鳴門秘帖(01 上方の巻)

 安治川尻あじがわじりに浪が立つのか、寝しずまった町の上を、しきりに夜鳥よどりが越えて行く。
 びッくりさせる、不粋ぶすいなやつ、ギャーッという五さぎの声も時々、――妙に陰気いんきで、うすら寒い空梅雨からつゆの晩なのである。
 起きているのはここ一軒。青いものがこんもりした町角まちかどで、横一窓の油障子あぶらしょうじに、ボウと黄色い明りがれていて、サヤサヤと縞目しまめいている柳の糸。軒には、「堀川会所ほりかわかいしょ」とした三尺札が下がっていた。
 と、中から、その戸を開けて踏み出しながら――
つじ斬りが多い、気をつけろよ」
 見廻り四、五人と町役人、西奉行所にしぶぎょうしょ提灯ちょうちんを先にして、ヒタヒタと向うの辻へ消えてしまった。
 あとは時折、切れの悪い咳払せきばらいが中からするほか、いよいよ世間しんとしきった時分。
「今晩は」
 会所の前にたたずんだ二人の影がある。どっちも、露除つゆよけの笠に素草鞋すわらじ合羽かっぱすそから一本落しのこじりをのぞかせ、及び腰で戸をコツコツとやりながら、
「ええ、ちょっとものを伺いますが……」
「誰だい」と、すぐ内から返辞があった。
「ありがてえ、起きていますぜ」
 後ろの連れへささやいて、ガラリと仕切りを開ける。中は、土間二つぼに床が三畳、町印の提灯箱やら、六尺棒、帳簿、世帯道具の類まであって、一人のおやじが寂然じゃくねんと構えている。
「何だえ、今ごろに」
 すず酒瓶ちろりを机にのせて、寝酒をめていた会所守かいしょもり久六きゅうろくは、入ってきたのをジロリと眺めて、
「旅の人だね」
「へい、実はよど仕舞船しまいぶねで、木村づつみへ着いたは四刻よつ頃でしたが、忘れ物をしたために、問屋で思わぬ暇をつぶしましたんで」
「ははあ、そこで何かい、どこの旅籠はたごでも泊めてくれないという苦情だろう」
自身番じしんばん証札あかしふだを見せろとか、四刻客よつきゃくはお断りですとか、今日、大阪入りのしょッぱなから、木戸を突かれ通しじゃございませんか」
「当り前だ、町掟まちおきても心得なしに」
叱言こごとを伺いに来た訳じゃござんせん。恐れいりますが、その宿札やどふだと、事のついでに、お心当りの旅籠を一つ……」
「いいとも、宿をさしても上げるが……」と久六、少し役目の形になって、二人の風態ふうていを見直した。
「一応聞きますが、お住居は?」
「江戸浅草の今戸いまどで、こちらは親分の唐草銀五郎からくさぎんごろう、わっしは待乳まつち多市たいちという乾分こぶんで」
「ああ、博奕ばくち打ちだな」
「どう致しまして、立派な渡世看板とせいかんばんがあります。大名屋敷で使う唐草瓦からくさがわら窯元かまもとで、自然、部屋の者も多いところから、半分はまアそのほうにゃ違いありませんが」
「何をいってるんだ」わきから、銀五郎が押し退けて、多市に代った。
「しゃべらせておくと、きりのねえ奴で恐れ入ります。殊には夜中やちゅう、とんだお手数てかずを」
「イヤ、どう致して」見ると、若いが地味づくりの男、落ちつきもあるし人品じんぴんも立派だ。
「そこで、も一ツ、行く先だけを伺いましょう」
 久六も、グッと丁寧に改まる。
あては四国、阿波あわ御領ごりょうへ渡ります」
「阿波へ? フーン」少しむずかしい顔をして、
蜂須賀家はちすかけでは、十年程前から、ばかに他領者たりょうものの入国を嫌って、よほどの御用筋ごようすじか、御家中ごかちゅうの手引でもなけりゃ、滅多めったに城下へ入れないという話だが」
「でも、是非の用向きでござりますから」
「そうですか。イヤ、わしがそれまでただすのは筋目違い。いますぐ宿証やどしょうを上げますから、それを持って大川南の渡辺すじ、土筆屋和平つくしやわへいへお泊りなさい」と、こより紙を一枚いで、スラスラと筆をつけだす。
 その時その間、何とも怪しい女の影。会所の横の井戸がわにしゃがみ込んで、ジッと聞き耳をたてていた。
 白い横顔、闇にツイと立ったかと思うと、
「どうも、ありがとう存じました」
 中の声と一緒に戸がいて、さッと明りが流れて来た。途端に、のしお頭巾の女の魔魅あやかし、すばやく姿を消している。
「あ、お待ちなさい――」会所守の久六は何思ったか、あわてて、出かける二人を呼び止めた。

「え、何ですッて?」
 唐草銀五郎に乾分こぶんの多市、出足を呼び返されて何気なくふりかえると、
「気をつけて行くことだぜ、物騒な刻限こくげんだ」
 会所の久六が、手真似てまねでバッサリ、いやに小声で注意をする。
「フン、辻斬りかあ」多市が鼻ッ先で受けると、
「これ、冗談じょうだんに聞きなさんな」と、久六は叱るように、「今し方もここへ見えた、見廻り役人の話では、刀試しじゃない物盗ものとりのさむらいで、しかも、毎晩られる手口を見ると、据物斬すえものぎりの達者らしいというこった」
「ご親切様……」銀五郎は丁寧に会釈えしゃくをして、スタスタと先へ歩きだした。
 教えられた道すじどおり、堀川から大川河岸を西へ曲がる。所々に出水でみずの土手くずれや化けそうな柳の木、その闇の空に燈明とうみょう一点、堂島開地どうじまかいちやぐらが、せめてこの世らしい一ツのまたたきであった。
「親分」多市は、追いつくように側へ寄って、
「自身番のおやじよけいなことを言やがったんで、何だかコウ背筋が少し寒くなった」
「おや、てめえはさっき、フン辻斬りかアと涼しい顔をしていたじゃねえか」
「そりゃ、関東者のやまいでしてね」
「出るなと思うやつはとかく出たがる。多市、今からてめえの腕前を頼んでおくぜ」
鶴亀つるかめ、いい当てるということがあら。第一、うちの親分は至ってたのもしくねえ」
「なぜ」
「こんな時の要害に、ながの道中、大枚の金をわっしに持たせておくんだからな」
ばかをいえ、それほどてめえの正直を買っているんだ」
「エエ詰らねえ、明日あしたからは、少し小出しにつかいこむこッた」無駄口を叩きながら、淀屋橋よどやばしの上にかかると、土佐堀とさぼり一帯、おくら屋敷の白壁も見えだして、少しは気強い思いがある。
 その二人は知らなかったが、堀川会所の蔭にひそんでいた、のしお頭巾の女の影はまたいつの間にか後ろをつけて、怪しい糸を手繰たぐってくるのだった。
「おや? ……」と、渡り越えた橋のたもとで、待乳まつちの多市、不意にギクリと足をすくめてしまった。
「親分、誰か来ますぜ、向うから」
「人の来るのに不思議はない。いい加減にしろよ、臆病者」
「だが、しっかり、目釘めくぎ湿しめしていておくんなさいね」
心配しんぺいするな」笑いながら、さっさと足を進めると、なるほど河岸かしッぷちの闇から、チャラリ、チャラリ……と雪踏せったる音。
 近づいた時、ひとみを大きくして見ると、侍だ。はっきり姿の見えない筈、上下うえした黒ぞっきの着流しに、顔まで眉深まぶかなお十夜頭巾じゅうやずきん
 当時、宝暦ほうれき頃から明和めいわにかけて三都、頭巾の大流行おおばやり、男がた女形おんながた岡崎おかざき頭巾、つゆ頭巾、がんどう頭巾、秀鶴しゅうかく頭巾、お小姓こしょう頭巾、なげ頭巾、猫も杓子しゃくしもこのふうすいをこらして、寒いばかりにする物でなくなった。
 チャラリ、チャラリと雪踏を鳴らして、今、銀五郎の左を横目づかいにすれ違った黒縮緬くろちりめんの十夜頭巾は、五、六けん行き過ぎてから、そっと足の穿き物をぬぎ、樹の根方へ押しやッた。
 かなぐり捨てた羽織もフワリとその上へ――。
 と思うと身をかがめて、そうまなこをやり過ごした闇へ――蝋色ろいろさやは肩より高く後ろへらしてススススと追いすがったが音もさせない。
「ウム!」と据物斬すえものぎりの腰、息を含んで、右手は固く、刀の柄糸つかいとへ食い込んだ。
 グイと前へ身をうねらせる。
 るな――と思えたが、銀五郎の後ろ構えを、多少手強てごわく思ったのか、そこでは抜かずにもう一、二間。
 すると、場合もあろうに、すぐ足もとの土佐堀とさぼりで、ドボーン! と真ッ白な水けむり、不意を食わせて凄じい水玉がかぶった。
「あッ――」と音を揚げたのは待乳の多市。そのほうよりは、後ろの死神に気がついて、
「親分ッ」と、銀五郎を突き飛ばしておいて、自分も宙を飛んでしまった。
「ちぇっ……」舌打ちして戻りかけた侍、ひょいと淀屋橋の上を仰ぐと、のしおがたに顔を包んだい女が、橋の手欄てすりに頬杖ついて、こっちへニッコリ笑ったものだ。
 取って返しの勢いで、十夜頭巾の侍が、ぴたぴたと自分の影へ寄ってくるのに、橋の女は、その欄干に片肱かたひじもたせて澄ましたもの。
 馴れない頭巾ものと見えて、うるさそうに、いて丸めて川の中へフワリと捨てた。――ついでに、下からさッとくる風と、頭巾くずれのびんの毛を、黄楊つげ荒歯あらはでざっといて、そのまま横へ差しておく。
「女!」ズンと凄味すごみのある声だ。
 いうまでもなく今の侍、逃がしたほうの身代りに、斬らねば虫が納まるまい。
「あい、わたしのことですか?」
 小褄こづまを下ろした襟掛えりかけ婀娜女あだものはどこまでも少し笑いを含んで、夏なら涼んでいるという形だ。
「知れたこと、なんで邪魔いたした」
「邪魔をしたって? アアそうか、今わたしが石をほうり込んだので、斬り損なった飛ばッちりを持ってきたんですね」
「ウム、どこまでも承知でしたことだな」
「百もご承知、お前さんは、縮緬ちりめんぞッきじゃいるけれど、辻斬りかせぎの荒事師あらごとし――、そう知ったからこそ横槍よこやりを入れたのさ。悪かったかい」
「なんだと」
「お前みたいな素人しろうと仕事に、あの二人はもったいない。どこか、河岸かしを代えたらいいでしょう」
「ウーム……、じゃてめえもあれをつけてきたのか」
「それもおまけに江戸からだよ。双六すごろくにしたって五十三つぎこんよくここまでつけてきたところを、横からさらわれてまるかどうか、胸に手を当てて考えてごらん」
「読めた、さては道中かたりか美人局つつもたせの」
「いいえ、これでも一本立ち、お前さんも稼業人かぎょうにんになるなら覚えておおき、女掏摸すり見返みかえりおつなというものさ」
「あっ、お綱か」
「おや、わたしを知ってるの」
一昨年おととし江戸へ行った時、二、三度落ち合ったことのあるお十夜孫兵衛じゅうやまごべえだ」
「まあ……」笑いまじりに寄ってきて、「それじゃ少し啖呵たんかが過ぎたね、早くいってくれりゃあいいのに」
「なアに、こっちがドジを踏み過ぎている。それにしても、たいそう遠出をしてきたものだな」
「ちっと仕事が大きいのでネ」
「たしかに見込みはついているのか」
「おさげすみだよ、お綱さんを」
 話してみると、ぞんざい口も、罪がなくってなまめかしくって、どこやら、国貞くにさだうつしという肌合はだあい。この美しさが、剃刀かみそりの折れを指にはさんで働くとは、目の前にいるお十夜にも、思えば不思議な気にされる。
「いけねえ、うっかりすると魅入みいられそうだ」冗談じょうだんに目をそらしたが、同時にはッとした色で、
「あ、向うから、また見廻り役人の提灯ちょうちんが来るようだ。ええ、うるせえな」と舌打ちした。
「逃げるなら、私にかまわず行っておくれ」
「なに、あわてることはねえ、支度はあるんだから」と、お綱を手招きして、橋の下をのぞいたかと思うと、低い声で、
「三――」と呼んだ。
 返辞はなかったがその代りに、ギーと出てきた剣尖船けんさきぶね頬冠ほおかむりの男が黙々と動いた。
 役方やくかた提灯ちょうちんが来た頃には、お綱と孫兵衛をのせた剣尖船、堀尻ほりじりを南にそれて、櫓力ろぢからいッぱい木津川きづがわをサッサと下っている。
 あがった所は住吉すみよし村、森囲いでべんがらぬりの豪家、三次すなわちあるじらしいが、何の稼業か分らない。湯殿から出て、空腹すきばらを満たして、話していると夜が明けた。
「――お先に、今夜のお礼をいっておきますよ。わたしたち仲間の紋切形もんきりがたで、仕事をするとその場から、プイと百里や二百里は飛びますからね――お前さんも、たまには江戸へ息抜きにおいでなさいな。本郷妻恋ほんごうつまごい一丁目、門垣根もんがきね百日紅さるすべりがあって、挿花はなの師匠の若後家と聞けばすぐ知れますよ。エエ、それがわたしの化身けしんなの」
 お十夜にこういって、お綱はその日昼いッぱい寝る。翌晩も、夜はブラリと出だして、昼寝する。なるほど、これではお嫁になれないたち
 と思うと、四日目か、五日目。
 朝風呂につかって、厚化粧して、臙脂べにを点じて、髪も衣裳もそッくり直した見返りお綱。パチンと紺土佐こんどさの日傘を開いて、住吉村から出て行った。
 どこへ行くのか、何を目星か、たてから見ても横から見ても、掏摸すりとは思えぬ品のよい御寮人様ごりょうにんさま

 四天王寺の日除地ひよけち、この間までの桃畑が、掛け小屋ごや御免ごめんで、道頓堀どうとんぼりすくってきたような雑閙ざっとうだ。
 日和ひよりはいいし、梅若葉にのぼりの風、木戸番は足の呼び合いに声をからしている。
 名古蝶なこちょう八の物真似ものまね一座を筆頭に辻能つじのう豊後節ぶんごぶしの立て看板。野天のでんをみると、江戸のぼりの曲独楽きょくごま志道軒しどうけんの出店。そうかと思うと、呑み棒、飴吹あめふき、ビイドロ細工、女力士と熊の角力すもうの見世物などもある。
「さあ、いらはいいらはい。ナガサキ南京なんきん手品ある。太夫さん、椿嬢ちんじょう蓮紅嬢れんこうじょうかけ合いの槍投やりなげ、火をけて籠抜かごぬけやる。看板に嘘ない」
 唐人ぶりが珍らしいので、この前がまた大変な人だかりだった。
「変ってやがる、べらぼうな入りだな、ちょッとのぞいて見ようかしら? だが、待てよ……」
 押しまれながら迷っていたのは、笠を首にかけた待乳まつちの多市、片手で人を防いでいるが、片手は懐中ふところの前を離さない。
 親分の銀五郎は、今日も蜂須賀の蔵屋敷くらやしき下屋敷しもやしきの方へお百度詣ひゃくどまいりだ。例の、阿波入りのため、便乗する関船手形せきぶねてがた入国御免切手にゅうごくごめんきって、二つを手に入れなければならないので。
 願書を出す、身元がいる、五人組証明をとられる、白洲しらすで調べをくう、大変な手数てかず。元は関船手形だけですんだ。こう厳密ではなかった。それにはわけがある。阿波の鎖国さこく、徳川幕府の凝視ぎょうし――。だから銀五郎の用があった、押しても渡りたい密境だった。
 らちがあくまで、多市は用なし、「たまにゃブラついて来い」とおっ放されたが、懐中ふところにはちょッと重目おもめな預り物、後生大事ごしょうだいじにかかえているので、はらから楽しむ気になれない。
「おっと、それどころじゃねえ」すぐ性根しょうねになった。「この大金、もしものことがあった日にゃ、お眼がねで供をしてきた正直多市たいちがどうなるんだ」とうとう南京なんきん手品をあきらめて歩きだした。
 そして、西重門にしじゅうもんかわへ寄ろうとすると、楼門ろうもんの内から、ゾロゾロ吐き出されてくる参詣人の中で、
「アー」と軽い叫びがする。
 ひょいと見ると、上品づくりのお嬢様。みにじられた上、よろよろと、のめってきた。
「あぶねえ!」
 思わずささえて、多市が手を出すと、ポンと日傘が来た。女の体は風鳥ふうちょうのように、胸をかすッて後ろへ抜ける。
「ア、もし」
 手に残された日傘をつかんで、多市が呼んだ。
 女はもう五、六間。小走りに過ぎていたが、ふりかえって、ニッコリ笑った。――そのニッコリがまたばかに絢爛けんらん菊之丞きくのじょうの舞台顔を明りで見たよう。
「もし、これを、傘を――」
「ア」女は遠くでうなずいた。
「いいんですよ」
「あれ……」
 味な気もしたがまだせない。
「よかアねえ、女持ちだ、貰ったところで始末に困ら」と、身を動かした時初めて気がついた。
 自分のふところから、晒木綿さらしもめんがダラリと二本はみだしている。
 二重ふたえに巻いた腹巻を、刃味はあじすごくタテに裂いた剃刀かみそりの切れ口。
「あ! 畜生ッ」
 さかづかみにした日傘をふって、眼色をかえた待乳の多市は、まっしぐらに駈けだした。
「スリだ、スリだスリだ!」
「ちぼ! ちぼッ!」
 人の声だか自分の声だか分らない。西門唐門にしもんからもんのまわり、七堂伽藍がらんを狂気のように走り巡った。と、出会いがしらに、猫門の前で、バッタリぶつかった男が、
「おい、待ちな」と、軽く腰帯を取った。
「それどころじゃねえッ」
「まあ落ちつけよ、手配が肝腎かんじんだ、そうあがって騒いだところで、めッたに捕まるものじゃねえ」
「何だい、てめえは」
「これだ」ふところをのぞかせた。紺房こんぶさ十手じってがある。「目明めあかし」と聞くと、多市は何思ったか、振りきって、また一散にそれてしまった。
「妙な奴だ、手配をしてやるというのにズレちまった。はてな? ……」目明しの万吉まんきち、また何か幻想を描いて、根よくそこらを歩きだした。

 堂塔どうとうあわくぼかされて、人気ひとけもない天王寺の夕闇を、白い紙屑かみくずが舞っている。
 日傘が一本落ちていた、――破れた女持ちの傘。
 それを拾って、西門に立ったのが目明しの万吉で、
「ここだナ、ここで女がこう行って、はずみに、ポンと男へ傘をつかませたんだな。だが、何のためにだろう。アア手をかせて体と心の両隙りょうすきを狙ったのか」仕方身しかたみぶりで、人の話と現場をしきりに考え合せている。
「とすると、こいつア上方のちぼ流でねえ、江戸の掏摸すりだ。定めし小粒でもないだろうに、られた奴も変っている、何だって俺をふりきって逃げたのか……ウーム、こいつあどうもそのほうがよっぽどネタになるかもしれねえ」
 傘をほうって抜け道へ出る。さかい戻りの町駕まちかご、島の内まで約束したが、気が変って五やぐらの富十郎を一幕のぞき、ブラブラ歩いて帰ってきた。
「おや、あの男は?」と、その途中で、万吉の顔の筋がピンとした。待乳まつちの多市にまぎれなしだ、疲れてしょんぼりした影が、渡辺町の旅籠土筆屋はたごつくしやへスウと入った。
 一息抜いたところで万吉は後ろからこっそり、
「ご免よ」とあるじの和平に目じらせして、梯子はしご下の道具部屋にしゃがみこむ。
「ふム、六日も前から泊っているのか、宿帳はこれだな、どれ……」ペラペラとめくって、自分の耳朶みみたぶをギュッとつねった。何か苦しい考え事をする時に万吉がよくやる癖だった。
「連れの、銀五郎というのは?」
「阿波へ入る用向きがあるとかで手形をとるため、毎日蜂須賀様のお役目筋へ手を廻していましたが、どうも御免切手が下りない様子で、今日は早くからお戻りでございました」
「そうか、ちょっと二階を借りてえな」
「ええ、よろしゅうございますとも」
「二番の部屋といったっけな」裏梯子うらばしごを上がって隣り座敷へ、そっと細目の隙見すきみうなぎなりに寝そべっている。
「多市、そう案じることはねえ」という声は唐草銀五郎のほう。
「一晩派手にやったと思やあ三百両は安いもの、路銀は早打はやで取り寄せる。……だが、お千絵様ちえさまから頼まれた大事な手紙、ありゃ、てめえが別にあわせえりへ縫い込んでいた筈だっけな」
「さ、親分には、そういいつけられていたんですが、つい、紙入れと一緒にしておきましたので……」
「なに」初めて少し色をなして、
「じゃ、お千絵様の手紙も一緒にられたのか。ウーム、こいつア大弱りだ」とガックリする。
「もし、親分……」多市はおろおろ、「今度の四国渡りに、あれをなくしちゃ、お千絵様のご実父が生きていたにしろはるばる来た甲斐のねえことは、ぼんくらな多市にも分っております、ドジを踏んだおびに、わっしはこれから夜昼なしに江戸へ戻って、もう一度お千絵様から手紙をちょうだいしてきますから、どうか、それで虫をこらえておくんなさいまし」
「オオ、その元気がありゃ何よりのこと。じゃこうしよう、実は関船せきぶねの便乗もとうとう今日で駄目になっている」
「えっ、阿波入りの御免切手は下りませんか」
「何しろ厳しい馬鹿詮議せんぎで、下手へたをするとこっちの秘密を気取けどられそうなんだ。そこで俺は、道を代えて讃岐境さぬきざかいから、山越えで阿波へ入りこむつもり、一足先に多度津たどつまでしているから、てめえは早速、お千絵様からもう一通貰ってきてくれ、それが今度の眼目だからな」
「そうきまったら、わっしはすぐに飛び出すと致します」
「ま、あけの早立ちとしたらよかろう」
「一時は、死んでお詫びとまで思ったところ、体をにするぐらいは、何の糸瓜へちまでもありあしません」気を持ち直すと江戸者はお先一。にわかに元気づいた多市、ポンポンと手を叩いて「オイ、ねえさん姐さん、誰でもいいや、お急ぎの夜立ちだ、草鞋わらじに握り飯を揃えてくんねえ」
 その間に目明しの万吉、トントンと降りてきた。
「ア、お帰りで」折よく、帳場格子ちょうばごうしへ投げこまれた飛脚包ひきゃくづつみを持ちながら、和平がそこへ送りに出ると、目早く万吉がひとみを光らせて、
「何だい、今の三度屋どやは?」
「ヘエ、例のお客様へ届いた飛脚で」
「どれ」いや応なく取って見ると、桐油紙とうゆぐるみ、上に唐草銀五郎様、の名は裏に小さく「行きいの女より」としてあった。
「お役で封を切る!」と、ぷッつり――切った麻糸からすべり落ちたのは、印伝革いんでんがわの大型紙入れ、まさしく多市のられた品物だ。

「悪い洒落しゃれをする女だ……」と苦笑にがわらいした目明し万吉。江戸のスリ気質かたぎには、ほかの盗児にない一種の洒落気しゃれけや小義理の固いところがあると聞いていたのを思い合せて、
「ははあ、その筆法かな」とうなずいた。で大急ぎに、飛脚包みから出た紙入れをあらためてみると、案のごとく、金はなかったが、一通の手紙が中にひそんでいた。
 丈夫な生紙きがみの二重封じ、しかし、その封じ目は破れていた。お綱が読んだものらしい。
 ――お父上様が阿波へおり遊ばしてから蔭膳かげぜんの日も早や十年でござります。柳営りゅうえいでは隠密役おんみつやく御法則をふんで、十年御帰府ごきふなき父上を死亡と見なし、権現様以来の甲賀家こうがけも遂に断絶の日が近づきました――
 という意味がこの手紙の書きだしで、流麗りゅうれいな女の手跡しゅせきが、順にほぐれゆくに従って、万吉の眼底異様な光を帯びてきた。
 ――千絵も十九となりました、男でない私は絶家ぜっけの御下命をどうすることもできません。けれど私は、九ツの時お別れした父上様が、まだ御存命と信じられてなりません。夢にも世をお去り遊ばしたとは思えません。そこで乳母うばの兄唐草銀五郎が、この手紙を持って、命がけの阿波入りをしてくれます。もし幸いに御無事な上これがお手に入りましたら、甲賀家の断絶も僅かにその命脈めいみゃくを延ばすことができます――
 ここまで読みかけると、万吉の胸が処女のようにおどった。彼にも足かけ十年臥薪甞胆がしんしょうたんの事件がある。それへ一曙光しょこうを見出したのだ。
「江戸で甲賀を名乗る家といえば駿河台するがだい墨屋敷すみやしき隠密組おんみつぐみ宗家そうけといわれる甲賀世阿弥こうがよあみだ……ウウム、その世阿弥が十年前に阿波へ入ったきり行方不明? こいつアいよいよ他人事ひとごとじゃあない」と、眼を光らして次の文字を辿たどりかけると、トントントンと梯子段の音。二階から、唐草銀五郎が多市を送って降りてきた。
「おや、もうお支度がおすみで……」帳場格子の前へ、あるじの和平や番頭も頭を並べて送りだす。万吉はいちはやく、手紙を抱えて梯子はしご裏へ身を隠した。
「じゃ、気をつけて行けよ」と銀五郎の声。多市は元気よく、道中差どうちゅうざしをおとし菅笠すげがさを持って、
「では親分、行ってまいります。道中はお気遣きづかいなく、やがて多度津たどつの港で落ち合います」
 土筆屋つくしやの明りを後に旅立ってしまった。と一緒に万吉も、裏から草履ぞうりを突ッかけて、溝板どぶいたの多い横丁を鼠走ねずみばしりに駈け抜けている。
「この手紙一本のために、あの男を、江戸まで引っ返させるのは、いくらつめてえ目明しでも少し気の毒だ。事情を話して返してやろう、だが、こっちの知りたい所も充分に聞かなくちゃまらねえ。常木つねき先生を初めたわら様、ご恩をこうむる俺までが一生仕事の阿波の秘密! オ、やつ、大股になって急ぎだしたな」
 町通りを行き過ぎた多市を見かけて、万吉もヒラリと土蔵のかげを離れた。手紙と交換に阿波入りの事情や甲賀世阿弥よあみの身の上などを探り取ろうという了簡りょうけん
「まだこの辺では人目に立つ、も少し淋しい所まで歩かせて、今夜こそ、天王寺で逃げだされたような下手へまをやらずに……」などと加減をしてゆくうちに、天満岸てんまぎしを真っすぐに、東奉行所の前を抜けて、京橋口のてまえ、八丁余りの松並木――おあつらえの淋しさである。
「オーイ、江戸の人」と呼びかけようとしたが、まだ逃げられるおそれがあるので、少しずつ万吉が追い着きだして行くと、しまった! 一足違いに前へ行く多市の影へ、何か、不意にキラリッと青光りの一せん! 横から飛びかかって低く流れた。
「わっッ」と突然、多市の声だ。られたと見えて苦しそう、京橋づつみをタタタタと逃げまろんできた。と、その影を追い慕って、波を泳いでくるような銀蛇ぎんだが見えた。無論業刀わざものさきである、はッと思うと二の太刀が動いたらしく、途端に、多市は夢中になって天満の川波めがけてザブンと躍り込んでしまった。
「ちぇッ……」という舌打ちが聞こえた。闇をただよってくる血の香がプーンとおもてつ。
「畜生!」万吉の眼は炯々けいけいとなり、五体はブルブルッとふるえてきた。右手めてに何かを固くつかんで身をかがませて行くが早いか、
「御用ッ!」とばかり一足跳び。
 腕の限りヒュッと投げた方円流ほうえんりゅう二丈の捕縄とりなわは、闇をあやまたず十夜頭巾の人影へクルクルと巻きついた。――しかし対手あいては驚かない、からんだ縄を左に巻きつけ、静かに、
「生意気な手先め、サ、構ってやるから寄ってこい」右手めて大刀だいとうを片手にふりかぶった。
「ムッ!」と万吉、毛穴のあぶらしぼったが、まるで腕が違っている、こっちで投げた捕縄とりなわは向うの武器、見る間にズルズルと魔刀まとうの下へ引き寄せられる。

 辻斬り商売のお十夜孫兵衛じゅうやまごべえ、本名は関屋せきや孫兵衛である。もと阿波の国川島の原士はらし丹石流たんせきりゅう据物斬すえものぎりに非凡なわざをもち、風采もなかなか立派だが惜しむらく、女慾にょよくにかけても異常という性質がある。
 阿波の原士はらしというのは、他領の郷士ごうしとも違い、蜂須賀家はちすかけの祖、小六家政ころくいえまさが入国の当時、諸方から、昔なじみの浪人が仕官を求めてウヨウヨと集まり、その際限なき浪人の処置に窮して、未開の山地を割りあてた。これが半農半武士に住みついて、蜂須賀名物の原士となり、軍陣の時は鉄砲二次の槍備えにあてられ、平時の格式は郷高取ごうたかとり、無論、謁見えっけんをもゆるされて、慓悍ひょうかんなこと、武芸者の多く出ることはその特色。なかには、原士千石といわれるほどな豪族もある。
 その千石ほどな家柄をつぶして、三都諸国を流浪のあげく、この春頃から御番城ごばんじょうのある大阪の河岸かしすじを夜な夜なおびやかしているお十夜孫兵衛。
 京橋口の松並木で、目明し万吉を子供あつかいになぶった上、「さ、召捕めしとらねえのか」とあざけりながら、斬ると見せた太刀をさやに納め、針金のように、ピンと張った捕縄の端を一尋ひとひろ手繰たぐってグンと引いた。
「くそウ!」と万吉は死力でこらえる。
 目明し仲間でも、少しは顔を売ったかれが、捕縄を捨てて逃げたといわれては男のすたりだ。――そこを狙って孫兵衛がポンと放したから他愛たわいもなく、
「あッ」と万吉がよろけあしをふんだ、と同時に、生き物のようにはね返ってきた縄尻が、どうする間もなくグルグルと巻きついた。
 そして、しばるのが商売の目明し万吉、あべこべに孫兵衛のためにじつけられ、両手両足、ギリギリ巻きにくくられてしまった。
「殺せ、殺してくれ」とかれが歯噛はがみをするのを聞き流して、暗い川面かわもをのぞいていた孫兵衛、一つ二つ軽く手を鳴らすと、いつかの晩のような約束で、三次の船がギイと寄ってきた。
「兄貴、何をバタクサしていたのよ!」と川の中から三次がいう。
「目明しを一匹召捕ったのだ。住吉村へつれていって、四、五日飼ってみようと思ってな」
「何だ、つまらねえ真似まねを……、鈴虫ならきもするが、目明しなんざあ可愛らしくもねえ。いッそ川の中へ蹴転がしてしまいなせえ」
「まアいいわ、手先や同心の内幕を聞くのも慰みだし、第一おめえ渡世とせいのためだ。ところで三次、今夜おれはいろは茶屋で泊まるから、こいつを乗せて先に帰ってくれないか」
「いい心掛けにはなりてえものだ。お人よしの三次をほうって、いろは茶屋のおしなとたくさんふざけておいでなさい」
くなよ、明日は早く帰るから」
「まア体だけをお大事に」
「ばかにするな、はははは」と、孫兵衛、くすぐったい笑いを残して、雪踏せったの音、チャラリ、チャラリ……と闇に消える。
 その晩から、万吉は、森囲いの怪しい家、住吉村の三次の住家すみかへ監禁された。縄目を解かれてほうり上げられた所は、屋根裏を仕切ったような空部屋あきべやである。夜が明けて、鉄格子から流れこむ光に見廻すと、太いロップ帆車ほぐるま、海図などの船具ふなぐや鉄砲などが天井裏につまってある。
「あ! ここは荷抜屋ぬきやの巣だな」と万吉は眼をみはった。荷抜屋というのは、御禁制の密貿易をやるやからのことで、年に一度か二年目ごとに、仲間で集めた御法度ごはっとの品を異国船いこくせんに売り込むのが商売。この家にいる甲比丹かぴたんの三次は、すなわちその荷抜屋ぬきや才取さいとりなのだ。
 お十夜の孫兵衛に、辻斬りをすすめたのもこの三次。ふところの金よりはその腰のものを奪うのが目的である。当時、日本刀は荷抜屋ぬきやの一番もうかる品で、また一番買い占めにくい品でもあった。
 そこで辻斬りは役人を五里霧中に迷わせ、女色の深い孫兵衛をしていろは茶屋に堪能たんのうさせる方法となった。
 だが万吉には、こんな者を縛ってみる気は起こらない。彼の目の前には、もッともッと大きなやまがブラ下がっている。あの手紙から暗示を得た、十年苦節の大疑獄だいぎごく、十手の先ッぽで天下をかせるような功名心に燃えている。
「ええ忌々いまいましい、何とかしてここを抜け出す工夫はねえかしら……」
 そのもだえもいたずらに、三日とたち四日もすでに真夜中まよなかに近い頃――。
「おや? ……」思わず耳を澄ましていると、下の部屋からガヤガヤと大勢な人声。そして時々、ピタピタ、と何か畳を打つような不思議な音がするのだった。

 妙な物音? 階下したで何が始まったのかしらと、万吉は、無駄とは知りながら、また昨日きのう一昨日おとといも試みた努力を、真っ暗な部屋でくり返した。
 出口は錠前じょうまえ、窓は鉄格子、半刻はんときあまりも押したり探ったりしているうち、隅の床板に、指が一本入るくらいな穴を見つけた。
「しめた」とも思わず、何気なく引っ掛けて持ち上げると、偶然、四角な板がポンと開いた。階下したを隔てている天井裏、そっと降りて見ると、荷抜屋ぬきや贓品ぞうひんがだいぶ隠匿いんとくしてあった。
 そんな物には目もくれない。明りのさしている方へ、猫のようにい出した。と、一段低い所に、金網張りの欄間らんまがあって、ひょいとのぞくと下の部屋も人間もすッかり見える。
 何をしているのかと思うと、三次を初め仲間のやからが、きれいな札をき散らし、小判小粒の金銀を積んで、和蘭陀加留多おらんだカルタの手なぐさみをしている。
「何だ、この音か……」と馬鹿げてしまったが、下で夢中なところを幸いに、万吉そのまま寝そべって、一応彼らの人相をよく見覚えておくのも無駄ではなかろうと考えた。
 頭数は五人である。店者風たなものふう由造よしぞう東条隼人とうじょうはやとと呼ばれる侍、十徳じっとくの老人、ためという若者、それに甲比丹かぴたんの三次、中でも三次は、潮焦しおやけのした皮膚に眼の鋭いところはやぶさという感じがする。
「どいつもまるで血眼ちまなこだ。ウム、この分では明日あしたは疲れる、その隙に天井裏を引ッいで逃げ出すには究竟くっきょうだ」とは万吉がうなずいた腹の底。
 あんじょう、慾心の修羅場しゅらばはなかなかやまなかった。鶏鳴けいめいを知らず、が照りだしたのを知らず、とうとう明日あしたになっても、蝋燭ろうそくを継いでそこだけの夜を守り、いよいよ悪戯わるさがたけなわになる。
 そのうち誰からか、きまりものの苦情が出て、何かガヤガヤもめだしたが、不意に向う側の板戸が外からガラリと開いて、度胆どぎもを抜くような太陽の光がそこから流れこむ。
「誰だ!」ぎょッとした五人の眼が、期せずして振りかえると、
「驚くなよ、お十夜だ」がたなになって、孫兵衛がのっそり五日目に帰ってきた。と、その後ろからまた一人、まばゆいばかりな厚帯あつおびに振袖姿のお嬢様、玉虫色の口紅をしていう言葉はあられもなく、
「おや、とんだところをびっくりさせて悪かったね」とそこへ来て、大の男たちにひるみもなく、小判や小粒のきらめく中へフワリと風をかおらせて坐った。
「誰かと思ったら、おつなさんじゃねえか」
 三次が眼をみはると後の四人も、加留多カルタ紛紜ふんぬんを忘れて、しばらくはこの一りん馥郁ふくいくさに疲れた瞳を吸われている。
「この間の口ぶりでは、うまく行ったら、すぐ江戸へ舞い戻るような話だったが、すると、あの仕事はとうとう失策物しくじりものになったのか」
「どう致しまして、そんなわたしじゃありません」とお綱は笑って――。「思う通りに行ったから、ついでに上方見物としゃれのめし、道頓堀の五やぐら門並のきなみのぞいて、大家たいけのお嬢様に納まりながら、昨日は富十郎芝居の役者や男衆が七、八人も取巻とりまきで、島の内の菖蒲茶屋あやめぢゃや、あそこで存分に遊び飽きておりましたのさ」
「そこでバッタリおれが出会ったわけ――」とすぐ孫兵衛が話を足すと、一座の中から半畳はんじょうが出て、
「じゃ、兄貴も一人の筈はない、いろは茶屋のお品か誰かを連れこみで行ったのだろうが」
「お手の筋だ。しかし、売女ばいたのお品と江戸前のお綱とは芥子けし牡丹ぼたんほどの違いがある。すぐ片ッ方は追い返してしまった」
「おやおや、怖れ入った浮気振り、じゃ昨夜ゆうべはお綱さんとよろしくあって、見せびらかしにここへ来たという寸法か。何だかこっちは面白くもねえ」
「ところがこのお嬢様、見かけに寄らない心締しんじまりで、実はおれも、見事にひじを食っているのだ」
「やれ、それでこっちも、安心した」と笑いくずれている間に、お綱は細い指尖ゆびさきへ、加留多カルタの札を四、五枚取ってながめていた。
「三次さん、これはやっぱり花加留多はなガルタ?」
「長崎から流行はやって来たやつさ、異国あっちのものでね」
「面白そうだこと、やって見ようか」
「どうしてどうして、男同士の勝負ごと、はした金ではすまないぜ」
「こればかしじゃ足らないかしら?」帯の間から、手の切れそうな百両の封金をコロリと三つ。五人は思わず膝を退しさらせ、狡猾こうかつな眼色を慾に燃え立たせる。
 天井裏では、欄間らんまの金網から猫目を光らしている万吉。「いけねえいけねえ、この様子じゃ、いつになったら奴らが疲れて寝るのだか分らねえ……」とひそかに舌打ちをならしていた。

 ろくに知りもしない和蘭陀加留多おらんだカルタ、三次たちのいかさまに手もなく乗って、お綱は他愛なく二百両ほど負けてしまった。
「だいぶ考え込みますね、そっちの番だぜ」
「あいよ」お綱は札を指ではじいて「よくもこう縹緻きりょうの悪い手ばかり付く……」と、一枚手から抜きかけたが、ちょっと考える様子をして、何の気もなく上眼うわめづかいに天井を見た。と、バッタリ、欄間のすきから下を見ていた万吉の眼とぶつかった。
「おや?」と動じた顔色を見たので、万吉はあわてて首をすくませた。しかし今さら騒ぎだしては、かえってまずいと思ったので苦しい機智、上から皆の手が見えるのを幸いに、お綱の抜きかけている札を打つなと目顔で教えてやった。
「どうしたのよ、じれってえな」
「まア待って……」も一度万吉のほうをチラと見ると、右のを打てという合図、とにかく、その通りにして見ると、思い通りな札が取れた。さあ、それからはトントン拍子、何しろ向うに、敵の手裏てうらを映す鏡があるのだから、思惑おもわく当らざるなしである。たちまち勝ち抜いて場中ばじゅうの金を集めてしまった。
「ああ面白かった。じゃ、これでおしまい……」お綱は涼しい顔で帯揚げを引き抜き、ますはかる程な金銀をザラザラと詰め込み、さッさと体に着けてしまう。
「待て、これでしまいにしてたまるもんか」と浪人者の東条隼人とうじょうはやとがケチをつけにかかるのを、三次がなだめて、
「まあいいさ……」とめくばせした。
「お綱さんだって、どうせ三日や四日はご逗留とうりゅうだ。な、その間にゃ、また幾らでも手合せができるだろうじゃねえか、初心うぶな者にはとかくばかあたりという奴があるものさ……ああ眠い、何しろ今日は寝なくっちゃあ……」
 ヘトヘトになって五人がそこへ手枕で転がると、不意に立ち上がったお十夜孫兵衛、いきなり踏込みの押入を開けて、その段から天井裏へ跳び上がり、目明し万吉のえりがみをつかんで下へ引きり降ろした。
「や、このおかぴきめ、どうしてあんな所へ出てきやがったんだ!」
 総立ちになって騒ぎだしたが、まさか、この男がお綱に勝たせたこととは夢にも思いつかない。ただ岡っ引を憎む凶暴性が勃然ぼつぜんと彼を取りまいたのだ。
「兄貴――」と三次はお十夜の顔を見て「つまらねえ者を引っ張り込んだので、世話がやけてしようがねえ、一体こいつをどうする気だ」
「おれもすッかり忘れていた。ところが、今ひょいと欄間らんまを見たら、金網の蔭に動いていやがったので引き摺り降ろしたのだが……野郎、逃げだすすきを狙っていたに違いない」
「面倒くせえし、逃げられでもした日には藪蛇やぶへびだから、早く片を付けちまっちゃどうだ」
「うん、それじゃ一つ庭先で、丹石流たんせきりゅう据物斬すえものぎりを見せてやろうか。おい、手を貸せ!」
 寄ってたかって、腕やえりがみを引っつかみ、ズルズルと万吉を庭へ曳出ひきだした。しいの大木、その根へ荒縄で縛りつけ、三次が棒切れでピシピシとなぐりつける。
「さ、ぬかせ、てめえはお十夜の兄貴へむかって、只一人で御用呼ばわりしたくらいだから、この荷抜屋ぬきや仲間をぎつけていたに違いねえ。奉行所でも知ってるのだろう、なに、知らねえことがあるものか。さッ、てめえの相棒は誰と誰か、手入れをするしめし合せもあったろう! 野郎! いわねえとこうだぞ!」ピシリッ、ピシリッと皮肉ひにくを破るむちの苦痛を万吉じっとこらえている。しかしその苦痛よりは、最後の一秒間まで、何とか助かる工夫はないかともだえた。ここで自分が助からねば、せっかく握った大事件の曙光しょこう、再び無明むみょうに帰して、常木先生もたわら様も終生社会の侮蔑ぶべつに包まれて、不遇の闇に生涯を送らなければなるまい。――と思えばいよいよ命が惜しい。
「駄目だ、こいつア!」三次は棒切れを投げて、「骨を折って口をかせたところで、大したこともなさそうだ」と孫兵衛の断刀だんとうを催促する。お綱だけは、何だか可哀そうに思えた。
「助けておあげな……」おとなしく口を入れた。
「一人や半分の目明しを殺したところで、大びらに悪事ができるわけじゃなし……ね、皆さん、後生だから助けておやりよ」
「とんでもねえこった!」三次が首を振った。
「こいつを返しゃ、俺たちの根城ねじろが分る、すぐ御用提灯ぢょうちんの鈴なりで、逆襲さかよせのくるのは知れている。兄貴、早くってしまわねえととんだことになるぜ」
「うん!」とその注意にうなずいた孫兵衛は、血脂ちあぶらは古くにえの色はなま新しい、そぼろ助広すけひろの一刀をギラリと抜いてさやを縁側へ残し、右手めてしずくの垂れそうなのを引っさげて、しずしずとしいの下へ歩みだした。

 役目不心得につきおとがめ――という不名誉な譴責けんせきのもとに、退役たいやく同様な身の七年間、はとを飼って、鳩を相手に暮らしてきた同心である。
 姓はたわら、名は一八郎、三十四、五の男ざかり、九条村の閑宅かんたくにこもって以来、鳩使いとなりすまし、京の比叡ひえい飾磨しかまの浜、遠くは丹波あたりまで出かけて、手飼てがいの鳩を放して自在に馴らしている。
 のみならず俵同心、近頃ではこの鳩を、わが分身のごとくあやつり、腹心の人、常木鴻山つねきこうざんの所へ文使ふみづかいさせたり、万吉を呼びにやったり、妹の所へ飛ばせたりする。
 妹はお鈴という美人、身元を隠して、かなり前から、安治川岸の蜂須賀阿波守はちすかあわのかみ、その下屋敷へ住み込んでいる。何の手段か、何の便りを頻々ひんぴんわしているのか、いつも密書の使者が鳩だけに、誰あって気がつく者はないのである。
「旦那様、お鈴様から御返事が……」と今も召使の東助爺とうすけじいが、柄の小さな家鳩いえばとこぶしにのせて、縁の端から一八郎の書屋しょおくのぞいた。
「うむ、来たか……」待ちわびていたらしい一八郎はすぐ小鳩の足の蝶結びを解いて、庭の巣箱へパッと放し、机の前に戻って、その雁皮紙がんぴししわをのばした。
東助とうすけ……」読み終って嬉しそうに、
「いよいよ、阿波守が帰国の時、お鈴も供に加えられて、徳島城の奥勤めに移りそうじゃ」
「おお、それはよいご都合でござります。したが、そうなりますと使いの鳩も、あの鳴門なるとの海を越えて行き来せねばなりませぬな」
「自信がある。あれくらいな距離は何でもない。どうじゃじい、これほど自在に鳩を使う者も、またここに着眼した者も、一八郎をおいて余人にはあるまいが」例によって、そろそろ鳩談義の味噌が出そうな口ぶり。
「へへへへ」毎度のことなので、東助もツイ笑ってしまった。
「折角のご自慢でいらっしゃいますが、この老爺おやじは、種を存じておりますので、実は余り感服いたしませぬ」
「ばかなことを、種なんぞと、誰に聞いた」
天満てんまのお屋敷で伺いましたので。はい、常木様がおっしゃいました。伝書鳩を古く使ったのはたしかからちょうれいが元祖じゃ、一八郎が初めではないと」
「これはいかん、さようなことをおっしゃったか」
「はい、虫蝕本むしくいぼんの『八※(「門<虫」、第3水準1-93-49)びん通志つうし』、『還家抄かんけしょう』などと申す書にもいろいろっているそうでござります」
「あははははは、もうよい、いうないうな」
「いつも旦那様の天狗講釈てんぐこうしゃくにあてられておりますので、その鬱憤うっぷんによく伺っておきましたので……」主従、笑いにまぎれているかどへ、女客のおとないがする。東助が出てみると、目明し万吉の女房のおきちであった。何か心配事がありそうに、悄々しおしおと通されて一八郎の前へ坐った。
「いかがいたした、たいそう沈んでいるではないか」
「はい」お吉は、ふだん世話になりがちな礼を述べて、「実は旦那様、万吉が、今日で五日も宅へ帰りませぬ。このところ、御用なしだといっていたのに、一体どうしたものでございましょう」
「ふウム……」と聞いていたが機嫌が悪い。
「よろしくない心配だな。目明しの居所知らず、または岡ッ引の起き抜け千里などと申して、職業がら是非ないことだ。それを四日や五日帰らぬとて、すぐ女房がくようでは、万吉の十手がさびるというものだ」
 一八郎は叱ったが、だんだんに、お吉が話すところを聞くと、どうも叱ったほうが少し無理らしい。
 京橋口きょうばしぐちで、万吉の名がってある十手を拾って、届けてくれた者がある。その前夜、土筆屋つくしやで見かけたという者もあるのでただすと、江戸の客をつけて行ったという話。また、その客の連れ唐草銀五郎という者も、多度津へ立った後なので、何の事件か皆目知れず、前後の事情、どうも万吉の凶事ではないかという――お吉の心配なのであった。
「なるほど――」一八郎の顔色も少し怪しくなった。
「ふウ……そうか、いやよろしい、心配せずと家へ帰って吉報を待つがよい」
 お吉を帰すと、彼はやがて、りすぐった小鳩を一羽ふところに入れ、初夏はつなつの陽がかがやかしい青田や梨の木畑の道を急いで、異人墓いじんばかの丘へ登って行った。

 異人墓の丘に立って、汗をいた一八郎。
「うむ、いいな……」思わずひとみ四方よもせた。紺青こんじょうの海遠く、淡路の島影は夢のよう。すぐ近くには川口の澪標みおつくし青嵐あおあらしの吹く住吉道すみよしみちを日傘の色も動いて行く。
 そこで、パッと鳩を放した――。
 鳩は一八郎の意志をうけたように舞いがった。手をかざして見ていると、初めは御城番ごじょうばんの方へ直線にツーと行ったがを描いて南へ返り、ハタハタと住吉村の方角へ飛び去った。
 すると、異人墓の蔭で不意に声があった。
「あっ、伝書鳩――」
「俵殿ではないか」ひょいと見ると、荒目の編笠に薄羽織、風采のよい四十前後の武士。
「おお、これは常木先生」
「相変らず御熱心だの」とかさうちで微笑した。
「いや、何……」と一八郎は鳩の行方ゆくえを気にしながら「実は先生、万吉の身に凶変きょうへんが起りましてな」
「ほう、それは心許こころもとない……」
 腰を下ろした侍は、元天満与力てんまよりきの常木鴻山こうざん、在役当時の上役で、同じ時に、同じ譴責けんせきをうけた人。以来不遇の隠士いんし同士、互に心をあわせて、密かにある大事をのぞんでいる仲であった。
 二人の失脚は、宝暦変ほうれきへんの折だった。――明和二年の今から数えて八年前、京都で起こったあの騒動――竹内式部たけのうちしきぶの密謀が破れ、公卿くげ十七家の閉門を見、式部は遠流おんる、門人ことごとく罪科ざいかになって解決した――あの事件の時、天満組てんまぐみの常木鴻山もたわら同心もすばらしい活躍をした。
 が、その後が悪かった。余り二人の手腕が切れ過ぎてわざわいとなった。
「これは根が深いぞ――」と初め鴻山は考えたのである。
「倒幕の大事などが、長袖ちょうしゅうの神学者や、公卿くげばかりではかれるものではない。黒幕がある! 傀儡師かいらいしがある! たしかにある!」と固く信じた。
「あるとすれば――どこの大名であろう? 無論西国さいこく、一体西国大名は、おりさえあれば風雲に動きやすい。島津か、毛利か。いやことによるともっと意外な……」鴻山の苦心へ、俵同心や万吉も、骨身を惜しまずいろいろな機密を探って耳に入れた。
 阿波二十五万石の蜂須賀重喜しげよし、まだ若くはあるが英邁えいまいな気質、うちに勤王の思想を包み、家士かし研学隆武けんがくりゅうぶにもおこたりがない、――さきには式部を密かに招いて説を聞き、領土の浜では軍船を仕立てて陣練じんねり稽古けいこをしたともいう噂である。
「ウーム、黒幕は海の向うだ」鴻山は意を得たりとした。「阿波は由来なぞの国だ。金があって武力が精鋭、そして、秘密を包むに都合のいい国、一朝淡路あわじを足がかりとして大阪をはかり、京へ根を張る時は、西国大名と呼応して屈強な立場――捨ておいては一大事である」
 すぐ意見を書いて城代酒井侯さかいこうへ差しだした。
 ところが、御城番、町奉行、所司代しょしだい誰あって耳をす者なく、彼の上書じょうしょは嘲笑の種となって突ッ返された。つまり、どれもこれも事勿ことなかれ主義。
「そんな馬鹿げたうしだてにはなりますまい。阿波は松平の御姓おんせいを賜わり、代々よよ、将軍のお名の一字をいただくほどな家筋じゃ」
「だからいけない!」鴻山はいよいよ説をした。「それほど、阿波の力が大きいのだ、将軍家でもおそれているのだ」と、周囲に構わず、俵同心に探りの手を入れさせた。が、その活動に移らぬうちに、二人は譴責けんせき! 出仕に及ばず――という形式をとられた。
「二人とも天狗てんぐが過ぎた」「名声に酔って、いわゆる妄想狂もうそうきょうになったのだろう」などとやかましい周囲の侮声ぶせいに耳をおおって、鴻山と一八郎はなおその信念はまげず、それから七年、ただ阿波の内情を探ることにのみ腐心ふしんしてきた。
 重宝ちょうほうなのは目明し万吉。
 彼は身分が軽いので、とがめもなく、今でも東奉行付きで、十手をとっているところから、何か阿波のことを聞きこむとすぐ知らせてくる。今では二人にとってまたなき忠実ものだ。
 その万吉が行方知れず――常木鴻山も驚いた。一八郎は、今放した鳩を手づるに、彼の居所を突きとめて見せるといった。
「では、及ばずながらこのほうも手を貸そう」と鴻山は立ち上がったが、何か思いだしてスタスタと異人墓の蔭へ戻って行った。
 そこに一人の連れがいた。武士ともつかず医者ともつかぬ風采の男。墓の蘭字らんじや形を写していたが、鴻山から事情を話され、後について一八郎の側へやって来た。
「わしは江戸の平賀源内ひらがげんない、伝書鳩は面白うござるな、ご迷惑でも一つご同伴願いたい」
 また一人の加勢がえて三人連れ、異人墓の丘を下りて、鳩の飛んだ方角へ急ぎだした。

 一方、住吉村の木立の中、荷抜屋ぬきや仲間の隠れ屋敷。
 そぼろ助広の大刀が、しいの樹の下――万吉の頭の上に――きらりと三尺の虹をいた。
 真ッ二つ! 孫兵衛の息と手が、さっと放たれようとした刹那せつな甲比丹かぴたんの三次やほかの者たちと、こっちの縁側にいた見返りおつなが、
「そんな据物斬すえものぎりがあるものか!」
 けだして行って、お十夜の手をさえぎってしまった。
「危ねえッ、何を邪魔するんだ」
「だって、罪じゃあないか」とがめるような美しい眼、「据物斬りを見せるといったくせに、自由のかない人間をバッサリなんぞはきょくがない」
「いやにお前はかばい立てするな」
「それや悪党にだって、少しぐらいの慈悲心はあろうじゃないか。ね、縄を解いて、暴れさせて、むかってくるところを斬ったらどう?」
「どっちにしたって同じことだ」
「いいえ、ただね、私の気がすむんだよ。見ても見いいし、罪でないような気がするだけさ」
 いっているうちに帯から抜いた懐剣かいけん! 万吉の縄目をぷっつり切って、
「さ、これを貸してあげるから、お前さんも男らしく……」と懐剣のつかを握らせてやった。
 和蘭陀加留多おらんだカルタの返礼だよ――という眼でじっと渡してやる。
「ありがとう!」
 逆手さかてにとって万吉がパッと立った。お綱が蝶のように飛び離れると一緒に、三次、隼人はやとためなども、腰を立てて凶猛な気配りになる。
「なるほど、このほうが気合いがのるわえ!」
 お十夜の声! 椎の下からスルスルと延びてくる助広の無気味さ。刀の柄糸つかいとよじりぎみに、右手めては深く左手ゆんでは浅く、刀背みね蛇眼だがんをすえて寄る平入身ひらいりみ――。
 万吉はあぶらの汗。ジリ、ジリ……と一寸づまりに後退あとずさった。
「どうせ命はねえ!」
 覚悟はしている。だが、あの妙な心意気の女に、ふところの紙入れ――大事な手紙の入っている――あれだけを頼んで俵様に届けたいが、と思って気を配ったが、素早いお綱はその時はもうこの庭に見えなかった。
「ええ、やぶれかぶれだッ」と、万吉が踏み止まって、怖ろしい眼を対手あいてに射つけた。ピタと孫兵衛のさきも止まる……。
 その時、風ではない――しいの若葉にバタバタという大きな羽ばたき。一羽の鳩だ。
「あっ、俺を探しにきた!」
 と万吉の眼が上へそれるや否、孫兵衛のやいばがさっと斜めに走った。さきに胸をかすられて、万吉はどンと仰向けになったが、はね返って栗鼠りすのように木の幹をたてにとった。
「野郎!」お十夜の跳びかかったのもしんはやい。白刃と人、うずになってグルグル木の幹をめぐり廻った。と、屋根から斜めに落ちてきた今の小鳩、何かに狂いだしたように、そぼろ助広のさきに飛びまとって離れない――。
「万吉、しっかりいたせ!」
 塀の上に、突然な声があった。
「あっ、旦那」
「一八郎が参ったぞッ、もう大丈夫」
 ポンと飛び降りてきたたわら同心、力をあわせてお十夜の側面へかかる。わっと、総立ちになったのは甲比丹かぴたんの三次をはじめ荷抜屋ぬきや誰彼たれかれ脇差わきざしひらめかす者、戸惑う者、かけこんで錆鎗さびやりっ取る者。据物斬りの見物が、意外な血をみずから見ることになりだした。
 するとまた、木戸を蹴破ってきた一人の助太刀すけだち、常木鴻山こうざんである。常木流の捕縄術ほじょうじゅつは自他共にゆるす名人。しかし今はるより斬れの場合として、抜くやまたたく由造をぎ、浪人者の隼人はやとの腕を斬り落した。
 そればかりか、塀の外では、
「御用ッ、御用ッ」とさかんなかけ声。いよいよやからは度を失い、孫兵衛一人の悪戦加わるばかりである。
 だが、役付やくづきでない鴻山や一八郎が、かく早速な捕手とりてを連れてきたのも不審――と外を見ると、捕手はいない、すぐ前の木立の蔭に、たッた一人の男が腰をかけている。
 細い丁髷ちょんまげ、細いあご。異人墓から同行してきた平賀源内である。医者で作者でさむらいで商法家だが、一つ武芸者ではなかりし源内、快刀乱麻かいとうらんまの手伝いはできないので、時々そこから、
「御用ッ、御用ッ」
 といっては、支那扇子せんすで顎をあおいでいる。

 荷抜屋ぬきや屋敷へ真昼の不意を襲った剣戟けんげき旋風つむじは、一瞬の間に去ってしまった。囲いの中に、おめきや雑音の騒動がハタとやむと、後はまたもとに返ってソヨともしない森の静けさ――住吉村の奥らしく、ジーッと気懶けだる蝉時雨せみしぐれ
「源内どの! 源内殿!」
 彼方あなたで呼ぶ声に腰を上げて、平賀源内、唐人扇子せんすをパチリとつぼめて帯へ差し、
「ははあ、片づいたとみえるな」
 こわされた木戸口から、大急ぎに飛び込んだ。
 見ると、庭には点々と血汐のあと、戸障子は八方へ無残に倒れ、甲比丹かぴたんの三次と荷抜屋の手下二人は、常木鴻山がうしくくし上げてしまった様子。
「やられましたな、常木先生、いやどうも大変な血汐で……」と源内は酸鼻さんびに顔をしかめながら、気味悪そうに、拾い歩きをして入ってきた。
「そして、俵殿はどうなさいましたか」
「お十夜と申す奴だけが、素早く逃げ失せたので、後を追って駈けだしました。ところで、源内殿にはお気の毒ながら、そこに倒れている目明し万吉、ちょっと手当をしてやって下さるまいか」
「承知しました。薬餌やくじのほうなら源内のお手の物……オ、これや気絶している、数日の疲労があるところへ、ドッと助勢が見えたので、一時に心がゆるんだのであろう」
 井水いみずを汲んで口へふくませ、自家の薬丹やくたん印籠いんろうから取り出しなどしている間に、鴻山は、くくし上げた三次や二人の手下てかを引っ立て、一室にほうりこんで厳重にとざしてしまった。
 そこへ、俵一八郎が、息をはずませて帰ってきた。「残念!」と流るる汗をきもあえず、常木鴻山の前へ片膝をついて、「森端もりはずれまで追ッかけましたが、孫兵衛めは、腕の鋭いばかりでなく、怖ろしい敏捷びんしょうなやつ、たちまち姿を見失って、何とも無念に存じます」
「いやいや、万吉さえ救えてみれば、逃げた奴は取るに足らん」と、鴻山は一方を振りかえって「源内殿、容子ようすはどうでござるな?」
「気がつきましたわい、もうご心配はらぬ。これ万吉、万吉!」
「ああ……」うめきだした万吉、ムックリ起きて、きょとんとあたりを見廻していたが、鴻山と一八郎の姿をひとみに映すと、飛びつくようにり寄った。
「あ、ありがとうございました……ありがとう存じます。旦那方がこなけりゃこの万吉は、もうっくにしいの木のこやしになっているところでした」
 ペタリと両手をついたさま、しんから嬉しそうである。
「気分はどうじゃ、大儀ではないか」
「なアに大丈夫です、これしきのことにヘコたれちゃ、目明しという肩書に面目がありゃしません。そうだ! 何より先にお両方ふたかたへお目にかけたい品があります」胴巻の奥から、おののく手につかみ出したのは、土筆つくし屋の店でふと手に入れた例の手紙である。
「万吉の命はられても、こいつばかりはお渡し申したいと、この四、五日どんなにもがいたことか知れません。江戸表のお千絵という娘から、阿波へ入り込んだ甲賀世阿弥こうがよあみへ宛てた手紙、まあとにかく、中をごらんなすッて下さいまし」
「なに、甲賀世阿弥?」
 名を聞いただけで、鴻山のおもてがサッと変る。一八郎もきっとなって繰りひろげられた手紙のそばから、じっと息をひそめて黙読した。
 宝暦変ほうれきへんの前後、鴻山と一八郎が、公卿くげの背後に阿波あり、式部や山県大弐やまがただいになどの陰謀の黒幕に蜂須賀あり、と叫んでも、当時誰あって耳をす者もなかったが、ひとり、大府だいふ甲賀組の隠密に、同じ炯眼けいがんの士があって、単身阿波へ入り込んだという噂――またそれが、甲賀世阿弥ということも、ほのかに聞いていたので、二人は今なおその名が深く脳裏のうりにあった。
「ウーム、不思議なものが手に入った!」読み行くうちに二人の表情、驚異となり、歓喜となり、怪訝けげんとなり、また感激にうるむ眼となった。
「こりゃ、お千絵という婦人に会えば、なおも詳しいことがあろう。世阿弥その後の消息、彼の目的、また幕府の御意向もほぼ知れよう」
「鴻山様、拙者万吉をれまして、すぐ江戸表へ下向げこういたしましょう」
「おお、其許そこもとと万吉が、甲賀家を訪れ、何かの実相を見てきてくれれば何よりじゃ。さすれば鴻山こうざんも、その間に甲比丹かぴたんの三次や荷抜屋ぬきやの手下どもをさとして、阿波へ渡る秘密船を仕立てさせ、万事の手筈を調ととのえておくであろう」
 策謀によき荷抜屋の巣は、天満てんま浪人が入れ代って、常木鴻山を中心に、その日はひそかなしめし合せに暮れて行った。

 近江訛おうみなまりの蚊帳かや売りや、ものう稽古けいこ三味のが絶えて、ここやかしこ、玉の諸肌もろはだを押し脱ぐ女が、牡丹刷毛ぼたんばけから涼風すずかぜかおらせると、柳隠れにいろは茶屋四十八軒、立慶河岸りっけいがしの水に影をうつしていっせいに臙脂色えんじいろの灯が入る。
 舟では音締ねじめばちの冴え、どこかを流す虚無僧ぼろんじ尺八たけ呂律りょりつも野暮ではない。
「どうしたのだろう由造よしぞうは? 今日で四日目、まだ帰ってきやしない……」
 およねはひとりでじれッたそう。
 浜納屋はまなやづくりのいろは茶屋が、軒並のきなみの水引暖簾のれんに、白粉おしろいの香を競わせている中に、ここの川長かわちょうだけは、奥行のある川魚料理の門構え。
 櫺子れんじの下へ涼み台を持ち出して川長の一人娘、お米の待つのは誰であろうか。恋とすれば、よすぎる縹緻きりょうが心にくくもある。
「もう便りがありそうなものだけれど……」
 軽く舌打ちしていると、通りすがりの者が振りかえった。
「おや、お米さん、宵の内からびとですかえ?」
「ええ、待って待って待ち抜いているのですよ」
「オオ辛気しんき、お暑いのにご馳走様」
 鬢盥びんだらいに、濡れ手拭を持ち添えたいろは茶屋のお品は、思いきりの衣紋えもんにも、まださわりそうなたぼを気にして、お米の側へ腰をかける。
「お風呂の帰り? ずいぶんみがきたてたこと」
「そりゃ私にだって、見せたい人が半分ぐらいはありますからね」
「おやご免なさい。おそめ久松ひさまつ、お品お十夜って、この河岸では評判でしたっけね。そういえばあのお十夜さん、さッぱり影が見えないようだけれど……」
「いつぞや、菖蒲あやめ見物に遠出した時、出先で妙な女に会ってから、急に素振りが変ってしまったの。ほんとに、男ほどアテにならない者はありゃしない。お米さんもせいぜい人には気をつけてお惚れなさいませよ」
「大丈夫、私には、一生涯そんな人なんかできッこないのだから……」冗談にしていた話が、妙に淋しい調子に落ちて、お米は顔を横にそむけた、――どこかを彷徨さまよ虚無僧ぼろんじ尺八たけ、聞くともなしに聞くふうで――。
 そのきとおるほど白い顔、そのほっそりした襟脚えりあしに気がついて、お品は、あ、うっかり悪いことをいったと心の奥で後悔する。
 川長の愛娘まなむすめで、縹緻きりょうのよさもすぐれながら、お米に一ツの不幸がある。癆咳ろうがいというやまいのろい――いわゆる肺が悪かった。
 躑躅つつじ間詰まづめの御子息へ、縹緻きりょうのぞみで貰われて、半年たたぬ間に里へ帰され、出戻りの身をぶらぶらしているお米であった。隠してはいるが、年はもう二十四、五。女盛りの、燃える炎を包まれて、美がえるほど肺がせ、気のとがるほど凄艶せいえんさが目立ってきた。
「お米さんの病気には、男が一番毒ですぜ」
 誰かが冗談にいった言葉も、お米のもだえにこびりついて離れぬものの一つである。
 お品もうすうす知っていた。浮いた話は、このひとに罪だった。けれど話の途中に幕も引けずに、
「じゃ、誰をそんなにお待ちなの?」と、テレ隠しに訊いてみた。
「うちの由造よしぞう。四日前に、大事な使いに走らしたのに、まだ帰らないので腹が立ってね……」
「アア、あのぐずよしさん?」あれじゃあ、色にも恋にもならない対手あいてだ。
「その由さんがどこまで行ったのですかえ?」
「実はね、この間出入りのうなぎかきが大川筋で旅の者を助けてきて、離れのほうへ寝かせてあるの」
「板前さんからも聞いていた、何でも、太刀傷のある上に水浸みずづかりになって、随分容体ようだいも重いということじゃないか」
「ええ。だけれど、江戸の伝法でんぼう肌だけに気が強くて、大事な用を帯びているのだから、是非、親分を呼び返してくれ、後生だ、頼みだ、と夢中むちゅうにまでいっているのだよ」
「まあ、何だか可哀そうだね。そして、その人の親分という人は」
「唐草銀五郎という方で、多度津たどつへ立った街道へ、すぐ由造を追いかけさせたのだから、もう今日あたりは連れて帰ってくる時分だけれど……」
 話しながら、何気なしに日本橋の方へ待ちびた眼をやると、今度こそたしかにそれ! はやを打たせて四手駕よつで、三ちょう、エイ、ホイとこっちへ棒を指してくる。
「あ、やッと帰ってきた!」思わず涼み台を離れると、トンとみせさきへ駕尻かごじりが下り、れを揃えた三挺のうちから、
「大儀であった」という武家言葉。
 どうやら、それとは人が違っている。

 駕屋かごやすだれをはねさせて、川長かわちょうの明りへ姿を立たせたのは、身装差刀みなりさしもの、いずれもりゅうとした三人の武家揃い。
 蜂須賀家はちすかけのお船手ふなて九鬼弥助くきやすけ森啓之助もりけいのすけ。ともう一人は、やや風采が異なって、紺上布こんじょうふ野袴のばかまをつけ、自来也鞘じらいやざやの大小を落した剣客肌の男――阿波本国の原士天堂一角はらしてんどういっかくであった。
 どれも馴染なじみの顔ではあるが、お米は少し当てがはずれた淋しさで、
「いらッしゃいませ」とだけですぐに案内に立つ。風通しのいい表二階、このましい酒器や料理が調ととのえられたところで、お米もつい二ツ三ツしゃく愛想あいそをして席にいた。
「いや、いつ見てもあでやかだの。一つまいろうか」
「まアご冗談を……」美しいといわれることは、お米にとって、やまいきりを向けられるような苦痛であった。
「しばらくの間、またそちの姿も見られなくなる。つまり今宵こよい別盃べっぱいじゃ、まあ一盃ひとつ受けてくれい」
「オヤ、ではお近いうちにお国元へでも?」
「ウム、殿のご帰国にいて渡海する筈じゃ。ままになるならおよねも一緒に連れたいが……」
「嬉しゅうございますわ、森様、ほんとにお連れ下さいましよ」
「はははは、に受けられては大変じゃ。知っての通り、他領の者は一歩も入れぬ阿波の御領地。ましてや厳しいお関船せきぶねへは、どんな恋女房でも乗せては行かれぬ」
「昔は阿波のお国へも、商人衆あきんどしゅう遍路へんろの者が、自由に往来ゆききしたそうでございますが、いつからそんな不便なことになったのでしょう」
「さよう、もう御封地になってから七、八年。阿波の水陸二十七関、いよいよ厳しいお固めである」
「それはまた何のためでございますか」
「何のためか、殿様のお胸、吾々の知るところでない。しかし西国のうちには、阿波以外にも他領者の入国できぬ所がある」
「すると、しんから、そこに恋しいお方があるとすれば、清姫きよひめのようにじゃになって、あの鳴門なるとを越えなければなりませんね」
「はははは、当世女に、そんな心中立しんじゅうだては聞かぬところ、まず心配のないことじゃ」
「いいえ!」お米は熱を打ち込んで、赤い吉田団扇うちわをクルリと廻しながら「――私が恋をするとすれば、鳴門はおろか、どんな関でも、きっと渡って見せますわ。ええ! じゃにでも夜叉やしゃにでもなりますとも」
「こりゃ怖ろしい。してその相手は森うじか、天堂氏か、それともかくいう九鬼弥助やすけか」
「ホホホ、どちら様でもございません。もし仮にあったらという話――」
「何のことじゃ」笑い崩れてしまったが、お米は自分の空想を真実にして考えこみ、天堂一角は、床柱にもたれて、じっと、何かに耳を澄ましていたので、二人の声はまじらなかった。
 で、はしゃいだほうの者も、笑った後をやや白けて、冷えた盃のふちめていると、すぐ近くから、喨々りょうりょう、水のせせらぎに似た尺八の音階が、一座の耳へ流れてくる――。
「む、いつ聞いても悪くないのう……」さっきから耳心じしんを澄ましていた一角はひとりでつぶやく。
「あの歌口は宗長流そうちょうりゅう、京都寄竹派きちくは一節切ひとよぎりじゃ、吹き手はさだめし虚無僧こむそうであろう」
「まあ。本当に虚無僧ぼろんじさん――」と、お米は体を手欄てすりもたせて、二階から下をのぞきながら、
「まだお若い普化宗ふけしゅうのお方。あれ、あのように一心に吹いているのに、誰か、お鳥目ちょうもくに気がつく店の者はいないのかしら……」
「どれ、拙者が喜捨きしゃしてつかわそう」森啓之助が、なにがしかの小粒銀を紙入れからつかみだして、手欄てすりの方へ立ち上がった。
「森様、お包み致しましょう」お米が小菊紙こぎくを出していうと、もう幾分か酒に酔わされている啓之助、
「何の、物乞いにする投げ銭に、ご丁寧なことがるものか」と、下を目がけて、
「虚無僧! ぜにをくれるぞ」
 パラッと小粒を投げつけた。
 と虚無僧は、尺八の手をやめ、肩や天蓋てんがいへ落ちてきた金には目もくれず、スッとそこを去りかけた。
 ところへ、ドンと川長の前へ投げ出されたのは、道中早次はやつぎかご二つ、着くが早いか、その一ちょうの中から、半病人で飛び出した由造が、
「お嬢さん! 由造です! ただ今帰りました」
「オオ由かい?」お米は二階から身を伸ばした。
「唐草の親分、やっとお連れ申して参りました」
「まア、早かったねえ! 今行くから待っておいで」今の尺八も客も忘れて、お米はトントントンとたもとを舞わして店さきへおりてくる。

「アいた、ア痛たたた……」
 ほとんど半身、外科げかの手当に繃帯ほうたいされている病人は、夏の夜の寝苦しさと、傷の激痛にうめきを太く、時折ときおり白い床の上にうつつの身をもがいていた。
 と――もみかえで植込うえこみを縫って飛び石伝いにカラカラと、庭下駄の音がそこへ急いで行く。すぐ後から二人の影、一人は由造、一人は今早駕を下りたばかりの唐草銀五郎である。
「多市さん、多市さん」
 先に立ったお米、濡れ縁から呼びかけて中へ上がった。二間造りの別棟べつむねで、魚をかこっておく生洲いけすの水がめぐっており、板場の雑音は近いが、屋根から庭木へ掛けてある川狩かわがり使いの網の目に、色町の中とは見えぬ静かな宵の月が一輪。
「さ、親分様、どうぞこちらへ」
「ご免なすッて下さい」
 脇差を取り、すそを払って、銀五郎もズッと入った。油薬の香がれてプーンと鼻をつ。
 ここまで来る間に、使いの由造から、すッかり事情は聞いていたが、見れば、余りに変り果てた乾分こぶん多市の姿――銀五郎そこへ足を入れた途端に、指のさきで目がしらの露をおさえた。
 幸か不幸か、待乳まつちの多市は、お十夜の妖刀に二ヵ所の傷を負わされながら、川長の者に救われてここに療治をうけ、今なお気息喘々ぜんぜん苦患くげんの枕に昏睡こんすいしている。
「多市さん!」お米は軽くすぶッて、
「寝ているの、苦しいの? ――お前さんがうわごとにまでいっていた唐草親分が、枕元へ来ていますよ、え、お分りかえ」
「えっ、親分? ……」多市はポッカリ眼を開いた。起き上がろうとするのを、銀五郎がそっとおさえて、その顔をのぞきこんだ。
「多市、気がついたか。俺だ、銀五郎だ……」
「おッ。親分」と、細い手をからませて、上眼うわめにじっと見ていたかと思うと、そのまぶたからポロポロと男泣きの熱いなみだ……。
「無理に体を動かしちゃいけねえ、じっとしていろ、もう俺が戻ってきたからには心配はない」
「親分、わっしの傷は助かりません。助かろうとも思いません……ただ心がかりだったのは、親分が先へ多度津へ渡ってしまい、わっしがこうなったことも知らずにいると、飛んだ手違いになると思いまして、そいつが気になって気になって……」
「うむ、お千絵様の手紙のことか」
「そうです。すみませんが親分、多市はもう駄目ですから、わっしに構わず、もう一度江戸表へ帰って、お千絵様に事情を話し、誰かほかの乾分こぶんを連れて阿波へお立ちなすッて下さい」
「馬鹿をいっちゃいけねえ」
 励ますつもりで銀五郎は、わざと語気を強くする。
「そんな弱気でどうするものか。てめえの気性を見込んだからこそ、今度の旅にも連れてきたのじゃねえか。それも只とは違って、甲賀家の浮沈とお千絵様の一身にかかわる大事なお使いだ」
「そういわれると、あきらめている命も急に惜しくなります。だが親分……所詮しょせんこの容体じゃ助かりッこはありません」
「養生は気の持ちよう、しっかりしてくれ。二人の旅は他国と違って、船路もおかも関のきびしい蜂須賀はちすか領、しかも、生死の知れぬ世阿弥よあみ様へ秘密な手紙を持ってり込もうというずいぶん危ねえ勝負ごとだ。なんでてめえのほかにめったな者を連れて行かれるものか」
「アア助かりてえ……親分、多市はきっとこの傷をなおして、同じ死ぬなら、阿波の土を踏んでからくたばります……」まなこを閉じ、唇を噛んで、負けぬ気の性根でそうはいったものの、のろわれた二ヵ所の太刀傷ズキズキとみだすもののごとく、青白い皮膚にはこらえる汗があぶらとなってにじみでる。お米も、何とはなしに貰い泣きして、側からひたいの汗を拭いてやり、その手拭を由造へ渡した。
「冷たい水で、も一度しぼり直してきておくれ」
「へい」と、由造が立って濡れ縁へ出た時である。バサッ――と窓際まどぎわ青桐あおぎりが揺すれ、人の駈け出すような寒竹かんちくのそよぎがした。
「あっ、どこの客だろう」
「何だえ、今の音は?」お米がそこに出て見ると、表二階の客、蜂須賀家の森啓之助が、妙な気振けぶりでスタスタと植込みの中へ隠れて行った。

「御両所、この家に油断のならぬ奴がひそんでおりますぞ!」こう息まいたのは森啓之助。
 表二階へ戻ってくるなりに、ぬすみ聞きした銀五郎の言葉、また怪しむべき様子を指摘して、偵吏ていりのごとく同僚の二人へ奥庭の仔細しさいを告げた。
 最前から、そこに浅酌せんしゃくしていた天堂一角と九鬼弥助やすけは、お米の後にいて姿を消した啓之助を、実はおかしい方へ推量しているところだったが、彼の語調や、聞き流しのならぬ事実に驚いて、思わず盃を下へおく。
「ふウん、そんな奴が隠れているのか」弥助と一角は顔見合せて、「甲賀世阿弥の名を口にし、阿波のさかいへ入りこもうとする奴なら、まぎれもなく江戸からの廻し者じゃ」
くくってお屋敷へ送り込み、とくと吟味をしてみる値打ちがござりましょう」
「あるとも。すぐ踏み込んで取り押えてくれよう」
「相手は町人、大事はあるまいが念のために、天堂氏も一方を見張って下さるまいか」
「承った――」と、やおら自来也鞘じらいやざやを左にひっさげて、巨躯きょくを起こした天堂一角。九鬼弥助、森啓之助を先に立たせて、酔いざましの好場所もあらばと腕をやくして立ち上がった。
 涼風すずかぜならぬ一陣の凄風せいふう、三人のひっさげがたなにメラメラと赤暗い灯影ほかげゆるがした出会であがしら――とんとんとんとやわらかい女の足音、部屋の前にとまって両手をついた。
「あの、お武家様……」見れば川長の女中である。みんな立ち上がっている血相に、ややおどおどとして遠くから、
「先ほど、お鳥目を投げておやり遊ばしたあの虚無僧ぼろんじが、ご挨拶あいさつを申したいから、是非二階のお武家衆の席へ通してくれと申しますが……」
「何じゃ、さっきの虚無僧ぼろんじがあいたいと?」
「ハイ、物乞いのように銭を投げつけられては普化宗ふけしゅうの一ぶんが立たぬと、少し怒っているような口ぶりでございます」
「生意気な!」弥助は叩きつけるような語気で、
「そやつの挨拶とは、何かいいがかりをつけて酒代さかてをねだるつもりであろう。押しの太い尺八乞食め、見せしめにくびをぶち落してくれるから召し連れて来い」ひどくかんにさわったらしく、ぐわんとどなりつけるのを森啓之助がなだめて、
「まあ九鬼うじ多寡たかの知れた虚無僧風情ふぜいじゃ……」一方へ大事な出先と目顔に知らせて、女中の方へもこういった。
「これ、さような者の言い草をいちいち受けついでまいるから悪い。早く塩でもいて追っ払ってしまえ」
 すると、一間を越した隣り部屋、今までシンとしていた所から、ポンポンと軽く手を打つ客があった。
「はアい」いいしおにしてそこへ立つと、中には女の一人客、五種いついろ六種むいろの料理を取ってキチンと静かにくつろいでいる。
 打ち見たところその女客、文金の高髷たかまげ銀釵筥迫ぎんさんはこせこ、どこの姫様ひいさまかお嬢様かというふうだが、けしからぬのはこのお方、膳の上に代りつきのお銚子ちょうしえ、いき莨入たばこいれに細打ほそうち金煙管きんぎせる、ポンとはたいてささ色の口紅から煙をスパッとくゆらした。
「すみませんね、せわしいところを」
「どう致しまして、何ぞ御用でございますか」
「いいえ、何も別段なことじゃないんですけれど、ちょうど、お隣で断わられた虚無僧ぼろんじさんに一きょく吹いて貰いたいと思いますの。ご苦労だけどここへ呼び入れて下さいませんか」
「あの、ただいまの虚無僧ぼろんじを?」と、女中は一方へ気兼ねをして、すぐには応じかねていると、あんじょう、向うでは聞きとがめた九鬼弥助が、
「皮肉な真似まねをいたす奴じゃ!」憤声ふんせいを洩らして、食ってかかりに来そうであったが、
せ止せ、ばかばかしい」啓之助と一角が、しきりにそれを制している。
「大事の前の小事、そんな者に当り散らしているひまに、離れの奴が蜂須賀家のさむらいと知ったら、風を食らって逃げせぬとも限らぬ」
「そうじゃ、九鬼うじ一刻も早く!」バラバラと裏梯子ばしごを降りて川長の庭――夜露をしのいで忍びこむと、人の気配にさとい生洲いけすの魚がパチャッと月の輪を水にくずした。
「しッ……」と後ろを制しながら、先に立った森啓之助、生洲の小橋をい渡って、以前のの内をそッとのぞくと、お米も由造も早やそこには居合せないで、ただれるかすかな声。
「う、うウむ……」というのは多市のうめきであろう。枕元には銀五郎が、その寝顔を見まもりながら、三味さみ遠音とおねや色町の夜を外にして深い思案に落ちている。

「あれだな?」
 と、無言に目指しあって、パッと家の内へ躍りこんだ九鬼弥助。枕元から立ちかける銀五郎の利腕ききうでをムズとじ上げて、
「阿波へ入りこもうとする江戸の間諜かんちょう! すなおに吾々と同行しろッ!」
 図星をさしてこうから対手あいてきもくじきにかかった。
 ぎょッとしたが銀五郎、さすがに練れている所がある。色を隠してさあらぬ様子、取られた利腕ききうでを預けたままで、
「お人違いでございましょう、高野詣こうやまいりの帰りの者、阿波へ入りこもうの間諜のと申すような身柄ではございませぬ」穏やかにいい澄ました。
「いうな、最前の密談を聞く者あって、汝が甲賀世阿弥よあみの縁故の者ということは明白なのだ。言い訳があるならお下屋敷しもやしきへ参った上に、何なりと申し述べろ!」
「や、ではあなたは蜂須賀家の」
「知れたこと、お船手組ふなてぐみの九鬼弥助だ。天下何人なんぴとたるを間わず、御禁制の境を破って阿波への入国をくわだつる者は、引っからめて断罪たること知らぬうつけはない筈じゃ」
「しかし私にとりましては、まったく以て迷惑なお疑いでございます」
「えい、このにもまだしらを切るかッ」いわせも果てずじ敷いて、素早く刀の下緒さげおを口にくわえ、両の手頸てくびをギリギリ巻き――それでも銀五郎はまなこを閉じてこらえていたが、不意にムックリと身を動かした乾分こぶんの多市が、親分の危急! と一心につかみ寄せた道中差どうちゅうざしとこの上から弥助を目がけてさっと突き出す。
 行燈あんどんの光を流したやいばにえさきの来るより早く弥助の眼を射て、「おのれ!」パッと片足に蹴返した。
 さなきだに重体の多市は脾腹ひばらたれてひとたまりもなく、ウームと弓形ゆみなりにのけぞるはずみ――行燈の腰へすがった共仆ともだおれに、一面の闇、吹ッ消された燈火ともしびは窓越しに青白い月光と代った。
 大事は破綻はたんした、大事は破れた! もうこれまでとほぞを決めた銀五郎、いきなり利腕を振りほどき、力任せに弥助の足をトンとすくった。
「あっ――」と不意を食ったうわずり声。畳四、五枚向うへよろけて行く隙に、つかむが早いか、スウッと抜いた脇差のさやから走る風もろとも、唐草銀五郎真一文字にぬれ縁の外へ飛びだした。
 飛び下りた影をねらって、颯然さつぜんたる一刀が月光に鳴り、斜めに腰を払ったが、ヒラッとかわして銀五郎が、無二無三の刃交はまぜいどむと、対手あいてはたちまちかすりをうけて後退あとずさり、耳からあごへかけて赤い一筋――森啓之助は危なくなった。
 と――銀五郎の前へ、また一本のつるぎがふえた。九鬼弥助の助太刀である。いや、さらにまた後ろから、彼をうかがう者がある。天堂一角の見張りであった、まさに三方の敵に囲繞いにょうされた銀五郎、髪はしどろとなり汗はねばく、だんだんと剣気けんきに命をり減らされてゆくものか、月をうけた顔そのものも見る見る死相に変ってくる。
 無残、ここに惜しい男一匹が、使命をなかばにしてズタ斬りとなるか、無念の鬼となろうとしているのを、世間はよい絃歌げんかさわぎで、河岸を流す声色屋こわいろやの木のかしら、いろは茶屋の客でもあろうか、小憎いほどいいのど豊後節ぶんごぶし――。
 つばからはずれた尖傷さききず柄手つかであけに染めつつ銀五郎、もう受身に受身を重ねてジリジリと生洲いけすふちへ追いつめられる。
 機を計っていた一角は、その時自来也鞘じらいやざやの大刀をヒラリと放ち、殺気にからむ二ツのまなこにトロトロとりんの炎を立てたかと思うと、ピュッと振りかぶってただ一気、銀五郎の後ろからズバッ――とやりかけた。
 すると、カラッと妙な音がして、その大刀は途中から意外のほうへ狂ってしまった。やッ? とおどろいて見れば、風のごとく寄ってきた白い人影、森啓之助の脾腹ひばらを当て、九鬼弥助の腰をすくってザアーッと生洲の水へ投げつけた。
「ウウム……何奴なにやつッ」
 怒気をみなぎらして構え直った天堂一角、きっと月光のそそぐところを見れば、青き天蓋てんがい銀鼠色ぎんねずいろの虚無僧衣、うるしの下駄を踏み開いて、右手めてに取ったるは尺八に一節ひとふし短い一節切ひとよぎりの竹……。

 これはただの虚無僧ではない。
 一見不用意に似た尺八の構えは、いわゆる八面鉄壁ななな青眼せいがん、たしかに一流をこなしている。ましてや天蓋のうちの息しずかに、竹とはいえその尺八から、剣にも等しい一脈の殺気が迫ってくるところ――どうして冴えている! 奥行の知れない深味がある。棒振ぼうふり剣術や雑剣客のたぐいではない。
 と――一角はすぐに見てとった。
 彼とてもわざには一かどの見識を持つ男。この虚無僧の只者でないことを知るとともに、ピタッと剣勢を改めて、ウカとは上段を振り下ろさずに、一方の銀五郎へ気をくばって見ると、生洲から這い上がった弥助と啓之助、二とうに一人の銀五郎をはさんで、四、五間先へ斬りまくしている。
「よウし!」一角のはらがきまッた。「多少の心得はあろうとも、およそは知れた虚無僧ずれ、その構えを割りつけて、天蓋からあばらの下までただ一刀!」
 みなぎりだした殺念はがんにあらわれてものすごい。月光を吸いきった三尺たらず無銘のわざものかつ然と鍔鳴つばなりさせて天蓋の影へ斬りかかった。
「ム!」と相手も気を含んだ。尺八の穴みなビューッと鳴って、一角の大刀を大輪おおわに払うと、払われたほうは気をいらって、さっとそのさき足下あしもとからずり上げる。
 途端に、どこから飛んできたか一枚の小皿、闇の空から斜めに風を切ってきた。
「あっ!」とかわすと、またすぐに一枚の小さな皿、独楽こまのように吹ッ飛んできて、柄手つかでかざした一角の刀のつばにあたってパッと砕ける。
「うッ……」になった瀬戸のかけらに、目をつぶされたのか一角は、片手で顔を抑えたままバラバラとそこを離れて大声に、
「御両所ッ、今宵こよいのところは引きあげろ!」と、叫んだ後も目に手を当てて、虚無僧の入ってきた裏門から一散に外へ走りだした。
 阿波の原士はらしの中でも、ごうの者といわれている一角が、なぜか真っ先に走ったので、九鬼も森も対手あいてを捨てて、空しく川長を飛び出してしまった。
 引っさげ刀で銀五郎が、その後ろを浴びせに追いかけると、こなたに残っていた前の虚無僧は、静かに天蓋のふちを上げて、
「銀五郎、銀五郎」と呼びとめた。
「えっ?」不意に名を指されたいぶかしさに、思わずそこから振りかえると、
「そちに歯の立つ対手あいてではない。必ずとも追ってはならぬ」
「や? ……もし」と銀五郎、戻ってくるなり虚無僧の足もとへ片膝片手をつきながら、
「まず何よりは、今のお礼から申し上げなくっちゃなりません。したがこの私を、どうして銀五郎とご承知なのでございますか」
「知らいで何とするものか、こりゃ唐草……」軽く肩を叩いて、かたえの庭石へ腰をおろし、久濶きゅうかつの声なつかしげに、
「そちにも、いろいろと世話をやかせたまま、一昨年おととし江戸表より姿を消した法月弦之丞のりづきげんのじょうじゃ」
「ええっ!」はじかれたように寄りついて「法月様でございますッて? オオ、弦之丞様だ、弦之丞様だ!」かずおもてをジッとみつめ、嬉しいのか悲しいのか、しばらく言葉もないのである。
 天蓋を払ったその人物、漆黒しっこくの髪を紫のひもでくくった切下きりさげ、月のせいもあろうか色の白さは玲瓏れいろうといいたいくらい、それでいて眉から鼻すじはりんとした気性の象徴しょうちょう
 年は若い、恋にも功名にも燃え立ちやすい青年である。何流をやったか、今見せた腕のえといい、宵を流す一節切ひとよぎりの風流といい、ゆかしくもあるがあまりに美男な色虚無僧。その珠玉をつつむ天蓋はおそらくかたきを避けるためでもなく、また宗門のおきてにでもなく、旅から旅の一節切ひとよぎり、浮気につきまとう仇情あだなさけの女難けであろうかもしれぬ。
 その時、二階欄干らんかんに寄って、
「まあ、いい月だこと……」
 つぶやいている女があった。
 宵から、天堂一角の隣り座敷にいて、向うで断わった虚無僧を呼べといい、おまけに手酌てじゃくをきこししていたお嬢様――それは見返りおつな――小皿を投げたのもお綱であった。
 いい月とは何の月? らんもたれたお綱のひとみは、うつつのような色気に濡れて、弦之丞の腕の冴えならぬあの姿に、吸いつけられているではないか。

 川長のおよねはすこしどうかしている。
 あの騒動のあった翌朝、ここの裏門から、こっそりと三ツの駕が出て行って、病人の多市も銀五郎も、またその夜泊まった法月弦之丞のりづきげんのじょうの姿が見えなくなってから早や四、五日。
 きのうも今日も、お米は陰気な一間ひとま塗箪笥ぬりだんすりかかって、ものにかれたような、祈るような、泣きたいようなひとみをジイとっていた。
「弦之丞様、弦之丞様、……アア、どうしたんだろう、私の心は? どうしてこの名がこんなにも、私の心へ焼きついてしまったのかしら。たッた一夜同じ家に夜を明かしただけの人が、こうも忘れられなくなるものかしら? ……」
 出戻りの女にあり勝ちな強烈な恋。分別もあり男の苦労も一通りはめながら、押し伏せている情血のたぎりに駆られて、吾からとらわれてゆくあぶない恋。
「つまらない! アア淋しい。弦之丞様というものを見たばかりに、あの人が去った後の私の家は、まるで伽藍がらんか墓場のよう……」
 軽いせきがこみ上げてきた。細ッそりとした肩のあたりで箪笥たんすかんが揺さぶれる。と、二ツ三ツむせびながら、お米は小菊紙こぎくを出して口を押さえた。
 離してみると、紙ににじんだ桃色のつば――人にきらわれる癆咳病ろうがいやみの血――。だが、彼女の目には若い血のうずきがそこへ出たかと見える。
「恋をするのも今のうち。どうせ私は、永いことのない命だもの! そうだ、これから大津へ行ってみよう」
 ふらふらと立ち上がった。
「だけれど? ……」パラリと落ちた足もとのくしをみつめて、お米はまたふいと迷いもした。
「せっかく、家中うちじゅうの者が心配して、人目につかないように、江戸のお方や弦之丞様を、大阪から離れたかくへやってあるものを、私が出入りなどすれば、また蜂須賀家の侍がぎつけようも知れないし……。といってこのまま弦之丞様に、逢わずにはなおいられない」
 ともだえているかと思うと、見えぬ糸で魂をあやつられている人形のように、
「ええ、もうじれッたい、どうなとおなり……」ペタリと鏡台の前へ坐った。そして、繻子鬢しゅすびんのくずれを手早くき返し、美艶香びえんこう松金油まつかねあぶらきはじめたのは、もう恋のほかなにものもなく、一途いちずに大津とやらへ行って、法月弦之丞に会うつもりであろう。
 それにしても、美男の魅力は美女の蠱惑こわくにもまさるものか、あの夜川長の裏庭で、月下に渦まいた一つの争波そうはから、虚無僧姿の若人わこうどへ、つるぎ以外に、お綱お米という二つの女の魂までからみついてこようとは、弦之丞その人すらも知らないこと――。
「お米や……」そこへ温か味のある声がした。お米の母で、店から何まで切り廻している老母としよりである。小さなうつわへ、何か赤い液をたたえた物を持ってそろそろと入ってきた。
「お前、また今日もむのをお忘れだね」
「…………」答えもしないで臙脂べにをさしている、鏡の中のお米の目、やや狂恋きょうれんかたちがある。
まなくってはいけませんよ。え、お米や」
「今日は服みたくないんだもの」
 化粧のできた鏡の吾をみつめたまま、お米は見向きもしなかった。
「そんなわがままをいって――、自分の体を自分で大事にしない者があるものか。さ、おみ、せっかく今、竹やがしぼってくれたのだから……」と、口へ持って行くばかりに、母の出した器の中の赤いもの。それは癆咳ろうがいくというので、お米が人目に隠れてすっぽん生血いきちだ。
「いや、いや、今日は何だか見るのもいや……」
「何だえ、このは。まるで駄々ッ子のように」
「だって今日は嫌なんですよ」
「お前はまア、自分の命を惜しいとは思わないのかえ?」
「ええ、なんだか惜しくなくなりましたわ」
「ばか! 人の気も知らないで」
 と睨んだ眼には女親のなみだがいっぱい……。
「お米さん、逢いたいという人が来ましたぜ」
 何も知らないで下働きの由造、ひょいとそこへ顔を出した。
「え、誰が?」
「この間きた蜂須賀家の森啓之助様。今日は一人で、二階へ上がって待っています」

 美艶香びえんこうかおりが、そこへ忍びやかに流れてきて、
「森様、ようおいでなされました」と、お米の姿が、小座敷の萩戸はぎどいて中へ入った。
 とにかく、蜂須賀の船手ふなての衆は、店にも大事な顧客とくいであるので、いやいやながらも顔をだした。
 待ちわびていたらしい森啓之助、
「お米か、ずっとこっちへ寄ってくれい」
「はい、いつぞやはまた、とんだお粗相そそうをいたしまして」
「何の……」といったが啓之助、素姓すじょうのしれない虚無僧ずれに、生洲いけすの水へ投げこまれた醜態を、お米にも見られていたかとわきの下から冷汗をおぼえている。で、テレ隠しに、
「いつにも増して、まばゆいばかりな化粧あがり、どこぞへ出かけるところであったか」
 かれたのをいいしおにして、
「ええ、はずせない急用がございますので……そして森様、私に御用とおっしゃるのは?」
「ウム、ほかではないが」と啓之助、声と片肘かたひじを前へ落して、お米の顔をのぞきこむ。
「当家の離れにおった江戸の男とあの夜の虚無僧、もはやここにはおらぬそうだが、まさか、他へかくまっておくのではなかろうな」
「いいえ、決してそんな……」すぐ打ち消したが、これからそこへ行こうと思い燃えているお米の胸。ギクリと一本釘を刺されて、動悸どうきに顔色をさわがした。
「覚えがなければそれまでのこと、深く追及するのではない。わしはただ同僚の手前、役目として一応ただしにまいっただけじゃ……」優しくくだけた啓之助は、すくんでいるお米の手を握ってグイと側へ引きよせた。
「まだほかに一つの相談。それをしめしあわせたいのが今日の大事な用向きじゃ。これお米……何とそちは近いうちに、この啓之助と共に、阿波へ渡るつもりはないか」
「えっ、阿波へ? ……」
「ウム、阿波はよいぞ阿波の国は――八重のうしおめぐらされて渭之津いのつの城の白壁がある。峰や山には常春とこはるの鳥も歌おうし、そちの好きなあいかすみのようにけむっている……」
 ささやきながら啓之助は、お米の肩から胸へ手を廻して、心臓の音をさぐるように、じっと心をうつつにする。ひと頃は、お米のあこがれでもあった国、これが弦之丞というものを、知らない前のお米であったら、そのささやきに一も二もなく魅惑みわくされているであろう。
「どうじゃ、お米、わしと一緒に阿波へこぬか。この川長へ来はじめてから、それをどれほど思っているか、それは今さらいうまでもない。松のよいところ、水のよい所、そちの好きな所へ寮を建ててやろう、どんな栄華えいがもさせてやろう」
「ですけれど森様、阿波のお国は、他領の者を入れぬという、きびしいおきてではございませんか」
「もとよりそれに相違ないが、そちさえウンといえば、どんな手段てだてでもしてみせる」
「手段といって、あの海や関のお固めを、どうしてくぐって行かれましょう」
「お船手組ふなてぐみのこのわしが、内から手引きすることじゃ、決してそこに抜かりはない。いよいよ殿のお渡りもあと二月ふたつき、九月の初めと決まっている」
「でも、何だか私は怖ろしゅうござります」
「なに怖ろしいことがあるものか、それにはこうして渡るのじゃ……」お米がもがく力をおさえて、耳へ顔をピッタリ寄せた啓之助、何か一言ひとこと二言ふたこと小声に口を動かしたが、それは今のお米の心をく何ものの力もない。
「あ、誰かきます、森様、その手を離して下さいませ」
「よいか、承知であろうな」
「エエあとでよく考えておきますから……」
「何の思案がいるものか、お米、そちは心の奥で、このような男の力がほしゅうはないか」
「あ……あ……森様、息がつまります。離して、離して!」落ちたこうがいも拾わずに、男の手をふりもぎッたお米は、ふらふらと外へ出て、辻に見えた馴染なじみ駕屋かごやを呼んで、
「あの駕屋さん、急いで大津の追分おいわけまで行って下さいな、だちんは幾らでもあげますから」
 りょうすだれを下ろしてスッと身を隠してしまった。そして駕がゆれだすとともにフラフラと軽い目まいをおぼえ、まだ残る男の匂いが気持わるくこびりついた。
「じれッたい駕屋だこと、どうしてこんなに遅いのだろう――ああ弦之丞様、弦之丞様」うわの空なお米の心は、森啓之助の仲間ちゅうげんが、目早くそれを見つけ、この駕の後からつけてくることを夢にも知らない。

 京大阪へ別れの辻、東海道へはふりだしの大津追分、宿しゅくなみはうす黒く暮れて、馬や駕や旅人のかげも絶え、夕顔の花と打水に濡れた道と軒の明りがところどころ。
 針屋、そろばん屋、陶器すえもの屋、その隣には鬼の念仏の絵看板、かね撞木しゅもくをもって町の守り神のように立っているかどは、大津絵おおつえをひさぐ室井半斎むろいはんさいの店である。
「おじさん、今晩は」
 藤を持たない藤娘のようなのが不意にこういって入ってきたので、行燈あんどんと蚊やりを寄せ、夜業よなべに絵の具をなすッていた半斎、びッくりして鼈甲べっこうぶちの眼鏡めがねを上げた。
「おや、お前はお米じゃないか」
「ええ……」といったきりで川長のお米は、上がりかまちへ駕づかれの身を寄せて、明りをうしろにうつむいている。
 お米には叔父おじにあたる大津絵師の半斎、
「一人で来たのかい」ジロジロとめいの様子を見まわしていた。
「ええ、急にあの……心配になったものですから」
「何が心配に? ……」
「この間、おじさんのほうへお願いした三人の方が、もしやまた、蜂須賀家のほうへでも知れていやしないかと思いまして」
「なアんだ、くだらないことを」
「だって、怪我けがをしている多市さんの容体も、いいのか悪いのか気にかかるんですもの」
「お前は、それでわざわざやって来たのかい」姪の甘えるような言葉を、そのままの意味で聞いた半斎は、クックッ笑いながら線描せんがきの大津絵に、べに黄土おうどを塗りはじめる。
「ね、おじさん、あの方たちは奥にいるの?」
「それがさ、奥へおけるようなら心配はないが、病人の傷がなおるまで、かくまってくれというお前の方からの注文だろう、ところがここは街道筋で、わけても人目に立ちやすいから、実は関明神せきみょうじんの下で、時雨堂しぐれどうという一軒家が、庵主様あんしゅさまがおるすなのを幸いに、そこを借り住まわせてあるんだよ」
「ほんとに、いろいろご苦労をかけてすみませんでした。そしてあの多市さんの傷は」
「大津から外科げかをよんだり、薬風呂をたてたりして、あの銀五郎という親分が、親身になって世話をするので、だいぶよいという話だ」
「それはよいあんばいでございました」お米は店の壁にかけてある金泥きんでい仏画ぶつがひとみをうつしたり、たもとの端をいじったり、何かもじもじしていた後に、やッと心の奥のものを持ちだした。
「そしておじさん、あの若い虚無僧の方も、まだご一緒にいるでしょうね」
「ウウム、いるらしいよ」と半斎はんさい、無心の筆で、鬼の頭をバサリといた。
「じゃ私、これからそこへ行ってみようかしら……」
「あしたにおし、明神様のあたりは真っ暗だからの」
「時雨堂なら、よく知っているから大丈夫でございますよ」とすぐにお米がかどを出だしたので、半斎はあわててうしろへ声を送った。
「おいおい、お米や」
「あい」
「お前はこッちへ来て寝なくっちゃいけないぜ」
「分ってますよ」ちょッと邪慳じゃけんに眉をひそめて、もうあらかたとざした宿しゅくを急ぎ足に、関明神の石段の下まで来た。逢坂山おうさかやまの杉木立が魔のように見えて、ごうッと遠い風音も常なら気味の悪い筈だが、お米の今は体の疲れも何の怖さも知らないのだった。
 夜気冷やかにまたたいている二の常夜燈。ささ流れをまたいで竹林ちくりんの小道へ入ると、水の声でもないささの葉のそよぎでもない、耳覚えのある尺八の音……時雨堂かられてくる。
 その一節切ひとよぎりの竹の音は、吹く人のすさびでも聞く者の興でもなく、病人の苦痛を忘れさせて眠りに導くためであったとみえて、やがて一つの曲が終ると、
「銀五郎、どうやら多市は寝たようじゃの」
 と、お米の胸をき返す、法月弦之丞のりづきげんのじょうその人の声がする。

「いかさま、あなたの尺八を聞きながら、よく寝込んだようでございます」答えたほうは銀五郎であった。
 細かい竹の葉がくれに、時雨堂の中がすッかりのぞけた。奥には蚊帳かやが釣ってある。白衣びゃくえの法月弦之丞は唐草と向かいあって、えん端居はしいに蚊やりのかやをいぶしていた。
「もう何刻なんどきであろうかの」と弦之丞。
「そろそろ四刻よつすぎでもございましょうか」と、軒廂のきびさしから明星を仰ぎながら銀五郎。「あの山の上の一ツは、関明神のお明りでございましょうな。ああどこを見てもただまっ暗、何だかわしのようながさつ者も、しみじみと旅の淋しさがこたえてきます」
「して、そちが江戸を出たのはいつごろであった?」
梅雨つゆへ入るとすぐでしたから、もうかれこれ一月ひとつき前。それがてんから食い違って、阿波の関を越えるどころか、多市は倒れるし路銀はられるような始末。どうやら悪日あくびに立ってきたかもしれませぬ」
「そして、このの策はどうするつもりじゃ」
「さ、弦之丞様、実はそのことでございますがね……」真剣になって銀五郎、そこでしんみり声を沈めた。
 外ではお米、その人恋しさに、矢もたてもなく大阪から飛んできながら、弦之丞の影をちらとのぞくと共に、迷いと羞恥しゅうちにつつまれて、はしたなく声もかけられずにいるうちに、二人が密話みつわになりだしたので、なおさらそこを驚かす勇気がくじけ、ドット鳴る血の音を感じながら、胸を抱いてまがきすそへしゃがんでしまった。
 ひそかではあるが力をこめて、銀五郎の声がすぐつづく――。
どじをふんだ旅の空で、あなた様にお目にかかったのは、まったく甲賀世阿弥よあみ様のおひき合せ――こう銀五郎は信じております。自体こんどの阿波入りも、わっし風情ふぜいには荷の過ぎた大役です。どうぞあなたのお力をお貸しなすッて下さいまし」
「わしに力を貸せいというか」
「へい、倒れかかっている駿河台の喬木きょうぼく、甲賀のお家をささえる力は、あなたのほかにはございません。とりわけお気の毒なのは、この世に頼る人というものをお持ちなさらぬお千絵様……。もし弦之丞様、あのお方を、あなたは不愍ふびんとは思いませぬか」
「…………」白衣びゃくえひとは無言である。
 見るとその眼は閉じられてあった。何か心に痛みをおぼえるのか、かすかに唇がふるえている。
「もし弦之丞様、あのお方をよもお忘れではございますまい。わ……わっしですら、お千絵様のお身の上を考えると、野郎のくせに、つい、なみだが出てしようがねえんです……」太い腕ぶしをグイと折って、なみだの両眼を隠したまま唐草銀五郎、しばらく顔をそむけていた。
「――だが、御不運なお千絵様にも、たッた一人あなた様という強い力がありました。ところが、その一人さえ一昨年おととしから、プイと虚無僧寺へ隠れてしまい、心強くもお千絵様をすてておしまいなされました……。正直、わっしはその時うらんだ、ばかにしてやがる、前髪立ちの頃から、恋の何のと誓っておきながら、それが世間へ知れたからッて、虚無僧寺へ隠れたあげく、江戸を去ってしまうなんていう法はねえ、第一、大番頭おおばんがしらの若様ともある弦之丞様に似合わねえ、男らしくもねえ! と、こう独りでどなりましたぜ」
「では何か、わしがお千絵殿をすてて、江戸から姿を隠したのを、そんなにうらんでおったのか」
「お怨み申しておりましたとも! 乳母に上がっているわっしの妹も、そういう薄情な若様と知らずに、お千絵様との仲をおとりもちしたのが申し訳ないと、どんなにくやんだか知れません。いやいや、わっしや妹の歯軋はぎしりはまだのこと、あなたに捨て残されたお千絵様の嘆きよう……アア思いだしてもお気の毒、まったく罪でございますぜ」
「…………」愴然そうぜんたる白衣びゃくえひと、口はかたく結ばれたまま、その姿は氷のよう、その横顔は死せるようだ。
 お千絵様? お千絵様? その名はいちいち匕首あいくちのように、まがきのかげにひそんでいたお米の胸をえぐってきた。そして、ここまで描いてきた彼女の恋のまぼろしへ、見る間に悪魔のかげが踊る。

 弦之丞げんのじょうの態度が、いよいよすげなく、いよいよ冷静になりゆくほど、銀五郎の語調はまごころをまし、熱そのものとなってくる。
「そればかりではございません。今お千絵様のまわりには、あのお美しさと、甲賀家の財宝を狙う魔ものが、つきまとっているのです。――それを誰かといえば、あなた様にもお心当りがございましょう、ねばり強い悪智をもった旅川周馬たびかわしゅうまという男を……」
「ウウム、旅川周馬?」
 こう口のうちでつぶやきながら、初めて瞑目めいもくをみひらいた法月弦之丞、そのすずやかなひとみには、何か強い記憶のものがよみがえっていた。
「はい、その周馬めでござります。恋敵こいがたきのあなた様が、江戸を去ったのを幸いにして、いんように、お千絵様を責め悩ますじゃございませんか」
「さては、いまだあきらめておらぬとみえるな」
「手をひくどころか、いよいよ意地をげての横恋慕よこれんぼです。おまけに手をかえ、品をかえて、甲賀家の財宝まで、おのれの物にしようという腹……太い野郎でございます」
「オオ、あの周馬なら、そのくらいなことはたくらむであろう」
「わっしは元より今戸いまど瓦師かわらし、とてもあいつに歯は立ちませんが、またお千絵様の境遇をよそに見てもいられねえ。そこでにわかに阿波入りを思いたち、あのお方の手紙をもって、世阿弥様の御安否をさぐり、もし生きていたらばしめたもんだ! 甲賀のお家に春が来る! というので実あ飛びだしてきた訳です」
「なるほど、いつもながらの侠気おとこぎじゃ。恋はすれど意気地もなく、天蓋てんがいの下に身をかくしている、この弦之丞などは面目ない」
「ど、どういたしまして。ところが、こいつア一世の大難事。細工はりゅうりゅうという訳にはゆきそうもねえ、まずわっしの命は鳴門の関をこえねえうちに、たいがい無いものだろうと覚悟をしました。しかし、あとあと思いやられるのはお千絵様、春にも逢わずお家の御運と共枯れに散るよりほかはねえのです……。もし弦之丞様、それやこれも察してあげて、どうぞわっしが立った後は、江戸表へお帰りなすッて、不幸なお千絵様の力となってあげて下さいまし……、このとおり、銀五郎が両手をついてお願い申します」
「……さて何としたものやら?」
「なに迷うことがございましょう。うそけれんもないところ、お千絵様はあなたにしんかられています。顔だけ見せてあげただけでも、どんなにおよろこびかもしれませんぜ。弦之丞様、銀五郎が一生の頼みでございます、どうぞ一度あのお方へ帰ってあげて下さいまし」
 これほど真摯しんしな声も、まだ相手の心をつにはたらないのか、依然としてその人の横顔は冷たく、だくの一語を洩らさない。
 が――あまりに強く衝たれたのは、その人にあらずして、さっきからまがきすそにしゃがんでいたお米の胸。
「弦之丞様には女がある! お千絵様という深い深い恋仲の女子おなごがあった! ……」
 こう知った心は、火へ水をぶッかけられたよう。くらくらとめまいがして、深い闇へつきのめされた心地に、側の竹へすがってしまった。
 ささえになった竹の幹は横にしなって、むらざさの葉からバラバラと瑠璃るりの雨……お米へ無残な露しぐれ。
 と、その時一人の男。
 そこを離れてひた走りに、闇から闇へかけ去った。こんよくお米をつけてきて、この時雨堂しぐれどうを見とどけた森啓之助の仲間ちゅうげんであったらしい。
 しばらくして……。半刻はんときほど後お米はふいと気がついた。
 見ると目の前に提灯ちょうちんがある、大勢の人がとりまいている。その中には、叔父の半斎もいるし、店の者もきているし、銀五郎と法月弦之丞もまじっていて、何かしきりに低い声でささやきあっていた。
 やがてお米は、ソロリと戸板へ寝かされた。
 提灯が先に立つ、そして、時雨堂の明り――悲恋のともしはだんだんと遠くなり、暗い追分の宿しゅくを通ってゆく。
「あ……私はあすこで、仆れた時に血を吐いたのだ……着ものに血が……血が」
 指に冷たくぬれるものを感じながら、お米は戸板の上でポッカリ星を見つめている。
「私の恋はかなわぬ恋――弦之丞様には女子おなごがある、それでなくとも、こんな病を知られてしまった……」頭だけは澄みきっていた。

 ほこりッぽい街道すじに、これはまたきれいとも華やかともいいようのない行列が、今――三条口から大津の方へ、おねりでってくるのである。
 桃色の日傘、あやめの絵傘、とりどりに陽へかざす麗人二十二、三人、派手はで模様のたもとや藤いろのつまのけだしやら花色の股引ぱっちやら、りの下駄だの紅緒べにお草履ぞうりだのが風にそそられて日傘の下にヒラヒラと交錯こうさくし、列にはさまれたかごちょう、一人の美女がのっている。
 どこの陽気なみだい様かとまちがえそうな人数だが、歩きながら、たえずペチャクチャとさえずるお供の方の風俗や、また、口三味線だの小唄だのを、はばかりもなくさんざめかして行くていからみても、この人々は、決してさような、やんごとないご連中ではない。
 だが、往来ゆききの旅人や馬子や荷もちの人足などは、その華奢きゃしゃにして洒然しゃぜんたる道中ぶりに眼をうばわれ、
「なんだろう? ……」と、あッけにとられて見送りながら、そこでさまざまな風評が立つ。
 どこかしらのお大尽だいじんが、京の芸妓げいこ色子いろこをこぞッて、琵琶湖びわこへ涼みに出かけるのだろう。いやいや、お大尽様というものは昔から男のものに限っている、あの駕の中に納まっているのは女じゃないか。なアるほど女ですね。女も女、すてきな別嬪べっぴんさ。してみると金持の御寮人ごりょうにん様かな。もしもしばかをいってはいけませんよ、良家の箱入娘があんなまねをして、臆面おくめんもなくこの真っ昼間あるくもんですか。イヤごもっともごもっとも、それもそうだ。それじゃア何だ? 何だかさッぱり分りませんな。
 こんな噂やけげんがる目が、その行列をいっそうはしゃぎ立たせて、程もなく逢坂おうさかふもと走井はしりいの茶屋の店さきへかかると、一同はまン中の駕を下ろし、群蝶のくずれるように茶店の内や外に散らばった。
「さあ、お嬢様、お嬢様」
 祇園ぎおんあたりの仲居なかいであろうか、なりをすかさぬ年増たちが、駕をのぞいてこういった。
「――いよいよここが追分手前で、あのとおり井水いみずが吹きこぼれている走井はしりいの名物茶屋。お名残り惜しゅうございますが、お見送りもここまでといたしましょう」
「まあ、もうお別れの場所へきたの。何だかあっけない気がするね」
「なろうことなら、お江戸までいてまいりとうございますが、それではお嬢様がお困りでしょうし……」
「ほんとにね、みんな京人形ならいいけれど、お米を食べる虫だから……」
「あら、あんなお憎い口を」
「じゃ、とにかくそこで休みましょうか」
「さアさア、ごゆるりとお支度をなさいませ」
 頭の青い男芸者や仲居たちがすぐ駕の屋根からはきものを取ってそろえると、また一方から、ソレお扇子せんすが落ちました、ヤレおすそが砂へつきました、と下へもおかずに藤棚の前の座敷へお迎え申し上げる。
 そこではまた、きれいな舞妓まいこ色子いろこたちが、団扇うちわの風を送るやら、吹井ふきいの水で手拭てぬぐいを冷やしてくるやら、女が女をとり巻いて、何しろ大したもて方である。
「もうたくさんたくさん――そんなに風を貰っても、江戸のお土産みやげに持ってゆかれるわけでもなし、さアみんなも少し涼んでおくれ」
「はいはい、そんなら私たちも、しばらくここで休ましていただきましょう」
「アアそれがいい。そら、ここまで送ってきてくれたご苦労賃ですよ、仲よく拾って遊んでおいで――」
 帯の間からつかみだした金銀を舞妓まいこたちへバラバラといてやる。たいこや仲居大供おおどもまでキャッキャッとなってあばきあった――。なるほど、これなら女のお客にしても、たしかにもてるに違いない。
 さはあれ、このお嬢様、べつに女紀文きぶんを気どる次第でもなく、厭味いやみな所もさらさらない。ただこうした色彩の雰囲気ふんいきにつつまれているのがわけもなく面白いのであるらしい。
 と、何思ったか「ねえさん――」と茶店の女を手招きして、お嬢様はこうおっしゃる。
「あの、あすこになだたるがみえるようだが、ちょっと一本つけてちょうだいな……いいえ、さかなはべつにいらないよ、あるなら枝豆か新生姜しんしょうがでも……」
 一方では舞妓たちが藤棚の下へ床几しょうぎをもちこみ、銀のかんざし花櫛はなぐしのきれいくびをあつめて、和蘭陀おらんだカルタをやりはじめていた。
 お嬢様なるあやしい女、それは見返りお綱であった。――お綱が江戸への帰り途である。
 天王寺でりとった三百両や、和蘭陀おらんだカルタで思いがけなく勝ちぬいた金、合せて七百両あまりを、伏見や京都で男のような遊びぶりにつかいちらし、まず上方を見物したし、重たい金の荷もとれたし、これでサッパリ帰ろうというのである。
 そこで、京の芸子や仲居たちは、江戸蔵前くらまえ大通だいつうのお嬢様が、いよいよお立ちというので、走井はしりいの茶屋まで見送ってきたものである。そのためにお綱はまた、つかい残りの小粒まで、洗いざらいフリいてしまった。
 だが――お綱の目でみると、人通りの多い東海道、路銀はどこにでも転がっている。
 で、どこまでも触れこみ通り、金に大様おおようつうでおきゃん札差ふださしの娘――という容子ようすになりすまし、仲居を相手に、美食のあとの茶漬好み、枝豆かなにかでお別れの一合をチビチビと飲んでいる。
 と、茶店の外で一服すっていた駕かきが、
「あっ、いけねえ――」と、藤棚のほうをのぞいて声をかけた。
舞妓まいこさん、舞妓さん。早くカルタを片づけてしまいなせえ。あいにくと向うから、お役人らしい侍が大勢こッちへ来るようですから」
「大丈夫よ……」
 和蘭陀カルタに気をとられている舞妓の組は、それに耳もかさないで、床几しょうぎまわりにたかっていた。
「大丈夫じゃねえ、往来からみえる所で、そんな物をいじッていると、きっとガリを食うにきまっていら」
「だって、お菓子をかけているのだもの、お役人様が見たって叱りはしないわ」
「おや、またはじまっているのかえ」
 お綱もこっちで苦笑したが、何か思いだしたように、
「あのカルタは、私が長崎からもってきて、舞妓さんたちに教えたのだけれど、もし後でおとがめでもあるといけないから、こっちへ返して貰いたいね」
「はい」仲居が立って、すぐふだを集めてお綱の前へさしだした。お綱はそれを重ねたまま、ピリッと裂いて煙草盆の火にくべてしまう。
「アラ、つまらない……」
 舞妓たちの眼は、和蘭陀カルタの煙を見あげて、うらめしそうにつぶやいている。
「では、私は勝手に支度をしなおして、日蔭ができたらここを立ちますから、みんなも構わずに戻って下さい」
「さようなればお嬢様、ぜひ来年の祇園ぎおん祭りには、またおいでなされて下さいませ」
「ええ、またきっとのぼってまいりましょう。アア、それから私の頼んでおいた道中着物は? ……」
「こちらへ包んでおきました。ではお嬢様、どうぞご機嫌よろしゅう」「道中お気をつけなさいませ」「みずあたりやゴマのはえにも……」などと入れ代り立ちかわり、送り言葉のあいさつを述べて、この一行はまた、三条口へつづく並木をゾロゾロと引っ返してゆく。
 ぽんぽんと手を叩いて、お綱はそのあとで女中を呼んだ。
「永く店をふさいでいてすみませんでしたね」
「いいえ……あの、御用は何でございますか」
「こんな姿をして歩くと、道中かごかきや人足にばかにされて困りますから、ちょっと支度をなおしたいと思うんですが……」
「それなら、あちらの部屋に鏡台もございますから、ごゆるりお使いなさいまし」
「じゃ、ちょっとそこを借りますよ」
 立って奥へ入ろうとすると、ちょうど茶店の前をおびただしい数のさむらいが、いずれも野袴のばかまわらじがけで、シトシトとわき目もふらずに通り過ぎてゆくのを見た。
「おや?」
 お綱は、ペタと壁のかげに身を隠して、
「あの先達せんだつになってゆく男は、たしかこの間川長かわちょうの座敷で隣合った阿波侍……たいそうぎょうさんな身支度で、一体どこへゆくのかしら?」
 と横目づかいにジイと見送っていると、あの、天堂一角とおぼしき眼が、鋭くこっちへふり向いたので、お綱はスッと奥の部屋へ隠れてしまった。
 そして、立て膝の鏡立てに、両手を髪へ廻したかと思うと、見るまにこうがいをぬきかんざしをとり、鹿結びのお七まげを惜しげもなくこわしてしまう。

 あれから一ときばかりたって、お綱は、すきやちぢみ小柳こやなぎの引っかけ帯、髪もぞんざい結びに巻きなおし、まるで別人のようになって、
「アア、せいせいした……」
 と「はし」と書いた団扇うちわを片手に、ぶらぶら大津の方へあるいていた。
 ちょうど、どこかのいきなお内儀かみさん――というかっこう、誰の目にも旅をしている者とはうけ取れまいと思えるが、さすが、街道かせぎのかごかきは目が高かった。
「こウ、ねえさん」
 すぐはえのようなやつが二匹、一匹は空棒からぼうを通して駕をひッかつぎ、一匹は手ぶらで後からくッついてくる。
「どうだい、ええ、姐さんてば」
 お綱はふり向きもしないで、団扇を使いながら歩いていたが、
「うるさい人だね!」チェッと舌うちをしてにらみつけた。
「うるさかったら乗ってくンねえ。陽のあるうちに矢走やばせ渡船わたしを越えて、草津泊りは楽なもんでさ。下駄ばきでカラコンカラコンやっていた日には、これから大津までもむずかしゅうがすぜ」
「大きなお世話だよ」
「こいつアごあいさつ。親切に教えてやっているんじゃねえか」
「雲助とゴマの蠅の親切なんかは、まッぴらご免ですとさ。それとも、まったく親切気があるなら、これから江戸の日本橋まで、押ッとおしでやってくれるかい」
「ええ、ようがすとも、泊りさえ取ってくれれば、江戸だろうが、奥州だろうが、決して嫌たアいいません」
「そうかい、だがね」
「まアとにかく、先へ乗っておくンなさい」
無代ただでだよ」
「えっ?」
「こう見えても私は一文なし、タダでいいなら乗ってあげる」
 澄まして行き過ぎるうしろ姿に、いっそうムッとした二人の雲助、いきなり空駕からかごをほうりだして、バラバラッとうでまくりのただ一打ち!
「けッ、ふざけやがるな」
 わしのごとく飛びついたが、お綱の体に触れない前に、あっ! と雲助がを揚げた。と思うと、何者にか、二人ともえりがみを引っつかまれてブーンと一ふりふりまわされる。
「街道のウジ虫め、悪くあがくと命がねえぞ」
「アッ、ごめんなすって――」
 下からその太腕を見あげると、なりは黒麻に茶柄ちゃづかの大小をさし、夏ではあるが、黒紗くろしゃの頭巾に半顔をつつんで、苦み走った浪人の伝法はだ
 お綱は、ひょいと振りかえって、
「おや、お前は、お十夜じゅうやじゃないか」と、二足三足戻ってくる。と孫兵衛は、両手にしめつけていた雲助を、ドンと向うへ突っ放した。
「あ、お待ちよ、駕屋かごやさん――」
 ほうほうのていで逃げかける雲助を、駕屋さんと優しく皮肉に呼びとめたお綱。
「街道すじは生馬いきうまの目を抜く人通り、他人様のふところを狙う前に、よく自分たちの胴巻でも用心していたほうがいいよ」
 ニッコリ笑うと、いつの間にっていたのか汗じみた雲助の財布をポーンと足もとへほうってやった。
「こんなビタせんは、痛々しいから返してあげる。だがネ、これから正直に働かないときかないよ」
「あっ、こいつア俺のだ」あっ気にとられた雲助は、それを拾うとお十夜の眼も怖く、一散に空駕からかごをさらって逃げてしまう。
「ホホホホ、雲助なんて、何という他愛たあいがないんだろう……」お綱は見送って明るく笑った。
「おい――」その肩へ、ソッと手をのせて、お十夜孫兵衛。
「相かわらずすばしッこいなあ」
「あんまり憎いから、ちょッとからかってやったのさ。だがお十夜さん、妙な所で落ち合ったねえ」
「そッちは不意に思うだろうが、この孫兵衛は、ぬきや屋敷のあの騒ぎから後、どんなに跡を探していたか知れやしねえ」
 何か一もつありそうなお十夜――あのそぼろ助広の鉄色かねいろのようにトロリとした眼でお綱をる……。

 曇るかと思うとカーッと照る、松並木の葉洩はもが、肩をならべて行くお綱とお十夜のうしろ姿へまばゆい明暗をあやどってゆく。
「じゃ、あの騒ぎから後に、それほど私の跡を尋ねていたのかい」
「こんどのことをきッかけに、一つ江戸へ出てみたいと思うのだが」
「アアそれもいいかもしれないね」
「女のところへ男が転がり込むなあ、少し逆縁かもしれねえが、当座の間、おめえの家へやっかいになるつもりだ」
「おやすいこと、江戸へ帰ればお綱だって、少しは顔がきくから、安心しておいでなさいよ」
「ありがてえ、これでおれも気が落ちついた」
「気が落ちついたのは私のほう……」白い歯なみをみこぼして、ニッと流しめにこびを向けたので、あまり近く寄り添っていた孫兵衛、息づまるような眼づかいを迷わせた。
「はてな……」と好色な孫兵衛は、もう情心じょうしんの闇に好きな痴蝶ちちょうを舞わせて、勝手な想像を心の奥でたくましゅうする。
「お綱のやつめ、ばかに今度は当りがいい……ジロとおれをみる眼元、何ともいえない色気の露がたれている。やッぱり女は女ざかり、男がほしいに違いない。とするとこの金的きんてき、案外もろくポロリとおれに落ちてくるかもしれないわえ……」ひそかに伽羅きゃらかおりをぬすみ、その肉を想いなどして、今宵の泊りの夢までを描くのである。そういえばお綱の手が、歩きながら、ときどき味を持たせるように孫兵衛の指へさわってくる。ここで、ギュッとその手を、握り返してやりさえすれば、きゃんなようでも女のことだ。そうなってはもう啖呵たんかも出まい。きっと、俺のこの強い力にほだされて、いつの間にか俺のこの胸へ抱きこまれてくるんだろう。あめえものだ。何といってもそのほうにはお綱も初心うぶなところがある。世間にすれていて男に初心――男にすれていて恋には初心――、という女がこのお綱だ。深窓しんそうにたれこめている御守殿女ごしゅでんおんなの初心よりは、お綱のような女の初心が、時には、ばかばかしいほど男に血道をあげるものだ。
 ……孫兵衛の情心妄想、あるきながら果てしもない。
 お綱の、あの鈴形すずなりに澄んだ目も、きりッとつぼんだ口元も、板木師はんぎしが一本一本毛彫けぼりにかけたような髪のえぎわも、ふるいつきたいえりあしの魅力も、小股こまたのきれ上がった肉づきも、おれの手にかかれば翌朝は、そのおもかげも残しはしない。お綱がうわべにまとっている、はりだのきゃんだの意気地だの、そんな虚勢きょせいはみんな脱がして裸のお綱にしてみせる。そして五十三つぎの泊りの間に、この女を生れ変ったようにしてやったら……こりゃ、そぼろ助広のやいばに、辻斬りの血をぬるようなこころよさの比ではない……と、孫兵衛の魔情はニッタリとするのであった。
 と、いつか並木がザワめきだしてザーッと砂をまぜた風が、お綱のすそあおり、孫兵衛の幻想をうしろから吹き払ってしまった。
「おや、ポツリと降ってきやしない?」
 お綱のひとみが、雲足のはやい空をみていた。
「オオ、夕立雲!」
「困ったねえ、まだ大津へも着かないうちに」
「しかたがないから早泊りとするさ」
「向うに見えるのが追分だね」
「ウム、どうせ二人とも急ぐ旅じゃねえ。オ! こいつアいけねえ、本降りだ!」いううちに大粒の雨、サーッと斜めに吹っかけてきたので、二人はにわかに走りだした。と、その後ろから一ツの笠が風に舞わされてクルクルッとお綱の足へ吹きよせてきた。
「アアア――」と追いかけてくる旅人があった。べんけいじま単衣ひとえ紺脚絆こんきゃはん、笠を抑えたらしい時、お綱はちょッと振り返って、何だか見たような男と思ったが、雨と風に吹き別れて、街道筋の旅人もみな散り散りに影をひそめてしまった。
 お綱とお十夜は、追分はずれの静かな旅籠はたごへおちついた。雨樋といあふれるドシャ降りと、青光りの稲妻に障子をしめて、お綱はグッスリ枕についた……、しきい一重ひとえの隣には、宵に、お綱のなまめいたしゃくに酔った孫兵衛が、これもグーッと寝ついている。
 だが、心から寝ついているかどうか? ……。
 お綱も真から帯紐おびひもをといて、寝こんでいるかどうか? ……。とにかく、目にみえないあるものが、仄暗ほのぐらい灯にまたたかれている二ツの枕を通っている。
 そら寝のかけひき、どうなるか?

 そのあした。
 雨はやんだが曇りもよう。湖水の色や、比叡ひえいの雲の行きかいを見るに、もう一降りドッとこなければ、この天候はれあがるまい、というので、旅籠はたごかどには、だいぶ逗留とうりゅう延ばしのはきものが見える。
「おい、誰かいねえのか、ごめんよ――」
 そこへ一人の男が立った。
「あい、お泊り様で……」宿の女中が出てみると、土間に突っ立った男は、べんけいじまの尻はしょり、笠の前つばを抑えているので人相は分らない。
「うんにゃ、泊るわけじゃねえ。――ちょっとここの客に言伝ことづてて貰いたいのだが、昨日きのうなんだろう、……あのドシャ降りがやってきた時、頭巾をかぶった浪人と小粋こいきな女が、ここの家へ、駈けこんできたろう」
「はい、お泊りでございますが」
「その女の人に、これを渡してくンな。昨日、走井はしりいの茶屋の前で拾いました、おおかたあなたが落したものと思って、ついでに持って上がりました……とな。いいか、忘れちゃいけねえよ」
 ふところから、妙な模様のついている一枚の札を出し、それを女中の手に渡して、
「だが、そいつはついでで、肝腎かんじんなのはこの次だぜ。ところで、この札を届けました男が、いつぞやは飛んだご恩をこうむりました。おかげ様で命拾いをいたしたようなもの、くれぐれもありがとうぞんじました……と、こうお礼をいって貰うんだ」
「それでは、ちょっとお呼び致しましょうか」
「おッと。逢うわけにはゆかねえんだ、外にはれも待っているから、今いったことだけを頼んだぜ」ヒラリと戸外おもてへさして帰ってしまった。
「お客様、ごめんなさいませ……」女中はすぐに、その札を持って奥の客間をさしのぞく。
 二のうち一間のほうには、お十夜孫兵衛、宿酔ふつかよいでもしたのか、蒼味あおみのある顔を枕につけ、もう午頃ひるごろだというに昏々こんこん熟睡じゅくすいしている。
「おや、まだおやすみでございますか」
「いいえ……」中仕切なかじきりの向うからお綱の声がした。お綱はすッかり朝化粧まですまして、なりもきちんとできていた。
「お連れ様は、たいそうよくおりでございますね、おや、朝飯あさはんもあがっていらッしゃいませんようで」
「そッとしておいて下さいな。昨夜ゆうべ少し持病が起きて苦しんだところですから……、なアにこの分で、夕方までグッスリ寝ていれば、気分がよくなりますから心配しないで」
「はい。それからお客様……ただいま下へ、旅のお方が見えまして、これを渡してくれとおっしゃいましたが……」女中は、べんけいじまの男からいわれた通りの言伝ことづてを添えて、きれいな模様のある札をお綱の前へさし置いた。
「えっ、これを誰かが届けてきたって? ……」
 お綱は畳の上へ眼をみはった。その一枚は、まぎれもない和蘭陀おらんだカルタの一枚である。
 走井はしりいの近くで拾ったといえば、送ってきた舞妓まいこたちが、あの茶店先でもてあそんでいたから、その一枚が往来へ散ったのであろう――それに不思議はない、しかし、この一枚のカルタをたぐって、自分へ届けてきた男の眼力がんりきがなんとなくもの凄い。
 だがまた、女中の言伝ことづてによると、その男は、別に悪意を持っている様子もない――いや、悪意どころか、いんに何かを感謝している口ぶりであったという。
「じゃ、べつに、もう御用はございませんか」女中が立ちかけると、今度はお綱が問いかけた。
「あの……妙なことを聞くようだけれど、この辺に、虚無僧でらがありますか」
「虚無僧寺? ……さアよく存じませんが」
「では昨夜、雨の小やみな時に、時々一節切ひとよぎりがしていたようだけれど、あれはどこで吹いていたのだろうね」
「一節切と申しますと、あの尺八でございますか」
「まア同じようなもの、何か心当りがありませんか」
「そういえばこの間うちから、関のお山のふもとにある時雨堂しぐれどうで、誰か時折吹いているようでございます」
「関の麓の時雨堂? ……ああ、そうですか、ありがとう……」と、女中が立った後でお綱は黙って眼を閉じた。――ゆうべの雨の絶えだえに聞いた、あの一節切ひとよぎり遠音とおねを、ふたたび耳の底に聞くように。
「ウウム、ウウッ……」不意に寝床の上の孫兵衛が身を動かした。とたんに、お綱はスッと立って、背なかを壁にりつけたまま、その蒼白い寝顔と寝息をうかがっている……。

 時雨堂。なんとなく心をかれる名だ、恋しい情けが運ばれる名である。
 でなくともお綱の心は、一途いちずにそこへ向いていた。とにかく、垣間見かいまみにでものぞいてみたい、声だけでも横顔だけでも――という恋慕が矢のようにはやる。
 で、宿からそッと抜け出した。
 その時、お十夜は、まだ昏々こんこんと眠り落ちていた。
 せき明神みょうじんへフラフラと歩きだしながら、お綱は、ふと、自分の気もちを不思議に思う。
「おや、どうかしているよ、私は? ……」
 だが、引っ返す気にはなれない。
「どうかしている、そろそろ、お綱のやきがまわったのかしら。今まで、男の中にまじりあって、その男が何とも思えず、女だてらに大尽遊びをして、色子や男芸者に水を向けられても、どんな気もしなかった私だけれど……妙だねえ、今度だけは、あの一節切ひとよぎりだけが忘れられない。魔がさしたというものかしら?」
 はっきりと、自分でその気心の怪しさを意識しながら、足と心だけは、グングンとかれる方へ惹かれてゆく。あの時雨堂へ。
 とはいえ、世間に一節切の上手は多い。宗長流そうちょうりゅうもたくさんある。ゆうべ夜半よなかに、宿の枕へほそぼそとかよってきたが、必ずしも、あの虚無僧とはかぎるまい、世間に虚無僧も大勢ある。
 だが――あまりよく似た音色ねいろでもあった。立慶河岸りっけいがしを流していたのを、川長の二階で聞いたあの音色。ほんとにソックリな節廻ふしまわし、曲もたしかに宗長流の山千禽やまちどり
「ああ、どうしたんだえ、この、お綱さんは!」自分の胸を叱ってみても、やッぱりいつかお綱の心は、その人らしく考える。
 あの晩、川長の隣り座敷にいた阿波侍が、何かコソコソしめしあわせて庭手にわてへ出たので、お綱は、見るとしもなく二階から見下ろしていると、たちまち月下につるぎの声がおめきだした。そして一人が危うくなる……あっと思っていると、裏木戸から、あの虚無僧が白鷺しらさぎのように立って、ピタリと対手あいての阿波侍へ尺八を向けた――その阿波侍の刀の鋭さを見ていたお綱は、やにわに膳の小皿をとって、パッ――と二つ三つ投げつけたのだ。
 しかし、お綱はあとで後悔した。
 あれは余計なことだった。あの時虚無僧の構えた尺八には、充分な自信とみがきぬいた腕のえが、素人目しろうとめにも分るほど光っていた。なんだかはしたないことをしたように気がとがめて、お綱は、きゃんにも似ず、その時、恥かしい気に責められもした。
 そしてしばらく、月を浴びて、ひそひそと話しているその人を、上の手欄てすりから見つめているうちに、お綱は夢ともうつつとも知らない境に、骨のずいまで沁みわたるほどなゾッとする恋慕の寒気さむけにとりつかれた。
 お綱は、恋だなんて嫌味なことを、いいもしなければ思いもしない。
 自分で自分の心にいった。
「わたしは、月夜の晩に風邪かぜをひいたよ!」
 世間にすれていて男にすれず――男にすれていて恋にはすれていない、これがお綱の実感だった。
 月夜の風邪は重くなった。
 あれからも二度三度、立慶河岸りっけいがしのお茶屋に上がって、一節切ひとよぎりぬしを待つ夜もあったが、とうとうそれきりその尺八たけもその影すらも見かけない……。京や伏見で七百両のやけづかいも、華やかだったには違いないが、月夜の晩にひいた風邪は、お綱のずいからぬけないのである。
「あ……うッかりして、妙なほうへ来てしまった……」お綱は目先をぬぐわれたように、ふいと気がついて立ちどまった。
 せき明神みょうじんの高い石段は、さっき右手にみて左へ折れた薄おぼえがある。道はいつかダラダラ上りにかかっていて、緑の濃い竹林の中に、淙々そうそうとしてゆく水の声がある。
「この辺じゃないかしら? ……こんな時に昨夜ゆうべ一節切ひとよぎりが聞こえてくればいいけれど」
 と、二筋ふたすじの道を見廻していると、やや上りになった檜林ひのきばやしの暗い蔭に、一人の女が泣いている。檜にもたれて泣いている。
 く空も、どんより銀燻ぎんいぶしのようににぶく、もみや松や雑草の、しめッぽい暗緑色につつまれた山蔭――。そこにサメザメと泣いている女は、井の字がすりの着物をきていた。
 泣いている顔の袖を離して、林の細道を、一、二間ウロウロしていたかと思うと、女は、もののかれたように、フワ――と赤いしごきを木の枝へ投げかけた。

「あっ!」
 お綱は夢中になって駆けた。
 蔓草つるくさに足をとられて、一、二度倒れかかったが、あぶないところで間に合った。
 今にも、こずえにしごきを投げかけて、幽寂ゆうじゃくな林の中に首をくくろうとする女。その後ろから、しッかりと抱きとめたのである。
「めったなことをするもんじゃない! めったなことをおしでない!」
 お綱は声をしぼって、井の字がすりの娘を抱き戻したまま、よろよろと熊笹くまざさの中へ坐ってしまった。
 途端に、抱き倒された娘は、声をあげて泣き伏した。泣いても泣いても、涙の尽きぬように慟哭どうこくした。それもやがて声がかれると、背なかに波を打って苦しげな嗚咽おえつとなる。
「まア、あぶないところだった」お綱はほッとしたように、しげしげと娘の容姿すがたを見なおして、
「アアびっくりした。みれば、お年もまだ若いらしいのに、一体、どうしたのですえお前さんは。え、え? 話せることなら話してごらん」
「いいえ、いいえ、別にわけも何にもないのでございます……どうぞ、私はこのままに泣かしておいて下さいまし」娘はかすれがすれにいう。
「そう、じゃあ、人には話せない訳なんだね」
「すみません、ご親切をにしまして……」
「それでは、あまり深くかないことにしましょうね。誰にしたところで人にいえない胸のうちはあるものだし、ましてやこんな場合に、根掘り葉掘りされることは辛いでしょう。けれどもねえ、お前さん、私だって若い身だけれど、お互に咲くや咲かずの花のうちに、森の死神なんかに取ッつかれちゃつまりませんよ。え、お分りかえ」
「あ、ありがとうございます」
「分ったら、無理な注文だろうけれど、カラリッと気を晴れさせて、早くお家へお帰りなさいね……え、よござんすか」
 優しい手を、ソロリと肩へ廻し、髪を根くずれさせてうっ伏している娘の顔をさしのぞいた。と、お綱はその時はじめてびっくりした。
 川長で見たことのあるおよねなのだ。
 ハッと思って、妙な疑惑につつまれていると、その矢先に、陰森いんしんとした空気を破って、後ろで不意な人声がする。
「旦那! お米さんはここにいましたぜ。ここにいますよ、ここに!」
「えッ、いたか!」バラバラと木の間から、四、五人の者が集まってきた。追分の宿の大津絵師、室井半斎むろいはんさいとその召使たち。
「オオ、くくろうとしていたのじゃな。ばかな奴じゃ! ばかな奴じゃ」と半斎は、木の枝から下がっていたしごきを、腹立たしそうにスルッとはずして、二人が坐っている熊笹の前へきた。
「お助け下さったのでござりましょう。どうもありがとう存じました。やれやれとんだ世話をやかす奴、実はちょっと前から、大阪の親戚みよりの者で遊びにまいっていたのでございますが、そのうちに、ちと持病がありましてな、カーッと血を吐きましたもんで、それ以来、鬱々うつうつれきって、まあ半狂人はんきちがいというありさま。今日もソロリといつの間にか抜けだしまして、あまり姿が見えませんので騒ぎだしたわけでございます。何ともはや、お礼の言葉もございません」
 言い訳やら礼やらいって、半斎は召使たちと一緒に、泣きじゃくるお米をだましすかしして連れて行った。
 その人たちが林の細道からダラダラと竹林の中へ下がってゆくのを見送って、お綱は、ひょっと、こう口のうちつぶやいた。
「あんな縹緻きりょうで可哀そうに……やまいを苦にするばかりでなく、あのひともどこかで、月夜の風邪をひいたのじゃないかしら?」
 その時――それは、ひよく音に似たような、哀れに淋しい尺八たけの調べが、林の静寂しじまに低くふるえて、どこからともなく聞こえてきた。
 耳心じしんをすまして聞き惚れると、音色はまぎれもあらぬ宗長流、しらべはゆうべの山千禽やまちどりである。お綱の恋慕、お米の吐く血、二ツの女のたましいが、おののくごとくむせぶごとく、尺八たけの細音にからんでいるよう……。

 お綱が、宿をぬけだしてから、やや二刻ふたときもたッた時分……。
 ズキンと、頭へきりをもみこまれるような痛みをおぼえて、お十夜孫兵衛、ふいと眼をさまし、枕の上からあおむけに、ジイと、天井板にひとみをすえた。
 どこともなく、ただよいだした黄昏たそがれの色あい――すすけた狩野かのうふうな絵襖えぶすまのすみに、うす赤い西陽にしびのかげが、三角形に射している。
「オウ!」
 フイに、ものでもおちたように、ムクムクと蒲団ふとんの上に身を起こした孫兵衛は、両手をうしろへついたまま、ややしばし、にごった頭を澄ましながら、不思議にたえぬというおももちだ。
 ゆうべ……あの吹き降りに宿へついて……湯上がりにお綱の色ッぽいしゃくで二、三合……たしかにほんの二、三合だった……飲んでそれから……しきいをへだててほろ酔いで床につく……お綱がびんを枕へつけながらニッとこっちへこびをむける……意味ありそうな、水向みずむ微笑わらい……初心うぶだなあ、口にだしてはいえないとみえる……だが、少しじらしてやろう……と蒲団ふとんをかぶるとそのあおりで、行燈あんどんの灯がメラメラとした――までは孫兵衛おぼえている。
 しかし、その先が渾沌こんとんだ。
 自分は、そら寝入りでいるつもりだったが、それから後は、底なしの沼へ落ちこんだよう――まったく仮死かしの眠りであった。
「ウーム……」と、腕をくんで、部屋のあたりを見廻すと、ハッとした、お綱がいない!
 衣桁いこうをみると、ゆうべ、かれによく似合っていた宿の貸浴衣かしゆかたが、しわになって脱いである。
 鏡台が散らかっている。だが、お綱のものは、くし一枚も残っていなかった。ただ抜け毛を丸めた紙屑かみくずが、お十夜の眼に、さびしくうつったばかりである。
「やッ? ……」
 何をみたのか、孫兵衛。
「はてな?」といいながら、蒲団を立って、向うの畳へ手をのばした。そこに落ちていた、和蘭陀おらんだカルタの札一枚――それをつかんで、不審そうな眉をひそめたのである。が、すぐに両手をこめかみに当てて、クラクラとした唇のふるえ、
「ウウ……」と、畳へうっしてしまった。
 胃のからこみ上げてくる吐き気と一緒に、口へいてたまる不快なつば、そして、歯ぐきの根から、みだして、孫兵衛の神経を、ムウといたのは――眠り薬のにおいであった。
 魔薬をのんだ! いや、のませられた! ゆうべの酒! お綱のやつが、あれへ仕込んでのませやがったに違いない。と、思い当った孫兵衛、ふたたび上げた顔の筋には、おもても向けられない佞相ねいそうの怒りが、蒼白あおじろみなぎっている。
「うぬ、このお十夜を甘くみて、まんまと一杯くわせやがッたな。ウーム、どうするか見ていやがれ」
 思わず、和蘭陀おらんだカルタをつかみつぶして、その方の疑念は忘れ、ただ一途いちずに、この復讐をどうしてやろうかと思いつめる。
 こういう場合に、はらの底では、焼酎火しょうちゅうびのような怒気をムラムラ燃やしながら、あくまで、ジイと眉間みけんに針をよせて、かッとならないのが孫兵衛の性格である。――たとえば、京橋口で、斬るべき万吉を斬らずにフンじばったり、ぬきや屋敷のしいの下で、そぼろ助広のさきでなぶってみたり、それはみな孫兵衛のねばりッこい悪の悦楽で、助広の刀をかまえる時も、女の肉をむさぼるにも、人に恨みをむくいるにも、かれのやり方はどこまでも暗く陰険である。
 気分がなおった様子――。
 孫兵衛は、黙然もくねんと立って、廊下仕切じきりの障子をみなスーと閉めてしまう。
 しばらく、なんにも音がない。とやがて、帯をしめる絹すべり、鏡台をる気配……容子ようすはみえないが、頭巾をかぶりなおしているらしい。そういえば、お十夜孫兵衛、まだ今日まで、他人ひとに頭巾をぬいだ顔を見せたことがない。
 それには、よほど、細かい気配りをしているとみえ、風呂へ入るにも、人なき時をえらび、酒に熟睡している時でも、頭巾へ他人ひとの指がふれると、かッと眼を開く――というかげ口を、ぬきやの三次もいっていたことがある。

「では何か、二刻ふたときほどまえに、時雨堂しぐれどうへの道をきいて、関の山へ参ったのだな。よし。それでは、このまま帰るまい、払いは女中へ渡しておいたぞ」
 宿の男へ、こういって、お十夜孫兵衛はそとへ出た。
 空を見あげると、一面に、まッ黒なちぎれ雲――逢坂山おうさかやまの肩だけに、パッと明るい陽がみえるが、四明しめいの峰も、志賀粟津しがあわづの里も、雨を待つような、灰色の黄昏たそがれぐもり。
 孫兵衛の姿は、明神みょうじんふもとから、竹林の中へ消えた。とまた、だらだら上りの中腹に影がみえ、やがて、左へうねったひのき林の細道へ入る……。
 誰か、人でも踏んで行ったらしく、草の寝ている跡がある。と――お十夜の足もとへ、ふわりと、何か柔らかにからみついた物がある。赤い絹のしごきである。もしや、と思ったが、お綱のものとはがらがちがっていた。
 何だ――という顔つきで、孫兵衛はそれを捨てて、またピタピタと林をぬけて行くと、目の前、パッと夕陽が明るくひらけて、かなり高い崖際がけぎわの上へ出た。
「あ、行き止まりか……」と孫兵衛。雑草の中から、のぞいてみると、下は、関の古跡こせきの裏街道、峨々ががたる岩の根に添って、海のような竹林がつづいている。そして、その一帯な竹林の中から、古い塔の水煙すいえんや、阿弥陀堂あみだどうの屋根や、鳥居のあたまが浮いている。
「畜生! あんな所にいやがった」不意に、草むらへ、身をかがめた孫兵衛は、かまきりのように、ソロリと根を分けて、その崖ぎわを進みだした。
 お綱がいる! すぐ十間ばかりの向うの所に。
 そこには、いッぱいな、蛍草ほたるぐさが咲いていた。お綱は、後ろから、お十夜が近づいてくるとは知らずに、あいをこぼしたような花にうずまって寝ころがり、びんを、夕風になぶらせて、吾をも忘れているまなざし……誰に女の掏摸すりと見えよう。
 ここから見下ろせる竹むらの辺り、どことも知れず尺八の音が響いてくる――月夜の晩にひいた風邪、お綱は、それに聞きとれているらしい。
 しかし、孫兵衛の瞋恚しんいの耳には、そんな、かすかな旋律せんりつがふれても、心にはとまらなかった。息をこらして草むらをいだし、お綱のうしろにヌッと立った。
 それでも、お綱は気がつかない……。
 お十夜の口が、夜叉やしゃのようにみ締まった。右手がソロソロと助広のつかにかかり、両眼は、おそろしい殺気をふくんで、お綱の白いえりあしをハッタとめる。
 そぼろ助広へ気合がかかれば、お綱の胴か細首かは、ただ一せんに両断される。
 あやういかな、いつものお綱であれば、草一本のそよぎにでも、さとくなければならない筈だが、今はまったく、一節切ひとよぎりの音色にしんから聞きれていて、心は時雨しぐれ堂の、あの虚無僧のまぼろしへもたれている。
 うつつなだけに、無心なだけに――お綱の姿態しなも、常より増してなまめかしい。びんの垂るるままに、うつむいている、くびすじの匂わしさ、肩から足へと、流れている柔らかい線の情味、蛍草に押されて、むッちりとした乳のあたり……。その妖冶ようやただよいが、いっそうお十夜の鬱憤うっぷんをムカつかせて、所詮しょせん、ただ魔刀のむくいだけではあきたらない気もちと変った。そして、そのためらいの間に、孫兵衛の殺念は、さかんな獣心と代り、ひとみはトロトロとお綱の姿態しなきついていった。
 うぬ。おぼえていろよ。
 男のおそろしいことをしらしてやる。
 その色香いろかをかきむしッてやる。
 そして因果な身にしてやるのだ。終生つきまとい、のろいまわして、泣きの涙で送るようにしてくれる。それが、ゆうべの仕返しだ。
「お綱ッ」
 呼びかけるが早いか、孫兵衛の体は、蛇のごとく、女の姿へ跳びかかっていた。
「うッ……」とお綱の声がかすれる。
 口は大きなにふさがれ、のどは、太い腕にからまれている……それを、はね返そうとする白い足の力に、草の葉が散り、土くれが飛び、蛍草がみにじられた。

 ちッ……とお綱は歯をくいしばって、唇へさわった孫兵衛の小指を、力まかせにみついた。
 その痛さに、孫兵衛は、女の口から手をふり離した。
 はね起きると、またすぐに、胸の辺りをドンと突かれたが、お綱は、うしろへよろけながら、きッと、柳眉りゅうびさかだてて、
「お十夜ッ、何をするんだえ!」
 ひッ裂くような声で叫ぶ。
 もみ散らされた黒髪の根くずれ、すそを踏まれたのはだかり、それは、いっそうお綱の凄艶せいえんをきわ立たせて、孫兵衛の盲目な獣心けものごころは、いやが上にもあおられる。
「お綱!」
 二足……三足……。
 孫兵衛が寄ってゆくと、お綱も、ジリ、ジリと、うしろへ身構えを退いてゆく。
「オイ、逃げる気か。ふウン……逃げられるものなら逃げてみろ」
「どうするッてんだい。私をッ」
「眠り薬の返礼をしてやるのよ」
「…………」
「てめえのような小娘に、あんな甘手あまてをくったままで、眼をつぶっているお十夜じゃねえんだ。おい!」
「…………」
御城番ごじょうばん膝下ひざもとでさえ、夜ごとに、五人や七人の生血を塗った助広はここにある。ぶッた斬ろうと思う分には、女の一人や半分は、なんの雑作ぞうさもねえところだ。それをやらねえお十夜のはらの底を知っているか?」
「…………」
「なんとかいえ。そうか、さすがにおきゃんなてめえも、すこウし凄くなってきたのだろう。素直に折れるなら今のうちだ。歯ぎしりしてもおれの女、けて添ってもおれの女。どっちにしても、この孫兵衛が、これと睨んだものを逃がしッこはねえ。いいかげんに、あきらめをつけてしまえ」
 一足……また、ズッと迫ってきたが、こんどはお綱、うしろへ退かずに、きりりと蘭瞼らんけんべにを裂いた。が――声はかえって落ちついて、
「お十夜さん」と皮肉にでる。
「――ずいぶんお前もどんですね。エエ、なんてえ血のめぐりが悪いんだろう。あれほど、私が嫌だという気ぶりをみせていたものを、自分一人でオツにとって、その腹いせだの仕返しだのッて、とんだこッちが迷惑ですよ」
「やかましいわえ、もういやも応も、この土壇場どたんばでいわすものか」
「おだまンなさいよ、痩浪人やせろうにん! 第一さ、見返りお綱に惚れるなんて、身のほど知らずというものだ。このお綱さんに好かれたければ、もっと立派な腕前か、もっと立派な悪人になっておいで、辻斬つじぎりかせぎで色侍いろざむらい、オオ嫌だ、そんな男は!」
「ウウム。どくづいたな」
「いくらでも毒づきましょうか、まだもう一つ、虫の好かないものがある。お前さんのその頭巾、よっぽど、ゆうべ眠り薬のきいてる間に、引っぱいで見てやろうと思ったけれど、どうせ自分の亭主でもない男と、おやめにしといてやったのだよ」
「エエ、うるせえ!」
 と、そのすきに、孫兵衛は猛然と、ひょうのように、女の手もとへ躍っていった。
 キラリ! と輪を描いたのは、お綱の帯から走った匕首あいくち
 もとより、お十夜をえぐるにはわざが足らず、風をはらんだ袖うらが、空しく、ヒラ――と流れたのみ。途端にかいくぐった孫兵衛、その利腕ききうでをねじとッて、左手で女ののどをせめつける。
 二つの体が、よじれ合って、ヨロヨロとたおれかかった時である。
 ――ピュッとうなって飛んできた捕縄とりなわ! 縄の先にはなまりがある。小具足術こぐそくじゅつの息一つ、クルクルッと、お十夜の首にからみついた。
「しめた!」という声。
「あッ――」と、一方が引かれた間に、お綱は、素早く逃げ退いた。
 ひのき林からささむらへ、お綱のはやさは飛鳥のよう。
「ツ、ツ、ツッ……」と、のど捕縄とりなわをつかみながら、孫兵衛だけは、つるを張られた弓のなりに、そこへ、食いとめられてしまった。

 お綱にばかり気をとられていたところへ、不意に、投げての知れない捕縄とりなわが飛んできて、自分のくびすじへ引っからんだので、さすがの孫兵衛も、わなへかかッた獣のようにうろたえた。
 すばやく、お綱が逃げた、とは知ったが、それを追うどころでなく、左の拇指おやゆびで、肉へ食いこむ縄の力をめながら、あおむけざまに踏みこたえる。
 のどの筋は蚯蚓みみずのように太り、おもては充血して、みるみるうちに朱をそそいだ。そして、
「うッ! ……」と、息をしぼり、必死に縄を抜けようとあせっていると、ふたたび。
「や、畜生ッ」という物蔭の声があった。
 捕縄の一端から、電流のような力がピンと張ってくると、孫兵衛は、かかとを土にめりこましたまま、ズルズルと二、三尺うしろへ引かれた。
「ウーム」と、最後の一息をうめいた時、れるだけり返った孫兵衛は、片手を助広の差添さしぞえへかけるや否や、渾身こんしんから気合いをしぼって、ぱッと一つ身をねじった。
 ヒラリッ――と虚空へ抜けた助広の刀光に、縄のれ目がクルクルッと躍った。
 同時に、あっと思う間もなく、孫兵衛そのものも、縄の残りを体にからんだまま、崖から雑木の谷間へ跳びおりてしまった。
「ちぇッ」と叫びながら、すぐに、草むらから駈けだしてきた男がある。
 られた捕縄とりなわを、舌うちしながら、キリキリ手元へ巻き込んで、崖ぎわから、削り立った急勾配きゅうこうばいを、残念そうにのぞいていた。
 草ほこりのたかった髷先まげさきを散らして、べんけいじま単衣ひとえ、きりッと裾をはしょって脚絆きゃはんがけ。それは目明しの万吉であった。
「ええ、惜しいことをした。投げた呼吸は確かだったんだが、たぐり寄せたのが一息遅かった……こんなことじゃ、おれの方円流ほうえんりゅうもまだ上手とはいえねえなあ」
 すると、そこから少し離れたところの一本松、その松の根元の青芒あおすすきから、ムックリ身を起こした侍が、こっちへ足を運んできながら、
「万吉、鳩が見えたのか」
 こう声をかけた。
 みると、常木鴻山つねきこうざんの腹心、たわら一八郎で、万吉と同じように、旅ごしらえの軽装である。
「なあに、鳩を見張っているところへ、思いがけねえ奴が来たので、出来心の方円流、ブーンと投げてくれたはよかったが、とうとうお十夜孫兵衛という、大物を逃がしてしまったところです」
「はははは」一八郎は磊落らいらくに笑って、「うつうつと居眠っているうちに、そんな様子だとは思ったが、お前のヤッと投げた縄の息を聞いて、ははア、こいつは逃がすわいと見切りをつけていたんだ」
「え、じゃ、旦那はうすうす知っていたんですね」
「女の声もしていたようだな」
「それが見返りお綱だったんです。あの女には、ぬきや屋敷で、あぶねえところを助けられていますから、その恩にも、縄をかける気はありません。実あ、走井はしりいの茶屋の先で、チラと姿を見かけたので、和蘭陀おらんだカルタにことよせて、それとなく礼をいいにいったくらいですからね……。だが、あのお十夜の奴だけは、ここで逢ったのを幸いに、からめて代官所へでも預けてやろうと思ったのに、旦那も人が悪いや、あの時、ちょッと手を貸してくれれば、きっとうまくいったんですぜ」
 調子にのって目明し万吉が、逃がした魚の大きいことを嘆じてやまずにいると、一八郎は、それをなだめようとはせずに、かえって、
「これ、万吉」と、岩角へ腰をすえて、まじめに開きなおり、さて、その上で叱言こごとがでた。
「出立のみぎり、常木つねき先生が、くれぐれもそちにおっしゃった言葉を、もう忘れているとみえる……」
「へい」と、万吉は少ししおれる。
「その、目明し根性を、なぜ捨てぬ。こんど江戸表へまいるのは、さような用向きでは決してない筈。常木先生と平賀ひらが殿は、ぬきや屋敷へ残って、阿波へ渡る何かの御用を急ぎながら、われわれの吉報を一日千秋の思いでお待ちなされている」
「分りました、ツイ目の前に、捕物がブラ下がったので、うっかり手が出てしまいましたんで……」万吉は一も二もなくあやまって、
「おっしゃる通り、天下の大事へのり出そうとする門出かどで、もう、人殺しと道連れになろうが、泥棒と合宿あいやどになろうが、決して、小さなことに、目明し根性は出さねえことにいたします」
「ウム、忘れッぽいのもお前の特色だが、早分りがするのもそちの取得とりえというもの。一つの大事にかかる以上は、それくらいな気組でいてくれなければ困る。……おお、それはそうと、鳩の密使はどうしたろう?」

 住吉村へ万吉を救いに行って、ぬきやの手下どもを取り押さえ、そのままそこを、密議の場所と定めた常木鴻山こうざんは、あれから後、源内や一八郎を相手にいろいろな相談を試みた末、とにかく俵同心と万吉とを、江戸表へ、出立させることになった。
 いずれにしても、阿波へ潜入する前に、一応は、甲賀家こうがけの一人娘――お千絵様というものに逢っておく方が便宜でもあり、また、蜂須賀家の内情についても、意外な材料を得られぬかぎりもない――というがためである。
 そこで、大阪おもてから、東海道へかかってきた二人は、今日の途中、何か知りたいことがあって、たずさえてきた伝書鳩を、この関の山から人知れず放したのである。そして、その返事を待ちわびていたのだ。
 飛ばした先は、安治あじ川の近所、鳩の翼では一はたきである。もう帰らねばならない時刻の筈。
 その頃から、チカッ、チカッと、白い電光が雲間から目を射てくる。夜のとばりの迫るとともに、嵐の先駆せんくらしい風が、そよそよと草をでてきた模様に、一八郎は、わが子を待つような、心配と焦躁しょうそうにかられつつ、空ばかり気にして眺めた。
「まだ見えぬのう」幾度、こうつぶやいたかしれない。
「どッぷり暗くなったので、方向が、分らなくなったのじゃありますまいか」
 万吉も小手こてをかざしていた。その間にも、二人の影をくまどって、稲光りの閃光せんこうがしきりに明滅した。
「いや、まだこれくらいな薄明りがあれば……」
「それとも、雷気らいきにすくんでしまったかな?」
「そんな筈はない。こんど携えてきた鳩は、数ある中でも、ことに遠放とおはなしもきくし馴れぬいている一羽。どこにおろうと、この方のいるところへ必ず戻ってくるたちだが」
「あ――」万吉が、話の中途で、おどり上がるばかりに指さした。
「旦那、来た来た、たしかにあれですぜ。ほら、ほら、白い矢でも飛んでくるように、一気にこちらへ向いてくるじゃありませんか」
「おお」その指さきの空に、一点の影、舞い下りてくる小鳩を見出したとみえ、一八郎も、眉から憂いのかげを払いつつ、
「戻ってくれた、戻ってくれた、手飼てがいの密使――」ハタハタという音さえ嬉しく聞いて、こぶしを出していると、馴れきっている銀色の家鳩いえばと、スーと下がってきて、その手へ止まった。
大儀たいぎ、大儀」
 足に結んである雁皮紙がんぴしを解いてパッと離すと、鳩は今宵のねぐらをさがすのか、ふたたび、木立の中へ隠れてしまう。それを見届けてから、一八郎は、細く折りこんである薄紙をていねいに開いて、
「ちと暗いのう……」と、読みなやんだ。
「お待ちなさいまし、手軽いかがりをこしらえますから」万吉は、少しばかりの枯杉かれすぎをあつめ、ひうちぶくろの道具をだして、カチ! カチ! と火花をりつけた。
 ポウと、燃えついた明りへ寄って、俵一八郎は雁皮紙の密書へ目をたどらせる。それは、かねてから蜂須賀家に住みこませてある一八郎の妹、お鈴からのものであった。
(お問合せの、阿波守様お国帰りは、九月上旬という噂、お下屋敷しもやしきもお引上げの御用に取り混んでおります。御渡海のお座船ざぶね卍丸まんじまるも、きょう安治川へ入って、艤装ふなよそおいやら何かの手入れにかかりはじめました。とり急ぎお答えまで。お江戸の吉報、待ち上げまする)
 読み終ると、も一度、初めの方へ目を返して、
「九月の上旬……、すると、今からまだ二つきがある」
「それまでには、常木先生のお支度も十分にできるし、こっちの方も楽に江戸から帰れますぜ」
「なるべく、阿波守が入国の混雑に乗じて、その隙に、関を破って密境へ入りこむが上策であるというしめし合せ。あしたはこのことを、常木先生のほうへも知らせておこう」
「しッ……」
 何思ったか、その時、万吉が突然声を制して、燃え残りの火をめちゃめちゃに踏み消してしまった。
 それを、なぜと怪しむまでもなく一八郎もぎょッとした。いつの間にか、後ろへ近よっていた七、八人の侍が、じッとこちらを見ていたのである。
 気転きてんよく、万吉の蹴ちらした枯杉の火の粉が、草から草へ吹かれてしまうと、星明りもなき真の宵闇……。わずか四、五尺の隔てながら双方の姿は、その輪郭りんかくすらもよく分らない。
 ましてや、その何者であるをや。
 こっちで口をとじていると、一方も果てしなく黙りぬいていた。ただその間、鋭い神経だけが、ひとみとともに互に相手を探りあっている。

 何者だろう? 単なる通りかかりの者とも思えず、物盗ものとりの浪人らしい挙動もない。といって、立ち去る様子もなし、あくまで黙りこくッて、威圧いあつするように、こッちを凝視ぎょうししている七、八人の侍。害意はないまでも、なんらかの敵意は持っているらしく考えられる。
 勘のいい万吉も、炯眼けいがんなる一八郎も、さらに見当がつかなかった。せめて、対手あいての風貌でも見ればだが、まったく漆壺うるしつぼのような天地――時折の稲妻は、ただ、そこに立った侍のどれもが、一様に覆面しているらしいのを、チラと見せたにすぎないのである。
「妙な奴らだ、大刀だんびらでも抜いてみやがれ、こっちから先にグワンと一つ食らわしてやるから」
 万吉は、手の裏に十手を隠して、しばらく息を殺していたが、かくべつ、抜いてくる気色けしきはなく、依然として、すくみあいだ。そのうちに万吉は、ばからしくもなるし、神経も疲れぎみになって、フイと気をそらしてみた。
「旦那……」
 小声にささやいて、一八郎の袖へ合図をしながら、
「雨にでもなると困りまさあ、腹へ底が入ったところで、ぼつぼつふもとへ下りましょうぜ」
 火をいていた言い訳にこういって、万吉は、スタスタ先へ歩きだした。と、一八郎も、いいしおにしてついてくる――が、まだ。
「後から、追いかけてくるかな? ……」と、予想していたが、七人の侍、追ってくる様子もなく、また、待て! と浴びせてくる声もない。
「なんでえ! つまらねえ気をんでしまった」
 下り坂へ来てから、急に足を軽くして、万吉の声がふだんの通りになってきた。
「わっしはまた、旦那が密書あれを読んでるのや、阿波の噂をしていたのを、あいつらが聞きとがめたのかと思って、すッかりきもを冷やしてしまいましたよ」
「拙者も一時はぎょッといたした。しかし、考えてみれば、こんな所へ、蜂須賀家の侍が立ち廻っている筈はないからのう」
 一八郎も今になって苦笑を禁じられなかった。
「ですが、一体あいつらは何でしょう」
「どうやら覆面していたらしい」
「それが合点がてんがいかねえんです。言葉を交わせば、侍ってやつあ、きっとお国なまりがありますから、どこの家来か、浪人かぐらいは、すぐに察しがつくんだが、ああ黙っていちゃ判断がつかねえ……おや、道が二筋に別れていますね」
「右へまいろう。どうやら先に明りが見える」
「今夜は大津泊りでしょうな」
「ウム、空模様さえよければ、夜旅をかけて矢走やばせ渡船わたしに夜をかすのもいいが、この按配あんばいでは危なッかしい……」一八郎が、闇と知りつつ、険悪な空をまた見上げていると、万吉は敏感に、誰かここへ急ぎ足に来る跫音あしおとを聞きつけたらしく、ふいと、わきの杉の木へ身を隠した。
 油断のない、気配りをしながら、一人の仲間態ちゅうげんていの男が、ふもとから小走こばしッこくけ上がってきた。その跫音あしおとの行方を聞き澄ましていると、今、二人が来た方角とは反対に、関明神せきみょうじんの社殿のほうへ、猿上ましらのぼりに急いだらしい。
「おかしいなあ、どうも妙だぜ」と万吉。杉の後ろから出てきて、ギュッと自分の耳朶みみたぶをつねっていた。例の探索癖たんさくぐせで、それからそれへの幻想が暗示を描いてやまないのである。
「どう考えても、ただごとじゃねえ。何かおかしなものが、この山に包まれているぜ。気というやつだ、魔気か悪気か妖気か殺気か。旦那は、そんなふうに思いませんか」
「ははは、すっかりさっきの侍におびやかされたな」
「笑いごとじゃありません。これだけは、万吉が、持って生れた訳じゃねえが、十何年間、十手で飯を食ってきたお蔭に、自然と備わってきた勘なんで。何かこう、ひとりでに、頭へピーンと来ることに、今まであんまり間違ったことはねえんです……。おッと、いけねえ。また目明し根性が出やがった。旦那、今のは冗談ですぜ」
 いつか、二人の降りてきた道は、風の騒がしい竹林をうねっていて、草鞋わらじの裏から、やわらかな朽葉くちばの湿ッぽさがジメジメと感じてくる。
 そして、あたりの夜露に、どこからともなく淡い明りがさしていた。見ると、竹むらのすぐ向うに一の堂。そこから洩れる燈火である。
「万吉、ちょッと道をたずねてみろ」
「あ、誰かいるようだな」と、青苔あおごけのついた敷石を五、六歩入って、目明し万吉、何の気なしに時雨堂をのぞきこんだ。

 道をたずねるつもりで、木槿もくげの垣越しに、ふと時雨堂しぐれどうの庭先をのぞいた万吉は、そこに何を見たものか、オヤと眼色を動かせて、口まで出そうになった声をのみ殺したが、とうとうそのまま、何も問わずに忍び足で戻ってきてしまった。
「どうしたのじゃ?」
 とがめるように進んできたのは、暗闇に待っていたたわら一八郎である。万吉は、しッという眼くばせをして、ふたたび、時雨堂の奥をうかがいながら、人さし指を向けて一八郎の耳へささやいた。
「旦那……あすこに誰かいるでしょう。もう少し、こっちへ寄ってごらんなせえ。ほれ、縁側へ行燈あんどんを出して二人の男が何かしているじゃありませんか」
「いかにも、庭先へたらいを出して、湯浴ゆあみを終えたところらしいが、それが何と致したのじゃ」
「一人はたしかに怪我けが人です。ごらんなせえ、そばの男が、れものにさわるように、体をいてやっています。ここからでは顔までしかと見えませんが、今向うの垣根越しにヒョイと見ると、どうでしょう! ありゃ待乳まつちの多市ですぜ」
「えっ、あれがか」
「天王寺や土筆屋つくしやなどで、再三見覚えている顔ですから、決して間違いはありません」
「さすれば、側にいて世話をやいているほうの者は、彼の親分銀五郎とやら申す男ではないか」一八郎は、万吉から、く今度のいきさつを聞いてもいたし、また唐草と待乳の二人が自分たちと同じ目的か否かは知らぬが、阿波の密境へ入りこもうとする者であることも知っていたので、偶然、これはよい者の居所を尋ね当てたと心ひそかによろこぶのだった。
「なるほどそういえば、一方は唐草銀五郎かも知れません。いつかの晩、京橋口で孫兵衛に斬り捨てられたとばかりに思っていた多市が、こんな所をかくにして、療治をしていようとは夢にも気がつかなかった……」と万吉は、意外な現実にぼんやりとあたりを眺め廻している。
 それに反して一八郎の頭脳あたまは、怖ろしい緻密ちみつさと速度でこの奇遇きぐうの利害を考え始めた。あの二人も阿波の密境へ入り込もうとする者、また自分たちも久しく阿波の内情を探ろうとして腐心ふしんするものだ。偶然、その目的が同じ蜂須賀家にあるのであるから、けて話しあってみれば、必ず何か、双方の利となることがあるに違いない。
 一歩退しりぞいて、仮に、互の目的が違っていたとしても、これからはるばるたずねて行こうとするお千絵様のことは、銀五郎や多市が充分詳しい筈である。とにかく一つ訪れて見よう――こう心に決めたので、万吉に相談すると、もとより万吉にも異存はない。
 静かに出なおして、庭口らしい柴折戸しおりどを押し、向うでびっくりしないように、
「少々ものを伺いますが……」とていねいに声をかけてみた。
 時雨堂の縁先では、銀五郎が、多市に薬風呂をつかわせて、傷の塗薬ぬりぐすりや浴衣の世話をみてやっているところだった。
「どなた様?」聞きなれない訪れに、銀五郎の眼が闇へ光ると、もう木戸を押して一八郎と万吉が、つかつかとそこへ入ってきて、
「不意に失礼なお訊ねではあるが、もしや御身おんみは、唐草銀五郎という者ではござらぬか」
 銀五郎はぎょッとした。蜂須賀家の廻し者ではないかという疑念が、彼に油断のない身構えをさせた。その様子を見ると万吉も前へ出て、
「お隠しなさることはございません、そこにいる多市さんという者とは、確か天王寺の境内で、お目にかかったことのある筈です」
「あア」銀五郎のうしろで、多市が思いだしたようにいった。
「じゃ、あの時、俺の腰帯を取った目明しの? ……」
「そうだ、万吉という手先の者です。また、ここにいるのは、元天満同心もとてんまどうしんの俵一八郎というお方。いきなりこういう物騒な奴が、お前さんたちの隠れ家へ飛びこんで来ちゃ、さだめし、妙に疑うかも知れねえが、決して、蜂須賀家の諜者いぬじゃありません。安心のゆくように、まずこれをそっちへ預けておきやしょう」と万吉は、紺房こんぶさの十手を引きぬいて、縁側へポンとほうりだした。銀五郎は、それと唐突な客の顔とを見くらべていたが、度胸をすえたものであろう。心の落ちつきをとり戻して、
「どういう御用か存じませんが、とにかく、こちらへお上がりなすって下さいまし」
 蚊帳かや吊手つりて二所ふたとこばかりはずして、脇差の側へピッタリ坐った。

「これは巧く話し合えそうだ」
 と、心の底でよろこびながら、一八郎と万吉がわらじを解いている間に、時雨堂の別な戸口から、白い人影が静かに外へ出て行った。
 雨気あまけをふくむ冷やかな風は、秋のような肌ざわりである。白衣びゃくえの人影は、五、六歩ふみだしてから、乱雲の空を、少し気遣きづかわしげに仰いで立つ。
 背丈せいのスラリとした輪郭りんかくと、手に尺八をたずさえているところから察しても、それは同宿の虚無僧、法月弦之丞のりづきげんのじょうと分る姿。
 弦之丞は、やがて大津の裏の近道を抜けて湖水のほとりまで歩いていた。琵琶びわにも、今宵は底浪が立ち騒いでいて、松から松の間には茶屋の灯もなく、またりょうをいれる人影もない。弦之丞は、かえってそれを心安そうに、携えてきた尺八を吹くでもなく、ひとり行きつ戻りつ瞑想めいそうの闇をさまよっている。
「お千絵どのも今頃は、さだめしこの身を、どこにいるかと思うていよう……」吾とわが懊悩おうのう無明むみょうに独りつぶやくのである。
 この間も銀五郎が、涙を流して、両手をついていったではないか。
「倒れかかっている甲賀家の喬木きょうぼく、この世にたよのないお千絵様――、それをささえる力、救うお方は、あなたのほかにはございません」と。
 その時の、自分の態度は、なんという冷血に見えたろう。おお自分は冷血だ、銀五郎のあの熱血のほとばしる頼みも、恋人の不幸な境遇をも捨てて顧みないこの法月弦之丞は、冷血とののしられても、それを言いくことのできない男だ。
 そのくせ、お千絵様という名を、自分は片時も忘れてはいない。昔にかわらぬ――いや、あの頃よりは、なおさら強い恋は不断に燃えているのだ。
「ああ……」松の根方へ腰を落して、じっとひたいを膝がしらに伏せた弦之丞には、いつか、抱きしめている尺八が、お千絵様そのもののように思いなされて、恋人のむ駿河台の墨屋敷すみやしきや、なつかしい江戸の風物までが瞑想めいそうの霧に描きだされてくる。
 しかし、法月弦之丞の胸には、どうしても、その愛着のある江戸の土を踏むことのできない事情がひそんでいた。
 そうしたわけがあればこそ、彼は、家を捨て、恋人を捨て、江戸から外の世間を、旅から旅へと漂泊ひょうはくしているのである。
 帰るに帰られぬ江戸の空。折にふれ時にふれ、思慕の悩みを送る尺八の音は、お千絵様の夢に通うこともあろうけれど、銀五郎はそれを知らなかった。いや、銀五郎のみでなく、多情多感な青年剣客法月弦之丞の心に秘めている人間苦のせつなさを知る人はないのである。
 ……………………
 弦之丞が出て行ったあと。
 時雨堂しぐれどうでは、俵一八郎と万吉が、だんだんと話をすすめて、宝暦ほうれきの変以来、阿波の秘密を見破ろうとしてつぶさに苦心をめてきた実情を明かしたので、銀五郎も、さてはそうであったかと、初めて疑いを晴らして次には、自分の素姓すじょうや、お千絵様と世阿弥よあみとの境遇も、つつまず二人の前へ語ることになった。
 こう打ち明け合ってみれば、十年前に甲賀世阿弥が阿波へ入った目的も、宝暦以来、一八郎や常木鴻山つねきこうざんが心を砕いていた目的も、偶然、ピッタリと一致していることが明瞭になった。
 初めからすべてが分り合っていれば、万吉も、無論二人を助けたろうし、銀五郎や多市も、こんなにまで苦労をせずに、今頃は、首尾よく阿波へ入り込めていたのかもしれないのだが、見返りお綱に、あの紙入れをられた一事が、糸のもつれとなりはじめて、何もかも蹉跌さてつしてしまったのは、よくありがちな運命のいたずらともいうべきもので、是非のないことである。だがしかし、これから先は、阿波という大きな謎のかぎを握るために、どこまで、お互に力をあわせてやろうではないか。と俵一八郎は、ものをはげまして、意気軒昂けんこうたるものがある。
 病人の多市も、それを聞いて、寝床の中からニッコリ笑った。銀五郎としても、思わぬ同志にめぐり会って心強さを覚えたが、また心の一部では、
「こうした人さえ世間にはあるのに、あの弦之丞様は、お千絵様の生涯を、何とも思っていねえのかしら……」と、その冷酷な仕打をうらまずにはおられなかった。
 今夜の宿は時雨堂ときめて、一八郎と万吉が、別な一間の床につくと、パラパラッと横なぐりに大粒の雨が吹ッこんできた。
 それも時折にやんで、夜はだいぶけたらしいが、弦之丞はまだ帰らず、逢坂山おうさかやまの上あたりに、不気味な怪鳥けちょうの羽ばたきがする。

 せき明神みょうじんいただきは、無明むみょう琵琶びわを抱いて、ここに世を避けていたという、蝉丸道士せみまるどうしの秘曲を山風にしのばせて、老杉ろうさん空をかくし、こけの花を踏む人もない幽寂ゆうじゃくにつつまれている。
 ちょうど、北関きたせき裏崖うらがけへ、誰も知らぬ銀の小鳩が下りた頃。その、蝉丸のようにせた老禰宜ねぎが、社家しゃけの一隅に、わびしい晩飯のぜんをすえて、はしをとっていると、
「こりゃ、誰かおらぬか。ここの神主かんぬしはおらぬか」
 表口に、ぬッと立った自来也鞘じらいやざやの武家があった。
 あわててそこへ出た神主が、蚊ばしらの立ち迷う中に立った侍をみると、おもて眉深まぶか熊谷笠くまがいがさにつつみ、野袴のばかまに朱色を刻んだ自来也鞘、いっこう見かけた覚えもない者であった。
「どなた様でござりましょうか。まず、こちらへお掛け遊ばして」
「いやいや、ここでゆるさッしゃい。実は少々頼みたいことがあるのだが……」と、武士は、笠のあごを上の山へ向けて、「あの頂に見える、蝉丸神社の額堂がくどうを、今夜だけ、借りうけたいと思うが、別に差しつかえはあるまいな」
「ほう額堂を? ……」と、神主は少し変な顔をして、「いつもあの通りいておりますものゆえ、別にさしつかえはございませんが、一体何にお用いでござりますな」
「不審に思うであろうが、実はこうじゃ。身どもは大阪表のある蔵屋敷づめの者であるが、同僚たちと語らって、何ぞ趣向しゅこうの変った連歌れんがの催しをやりたいというところから、この山の額堂ならば、雅味がみもあり、静かなことはこの上もないので、是非、今夜だけ借りうけたいと申し合せてまいったのだが」
「ああ、なるほど、連歌の運座うんざでござりますか。それはご風流なことで……さようなお催しならば、どうぞご遠慮なくお使いなされて下さいませ」
「早速の承知でかたじけない」
「また、御用とあれば、渋茶ぐらいは、ここよりお運び申してさし上げます」
「勝手のようだが、それは固く断りたい。静かに連歌の三昧さんまいを楽しみたいため、わざわざ不便な所へきたのじゃ。今夜だけは、誰か他の者が山へまいっても、これから先へは上って来ぬようにして貰いたいの」
「ごもっともでござります。では、お邪魔をせぬことにいたしますゆえ、どうぞごゆるりお催しなさいまし」と、神主は立ち去る武士を見送って、何の疑心もなく、また膳へ戻って茶漬のはしをとりはじめた。
 社家のかどを離れた自来也鞘の侍は、神主へ一応の念を押してから、安心したように、そこからなお、右折左折、苔清水こけしみずに濡れた石段を上って、やがて、神さびた額堂の方へスタスタと歩いて行く。なかちかけた額堂の欄間らんまには、琵琶びわを抱いた蝉丸の像や、関寺小町せきでらこまちの彩画や、八けい鳥瞰ちょうかん大額おおがくなどが、胡粉ごふん雨露うろの気をただよわせ、ほこり蜘蛛くもの巣のうちにかけられてあった。
 しかし、それは、昼ここを訪れた人の見られるもので、今は額堂全体も四の山もトップリ暮れて、社家の方から、大股おおまたにここへきた武士の影は、すぐ額堂の濃い闇の中にかき消えてしまった。
 と思うと、低い幾人ものささやきが、自然に声を高めて、そこからガヤガヤと洩れだした。よく見ると、額堂の中には、少なくとも二十人以上と思われる人数が、あぐらをくみ、柱にもたれ、らんり、思い思いなかっこうをして怪異かいいな集合をしているのだった。
 神主へ断ってきた言葉のように、さまたげのない額堂の席を、夜涼やりょう山嵐さんらんをほしいままにして、連歌の競詠きょうえいを試みているのかと思うと、闇の中に、眼ばかり光らしている武士たちの顔には、みじんもそんな風流気は見えず、一人として筆をかみ句を案じているような者はない。
 片隅でムクムク動いている者があれば、それは用意の黒布こくふを出して、顔の覆面や足拵あしごしらえにかかっている者で、中には腰の皎刀こうとうを抜き払って、刃こぼれをあらためている者がある。
 すると、北関きたせきの崖の方から、またここへじ登ってきた七、八人の覆面がある。中に先立った一人の武士、額堂がくどうの下から、
天堂氏てんどううじ、天堂氏」と呼びたてた。
「おう……」と、すぐ欄干らんかんから身をのばしたのは、自来也鞘の武士……すなわち蜂須賀の原士はらし天堂一角であった。

「や、森うじか――」とうなずいて、一角は、額堂の上からそこへ降りてきた。
 裏崖から、ここへ登ってきた中には、お船手ふなての森啓之助と九鬼弥助がまじっていた。いずれも、同じように覆面しているので、夜目には互いの間にも、それが誰かさえ分らない程である。
時雨しぐれ堂のほうは? ……」
「別に変ったこともないようです」
「銀五郎やその他の奴、よもや、こっちの手廻しを、気づいてはおりますまいな」
「そんなうれいは万々ござりませぬ。ちょうど、夕刻から今しがたまで、北関の裏から見張っておりましたが、向うは何も気がつかずに静まり返っておりまする」
「では、完全に袋の鼠だ……。まず、もうしばらくの間、あの額堂で、夜の更けるのを待つと致そう」
「しかし、天堂氏……」その時、横から話頭をかえてでたのは弥助である。「ただ一つ、これへ帰ってくる途中で妙な奴に出会いましてな」
「妙な者に?」
「されば、どこから飛んできたものか知らぬが、鳩に結ばれてきた薄紙を解き、しきりにそれを読んでいる奴がござりました」
「何かの書物で見たことのある、伝書鳩を使う者ではあるまいか」
「あるいは、そうであったかもしれませぬ。とにかく、怪しい奴と睨みましたので、ツカツカと側へ寄って、じッと挙動きょどうをみつめておりますと、格別、あわてて逃げるぶりもなく、そのまま山を下りて行く様子。っ捕えてみるまでもないと、その場はやり過ごしてしまいましたが、どうも、今になって考えると、少し不審がないでもないように思われます」
「そして、風態ふうていや年頃は」
「一人は旅装たびよそおいの三十二、三、これは武家ていでござって、一人は弁慶格子べんけいごうしの着ものを着た町人でござりました」
「拙者にも思い当りはないが……なんでも、御本国の様子を探ろうとして、密かに苦心している天満てんま浪人の何某なにがしとやらいう者もあるという噂、そいつを逃がしたのは残念だったな」
「その代りに、彼奴きゃつがこっちの姿を見かけた時、あわてて草むらへちぎって捨てた薄紙を、後で拾ってまいりました。しかし、あいにくと星かげもなく、それを読む明りにきゅうしますので、啓之助殿が大切に持っておられます」
 こう話しあっているところへ、息をあえぎながら、森啓之助の仲間ちゅうげんが飛んできた。目明しの万吉と一八郎が、ふもとへ下る山の道で姿を見た男というのは、ちょうど、時刻から考えあわせて、この仲間であったことに間違いはない。
 森啓之助が、川長へ行った日。およねかごをつけて、時雨堂の隠れ家をつきとめたのも、啓之助の働きではなく、この仲間の気転だった。そこで、天堂、九鬼、森の三人は、※(二の字点、1-2-22)めいめい八、九人ずつの侍を連れて、この関の山に集まり、今度こそは、水もらさぬような手配りのもとに、怪しい虚無僧、阿波の国内をうかがおうとする銀五郎、多市などを、余さず引っ捕えようとするのである。
 七、八年前から、阿波の領境りょうざかいを封じて、かりそめにも、領土の内状をうかがおうとする者には、恐ろしく神経をとがらせている蜂須賀家では、今日までの間、銀五郎以外の者でも、ずいぶん仮借かしゃくなくばくし上げて、その目的をたださねばやまなかった。しかし、それを遂行すいこうするにも、白昼公然ではなく、いつも、夜陰、あるいは人目のない所で行われるので、世間は知らないが、家中では、そういう嫌疑者の多くを上げてくることが、すこぶるほまれであり、殿とのの首尾もめでたかった。
 なぜか? ということは、この物語の進むにつれ、また、阿波の本体があばかれると同時に、おのずから明瞭になるであろう。
 それはとにかく、啓之助の仲間ちゅうげんが、今も、細かに時雨堂の様子を探ってきたところから、時分はよしと三十人近い黒装束しょうぞく、一度にムクムクと立ち上がった。
 裏道を下りて、女坂おんなざかの中途から右へ入ると、もう五尺とへだてては人影の見えない山神やまがみの森。そこを、ちりぢりに降りて、例の竹林へ入ると、やがて、この辺りにただ一軒の時雨堂の灯が見える。
「しッ……近いから静かにしろ」
「誰か、向うの空地へも忍んでおれ」
「心得た……。合図は? 手筈は?」
「天堂うじが、声をかけたら一度に斬りこむんだ」
 こんな声が、ささの葉の音よりかすかに、ささやきあって、黒い影が、ヒラ、ヒラと地をかすり、いつか一人も見えなくなる……。

 夜は深沈しんちんけた。
 嵐の前のおそろしい静寂しじま
 空には、団々だんだんたる雲のたたずまいがあり、ここには、時雨堂の四方に、姿も息もひそめきって、時刻を待ちかまえる覆面の群れ。
 と――その中からただ一人、ソロリと庭へいこんで行ったのは、真ッ黒ないでたちをした弥助やすけだ。
 背よりも高い南天の株から、ポロポロと夜光やこうの露がこぼれたかと思うと、弥助の体はがまのように、戸袋のすそから床下へ這った。
 上から洩れる話し声……
 銀五郎に多市、それと折悪しく宵にここへ来あわせた俵一八郎と万吉の話し声。それはきわめて低い密話だったが、弥助の耳には、手にとるように聞こえてくる。
 九鬼弥助は、自分たちの手廻しがいたずらでなかったことを得意に思った。さらに、それからそれへと洩れてくるささやきは、想像以上な驚きを彼に与えた。
「オー、これは大変な相談をしているわえ。もし吾々が、気づかずにいようものなら、お家の破滅を招く由々ゆゆしい大事となったかもしれない……」顔の蜘蛛くもの巣をけながら、なおもこんよく息を殺している。
 そこで、俵同心と銀五郎の打ち明け話は、残らず弥助が聞いてしまった。
「ちょうどいい! お家の秘密をうかがう奴めら、今夜を期して一もう打尽だじんだ」
 心のうちで叫ぶのである。
 さらに、何より好都合だと弥助が喜んだのは、今夜に限って、あの虚無僧が居あわせないことだった。
「あいつばかりはなんとなく怖ろしい――」と、腕利うでききの天堂一角すらも、二の足を踏んだので、ぎょうさんと思われるほどな、若侍の人数をすぐってきたのであるが、誰より怖れていた雄敵が欠けているとすれば、これに越したことはない。
 こく、刻、刻。
 一瞬の空気は、いやが上にも静かだった。
 時雨堂の者は、ちょうど、台風の中心にあるようなもの、見えない魔のかげ、感じがたい運命の気流が、尺前しゃくぜんへ迫り、寸前に囲繞いにょうしつつあるのだ。
 けれど、勘の鋭い万吉も一八郎も、話にが入って、それとは夢にも知らなかった。あまり夜更よふけては病人に悪かろうと、また明日あしたの打合せを約して、二人は別間の寝床へ入った。
 銀五郎は一人でそこらを片づけたり、多市に蒲団ふとんを掛けてやりなどして、何気なく縁側から空を仰いでいると、パラパラと大粒な雨! もだしぬいていた闇の一角から、にわかに、気味の悪い冷風がサーッと一陣に揺すり立ててきた。
「あ! とうとう降り出してきやがッた」
 多市の枕元まで吹ッかけてきそうな雨に、銀五郎は、あわてて、一、二枚雨戸を繰りだしたが、まだ何か不安そうに眉をひそめて、戸の間から外の様子を眺めまわした。
「困ったなア、ひどい雨だ……」
 青白い稲光りが庭を照らした。
弦之丞げんのじょう様は、どこへ行っておしまいなされたのだろう。ちょっと声をかけて行けば、一走り傘を持って行ってあげるのに、町ならいいが山へでも行ったとすると、この雨にズブ濡れだろう。どうかしているぜ、弦之丞様は……妙にこの頃めいっているし、俺にもロクに話しかけたことがねえ……」
 吹ッかける雨に向ってつぶやいていると、縁の下の九鬼弥助は、その戸がピッタリ閉まらないうちにと、ジリジリと、銀五郎の足もとへにじりだしてきた。
 そっと体を横にねじって、床下ゆかしたから上をのぞくと、銀五郎の半身は、濡るるを忘れて、弦之丞の帰りを気づかいながら、また独りごとを洩らしている。
「ひょっとしたら、この間、おれがあまりくどく頼んだので、それを気にしているのかしら? それともお千絵様がさすがに恋しくなったのかな。いやいや、お千絵様の身を、それほどに思うお人なら、あれまでの俺の頼みをウンといわねえ筈がない。ああ、もう頼むめえ。頼むめえ。いくら腕のできる弦之丞様でも、薄情ときちゃアしかたがねえ。俺はどこまで一本立ち……。いや、捨てる神があれば助ける神だ、思いがけねえ人たちと力をあわすことになったから、弦之丞様はあてにしねえで、この銀五郎の一心で、きッと阿波の内幕を探ってみせる! お千絵様の身もおしあわせにしてみせる……」
 思わず、吾とわがつぶやきになみだぐまれて、男らしいくちをきっと結んだ。――と九鬼弥助は、その時、油断のない眼くばりで、すぐ銀五郎の足元から、口に手を当てた作り声で、
「唐草の親分……」
 と、名を呼んだ。

「唐草の親分」
 不意に、床下から呼ぶ者があるので、銀五郎はぎょッとしたが、すぐに、自分にも似気にげないおびえざまを恥じて、「誰だ」と、少し、身をかがめた。
 怪しい者なら、向うから声をかける筈がない。この附近の竹林に住んでいる物乞ものごいに、二、三度食べものを恵んでやったことがあるから、そのおこもであろうと気をゆるした。
「唐草の親分」
 九鬼弥助は、また作り声で呼んでから、反対に、ジイと床下に身を退いていた。そして、ひじと右足だけを、のめるように前へ出していた。
「誰だっていうのに、変な野郎じゃねえか。そんな所へもぐり込まれちゃ迷惑だぜ、ええオイ、おおかたいつものお菰さんだろう」
「へ……」
「へえじゃねえぜ、今頃来たって何もありゃしねえ」と、銀五郎はのぞきもせずにいったが、ふと思いついたかの様子で、
「あ、そういやあお前は、あの虚無僧の姿を宵に見なかったかい。この雨に、どこかで降りこめられていると思うんだが、知っているなら、傘を持って行って上げてくれないか」
「…………」
「知らねえのか」
「知っています」
「知っているなら頼まれてくんねえ。よ、後生だから」
 何の気なしに、釣り込まれて、銀五郎の片足が、庭下駄へ下りていった途端である。
 つかを握りしめて、根よく、力をめぬいていた九鬼弥助。
「ええいッ!」
 横薙よこなぎに一刀を払った。
 床下からではあるが、十分、居合いあいひじが延びて行ったので、さやを脱した皎刀こうとうは、刃を横にして銀五郎の片足――浴衣ゆかたの上から返り血の飛ぶほどな傷手いたでを与えた。
 不意を打たれた銀五郎は、
「あッ――」といって、片足を引く気が、傷手にたまらず、体ぐるみ、どうッと、雨の降りそそいでいる庭先の闇へ転げ落ちる。
 が、弥助の太刀たちが、肉へ斬り込まれてくる前に触れた浴衣のすそは、時にとって、大きな障害物となっていた。傷は骨まで届いていない。
「ちッ……畜生ッ」
 よろよろと立ち上がった。
「ちッ……ちッ……」と深股ふかももの傷を押さえながら一心に、脇差をとりに行こうとするらしいが、何せよ深傷ふかでだ。一、二歩よろめいたかと思うと、ふたたび、どうと仆れ、浴衣の影は、雨と血と泥にまみれて、雨に白く、無残なもがきが見えるばかり……。
「む……」
 九鬼弥助は、したり顔をして、要心ようじん深く床下の土にヘバリつきながら、片手に抜刀ぬきみをつかんだまま、もういっそう、奥の方へ、ジリジリと身を退いて、その様子を見届けていた。
 サーッと、地を払ってゆく雨の飛沫しぶきが、濛々もうもうと、霧のように白くたちこめた。時雨堂しぐれどうびさしからは、滝となって水玉があふれ、なかば開け放されてある中のは、消えんばかりに揺らめいている。
「どいつだッ……卑怯ひきょうなやつ……、多市、多市」
 降りしきる雨の中に、銀五郎の叫びが切れぎれにするのだったが、叫ぼうとする息も、起きようとする懸命も、沛然はいぜんたる雨の力に圧倒されて紫陽花あじさいのように気崩きくずれてしまう。
 出来ごとが、あまり瞬間だったので、奥の居間に入った俵一八郎も万吉も、少しもそれを知らず、ただ、屋根を走る疾風しっぷうの雨の声に、顔を見合せていたのである。
 だが、たッた今、銀五郎の手で寝せつけられた多市は、何かを感じて、
「おや?」と、胸を騒がした。そして、不自由そうな身を蚊帳かやの中からいざり出しながら、
「親分、親分! ……」
 呼んでみたが、返辞はない。
 めかけていた戸もそのまま開いている。
 戸の間から、外の暗澹あんたんたる凄色せいしょくが、悪魔の口のように見えた。えたける風の中に、まっ青な稲光りが明滅していた。
「どうしたのだろう? そういえば今、妙な音が……」多市の顔色に、泣きだしそうな不安がかすった。もしや? と思わず縁側までペタペタと這ってきて、
「親分ッ……親分ッ……」
 肉親のものを案じるような、悲痛な声で呼びたてていた。

「万吉」
「なんですか」
「誰かしきりに、大きな声をだしているようではないか」
「へ、どこでです?」
「向うの部屋らしい。この大雨の響きにまぎれているが、今、少し落ちついていると、さような気がしてならぬのだが」
「そうかしら? ……おや、なるほど、親分親分と呼ぶ声がしますね、何だろう」
「最前の席にいた、病人の多市と申す者ではあるまいか」
「そうかもしれません。だが、おかしいな、なんだッて大きな声でわめいているのだろう」
 奥の部屋へ入って、帯をきかけていた一八郎と万吉は、棒立ちになって、じっと聞き耳たてている。
 憂いをおびた多市の声が、今度は、廊下の近くで、二、三度つづけざまに聞こえた。
「旦那」万吉は、眉に深いしわをよせて、声をのむように相手の顔をみつめる。
「また妙なことをいいだすようですが、どうもわっしは、宵から胸騒ぎがしてならねえんです。あの関の山を下ってきた時からそうなんで……、なにしろ気をつけるこッてすぜ」
「銀五郎が怪しいと申すのか」
「いや、あの人たちに毛頭疑うところはねえが、明神の裏崖で逢った侍がに落ちねえ。ことによると、銀五郎へ目星をつけて、早くも蜂須賀家の奴らが立ち廻っているかも知れませんぜ」
 その言葉も終らぬうちに、いよいよはっきりした多市の声が、物狂わしくまた聞こえた。
「親分がいねえ。親分ッ……」
「どうした!」
 帯を締めなおして、二人がバラバラと元の部屋へ駈けだしてみると、縁先から畳まで、吹ッこむ雨にビッショリれ、今にも消えなんとする灯影ほかげに照らされた多市の姿が、障子にすがっておろおろしていた。
「親分が……親分が見えません」
「銀五郎が見えぬと?」一八郎は声をはずませた。
「たッた今、ここで」
「おう、戸を閉める音がしておったが」
「と思うといつの間にか、姿が見えなくなったんです」
「やっ」外をのぞいていた万吉が、仰天ぎょうてんして、飛沫しぶきの庭へ、行燈あんどんの光を向けた。
 見ると、雨の中に、何やら白いものが倒れていた。銀五郎の浴衣ゆかたである、傷口から血の流るるに任せたため、あたりを血の池のように染めて悶絶もんぜつしてしまったらしい。
「あっ……」というと、多市の顔はまるで死人だ。万吉と一八郎とは、意外な変を見ると同時に、なんのためらいもなく、ザッとかかる雨をうけて、庭先へとび降りた。
 降りた途端に、万吉の肩が、腐れた雨戸をいたので、一枚の戸が、屏風びょうぶ仆しにころげ落ちた。
「お! られている」
「銀五郎ッ、気をたしかにもて」
 一八郎が抱き起こし、万吉が耳に口をつけて呼ぶ間も、雨は仮借なく横なぐりに降った。
「これッ、銀五郎、銀五郎」
「ううむ……」
「気がついたか、急所の傷ではない、心をゆるめてはならん」
「俵様……」銀五郎は、その手を借りて懸命に立ち上がりながら、かっと四方をめ廻した。
「わっしのことに気をとられて、ご油断なすっちゃいけません、蜂須賀家の手が廻っています」
「やっ、蜂須賀の?」
 その時であった。
 床下にひそんで、頃合ころあいを計っていた九鬼弥助は、ふところから用意の呼笛よびこを出して口にくわえた。
 ゆるい――しかし物々しい呼笛のが、床下から、四方へピリピリと鳴り響くと、たちまち、庭手の三人を取り囲んで、真っ黒な影が乱れ立った。
 細く白いやいばのかげも、人に添って、あっちこっちに閃々せんせんと動き、早くもさきを低く泳がせて、狙い寄ってくる覆面もある。
「ちぇッ、足がきかねえ」と、面前の敵に歯がみをする銀五郎をかばって、俵一八郎は、さすがに落ちついていた。
「万吉! 油断いたすなよ」
「おお、こいつだ。宵から虫が知らせたなあ!」と、万吉も、内懐うちぶところの十手をつかんだ。

 輪をなしてきた人影が、等しくジリジリと輪をちぢめて、魔刃まじんのそよぎを詰めよせてきた時、どこからか、
「待て」
 と、鈍重どんじゅうな声が走った。
 立ちすくみに、身を構えていた三人が、ふと眼をつけると、庭の一方大樹のかげに、雨を避けつつ見張っている自来也鞘じらいやざや
 いうまでもなく、天堂一角である。
 一角だけは、覆面をせずに、野ばかま高股たかももだち。そのそばにいて、鯉口こいぐちをつかんでいるのは森啓之助であろう。
「おう、それなる三名の者……」
 傲岸ごうがんな調子で吠えかけた。もう縄にかけた囚人めしゅうど扱いである。一角の言葉は、ピューッという風雨が横から声をさらって、ちぎれちぎれにかすれて聞こえる。
「もう駄目だ! あきらめて後ろへ手を廻してしまえ。いわずとものことだが、吾々は、蜂須賀阿波守にさし向けられてまいった者、生殺与奪せいさつよだつの権があるぞ、ジタバタすればなぶり殺し――」
「だまれッ」
 だしぬけに、俵一八郎、それをさえぎって、きびしく言い返した。
「阿波守が何者である、蜂須賀家じゃとて、かような狼藉ろうぜきを、無辜むこのものに加えてよいか」
「ふん……」というように、一角の白い歯が闇の中にいてみえる。
「白々しいことを申すな! 阿波の侍従重喜公じじゅうしげよしこう、おそれ多いが名君でおわすぞ。いわれもなく、何でかようなことをするものか。そのとがは汝らの胸に覚えがあろう。申し開く筋があるなら、とにかく安治川のお下屋敷へきた上にいたせ」
「いや、なんと申そうが、この方どもは、さような所へ引かれてゆく覚えがない」
「阿波の御禁制を犯し、お家の内秘ないひをのぞこうとする不敵な大罪、言いのがれはかなわぬ」
「禁制とは阿波領だけの禁制で、よも天下の大法ではござるまい。ここは天領、すなわち将軍家の御支配地、一国の太守にすぎぬ阿波守が、掟呼おきてよばわりをさるいわれがない」
 一八郎の弁舌は、さすが同心役を勤めていただけに練れていて、理の明晰めいせきと語気の鋭さが一語一句にひらめいている。
「ましてや吾々とて、また阿波の禁界をふみ越えた覚えもなし、内秘を探ったこともござらぬ。それをしも疑心暗鬼に見らるるにおいては、なんぞ御当家には、それまでも世の耳目じもくをおそれる秘密がおありとみえる」
 痛いところをののしった。
 いかにも、阿波以外の領土で、阿波の国禁を無碍むげにふりかざすのはぼうの限りである。
 けれど、もとより、その暴と権力が、横行し濶歩かっぽした時代。天堂一角のごとき、暴をもってろくみ、暴をもって誇りとする原士気質はらしかたぎが、そんな条理に耳をかすべくもない。
「よし! 間答無用」
 こういうと、彼は、もの蔭から手を振って、
「それッ、江戸の廻しもの唐草銀五郎、またしきりにそこらをぎまわる天満てんま浪人や、手先の犬どもを、一もう打尽だじんにしてしまえ」
「あっ」というと、ムラムラと動いた覆面の影が、一度に八方からわめいてかかる。
「何をッ」といったのは、万吉であろう、寄ってきたのを、真ッ先に、イヤというほど十手でなぐりつけた。
 おお! ええ! ともつれあう声の乱打らんうち。人と人、剣と剣が、ただ真ッ黒に渦巻いた。
 雨は少し小やみになって、チラとほころびた乱雲の隙間から、カーッと空の明るみがし、一瞬、目ざましいつるぎの舞を描いてみせた。
 だが、雲のじるとともに、それもまたたく元の闇――、修羅しゅら叫喚きょうかん、吹きすさぶ嵐。
 しばらくすると、その渦の中から、
「ううむ、残念!」一八郎の絶叫ぜっきょうが聞こえた。
「あっ、だ、旦那」
「万吉、拙者にかまわずここを落ちろ」
「逃がすな、あいつを!」
 むらがっていた人数が二ツに割れた。
 一方は、長蛇となって万吉を追いかけ、残った人数は一八郎へ折り重なって縄をかけた。
 銀五郎はどうしたろう?
 時雨堂の灯が消えたため、多市の様子も分らない。
 万吉は、垣を破って逃げだした。と――その時だ、すさまじい大音響が時雨堂の庭先にあたってしたのは。
 鼓膜こまくをつきぬかれて、あッ、と思った一同の眼先へ、一条の朱電しゅでん! ピカッと見えた火の柱。
 落雷だ。今しがた、一角が立っていたあたりの大欅おおけやきが異臭を放った。刹那せつな、すべての姿が一度に大地へうッ伏してしまった。人の暴を超えた自然の暴力。
 虚空こくうには、幹を白くみせて大欅がダラリと裂け、寂寞せきばくとしてしまった大地をあざけるように、遠雷鳴とおかみなりはゴロゴロとうすれゆく。

 今しがた二、三ヵ所へ落雷があってから、嵐の空はけろりれて、ぎ出された半月のかげが、蒼黒い湖水の狂浪をすごいばかりに照らしていた。
 打出うちではまの松原にも、あなたこなたに、根こそぎにされた痛ましい松の木が見える。
 幾軒かの掘立小屋ほったてごやが、その辺に散在していた。打出瓦うちでがわらを焼く瓦師かわらしの小屋である。
 人は住んでいないとみえて、松と松との間に、その小屋は見えても灯影ほかげはなかったが、やがてどこかで、
「オオひどかった……」と、つぶやく者がある。
 見ると、瓦小屋かわらごや軒下のきしたに立って、ビッショリ濡れた着もののすそをしぼりながら、久しぶりの月に思わず眼を吸われている風情ふぜい
 見返りお綱であった。
 月の光をうけた鼻すじが、なんといいかたちだろう。
 髪も少し濡れたとみえて、ほつれ毛のうずが、象牙ぞうげの白さへペッタリとついているのを、指でいて櫛巻くしまきの根へなでつけながら、
「困ったねえ……とうとう今夜は宿をとりそこなってしまった。こんな御難に会うというのも、みんなお十夜のため、あんな奴こそ、さッきのかみなりにうたれて死んでしまえばいいのに」
 腹立たしそうに独りごとを洩らしている。
 すると、そこから六、七間離れた向うの小屋にも、誰か人影が立っていたので、お綱は、なんともつかずにぎょッとした。
 執念深いお十夜かと思ったのである。だが、まさか……と思いなおして見ると、先でも気がついたとみえて、チラとこっちへ顔を向けたが、別に気にとめる様子もない。
 お綱は、今の動悸どうきの消えないうちに、またあわただしい胸騒むなさわぎを重ねた。けれど、それは前の不愉快な驚きではなく、あまり不意に与えられた喜びの狼狽ろうばいであった。
 人違いではないかと、いくたびも心を落ちつけて見直したが、やはり自分の錯覚さっかくではない。時雨堂しぐれどうの虚無僧である。一節切ひとよぎりぬしである。今も手にはその尺八を持っているのがまぎれのないしるしだ。
「どうしてあの人が、今頃こんな所にいるのかしら……」お綱は不思議に感じたが、尺八をたずさえているのから見るに、この打出ヶ浜へそぞろ歩きに出て、自分と同じように、雨宿りをしているのだろうと推量した。
 しかし、それにしてはあまり夜が更けすぎている。自分はお十夜の眼からのがれるため、わざとこの松原に姿を隠し、もし矢走やばせへ出る渡船わたしがあったら、草津あたりで宿をとろうと考えている間に、今夜の大嵐おおあらしに逢って退きならなくなったのだけれど、あのお方はなんだって、今頃こんな淋しい所にぽつねんとしているのかしら? と、法月弦之丞のりづきげんのじょうの悩みを知らぬお綱には妙に思えた。だが何よりも、こうして意外な人に逢えた機縁のうれしさに、胸のうちはいッぱいだった。
 何とかして、声をかけてみたい、かけられてみたい、と心はわくわくさわぎ立つが、どういってよいものやら、いって悪いものやら、黙然もくねんとしている人は、いつまでもつれなく機会をつかませてくれない。
 じっと月を眺めているが、お綱はしどろになって思い乱れた。乳のあたりで痛いほどの血の響きがする。ええ、どうしたんだろう私は! と口惜しさ悩ましさにじれてみても、のどまで出そうになる言葉が歯がゆくも心の奥へかすれてしまう。
「こんないい折はありゃしない」と知りながら、みすみす恋に意気地のない自分を、お綱はどうにもしようがなかった。
 男を男とも思わず、他人ひとのふところの物さえ神技かみわざのようにりとるお綱に、こんな女らしいもだえがある。
 その女らしい苦しみを、お綱もこの頃初めて知った。よほど変則ない立ちに今日こんにちまでまぎれていたものが、悪土あくどの中からを吹いたのだ。性格、本能、すべてがグングンと伸びきって悪の花を咲かせてしまった年頃まで、たッた一つ、純な芽生えを忘れ残されていたのは、まことの恋――それであった。
 世間にすれていて男にすれず、男にすれていて恋にはすれていない――見返りお綱も、今度こそは、その恋の試練にかけられねばならぬ。
「いい按配あんばいだこと、明日あしたもこの分で晴れてくれると嬉しいけれど……」
 やっとの思いでお綱がいった。
 いったけれど、それは弦之丞へ話しかけた訳ではない。こうつぶやいたら、向うでそれを緒口いとぐちにして、なんとか声をかけて下さりはしまいか――というはかない頼みの溜息ためいきなのである。

 瓦小屋かわらごやの柱にこおりついてしまったように、お綱はジッとして動かなかった。
「ひどい雷鳴かみなりでした……」とか、「お一人でございますか」とか、今に向うの瓦小屋から、弦之丞が話しかけてくれはしまいかと、きまり悪さの物騒ぎを押さえている。
「小娘でもない年のくせに、私はなんていう初心うぶなんだろう」
 お綱は、急に自分がいとしくなった。
 こんないとしい吾身わがみを、初めて見出したように、自分と弦之丞の姿とを、ぬすみめにそッと見くらべたお綱の素ぶりには、あばずれた所などはちりほども見えず、まったく、純なはにかましさだけがこぼれていた。
 義仲寺ぎちゅうじの鐘であろう、大きく八刻やつを打った。
 打出ヶ浜の波音にまじって、鐘の余韻よいんが遠くうすれて行くと、弦之丞はフイと立って、向うの瓦小屋から歩みだした。
 その人にはまたその人の懊悩おうのうがある。行くに行かれぬ江戸をしのび、逢うに逢われぬお千絵の境遇をしのびやって、帰ることも夜更けたことも忘れていたが、四こうの鐘を聞くとにわかに気がついたものであろう。弦之丞の白い姿が、松の間をってピタピタと帰りかける。
 はかない頼みがぷッつり切れて、お綱はハッと悲しくなりながら、
「あっ、もし……」
 われを忘れて呼んでしまった。そこにたたずむ女のあることを、あらかじめ知っていたので、弦之丞は別に意外なさまもなく、松を隔てたすぐ前に足をとめて、
「なんでございますか」
 静かに、にべもない返辞でふりかえった。
「あの……」お綱の唇は、いつにも似ずワナワナふるえて、われからいうべくあまりに舌がもつれがちである。
「あの、もしやあなたは……」といいかけてから、しどろになって後の言葉を探したように、
「もしや今日の日暮方ひぐれがた、あの時雨堂で、一節切ひとよぎりを吹いておいでになったお方ではありませんか」
 いぶかしげに、女を見つめていた弦之丞は、月にくまどられた顔をニッコとさせて、
「ようご存じ……。気まぐれな手すさびゆえ、人に聞かすべきものではござりませぬ」
「いえいえ、ほんによい音色、関の山で聞いておりますと、骨身にみるようでございました」
「お身も尺八がお好きとみえるの」
「深く聞くことは存じませぬが、ただわけもなく好きなのでございます」お綱は自分でも気がつかない間に少し流暢りゅうちょうになりながら、「殊にあなたの宗長流を立慶河岸りっけいがしで初めて聞いた晩から、もう妙に心をひきずられて……あれから後も、どんなに音色をおしたい申していたかしれませぬ」
「お……」弦之丞は五、六歩寄って、「ではあの時、酒に酔った阿波侍が、無礼にも二階から拙者へ金を浴びせ投げた後で、お呼びなされた女客というのは? ……」
「はい、私でござりました」
 眼のやり場にうろたえながら顔をあからめている女の様子に、弦之丞は初めて注意するのであった。しかしその身装みなり肌合はだあいは、どうみても、この辺の者らしくなく、江戸の下町に見馴れたつくりである。
 櫛巻くしまき小柳こやなぎ帯の引っかけで、いけぞんざいな身仕舞みじまいなのが、お綱は、その人だけに気がひけた。ともすると、自分が女掏摸すりだという奥底まで、弦之丞の涼しい眼に見透みとおされはしないかと怖ろしい気にも襲われる。
 お綱が話を途切とぎらすと、弦之丞もまたいつまでも、取りつきにくく無口でいた。
 ザブン、ザブン……と、打出ヶ浜に寄せ返す波も、え過ぎて冬に似る月の寒さも、恋に意気地のないお綱の心を縮ませるばかりである。
 虫の知らせか、弦之丞は、その時なんとなく、早く時雨堂しぐれどうへ帰らなければ、銀五郎や多市が、さだめし案じているだろうと思いだされてきた。

 いつまでたっても、二人の仲に、何も結びつけられてこないので、ともすると相手がそこを立ち去りげに見える。それをやるまいとしてお綱はまたあわてて話しかけた。
「お言葉の様子では、あなたも江戸のようでおいでなさいますが」
 江戸と聞くと、弦之丞もつい心をかれて、
「お察しの通りであるが、すると、お身も江戸であるとみえるな」
「はい、本郷妻恋つまごいでござります。一人旅にひけをみせまいと、わざとこんな風姿なりをしておりますが、挿花はなの師匠をしておりますもの、どうぞおついでがありましたら、お訪ねなされて下さいませ」
「同じ江戸の者であってみれば、いつかまたお目にかかる折もあろうが、少し仔細があって、しばらく江戸へは帰らぬつもり……」
「おや、なぜでございますか」
「なぜということもないが、旅が気ままでござるからのう……」
「いえいえ、旅もようございましょうが、江戸の住心地すみごこちも捨てたものではございません。山の手のお屋敷町は知らぬこと、下町の小ぢんまりした格子こうし作りで、朝のぜんには鎌倉のかつお、夕方には隅田川の白魚、夜には虫売むしうりや鮨売すしうりもきて、縁日のある町へも近く、月の晩には、二階で寝ながら将軍様のお城を眺めて、太平楽たいへいらくをいっておられるような、そんな暮しはお嫌いでございますか」
 懐かしいものとは聞くのであったが、弦之丞には、それとお綱とを結びつけてみても、なんの魅惑も感じなかった。けれど、この女のなだらかな江戸言葉で、江戸の風物を語られることは、決して悪い思い出ではない。
「お武家様にしてみれば、江戸はなおさら羽振はぶりのいい土地。同じ編笠をかぶるにしても、刀の差しよう、まげい方まで、どこか違っておりますので、見る目もなんとなく頼もしゅうございます。私は気まぐれに、上方かみがた見物にきた帰りでございますが、もしなんなら、その江戸までご一緒にお帰りなさってはどうでござります」思いきって、こういってのけてみたものの、もし弦之丞が承知したら、なんと間が悪いことだろう、道中も洒々しゃしゃとして歩けはしない、などとお綱は他愛たあいもない取り越し苦労までする。
 弦之丞はただ笑っていた……そして不意にきっとなった。
 誰か二、三人で駈けてくる者がある。
 見ると、松林をって、肩に月影のをチラチラ浴びて急いできた者が、弦之丞の姿を見つけると、そこへ飛んできて、
「おっ、ここにおいでなさいましたか」と息をはずませた。と、また一人があわただしく、
「弦之丞様、た、大変でございます」と、少し声をわななかせてつけ加えた。その者たちは、弦之丞も見知っている、大津絵師半斎はんさいの店の若い男どもであった。
「大変ですと? ……」彼にも、さすがにギクとした色がある。
「な、なんといってよいやら分りませぬ。とにかく、すぐ時雨堂へお戻りなすって下さいまし」
「して、何ぞ異変でも起こりましたか。帰ることはすぐにも帰りますゆえ、まず落ちついて、その仔細しさいをお聞かせ下さい」
 こういったのは、使いの者よりは、自分自身を落ちつかせるためだった。
「弦之丞様、驚いちゃいけません。実はこうなんでございます……。もう少し前に、すごい雷が鳴りましたろう。あの時師匠の半斎が、ちょうどかわやに入っておりましたが、出てくると私たちへ、今の雷はたしかに時雨堂の近くへ落ちたらしい、もし誰か怪我けがでもありゃしないか、すぐに見舞に行ってみろといわれましたんで、まだ少し降っている中を、まっしぐらに駈けだしました。行ってみると、さア一大事です。どこの奴だか知りませんが、真っ黒に覆面した侍が大勢で、二ちょうの駕を引っかつぎ、時雨堂から一散に関の裏道へ登ってゆくじゃアありませんか」
「や、大勢の侍が? ……」
「二十人余りの人数でしたよ、何しろこいつア大変だと、あわてて中へ飛びこんでみると、雷が落ちたどころじゃありません……、銀五郎さんをよんでも返辞へんじはなし、多市さんをよんでもウンもスウもありません。時雨堂の中はガランとしていて、そのうちに月が出たので、こわごわあたりを見廻すと、どこからどこまで血の池のようなんです」

「おまけにあすこの大欅おおけやきへ、さッきの雷が落ちたものとみえまして、黒装束の者が二、三人、その木の下にたおれていますし、時雨堂の中はといえば、そこも、切ッつ切られつした返り血と、土足のあとがいっぱいで、目も当てられない狼藉ろうぜきでございます」
「おウ……」とうめくがように弦之丞、次の語をややき気味に、
「して、銀五郎と多市はいかが致しました」
「その多市さんは……」
 半斎の弟子二人は、そこで、見てきたばかりの酸鼻さんびのさまを、まざまざと思い浮かべたらしく、気の毒そうに顔を見あわせた。
「手足がかなかったから、真っ先に斬られたのでしょう。多市さんのほうは、縁先と部屋の間で、ズタズタに斬られておりました。ところが銀五郎親分のほうは、どうなったものでしょうか、いっこう行方が知れませんです」
「姿が見えない?」
「はい」
「そして、関の裏道へ向ったというかごは、たしかに二ちょうでござったか」
がらすのような大勢に、取り巻かれて行ったのを見ただけで、しかとは申されませんが、その駕はどうも二つのように思いました」
 嵐の間におこり、嵐とともに去った変事へんじを聞き終って、弦之丞は驚きのあまり、しばらく愕然がくぜんとしていたが、やがて口のうちからただ一語。
「……しまった! ……」
 日頃から、多市や銀五郎の身辺には、蜂須賀家の者がつけ澄ましているところを知りぬいていたので、それとなくまもっていてやったものを、今日に限って家を出たのが第一の失策――と及ばぬほぞをかまれもする。
 いや、及ばぬといって、空しく手をつかねてはいられない。おそうたものは、川長でも見かけたことのある天堂一角、その他の阿波侍あわざむらいであろう。そして、彼らがらっし去ったという駕の一方には、必ずや銀五郎が押し込まれているに相違ない。
 こう、直覚したので、弦之丞はにわかにまなざしをかえて、
「関の裏道はどこへつづいているな?」
 声までりんと張って訊ねた。
「京へは近うございますが、大阪へは廻り道で、山から山を音羽おとわ笠取かさとりの里へとって、宇治の富乃荘とみのしょうへも出られると申します」
「うむ、まさしゅうそれへさしてまいったに違いあるまい。これ二人の者たち、まことに勝手ではあるが、今の場合は、一こくも早く、その駕や侍の群れに追ッ着いて行かねば相ならぬ」
「おお、あれを追っておいでなさいますか」
「時雨堂のあと始末や、半斎殿へご迷惑を及ぼしたおびなどは、いずれ立ち帰った上で御意ぎょいをえるほどに、よしなにお伝え申しておいてくれ」
「ええ、ようございますとも」
「では、お頼み申すぞ」
 この間うちから、常に寡黙かもく沈鬱ちんうつにみえていた法月弦之丞は、その時、まるで人が違ったように、そういうや否や、血相すごく身仕度して、阿波侍の一行を追うべく宙を飛んで走りだした。
 変事を知らせにきた半斎の家の者も、それと一緒に、これまた時雨堂の方へ、落ちつかぬ足どりを急がせて戻って行く。
 こうして夜は一段とけ沈み、打出ヶ浜にはうねうねと白い波ばかりが、あとの寂寞せきばくとした大気の中にほしいままな舞躍ぶやくの声をあげている。
 お綱だけは、まだそこに立っていた。
 しょんぼりと、瓦小屋の柱にもたれて――。
「……やっぱり縁がないのかねえ……」と、思わずもれる溜息ためいきがやるせない。
 月影の中へ月より白く消えてゆく弦之丞の姿を、いつまでもいつまでもジイとそこからみつめているうちに、辺りの月光はぼうかすんで、松葉の露のようななみだが、お綱の両の睫毛まつげにいッぱいな玉をかべていた。
 弦之丞には、行路こうろの一にもすぎぬ女であったろうが、お綱の身にとってみれば、手のうちの珠を奪われたよりは、もっと絶望的な空虚が胸をひたすのであった。
 明けやすい短夜みじかよである。五こうといえばもう有明ありあけの色がどこにもほのかである。
 誰もいない打出ヶ浜……。
 見る人もなく聞く人もない瓦小屋。
 瓦へかむせてあるむしろへ、居崩いくずれたままにうっ伏したお綱は、生まれて初めてしんから悲しいということを知って、誰に気づかいもなく、シク、シク……とすすり泣きを洩らしていた。
 やがて、ボウーという法螺ほらの音が聞こえる。
 矢走やばせへ通う松本の船渡しから、一番船のでる知らせである。
(江戸へお帰り、江戸へお帰り、お綱さん、あきらめて江戸へお帰りよ。月夜の風邪をこじらすと、命取りになりますよ)
 一番船の貝の音はこういってお綱をなだめうながすように鳴っていた。

 らんらんとした太陽が照りつけていた。小鳥の声が晴々はればれとひびく、山や峰は孔雀色くじゃくいろの光に濡れ、傾斜の樹々きぎは強烈な陽をうけて、白い水蒸気をあげている。
「急げ、急げ」
 今しも、笠取かさとりの盆地から、禅定寺峠ぜんじょうじとうげ七曲ななまがりを、ヒタヒタと登ってゆく武士の一群れがあった。
 昨日の嵐にふるい落とされた病葉わくらばが、道一面に散りしいていて、そこを踏みしめてゆく大勢の足音の前に、山小禽やまことりが腹毛を見せてツイツイとおどろき飛ぶ――。
「急げ、急げ」
「峠を越えるとごうくち
「郷の口には休み場もある」
「何しろ支度をかえなければやりきれない」
「明け方から急に疲れを覚えてきた」
兵糧ひょうろうがほしい」
「もう一息、もう一息!」
「道も河内かわちへ入れば平坦へいたんになる。大阪表まで六、七里とはないぞ」
 一行はへトヘトに疲れていた。
 先に立って励ますのは天堂一角、九鬼弥助、森啓之助。
 二ちょうかごを列にはさんで、以下二十人ほどのさむらいがつづいてゆく。難路へかかるたびに出る愚痴ぐちは、夜をてっしてこの悪路を、関の裏街道から休みもなしに押してきた汗とあえぎの悲鳴である。
 縄括なわぐくりにした二ちょうの山駕、それをかついでいるのも侍だ。時折、肩を代え、肩を代えして、螺旋状らせんじょうにうねッた道を峠のいただきまで登ってきたが、
「あっ、また血がこぼれる……」
 ドカンと、一挺の駕尻かごじりを下ろしてしまった。
 その駕のすそから、おびただしい血汐がしたたりだしている。みる間に、それは幾すじもの赤い線となって、生ける蚯蚓みみずのように、土の上を横縦よこたてに流れだした。
「こう血をだしては死ぬであろう」
「だめだ。死ぬぞ、こいつは」
 下ろした駕を取りまいてガヤガヤしだした。
「この分では、所詮しょせん、大阪まではっていまい」
「お下屋敷しもやしきへつく前に、死骸になってしまっては、骨折り損というものだ」
 様子をふりかえった天堂一角は、森や九鬼とともに、つかつかとそこへ戻ってきたが、なかば疲労にくじけている一同を見て、
「死なしてはならん!」
 一かつをくれて、みずから駕の縄を切りほどき、れを上げて中をのぞくと、自分もいっそう狼狽ろうばいした気色けしきである。
「すぐに手当てを加えろ。これから大事なお調べにかける奴、死なしては、ここまで骨を折ってきた甲斐かいがないぞ」
 大勢の手で、駕の中から引きずりだされたのは、唐草銀五郎であった。
 深股ふかももの傷は、柘榴ざくろのようにはじけている。ほかにも一、二ヵ所のかすり傷があって、五体はむごたらしいべにに塗られていた。
「用意の金創きんそうは誰が持っている」
「はっ、これに」
「指先へ付けてりつけろ。そして血止めをギリギリと巻きしめておけ」
「はっ」
「誰か、水を探してこい、水を」
「はっ」すぐ二、三人が渓流けいりゅうへ駈け下りた。
 銀五郎は、おびただしい出血に、グッタリと気を失っている。情けにあらずしてそれを手当てする侍たちには、無論荒々しく扱われた。
「一方は大丈夫だろうな」
 水を待つ間に、九鬼弥助やすけがいった。一方とはつまりもう一つの駕を指すので、その中には、俵一八郎が無念のいましめをうけて、押し込まれているのは明白である。
 中の一人が、こう答えた。
「あの者のほうは、捕える時に深傷ふかでを負わせてございませんから、まず御懸念ごけねんには及びませぬ」
「そうか……」
 九鬼はうなずいて、一角と啓之助が立っている岩のそばへ歩みだした。
 その時、天堂一角は、うでぐみをしたまま、峠の七曲りを見下ろしていたが、何を見出したものか、眉にけんを立てて、にわかにただならぬ色をあらわした。

「悪い所へ……」一角は舌うちを鳴らして、
「誰かここへ登ってくる」と、ひそめたまゆのあたりへ手をかざした。
「高野詣りか三とう行者ぎょうじゃか……それともただの通行人か、なにしろ四、五人でございますな」
 それをうけて、森啓之助がつぶやくと、九鬼弥助も側に立って伸び上がりながら、
「なるほど!」と同じほうへ眼をえた。そして三人とも、しばらくの間、峠の上り道からここへ指してくる人影を眺めていたが、そのうちに九鬼弥助が一笑に附して、
「まさか追手ではありますまい」
「無論、そんな者でないことは分っているが……」と一角は注意ぶかい容子ようすで、あたりにいるさむらいたちへも聞かすように、
「ただの旅人にいたせ、かようななりを見れば、何かと眼をそばだてて行くに相違ない。万一、蜂須賀家の者と知られて、世間へ噂いたされては後日の不為ふためであろう。とにかく、銀五郎の体を、どこかへ隠したがようござる」
「いかにも!」啓之助も同意して、にわかにあわてた眼づかいをしながら、
「こりゃ、手当ては後にして、先に銀五郎の体を見えぬ所へ運んでおけ。そして、※(二の字点、1-2-22)おのおのもしばらくの間、姿の見えぬようにしているがよい」
「はっ、承知しました」答えると、侍たちは、ただちに銀五郎の手足を取りあって、灌木かんぼくの夏草の茂みにつつまれた細道へ隠れてしまった。
 そして、二挺の山駕も、邪魔にならない所へ片づけさせた後に、天堂一角は陽よけの笠をかたげ、弥助と啓之助は、道ばたの岩に腰を下ろして、何気ない風にたばこをくゆらしている……。
 しばらくしんとしているうちに、さっき、ここから姿の眺められた旅人たちであろう、何か声高に話してくる声が足音とともに近づいてきた。
「よく晴れましたなあ、谷の霧が」
「まったくいい気持で。何しろ、山を歩きつけると、あのほこりッぽくって物騒な本街道は歩けません」
「街道すじも、喧嘩がなくって大名の往来さえなければ、決して悪かあありませんが」
「おお、ここに立つと、ちょうど、宇治川の流れが、水での字を描いたように見えます」
「山もよいじゃありませんか。東のほうをごらんなさい。昔、徳川様に見出されて、おかかえになった忍者の出生地――有名な甲賀の山国があの辺です」
「なるほど、つまり幕府の甲賀者が出たさとで……」
「さよう、あのとがった山が矢筈やはずたけ、その右手のがやまとかいいましたよ。まア名なんぞはどうでも、あのひだになっている山のしわが、なんともいえない深味のある色じゃございませんか」
 すぐそこまで来たのをみると、六部、高野詣り、道者などの五人連れで、いずれも白いこうがけ脚絆きゃはんに杖をもっているが、中に一人、それをもたない虚無僧の天蓋てんがいが一つまじっていた。
「どうです?」
 高野詣りが腰をのばしていった。
「この辺で、一服やるとしましょうか」
 すると、六部がソッと袖をひいて、道ばたにいる侍を目で知らせながら、さりげない調子で、
「いや、もう一息まいりましょう」
「そうですか、じゃあ……」
「下りへかかるわかれ路に、たしか、眺めのいい場所があった筈で……」スタスタと通り過ぎてしまった。多少何か無気味にも思ったようなふうである。
 一人の虚無僧も、他の行者たちについて足を早めたが、行き過ぎてから、二、三度うしろをふりかえった。わざと、やりすごす気で、たばこをくゆらしていた一角や弥助は、その五人を一様一色な遍路へんろとばかり思っていたので、虚無僧のまじっていたことも、またその天蓋てんがいのかげに明敏なまなざしが働いていたことにも気がつかなかった。
 気味の悪い侍を見かけたのがきッかけで、無口になった五人の道者れんは、それから二十丁ほどタッタと下ってきたが、やがて、甲賀路と宇治のわかれ道へきた時、
「では、皆様……」
 と、虚無僧だけが、ふいに立ちどまって、
「私だけは、ここでお別れ申します」

「おや」と、四人は変な顔をして、
虚無僧ぼろんじさん、あなたは甲賀へおいでになるので……?」
「はい」虚無僧は慇懃いんぎんに、
「もとよりあてのある旅ではございませんが、最前、峠の上から甲賀の山を見ましてから、急にまいりたくなりましたので」
「そうですか――ですが、ここからまいりますと、木元きもと裏白うらじろなんていう、けわしい山や峠ばかりで、いくら山好きでもあきあきしますぜ」
「ほかにちと思いだした用事もございますゆえ」
「そうですか、じゃせっかくお大事においでなさい」
「ありがとうぞんじます。今朝けさからご一緒になりまして、いろいろお世話になりました」
「なんの、遍路の者はお互いでございます。草鞋わらじえや旅籠銭はたごせんは大丈夫ですか」
「はい、用意しておりまする」
「お一人になったら、必ず、暮れないうちに宿をとることですよ。じゃ、お気をつけなすッて……」
 半日の道づれを捨てるのも、何か名残惜しそうに、一人をらして四人になった道者たちは、コトン、コトン、と杖の音を淋しくさせて、禅定寺ぜんじょうじの峠を下りにかかって行く。
 虚無僧は、寂然じゃくねんと立って見送っていた。
 旅の人の情けはうれしい! しみじみ思うのである。ことに、ああした遍路同士が、貧しい情けをおくりあうことは、なみだぐましいほどで、闘争のちまた富家ふかの門では見られない美しさだと思うのであった。
 そして、静かに、道端へ寄って行った。
 朽木くちきの根から、滴々てきてきと落ちている清水にのどをうるおそうとして、ふと、こけや木の葉に埋もれている道しるべの石をみると、
 南――ごうくちをへて奈良街道。
 北――裏白越うらじろごえ甲賀路。
 としてある。
「甲賀……」じっと見つめている虚無僧の胸に、懐古かいこの念が清水のようにいてきた。「甲賀といえば、甲賀組の発祥地はっしょうち、いうまでもなくお千絵殿の祖先のさとじゃ……」
 不思議な心地がするのである。
 ゆくりなく、恋人の祖先にめぐり会ったような心地がする。そしてそこに、なお道しるべの文字を見入っていた虚無僧は、法月弦之丞のりづきげんのじょうなのであった。
 弦之丞は、ゆうべ、打出ヶ浜からまっしぐらに立ってきた。無論、蜂須賀家の者を追いかけて、銀五郎を取り返すためにである。
 一八郎のことは、彼の念頭に薄かった。およそのことは察していたが、まだ深くその人を知らないために。
 しかし、銀五郎の一身だけは、命をしても取り返さずにはおかない決心であった。自分というものが、江戸の地をふむことのできない境遇である間は、銀五郎こそ、お千絵様の身を守り、甲賀家をささえてくれる唯一の力だ。
 蜂須賀の侍たちは、世間の目を避けるためにも、必ず裏街道うらかいどうをとって大阪へ戻るであろうと察したので、彼は、迷うことなく道をとって、夜の暁方あけがたに、醍醐だいごの山寺で一ときばかり休んでいた。
 そこで落ちあったのが、今、別れた遍路へんろの人々である。天蓋てんがいや、わらじなども、その人たちが、寺で工面くめんしてくれた物だった。弦之丞は、先の目をくらますために、その人たちとここまで同行してきたのである。
 そして、計らずも、峠のいただきで、天堂一角や九鬼弥助の姿を見かけた。
 先では気がつかなかったが、弦之丞は、あの瞬間にそれを見のがしていない。かごも二つあった、その他の侍たちはどこかに休んででもいるのだろう――そううなずいて通り過ぎた。
 ここは岐路きろになっているが、ここまではどうしても一本道。いやでも応でも、天堂一角やあの駕が、目の前を通りかかる筈である。
 弦之丞は、一口の清水に、湧きたぎる血をおさえながら、ゆたりと、道しるべの側へ腰を下ろした。
「……もう急ぐことはあるまい」
 彼は、ことさらに心を落ちつけるため、尺八を取って、眼を半眼に閉じ、ゆるやかにくち湿しめしていた。

 禅定寺峠ぜんじょうじとうげ――、あの頂から少しくだって、森々しんしんたる日蔭へ入ると、右は沢へなだれて、密生したならの傾斜で、上にも、とちや松がい茂っており、旅馴れた者にも気味悪い暗緑な木下闇このしたやみ――。時たまつんざく鳥のけたたましさは、斬られた女の声のようだ。
 程もなく、シタシタと、地をうつ大勢の足音が、その勾配こうばい湿しめっぽく流れてくる。
 さきに峠の上の平地ひらちで、二挺の山駕を下ろしていた阿波侍の一群れである。
 森啓之助と九鬼弥助は、俵一八郎を入れた山駕のわきにつき、その後からは、天堂一角が銀五郎の駕を守って、なんの予感もなさそうに、例のわかれ路まで進んできた。
 と――不意に、どこかで、
「待てッ」
 ピンと、耳をつんざいた声がした。
 すぐ続けざまに同じ音声おんじょうが、
「しばらく待て!」
 こう、叫んだかと思うと、道しるべの石から、躍然やくぜんと立ってきた法月弦之丞が、あわてる列をかきわけて、すばやく、一八郎の駕の棒鼻ぼうばなをドンと抑えてしまった。
「や、や……」とうろたえる者を睥睨へいげいして、
「蜂須賀の方々へ、ちと申し入れたい儀があって、ここにてお待ちうけ致していた。とにかく、この二挺の駕をおとどめなさい!」
 と、身をかためて、目に余る一こうの道をはばめた。
「なにッ」
 聞くより九鬼弥助は、刀のこじりをはね上げて、弦之丞の姿へ目をいからしつつ、
「知らぬことならとにかく、吾々を蜂須賀家の者と知って足を止めよとは言語道断ごんごどうだんだ。一体なんじはどこのうろたえ者だッ」
「もう、見忘れ召されたか――」と、弦之丞は片手で天蓋てんがいひもを解いた。それは、早くも八方の敵をうける用意である。
「――いつぞや川長の門口かどぐちで、お志の鳥目を浴びたあげく、その夜裏庭では各※(二の字点、1-2-22)のお手の内まで拝見いたした虚無僧でござる」
「えっ……」弥助はきもをヒヤリとさせたが、ひるみをみせまいとするのであろう、なおも、ひたいに青筋をうねらせて、
「おお、その虚無僧がどうしたというのだ。何のゆえにこの駕を止めるのだ」
「されば、もとよりその夜の意趣遺恨いしゅいこんではなく、拙者の知人しりびとである銀五郎と、ほか一名の者が、故なくして、方々かたがたに捕われたと聞き、お下げ渡しを願いに出たのでござる」
「ならぬッ」
 弥助は一かつをくれて、かたわらの森啓之助をかえりみながら、
「こんな奴にかまっていてはひまつぶし。それッ、お先へおやンなさい」
「心得た」というと、森啓之助、ほか八、九人の侍とともに、一団になって駕尻をあげた。
「ええ、待たぬか」と、弦之丞が、それを支えんとする隙を狙って、
「邪魔するなッ」
 粗暴な九鬼弥助が、抜き打ちに斬りつける。
 はっ――と思うと、弦之丞は、身を沈めて、手元へのめッてきた弥助の大刀を、目もとまらぬ隙にもぎ取った。しまッた! ――弥助は、色を失って飛び退いたが、時遅し、法月弦之丞に持たれた一刀は、あだかも名刀に変ったかと思われるばかりな冴えを増して、片手打ちに、ズウンと弥助のあばらまで斬りこんでしまった。
「わッ……」こまかい血がもうとあがる……。九鬼弥助はくうをつかんで、ならの傾斜へ落ちこんで行った。
 銀五郎の駕を止めて、こなたに立っていた天堂一角は、そのていを見るなり、
「おのれッ」といいざま、ジリジリと詰め寄ってきた。
 一角は、啓之助のような、白面柔弱にゅうじゃくでなく、また、弥助よりも兇暴であるかもしれないが粗暴ではない。その剣を放つにしても、彼らの腕とは格段な差があり、弦之丞にとっても、あなどるべからざる剛敵である。
 この隙に、柔弱者の啓之助は、人数の半分以上を引きつれて、一八郎の駕一つを固めながら、ダッ――とふもとへさして急いでしまった。
 その後の怖るべきものは、天堂一角だけである。あとの葉武者はむしゃは何ほどのことがあろう――と、弦之丞は、それに三分の気を構え、七分の心力しんりょくを一角に向けて、血ぬられた大刀を青眼せいがんにとりなおした。

 ギラギラした大刀の数が、車の歯のように、弦之丞のまわりを取り巻いている。天堂一角は、たえず彼の前へ前へと、さきを向けていた。
 しかし、いつまでたっても、弦之丞に微傷びしょうを負わせることもできない。
 無碍むげに、一歩でも、手元へ近づいて行った者は、たちまち、相手の一せんを浴びて、あえなき血けむりを揚げてしまう。
 すでに四人は斬られていた……。
 またたおれた! パサッ――と、ぬれ手拭をはたくような血の音。
 だんだん頭数が減ってゆくばかりだ。一角を除く以外の者は、もう怯気おじけに襲われてか、ともすると逃げ足にみえる。
 斬っても斬っても、弦之丞の構えは、すぐ鉄壁に戻っていた。そのために、一角はどうしてもつけ入ることができない。何という流名だろう? 何という構えであろう? そして何とりんを絶したわざだろうか。
 一角にとって、頼み甲斐のない助太刀は、また一人があけになったのをきッかけに、わッとひるみ立って、ふもとの方へ逃げだした。
 うまくはずして行った森啓之助でも呼んでくる気か? おそらく、あの啓之助に、ふたたびここへ戻ってくるほどな勇気はあるまい。
 だが、さすがに天堂一角は、あくまでそこを退かなかった。ひとまぜをせぬ一人と一人、ややしばらく息をひそめて睨み合った。原士はらしの中で、有名な使い手だけあって、難波なんばぽうりゅうと覚しき太刀筋はたしかなもの。弦之丞とて、迂濶うかつにはあしらえない。
 こういう筋のいい太刀は、ほとんど、その斬る手も引く手も見せないはやさを持っている。っ! とばかり、たった一度、双方の白刃がり合ったかと思うと、天堂一角の姿は、忽然こつぜんとしてそこらにあらず、弦之丞のすぐ側のに、どこから飛んできたのか、一すじ捕縄とりなわが、蛇のようにからみついて、ピンと向うへ張っていた。
 弦之丞と一角のわざは、とうとう優劣がつかなかった。この時の場合は、まず互角といっていい。なぜならば計らざる者が、その刹那せつなを引き分けてしまったのだ。
 と、いうのは。
 時雨堂しぐれどうから、危うく逃れた目明し万吉。この変事を、住吉村にいる常木鴻山つねきこうざんへ知らせようとして、ヘトヘトになりながら、折も折、この山越えにかかってきた。
 そして二人が切り結んでいるていを見るや、彼はなんの猶予ゆうよもなく、得意の捕縄とりなわをスルスルと解いて、天堂一角へ狙いをつけた。
 そこで、捕縄の先が、ちゅうをうねって行った途端に、一角は早くも感づいて、ならの茂った谷間たにあいの崖へ身を躍らしてしまったのだ。
「もしやあなた様は、時雨堂においでになった、法月様ではございませんか」
 まとをはずした捕縄とりなわを輪にしながら万吉は、弦之丞の前へ姿を見せた。
「おう、しておは何者でござる」
「あの晩、泊り合せた万吉という者ですが、深いお話は後にして、どうか、あすこにある駕から先にみて上げて下さいまし……、何だか、苦しそうなうめき声が洩れております」
 駈け寄って、山駕をくくした縄を切りほどくと、銀五郎の体が力なく外へ横仆れになった。さっき、多少の手当てを加えられたので、気はついていたが、奄々えんえんとして苦しそうな息づかい。
「おッ、銀五郎ではないか」
 弦之丞は、白い膝の上へ、その体を抱え込んで、二度ほど、耳元へ口をつけて名をよんだ。
「あ……弦之丞様……」
「分ったか。気をたしかにもて」
「分りました……」ガックリとうなずいて、「お助けなすって下さいましたか」
「おお、蜂須賀家の者の手より取り戻したのじゃ。もう決して案じることはないぞ」
「せっかくですが……弦之丞様、そのお骨折りは無駄でした」
「な、なんと申す。この弦之丞がそちを取り返したのが無駄じゃというか」
「無駄です! わ、わっしゃ、ちっともうれしかあありません……」
「うれしくない?」
 弦之丞はせきこんだ。彼としてこれまでの力をつくして助けた者から、こんな情けない言葉を聞こうとは、あまりに心外しんがいであるに違いない。
 静かにひよいている。
 万吉は、あたりの死骸を谷間に蹴こんで、あっちこっちを見張っていた。

「弦之丞様……」銀五郎は、傷手いたでを忘れて改まった。
「さだめしお腹が立ちましょう。命がけで助けた者が、うれしくないの無駄だのといえば、誰だって、むっとするのが当り前です。……ですが、嘘の嫌いな唐草銀五郎、まったくうれしくございません」
「心得ぬことを申すではないか。腹蔵ふくぞうなく、そのわけを承ろう」
「申しましょう……これをいわないでどうするものか」
 ほッと熱い息をついた。
 こらえてはいるが、あれほど出血した銀五郎は、深傷ふかででよほど体も疲れているとみえ、眼のふちには青い蔭がくまどっており、きれぎれにいう声にも、どこかしら精がない。
「わけというのは、この銀五郎が、失礼ながらあなた様にあいそをつかしているからです。早くいやあ見きりをつけてしまったんだ……法月弦之丞という方は、腕はすぐれているけれど、なみだもなければ血もない武士だと……」
「待て。ではそちは、あくまでお千絵様のことをいうて、この身を責めるのじゃな」
「責めます! 弦之丞様。わっしをこうして助けてくれる程なお心で、なぜ、お千絵様を救って上げては下さいませぬか」
「ウーム、いうな銀五郎! そのことだけはいうてくれるな」
「いえ、い、いわなくちゃなりません……」銀五郎は彼の手頸てくびを固く握りしめた。怖ろしい力のふるえが感じられる。その眼は衰えた中にもあらん限りの訴えを燃焼ねんしょうしている。唇がかわく、舌がもつれる……しかもまだ烈々の侠血きょうけつは唐草の五体にあふれ返って見える。
「先の晩にも、あの通り、くどいお願いを致しました。もうこれが最後のお言葉をきく時です。さ、おっしゃって下さいまし。江戸へ帰ってお千絵様を救ってあげて下さるか。それともいやか……それを」
「無理じゃ……」弦之丞は良心の苛責かしゃくと、銀五郎の言葉のむちに、顔まで蒼白になりながら身をもだえる。
「江戸へは帰られぬ仔細しさいがある。それはたびたびいうてあるではないか。おう! この弦之丞の心も察してくれい」
「では、どうありましても?」
「……身に骨肉がないならば――父や母や兄弟や、そして家門や徳川家の直参じきさんなどという家統いえすじがないならば……」
「わ、わかりました」いうかと思うと銀五郎、ガバと前へうっ伏した。いつの間にか、弦之丞が側においた刀を忍ばせていたらしい。びっくりしていだき起こしてみると、さき深く自分の手で脇腹わきばらえぐっていた。
 こんこんと流れでる鮮血が、自分の膝へもぬるとおってくるのを感じながら、弦之丞はなにもいわずに、ただひしと銀五郎を抱きしめた。
 唐草は断末のあけに悶え苦しんだ。が、彼には、ふたたびてない自覚があった。多市が最期さいごをとげたこと、一八郎が捕えられたこと、すべての破綻はたんとともに、自分の終るのも当然だとは知っている。
 うらむらくは、ついに、阿波の土を一足もふまないこと――そして法月弦之丞をついに動かすことができなかったこの二つ。
 この二つの恨事こんじは、彼が白骨となるまでも、永劫えいごうに抱く心残りであらねばならぬ。
 急に、かかえている腕へ重みがかかった。ガクリとこときれた様子。
 石のようになって、睫毛まつげなみだをさえめていた弦之丞。はッと吾に返って、眼がしらの露を払い、銀五郎の頬へ自分の頬をピタとつけて耳に口。
「これ、銀五郎! 銀五郎!」
 声のかぎり呼びかえすと、さっきから始終を見ていた万吉が咄嗟とっさの気転、手拭に清水を湿しめして飛んできて、銀五郎の口へタラタラとぎこんだ。
 ぽかと、ひとみを開いたのを見て、弦之丞はきっとなった。そして、彼の薄らぐ魂へも、はっきりとうなずけるような音声おんじょうでこういった。
「こりゃ唐草! そちの最期さいごに一言の手向たむけがある。今日までは、大府大番頭だいふおおばんがしらの家名をけがすまいとおもい、また私の両親や兄弟はらからたちにき目を見せたくないばかりに、恋を捨て武士を捨て、血もなみだもない懦夫だふとなり終っていたが、今こそ、岐路きろに立った弦之丞は、自分の指して行く道をあきらかに思い決したぞ! 臨終いまわのきわによう聞いてゆけ! そちの頼みはたしかにこのほうがひき受けた! 必ずお千絵どのの今の境界きょうがい、骨身にかけて救ってとらす。また甲賀の家もささえてみせる。なおそのためには、この身の武運が尽きぬ以上、阿波の本土に入り込んで、世阿弥よあみ殿の末路を見届け、蜂須賀家の内秘を必ず突き止めてみせるであろう。よいか! 聞こえたか、銀五郎! 法月弦之丞の今日の誓い、これを黄泉よみじ餞別はなむけとして受けてくれい……」

 銀五郎のなきがらを埋めた土の上に、淋しい山の花が手向たむけられたのは、それから一ときほど後のこと。
 弦之丞は合掌して、しばらくの間瞑目めいもくした。万吉ですら、しきりに涙がさしてきてたまらない様子。
 そこは峠の道を横に入った崖の中腹で、甲賀の山、河内平かわちだいら、晴れた日には紀淡きたんの海も望まれよう、風に鳴る静かな古松こしょうはんの木にかこまれている。
「じゃ弦之丞様、いよいよあなた様も御決心の通り、これからただちに江戸表へお立ちでございましょうか」
 万吉はこう改まって、先ず一通り自分たちのいきさつから今日に至るまでの事情を話した後に、もし弦之丞がここから江戸へ向うならば、自分はお千絵様に会うことを一時思い止まって住吉村にある常木鴻山つねきこうざんへ、事態の急変を知らせたいという気持を述べた。
 すべてを聞きながら、思案をしていたが弦之丞。
「いや……」と向きなおって、
「その住吉村へは拙者がまいって、一度常木うじにもお目にかかっておこう。ところで、江戸のお千絵殿や銀五郎の身寄りのほうへも、早くこのことを知らせねばならぬが……」と、また、小首をかしげて考え沈む。
「む! 万吉」ハタと膝を打って、「江戸表へは、そちが一足先へまいってくれぬか」
「えっ、お千絵様のお屋敷へ?」
「そうじゃ。銀五郎のかたみとなったこの髪の毛を持って、お千絵殿に会った上、仔細しさい残りなく話してくれい。そして、いずれこの弦之丞も追っつけ江戸へまいるであろうとな」
「蔭ながらわっしもいろいろ伺っております。そう申し上げたなら、さぞお喜びでございましょう」
「しかし、それもごく密々みつみつに――本来江戸へは帰れぬ事情のあるこのほう、必ずとも他人ひとの耳には触れないようにな……」
「そこに抜かりはございません。じゃ、わっしは行きがけに大津絵師の半斎はんさい老人の所へ寄って、何かのびや礼をすました後に、その足で江戸表へ急ぎます。ところで、あなた様と江戸で落ち合える段どりは、およそ何日ごろになりましょうな」
「まず二月ふたつき三月みつきほど後であろう」
「たいそうお手間がとれるんですね」
「聞けば、近いうちに蜂須賀阿波守は、まんじ丸をしたてて徳島城へ帰国いたすとある。安治川尻あじがわじりの下屋敷の様子、その取りこみにまぎれてザッとうかがってくるつもりじゃ。さもなくては、お千絵殿に会ったところで、充分この後のしめし合せがつかぬからのう」
「へえ……」といったが、万吉は相手の顔をけろりと見ていた。十手をはしのように持って、この年まで目明しの飯を食ってきた自分でさえ、あの下屋敷の塀の節穴ふしあなさえのぞけずにいたものをと、少し片腹痛い気がしないでもない。
「ですが、ずいぶん危のうございますぜ」
「なんの、危なかったら引き退さがるまで、あわよくば、たわら一八郎を救い出せるかも知れぬ」
「ああ、俵の旦那も、とうとう阿波の犠牲ぎせいになってしまった……」ふと暗然とつぶやいたが、気を取り直すように立ち上がった。
「そう事が決まりましたら、一刻も早くお別れと致します。今度こそは、かけがえのねえあなたのお力、どうぞめったな足を踏みださねえように。また、常木様にお会いになりました節は、万吉はこうこうと、俵様のことのついでに、お伝えなすって下さいまし」
「心得ている。それではもう出立するか」
「へえ、にわかに気がいておりますので」
「銀五郎が、この土の下に眠っておるかと思うと、拙者は、何やらここが立ち去りにくい」
「ごもっともでございます。江戸であなたとお千絵様が、恋とやらに燃えていた頃は、ずいぶん世話をやかせたという話だそうで」
「その昔、お千絵殿の父世阿弥よあみ殿から、少しの恩義をうけたのに感じて、こうまで義理を尽くしたのは見上げた男。弦之丞が岐路きろの迷いを離れたのも、銀五郎の血と熱に染め揚げられたようなものじゃ」
「わっしも江戸へまいりましたら、偽紫にせむらさきに染まないで、その真っ赤な男気おとこぎッてところにあやかりたいものでございます」
「おお……」と弦之丞は尺八を取り上げて、
「銀五郎の手向たむけに一曲吹こう、そちも別れに聞いてまいるがいい」
「あ、そいつはご勘弁願います。でなくてさえ先程から、俵様のご無念がおもわれたり、唐草親分の非業ひごうな姿が目についてたまらねえところ――。この上哀れッぽい一節切ひとよぎりを聞いた日には、かかあのことまで思いだしやす。なみだの字も目明しにゃ禁物きんもつ、一足お先へ押ッ放してお貰い申します」
 怖い物から逃げるように、万吉は、道中笠を西日へかたげて、禅定寺峠ぜんじょうじとうげから江戸へ心を急がせて行った――。

 机が一脚、寂然じゃくねんとしてある。
 柿の木から洩れる秋の陽が、古畳の目に明るくしていた。
 あたりは草深い百姓家らしいが、その部屋の中は百姓家らしくなく、和漢の書籍だの、舶載はくさいのエレキテルだの、そうかと思うと、薬をきざ薬研やげんが見えるし、机の上には下手へた蘭字らんじが書きかけてあり、異人墓の石のかけらがその文鎮ぶんちんになっている。
 そして誰も人はいない。
 ガランとして、明けッ放しになったまま、しばらくは日向溜ひなただまりの秋のはえが、黒豆のようにジッとしていた。
「おほん……」
 ややあって、どこかで一ツ咳払せきばらいがしたかと思うと、はばかりの戸のさるがカタンといった。
 厠の戸をギーと開けて、悠々ゆうゆうと出てきたのが、すなわち机と薬研やげんあるじであろう。
 誰かと思うと、久しぶりにその細い丁髷ちょんまげと細いあごを見せた、平賀源内なのである。
 手洗鉢ちょうずばちの水を、南天の葉へチョッチョッとかけて、手拭てぬぐい掛けに手を伸ばしながら、さて、おもむろに庭の秋色を眺め廻した後、机の抽斗ひきだしから薬草の胚子たねらしいものを取り出して庭へ下りた。
 長崎で手に入れてきた蛮種ばんしゅの薬草の胚子たねいて、一つまた暢気のんきな漢方医者どもを、あっといわせよう下心したごころとみえる。
 縁の下からくわを取りだして、それを杖のように突きながら、離々りりとした秋草の中を歩きだした。
 そして、ここらあたりでと思う所で、サクリと鍬を入れたが、その鍬を土にさしたまま、源内はヒョッと妙な顔をしてしまった。――というのは垣の外に、胡散うさんくさい人影が、しきりに辺りをうかがっていたからであろう。
「また嫌な奴が立ち廻っているな……」
 こう思ったので、平賀源内、さわらぬ神にたたりなしというふうに、胚子たねの袋をそこにおいて、こっそり部屋へ戻ってきた。
「おれは医者だよ。天下が誰のものになろうとおかまいはない。そう執念深くつけ廻さなくってもよさそうなものじゃないか……。常木鴻山こうざんと一緒にいたので睨まれたのだろうが、もうよい加減にして貰いたいな。心煩しんぼんという病気になる、蘭方らんぽうでいえば神経衰弱……」
 煙管きせるへ一服つめてみたが、うまくないのでほうりだした。今度は薬研やげんを引きよせて、桂皮けいひか何かをザクザクと刻みはじめる。
「おれは医者だから漢薬蘭薬なんでも売るが、病気は薬でなおらない。まして心煩――神経衰弱なぞはてこずりものだ。かかりたくないな、あんなやまいには。他人ひとはかかってくれなければ困るが、おれは罹るのはご免だよ」
 手さえ動かしていればザクザク薬が切れて行く。空想をするにはいい仕事だ。
「――驚いたなあ、あの時は。あの時から心煩だ。常木鴻山がぬきや仲間の者を使って、阿波へ渡ろうと準備をしているのを、いつの間にか蜂須賀にぎつけられた――今考えてみると、あれは三次の密告だな。住吉村のぬきや屋敷へ、不意に覆面のやつが斬り込んできた。二、三十人はいただろう。たまったものじゃない。鴻山は浜から小舟で逃げだしたが、おれは異人墓へもぐりこんで、やっと命だけは無事にすんだ……。だが、どうもそれ以来、人を見るとびっくりしていけない」
 小鳥の声が朗らかだ。
 薬研の音が面白い、医者はのんきな商売だとは、平賀源内、思っていない。
「一体おれが物好き過ぎる……」反省心が出てきたらしい。
「何も好んで、常木鴻山などと一緒に、ぬきや屋敷にもぐっていることはなかったのさ。ここにこうして、百姓家の一間を借りて、小遣こづかい取りの病人も来るのだから、おとなしく、異人墓の文字でも写して勉強しておりゃいいことさ。だがどうしたろう鴻山は? 舟で逃げたからつかまりはしまい、紀州の奥でも隠れたかな、何しろおれは迷惑した。もう、天満浪人だの隠密おんみつだの、蜂須賀家だのッて、そんな物騒な渦の中へは飛び込むまいぞ。そうともそうとも、早く一つエレキテルや火浣布かかんぷでも仕上げて、大金もうけをしなくっちゃ……」
 動悸どうきがやむと、大分考え方が明るくなる。
 その時、門垣根の外から、たえな尺八の音が静かに訪れてきた。

 尺八の呂々りょりょはいつまでもかどを立ち去らない。
 源内は、耳うるさくなったように、薬研の手も止めずに、
「おとおンなさい」と断った。
 在方ざいかた徘徊はいかいする悪い虚無僧の中には、断れば断るほど下手へたな尺八を吹き立てて、揚句あげくの果てには強請ゆすりだすような者もあるが、今のは源内の一言ひとことでピッタリ止んだ。
 いい按配あんばい、蜂須賀家の探りでもないらしい、行ってしまったな――と思っていると、また同じ所から、
「少しものを訊ねたいが」という声がする。
 源内は、うんざりした顔で、
「なんですか」
「こちらに住まわれているのは、もしや平賀殿と申されはすまいか。間違ったらご容赦ようしゃにあずかりたい」
「いかにも、源内ともうす医家でござるが……?」
「おう、やっとたずね当てましたな」と虚無僧の者、木戸がある訳でもないので、垣の門から、ズッとそこへ入ってきた。
「どなた? ……」医家の尊厳を保つために、机の前へ帰って、片肘かたひじを乗せ、「ご病気でござるか、て進ぜよう、さあお上がりなされ」ととぼけている。
「いや、薬餌やくじを求めに伺った者ではございませぬ。拙者は法月弦之丞のりづきげんのじょうと申す者――」
「待たっしゃい。言葉も江戸のようであるし……法月とは聞いたような」
麹町こうじまち住居すまいいたす法月一学のせがれ。江戸ではかねて御高名を承っておりましたが、お目にかかるのは初めてにござります」
「ほほう……麹町の法月一学殿といえば、大番頭おおばんがしらをお勤めになる七千石の旗本、その御子息であらっしゃるか。ふウむ……」と少し意外な顔をしたが、「そして私に何の御用がありますかな。だいぶ尋ね廻ったようなお言葉であったが」
「実は」
 いいかけると、源内、
「まず……」と蒲団を縁先へ出して、「お掛け下さい」
「いただきます。宗法しゅうほうでござれば……」
 天蓋の会釈えしゃくをして、ゆったりと腰を下ろし、根瘤ねこぶの煙草盆に一服つけて、のどかに紫煙をくゆらしながら、徐々じょじょたずねだした話はこうである。
 禅定寺峠ぜんじょうじとうげから、万吉を江戸に立たせ、自分だけ大阪へ戻ってきた弦之丞。訊ねれば、すぐにも会えると思っていた住吉村へ行ってみて、思わぬ失望をした。
 ぬきや屋敷は、住む人もなく荒廃こうはいして、そこには、以前のようなやからも住んでいなければ、常木鴻山こうざんも源内もすでにいなかった。
 浜の者に聞きあわせると、なんでも四、五日ほど前の夜に、手が入って上げられたという話。これは理に合わないので、なおも詮索せんさくしてみた揚句、どうも蜂須賀家の者に意図を知られて、姿をくらましたらしく思われた。
 つい、一月ひとつき余りの日が空しく過ぎて、いつか秋風が立ちそめた。
 そういつまでも、鴻山こうざんの所在を探しているゆとりもない身――弦之丞は阿州屋敷あしゅうやしきへそれとなく目をつけ初めた。ところで、今日も安治川尻から何気なく波除山なみよけやますそへ来たところで、偶然、源内の住居すまいのぞいた訳であった。
 かいつまんだ話を聞いて、
「そうですか、それはもう住吉村には誰もおりますまいよ」といってから、「では、いまだに鴻山殿の居所は分りませんかな」
 それを訊ねに来た弦之丞へ向って、源内の方から訊ねている。
皆目かいもく聞き及ぶところがございませぬ。拙者は、源内殿こそご承知ではないかと存じて、お見かけ申したのをさいわいに、こうお邪魔申した訳でござるが」
「いかさま、一緒にいた私がそれを知らねばならぬ筈だ。ですがな弦之丞様、何しろワッと来られたのが真夜中で、鴻山殿が浜から小舟に飛び乗ったのは見ましたが、それから先はお互いにちりぢりばらばら……もっとも、この源内はあなた方のもくろみに、何のかかわりもないのでして……」
 変なところで断りを付け加えた。するとその時、
「ご免下さいまし……」
 優しい声の訪れがする。見ると、はぎの乱るる垣根越しに白い横顔――下婢かひを連れてたたずんだのが、細かい葉の間からなまめかしい姿をチラつかせている。

「お入り」
 源内が机の側から細いあごを見せると、下婢かひを外へ残して、つつましやかに入ってきた若い女は、病家びょうかの者であろう、
「あの、先生、おさしつかえはございませんの? ……」と、弦之丞の後ろでちょっと立ちよどむ。
「なアに、かまいませんよ。別に気のおけるお客人ではない。先にちょっとて上げよう……どうだな、寝汗の工合は? 相変らず寝られない? それやいかん、グウグウ寝て、おいしいものをウンと食べて、心を明るく持つのが一番。お化粧つくりもせいぜいきれいになさるがいい、遊山ゆさんもいい、芝居も結構。こんな割のいい病気はない……だが一ついけない、男はな。いくら暇があっても、色恋だけは禁制でござるよ」
「あれ、あんな……」
「ははは、それは冗談、まずこちらへお寄んなさい」
 ここで病家をとっているのは、長崎帰りのホンの旅中りょちゅうの内職だが、源内、医業にかけてもなかなかちょくで、殊に女には当りがよい。
 まるで子供をあやすほどに優しい。人形のように前へ坐らせた。
 弦之丞は少し退さがって、その診察の手際てぎわを眺めていたが、女の後ろ形が、極めて痩せていることから眼をみはって、帯つきや肩の線や、※(「王+毒」の「毋」に代えて「母」、第3水準1-88-16)たいまいこうがいなめらかさや、桔梗ききょうの花の裂目さけめのようにくっきりしたえりえ際に、おや? ……という面持おももち
「ありがとう存じました」と、源内の前を離れた時に、女もチラと弦之丞の天蓋を正面からのぞいて、
「まア、あなたは!」
 びっくりしたような声である。
「や、およね殿であったか。最前から、どうも見たようなと思いだされておりました」
「私はまたちっとも存じませんで――」お米の頬には白粉おしろいの下から桃色の血がボッとしてきた。蝋人形ろうにんぎょうの冷たい顔にあかりえたようである。
「こんな所でお目にかかろうとは不思議なご縁でございます……私はまさかあなた様とは思いませんでしたの」言葉の辻褄つじつまを失っているのは、お米の胸に、川長で初めて会った時のことや、関の山で死のうとまでした思い出が、いっぺんにこぐらかッているのであろう。
 川長のお米にそれほど思われているとは、夢にも知らなければ、またぶりにも気づかない弦之丞は、心もち天蓋てんがいを下げて慇懃いんぎんに、
「ここでお目にかかったのをさいわいに、何よりはこの夏の頃お世話になったお礼を申し上げねばならぬ。殊に大津の半斎殿には、きついご迷惑をかけまして、蔭ながらお気の毒に存じている」
「いいえ、そのご挨拶は、万吉というお人が、あれから後江戸へ行く途中に寄って下さいまして、いろいろお話も伺いました。その時の様子では、弦之丞様がまた大阪へお戻りになったとやら……実は心の中だけで、もう一度ぐらいは、キットどこかで会いはしまいかと思っておりましたら。まアほんとにこうして……」
 細々ほそぼそとした指と指を綾に組んで、前髪の蔭からじっと熱ッぽい流しを向けた。もっと人目のない所で、しみじみと話したいようなふうも溢れている。
「ではお米殿にも、あれから後に、間もなく大津より戻られたと見えますの」
「はい、叔父に厳しく叱られまして。気が進みませんけれど、こちらの先生へも通い始めました。私、ほんとにわがままなのでございますよ」
「ご病気であれば是非がない、近頃はどうでござります、少しはおよろしいか?」
「ええ……」とひとみを納めて、お米の顔は急に暗くなった。心に悲哀やひるみが湧きでる時には、争われぬ病のかげが目くぼにただよいだしてくる。
「病さえなければ――」とお米は血に渦を巻かせて考える。
「私は必ずこの人を自分のものにしてみせるのだけれど!」
 ほんとにそれだけの熱がある。男というものの体験がある。病さえなければ、お米の性格はもッと強く恋にぶつかって行くだろう。それを、おのれも知る癆咳ろうがいといういまわしい病が邪魔をする時、お米は、その悪魔を飼っている自分の血とのろわれた身を亡ぼしてやりたくなる。
 床の間の薬筥くすりばこに向って、真鍮しんちゅうさじにゅう鉢に鳴らしていた源内は、様子を振りかえって、
「ははあ……」と、お米の容体をてしまった。

 源内の手前、永居もできず、お米は調薬ちょうやくを渡されると、是非なく帰り支度をして、弦之丞に心を残しながらそこを出ていった。
「若い身なのに、癆咳ろうがいであるそうな。不憫ふびんな者でございますのう」
 その後で、弦之丞と源内の話。
「あまりきれい過ぎますよ、あの縹緻きりょうがな」
「ご丹精たんせいで、なおるお見込がござろうか」
「イヤ、なおりませんな。叔父御おじごにせがまれて薬は上げているものの、不治の病、ことにあの年頃――男恋しい盛りですからの。蛇精じゃせい亀血きけつすすりましても、それ、一方の煩悩ぼんのうあおるにすぎません。まことに可哀そうなもので」
 とまた、門口で弦之丞の名を呼ぶ者がある。
 出てみると、お米の召し連れていた女中のお藤、弦之丞の手へ蝶結びにした裸文はだかぶみを渡すと、返辞も待たずに小走りに戻ってしまう。
 何気なくいてみると、そこらの茶店で、筆や紙を借りての走り書であろう。文辞ぶんじもそそくさと、是非お話ししたいことがある、待っています、九条村の渡舟わたしの前まで来て下さい。とある。
 弦之丞はいささか当惑とうわくおももち。
 お米の方では、思いがけないよいおりを、どうかしてのがすまいと、九条安治川の渡舟小屋のわきに立って、秋陽にれる川波をまぶしそうにしてたたずんでいた。
「そして弦之丞様は、キット来るとおっしゃったかい?」
 裸文を手渡して、そこへ帰ってきた女中のお藤に、こう念をおすと、お藤は自分の恋のように顔をあからめる。
「いいえ、そこまでは伺ってまいりません。だって、奥で源内様が、聞いておいでになるのですもの」
「気がきかないねえ、お医者様にはかかわりのないことじゃないか」
「けれど、やきもきなさいますな、きっとおいでになりますよ。お嬢様のようなご縹緻きりょうよしに思われて、心を動かさないお人なら、よッぽどどうかしております」
「あら、よいほどにお世辞をお言い……」
 たもとでフワリとった時、楊柳かわやなぎの黄色い枯葉がピラピラと舞って光る。
 川口へ下ってゆく、高瀬舟や番所船、十反帆たんぼの影などが、ゆるゆると流れてゆく合間に、向う岸の四貫島しかんじまの森から白い鳥群が粉のように飛び立つのが見えた。
「もしやあなたは、川長の御寮人ごりょうにん様ではございませんか」
 渡舟わたし待ちの前から、こう話しかけてきた中年増ちゅうどしまがある。身装みなりは地味、世帯やつれの影もあるが、腰をかがめた時下げた髪に、珊瑚さんごの五分だまが目につくほどないい土佐とさだった。
「おや、お前は元、私の家の仲居をしていた、おきちじゃなかったかえ?」
「さようでございます、ずいぶん久しくお米様のお顔も見ませんでしたが、大そうご成人なさいましたこと」
「お前も、家にいた頃と違って、すッかり堅気かたぎのお内儀ないぎらしくなりましたね」
「いいえ、気苦労ばかりしているので、なりにもふりにも構えなくなりました」
「そして今でも、家を出た時の人と、一緒に暮らしておいでなの?」
「はい、添い遂げているという名ばかりで……」
「それが一番倖せじゃないか。私なんか、他人ひとにはうらやまれるような身の上でも……」とツイ自身へれるのをくちごもって「結構だよ、そういう苦労はね。で、ご亭主さんは、何を稼業にしているのかい?」
 お吉は、言いにくそうにうつむいて、
「いやな渡世とせいで、十手持ちなのでございますが、かんじんな東のお奉行所の御用はおッぽり放しで、この二月ふたつき程前に、プイと家を出ましたっきり、生きたものやら死んだものやら、何の便りもございません。それでこうして、四貫島の観音様へ、毎日おまいりしているのですが、お米様、ほんとに、人の女房となってみると、いうにいえない苦労があるものでございますよ」
二月ふたつきも戻らないでは、さぞ心配なことだろうね」
「もうもう、どんなに思うた男でも、目明しの女房になど、決してなるものではございませぬ」
「いつも命がけの渡世だからね。そして、お前のご亭主は、何という人だったかしら?」
「万吉と申しまして、仲間なかま受けだけはよい人なのでございますが」
「あ、万吉? その人ならツイこのあいだ、私が大津で逢ったばかり」
「えっ、お米様、じゃ万吉は、あの、無事でおりましたか……」お吉は、観世音かんぜおん霊験れいげんにでも会ったように胸をおどらせて問いつめた。
 ピタ――と草履の音が止った。四、五間先の砂利置場の蔭、そこから、じっとこっちをみつめたのは、この辺りに下屋敷のある蜂須賀家の森啓之助けいのすけ――例の素迅すばや仲間ちゅうげん宅助たくすけを後ろにつれて。

「出るよウ」
 船頭の声にかれて、渡舟わたし桟橋かけはしへドタドタと人の跫音あしおとがなだれていった。
 お米との立ち話で、良人おっとの万吉が大津の半斎はんさいの所へ立ち寄り、その足で江戸へ向ったと聞いたお吉は、わずかの消息にでも、ほっとした嬉しさを感じたが、渡舟の出るのに気忙きぜわしく、
「じゃお米様、いずれまたゆるりとお目にかかります」
 いそいそと駈けだして、船の上からもう一度頭を下げた。
「お嬢様、こッちへ隠れておいでなさいませ」
「あれ、なぜだい、お藤」
「でも、これで渡舟をやり過ごすのが、幾度目だか分りませんもの。船頭や待ち合せていた者も、変に思って、私たちを見ているじゃありませんか」
「そういえば弦之丞げんのじょう様、どうしたのだろうね」
「そろそろ日が暮れてまいりますのに、男という者は、水を向けるとこの通り、わざとじらすんでございますよ」
「じらされるのならいいけれど、もしかして、私を嫌っているのではないかしら、病気のこともご存じだからね」
「いやですよ、またカーッとして、短気なことをなすっては」
「ああ、日が暮れる。お藤や……どうかしておくれなねえ……」
「だって、困ってしまうじゃありませんか。こうなると弦之丞様も憎らしい。では、私がもう一度、源内様の所へ戻って、いるか、いないか見てまいりましょう」
「じゃ、早くにね……」と、お米が振りかえると、女中のお藤は、もう小刻こきざみの足になって、砂利場の側を駈けだしていた。
 と一緒に、石置場の蔭から、急に仲間態ちゅうげんていの男が立って、ドーンとお藤にぶつかって行った。
「あぶない……」
 こっちでお米が声を筒抜つつぬかせた。――ハッと思って眼をみはるとお藤の体はグッタリして、仲間ちゅうげんの脇の下にい込まれ、声も得立えたてずズルズルと川縁かわべりへ。
「あれッ! お藤や、お藤や!」
 夢中で走りだしたお米の眼の前にザブーンとすごい波音がして、雨のような水玉が、おかの上まで飛び散ってきた。
「助けて下さい――召使が突き落された! あれ! 流れて行きます。誰か来て――ッ」必死に人を呼ぶその口へ、何者か、大きなふたしてしまった。そして羽交締はがいじめに強く抱きすくめた。お米の指が離そうともがく、抱えた両手の力は強い。折も悪く、早や逢魔おうまどきに近い九条づつみ、人通りも絶えている。
「騒いではならぬ。こりゃお米殿、案じた者ではないによって、少しの間静かにしているがよい」
「オ! その声は、ケ、啓之助けいのすけ様……」
「手を離して進ぜるが、逃げてはならぬぞ。逃げる影へは思わず刀が追いかけたがる」
「く、苦しい……」
「宅助、すまぬが、しばらくの間、向うのどてに立って、人通りを見張っていてくれ」
せつのうござんす……も、森様、逃げは致しませぬから、この、この乳の上の手を早く離して下さいませ」
「そうだ、そなたの病気はここにあったの。うッかり肺臓へ力を入れて、さだめし胸が苦しかったであろう。ゆるしてくれ。これというのも一念にそちを想う煩悩盲目ぼんのうもうもく、悪い心でしたのではない」
「エエ、何ぼ何でも、罪もない女中を河へ突き落して、その上こんなご無態むたいは、あんまりでございます」
「そううらむのはもっともだが、いよいよ阿波への帰国も近く、待てど暮らせどそなたからの返事はなし。ここで見かけたをさいわいに、是が非でもあの話を取り決めたいと思うたからじゃ」
「……とおっしゃるのは?」
「もうそなたの胸には考えがついている筈!」
「阿波へ連れて行こうと、いつぞやおっしゃったあのことでございますか」
「折もよし、四、五日のうちに太守の御帰国まんじ丸の船出! どうにでも隠す工夫をしてそなたを連れてゆく所存。もう否応いやおうはあるまいのう……」

 森啓之助が手離すとともに、お米の体は朽木倒くちきだおれに、砂利場の山へうっしてしまった。
「どうした?」
 寄ってみると、ひどく息が切ないらしい。肺臓のあえぎに背中は大きく波打っている。しかし一度はさおになった顔色が、その時急に、反動的な紅潮こうちょうをさし、針で突けば血の吹きそうな耳朶みみたぶをしている。
「拙者が、阿波へ連れて行こうというのは、恋ばかりではない。そなたの苦しむ癆咳ろうがいにも、あのしおの香や山の気が、どんな薬よりもくであろう――、そう思うてすすめるのじゃ」
「…………」
「な、お米、今が心の決め所じゃ、よもやいやではあるまいの」
「……森様……」
「うむ、得心とくしんがまいったか」
「どうしても私には、阿波へ渡る気になれませぬ」
「あの鳴門のうずの海、越えぬ者は怖ろしがる。だが、恋もそれに同じこと、渡ってみれば苦もないのじゃ。ましてや千石積ごくづみのお関船せきぶね、渦に巻かるるおそれもなし、楽しい彼岸ひがんは一夜のうちに迎えてくれる」
「そんな訳ではなく、どうしても」
「な、何ッ」ふるえを帯びた啓之助の声。
「いやだというのか!」お米の耳をつんざいた。
「…………」
「うーむ、ではとくからの量見りょうけんであろう。なぜ、いやとあらば早くから、きッぱりといいきらぬッ!」
「お察しなされて下さいませ……素気すげないことをいいきれぬ、弱い客商売の娘でございます」
「だまれッ。客商売じゃと申すいいわけは、つまり、いろは茶屋の売女ばいた同様に、この啓之助を手玉に取ったという意味かッ! よしッ、拙者もお船手の森啓之助、腕にかけてもつれてゆく。オオ、きッと阿波へつれてまいるぞ」
「あ、ご無態むたいな……」
「逃してなろうか。宅助、宅助ッ、手を貸せい!」
 きぬを裂くような悲鳴が流れた。
 風が出た――いつかドップリと深い宵闇。
 大川の三角洲さんかくす、四貫島、うす寒い川風が、蕭々しょうしょうあしを鳴らしてやまぬ。
 びんを吹かせて走りだしたのは森啓之助。その小脇に引っ抱えられたお米は、あわれ悶絶もんぜつ猿轡さるぐつわの無残な姿が、もがく力をさえ失って、ダラリと白い手を垂らしたまま……。
 どてを下りて市岡新田いちおかしんでん、耕地の闇を四、五町走ると、道はふたたび大川のへ出て、そこに一そう高瀬舟たかせぶね
「旦那、わしの肩へお貸しなさい」
「ウム、さすがに疲れた……よいか、水へ落すなよ」
「生人形のようなもの、軽いもんでさ」
「よし、船は拙者が抑えている」
「おッと!」
 お米を肩に引っかついで、仲間ちゅうげんの宅助、ぽんと舟へ飛び移った。
 続いて啓之助。
 グンとさおを押すと、舟底をザラザラと折れあしが撫でて、二つばかりみよしが廻った。
 藁箒わらぼうきを取って、櫓臍ろべそ湿しめりをくれた宅助、ツーウと半町ほど流れにまかした所から、向う河岸がし春日出かすがでの、宏大なやかたいらかをグッと睨んで、
「旦那、お長屋ながやの方じゃありますまいね」
「違う!」
「じゃお船蔵ふなぐら?」
「水門へ着けろ」
「目付がひかえておりますぜ」
「まずいな」
「生きものですから、バレた日には困りまさ」
「うむ……お下屋敷へはなお持ち込めぬし……」
「女一人のために、家断絶いえだんぜつなんざ、ましゃくに合いません」
「意地だ、どこかへ着けろ」
「と、しますと、六軒家けんやの森ですね」
「お船蔵ふなぐらの外にあたるではないか」
「白状しますが、実は、仲間ちゅうげん部屋や船番ふなばんしたが、こッそり夜遊びに出る抜け道が一つあるんで」
「よしッ、そこへやれ」
合点がってんです!」意気込んだ宅助、三角を右に見て、腕ッ限りグングンとたわめる。
 この一伍一什いちぶしじゅうを、源内の所から帰りがけに、ふと見かけてつけて来たのは、法月弦之丞のりづきげんのじょうであった。やや暫し、あしの洲に半身はんしんを没して、じっと行手を見定めていたが、何思ったか、俄かに芦をき分けて走りだした。

 あしの深みに隠されて、とまをかぶった一そう軽舸はしけがある。ザワザワと掻き分けてきた弦之丞、苫をはねのけてそれへび移り、早くも砂を崩して川底から離れだした。
 退汐時しおどき水脚みずあしはやいこと、満々たる大河へのぞんで、舟は見る間に流し――。
 彼方あなた川面かわづらを水明りにかしてみると、さきにおかを離れた啓之助の舟、櫓韻ろいんかすかに、今しも三角洲の先からへさきを曲げて、春日出かすがでの岸へと真一文字にぎ急いで行く。
「おお、案にたがわず……だが女をかどわかして、どこから屋敷内へ運びこむつもり? ……どうして阿波へつれ行くつもり? うむ、ことによると阿州屋敷にも隠し道が」
 流れに任せた軽舸の中では、法月弦之丞の目と手足しゅそく、その時怖ろしく迅速に働いていた。
 まず先に、あごひもを解いて、かなぐり捨てた天蓋てんがい、ヒラ――と河へほうり投げた。
 ねずみ木綿の手甲脚絆てっこうきゃはんも、一瞬のきほぐし、斜めにかけた袈裟掛絡けさけらく、胸に下げた三衣袋さんいぶくろ、すべて手早くはずしてしまうと、次には平絎ひらぐけの帯、白の宗服しゅうふく、そッくりそこへ脱ぎ捨てる。
 と、思うと。
 かねてから三衣袋にひそませておいた黒奉書くろぼうしょあわせ一枚、風をはらませてフワリと身にまとい、目立たぬ色の膝行袴たっつけりりしくうがち、船底の板子を二、三枚はねのけた。
 取りだしたのは藁苞わらづとである、グイとしごいて、苞からむきだされたのは、蝋色鞘ろいろざやなめらかな大小。
 蜂須賀家の下屋敷を探る上に、これらのことは、くから用意のあったこと。かくて、軽快な武士姿と変った弦之丞は、櫓仕立ろじたてをしてグングンと先の船を慕い始めた。
 一方は、森啓之助もりけいのすけ。そんな者がつけてくるとは夢にも知らない。
 舟は矢の如く安治川を横切って春日出岸、蜂須賀家のお船蔵ふなぐらや下屋敷の下をさかのぼり、六軒家のくら藪岸やぶぎしへ着いた。
「さ、旦那、女を下から抱き上げて下さい」
 仲間ちゅうげんの宅助は、先へ這い上がって両手を伸ばした。闇にもえんな姿がズルズルと引きずり上げられる。
 川長のおよねは、猿轡さるぐつわをかけられてやぶの中に横伏せとなったまま、もがき疲れたか、はぎあらわにグッタリとしていた。
 もしかして、こときれてはたまなしだぞ、と啓之助、そっと猿轡へ手をやってみたが、大丈夫、ぬるい涙が指先へ触れた。
「宅助、そちのいった抜け道とはどこか」
「向うに見える森を抜けると、お屋敷ざかい高塀たかべいがあります。そのどんづまりの藪畳やぶだたみで」
「家中の者の眼にれるようなことはあるまいな」
「さっきも申し上げた通り、仲間ちゅうげん部屋の者が夜遊びに出るだけで、めったにお見廻りが来る所じゃありません」
「そうか」
「ところで女は、どこへ押し込んでおくおつもりですかい」
「お船蔵の綱部屋はどうじゃ。あの部屋のかぎは拙者が預り役だによって、余人に開けられるおそれもない」
「なるほど、そいつあいい所へお気がつきました。綱部屋へほうり込んでおけば、いざお関船が出るっていう場合にも、ほかの荷物にまぎらわして、まんじ丸の船底へ積んでしまうのは、何の造作ぞうさもございません」
「なにしろ、ここ三、四日がかんじんだ。無事に阿波へ着いた上は、幾らでも褒美ほうびをつかわすから、ずいぶん骨を折ってくれ」
「ようがすとも!」宅助は再びお米を肩にかけてドンドン走り出した。如法闇夜にょほうあんやふくろの森は、たちまち、その跫音あしおとと三人の影を吸ってしまった。
 と――安治川の中ほどには、弦之丞の軽舸はしけが、ギッギッとこっちへ向っている。
 さかのぼるので舟脚ふなあしが遅い、おもてかすめる飛沫しぶきの霧! 息づまりそうな川風に鬢髪びんぱつが立つ。
「おお、六軒家の藪岸へつけたな!」弦之丞は、さらに必死と漕ぎだしたが、岸が近づくに従って、思わず櫓音ろおとぬすませた。
 蜂須賀家の船蔵ふなぐらが、すぐ目の前に横たわっているからだ。百本ぐいさくが見え、掘割が見え水門が見える。乱松らんしょうの間から高くそびえているのは汐見櫓しおみやぐら、番所のがチラチラと水に赤い影をらせ、不寝ねずの番が見張っている。
 そこから続いて川下へ数丁、塀囲へいがこいの別廓べっかくをなして、宏壮な棟を望ませている所は、阿波守重喜しげよしが大阪表の別荘――いわゆる安治川のお下屋敷。ここ須臾しゅゆの間に、法月弦之丞が、探りのまなこをつけ初めた目標の建物である。

 六軒家の梟林ふくろばやしに、荒れはてた誓文神せいもんじんほこらがある。この辺一帯、梟や渡り鳥の巣をかけるのが多く、冬になると綿屑わたくずのようなものがどのこずえにもからまって見えるそうな。
 今は秋。林の中は芒明すすきあかりといいたいくらい、ボウと白光はっこう花叢はなむらがほのかである。
 川から上がった弦之丞、草を分けて奥へ奥へと入ってゆく。そこで、誓文神せいもんじん狐格子きつねごうしをふり仰いで、はてな! と少し立ち迷った。
「たしかにこの辺へ来た筈だが?」
 森啓之助らの姿を、ここまでつけてきたところで、皆目見当がつかなくなってしまった。と――狐格子の前に、何やら光る物が落ちているのに眼を止めた。
 拾ってみると、なめらかな※(「王+毒」の「毋」に代えて「母」、第3水準1-88-16)たいまいこうがい。お米のものと判定するよりほかはない。
「あ! ことによると」と誓文神せいもんじんの狐格子をポンと押してのぞきこんだ。
 はたして、その中は抜け道の口であった。
 ほこらの内は床板ゆかいたもなく洞然とうぜんとして、六尺ばかり掘り下げてある。そこを下りて、しばらく横へ歩いて行くと、案のごとく、仲間部屋ちゅうげんべやの者が博奕ばくちや夜遊びに出入りする隠し道、弦之丞は、まんまと蜂須賀家の囲い内へ出た。
「しめた!」と胸がおどる。
 物かげにひそんで、一応辺りを眺め廻すと、船手組ふなてぐみのお長屋や役宅の棟がかぎの手なりに建てならび、阿波守の住む下屋敷の方へも、ここからは何の障壁しょうへきもなく、庭つづきで行かれそうだ。
「いよいよ重喜しげよしの身辺に近づいて見ることができた。これも銀五郎の導きであろう」
 弦之丞は、四囲鉄壁のこの屋敷内へ、あまりやすやすと入れたことを奇蹟に思った。
 この隠し道を知ったとたんに、かれの心は、片恋のお米を不憫ふびんと思うことすら忘れていた。燃えているのは功名心、探秘心たんぴしん、それはお千絵ちえ様のためにである。
 広い屋敷の中はシンと寝静まっていた。弦之丞は、物の影から影へ移って、下屋敷へ近づこうとしたが、道に迷ったものか、思わぬ所へ出て、思わぬ物の影を見上げた。
 それは、安治川から水を引いて水門のうちへ諸船をつないでおくお船蔵ふなぐら――。荷船、脇船わきぶね色塗いろぬり伊達小早だてこはやなどが七、八そうみえる中に、群をぬいて大きな一艘のお関船せきぶねは阿波の用船千石づみまんじ丸。
 寛永このかた、五百石以上の船は、幕府の禁令なので、表積おもてづみは半分に称しているが、長さ十八けん、幅七間、二十四反帆たんぼ、二十四挺櫓ちょうろ、朱の欄干を立てめぐらし、金ちりばめの金具かなぐ屋形やかた結構けっこうさ、二十五万石の太守のお座船だけあって、壮麗目を奪うばかりである。
「さすがに裕福な阿波の楼船ろうせんだけあって、将軍家の安宅丸あたけまるにも劣らぬものだ」と、弦之丞も思わず物蔭からしばらく見とれていたものだった。
 そして、何かの物音に、ひょいと後ろをふりかえると一軒の綱倉つなぐらがある様子。
 金網を張った白壁の切窓きりまどに、かすかな灯影ほかげがゆらめいていたので、何心なくのぞいてみると、さっきの二人が、ここへ入り込んでいた。
「やいッ」という声は仲間の宅助たくすけ
 蝋燭ろうそく裸火はだかびを前に置いて、
「これほど俺や啓之助様が、ことを分けての親切なのに、いい加減駄々をこねやがれ。旦那はとにかく、この宅助が承知しねえぞ」
 優しい言葉に乗らないので、今度はおどしにかかっているらしい。
 すすり泣きの声がする……。お米の姿が裸火にてらされていた。蛇のようにとぐろをまいている船綱ふなづなのなかに身を埋めて、
「嫌です、嫌です! 阿波へなんか……」
「ちぇッ」と、宅助は舌を鳴らして、「旦那、とてもこいつアあきらめものだ。まんじ丸が出るまでに、お目付へ知られては一大事、いっそのこと今のうちにバッサリって、煩悩ぼんのうの根をっておしまいなすったほうがようがすぜ」
 ただし、脅かしに――と目まぜに知らせていうと、森啓之助も心得ている。大刀のさやを払って、お米の頬へさきを突きつけた。
「あ、不愍ふびんな……」と外にいた弦之丞、助けてやる工夫くふうはないかと、綱倉の戸へ抜足ぬきあしさしてゆくとまた、それに添ってよれてゆく一つの影。
 不寝ねずの番の武士であろう。ジ――と隙をうかがって、
「うぬ! 曲者くせものッ」
 気殺きさつの声と早技はやわざ
 弦之丞の脾腹ひばらを狙って、りゅうッと突きだした手槍のケラ首! 対手あいてをはずしたか、ぶすッと白壁へ刺し込んだなと思うと、法月弦之丞の姿は、時すでにそこにあらず、どう切られたものか藩士のさむらい、槍をつかんだまま肩口かたぐち柘榴ざくろなりに割れている……。

 パチッ……と一せき。いい音だ。
 かやの碁盤へ那智黒なちぐろの石。
 ここでしばらくがあろう、というふうに、竹屋三位卿有村たけやさんみきょうありむら扇子せんすをとってひじをのせ、
「まず、ごゆるり……」と、余裕の綽々しゃくしゃくさをみせたものである。
 きょくに対している人は阿波守重喜しげよし
「なんの」
 といったが、指に挟んでいる朝鮮貝のしろ一石、盤面の宙をさまようことやや久しく……。
 パチリ! やがての音である。
「いよいよ本丸火の手と見えました」
猪口才ちょこざい
 白、電瞬でんしゅんに打ってゆく。
「こうまいる」
「はて、きたなき敵でありつるわよ」
孫子そんし九変の伏手ふせてと申し、すなわち兵法の一手でござる」
「あな笑止しょうし、苦しい言い訳」
 パチリ、パチリ、たちまち戦雲漠々ばくばくとしてきた。
 碁盤碁石は立派だが、阿波守も有村卿も、やはり衆にもれぬザル組でおわすらしい。
 しかし、負けぬ気の殿と、慷慨家こうがいかで壮年の公卿くげ様との対局は、わざを別にして興のある碁敵ごがたきだ。
 ここは下屋敷の一部、名づけて隣帆亭りんぱんていという茶席。
 初更しょこうながら深沈とした奥庭、秋草や叢竹むらたけが、程よく配られた数寄屋すきやの一亭に、古風な短檠たんけいに灯をともしてパチリ、パチリ、と闘石とうせきの音……そして、あたりは雨かとばかりきすだく虫。
 その虫の音がフトやむと、
「殿……」
 庭先の踏石へ、一人の家臣がうずくまった。
「何じゃ?」
 阿波守は盤面から目も放たない。
明日あすお出船に相成ります、まんじ丸のことについて、ちと御意ぎょいを得たいと存じまして」
「何じゃと申すに」
「船中お屋形の御調度の物」
「ウム」パチリ! と打って、「ウム……」後の手を考えている。
「例年の通りにてよろしゅうござりましょうか」
啓之助けいのすけに任せておけ、森に」
「は、京都よりのお荷物は、あれだけでの物はござりませぬか」
「ない」
「それから、汐の都合で、まんじ丸は明日のあかつき纜綱ともづなを解きまする。これは森様よりのお言葉、殿にも何かのお支度、今宵のうちに願わしゅう存じます」
「ウム……。分っている」
 家来の者が、礼をして立ち去りかけると、
「あ、待て!」と呼んで、阿波守初めて短檠たんけいの光を顔にうけてこちらを向いた。
「京都よりおしのびの方達はまだ見えぬか」
「は、まだ御着邸なさりませぬ」
「申しつけてはあるが、見えられたらすぐここへ」
「心得ております」
 しばらくするとまた虫の音と碁石ごいしの音。
 竹屋三位卿さんみきょうは、年まだ十八の頃、かの宝暦変ほうれきへんの陰謀にくみして、徳川討つべしを熱叫ねっきょうしたため、真ッ先に幕府から睨まれた公卿くげである。けれど時の桃園帝ももぞのていからは、いたくたのもしくおぼされていた一人である。
 他の十七卿の堂上どうじょうが、問罪謹慎もんざいきんしんをうけるはめとなるや、有村ありむら忽然こつぜんと姿を隠した。
 自殺したという説――その頃、もっぱらであった。
「幕府などの手に、自由を縛られて堪るものか」
 という気概の有村、自殺などをする筈がない。コッソリ蜂須賀家の奥に隠れ、長々と寝たり起きたりして垂加流すいかりゅうの神学書、孫子呉起そんしごきの兵書などを耽読たんどくしていた。
 重喜しげよしとよく議論もやる。
 兵学、弓術、馬術、邸内でできることなら何にでも対手あいてになる。居候のくせにして三位卿さんみきょう有村、妥協が嫌いだから時々口舌こうぜつ火を発し、ひいては、ただちに、幕府討つべし! ということになる。これには阿波守もてこずるらしい。
 一兵一の蓄えもなく、居候をしている素寒貧すかんぴん若公卿わかくげには、どんな過激な議論も吐けようけれど、重喜には、譜代ふだいの臣、阿波二十五万石の足枷あしかせがある。そう、滅多に動けたものではない。
 たとえ、尊王の赤心、反徳川の意気、胸に炎々たるものがあっても、下手なことをしたひには、藩祖正勝はんそまさかつ以来の渭之津いのつの城の白壁に、矢玉やだま煙硝玉えんしょうだまの穴があくはめとなる。
「殿! おしのびのご来客、ただ今お着きになりました」
 さっきの家臣がらせてきた。

 庭伝いに、数寄屋へ通った客なる人、京浪人と称しているが、まことは七条左馬頭しちじょうさまのかみ梅渓右少将うめたにうしょうしょう交野左京太夫かたのさきょうだゆうの三卿で、歴々たる公卿たちである。
 一様にしのびの目立たぬ身装みなり、茶室であるから仰山ぎょうさんな会釈はなく、短檠たんけいの灯もほの揺らがぬ程、もの静かに席へつく。
「お待ちうけ申しておッた」
 盤面の石をサラサラといて阿波守が座に直るとについて、
「ずいぶん遅いお見えでありました」と、居候いそうろうの竹屋三位卿さんみきょう主人顔して不平をいう。
「例の京町奉行の目が、うるさく見張っておりますために……」右少将がおとなしく言い訳する。
 七条左馬頭、改まって、
阿波あわ侯におかれては、いよいよ明日、まんじ丸でお国表へお引揚げなさる由、何やら盟主めいしゅを失うような寂寥せきりょうを覚えまする」
「されば、そのほうが、策を得たものではないかと存じまして」
「無論、異議なくよろしゅうござりましょう」と、賛同したのは交野卿かたのきょう。語を次いで「宝暦の大変より、早八年の星霜を経ておりますゆえ、幕府そのものには、近頃油断のふうも見えてまいりましたが、かえって、天満組てんまぐみの一部の者や、また江戸方の隠密おんみつ中に、執念しゅうねく目をつけているやからがありますとやら」
「あるどころか、彼らの暗中飛躍こそ怖るべきで――」と竹屋三位が、這個しゃこの消息通をもって任じながら、
「第一に、吾々たちに御当家といううしだてのあることを観破した者は、江戸方の隠密甲賀世阿弥よあみ。これは、御本国剣山つるぎさん山牢やまろうに、終身押しこめてありますゆえまず安心。ところがここにまた、天満てんま浪人の常木鴻山こうざんたわら一八郎などと申す者あって、江戸の隠密どもと結託けったくなし、御当家の内秘を探りにかかっております」
「すりゃ大事おおごと、また宝暦のてつをふむことになろうも知れぬ……」右少将は色をかえた。
「しかし、御安心なさるがよろしい」
 竹屋三位卿、わが手功てがらのように、
「鴻山は住吉村から追っ払い、また一八郎はすみやかに召し捕りました。やがてこれも剣山へ送って、世阿弥同様、終身間者牢かんじゃろうの住人となりますわけで……」
「やれ、それは何よりな」
「水も洩らしは致しませぬ。御明敏な重喜公、それに、不肖ふしょう三位有村が帷幕いばくにあっていたしますこと」
「ははははは……」と、それまで黙っていた阿波守は、いじけずにして濶達かったつで、若々しい居候の言葉が気に入ったらしく哄笑こうしょうした。そしてすぐに真顔になり、
余事よじはおいて三卿の方々、かねて、諸方へつかわしました密使の模様は?」
「即答、または評議中、御返事まちまちではありますが、今日まで内諾ないだくあった諸国諸侯の御連名……」と年長の交野かたの左京太夫、ふところを探って細長い包みを解き、帛紗ふくさを敷いてその上へ、スラリと一巻の連名状を繰りひろげた。
「三位殿、御苦労ながら」
 阿波守が目くばせすると、
「は」立ってあたりに人なきやをたしかめ、縁の端に坐りなおして見張役となる。
 世が世なら竹屋三位卿さんみきょうも、九重ここのえ歌会うたげ王廟おうびょう政治まつりに参じる身分、まさか、見張番まで勤めるのでもあるまいが、朝廷の御衰微ごすいび今より甚しきはなく、公卿くげの無視さるること幕府の小役人にも劣ってきた今の世が世である。是非がない時勢なのである。
食客しょっかくだからと思えばしゃくにさわるが、これも一天の君の御為おんためと思えば……」
 三位卿は、かこち顔な見張の端居はしい
「おお……」と乗りだして扇子せんすをつき、連名状へ眼を落した阿波守、三卿とともに息をのんで、ズーと血判をたどりながら、
「盟主、徳大寺公城とくだいじきんたか公!」固唾かたずをのんでつぶやいた。
「堂上お味方二十七、事いよいよに迫りますれば、京方すべてを含みます」と左馬頭がそれに応じる。
「宇治におわ竹内式部たけのうちしきぶ先生!」
軍師ぐんしと仰ぎますつもり」
「江戸表は山県大弐やまがただいに、まッ先に火を放って、箱根のけんに王軍を待つの計か」
「しかとちょうじあわせてあります」
「して、大義に呼応の諸大名は?」
「筆頭!」交野かたの卿、扇子のかなめを文字について、
蜂須賀阿波守重喜はちすかあわのかみしげよし公。すなわち御当家」
「ウム!」
「肥前、久留米の有馬忠可ありまただよし公」
「オオ」
大洲おおずの加藤家、柳川やながわの立花家」
「ウム」
「佐賀の鍋島なべしま、熊本の細川、濃州八幡のうしゅうやわたの金森家……」と言いかけた時、
「やッ、怪しい気配!」見張の三位卿が手を振った。

 怪しい者! と聞いて、三卿の面々、あわただしく連名状を巻き納めた。
 阿波守もきっとなる。
 短檠たんけいの灯がボッといぶって、一まつの不安がしょくをかすめ、なんとなくいやな空気がみちた。
「誰だッ――、何者じゃ!」
 若気わかぎな三位卿は、もう庭手へ降りて木立の闇へどなっていた。
 ザワッと奥の方で樹木が揺れた、つづいて人の足音がする――と思うと、不意に姿を見せた一人の武士、六尺棒をい込んで、血眼になりながらバラバラと飛んできた。
「あッ、止まれ」
「はっ」
「控えろ! 阿波守殿がおいでの場所じゃ」
 屋敷の者らしいので、三位卿がズカズカ寄ってみると、六尺棒を持った男は、数寄屋のうちにいる歴々の姿をみて、びっくりしたように両手をついた。
「無礼なやつめ!」有村ありむらは叱りとばして、
「今宵は、このちんの近くへ、何人なんぴとたりとも近よるなと申しつけてあるのに」
「はっ、私は、その庭番の者にござります」
「いよいよ不埒ふらちではないか、警固すべき者自身が、お席を騒がしては何もならぬ」
「重々恐れ入りました」
退さがれ退れ。御前へはが取りなしてくれる」
「しかし、なおもう一応、お庭うちをあらためませねば、そのお役目が立ちませぬので」
「何故※(感嘆符疑問符、1-8-78)
「先頃から、奥牢へ入れてありますたわら一八郎という天満てんま浪人」
「ウム、大津より差し立てきた一八郎。それがどうした」
「いや、その浪人は牢舎中も、きわめて神妙しんみょうに致しておりますが、外よりして、しきりに牢へ近づこうとする者がござります」
「奇怪なことを申す、すりゃまったくか」
「今も今とて、何気なく見廻りましたところ、吾々の眼をぬすんで、怪しい影が奥牢の戸に近づき、何やら声をかけようとしておりますゆえ、思わず、待てッ! ときびしく追いかけましたが、たちまち影を見失い、ツイ御座所近くになるのも忘れて、この不始末をつかまつりました」
「役目の忠実、こりゃとがめる筋はなかろう」と、三位卿は数寄屋の縁から阿波守のほうへ向いて、
「お聞き及びの通り。どうやら、この邸内にも、一八郎へ気脈を通じる者がある様子でござりますぞ」
「心得ぬことじゃ。番士ばんし!」
「はッ」
「すすめ、もっと近く」
「は」六尺棒を置いて夜番の侍、おそるおそるくつぬぎの前へきて、がまのようにつくばった。
「只今の申し条、いつわりはあるまいの」
「なんで! おそれ多うござります」
「では訊くが、しきりに俵一八郎の身に近づこうとする者は、一体、どのような風采、また面貌おもざしなど、しかと見届けておいたかどうじゃ」
「手抜かりのおとがめある節は、申し開きもござりませぬが、さきの夜も今夜も、チラと見た影を追い失いましたばかりで、その辺、残念ながら突き止めておりませぬ」
「そうか……」と阿波守の顔は暗い。三卿の人々も首をひねって聞いていた。
「しかし、ただ一つあきらかなことがござります」
「フム、それは?」
曲者くせものはたしかに女であるということ――。これは夜目ながら見受けました」
「なにッ?」
 阿波守は眸をキラリとさせて、
「その怪しい奴が女じゃとは、ますます不思議な沙汰さた、さては、女中どもの中に、一八郎と同腹どうふくのやつが住み込んでいるのではないか」
「にわかに申しきれませぬが、前後の様子から推しましても、やはり御邸内にいる者の所為しょいらしく考えまする」
「不覚な訳じゃ!」重喜は、それを自分に向っていった。緻密ちみつかがっておいた秘密の目を、何者かに乱されている不快がこみあげていた。
「では……」と、しばらく重苦しい考えに落ちていたが、何か一策を案じたらしく、気をかえて、
「番士!」
「はッ」
森啓之助もりけいのすけを呼べ! すぐに。そして別の広間へは、明々あかあかと燭の数をつらねて、この下屋敷の女中どもを一人残らず居並べておけ! 酒肴しゅこうの用意手早くいたせよ! よいか! 明日あすまんじ丸の船出ゆえに、別れの宴をむのである」
 晴々としていいつけた。

 白々とした粉黛ふんたいの顔に、パッと桃色の灯をうけながら、十四、五人の侍女こしもとたち、皆一つずつの燭台をささげ、闇を払って長廊下から百畳敷じょうじきの菊の間へ流れこんだ。
 まもなく阿波守重喜しげよし茶亭さていからここへ席を移し、京浪人と称する三卿を初め、食客の竹屋三位卿さんみきょうもついてくる。
 明日は船出の別れの宴、ここに大名らしい大まかな歓楽の夜となって――。
方々かたがた、心ゆくまでいましょうぞ」
 まず、阿波守から盃を上げてこういう。
「長夜の宴!」右少将が即興に答えた。
「されば、名残の宴でもある。藩祖はんそが阿波の国を賜うて以来、上府じょうふ帰国の船中では、太守を初め水夫楫主かこかんどり[#「水夫楫主かこかんどり」は底本では「水夫揖主かこかんどり」]、一滴の酒をねぶることもゆるさぬ家憲かけんでござりますゆえ」
「得たりかしこし、飲みましょう!」常に無聊ぶりょうな食客の三位卿、こういう晩は大好きである。
 阿波守もそろそろ微醺びくんをおびてきた。
「おおおうぞ、うたおうぞ」
「舞いましょう! 何なりと」
「よかろう。つづみを――」と、すぐに侍女こしもとの手から受けて、阿波守がを締めるのを、
「いけません」
 と、三位卿が横から奪った。
「小鼓はかくなん申す有村ありむら大倉流おおくらりゅうきたえを以て打ちまする。舞人まいては殿、いざ――」
「では舞おうか! 鳴門舞なるとまい!」
「一だんと見ものでござろう、阿波守殿の鳴門舞――」と、七条卿、梅渓卿うめたにきょう交野卿かたのきょう、みないい色になってやんやと興がる。
侍女こしもとどもも見ておけや」
 襖際ふすまぎわに居並んでいる奥仕おくづかえの女たち、ホホとんで珍しい殿の舞振りに眼をあつめた。
「打てや三位卿、秘蔵の小鼓撫子なでしこを――」
「あっ」と有村はかたちを正してポーン! 打ったり、撫子!
 津の名人大倉六蔵おおくらろくぞう、それには及びもないけれど、どうやら居候の芸達者。
 ポン、ポン! ……音冴ねさえをみすまして阿波守、白足袋たびの爪さき静かにすべり出る……。
「おおウ鳴門、大鳴門!」
 舞えば三卿も声について、それに合せてうたいだした。
「大――鳴門! 大鳴門!」
濁世じょくせ無限の底に鳴るウ――大鳴門! 大鳴門!」
「流せや濁世、おかせよ鳴門!」
にごり世の底に、鳴るわ鳴るわ」
いかるわ怒るわ――鳴門の渦!」
「洗えや鳴門――」
澆季ぎょうきの濁り世」
 ポーン! と三位卿、吾を忘れて、
「討てや徳川ッ」
 はッと驚いて三卿が、謡うを止めた時である。長廊下をツツツと小走りに来た近侍きんじの者。
「殿様――」と、両手をつく。
「なんじゃ!」
「おしになりました森啓之助殿」
「ウム、最前から待ちかねているのじゃ、なぜ早く姿を見せぬ?」
まんじ丸御用意のため、川口の脇船へ何かのしめしあわせにおいでになり、只今、お船蔵ふなぐらにはおいでがないそうでござります」
「なんじゃ今頃――、きゃつ、近頃どうか致している」と、舌打ちしてつぶやいたが、
「是非がない。では天堂一角を呼べッ」
「はっ」
 退こうとすると、阿波守、またあわただしく呼び止めて、
「待て待て、ここへ参るついでに、奥牢へ入れおいたたわら一八郎、庭先へ曳いてこいと申せ」
 近侍が立ち去るとともに阿波守、また朗々たる音声おんじょうで鳴門舞を舞いだした。だが、舞いながらそのまなざし、ふすまぎわに居流れている女中たちの数をスッカリ読んでいた。
 と、庭先へ動いてくる人影がみえた。
「一角、まいったか!」
 舞い納めて、阿波守がこういうと、
「はっ」天堂一角の答えがして、
「俵一八郎をここに召し連れました」
「ウム、早かった」
 強くうなずいて、さて、大きく、
「あらぬ疑惑ぎわくをもって当家の内秘をのぞかんとする天満のやせ浪人、船出の別宴によいさかなじゃ、重喜がみずから血祭りにしてくりょう! 女中おんなども、誰かある! 佩刀はかせを取れ」
 と、居流れた侍女こしもとたちを、鋭い眼で見廻した。

「お佩刀はかせ
 すぐに小姓が差し出すのを、
「ウム」と左手へ引っ提げた重喜しげよし。「その燭台しょくだいを廊下へ出して、女どももが血祭りを見物せい!」
 自慢の銘刀、ほたる信国のぶくにつかに手をかけてギラリと抜く。
「阿波殿、少し酔ってまいられたかな?」と三位有村は、に落ちない顔をして小鼓こつづみを片寄せたが、ほかの三卿は、血を見ることを珍しげに端近はしちかしとねを進めた。
 女中たちは命じられたまま、燭台の幾つかを廊下へ出して花のごとく居流れたものの、一脈の殺気、殿の眉宇びうから流れて、なんとなく恐ろしい。
「こやつか、血祭りの生贄いけにえは!」
 鳴門舞の謡声うたごえより、なお太やかな音声おんじょうをして、阿波守重喜ハッタと庭面にわもにらみすえた。
 そこには憔悴しょうすいした俵同心、一角に縄尻をとられて控えている。
 関の時雨堂しぐれどうから、ここへとらわれて来てより早百日、肩骨張って色青白く、めっきり痩せ衰えてみえるが、意気は軒昂けんこう
 晃々こうこうたる菊のの燭へ正面を切ッて、おくする色もなく重喜のおもてを見上げた。
 見下ろす眸と一八郎の眸、カチッとからみ合ったまま、互いににらみすえながら無言の争闘ややしばらく……。やがてのこと阿波守、
「その面構つらがまえでは、問うても容易に口を開くまいが」と、前置きしてほたるりのさきを、廊下の上から突き向けた。
「余が下屋敷へ、汝の手から住み込ませた同腹の女があろう。ここに居並んだ奥仕えの女の内にその廻し者がひそんでいる筈。有態ありていに名を明かさば、命だけは助けてつかわそう」
 耳うるさし、というふうに、一八郎は眼を閉じたが、その時、廊下に並んだ侍女こしもとの三人目に、十六、七かと見える丸顔の少女、首を垂れてブルブルと肩骨をふるわせた。
面倒めんどうじゃ! やせ浪人を荒蓙あらむしろへのせて水の用意ッ」阿波守が呼ばわると、「はっ」と庭先にいた天堂一角や番士たち、あわただしく働いて、瞬間に成敗せいばいすべき死の座を作る。
「御用意、ととのいました」
 一角が庭下駄を揃えると共に、ほたるり信国を引っ提げた阿波守、ズカリとそれへ足を進ませるかと思うと――。
 ふいとそばの女中へ眼をつけた。
 十六、七の愛くるしい小間使、ハッとして手を袖の裏へ隠したが、帯の前から懐剣の袋のひも! タラリと解けて下がっている。
「天満浪人の廻し者ッ!」
 咄嗟とっさにうしろへ寄るや否、阿波守重喜の片足が、ポンと女の帯を蹴った。
「あッ! ……」と優しく魂切たまぎった声――と一緒に、蹴落された少女の姿は落花微塵みじん、隠し持っていた懐剣をほうり投げて、一八郎の側へ仆れるとともにワッと泣き崩れた。
 声を揃えて朋輩ほうばいの女たち、
「オッ、お鈴殿!」と意外にたれて眼をみはる。
 鳩の密使を飛ばして、常に俵同心の手へ、屋敷の内事を洩らしていたのはこのお鈴。
「泣くな! うろたえ者めがッ」
 一八郎は激越げきえつな声で叱りつけた。そして思わず側へ仆れた妹を、抱き寄せようとしたけれど、両手の自由はきかないのである。
「ああ、すべてこうなる世であるのだ、泣くな、妹よ! よいか、兄の側で死ねるを嬉しいと思うがよいぞ」苦しい声を唇でみしめた。
 ところへ、一人の近侍が、森啓之助の来たことを告げた。阿波守は、一八郎を血祭りにすると称して、思う壺に女中の中から諜者ちょうじゃを見出した満足ににっことして、
「啓之助、啓之助」
 呼び立てながら信国の太刀をさやに納める。
「はっ」と一角の側へ、を下げたのは森啓之助。「明日の御用意のため駈け廻っておりましたゆえ、ツイお召しも知らず遅うなりまして」
 こう言い訳したが、実は、密かに公務の暇をぬすみ、およねを隠してある綱倉にもぐり込んで、何をしていたか分らない。
明日あすまんじ丸の脇船へは誰が乗るの?」
「石田十太郎殿の組手くみてが乗ります」
「そちが代れ、都合がある」
「はッ」
「そして脇船の荷底へ、この一八郎とお鈴の二人、積み込んでまいるのじゃ」
「心得てござります」
撫養むやの浦へ着船の節は、渭之津城いのつじょうへ寄るには及ばず、すぐ吉野川をさかのぼって、剣山つるぎさんの間者ろうへ二人の奴を送りこむよう。この大役、しかと申しつけたぞ」
 よろこんだのは啓之助、お米を阿波へ連れこむには、本船卍丸より脇備わきぞなえで行く番船の方が何かにつけて好都合。たりやおう、という色は隠して、俵一八郎とお鈴を番士に引っ立てさせお船蔵へ急いで行った。

 お鈴と一八郎の兄妹きょうだいを、啓之助の手へ渡して、阿波守が席へ戻ると、三位卿は物足らぬ顔だった。
「常にご自慢のほたるり信国、とうとう血祭りの御用に成りませんでしたな」
「もとよりあれは重喜の手策てだて……」
 ほほんで盃を取り上げたが、ふと苦い味を覚えて下へおく。
「御炯眼けいがんのほど恐れいった。しかし、あれまでにしてなぜ御成敗なさらぬのか、この左馬頭には少しに落ちかねまするが」
 こんどは、七条卿の疑問が出た。
 左京太夫や梅渓卿うめたにきょうも同感らしく、
「密事をぎつけているやから、剣山に封じおくのも無事であろうが、いッそ、断刀だんとうさびと致したほうが、安心でもあり、お手数もないことと考えまするが……」
「その儀、重喜も承知しておりますが、当蜂須賀家のおきてとして、捕えた隠密は、昔から必ず剣山へ差し立てることになっている」
「ほう、それはまたいつ頃から?」
「今より百二十余年前、蜂須賀三代の国主は義伝公ぎでんこう、当時南には天草あまくさらんが起っておりました」
「フム、義伝公。蜂須賀至鎮よししげとおおせられて、非常に英俊豪邁えいしゅんごうまいなお方、巷間こうかんの伝えによれば、眼点がんてんひとみが二ツあったとか承る」
「さよう、とにかく、群臣ぐんしん慴伏しょうふくする威風がござった。その頃江戸に将軍たる者は三代家光、この義伝公を怖るること一方ひとかたではありませんでした」
「なるほど、大いにうなずけます」
「折も折とて天草の乱には、戦に破れた落人おちゅうどどもが、阿波こそ頼るべしとあって、海伝いにおびただしくまぎれこみ、また義伝公は、左右そうなくそれを剣山にかくまわれた」
「では当時にも、天草乱後のきょをうかがって、徳川討伐の壮図そうとがあったのでござろう」
「いや、その辺は分りかねる。しかし、今日なお渭山いざんの城にたくわえある、武器、船具、たて強薬ごうやくやじり、金銀の軍用は、みな当時、天草より持ち込んだ物や、義伝公の御用意であったことはたしかでござる」
「ウーム……それが百二十年後の今日になって、皇室の御為おんために、役立ってまいるとは不思議な訳」
「少し話がそれましたが、さてその義伝公、泰平の豪傑はとかく不遇で、遂に毒殺されました」
「ア、誰に?」
「家光の廻し者」
「隠密でござるか」
「イヤ、義伝公の奥方であった。それは家光のめいで、幕府より義伝を毒殺せいというむねをうけて、阿波へとついできた美女でござる」
おのれが殺そうとする者へ嫁いでくる花嫁の心。それは思いやらるるが、徳川の陰険政治、よく現れておりますのう」
「記録によれば正月の末、城下千光寺の徳命観梅とくめいかんばいの日でござった。義伝公の梅見の酒へ毒を盛りました。それは世にも恐ろしい鴆毒ちんどく、さすがの豪傑もほりの石橋まで馬を返してたおれました。徳川家より嫁いできたその奥方、また毒を仰いで助任川すけとうがわに身を投じた。すわ、城内城下は申すに及ばず、阿波一国の騒動、かなえのわくがごとしでござる」
「徳川討てと叫びましたろう」
「無論、浦々軍船の仕立てをなし、城下は甲冑かっちゅうの騎馬武者で埋めたと、今も古老の話でござる。しかし、当時四囲の情勢では、まだ若い幕府の力、所詮しょせん、仆すことはできませぬ。恨みをのんだ家中ども、ここにすさまじく結束して、江戸より奥方にいてきた腰元用人こしもとようにんは申すに及ばず、到る所の徳川に縁ある者を隠密と見なし、日ごと夜ごと、これを助任川すけとうがわの河原にだして斬りました。ために、富田とんだの浦は血に赤く、河原は鬼哭啾々きこくしゅうしゅうとして、無残というもおろかなこと、長く、渭之津いのつの城に怪異妖聞かいいようぶんやむことを知らず、という結果になりました」
「オオ殺戮さつりくたたり! それで」
「一種の迷信を生じたものか、四、五代目の太守の世より剣山の山牢さんろう制度ができたのでござる」
 女中や小姓は遠ざけられて、その時、きくには阿波守そのほか四人の影だけ……。
 白いふすまという襖一面、伊藤若冲いとうじゃくちゅうの描いた乱菊の墨色あざやかに、秋の夜は冷々とけている。
 と……、床わきの書院窓の外へ、スルスルと蜘蛛這くもばいに寄ってきて、ジッと、中の話を聞いていた者があった。
 かしら切下きりさげ、無紋の黒着くろぎ、腰から二本の蝋色鞘ろいろざやがヌッとうしろへ立っている。

 それは法月弦之丞のりづきげんのじょうであった。
 書院窓に耳をつけて、なおも、菊の間の話をジッと聞いている……。
 およねが、綱倉へかどわかされてきた晩――。彼は、番士の手槍を引っぱずして一太刀に斬ッて捨てて、もとの誓文神せいもんじんの抜け穴から姿を隠した。
 そして四日目。
 いよいよ明日あすまんじ丸が出るという今宵。お船蔵の混雑にまぎれて、大胆にも、この下屋敷のいきまで足を踏み入れてきた。
 宵のうちに、隣帆亭りんぱんていの方で、阿波守初め四人の公卿くげが、密議をこらしていた様子も樹立こだちの中からうかがっていた。
 しかし、そこでは、容易に近づけなかったが、やがて、広間の方へ席を移して、別宴になった隙を計り、彼は用部屋の床下から奥へい進んで、ムックリ、ここへ姿を現したのである。
 足拵あしごしらえはわらじ膝行袴たっつけ、身軽にしたのはイザという場合の用意だ。
 剣山の間者牢かんじゃろうの由来――天草あまくさ当時のいきさつ、また義伝公毒害のことから徳川家へ根強い怨恨をふくんでいる訳――。それらの話をきくにつけて、弦之丞は心のうちで、
「ウーム、いよいよ阿波の密謀はたしかだ」と信じた。
 さらにまた、それが一朝一せきの陰謀でなく、義伝公以来歴代の太守が、幕府に隙さえあらばと、常にやじりいでいたことに違いない、とも思った。
 およそ、一国の民心にりつけられた程の怨みは、必ずその子に伝え、その孫に語られ、報復のげられるまで、世々、代々忘れぬものだ。ましてや、一代の英君と仰いでいた義伝公を、徳川家の詭策きさくに害せられた阿波のうらみというものは、弓取の子孫は無論、半農半武家の原士はらしきもにも銘じ、野に働く藍取あいとうたにも現れたろう。
 してみると、阿波の反徳川思想は、今日や昨日きのうのことでなく、永い歴史と根深い宿怨のある所。
 それかあらぬか、蜂須賀の子女は、当時すこぶる貧乏で幕府からは好まれぬ公卿くげ堂上へ多く嫁いでいる。重喜のすぐ先代をみても、一女は花山院大納言だいなごんの正室に、また鷹司家たかつかさけ醍醐大納言だいごだいなごん中院中将ちゅういんちゅうじょうなどとも浅からぬ姻戚いんせきの仲であった。
 そこへ宝暦の気運が芽ざし、尊王皇学の風が起り、倒幕の風雲がわずかながら動いてきた。
 公卿縉紳くげしんしんと密接な結びがあり、しかも如上じょじょうの歴史をもつ蜂須賀家が、その裏面に策動するのは、あまり、当然すぎるほど当然なこと。
 今――菊の間の話をきき、それやこれを思い合せて、法月弦之丞、思わず、慄然りつぜんとせざるを得なかった。
「ああ、幕府は遂にたおされるのかもしれない」
 フイと、そんな気持がした。
 これほどあきらかな、危ない気運が芽ざしつつあるのに、何という江戸城ののんきさだ。前将軍家重いえしげ遊惰ゆうだなこと。今の十代家治いえはるの悠々逸楽いつらく
 義伝毒害の宿怨を忘れぬ阿波や、塩をめて皇学を起さんとしつつある公卿とは、その意気なり境遇なりが、あまりに雲泥うんでいな相違である。
 しかし、弦之丞一箇の立場はまた別だ。
 幕府が危ないと感じたら、未然に救うのが彼の立場だった。
 あぶないのは江戸城のみか、恋人お千絵様の前途はなお暗い――。そのわざわいは、彼女の父世阿弥よあみが、阿波に入って帰らぬことが第一の原因だ。
 おお! 甲賀世阿弥といえば。
 ことによると彼はまだ生きている。いや! きっと生きているに違いない。
 どこに? それは剣山の間者牢かんじゃろうだ。彼はとらわれて十年の月日を、おそらく間者牢の中に送っているだろう。
 もはや、疑うべきもないことだ。今も、阿波守自身が、菊の間で話していたではないか。
「――で、囚えた隠密は必ず、剣山の山牢へ送って、終身封じこめるのがおきてでござる」と。
 彼は、心の奥で叫んだ。
「今夜の忍びはムダでなかった!」
 そこで、書院窓の明りを避けて、ソロ……と四、五尺身を退いた。――と思うと長廊下、忍者しのびふせぎの仕掛張しかけばりが、キキキキ……と鳴くかのようにきしみだす。
 はッとしたが弦之丞、甲賀組の者ではないから、浮体ふたいとか音伏ねぶせとかいう忍法にんぽうを知らない。思わず片膝を立て、一足跳びに廊下から庭先へ飛ぼうとした。
 途端に、杉戸すぎとを蹴って駈け寄った天堂一角。
「おのれッ!」とばかり、うしろから組むが早いか、腕を輪締わじめに喉首のどくびを引っ掛けて、タタタタタと大廊下を五、六間引き戻した。

 うしろからのどを巻き込んだ一角の腕、荒木流のやわら首閂くびかんぬきという必殺の手である。
 この際、声をだすのは自殺するのと同じわけになる。自力をしぼってもがくのはなおあぶない。といって、拍子びょうしに五、六間もあとへ持ってゆかれれば、グッタリとしてあごの下が紫色になりおわるのは必然なこと。
 不意であるから、弦之丞もハッとしたには相違ない。
 まず呼吸に気力をあつめたろう。
 無論、心得のある彼、声もださず力もこめず、一角の引き戻すまま大廊下を逆に歩いた――いや、よろけた。
 そのまに、左の肩を探って、対手あいて拇指おやゆびをギュッと握る。いわゆるわざの手懸り、一瞬の妙機である。
 気当きあての一かつ! 対手あいての耳をつんざいたかと思うと、エエイッ、たすきを切って払ったよう。
 身を沈めた弦之丞の肩越しに、天堂一角の体は斜めに飛んで、大廊下から庭先へと、見事もんどり打っていた。
 ――と思うと一せんの剣光、シュッと走って弦之丞の毛を斬ったかと思われる。
 一角とてさすがである。櫓落やぐらおとしに投げ飛ばされた咄嗟とっさには、空間に腰の大刀を払ったのみか、トーンと猫がえりをして庭先へ立っていた。
「くせ者!」
 と、この時初めて呼ばわった。
 同時に右手めての大刀を、颯然さつぜんと横に払ってきたので、彼はすばやく後ろへ身を開いた。そのはずみに塗枠ぬりわくふすま障子一、二枚をあおって菊の間の中へドッと仆れる。
 と見れば、広間は暗澹あんたんたる暗闇。
 いつのまにやら一点の燈灯ともしびもなく、阿波守を初め三卿の人々は、物音と同時にすばやく奥へ退座たいざしてしまったらしい。
 倒れた襖を踏みつけたので、弦之丞は菊の間の闇へよろけこんだ。その影こそ、不敵な曲者くせものにまぎれもあらずと、胸を躍らしたのは衝立ついたてのかげに身をひそめていた竹屋三位。いつのまにか切目長押きりめなげしに掛けられてあった小薙刀こなぎなたを引き抱えている。
 壮気はさかんだが、世間見ずの有村は、この屋敷の懸人かかりゅうどになってから、いっぱしの武芸者となった気でいる。だが轗軻かんか不遇とやらで、まだいっぺんも真剣の場合にのぞんだことがないのを常から嘆じていたところだ。
 折から今の曲者という声! よき獲物えもの、ござンなれと息まいたものであろう。日頃の鍛錬たんれん薙刀なぎなたにこめて、そこへよろけてきた弦之丞の影を見るや否や、月山流がっさんりゅうの型どおりにその腰車こしぐるまを手強く払った。
 だが人一人、そうたやすく斬れないこと無論である。
 弦之丞の身は飛燕ひえんのごとくかわっていた。そして三位有村は薙刀なぎなた坂刃さかばに風を切らせてのめりこんだが、ウム! と踏み止まって左手の一本延ばしに切り返すと、一緒に薙刀なぎなたは、空を躍って天井からはね落され、三位卿その人はと見れば、はるかなる床の間の花瓶かびんと共に仆れて、花と水を狼藉ろうぜきに浴びていた。
「ちッ! ……残念」
 起き上がって薙刀なぎなたを拾った時、次の間のふすまがサッと開いた。甲斐甲斐しく装立いでたった近侍の者、三人、五人、七人、十人ずつ――得物を取って続々と八方へ駈け散ってゆく。
初太刀しょだちをつけたのはこの有村、余人よじんに功を奪われてなるものか」
 腰の痛みを忘れて自分も一緒に走りだすと、
「三位殿、三位殿」
 後ろで呼び止める声がする。
 ふりかえってみると阿波守、微笑を含んで立っていた。
「どこへまいらるる?」
「どこへといって、今の騒ぎ、殿にもご存じでおわそうが」
「知っております。それゆえ、すばやく次の間へ逃げ退いたのじゃ」
「日頃の口ほどにもない殿じゃ!」三位卿は歯がゆそうに、
「この奥深い所まで、入り込んでまいった不敵なやつ、逃がしては一大事でござる。この有村が引っからめてまいる所存」
「はははは」重喜は愉快そうに笑った。
「さようなことは家臣どもに任せてお置きなさるがよろしい。あなたの月山流がっさんりゅうではちとむずかしい曲者くせもの、手配は天堂一角が常から残りなく固めているゆえ、おおかた、今にどこからかここへ捕えてまいるであろう」
 築山つきやまの辺からお船蔵境ふなぐらざかいの木立――または大殿の屋根から床下に至るまで、弦之丞をたずねる武士が、今や、右往左往に入り乱れて見える。

 下屋敷の騒音を後にして、弦之丞は今、脱兎だっとのごとく船蔵の方へ走ってきた。
 ほッと、息をついて、あたりの闇をかしてみると、ここはいつかの晩、綱倉の窓からおよねすすり泣く声をきいた記憶のある掘割岸。
 翌日あしたは、安治川を出る筈のまんじ丸も、岸をかえたとみえてそこには影なく、ドボリ、ドボリ……と掘割へ揺れこむ波の音があるばかり、無月の秋はことさらに暗い。
「オオウーイ」
 不意にすぐ近くの闇の中で、こう呼ぶ者の声が水へ響いて行ったので、弦之丞はおかへ引き揚げられてあった過書舟かしょぶねの底へ身を退いて、その陰から様子をうかがっていた。
「オオウーイ」
 続いて別な声がまた呼ぶと、木魂返こだまがえしに向うからも、応ーッと答える声がする。
 と、掘割の水門から、ギイッ、ギイッ、とを押してきた一そうの見張舟がある。黒い波紋を大きく描いて人影の立っている桟橋さんばしへ漕ぎ寄せてきた。
「ご苦労だった」
 という声は森啓之助。
 続いて繋綱もやいを取る者、舟へ飛びのる者、しばらくドカドカ騒いでいる様子は、下屋敷から引っ立ててきたたわら一八郎とお鈴を、脇船わきぶねへ移すためにこの見張舟を呼んだものらしかった。
「縄目は大丈夫か」
 啓之助がしきりに聞いている。
「脇船へ積みこむまでに、川の中へでも飛びこまれては身の失策になることじゃ」
横杭よこぐいへ縛りつけておきました」
「ウム、それならまず間違いはあるまい。念のため、その帆布ほぬのを二人の上からかぶせておけ」
「はっ、こう致しますか」
「よかろう! ところで方々にはもう御用がないゆえ、ここをお引き揚げなさるがよい」
「でも、森様お一人では」
「いや、ご配慮には及ばぬ。まんじ丸の方も手不足であろうし、やがて殿のおがえも仰せだされるであろう。これまでお手を貸していただけば、あとは拙者が仲間ちゅうげん相手に送りこみます」
「では」と、番士船手ふなての人々は、そこを去って各※(二の字点、1-2-22)の持場へ分れて行った。
 その人々のいなくなるのを見澄ますと、啓之助はヒラリとおかへ上がってきた。なお念入りに前後を見廻し、足早に飛んできたのはすぐ前の綱倉。
「宅助、宅助」
 戸を叩くと、用心深く四、五寸いて、
「おお、旦那でしたか」
「どうしたお米は?」忙しく中へ入って見廻したが、少し色をなして、
「見えないではないか」
「あわてちゃいけませんぜ、夜半よなかになったらまんじ丸へ運びこむから、支度をしておけと旦那がおっしゃったんで、たッた今女をこの長櫃ながびつへ押し込んでいたところでさ」と、仲間の宅助、意味あり気に側の長櫃を指さした。
「ア、それがにわかの模様変えでな」
「えッ、手違いに?」
「なにさ、こっちにとればなおさら都合のいい話。剣山つるぎさんへ送る者があるので、急に脇船の方を承って行くことになった」
「おお、そいつア旦那、おあつらえじゃありませんか」
「されば、今すぐに俵一八郎と一緒に積み込むつもり、その長櫃ながびつをあれまで持ちだしてくれと申すのじゃ」
「オット合点、と言いてえが、旦那、こいつア一人じゃ持ち切れませんや」
「よし、身どもも手を貸そう」
「そうまでお惚れなさいましたか」
「ばかを申せ。ウーム、これや重い!」
「恋の貫目めかたでございますもの。わっしのほうがなお重い!」
「つまずくなよ」
「まッ暗だア、色情いろ闇路やみじ
「ソレ、そこにつないである見張舟へ……」
「旦那、わっしが先へ下りますから、手をはずさないでいておくんなさい……はずしてドボンと沈めたところで、この宅助は元々だが、旦那が浮かばれねえでしょう」
 小舟の中へ、ドンと長櫃を下ろした時だ。
 物蔭から走りだした法月弦之丞のりづきげんのじょう
「待てッ」
 繋綱もやいを解きかけている宅助をほうり投げ、驚く啓之助を突きのけて、舟の中へ躍りこもうとした。
 かねて、目明し万吉から仔細しさいを聞いていた俵同心とその妹、また片恋の不愍ふびんな女も、事のついでに救って行こうとしたのだが、人の運命はともあれ、彼自身の危機が、すでにそこへ迫っていたのは是非もない……。

 闇を、低く流れてくるのは槍である。閃々せんせんと横に光を刻んでくるのは白刃である。
 蜂須賀はちすか名物の猛者もさ原士はらしの者や若侍の面々。曲者くせものがお船蔵の方へ駈け抜けたときいて、天堂一角をまッ先に、今、ここへ殺到した。
 先の一角がピタと足をとめて、
「おおあれだッ――法月弦之丞!」
 指を指し示すとともに、
「それッ」
 浪がしらがかぶったような勢いで、槍や刀、入りまじった二、三十名の武士が、ドッとその人影の後ろへいて行った。
 あやういかな、法月弦之丞。
 前は満々とみなぎる水。
 うしろは刀を植えならべた殺陣さつじん
 唐草銀五郎の遺志をついで、今宵こよい初めて望む所の秘密境へ、一歩の足跡そくせきをつけた彼も、それをわずかの思い出として、ここに進退きわまるであろうか?
 と思われたが……。
 ハッと振りかえった途端に、弦之丞、案外落ちつきすまして、刀のつかをソロリと握った。
 果たして凄い意気ごみで来た若侍たちも、六尺以上は近寄ってこず、自然と、そこへ半円の陣を作って、
「神妙にしろッ」
「のがれる道はないぞ」
 口々に、空気合からきあいの声ばかりが激しい。
 彼がここでユッタリと構えたのは、充分な理由があることで、弦之丞には尊い一つの体験がある。
 その話は――。
 江戸雁木坂がんぎざかにいるさき夕雲せきうん。当代の名人であり、弦之丞の師であった。上泉流かみいずみりゅうの剣法に虎白こはく和尚の禅機を取り入れ、称して無住心剣夕雲せきうん流といっている。彼はその夕雲門で、まず第一の使い手だった。
 ある年の春である。朧夜おぼろよだった。
 何かのことに夜をかして、護持院ごじいんはらを帰るさ、うらみを含む他流の者が、三十人余り党を組んで待ち伏せ、いわゆる闇討やみうちを食った。
 追い散らして血路をひらき、無事に屋敷へ帰ったものの、五、六ヵ所の薄傷うすでを負ったので、数日床についていると、やがて様子を見にきた夕雲先生、それを見て、
(大たわけ者!)
 見舞いでなく、叱りつけた。
(夕雲流の名を汚し召された。一体その夜の敵は何人か?)ときかるるまま弦之丞は、むしろ得意に、
(三十人)と答えると、夕雲、
(三人か? ……)
(イヤ三十人程で)
(違うであろう、三人であろう)
(イイヤ、たしかに三十人で)
(はアて! 会得えとくの悪い!)不機嫌にいったがまたおもてやわらげて、(およそ一人が数人に取り囲まれる場合、敵は三人よりないものじゃ。どんな場所にも必ず背を守るたてはある。右敵うてき、左敵、前敵、これ以上に敵はない。対手あいての数はあってもただ一人へこれ以上の剣が一度にかかれる理由がない。さすれば三十人も三人の敵と同じ、四十人も同じこと。要はしんしんかた一つ。どうだ、分ったか)
 この時、口伝くでんをうけたのが獅子刀ししとう虎乱こらんけん。二つながら衆を対手あいてとする時の刀法である。弦之丞はそれを味得みとくしていた。
 今――。
 彼は、無銘むめい二尺七、八寸の大刀を静かに抜かんとしている。一人と一人との立ち合いなら別だが、衆に囲まれてしまった時は、この抜く時があぶない! いかなる居合いあいの達人にしても、ここは毛ほどの隙――隙といい得なければ手塞てふさぎが生じる。
 両面の剣が、その虚につけ入ってくるのは必然だ。こう張りつめた殺気というものは、瞬間、そこに剣もなく人もなく音もなく、ただ悽愴せいそうな鬼気だけがシーッと凍りつめてくる。
 ブルッと動く太刀さきは見えても、容易に手元へ斬りこんで行かず、キラリと光流をひらめかす槍の穂も、無碍むげにはさっと突いてこない。
 一つは弦之丞が、※(「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1-87-61)けいけいたる眼くばりのみで、つかに手をかけたまま抜かずにいるのが、かえって無気味であったかもしれない。
 こうして、五ツ息六ツ息する間がたつ……。
 と、後ろの船で、長櫃ながびつふたを四、五寸持ち上げ、
「げ、弦之丞様――ッ」
 と、お米が死身しにみで声を揚げた。

 弦之丞様――ッ、とお米が助けを呼んだのと、天堂一角の構えていた槍が、ダッ――と彼の右へ向って突き出されたのと、ほとんど同時。
 だが、その槍の穂がくるより早く、弦之丞は刀のつかをつかんだまま、かかとを蹴って左へ跳び、同時に鍔鳴つばなりさせて一刀を抜き払った。
 と思うと姿が見えない!
 対手あいての姿は見えないで、そこにはもうとした血煙だけが残っていた。衆はうずを巻いて混乱し、一人は真一文字に走っているのだ。
「のがすなッ」
 タタタタッと、八、九人は駈けつづけたが、それも、追いつくたびにただ一刀でぎ伏せられた。虎乱こらんの太刀風、獅子刀のさき、寄るべくもない鋭さで、彼の行くあと行く跡へ、幾人かの若侍が苦鳴と血煙をあげてぶっ仆れた。
「ええ、これほどの手配りを破られたか」と、歯軋はぎしりをした天堂一角、樫柄かしえの槍を抱えなおして、疾風のごとく追いかけたが、その寸隙すんげきに十けんほどの隔りができていた。
 弦之丞は、一八郎を救うこと、またお米のこともあきらめてしまった。今はこの屋敷から身を脱するだけが容易でない。しかし、綱倉から例の誓文神せいもんじんほこらへ出る抜け道までは、さほど遠くなく、充分地の理も見究みきわめてあるので、やや窪地くぼちになったやぶの中へザッ――と姿を隠してしまった。
 途端に、彼の隠れた所から、ものの四、五尺と離れていない銀杏いちょうの幹へ、プーン! と凄い音がして一本の飛槍ひそうが突き立った。
 刺さった樫柄かしえの震動が止まらぬうちに、駈けてきたのは、それを投げた天堂一角。
「しまッた!」といって、すぐ藪のくぼへ走りこんだが、そこに意外な抜け道の口を見出して、
「オーッ」呆然ぼうぜんとして立ちすくんだ。
「天堂一角!」するとまた彼の姿を追ってきた者が、藪の外から呼びだした。
「誰だ」
「竹屋三じゃ」
「オオ三位卿様で?」
「阿波守殿がすぐに来いとの御意ぎょいであるぞ」
「ただいまの曲者くせものが、この抜け道より屋敷の外へ逃げ出しました。せっかくながら一角、それを追ってまいりますゆえ戻られませぬ」
「いや、曲者の逃げたこと、殿も御承知。何せいまんじ丸へお座がえの時期が迫った。早く早く!」
 オオ、そういえば、夜はくにの刻を過ぎ、やがて八刻半やつはん(午前三時)にも近かろう。
 あけの七ツから六ツ半どきの間がその日の満潮。浅瀬やわす都合の上に、ぜひ卍丸はその時刻にともづなを解かねばならぬ。
 とすると――一角もあわてざるを得なかった。
 彼はぜひなく三位卿について足を早めた。
 卍丸は下屋敷の裏庭――安治川あじがわの横について、阿波守はすでに楼船ろうせんの屋形へしとねを移していた。
 支度は一月も前から手廻しされているが、重喜しげよしの身の廻りの物を運ぶ侍女こしもとたちや、潮除しおよけの幔幕まんまくを張りめぐらす者や、かいをしらべる水夫楫主かこかんどり、または朱塗しゅぬりらんの所々に、槍お船印ふなじるしの差物を立てならべるさむらいなどが、事俄ことにわかのように目を廻している。
 その混雑の中を通って、天堂一角、おそるおそる船屋形ふなやかたの座所へ伺候しこうした。そして弦之丞をとり逃がしたことを首尾しゅび悪そうに言い訳するのだった。
 阿波守は、別に不機嫌な様子もなかった。その代りに、一角の足がしびれのきれる程黙然もくねんとして考えこむ。
 やがて、明快な言葉が出た。
「ぜひがない! 昨夜の混雑をつけこまれたのじゃ」
 そういったのはよかったが、次に突然、
「一角、そちは帰国を見あわせい、しばらくいとまをとらすであろう」
「あっ、お暇を?」一角は冷やりとした。しばらくを、ながのと、聞き間違えたのである。
「ウム! まず一両年遊歴ゆうれきする気で、思う所を歩いてこい。ただし、その間にも役目があるぞ。ほかでもない、法月弦之丞、きゃつをつけ廻して必ず討って取ることじゃ! 彼こそ昨夜の密話を残らず聞きおったに相違ない、生かしておいては後図こうとさまたげ、大事の破綻はたんかもそうも知れぬ。よいか!」
「はっ」
「充分、そちに討てる自信があろうの」
「身に代えて刺止しとめまする」
「それで、余の船出も心安い。何かのことども、江戸表へ立ち廻った節上屋敷かみやしきの重役どもに、計ろうて貰うがよい」と座を立って、三位卿と共に船楼ふなろうおばしまに立つ阿波守。
「オオ、ちぬの浦が明るくなった」とつぶやいた。

 霧の底から海があらわれ、霧の上から朝のさんさんと射る。一の二の洲の水尾木みおつくしも、順に点々と明け放れて、潮の満ち満ちてきた安治川一帯、紺の大水たいすい金泥こんでいを吐き流したよう。
 高いところで法螺ほらが鳴った。
 蜂須賀家の水見櫓みずみやぐら――。
 阿波へ出るべきまんじ丸は、今、ともづなを解いている。
 かみ過書船かしょぶね支配所でも、それに答える川合図をする。と、半刻はんときほどは舟止めとなり、ウロ舟、物売り、石垣舟、すべてが影をひそめてしまうところは、ちょうど陸における大名行列が下座先触げざさきぶれの法式と変りがない。
 森啓之助もりけいのすけの乗りこんだ脇船は、一あし先に川口へ漕ぎ出していた。
 ところで、お米はどうしたろう。
 今朝は彼女の船出ともいえる。だが、ああ、それはなんと暗い運命の船出だろう。
 脇船の底――長櫃ながびつの中――そこにあるのは永遠の悲恋と恐怖の闇ではないか。このかがやかしい光明ひかり微塵みじんもないのである。
 やがて着く彼岸ひがんで、そのなみだと闇の長櫃の中から、どんなお米の運命が生まれることやら……?
 それは知るよしもなく、知る者は、今船やぐらに立っている啓之助のみだった。
「オオ……よくぎた、よく凪ぎた。潮の色あい風都合も上々吉だ」
 自己の幸運を祝福する言葉とも聞こえる。
 彼にはあふれる光明があった。
 ニヤリと、いやな思い出し笑いを洩らして……また役目の水見八方へ小手をかざした。
 ボウ――と川上から二番貝。
 まんじ丸は徐々じょじょと川口へ向ってすべりだしてくる。そして、やや取舵とりかじに一のくいとすれすれに鏡の海へかみかけた。啓之助の船は、脇備えの形をとって、その後から漕ぎ従う用意をする。これも渡海の際の常例である。
 阿波守の乗っている卍丸――そのふなべりに立てつらねた船印の差物さしものには、桐のかげ紋とまんじの紋、朝の潮風をうけてへんぽんとひるがえった。
 槍の緋羅紗ひらしゃは太陽より赤く、さんとして波にゆる黄金の金具は魚群も遠ざける威風がある。艫幕ともまくいッぱいに風をはらむかと思うと、やがて、さっ! 颯! 颯! 二十四ちょう櫓拍子ろびょうしが、音頭おんどと共にこころよく波を切った――。
「有村殿! 有村殿!」
 こう呼んだのは船上の阿波守である。
「はっ、御用で※(感嘆符疑問符、1-8-78)」と、どう梯子ばしごを駈け上がってきたのは元気な三位卿。海をのぞむと誰しもが自然と大きな声になる。
「お召しでございましたか」
「されば、あまりに好い眺め、一人でほしいままにするのは惜しいと存じてな」
「一天晴朗せいろう、今日のお船出祝着しゅうちゃくに存じます」
「不吉な昨夜の騒動も、これで清々すがすがしくぬぐわれた」
「ちょうどこの船が、沖から浦曲うらわを見るころには、お別れにみえた、三卿のかたがたも、京都へお帰りある時刻」
「あっ……」阿波守は不意に、屋形の鯨幕くじらまくをパラリと下ろして、三位卿の眺めをふさいでしまった。
 その時船はちょうど、川口の左岸にある目印山めじるしやま(後の天保山)のすそから遠からぬ辺にあった。丘には、松の間から黒い燈明台とうみょうだいがそびえている。諸国廻船の目印となる丘だ。
 臥龍がりょうに這った松の木に足をふみかけ、その丘の上から卍丸の船影を見下ろしていた武士がある。それは法月弦之丞であった。
「やがて見よ、阿波守」
 彼はこずえに手をかけながら、心のうちで声をあげた。
「いかに関を封じておくとも、弦之丞が、きっと一度は汝の領土を踏みにまいるぞ! うごかぬ証拠をつかみに行くのじゃ。――オオ、一度江戸表へ立ち帰った上に、改めて、阿波二十五万石の喉笛のどぶえへ、とどめを刺しに出なおそう!」
 見送っていると、その一刹那。
 どこからか、風を切ってきた妻白つまじろの矢が一本! 危なくも弦之丞の耳をかすって、ぷつん! と後ろの幹へ刺さった。
「さすがは重喜しげよし、油断なく自分の姿をもう見つけたか? ……」と、弦之丞も先の用意の周密なのに驚いて、矢柄やがらを見ると切銘きりめいにいわく、
 ――竹屋三藤原之有村ふじわらのありむら
 のどかな音頭に櫓拍子ろびょうしの声――そして朗らかにあわせるお国口調くにくちょうのお船歌ふなうたが、霧の秘密につつまれている秋の鳴門の海へ指してうすれて行った。
底本:「鳴門秘帖(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年9月11日第1刷発行
   2004(平成16)年1月9日第20刷発行
※副題は底本では、「上方(かみがた)の巻」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2013年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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