「エル・ハヂ」など

「羅馬を後にして、カンパニヤの野邊を横り、アルバノの山の東を走り、險しき山の崖、石多き川の谷を過ぎ、いつしかカッシノに著けば、近くモンテ・カッシノ山の聳ゆるあり、僧院の建物見ゆ。」とは濱田青陵の南歐遊記の一節である。
 そのモンテ・カッシノ僧院に、ジィドは或年(戰爭の數年前)一週間ばかり滯在してゐた。さうしてその地を立ち去らうとした日、病氣のため謁見できずにゐた僧院長にはじめてその自室に呼ばれて、挨拶をした。僧院長はもう非常な高齡で、衰弱して居り、やつと椅子に靠れるやうにして、ジィドを側に坐らせて、しばらく音樂談をした。
「私はあなたが音樂のお好きなことを聞いてゐる。毎晩ピアノをお彈きになつてゐたさうだが、私はそれが聞けなくて、非常に殘念だつた。私もピアノをやる。が、もうずつと以前から彈けなくなつて、ただ音譜を讀むだけで滿足してをる。無言で音譜を讀んで、想像裡に音樂を聞くのも、これでまた樂しみなものだ。かうやつて一人で臥てをるときなど、ときどき私の持つて來さすのは、聖徒傳のやうな本でなく、音譜の類だ……で、私がどういふものを持つて來さすかと思ふね。それはバッハでも、またモオツァルトでさへもない。それはショパン――あのもつとも純粹な音樂だ」
 その年老いた僧院長の率直な言葉にジィドは甚だ心を動かされた。さうしてジィドは最近「ショパンに就いてのノオト」を上梓したをり、その本をその僧院長に獻じてゐるのだ。
 私もこのごろその本を友人に送つて貰つて讀んだ。ジィドは一八九二年頃からすでに「シュウマンとショパンに就いてのノオト」といふ論文を書かうと企圖してゐたらしい。しかし、シュウマンに對する關心は次第にうすらいで、ショパンのみが彼の心を占めるやうになる。ジィドがショパンにおいて愛したものは、やはり「もつとも純粹な音樂」と一ことで言へるだらう。ジィドがショパンについて語るとき、いつもボオドレエルの名が引き合ひに出される。ショパンの音樂を考へるとき、ジィドはボオドレエルの詩を思はずにはゐられないのだ。兩者における完璧たらんとする願ひ、饒舌への嫌惡、さうして同じやうな不意打ち(surprise)の愛用、そのための極端な省略……
 私が昔「エル・ハヂ」を譯したとき、或る音樂雜誌に出てゐたこのショパン論を、その少し前に讀んで、ジィドの文體の魅力についていろいろと思ひあたる節があつた。そのときにはこの一種云ひ知れぬ不安に充ちた小さな物語が、ショパンの音樂そのものに似てゐることには、殆ど氣がつかないでゐた。しかしこんどショパン論を改めて讀み返したとき、すぐそれを感じた。「エル・ハヂ」はまさしく沙漠のなかから聞えて來る Marche fun※(グレーブアクセント付きE小文字)bre なのだ。さういふ不吉な名で呼ばれてゐるあのショパンのソナタ(Op. 35)のフィナアレだの、プレリュウドのなかの凄愴な或るものなどが、この小品とともに蘇つてくるのだ。

底本:「堀辰雄作品集第四卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年8月30日初版第1刷発行
初出:「アンドレ・ジイド全集月報7」新潮社
   1951(昭和26)年1月25日号
入力:tatsuki
校正:染川隆俊
2010年5月29日作成
2011年5月23日修正
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