芥川竜之介論(――芸術家としての彼を論ず――)

 芥川龍之介を論ずるのは僕にとつて困難であります。それは彼が僕の中に深く根を下ろしてゐるからであります。彼を冷靜に見るためには僕自身をも冷靜に見なければなりません。自分自身を冷靜に見ること――それは他のいかなるものを冷靜に見ることよりも困難であります。しかし、それと同時に、あらゆる文學上の批評の價値は、いかにその批評家が自分自身を冷靜に見ることが出來たか、と云ふ度合によつて測られるのであります。批評と云ふものが、他人の作品を通しての自分自身の表現であります以上は。
 もう一度言ひますと、批評する事は他人の作品を通じて自分自身を表現する事であります。批評家はそのために――彼自身を表現するためには彼の魂に最も近い他の魂の作品を持つて來ずには居られません。しかし、その彼の魂に最も近い他の魂を批評するには、どうしても自分自身を冷靜に見ることが必要となつて來ます。そこに批評家の苦しい矛盾があります。仕事の困難があります。しかし實はその困難そのものがよき魂を仕事に誘惑するかのやうに僕には思はれるのであります。よき魂は、自分の仕事が困難なればなるほど、その仕事に興味を持つものだからであります。
 芥川龍之介を論ずるのはそのやうに僕にとつて困難であります。しかし、それと同時に僕は、その故に彼を論ずる事に情熱を持たずにはゐられません。
 しかし芥川龍之介を論ずると言つても、彼の作品の價値を論じたり、彼の文學史上の位置を論じたりするのは、當然、より後代の人を俟たなければならないでせう。唯僕が此處に論じたいのは、いかに彼の藝術が僕の中に根を下ろして行つたか、そしてまた、いかに彼の藝術が彼自身をしてあのやうな悲劇的な死に到らしめたか、と云ふ事であります。
 芥川龍之介は僕の眼を「死人の眼を閉ぢる」やうに靜かに開けてくれました。僕はその眼でゲエテやレムブラントの豐かな美しさを、ボオドレエルやストリンドベリイの苦痛に似た美しさを、そしてセザンヌや志賀直哉の極度の美しさを見てゐるのであります。そして又、僕はその眼で芥川龍之介身の作品をも見てゐるのであります。僕のその眼は彼の作品の缺點をも見逃さないでせう。僕はそこにも我々人間の負はされてゐる宿命みたいなものを感じずにはゐられません。
 僕は芥川龍之介の諸作品の中で最も晩年の作品を愛します。彼を賞讚する多くの批評家達も、彼の初期の作品の中に最もよき彼を見出し、晩年には彼の痩せてしまつた事を言つてゐるやうでありますが、その點は僕は不贊成であります。從つて、この僕の論文は、その中心が晩年の芥川龍之介論となり、初期の彼は晩年の彼に進んで行くプロセスとしてのみ論じられる事となりはしないかと思ひます。それは僕にとつて止むを得ません。實は、僕も最初、彼の晩年の作品の痩せ細つた姿を唯痛々しさうに見てゐた一人でありました。しかし彼は最後に、彼の死そのものをもつて、僕の眼を最もよく開けてくれたのでした。僕はもはや彼の痩せ細つた姿だけを見るやうな事はしなくなり、彼をしてそのやうに痩せ細らせたものに眼を向けはじめました。そして、その彼の中のそのものが僕を感動させ、僕を根こそぎにしました。で、その苛烈なるものをはつきりさせ、それに新しい價値を與へること、それが僕にとつて最も重大な事となります。そしてそこに、僕の論文の目的があると言つて差支へありません。

 彼は明治二十五年、芝に生れた。
 彼の實母は、彼の語るところによれは、狂人だつたといふ事である。彼の短篇「點鬼簿」(大正十五年)にはその實母の肖像が生まなましく描かれてゐる。「點鬼簿」は彼の晩年の暗澹たる諸作品の先驅をなしたものである。彼は非常にひどい神經衰弱の中で、この作品を書いた。彼はこの作品を書きながら、幾度か、その母の「少しも生氣のない、灰色をしてゐる」顏を思ひ浮べた事であらう。彼はその頃よく、神經衰弱のひどい時なぞ、さういふ母から暗示を受けて、「僕も氣狂になるのではないかしら?」と恐怖してゐた位だつた。――彼を生んだ母が、彼の中に、何よりも先に、さういふ暗い影を投げてゐたのである。
 彼は生れるとすぐ、母が發狂したため、本所の芥川家に養子となつた。芥川家には、養父、養母(註一)の外に、伯母が一人ゐて、それが特に彼の面倒を見た。彼は後に「家中で顏が一番私に似てゐるのもこの伯母なら、心もちの上で共通點の一番多いのもこの伯母だ。伯母がゐなかつたら、今日のやうな私が出來たかどうかわからない。」と言つてゐる。
 彼がそこで少年の日を過した本所の町々。それは美しい町々ではなかつた。むしろ、いつも砂埃りにまみれてゐる町々だつた。しかし、彼の自然を見る眼に最も影響を與へたのも、さういふいつも砂埃りにまみれた本所の町々であつたのである。だから彼の愛してゐた風景は――彼の作品の中に獨特な美しさを以て描き出された多くの風景はいつも必ず憂鬱なを帶びたものだつた。僕は時々、彼の本の頁の中に本所の堀割の暗鬱な水の色を思ひ浮べる。
 彼は彼の小説「大導寺信輔の半生(註二)」の中にかういふ少年の事を書いてゐる。
「彼は全然母の乳を吸つた事のない少年だつた。母の體が弱かつたからである。彼は牛乳の外に母の乳を知らぬことを耻ぢた。これは彼の一生の祕密だつた。彼は何時からか、又どういふ論理からか、自分の意氣地のない事をその牛乳の爲と信じてゐた。もし牛乳の爲とすれば、少しでも弱みを見せたが最後、彼の友達は彼の祕密を見破つてしまふのに違ひなかつた。彼はそのためにどういふ時でも彼の友達の挑戰に應じた。恐怖や逡巡が彼を襲はない訣ではなかつた。しかし彼は何時もその度に勇敢にそれらのものを征服した。それは迷信に發したにせよ、確かにスパルタ式の訓練だつた。このスパルタ式の訓練は彼の性格へ一生消えない傷痕を殘した。」
 これは彼自身の自畫像に近いものであらう。かかる自分の弱みを見せまいとする剛情さ――それは彼の性格を一生支配してゐた。僕はそこに彼の性格の最初の悲劇を見出す。
 このやうにして、彼の魂は、かかる孤獨と暗鬱な風景の中に次第々々に生長して行つたのである。

註一。彼の養母の叔父は津藤である。その津藤に就いては森鴎外の「細木香以」(大正六年)がある。又、龍之介自身の「孤獨地獄」(大正五年)は彼の大叔父の話を書いたものである。
註二。「大導寺信輔の半生」(大正十三年)は前出の「點鬼簿」(大正十五年)と共に彼の作品の中では珍らしい位、自傳的要素を多分に持つてゐる。のみならず、兩作共、彼の晩年の諸傑作の出發點となつてゐるものである。のちにもつと精細に論じたい。
 學校に於いては、彼は早熟な、光彩ある學生だつた。
 彼の本に對する情熱は、小學時代から始まつてゐた。
 彼は本の上に何度も笑つたり泣いたりした。それは言はば轉身だつた。本の中の人物に變ることだつた。彼は、天竺の佛が無數の過去生を通り拔けるやうに、イブセン、ドストエフスキイ、トルストイ、モオパスサン、ストリンドベリイを通り拔けた。
 そして彼はあらゆるものを本の中に學んだ。少くとも本に負ふところの全然ないものは一つもなかつた。實際、彼は人生を知るために街頭の行人を眺めなかつた。寧、行人を眺めるために本の中の人生を知らうとした。彼は殊に世紀末の歐羅巴の産んだ小説や戲曲を讀んだのだつた。彼はその冷たい光の中にやつと彼の前に展開する human comedy を發見した。或は彼自身の魂をも發見した。
「本から現實へ」は常に彼には眞理だつた。
 彼は後年アナトオル・フランスが「わたしが人生を知つたのは、人と接觸した結果ではない。本と接觸した結果である。」と言つてゐるのに大いに同感してゐた。それと同時に、書物に親しんでも人生はわからぬと云ふ世人を大いに輕蔑してゐた。
 この「本から現實へ」は後年の彼をして「藝術に依つて藝術を作り出す」作家の一人たらしめた。彼は遂に彼個有の傑作を持たなかつたと斷言してよい。彼のいかなる傑作の中にも、前世紀の傑作の影が落ちてゐるのである。例へば最も晩年の、そして最も彼の傑作である「玄鶴山房」にしろ、「河童」にしろ、「齒車」にしろ、さうである。彼はあらゆる種類の傑作を愛し、理解し得た。そして彼は彼のよき才能をそれらのものに嵌め込んだのである。しかし、そのやうに「藝術に依つて」作り上げられた彼の作品もまた、それ自身、人生を深く呼吸し得てゐる。それは彼も亦、眞の深い藝術家であるがために他ならない。この彼の例は、「藝術に依つて藝術を作り出」し得る確證を我々に與へる。僕はこの問題をもつと彼の晩年の藝術を論ずる節において追究するだらう。今は唯、彼の「本から現實へ」が自然的に彼の「藝術に依る藝術」を産んだのである事を言ふにとどめる。
 彼の本に對する情熱は、彼に、さういふ特別な藝術を植ゑつけた。それと同時に、彼の讀んだ本そのものは(それは大部分世紀末の歐羅巴の産んだ小説や戲曲だつたと言つてよい)彼の心臟の中に、冷たい石を投げ込んだのである。
 しかし、彼は鋭い理性と共に柔かい心臟の持ち主だつた。彼の鋭い理性は、彼の中に投げ込まれたその冷たい石を愛した。そして彼の柔かい心臟は、そのために、隱された。人々は彼に鋭い理性と共に冷たい心臟を見出して、それを信じた。しかし彼は、次第に彼の理性の衰へると共に、その調和を失ひ出した。その以後の彼が悲劇的になつたのは當然である。彼の遺稿「闇中問答」の中の
「お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた」
 と云ふ悲劇の一つは此處にあると言はなければならなぬ。
 彼は屡※(二の字点、1-2-22)「僕に最も影響を與へたのはポオとボオドレエルだ、好い影響も惡い影響もあつたらうが。」と言つてゐた。この世紀末の詩人たちの影響は、彼を、彼の先生であつた夏目漱石や森鴎外から明らかに區別してゐる。(尤も彼は文墨に親しんでゐる漱石よりも氣狂じみた天才の漱石により多くの親しみを感じてゐたと言つてゐる。だから漱石の影響はそれらの詩人たちの影響と少しも矛盾はしなかつたであらう。)又彼が屡※(二の字点、1-2-22)比せられるアナトオル・フランスからも彼を離すのである。(しかしこれも――彼は晩年ニコラス・セギユウルの「アナトオル・フランスとの對話」を讀んで、この幸福らしい牧羊神もまた十字架を背負つてゐるのを知り、大いに同感してゐたやうである。)
 それではポオやボオドレエルたちは如何なる影響を彼に與へたか? 彼等は彼の中に「美の vision」を喚び起したのである。彼は、彼等がしたやうに「美の vision」を喚び起すために惱んだ。或時はその「美の vision」に陶醉した。フランスやイギリスにおいてこの世紀末に最も莊嚴な香を放つた Fleurs du Mal――「美の vision」に惱まされた多くの詩人たちがあるやうに、我々の國でも又この「美の vision」に惱まされた詩人たちが多かつたのである。谷崎潤一郎、佐藤春夫、及び彼の三人はそれらの人々の中で最も有名な人々である。
 彼自身のボオドレエル觀。それは最もよく彼の「あの頃の自分の事」(大正七年)の谷崎潤一郎を論じてゐる箇處に見出される。
「谷崎氏は、在來氏が開拓して來た耽美主義の畠に『お艶殺し』の如き『神童』の如き或は又『お才と巳之助』の如き文字通り底氣味の惡い Fleurs du Mal を育ててゐた。が、その斑猫のやうな色をした美しい惡の花は、氏の傾倒してゐるポオやボオドレエルと同じ莊嚴な腐敗の香を放ちながら、或一點では彼等のそれと全く趣が違つてゐた。彼等の病的な耽美主義は、その背景に恐るべき冷酷な心を控へてゐる。彼等はこのごろた石のやうな心を抱いた因果に、嫌でも道徳を捨てなければならなかつた。嫌でも神を捨てなければならなかつた。さうして又嫌でも戀愛を捨てなければならなかつた。……我々が彼等の耽美主義から、嚴肅な感激を浴びせられるのは、實にこの「地獄のドン・ジユアン」のやうな冷酷な心の苦しみを見せつけられるからである。しかし谷崎氏の耽美主義には、この動きのとれない息苦しさの代りに、餘りに享樂的な餘裕があり過ぎた。……その點が氏は我々に、氏の寧輕蔑するゴオテイエを髣髴させる所以だつた。ゴオテイエの病的傾向は、ボオドレエルのそれとひとしく世紀末の色彩は帶びてゐても、云はば活力に滿ちた病的傾向だつた。更に洒落れて形容すれば、寶石の重みを苦にしてゐる、肥滿したサルタンの病的傾向だつた。だから彼には谷崎氏と共に、ポオやボオドレエルに共通する切迫した感じが缺けてゐた。」
 ポオやボオドレエルの魂のどん底に彼の見たものはこの恐るべき冷酷な心である。さういふ彼等の恐るべき冷酷な心に深い共鳴を感じ、のみならずそれを自分の中にも持つことを烈しく欲望したのは彼の悲劇であつた。言はば、「世紀末の惡鬼に憑かれたのである。」が、若し彼がこの「世紀末の惡鬼」に憑かれなかつたならば、彼の一生は、彼が身を以て完成した凄じい生涯とは全く異り、もつと平靜な學者的詩人のそれであつたかも知れぬ。さういふ學者的傾向から彼を轉向させ、彼を「暗い死の魅力」にまで引きずりこみ、彼の詩的才能に彼の他の多くの才能の間において最も重要な位置を占めさしたものは、實にこの「世紀末の惡鬼」の惡戲に外ならないのである。

 そのやうに、彼の本に對する情熱(それは人生そのものに對する情熱以上だつた!)は、一方彼を「藝術に依る藝術」家たらしめ、一方彼に「世紀末の惡鬼」を取り憑かせた。が、そればかりならばまだよかつた。彼の本に對する情熱は、その上に、彼を「雜駁に」した。(「雜駁な」といふ語は彼が彼自身を批評するために使用した語である。彼はそれを、あらゆる大作家は雜駁である、さういふ意味の雜駁さであると斷つてゐる。僕も此處でこの言葉をさういふ意味で使用するのだ。)
「僕一時精神的に革命を受け始めてゲエテの如きトルストイの如き巨匠を正眼に見得たりと信ぜし時あり。僕をしてその境地に置きしもの種々複雜なる事情あれどジアン・クリストフの影響大なりしは今に到つて忘るる能はず。今にして思へば當時の僕は始めて天日を仰ぎしものの如く唯天日あるを知つて諸他の星辰あるを知らざりしが如し。(例せはゲエテの大を知れどテイク、ホフマン以下獨乙羅曼派の諸家の特色を輕蔑すべきものとして却けたり。)されど天日を知らざるものにして如何ぞ諸他の星辰を知るを得んや。是當時の僕なくして現在の僕あらざる所以なり。同時に又當時の僕の如くトルストイ、ドストエフスキイを説きて他を顧みざる幾多年少の豪傑に同情なき能はざる所以なり。」(大正八年七月三十一日佐佐木茂索宛書翰)

 彼は地獄のポオやボオドレエルを見るその眼で、ゲエテやトルストイやドストエフスキイの偉大を仰がずにはゐられなかつた。彼はあらゆるものを見、愛し、理解したがために「雜駁な」のである。彼は彼の「雜駁さ」に調和を與へ得てゐた間は、寧、幸福だつたであらう。しかし彼はその調和を次第に失ひ出した。そしてそれを失ひ出すや否や、彼には雜駁なことが純粹なことに若かないやうに思はれ出した。彼の中で、鋭い理性と柔かい心臟との調和が破れ始めたのを彼の第一の悲劇とすれば、この「雜駁さ」の調和の破れ始めたのは彼の第二の悲劇であると言はなければならぬ(註一)
 しかし僕は又思ふのである。この「雜駁さ」から生じた彼の悲劇こそ、晩年の彼を、一層(それは彼の如き個性にあつては殆ど不思議なほど)強くポオやボオドレエルの魅力に引きつけ、そしてそこにあのやうな「惡の花」を奇蹟のやうに咲かせたのではないだらうか。

註一。後年の彼がいつも彼の中の無數の分裂に苦しんだのはこれに原因する。彼は「僕は」(大正十五年)の中で「僕はいつも僕一人ではない。息子、亭主、牡、人生觀上の現實主義者、氣質上のロマン主義者、哲學上の懷疑主義者等、等、等、――それは格別差支へない。しかしその何人かの僕自身がいつも喧嘩するのに苦しんでゐる。」と書いてゐる。
 僕は彼の個々の作品論に入る前に、先づ、當時の文壇が如何なる氣運の下にあつたかを見たいと思ふのである。
 その頃まで日本の文壇を主宰してゐた自然主義の勢力も漸く衰へて行つて、若い作家たちの間には、二つの反動が起つてゐたのである。その一つは永井荷風、谷崎潤一郎等を中心人物とした所謂唯美主義の運動である。そのもう一つは武者小路實篤によつて代表される所謂人道主義運動である。その兩者とも反自然主義的な傾向を持つてゐる事に於いては相似てゐる。しかし、前者が自然主義の「眞」の崇拜に對するに「美」の崇拜を以つて起つたのに反し、後者は自然主義の「眞」の崇拜に對するに「善」の崇拜を以つて起つたのである。此處に注意すべき事は、自然主義と唯美主義とは、その物質主義的な人生觀から云ふと、何處か一味の相通ずる所がある。が、人道主義はその理想主義的な人生觀を以て、はつきり自然主義と區別される。と同時に又、人道主義はその無技巧的なところから見ると、一方唯美主義が技巧的方面でははつきり自然主義から區別されるのに反し、寧、ずつと自然主義に近かつたと言はなければならない。
 その後、更に又、多くのより若い作家たちに依つて、文壇には新しい氣運が齎らされた。それはその前の二つの運動のやうに鮮明な旗幟を飜す團體の形を成してゐない。唯、それらの作家たちを一括して、彼等以前の作家たちと比較すると、おのづから一つの特色が感じられるのである。それは彼等が、意識的にしろ無意識的にしろ、自然主義以來代る代る日本の文壇に君臨した「眞」と「善」と「美」との三つの理想を調和しようとしてゐる事である。彼等はこれら三つの理想のいづれに對しても冷淡ではない。彼等は人間がその一を缺いた所に、安住出來ないと云ふ事を感じてゐる。だから彼等の作品には、彼等以前の作家たちのそれよりも、より深刻と云ふ事は出來ないにしろ、少くともより複雜な、より豐富な特色が具はつてゐる。かういふ綜合的な傾向を最もよく代表するものの一つは、雜誌「新思潮」に屬する若い作家たちだつた。芥川龍之介は、彼等の一人である。
附記。この項は芥川氏の「大正八年度の文藝界」を原として書いた。從つてこの時代的考察は芥川氏自身のそれであると言つてよい。
 彼が世に問うた第一作は「鼻」(大正五年)である。「鼻」は彼の全作品中に於いても相當に重要な位置を占める。それは作家が彼の第一作の中に彼のあらゆるものを投げ込むばかりではなく、作家は一生の間彼の第一作に支配されるものだからである。
 僕は彼の全作品を大體において二つの時期に分ける事が出來ると思ふ。その前期は、「鼻」から始まり、「芋粥」「或日の大石内藏助」「地獄變」「奉教人の死」「南京の基督」「藪の中」等の諸作品を經て「六の宮の姫君」(僕はこの作品を彼の前期の藝術の最も完成されたものであると信じる。)に至るまでの時期(大正五年―大正十一年)である。その後期は、所謂保吉物に始まり、「一塊の土」「大導寺信輔の半生」「點鬼簿」「玄鶴山房」「河童」を經て「齒車」に至るまでの時期(大正十二年―昭和二年)である。彼の前期に屬する作品は大部分歴史小説であるに反し、彼の後期に屬する作品は主に、前期の作品には殆ど見出されなかつた、自傳的色彩を強烈に持つた小説である。そして數年前の微笑せる懷疑主義者はいつか徹底的な厭世主義者に變つてゐる。――そこで僕は、僕が此處に論じようとする「鼻」が、さういふ彼の全作品とは言はぬまでも、少くとも彼の前期のあらゆる作品を、明らかに支配してゐる事を言ひたいのである。
「鼻」はその題材を「今昔物語」の中から採つてゐる。(彼は彼の小説の題材の多くをこの「鼻」と同樣に「今昔物語」の中に採つてゐる。「芋粥」、「龍」、「往生繪卷」、「好色」、「六の宮の姫君」等がそれである(註一)。)
 本朝の部卷第十八「池尾禪珍内供鼻語第二十」がそれである。この古い物語はかういふのである。
「今は昔、池の尾と云ふ所に禪珍内供と云ふ僧住き……此の内供は鼻の長かりける五六寸許也ければ、頷よりも下てなむ見えける、色は赤く紫色にして、大柑子の皮の樣にしてつぶ立てぞ※[#「暴+皮」、U+3FFA、25-18]たりける、其れが極く痒かりける事無限し、然ればひさげに湯を熱く湧して、折敷をしきを其の鼻通る許に竅て、火の氣に面の熱く炮らるれば、其の折敷の穴に鼻を指通して、其の提に指入れてぞ茹、吉く茹て引出たれば色は紫色に成たるを、喬樣に臥して鼻の下に物をかひて、人を以て踏すれば、黒くつぶ立たる穴毎に煙の樣なる物出づ、其れを責て踏めば白き小虫の穴毎に指出たるを、鑷子けぬきを以て拔けば、四分許の白き虫を穴毎より拔出ける、其の跡は穴にて開てなむ見えける、其れを亦同じ湯に指入してざらめき、湯に初の如く茹れば鼻糸小さく萎み※(「月+俊のつくり」、第4水準2-85-36)て、例の人の小き鼻に成ぬ、亦二三日に成ぬれば痒くして※[#「暴+皮」、U+3FFA、26-6]延て、本の如くに腫て大きに成りぬ、如此くにしつゝ腫たる日員は多くぞ有ける……」
 かういふ單にユウモラスな物語である。しかし彼の「鼻」はさういふ單にユウモラスなだけの物語ではなくなつてゐる。彼はその中にそのやうな鼻によつて傷けられる内供の自尊心の爲の苦しみを描いてゐる。それから内供の長かつた鼻をいくらか同情を以て見てゐた人々がその鼻が短くなると急につけつけと笑ひ出した傍觀者の利己主義を描いてゐる。
「――人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出來ると、今度はこつちで何となく物足りないやうな心もちがする。少し誇張して云へば、もう一度その人を、同じ不幸に陷れて見たいやうな氣にさへなる。さうして何時の間にか、消極的ではあるが、或敵意をその人に對して抱くやうな事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思つたのは、池の尾の僧侶の態度に、この傍觀者の利己主義をそれとなく感づいたからに外ならない。」
 ここにこの小説のポイントがある。「鼻」はかういふポイントの上に立つた一つの主題テエマ小説である。彼はこの「鼻」で今昔物語の古い物語を現代的に書き直さうとしたといふよりも、今言つたやうなテエマを藝術的に力強く生かすために、今昔物語の一つの話を借りて來たに過ぎないのだ。
 そしてそこに彼の歴史小説家としての態度がある。彼はこの「鼻」のやうに古い物語を題材として多くの小説を書いた。彼はそれらを唯古い物語を近代語に飜譯して書いてゐるのではない。彼はそれらの中にさまざまに人間の心理を解剖してゐるのである。それならば何故、彼は古い物語の中に人間の心理を解剖すると云ふやうな※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りくどい方法をとつたのであるか? それは彼にとつては、さういふ最も※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りくどかるべき方法も實は最も迅速な方法であつたからに過ぎない。と言ふのはかうである。彼が或テエマを捉へてそれを小説に書くとする。さうしてそのテエマを藝術的に最も力強く表現するためには、或異常な事件が必要になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、異常なだけそれだけ、今日起つた事としては書き難い、もし強ひて書けば、多くの場合不自然の感を讀者に起させて、その結果折角のテエマまでも犬死をさせる事になつてしまふ。ところでこの困難を除く手段には、昔起つた事とするより外はない。彼の昔から材料を採つた小説は大抵この必要に迫られて、不自然の障碍を避けるために舞臺を昔に求めたのである。この事は彼自身も言つてゐるのである。

 彼は「鼻」を書いてから、その次に「孤獨地獄」を書いた。(大正五年)「孤獨地獄」は彼の大叔父である津藤の事を書いた點と既に彼の厭世主義的傾向が強く出てゐる點でのみ注意せらるべき作品である。それから彼はヒユウマンでヒユウモラスな「父」(大正五年)「虱」(同上)「酒蟲(註二)」(同上)等の短篇を書いた後に、「芋粥」(大正五年)を書いた。「芋粥」は「鼻」と共に初期の彼の代表的作品だと言つていい。この短篇も「鼻」と同樣にその題材を「今昔物語」に採つてゐる。のみならず、一つの主題テエマをポイントとした、題材の取扱ひ方も頗る似てゐるのである。
 本朝の部卷第十六「利仁將軍若時從京敦賀將行五位語第十七」がそれである。
「今昔物語」に於いては、利仁が京都から、芋粥に飽きたがつてゐる五位を連れて、敦賀に歸國する途中、捕へた狐を自分の館へ使者として遣はし、高島の邊で男たちに出迎へさせた話であるが、その中ではその狐の使者を勤める話が主になつてゐる。しかし、「芋粥」の作者は、利仁の館で、銀のひさげの一斗ばかりはいるのに、なみなみと海の如くたたへた恐るべき芋粥を見て、食はずに飽きた五位の心理を摘發する事に話のポイントを置いてゐる。五位は意氣地のないだらしのない人間で、多くの侍たちに愚弄されてゐた。京童にさへ「何ぢや、この赤鼻めが」と罵られてゐた。色のさめた水干に、指貫をつけて、飼主のない尨犬のやうに、朱雀大路をうろついて歩く、憐むべき、孤獨な男だつた。しかし彼は、そのために生きてゐると云つても差支ない程である、唯一の欲望を持つてゐた。それは、芋粥を飽きる程飮んで見たいと云ふ異常な欲望だつたのである。そしてこの欲望のある間は少くとも彼は幸福だつたのである。所が、五位が夢想してゐた「芋粥に飽かむ」ことは容易に事實となつて現はれた。五位の前には、なみなみと海の如くたたへた恐るべき芋粥がある。五位はそれにまだ口をつけない中に既に滿腹を感じてしまつた。さうして「芋粥に飽かむ」ことばかり夢想してゐた彼自身を、なつかしく、心の中でふり返つてゐる。
「芋粥」の作者は、五位のかういふ心理を摘發した。そして其處にこの小説のポイントを置いた。「芋粥」は「鼻」等と共に所謂主題テエマ小説なるものの傑作の一つである。
 僕は此處で、これらのテエマ小説を菊池寛のそれと比較して見たい。二人とも、「絶えず辛辣な理智の眼鏡の曇りを拭つて、彼の前に出沒去來する百般の人事現象を、どこまでも解剖して倦む事を知らない」點は共通である。しかし、菊池寛のテエマの多くが新道徳を築かうとする要求を強く持つてゐるのに反し、龍之介のそれにはさういふ要求が皆無だと言つていい。龍之介はあきらめてゐる。前者を理想主義的現實主義者だと言ふならば、後者は厭世主義的現實主義者だと言ふべきだ。それから又、前者にとつては、善は美より重大であり、後者にとつては、美は善より重大なのであると言つてもいい。
 そして龍之介にあつては、その「美が善より重大である」傾向が次第次第に強まつて行つたのを見逃してはならないのである。その傾向を調べるためには、その後の彼の傑作を一列に竝べて見さへすればいい。「或日の大石内藏助」「戲作三昧」「地獄變」「奉教人の死」「きりしとほろ上人傳」「藪の中」「六の宮の姫君」等。(歴史小説以外のものは暫く措く。)これらの諸傑作は次第にテエマ小説の範圍から脱して行つて、最後の「六の宮の姫君」に於いては、が他のいかなる要素よりも重大な位置を占めてゐる事を見出すであらう。
 のみならず、この「六の宮の姫君」(大正十一年)等の比較的後期の歴史小説は、初期の「鼻」や「芋粥」などの歴史小説と頗る面目を異にしてゐる。初期の諸作は、「大抵、古人の心に今人の心と共通する、云はばヒユマンな閃きを捉へた、手つ取り早い作品」だつた。しかし彼の後期に近い歴史小説は――
 僕は此處に「澄江堂雜記」中の「歴史小説」の一節を引用する。
「歴史小説と云ふ以上、一時代の風俗なり人情なりに、多少は忠實でないものはない。しかし一時代の特色のみを、――殊に道徳上の特色のみを主題としたものもあるべきである。たとへば日本の王朝時代は、男女關係の考へ方でも、現代のそれとは大分違ふ。其處を宛然作者自身も、和泉式部の友だちだつたやうに、虚心平氣に書き上げるのである。この種の歴史小説は、その現代との對照の間に、自然或暗示を與へ易い。……」
 即ち彼の後期の歴史小説は、かういふ歴史小説に近いものである。その點が、初期の歴史小説と異つてゐると言ふ事が出來る。しかし僕は、「六の宮の姫君」等においては、さういふ特色もあるであらうが、それより以上にあの作品の中に漂つた「華やかにして寂しい」美しさが重大であることを見ない訣には行かない。
 僕はこれで大體、彼の歴史小説の變化を見たと信ずる。このやうに彼は、彼の歴史小説においては、人間の心理の解剖から美の探求に向つて行つたのである。と同時に、彼は、彼獨特の心理解剖のメスを、歴史小説以外のものに使用し始めた。「秋」(大正九年)「南京の基督」(同上)「お律と子等と」(同上)「山鴫」(大正十年)「將軍」(大正十一年)「一塊の土」(大正十三年)「玄鶴山房」(昭和二年)等がそれである。そしてこれらの作品も厭世主義的な色彩を帶びたリアリズムがその基調となつてゐる點は、彼の歴史小説における場合と、少しも異らないのである。

註一。「往生繪卷」(大正十年)は今昔物語本朝の部卷第九「讚岐國多度郡五位聞法即出家語第十四」に、「好色」(大正十年)は卷第二十「平定文假借本院侍從語第一」に、「六の宮の姫君」(大正十一年)は卷第九「六宮姫君夫出家語第五」にその題材を得てゐる。このやうに彼は今昔物語に多くの題材を得てゐるのである。彼は後に「今昔物語に就いて」(昭和二年)といふエツセイを書き、その brutality(野性)の美しさを論じ、これこそ王朝時代の Human Comedy(人間喜劇)であると評してゐる。
註二。「酒蟲」は材料を「聊齋志異」から取つたものである。
 僕は、もう一度、彼の歴史小説に立ち戻つて、その一々の作品に就いて論じよう。
 彼の歴史小説中、代表的なものの中、
「或日の大石内藏助」(大正六年)
「袈裟と盛遠」(大正七年)
「枯野抄」(大正七年)
 等に於ては、彼の最も傑れた心理描寫が見られる。
「戲作三昧」(大正六年)
 これは戲作者曲亭馬琴を描いたものである。しかし、善い肖像はいつも描かれた者の肖像であるよりもその畫家の肖像であるやうに、これは彼自身の肖像と言つてよい。
 馬琴は錢湯で、一人の男が彼の惡口を言つてゐるのを聞くのである。
「第一馬琴の書くものは、ほんの筆先一點張りでげす。まるで腹には、何にもありやせん。あればまづ寺子屋の師匠でも云ひさうな、四書五經の講釋だけでげせう。だから又當世の事は、とんと御存じなしさ。それが證據にや、昔の事でなけりや、書いたと云ふためしはとんとげえせん。お染久松がお染久松ぢや書けねえもんだから、そら松染情史秋七草さ。こんな事は、馬琴大人の口眞似をすれば、そのためしさはに多かりでげす」
「そこへ行くと、一九や三馬は大したものでげす。あの手合ひの書くものには天然自然の人間が出てゐやす。決して小手先の器用や生噛りの學問で、捏ちあげたものぢやげえせん。そこが大きに蓑笠隱者なんぞとは、ちがふ所さ。」
 それを聞いた馬琴は、不快になる。しかしそれが一顧の價のない愚論だといふ事はすぐ解る。さういふ手合ひに彼の執筆中の嚴肅な心構へが解りつこないからである。――そして作者は後半に於いて、馬琴が死にもの狂ひになつて筆をとつてゐる處を描寫して、さういふ世評と對照させてゐる。そこに作者自身の世評に對する反抗と自己辯護とが明確に見出される。
 それから、
「偸盜」(大正六年)
「地獄變」(大正七年)
 は出來損ひの作品だ。非常に殘酷なところがあつて、さういふ所は天才的と評していいが、氣品が足りない。何か安つぽい繪双紙を見るやうである。或一部の批評家は「地獄變」を以て彼の最傑作としてゐるが、僕は反對である。僕は、寧、あの華やかにして寂しい「六の宮の姫君」を、この凄慘な「地獄變」の上に置きたい。その凄慘さにおいても、「地獄變」は晩年の「齒車」等に若かないのである。
 この三作に反し、
「奉教人の死」(大正七年)
「きりしとほろ上人傳」(大正八年)
 はフイニツシユした作品である。二作とも「文祿版伊曾保物語」の文體を模してゐる。彼の所謂切支丹物である。そして他の切支丹物と共に、彼の歴史小説中に一種特異な分野をなしてゐる。「尾形了齋覺え書」(大正五年)「るしへる」(大正七年)「おぎん」(大正十一年)「報恩記」(大正十一年)等はそれに屬する。その多くは切支丹迫害時代の美しく悲痛な物語を取扱つたものである。彼はさういふ時代にクリスト教のために殉じたクリスト教徒に特別な興味を持つてゐた。そして、彼は、それらの單純な魂の美しさを巧妙に描いた。しかし彼の理智は、それらの殉教者たちの苦惱と歡喜との入り混つたエクスタシイに彼を溺らせない。彼は唯、そのエクスタシイの前に立つて、さういふ彼等を見、そして愛しただけである。それ故、切支丹物の諸作品は悲痛な美しさのある物語としてのみ存在する。それらはいづれも渾然とした藝術品である。僕等はそれらの中に、唯、殉教者たちの魂の悲痛な美しさを描く奇異な技巧を歎美すれはいいのである。

「藪の中」(大正十一年)
 は形式的に特異である。一つの事件を數人の人間に語らせて、そこにめいめいの心理を解剖して我々に示すのである。小説學者の所謂 point of view different actors(複數的視點)の上に立つた作品なのである。「報恩記」(大正十一年)もこの形式で書かれてゐる。
「六の宮の姫君」(大正十一年)
 僕は再び繰返すならば、この作品は彼の歴史小説中最も完成されたものであり、その故に歴史小説中の最高位を占めるべきものである。「鼻」その他の彼獨自の逆説的な心理解剖の妙は無いが、いかにも華やかなしかも寂しい、クラシツクの高い香を放つた、何とも言へず美しい作品である。彼の最上の傑作であると言はなければならない。
 彼の今までの(即ち前期の)作品の傾向はこの「六の宮の姫君」によつて一段落をつけたやうである。彼はこの作品の後に暫らく停滯し、その間に「お富の貞操」「おぎん」「三つの寶」「雛」「おしの」等を書いたが、いづれも彼のマンネリズムを脱してゐない。
 それから彼は「堀川保吉」物を書き始め、そこに彼の後期の活動が始まるのである。

 僕は彼の後期の作品の批評に立ち入る前に、彼の前期の作品中の歴史小説以外のものにしばらく眼を注がねばならぬ。勿論、彼の前期を代表するものは、今迄述べて來たそれらの歴史小説である。しかし、その間に彼の書いて來た歴史小説以外のものは、前期の彼を後期の彼に結びつけるのに大事な役割をするのである。
 僕は前に、彼の歴史小説が少しづつ趣を變へて行つて、彼が歴史小説のみに用ひてゐた心理解剖のメスを、歴史小説以外のものに揮ひ出した事を述べた。
 そしてその最初の作品は、
「秋」(大正九年)
 である。この作品は明らかに、彼を、一つの轉機の上に立たせた。それを彼自身、先づ、よく感じてゐた事は、その當時の彼の手紙の中に、「實際僕は一つ難關を透過したよ、これからは悟後の修業だ」とか、「僕はだん/\あゝ云ふ傾向の小説を書くやうになりさうだ」と書いてゐる事によつて解る。
 彼はこの作品に於いて、一見、自然主義的小説の型に立ち歸つてゐるやうに見える。これには、彼の小説の特色だつた、心理の一點を際立たせるところの手法が殆ど全く使用されてゐないからである。所謂テエマ小説の型を全く脱してゐるからである。それが、一見、この小説を普通の自然主義的小説に近づいてゐるやうに思はせる。しかし、この小説をよく見れば、それらの小説からも判然と區別されるのである。普通の自然主義小説が心理の流れをまんべんなくアンダアラインしてゐるに反し、この作品は心理の組み立てから成り立つてゐる。前者が心理の構圖(平面)しか持たぬのに反し、後者は心理の構成(立體)を持つてゐる。この彼の構成主義的傾向は、「秋」に次ぐべき「お律と子等と」(大正九年)「山鴫」(大正十年)「トロツコ」(大正十一年)「庭」(大正十一年)それから後期の「一塊の土」(大正十三年)「玄鶴山房」(昭和二年)に次第に強く現はれて行つて、素材的には寧ろ次第に自然主義小説に接近して行きつつ、ますますそれら自然主義の小説から彼自身を切り離してゐる。
 このやうに、彼はこの一つの作品によつて、彼個有の技巧の舊套を脱したばかりではなく、自然主義的リアリズムに近づきながら自然主義のマンネリズムを打破して、其處に新機軸を出し得てゐると言つていい。
 この「秋」の少し以前に書かれた
「蜜柑」(大正八年)「沼地」(大正八年)
 も好個の短篇である。非常に微妙な、鮮かな效果を持つてゐる。しかしそれは narrative(説述)の巧妙さから來るのである。さういふ點、「奉教人の死」等の narrative の巧妙さをさう拔き出てゐない。新機軸を出したものではない。彼の新境地を切り開いた點では、無論、その功績を「秋」に讓らねばならない。唯、これは、殊に「蜜柑」は好個の短篇と言ふにとどまる。
「開化の殺人」(大正七年)
「開化の良人」(大正八年)
 は所謂開化物に屬し、歴史小説の部類に入れる方がいいと思ふ。殊に、これらの小説の手法が歴史小説のそれとは、少しも異らない點から。しかし二作とも風俗描寫よりも心理描寫の方が數等面白いのである。
 彼の傑作の一つ、
「南京の基督」(大正九年)
 は「秋」の後に書かれたのであるが、「秋」の新手法によらずに、それ以前の手法を受け繼いでゐる。從つて彼のそれ以後の小説と結びつけるより、彼のそれ以前の小説と結びつく。この作品は「六の宮の姫君」と共に彼の前期の作品の上に生つた果實であるが、「六の宮の姫君」が最も熟した果實として、それなりに最初のそして最後の或境地に達してゐるのに反し、「南京の基督」はその一歩手前に止つてゐる。それにも拘らず、この作は、彼の代表作の一つである。それはこの作品に、彼の一つの重要な特色が他の作品以上に、盛られてゐるからである。それは作者の人生に對する輕蔑に近い憐憫である。それは「六の宮の姫君」にも無いことはないが、さういふ作者の意識はその藝術的完成の中に溶け込んでしまつてゐる。さういふ所が「六の宮の姫君」を傑作たらしめてゐる一方、作者のさういふ一特色が強く現はれてゐる「南京の基督」も、その特色のみから論ずれば、又彼の代表的作品と言はねばならない。
 彼の人生に對する輕蔑に近い憐憫を、彼自身、かう説明してゐる。
「僕に何故冷眼に世の中を見るかと云ふ質問も青年の君としては如何にも發しさうなものと考へます。が僕には現在僕の作品に出てゐる以上に世の中を愛する事は出來ないのだからやむを得ません。のみならず愛を呼號する人の作品は僕にとつて好い加減な嘘のやうな氣さへするのです。僕は世の中の愚を指摘するけれどもその愚を攻撃しようとは思つてゐない。僕もさう云ふ世の中の一人だから唯その愚(他人の愚であると共に自分の愚である所の)を笑つて見てゐるだけなのです。それ以上世の中を愛しても或は又憎んでも僕は僕自身を僞る事になるのです。自ら僞る位なら小説は書きません。要するに僕は世の中に pity は感ずるが love は感じてゐない。同時に又 irony を加へる以上に憎む氣にもなれないのです。」(大正八年十一月十一日小田壽雄宛書翰)
 彼はこの「南京の基督」において、最も彼の愛するアナトオル・フランスに近かかつたと言ふべきか。

 正宗白鳥氏は彼の「芥川氏の文學を評す」の中で、
「蜘蛛の糸」(大正七年)
「杜子春」(大正九年)
「おぎん」(大正十一年)
 に於ける芥川氏の人生觀に肉迫してゐる。「蜘蛛の糸」の自分ばかり地獄から拔け出さうとする男の無慈悲な心がその心相當の罰を受けたと云ふ話、「杜子春」の地獄の森羅殿の前に鞭を受けてゐる父母を見て自分ばかり仙人になるのを思ひ切り、人間らしい生活をして行かうとする話、「おぎん」の自分だけ天國の門へ入るよりも天主のおん教を聞く機會のなかつたために地獄へ墮ちてゐる筈の兩親の跡を追つて自分も地獄へ墮ちようと決心して切支丹の教を棄てる話などを擧げて、作者が極り切つた秩序ある世界をやすやすと受入れてそこに何等の懷疑の苦をも感じてゐないと言ひ、この程度の人間らしさに作者は人間を見たつもりでゐるのかと言つてゐるのである。僕は正宗氏が芥川氏の人生觀を見るために、何故他の小説を撰ばずにこれらの「童話」を撰んだのであるか理解しがたい。作者はこれらを(「おぎん」は除いて)明らかに童話として書いた。かういふものに現はれた作者の人生觀のみを、と言ふより、寧ろあらゆる健全なよき童話の持つてゐる教訓を、作者の唯一の人生觀として取扱ふのは、明らかに正宗氏の誤謬と言はなければならぬ。正宗氏のやうに、これらの作品にガリヴアの「旅行記」を比較するのは間違つてゐる。ガリヴアの「旅行記」は彼の「河童」に比較すべきである。のみならず、正宗氏は――この一徹な厭世主義者である正宗氏は、芥川氏の輕蔑に近い憐憫を見てゐない。見てゐても理解しないのである。以上の三作の中にも感じられるこの輕蔑に近い憐憫を。――正宗氏の厭世主義は人生に地獄のみを見るそれである。しかし芥川氏の厭世主義は、
 ここに「侏儒の言葉」の中の一句を引用すれば、
「人生は地獄よりも地獄的である。地獄の與へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれは飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の與へる苦しみは不幸にもそれほど單純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外樂々と食ひ得ることもあるのである。のみならず樂々と食ひ得た後さへ、腸加太兒の起ることもあると同時に、又存外樂々と消化し得ることもあるのである。かういふ無法則の世界に順應するのは何びとにも容易に出來るものではない。もし地獄に墮ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであらう。況や針の山や血の池などは二三年其處に住み慣れさへすれば格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまふ筈である。」
 かういふ厭世主義である。正宗白鳥は人生の到る所に地獄があることを信じてゐる。芥川氏はそれにも懷疑的ならざるを得ない。さういふ芥川氏を正宗氏が齒痒く思ふのは當然である。芥川氏が正宗氏を理解したやうには、正宗氏には芥川氏を理解し得ないのだ。眞に孤獨なのは、誰をも理解し得ない人間ではなく、人々を理解してもその人々から理解しては貰へない人間である。

 僕はこれで大體彼の前期の作品を論じ終つたやうに思ふ。そこで、それらの作品をもう一度見渡して見ると、彼が所謂「私小説」なるものを殆ど書かなかつた事を今更のやうに感じるのである。(「私小説」と言ふのは、西洋人のイツヒ・ロマンと言ふものではなく、二人稱でも三人稱でも作家自身の實生活を描いた、しかも單なる自敍傳に了はらぬ小説の謂である。)これは近代の日本の作家にとつて實に異數であると言はねばならぬ。
 この事は彼が人一倍告白を嫌つた爲であると見られる。この點では、彼は甚だプロスペル・メリメに酷似してゐる。彼等は共に赤裸々な自己を見せるには堪へられなかつた人々である。それは彼等の性格に根ざしたものなのである。その性格と言ふのは――
 メリメの自畫像とも言ふべき「エトルリアの花瓶」の主人公の性格――
「彼は實に優しい、弱い心を持つてゐた。それと同時に、彼は高慢で野心家だつた。言ひ出した事は子供のやうに後へは退かなかつた。さうして不名譽な弱さと思へるものは何でも人前では隱さうと努力した。そのやうにして彼の優しい弱い心を他人から押し隱せはしたが、深く彼のうちに祕せばそれは百倍にも増して烈しくなるのである。世間には冷淡で、無感覺だと言ふ評判が立てられる。彼の苦惱は、彼が誰にも祕密を打ち明けたくないと思へば思ふだけ一層烈しい苦惱となつて沸いて來るのである。」
 この「エトルリアの花瓶」の主人公のそれであると言つてよい。
 佐藤春夫は、さういふ彼を窮屈なチヨツキを着てゐるやうだと批評してそれを脱ぐことを彼に勸めた。それに對して彼は「告白」といふ一文を草して答へた。その中で言ふには、「もつと己れの生活を書け、もつと大膽に告白しろ」とは屡※(二の字点、1-2-22)諸君の勸める言葉である。自分も告白をしない訣ではない。僕の小説は多少にもせよ、僕の體驗の告白である。けれども諸君は承知しない。諸君の僕に勸めるのは僕自身を主人公にし、僕の身の上に起つた事件を臆面もなしに書けと云ふのである。おまけに卷末の一覽表には主人公たる僕は勿論作中の人物の本名假名をずらりと竝べろと言ふのである。それだけは御免を蒙らざるを得ない。――さう言つて、彼は、その窮屈なチヨツキを脱ぐのを最後まで肯じなかつた。これは悲劇的な性格だ。そして、彼をしてああ云ふ最後の行動をとらずには居られなくさせたものに、彼のかういふ生れつき負はされてゐたところの氣質が加はつてゐた事は疑ひ得ないのである。

 彼は又他處で(それは「侏儒の言葉」の中である)言つてゐる。
「完全に自己を告白することは何人にも出來ることではない。同時に又自己を告白せずには如何なる表現も出來るものではない。ルツソオは告白を好んだ人である。しかし赤裸々の彼自身は懺悔録の中にも發見出來ない。メリメは告白を嫌つた人である。しかし「コロンバ」は隱約の間に彼自身を語つてはゐないであらうか? ……」
 かういふ點においても彼は頗るメリメに似てゐる。そして、その故にメリメを――メリメの作品を愛してゐた。彼の作品の中にメリメの作品を髣髴させるものの多いのは當然であると言はねばならぬ。平安朝時代の美しい女盜を中心的人物とした「偸盜」は、メリメの「カルメン」を想起させる。又、福を轉じて禍とする縁起の惡い聖母を描いた「黒衣聖母」はメリメの「イルのヴイナス」を、それから「或戀愛小説」はメリメの「神父オオバン」を、それから「湖南の扇」はメリメの「コロンバ」を――彼はこの小説を書くために何度も「コロンバ」を讀み返したと僕に言つた事さへあるのだ。
 この告白嫌ひなメリメと同一の氣質を負はされてゐる彼は、それにも拘らず、晩年には、あの告白好きなストリンドべリイに遮二無二接近しようと努力した。これは彼が彼自身に對しての反逆だ。晩年、彼の烈しく感じてゐた自己嫌惡からの彼自身に對する反逆だ。彼の晩年の悲劇を冷靜に見れば、その悲劇が、彼がストリンドべリイ型の人間だつた事に在るのではなく、(彼がストリンドベリイ型の人間たらんと欲望したにも拘らず)彼がメリメ型の人間だつた事に在るのである。(彼がストリンドべリイ型の人間たらんとしたのは、即ち自己嫌惡からで、自分の持つてゐないものを愛し、それにならうと欲望したのであると言へるであらう。)

 僕はこれで彼の藝術の初期の傾向を論じ終へる。で、彼の晩年の傾向及その作品の批評に入らうと思ふ。が、その前に、一應、彼の藝術觀そのものが前期から後期へかけていかに轉換したかを調べて見る事が必要であらう。恐らくは彼くらゐ、一作家として立つてから(と云ふのはその以前は誰しも動搖を持つものである故)自分の在來の藝術を疑ひ、それから脱却して新しい境地に達しようと絶えず苦しい努力を續けた作家は居ないだらう。彼の晩年の藝術論は、自己嫌惡だ、初期の藝術に對する悔恨だ、反逆だ、と言つてよい位である。
 彼の藝術論を窺ふに足るものは、
「藝術その他」(大正九年)
「文藝的な餘りに文藝的な」(昭和二年)
 の二つである。前者は、初期のそれであり、後者は、後期のそれである。僕はこの二つの論文によつて彼の藝術觀の轉換を調べる。
「藝術その他」の中に現れた彼の藝術觀はかういふものだつた。
「藝術家は何よりも作品の完成を期せねばならぬ。藝術に奉仕する以上、僕等の作品の與へるものは、何よりもまづ藝術的感激でなければならぬ。それには唯僕等が作品の完成を期するより外に途はないのだ。完成とは讀んでそつのない作品を拵へる事ではない。分化發達した藝術上の理想のそれぞれを完全に發達させる事だ。」
 それから彼のもつと個性的な理論は、
「藝術活動はどんな天才でも、意識的なものだ。と云ふ意味は、倪雲林が石上の松を描く時に、その松を悉途方もなく一方妄へ伸したとする。その時その松の枝を伸した事が、どうして或效果を畫面に與へるか、それは雲林も知つてゐたかどうか分らない。が、伸した爲に或效果が生ずる事は、百も承知してゐたのだ。もし承知してゐなかつたとしたら、雲林は天才でも何でもない。唯、一種の自働偶人なのだ。」
 と言ふ所にある。
 かういふ藝術論は彼の藝術作品から割り出せたものであると言つてよい。問題を簡單にするため、彼の作品の文體について論じて見る。彼は完成した文體の所有者であるとは屡※(二の字点、1-2-22)言はれる事である。それでは、どういふ風に完成されてゐるか、それを僕は分析しよう。彼の文體は、先づ、彼の眼と心との掴んだものを正確に(彼の正確さにまで我々は容易に達し得ない)表現することに遺憾は無かつた。のみならず、正確だつたと共に、藝術作品の文體としてもつと重大な役目を果した。即ち彼の文體は美しくあり得た。多くの作家が正確さのために文體の美しさを犧牲にし、或は美しさのために文體の正確さを犧牲にしてゐる間に、彼の大いなる文體は美しさと正確さとを同時に持ち得たのである。のみならず、美しき文體を持つ人々の中の或者は彼の繪畫的美しさを誇るだらう。或者は彼の音樂的美しさを誇るだらう。しかし彼のごとく一人の文體の中に、目に訴へる美しさと耳に訴へる美とを同時に持つたものは少ない。彼の文體の美しさの特色は、言葉の Formal Element と Musical Element との微妙な融合の上にあるのである。(彼がいかに日本の言葉の美しさを愛し、且理解してゐたかを調べるには彼の「芭蕉雜記」を見ればよい。)かういふ特色は、ただに彼の文體上のものであるばかりでなしに、彼の作品全體上のものだ。彼は「わたしの愛する作品は畢竟作家の人間を感ずることの出來る作品である。人間を――頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた人間を。しかし不幸にも大抵の作家はどれか一つを缺いた片輪である。尤も時には偉大なる片輪に敬服することもない訣ではない。」と言つてゐる。さうして當の彼は、さういふ片輪ではなしに、頭腦と心臟と官能とを一人前に具へた人間を感じさせる作家の一人だつた。(但し前期における彼の事である。晩年は「偉大なる片輪」の一人だつた。)
 次に彼の言ふところの「意識的藝術活動」に就いて考察する。セザンヌはドラクロアが好い加減の所に花を描いたと云ふ批評を聞いて、むきになつて反對した事があるさうである。彼等は、藝術的感激を齎らすべき或必然の法則を捉へるためなら、いかなる努力をも惜しまなかつた人達である。彼もその一人であると言つてよい。彼の「蜜柑」「秋」「南京の基督」「六の宮の姫君」等の諸傑作はいづれも彼の微細な「意識的藝術活動」の生んだものである。
 しかしこの意識的藝術活動の極度は或缺點を伴はぬ訣には行かぬ。志賀直哉がその缺點を指摘してゐる。例へば、それは「妖婆」の中の、二人の若者が隱された少女を探しに出かける所である。二人は夏羽職の肩を竝べて出かけた。と荒物屋の店にその少女が居るのを見つけ、二人は急にその方へ歩度を早めた。その時夏羽織の裾がまくれるところが描寫されてゐる。それだけを切り離せば、運動の變化が現はれ、うまい描寫であるが、二人の若者が少女へ向けたと同時に讀者の頭も其方へ向くから、その時羽織の裾へ注意を呼びもどされると、頭がごたごたして愉快でなく、作者の技巧が見えすくやうで面白くないと、志賀氏は言ふのである。芥川氏の意識的藝術活動の缺點が其處に鋭く指摘されてゐる。
 彼は自分のこの缺點を認めた。そしてその頃から彼は漸く彼の意識的藝術活動そのものをも棄て去つて行つたやうに見える。それは彼の後期の藝術論である「文藝的な餘りに文藝的な」の中に「あらゆる藝術的活動を意識の閾の中に置いたのは十年前の僕である」と斷言してゐるのに徴しても明らかである。さうして彼は藝術の持つてゐる妙に底の知れない氣味惡さに戰慄しはじめたのである。
「藝術家は何時も意識的に彼の作品を作るのかも知れない。しかし作品そのものを見れば、作品の美醜の一半は藝術家の意識を超絶した神祕の世界に存してゐる。一半? 或は大半と云つても好い。
 我我は妙に問ふに落ちず、語るに落ちるものである。我我の魂はおのづから作品に露るることを免れない。一刀一拜した古人の用意はこの無意識の境に對する畏怖を語つてはゐないであらうか?
 創作は常に冒險である。所詮は人力を盡した後、天命に委せるよりは仕方はない……」(「侏儒の言葉」)

 彼の後期の代表的な藝術論である「文藝的な餘りに文藝的な」は、彼の言葉を使用すれば、頗る「雜駁」なものだつた。僕は今、そのあらゆる方面に亙つて、彼の藝術論を彼の作品に一々結び付けてゐる事は出來ぬ。その故に僕は唯、「文藝的な餘りに文藝的な」の最も緊要なる部分のみに就いて語らうとする。それは彼の主張する「話」らしい話のない小説に就いてである。前期に於いて最も「話」らしい話のある小説ばかりを書いて來たところの彼が、いつかさういふ彼のすべての作品に疑ひを持ち出し、さういふ藝術から拔け出さうと努力したのである。僕はさういふ彼のはげしい、苦しい努力を見ながら、絶えず新しくあることを欲しずにはゐられなかつた彼の欲望を、痛々しく感じ、同時に驚嘆する。
 日本の現代の作家の中で、彼の最も愛し、最も恐れてゐた作家は、志賀直哉氏だつた。最も「雜駁な」作家の一人だつた彼が、彼が最も「純粹な」作家であると折紙をつけた志賀直哉氏を愛しずにはゐられなかつたのである。志賀氏を眞に理解し始めてから、そこに彼の藝術家としての惱みがはげしく起つた。彼は常に自己の雜駁なことを知りつつ、然も「雜駁なことの純粹なことに若かない」のを肯定しない訣には行かなかつた。さういふ彼が自己の藝術に對して不斷の疑念を抱いてゐたのは當然と言はなければならない。
 さういふ彼の自己の藝術に對する疑念が、それまで漠然としてゐたのに、それが急に明確な形を持つて現はれて來たのは、彼が志賀氏から彼の作品に關する批評を聞いたのと時を同じくしてゐるかも知れない。志賀氏が彼に批評したのは、彼の「奉教人の死」に就いてである。志賀氏は、その「奉教人の死」の主人公が死んで見たら實は女だつたといふ事を何故最初から讀者に知らして置かなかつたか、と彼に言ふのである。筋としては面白く、いいと思ふが、作中の他の人物同樣、讀者まで一緒に知らさずに置いて、仕舞ひで背負投げを食はすやり方は、讀者の鑑賞がその方へ引張られるため、そこまで持つて行く筋道の骨折りが無駄になり、損だと思ふ。讀者を作者と同じ場所で見物させて置く方がどうもいい、芥川君のやうな一行々々苦心して行く人の物なら、讀者はその道筋のうまさを味はつて行く方がよく、さうしなければ勿體ない話だといふやうな意味のことを言つたさうである。それを聞いて、芥川氏は素直に受け入れて、「藝術といふものが本當に分つてゐないんです」と答へた。
 芥川氏があらゆる物語的なものから彼自身を解放し、最も詩に近い小説――彼の謂ふところの「筋のない小説」に強い情熱を持ち出した變化の道程を見究めれば、そこにはかういふ志賀氏との對話が或影響を與へてゐる事は見逃がせないだらう。晩年の彼の、佛蘭西の近代の畫家セザンヌと、その「セザンヌが畫を破壞したやうに小説を破壞した」小説家ジユウル・ルナアルに對する愛が、志賀直哉氏に對する愛と一緒になつて、彼の中の物語作家を絞殺し、新に彼の中に「善く見る目」と「感じ易い心」とだけを持つところの詩人を眼覺めさせたのである事は、「文藝的な餘りに文藝的な」の冒頭において了解される。
 さうしてそれ以來、その彼の中の詩人は、さういふ「善く見る目」と「感じ易い心」とだけで仕上げたところの小説を書いて行かうとした。「お時儀」「寒さ」「海のほとり」「年末の一日」「蜃氣樓」など。最後の「蜃氣樓」はさういふ彼の最もよき作品である。

「文藝的な餘りに文藝的な」の中には、見落してはならぬ、もう一つの重大なものがあるのである。それは森鴎外に就いて彼の書いてゐる一章である。彼は其處で、鴎外の作品に何か微妙なものの缺けてゐるのを指摘し、「畢竟森先生は僕等のやうに神經質に生れついてゐなかつたと云ふ結論に達した。或は畢に詩人よりも何か他のものだつたと云ふ結論に達した。「澀江抽齋」を書いた森先生は空前の大家だつたのに違ひない。僕はかう云ふ森先生に恐怖に近い敬意を感じてゐる。……しかし正直に白状すれは、僕はアナトオル・フランスの「ジヤン・ダアク」よりも寧ろボオドレエルの一行を殘したいと思つてゐる一人である」と書いてゐるのである。
 これを以て見れば、彼は、彼の中の詩人を完成さすために、一方彼の中の物語的才能を絞殺しながら、一方往年の彼をして森鴎外やアナトオル・フランス等と一味相通ずる所あらしめた彼の好學心にも嚴然と死刑を命じたのである。
 この時既に、彼は彼の負はねばならない運命を豫知してはゐなかつたらうか?

 前章に述べたところの、彼の「話」らしい話のない小説に對する熱愛の中に、僕はそれと共に、彼の彼自身の過去の仕事に對する悔恨を感じてゐる。そして、彼のさういふ悔恨は、丁度その頃から絶え間なく彼を襲ひ出した病魔やそのための生活力の極度の衰弱と一しよになつて、ますます彼の生の暗澹さを濃くして行つた。それまでも彼の作品の内部に常にわだかまつてゐた黒いものは、既に僕の見てゐたものであるが、それにも拘らず彼の作品の外部は華やかでさへあつたのに、(それ故一種の「華麗なる寂しさ」が彼の作品を掩うてゐたのだ)、その頃から彼の作品はその内部の黒いものを外側にまで露骨に現はしはじめたのである。彼がその病氣と悔恨と衰弱との間に苦しく書き上げられた「點鬼簿」(大正十五年)を、その時期以前に書かれた「少年」(大正十三年)に比較して見よ。「少年」の一章は、海岸でバケツの錆に似た代赭色の海を見てきてから繪本の海の色を青く塗らずに代赭色に彩つた少年を描いてゐる。それに反し、「點鬼簿」中の少年は氣の狂つてゐた母の死の前にどうしても涙の出ないため泣く眞似をしてゐるのである。何といふ相違であるか。「少年」は先の尖つた微笑で僕を快く刺すだけである。が、「點鬼簿」の暗鬱さは僕を壓しつぶす。僕は思はずそれを避けずにはゐられなかつた。が、「點鬼簿」以後、「彼」「玄鶴山房」「蜃氣樓」「齒車」などが發表される毎にそれを讀んで行くと、それらの作品の上にはいづれにも「點鬼薄」の持つてゐた暗鬱さが掩うてゐるが、それに慣れるに從つて、僕はその暗鬱さに親しみをさへ感じ出した。と言ふのは、それらの作品がいかに暗鬱な色を帶びてゐるにもせよ、そこに底深く漂つてゐる一味の甘さ(sweetness)が感じられたからである。恐らくは彼が彼の最後に強く感じてゐたところの暗い死の魅力もかういふ「苦甘い」ものであり、彼はさういふ魅力あるものにこそ彼の貴重な全部を投げ出すだけの大いなる熱情と勇氣とを持つことが出來たのであらう。そして、僕などは、さういふ魅力に、ごくわづかにしか、而も彼の作品を通してのみしか、觸れ得てゐないのであらう。

「蜃氣樓」(昭和二年)の中の彼は、實に平靜である。そして僕はその平靜さの中にただ彼の透き徹つた神經だけが生き生きと動いてゐるのを感じる。さういふ間から「わたしの持つてゐるのは藝術的な神經だけだ」といふ彼のささやき聲が微かに傳つてくる。彼は彼の意識の閾の外にいろいろなものがあるやうな氣がして氣味惡がつてゐる。彼は路上の車の轍にも何か壓迫を感じる。さういふ病的な、鋭どい神經が、繪具のみが殆どデツサンなしに仕上げてゐるセザンヌの一枚の畫のやうに、一つの小説を仕上げてゐる。ここには、「話」らしい「話」はどこにも見出されない。そしてこれこそ、彼の欲した、あらゆる小説中で最も詩に近い小説だと言つてよい。そしてこの作品の底に漂つてゐるものは、死に似てゐる暗い戰慄すべき魅力だ。この作品は、彼のすぐ近くに迫つて來た死を暗示してゐるやうである。

 彼の遺書――眞の遺書と言ふべきではなかつたが一般に遺書として取扱はれた「或舊友に送る手記」は、彼がこの二年ばかりの間死ぬことばかり考へつづけてゐたといふ事を語つてゐる。少くとも死ぬ前の數ヶ月間は、死が彼の心を去つたことは決して無かつたであらう。彼がそのやうに死を決しながら、しかも仕事を續けてゐたといふ事は――のみならず、旺盛に仕事を續けてゐたといふ事は、何か悲壯に近いものである。彼は、その頃、友人の小穴隆一氏とかういふ對話をしてゐる。「小穴曰この頃神經衰弱が傳染して仕事が出來ない。僕曰僕は仕事をしてゐる。小穴曰そんな死にもの狂ひミタイなものと一しよになるものか。」(齋藤茂吉氏宛の書翰)そして僕は當時、一年前に彼が僕に語つた事の――「僕は生活慾はすつかり失つてしまつたが、まだ制作慾は旺盛だね」と言つた事の、事實であるのをしみじみ感ぜずには居られなかつたものである。さういふ死にもの狂ひの彼は、數多くの作品を、のみならず彼の一生涯中の眞の傑作を書き上げた。その傑作といふのは第一に「玄鶴山房」(昭和二年一月)、第二に「河童」(昭和二年三月)、第三に「齒車」(昭和二年六月)である。
 僕は先づ「玄鶴山房」に就いて論じよう。

「玄鶴山房」は、勿論彼の「話」らしい話のない小説の主張以後に書かれたものであるが、實にさういふ小説以上のものである。「蜃氣樓」の詩趣は無いが、僕はそれ以上のものであると思ふ。とにかく、實に堂々としたものである。彼が「話」らしい話のない小説の主張以來書いて來た小説は、すべて畫に――例へばセザンヌの畫のやうなものに近いものだつた。神經を繪具にして描いた畫であつた。が、「玄鶴山房」は――さういふ他の彼の小説が畫を感じさせるときに、それらに反して、これは建築を感じさせるのである。僕が「玄鶴山房」に打たれるのは、その構成的な美しさに何よりも先づ打たれるのである。そしてその後で、この堂々たる建築物の内部の壁に、ところどころに立派な畫も懸けられてあるのを發見して、その畫にも(細部にも)感服せずにはゐられなかつた。しかし僕がこの作品に於いて最も感服するのは、その建築としての美しさである事は、少しもその前と異らなかつた。
 肺結核のためにもう死ぬばかりになつてゐる玄鶴、腰拔けの意地のわるい老妻、さういふ兩親にいつも控へ目に仕へてゐる平凡な息子夫婦と彼等の腕白盛りの子供、以前玄鶴の家の女中だつた、そしてその後彼の妾になつてゐたいぢらしいお芳と、彼女と玄鶴の間の小さい子供、それに職業故に冷酷になつてゐる看護婦、――かういふ多くの人達によつて營まれてゐる或暗澹たる一家。さういふ一家族全體が實に堅固に描き出されてゐる。今日までの日本の小説の間にも、さういふ一家族全體を取扱つたものも無くはなかつたのであるが、僕の知つてゐる限りでは、それらの全部は唯、さういふ一家を築き上げてゐる人々の間の心理的葛藤とか、さういふ一家族の雰圍氣とか、さういふ一家族の中の出來事とか、さういふものだけを描いたのに、(もつと正確に言へば copy したのに)過ぎなかつたのである。だが、僕は今「玄鶴山房」の前にあつて、その玄鶴山房といふ家を建築物として目前に見るやうな氣がする。さういふ家が、紙の頁の上に、嚴然と聳え立つてゐるやうに思ふ。さういふ、がつしりした美しさを持つた立體感があるのである。建築感があるのである。日本の作家中、最も構成的な力を持つと稱せられる谷崎潤一郎の作品は、滔々たる文章の流れこそあれ、多くは唯繪畫的感を與へるに過ぎす、到底その構成的感においてはこの「玄鶴山房」に及ばない。我々がかかる「玄鶴山房」の美を他の作家に求めようとしたら、かの佛蘭西浪漫派の大家バルザツクあるのみであらう。しかもこの「玄鶴山房」の數頁はバルザツクの百頁に相當してゐる。それに豐滿な美があるとすれば、これは近代的な壓縮な美を誇つてゐるからである。
 その文章は、彼の過去の作品を時には騷々しく見せさへした、あの華々しい小手の利いた才能を棄ててゐる。そしてさういふ簡潔な文章に依る描寫は、――殊に看護婦の甲野の描寫は、文學上のみならず、我々人間の間に、一個の新しい性格を創造し得たほどの、大きな效果を得てゐるのである。

「甲野さん、あなたのおかげさまで人間竝みに手が洗へます」
 お鳥は手を合せて涙をこぼした。甲野はお鳥の喜びには少しも心を動かさなかつた。しかしそれ以來三度に一度は水を持つて行かなければならぬお鈴を見ることは愉快だつた。從つてかう云ふ彼女には子供たちの喧嘩も不快ではなかつた。彼女は玄鶴にはお芳親子に同情のあるらしい素振りを示した。同時に又お鳥にはお芳親子に惡意のあるらしい素振りを示した。それはたとひ徐ろにせよ、確實に效果を與へるものだつた。

 この意地の惡い、聰明な、それでゐて妙に女らしい、自分の職業に忠實な、素氣ない甲野の性格――かういふ獨特な性格は、彼の筆の力によつて、始めて、文學の上のみならず、我々の間に、創造されたものだと言つても差支へないのである。

「玄鶴山房」を發表した後、引續いて、「河童」を發表した。ここに二つの興味ある問題がある。
 その一つは、「河童」が實に筋の溌剌とした小説である事である。「河童」の發表されたのは、彼が彼の「話」らしい話のない小説を主張して谷崎潤一郎氏と論戰し始めたと同時である。「河童」の發表そのものが、彼の藝術論を裏切つてゐたのである。勿論、彼はこの作品を「とどめる事の出來ない彼の中なる」力によつて書いてしまつたのであらう。この一事は、藝術家の生活力は彼の理論を超えるものである事を、痛快に物語つてゐる。これが「河童」の我々に與へる興味の一つだ。
 もう一つの問題は、その前の作品「玄鶴山房」に對してである。「玄鶴山房」が彼の所謂「話」らしい話のない小説の主張から出發してそれ以上のものとなつてゐるに反し、「河童」は實に筋の溌剌とした小説、例へばスウイフトの「ガリヴア旅行記」と同種類の作品である事である。前者に於いて彼は彼の憂鬱な人生觀を現實化(realize)してゐるのに、(僕はあの作品こそ眞のリアリズムの作品であると信じる。つまり眞のリアリズムは現實の模寫(copy)にあるのではない、觀念を一個の現實として――と云ふのは我々の人生さながらに――生かすところにあるのだ。我々は、彼の見た人生を「玄鶴山房」といふ一個の作品を通して再び見るのではない、我々は「玄鶴山房」の中に一つの新しい人生そのものを見る。さういふ意味に於いて――その言葉の持ち得る最高の意味に於いて、「玄鶴山房」はリアリズムの作品だつたのである。)それに反して、彼は「河童」の中で彼の憂鬱な人生を空想化して我々に見せる。つまり我々はこの最も空想的な作品の中に、反つて、彼の實生活を彼が寧ろ模寫(copy)したものを見る訣になるのである。即ちこれも最も廣い意味における(或は最も淺い意味においてと言つてもいいかも知れぬ)リアリズムに根ざしてゐるのである。僕は藝術的作品の價値は、僕の前に言つた意味での現實性(reality)の多少によつて測定したいと思ふ一人である。だから僕は藝術的價値のみを問題にすれば、「河童」は「玄鶴山房」より遙に劣つてゐる事を斷言してもよい。が、「河童」のごとき文學には、さういふ純粹な藝術的價値以外の、全く別な價値があるのである。僕は「河童」の批評に於いては、藝術的價値の如何は暫く措き、その特殊な價値のみに就いて論じたいと思ふ。
 或日彼は僕に言つた。「僕は今度ガリヴア旅行記のやうなものを一つ書き上げた。」そしてそれが「河童」だつたのである。「河童」のプロトタイプは實にスウイフトの「ガリヴア旅行記」であり、ゲエテの「ライネツケ・フツクス」であり、最も近代のものでは、アナトオル・フランスの「蜜蜂」である。そしてこれらの作品の中で「諷刺」がいかに大切な要素をなしてゐるかは誰しもの知る所であらう。それらを諷刺文學と稱してもいい位である。「河童」もその例に洩れない。で、僕は諷刺が文學の上でいかなる役をなしたか、それから「河童」に於いては諷刺がいかなる役をなしてゐるか、この二つを考へて見よう。
 僕は最初の問題に對しては、夏目漱石の「文學評論」中のスウイフト論の一節を引用したいと思ふ。その漱石の批評を要略すればかうである。
「スウイフトの作品は不愉快である。しかしスウイフトの作品は今日迄澤山讀まれた。讀む人は愉快だから讀んだに違ひない。この事は矛盾のやうで、實は矛盾ではない。スウイフトの不愉快の點はその厭世的諷刺にある。露骨に人間の弱點を曝く所にある。人間を動物の如く取扱ふ所にある。動物より下等なる馬の國の動物として取扱ふ所にある。人類は世界滅却の日に至るまで不幸である。それが最大不愉快である。かうしてスウイフトは寸毫の滿足をも吾人に與へないのである。しかして是が人間の本體だと云ふ。次第々々に本體が展開して來るのである。讀む者は第一に眼を擦る。新しい刺激を愉快に思ふからである。第二に成程と思ふ。爭はれぬ事實だからである。内外呼應の愉快である。第三におやと思ふ。隱れた事實を掘り出した愉快である。第四にははつと思ふ。飛んだ所に人間の正體が見つかつた愉快である。――是等は悉く愉快である。但し眞實を探り、事相を明らかにする點から見ての愉快である。とにかく「ガリヴア旅行記」は愉快である。さうして又不愉快である。愉快でもあり不愉快でもあつて、決して矛盾にはならないのである。」
 このやうに漱石がスウイフトの「ガリヴア旅行記」の中に見出したところの愉快と不愉快とを、我々は又芥川氏の「河童」の中にも見出すであらう。のみならず、「河童」の芥川氏と「ガリヴア旅行記」のスウイフトとは人としても非常に酷似してゐるのである。スウイフトも、芥川氏と同樣、「梢から先に枯れてくる樹のやうに」參つてしまつた一人なのであつた。
 共に孤獨だつた事、自尊心の人一倍強かつた事、病身だつた事、諷刺のために諷刺を愛してゐた事、其他種々の點に於いて、我々は彼等二人の相似を見出し得る。しかし「河童」と「ガリヴア旅行記」とは、同時に、二人がいかに異つた作家だつたかをも示してゐると言つてよいのである。
 その二人の相異を言へば、何よりも先づ、「ガリヴア旅行記」には詩的な物が皆無と言つてもいいのに反し、「河童」には頗る詩的な物が充ち滿ちてゐる事である。譬へて言へば、スウイフトは硝子窓を開けてぢかに暗澹たる人生を眺めさせる。が、芥川氏は窓硝子越しに(その硝子の色は時にはその向うの物に實物以上に強い色を與へてゐるであらう)暗澹たる人生を眺めさせる。「河童」の中に描かれたあの藝術家達の生き生きした描寫は、スウイフトの作品には嘗て無かつたものである。が、それと同時に、「ガリヴア旅行記」の中の辛辣な文明批評は、「河童」の中には、芥川氏がそれをもいかに企圖したにせよ、豐富には見出す事が出來ないのだ。
 そしてこの「河童」の中で最も生き生きと諷刺されてゐるのが藝術家達であるといふ事は、芥川氏がスウイフトのごとき文明批評家的諷刺作家だつたのではなく、詩人的諷刺作家だつた事を證するものである。僕は河童諸君の中で最もよく描かれてゐるのは、かの自殺した詩人トツク君であると思ふ。のみならず、僕は他の誰れよりもこのトツク君の中に芥川氏自身のポオトレエトを感じずにはゐられない。(勿論、哲學者のマツグ君にしろ、音樂家のクラバツク君にしろ、彼等の氣狂じみた苦しみの中にも芥川氏自身の苦しみを感じずにはゐられないが。)
 一度「河童」の中から諷刺的(スウイフト的)な要素を取除いて見よ。我々はそこに何を見出すか。そこにあるのは唯、彼のあらゆるものに對する――就中彼自身に對する嫌惡以外のものではないであらう。昨日は息づまるやうな暗澹たる作品(「玄鶴山房」)を書いた人間が、今日は、口先だけは持前の縱横無盡な機智を振りまはしながら、腹の底ではやはり昨日と同じやうに呻きつづけてゐるだけの違ひなのである。

「君は新しき戰慄を創造した」これはシヤルル・ボオドレエルが詩集「LES FLEURS DU MAL(惡の花)」を出版した時ヴイクトル・ユウゴオがこの詩人に與へた言葉である。
 僕は「齒車」が僕に與へた感動を言ひ表すためには、このユウゴオのあまりにも有名な言葉以上に適切なるものを他に見出し得ない。「齒車」は實に今日の「新しき戰慄」を創造したと言つて好い。「僕は藝術的良心を始め、どう云ふ良心も持つてゐない。僕の持つてゐるのは神經だけである。」この言葉は、機會ある毎に、死に近い頃の彼の吐いてゐたところのものである。僕は、この一言くらゐ、彼の最も個性的な、從つて最も彼にとつて眞實だつた言葉は無いだらうと思つてゐる。そして、さういふ神經ばかりになつてしまつて生きてゐる姿を、彼が、死にもの狂ひな、強い筆觸で、表現して行つたのが、「齒車」なのだ。それ故、僕は、この「齒車」こそ彼の生涯の最大傑作――と言ふよりは、最もオリヂナルな(個性的な)傑作だと斷言するのに躊躇しないのである。
 この作品には、筋らしいものは少しも無い。唯、彼の病的な、鋭い神經に觸れてくるもの――普通の神經には殆ど感じられないもの――がいかに彼の肉體の中に、彼の魂の中に、ぴりぴりする電波のやうに擴がつて行くかが、細かく、その神經そのもののやうにぴりぴりする言葉で、苦しげに、語られてゐる。さうしてその中のエピソオドの一つ一つが彼の「何か知らないもの」(彼がそれを「復讐の神」と呼んだもの)に對する恐怖で直線的に貫かれてゐる。そのために、又その作品は、我々讀者をして、一つ一つのエピソオドで戰慄させながら、その戰慄の連續の中に一貫せる恐怖を呼び起させるのである。
 かかる恐怖をもつて彼以外の誰が我々に迫つたか? それはやはり彼と同じやうに「何か見えないもの」によつて病的に苦しめられた一瑞典人アウグスト・ストリンドべリイあるのみである。この瑞典人の書いた「地獄(Inferno)」のみが彼の「齒車」の恐怖を思ひ出させる。のみならず、ストリンドベリイの一生の或危機は直ちに彼の(「齒車」の作者の)最後の危機だつたのだ。唯、その危機から宗教がストリンドべリイを救ひ出したのに反し、その宗教も遂に「齒車」の作者を彼の危機から脱出せしめなかつた。
 ストリンドべリイの悲劇も、彼の悲劇も、各の性格の中に、全く反對のものを一しよに持つてゐたためである。それも唯全く反對のものと言ふだけではなしに、その兩者が電氣の兩極のごときものでそれが相觸るれば忽ち爆發するやうなものだつたがためである。「齒車」の中の彼が彼の病める弟とのかかる對話を聞け。

「妙に人間離れをしてゐるかと思へば、人間的欲望もずゐぶん烈しいし……」
「善人かと思へば、惡人でもあるしさ」
「いや、善惡と云ふよりも何かもつと反對なものが……」
「ぢや大人の中に子供もあるのだらう」
「さうでもない。僕にははつきりと言へないけれど……電氣の兩極に似てゐるのかな。何しろ反對なものを一しよに持つてゐる。」

 この電氣の兩極に似てゐる全く相反した二つのものが、遂に烈しく接觸し合つて、電氣を起し、彼自身を燒いたのである。
「齒車」は我々を、或時は精神病院のそれのやうな物凄いホテルの一室に、或時はアスフアルトの上にころがつてゐる紙屑が人間の顏のやうに見えたりする銀座通りに、或時は又、彼の唯一の避難所である見すぼらしいカツフエの中に持つて行く。狂ほしい彼は、さういふホテルや銀座通りやカツフエの中にあつて絶えず「何か知らないもの」につけ狙はれてゐる。そして絶えずそれの象徴であるやうな、自分の視野の内に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐる半透明の齒車を感じてゐる。そして bizarre な錯覺と幻覺とで一ぱいになつてゐる暗黒が、彼を次第次第にひしひしと取かこんでくる。――しかしこの作品は、單なる精神病學の記録ではない。この作品の主人公の病的な心理描寫にのみ我々の興味を向けてはいけないのだ。我々はこれらの病的な感覺の渦を通して、絶えず彼をつけ狙つてゐる「何か知らないもの」を見究はめねばならぬ。さうしてその「何か知らないもの」がいかに彼を高めるために彼を落したかを見なければならぬ。人間に課せられた不幸と運命の不正のための怒りからその「何か知らないもの」に敢然と挑戰するとき、いかに彼が地獄の苦痛の中に追ひやられるかを見なければならない。そして遂に、自分の意識した罪、意識しない罪のために、自分を地獄にあるものと信じて、苦痛に焚かれながら、「神よ、我を罰したまへ。怒り給ふこと勿れ。恐らくは我れ滅びん」と叫んでゐるところの彼を見なければならぬ。
 かくして我々は、彼の若かつた時の作品「孤獨地獄」の中で既に「自分も亦孤獨地獄に苦しめられてゐる一人である」と言はずにゐられなかつた彼が痛ましいまでに成長した姿を、この「齒車」の中に見出すのである。のみならず、その地獄の中で神を信じようともがいてゐる彼を見出すのである。しかし、彼は、ストリンドベリイのやうに、神を信じる事は遂に出來なかつた。「齒車」の中の彼は、一人の熱心なクリスト教信者とかういふ對話を交はしてゐる。

「如何ですか、この頃は?」
「不相變神經ばかり苛々してね。」
「それは藥では駄目ですよ。信者になる氣はありませんか?」
「若し僕でもなれるものなら……」
「何もむづかしいことはないのです。唯神を信じ、神の子の基督を信じ、基督の行つた奇蹟を信じさへすれば……」
「惡魔を信じることは出來ますがね」
「ではなぜ神を信じないのです? 若し影を信じるならば、光も信じずにはゐられないでせう?」
「しかし光のない暗もあるでせう。」
「光のない暗とは?」
 僕は默るより外はなかつた。彼も亦僕のやうに暗の中を歩いてゐた。が、暗のある以上は光もあると信じてゐた。僕等の論理の異るのは唯かう云ふ一點だけだつた。しかしそれは少くとも僕には越えられない溝に違ひなかつた。……

 さういふ彼は、神を力にする事の出來た中世紀の人々に唯羨しさを感じるだけだつた。そして神を信じることは――よし神の憎みを信じるとも、神の愛を信じることだけは、遂に、出來なかつたのである。そしてこの最後のものを得ることの出來なかつた彼は、――

 ――彼は「自殺」した。

 彼はいま死の中にある。しかし彼は今でも時々我々のところにやつて來る。唯、彼は、生者と死者との不思議な相違から、死後の彼については少しも語る事が出來ない。そして唯、生前の彼についてのみ我々に語る事が出來る。それに反し、我々はもはや彼のところにこつちからは行く事すら出來なくなつたのだ。

 彼の死後、續々と、彼の遺稿が發表された。僕が今それについて語つた「齒車」も、遺稿となつて發表されたものだつた。その外に重なものを擧げれば、
「西方の人」(前編は生前に既に發表されてゐたが)
「闇中問答」
「或舊友に送る手記」
「十本の針」
「或阿呆の一生」等。
 これらのものは(「西方の人」を除けば)、すべて、作品と云ふよりも、もつと彼自身に近い精神的産物である。そして彼を藝術家として見る時よりも彼を人として見るために大事な鍵である。これらのものに就いて語つて行かうとすれば、勢ひ、人としての彼をもつと精細に論じなければならなくなるだらう。しかし僕はこの稿は、藝術家としての彼を論ずるに止めなければならない。今の僕には、人としての彼を嚴密に書く事は不可能だからである。(例へば、彼の自殺の原因の探究にしても、それを藝術家としての、精神生活者としてのそれのみに止めた、何故なら今その原因らを彼の私的な生活にまで立入つて求める事は僕にとり不可能――と言ふより、したくないからである。「闇中問答」その他を論じるためには、そしてそれを完全なものにするためには、どうして其處に立入らねばならぬだらう。)
 そのために僕は此處では、藝術家としての彼を見るためには、缺くべからざる彼の「西方の人」をのみ論じるに止める。
「西方の人」は彼の眞の絶筆である。この續篇が書き上げられたのは、實に、彼の死を決した、昭和二年七月二十四日の朝の事だつたのである。彼は、この作品の中に、彼のクリストを、或はクリストの中の彼を描いてゐる。彼はこの作品によつて彼自身をクリストの中に深く嵌め込むことが出來た。それは彼も亦クリストたちの一人だつたからである。さういふ彼のクリストを我々はいかにこの作品の中に見出すか?
 彼が獨創的に見たと云ふ點のみから見れば、それは恐らくは、詩人兼ジヤアナリストとしてのクリストであらう。彼は書くのである。
「クリスト教はクリス自身も實行することの出來なかつた逆説の多い詩的宗教である。彼は彼の天才の爲に人生さへ笑つて投げ棄ててしまつた。ワイルドの彼にロマン主義者の第一人を發見したのは當り前である。彼の教へた所によれば、「ソロモンの榮華の極みの時にだにその裝ひ」は風に吹かれる一本の百合の花に若かなかつた。彼の道は唯詩的に――あすの日を思ひ煩はずに生活しろと云ふことに存してゐる。何の爲に? ――それは勿論ユダヤ人たちの天國へはひる爲に違ひなかつた。」
 彼は又書いてゐる。
「我々は唯我々自身に近いものの外は見ることは出來ない。少くとも我々に迫つて來るものは我々自身に近いものだけである。クリストはあらゆるジヤアナリストのやうにこの事實を直覺してゐた。花嫁、葡萄園、驢馬、工人、――彼の教へは目のあたりにあるものを一度も利用せずにすましたことはない。」
 彼の最も敬愛を感じたクリストは、その一本の百合の花を「ソロモンの榮華の極みの時」よりも更に美しいと感じたクリストであり、又、弟子たちを教へるためにいつも我々の近くにあるもの――花嫁、葡萄園、驢馬などを利用するところの、後代のクリスト教的ジヤアナリストの牧師たちも彼の足許には遠く及ばないジヤアナリスト・クリストであるのである。
 しかし僕が彼をクリストたちの一人と感じるのは、僕が彼自身の中にもさういふクリスト同樣の詩人兼ジヤアナリストを發見するが爲のみではない。僕は彼の中にもつと深く沈み込むことによつて、彼がクリストと同じやうに背負はされてゐる十字架を見出すからである。彼の次の數行を注意深く見つめよ。
「クリストは一代の豫言者になつた。同時に又彼自身の中の豫言者は、――或は彼を生んだ聖靈はおのづから彼を飜弄し出した。我々は蝋燭の火に燒かれる蛾の中にも彼を感じるであらう。蛾は唯蛾の一匹に生まれた爲に蝋燭の火に燒かれるのである。クリストも亦蛾と變ることはない。シヨウは十字架に懸けられるためにイエルサレムへ行つたクリストに雷に似た冷笑を與へてゐる。しかしクリストはイエルサレムへ驢馬を驅つてはひる前に彼の十字架を背負つてゐた。それは彼にはどうすることも出來ない運命に近いものだつたであらう。彼はそこでも天才だつたと共にやはり畢に「人の子」だつた。」
 彼はクリストを十字架に驅りやつたものはクリスト自身の宗教だつたと言ふのである。彼がさう言ふのは、單に彼が新しい宗教を説いたために十字架に懸つたのだと言ふ意味ではなく、新しい宗教を説いてゐるうちにいつか十字架に懸らねばならぬ氣持になつてしまふのだと言ふのである。彼はかくクリストを見る事によつて、イエルサレムに赴いて自殺的に十字架に懸つたクリストの氣持を、彼自身のそれに近づけてゐる。自ら十字架に懸からずにはゐられなかつたところの彼自身の氣持に。
 實に彼がクリストの中に見出した苦しみは同時に彼の感じた彼自身の苦しみだつた。彼の見たクリストは、クリスト自身に――クリスト自身の中のマリヤに叛逆してゐた。それはバラバの叛逆(唯自分の敵に對する叛逆)よりも更に根本的な叛逆であり、同時に又、「人間的な餘りに人間的な」叛逆だつた。そしてさういふ自分自身に――自分の中のマリヤ(彼によればマリヤは「永遠に女性なるもの」ではなしに「永遠に守らんとするもの」だ)に對する叛逆者は又彼(芥川)自身に外ならない。クリストも、彼も、マリヤの子供ではあつたが、同時に聖靈(彼によれは聖靈は「聖なるもの」であるばかりでなく、「永遠に超えんとするもの」だ)の子供であり、しかも母のマリヤよりも父の聖靈の支配を受けてゐたために、さういふ悲劇を避ける事が出來なかつたのである。
 クリストは「狐は穴あり。空の鳥は巣あり。然れども人の子は枕する所なし。」と言つた。このクリストの言葉の中に、恐らくはクリスト自身も意識しなかつたであらう恐しい事實を、彼は見出した。それは我々は狐や鳥になる外は容易に塒の見つかるものではないと云ふ事實である。それが如何に恐しい事實であるか、彼の悲痛な最後がそれを我々に知らせる。

「ゲツセマネの橄欖はゴルゴタの十字架よりも悲壯である。クリストは死力を揮ひながら、そこに彼自身とも、――彼自身の中の精靈とも戰はうとした。ゴルゴタの十字架は彼の上に次第に影を落さうとしてゐる。彼はこの事實を知り悉してゐた。が、彼の弟子たちは、――ペテロさへ彼の心もちを理解することは出來なかつた。クリストの祈りは今日でも我々に迫る力を持つてゐる――
「わが父よ、若し出來るものならば、この杯をわたしからお離し下さい。けれども仕方はないと仰有るならば、どうか御心のままになすつて下さい。」
 あらゆるクリストは人氣ない夜中に必ずかう祈つてゐる。同時に又あらゆるクリストの弟子たちは「いたく憂て死ぬばかり」な彼の心もちを理解せずに橄欖の下に眠つてゐる……」

底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
初出:「堀辰雄全集 第五巻」新潮社
   1955(昭和30)年3月10日
※底本のテキストは、1929(昭和4)年3月提出の、東京帝国大学文学部国文学科卒業論文によっています。
※「羅曼」と「浪漫」、「至る」と「到る」の混在は底本通りです。
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2012年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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