聖家族

 死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。
 死人の家への道には、自動車の混雑が次第に増加して行った。そしてそれは、その道幅が狭いために、各々の車は動いている間よりも、停止している間の方が長いくらいにまでなっていた。
 それは三月だった。空気はまだ冷たかったが、もうそんなに呼吸しにくくはなかった。いつのまにか、もの好きな群集がそれらの自動車を取り囲んで、そのなかの人達をよく見ようとしながら、硝子窓ガラスまどに鼻をくっつけた。それが硝子窓を白く曇らせた。そしてそのなかでは、その持主等が不安そうな、しかし舞踏会にでも行くときのような微笑を浮べて、彼等を見かえしていた。
 そういう硝子窓の一つのなかに、一人の貴婦人らしいのが、目を閉じたきり、頭を重たそうにクッションにもたせながら、死人のようになっているのを見ると、
「あれは誰だろう?」
 そう人々はささやった。
 それは細木さいきと云う未亡人だった。――それまでのどれより長いように思われた自動車の停止が、その夫人をそういう仮死からよみがえらせたように見えた。するとその夫人は自分の運転手に何か言いながら、ひとりでドアを開けて、車から降りてしまった。丁度そのとき前方の車が動き出したため、彼女の車はそこに自分の持主を置いたまま、再び動き出して行った。
 それと殆ど同時に人々は見たのだった。帽子もかぶらずに毛髪をくしゃくしゃにさせた一人の青年が、群集を押し分けるようにして、そこに漂流物のように浮いたり沈んだりして見えるその夫人に近づいて行きながら、そしていかにも親しげに笑いかけながら、彼女の腕をつかまえたのを――
 その二人がやっとのことで群集の外に出たとき、細木夫人は自分が一人の見知らない青年の腕にほとんどもたれかかっているのに、はじめて気づいたようだった。彼女はその青年から腕を離すと、何か問いたげな眼ざしを彼の上に投げながら、
「ありがとうございました」
 と言った。青年は、相手が自分を覚えていないらしいことに気がつくと、すこし顔を赤らめながら答えた。
「僕、河野です」
 その名前を聞いても夫人にはどうしても思い出されないらしいその青年の顔は、しかしその上品な顔立によっていくらか夫人を安心させたらしかった。
「九鬼さんのお宅はもう近くでございますか」と夫人がきいた。
「ええ、すぐそこです」
 そう答えながら青年は驚いたように相手をふりむいた。突然、彼女がそこに立ち止まってしまったのだ。
「あの、どこかこのへんに休むところはございませんかしら。なんだかすこし気分が悪いものですから……」
 青年はすぐその近くに一つの小さなカッフェを見つけた。――そのなかに彼等がはいって見ると、しかしテエブルはほこりのにおいがし、植木鉢は木の葉がすっかり灰色になっていた。それをいまさらのように青年は夫人のために気にするように見えたけれど、夫人の方ではそれをそれほど気にはしていないらしかった。鉢植の木の葉の灰色なのは自分のかなしみのためのように思って居るのかも知れぬと青年は考えた。
 青年は夫人の顔色がいくらかよくなったのを見ると、すこし吃りながら言った。
「僕、ちょっとまだ用事がありますので……すぐまた参りますから……」
 そうして彼は立ち上った。

 そこに一人ぎりになると、細木夫人はまた目をとじて死人の真似をした。
 ――まるで舞踏会かなんぞのようなあの騒ぎは何ということだろう。私にはとてもあの人達の中へはいって行けそうもない。私はこのまま帰ってしまった方がいい……
 それにしても夫人はいまの青年の帰ってくるまで待っていようと思った。何だかその青年に一度どこかで会ったこともあるような気がし出したから。そう言えば何処かしら死んだ九鬼に似ているところがあると彼女は思った。そしてその類似が彼女に一つの記憶をおこした。
 数年前のことだった。軽井沢のマンペイ・ホテルで偶然、彼女は九鬼に出会ったことがあった。その時九鬼はひとりの十五ぐらいの少年を連れていたが、彼はその少年にちがいないと思い出した。――その快活そうな少年を見ながら、彼女がすこし意地わるそうに、「あなたによく似ていますわ。あなたのお子さんじゃありませんの?」そう言うと、九鬼は何か反撥するような微笑をしたきり黙りこんでしまった。その時くらい九鬼が自分を憎んでいるように思われたことはない……


 河野扁理こうのへんりは事実、その夫人の思い出のなかの少年なのだ。
 扁理の方では、勿論、数年前、軽井沢で九鬼と一しょに出会ったその夫人のことを忘れている筈はない。
 その時、彼は十五であった。
 彼はまだ快活で、無邪気な少年だった。
 九鬼が夫人をよほど好きなのではないかしらと思い出したのは、ずっと後のことだ。その当時は、ただ九鬼が夫人を心から尊敬しているらしいのだけが分った。それがいつしか夫人を彼の犯し難い偶像にさせていた。ホテルでは、夫人の部屋は二階にあって、向日葵ひまわりの咲いている中庭に面していた。そしてその部屋の中に、ほとんど一日中閉じこもっていた。そこへ一度もはいる機会のなかった彼は、日向葵の下から、よくその部屋を見上げた。それは非常に神聖な、美しい、そして何か非現実なもののように思われた。
 そのホテルの部屋は、その後、彼の夢の中にしばしば現われた。彼は夢の中では飛ぶことができた。そのおかげで、彼はその部屋の中を窓ガラスごしに見ることができた。それは夢毎にかならず装飾を変えていた。或る時はイギリス風に、或る時は巴里風パリふうに。
 彼は今年二十になった。同じ夢を抱いて、前よりはすこし悲しそうに、すこしせて。
 そしてさっきも、群集の間から、自動車のなかに死んだようになっている夫人をガラスごしに見たときは、彼は自分が歩きながら夢を見ているのではないかと信じたくらいだった……


 告別式の混雑によってすっかり死の感情を忘れさせられながら、その式場から帰ってきた扁理は、埃だらけのカッフェのなかに、再びその死の感情を夫人と共に発見した。
 彼にはそれらのものが近づき難いように思われた。そこでそれらに近づくために彼は出来るだけ悲しみを装おうとした。だが、自分で気のついているよりずっと深いものだった、彼自身の悲しみがそれを彼にうまくさせなかった。そして愚かそうに、彼はそこに突立っていた。
「どうでしたか?」夫人が彼の方に顔をあげた。
「え、まだ大変な混雑です」彼はどぎまぎしながら答えた。
「では、私、もうあちらへお伺いしないで、このまま帰りますわ……」
 そう言いながら夫人は自分の帯の間から小さな名刺を出してそれを彼に渡した。
「すっかりお見それして居りましたの……こんどおひまでしたら、宅へもお遊びにいらしって下さいませ」
 扁理は、自分が夫人に思い出されたことを知り、その上そういう夫人からの申し出を聞くと、一そうどぎまぎしながら、何かしきりに自分もポケットの中を探し出した。そうしてやっと一枚の名刺を取り出した。それは九鬼の名刺だった。
「自分の名刺がありませんので……」そう言って、ものじた子供のように微笑しながら、彼はその名刺を裏がえし、そこに
   河野扁理
という字を不恰好ぶかっこうに書いた。
 それを見ながら、さっきからこの青年と九鬼とは何処がこんなに似ているのだろうと考えていた細木夫人は、やっとその類似点を彼女独特の方法で発見した。
 ――まるで九鬼を裏がえしにしたような青年だ。
 このように、彼等が偶然出会い、そして彼等自身すら思いもよらない速さで相手を互に理解し合ったのは、その見えない媒介者が或は死であったからかも知れないのだ。

    ※(アステリズム、1-12-94)

 河野扁理には、細木夫人の発見したように、どこかに九鬼を裏がえしにしたという風がある。
 容貌の点から言うと彼にはあまり九鬼に似たところがない。むしろ対蹠的たいせきてきと言っていい位なものだ。だが、その対蹠がかえって或る人々には彼等の精神的類似を目立たせるのだ。
 九鬼はこの少年を非常に好きだったらしい。それがこの少年をして彼の弱点を速かに理解させたのであろう。九鬼は自分の気弱さを世間に見せまいとしてそれを独特な皮肉でなければ現わすまいとした人だった。九鬼はそれになかば成功したと言っていい。だが、彼自身の心の中に隠すことが出来れば出来るほど、その気弱さは彼にはますます堪え難いものになって行った。扁理はそういう不幸を目の前に見ていた。そして九鬼と同じような気弱さを持っていた扁理は、そこで彼とは反対に、そういう気弱さを出来るだけ自分の表面に持ち出そうとしていた。彼がそれにどれだけ成功するかは、これからの問題だが。――

 九鬼の突然の死は、勿論、この青年の心をめちゃくちゃにさせた。しかし、九鬼の不自然な死をも彼には極めて自然に思わせるような残酷な方法で。


 九鬼の死後、扁理はその遺族のものから頼まれて彼の蔵書の整理をしだした。
 毎日、黴臭かびくさい書庫の中にはいったきり、彼は根気よくその仕事をしていた。この仕事は彼の悲しみに気に入っているようだった。
 或る日、彼は一冊の古びた洋書の間に、何か古い手紙の切れっぱしのようなものの挟まってあるのを発見した。彼はそれを女の筆跡らしいと思った。そしてそれを何気なく読んだ。もう一度読みかえした。それからそれを注意深く元の場所にはさんで、なるたけ奥の方にその本を入れて置いた。覚えておくためにその表紙を見たら、それはメリメの書簡集だった。
 それからしばらく、彼は口癖のように繰り返していた。
 ――どちらが相手をより多く苦しますことが出来るか、私たちは試して見ましょう……


 夕方になると、扁理は自分のアパアトメントに帰える。
 彼の部屋は実によく散らかっている。それは彼が毎日九鬼の書庫を整理するのと同じような根気よさで、散らかしたもののように見える。――或る日、彼がその部屋へはいって行くと、新聞とか雑誌とかネクタイとか薔薇ばらとかパイプなどの堆積たいせきの上に、丁度水たまりの上に浮んだ石油のように、虹色になって何かが浮んでいるのを彼は発見した。
 それは、よく見ると、一つの美しい封筒だった。裏がえすと細木と書いてあった。そしてその筆跡は彼にすぐこの間のメリメ書簡集のなかに発見した古手紙のそれを思い出させた。
 彼は丁寧に封筒を切りながら、ひょいと老人のような微笑を浮べた。何も彼も知っているんだと言った風な……
 ――扁理はそんな風に二通りの微笑を使い分けるのだ。子供のような微笑と老人のような微笑と。つまり、他人に向ってするのと自分に向ってするのとを区別していたのだ。
 そしてそういう微笑のために、彼は自分の心を複雑なのだと信じていた。


 扁理にとって、細木夫人との二度目の面会が、その前のときよりもずっと深い心の状態においてなされたのは、そういうエピソオドのためだった。細木夫人の部屋は、彼の夢とは異って、装飾などもすこぶる質素だった。決してイギリス風でも、巴里風パリふうでもなかった。そしてそれは彼に何となく一等船室のサロンを思わせた。
 ときどき彼が船暈ふなよいを感じている人のような眼ざしを夫人の上に投げるのに注意するがいい。
 だが扁理の心理をそんなに不安にさせているのは、そういう環境のためばかりではなしに、細木夫人とともに故人の思い出を語りながら、たえず相手の気持について行こうとして、出来るだけ自分の年齢の上に背伸びをしているためでもあったのだ。
 ――この人もまた九鬼を愛していたのにちがいない、九鬼がこの人を愛していたように。と扁理は考えた。しかしこの人の硬い心は彼の弱い心を傷つけずにそれに触れることが出来なかったのだ。丁度ダイアモンドが硝子ガラスに触れるとそれを傷つけずにはおかないように。そしてこの人もまた自分で相手につけた傷のために苦しんでいる……
 そういう考えがたえず扁理を彼の年齢の達することのできない処に持ち上げようとしていたのだ。
 ――やがて、ひとりの十七八の少女が客間のなかに入ってくるのを彼は見た。
 彼はそれが夫人の娘の絹子であることを知った。その少女は彼女の母にまだあんまり似ていなかった。それが彼に何となくその少女を気に入らなく思わせた。
 彼は自分のいまの気持からは十七八の少女はあんまり離れ過ぎているように思った。彼はその少女の顔よりも彼女の母のそれの方をもっと新鮮に見出した。
 絹子の方でもまた、少女特有の敏感さによって、扁理の気持が彼女から遠くにあることを見抜いたらしかった。彼女は黙ったまま、二人の会話にはいろうとしなかった。
 彼女の母はすぐそれに気づいた。そして彼女の微妙な心づかいがそれをそのままにしておくことを許さなかった。彼女は母らしい注意をしながら、その二人をもっと近づけようとした。
 彼女はそれとなく扁理に娘の話をしだした。――或る日、絹子は学校友だちに誘われるままに初めて本郷の古本屋というものに入ってみたという。彼女がふとそこにあったラファエロの画集を手にとって見ると、その扉には九鬼という蔵書印がしてあった。そして彼女はそれを非常に欲しがっていた……
 突然、扁理が遮った。
「それは僕の売ったものかも知れません」
 夫人たちは驚いて彼を見上げた。すると彼は例の特有の無邪気な微笑を見せながらつけ加えた。
「九鬼さんにずっと前に貰ったのを、あの方の亡くなられる四五日前に、どうにも仕様がなくなって売ってしまったんです。今になってたいへん後悔しているんですけれども……」
 そういう自分の貧しさをどうしてこういう豊かな夫人たちの前で告白するような気になったのか、扁理自身にもよく分らなかった。だが、この告白は何となく彼の気に入った。彼は自分の思いがけない率直な言葉によって、夫人たちがひどく驚いているらしいのを、むしろ満足そうに眺めた。
 そうして扁理自身もまた、自分自身の子供らしい率直さにいつか驚き出した……

    ※(アステリズム、1-12-94)

 それまで彼の夢にしか過ぎなかった細木家というものが、急に一つの現実となって扁理の生活の中にはいってきた。
 扁理はそれを九鬼やなんかの思い出といっしょくたに、新聞、雑誌、ネクタイ、薔薇ばら、パイプなどの混雑のなかに、無造作に放り込んでおいた。
 そういう乱雑さをすこしも彼は気にしなかった。むしろそれに、彼自身に最もふさわしい生活様式を見出していたのだ。

 或る晩、彼の夢のなかで、九鬼が大きな画集を彼に渡した。そのなかの一枚の画をさしつけながら、
「この画を知っているか?」
「ラファエロの聖家族でしょう」
 と彼は気まり悪そうに答えた。それがどうやら自分の売りとばした画集らしい気がしたのだ。
「もう一度、よく見てみたまえ」と九鬼が言った。
 そこで彼はもう一ぺんその画を見直した。すると、どうもラファエロの筆に似てはいるが、その画のなかの聖母の顔は細木夫人のようでもあるし、幼児のそれは絹子のようでもあるので、へんな気がしながら、なおよく他の天使たちを見ようとしていると、
「わからないのかい?」と九鬼は皮肉な笑い方をした……
 扁理は目をさました。見ると、散らかった自分の枕もとに、見おぼえのある、立派な封筒が一つ落ちているのだ。
 おや、まだ夢の続きを見ているのかしら……と思いながら、それでもいそいでその封を切って見ると、手紙の中の文句は明瞭めいりょうだった。ラファエロの画集を買い戻しなさいと言うのだ。そしてそれと一しょになって一枚の為替が入っていた。
 彼はベッドの中で再び眼をつぶった。自分はまだ夢の続きを見ているのだと自分自身に言ってきかせるかのように。


 その日の午後、細木家を訪れた扁理は大きなラファエロの画集をかかえていた。
「まあ、わざわざ持っていらっしったんですか。あなたのところに置いておけばおよろしかったのに」
 そう言いながらも、夫人はそれをすぐ受取った。そうして籐椅子とういすに腰かけながら、しずかにそれを一枚一枚めくっていった……と思うと、突然、それを荒あらしい動作で自分の顔のところに持ち上げた。そしてその本のにおいでもいでいるらしい。
「なんだかたばこのにおいがいたしますわ」
 扁理は驚いて夫人を見上げた。咄嗟とっさに九鬼が非常に莨好きだったことを思い出しながら。そうして彼は夫人の顔が気味悪いくらいに蒼ざめているのに気づいた。
「この人の様子にはどこかしら罪人と云った風があるな」と扁理は考えた。
 その時、庭の中から絹子が彼に声をかけた。
「庭をごらんになりません?」
 彼は夫人をそのまま一人きりにさせて置く方が彼女の気に入るだろうと考えながら、ひっそりとした庭のなかへ絹子のあとについて行った。
 少女は、扁理を自分のうしろに従えながら、庭の奥の方へはいって行けば行くほど、へんに歩きにくくなり出した。彼女はそれを自分のうしろにいる扁理のためだとは気づかなかった。そして少女のみが思いつき得るような単純な理由を発見した。彼女は扁理をふりかえりながら言った。
「このへんに野薔薇がありますから、踏むと危のうございますわ」
 野薔薇に花が咲いているには季節があまり早すぎた。そして扁理には、どれが野薔薇だか、その葉だけでは見わけられないのだ。彼もまた、いつのまにか不器用に歩き出していた。


 絹子は、自分では少しも気づかなかったが、扁理に初めて会った時分から、少しずつ心が動揺しだしていた。――扁理に初めて会った時分からではすこし正確ではない。それはむしろ九鬼の死んだ時分からと言い直すべきかも知れない。
 それまで絹子はもう十七であるのに、いまだに死んだ父の影響の下に生きることを好んでいた。そして彼女は自分の母のダイアモンド属の美しさを所有しようとはせずに、それを眺め、そしてそれを愛する側にばかりなっていた。
 ところが、九鬼の死によって自分の母があんまり悲しそうにしているのを、最初はただ思いがけなく思っていたに過ぎなかったが、いつかその母の女らしい感情が彼女の中にまだ眠っていた或る層を目ざめさせた。その時から彼女は一つの秘密を持つようになった。しかし、それが何であるかを知ろうとはせずに。――そして、それからというもの、彼女はらずらず自分の母の眼を通して物事を見るような傾向に傾いて行きつつあった。
 そして彼女はいつしか自分の母の眼を通して扁理を見つめだした。もっと正確に言うならば、彼の中に、母が見ているように、裏がえしにした九鬼を。
 しかし彼女自身は、そういうすべてを殆ど意識していなかったと言っていい。


 そのうち一度、扁理が彼女の母の留守に訪ねて来たことがある。
 扁理はちょっと困ったような顔をしていたが、それでも絹子にすすめられるまま、客間に腰を下してしまった。
 あいにく雨が降っていた。それでこの前のように庭へ出ることもできないのだ。
 二人は向い合って坐っていたが、別に話すこともなかったし、それに二人はお互に、相手が退屈しているだろうと想像することによって、自分自身までも退屈しているかのように感じていた。
 そうして二人は長い間、へんに息苦しい沈黙のなかに坐っていた。
 しかし二人は室内の暗くなったことにも気のつかないくらいだった。――そんなに暗くなっていることに初めて気がつくと、驚いて扁理は帰って行った。
 絹子はそのあとで、何だか頭痛がするような気がした。彼女はそれを扁理との退屈な時間のせいにした。だが、実は、それは薔薇ばらのそばにあんまり長く居過ぎたための頭痛のようなものだったのだ。

    ※(アステリズム、1-12-94)

 そういう愛の最初の徴候は、絹子と同じように、扁理にも現われだした。
 自分の乱雑な生き方のおかげで、扁理はその徴候をば単なる倦怠けんたいのそれと間違えながら、それを女達の硬い性質と自分の弱い性質との差異のせいにした。そして「ダイアモンドは硝子ガラスを傷ける」という原理を思い出して、自分もまた九鬼のように傷つけられないうちに、彼女たちから早く遠ざかってしまった方がいいと考えた。そして彼は彼独特の言い方で自分に向って言った。――自分を彼女たちに近づけさせたところの九鬼の死そのものが、今度は逆に自分を彼女たちから遠ざけさせるのだと。
 そしてそういう驚くほど簡単な考え方で彼女たちから遠ざかりながら、扁理は再び自分の散らかった部屋のなかに閉じこもって、自分一人きりで生きようとした。すると今度は、その閉じ切った部屋の中から、本当の倦怠が生れ出した。しかし扁理自身はその本物も贋物にせものもごっちゃにしながら、ただ、そういうものから自分を救い出してくれるような一つの合図しか待っていなかった。
 一つの合図。それはカジノの踊り子たちに夢中になっている彼の友人たちから来た。
 或る晩、扁理は友人たちと一しょにコック場のような臭いのするカジノの楽屋廊下に立ちながら、踊り子たちを待っていた。
 彼はすぐ一人の踊り子を知った。
 その踊り子は小さくて、そんなに美しくなかった。そして一日十幾回の踊りにすっかり疲れていた。だが、その自棄気味やけぎみで、陽気そうなところが、扁理の心をひきつけた。彼はその踊り子に気に入るために出来るだけ自分も陽気になろうとした。
 しかし踊り子の陽気そうなのは、彼女の悪い技巧にすぎなかった。彼女もまた彼と同じくらいに臆病だった。が、彼女の臆病は、人に欺かれまいとするあまりに人を欺こうとする種類のそれだった。
 彼女は扁理の心を奪おうとして、他のすべての男たちとふざけ合った。そして彼を自分から離すまいとして、彼と約束して置きながら、わざと彼を待ち呆けさせた。
 一度、扁理が踊り子の肩に手をかけようとしたことがある。すると踊り子はすばやくその手から自分の肩を引いてしまった。そして彼女は、扁理が顔を赤らめているのを見ながら、彼の心を奪いつつあると信じた。
 こういう二人の気の小さな恋人同志がどうして何時までもうまくやって行けるだろうか?
 或る日、彼は公園の噴水のほとりで踊り子を待っていた。彼女はなかなかやって来ない。それには慣れているから彼はそれをそれほど苦痛には感じない。が、そのうちふと、踊り子とは別の少女――絹子のことを彼は考え出した。そしてしいま自分の待っているのがその踊り子ではなくて、あの絹子だったらどんなだろうと空想した。……が、その莫迦ばかげた空想にすぐ自分で気がついて、彼はそれを踊り子のための現在の苦痛から回避しようとしている自分自身のせいにした。

 扁理の乱雑な生活のなかに埋もれながら、なお絶えず成長しつつあった一つの純潔な愛が、こうしてひょっくりその表面に顔を出したのだ。だが、それは彼に気づかれずに再び引込んで行った……


 絹子はといえば、扁理が自分たちから遠ざかって行くのを、最初のうちは何かほっとした気持で見送っていた。が、それが或る限度を越え出すと、今度は逆にそれが彼女を苦しめ出した。しかし、それが扁理に対する愛からであることを認めるには、少女の心はあまりに硬過ぎた。
 細木夫人の方は、扁理がこうして遠ざかって行くのを、むしろ、彼に訪問の機会を与えてやらない自分自身の過失のように考えていた。しかし夫人には扁理を見ることは楽しいことよりも、むしろ苦しいことの方が多かった。そうして月日が九鬼の死を遠ざければ遠ざけるほど、彼女に欲しいのは平静さだけであった。だから、彼女は扁理がだんだん遠ざかって行くのを見ても、それをそのままにして置いたのだ。
 或る朝、二人は公園のなかに自動車をドライヴさせていた。
 噴水のほとりに、扁理が一人の小さい女と歩いているのを、彼女たちが見つけたのはほとんど同時だった。その小さい女は黄と黒の縞の外套がいとうをきていて、何か快活そうに笑っていた。それと並んで扁理は考え深そうにうつむきながら歩いていた。
「あら!」と絹子が車の中でかすかに声を立てた。
 と同時に彼女は、彼女の母がもしかしたら扁理たちに気づかなかったかも知れないと思った。そうして彼女自身もそれに気づかなかったような風をしようとした。
「なんだか目の中にゴミがはいっちゃったわ……」
 夫人は夫人でまた、絹子が扁理たちを見なかったことを、ひそかに欲していた。そうして、ほんとうに目の中にゴミかなんか入って彼等を見なかったのかも知れないと思った。
「びっくりしたじゃないの……」
 そう言って、夫人は自分の心持蒼くなっている顔をごまかした。

    ※(アステリズム、1-12-94)

 その沈黙はしかし、二人の間にながく尾をひいた。
 それからというもの、絹子はよく一人で町へ散歩に出かけた。彼女は心の中のうっとうしさを運動不足のせいにしていたのだ。そうして母からも離れて一人きりになりたい気持や、こうして歩いているうちにまたひょっとしたら扁理に会えるかも知れないという考えなどの彼女にあったことは、少しも自分で認めようとはしなかった。
 彼女は扁理とその恋人らしいものの姿を、下手な写真師のように修整していた。その写真のなかでは、例の小さい踊り子は彼女と同じような上流社会の立派な令嬢に仕上げられていた。
 彼女はそういう扁理たちに対して何とも云えないにがさを味った。しかし、それが扁理のための嫉妬しっとであることには、勿論、彼女は気づかなかった。何故なら、彼女は扁理たちのような年輩のどういう二人づれを見てもその同じようなにがさを味ったからだ。そして彼女はそれを世間一般の恋人たちに対するにがさであると信じた。――実は、彼女はどういう二人づれを見てもらずらず扁理たちを思い出していたのだが……
 彼女は歩きながら、飾窓ショウウィンドウに映る自分の姿を見つめた。そうして彼女は、いますれちがったばかりの二人づれに自分を比較した。ときどき硝子の中の彼女は妙に顔をゆがめていた。彼女はそれを悪い硝子のせいにした。


 或る日、そういう散歩から帰ってくると、絹子は玄関にどこか見おぼえのある男の帽子と靴とを見出した。
 そうしてそれが誰のだかはっきり思い出せないことが、彼女をちょっと不安にさせた。
「誰かしら」
 と思いながら、彼女が客間に近づいて行ってみると、その中から、こわれたギタアのような声が聞えてきた。
 それは斯波しばという男の声であった。
 斯波という男は、――「あいつはまるで壁の花みたいな奴ですよ。そら、舞踏会で踊れないもんだから、壁にばかりくっついている奴がよくあるでしょう。そういう奴のことを英語で Wall Flower というんだそうだけれど……斯波の人生における立場なんか全くそれですね」――そんなことをいつか扁理が言っていたのを思い出しながら、それから、彼女はふと扁理のことを考えた。……
 彼女が客間に入って行くと、斯波は急に話すのをめた。
 が、すぐ、斯波は、例のこわれたギタアのような声で、彼女に向って言いだした。
「いま、扁理の悪口を言っていたところなんですよ。あいつはこの頃全く手がつけられなくなったんです。くだらない踊り子かなんかに引っかかっていて……」
「あら、そうですの」
 絹子はそれを聞くと同時ににっこりと笑った。いかにも朗らかそうに。そして自分でも笑いながら、こんな風に笑ったのは実にひさしぶりであるような気がした。
 このながく眠っていた薔薇ばらを開かせるためには、たった一つの言葉で充分だったのだ。それは踊り子の一語だ。扁理と一しょにいた人はそんな人だったのか、と彼女は考え出した。私はそれを私と同じような身分の人とばかり考えていたのに。そしてそういう人だけしか扁理の相手にはなれないと思っていたのに。……そうだわ、きっと扁理はそんな人なんか愛していないのかも知れない。もしかすると、あの人の愛しているのはやっぱし私なのかも知れない。それだのに私があの人を愛していないと思っているので、私から遠ざかろうとしているのではないかしら。そうして自分をごまかすためにきっとそんな踊り子などと一しょに暮らしているのだ。そんな人なんかあの人には似合わないのに……
 それは少女らしい驕慢きょうまんな論理だった。しかし、大抵の場合、少女は自分自身の感情はその計算の中に入れないものだ。そして絹子の場合もそうだった。

    ※(アステリズム、1-12-94)

 ときどき鳴りもしないのにベルの音を聞いたような気がして自分で玄関に出て行ったり、器械がこわれていてベルが鳴らないのかしらと始終思ったりしながら、絹子はたえず何かを待っていた。
「扁理を待っているのかしら?」ふと彼女はそんなことを考えることもあったが、そんな考えはすぐ彼女の不浸透性の心の表面を滑って行った。
 或る晩、ベルが鳴った。――その訪問者が扁理であることを知っても、絹子は容易に自分の部屋から出て行こうとしなかった。
 やっと彼女が客間にはいって行くと、扁理は、帽子もかぶらずに歩いていたらしく、毛髪をくしゃくしゃにさせながら、青い顔をして、ちらりと彼女の方をにらんだ。それきり彼は彼女の方をふりむきもしなかった。
 細木夫人は、そういう扁理を前にしながら、手にしている葡萄ぶどうの皿から、その小さい実を丹念に口の中へ滑り込ましていた。夫人は目の前の扁理のだらしのない様子から、ふと、九鬼の告別式の日に途中で彼に出会った時のことを思い出し、それからそれへと様々なことが考えられてならないのだが、彼女はそれから出来るだけ心をそらそうとして、一そう丹念に自分の指を動かしていた。
 突然、扁理が言った――
「僕、しばらく旅行して来ようと思います」
「どちらへ?」夫人は葡萄の皿から眼を上げた。
「まだはっきり決めてないんですが……」
「ながくですの?」
「ええ、一年ぐらい……」
 夫人はふと、扁理が、例の踊り子と一しょにそんなところへ行くのではないかと疑いながら、
「淋しくはありませんか」といた。
「さあ……」
 扁理はいかにも気のない返事をしたきりだった。
 絹子はといえば、その間黙ったまま、彼の肖像でも描こうとするかのように、熱心に彼を見つめていた。
 そうして彼女の母が、扁理の、くしけずらない毛髪や不恰好ぶかっこうに結んだネクタイや悪い顔色などのなかに、踊り子の感化を見出している間、絹子はその同じものの中に彼女自身のために苦しんでいる青年の痛々しさだけしか見出さなかった。


 扁理が帰った後、絹子は自分の部屋にはいるなり、思わず眼をつぶった。さっきあんまり扁理の赤い縞のあるネクタイを見つめ過ぎたので、眼が痛むのだ。するとその閉じた眼の中には、いつまでも赤い縞のようなものがチラチラしていた……

    ※(アステリズム、1-12-94)

 扁理は出発した。
 都会が遠ざかり、そしてそれが小さくなるのを見れば見るほど、彼には出発前に見てきた一つの顔だけが次第に大きくなって行くように思われた。
 一つの少女の顔。ラファエロの描いた天使のようにきよらかな顔。実物よりも十倍位の大きさの一つの神秘的な顔。そしていま、それだけがあらゆるものから孤立し、膨大し、そしてその他のすべてのものを彼の目から覆い隠そうとしている……
「おれのほんとうに愛しているのはこの人かしら?」
 扁理は目をつぶった。
「……だが、もうどうでもいいんだ……」
 そんなにまで彼は疲れ、傷つき、絶望していた。
 扁理。――この乱雑の犠牲者には今まで自分の本当の心が少しも見分けられなかったのだ。そして何の考えもなしに自分のほんとうに愛しているものから遠ざかるために、別の女と生きようとし、しかもその女のために、もうどうしていいか分らないくらい、疲れさせられてしまっているのだ。
 そうして彼はいま何処へ到着しようとしているのか?
 何処へ?……
 彼は突然、汽車が一つの停車場に停まると同時に、慌ててそこへ飛び降りてしまった。
 それは何かの薬品の名を思い出させるような名前の、小さな海辺の町であった。
 そしてこの一個のトランクすら持たぬ悲しげな旅行者は、停車場を出ると、すぐその見知らない町の中へ何の目的もなしに足を運んで行った。
 彼はしかし歩いてゆくうちに、ふと変な気がしだした。……通行人の顔、風が気味わるく持ち上げている何かのビラ、何とも言えず不快な感じのする壁の上の落書、電線にひっかかっている紙屑かみくずのようなもの、――そういうものが彼になにかしら不吉な思い出を強請するのだ。扁理は或る小さなホテルにはいり、それから見知らない一つの部屋にはいった。あらゆるホテルの部屋に似ている一つの部屋。しかし、それすら彼に何かを思い出させようとし、彼を苦しめ出すのだ。彼は疲れていて非常に眠かった。そして彼はそのすべてを自分の疲れと眠たさのせいにしょうとした。彼はすこし眠った。……目をさますと、もう暗くなっていた。窓から入ってくる、湿っぽい風が扁理に、自分が見知らない町に来ていることを知らせた。彼は起き上り、それから再びホテルを出た。
 そうしてまた、さっき一度歩いたことのある道を歩きながら、あの時から少しも失われていない自分のなかの不可解な感じを、犬のように追いかけて行った。
 突然、或る考えが扁理にすべてを理解させ出したように見える。さっきから自分をこうして苦しめているもの、それは死の暗号ではないのか。通行人の顔、ビラ、落書、紙屑かみくずのようなもの、それらは死が彼のために記して行った暗号ではないのか。どこへ行ってもこの町にこびりついている死のしるし。――それは彼には同時に九鬼の影であった。そうして彼にはどうしてだか、九鬼が数年前に一度この町へやってきて、今の自分と同じように誰にも知られずに歩きながら、やはり今の自分と同じような苦痛を感じていたような気がされてならないのだ……
 そうして扁理はようやく理解し出した、死んだ九鬼が自分の裏側にたえず生きていて、いまだに自分を力強く支配していることを、そしてそれに気づかなかったことが自分の生の乱雑さの原因であったことを。
 そうしてこんな風に、すべてのものから遠ざかりながら、そしてただ一つの死を自分の生の裏側にいきいきと、非常に近くしかも非常に遠く感じながら、この見知らない町の中を何の目的もなしに歩いていることが、扁理にはいつか何とも言えず快い休息のように思われ出した。
 ――そのうちに扁理は、強い香りのする、おびただしい漂流物に取りかこまれながら、うす暗い海岸に愚かそうに突立っている自分自身を発見した。そうして自分の足もとに散らばっている貝殻や海草や死んだ魚などが、彼に、彼自身の生の乱雑さを思い出させていた。――その漂流物のなかには、一ぴきの小さな犬の死骸が混っていた。そうしてそれが意地のわるい波にときどき白い歯で噛まれたり、裏がえしにされたりするのを、扁理はじっと見入りながら、次第にいきいきと自分の心臓の鼓動するのを感じ出していた……

    ※(アステリズム、1-12-94)

 扁理の出発後、絹子は病気になった。
 そうして或る日、彼女はとうとう始めて扁理への愛を自白した。彼女は寝台の上で、シイツのように青ざめた顔をしながら、こんなことを繰り返えし繰り返えし考えていた。
 ――何故私はああだったのかしら。何故私はあの人の前で意地のわるい顔ばかりしていたのかしら。それがきっとあの人を苦しめていたのだわ。そうしてこんな風に私たちから遠ざからせてしまったのにちがいない。それに、あの人は始終自分の貧乏なことを気にしていたようだけれど……(そんな考えがさっと少女の頬を赤らめた)……それで、あの人は私のお母さんに誘惑者のように思われたくなかったのかも知れない。あの人が私のお母さんを怖れていたことはそれは本当だわ。こんな風にあの人を遠ざからせてしまったのはお母さんだって悪いんだ。私のせいばかりではない。ひょっとしたら何もかもお母さんのせいかも知れない……
 そんな風にこんぐらかった独語が、娘の顔の上にいつのまにか、十七の少女に似つかわしくないような、にがにがしげな表情をりつけていた。それは実に彼女自身への意地であったのだけれども、彼女には、それを彼女の母への意地であるかのように誤って信じさせながら……


「はいってもよくって?」
 そのとき部屋の外で母の声がした。
「いいわ」
 絹子は、彼女の母がはいって来るのを見ると、いきなり自分の狂暴な顔を壁の方にねじむけた。細木夫人はそれを彼女が涙をかくすためにしたのだとしか思わなかった。
「河野さんから絵はがきが来たのよ」と夫人はおどおどしながら言った。
 その言葉が絹子の顔を夫人の方にねじむけさせた。今度は夫人がそれから自分の顔をそむかせる番だった。
 ――この頃、細木夫人はすっかり若さを失っていた。そして彼女には、自分の娘が何んだか自分から遠くに離れてしまったように思われてならないのだった。彼女はときどき自分の娘を、まるで見知らない少女のようにさえ思うことがあった。そして今も、そうだった……
 絹子は、海の絵はがきの裏に、鉛筆で書かれた扁理の神経質な字を読んだ。彼は、その海岸が気に入ったからしばらく滞在するつもりだ、と書いて寄こしたきりだった。
 絹子はその絵はがきから、彼女の狂暴な顔をいきなり夫人の方にむけながら、
「河野さんは死ぬんじゃなくって?」と出しぬけに質問した。
 細木夫人はその瞬間、自分の方をにらんでいる、一人の見知らぬ少女の、そんなにもこわい眼つきに驚いたようだった。が、その少女のそんな眼つきは突然、夫人に、彼女がその少女と同じくらいの年齢であった時分、彼女の愛していた人に見せつけずにはいられなかった自分の恐い眼つきを思い出させた。そうして夫人は、その見知らない少女がその頃の自分にひどくていることに、そして、その少女が実は自分の娘であることに、なんだか始めて気づいたかのように見えた。夫人は溜息ためいきをしずかに洩らした。――娘は誰かを愛している。自分が、昔、あの人を愛していたように愛している。そしてそれはきっと扁理にちがいない……
 細木夫人は、しかし次の瞬間、自分のなかに長いこと眠っていた女らしい感情が、再び目ざめだしたように感じた。九鬼の死後、彼女の苦しんでいた様子が、絹子の中にそれまで眠っていた女らしい感情をおこしたのとまったく同じの心理作用が、今度は、その反作用ででもあるかのように起ったのだ。そしてそれは、夫人もまた絹子と同じように扁理を愛しているかのように、彼女に信じさせたくらいの新鮮さで。――
 二人はそのまましばらく黙っていた。そしてその沈黙が、絹子の今しがた言った恐しい言葉を、そっくりそのまま肯定しているかのように思われそうになった時、細木夫人はようやく自分の母としての義務を取り戻した。
 そうして夫人はいかにも自信ありげな微笑を浮べながら、答えたのである。
「……そんなことはないことよ……それはあの方には九鬼さんがいていなさるかも知れないわ。けれども、そのために反ってあの方は救われるのじゃなくって?」
 河野扁理にはじめて会った時から、夫人に、彼の生のなかには九鬼の死がよこいとのように織りまざっていることを、そしてそれが彼をして死に見入ることによって生がようやく分るような不幸な青年にさせていることを見抜かせたところの、一種の鋭い直覚が、いま再び彼女のなかによみがえって来ながら、そういう扁理の不幸を絹子に理解させるためには、いま言ったようなごく簡単な逆説パラドックスだけで充分であることを彼女に知らせたのだ。
「そうかしら……」
 絹子はそう答えながら、始めはまだ何処かしら苦痛をおびた表情で、彼女の母の顔を見あげていたけれども、そのうちにじっとその母の古びた神々しい顔に見入りだしたその少女の眼ざしは、だんだんと古画のなかで聖母を見あげている幼児のそれに似てゆくように思われた。

底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年5月28日初版第1刷発行
初出:「改造」
   1932(昭和7)年11月号
初収単行本:「聖家族」江川書房
   1932(昭和7)年2月20日発行
※底本の親本の筑摩書房版は、江川書房版による。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第1巻」筑摩書房、1977(昭和52)年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:松永正敏
2004年2月27日作成
2010年9月14日修正
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