麦積山ばくせきざんの調査が行なわれたのは四年ほど前で、その報告も、すぐその翌年に出たのだそうであるが、わたくしはついに気づかずにいた。だから名取洋之助なとりようのすけ君が撮影して来た写真の一部を見せられた時には、突然のことで、どうもひどく驚かされたのであった。それは麦積山そのものが思いがけぬすばらしさを持っていたせいでもあるが、またそのすばらしさを突然われわれの目の前に持って来てくれた名取君の手腕、というのは、あまり前触れもなしにたった一人で出かけて行って、たった三日の間にあの巨大な岩山の遺蹟を、これほどまでにはっきりと、捕えてくることのできた名取君の手腕のせいであると思う。
 それについて思い起こされるのは、この麦積山の遺蹟と好い対照をなしている雲岡うんこう石窟の写真を初めて見た時のことである。それは東京大学の工学部の赤煉瓦れんがの建物があったころで、もう四十年ぐらい前になるかと思うが、木下杢太郎きのしたもくたろう君にさそわれて、佐野利器さのとしかた博士を研究室に訪ね、伊藤忠太いとうちゅうた博士が撮影して来られた雲岡石窟の写真を見せてもらったのである。当時佐野博士はまだ若々しい颯爽さっそうとした新進建築学者であったし、木下杢太郎君はもっと若い青年であった。また伊東博士の雲岡の報告も、フランスのシャヴァンヌのそれとともに、雲岡についての知識の権威であった。ところで、その時に見せてもらった雲岡の写真は、朦朧もうろうとした出来の悪いもので、あそこの石仏の価値を推測する手づるにはまるでならなかったのである。
 木下杢太郎君が自ら雲岡を訪ねて行ったのは、その後まもなくのことであったように思う。同君と木村荘八きむらしょうはち君との共著『大同石仏寺』が出たのは関東震災よりも前である。これでよほどはっきりして来たが、しかしまだ雲岡の全貌を伝えるには足りなかった。その後二十年くらいたって、奈良の飛鳥園が撮影しに行き、『雲岡石窟大観』という写真集を出した。水野精一みずのせいいち君たちの精密な実地踏査が始まったのもそのころで、その成果『雲岡石窟』十五巻の刊行が終わったのは、つい数年前のことである。これで雲岡遣蹟の紹介の仕事は完成したといってよいが、しかしそれは伊東博士が撮影して来られてから、半世紀たってのことである。
 麦積山はその雲岡に劣らない価値を持った遺蹟だと思われるが、それをわれわれに紹介する仕事は、名取君によって一挙にしてなされたように思う。もとよりその詳細な測定や記述の仕事は、今後に残されているでもあろうが、しかしわれわれのような素人が、推古仏の源流を求めていろいろと考えてみるというような場合には、これで十分である。寸法が精確に測定されていながら、写像がぼんやりしているよりも、像の印象が精確に捕えられていて、寸法のぼんやりしている方が、われわれにはずっとありがたい。

 さてそのような観点から麦積山の写真をながめていて、まず痛切に感ずるところは、ここにあるの時代の仏像がいかにも推古仏の源流らしい印象を与えること、そうしてそれが塑像であることと何らか密接な関連を持っているらしく見えることである。
 雲岡の数多い石仏は、その手法の上から推古仏の源流であること疑いがないといえるであろうが、しかしその与える印象においては推古仏とだいぶ違うものである。その豊満な肢体や、西方人を連想させる面相や、それらを取り扱う場合の感覚的な興味などは、推古仏にはほとんどないものと言ってよい。推古仏の特徴は肢体がほっそりした印象を与えること、顔も細面ほそおもてであること、それらを取り扱う場合に意味ある形を作り出すことが主要なねらいであって、感覚的な興味は二の次であることなどであるが、そういう特徴を持つものが雲岡の石仏の中に全然ないとは言いきれないにしても、例外的にしかないとは言えるであろう。だからわたくしには推古仏の源流は謎であった。で、わたくしは、雲岡の石像が示しているような、西方から来た様式と、漢代の画像石などの示しているような、流麗な線、細い肢体を主にするあの様式とが、相混じて一つの特殊な様式を作り、それが推古仏の源流となったのではなかろうかと空想したりなどしていたのである。
 しかるに麦積山の塑像のうちの最も古い時代のものは、実によく推古仏に似ている。写真ページ七からページ三五まで、ページ五四からページ六一までは皆そうであるが、中でもページ七、九、一六のごとき、あるいはページ五五、五六、六一のごとき、実に感じがよく似かよっている。そのほかになおページ七一、七四、七六、七九、八〇、ページ八二からページ八五などについても同様にいうことができるであろう。これらの塑像における面相や肢体の取り扱い方は、雲岡の石像の場合とはまるで違う。ここでは意味ある形を作ることが主要関心事であって、感覚的な興味は二の次である。従って面相に現われた表情がまるで違っているように、肢体の姿、衣文えもんの強調の仕方などもまるで違う。この塑像の様式がどういう道筋を通って推古仏の様式として現われて来たかについては、わたくしは何をいう権利も持たないのであるが、しかし証拠はなくとも、ここに推古仏の源流を認めてよいのではなかろうか。
 ところで、そうなると、どうしてこういう様式が麦積山に現われて来たかということが、新しく問題になってくる。それについてわたくしは、麦積山の仏像が塑像であることに今さらながら気づいたのである。漢代の様式感が西方の仏像の様式に結びつくとしても、石像においてよりは塑像においての方が容易であろう。ここにこそ推古仏の源流が出現して来たことの秘密が隠されているのではなかろうか。一体この塑像のやり方はどこで始まったか。またその塑像の製作はどこで栄えたのであるか。
 元来仏像はギリシア彫刻の影響の下にガンダーラで始まったのであるが、初期には主として石彫であって、漆喰しっくいや粘土を使う塑像は少なかった。がこの初期のガンダーラの美術は、三世紀の中ごろクシャーナ王朝の滅亡とともにいったん中絶し、一世紀余を経て、四世紀の末葉にキダーラの率いるクシャーナ族がガンダーラ地方に勢力を得るに及んで、今度は塑像を主とする美術として再興し、初期よりずっと優れた作品を作り出したといわれている。しかもこの製作上の発展は、漆喰や粘土のような扱いやすい材料を使ったことに帰せられているようである。この時期にはガンダーラ地方からアフガニスタンにかけての全域に塑像が栄えたので、特にアフガニスタンのハッダなどからすばらしい遺品を出している。シナへのガンダーラ美術の影響を考えるとすれば、芸術的にあまり優れていると言えない初期の石像彫刻によってよりも、むしろ芸術的に優れたこの期の塑像によってであることは、ほぼ間違いのないところであろう。
 四世紀の末葉から五世紀の初めへかけての時期といえば、雲岡や麦積山の石窟ができるころよりも、半世紀ないし一世紀前である。そのころは中インドの方でもグプタ朝の最盛期で、カリダーサなどが出ており、シナから法顕ほっけんを引き寄せたほどであった。だからそのインド文化を背景に持つインド・アフガニスタンの塑像美術が、カラコルムを超えてカシュガル(疏勒)ヤルカンド(莎車)ホタン(和※(「門<眞」、第3水準1-93-54))あたりへ盛んに入り込んでいたことは、察するに難くない。敦煌までの間にそういう都市は、ずいぶん多く栄えていたであろう。そうしてそういう都市は、仏教を受け入れ、それをその独自の立場で発展させることをさえも企てていたのである。仏教美術がそこで作られたことももちろんであるが、木材や石材に乏しいこの地方において、漆喰と泥土とを使う塑像のやり方が特に歓迎せられたであろうことも、察するに難くない。とすれば、タリム盆地は、アフガニスタンに次いで塑像を発達させた場所であったかもしれない。
 麦積山は敦煌からはだいぶ遠い。ホタンから敦煌まで来れば、大体タリム盆地を西から東へ突っ切ったことになるが、その距離と敦煌から麦積山までの距離とは、あまり違わないであろう。それを思うと、麦積山が、タリム盆地の文化圏に非常に近かったとも言えないのであるが、しかしタリム盆地で発達した芸術や宗教がシナの本部の方へ入り込んで来る際に、敦煌から蘭州を経て長安や洛陽の古い文化圏に来たことは確かであろうし、蘭州と長安との中ほどにある麦積山がこの文化流入の通路にあって、いち早くその感化を受けたであろうことも、疑う余地がない。そう考えると、麦積山の塑像の示しているところは、渭水流域の彫塑の技術とか、住民の体格面相とかであるよりも、むしろはるか西方、タリム川流域に栄えていた諸都市における彫塑の技術、住民の体格面相などであるであろう。
 四十何年か前に、スタインの『古代ホタン』を見て、中央アジアの砂漠のほとりに残っている古い都市の残骸から、いろいろな場面を空想したことがある。砂の中に埋もれてわずかに下半身だけを残していた塑像なども、それの好い材料であった。今名取君の撮影して来た写真を見ていると、あの時の空想がすっかり実現されて来たような気持ちになる。麦積山の創始の時代、すなわち五世紀から六世紀へかけての時代には、中央アジアはまだあまり荒廃せず、盛んな文化創造をやっていたはずである。従ってあの地方の諸都市に、ちょうどそのころガンダーラからアフガニスタンへかけて栄えていた塑像の技術が伝わっていたろうことも、疑う余地がない。ところでこのインド・ギリシア的な彫刻の様式が、初期のガンダーラ仏像のように、主として石彫として伝わってくるのと、この場合のように塑像として伝わってくるのとでは、これらの諸都市における反応はよほど違ったであろう。タクラマカンの砂漠のあたりには、よい石材などはありそうに見えない。石彫の技術を木彫に移そうにも、よい木材などは一層ありそうにない。ただ漆喰と泥土とだけは、お手のものである。そうなると、塑像の技術が伝わって来たということは、ちょうどこの地方に栄え得る技術が伝わって来たことを意味する。それはまた塑像の技術が自由な創造の働きと結びつくことをも意味するであろう。かくしてこれらの諸都市に、ガンダーラ・アフガニスタンの塑像とは著しく異なった、中央アジア独特の塑像の様式が出現したとしても、少しも不思議なことはないのである。
 麦積山の塑像は、この中央アジアの塑像の様式を反映しているらしい。それは、ここで主として問題としたような、推古仏の源流を思わせるあの仏像の様式について言えるのみならず、また戒壇院の四天王などのような天部像についても言えるであろう。表情を恐ろしく誇張して現わしながら、しかも嘘に陥らず現実性を失わない面相や肢体の独特な作り方は、やはり中央アジアの創始したものではないかと思われる。
 わたくしはこういう点が専門家の着実な研究によって明らかにされる日を待ち望んでいる。もしこの問題が、連鎖反応式に中央アジアのいくつかの遺蹟の発掘をひき起こしたとしたら、やがて千四百年前の中央アジアの偉観がわれわれの前に展開してくるであろう。

底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年9月18日第1刷発行
   2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:名取洋之助「麦積山石窟」岩波書店
   1957(昭和32)年4月20日発行
入力:門田裕志
校正:米田
2010年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。