「鎮魂曲」

 ハイネのロマンツェロなどは、數ヶ月の間に病苦と鬪ひながらも一氣に書き上げて、それをはじめから一卷として世に問うたものらしい。ああいふ慟哭的な詩などは一篇々々引きちぎつて讀まされるよりも、一卷として讀みとほすことによつて、我々の感動は別して強まるのである。その他、ヴェルレェンの「叡智」と云ひ、リルケの「時祷書」と云ひ、又コクトオの「プラン・シャン」と云ひ、さういふ連作體の詩としては最高度のものであらう。さういふ一卷をなさずともいい、せめて十篇位でいいから、さういふ連作體の詩の試みも若い詩人たちにやつて貰ひたいと僕は思ふのである。現代詩人の複雜な心情はもはや十行やそこいらの詩の中にははひり切らぬのならば、一篇々々としてはいくら物足らぬところがあつてもいい、それら數篇が相寄つて互に補ひ合ひながら、はじめて一心情を形成する、――さういふのが連作體の詩の特色である以上、野心的な詩人たちには小説などに手を出すよりは、ときどきさういふ詩作をもして貰ひたいのである。それは、海がその深みを加へれば加へるほどその青みを増すやうに、それらの詩を積み重ねれば重ねるほどその心情の凄みを増すやうなものであらしめたい。

          ※(アステリズム、1-12-94)

 又、野心ある詩人たちには時には長い詩も書いて貰ひたいものである。『四季』などでは、詩は大抵二頁位にきちんと收まつてゐる。ほとんど毎號々々がさうなのである。清潔ないい感じはするが、すこし几帳面すぎはしまいかと思ふ。ときどきは何頁めくつても、その詩がいつまでもいつまでも續いてゐる、――讀んでゆけばゆくほど、讀者の心は引き裂かれさうになり、或は云ひやうもなく靜まつてゆく、そんな詩が讀みたいものである。現代ではそんな詩をものすことはますます不可能に近くなつてゐる、――さういふ嘆きは誰もかも抱いてゐよう。それだけ、さういふ奇蹟のやうな詩の出現も、野心のある詩人たちには望みたいのである。
 僕はゆうべ、この山の宿で、鞄の中に入れてきたリルケの「鎭魂曲レクヰエム」の英譯本をとり出して、そのうちの「或女友達のために」の一篇を讀んだのである。これは二百七十行からもある長篇である。この春、その原文を辭書と首引きで讀んだときなどは、僕の例の氣まぐれな讀み方では、讀み了へるのに二三日もかかり、それでもまだ半分以上も解らないところを殘したのであるが、――いま、比較的讀みやすい英譯で讀み直してみても、相變らず解つたやうな解らないやうなところが多い。が、ところどころ解し得た詩句からは何ともいへず清冽な光線が發せられてきて、それが依然として暗黒である前後の詩句の上をもかすかに明るませ、それがひよいと一瞬間解つたやうな、しかしまだ何となく腑に落ちないやうな氣もちに僕をさせる工合も、それもまたなかなか愉しいのである。

          ※(アステリズム、1-12-94)

「リルケがヴォルプスヴェエデの繪かき村のなかで暮らしてゐる間に書いた日記の中には、後に彼の妻となつた女流彫刻家クララ・ウェストホフに對するばかりでなく、「ブロンドの閨秀畫家」パウラ・ベッカアに對する數多の仄めかしが見出される。その後者に對しても、彼が非常に深い愛情をもつてゐたことは、疑ふことが出來ない。これ等の二人の少女と共に、語り合つたり、音樂を聽いたり、自分の詩を自分で朗讀したりしながら過した夜々の、彼の記述は見事である。彼が「形象詩集」中の「少女の歌」を書いたのは、それらのうちの一夜の後だつた。パウラ・ベッカアは畫家オットオ・モオダアゾオンと結婚したが、その後間もなく産褥中に死んだ」と、英譯者J・B・レイシュマンは、「レクヰエム」の莊嚴なる一篇をもつてリルケがその死を哭した、その「或女友達」のことをノオトしてゐる。
 詩人の微妙なる筆は、冒頭、若くして逝けるものが、生者のところに歸つてきて、何か忘れていつたものを搜し求めるかのやうに、おづおづとさまよひ歩いてゐる姿を描いてゐる。彼女の求めてゐるものは何であるか?

言ひなさい、私は旅に出ようか?
お前は何處かに、或物を殘してきたのだが、
それがお前のところに來ようとして苦しんででもゐるといふのか?
お前の五官の他の半分のやうにお前に似てゐるけれど、
お前がまだ見たことのない田舍に、私が旅しようか?

 その田舍で、私は園丁に多くの花の名前を諳誦させ、その美しい特有の名前の破片の中に入れて多くの香の殘りを持ち歸らうか? それともまた、その地方がその青空までもその中に存在してゐるやうな、果實を買つて來ようか?

何故ならお前は熟した果實といふものをよく理解してゐたから。
お前は自分の前の皿のなかにそれを置いたものだ、
そしてその重味を色彩でもつて測つたものだつた、
そして女たちも、子供たちも、お前には果物のやうに見えたものだつた、
兩者とも内部からさういふ生態の中に押しやられてゐるのだ。
そして遂にお前はお前自身を果實として見るやうになり、
お前自身をお前の着物から引き出して、鏡の前に運び、
それをお前の見るがままに委ねて置いたものだつた、
するともはやそれは「あれは私だ」とは言はずに、「これが私だ」と言ふのだつた。
それほどお前の凝視は好奇的ではなくなつてゐた。
無一物で、本當に貧しく、それはもはやお前自身をも欲せぬほどであつた、
それほどお前は神聖になつてゐた。……

 そんな風に、――お前が鏡の中に深く、そしてすべての者から遠くに、お前自身を置いてゐるときのやうに、私はお前を保つてゐたいのだ。それだのに、何故お前は異つた風に來るのか? 何故お前はお前自身を呼び戻すのか? ――さういふ彼女は、死によつて中絶された仕事を仕上げたがつてゐるのではないか? 彼女が愼ましやかに、名聲には無頓着に、唯自分のうちに強くつて自由な魂を成熟せしめようと努力してゐた時、外部から突然、他の勞役――「母になること」が現はれたのであつた。彼女は突嗟に、彼女が自分のうちに養つてゐたものは死であることに氣づき、そして自分の血のすべてがそれに本能的に反抗するにも拘らず、それを彼女は穩かに受け入れた。……そんな風に、彼女を母とならせて死なしめたのは、彼女を所有して居り、彼女を意のままに出來ると思つてゐた彼女の夫であらうか? いや、それよりむしろ、それは彼の中の男である。しかし、自分の愛するものを所有する權利などを持つてゐる男など、何處にゐる? 自分自身をさへ保つて居れず、ただ子供がボオルでするやうに、ときどき運よく自分自身を掴まへては、再びそれを投げるやうな者どもに、どうして愛人を所有など出來よう?
 ――さういふ重々しい慟哭的な、しかし嚴しく制御せられた調子が、全篇をもの悲しげに流れてゐる。そしてこの者のやうな若くして純潔なる犧牲者の例から、いかに人生と偉大なる仕事との間には昔ながらに大きな敵意があるか、といふ永遠の法則が抽き出され、それが高調されてゐる。
 そして詩人は最後にかう結んでゐるのである。

歸つていらつしやるな。もしお前に我慢ができたら、死者と倶に
死んでいらつしやい。死者にはたんと仕事がある。
が、私に助力して下さい、それがお前の氣を散らさない範圍で、
遠方のものが屡※(二の字点、1-2-22)私に助力してくれるやうに、私の裡で。

底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
初出:「文藝懇話会 第一巻第十二号」
   1936(昭和11)年12月号
※初出時の表題は「山中雑記」、「雉子日記」河出書房(1940(昭和15)年7月9日)収録時「山の宿にて」と改題、「堀辰雄作品集第三・風立ちぬ」角川書店(1946(昭和21)年11月20日)収録時「「鎭魂曲」」と改題。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:岡村和彦
2013年4月11日作成
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