豊島ヶ岡

江戸川の終點にて下り、目白臺を左にし、小日向臺を右にして、音羽八町を行き盡くせば、護國寺の門につき當る。そこを豐島ヶ岡と稱す。一帶の丘陵、樹木欝蒼として秀色掬すべし。殊に音羽の道路の坂ともつかずに次第々々に高まること、他に其比を見ず。門前より牛込を見渡してもはれ/″\しく、音羽の入口より豐島ヶ岡の秀色を仰ぐの風致は、げに都の中にもと驚かるゝばかり也。
 豐島ヶ岡は、一に墳墓の岡とも云ふべくや。豐島御陵は、皇族御埋骨の地也。護國寺には、三條公、山田顯義を始め、墳墓多し。陸車埋葬地は、入營中に死せる兵士を葬る處、墓も規則正しく行列す。西に雜司ヶ谷埋葬地あり。第一青山、第二谷中、第三染井と、東京の墓地を數へ來らば、第四には、こゝの墓地が入れらるべし。豐島御陵の東に接して、儒者棄場もあり。この墳墓の岡に、眞言宗豐山派の豐山大學、豐山中學もあれば、女子大學の寄宿舍もあり。晩香寮とは、中學教育程度にて嫁する女に對しての名にや。大鬼小鬼夜哭するの地に、明日の榮華を夢みる青春の男女の集まれるかと思ふにつけても、つく/″\『孤村至曉猶燈火、知有人家夜讀一レ書』のあはれなるを覺え、『骸骨の上を粧うて花見かな』の一層痛切なるを覺えずむばあらず。
 儒者棄場、今は學者塚と稱す。護國寺の門前を東に行き、坂に就かむとする處より北に行くこと一二町、路三つにわかる。中央の路最も大に、右の路やゝ小に、左の路最も小也。その最も小なる路を取り、つき當りて右折し、間もなく左折すれば、儒者棄場に達すべし。室鳩巣、岡田寒泉、柴野栗山、尾藤二州、古賀精里、同※(「にんべん+同」、第3水準1-14-23)庵など、江戸時代第一流の儒者の墓多く集まりたり。いづれも、みな幕府の儒官也。
 鳩巣の墓は、今は畑の中に、杉垣にて、かこひこまれたり。四つの小さき石塔相竝ぶ。最も左なるが鳩巣の墓にて、次が其妻の墓、次の二墓が、鳩巣の子の勿軒夫妻の墓也。鳩巣は新井白石と學友たり。而して白石は才を以て働き、鳩巣は徳を以て立てり。殊に鳩巣に偉とすべきは、赤穗義人録を著はしたること也。赤穗四十七士が君讐を報じて間もなき程にて群議紛々として是非一定せざりしに、一たびこの義人録出でて、天下の公論始めて定まれり。水戸義公の湊川の碑、鳩巣の義人録、これ當時好一對の美事也。
 鳩巣の墓の南に接して柴野氏の墓地あり。その中に栗山の墓あり。またその南は尾藤氏の墓地、二州の墓あり。またその南は古賀氏の墓地、精里の墓あり。其子※(「にんべん+同」、第3水準1-14-23)庵の墓もあり。※(「にんべん+同」、第3水準1-14-23)庵の子茶溪の墓もあり。茶溪までは、三代相つぎしが、茶溪は明治十七年に死して、まだに木標のみにて石塔が立ち居らず。鳩巣より始めて、墓地はだん/″\南に開けたり。而して墓もだん/″\大きくなれり。即ち精里父子の墓最も大にして、鳩巣の墓最も小也。岡田寒泉の墓は、栗山の墓の前方、雜木草莽の中に孤立す。よく/\注意せずば、見おとすべし。栗山、二州、精里は、寛政の三博士と呼ばれたる巨儒也。この際、學政の上には、林述齋といふ林家中興の英傑あり。政治の上には、松平樂翁といふ賢相あり。儒教の最も盛なりし時代にして、今日存する聖堂は、この際の建築に係れるもの也。寒泉も栗山と同じく儒官にして、好評ありしが、二州、精里と入れちがひに、出でて代官となり、治績大いに擧れり。當年の一人材也。
 鳩巣は亨保十九年に七十七歳にて逝けり。寒泉は、其れより後七十三年、文化四年に、七十一歳にて逝けり。栗山も同じ年に七十四歳にて逝けり。二州は文化十年に六十九歳にて逝けり。精里は文化十二年に六十八歳にて逝けり。何れもみな學者といふ者は、長壽也。
 儒者棄場とは、學者を侮辱したるやうに聞ゆれど、儒學盛なるにつれて、儒葬行はれ、其儒葬のさまが、普通の葬式とは異なりて、餘りに無造作にて、俗眼には、たゞ死人を棄てに行くやうに見えしかば、世俗は世俗通りに解釋して、棄場とは云ひける也。
(明治四十三年)

底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年11月28日作成
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