに酷に失した罰を加えるので、玄鶯院の身内に油然と復讐の血が沸き起こった。そこへ現われたのが篁守人である。
守人の父水戸の篁大学とは同学のあいだだったので、大学が何者かの手にかかり非業の最期を遂げ、その子の守人が父の仇敵をねらって江戸へ出て来たときから、玄鶯院はわが子のように守人の世話をして来たのだが、こういう関係から玄鶯院もいつしか水藩の志士と往来するようになり、大老要撃の密計にも、一味にとって最大の智恵ぶくろとして参与することとなった。
一方、江戸じゅうに、からだに花が咲いて死ぬ不思議な暗殺が行なわれ出したのもこのころからのことである。いうまでもなく、守人が玄鶯院の嗜人草を持ち歩いて、これと思う者へ附着せしめていたのだ。これがいわゆる死に花の恐怖である。
で、守人が夜歩きをするのはそのためだった。そして、深夜または夜ふけに帰ってきて、守人が玄鶯院に指を出して見せるのは、花をつけて来た人数を示すものだった。
ところへ、不意にあの税所邦之助の来襲である、うまく一同を二重天井へ隠して事なきを得たものの、どうしてもれたのか守人は不思議でならなかった。
誰か内通でも――?
そう言えば思い当たるのが遊佐銀二郎である。
あれからこっち、銀二郎は姿を見せないのだ。
守人がまだ故郷の水戸で里見無念斎の道場に通っていたころ、師範代をつとめていたのが遊佐銀二郎、それから江戸の両国で銀二郎は人魚の女のお蔦と同棲していたが、そこで守人はお蔦を見て、二人は、恋し恋される仲となったのだったが――。
あのお蔦はどうしたろう?
いや、思ってはならぬ。
が、銀二郎の行動こそは奇怪である。
しばらく行方をくらましていたと思ったら、はじめて先夜の会合に顔を出して、それ以来またばったりと消息を絶った。
銀二郎を探し出してきくべきことをきき、そのうえで、次第によっては帰雁に物をいわせてやろう――と、守人は、夜ごとに方来居を立ちいでていたのだが、まもなく数寄屋橋ぎわの闇黒で会ったのが、先夜の同心税所邦之助だったから、守人はさっそく携えている革袋から嗜人草を一本取り出して――。
その晩、方来居に帰って来て、守人は人さし指を一本出して見せた。
「誰じゃったな?」玄鶯院がきいた。
「税所でござる。あの同心の」
「ほほう、でかしたのう」こういって玄鶯院はにっこりしていた。
こちらはいろは屋文次と御免安兵衛。
今度こそはと眼ざして行った鳥が立ったあとで、三味線堀の家が留守なので、また手がかりを失った形で、
「親分、どうしたもんでしょうね」
「そうよな。ま、当分日和見だ」
いいながら、夜ふけて浮世小路のいろは寿司へ帰ってみると、いま屋根屋新道からお使いがあって、旦那があぶないとのこと。
きいてみると、死に花らしいというから、文次と安、息せき切って八丁堀へかけつけた。来てみるともう医者が来ていて、すぐに草を抜いて、あとの毒血を吸い出し、全身にまわるのを食い止めたのでどうやら助かるらしいとの見込みだ。
ここで文次ははじめて死に花の現物を手にとって見たわけだが、なるほど、小さいくせにまことにいやなにおいがして息が詰まるようだ。
邦之助が正気づくのを待っていろいろきいてみたが、数寄屋橋詰めで水戸の篁守人にあってすれ違ったからおおかたそのときに附けられたのだろうというが、篁守人という名だけは危険人物として聞いたことがあるが、文次は顔を知らない。方来居の居候だといったところで、証拠のない今となってはやたらに踏み込んで行くわけにもゆかない。
とにかく、文次も安も二、三日税所方に寝泊まりしてその後のようすを見ることにした。
すると、あくる朝からへんなやつが家の前をうろつき出した。へらへら平兵衛である。果たして守人の嗜人草によって邦之助が死んだかどうか、それを見届けに来たものだろうが、どうも生きているらしいから、平兵衛帰宅してその旨を告げた。
さては仕損じたかと守人はがっかりした。同時に、今夜こそはどうしてもしとめてやろうと夜がふけるのを待って、守人は再び単身税所の役宅へやってきた。そうして、庭へはいりこみ、邦之助の寝ている部屋の雨戸のすきまからそっと嗜人草を放しておき急ぎ帰途についたが、かねてこういうこともあろうかと邸内を警戒していた文次と安の眼にふれた。
「あ! あれは野田屋に逃げこんだ侍だ!」
「それ! あとをつけろ!」文次と安、影をえらんで守人のあとをつける。と、守人は途中から道を変えた。
見ると、守人の前を一人の侍が歩いてゆく。
遊佐銀二郎だ! 守人は途中で銀二郎を見かけて、先方が気がつかないのを幸い、急にそのあとをつけ出したのである。が、自分が二人の岡っ引きに尾行されているとは知らない。
三つの尾行の雁行がはじまった。
守人は銀二郎のあとを、文次と安は守人のあとをつけて、四人の黒い影が淡い月光を踏んで行く。
銀二郎は酔っていた。一高一低、調子の定まらぬ足を湯島のほうへ運んでいる。どうやら妻恋坂の饗庭の邸、あるいは影屋敷をさして行くものらしい。と、連雀町の裏通り津賀閑山の古道具屋の前へかかると、中に灯がともって大戸があいている。
安に守人をまかせて、先へやっておいて、通りすがりに何げなく店先をのぞいたいろは屋文次、思わずあっと叫んだ。
うばたま組
こころ二つにからだは一つ
津賀閑山の古道具店、おもての大戸の一枚が一尺ほど引きあけられて、赤っぽいもれ燈がぼんやり往来を照らしているんだが、通りがかりに何げなくのぞいた文次は、そのままぴったりそこへとまってしまった。
闇黒をすかしてゆく手に道を見ると、守人であろう、黒い影がすべるように進んでゆく。守人は遊佐銀二郎をつけているのだから、こっちのほうも逃がしてはならぬ。といって、閑山の家の中も――ただならぬようす。
こころ二つにからだは一つとは全くここのことだ。文次はぐいと御免安兵衛の腕を握って、見失わないように守人の跡へ瞳を凝らしながら、
「安!」と耳打ち、「お前はどこまでもあのあとをつけて行け、饗庭の邸へ行くらしいが、何が起こっても俺が行くまで手を出すな」
「あい、承知しやした。して、親分は?」
「俺あちょっとこの閑山とこへ寄って行く」
「閑山とこへ? 戸があいてますね」
「うむ、押し込みらしいんだ」
「え! 押し込み」
「まあ、いいってことよ。こっちは俺にまかしとけ、早く行かねえと見えなくなる」
「うん。そうだった。じゃあ親分――」
「気をつけてな」
安の姿は、返辞とともにもう闇黒に呑まれていた。守人は銀二郎を、御免安は守人を、二組の尾行がもつれもつれて、こうして神田を出はずれて行った。
あとに残った文次、そっと戸口にたたずんで家内の気配をうかがうと――、
さながら仏事でも行なっているように、灯がかんかんついて、人声がする。
この夜ふけだ!
しかも怪しいのはそれのみではない。呼吸を凝らしている文次の耳へ、陰深たる寂寞[#ルビの「せきばく」は底本では「せばく」]を破って、かすかに聞こえてくるのは、かの猫侍は内藤伊織のじゃらじゃら声ではないか。
「よし来た、一つ見届けてやれ」
きっと胸に決した文次は、手早く履物を脱いで、くるくると手ぬぐいで巻いて懐中すると同時に、跫音を盗んではいりこんだ。うす気味悪くしんとしている。
店頭に行燈が一つ。
昼間でさえ、あまり気持ちのよくない古道具屋の店だ。湯灌場者は死人の手汚で黒ずんでいるし、ほかの古物も、長らく人間の喜怒哀楽を見て来ているようで、そこらの品の一つ一つが一廉の因縁を蔵しているらしく思われる。そとの風がさっと流れこんで行燈の灯をあおり立てたとき、壁の自分の影が大きくゆらいだのを見て、文次は何がなしにどきり――胸を突かれる思いがした。
店のむこうが茶の間、話し声はそこからもれるのだ。なんとなく、あたりをかきまわす物音もするようである。
文次は店を見まわした。灯の届かない隅々に闇黒がわだかまっているばかり、ここには異変は認められない。
――呼んでみようか?
と文次が声を出そうとしたとたん、
「ばかを申せ。あるやつが取られるのはあたりまえだ。それに、拙者らといえども私慾のための盗みではないぞ、国事だ。公用の資金だ。わかったか。わかったらこぼすな、こぼすな。おとなしくしておれば生命まで所望だとはいわぬ」
しゃがれた低声、ゆうゆうと風呂敷包みでもしばりながらの御托らしい。
やはり! そうだ!
強盗だ!
不意打ちに飛び込んでやろう。機先を制するのがこのさい一番の上策。
「畜生、ふざけたまねをしやがって!」
つぶやきながら、文次が上がり框に足をかけた刹那、
「えいっ!」
肝腑に徹する霜のような気合い、殺刀風を起こして土間の一隅から?
白刃――体当たりでとび出した者がある。
むろん賊の一人が見張りしていたのだろう。
腕が延び過ぎて、刀は文次の背後へ走り、二つのからだがもろにぶつかった。
「てえっ!」
と文次、きき腕取ってひた押しに押しかかる。敵には長刀がある。離れればばっさりだ。
「何だ? 手前は」
返事はない、無言。無言で、取られた腕を引きもどしたから、文次はつられて前へよろめく。ところを賊のやつ、一間ほどうしろとびにすっとんで、三尺の閃光、瞬間正眼に直したと見るや、
「往生しろ!」
と一声、ぎらりかざした氷剣を拝み撃ちに来た。何のことはない。薪割りの秘伝だ。できる――といえば、できる。が、冴えないといえば野暮なさばきだ。
文次は真っ二つ! と思いきや、どっこい! 賊の刀は上がり口の板をかんで、余勢がざあっ! と畳を切り開いたばかり。
文次のからだはもう奥との通路の暖簾口にあった。と、そこに、覆面の黒装束が立っている。ふところ手だ。
ぴたっ! 顔と顔、文次と侍、しばしにらみ合いの体だ。文次のうしろには、一刀を取り構えた見張りの賊が、退路を断って凝然動かない。蒼白い文次の顔、そいつがにっこりした。
「津賀閑山に用があって参りました者。そこをお通しください」
「閑山はおらぬ、用とは何だ」
「閑山はおらぬ? そんなわけはありませぬ。要談の約がありますゆえ、待っておりますはずで――」
「黙れ! おらんからおらんと申す。それともはいって、自身が見届けねば得心せぬというのか」
「閑山に会って話があります」
「閑山に会っても話はできんぞ」
「どうしてですね?」
「そのわけか。うん、見せてやる。こうだ!」
つと侍が身をどかすと、狭い一間の行燈のそばに、閑山と飯たき久七、二人ともぎりぎりにしばり上げられて、おまけに猿轡をかまされてころがっている。河岸へ鮪が着いたようで、あんまりほめた景色じゃない。
文次は笑い出した。
「おやんなさったね、お侍さん」
「わかったか」と覆面の侍げらげらと咽喉を鳴らした。文次には記憶のある、小癪にさわる音声だ。
「どうだわかったか」
「わかりました」
いいながら、文次、ちらと店の賊へ眼をやって、
「わかりましたよ、内藤さん、ずいぶんあばれますねえ」
「な、何だと? 内藤? 内藤とは何だ?」
「内藤とは内藤、内藤伊織だ。はっはっは、妻恋坂殿様の御用人、あんまり性のよくねえ赤鰯さ。はっはっはは」
「ぷうっ! おのれ! 汝はここの手代だな」
「汝は、と来たね。だがね内藤の旦那、あっしあ手先だよ」
「なに、手先?」
「さよう、十手をいただいてるんだ。へっへっへ、いやな商売、どうせ畳の上じゃあ死にませんね」
この文次のことばが、終わるかおわらないかに、たあっ――! と飛びすさった猫侍内藤伊織、にやりと笑って、店にいる抜刀へ声をかけた。
「丹三よ、かかれ! 斬れ、斬れ! 斬っちめえ!」
月は暗い。雲があるのだ。
用というのは首がほしい
その薄い光で見ると、ほろ酔いきげんの遊佐銀二郎、謡曲か何か低声にうなりながら、妻恋坂から立売坂へさしかかってゆく。あとから守人が、これはかげを選んでつけているのだ。御免安兵衛は、この二つの人影へ、焼けつくような視線をすえて、陶山流でいう忍びの歩行稲妻踏み、すなわち、路の端から端へと横走りながら、しばしとまってまた斜めに切り進んで行く。
安兵衛、尻をからげて、両手を膝に、やみを通して見極めをつけておいては、つつつと小走り、まるで鼬だ。これではよもやみつかるまい。
「げっ! 影屋敷だぜこれあ。影屋敷へ御帰館と来やがらあ。それあいいが、あの二番目の侍だ。あいつがこう乙な声を出して、率爾ながらしばしお待ちを願う、お呼びとめありしはそれがしか――なんてことになると面白えんだがなあ。仇敵討ちだぜ、きっと」
口のなかでぶつぶついっては、お手のものの稲妻踏みだ。のんきな野郎。
月光が水のようだ。雲は切れたらしい。
立売坂の中腹、ちょうど饗庭の影屋敷のすこし手前に当たって、左手に草原を控えたちょっとした平地がある。遊佐銀二郎がその地点へ踏み入れたときだった。かれはうしろに当たって、低い太い声をはっきりと聞いた。
「遊佐氏、遊佐氏ではないか」
自分の名前というものは争われない。聞かぬふりをしようとしても、足のほうが正直だ。自然にその場へとまってしまった。勢い、振り向かざるを得ない。
「誰だ?」
「拙者だ、守人でござる」
「守人? ふうむ、あの篁か」
「さよう」と黒い影が近づいてくる。「いかにもその篁守人。お久しぶりでござる」
「や! これは篁、珍しいところで――どうじゃなその後は! 達者で重畳だな」
「――」
「おい、おぬし篁か。篁じゃな」
「遊佐、捜したぞ」
「何? わしをさがしたと? 要でもあるのか」
「おう、ある。大いにあるのだ」
「何だ、いえ」
「いうことではない。おぬしごとき犬に、もう何を申し聞けることはないのだ」
遊佐銀二郎、一歩下がって羽織の紐に手をかけた。足のひらきがもう居合腰にはまっている。
「では、用というのは、何だ?」
「首だ!」
「首? この、遊佐銀二郎の首か」
「いかにも!」
「わっはっはっはは」笑い出した銀二郎である。「でかしたぞ。首とはよかった。うむ、持って行け、といいたいが、こんな古い薄ぎたない首でも、おれにはまだすこうし要があるでな」
「未練なことを申すな。そっちに、拙者のみといわず、同藩の者には首をねらわれる覚えがあろう?」
「これこれ、篁、そ、そんな堅苦しいことをいうものではない。おぬしはまだ若い。若いから一本調子だ。だがな篁、世の中はそうむきになってもいかんものだぞ。
なるほど、書を読み眼を開いて大勢を観ずる者、誰しも一意向、一家言を有するのは当然だ。それによって討幕もよい。勤王も面白かろう。佐幕もまた妙じゃ。が、しかしなあ、世のことおおむね理屈ではない。まわりまわって帰するところ、要するにこの身一個のやりくりだ。な、篁、そうではないか」
「えいっ! この期に及んで何を――」
「まあ、聞け。斬るのはいつでも斬れる。それよりも心の持ちようだ。思い詰めれば何事も途のふさがるものだが、一転機に立って勘考方を変えてみれば、なんだつまらねえ、何もやきもきすることはない。他人は他人、自分は自分だ――さ、こうなると、身辺洋々として春の海のごとし。なあ、要するに融通一つだよ。当節の世の中だな。武士といえども御他聞にもれずさ。利口になれ、利口に」
「ちっ! 変心に理を構える見苦しさ。遊佐!」守人の声は友情に泣いていた。「遊佐! お、おぬし、魔がさしたか。剣をとっては里見先生の道場に、そ、その人ありと知られたおぬしではないか――」
「いうな。昔のことだ」
「また、相良先生の教えをも朝夕親しく受けた身ではないか。一時の夢か。ゆ、夢ならさめてくれ。これ、遊佐、守人が拝むぞ」
「はっはっは、玄鶯院は国賊じゃよ。西方の魔術に魅入られたあれは逆徒じゃ」
「なな、何だと?」
「篁、おれは酔うとる。何事も酒がいわせることと思ってくれ。もとの同志の方々へ、よろしくと、これだけは頼む。どりゃ、失敬しようか。夜風は寒いな――篁さらばじゃ」
「ま、待てっ! 待たぬか」
「黄口の乳児、談るに足らぬよ」
「その乳児の一刀、受け得るものなら受けてみよ!」
叫んだ守人、その前にすでに、帰雁は銀二郎を望んでおどり出ていた。
さあ、驚いたのは、すこし離れた道ばたにしゃがんでいた御免安兵衛だ。いよいよ始まったと思うから、とばっちりを食ってはつまらない。ごそごそはっていっそう黒やみの奥へ引っこんだ。ここなら大丈夫と膝を抱いて見物にかかる。見ていちゃ、こんな面白いものもまたとあるまい。
「さ! どっちもしっかり! ぬかるな、ぬかるな、竹刀じゃねえんだ、べらぼうめ、さわれあ赤え血が出るんだぞ」
安の字、頭の中でがんがんどなっている。審判役のつもり――いい気なものだ。
帰雁が銀二郎の右肩をかすめたと見えたとき、銀二郎のからだから黒いものがまき上がって、ひらひらと帰雁の刀身へまきついた。
「ちえっ!」と思わず守人の舌打ち。
銀二郎が羽織を脱いで、うしろざまに投げたのである。
さすがは一流に達した名人。
敵の多いわが身と知ってか、下にはちゃんと襷十字にあやなしている。
両手をだらりと下げて、平々然たるものだ。
守人はもう胆がすわった。
ししずに羽織を落としている。
「どうしても、やる気か」
いったのは銀二郎だ。声に揶揄を含んでいる。
「むろんだ。抜け!」
守人は、刀にからんだ羽織を取って、ふわりと遠くへ捨てた。そこらに落ちて、再び足にからんではたまらない。
「うむ。そんなにこの首がほしいか」こういいながら、銀二郎は足もとの石ころを二つ三つ、注意深くけちらした。場のしたくである。
「なあ、篁」
「何だ?」
「おぬしとの手合わせ、久しぶりだなあ。故郷表では、始終わしが稽古をつけていた。あれから、すこしは上達したか。こんなものは場数じゃよ。木剣のつもりでかかってこい!」
「よけいなことを――行くぞ!」
「お手柔かに、だ。はははははは。来いよ、さあ! 来いっ!」
柄にかけた右手が、ぴく――と動いたと見るや、鞘走りの音もなめらかに、銀二郎は平正眼、やんわりと頤を引いて、上眼使いにぴたりときまった。守人は下目につけている。
「お!」
「や!」
双方、ひたひたと寄る。
ちりんと鋩子先が触れ合う。
と、互いに、はね返るように離れて、
「つうっ!」
「たっ!」
「は!」
「ようっ」
無言。呼吸を合わせているのだ。
里見無念斉の双虎、いわば同じ巣を立った二羽の鳥だ。銀二郎は柔、守人は剛と手口こそ違うが、癖まで知り合っている仲だから、どっちも迂濶には打ち込めない。
「や! こいつあ見物だ」
安兵衛はひとりで悦に入っている。
とこうするうち、面倒! と見たか、まず守人がいらだちはじめた。
た、た、たっと! 踏み切った拍子に十分に体のすわった突きの一手! 守人じしんが、一本の棒と化してとんで行った。
ちゃりいん!
払った銀二郎、右横に避けながら、滝落としの片手打ち、ただもう一筋の白いひらめきだ。袈裂がけ――と見えたが、斬ったのは守人の袂。時ならぬ黒蝶が宙をかすめた。
守人は、いつのまにか片肌ぬいで大上段。
「――とうっ!」
「や! 来い、こい、こいっ!」
銀二郎の秋水、いざなうもののごとく揺れ動く。
ち、ち、ちいと虫の声だ。
すうっ――銀二郎が爪立った。
とたんに、
「はあっ!」
と大声! ぱらぱらぱらっ! 深く守人の手もとに踏み込んだ。上下左右に幾十本の白線が旋弧する。飛躍する、回転する。虚! 実! 秘! 奥!
守人はどうした
やってる!
払う、押える、流す、縦横無尽にかわしている! と空を裂いた白光!
たちまち上がって、たちまちおりた。
「うぬ!」
二つの影、ぱっと左右に別れる。
「あ! 痛うっ――」
ともう、一人はどこか斬られたらしい。
生き血の香は鉄錆のにおいに似ている。そいつがぷうん! と鼻をかすめるのだ。
「深傷か?」
きいたのは、守人の声だった。
「な、なんのこれしき! ははは」
さびしい笑いである。
「休もう。手当てをするがいい」
「いらぬ。ほんのかすり傷だ。肘だ」
「だが、血がひどいらしいではないか。おぬしを殺してしもうては何にもならぬ。所望なのは生きてるところをはねた首だ。待つ。血をとめてから、また往こう」
「そうか――かたじけない」
はっ、はっとあえぎながら、銀二郎は刀を引いた。で、守人も、帰雁を片手に、気を許して上体を差し延べた。
ところへ! うなりを生じた突風。
「卑怯なっ!」
と叫んだ守人、冷たい物を肩口に感じて、思わず左手で押えながら、帰雁をかざしてあとへさがった。
狡猾な遊佐銀二郎、相手の油断を突いておいて、今だ! と思うから早撃ちだ。畳みかけて打ちこんで来る。
あぶない!
守人があぶない!
と見るや、はばかりながら御免安も江戸っ児だ。どっちに味方するんでもないが、きたねえまねが大きらい。
「いやなことをしやがる!」
気がつくとたっていた。そして、再び気がつくと、そこに落ちてた丸太ん棒を引っつかんで、殺陣のまっただなかへとび出していた。
こいつ、とかく酔興だから損をする。
「さあ!」と安公、がなり上げたものだ。「卑怯なまねをさらしやがって! てえっ! こうなれあ俺が相手だ! こん畜生っ! 野ら犬め! ごまかし野郎め! てえっ! 日向水の鮒ああっぷあっぷのちょろちょろだい! 何が何でえ! 化け物侍! てへっ! どっちからでも斬って来やがれ!」
いうことははっきりしないが、銀二郎はまずその早口に度胆を抜かれ、つぎに感心してしまった。
「邪魔ひろぐな。何だ貴様は?」
「何を! こうっ、高田の馬場の安さんだ!」
「どこの安さんと申す?」
「高田の馬場よ」
「それがどうした?」
「どうもしねえ。高田の馬場だから高田の馬場だてんだ」
「狂人だな――何だ、へんな物を持っておるな。植え木か」
「棒だ。泥棒につんぼにしわんぼう、しわんぼうには柿の種とくらい。どうでえ! 驚いたろう?」
「たわけめ! そこのけ」
「どかねえよ。邪魔ならすっぱり斬ってくんねえ。あいにくまだ一度も死んだこたあねえんだ、てへっ! 切るなら斬りあがれ! 駄侍め!」
「どうもあきれた奴だな。これ、町人、わしはな、十年この方親の仇敵を求めて諸国を遍歴致し、今月今日というなき父の命日に、うれしやここでその仇敵にめぐり会ったのだ。あそこに倒れておるのがその仇敵だ。江戸の町人は侠気に富むと聞く。な、討たせてくれ。公儀へは追って届ける。さすればお前も、義に勇んだかどによってそこばくの下し物に預かるぞ。そこらは必ず俺が計ろう」
「何をいやんで! 親の仇敵たあ時代においでなすったね。うふっ、へそ茶もんだ。おいらああすこで始めから見聞きしていたんだぜ。ざまあ見やがれ!」
「そうか――では、余儀ない。斬る」
「面白え! やってくれ。てへっ! 一つ注文があらあ。片身におろして、骨つきのところを中落ちにするんだ。どうでえ、田舎侍の板場じゃあこう意気にあゆくめえ。ざまあねえや」
安兵衛、丸太を斜に構えて食いしんぼうなたんかを切っている。ほんとに斬りそうだったら逃げれあいい。足が早いし、この闇黒の夜、ふっと消えうせるぐらい、安にとってはお茶の子さいさいだ。だからいやに鼻っぱしが強い。
銀二郎が見ると、守人は路傍にうつぶせに、じっと動かない。
この上は早くとどめを――とは思うが、御免安という変な奴が、眼の前にのっそりといばっている。
いささか持てあまし気味で、銀二郎は不思議そうに安をみつめた。が、果てしがない! と考えたか黙ったまま振りかぶった一刀を、安をめがけて打ちおろそうとした間一髪、にわかに、乱れた足音が坂を登ってきた。
と知るや、急にあわて出した銀二郎は、守人も安もそのままにして、刀を下げたなりで、するするとそこの影屋敷の門内へ吸いこまれて行った。
守人にかけ寄った安兵衛、傷は重そうだが、まだ息があるようだとみると、ひとり何事か決意したらしく、ぐったりしている守人のからだをかついで、影屋敷とは反対の側の草原へはいりこんだ。
隠れて介抱する気と見える。
このとき、坂下から急ぎ足に近づいてくる二つの人影があった。安がこっちから見ているとも知らずにその二人も影屋敷の門に消えた。
「ははあ! 三人ともこの屋敷へはいったな。裏はすぐ饗庭の庭につづいている。こいつあ臭えぞ」
一時、守人を忘れて、安が向こう側をにらんでいると、また一人、いつのまにか闇黒から現われて、その門前に立っている男がある。
暗いは暗い。が、何ということなしに、安の眼には親しい姿だった。で、音を忍んで声をかけてみた。
「親分――じゃあござんせんかえ」
「おう、安か。そんなところに何してる?」
「怪我人です。あの死に花の若衆で――」
文次は草を分けて近づいて来た。
「え? 死んだのか」
「いえ。どうやら見込みがありそうで」
「そうか。それあよかった。よく見てやれ。大事な身柄だからな――そりゃあそうと安、いま二人あの門へへえりやしなかったか」
「へえりましたよ。坂下から来た二人がね」
「うん。そうだろう。それが内藤伊織と帝釈丹三だ」
こういって文次は、草の上に腰をおろして、手短かに話し出した。
連雀町の津賀閑山方へ二人が押し込みにはいっているところへ文次が飛びこんで行った。そしてとうとうしまいに二人を相手に大立ちまわりとなったのだったが、文次は手当たりしだいにそこらの物を投げつけながら、火事だ、火事だ! と呼ばわった。すると、これにはさすがの二人も僻易して逃げ出したので、文次も続いて飛び出し、ここまで見え隠れに跡をつけてきたのだという。文次は笑った。
「おかげで閑山の店はめちゃめちゃだし、神田界隈は火事と聞いて大騒ぎをやってらあ」
「親分」安が眼を光らせた。「この侍を斬ったのは、この人が[#「この人が」は底本では「この人を」]つけてたもう一人の侍だがね。そいつもあの屋敷へ逃げこんだ。それがね親分、肘を斬られてて血がたれてましたぜ」
「ふうむ。血を引いて行ったか」
「あい。明日その跡をたどってみやしょう」
「そうだ、夜が明けたら出直して来て、その血のあとを頼りによく屋敷の周囲をあらためてみよう。今夜はこれで――安、ご苦労だが、その人をかついでってくれ」
文次と安、気絶している守人を肩に、ともかくその夜は帰路についた。
歩きながら、話し合っている。
「その二人づれの今夜の押し込みてえのが――ことによると烏羽玉組じゃあごわすめえか」
「われもそう思うか。実あおいらもそこらが見当だ。安! これあひょっとすると大芝居だぜ」
井底に潜む黒衣のむれ
ここは井戸の底である。
といったばかりではいかにも唐突だが、井戸の下に広がっている茫漠たる大広間だ。
ところどころに青竹が立って、それに裸蝋燭がさしてある。そのぼんやりした光で見ると、おびただしい人間の群れが、あるいは壁にそってすわり、あるいは床に寝そべりあるいは円形を作って立ち話し、あるいは忙しげにそのあいだを歩きまわっている。
三百人もいようか。
まるで海豹の大軍が、乗るべき潮流を待って北海の浜にひなたぼっこをしているようである。何たる奇観! なんたる異象!
しかも、よく見ると、その全部が、その一人ひとりが、世にも奇怪な服装をしているのだ。いや、服装というのは当たらぬ。これは服装ではなくて袋、そうだ、単なる黒い袋といったほうが妥当かもしれない。
こころみに、手近の一人をとって観察するに、頭から足の爪先まで、一枚の黒い布に包まれているのだ。手も脚も黒いだぶだぶの袋だ。
つまり、頭から四肢、胴体といったぐあいに、人間の形にできている黒衣の袋、それへ人間がはいって、手首と足首とで胴体を締めているので、おまけに手には黒の手ぶくろ、足には足袋ようのものをはいていて、頭には袋に作りつけの頭巾をかぶっているから、外部から見えているのは、両の眼がのぞいているだけだ。どこからどこまで黒いぶくぶくの袋が歩きまわっているとしか見えない。
なるほど、こうしていれば、たとい何人集まろうと、どこの誰だか、いや、男だか、女だか少年だか老人だか、お互いにさえいっさいわからぬわけである。異様といおうか怪絶といおうか、ただもう妖しいながめであった。
この同じ服装の人物が無慮三百人もうろついているのだ。
名山の本堂のような、お城の評定の間のような、見渡す限りの広やかな部屋である。四方の壁は丸太で組み上げて、天井は荒板張りの籠編み、水気をいとってところどころに粘土が塗りつめてある。床には筵が何枚も敷き詰めているとみえて、誰が歩いても跫音がしない。
あちこちに夜具の山が見えるのは、この連中が寝るとき用いるものであろう。おぼつかない蝋燭の光が全体をかすかに、悪夢のように照らし出しているのだ。
どこだろう、いったい?
いうまでもない。江戸中の大悪党の寄合い所といって、手枕舎里好がお蔦を連れ込んだ、あの妖異きわまる姿見の井戸である。
去る者は追わず、来る者は拒まず――これが姿見井戸の金科玉条であった。士農工商のいずれを問わず、また、いかなる罪を犯したものであろうとも、あるいは事実は綺麗なからだであろうとも、何でもいい、誰でもいい、はいって来る者にはいっさいの休安と保護とを与えて、出て行くまでとめておくのが、この、浮世とは関係のない地下の娑婆であった。
すでに、井戸へはいってくるだけの秘密を知って来る以上、それだけを一個の保証と見て、文句なしにはいることを許して差しつかえないわけだが、出て行った者の口からもれようも知れぬ。しかし、この点は実に看視が行き届いていて、訴人はもとより、すこしでも井戸のことを口外しようとするものは、いつどこからともなく襲ってくる不慮の死によって、永遠にその口をとざされてしまうのが常だった。
で、来る者は来り、去る者は去って、無言に沈み、暗黒に生きながら、夜も昼もない井底の生活はつづけられてゆく。
誰が誰やらわからない。
人殺し凶状もいよう。博奕喧嘩で江戸構えになっているやつもいるかもしれない。また、このごろの物やかましい世の中だ、幕吏につけねらわれる諸藩の浪士も、入りこんでいないとは誰がいい得る?
だが、いっさいわからない。いっせいに黒い袋をかぶって黙々として微動し、うごめいているばかり――もし、ここへ御用の者でも来て片っ端からその頭巾をはぎ、顔をむき出しにしてならべたならば、何年、何十年来のお尋ね者を発見し、思わぬ人物を見いだし、これは? とのけぞるようなことが起こるかもしれない。
それよりも、互いにはじめて見る顔の中には、子は父を、姉は弟を発見して、どんな人間の悲喜が交錯することであろうか? 仇敵同士もいよう。別れた恋人も潜んでいるやもしれぬ。めいめいに秘めためいめいの半生、それが何であろうと、この井底の大部屋では、いっさいが黒である。一色の黒である。
互いに識らぬ三百の黒法師のむれ。
このなかに誰がいることか――それはわからないが、ただ、二人の人間が紛れこんでいることは確かだ。
人魚のお蔦と手枕舎里好。
が、それも今では、同じ装りの多人数に呑まれて、二人は離れ離れになっている。
姿見の井戸――これはそもそも何であろう? どうして人々はここへ集まってくるのか? いかにして井戸の底へはいりこむのか? 制服のような黒い袋はいったいどこから来るのか? 何のための宿泊か? 集合か?
これが、ここへ来て数日、お蔦のこころをとらえた疑問であった。と、そのすべてが自ずと解かれる期が来た。
白衣――それは白い袋の謎である。
誰が誰やらわからない
それこそ烏羽玉の夜だった。
人魚のお蔦が手枕舎里好に伴われて、三味線堀の家を出てから、黙って里好について行くと、里好はあれから、神田明神下へ出て、深夜の妻恋坂を上って行った。
この上の家にはお蔦にとっていやな思い出がある。神田連雀町の閑山の家から、鎧櫃にはいって出て、飯たき久七の間違いで、届けられた饗庭の影屋敷、そこでの恐ろしい記憶は、まだお蔦の心にからんでいた。
で、二、三軒先を行く里好にきいてみた。
「あの、どこへ行くんでございましょう? その姿見の井戸というのはいったいどこなんでしょうか?」
が、里好はそれには答えず、星屑のこぼれるような空を仰いで、ただ坂を上る足を早めた。
お蔦は軽い不安にとらわれざるを得なかったが、今となってはひくにもひけないし、この里好という人についてさえ行けばたいした心配はないような気がする。仮にまたあの家へ行くにしても、何か機械のありそうな影屋敷の内部をのぞいて見ることも、何となくお蔦の好奇心をそそのかすのだった。
里好が振り返った。
「誰が誰だかわからんのが姿見の井戸の底のみそなんだから、あんたも女ということを気づかれんように、なるたけ物をいわずに、いうときには太い声を出して、できるだけ活溌にふるまいなさい。なに、みんな脛に傷もつ連中ばかりだ。たいしたことはない」
そのうちに坂を上りきると、立売坂の中腹に、饗庭家と同じ造りの影屋敷の門が見える。そこまで行くと、里好はまたお蔦を顧みて、
「ここだ」
と、一言。
どんどん中へはいって行く里好につづいて、お蔦も門をくぐりながら、この家なら一度来たことがある。実はここから逃げ出したところを追っかけられて、お前さんに助けられたのだと里好に話したかったが、その暇もなかったし、また彼女の中の用心深い何物かが、いい出そうとする彼女の口を、ことばにならない先に押えてしまった。
門をはいると荒れ果てた小庭。
それについて背戸のほうへまわると、そこに夜目にも白く冷たく石で囲った大きな井戸があるのがお蔦の眼にはいった。
里好は再び振り返って、
「これだよ、驚いたかね」
と、いったかと思うと、やにわに変なことを始めた。足もとを見まわして、小石を一つ拾うが早いか、そいつを、ぽんと井戸の中へはうり込んだのである。
ぽちゃりという水音。何だか井戸にしては浅そうだ。
と、お蔦が思っていると、里好の声が耳近くで、
「裾をぬらさねえように着物を引き上げるといいんだが、あんたはそうもゆくまい。まあ騒がずに、黙ってはいって来るがいい」
こういって里好は、裾を引き上げて井戸をまたいだ。井桁の内側にちょうど足場になるような具合に、ところどころ石が欠けて、引っかかりの穴ができている。それを伝わって、水面までおりた里好は、ためらうことなく、片足をざぶりと水の中へ突きおろした。ほんの踵ぐらいまでの水である。
水が濁っているので、昼間見てもちょっと深浅がわからないのだが、空の色や、井戸の上にのぞく木の梢を写して、どんよりとおどんでいるところ、上からのぞいた人は、まさかこんなに浅いとは気がつくまい。これでは井戸というよりも、盥の底に、洗足の水が捨て残っているようなもので、はいっても裾をぬらすに足らぬほどだ。
「おい」
井戸の底から里好が呼ぶ。お蔦も思い切って里好をまねて、井戸の内側へすべり込んだ。ぬるぬるとした苔の触感とともに、腐ったような水の香が、ぷんと鼻をつく。井戸の幅が狭いので、お蔦は手足を突っ張るようにして、そろそろとおりて行った。里好の両手がお蔦を抱いて、そっとその浅い水の中に立たせる。
「さあ、これからだ」
里好はこういって、ひときわ黒く苔のむしている眼の前の石を、ちょうど戸でもあけるように、力を入れて右へ引くと、――。
と、どうだ!
そこに人間一人楽に出はいりできる、黒い穴が口をあけたではないか。
秘密の集会所。姿見の井戸への通路である。
里好とお蔦は、手を取り合ってそこからはいり込んだ。真っ暗で何も見えはしないが、石室のような狭い部屋であるらしいことと、足音のしないように、底に藁屑が厚く敷き詰めてあることだけはお蔦にもよくわかった。里好はお蔦を、ちょっと手で制するようにしておいて、それから闇黒の奥をうかがって低い声で案内を求めた。
「お頼み申します――お頼み申します。駈け込みでございます」
すると奥のほうから、藁を踏む足音がかすかに近づいて来て、闇黒のなかでも一段と濃い人影が、少し離れて立った。
見ず聞かず――どこの何者かわかる機会があっても、わかろうとしてはいけないのが、この姿見井戸の定法だから、とみにはそばに近寄ろうとはせずに、これだけの秘密を知ってすでにここまではいって来た以上は、一味の者として、何の怪しむ必要はないと認めているもののごとく、その影が静かにいった。
「今、袋を持って来てやるから、待っておれ。何人だ? ああ二人だな」
影はそのまま引っ込んで行って、まもなく、その方角から、どさりどさりと、重い布地が飛んで来て、二人の顔やからだを打った。お蔦は蝙蝠かと思って、ぎょっとしたが、里好は慣れたもの、
「これ、これ!」
と喜びの声をもらして、そこらに落ち散った布を集めている。拾い上げてみると、黒い布を、ずんどうの袋に縫ったもので、頭から手足まですっかり包んで眼だけ出るようにできている。里好にいわれてそれを着けたお蔦は、何だか自分からこの世を離れて、全然別な世界へ来たような気がした。里好も、もう一塊の黒い袋と化している。二人は顧み合って、袋の中でにっこりした。
一つの袋が歩き出す。
他の袋がついて行く。
まるで、南海の怪鳥が行列を作っているようである。それはもうお蔦でもなければ、里好でもない。二人はただ、うばたまの闇黒にうごめく烏羽玉の果の一つ二つだ。
木の下道のような暗い細いところを、あれで二、三十歩も行ったであろうか。
「下りだ、気をつけなさい」
という里好の声で、お蔦が足をすべらせないように木で張った梯子段をおり切ると、眼の前の二間ほどの所に、荒筵が二枚だらりと下がっていて、その目を通して、何やら黄色い光が、地獄の夢のように、ぼうっともれている。
「お仲間がたくさんいますよ」
里好の声は笑っていた。
どうも不思議な御縁だねえ
こうしてお蔦が井戸の底の生活にはいったのは、何日前のことであろうか。
夜も昼もないここでは、日のたつのは数えようもなかったが、三つの食事を一日としても、もうだいぶんの日数がたっていなければならない。そのあいだに何が起こり、どんな出来事が発生したか。
何事もなかった。
ただ、同じ扮装をした三百人近くの人数とともに、その中に連れの里好をも見失ってしまったお蔦は、誰とも話さず、どの袋とも語らず、黙々として立ち、歩き、座し、寝て、日を送っていた。
誰が誰やらわからぬこの井戸の底の世界は、世を隠れる者、身を秘める人にとりては、まことに何より安息所、休息所といわなければならない。それかあらぬか、新たにはいって来る者はあっても、出て行くものはとんとないようである。地の底とは思われない広い部屋に、大勢の黒い塊が累々と、また蠢々と、動きまわり、かたまり合っているところ、実に浮世離れのしたながめであった。
何者の力、何者の仕事であろう。
こうして、人を集め、寝食を与えて、幾日でも、幾月でも、泊め置くとは?
何のため? 因縁のある人を隠まうため。もとよりそれに相違はなかろうが、ただそれだけか。それにしては物好き過ぎる。酔興過ぎる。といわなければならない。
一日おき、時としては二日おきぐらいに、この井戸の底で、不思議な巡視が行なわれるのだ。奥まった垂幕をはじいて、一同の黒い袋の代わりに、同じ作りの白い袋を着た、背の高い人物が現われるとうしろに二、三の黒い袋を従えて、それが広間中の黒い袋のあいだを縫って歩く。この巡視が始まると、今まで寝そべっていた者は起き、歩いている者は立ちどまって、尊敬をこめた態度で迎える。
いっさい無言のうちに行なわれる。
そして。
その白い袋が、確かにでたらめと思われる態度で、そこらの黒い袋を二、三人ずつ指摘する。すると、指された者は、立って一行に従って、その奥の垂幕に消えて行くのだが、それらの人々が再びここへ帰って来るのかどうか。出るにも、はいるにも同じ黒い袋だから少しもわからない。
しかしその白い袋と、奥の垂幕のかげに、何事かこの集会所の秘密を解くべき鍵が潜んでいるであろうことは、お蔦の早くも見てとったところだった。
ある夜だった。食事が済んでまもなく、隣の黒い袋が、そっとお蔦に、にじり寄ってささやいた。
「今夜あたり始まりますぜ」
と、そのことばが終わらないうちに、奥の幕が左右にさっと開いて、いつもの背の高い白い袋がゆうゆうと進み出た。そして、途中、二人ばかり指さした後、お蔦の前まで来ると、その白い袋がぴたりと止まってお蔦は自分に向けられている強い視線をありありと意識した。はっと思って見返すと、白い布に包まれた手が、すうっと上がって自分を指さしている。とたんに、うしろに、
「たて!」
という声がして、同時にお蔦は軽く背中をけられるのを感じた。
たち上がる。
そのまま、白い袋は引っ込んで行く。お蔦の他に二人、選ばれた黒い袋がそれに続いた。
垂幕をくぐると胸突き上がりの階段になっていて、上は壁から天井から床まで、黒塗りに塗った小さな部屋だった。黒檀であろう、黒い木で作った脚長の机と腰掛けが置いてあるのだが、引き上げられた三人は、掛ける気もせずに、眼白押しに壁ぎわに立った。机を隔てて白い袋がすわる。
鷹のような眼が壁にならんだ六つの眼を見渡すと、白い袋に扈従している二、三の黒い袋の一つが、恐ろしいしわがれ声で口を切った。
「今夜は、お頭から用がある。知ってるかもしれねえが、ここにいらっしゃる白い袋の御方が、烏羽玉組の頭なんだ。今、お話がある」
と、その声である。これを忘れてどうしよう? 鎧櫃から出されて気絶したまねをしたときに、背の高い侍といっしょに、自分をあらためたあのじゃらじゃら声の猫侍ではないか。
いうまでもなく内藤伊織。
と、するとその白い袋の中に納まっているのは妻恋坂の殿様として、明るい世界では旗本で通っている饗庭亮三郎その人ではあるまいか。
どうなることか――どうなっても、ままよ、驚くことはないとお蔦が覚悟をきめたとき、低い含み声が、白い袋をもれて出た。
「かねて知ってのことではあろうと思うが」静かな声である。
「今江戸に出没して、幕吏を始め、町方の者を悩ましている烏羽玉組の根拠は、お前たちが今までおったこの底の会所じゃ、いったい世の中のことはすべて報酬附きで、一を与えれば一を取る。二を授かった者は二を捧げるつもりでおらねばならぬ。
と、いうたからとて、わしは何も、今までお前たちに、寝食を与え、休養させておいたからといって、この仕事を押しつけるわけではないが、お前たちにしてみれば、たとい、一日でも、いわば、世話になった以上は、少しは当方のいい分も聞かねばならぬ心持ちがあるであろうと思う。そこさえわかっておれば、わしらが何をいい出そうと、喜んでやってくれるはずだ」
ちょっとことばが切れると、気がつく先にお蔦は、他の二人といっしょに、軽く頭を下げて、同意の意を表わしていた。
机の向こうで白い袋を中心に、しばらく相談があった後、内藤伊織の声で、
「日本橋浮世小路、いろは寿司方――いろは屋文次、此奴ですな。今夜は一つここへ向けましょう」
と、いうと、白い袋がうなずくのを待って、伊織は三人へ向き直って続ける。
「俺らは、手前らの正体なんか知りたくもねえが、その風態では、いくら夜中でも、江戸の町あ歩けねえから、いいか、ここを出たら庭で三人いっしょに袋を脱いで、桜の木へ掛けて行くんだ。
――行く先は今いったすしや。今夜は、盗って来る物は何もねえ。人間一匹の命だけだ。いろは屋文次という、此奴は岡っ引きだが、こうるせえ野郎でな。いつぞやの晩は、俺と、ここにいるもう一人が、すんでのことで、からめられる所だった。まあ、その返報ってわけでもねえが、あんな野郎を生かしといちゃあ、この先どんな邪魔をするかしれやしねえ。
で、これから、手前たち三人が出かけて行って、そのいろは屋を殺すんだが、必ず首を持って来いよ。わかったら早いがいい。さっそく出かけろ」
と、他の一人に合図をすると、そいつが先に立って歩き出す。お蔦を始め三つの袋がそれに続いたとき、うしろで、
「御苦労だな。ぬからずやって来てくれ」
と、いう饗庭の声がした。
部屋を出ると長い廊下。角に金網行燈が一つ、ぼんやりとあたりを照らしているほか、人気のない饗庭家の裏、すなわち空家の影屋敷である。
黒い袋をかぶった帝釈丹三に連れられた三人が、押し出されるように影屋敷の裏木戸を出ると、月のない外は墨を流したように暗い。
「庭の桜の木へ袋を脱いで掛けて行け」
といった伊織のことばを思い出して、三人は立ち止まって袋を脱いだ。三つをまとめて、その庭の桜の下枝へ掛ける。
いかに暗い夜でも空には明りがある。それでお蔦の姿を見て驚いたものか、今、袋を脱いだ一人が叫んだ。
「やや女ではないか」
いわれてお蔦、暗黒を透かして見ると、守人を恋する前、両国に世帯をもって、子までなしたことのある水戸浪人の遊佐銀二郎!
「お! あなたは!」
「や! そちはお蔦。――」
かけ寄ろうとすると、もう一人の男が、あいだに立った。
「よう! はいるもいっしょなら、出るもいっしょか。不思議な御縁だね」
手枕舎里好である。
流れゆく世の力
障子に映る日ざしが、だんだん薄くなって、軒の影がはっと思うまに、もう驚くほど下がっている。
早い落日だ。
蒲団から顔を出して、守人は障子の影を見ながら、外部の世界を想像している。下駄の音や人声が寝ている下の横町を流れて行って、車の音や、女たちの声、さすがに親しい下町の夕ぐれである。寝ている身にとって、音が何を意味し、音だけですべての動きが察しられるのが、守人には涙ぐましくまたほほえみたい気持ちだった。
こうしているまも、同志たちは、本所割り下水の方来居に老主玄鶯院を囲んで大老要撃の画策を進めていることであろう――消息を絶ったあの女、惜しいところを逃がした遊佐銀二郎――あれからのこと、今後のこと、思えば一つとして気にならざるはない。
が、人にきいても何も話してはくれない。文次も安兵衛も笑っているばかりで、何一つ、教えてくれようとはしないのだ。――。
守人が障子の桟をはう隣の物干竿の影を、ぼんやりと見ていると、とんとんと梯子段を踏み上がって来る足音。
がらり襖があくと、いろは屋文次だ。
「どうですい。お茶がはいりましたが」
自ら茶盆を持って来てすすめてくれる。守人は床の上へ起き上がって顔をしかめた。動くとまだ肩口の傷がいたむのだ。
「まだ傷が痛みますか」
「なに、大したこともござらぬ。重々のお心尽くしかたじけのうござる」
ぽつりと切るようにいって二人は無言、文次の茶をすする音がのどかに聞こえた。
――あの夜。
卑怯な遊佐銀二郎のために、肩へ斬り附けられた守人は、安兵衛に助けられて、銀二郎が影屋敷へはいって行った後、文次の心尽くしで、この日本橋浮世小路の文次の家、いろは寿司の二階へかつぎ込まれたのだった。
同時に心をこめた文次の介抱が始まった。近所の外科医が招かれて、金創の手当てをする。食事から寝起き、文次の親切は親身も及ばないほどだった。若くして巷に浪々する篁守人、人の情けに泣かされたのはこのときだった。
「彼奴あ死に花を使う帳本人なんだ。今までだって、お役人を始め公儀の肩を持つ方々、町方の岡っ引きなど、何人彼奴の手にかかって、嗜人草のために生命を落としたかしれやしねえ。ねえ、親分、なおりしだい引っくくって恐れながらと突ん出すおつもりでがしょう。そうすれゃまた一つ、いろは屋の親分に箔が附こうというものさ」
御免安兵衛は文次の顔を見るたびに、こんなことを言い言いしていたが、文次は、じろりと安をにらんで守人のこととなると黙っていた。そして、安兵衛をはじめ姉のおこよにも堅くいい含めて、二階に得体の知れない浪人の怪我人がいることなどは、口外はもちろん態度にも見せないようにさせていた。一度などは夜ふけてから、いきなり、
「文次、いるか、ちょっと急な用で、通りがかりに、寄ってみた。方来居のほう、うばたま組のさぐり、諸事、その後はどうじゃな」
こういって思いがけなく同心税所邦之助が乗り込んで来たとき、文次は実に、薄氷を踏む思いだった。
いつも、こういう上役は二階へ招じ上げて対談することになっているのに、その夜に限って階下で話をすることが、何らかで相手を怪しませはしないかと、文次の心配は大変なものだった。二階の守人が寝返りでもして、みしりと音がすると、邦之助が天井をにらむようにする。そのたびに文次は命の縮まる思いをした。
ではなぜ、こんな思いをしてまで岡っ引きたるいろは屋文次が、江戸中の御用の者が、草の根を分けて探している当の死に花の下手人、公儀へ弓引く不逞浪士篁守人をかばわなければならなかったか。
それは文次自身にも説明のつかない心持ちだった。
が、文次の眼には、守人が、そして守人の所業が、守人一人としては映らないのだ。そのかげにある大きな力、人力ではどうすることもできぬ時代の流れといったようなものがあるのをひしひしと感ずることができる。
「おいたわしい。このお方は御自分を犠牲にして、何かしらもっと大きなもの、もっと正しいもの、もっと明るいもののために、働いておらるる、それをお邪魔だてしようとする自分は、取りも直さず古いものの力によって動かされているのではないかしら。――こいつあ一つ考えねばならぬ」
こう思ったとき、岡っ引きとしての文次は死んで、新しい侠児、いろは屋文次が生まれたのだった。
が、守人の心には文次の真意はわからない。ただ、その筋の手へ渡されれば二度と見ることもあるまい浮世の光を、相手がしてくれるままに、ただこうやって楽しんでいるばかりだ。
こうして何日かたった。
文次は暇さえあると二階に守人を見舞い、守人たちを動かしている大義をたたいて、自分の心の去就を定めようとするもののようだ。守人もはじめのうちは、相手が幕府のいぬなので、密事のもれるのを恐れ、堅く口をつぐんでいたが、だんだんと文次の心のあるところがわかってみると、彼は進んで正道を説き、同志の計の一端をさえ話して聞かせるのだった。
もう、それを聞いて、どうかしようという文次ではない。
するどころか、できることなら自分も車をまわす力に手を貸して押してみたい気さえしている。世のため、というと何だか少し縁遠いようだが、それもただちに自分のことなのだ。文次にはそれが、はっきりとわかって来た。
そうなって来たある夜。
おそく寝る下町もすっかり大戸をおろして、人も草木も深沈と眠る真夜中。
突如!
浮世小路、いろは寿司の表を、割れんばかりにたたく黒い影。ちょうど下に寝ていた文次が、飛び起きて出たが、すぐにはあけない。
「誰だ、誰だ、今ごろ。何の用だ?」
「その、ちょ、ちょっと、おあけなすって。――おあけなすって。ここを。一大事、一大事でございます」
と、いう女の声。
はて――どこかで聞いたような、と思った文次が、細目に戸をあけてのぞくと、そこを外から引きあけて、ころげ込んで来た女がある。肩息で頭髪を振り乱し、遠くを駈けて来たものらしく、はいると同時にべたりとなったのを見ると、あの、一足違いで、三味線堀の里好の家から逃げられてしまった人魚のお蔦だ。
「おお、お前さんは!」
「ええ、あの、私のほうはあとで存分にお縄をちょうだい致しますから、ちょっと、私のいうことをお聞き下すって――ああ、こういうまも、もどかしい――親分様の上に大変が迫っております」
水をやって落ちつかせたうえ、女のいう所を聞いてみて、さすがの文次もぎょっとした。
女は、今夜うばたま組の選にあたって、井戸から出されたというのである。しかもその仲間というのが、手枕舎里好と遊佐銀二郎!
里好は井戸を出るとすぐ闇にまぎれて、その掏摸のたまりの新網の瑞安寺へ逃げてしまったが、遊佐銀二郎だけは、うばたま組の頭の命のままに、今にもここへやって来るというのだ。
ここへやって来てどうする!
いうまでもなく文次の命を目的に。
と、聞いて文次は、手早くそこの戸へ心張りをくれると同時に光る眼で女を見すえて、
「して、お前さんそれをしらせに駈け抜けて来てくれたってえわけですかえ?」
「はあ、止めようと思って争いましたけど、きかずに来るもんですから、私は近道をして一足先に参りました。――どうぞお支度を」
「すると、来るのは一人ですかえ?」
「ええ遊佐銀二郎という――」
と、このとき、その女のことばをおうむ返しに、
「何? 遊佐? 遊佐が来る?」
と、いう声に二人が驚いて振り向くと、いつのまにおりて来たのか、文次の袢纒に、愛刀帰雁を引っつかんだ篁守人の立ち姿!
一目見るよりお蔦はころぶように駈け寄って、
「貴方は守人様! お久しうござります。ど、どうしてここに。――」
守人はわれとわが身を疑うもののごとく、しばし女の顔をみつめていたが、くずれるように、上がり端へあぐらをかくと、そのままお蔦を引き寄せて大刀を持つ手で、ひしと抱き締めながら、
「お蔦か。おお! お蔦だな。お蔦だな――どうしておった。痩せたな。苦労したか――苦労したか、あいたかったぞ」
声の出ないお蔦、守人の膝にすがって、身をもんで泣くばかり。
仔細ありと見てか、場をはずした文次、再び帰ったときは、手に脇差の鞘を払って、
「さあ、さあ、つきたての餅みてえにくっついているときじゃありませんぜ。ここでね、文次もちょいと殺生のまねをしなくっちゃならねえ。お二人は二階へ。――」
そのことばの終わらないうちに、戸の外で、銀二郎のだみ声だ。
「いろは屋さんはこちらですか。いろは屋の親分!」
「はい」
文次は静かに答えて守人の顔を見る。涙にぬれるお蔦を押しやった守人、ひそかに帰雁を引き抜いて、あけるがいい、あけるがいい――と目くぼせ。
「あんたは怪我人だ。なあに、あっし一人で大丈夫――」
「遊佐なら人手を待たぬ。俺の心を察して、俺にまかせてくれ」
命がけの仕事を二人は争っている。
飼い犬に手をかまれるとは
ぱっ! 文次が戸をあけた。
さっと流れ出る黄色い光のなかに、向かい合って立った守人と銀二郎。
銀二郎にとっては意外の意外だ。思わず一歩下がって、
「やっ! 汝は篁!」
「またあったな」
にっこりした守人が、つかつかと、戸外へ出ると、銀二郎は押されて往来の真中へ。――
たちまち!
斬り込んで行った帰雁、斜になって流したはずの銀二郎の構えが遅かったか、ないしは足がくずれたか、右の肘から脇腹へかけて一太刀受けた銀二郎。
「ううむ!」
と、うなるとたんに思わず刀を取り落とす。そこを、ばっさりと唐竹割りというが、そのままに斬って下げた。
あざやか!
とどめを刺した守人が、星空を仰いで死骸の着衣で帰雁の血糊をぬぐったとき!
わっとわき立った無数の人声。今までどこに伏せっていたものか、御用提灯の明りが、四方の暗黒を十重二十重に囲んで、御用! 御用! の声も急に、邦之助の率いる捕手の一団が、雲のごとく、霧のごとく、群がり、どよめいて、迫り囲んだ。
ぎょっとした文次、守人を家へ引きずり込んで、立ち騒ぐお蔦といっしょに、折から起き出たおこよに預ける。そして早口におこよの耳へ。
「姉さん、とうとう来たぜ、いつも頼んであるようにしてくれ」
一言いうと自分はすぐに戸を閉めて、行燈を吹き消そうとしたが、そのときは、もう税所邦之助が、表を乱打している。あけると、身拵厳重に八丁堀の役人がものものしく押し込んで来た。
「文次、貴様の所に、篁守人がいると聞いてもらいに参った。重罪人をかくまった貴様も同罪、しょっぴいて行くからそう思え」
その邦之助のすぐうしろに、にやりと笑っている御免安兵衛の顔を見つけて文次の腹は煮え返った。
飼い犬に手をかまれるとはこのこと。
どうもようすが変だと思ったら、御免安の奴、訴人をしたのだ!
そんな者はおりませぬ。お疑いなら家探しを――となって邦之助の一行が狭い家を見まわるまでもなく、すぐに怪しい一人の男が見つかった、職人風の頭で蒲団をかぶっている。
「何だ、この者は?」
「新規に雇い入れた寿司の職人でございます。握り三年と申しましていい職人はなかなかおりませぬが、此奴はなかなか使えそうで。――」
「起こしてみろ」
蒲団を蹴上げると、すっかり職人風に作った守人が寝ている。が、安がいるから何にもならない。文次の憤怒と恨みをこめて見た眼を無視して、安はとんきょうに叫んだ。
「ああ此奴です! 此奴だ! 此奴だ! 此奴が水戸の篁守人、顔にも覚えがあるし、肩をしらべれば、傷のあるのが何よりの証拠。――」
おお、そうだ――と邦之助の手が、寝ている守人の肩へ伸びた刹那、もうだめと思ったか、むくりと起き上がった守人の手が夜具の下へ行ったかと思うと、隠していた帰雁が、白刃一閃! おどり出たと見るまに、早くも捕手の一人、血煙立って倒れる。
同時に、文次の手には脇差、部屋の隅にふるえていたと見せかけたお蔦といえども剛の者だ。護身の短刀を手に――ここに深夜、殺剣の乱陣は開かれた。
行燈は消えて真の闇。
捕手の群れを相手に、守人、文次、お蔦の三人がここを先途と立ち働く。
踏み鳴らす足音、打ち込む気合い、魂切る声、火花、白閃――。
そのあいだに四つの影だ、手を引き合うようにしていろは屋の物干から外へのがれ出た。
「やあ、い、いないぞ」
「逃げた、逃げた!」
「おお、安兵衛が斬られている」
「うむ、御免安兵衛が。みごとからだが二つになっているなあ。それにしても守人と文次へ一刻も早く手配りを。――」
という声々をうしろに聞いて、文次と守人、お蔦、おこよの四人は、すでに闇に呑まれていた。
烏羽玉の闇に朝が来た
それからまもなくだった。
新網の瑞安寺では掏摸の故買の市が立って、神田連雀町の湯灌場買い津賀閑山が、江戸中の掏摸のすって来た煙草入れ、頭の物、薬籠などを競っていると、その場の宰領手枕舎里好のもとへ、人魚のお蔦が駈け込んで、これからいろは屋文次と、篁守人を先頭に、一挙して姿見の井戸へ押しかけ、うばたま組をあばこうという――よかろう、面白かろうというので、里好もおどり立った。
雲州、江州、遠州、なんかという強い乾分がそろっている。本堂から方丈へかけて寝泊まりしたり、ごろごろしている親分乾分の掏摸を集めると百人近い人数になった。それが夜明けへかけて、湯島の姿見の井戸へおのおの入口で黒い袋をもらっては保護を求めるような顔をして、二、三人、四、五人ずつはいり込んだ。
津賀閑山もその一人だった。
すっかり一同がはいり込んだのを見すまして、手枕舎里好がいきなり黒い袋を脱ぎ捨てるのを合図に、一同、袋をかなぐり捨て用意の獲物々々をふるい、周囲の三百近い黒い袋に打ってかかった。
姿見の底の割れる日が来たのである。
井底の乱闘は、乾分の掏摸などにまかせておいて、寄せ手のおもだった人たちは、奥の垂幕からかけ上がって、突如として白い袋を襲った。饗庭亮三郎である。
とわかると、それは国表の水戸で、守人の父篁大学を斬った守人にとっては親の仇だ!
内藤伊織や、帝釈丹三を片づけてしまって、里好と文次とお蔦が、看視している真ん中に、刀を与えられた饗庭亮三郎、悪鬼のごとき形相で、孝子守人の刃を受けかねている。
陽が上がった。
烏羽玉の闇は消えるであろう。
近く、三月三日を期して、水戸の志士が桜田門外の井伊大老を要撃することは、文次にはわかっているが、彼はもう、幕府の密偵ではなかった。
ちょうどこの時刻、相良玄鶯院は、へらへら平兵衛を連れて雲水の旅に出ようとしていた。そして、ただ気がかりな新太郎を守人に托そうとして、守人の帰りを待っているが、新太郎が守人を通して、お蔦にあえば、お蔦としては親子としての覚えもあろう。が、それは、お蔦と守人にとって新しく生きる道へのさまたげとはなるまい。
守人が、帰雁に饗庭亮三郎の血を塗ったとき、下から里好の乾分の一人が上がって来て、笑いながらいった。
「みんな片づきやしたよ。もう、烏羽玉組は全滅でさあ」
朝の光が、抱き合ったお蔦と守人の上に落ちた。