あらすじ
江戸の博奕打ち、唐草銀五郎とその乾分、待乳の多市は、阿波の蜂須賀家に用事があり、大阪から四国へ向かう。しかし、大阪では辻斬りが多く、夜道は危険だという話を聞き、不安を抱く。銀五郎と多市は、会所守の久六から土筆屋和平という旅籠の宿札を貰うが、その夜、多市はスリに遭い、大切な預かり物を盗まれてしまう。スリを追いかける多市は、目明しの万吉と出会い、助けを求めるが、万吉はスリに目をつけ、多市を尾行する。一方、銀五郎は阿波入りの許可を得ようと奔走するが、蜂須賀家の厳しい入国制限に阻まれる。多市はスリから盗まれた預かり物を取り戻すため、そして銀五郎は阿波入りを果たすため、それぞれ目的を達成しようと懸命に動き出す。びッくりさせる、不粋なやつ、ギャーッという五位鷺の声も時々、――妙に陰気で、うすら寒い空梅雨の晩なのである。
起きているのはここ一軒。青いものがこんもりした町角で、横一窓の油障子に、ボウと黄色い明りが洩れていて、サヤサヤと縞目を描いている柳の糸。軒には、「堀川会所」とした三尺札が下がっていた。
と、中から、その戸を開けて踏み出しながら――
「辻斬りが多い、気をつけろよ」
見廻り四、五人と町役人、西奉行所の提灯を先にして、ヒタヒタと向うの辻へ消えてしまった。
あとは時折、切れの悪い咳払いが中からするほか、いよいよ世間森としきった時分。
「今晩は」
会所の前に佇んだ二人の影がある。どっちも、露除けの笠に素草鞋、合羽の裾から一本落しの鐺をのぞかせ、及び腰で戸をコツコツとやりながら、
「ええ、ちょっとものを伺いますが……」
「誰だい」と、すぐ内から返辞があった。
「ありがてえ、起きていますぜ」
後ろの連れへささやいて、ガラリと仕切りを開ける。中は、土間二坪に床が三畳、町印の提灯箱やら、六尺棒、帳簿、世帯道具の類まであって、一人のおやじが寂然と構えている。
「何だえ、今ごろに」
錫の酒瓶を机にのせて、寝酒を舐めていた会所守の久六は、入ってきたのをジロリと眺めて、
「旅の人だね」
「へい、実は淀の仕舞船で、木村堤へ着いたは四刻頃でしたが、忘れ物をしたために、問屋で思わぬ暇を潰しましたんで」
「ははあ、そこで何かい、どこの旅籠でも泊めてくれないという苦情だろう」
「自身番の証札を見せろとか、四刻客はお断りですとか、今日、大阪入りの初ッぱなから、木戸を突かれ通しじゃございませんか」
「当り前だ、町掟も心得なしに」
「叱言を伺いに来た訳じゃござんせん。恐れいりますが、その宿札と、事のついでに、お心当りの旅籠を一つ……」
「いいとも、宿をさしても上げるが……」と久六、少し役目の形になって、二人の風態を見直した。
「一応聞きますが、お住居は?」
「江戸浅草の今戸で、こちらは親分の唐草銀五郎、わっしは待乳の多市という乾分で」
「ああ、博奕打ちだな」
「どう致しまして、立派な渡世看板があります。大名屋敷で使う唐草瓦の窯元で、自然、部屋の者も多いところから、半分はまアそのほうにゃ違いありませんが」
「何をいってるんだ」側から、銀五郎が押し退けて、多市に代った。
「しゃべらせておくと、きりのねえ奴で恐れ入ります。殊には夜中、とんだお手数を」
「イヤ、どう致して」見ると、若いが地味づくりの男、落ちつきもあるし人品も立派だ。
「そこで、も一ツ、行く先だけを伺いましょう」
久六も、グッと丁寧に改まる。
「的は四国、阿波の御領へ渡ります」
「阿波へ? フーン」少しむずかしい顔をして、
「蜂須賀家では、十年程前から、ばかに他領者の入国を嫌って、よほどの御用筋か、御家中の手引でもなけりゃ、滅多に城下へ入れないという話だが」
「でも、是非の用向きでござりますから」
「そうですか。イヤ、わしがそれまで糺すのは筋目違い。いますぐ宿証を上げますから、それを持って大川南の渡辺すじ、土筆屋和平へお泊りなさい」と、こより紙を一枚剥いで、スラスラと筆をつけだす。
その時その間、何とも怪しい女の影。会所の横の井戸側にしゃがみ込んで、ジッと聞き耳をたてていた。
白い横顔、闇にツイと立ったかと思うと、
「どうも、ありがとう存じました」
中の声と一緒に戸が開いて、さッと明りが流れて来た。途端に、のしお頭巾の女の魔魅、すばやく姿を消している。
「あ、お待ちなさい――」会所守の久六は何思ったか、あわてて、出かける二人を呼び止めた。
「え、何ですッて?」
唐草銀五郎に乾分の多市、出足を呼び返されて何気なくふりかえると、
「気をつけて行くことだぜ、物騒な刻限だ」
会所の久六が、手真似でバッサリ、いやに小声で注意をする。
「フン、辻斬りかあ」多市が鼻ッ先で受けると、
「これ、冗談に聞きなさんな」と、久六は叱るように、「今し方もここへ見えた、見廻り役人の話では、刀試しじゃない物盗りの侍で、しかも、毎晩殺られる手口を見ると、据物斬りの達者らしいというこった」
「ご親切様……」銀五郎は丁寧に会釈をして、スタスタと先へ歩きだした。
教えられた道すじどおり、堀川から大川河岸を西へ曲がる。所々に出水の土手壊れや化けそうな柳の木、その闇の空に燈明一点、堂島開地の火の見櫓が、せめてこの世らしい一ツの瞬きであった。
「親分」多市は、追いつくように側へ寄って、
「自身番のおやじ奴よけいなことを言やがったんで、何だかコウ背筋が少し寒くなった」
「おや、てめえはさっき、フン辻斬りかアと涼しい顔をしていたじゃねえか」
「そりゃ、関東者の病でしてね」
「出るなと思う奴はとかく出たがる。多市、今からてめえの腕前を頼んでおくぜ」
「鶴亀、いい当てるということがあら。第一、うちの親分は至ってたのもしくねえ」
「なぜ」
「こんな時の要害に、永の道中、大枚の金をわっしに持たせておくんだからな」
「ばかをいえ、それほどてめえの正直を買っているんだ」
「エエ詰らねえ、明日からは、少し小出しに費いこむこッた」無駄口を叩きながら、淀屋橋の上にかかると、土佐堀一帯、お蔵屋敷の白壁も見えだして、少しは気強い思いがある。
その二人は知らなかったが、堀川会所の蔭に潜んでいた、のしお頭巾の女の影はまたいつの間にか後ろをつけて、怪しい糸を手繰ってくるのだった。
「おや? ……」と、渡り越えた橋の袂で、待乳の多市、不意にギクリと足をすくめてしまった。
「親分、誰か来ますぜ、向うから」
「人の来るのに不思議はない。いい加減にしろよ、臆病者」
「だが、しっかり、目釘を湿していておくんなさいね」
「心配するな」笑いながら、さっさと足を進めると、なるほど河岸ッぷちの闇から、チャラリ、チャラリ……と雪踏を摺る音。
近づいた時、眸を大きくして見ると、侍だ。はっきり姿の見えない筈、上下黒ぞっきの着流しに、顔まで眉深なお十夜頭巾。
当時、宝暦頃から明和にかけて三都、頭巾の大流行り、男がた女形、岡崎頭巾、露頭巾、がんどう頭巾、秀鶴頭巾、お小姓頭巾、なげ頭巾、猫も杓子もこの風に粋をこらして、寒いばかりにする物でなくなった。
チャラリ、チャラリと雪踏を鳴らして、今、銀五郎の左を横目づかいにすれ違った黒縮緬の十夜頭巾は、五、六間行き過ぎてから、そっと足の穿き物をぬぎ、樹の根方へ押しやッた。
かなぐり捨てた羽織もフワリとその上へ――。
と思うと身を屈めて、双の眼をやり過ごした闇へ――蝋色の鞘は肩より高く後ろへ反らしてススススと追い縋ったが音もさせない。
「ウム!」と据物斬りの腰、息を含んで、右手は固く、刀の柄糸へ食い込んだ。
グイと前へ身をうねらせる。
斬るな――と思えたが、銀五郎の後ろ構えを、多少手強く思ったのか、そこでは抜かずにもう一、二間。
すると、場合もあろうに、すぐ足もとの土佐堀で、ドボーン! と真ッ白な水けむり、不意を食わせて凄じい水玉がかぶった。
「あッ――」と音を揚げたのは待乳の多市。そのほうよりは、後ろの死神に気がついて、
「親分ッ」と、銀五郎を突き飛ばしておいて、自分も宙を飛んでしまった。
「ちぇっ……」舌打ちして戻りかけた侍、ひょいと淀屋橋の上を仰ぐと、のしお形に顔を包んだ美い女が、橋の手欄に頬杖ついて、こっちへニッコリ笑ったものだ。
取って返しの勢いで、十夜頭巾の侍が、ぴたぴたと自分の影へ寄ってくるのに、橋の女は、その欄干に片肱もたせて澄ましたもの。
馴れない頭巾と見えて、うるさそうに、解いて丸めて川の中へフワリと捨てた。――ついでに、下からさッとくる風と、頭巾くずれの鬢の毛を、黄楊の荒歯でざっと梳いて、そのまま横へ差しておく。
「女!」ズンと凄味のある声だ。
いうまでもなく今の侍、逃がしたほうの身代りに、斬らねば虫が納まるまい。
「あい、わたしのことですか?」
小褄を下ろした襟掛の婀娜女はどこまでも少し笑いを含んで、夏なら涼んでいるという形だ。
「知れたこと、なんで邪魔いたした」
「邪魔をしたって? アアそうか、今わたしが石をほうり込んだので、斬り損なった飛ばッちりを持ってきたんですね」
「ウム、どこまでも承知でしたことだな」
「百もご承知、お前さんは、縮緬ぞッきじゃいるけれど、辻斬り稼ぎの荒事師――、そう知ったからこそ横槍を入れたのさ。悪かったかい」
「なんだと」
「お前みたいな素人仕事に、あの二人はもったいない。どこか、河岸を代えたらいいでしょう」
「ウーム……、じゃてめえもあれをつけてきたのか」
「それもおまけに江戸からだよ。双六にしたって五十三次、根よくここまでつけてきたところを、横からさらわれて埋まるかどうか、胸に手を当てて考えてごらん」
「読めた、さては道中騙りか美人局の」
「いいえ、これでも一本立ち、お前さんも稼業人になるなら覚えておおき、女掏摸の見返りお綱というものさ」
「あっ、お綱か」
「おや、わたしを知ってるの」
「一昨年江戸へ行った時、二、三度落ち合ったことのあるお十夜孫兵衛だ」
「まあ……」笑いまじりに寄ってきて、「それじゃ少し啖呵が過ぎたね、早くいってくれりゃあいいのに」
「なアに、こっちがドジを踏み過ぎている。それにしても、たいそう遠出をしてきたものだな」
「ちっと仕事が大きいのでネ」
「たしかに見込みはついているのか」
「お蔑みだよ、お綱さんを」
話してみると、ぞんざい口も、罪がなくって艶かしくって、どこやら、国貞うつしという肌合。この美しさが、剃刀の折れを指に挟んで働くとは、目の前にいるお十夜にも、思えば不思議な気にされる。
「いけねえ、うっかりすると魅入られそうだ」冗談に目をそらしたが、同時にはッとした色で、
「あ、向うから、また見廻り役人の提灯が来るようだ。ええ、うるせえな」と舌打ちした。
「逃げるなら、私にかまわず行っておくれ」
「なに、慌てることはねえ、支度はあるんだから」と、お綱を手招きして、橋の下を覗いたかと思うと、低い声で、
「三次――」と呼んだ。
返辞はなかったがその代りに、ギーと出てきた剣尖船、頬冠りの男が黙々と動いた。
役方の提灯が来た頃には、お綱と孫兵衛をのせた剣尖船、堀尻を南にそれて、櫓力いッぱい木津川をサッサと下っている。
あがった所は住吉村、森囲いで紅がら塗の豪家、三次すなわち主らしいが、何の稼業か分らない。湯殿から出て、空腹を満たして、話していると夜が明けた。
「――お先に、今夜のお礼をいっておきますよ。わたしたち仲間の紋切形で、仕事をするとその場から、プイと百里や二百里は飛びますからね――お前さんも、たまには江戸へ息抜きにおいでなさいな。本郷妻恋一丁目、門垣根に百日紅があって、挿花の師匠の若後家と聞けばすぐ知れますよ。エエ、それがわたしの化身なの」
お十夜にこういって、お綱はその日昼いッぱい寝る。翌晩も、夜はブラリと出だして、昼寝する。なるほど、これではお嫁になれない性。
と思うと、四日目か、五日目。
朝風呂につかって、厚化粧して、臙脂を点じて、髪も衣裳もそッくり直した見返りお綱。パチンと紺土佐の日傘を開いて、住吉村から出て行った。
どこへ行くのか、何を目星か、縦から見ても横から見ても、掏摸とは思えぬ品のよい御寮人様。
四天王寺の日除地、この間までの桃畑が、掛け小屋御免で、道頓堀を掬ってきたような雑閙だ。
日和はいいし、梅若葉に幟の風、木戸番は足の呼び合いに声をからしている。
名古蝶八の物真似一座を筆頭に辻能、豊後節の立て看板。野天をみると、江戸上りの曲独楽に志道軒の出店。そうかと思うと、呑み棒、飴吹き、ビイドロ細工、女力士と熊の角力の見世物などもある。
「さあ、いらはいいらはい。ナガサキ南京手品ある。太夫さん、椿嬢、蓮紅嬢かけ合いの槍投げ、火を放けて籠抜けやる。看板に嘘ない」
唐人ぶりが珍らしいので、この前がまた大変な人だかりだった。
「変ってやがる、べらぼうな入りだな、ちょッとのぞいて見ようかしら? だが、待てよ……」
押し揉まれながら迷っていたのは、笠を首にかけた待乳の多市、片手で人を防いでいるが、片手は懐中の前を離さない。
親分の銀五郎は、今日も蜂須賀の蔵屋敷と下屋敷の方へお百度詣りだ。例の、阿波入りのため、便乗する関船手形、入国御免切手、二つを手に入れなければならないので。
願書を出す、身元がいる、五人組証明をとられる、白洲で調べをくう、大変な手数。元は関船手形だけですんだ。こう厳密ではなかった。それにはわけがある。阿波の鎖国、徳川幕府の凝視――。だから銀五郎の用があった、押しても渡りたい密境だった。
埒があくまで、多市は用なし、「たまにゃブラついて来い」とおっ放されたが、懐中にはちょッと重目な預り物、後生大事にかかえているので、肚から楽しむ気になれない。
「おっと、それどころじゃねえ」すぐ性根になった。「この大金、もしものことがあった日にゃ、お眼がねで供をしてきた正直多市がどうなるんだ」とうとう南京手品を諦めて歩きだした。
そして、西重門の側へ寄ろうとすると、楼門の内から、ゾロゾロ吐き出されてくる参詣人の中で、
「アー」と軽い叫びがする。
ひょいと見ると、上品づくりのお嬢様。揉みにじられた上、よろよろと、のめってきた。
「あぶねえ!」
思わず支えて、多市が手を出すと、ポンと日傘が来た。女の体は風鳥のように、胸を掠ッて後ろへ抜ける。
「ア、もし」
手に残された日傘をつかんで、多市が呼んだ。
女はもう五、六間。小走りに過ぎていたが、ふりかえって、ニッコリ笑った。――そのニッコリがまたばかに絢爛、菊之丞の舞台顔を明りで見たよう。
「もし、これを、傘を――」
「ア」女は遠くでうなずいた。
「いいんですよ」
「あれ……」
味な気もしたがまだ解せない。
「よかアねえ、女持ちだ、貰ったところで始末に困ら」と、身を動かした時初めて気がついた。
自分のふところから、晒木綿がダラリと二本はみだしている。
二重に巻いた腹巻を、刃味も凄くタテに裂いた剃刀の切れ口。
「あ! 畜生ッ」
逆づかみにした日傘をふって、眼色をかえた待乳の多市は、まっしぐらに駈けだした。
「スリだ、スリだスリだ!」
「ちぼ! ちぼッ!」
人の声だか自分の声だか分らない。西門唐門のまわり、七堂伽藍を狂気のように走り巡った。と、出会い頭に、猫門の前で、バッタリぶつかった男が、
「おい、待ちな」と、軽く腰帯を取った。
「それどころじゃねえッ」
「まあ落ちつけよ、手配が肝腎だ、そうあがって騒いだところで、めッたに捕まるものじゃねえ」
「何だい、てめえは」
「これだ」ふところを覗かせた。紺房の十手がある。「目明し」と聞くと、多市は何思ったか、振りきって、また一散にそれてしまった。
「妙な奴だ、手配をしてやるというのにズレちまった。はてな? ……」目明しの万吉、また何か幻想を描いて、根よくそこらを歩きだした。
堂塔は淡くぼかされて、人気もない天王寺の夕闇を、白い紙屑が舞っている。
日傘が一本落ちていた、――破れた女持ちの傘。
それを拾って、西門に立ったのが目明しの万吉で、
「ここだナ、ここで女がこう行って、弾みに、ポンと男へ傘をつかませたんだな。だが、何のためにだろう。アア手を空かせて体と心の両隙を狙ったのか」仕方身ぶりで、人の話と現場をしきりに考え合せている。
「とすると、こいつア上方のちぼ流でねえ、江戸の掏摸だ。定めし小粒でもないだろうに、盗られた奴も変っている、何だって俺をふりきって逃げたのか……ウーム、こいつあどうもそのほうがよっぽどネタになるかもしれねえ」
傘をほうって抜け道へ出る。堺戻りの町駕、島の内まで約束したが、気が変って五櫓の富十郎を一幕のぞき、ブラブラ歩いて帰ってきた。
「おや、あの男は?」と、その途中で、万吉の顔の筋がピンとした。待乳の多市にまぎれなしだ、疲れてしょんぼりした影が、渡辺町の旅籠土筆屋へスウと入った。
一息抜いたところで万吉は後ろからこっそり、
「ご免よ」と主の和平に目じらせして、梯子下の道具部屋にしゃがみこむ。
「ふム、六日も前から泊っているのか、宿帳はこれだな、どれ……」ペラペラとめくって、自分の耳朶をギュッとつねった。何か苦しい考え事をする時に万吉がよくやる癖だった。
「連れの、銀五郎というのは?」
「阿波へ入る用向きがあるとかで手形をとるため、毎日蜂須賀様のお役目筋へ手を廻していましたが、どうも御免切手が下りない様子で、今日は早くからお戻りでございました」
「そうか、ちょっと二階を借りてえな」
「ええ、よろしゅうございますとも」
「二番の部屋といったっけな」裏梯子を上がって隣り座敷へ、そっと細目の隙見、鰻なりに寝そべっている。
「多市、そう案じることはねえ」という声は唐草銀五郎のほう。
「一晩派手にやったと思やあ三百両は安いもの、路銀は早打で取り寄せる。……だが、お千絵様から頼まれた大事な手紙、ありゃ、てめえが別に袷の襟へ縫い込んでいた筈だっけな」
「さ、親分には、そういいつけられていたんですが、つい、紙入れと一緒にしておきましたので……」
「なに」初めて少し色をなして、
「じゃ、お千絵様の手紙も一緒に掏られたのか。ウーム、こいつア大弱りだ」とガックリする。
「もし、親分……」多市はおろおろ、「今度の四国渡りに、あれをなくしちゃ、お千絵様のご実父が生きていたにしろはるばる来た甲斐のねえことは、ぼんくらな多市にも分っております、ドジを踏んだお詫びに、わっしはこれから夜昼なしに江戸へ戻って、もう一度お千絵様から手紙をちょうだいしてきますから、どうか、それで虫をこらえておくんなさいまし」
「オオ、その元気がありゃ何よりのこと。じゃこうしよう、実は関船の便乗もとうとう今日で駄目になっている」
「えっ、阿波入りの御免切手は下りませんか」
「何しろ厳しい馬鹿詮議で、下手をするとこっちの秘密を気取られそうなんだ。そこで俺は、道を代えて讃岐境から、山越えで阿波へ入りこむつもり、一足先に多度津まで延しているから、てめえは早速、お千絵様からもう一通貰ってきてくれ、それが今度の眼目だからな」
「そうきまったら、わっしはすぐに飛び出すと致します」
「ま、暁の早立ちとしたらよかろう」
「一時は、死んでお詫びとまで思ったところ、体を粉にするぐらいは、何の糸瓜でもありあしません」気を持ち直すと江戸者はお先一途。にわかに元気づいた多市、ポンポンと手を叩いて「オイ、姐さん姐さん、誰でもいいや、お急ぎの夜立ちだ、草鞋に握り飯を揃えてくんねえ」
その間に目明しの万吉、トントンと降りてきた。
「ア、お帰りで」折よく、帳場格子へ投げこまれた飛脚包みを持ちながら、和平がそこへ送りに出ると、目早く万吉が眸を光らせて、
「何だい、今の三度屋は?」
「ヘエ、例のお客様へ届いた飛脚で」
「どれ」いや応なく取って見ると、桐油紙ぐるみ、上に唐草銀五郎様、出し人の名は裏に小さく「行き交いの女より」としてあった。
「お役で封を切る!」と、ぷッつり――切った麻糸からすべり落ちたのは、印伝革の大型紙入れ、まさしく多市の掏られた品物だ。
「悪い洒落をする女だ……」と苦笑いした目明し万吉。江戸のスリ気質には、ほかの盗児にない一種の洒落気や小義理の固いところがあると聞いていたのを思い合せて、
「ははあ、その筆法かな」とうなずいた。で大急ぎに、飛脚包みから出た紙入れをあらためてみると、案のごとく、金はなかったが、一通の手紙が中に潜んでいた。
丈夫な生紙の二重封じ、しかし、その封じ目は破れていた。お綱が読んだものらしい。
――お父上様が阿波へお入り遊ばしてから蔭膳の日も早や十年でござります。柳営では隠密役御法則をふんで、十年御帰府なき父上を死亡と見なし、権現様以来の甲賀家も遂に断絶の日が近づきました――
という意味がこの手紙の書きだしで、流麗な女の手跡が、順に解れゆくに従って、万吉の眼底異様な光を帯びてきた。
――千絵も十九となりました、男でない私は絶家の御下命をどうすることもできません。けれど私は、九ツの時お別れした父上様が、まだ御存命と信じられてなりません。夢にも世をお去り遊ばしたとは思えません。そこで乳母の兄唐草銀五郎が、この手紙を持って、命がけの阿波入りをしてくれます。もし幸いに御無事な上これがお手に入りましたら、甲賀家の断絶も僅かにその命脈を延ばすことができます――
ここまで読みかけると、万吉の胸が処女のように躍った。彼にも足かけ十年臥薪甞胆の事件がある。それへ一縷の曙光を見出したのだ。
「江戸で甲賀を名乗る家といえば駿河台の墨屋敷、隠密組の宗家といわれる甲賀世阿弥だ……ウウム、その世阿弥が十年前に阿波へ入ったきり行方不明? こいつアいよいよ他人事じゃあない」と、眼を光らして次の文字を辿りかけると、トントントンと梯子段の音。二階から、唐草銀五郎が多市を送って降りてきた。
「おや、もうお支度がおすみで……」帳場格子の前へ、主の和平や番頭も頭を並べて送りだす。万吉はいちはやく、手紙を抱えて梯子裏へ身を隠した。
「じゃ、気をつけて行けよ」と銀五郎の声。多市は元気よく、道中差をおとし菅笠を持って、
「では親分、行ってまいります。道中はお気遣いなく、やがて多度津の港で落ち合います」
土筆屋の明りを後に旅立ってしまった。と一緒に万吉も、裏から草履を突ッかけて、溝板の多い横丁を鼠走りに駈け抜けている。
「この手紙一本のために、あの男を、江戸まで引っ返させるのは、いくら冷てえ目明しでも少し気の毒だ。事情を話して返してやろう、だが、こっちの知りたい所も充分に聞かなくちゃ埋まらねえ。常木先生を初め俵様、ご恩を蒙る俺までが一生仕事の阿波の秘密! オ、やつ、大股になって急ぎだしたな」
町通りを行き過ぎた多市を見かけて、万吉もヒラリと土蔵の蔭を離れた。手紙と交換に阿波入りの事情や甲賀世阿弥の身の上などを探り取ろうという了簡。
「まだこの辺では人目に立つ、も少し淋しい所まで歩かせて、今夜こそ、天王寺で逃げだされたような下手をやらずに……」などと加減をしてゆくうちに、天満岸を真っすぐに、東奉行所の前を抜けて、京橋口のてまえ、八丁余りの松並木――お誂えの淋しさである。
「オーイ、江戸の人」と呼びかけようとしたが、まだ逃げられる惧れがあるので、少しずつ万吉が追い着きだして行くと、しまった! 一足違いに前へ行く多市の影へ、何か、不意にキラリッと青光りの一閃! 横から飛びかかって低く流れた。
「わっッ」と突然、多市の声だ。斬られたと見えて苦しそう、京橋堤をタタタタと逃げ転んできた。と、その影を追い慕って、波を泳いでくるような銀蛇が見えた。無論業刀の切ッ尖である、はッと思うと二の太刀が動いたらしく、途端に、多市は夢中になって天満の川波めがけてザブンと躍り込んでしまった。
「ちぇッ……」という舌打ちが聞こえた。闇を漂よってくる血の香がプーンと面を衝つ。
「畜生!」万吉の眼は炯々となり、五体はブルブルッとふるえてきた。右手に何かを固くつかんで身を屈ませて行くが早いか、
「御用ッ!」とばかり一足跳び。
腕の限りヒュッと投げた方円流二丈の捕縄は、闇をあやまたず十夜頭巾の人影へクルクルと巻きついた。――しかし対手は驚かない、絡んだ縄を左に巻きつけ、静かに、
「生意気な手先め、サ、構ってやるから寄ってこい」右手の大刀を片手にふりかぶった。
「ムッ!」と万吉、毛穴の膏を絞ったが、まるで腕が違っている、こっちで投げた捕縄は向うの武器、見る間にズルズルと魔刀の下へ引き寄せられる。
辻斬り商売のお十夜孫兵衛、本名は関屋孫兵衛である。もと阿波の国川島の原士、丹石流の据物斬りに非凡な技をもち、風采もなかなか立派だが惜しむらく、女慾にかけても異常という性質がある。
阿波の原士というのは、他領の郷士とも違い、蜂須賀家の祖、小六家政が入国の当時、諸方から、昔なじみの浪人が仕官を求めてウヨウヨと集まり、その際限なき浪人の処置に窮して、未開の山地を割りあてた。これが半農半武士に住みついて、蜂須賀名物の原士となり、軍陣の時は鉄砲二次の槍備えにあてられ、平時の格式は郷高取、無論、謁見をも宥されて、慓悍なこと、武芸者の多く出ることはその特色。なかには、原士千石といわれるほどな豪族もある。
その千石ほどな家柄を潰して、三都諸国を流浪のあげく、この春頃から御番城のある大阪の河岸すじを夜な夜な脅かしているお十夜孫兵衛。
京橋口の松並木で、目明し万吉を子供あつかいになぶった上、「さ、召捕らねえのか」と嘲りながら、斬ると見せた太刀を鞘に納め、針金のように、ピンと張った捕縄の端を一尋手繰ってグンと引いた。
「くそウ!」と万吉は死力でこらえる。
目明し仲間でも、少しは顔を売ったかれが、捕縄を捨てて逃げたといわれては男のすたりだ。――そこを狙って孫兵衛がポンと放したから他愛もなく、
「あッ」と万吉がよろけ足をふんだ、と同時に、生き物のようにはね返ってきた縄尻が、どうする間もなくグルグルと巻きついた。
そして、縛るのが商売の目明し万吉、あべこべに孫兵衛のために捻じつけられ、両手両足、ギリギリ巻きにくくられてしまった。
「殺せ、殺してくれ」とかれが歯噛みをするのを聞き流して、暗い川面をのぞいていた孫兵衛、一つ二つ軽く手を鳴らすと、いつかの晩のような約束で、三次の船がギイと寄ってきた。
「兄貴、何をバタクサしていたのよ!」と川の中から三次がいう。
「目明しを一匹召捕ったのだ。住吉村へつれていって、四、五日飼ってみようと思ってな」
「何だ、つまらねえ真似を……、鈴虫なら啼きもするが、目明しなんざあ可愛らしくもねえ。いッそ川の中へ蹴転がしてしまいなせえ」
「まアいいわ、手先や同心の内幕を聞くのも慰みだし、第一お前の渡世のためだ。ところで三次、今夜おれはいろは茶屋で泊まるから、こいつを乗せて先に帰ってくれないか」
「いい心掛けにはなりてえものだ。お人よしの三次を放って、いろは茶屋のお品とたくさんふざけておいでなさい」
「妬くなよ、明日は早く帰るから」
「まア体だけをお大事に」
「ばかにするな、はははは」と、孫兵衛、くすぐったい笑いを残して、雪踏の音、チャラリ、チャラリ……と闇に消える。
その晩から、万吉は、森囲いの怪しい家、住吉村の三次の住家へ監禁された。縄目を解かれてほうり上げられた所は、屋根裏を仕切ったような空部屋である。夜が明けて、鉄格子から流れこむ光に見廻すと、太い綱、帆車、海図などの船具や鉄砲などが天井裏につまってある。
「あ! ここは荷抜屋の巣だな」と万吉は眼をみはった。荷抜屋というのは、御禁制の密貿易をやる輩のことで、年に一度か二年目ごとに、仲間で集めた御法度の品を異国船に売り込むのが商売。この家にいる甲比丹の三次は、すなわちその荷抜屋の才取なのだ。
お十夜の孫兵衛に、辻斬りをすすめたのもこの三次。懐の金よりはその腰の刀を奪うのが目的である。当時、日本刀は荷抜屋の一番儲かる品で、また一番買い占めにくい品でもあった。
そこで辻斬りは役人を五里霧中に迷わせ、女色の深い孫兵衛をしていろは茶屋に堪能させる方法となった。
だが万吉には、こんな者を縛ってみる気は起こらない。彼の目の前には、もッともッと大きなやまがブラ下がっている。あの手紙から暗示を得た、十年苦節の大疑獄、十手の先ッぽで天下を沸かせるような功名心に燃えている。
「ええ忌々しい、何とかしてここを抜け出す工夫はねえかしら……」
その悶えもいたずらに、三日とたち四日もすでに真夜中に近い頃――。
「おや? ……」思わず耳を澄ましていると、下の部屋からガヤガヤと大勢な人声。そして時々、ピタピタ、と何か畳を打つような不思議な音がするのだった。
妙な物音? 階下で何が始まったのかしらと、万吉は、無駄とは知りながら、また昨日も一昨日も試みた努力を、真っ暗な部屋でくり返した。
出口は錠前、窓は鉄格子、半刻あまりも押したり探ったりしているうち、隅の床板に、指が一本入るくらいな穴を見つけた。
「しめた」とも思わず、何気なく引っ掛けて持ち上げると、偶然、四角な板がポンと開いた。階下を隔てている天井裏、そっと降りて見ると、荷抜屋の贓品がだいぶ隠匿してあった。
そんな物には目もくれない。明りのさしている方へ、猫のように匍い出した。と、一段低い所に、金網張りの欄間があって、ひょいと覗くと下の部屋も人間もすッかり見える。
何をしているのかと思うと、三次を初め仲間の輩が、きれいな札を撒き散らし、小判小粒の金銀を積んで、和蘭陀加留多の手なぐさみをしている。
「何だ、この音か……」と馬鹿げてしまったが、下で夢中なところを幸いに、万吉そのまま寝そべって、一応彼らの人相をよく見覚えておくのも無駄ではなかろうと考えた。
頭数は五人である。店者風の由造、東条隼人と呼ばれる侍、十徳の老人、為という若者、それに甲比丹の三次、中でも三次は、潮焦けのした皮膚に眼の鋭いところ隼という感じがする。
「どいつもまるで血眼だ。ウム、この分では明日は疲れる、その隙に天井裏を引ッ剥いで逃げ出すには究竟だ」とは万吉がうなずいた腹の底。
案の定、慾心の修羅場はなかなかやまなかった。鶏鳴を知らず、陽が照りだしたのを知らず、とうとう明日になっても、蝋燭を継いでそこだけの夜を守り、いよいよ悪戯がたけなわになる。
そのうち誰からか、きまりものの苦情が出て、何かガヤガヤもめだしたが、不意に向う側の板戸が外からガラリと開いて、度胆を抜くような太陽の光がそこから流れこむ。
「誰だ!」ぎょッとした五人の眼が、期せずして振りかえると、
「驚くなよ、お十夜だ」提げ刀になって、孫兵衛がのっそり五日目に帰ってきた。と、その後ろからまた一人、まばゆいばかりな厚帯に振袖姿のお嬢様、玉虫色の口紅をしていう言葉はあられもなく、
「おや、とんだところをびっくりさせて悪かったね」とそこへ来て、大の男たちにひるみもなく、小判や小粒の燦めく中へフワリと風を薫らせて坐った。
「誰かと思ったら、お綱さんじゃねえか」
三次が眼をみはると後の四人も、加留多の紛紜を忘れて、しばらくはこの一輪の馥郁さに疲れた瞳を吸われている。
「この間の口ぶりでは、巧く行ったら、すぐ江戸へ舞い戻るような話だったが、すると、あの仕事はとうとう失策物になったのか」
「どう致しまして、そんなわたしじゃありません」とお綱は笑って――。「思う通りに行ったから、ついでに上方見物としゃれのめし、道頓堀の五櫓も門並のぞいて、大家のお嬢様に納まりながら、昨日は富十郎芝居の役者や男衆が七、八人も取巻きで、島の内の菖蒲茶屋、あそこで存分に遊び飽きておりましたのさ」
「そこでバッタリおれが出会ったわけ――」とすぐ孫兵衛が話を足すと、一座の中から半畳が出て、
「じゃ、兄貴も一人の筈はない、いろは茶屋のお品か誰かを連れこみで行ったのだろうが」
「お手の筋だ。しかし、売女のお品と江戸前のお綱とは芥子に牡丹ほどの違いがある。すぐ片ッ方は追い返してしまった」
「おやおや、怖れ入った浮気振り、じゃ昨夜はお綱さんとよろしくあって、見せびらかしにここへ来たという寸法か。何だかこっちは面白くもねえ」
「ところがこのお嬢様、見かけに寄らない心締りで、実はおれも、見事に肱を食っているのだ」
「やれ、それでこっちも、安心した」と笑いくずれている間に、お綱は細い指尖へ、加留多の札を四、五枚取ってながめていた。
「三次さん、これはやっぱり花加留多?」
「長崎から流行って来たやつさ、異国のものでね」
「面白そうだこと、やって見ようか」
「どうしてどうして、男同士の勝負ごと、はした金ではすまないぜ」
「こればかしじゃ足らないかしら?」帯の間から、手の切れそうな百両の封金をコロリと三つ。五人は思わず膝を退らせ、狡猾な眼色を慾に燃え立たせる。
天井裏では、欄間の金網から猫目を光らしている万吉。「いけねえいけねえ、この様子じゃ、いつになったら奴らが疲れて寝るのだか分らねえ……」と密かに舌打ちをならしていた。
ろくに知りもしない和蘭陀加留多、三次たちのいかさまに手もなく乗って、お綱は他愛なく二百両ほど負けてしまった。
「だいぶ考え込みますね、そっちの番だぜ」
「あいよ」お綱は札を指で弾いて「よくもこう縹緻の悪い手ばかり付く……」と、一枚手から抜きかけたが、ちょっと考える様子をして、何の気もなく上眼づかいに天井を見た。と、バッタリ、欄間の隙から下を見ていた万吉の眼とぶつかった。
「おや?」と動じた顔色を見たので、万吉は慌てて首をすくませた。しかし今さら騒ぎだしては、かえってまずいと思ったので苦しい機智、上から皆の手が見えるのを幸いに、お綱の抜きかけている札を打つなと目顔で教えてやった。
「どうしたのよ、じれってえな」
「まア待って……」も一度万吉のほうをチラと見ると、右のを打てという合図、とにかく、その通りにして見ると、思い通りな札が取れた。さあ、それからはトントン拍子、何しろ向うに、敵の手裏を映す鏡があるのだから、思惑当らざるなしである。たちまち勝ち抜いて場中の金を集めてしまった。
「ああ面白かった。じゃ、これでおしまい……」お綱は涼しい顔で帯揚げを引き抜き、桝で量る程な金銀をザラザラと詰め込み、さッさと体に着けてしまう。
「待て、これでしまいにして堪るもんか」と浪人者の東条隼人がケチをつけにかかるのを、三次がなだめて、
「まあいいさ……」とめくばせした。
「お綱さんだって、どうせ三日や四日はご逗留だ。な、その間にゃ、また幾らでも手合せができるだろうじゃねえか、初心な者にはとかくばかあたりという奴があるものさ……ああ眠い、何しろ今日は寝なくっちゃあ……」
ヘトヘトになって五人がそこへ手枕で転がると、不意に立ち上がったお十夜孫兵衛、いきなり踏込みの押入を開けて、その段から天井裏へ跳び上がり、目明し万吉の襟がみをつかんで下へ引き摺り降ろした。
「や、この岡っ引め、どうしてあんな所へ出てきやがったんだ!」
総立ちになって騒ぎだしたが、まさか、この男がお綱に勝たせたこととは夢にも思いつかない。ただ岡っ引を憎む凶暴性が勃然と彼を取りまいたのだ。
「兄貴――」と三次はお十夜の顔を見て「つまらねえ者を引っ張り込んだので、世話がやけてしようがねえ、一体こいつをどうする気だ」
「おれもすッかり忘れていた。ところが、今ひょいと欄間を見たら、金網の蔭に動いていやがったので引き摺り降ろしたのだが……野郎、逃げだす隙を狙っていたに違いない」
「面倒くせえし、逃げられでもした日には藪蛇だから、早く片を付けちまっちゃどうだ」
「うん、それじゃ一つ庭先で、丹石流の据物斬りを見せてやろうか。おい、手を貸せ!」
寄ってたかって、腕や襟がみを引っつかみ、ズルズルと万吉を庭へ曳出した。椎の大木、その根へ荒縄で縛りつけ、三次が棒切れでピシピシと撲りつける。
「さ、ぬかせ、てめえはお十夜の兄貴へむかって、只一人で御用呼ばわりしたくらいだから、この荷抜屋仲間を嗅ぎつけていたに違いねえ。奉行所でも知ってるのだろう、なに、知らねえことがあるものか。さッ、てめえの相棒は誰と誰か、手入れをする諜し合せもあったろう! 野郎! いわねえとこうだぞ!」ピシリッ、ピシリッと皮肉を破る鞭の苦痛を万吉じっとこらえている。しかしその苦痛よりは、最後の一秒間まで、何とか助かる工夫はないかと悶えた。ここで自分が助からねば、せっかく握った大事件の曙光、再び無明に帰して、常木先生も俵様も終生社会の侮蔑に包まれて、不遇の闇に生涯を送らなければなるまい。――と思えばいよいよ命が惜しい。
「駄目だ、こいつア!」三次は棒切れを投げて、「骨を折って口を開かせたところで、大したこともなさそうだ」と孫兵衛の断刀を催促する。お綱だけは、何だか可哀そうに思えた。
「助けておあげな……」おとなしく口を入れた。
「一人や半分の目明しを殺したところで、大びらに悪事ができるわけじゃなし……ね、皆さん、後生だから助けておやりよ」
「とんでもねえこった!」三次が首を振った。
「こいつを返しゃ、俺たちの根城が分る、すぐ御用提灯の鈴なりで、逆襲せのくるのは知れている。兄貴、早く殺ってしまわねえととんだことになるぜ」
「うん!」とその注意にうなずいた孫兵衛は、血脂は古く錵の色は生新しい、そぼろ助広の一刀をギラリと抜いて鞘を縁側へ残し、右手の雫の垂れそうなのを引っさげて、しずしずと椎の下へ歩みだした。
役目不心得につきお咎――という不名誉な譴責のもとに、退役同様な身の七年間、鳩を飼って、鳩を相手に暮らしてきた同心である。
姓は俵、名は一八郎、三十四、五の男盛り、九条村の閑宅にこもって以来、鳩使いとなりすまし、京の比叡、飾磨の浜、遠くは丹波あたりまで出かけて、手飼いの鳩を放して自在に馴らしている。
のみならず俵同心、近頃ではこの鳩を、わが分身のごとく操り、腹心の人、常木鴻山の所へ文使いさせたり、万吉を呼びにやったり、妹の所へ飛ばせたりする。
妹はお鈴という美人、身元を隠して、かなり前から、安治川岸の蜂須賀阿波守、その下屋敷へ住み込んでいる。何の手段か、何の便りを頻々と交わしているのか、いつも密書の使者が鳩だけに、誰あって気がつく者はないのである。
「旦那様、お鈴様から御返事が……」と今も召使の東助爺が、柄の小さな家鳩を拳にのせて、縁の端から一八郎の書屋を覗いた。
「うむ、来たか……」待ちわびていたらしい一八郎はすぐ小鳩の足の蝶結びを解いて、庭の巣箱へパッと放し、机の前に戻って、その雁皮紙の皺をのばした。
「東助……」読み終って嬉しそうに、
「いよいよ、阿波守が帰国の時、お鈴も供に加えられて、徳島城の奥勤めに移りそうじゃ」
「おお、それはよいご都合でござります。したが、そうなりますと使いの鳩も、あの鳴門の海を越えて行き来せねばなりませぬな」
「自信がある。あれくらいな距離は何でもない。どうじゃ爺、これほど自在に鳩を使う者も、またここに着眼した者も、一八郎をおいて余人にはあるまいが」例によって、そろそろ鳩談義の味噌が出そうな口ぶり。
「へへへへ」毎度のことなので、東助もツイ笑ってしまった。
「折角のご自慢でいらっしゃいますが、この老爺は、種を存じておりますので、実は余り感服いたしませぬ」
「ばかなことを、種なんぞと、誰に聞いた」
「天満のお屋敷で伺いましたので。はい、常木様がおっしゃいました。伝書鳩を古く使ったのはたしか唐の張九齢が元祖じゃ、一八郎が初めではないと」
「これはいかん、さようなことをおっしゃったか」
「はい、虫蝕本の『八通志』、『還家抄』などと申す書にもいろいろ載っているそうでござります」
「あははははは、もうよい、いうないうな」
「いつも旦那様の天狗講釈にあてられておりますので、その鬱憤によく伺っておきましたので……」主従、笑いに紛れている門へ、女客の訪ないがする。東助が出てみると、目明し万吉の女房のお吉であった。何か心配事がありそうに、悄々と通されて一八郎の前へ坐った。
「いかがいたした、たいそう沈んでいるではないか」
「はい」お吉は、ふだん世話になりがちな礼を述べて、「実は旦那様、万吉が、今日で五日も宅へ帰りませぬ。このところ、御用なしだといっていたのに、一体どうしたものでございましょう」
「ふウム……」と聞いていたが機嫌が悪い。
「よろしくない心配だな。目明しの居所知らず、または岡ッ引の起き抜け千里などと申して、職業がら是非ないことだ。それを四日や五日帰らぬとて、すぐ女房が妬くようでは、万吉の十手が錆るというものだ」
一八郎は叱ったが、だんだんに、お吉が話すところを聞くと、どうも叱ったほうが少し無理らしい。
京橋口で、万吉の名が彫ってある十手を拾って、届けてくれた者がある。その前夜、土筆屋で見かけたという者もあるので訊き糺すと、江戸の客をつけて行ったという話。また、その客の連れ唐草銀五郎という者も、多度津へ立った後なので、何の事件か皆目知れず、前後の事情、どうも万吉の凶事ではないかという――お吉の心配なのであった。
「なるほど――」一八郎の顔色も少し怪しくなった。
「ふウ……そうか、いやよろしい、心配せずと家へ帰って吉報を待つがよい」
お吉を帰すと、彼はやがて、選りすぐった小鳩を一羽ふところに入れ、初夏の陽がかがやかしい青田や梨の木畑の道を急いで、異人墓の丘へ登って行った。
異人墓の丘に立って、汗を拭いた一八郎。
「うむ、いいな……」思わず眸を四方へ馳せた。紺青の海遠く、淡路の島影は夢のよう。すぐ近くには川口の澪標、青嵐の吹く住吉道を日傘の色も動いて行く。
そこで、パッと鳩を放した――。
鳩は一八郎の意志をうけたように舞い揚がった。手を翳して見ていると、初めは御城番の方へ直線にツーと行ったが弧を描いて南へ返り、ハタハタと住吉村の方角へ飛び去った。
すると、異人墓の蔭で不意に声があった。
「あっ、伝書鳩――」
「俵殿ではないか」ひょいと見ると、荒目の編笠に薄羽織、風采のよい四十前後の武士。
「おお、これは常木先生」
「相変らず御熱心だの」と笠の裡で微笑した。
「いや、何……」と一八郎は鳩の行方を気にしながら「実は先生、万吉の身に凶変が起りましてな」
「ほう、それは心許ない……」
腰を下ろした侍は、元天満与力の常木鴻山、在役当時の上役で、同じ時に、同じ譴責をうけた人。以来不遇の隠士同士、互に心をあわせて、密かにある大事をのぞんでいる仲であった。
二人の失脚は、宝暦変の折だった。――明和二年の今から数えて八年前、京都で起こったあの騒動――竹内式部の密謀が破れ、公卿十七家の閉門を見、式部は遠流、門人ことごとく罪科になって解決した――あの事件の時、天満組の常木鴻山も俵同心もすばらしい活躍をした。
が、その後が悪かった。余り二人の手腕が切れ過ぎて禍いとなった。
「これは根が深いぞ――」と初め鴻山は考えたのである。
「倒幕の大事などが、長袖の神学者や、公卿ばかりで謀れるものではない。黒幕がある! 傀儡師がある! たしかにある!」と固く信じた。
「あるとすれば――どこの大名であろう? 無論西国、一体西国大名は、機さえあれば風雲に動きやすい。島津か、毛利か。いやことによるともっと意外な……」鴻山の苦心へ、俵同心や万吉も、骨身を惜しまずいろいろな機密を探って耳に入れた。
阿波二十五万石の蜂須賀重喜、まだ若くはあるが英邁な気質、うちに勤王の思想を包み、家士の研学隆武にも怠りがない、――前には式部を密かに招いて説を聞き、領土の浜では軍船を仕立てて陣練の稽古をしたともいう噂である。
「ウーム、黒幕は海の向うだ」鴻山は意を得たりとした。「阿波は由来謎の国だ。金があって武力が精鋭、そして、秘密を包むに都合のいい国、一朝淡路を足がかりとして大阪を図り、京へ根を張る時は、西国大名と呼応して屈強な立場――捨ておいては一大事である」
すぐ意見を書いて城代酒井侯へ差しだした。
ところが、御城番、町奉行、所司代誰あって耳を藉す者なく、彼の上書は嘲笑の種となって突ッ返された。つまり、どれもこれも事勿れ主義。
「そんな馬鹿げた後ろ楯にはなりますまい。阿波は松平の御姓を賜わり、代々、将軍のお名の一字をいただくほどな家筋じゃ」
「だからいけない!」鴻山はいよいよ説を持した。「それほど、阿波の力が大きいのだ、将軍家でも怖れているのだ」と、周囲に構わず、俵同心に探りの手を入れさせた。が、その活動に移らぬうちに、二人は譴責! 出仕に及ばず――という形式をとられた。
「二人とも天狗が過ぎた」「名声に酔って、いわゆる妄想狂になったのだろう」などと喧しい周囲の侮声に耳を掩って、鴻山と一八郎はなおその信念はまげず、それから七年、ただ阿波の内情を探ることにのみ腐心してきた。
重宝なのは目明し万吉。
彼は身分が軽いので、咎めもなく、今でも東奉行付きで、十手をとっているところから、何か阿波のことを聞きこむとすぐ知らせてくる。今では二人にとってまたなき忠実者だ。
その万吉が行方知れず――常木鴻山も驚いた。一八郎は、今放した鳩を手づるに、彼の居所を突きとめて見せるといった。
「では、及ばずながらこのほうも手を貸そう」と鴻山は立ち上がったが、何か思いだしてスタスタと異人墓の蔭へ戻って行った。
そこに一人の連れがいた。武士ともつかず医者ともつかぬ風采の男。墓の蘭字や形を写していたが、鴻山から事情を話され、後について一八郎の側へやって来た。
「わしは江戸の平賀源内、伝書鳩は面白うござるな、ご迷惑でも一つご同伴願いたい」
また一人の加勢が殖えて三人連れ、異人墓の丘を下りて、鳩の飛んだ方角へ急ぎだした。
一方、住吉村の木立の中、荷抜屋仲間の隠れ屋敷。
そぼろ助広の大刀が、椎の樹の下――万吉の頭の上に――きらりと三尺の虹を描いた。
真ッ二つ! 孫兵衛の息と手が、さっと放たれようとした刹那、甲比丹の三次やほかの者たちと、こっちの縁側にいた見返りお綱が、
「そんな据物斬りがあるものか!」
駈けだして行って、お十夜の手を遮ってしまった。
「危ねえッ、何を邪魔するんだ」
「だって、罪じゃあないか」咎めるような美しい眼、「据物斬りを見せるといったくせに、自由の利かない人間をバッサリなんぞは曲がない」
「いやにお前は庇い立てするな」
「それや悪党にだって、少しぐらいの慈悲心はあろうじゃないか。ね、縄を解いて、暴れさせて、対ってくるところを斬ったらどう?」
「どっちにしたって同じことだ」
「いいえ、ただね、私の気がすむんだよ。見ても見いいし、罪でないような気がするだけさ」
いっているうちに帯から抜いた懐剣! 万吉の縄目をぷっつり切って、
「さ、これを貸してあげるから、お前さんも男らしく……」と懐剣の柄を握らせてやった。
和蘭陀加留多の返礼だよ――という眼でじっと渡してやる。
「ありがとう!」
逆手にとって万吉がパッと立った。お綱が蝶のように飛び離れると一緒に、三次、隼人、為なども、腰を立てて凶猛な気配りになる。
「なるほど、このほうが気合いがのるわえ!」
お十夜の声! 椎の下からスルスルと延びてくる助広の無気味さ。刀の柄糸を捻りぎみに、右手は深く左手は浅く、刀背に蛇眼をすえて寄る平入身――。
万吉は膏の汗。ジリ、ジリ……と一寸づまりに後退った。
「どうせ命はねえ!」
覚悟はしている。だが、あの妙な心意気の女に、懐の紙入れ――大事な手紙の入っている――あれだけを頼んで俵様に届けたいが、と思って気を配ったが、素早いお綱はその時はもうこの庭に見えなかった。
「ええ、やぶれかぶれだッ」と、万吉が踏み止まって、怖ろしい眼を対手に射つけた。ピタと孫兵衛の切ッ尖も止まる……。
その時、風ではない――椎の若葉にバタバタという大きな羽ばたき。一羽の鳩だ。
「あっ、俺を探しにきた!」
と万吉の眼が上へそれるや否、孫兵衛の刃がさっと斜めに走った。切ッ尖に胸を掠られて、万吉はどンと仰向けになったが、はね返って栗鼠のように木の幹を楯にとった。
「野郎!」お十夜の跳びかかったのも真に迅い。白刃と人、渦になってグルグル木の幹を巡り廻った。と、屋根から斜めに落ちてきた今の小鳩、何かに狂いだしたように、そぼろ助広の切っ尖に飛びまとって離れない――。
「万吉、しっかりいたせ!」
塀の上に、突然な声があった。
「あっ、旦那」
「一八郎が参ったぞッ、もう大丈夫」
ポンと飛び降りてきた俵同心、力をあわせてお十夜の側面へかかる。わっと、総立ちになったのは甲比丹の三次をはじめ荷抜屋の誰彼、脇差を閃かす者、戸惑う者、かけこんで錆鎗を押っ取る者。据物斬りの見物が、意外な血をみずから見ることになりだした。
するとまた、木戸を蹴破ってきた一人の助太刀、常木鴻山である。常木流の捕縄術は自他共にゆるす名人。しかし今は捕るより斬れの場合として、抜くやまたたく由造を薙ぎ、浪人者の隼人の腕を斬り落した。
そればかりか、塀の外では、
「御用ッ、御用ッ」とさかんなかけ声。いよいよ輩は度を失い、孫兵衛一人の悪戦加わるばかりである。
だが、役付でない鴻山や一八郎が、かく早速な捕手を連れてきたのも不審――と外を見ると、捕手はいない、すぐ前の木立の蔭に、たッた一人の男が腰をかけている。
細い丁髷、細い顎。異人墓から同行してきた平賀源内である。医者で作者で侍で商法家だが、一つ武芸者ではなかりし源内、快刀乱麻の手伝いはできないので、時々そこから、
「御用ッ、御用ッ」
といっては、支那扇子で顎を煽いでいる。
荷抜屋屋敷へ真昼の不意を襲った剣戟の旋風は、一瞬の間に去ってしまった。囲いの中に、喚きや雑音の騒動がハタとやむと、後はまたもとに返ってソヨともしない森の静けさ――住吉村の奥らしく、ジーッと気懶い蝉時雨。
「源内どの! 源内殿!」
彼方で呼ぶ声に腰を上げて、平賀源内、唐人扇子をパチリとつぼめて帯へ差し、
「ははあ、片づいたとみえるな」
踏み壊された木戸口から、大急ぎに飛び込んだ。
見ると、庭には点々と血汐の痕、戸障子は八方へ無残に倒れ、甲比丹の三次と荷抜屋の手下二人は、常木鴻山が後ろ手に縛し上げてしまった様子。
「やられましたな、常木先生、いやどうも大変な血汐で……」と源内は酸鼻に顔をしかめながら、気味悪そうに、拾い歩きをして入ってきた。
「そして、俵殿はどうなさいましたか」
「お十夜と申す奴だけが、素早く逃げ失せたので、後を追って駈けだしました。ところで、源内殿にはお気の毒ながら、そこに倒れている目明し万吉、ちょっと手当をしてやって下さるまいか」
「承知しました。薬餌のほうなら源内のお手の物……オ、これや気絶している、数日の疲労があるところへ、ドッと助勢が見えたので、一時に心が弛んだのであろう」
井水を汲んで口へふくませ、自家の薬丹を印籠から取り出しなどしている間に、鴻山は、縛し上げた三次や二人の手下を引っ立て、一室にほうりこんで厳重にとざしてしまった。
そこへ、俵一八郎が、息を弾ませて帰ってきた。「残念!」と流るる汗を拭きもあえず、常木鴻山の前へ片膝をついて、「森端れまで追ッかけましたが、孫兵衛めは、腕の鋭いばかりでなく、怖ろしい敏捷なやつ、たちまち姿を見失って、何とも無念に存じます」
「いやいや、万吉さえ救えてみれば、逃げた奴は取るに足らん」と、鴻山は一方を振りかえって「源内殿、容子はどうでござるな?」
「気がつきましたわい、もうご心配は要らぬ。これ万吉、万吉!」
「ああ……」呻きだした万吉、ムックリ起きて、きょとんとあたりを見廻していたが、鴻山と一八郎の姿を眸に映すと、飛びつくように摺り寄った。
「あ、ありがとうございました……ありがとう存じます。旦那方がこなけりゃこの万吉は、もう疾っくに椎の木の肥しになっているところでした」
ペタリと両手をついたさま、心から嬉しそうである。
「気分はどうじゃ、大儀ではないか」
「なアに大丈夫です、これしきのことにヘコたれちゃ、目明しという肩書に面目がありゃしません。そうだ! 何より先にお両方へお目にかけたい品があります」胴巻の奥から、おののく手につかみ出したのは、土筆屋の店でふと手に入れた例の手紙である。
「万吉の命は奪られても、こいつばかりはお渡し申したいと、この四、五日どんなにもがいたことか知れません。江戸表のお千絵という娘から、阿波へ入り込んだ甲賀世阿弥へ宛てた手紙、まあとにかく、中をごらんなすッて下さいまし」
「なに、甲賀世阿弥?」
名を聞いただけで、鴻山の面がサッと変る。一八郎もきっとなって繰りひろげられた手紙の側から、じっと息をひそめて黙読した。
宝暦変の前後、鴻山と一八郎が、公卿の背後に阿波あり、式部や山県大弐などの陰謀の黒幕に蜂須賀あり、と叫んでも、当時誰あって耳を藉す者もなかったが、ひとり、大府甲賀組の隠密に、同じ炯眼の士があって、単身阿波へ入り込んだという噂――またそれが、甲賀世阿弥ということも、ほのかに聞いていたので、二人は今なおその名が深く脳裏にあった。
「ウーム、不思議なものが手に入った!」読み行くうちに二人の表情、驚異となり、歓喜となり、怪訝となり、また感激に潤む眼となった。
「こりゃ、お千絵という婦人に会えば、なおも詳しいことがあろう。世阿弥その後の消息、彼の目的、また幕府の御意向もほぼ知れよう」
「鴻山様、拙者万吉を召し連れまして、すぐ江戸表へ下向いたしましょう」
「おお、其許と万吉が、甲賀家を訪れ、何かの実相を見てきてくれれば何よりじゃ。さすれば鴻山も、その間に甲比丹の三次や荷抜屋の手下どもをさとして、阿波へ渡る秘密船を仕立てさせ、万事の手筈を調えておくであろう」
策謀によき荷抜屋の巣は、天満浪人が入れ代って、常木鴻山を中心に、その日は密かな諜し合せに暮れて行った。
近江訛りの蚊帳売りや、懶い稽古三味の音が絶えて、ここやかしこ、玉の諸肌を押し脱ぐ女が、牡丹刷毛から涼風を薫らせると、柳隠れにいろは茶屋四十八軒、立慶河岸の水に影を映していっせいに臙脂色の灯が入る。
舟では音締の撥の冴え、どこかを流す虚無僧の尺八の呂律も野暮ではない。
「どうしたのだろう由造は? 今日で四日目、まだ帰ってきやしない……」
お米はひとりでじれッたそう。
浜納屋づくりのいろは茶屋が、軒並の水引暖簾に、白粉の香を競わせている中に、ここの川長だけは、奥行のある川魚料理の門構え。
櫺子の下へ涼み台を持ち出して川長の一人娘、お米の待つのは誰であろうか。恋とすれば、よすぎる縹緻が心にくくもある。
「もう便りがありそうなものだけれど……」
軽く舌打ちしていると、通りすがりの者が振りかえった。
「おや、お米さん、宵の内から待ち人ですかえ?」
「ええ、待って待って待ち抜いているのですよ」
「オオ辛気、お暑いのにご馳走様」
鬢盥に、濡れ手拭を持ち添えたいろは茶屋のお品は、思いきりの抜き衣紋にも、まだ触りそうな髱を気にして、お米の側へ腰をかける。
「お風呂の帰り? ずいぶん研きたてたこと」
「そりゃ私にだって、見せたい人が半分ぐらいはありますからね」
「おやご免なさい。お染久松、お品お十夜って、この河岸では評判でしたっけね。そういえばあのお十夜さん、さッぱり影が見えないようだけれど……」
「いつぞや、菖蒲見物に遠出した時、出先で妙な女に会ってから、急に素振りが変ってしまったの。ほんとに、男ほどアテにならない者はありゃしない。お米さんもせいぜい人には気をつけてお惚れなさいませよ」
「大丈夫、私には、一生涯そんな人なんかできッこないのだから……」冗談にしていた話が、妙に淋しい調子に落ちて、お米は顔を横にそむけた、――どこかを彷徨う虚無僧の尺八、聞くともなしに聞くふうで――。
その透きとおるほど白い顔、その細そりした襟脚に気がついて、お品は、あ、うっかり悪いことをいったと心の奥で後悔する。
川長の愛娘で、縹緻のよさも優れながら、お米に一ツの不幸がある。癆咳という病の呪い――いわゆる肺が悪かった。
躑躅の間詰の御子息へ、縹緻のぞみで貰われて、半年たたぬ間に里へ帰され、出戻りの身をぶらぶらしているお米であった。隠してはいるが、年はもう二十四、五。女盛りの、燃える炎を包まれて、美が冴えるほど肺が痩せ、気の尖るほど凄艶さが目立ってきた。
「お米さんの病気には、男が一番毒ですぜ」
誰かが冗談にいった言葉も、お米の悶えにこびりついて離れぬものの一つである。
お品もうすうす知っていた。浮いた話は、この女に罪だった。けれど話の途中に幕も引けずに、
「じゃ、誰をそんなにお待ちなの?」と、テレ隠しに訊いてみた。
「うちの由造。四日前に、大事な使いに走らしたのに、まだ帰らないので腹が立ってね……」
「アア、あのぐず由さん?」あれじゃあ、色にも恋にもならない対手だ。
「その由さんがどこまで行ったのですかえ?」
「実はね、この間出入りの鰻かきが大川筋で旅の者を助けてきて、離れのほうへ寝かせてあるの」
「板前さんからも聞いていた、何でも、太刀傷のある上に水浸りになって、随分容体も重いということじゃないか」
「ええ。だけれど、江戸の伝法肌だけに気が強くて、大事な用を帯びているのだから、是非、親分を呼び返してくれ、後生だ、頼みだ、と夢中にまでいっているのだよ」
「まあ、何だか可哀そうだね。そして、その人の親分という人は」
「唐草銀五郎という方で、多度津へ立った街道へ、すぐ由造を追いかけさせたのだから、もう今日あたりは連れて帰ってくる時分だけれど……」
話しながら、何気なしに日本橋の方へ待ち佗びた眼をやると、今度こそたしかにそれ! 早を打たせて四手駕、三挺、エイ、ホイとこっちへ棒を指してくる。
「あ、やッと帰ってきた!」思わず涼み台を離れると、トンと店さきへ駕尻が下り、垂れを揃えた三挺の四ツ手の裡から、
「大儀であった」という武家言葉。
どうやら、それとは人が違っている。
駕屋に簾をはねさせて、川長の明りへ姿を立たせたのは、身装差刀、いずれもりゅうとした三人の武家揃い。
蜂須賀家のお船手、九鬼弥助、森啓之助。ともう一人は、やや風采が異なって、紺上布に野袴をつけ、自来也鞘の大小を落した剣客肌の男――阿波本国の原士天堂一角であった。
どれも馴染の顔ではあるが、お米は少し当てが外れた淋しさで、
「いらッしゃいませ」とだけですぐに案内に立つ。風通しのいい表二階、好ましい酒器や料理が調えられたところで、お米もつい二ツ三ツ酌の愛想をして席にいた。
「いや、いつ見ても艶かだの。一つまいろうか」
「まアご冗談を……」美しいといわれることは、お米にとって、病に錐を向けられるような苦痛であった。
「しばらくの間、またそちの姿も見られなくなる。つまり今宵は別盃じゃ、まあ一盃受けてくれい」
「オヤ、ではお近いうちにお国元へでも?」
「ウム、殿のご帰国に従いて渡海する筈じゃ。ままになるならお米も一緒に連れたいが……」
「嬉しゅうございますわ、森様、ほんとにお連れ下さいましよ」
「はははは、真に受けられては大変じゃ。知っての通り、他領の者は一歩も入れぬ阿波の御領地。ましてや厳しいお関船へは、どんな恋女房でも乗せては行かれぬ」
「昔は阿波のお国へも、商人衆や遍路の者が、自由に往来したそうでございますが、いつからそんな不便なことになったのでしょう」
「さよう、もう御封地になってから七、八年。阿波の水陸二十七関、いよいよ厳しいお固めである」
「それはまた何のためでございますか」
「何のためか、殿様のお胸、吾々の知るところでない。しかし西国のうちには、阿波以外にも他領者の入国できぬ所がある」
「すると、真から、そこに恋しいお方があるとすれば、清姫のように蛇になって、あの鳴門を越えなければなりませんね」
「はははは、当世女に、そんな心中立は聞かぬところ、まず心配のないことじゃ」
「いいえ!」お米は熱を打ち込んで、赤い吉田団扇をクルリと廻しながら「――私が恋をするとすれば、鳴門はおろか、どんな関でも、きっと渡って見せますわ。ええ! 蛇にでも夜叉にでもなりますとも」
「こりゃ怖ろしい。してその相手は森氏か、天堂氏か、それともかくいう九鬼弥助か」
「ホホホ、どちら様でもございません。もし仮にあったらという話――」
「何のことじゃ」笑い崩れてしまったが、お米は自分の空想を真実にして考えこみ、天堂一角は、床柱に凭れて、じっと、何かに耳を澄ましていたので、二人の声はまじらなかった。
で、はしゃいだほうの者も、笑った後をやや白けて、冷えた盃の縁を舐めていると、すぐ近くから、喨々、水のせせらぎに似た尺八の音階が、一座の耳へ流れてくる――。
「む、いつ聞いても悪くないのう……」さっきから耳心を澄ましていた一角はひとりで呟く。
「あの歌口は宗長流、京都寄竹派の一節切じゃ、吹き手はさだめし虚無僧であろう」
「まあ。本当に虚無僧さん――」と、お米は体を手欄に凭せて、二階から下を覗きながら、
「まだお若い普化宗のお方。あれ、あのように一心に吹いているのに、誰か、お鳥目に気がつく店の者はいないのかしら……」
「どれ、拙者が喜捨してつかわそう」森啓之助が、なにがしかの小粒銀を紙入れからつかみだして、手欄の方へ立ち上がった。
「森様、お包み致しましょう」お米が小菊紙を出していうと、もう幾分か酒に酔わされている啓之助、
「何の、物乞いにする投げ銭に、ご丁寧なことが要るものか」と、下を目がけて、
「虚無僧! 銭をくれるぞ」
パラッと小粒を投げつけた。
と虚無僧は、尺八の手をやめ、肩や天蓋へ落ちてきた金には目もくれず、スッとそこを去りかけた。
ところへ、ドンと川長の前へ投げ出されたのは、道中早次の駕二つ、着くが早いか、その一挺の中から、半病人で飛び出した由造が、
「お嬢さん! 由造です! ただ今帰りました」
「オオ由かい?」お米は二階から身を伸ばした。
「唐草の親分、やっとお連れ申して参りました」
「まア、早かったねえ! 今行くから待っておいで」今の尺八も客も忘れて、お米はトントントンと袂を舞わして店さきへおりてくる。
「ア痛、ア痛たたた……」
ほとんど半身、外科の手当に繃帯されている病人は、夏の夜の寝苦しさと、傷の激痛に呻きを太く、時折白い床の上に現の身をもがいていた。
と――樅や楓の植込みを縫って飛び石伝いにカラカラと、庭下駄の音がそこへ急いで行く。すぐ後から二人の影、一人は由造、一人は今早駕を下りたばかりの唐草銀五郎である。
「多市さん、多市さん」
先に立ったお米、濡れ縁から呼びかけて中へ上がった。二間造りの別棟で、魚をかこっておく生洲の水がめぐっており、板場の雑音は近いが、屋根から庭木へ掛けてある川狩使いの網の目に、色町の中とは見えぬ静かな宵の月が一輪。
「さ、親分様、どうぞこちらへ」
「ご免なすッて下さい」
脇差を取り、裾を払って、銀五郎もズッと入った。油薬の香が蒸れてプーンと鼻を衝つ。
ここまで来る間に、使いの由造から、すッかり事情は聞いていたが、見れば、余りに変り果てた乾分多市の姿――銀五郎そこへ足を入れた途端に、指の尖で目がしらの露をおさえた。
幸か不幸か、待乳の多市は、お十夜の妖刀に二ヵ所の傷を負わされながら、川長の者に救われてここに療治をうけ、今なお気息喘々と苦患の枕に昏睡している。
「多市さん!」お米は軽く揺すぶッて、
「寝ているの、苦しいの? ――お前さんがうわごとにまでいっていた唐草親分が、枕元へ来ていますよ、え、お分りかえ」
「えっ、親分? ……」多市はポッカリ眼を開いた。起き上がろうとするのを、銀五郎がそっとおさえて、その顔を覗きこんだ。
「多市、気がついたか。俺だ、銀五郎だ……」
「おッ。親分」と、細い手を絡ませて、上眼にじっと見ていたかと思うと、その瞼からポロポロと男泣きの熱い泪……。
「無理に体を動かしちゃいけねえ、じっとしていろ、もう俺が戻ってきたからには心配はない」
「親分、わっしの傷は助かりません。助かろうとも思いません……ただ心がかりだったのは、親分が先へ多度津へ渡ってしまい、わっしがこうなったことも知らずにいると、飛んだ手違いになると思いまして、そいつが気になって気になって……」
「うむ、お千絵様の手紙のことか」
「そうです。すみませんが親分、多市はもう駄目ですから、わっしに構わず、もう一度江戸表へ帰って、お千絵様に事情を話し、誰かほかの乾分を連れて阿波へお立ちなすッて下さい」
「馬鹿をいっちゃいけねえ」
励ますつもりで銀五郎は、わざと語気を強くする。
「そんな弱気でどうするものか。てめえの気性を見込んだからこそ、今度の旅にも連れてきたのじゃねえか。それも只とは違って、甲賀家の浮沈とお千絵様の一身にかかわる大事なお使いだ」
「そういわれると、諦めている命も急に惜しくなります。だが親分……所詮この容体じゃ助かりッこはありません」
「養生は気の持ちよう、しっかりしてくれ。二人の旅は他国と違って、船路も陸も関のきびしい蜂須賀領、しかも、生死の知れぬ世阿弥様へ秘密な手紙を持って入り込もうというずいぶん危ねえ勝負ごとだ。なんでてめえのほかにめったな者を連れて行かれるものか」
「アア助かりてえ……親分、多市はきっとこの傷を癒して、同じ死ぬなら、阿波の土を踏んでからくたばります……」眼を閉じ、唇を噛んで、負けぬ気の性根でそうはいったものの、呪われた二ヵ所の太刀傷ズキズキと痛みだすもののごとく、青白い皮膚にはこらえる汗が膏となって滲みでる。お米も、何とはなしに貰い泣きして、側から額の汗を拭いてやり、その手拭を由造へ渡した。
「冷たい水で、も一度しぼり直してきておくれ」
「へい」と、由造が立って濡れ縁へ出た時である。バサッ――と窓際の青桐が揺すれ、人の駈け出すような寒竹のそよぎがした。
「あっ、どこの客だろう」
「何だえ、今の音は?」お米がそこに出て見ると、表二階の客、蜂須賀家の森啓之助が、妙な気振でスタスタと植込みの中へ隠れて行った。
「御両所、この家に油断のならぬ奴が潜んでおりますぞ!」こう息まいたのは森啓之助。
表二階へ戻ってくるなりに、偸み聞きした銀五郎の言葉、また怪しむべき様子を指摘して、偵吏のごとく同僚の二人へ奥庭の仔細を告げた。
最前から、そこに浅酌していた天堂一角と九鬼弥助は、お米の後に尾いて姿を消した啓之助を、実はおかしい方へ推量しているところだったが、彼の語調や、聞き流しのならぬ事実に驚いて、思わず盃を下へおく。
「ふウん、そんな奴が隠れているのか」弥助と一角は顔見合せて、「甲賀世阿弥の名を口にし、阿波の境へ入りこもうとする奴なら、紛れもなく江戸からの廻し者じゃ」
「引っ縛ってお屋敷へ送り込み、とくと吟味をしてみる値打ちがござりましょう」
「あるとも。すぐ踏み込んで取り押えてくれよう」
「相手は町人、大事はあるまいが念のために、天堂氏も一方を見張って下さるまいか」
「承った――」と、やおら自来也鞘を左にひっさげて、巨躯を起こした天堂一角。九鬼弥助、森啓之助を先に立たせて、酔いざましの好場所もあらばと腕を扼して立ち上がった。
涼風ならぬ一陣の凄風、三人のひっさげ刀にメラメラと赤暗い灯影を揺がした出会い頭――とんとんとんと柔かい女の足音、部屋の前にとまって両手をついた。
「あの、お武家様……」見れば川長の女中である。みんな立ち上がっている血相に、ややおどおどとして遠くから、
「先ほど、お鳥目を投げておやり遊ばしたあの虚無僧が、ご挨拶を申したいから、是非二階のお武家衆の席へ通してくれと申しますが……」
「何じゃ、さっきの虚無僧があいたいと?」
「ハイ、物乞いのように銭を投げつけられては普化宗の一分が立たぬと、少し怒っているような口ぶりでございます」
「生意気な!」弥助は叩きつけるような語気で、
「そやつの挨拶とは、何かいいがかりをつけて酒代をねだるつもりであろう。押しの太い尺八乞食め、見せしめに素ッ首をぶち落してくれるから召し連れて来い」ひどく癇にさわったらしく、ぐわんとどなりつけるのを森啓之助がなだめて、
「まあ九鬼氏、多寡の知れた虚無僧風情じゃ……」一方へ大事な出先と目顔に知らせて、女中の方へもこういった。
「これ、さような者の言い草をいちいち受けついでまいるから悪い。早く塩でも撒いて追っ払ってしまえ」
すると、一間を越した隣り部屋、今までシンとしていた所から、ポンポンと軽く手を打つ客があった。
「はアい」いい機にしてそこへ立つと、中には女の一人客、五種六種の料理を取ってキチンと静かに寛いでいる。
打ち見たところその女客、文金の高髷に銀釵筥迫、どこの姫様かお嬢様かというふうだが、けしからぬのはこのお方、膳の上に代りつきのお銚子を据え、粋な莨入れに細打の金煙管、ポンとはたいて笹色の口紅から煙をスパッとくゆらした。
「すみませんね、忙しいところを」
「どう致しまして、何ぞ御用でございますか」
「いいえ、何も別段なことじゃないんですけれど、ちょうど、お隣で断わられた虚無僧さんに一曲吹いて貰いたいと思いますの。ご苦労だけどここへ呼び入れて下さいませんか」
「あの、ただいまの虚無僧を?」と、女中は一方へ気兼ねをして、すぐには応じかねていると、案の定、向うでは聞き咎めた九鬼弥助が、
「皮肉な真似をいたす奴じゃ!」憤声を洩らして、食ってかかりに来そうであったが、
「止せ止せ、ばかばかしい」啓之助と一角が、しきりにそれを制している。
「大事の前の小事、そんな者に当り散らしているひまに、離れの奴が蜂須賀家の侍と知ったら、風を食らって逃げ失せぬとも限らぬ」
「そうじゃ、九鬼氏一刻も早く!」バラバラと裏梯子を降りて川長の庭――夜露をしのいで忍びこむと、人の気配にさとい生洲の魚がパチャッと月の輪を水にくずした。
「しッ……」と後ろを制しながら、先に立った森啓之助、生洲の小橋を匍い渡って、以前の屋の内をそッと覗くと、お米も由造も早やそこには居合せないで、ただ洩れるかすかな声。
「う、うウむ……」というのは多市の呻きであろう。枕元には銀五郎が、その寝顔を見まもりながら、三味の遠音や色町の夜を外にして深い思案に落ちている。
「あれだな?」
と、無言に目指しあって、パッと家の内へ躍りこんだ九鬼弥助。枕元から立ちかける銀五郎の利腕をムズと捻じ上げて、
「阿波へ入りこもうとする江戸の間諜! すなおに吾々と同行しろッ!」
図星をさして真っ向から対手の胆を挫きにかかった。
ぎょッとしたが銀五郎、さすがに練れている所がある。色を隠してさあらぬ様子、取られた利腕を預けたままで、
「お人違いでございましょう、高野詣りの帰りの者、阿波へ入りこもうの間諜のと申すような身柄ではございませぬ」穏やかにいい澄ました。
「いうな、最前の密談を聞く者あって、汝が甲賀世阿弥の縁故の者ということは明白なのだ。言い訳があるならお下屋敷へ参った上に、何なりと申し述べろ!」
「や、ではあなたは蜂須賀家の」
「知れたこと、お船手組の九鬼弥助だ。天下何人たるを間わず、御禁制の境を破って阿波への入国を企つる者は、引っからめて断罪たること知らぬうつけはない筈じゃ」
「しかし私にとりましては、まったく以て迷惑なお疑いでございます」
「えい、この期にもまだ白を切るかッ」いわせも果てず捻じ敷いて、素早く刀の下緒を口にくわえ、両の手頸をギリギリ巻き――それでも銀五郎は眼を閉じてこらえていたが、不意にムックリと身を動かした乾分の多市が、親分の危急! と一心に掴み寄せた道中差、床の上から弥助を目がけてさっと突き出す。
行燈の光を流した刃の錵、切ッ尖の来るより早く弥助の眼を射て、「おのれ!」パッと片足に蹴返した。
さなきだに重体の多市は脾腹を衝たれてひとたまりもなく、ウームと弓形にのけぞる弾み――行燈の腰へ縋った共仆れに、一面の闇、吹ッ消された燈火は窓越しに青白い月光と代った。
大事は破綻した、大事は破れた! もうこれまでと臍を決めた銀五郎、いきなり利腕を振りほどき、力任せに弥助の足をトンとすくった。
「あっ――」と不意を食ったうわずり声。畳四、五枚向うへよろけて行く隙に、つかむが早いか、スウッと抜いた脇差の鞘から走る風もろとも、唐草銀五郎真一文字にぬれ縁の外へ飛びだした。
飛び下りた影を狙って、颯然たる一刀が月光に鳴り、斜めに腰を払ったが、ヒラッとかわして銀五郎が、無二無三の刃交を挑むと、対手はたちまち掠りをうけて後退り、耳から顎へかけて赤い一筋――森啓之助は危なくなった。
と――銀五郎の前へ、また一本の剣がふえた。九鬼弥助の助太刀である。いや、さらにまた後ろから、彼をうかがう者がある。天堂一角の見張りであった、まさに三方の敵に囲繞された銀五郎、髪はしどろとなり汗は粘く、だんだんと剣気に命を磨り減らされてゆくものか、月をうけた顔そのものも見る見る死相に変ってくる。
無残、ここに惜しい男一匹が、使命を半ばにしてズタ斬りとなるか、無念の鬼となろうとしているのを、世間は宵の絃歌さわぎで、河岸を流す声色屋の木のかしら、いろは茶屋の客でもあろうか、小憎いほどいい喉な豊後節――。
鍔から外れた切ッ尖傷、柄手を朱に染めつつ銀五郎、もう受身に受身を重ねてジリジリと生洲の縁へ追いつめられる。
機を計っていた一角は、その時自来也鞘の大刀をヒラリと放ち、殺気にからむ二ツの眼にトロトロと燐の炎を立てたかと思うと、ピュッと振りかぶってただ一気、銀五郎の後ろからズバッ――とやりかけた。
すると、カラッと妙な音がして、その大刀は途中から意外のほうへ狂ってしまった。やッ? と愕いて見れば、風のごとく寄ってきた白い人影、森啓之助の脾腹を当て、九鬼弥助の腰をすくってザアーッと生洲の水へ投げつけた。
「ウウム……何奴ッ」
怒気を漲らして構え直った天堂一角、きっと月光の注ぐところを見れば、青き天蓋、銀鼠色の虚無僧衣、漆の下駄を踏み開いて、右手に取ったるは尺八に一節短い一節切の竹……。
これはただの虚無僧ではない。
一見不用意に似た尺八の構えは、いわゆる八面鉄壁な斜め青眼、たしかに一流をこなしている。ましてや天蓋の裡の息しずかに、竹とはいえその尺八から、剣にも等しい一脈の殺気が迫ってくるところ――どうして冴えている! 奥行の知れない深味がある。棒振剣術や雑剣客の類ではない。
と――一角はすぐに見てとった。
彼とても技には一かどの見識を持つ男。この虚無僧の只者でないことを知るとともに、ピタッと剣勢を改めて、ウカとは上段を振り下ろさずに、一方の銀五郎へ気をくばって見ると、生洲から這い上がった弥助と啓之助、二刀に一人の銀五郎を挟んで、四、五間先へ斬りまくしている。
「よウし!」一角の肚がきまッた。「多少の心得はあろうとも、およそは知れた虚無僧ずれ、その構えを割りつけて、天蓋から肋の下までただ一刀!」
漲りだした殺念は眼にあらわれてものすごい。月光を吸いきった三尺たらず無銘のわざ刀、かつ然と鍔鳴りさせて天蓋の影へ斬りかかった。
「ム!」と相手も気を含んだ。尺八の穴みなビューッと鳴って、一角の大刀を大輪に払うと、払われたほうは気を焦って、さっとその切ッ尖を足下からずり上げる。
途端に、どこから飛んできたか一枚の小皿、闇の空から斜めに風を切ってきた。
「あっ!」とかわすと、またすぐに一枚の小さな皿、独楽のように吹ッ飛んできて、柄手を翳した一角の刀の鍔にあたってパッと砕ける。
「うッ……」粉になった瀬戸のかけらに、目をつぶされたのか一角は、片手で顔を抑えたままバラバラとそこを離れて大声に、
「御両所ッ、今宵のところは引きあげろ!」と、叫んだ後も目に手を当てて、虚無僧の入ってきた裏門から一散に外へ走りだした。
阿波の原士の中でも、剛の者といわれている一角が、なぜか真っ先に走ったので、九鬼も森も対手を捨てて、空しく川長を飛び出してしまった。
引っさげ刀で銀五郎が、その後ろを浴びせに追いかけると、こなたに残っていた前の虚無僧は、静かに天蓋のふちを上げて、
「銀五郎、銀五郎」と呼びとめた。
「えっ?」不意に名を指されたいぶかしさに、思わずそこから振りかえると、
「そちに歯の立つ対手ではない。必ずとも追ってはならぬ」
「や? ……もし」と銀五郎、戻ってくるなり虚無僧の足もとへ片膝片手をつきながら、
「まず何よりは、今のお礼から申し上げなくっちゃなりません。したがこの私を、どうして銀五郎とご承知なのでございますか」
「知らいで何とするものか、こりゃ唐草……」軽く肩を叩いて、傍の庭石へ腰をおろし、久濶の声なつかしげに、
「そちにも、いろいろと世話をやかせたまま、一昨年江戸表より姿を消した法月弦之丞じゃ」
「ええっ!」弾かれたように寄りついて「法月様でございますッて? オオ、弦之丞様だ、弦之丞様だ!」飽かず面をジッとみつめ、嬉しいのか悲しいのか、しばらく言葉もないのである。
天蓋を払ったその人物、漆黒の髪を紫の紐でくくった切下げ、月のせいもあろうか色の白さは玲瓏といいたいくらい、それでいて眉から鼻すじは凛とした気性の象徴。
年は若い、恋にも功名にも燃え立ちやすい青年である。何流をやったか、今見せた腕の冴えといい、宵を流す一節切の風流といい、ゆかしくもあるがあまりに美男な色虚無僧。その珠玉をつつむ天蓋はおそらく仇を避けるためでもなく、また宗門の掟にでもなく、旅から旅の一節切、浮気につきまとう仇情の女難除けであろうかもしれぬ。
その時、二階欄干に寄って、
「まあ、いい月だこと……」
呟いている女があった。
宵から、天堂一角の隣り座敷にいて、向うで断わった虚無僧を呼べといい、おまけに手酌をきこし召していたお嬢様――それは見返りお綱――小皿を投げたのもお綱であった。
いい月とは何の月? 欄に凭れたお綱の眸は、現のような色気に濡れて、弦之丞の腕の冴えならぬあの姿に、吸いつけられているではないか。
川長のお米はすこしどうかしている。
あの騒動のあった翌朝、ここの裏門から、こっそりと三ツの駕が出て行って、病人の多市も銀五郎も、またその夜泊まった法月弦之丞の姿が見えなくなってから早や四、五日。
きのうも今日も、お米は陰気な一間の塗箪笥に凭りかかって、ものに憑かれたような、祈るような、泣きたいような眸をジイと吊っていた。
「弦之丞様、弦之丞様、……アア、どうしたんだろう、私の心は? どうしてこの名がこんなにも、私の心へ焼きついてしまったのかしら。たッた一夜同じ家に夜を明かしただけの人が、こうも忘れられなくなるものかしら? ……」
出戻りの女にあり勝ちな強烈な恋。分別もあり男の苦労も一通りは舐めながら、押し伏せている情血の沸りに駆られて、吾から囚われてゆくあぶない恋。
「つまらない! アア淋しい。弦之丞様というものを見たばかりに、あの人が去った後の私の家は、まるで伽藍か墓場のよう……」
軽い咳がこみ上げてきた。細ッそりとした肩のあたりで箪笥の鐶が揺さぶれる。と、二ツ三ツ咽びながら、お米は小菊紙を出して口を押さえた。
離してみると、紙に滲んだ桃色の唾――人にきらわれる癆咳病みの血――。だが、彼女の目には若い血の疼きがそこへ出たかと見える。
「恋をするのも今のうち。どうせ私は、永いことのない命だもの! そうだ、これから大津へ行ってみよう」
ふらふらと立ち上がった。
「だけれど? ……」パラリと落ちた足もとの櫛をみつめて、お米はまたふいと迷いもした。
「せっかく、家中の者が心配して、人目につかないように、江戸のお方や弦之丞様を、大阪から離れた隠れ家へやってあるものを、私が出入りなどすれば、また蜂須賀家の侍が嗅ぎつけようも知れないし……。といってこのまま弦之丞様に、逢わずにはなおいられない」
と悶えているかと思うと、見えぬ糸で魂を操られている人形のように、
「ええ、もうじれッたい、どうなとおなり……」ペタリと鏡台の前へ坐った。そして、繻子鬢のくずれを手早く梳き返し、美艶香や松金油を溶きはじめたのは、もう恋のほかなにものもなく、一途に大津とやらへ行って、法月弦之丞に会うつもりであろう。
それにしても、美男の魅力は美女の蠱惑にも優るものか、あの夜川長の裏庭で、月下に渦まいた一つの争波から、虚無僧姿の若人へ、剣以外に、お綱お米という二つの女の魂まで絡みついてこようとは、弦之丞その人すらも知らないこと――。
「お米や……」そこへ温か味のある声がした。お米の母で、店から何まで切り廻している老母である。小さな器へ、何か赤い液をたたえた物を持ってそろそろと入ってきた。
「お前、また今日も服むのをお忘れだね」
「…………」答えもしないで臙脂をさしている、鏡の中のお米の目、やや狂恋の相がある。
「服まなくってはいけませんよ。え、お米や」
「今日は服みたくないんだもの」
化粧のできた鏡の吾をみつめたまま、お米は見向きもしなかった。
「そんなわがままをいって――、自分の体を自分で大事にしない者があるものか。さ、お服み、せっかく今、竹やがしぼってくれたのだから……」と、口へ持って行くばかりに、母の出した器の中の赤いもの。それは癆咳に利くというので、お米が人目に隠れて服むすっぽんの生血だ。
「いや、いや、今日は何だか見るのもいや……」
「何だえ、この娘は。まるで駄々ッ子のように」
「だって今日は嫌なんですよ」
「お前はまア、自分の命を惜しいとは思わないのかえ?」
「ええ、なんだか惜しくなくなりましたわ」
「ばか! 人の気も知らないで」
と睨んだ眼には女親の泪がいっぱい……。
「お米さん、逢いたいという人が来ましたぜ」
何も知らないで下働きの由造、ひょいとそこへ顔を出した。
「え、誰が?」
「この間きた蜂須賀家の森啓之助様。今日は一人で、二階へ上がって待っています」
美艶香の薫りが、そこへ忍びやかに流れてきて、
「森様、ようおいでなされました」と、お米の姿が、小座敷の萩戸へ透いて中へ入った。
とにかく、蜂須賀の船手の衆は、店にも大事な顧客であるので、いやいやながらも顔をだした。
待ちわびていたらしい森啓之助、
「お米か、ずっとこっちへ寄ってくれい」
「はい、いつぞやはまた、とんだお粗相をいたしまして」
「何の……」といったが啓之助、素姓のしれない虚無僧ずれに、生洲の水へ投げこまれた醜態を、お米にも見られていたかと腋の下から冷汗をおぼえている。で、テレ隠しに、
「いつにも増して、まばゆいばかりな化粧あがり、どこぞへ出かけるところであったか」
訊かれたのをいい機にして、
「ええ、はずせない急用がございますので……そして森様、私に御用とおっしゃるのは?」
「ウム、ほかではないが」と啓之助、声と片肘を前へ落して、お米の顔を覗きこむ。
「当家の離れにおった江戸の男とあの夜の虚無僧、もはやここにはおらぬそうだが、まさか、他へ匿っておくのではなかろうな」
「いいえ、決してそんな……」すぐ打ち消したが、これからそこへ行こうと思い燃えているお米の胸。ギクリと一本釘を刺されて、動悸に顔色をさわがした。
「覚えがなければそれまでのこと、深く追及するのではない。わしはただ同僚の手前、役目として一応糺しにまいっただけじゃ……」優しく砕けた啓之助は、すくんでいるお米の手を握ってグイと側へ引きよせた。
「まだほかに一つの相談。それを諜しあわせたいのが今日の大事な用向きじゃ。これお米……何とそちは近いうちに、この啓之助と共に、阿波へ渡るつもりはないか」
「えっ、阿波へ? ……」
「ウム、阿波はよいぞ阿波の国は――八重の潮に繞らされて渭之津の城の白壁がある。峰や山には常春の鳥も歌おうし、そちの好きな藍の香が霞のようにけむっている……」
ささやきながら啓之助は、お米の肩から胸へ手を廻して、心臓の音をさぐるように、じっと心を現にする。ひと頃は、お米のあこがれでもあった国、これが弦之丞というものを、知らない前のお米であったら、そのささやきに一も二もなく魅惑されているであろう。
「どうじゃ、お米、わしと一緒に阿波へこぬか。この川長へ来はじめてから、それをどれほど思っているか、それは今さらいうまでもない。松のよい所、水のよい所、そちの好きな所へ寮を建ててやろう、どんな栄華もさせてやろう」
「ですけれど森様、阿波のお国は、他領の者を入れぬという、きびしい掟ではございませんか」
「もとよりそれに相違ないが、そちさえウンといえば、どんな手段でもしてみせる」
「手段といって、あの海や関のお固めを、どうして潜って行かれましょう」
「お船手組のこのわしが、内から手引きすることじゃ、決してそこに抜かりはない。いよいよ殿のお渡りもあと二月、九月の初めと決まっている」
「でも、何だか私は怖ろしゅうござります」
「なに怖ろしいことがあるものか、それにはこうして渡るのじゃ……」お米がもがく力をおさえて、耳へ顔をピッタリ寄せた啓之助、何か一言二言小声に口を動かしたが、それは今のお米の心を惹く何ものの力もない。
「あ、誰かきます、森様、その手を離して下さいませ」
「よいか、承知であろうな」
「エエあとでよく考えておきますから……」
「何の思案がいるものか、お米、そちは心の奥で、このような男の力がほしゅうはないか」
「あ……あ……森様、息がつまります。離して、離して!」落ちた笄も拾わずに、男の手をふりもぎッたお米は、ふらふらと外へ出て、辻に見えた馴染の駕屋を呼んで、
「あの駕屋さん、急いで大津の追分まで行って下さいな、だちんは幾らでもあげますから」
両の簾を下ろしてスッと身を隠してしまった。そして駕がゆれだすとともにフラフラと軽い目まいをおぼえ、まだ残る男の匂いが気持わるくこびりついた。
「じれッたい駕屋だこと、どうしてこんなに遅いのだろう――ああ弦之丞様、弦之丞様」上の空なお米の心は、森啓之助の仲間が、目早くそれを見つけ、この駕の後からつけてくることを夢にも知らない。
京大阪へ別れの辻、東海道へはふりだしの大津追分、宿の家なみはうす黒く暮れて、馬や駕や旅人のかげも絶え、夕顔の花と打水に濡れた道と軒の明りがところどころ。
針屋、そろばん屋、陶器屋、その隣には鬼の念仏の絵看板、鉦と撞木をもって町の守り神のように立っている門は、大津絵をひさぐ室井半斎の店である。
「おじさん、今晩は」
藤を持たない藤娘のようなのが不意にこういって入ってきたので、行燈と蚊やりを寄せ、夜業に絵の具をなすッていた半斎、びッくりして鼈甲ぶちの眼鏡を上げた。
「おや、お前はお米じゃないか」
「ええ……」といったきりで川長のお米は、上がり框へ駕づかれの身を寄せて、明りをうしろにうつむいている。
お米には叔父にあたる大津絵師の半斎、
「一人で来たのかい」ジロジロと姪の様子を見まわしていた。
「ええ、急にあの……心配になったものですから」
「何が心配に? ……」
「この間、おじさんのほうへお願いした三人の方が、もしやまた、蜂須賀家のほうへでも知れていやしないかと思いまして」
「なアんだ、くだらないことを」
「だって、怪我をしている多市さんの容体も、いいのか悪いのか気にかかるんですもの」
「お前は、それでわざわざやって来たのかい」姪の甘えるような言葉を、そのままの意味で聞いた半斎は、クックッ笑いながら線描きの大津絵に、紅や黄土を塗りはじめる。
「ね、おじさん、あの方たちは奥にいるの?」
「それがさ、奥へおけるようなら心配はないが、病人の傷が癒るまで、匿ってくれというお前の方からの注文だろう、ところがここは街道筋で、わけても人目に立ちやすいから、実は関明神の下で、時雨堂という一軒家が、庵主様がおるすなのを幸いに、そこを借り住まわせてあるんだよ」
「ほんとに、いろいろご苦労をかけてすみませんでした。そしてあの多市さんの傷は」
「大津から外科をよんだり、薬風呂をたてたりして、あの銀五郎という親分が、親身になって世話をするので、だいぶよいという話だ」
「それはよいあんばいでございました」お米は店の壁にかけてある金泥の仏画に眸をうつしたり、袂の端をいじったり、何かもじもじしていた後に、やッと心の奥のものを持ちだした。
「そしておじさん、あの若い虚無僧の方も、まだご一緒にいるでしょうね」
「ウウム、いるらしいよ」と半斎、無心の筆で、鬼の頭をバサリと描いた。
「じゃ私、これからそこへ行ってみようかしら……」
「あしたにおし、明神様のあたりは真っ暗だからの」
「時雨堂なら、よく知っているから大丈夫でございますよ」とすぐにお米が門を出だしたので、半斎は慌ててうしろへ声を送った。
「おいおい、お米や」
「あい」
「お前はこッちへ来て寝なくっちゃいけないぜ」
「分ってますよ」ちょッと邪慳に眉をひそめて、もうあらかたとざした宿を急ぎ足に、関明神の石段の下まで来た。逢坂山の杉木立が魔のように見えて、ごうッと遠い風音も常なら気味の悪い筈だが、お米の今は体の疲れも何の怖さも知らないのだった。
夜気冷やかに瞬いている二基の常夜燈。ささ流れを跨いで竹林の小道へ入ると、水の声でもない笹の葉のそよぎでもない、耳覚えのある尺八の音……時雨堂から洩れてくる。
その一節切の竹の音は、吹く人のすさびでも聞く者の興でもなく、病人の苦痛を忘れさせて眠りに導くためであったとみえて、やがて一つの曲が終ると、
「銀五郎、どうやら多市は寝たようじゃの」
と、お米の胸を沸き返す、法月弦之丞その人の声がする。
「いかさま、あなたの尺八を聞きながら、よく寝込んだようでございます」答えたほうは銀五郎であった。
細かい竹の葉がくれに、時雨堂の中がすッかり覗けた。奥には蚊帳が釣ってある。白衣の法月弦之丞は唐草と向かいあって、縁の端居に蚊やりの榧をいぶしていた。
「もう何刻であろうかの」と弦之丞。
「そろそろ四刻すぎでもございましょうか」と、軒廂から明星を仰ぎながら銀五郎。「あの山の上の一ツ灯は、関明神のお明りでございましょうな。ああどこを見てもただまっ暗、何だかわしのようながさつ者も、しみじみと旅の淋しさがこたえてきます」
「して、そちが江戸を出たのはいつごろであった?」
「梅雨へ入るとすぐでしたから、もうかれこれ一月前。それがてんから食い違って、阿波の関を越えるどころか、多市は倒れるし路銀は掏られるような始末。どうやら悪日に立ってきたかもしれませぬ」
「そして、この後の策はどうするつもりじゃ」
「さ、弦之丞様、実はそのことでございますがね……」真剣になって銀五郎、そこでしんみり声を沈めた。
外ではお米、その人恋しさに、矢も楯もなく大阪から飛んできながら、弦之丞の影をちらと覗くと共に、迷いと羞恥につつまれて、はしたなく声もかけられずにいるうちに、二人が密話になりだしたので、なおさらそこを驚かす勇気がくじけ、ドット鳴る血の音を感じながら、胸を抱いて籬の裾へしゃがんでしまった。
ひそかではあるが力をこめて、銀五郎の声がすぐつづく――。
「どじをふんだ旅の空で、あなた様にお目にかかったのは、まったく甲賀世阿弥様のおひき合せ――こう銀五郎は信じております。自体こんどの阿波入りも、わっし風情には荷の過ぎた大役です。どうぞあなたのお力をお貸しなすッて下さいまし」
「わしに力を貸せいというか」
「へい、倒れかかっている駿河台の喬木、甲賀のお家を支える力は、あなたのほかにはございません。とりわけお気の毒なのは、この世に頼る人というものをお持ちなさらぬお千絵様……。もし弦之丞様、あのお方を、あなたは不愍とは思いませぬか」
「…………」白衣の人は無言である。
見るとその眼は閉じられてあった。何か心に痛みをおぼえるのか、かすかに唇がふるえている。
「もし弦之丞様、あのお方をよもお忘れではございますまい。わ……わっしですら、お千絵様のお身の上を考えると、野郎のくせに、つい、なみだが出てしようがねえんです……」太い腕ぶしをグイと折って、泪の両眼を隠したまま唐草銀五郎、しばらく顔をそむけていた。
「――だが、御不運なお千絵様にも、たッた一人あなた様という強い力がありました。ところが、その一人さえ一昨年から、プイと虚無僧寺へ隠れてしまい、心強くもお千絵様をすてておしまいなされました……。正直、わっしはその時怨んだ、ばかにしてやがる、前髪立ちの頃から、恋の何のと誓っておきながら、それが世間へ知れたからッて、虚無僧寺へ隠れたあげく、江戸を去ってしまうなんていう法はねえ、第一、大番頭の若様ともある弦之丞様に似合わねえ、男らしくもねえ! と、こう独りでどなりましたぜ」
「では何か、わしがお千絵殿をすてて、江戸から姿を隠したのを、そんなに怨んでおったのか」
「お怨み申しておりましたとも! 乳母に上がっているわっしの妹も、そういう薄情な若様と知らずに、お千絵様との仲をおとりもちしたのが申し訳ないと、どんなに悔んだか知れません。いやいや、わっしや妹の歯軋りはまだのこと、あなたに捨て残されたお千絵様の嘆きよう……アア思いだしてもお気の毒、まったく罪でございますぜ」
「…………」愴然たる白衣の人、口はかたく結ばれたまま、その姿は氷のよう、その横顔は死せるようだ。
お千絵様? お千絵様? その名はいちいち匕首のように、籬のかげに潜んでいたお米の胸を抉ってきた。そして、ここまで描いてきた彼女の恋のまぼろしへ、見る間に悪魔のかげが踊る。
弦之丞の態度が、いよいよすげなく、いよいよ冷静になりゆくほど、銀五郎の語調はまごころをまし、熱そのものとなってくる。
「そればかりではございません。今お千絵様のまわりには、あのお美しさと、甲賀家の財宝を狙う魔ものが、つきまとっているのです。――それを誰かといえば、あなた様にもお心当りがございましょう、粘り強い悪智をもった旅川周馬という男を……」
「ウウム、旅川周馬?」
こう口のうちで呟きながら、初めて瞑目をみひらいた法月弦之丞、その涼やかな眸には、何か強い記憶のものがよみがえっていた。
「はい、その周馬めでござります。恋敵のあなた様が、江戸を去ったのを幸いにして、陰に陽に、お千絵様を責め悩ますじゃございませんか」
「さては、いまだ諦めておらぬとみえるな」
「手をひくどころか、いよいよ意地を曲げての横恋慕です。おまけに手をかえ、品をかえて、甲賀家の財宝まで、おのれの物にしようという腹……太い野郎でございます」
「オオ、あの周馬なら、そのくらいなことは企むであろう」
「わっしは元より今戸の瓦師、とてもあいつに歯は立ちませんが、またお千絵様の境遇をよそに見てもいられねえ。そこでにわかに阿波入りを思いたち、あのお方の手紙をもって、世阿弥様の御安否をさぐり、もし生きていたらばしめたもんだ! 甲賀のお家に春が来る! というので実あ飛びだしてきた訳です」
「なるほど、いつもながらの侠気じゃ。恋はすれど意気地もなく、天蓋の下に身をかくしている、この弦之丞などは面目ない」
「ど、どういたしまして。ところが、こいつア一世の大難事。細工はりゅうりゅうという訳にはゆきそうもねえ、まずわっしの命は鳴門の関をこえねえうちに、たいがい無いものだろうと覚悟をしました。しかし、あとあと思いやられるのはお千絵様、春にも逢わずお家の御運と共枯れに散るよりほかはねえのです……。もし弦之丞様、それやこれも察してあげて、どうぞわっしが立った後は、江戸表へお帰りなすッて、不幸なお千絵様の力となってあげて下さいまし……、このとおり、銀五郎が両手をついてお願い申します」
「……さて何としたものやら?」
「なに迷うことがございましょう。嘘もけれんもないところ、お千絵様はあなたにしんから惚れています。顔だけ見せてあげただけでも、どんなにお欣びかもしれませんぜ。弦之丞様、銀五郎が一生の頼みでございます、どうぞ一度あのお方へ帰ってあげて下さいまし」
これほど真摯な声も、まだ相手の心を衝つにはたらないのか、依然としてその人の横顔は冷たく、諾の一語を洩らさない。
が――あまりに強く衝たれたのは、その人にあらずして、さっきから籬の裾にしゃがんでいたお米の胸。
「弦之丞様には女がある! お千絵様という深い深い恋仲の女子があった! ……」
こう知った心は、火へ水をぶッかけられたよう。くらくらとめまいがして、深い闇へつきのめされた心地に、側の竹へすがってしまった。
支えになった竹の幹は横に撓って、むら笹の葉からバラバラと瑠璃の雨……お米へ無残な露しぐれ。
と、その時一人の男。
そこを離れてひた走りに、闇から闇へかけ去った。根よくお米をつけてきて、この時雨堂を見とどけた森啓之助の仲間であったらしい。
しばらくして……。半刻ほど後お米はふいと気がついた。
見ると目の前に提灯がある、大勢の人がとりまいている。その中には、叔父の半斎もいるし、店の者もきているし、銀五郎と法月弦之丞もまじっていて、何かしきりに低い声でささやきあっていた。
やがてお米は、ソロリと戸板へ寝かされた。
提灯が先に立つ、そして、時雨堂の明り――悲恋の灯はだんだんと遠くなり、暗い追分の宿を通ってゆく。
「あ……私はあすこで、仆れた時に血を吐いたのだ……着ものに血が……血が」
指に冷たくぬれるものを感じながら、お米は戸板の上でポッカリ星を見つめている。
「私の恋はかなわぬ恋――弦之丞様には女子がある、それでなくとも、こんな病を知られてしまった……」頭だけは澄みきっていた。
ほこりッぽい街道すじに、これはまたきれいとも華やかともいいようのない行列が、今――三条口から大津の方へ、おねりで練ってくるのである。
桃色の日傘、あやめの絵傘、とりどりに陽へかざす麗人二十二、三人、派手模様の袂や藤いろの褄、緋のけだしやら花色の股引やら、塗りの下駄だの紅緒の草履だのが風にそそられて日傘の下にヒラヒラと交錯し、列に挟まれた駕一挺、一人の美女がのっている。
どこの陽気なみだい様かとまちがえそうな人数だが、歩きながら、たえずペチャクチャとさえずるお供の方の風俗や、また、口三味線だの小唄だのを、はばかりもなくさんざめかして行く態からみても、この人々は、決してさような、やんごとないご連中ではない。
だが、往来の旅人や馬子や荷もちの人足などは、その華奢にして洒然たる道中ぶりに眼をうばわれ、
「なんだろう? ……」と、あッけにとられて見送りながら、そこでさまざまな風評が立つ。
どこかしらのお大尽が、京の芸妓や色子をこぞッて、琵琶湖へ涼みに出かけるのだろう。いやいや、お大尽様というものは昔から男のものに限っている、あの駕の中に納まっているのは女じゃないか。なアるほど女ですね。女も女、すてきな別嬪さ。してみると金持の御寮人様かな。もしもしばかをいってはいけませんよ、良家の箱入娘があんなまねをして、臆面もなくこの真っ昼間あるくもんですか。イヤごもっともごもっとも、それもそうだ。それじゃア何だ? 何だかさッぱり分りませんな。
こんな噂やけげんがる目が、その行列をいっそうはしゃぎ立たせて、程もなく逢坂の麓、走井の茶屋の店さきへかかると、一同はまン中の駕を下ろし、群蝶のくずれるように茶店の内や外に散らばった。
「さあ、お嬢様、お嬢様」
祇園あたりの仲居であろうか、装をすかさぬ年増たちが、駕を覗いてこういった。
「――いよいよここが追分手前で、あのとおり井水が吹きこぼれている走井の名物茶屋。お名残り惜しゅうございますが、お見送りもここまでといたしましょう」
「まあ、もうお別れの場所へきたの。何だかあっけない気がするね」
「なろうことなら、お江戸まで従いてまいりとうございますが、それではお嬢様がお困りでしょうし……」
「ほんとにね、みんな京人形ならいいけれど、お米を食べる虫だから……」
「あら、あんなお憎い口を」
「じゃ、とにかくそこで休みましょうか」
「さアさア、ごゆるりとお支度をなさいませ」
頭の青い男芸者や仲居たちがすぐ駕の屋根からはきものを取ってそろえると、また一方から、ソレお扇子が落ちました、ヤレお裾が砂へつきました、と下へもおかずに藤棚の前の座敷へお迎え申し上げる。
そこではまた、きれいな舞妓や色子たちが、団扇の風を送るやら、吹井の水で手拭を冷やしてくるやら、女が女をとり巻いて、何しろ大したもて方である。
「もうたくさんたくさん――そんなに風を貰っても、江戸のお土産に持ってゆかれるわけでもなし、さアみんなも少し涼んでおくれ」
「はいはい、そんなら私たちも、しばらくここで休ましていただきましょう」
「アアそれがいい。そら、ここまで送ってきてくれたご苦労賃ですよ、仲よく拾って遊んでおいで――」
帯の間からつかみだした金銀を舞妓たちへバラバラと撒いてやる。たいこや仲居大供までキャッキャッとなってあばきあった――。なるほど、これなら女のお客にしても、たしかにもてるに違いない。
さはあれ、このお嬢様、べつに女紀文を気どる次第でもなく、厭味な所もさらさらない。ただこうした色彩の雰囲気につつまれているのがわけもなく面白いのであるらしい。
と、何思ったか「姐さん――」と茶店の女を手招きして、お嬢様はこうおっしゃる。
「あの、あすこに灘の樽がみえるようだが、ちょっと一本つけてちょうだいな……いいえ、肴はべつにいらないよ、あるなら枝豆か新生姜でも……」
一方では舞妓たちが藤棚の下へ床几をもちこみ、銀のかんざし花櫛のきれい首をあつめて、和蘭陀カルタをやりはじめていた。
お嬢様なるあやしい女、それは見返りお綱であった。――お綱が江戸への帰り途である。
天王寺で掏りとった三百両や、和蘭陀カルタで思いがけなく勝ちぬいた金、合せて七百両あまりを、伏見や京都で男のような遊びぶりにつかいちらし、まず上方を見物したし、重たい金の荷もとれたし、これでサッパリ帰ろうというのである。
そこで、京の芸子や仲居たちは、江戸蔵前の大通のお嬢様が、いよいよお立ちというので、走井の茶屋まで見送ってきたものである。そのためにお綱はまた、つかい残りの小粒まで、洗いざらいフリ撒いてしまった。
だが――お綱の目でみると、人通りの多い東海道、路銀はどこにでも転がっている。
で、どこまでも触れこみ通り、金に大様で通でお侠な札差の娘――という容子になりすまし、仲居を相手に、美食のあとの茶漬好み、枝豆かなにかでお別れの一合をチビチビと飲んでいる。
と、茶店の外で一服すっていた駕かきが、
「あっ、いけねえ――」と、藤棚のほうをのぞいて声をかけた。
「舞妓さん、舞妓さん。早くカルタを片づけてしまいなせえ。あいにくと向うから、お役人らしい侍が大勢こッちへ来るようですから」
「大丈夫よ……」
和蘭陀カルタに気をとられている舞妓の組は、それに耳もかさないで、床几の周りにたかっていた。
「大丈夫じゃねえ、往来からみえる所で、そんな物をいじッていると、きっとガリを食うにきまっていら」
「だって、お菓子をかけているのだもの、お役人様が見たって叱りはしないわ」
「おや、またはじまっているのかえ」
お綱もこっちで苦笑したが、何か思いだしたように、
「あのカルタは、私が長崎からもってきて、舞妓さんたちに教えたのだけれど、もし後でお咎めでもあるといけないから、こっちへ返して貰いたいね」
「はい」仲居が立って、すぐ札を集めてお綱の前へさしだした。お綱はそれを重ねたまま、ピリッと裂いて煙草盆の火にくべてしまう。
「アラ、つまらない……」
舞妓たちの眼は、和蘭陀カルタの煙を見あげて、うらめしそうにつぶやいている。
「では、私は勝手に支度をしなおして、日蔭ができたらここを立ちますから、みんなも構わずに戻って下さい」
「さようなればお嬢様、ぜひ来年の祇園祭りには、またおいでなされて下さいませ」
「ええ、またきっと上ってまいりましょう。アア、それから私の頼んでおいた道中着物は? ……」
「こちらへ包んでおきました。ではお嬢様、どうぞご機嫌よろしゅう」「道中お気をつけなさいませ」「水あたりやゴマの蠅にも……」などと入れ代り立ちかわり、送り言葉のあいさつを述べて、この一行はまた、三条口へつづく並木をゾロゾロと引っ返してゆく。
ぽんぽんと手を叩いて、お綱はそのあとで女中を呼んだ。
「永く店を塞いでいてすみませんでしたね」
「いいえ……あの、御用は何でございますか」
「こんな姿をして歩くと、道中駕かきや人足にばかにされて困りますから、ちょっと支度をなおしたいと思うんですが……」
「それなら、あちらの部屋に鏡台もございますから、ごゆるりお使いなさいまし」
「じゃ、ちょっとそこを借りますよ」
立って奥へ入ろうとすると、ちょうど茶店の前をおびただしい数の侍が、いずれも野袴わらじがけで、シトシトとわき目もふらずに通り過ぎてゆくのを見た。
「おや?」
お綱は、ペタと壁のかげに身を隠して、
「あの先達になってゆく男は、たしかこの間川長の座敷で隣合った阿波侍……たいそうぎょうさんな身支度で、一体どこへゆくのかしら?」
と横目づかいにジイと見送っていると、あの、天堂一角とおぼしき眼が、鋭くこっちへふり向いたので、お綱はスッと奥の部屋へ隠れてしまった。
そして、立て膝の鏡立てに、両手を髪へ廻したかと思うと、見るまに笄をぬき簪をとり、鹿の子結びのお七髷を惜しげもなくこわしてしまう。
あれから一刻ばかりたって、お綱は、すきや縮に小柳の引っかけ帯、髪もぞんざい結びに巻きなおし、まるで別人のようになって、
「アア、せいせいした……」
と「走り井」と書いた団扇を片手に、ぶらぶら大津の方へあるいていた。
ちょうど、どこかの粋なお内儀さん――というかっこう、誰の目にも旅をしている者とはうけ取れまいと思えるが、さすが、街道かせぎの駕かきは目が高かった。
「こウ、姐さん」
すぐ蠅のようなやつが二匹、一匹は空棒を通して駕をひッかつぎ、一匹は手ぶらで後からくッついてくる。
「どうだい、ええ、姐さんてば」
お綱はふり向きもしないで、団扇を使いながら歩いていたが、
「うるさい人だね!」チェッと舌うちをして睨みつけた。
「うるさかったら乗ってくンねえ。陽のあるうちに矢走の渡船を越えて、草津泊りは楽なもんでさ。下駄ばきでカラコンカラコンやっていた日には、これから大津までもむずかしゅうがすぜ」
「大きなお世話だよ」
「こいつアごあいさつ。親切に教えてやっているんじゃねえか」
「雲助とゴマの蠅の親切なんかは、まッぴらご免ですとさ。それとも、まったく親切気があるなら、これから江戸の日本橋まで、押ッとおしでやってくれるかい」
「ええ、ようがすとも、泊りさえ取ってくれれば、江戸だろうが、奥州だろうが、決して嫌たアいいません」
「そうかい、だがね」
「まアとにかく、先へ乗っておくンなさい」
「無代でだよ」
「えっ?」
「こう見えても私は一文なし、タダでいいなら乗ってあげる」
澄まして行き過ぎるうしろ姿に、いっそうムッとした二人の雲助、いきなり空駕をほうりだして、バラバラッと腕まくりのただ一打ち!
「けッ、ふざけやがるな」
鷲のごとく飛びついたが、お綱の体に触れない前に、あっ! と雲助が音を揚げた。と思うと、何者にか、二人とも襟がみを引っつかまれてブーンと一ふりふりまわされる。
「街道のウジ虫め、悪くあがくと命がねえぞ」
「アッ、ごめんなすって――」
下からその太腕を見あげると、服は黒麻に茶柄の大小をさし、夏ではあるが、黒紗の頭巾に半顔をつつんで、苦み走った浪人の伝法肌。
お綱は、ひょいと振りかえって、
「おや、お前は、お十夜じゃないか」と、二足三足戻ってくる。と孫兵衛は、両手にしめつけていた雲助を、ドンと向うへ突っ放した。
「あ、お待ちよ、駕屋さん――」
ほうほうの態で逃げかける雲助を、駕屋さんと優しく皮肉に呼びとめたお綱。
「街道すじは生馬の目を抜く人通り、他人様のふところを狙う前に、よく自分たちの胴巻でも用心していたほうがいいよ」
ニッコリ笑うと、いつの間に掏っていたのか汗じみた雲助の財布をポーンと足もとへほうってやった。
「こんなビタ銭は、痛々しいから返してあげる。だがネ、これから正直に働かないときかないよ」
「あっ、こいつア俺のだ」あっ気にとられた雲助は、それを拾うとお十夜の眼も怖く、一散に空駕をさらって逃げてしまう。
「ホホホホ、雲助なんて、何という他愛がないんだろう……」お綱は見送って明るく笑った。
「おい――」その肩へ、ソッと手をのせて、お十夜孫兵衛。
「相かわらずすばしッこいなあ」
「あんまり憎いから、ちょッとからかってやったのさ。だがお十夜さん、妙な所で落ち合ったねえ」
「そッちは不意に思うだろうが、この孫兵衛は、ぬきや屋敷のあの騒ぎから後、どんなに跡を探していたか知れやしねえ」
何か一物ありそうなお十夜――あのそぼろ助広の鉄色のようにトロリとした眼でお綱を視る……。
曇るかと思うとカーッと照る、松並木の葉洩れ陽が、肩をならべて行くお綱とお十夜のうしろ姿へまばゆい明暗を綾どってゆく。
「じゃ、あの騒ぎから後に、それほど私の跡を尋ねていたのかい」
「こんどのことをきッかけに、一つ江戸へ出てみたいと思うのだが」
「アアそれもいいかもしれないね」
「女のところへ男が転がり込むなあ、少し逆縁かもしれねえが、当座の間、お前の家へやっかいになるつもりだ」
「おやすいこと、江戸へ帰ればお綱だって、少しは顔がきくから、安心しておいでなさいよ」
「ありがてえ、これでおれも気が落ちついた」
「気が落ちついたのは私のほう……」白い歯なみを笑みこぼして、ニッと流しめに媚を向けたので、あまり近く寄り添っていた孫兵衛、息づまるような眼づかいを迷わせた。
「はてな……」と好色な孫兵衛は、もう情心の闇に好きな痴蝶を舞わせて、勝手な想像を心の奥でたくましゅうする。
「お綱のやつめ、ばかに今度は当りがいい……ジロとおれをみる眼元、何ともいえない色気の露がたれている。やッぱり女は女ざかり、男がほしいに違いない。とするとこの金的、案外もろくポロリとおれに落ちてくるかもしれないわえ……」ひそかに伽羅の薫りを偸み、その肉を想いなどして、今宵の泊りの夢までを描くのである。そういえばお綱の手が、歩きながら、ときどき味を持たせるように孫兵衛の指へ触ってくる。ここで、ギュッとその手を、握り返してやりさえすれば、侠なようでも女のことだ。そうなってはもう啖呵の音も出まい。きっと、俺のこの強い力にほだされて、いつの間にか俺のこの胸へ抱きこまれてくるんだろう。甘えものだ。何といってもそのほうにはお綱も初心なところがある。世間にすれていて男に初心――男にすれていて恋には初心――、という女がこのお綱だ。深窓にたれこめている御守殿女の初心よりは、お綱のような女の初心が、時には、ばかばかしいほど男に血道をあげるものだ。
……孫兵衛の情心妄想、あるきながら果てしもない。
お綱の、あの鈴形に澄んだ目も、きりッと蕾んだ口元も、板木師が一本一本毛彫にかけたような髪の生えぎわも、ふるいつきたい襟あしの魅力も、小股のきれ上がった肉づきも、おれの手にかかれば翌朝は、そのおもかげも残しはしない。お綱がうわべにまとっている、張だの侠だの意気地だの、そんな虚勢はみんな脱がして裸のお綱にしてみせる。そして五十三次の泊りの間に、この女を生れ変ったようにしてやったら……こりゃ、そぼろ助広の刃に、辻斬りの血をぬるような快さの比ではない……と、孫兵衛の魔情はニッタリとするのであった。
と、いつか並木がザワめきだしてザーッと砂をまぜた風が、お綱の裾を煽り、孫兵衛の幻想をうしろから吹き払ってしまった。
「おや、ポツリと降ってきやしない?」
お綱の眸が、雲足の迅い空をみていた。
「オオ、夕立雲!」
「困ったねえ、まだ大津へも着かないうちに」
「しかたがないから早泊りとするさ」
「向うに見えるのが追分だね」
「ウム、どうせ二人とも急ぐ旅じゃねえ。オ! こいつアいけねえ、本降りだ!」いううちに大粒の雨、サーッと斜めに吹っかけてきたので、二人はにわかに走りだした。と、その後ろから一ツの笠が風に舞わされてクルクルッとお綱の足へ吹きよせてきた。
「アアア――」と追いかけてくる旅人があった。べんけい縞の単衣に紺脚絆、笠を抑えたらしい時、お綱はちょッと振り返って、何だか見たような男と思ったが、雨と風に吹き別れて、街道筋の旅人もみな散り散りに影を潜めてしまった。
お綱とお十夜は、追分端れの静かな旅籠へおちついた。雨樋を溢れるドシャ降りと、青光りの稲妻に障子をしめて、お綱はグッスリ枕についた……、閾一重の隣には、宵に、お綱の媚めいた酌に酔った孫兵衛が、これもグーッと寝ついている。
だが、心から寝ついているかどうか? ……。
お綱も真から帯紐をといて、寝こんでいるかどうか? ……。とにかく、目にみえないあるものが、仄暗い灯にまたたかれている二ツの枕を通っている。
そら寝のかけひき、どうなるか?
そのあした。
雨はやんだが曇りもよう。湖水の色や、比叡の雲の行きかいを見るに、もう一降りドッとこなければ、この天候は霽れあがるまい、というので、旅籠の門には、だいぶ逗留延ばしのはきものが見える。
「おい、誰かいねえのか、ごめんよ――」
そこへ一人の男が立った。
「あい、お泊り様で……」宿の女中が出てみると、土間に突っ立った男は、べんけい縞の尻はしょり、笠の前つばを抑えているので人相は分らない。
「うんにゃ、泊るわけじゃねえ。――ちょっとここの客に言伝て貰いたいのだが、昨日なんだろう、……あのドシャ降りがやってきた時、頭巾をかぶった浪人と小粋な女が、ここの家へ、駈けこんできたろう」
「はい、お泊りでございますが」
「その女の人に、これを渡してくンな。昨日、走井の茶屋の前で拾いました、おおかたあなたが落したものと思って、ついでに持って上がりました……とな。いいか、忘れちゃいけねえよ」
懐から、妙な模様のついている一枚の札を出し、それを女中の手に渡して、
「だが、そいつはついでで、肝腎なのはこの次だぜ。ところで、この札を届けました男が、いつぞやは飛んだご恩をこうむりました。おかげ様で命拾いをいたしたようなもの、くれぐれもありがとうぞんじました……と、こうお礼をいって貰うんだ」
「それでは、ちょっとお呼び致しましょうか」
「おッと。逢うわけにはゆかねえんだ、外には連れも待っているから、今いったことだけを頼んだぜ」ヒラリと戸外へさして帰ってしまった。
「お客様、ごめんなさいませ……」女中はすぐに、その札を持って奥の客間をさし覗く。
二間のうち一間のほうには、お十夜孫兵衛、宿酔でもしたのか、蒼味のある顔を枕につけ、もう午頃だというに昏々と熟睡している。
「おや、まだおやすみでございますか」
「いいえ……」中仕切の向うからお綱の声がした。お綱はすッかり朝化粧まですまして、服もきちんとできていた。
「お連れ様は、たいそうよくお寝りでございますね、おや、朝飯もあがっていらッしゃいませんようで」
「そッとしておいて下さいな。昨夜少し持病が起きて苦しんだところですから……、なアにこの分で、夕方までグッスリ寝ていれば、気分がよくなりますから心配しないで」
「はい。それからお客様……ただいま下へ、旅のお方が見えまして、これを渡してくれとおっしゃいましたが……」女中は、べんけい縞の男からいわれた通りの言伝を添えて、きれいな模様のある札をお綱の前へさし置いた。
「えっ、これを誰かが届けてきたって? ……」
お綱は畳の上へ眼をみはった。その一枚は、まぎれもない和蘭陀カルタの一枚である。
走井の近くで拾ったといえば、送ってきた舞妓たちが、あの茶店先でもてあそんでいたから、その一枚が往来へ散ったのであろう――それに不思議はない、しかし、この一枚のカルタをたぐって、自分へ届けてきた男の眼力がなんとなくもの凄い。
だがまた、女中の言伝によると、その男は、別に悪意を持っている様子もない――いや、悪意どころか、陰に何かを感謝している口ぶりであったという。
「じゃ、べつに、もう御用はございませんか」女中が立ちかけると、今度はお綱が問いかけた。
「あの……妙なことを聞くようだけれど、この辺に、虚無僧寺がありますか」
「虚無僧寺? ……さアよく存じませんが」
「では昨夜、雨の小やみな時に、時々一節切の音がしていたようだけれど、あれはどこで吹いていたのだろうね」
「一節切と申しますと、あの尺八でございますか」
「まア同じようなもの、何か心当りがありませんか」
「そういえばこの間うちから、関のお山の麓にある時雨堂で、誰か時折吹いているようでございます」
「関の麓の時雨堂? ……ああ、そうですか、ありがとう……」と、女中が立った後でお綱は黙って眼を閉じた。――ゆうべの雨の絶えだえに聞いた、あの一節切の遠音を、ふたたび耳の底に聞くように。
「ウウム、ウウッ……」不意に寝床の上の孫兵衛が身を動かした。とたんに、お綱はスッと立って、背なかを壁に貼りつけたまま、その蒼白い寝顔と寝息をうかがっている……。
時雨堂。なんとなく心を惹かれる名だ、恋しい情けが運ばれる名である。
でなくともお綱の心は、一途にそこへ向いていた。とにかく、垣間見にでも覗いてみたい、声だけでも横顔だけでも――という恋慕が矢のようにはやる。
で、宿からそッと抜け出した。
その時、お十夜は、まだ昏々と眠り落ちていた。
関の明神へフラフラと歩きだしながら、お綱は、ふと、自分の気もちを不思議に思う。
「おや、どうかしているよ、私は? ……」
だが、引っ返す気にはなれない。
「どうかしている、そろそろ、お綱のやきがまわったのかしら。今まで、男の中にまじりあって、その男が何とも思えず、女だてらに大尽遊びをして、色子や男芸者に水を向けられても、どんな気もしなかった私だけれど……妙だねえ、今度だけは、あの一節切だけが忘れられない。魔がさしたというものかしら?」
はっきりと、自分でその気心の怪しさを意識しながら、足と心だけは、グングンと惹かれる方へ惹かれてゆく。あの時雨堂へ。
とはいえ、世間に一節切の上手は多い。宗長流もたくさんある。ゆうべ夜半に、宿の枕へほそぼそと通ってきた音が、必ずしも、あの虚無僧とはかぎるまい、世間に虚無僧も大勢ある。
だが――あまりよく似た音色でもあった。立慶河岸を流していたのを、川長の二階で聞いたあの音色。ほんとにソックリな節廻し、曲もたしかに宗長流の山千禽。
「ああ、どうしたんだえ、この、お綱さんは!」自分の胸を叱ってみても、やッぱりいつかお綱の心は、その人らしく考える。
あの晩、川長の隣り座敷にいた阿波侍が、何かコソコソ諜しあわせて庭手へ出たので、お綱は、見るとしもなく二階から見下ろしていると、たちまち月下に剣の声がおめきだした。そして一人が危うくなる……あっと思っていると、裏木戸から、あの虚無僧が白鷺のように立って、ピタリと対手の阿波侍へ尺八を向けた――その阿波侍の刀の鋭さを見ていたお綱は、やにわに膳の小皿をとって、パッ――と二つ三つ投げつけたのだ。
しかし、お綱はあとで後悔した。
あれは余計なことだった。あの時虚無僧の構えた尺八には、充分な自信と研きぬいた腕の冴えが、素人目にも分るほど光っていた。なんだかはしたないことをしたように気が咎めて、お綱は、侠にも似ず、その時、恥かしい気に責められもした。
そしてしばらく、月を浴びて、ひそひそと話しているその人を、上の手欄から見つめているうちに、お綱は夢ともうつつとも知らない境に、骨の髄まで沁みわたるほどなゾッとする恋慕の寒気にとりつかれた。
お綱は、恋だなんて嫌味なことを、いいもしなければ思いもしない。
自分で自分の心にいった。
「わたしは、月夜の晩に風邪をひいたよ!」
世間にすれていて男にすれず――男にすれていて恋にはすれていない、これがお綱の実感だった。
月夜の風邪は重くなった。
あれからも二度三度、立慶河岸のお茶屋に上がって、一節切の主を待つ夜もあったが、とうとうそれきりその尺八もその影すらも見かけない……。京や伏見で七百両のやけ費いも、華やかだったには違いないが、月夜の晩にひいた風邪は、お綱の髄からぬけないのである。
「あ……うッかりして、妙なほうへ来てしまった……」お綱は目先を拭われたように、ふいと気がついて立ちどまった。
関の明神の高い石段は、さっき右手にみて左へ折れた薄おぼえがある。道はいつかダラダラ上りにかかっていて、緑の濃い竹林の中に、淙々としてゆく水の声がある。
「この辺じゃないかしら? ……こんな時に昨夜の一節切が聞こえてくればいいけれど」
と、二筋の道を見廻していると、やや上りになった檜林の暗い蔭に、一人の女が泣いている。檜にもたれて泣いている。
木の間を透く空も、どんよりと銀燻しのように鈍く、樅や松や雑草の、しめッぽい暗緑色につつまれた山蔭――。そこにサメザメと泣いている女は、井の字絣の着物をきていた。
泣いている顔の袖を離して、林の細道を、一、二間ウロウロしていたかと思うと、女は、ものの怪に憑かれたように、フワ――と赤いしごきを木の枝へ投げかけた。
「あっ!」
お綱は夢中になって駆けた。
蔓草に足をとられて、一、二度倒れかかったが、あぶないところで間に合った。
今にも、梢にしごきを投げかけて、幽寂な林の中に首を縊ろうとする女。その後ろから、しッかりと抱きとめたのである。
「めったなことをするもんじゃない! めったなことをおしでない!」
お綱は声を絞って、井の字絣の娘を抱き戻したまま、よろよろと熊笹の中へ坐ってしまった。
途端に、抱き倒された娘は、声をあげて泣き伏した。泣いても泣いても、涙の尽きぬように慟哭した。それもやがて声がかれると、背なかに波を打って苦しげな嗚咽となる。
「まア、あぶないところだった」お綱はほッとしたように、しげしげと娘の容姿を見なおして、
「アアびっくりした。みれば、お年もまだ若いらしいのに、一体、どうしたのですえお前さんは。え、え? 話せることなら話してごらん」
「いいえ、いいえ、別にわけも何にもないのでございます……どうぞ、私はこのままに泣かしておいて下さいまし」娘はかすれがすれにいう。
「そう、じゃあ、人には話せない訳なんだね」
「すみません、ご親切を無にしまして……」
「それでは、あまり深く訊かないことにしましょうね。誰にしたところで人にいえない胸の裡はあるものだし、ましてやこんな場合に、根掘り葉掘りされることは辛いでしょう。けれどもねえ、お前さん、私だって若い身だけれど、お互に咲くや咲かずの花のうちに、森の死神なんかに取ッつかれちゃつまりませんよ。え、お分りかえ」
「あ、ありがとうございます」
「分ったら、無理な注文だろうけれど、カラリッと気を晴れさせて、早くお家へお帰りなさいね……え、よござんすか」
優しい手を、ソロリと肩へ廻し、髪を根くずれさせてうっ伏している娘の顔をさし覗いた。と、お綱はその時はじめてびっくりした。
川長で見たことのあるお米なのだ。
ハッと思って、妙な疑惑につつまれていると、その矢先に、陰森とした空気を破って、後ろで不意な人声がする。
「旦那! お米さんはここにいましたぜ。ここにいますよ、ここに!」
「えッ、いたか!」バラバラと木の間から、四、五人の者が集まってきた。追分の宿の大津絵師、室井半斎とその召使たち。
「オオ、縊ろうとしていたのじゃな。ばかな奴じゃ! ばかな奴じゃ」と半斎は、木の枝から下がっていたしごきを、腹立たしそうにスルッとはずして、二人が坐っている熊笹の前へきた。
「お助け下さったのでござりましょう。どうもありがとう存じました。やれやれとんだ世話をやかす奴、実はちょっと前から、大阪の親戚の者で遊びにまいっていたのでございますが、そのうちに、ちと持病がありましてな、カーッと血を吐きましたもんで、それ以来、鬱々と焦れきって、まあ半狂人というありさま。今日もソロリといつの間にか抜けだしまして、あまり姿が見えませんので騒ぎだしたわけでございます。何ともはや、お礼の言葉もございません」
言い訳やら礼やらいって、半斎は召使たちと一緒に、泣きじゃくるお米を騙しすかしして連れて行った。
その人たちが林の細道からダラダラと竹林の中へ下がってゆくのを見送って、お綱は、ひょっと、こう口の裡で呟いた。
「あんな縹緻で可哀そうに……病を苦にするばかりでなく、あの女もどこかで、月夜の風邪をひいたのじゃないかしら?」
その時――それは、鵯の啼く音に似たような、哀れに淋しい尺八の調べが、林の静寂に低くふるえて、どこからともなく聞こえてきた。
耳心をすまして聞き惚れると、音色はまぎれもあらぬ宗長流、しらべはゆうべの山千禽である。お綱の恋慕、お米の吐く血、二ツの女のたましいが、おののくごとく咽ぶごとく、尺八の細音にからんでいるよう……。
お綱が、宿をぬけだしてから、やや二刻もたッた時分……。
ズキンと、頭へ錐をもみこまれるような痛みをおぼえて、お十夜孫兵衛、ふいと眼をさまし、枕の上からあおむけに、ジイと、天井板に眸をすえた。
どこともなく、漂いだした黄昏の色あい――煤けた狩野ふうな絵襖のすみに、うす赤い西陽のかげが、三角形に射している。
「オウ!」
フイに、憑き物でもおちたように、ムクムクと蒲団の上に身を起こした孫兵衛は、両手をうしろへついたまま、ややしばし、濁った頭を澄ましながら、不思議にたえぬという面もちだ。
ゆうべ……あの吹き降りに宿へついて……湯上がりにお綱の色ッぽい酌で二、三合……たしかにほんの二、三合だった……飲んでそれから……閾をへだててほろ酔いで床につく……お綱が鬢を枕へつけながらニッとこっちへ媚をむける……意味ありそうな、水向け微笑……初心だなあ、口にだしてはいえないとみえる……だが、少しじらしてやろう……と蒲団をかぶるとその煽りで、行燈の灯がメラメラとした――までは孫兵衛おぼえている。
しかし、その先が渾沌だ。
自分は、そら寝入りでいるつもりだったが、それから後は、底なしの沼へ落ちこんだよう――まったく仮死の眠りであった。
「ウーム……」と、腕をくんで、部屋のあたりを見廻すと、ハッとした、お綱がいない!
衣桁をみると、ゆうべ、かれによく似合っていた宿の貸浴衣が、皺になって脱いである。
鏡台が散らかっている。だが、お綱のものは、櫛一枚も残っていなかった。ただ抜け毛を丸めた紙屑が、お十夜の眼に、さびしく映ったばかりである。
「やッ? ……」
何をみたのか、孫兵衛。
「はてな?」といいながら、蒲団を立って、向うの畳へ手をのばした。そこに落ちていた、和蘭陀カルタの札一枚――それをつかんで、不審そうな眉をひそめたのである。が、すぐに両手をこめかみに当てて、クラクラとした唇のふるえ、
「ウウ……」と、畳へうっ伏してしまった。
胃の腑からこみ上げてくる吐き気と一緒に、口へ湧いてたまる不快な唾、そして、歯ぐきの根から、浸みだして、孫兵衛の神経を、ムウと衝いたのは――眠り薬のにおいであった。
魔薬をのんだ! いや、のませられた! ゆうべの酒! お綱のやつが、あれへ仕込んでのませやがったに違いない。と、思い当った孫兵衛、ふたたび上げた顔の筋には、面も向けられない佞相の怒りが、蒼白く漲っている。
「うぬ、このお十夜を甘くみて、まんまと一杯くわせやがッたな。ウーム、どうするか見ていやがれ」
思わず、和蘭陀カルタをつかみつぶして、その方の疑念は忘れ、ただ一途に、この復讐をどうしてやろうかと思いつめる。
こういう場合に、肚の底では、焼酎火のような怒気をムラムラ燃やしながら、あくまで、ジイと眉間に針をよせて、かッとならないのが孫兵衛の性格である。――たとえば、京橋口で、斬るべき万吉を斬らずにフン縛ったり、ぬきや屋敷の椎の下で、そぼろ助広の切ッ尖でなぶってみたり、それはみな孫兵衛の粘りッこい悪の悦楽で、助広の刀をかまえる時も、女の肉をむさぼるにも、人に恨みを酬いるにも、かれのやり方はどこまでも暗く陰険である。
気分が癒った様子――。
孫兵衛は、黙然と立って、廊下仕切の障子をみなスーと閉めてしまう。
しばらく、なんにも音がない。とやがて、帯をしめる絹すべり、鏡台を摺る気配……容子はみえないが、頭巾をかぶりなおしているらしい。そういえば、お十夜孫兵衛、まだ今日まで、他人に頭巾をぬいだ顔を見せたことがない。
それには、よほど、細かい気配りをしているとみえ、風呂へ入るにも、人なき時をえらび、酒に熟睡している時でも、頭巾へ他人の指がふれると、かッと眼を開く――というかげ口を、ぬきやの三次もいっていたことがある。
「では何か、二刻ほどまえに、時雨堂への道をきいて、関の山へ参ったのだな。よし。それでは、このまま帰るまい、払いは女中へ渡しておいたぞ」
宿の男へ、こういって、お十夜孫兵衛はそとへ出た。
空を見あげると、一面に、まッ黒なちぎれ雲――逢坂山の肩だけに、パッと明るい陽がみえるが、四明の峰も、志賀粟津の里も、雨を待つような、灰色の黄昏ぐもり。
孫兵衛の姿は、明神の麓から、竹林の中へ消えた。とまた、だらだら上りの中腹に影がみえ、やがて、左へうねった檜林の細道へ入る……。
誰か、人でも踏んで行ったらしく、草の寝ている跡がある。と――お十夜の足もとへ、ふわりと、何か柔らかに絡みついた物がある。赤い絹のしごきである。もしや、と思ったが、お綱のものとは柄がちがっていた。
何だ――という顔つきで、孫兵衛はそれを捨てて、またピタピタと林をぬけて行くと、目の前、パッと夕陽が明るく展けて、かなり高い崖際の上へ出た。
「あ、行き止まりか……」と孫兵衛。雑草の中から、覗いてみると、下は、関の古跡の裏街道、峨々たる岩の根に添って、海のような竹林がつづいている。そして、その一帯な竹林の中から、古い塔の水煙や、阿弥陀堂の屋根や、鳥居のあたまが浮いている。
「畜生! あんな所にいやがった」不意に、草むらへ、身を屈めた孫兵衛は、かまきりのように、ソロリと根を分けて、その崖ぎわを進みだした。
お綱がいる! すぐ十間ばかりの向うの所に。
そこには、いッぱいな、蛍草が咲いていた。お綱は、後ろから、お十夜が近づいてくるとは知らずに、藍をこぼしたような花に埋まって寝ころがり、鬢を、夕風になぶらせて、吾をも忘れている眼ざし……誰に女の掏摸と見えよう。
ここから見下ろせる竹むらの辺り、どことも知れず尺八の音が響いてくる――月夜の晩にひいた風邪、お綱は、それに聞きとれているらしい。
しかし、孫兵衛の瞋恚の耳には、そんな、かすかな旋律がふれても、心にはとまらなかった。息をこらして草むらを匍いだし、お綱のうしろにヌッと立った。
それでも、お綱は気がつかない……。
お十夜の口が、夜叉のように噛み締まった。右手がソロソロと助広の柄にかかり、両眼は、おそろしい殺気をふくんで、お綱の白い襟あしをハッタと睨める。
そぼろ助広へ気合がかかれば、お綱の胴か細首かは、ただ一閃に両断される。
あやういかな、いつものお綱であれば、草一本のそよぎにでも、敏くなければならない筈だが、今はまったく、一節切の音色にしんから聞き惚れていて、心は時雨堂の、あの虚無僧のまぼろしへ凭れている。
現なだけに、無心なだけに――お綱の姿態も、常より増して媚めかしい。鬢の垂るるままに、うつむいている、頸すじの匂わしさ、肩から足へと、流れている柔らかい線の情味、蛍草に押されて、むッちりとした乳のあたり……。その妖冶な漂いが、いっそうお十夜の鬱憤をムカつかせて、所詮、ただ魔刀の酬いだけではあきたらない気もちと変った。そして、そのためらいの間に、孫兵衛の殺念は、さかんな獣心と代り、眸はトロトロとお綱の姿態に焦きついていった。
うぬ。おぼえていろよ。
男のおそろしいことをしらしてやる。
その色香をかきむしッてやる。
そして因果な身にしてやるのだ。終生つきまとい、呪いまわして、泣きの涙で送るようにしてくれる。それが、ゆうべの仕返しだ。
「お綱ッ」
呼びかけるが早いか、孫兵衛の体は、蛇のごとく、女の姿へ跳びかかっていた。
「うッ……」とお綱の声がかすれる。
口は大きな掌にふさがれ、咽は、太い腕に絡まれている……それを、はね返そうとする白い足の力に、草の葉が散り、土くれが飛び、蛍草が揉みにじられた。
ちッ……とお綱は歯をくいしばって、唇へ触った孫兵衛の小指を、力まかせに咬みついた。
その痛さに、孫兵衛は、女の口から手をふり離した。
はね起きると、またすぐに、胸の辺りをドンと突かれたが、お綱は、うしろへよろけながら、きッと、柳眉を逆だてて、
「お十夜ッ、何をするんだえ!」
ひッ裂くような声で叫ぶ。
もみ散らされた黒髪の根くずれ、裾を踏まれた緋のはだかり、それは、いっそうお綱の凄艶をきわ立たせて、孫兵衛の盲目な獣心は、いやが上にも煽られる。
「お綱!」
二足……三足……。
孫兵衛が寄ってゆくと、お綱も、ジリ、ジリと、うしろへ身構えを退いてゆく。
「オイ、逃げる気か。ふウン……逃げられるものなら逃げてみろ」
「どうするッてんだい。私をッ」
「眠り薬の返礼をしてやるのよ」
「…………」
「てめえのような小娘に、あんな甘手をくったままで、眼をつぶっているお十夜じゃねえんだ。おい!」
「…………」
「御城番の膝下でさえ、夜ごとに、五人や七人の生血を塗った助広はここにある。ぶッた斬ろうと思う分には、女の一人や半分は、なんの雑作もねえところだ。それをやらねえお十夜の肚の底を知っているか?」
「…………」
「なんとかいえ。そうか、さすがにお侠なてめえも、すこウし凄くなってきたのだろう。素直に折れるなら今のうちだ。歯ぎしりしてもおれの女、溶けて添ってもおれの女。どっちにしても、この孫兵衛が、これと睨んだものを逃がしッこはねえ。いいかげんに、諦めをつけてしまえ」
一足……また、ズッと迫ってきたが、こんどはお綱、うしろへ退かずに、きりりと蘭瞼の紅を裂いた。が――声はかえって落ちついて、
「お十夜さん」と皮肉にでる。
「――ずいぶんお前も鈍ですね。エエ、なんてえ血の巡りが悪いんだろう。あれほど、私が嫌だという気ぶりをみせていたものを、自分一人でオツにとって、その腹いせだの仕返しだのッて、とんだこッちが迷惑ですよ」
「やかましいわえ、もう嫌も応も、この土壇場でいわすものか」
「おだまンなさいよ、痩浪人! 第一さ、見返りお綱に惚れるなんて、身のほど知らずというものだ。このお綱さんに好かれたければ、もっと立派な腕前か、もっと立派な悪人になっておいで、辻斬りかせぎで色侍、オオ嫌だ、そんな男は!」
「ウウム。毒づいたな」
「いくらでも毒づきましょうか、まだもう一つ、虫の好かないものがある。お前さんのその頭巾、よっぽど、ゆうべ眠り薬のきいてる間に、引っぱいで見てやろうと思ったけれど、どうせ自分の亭主でもない男と、おやめにしといてやったのだよ」
「エエ、うるせえ!」
と、その隙に、孫兵衛は猛然と、豹のように、女の手もとへ躍っていった。
キラリ! と輪を描いたのは、お綱の帯から走った匕首。
もとより、お十夜を抉るには技が足らず、風を孕んだ袖うらが、空しく、ヒラ――と流れたのみ。途端にかいくぐった孫兵衛、その利腕をねじとッて、左手で女の喉をせめつける。
二つの体が、よじれ合って、ヨロヨロと仆れかかった時である。
――ピュッと唸って飛んできた捕縄! 縄の先には鉛がある。小具足術の息一つ、クルクルッと、お十夜の首にからみついた。
「しめた!」という声。
「あッ――」と、一方が引かれた間に、お綱は、素早く逃げ退いた。
檜林から笹むらへ、お綱の迅さは飛鳥のよう。
「ツ、ツ、ツッ……」と、喉の捕縄をつかみながら、孫兵衛だけは、弦を張られた弓の形に、そこへ、食いとめられてしまった。
お綱にばかり気をとられていたところへ、不意に、投げての知れない捕縄が飛んできて、自分の頸すじへ引っ絡んだので、さすがの孫兵衛も、罠へかかッた獣のようにうろたえた。
すばやく、お綱が逃げた、とは知ったが、それを追うどころでなく、左の拇指で、肉へ食いこむ縄の力を撓めながら、あおむけざまに踏みこたえる。
喉の筋は蚯蚓のように太り、面は充血して、みるみるうちに朱を注いだ。そして、
「うッ! ……」と、息を絞り、必死に縄を抜けようとあせっていると、ふたたび。
「や、畜生ッ」という物蔭の声があった。
捕縄の一端から、電流のような力がピンと張ってくると、孫兵衛は、踵を土にめりこましたまま、ズルズルと二、三尺うしろへ引かれた。
「ウーム」と、最後の一息を呻いた時、反れるだけ反り返った孫兵衛は、片手を助広の差添へかけるや否や、渾身から気合いをしぼって、ぱッと一つ身を捻った。
ヒラリッ――と虚空へ抜けた助広の刀光に、縄の断れ目がクルクルッと躍った。
同時に、あっと思う間もなく、孫兵衛そのものも、縄の残りを体に絡んだまま、崖から雑木の谷間へ跳びおりてしまった。
「ちぇッ」と叫びながら、すぐに、草むらから駈けだしてきた男がある。
断られた捕縄を、舌うちしながら、キリキリ手元へ巻き込んで、崖ぎわから、削り立った急勾配を、残念そうに覗いていた。
草ほこりのたかった髷先を散らして、べんけい縞の単衣、きりッと裾をはしょって脚絆がけ。それは目明しの万吉であった。
「ええ、惜しいことをした。投げた呼吸は確かだったんだが、たぐり寄せたのが一息遅かった……こんなことじゃ、おれの方円流もまだ上手とはいえねえなあ」
すると、そこから少し離れたところの一本松、その松の根元の青芒から、ムックリ身を起こした侍が、こっちへ足を運んできながら、
「万吉、鳩が見えたのか」
こう声をかけた。
みると、常木鴻山の腹心、俵一八郎で、万吉と同じように、旅ごしらえの軽装である。
「なあに、鳩を見張っているところへ、思いがけねえ奴が来たので、出来心の方円流、ブーンと投げてくれたはよかったが、とうとうお十夜孫兵衛という、大物を逃がしてしまったところです」
「はははは」一八郎は磊落に笑って、「うつうつと居眠っているうちに、そんな様子だとは思ったが、お前のヤッと投げた縄の息を聞いて、ははア、こいつは逃がすわいと見切りをつけていたんだ」
「え、じゃ、旦那はうすうす知っていたんですね」
「女の声もしていたようだな」
「それが見返りお綱だったんです。あの女には、ぬきや屋敷で、あぶねえところを助けられていますから、その恩にも、縄をかける気はありません。実あ、走井の茶屋の先で、チラと姿を見かけたので、和蘭陀カルタにことよせて、それとなく礼をいいにいったくらいですからね……。だが、あのお十夜の奴だけは、ここで逢ったのを幸いに、引っ縛めて代官所へでも預けてやろうと思ったのに、旦那も人が悪いや、あの時、ちょッと手を貸してくれれば、きっとうまくいったんですぜ」
調子にのって目明し万吉が、逃がした魚の大きいことを嘆じてやまずにいると、一八郎は、それをなだめようとはせずに、かえって、
「これ、万吉」と、岩角へ腰をすえて、まじめに開きなおり、さて、その上で叱言がでた。
「出立のみぎり、常木先生が、くれぐれもそちにおっしゃった言葉を、もう忘れているとみえる……」
「へい」と、万吉は少ししおれる。
「その、目明し根性を、なぜ捨てぬ。こんど江戸表へまいるのは、さような用向きでは決してない筈。常木先生と平賀殿は、ぬきや屋敷へ残って、阿波へ渡る何かの御用を急ぎながら、われわれの吉報を一日千秋の思いでお待ちなされている」
「分りました、ツイ目の前に、捕物がブラ下がったので、うっかり手が出てしまいましたんで……」万吉は一も二もなく謝って、
「おっしゃる通り、天下の大事へのり出そうとする門出、もう、人殺しと道連れになろうが、泥棒と合宿になろうが、決して、小さなことに、目明し根性は出さねえことにいたします」
「ウム、忘れッぽいのもお前の特色だが、早分りがするのもそちの取得というもの。一つの大事にかかる以上は、それくらいな気組でいてくれなければ困る。……おお、それはそうと、鳩の密使はどうしたろう?」
住吉村へ万吉を救いに行って、ぬきやの手下どもを取り押さえ、そのままそこを、密議の場所と定めた常木鴻山は、あれから後、源内や一八郎を相手にいろいろな相談を試みた末、とにかく俵同心と万吉とを、江戸表へ、出立させることになった。
いずれにしても、阿波へ潜入する前に、一応は、甲賀家の一人娘――お千絵様というものに逢っておく方が便宜でもあり、また、蜂須賀家の内情についても、意外な材料を得られぬかぎりもない――というがためである。
そこで、大阪表から、東海道へかかってきた二人は、今日の途中、何か知りたいことがあって、携えてきた伝書鳩を、この関の山から人知れず放したのである。そして、その返事を待ちわびていたのだ。
飛ばした先は、安治川の近所、鳩の翼では一はたきである。もう帰らねばならない時刻の筈。
その頃から、チカッ、チカッと、白い電光が雲間から目を射てくる。夜のとばりの迫るとともに、嵐の先駆らしい風が、そよそよと草を撫でてきた模様に、一八郎は、わが子を待つような、心配と焦躁にかられつつ、空ばかり気にして眺めた。
「まだ見えぬのう」幾度、こうつぶやいたかしれない。
「どッぷり暗くなったので、方向が、分らなくなったのじゃありますまいか」
万吉も小手をかざしていた。その間にも、二人の影を隈どって、稲光りの閃光がしきりに明滅した。
「いや、まだこれくらいな薄明りがあれば……」
「それとも、雷気にすくんでしまったかな?」
「そんな筈はない。こんど携えてきた鳩は、数ある中でも、ことに遠放しもきくし馴れぬいている一羽。どこにおろうと、この方のいるところへ必ず戻ってくる質だが」
「あ――」万吉が、話の中途で、躍り上がるばかりに指さした。
「旦那、来た来た、たしかにあれですぜ。ほら、ほら、白い矢でも飛んでくるように、一気にこちらへ向いてくるじゃありませんか」
「おお」その指さきの空に、一点の影、舞い下りてくる小鳩を見出したとみえ、一八郎も、眉から憂いのかげを払いつつ、
「戻ってくれた、戻ってくれた、手飼の密使――」ハタハタという音さえ嬉しく聞いて、拳を出していると、馴れきっている銀色の家鳩、スーと下がってきて、その手へ止まった。
「大儀、大儀」
足に結んである雁皮紙を解いてパッと離すと、鳩は今宵の塒をさがすのか、ふたたび、木立の中へ隠れてしまう。それを見届けてから、一八郎は、細く折りこんである薄紙をていねいに開いて、
「ちと暗いのう……」と、読みなやんだ。
「お待ちなさいまし、手軽い篝をこしらえますから」万吉は、少しばかりの枯杉をあつめ、燧ぶくろの道具をだして、カチ! カチ! と火花を磨りつけた。
ポウと、燃えついた明りへ寄って、俵一八郎は雁皮紙の密書へ目をたどらせる。それは、かねてから蜂須賀家に住みこませてある一八郎の妹、お鈴からのものであった。
(お問合せの、阿波守様お国帰りは、九月上旬という噂、お下屋敷もお引上げの御用に取り混んでおります。御渡海のお座船、卍丸も、きょう安治川へ入って、艤装いやら何かの手入れにかかりはじめました。とり急ぎお答えまで。お江戸の吉報、待ち上げまする)
読み終ると、も一度、初めの方へ目を返して、
「九月の上旬……、すると、今からまだ二月の間がある」
「それまでには、常木先生のお支度も十分にできるし、こっちの方も楽に江戸から帰れますぜ」
「なるべく、阿波守が入国の混雑に乗じて、その隙に、関を破って密境へ入りこむが上策であるという諜し合せ。あしたはこのことを、常木先生のほうへも知らせておこう」
「しッ……」
何思ったか、その時、万吉が突然声を制して、燃え残りの火をめちゃめちゃに踏み消してしまった。
それを、なぜと怪しむまでもなく一八郎もぎょッとした。いつの間にか、後ろへ近よっていた七、八人の侍が、じッとこちらを見ていたのである。
気転よく、万吉の蹴ちらした枯杉の火の粉が、草から草へ吹かれてしまうと、星明りもなき真の宵闇……。わずか四、五尺の隔てながら双方の姿は、その輪郭すらもよく分らない。
ましてや、その何者であるをや。
こっちで口をとじていると、一方も果てしなく黙りぬいていた。ただその間、鋭い神経だけが、眸とともに互に相手を探りあっている。
何者だろう? 単なる通りかかりの者とも思えず、物盗りの浪人らしい挙動もない。といって、立ち去る様子もなし、あくまで黙りこくッて、威圧するように、こッちを凝視している七、八人の侍。害意はないまでも、なんらかの敵意は持っているらしく考えられる。
勘のいい万吉も、炯眼なる一八郎も、さらに見当がつかなかった。せめて、対手の風貌でも見ればだが、まったく漆壺のような天地――時折の稲妻は、ただ、そこに立った侍のどれもが、一様に覆面しているらしいのを、チラと見せたにすぎないのである。
「妙な奴らだ、大刀でも抜いてみやがれ、こっちから先にグワンと一つ食らわしてやるから」
万吉は、手の裏に十手を隠して、しばらく息を殺していたが、かくべつ、抜いてくる気色はなく、依然として、すくみあいだ。そのうちに万吉は、ばからしくもなるし、神経も疲れぎみになって、フイと気をそらしてみた。
「旦那……」
小声にささやいて、一八郎の袖へ合図をしながら、
「雨にでもなると困りまさあ、腹へ底が入ったところで、ぼつぼつ麓へ下りましょうぜ」
火を焚いていた言い訳にこういって、万吉は、スタスタ先へ歩きだした。と、一八郎も、いい機にしてついてくる――が、まだ。
「後から、追いかけてくるかな? ……」と、予想していたが、七人の侍、追ってくる様子もなく、また、待て! と浴びせてくる声もない。
「なんでえ! つまらねえ気を揉んでしまった」
下り坂へ来てから、急に足を軽くして、万吉の声がふだんの通りになってきた。
「わっしはまた、旦那が密書を読んでるのや、阿波の噂をしていたのを、あいつらが聞き咎めたのかと思って、すッかり胆を冷やしてしまいましたよ」
「拙者も一時はぎょッといたした。しかし、考えてみれば、こんな所へ、蜂須賀家の侍が立ち廻っている筈はないからのう」
一八郎も今になって苦笑を禁じられなかった。
「ですが、一体あいつらは何でしょう」
「どうやら覆面していたらしい」
「それが合点がいかねえんです。言葉を交わせば、侍ってやつあ、きっとお国訛りがありますから、どこの家来か、浪人かぐらいは、すぐに察しがつくんだが、ああ黙っていちゃ判断がつかねえ……おや、道が二筋に別れていますね」
「右へまいろう。どうやら先に明りが見える」
「今夜は大津泊りでしょうな」
「ウム、空模様さえよければ、夜旅をかけて矢走の渡船に夜を更かすのもいいが、この按配では危なッかしい……」一八郎が、闇と知りつつ、険悪な空をまた見上げていると、万吉は敏感に、誰かここへ急ぎ足に来る跫音を聞きつけたらしく、ふいと、わきの杉の木へ身を隠した。
油断のない、気配りをしながら、一人の仲間態の男が、麓から小走ッこく駈け上がってきた。その跫音の行方を聞き澄ましていると、今、二人が来た方角とは反対に、関明神の社殿のほうへ、猿上りに急いだらしい。
「おかしいなあ、どうも妙だぜ」と万吉。杉の後ろから出てきて、ギュッと自分の耳朶をつねっていた。例の探索癖で、それからそれへの幻想が暗示を描いてやまないのである。
「どう考えても、ただごとじゃねえ。何かおかしなものが、この山に包まれているぜ。気というやつだ、魔気か悪気か妖気か殺気か。旦那は、そんなふうに思いませんか」
「ははは、すっかりさっきの侍に脅やかされたな」
「笑いごとじゃありません。これだけは、万吉が、持って生れた訳じゃねえが、十何年間、十手で飯を食ってきたお蔭に、自然と備わってきた勘なんで。何かこう、ひとりでに、頭へピーンと来ることに、今まであんまり間違ったことはねえんです……。おッと、いけねえ。また目明し根性が出やがった。旦那、今のは冗談ですぜ」
いつか、二人の降りてきた道は、風の騒がしい竹林をうねっていて、草鞋の裏から、やわらかな朽葉の湿ッぽさがジメジメと感じてくる。
そして、あたりの夜露に、どこからともなく淡い明りがさしていた。見ると、竹むらのすぐ向うに一宇の堂。そこから洩れる燈火である。
「万吉、ちょッと道を訊ねてみろ」
「あ、誰かいるようだな」と、青苔のついた敷石を五、六歩入って、目明し万吉、何の気なしに時雨堂を覗きこんだ。
道をたずねるつもりで、木槿の垣越しに、ふと時雨堂の庭先を覗いた万吉は、そこに何を見たものか、オヤと眼色を動かせて、口まで出そうになった声をのみ殺したが、とうとうそのまま、何も問わずに忍び足で戻ってきてしまった。
「どうしたのじゃ?」
咎めるように進んできたのは、暗闇に待っていた俵一八郎である。万吉は、しッという眼くばせをして、ふたたび、時雨堂の奥をうかがいながら、人さし指を向けて一八郎の耳へささやいた。
「旦那……あすこに誰かいるでしょう。もう少し、こっちへ寄ってごらんなせえ。ほれ、縁側へ行燈を出して二人の男が何かしているじゃありませんか」
「いかにも、庭先へ盥を出して、湯浴みを終えたところらしいが、それが何と致したのじゃ」
「一人はたしかに怪我人です。ごらんなせえ、側の男が、腫れものにさわるように、体を拭いてやっています。ここからでは顔までしかと見えませんが、今向うの垣根越しにヒョイと見ると、どうでしょう! ありゃ待乳の多市ですぜ」
「えっ、あれがか」
「天王寺や土筆屋などで、再三見覚えている顔ですから、決して間違いはありません」
「さすれば、側にいて世話をやいているほうの者は、彼の親分銀五郎とやら申す男ではないか」一八郎は、万吉から、疾く今度のいきさつを聞いてもいたし、また唐草と待乳の二人が自分たちと同じ目的か否かは知らぬが、阿波の密境へ入りこもうとする者であることも知っていたので、偶然、これはよい者の居所を尋ね当てたと心密かに欣ぶのだった。
「なるほどそういえば、一方は唐草銀五郎かも知れません。いつかの晩、京橋口で孫兵衛に斬り捨てられたとばかりに思っていた多市が、こんな所を隠れ家にして、療治をしていようとは夢にも気がつかなかった……」と万吉は、意外な現実にぼんやりとあたりを眺め廻している。
それに反して一八郎の頭脳は、怖ろしい緻密さと速度でこの奇遇の利害を考え始めた。あの二人も阿波の密境へ入り込もうとする者、また自分たちも久しく阿波の内情を探ろうとして腐心するものだ。偶然、その目的が同じ蜂須賀家にあるのであるから、打ち溶けて話しあってみれば、必ず何か、双方の利となることがあるに違いない。
一歩退いて、仮に、互の目的が違っていたとしても、これからはるばる尋ねて行こうとするお千絵様のことは、銀五郎や多市が充分詳しい筈である。とにかく一つ訪れて見よう――こう心に決めたので、万吉に相談すると、もとより万吉にも異存はない。
静かに出なおして、庭口らしい柴折戸を押し、向うでびっくりしないように、
「少々ものを伺いますが……」とていねいに声をかけてみた。
時雨堂の縁先では、銀五郎が、多市に薬風呂をつかわせて、傷の塗薬や浴衣の世話をみてやっているところだった。
「どなた様?」聞きなれない訪れに、銀五郎の眼が闇へ光ると、もう木戸を押して一八郎と万吉が、つかつかとそこへ入ってきて、
「不意に失礼なお訊ねではあるが、もしや御身は、唐草銀五郎という者ではござらぬか」
銀五郎はぎょッとした。蜂須賀家の廻し者ではないかという疑念が、彼に油断のない身構えをさせた。その様子を見ると万吉も前へ出て、
「お隠しなさることはございません、そこにいる多市さんという者とは、確か天王寺の境内で、お目にかかったことのある筈です」
「あア」銀五郎のうしろで、多市が思いだしたようにいった。
「じゃ、あの時、俺の腰帯を取った目明しの? ……」
「そうだ、万吉という手先の者です。また、ここにいるのは、元天満同心の俵一八郎というお方。いきなりこういう物騒な奴が、お前さんたちの隠れ家へ飛びこんで来ちゃ、さだめし、妙に疑うかも知れねえが、決して、蜂須賀家の諜者じゃありません。安心のゆくように、まずこれをそっちへ預けておきやしょう」と万吉は、紺房の十手を引きぬいて、縁側へポンとほうりだした。銀五郎は、それと唐突な客の顔とを見くらべていたが、度胸をすえたものであろう。心の落ちつきをとり戻して、
「どういう御用か存じませんが、とにかく、こちらへお上がりなすって下さいまし」
蚊帳の吊手を二所ばかりはずして、脇差の側へピッタリ坐った。
「これは巧く話し合えそうだ」
と、心の底で欣びながら、一八郎と万吉がわらじを解いている間に、時雨堂の別な戸口から、白い人影が静かに外へ出て行った。
雨気をふくむ冷やかな風は、秋のような肌ざわりである。白衣の人影は、五、六歩ふみだしてから、乱雲の空を、少し気遣わしげに仰いで立つ。
背丈のスラリとした輪郭と、手に尺八を携えているところから察しても、それは同宿の虚無僧、法月弦之丞と分る姿。
弦之丞は、やがて大津の裏の近道を抜けて湖水のほとりまで歩いていた。琵琶にも、今宵は底浪が立ち騒いでいて、松から松の間には茶屋の灯もなく、また涼をいれる人影もない。弦之丞は、かえってそれを心安そうに、携えてきた尺八を吹くでもなく、独り行きつ戻りつ瞑想の闇をさまよっている。
「お千絵どのも今頃は、さだめしこの身を、どこにいるかと思うていよう……」吾とわが懊悩の無明に独りつぶやくのである。
この間も銀五郎が、涙を流して、両手をついていったではないか。
「倒れかかっている甲賀家の喬木、この世に頼り人のないお千絵様――、それを支える力、救うお方は、あなたのほかにはございません」と。
その時の、自分の態度は、なんという冷血に見えたろう。おお自分は冷血だ、銀五郎のあの熱血のほとばしる頼みも、恋人の不幸な境遇をも捨てて顧みないこの法月弦之丞は、冷血と罵られても、それを言い解くことのできない男だ。
そのくせ、お千絵様という名を、自分は片時も忘れてはいない。昔にかわらぬ――いや、あの頃よりは、なおさら強い恋は不断に燃えているのだ。
「ああ……」松の根方へ腰を落して、じっと額を膝がしらに伏せた弦之丞には、いつか、抱きしめている尺八が、お千絵様そのもののように思いなされて、恋人の棲む駿河台の墨屋敷や、なつかしい江戸の風物までが瞑想の霧に描きだされてくる。
しかし、法月弦之丞の胸には、どうしても、その愛着のある江戸の土を踏むことのできない事情が潜んでいた。
そうしたわけがあればこそ、彼は、家を捨て、恋人を捨て、江戸から外の世間を、旅から旅へと漂泊しているのである。
帰るに帰られぬ江戸の空。折にふれ時にふれ、思慕の悩みを送る尺八の音は、お千絵様の夢に通うこともあろうけれど、銀五郎はそれを知らなかった。いや、銀五郎のみでなく、多情多感な青年剣客法月弦之丞の心に秘めている人間苦のせつなさを知る人はないのである。
……………………
弦之丞が出て行ったあと。
時雨堂では、俵一八郎と万吉が、だんだんと話をすすめて、宝暦の変以来、阿波の秘密を見破ろうとしてつぶさに苦心を舐めてきた実情を明かしたので、銀五郎も、さてはそうであったかと、初めて疑いを晴らして次には、自分の素姓や、お千絵様と世阿弥との境遇も、つつまず二人の前へ語ることになった。
こう打ち明け合ってみれば、十年前に甲賀世阿弥が阿波へ入った目的も、宝暦以来、一八郎や常木鴻山が心を砕いていた目的も、偶然、ピッタリと一致していることが明瞭になった。
初めからすべてが分り合っていれば、万吉も、無論二人を助けたろうし、銀五郎や多市も、こんなにまで苦労をせずに、今頃は、首尾よく阿波へ入り込めていたのかもしれないのだが、見返りお綱に、あの紙入れを掏られた一事が、糸のもつれとなりはじめて、何もかも蹉跌してしまったのは、よくありがちな運命のいたずらともいうべきもので、是非のないことである。だがしかし、これから先は、阿波という大きな謎の鍵を握るために、どこまで、お互に力を協せてやろうではないか。と俵一八郎は、余の者をはげまして、意気軒昂たるものがある。
病人の多市も、それを聞いて、寝床の中からニッコリ笑った。銀五郎としても、思わぬ同志に巡り会って心強さを覚えたが、また心の一部では、
「こうした人さえ世間にはあるのに、あの弦之丞様は、お千絵様の生涯を、何とも思っていねえのかしら……」と、その冷酷な仕打を怨まずにはおられなかった。
今夜の宿は時雨堂ときめて、一八郎と万吉が、別な一間の床につくと、パラパラッと横なぐりに大粒の雨が吹ッこんできた。
それも時折にやんで、夜はだいぶ更けたらしいが、弦之丞はまだ帰らず、逢坂山の上あたりに、不気味な怪鳥の羽ばたきがする。
関の明神の頂は、無明の琵琶を抱いて、ここに世を避けていたという、蝉丸道士の秘曲を山風にしのばせて、老杉空をかくし、苔の花を踏む人もない幽寂につつまれている。
ちょうど、北関の裏崖へ、誰も知らぬ銀の小鳩が下りた頃。その、蝉丸のように痩せた老禰宜が、社家の一隅に、わびしい晩飯の膳をすえて、箸をとっていると、
「こりゃ、誰かおらぬか。ここの神主はおらぬか」
表口に、ぬッと立った自来也鞘の武家があった。
あわててそこへ出た神主が、蚊ばしらの立ち迷う中に立った侍をみると、面は眉深く熊谷笠につつみ、野袴に朱色を刻んだ自来也鞘、いっこう見かけた覚えもない者であった。
「どなた様でござりましょうか。まず、こちらへお掛け遊ばして」
「いやいや、ここでゆるさッしゃい。実は少々頼みたいことがあるのだが……」と、武士は、笠の顎を上の山へ向けて、「あの頂に見える、蝉丸神社の額堂を、今夜だけ、借りうけたいと思うが、別に差しつかえはあるまいな」
「ほう額堂を? ……」と、神主は少し変な顔をして、「いつもあの通り空いておりますものゆえ、別にさしつかえはございませんが、一体何にお用いでござりますな」
「不審に思うであろうが、実はこうじゃ。身どもは大阪表のある蔵屋敷詰の者であるが、同僚たちと語らって、何ぞ趣向の変った連歌の催しをやりたいというところから、この山の額堂ならば、雅味もあり、静かなことはこの上もないので、是非、今夜だけ借りうけたいと申し合せてまいったのだが」
「ああ、なるほど、連歌の運座でござりますか。それはご風流なことで……さようなお催しならば、どうぞご遠慮なくお使いなされて下さいませ」
「早速の承知でかたじけない」
「また、御用とあれば、渋茶ぐらいは、ここよりお運び申してさし上げます」
「勝手のようだが、それは固く断りたい。静かに連歌の三昧を楽しみたいため、わざわざ不便な所へきたのじゃ。今夜だけは、誰か他の者が山へまいっても、これから先へは上って来ぬようにして貰いたいの」
「ごもっともでござります。では、お邪魔をせぬことにいたしますゆえ、どうぞごゆるりお催しなさいまし」と、神主は立ち去る武士を見送って、何の疑心もなく、また膳へ戻って茶漬の箸をとりはじめた。
社家の門を離れた自来也鞘の侍は、神主へ一応の念を押してから、安心したように、そこからなお、右折左折、苔清水に濡れた石段を上って、やがて、神さびた額堂の方へスタスタと歩いて行く。半ば朽ちかけた額堂の欄間には、琵琶を抱いた蝉丸の像や、関寺小町の彩画や、八景鳥瞰の大額などが、胡粉に雨露の気をただよわせ、埃と蜘蛛の巣の裡にかけられてあった。
しかし、それは、昼ここを訪れた人の見られるもので、今は額堂全体も四囲の山もトップリ暮れて、社家の方から、大股にここへきた武士の影は、すぐ額堂の濃い闇の中にかき消えてしまった。
と思うと、低い幾人ものささやきが、自然に声を高めて、そこからガヤガヤと洩れだした。よく見ると、額堂の中には、少なくとも二十人以上と思われる人数が、あぐらをくみ、柱にもたれ、欄に倚り、思い思いなかっこうをして怪異な集合をしているのだった。
神主へ断ってきた言葉のように、妨げのない額堂の席を、夜涼の山嵐をほしいままにして、連歌の競詠を試みているのかと思うと、闇の中に、眼ばかり光らしている武士たちの顔には、みじんもそんな風流気は見えず、一人として筆をかみ句を案じているような者はない。
片隅でムクムク動いている者があれば、それは用意の黒布を出して、顔の覆面や足拵らえにかかっている者で、中には腰の皎刀を抜き払って、刃こぼれをあらためている者がある。
すると、北関の崖の方から、またここへ攀じ登ってきた七、八人の覆面がある。中に先立った一人の武士、額堂の下から、
「天堂氏、天堂氏」と呼びたてた。
「おう……」と、すぐ欄干から身をのばしたのは、自来也鞘の武士……すなわち蜂須賀の原士天堂一角であった。
「や、森氏か――」とうなずいて、一角は、額堂の上からそこへ降りてきた。
裏崖から、ここへ登ってきた中には、お船手の森啓之助と九鬼弥助がまじっていた。いずれも、同じように覆面しているので、夜目には互いの間にも、それが誰かさえ分らない程である。
「時雨堂のほうは? ……」
「別に変ったこともないようです」
「銀五郎やその他の奴、よもや、こっちの手廻しを、気づいてはおりますまいな」
「そんな憂いは万々ござりませぬ。ちょうど、夕刻から今し方まで、北関の裏から見張っておりましたが、向うは何も気がつかずに静まり返っておりまする」
「では、完全に袋の鼠だ……。まず、もうしばらくの間、あの額堂で、夜の更けるのを待つと致そう」
「しかし、天堂氏……」その時、横から話頭をかえてでたのは弥助である。「ただ一つ、これへ帰ってくる途中で妙な奴に出会いましてな」
「妙な者に?」
「されば、どこから飛んできたものか知らぬが、鳩に結ばれてきた薄紙を解き、しきりにそれを読んでいる奴がござりました」
「何かの書物で見たことのある、伝書鳩を使う者ではあるまいか」
「あるいは、そうであったかもしれませぬ。とにかく、怪しい奴と睨みましたので、ツカツカと側へ寄って、じッと挙動をみつめておりますと、格別、あわてて逃げる素ぶりもなく、そのまま山を下りて行く様子。引っ捕えてみるまでもないと、その場はやり過ごしてしまいましたが、どうも、今になって考えると、少し不審がないでもないように思われます」
「そして、風態や年頃は」
「一人は旅装いの三十二、三、これは武家態でござって、一人は弁慶格子の着ものを着た町人でござりました」
「拙者にも思い当りはないが……なんでも、御本国の様子を探ろうとして、密かに苦心している天満浪人の何某とやらいう者もあるという噂、そいつを逃がしたのは残念だったな」
「その代りに、彼奴がこっちの姿を見かけた時、あわてて草むらへちぎって捨てた薄紙を、後で拾ってまいりました。しかし、あいにくと星かげもなく、それを読む明りに窮しますので、啓之助殿が大切に持っておられます」
こう話しあっているところへ、息を喘ぎながら、森啓之助の仲間が飛んできた。目明しの万吉と一八郎が、麓へ下る山の道で姿を見た男というのは、ちょうど、時刻から考えあわせて、この仲間であったことに間違いはない。
森啓之助が、川長へ行った日。お米の駕をつけて、時雨堂の隠れ家をつきとめたのも、啓之助の働きではなく、この仲間の気転だった。そこで、天堂、九鬼、森の三人は、各八、九人ずつの侍を連れて、この関の山に集まり、今度こそは、水も洩らさぬような手配りの下に、怪しい虚無僧、阿波の国内をうかがおうとする銀五郎、多市などを、余さず引っ捕えようとするのである。
七、八年前から、阿波の領境を封じて、かりそめにも、領土の内状をうかがおうとする者には、恐ろしく神経を尖らせている蜂須賀家では、今日までの間、銀五郎以外の者でも、ずいぶん仮借なく縛し上げて、その目的を糺さねばやまなかった。しかし、それを遂行するにも、白昼公然ではなく、いつも、夜陰、あるいは人目のない所で行われるので、世間は知らないが、家中では、そういう嫌疑者の多くを上げてくることが、すこぶる誉れであり、殿の首尾もめでたかった。
なぜか? ということは、この物語の進むにつれ、また、阿波の本体があばかれると同時に、おのずから明瞭になるであろう。
それはとにかく、啓之助の仲間が、今も、細かに時雨堂の様子を探ってきたところから、時分はよしと三十人近い黒装束、一度にムクムクと立ち上がった。
裏道を下りて、女坂の中途から右へ入ると、もう五尺と隔てては人影の見えない山神の森。そこを、ちりぢりに降りて、例の竹林へ入ると、やがて、この辺りにただ一軒の時雨堂の灯が見える。
「しッ……近いから静かにしろ」
「誰か、向うの空地へも忍んでおれ」
「心得た……。合図は? 手筈は?」
「天堂氏が、声をかけたら一度に斬りこむんだ」
こんな声が、笹の葉の音よりかすかに、ささやきあって、黒い影が、ヒラ、ヒラと地を掠り、いつか一人も見えなくなる……。
夜は深沈と更けた。
嵐の前のおそろしい静寂。
空には、団々たる雲のたたずまいがあり、ここには、時雨堂の四方に、姿も息もひそめきって、時刻を待ちかまえる覆面の群れ。
と――その中からただ一人、ソロリと庭へ這いこんで行ったのは、真ッ黒ないでたちをした弥助だ。
背よりも高い南天の株から、ポロポロと夜光の露がこぼれたかと思うと、弥助の体は蟇のように、戸袋の裾から床下へ這った。
上から洩れる話し声……
銀五郎に多市、それと折悪しく宵にここへ来あわせた俵一八郎と万吉の話し声。それはきわめて低い密話だったが、弥助の耳には、手にとるように聞こえてくる。
九鬼弥助は、自分たちの手廻しがいたずらでなかったことを得意に思った。さらに、それからそれへと洩れてくるささやきは、想像以上な驚きを彼に与えた。
「オー、これは大変な相談をしているわえ。もし吾々が、気づかずにいようものなら、お家の破滅を招く由々しい大事となったかもしれない……」顔の蜘蛛の巣を除けながら、なおも根よく息を殺している。
そこで、俵同心と銀五郎の打ち明け話は、残らず弥助が聞いてしまった。
「ちょうどいい! お家の秘密をうかがう奴めら、今夜を期して一網打尽だ」
心のうちで叫ぶのである。
さらに、何より好都合だと弥助が喜んだのは、今夜に限って、あの虚無僧が居あわせないことだった。
「あいつばかりはなんとなく怖ろしい――」と、腕利きの天堂一角すらも、二の足を踏んだので、ぎょうさんと思われるほどな、若侍の人数をすぐってきたのであるが、誰より怖れていた雄敵が欠けているとすれば、これに越したことはない。
刻、刻、刻。
一瞬の空気は、いやが上にも静かだった。
時雨堂の者は、ちょうど、台風の中心にあるようなもの、見えない魔のかげ、感じがたい運命の気流が、尺前へ迫り、寸前に囲繞しつつあるのだ。
けれど、勘の鋭い万吉も一八郎も、話に実が入って、それとは夢にも知らなかった。あまり夜更けては病人に悪かろうと、また明日の打合せを約して、二人は別間の寝床へ入った。
銀五郎は一人でそこらを片づけたり、多市に蒲団を掛けてやりなどして、何気なく縁側から空を仰いでいると、パラパラと大粒な雨! 黙しぬいていた闇の一角から、にわかに、気味の悪い冷風がサーッと一陣に揺すり立ててきた。
「あ! とうとう降り出してきやがッた」
多市の枕元まで吹ッかけてきそうな雨に、銀五郎は、あわてて、一、二枚雨戸を繰りだしたが、まだ何か不安そうに眉をひそめて、戸の間から外の様子を眺めまわした。
「困ったなア、ひどい雨だ……」
青白い稲光りが庭を照らした。
「弦之丞様は、どこへ行っておしまいなされたのだろう。ちょっと声をかけて行けば、一走り傘を持って行ってあげるのに、町ならいいが山へでも行ったとすると、この雨にズブ濡れだろう。どうかしているぜ、弦之丞様は……妙にこの頃めいっているし、俺にもロクに話しかけたことがねえ……」
吹ッかける雨に向ってつぶやいていると、縁の下の九鬼弥助は、その戸がピッタリ閉まらないうちにと、ジリジリと、銀五郎の足もとへにじりだしてきた。
そっと体を横に捻って、床下から上を覗くと、銀五郎の半身は、濡るるを忘れて、弦之丞の帰りを気づかいながら、また独りごとを洩らしている。
「ひょっとしたら、この間、俺があまりくどく頼んだので、それを気にしているのかしら? それともお千絵様がさすがに恋しくなったのかな。いやいや、お千絵様の身を、それほどに思うお人なら、あれまでの俺の頼みをウンといわねえ筈がない。ああ、もう頼むめえ。頼むめえ。いくら腕のできる弦之丞様でも、薄情ときちゃアしかたがねえ。俺はどこまで一本立ち……。いや、捨てる神があれば助ける神だ、思いがけねえ人たちと力を協すことになったから、弦之丞様はあてにしねえで、この銀五郎の一心で、きッと阿波の内幕を探ってみせる! お千絵様の身もお幸せにしてみせる……」
思わず、吾とわがつぶやきに泪ぐまれて、男らしい唇をきっと結んだ。――と九鬼弥助は、その時、油断のない眼くばりで、すぐ銀五郎の足元から、口に手を当てた作り声で、
「唐草の親分……」
と、名を呼んだ。
「唐草の親分」
不意に、床下から呼ぶ者があるので、銀五郎はぎょッとしたが、すぐに、自分にも似気ないおびえざまを恥じて、「誰だ」と、少し、身を屈めた。
怪しい者なら、向うから声をかける筈がない。この附近の竹林に住んでいる物乞いに、二、三度食べものを恵んでやったことがあるから、そのお菰であろうと気をゆるした。
「唐草の親分」
九鬼弥助は、また作り声で呼んでから、反対に、ジイと床下に身を退いていた。そして、肱と右足だけを、のめるように前へ出していた。
「誰だっていうのに、変な野郎じゃねえか。そんな所へ潜り込まれちゃ迷惑だぜ、ええオイ、おおかたいつものお菰さんだろう」
「へ……」
「へえじゃねえぜ、今頃来たって何もありゃしねえ」と、銀五郎は覗きもせずにいったが、ふと思いついたかの様子で、
「あ、そういやあお前は、あの虚無僧の姿を宵に見なかったかい。この雨に、どこかで降りこめられていると思うんだが、知っているなら、傘を持って行って上げてくれないか」
「…………」
「知らねえのか」
「知っています」
「知っているなら頼まれてくんねえ。よ、後生だから」
何の気なしに、釣り込まれて、銀五郎の片足が、庭下駄へ下りていった途端である。
柄を握りしめて、根よく、力を撓めぬいていた九鬼弥助。
「ええいッ!」
横薙に一刀を払った。
床下からではあるが、十分、居合の肱が延びて行ったので、鞘を脱した皎刀は、刃を横にして銀五郎の片足――浴衣の上から返り血の飛ぶほどな傷手を与えた。
不意を打たれた銀五郎は、
「あッ――」といって、片足を引く気が、傷手に堪らず、体ぐるみ、どうッと、雨の降りそそいでいる庭先の闇へ転げ落ちる。
が、弥助の太刀が、肉へ斬り込まれてくる前に触れた浴衣の裾は、時にとって、大きな障害物となっていた。傷は骨まで届いていない。
「ちッ……畜生ッ」
よろよろと立ち上がった。
「ちッ……ちッ……」と深股の傷を押さえながら一心に、脇差をとりに行こうとするらしいが、何せよ深傷だ。一、二歩よろめいたかと思うと、ふたたび、どうと仆れ、浴衣の影は、雨と血と泥にまみれて、雨に白く、無残なもがきが見えるばかり……。
「む……」
九鬼弥助は、したり顔をして、要心深く床下の土にヘバリつきながら、片手に抜刀をつかんだまま、もういっそう、奥の方へ、ジリジリと身を退いて、その様子を見届けていた。
サーッと、地を払ってゆく雨の飛沫が、濛々と、霧のように白くたちこめた。時雨堂の破れ庇からは、滝となって水玉が溢れ、半ば開け放されてある中の灯は、消えんばかりに揺らめいている。
「どいつだッ……卑怯なやつ……、多市、多市」
降りしきる雨の中に、銀五郎の叫びが切れぎれにするのだったが、叫ぼうとする息も、起きようとする懸命も、沛然たる雨の力に圧倒されて紫陽花のように気崩れてしまう。
出来ごとが、あまり瞬間だったので、奥の居間に入った俵一八郎も万吉も、少しもそれを知らず、ただ、屋根を走る疾風の雨の声に、顔を見合せていたのである。
だが、たッた今、銀五郎の手で寝せつけられた多市は、何かを感じて、
「おや?」と、胸を騒がした。そして、不自由そうな身を蚊帳の中からいざり出しながら、
「親分、親分! ……」
呼んでみたが、返辞はない。
閉めかけていた戸もそのまま開いている。
戸の間から、外の暗澹たる凄色が、悪魔の口のように見えた。吠えたける風の中に、まっ青な稲光りが明滅していた。
「どうしたのだろう? そういえば今、妙な音が……」多市の顔色に、泣きだしそうな不安が掠った。もしや? と思わず縁側までペタペタと這ってきて、
「親分ッ……親分ッ……」
肉親のものを案じるような、悲痛な声で呼びたてていた。
「万吉」
「なんですか」
「誰かしきりに、大きな声をだしているようではないか」
「へ、どこでです?」
「向うの部屋らしい。この大雨の響きにまぎれているが、今、少し落ちついていると、さような気がしてならぬのだが」
「そうかしら? ……おや、なるほど、親分親分と呼ぶ声がしますね、何だろう」
「最前の席にいた、病人の多市と申す者ではあるまいか」
「そうかもしれません。だが、おかしいな、なんだッて大きな声で喚いているのだろう」
奥の部屋へ入って、帯を解きかけていた一八郎と万吉は、棒立ちになって、じっと聞き耳たてている。
憂いをおびた多市の声が、今度は、廊下の近くで、二、三度つづけざまに聞こえた。
「旦那」万吉は、眉に深い皺をよせて、声をのむように相手の顔をみつめる。
「また妙なことをいいだすようですが、どうもわっしは、宵から胸騒ぎがしてならねえんです。あの関の山を下ってきた時からそうなんで……、なにしろ気をつけるこッてすぜ」
「銀五郎が怪しいと申すのか」
「いや、あの人たちに毛頭疑うところはねえが、明神の裏崖で逢った侍が腑に落ちねえ。ことによると、銀五郎へ目星をつけて、早くも蜂須賀家の奴らが立ち廻っているかも知れませんぜ」
その言葉も終らぬうちに、いよいよはっきりした多市の声が、物狂わしくまた聞こえた。
「親分がいねえ。親分ッ……」
「どうした!」
帯を締めなおして、二人がバラバラと元の部屋へ駈けだしてみると、縁先から畳まで、吹ッこむ雨にビッショリ濡れ、今にも消えなんとする灯影に照らされた多市の姿が、障子に縋っておろおろしていた。
「親分が……親分が見えません」
「銀五郎が見えぬと?」一八郎は声を弾ませた。
「たッた今、ここで」
「おう、戸を閉める音がしておったが」
「と思うといつの間にか、姿が見えなくなったんです」
「やっ」外を覗いていた万吉が、仰天して、飛沫の庭へ、行燈の光を向けた。
見ると、雨の中に、何やら白いものが倒れていた。銀五郎の浴衣である、傷口から血の流るるに任せたため、あたりを血の池のように染めて悶絶してしまったらしい。
「あっ……」というと、多市の顔はまるで死人だ。万吉と一八郎とは、意外な変を見ると同時に、なんのためらいもなく、ザッとかかる雨をうけて、庭先へとび降りた。
降りた途端に、万吉の肩が、腐れた雨戸を衝いたので、一枚の戸が、屏風仆しにころげ落ちた。
「お! 斬られている」
「銀五郎ッ、気をたしかにもて」
一八郎が抱き起こし、万吉が耳に口をつけて呼ぶ間も、雨は仮借なく横なぐりに降った。
「これッ、銀五郎、銀五郎」
「ううむ……」
「気がついたか、急所の傷ではない、心を緩めてはならん」
「俵様……」銀五郎は、その手を借りて懸命に立ち上がりながら、かっと四方を睨め廻した。
「わっしのことに気をとられて、ご油断なすっちゃいけません、蜂須賀家の手が廻っています」
「やっ、蜂須賀の?」
その時であった。
床下に潜んで、頃合を計っていた九鬼弥助は、ふところから用意の呼笛を出して口にくわえた。
緩い――しかし物々しい呼笛の音が、床下から、四方へピリピリと鳴り響くと、たちまち、庭手の三人を取り囲んで、真っ黒な影が乱れ立った。
細く白い刃のかげも、人に添って、あっちこっちに閃々と動き、早くも切ッ尖を低く泳がせて、狙い寄ってくる覆面もある。
「ちぇッ、足がきかねえ」と、面前の敵に歯がみをする銀五郎をかばって、俵一八郎は、さすがに落ちついていた。
「万吉! 油断いたすなよ」
「おお、こいつだ。宵から虫が知らせたなあ!」と、万吉も、内懐の十手をつかんだ。
輪をなしてきた人影が、等しくジリジリと輪をちぢめて、魔刃のそよぎを詰めよせてきた時、どこからか、
「待て」
と、鈍重な声が走った。
立ちすくみに、身を構えていた三人が、ふと眼をつけると、庭の一方大樹のかげに、雨を避けつつ見張っている自来也鞘。
いうまでもなく、天堂一角である。
一角だけは、覆面をせずに、野ばかまの高股だち。その側にいて、鯉口をつかんでいるのは森啓之助であろう。
「おう、それなる三名の者……」
傲岸な調子で吠えかけた。もう縄にかけた囚人扱いである。一角の言葉は、ピューッという風雨が横から声をさらって、ちぎれちぎれに掠れて聞こえる。
「もう駄目だ! 諦めて後ろへ手を廻してしまえ。いわずとものことだが、吾々は、蜂須賀阿波守にさし向けられてまいった者、生殺与奪の権があるぞ、ジタバタすれば弄り殺し――」
「だまれッ」
だしぬけに、俵一八郎、それを遮って、きびしく言い返した。
「阿波守が何者である、蜂須賀家じゃとて、かような狼藉を、無辜のものに加えてよいか」
「ふん……」というように、一角の白い歯が闇の中に剥いてみえる。
「白々しいことを申すな! 阿波の侍従重喜公、おそれ多いが名君でおわすぞ。いわれもなく、何でかようなことをするものか。その科は汝らの胸に覚えがあろう。申し開く筋があるなら、とにかく安治川のお下屋敷へきた上にいたせ」
「いや、なんと申そうが、この方どもは、さような所へ引かれてゆく覚えがない」
「阿波の御禁制を犯し、お家の内秘をのぞこうとする不敵な大罪、言いのがれはかなわぬ」
「禁制とは阿波領だけの禁制で、よも天下の大法ではござるまい。ここは天領、すなわち将軍家の御支配地、一国の太守にすぎぬ阿波守が、掟呼ばわりを召さるいわれがない」
一八郎の弁舌は、さすが同心役を勤めていただけに練れていて、理の明晰と語気の鋭さが一語一句にひらめいている。
「ましてや吾々とて、また阿波の禁界をふみ越えた覚えもなし、内秘を探ったこともござらぬ。それをしも疑心暗鬼に見らるるにおいては、なんぞ御当家には、それまでも世の耳目をおそれる秘密がおありとみえる」
痛いところを罵った。
いかにも、阿波以外の領土で、阿波の国禁を無碍にふりかざすのは暴の限りである。
けれど、もとより、その暴と権力が、横行し濶歩した時代。天堂一角のごとき、暴をもって禄を食み、暴をもって誇りとする原士気質が、そんな条理に耳をかすべくもない。
「よし! 間答無用」
こういうと、彼は、もの蔭から手を振って、
「それッ、江戸の廻しもの唐草銀五郎、またしきりにそこらを嗅ぎまわる天満浪人や、手先の犬どもを、一網打尽にしてしまえ」
「あっ」というと、ムラムラと動いた覆面の影が、一度に八方から喚いてかかる。
「何をッ」といったのは、万吉であろう、寄ってきたのを、真ッ先に、イヤというほど十手で撲りつけた。
おお! ええ! ともつれあう声の乱打ち。人と人、剣と剣が、ただ真ッ黒に渦巻いた。
雨は少し小やみになって、チラとほころびた乱雲の隙間から、カーッと空の明るみが射し、一瞬、目ざましい剣の舞を描いてみせた。
だが、雲の閉じるとともに、それもまたたく元の闇――、修羅の叫喚、吹きすさぶ嵐。
しばらくすると、その渦の中から、
「ううむ、残念!」一八郎の絶叫が聞こえた。
「あっ、だ、旦那」
「万吉、拙者にかまわずここを落ちろ」
「逃がすな、あいつを!」
群がっていた人数が二ツに割れた。
一方は、長蛇となって万吉を追いかけ、残った人数は一八郎へ折り重なって縄をかけた。
銀五郎はどうしたろう?
時雨堂の灯が消えたため、多市の様子も分らない。
万吉は、垣を破って逃げだした。と――その時だ、すさまじい大音響が時雨堂の庭先にあたってしたのは。
鼓膜をつきぬかれて、あッ、と思った一同の眼先へ、一条の朱電! ピカッと見えた火の柱。
落雷だ。今しがた、一角が立っていたあたりの大欅が異臭を放った。刹那、すべての姿が一度に大地へうッ伏してしまった。人の暴を超えた自然の暴力。
虚空には、幹を白くみせて大欅がダラリと裂け、寂寞としてしまった大地を嘲るように、遠雷鳴はゴロゴロとうすれゆく。
今しがた二、三ヵ所へ落雷があってから、嵐の空はけろりと霽れて、研ぎ出された半月のかげが、蒼黒い湖水の狂浪をすごいばかりに照らしていた。
打出ヶ浜の松原にも、あなたこなたに、根こそぎにされた痛ましい松の木が見える。
幾軒かの掘立小屋が、その辺に散在していた。打出瓦を焼く瓦師の小屋である。
人は住んでいないとみえて、松と松との間に、その小屋は見えても灯影はなかったが、やがてどこかで、
「オオひどかった……」と、つぶやく者がある。
見ると、瓦小屋の軒下に立って、ビッショリ濡れた着ものの裾をしぼりながら、久しぶりの月に思わず眼を吸われている風情。
見返りお綱であった。
月の光をうけた鼻すじが、なんといいかたちだろう。
髪も少し濡れたとみえて、ほつれ毛の渦が、象牙の白さへペッタリとついているのを、指で梳いて櫛巻の根へなでつけながら、
「困ったねえ……とうとう今夜は宿をとりそこなってしまった。こんな御難に会うというのも、みんなお十夜のため、あんな奴こそ、さッきの雷にうたれて死んでしまえばいいのに」
腹立たしそうに独り言を洩らしている。
すると、そこから六、七間離れた向うの小屋にも、誰か人影が立っていたので、お綱は、なんともつかずにぎょッとした。
執念深いお十夜かと思ったのである。だが、まさか……と思いなおして見ると、先でも気がついたとみえて、チラとこっちへ顔を向けたが、別に気にとめる様子もない。
お綱は、今の動悸の消えないうちに、またあわただしい胸騒ぎを重ねた。けれど、それは前の不愉快な驚きではなく、あまり不意に与えられた喜びの狼狽であった。
人違いではないかと、いく度も心を落ちつけて見直したが、やはり自分の錯覚ではない。時雨堂の虚無僧である。一節切の主である。今も手にはその尺八を持っているのが紛れのない印だ。
「どうしてあの人が、今頃こんな所にいるのかしら……」お綱は不思議に感じたが、尺八を携えているのから見るに、この打出ヶ浜へそぞろ歩きに出て、自分と同じように、雨宿りをしているのだろうと推量した。
しかし、それにしてはあまり夜が更けすぎている。自分はお十夜の眼から遁れるため、わざとこの松原に姿を隠し、もし矢走へ出る渡船があったら、草津あたりで宿をとろうと考えている間に、今夜の大嵐に逢って退ッ引きならなくなったのだけれど、あのお方はなんだって、今頃こんな淋しい所にぽつねんとしているのかしら? と、法月弦之丞の悩みを知らぬお綱には妙に思えた。だが何よりも、こうして意外な人に逢えた機縁の欣しさに、胸の裡はいッぱいだった。
何とかして、声をかけてみたい、かけられてみたい、と心はわくわく燥ぎ立つが、どういってよいものやら、いって悪いものやら、黙然としている人は、いつまでもつれなく機会をつかませてくれない。
じっと月を眺めているが、お綱はしどろになって思い乱れた。乳のあたりで痛いほどの血の響きがする。ええ、どうしたんだろう私は! と口惜しさ悩ましさにじれてみても、喉まで出そうになる言葉が歯がゆくも心の奥へ掠れてしまう。
「こんないい折はありゃしない」と知りながら、みすみす恋に意気地のない自分を、お綱はどうにもしようがなかった。
男を男とも思わず、他人のふところの物さえ神技のように掏りとるお綱に、こんな女らしい悶えがある。
その女らしい苦しみを、お綱もこの頃初めて知った。よほど変則な生い立ちに今日まで紛れていたものが、悪土の中から芽を吹いたのだ。性格、本能、すべてがグングンと伸びきって悪の花を咲かせてしまった年頃まで、たッた一つ、純な芽生えを忘れ残されていたのは、まことの恋――それであった。
世間にすれていて男にすれず、男にすれていて恋にはすれていない――見返りお綱も、今度こそは、その恋の試練にかけられねばならぬ。
「いい按配だこと、明日もこの分で晴れてくれると嬉しいけれど……」
やっとの思いでお綱がいった。
いったけれど、それは弦之丞へ話しかけた訳ではない。こう呟いたら、向うでそれを緒口にして、なんとか声をかけて下さりはしまいか――というはかない頼みの溜息なのである。
瓦小屋の柱に凍りついてしまったように、お綱はジッとして動かなかった。
「ひどい雷鳴でした……」とか、「お一人でございますか」とか、今に向うの瓦小屋から、弦之丞が話しかけてくれはしまいかと、きまり悪さの物騒ぎを押さえている。
「小娘でもない年のくせに、私はなんていう初心なんだろう」
お綱は、急に自分がいとしくなった。
こんないとしい吾身を、初めて見出したように、自分と弦之丞の姿とを、偸みめにそッと見くらべたお綱の素ぶりには、あばずれた所などは塵ほども見えず、まったく、純なはにかましさだけがこぼれていた。
義仲寺の鐘であろう、大きく八刻を打った。
打出ヶ浜の波音にまじって、鐘の余韻が遠くうすれて行くと、弦之丞はフイと立って、向うの瓦小屋から歩みだした。
その人にはまたその人の懊悩がある。行くに行かれぬ江戸を偲び、逢うに逢われぬお千絵の境遇を偲びやって、帰ることも夜更けたことも忘れていたが、四更の鐘を聞くとにわかに気がついたものであろう。弦之丞の白い姿が、松の間を縫ってピタピタと帰りかける。
はかない頼みがぷッつり切れて、お綱はハッと悲しくなりながら、
「あっ、もし……」
われを忘れて呼んでしまった。そこにたたずむ女のあることを、あらかじめ知っていたので、弦之丞は別に意外なさまもなく、松を隔てたすぐ前に足をとめて、
「なんでございますか」
静かに、にべもない返辞でふりかえった。
「あの……」お綱の唇は、いつにも似ずワナワナふるえて、われからいうべくあまりに舌がもつれがちである。
「あの、もしやあなたは……」といいかけてから、しどろになって後の言葉を探したように、
「もしや今日の日暮方、あの時雨堂で、一節切を吹いておいでになったお方ではありませんか」
いぶかしげに、女を見つめていた弦之丞は、月に隈どられた顔をニッコとさせて、
「ようご存じ……。気まぐれな手すさびゆえ、人に聞かすべきものではござりませぬ」
「いえいえ、ほんによい音色、関の山で聞いておりますと、骨身に沁みるようでございました」
「お身も尺八がお好きとみえるの」
「深く聞くことは存じませぬが、ただわけもなく好きなのでございます」お綱は自分でも気がつかない間に少し流暢になりながら、「殊にあなたの宗長流を立慶河岸で初めて聞いた晩から、もう妙に心をひきずられて……あれから後も、どんなに音色をお慕い申していたかしれませぬ」
「お……」弦之丞は五、六歩寄って、「ではあの時、酒に酔った阿波侍が、無礼にも二階から拙者へ金を浴びせ投げた後で、お呼びなされた女客というのは? ……」
「はい、私でござりました」
眼のやり場にうろたえながら顔を赧めている女の様子に、弦之丞は初めて注意するのであった。しかしその身装や肌合は、どうみても、この辺の者らしくなく、江戸の下町に見馴れたつくりである。
櫛巻や小柳帯の引っかけで、いけぞんざいな身仕舞なのが、お綱は、その人だけに気がひけた。ともすると、自分が女掏摸だという奥底まで、弦之丞の涼しい眼に見透されはしないかと怖ろしい気にも襲われる。
お綱が話を途切らすと、弦之丞もまたいつまでも、取りつきにくく無口でいた。
ザブン、ザブン……と、打出ヶ浜に寄せ返す波も、冴え過ぎて冬に似る月の寒さも、恋に意気地のないお綱の心を縮ませるばかりである。
虫の知らせか、弦之丞は、その時なんとなく、早く時雨堂へ帰らなければ、銀五郎や多市が、さだめし案じているだろうと思いだされてきた。
いつまでたっても、二人の仲に、何も結びつけられてこないので、ともすると相手がそこを立ち去りげに見える。それをやるまいとしてお綱はまたあわてて話しかけた。
「お言葉の様子では、あなたも江戸のようでおいでなさいますが」
江戸と聞くと、弦之丞もつい心を惹かれて、
「お察しの通りであるが、すると、お身も江戸であるとみえるな」
「はい、本郷妻恋でござります。一人旅にひけをみせまいと、わざとこんな風姿をしておりますが、挿花の師匠をしておりますもの、どうぞおついでがありましたら、お訪ねなされて下さいませ」
「同じ江戸の者であってみれば、いつかまたお目にかかる折もあろうが、少し仔細があって、しばらく江戸へは帰らぬつもり……」
「おや、なぜでございますか」
「なぜということもないが、旅が気ままでござるからのう……」
「いえいえ、旅もようございましょうが、江戸の住心地も捨てたものではございません。山の手のお屋敷町は知らぬこと、下町の小ぢんまりした格子作りで、朝の膳には鎌倉の鰹、夕方には隅田川の白魚、夜には虫売りや鮨売りもきて、縁日のある町へも近く、月の晩には、二階で寝ながら将軍様のお城を眺めて、太平楽をいっておられるような、そんな暮しはお嫌いでございますか」
懐かしいものとは聞くのであったが、弦之丞には、それとお綱とを結びつけてみても、なんの魅惑も感じなかった。けれど、この女のなだらかな江戸言葉で、江戸の風物を語られることは、決して悪い思い出ではない。
「お武家様にしてみれば、江戸はなおさら羽振のいい土地。同じ編笠をかぶるにしても、刀の差しよう、髷の結い方まで、どこか違っておりますので、見る目もなんとなく頼もしゅうございます。私は気まぐれに、上方見物にきた帰りでございますが、もしなんなら、その江戸までご一緒にお帰りなさってはどうでござります」思いきって、こういってのけてみたものの、もし弦之丞が承知したら、なんと間が悪いことだろう、道中も洒々として歩けはしない、などとお綱は他愛もない取り越し苦労までする。
弦之丞はただ笑っていた……そして不意にきっとなった。
誰か二、三人で駈けてくる者がある。
見ると、松林を縫って、肩に月影の斑をチラチラ浴びて急いできた者が、弦之丞の姿を見つけると、そこへ飛んできて、
「おっ、ここにおいでなさいましたか」と息を弾ませた。と、また一人があわただしく、
「弦之丞様、た、大変でございます」と、少し声をわななかせてつけ加えた。その者たちは、弦之丞も見知っている、大津絵師半斎の店の若い男どもであった。
「大変ですと? ……」彼にも、さすがにギクとした色がある。
「な、なんといってよいやら分りませぬ。とにかく、すぐ時雨堂へお戻りなすって下さいまし」
「して、何ぞ異変でも起こりましたか。帰ることはすぐにも帰りますゆえ、まず落ちついて、その仔細をお聞かせ下さい」
こういったのは、使いの者よりは、自分自身を落ちつかせるためだった。
「弦之丞様、驚いちゃいけません。実はこうなんでございます……。もう少し前に、凄い雷が鳴りましたろう。あの時師匠の半斎が、ちょうど厠に入っておりましたが、出てくると私たちへ、今の雷はたしかに時雨堂の近くへ落ちたらしい、もし誰か怪我でもありゃしないか、すぐに見舞に行ってみろといわれましたんで、まだ少し降っている中を、まっしぐらに駈けだしました。行ってみると、さア一大事です。どこの奴だか知りませんが、真っ黒に覆面した侍が大勢で、二挺の駕を引っ舁ぎ、時雨堂から一散に関の裏道へ登ってゆくじゃアありませんか」
「や、大勢の侍が? ……」
「二十人余りの人数でしたよ、何しろこいつア大変だと、あわてて中へ飛びこんでみると、雷が落ちたどころじゃありません……、銀五郎さんをよんでも返辞はなし、多市さんをよんでもウンもスウもありません。時雨堂の中はガランとしていて、そのうちに月が出たので、こわごわあたりを見廻すと、どこからどこまで血の池のようなんです」
「おまけにあすこの大欅へ、さッきの雷が落ちたものとみえまして、黒装束の者が二、三人、その木の下に斃れていますし、時雨堂の中はといえば、そこも、切ッつ切られつした返り血と、土足の痕がいっぱいで、目も当てられない狼藉でございます」
「おウ……」と呻くがように弦之丞、次の語をやや急き気味に、
「して、銀五郎と多市はいかが致しました」
「その多市さんは……」
半斎の弟子二人は、そこで、見てきたばかりの酸鼻のさまを、まざまざと思い浮かべたらしく、気の毒そうに顔を見あわせた。
「手足が利かなかったから、真っ先に斬られたのでしょう。多市さんのほうは、縁先と部屋の間で、ズタズタに斬られておりました。ところが銀五郎親分のほうは、どうなったものでしょうか、いっこう行方が知れませんです」
「姿が見えない?」
「はい」
「そして、関の裏道へ向ったという駕は、たしかに二挺でござったか」
「群れ鴉のような大勢に、取り巻かれて行ったのを見ただけで、しかとは申されませんが、その駕はどうも二つのように思いました」
嵐の間におこり、嵐とともに去った変事を聞き終って、弦之丞は驚きのあまり、しばらく愕然としていたが、やがて口の裡からただ一語。
「……しまった! ……」
日頃から、多市や銀五郎の身辺には、蜂須賀家の者がつけ澄ましているところを知りぬいていたので、それとなく護っていてやったものを、今日に限って家を出たのが第一の失策――と及ばぬ臍をかまれもする。
いや、及ばぬといって、空しく手を束ねてはいられない。襲うたものは、川長でも見かけたことのある天堂一角、その他の阿波侍であろう。そして、彼らが拉し去ったという駕の一方には、必ずや銀五郎が押し込まれているに相違ない。
こう、直覚したので、弦之丞はにわかに眼ざしをかえて、
「関の裏道はどこへつづいているな?」
声まで凛と張って訊ねた。
「京へは近うございますが、大阪へは廻り道で、山から山を音羽や笠取の里へとって、宇治の富乃荘へも出られると申します」
「うむ、まさしゅうそれへさしてまいったに違いあるまい。これ二人の者たち、まことに勝手ではあるが、今の場合は、一刻も早く、その駕や侍の群れに追ッ着いて行かねば相ならぬ」
「おお、あれを追っておいでなさいますか」
「時雨堂のあと始末や、半斎殿へご迷惑を及ぼしたお詫びなどは、いずれ立ち帰った上で御意をえるほどに、よしなにお伝え申しておいてくれ」
「ええ、ようございますとも」
「では、お頼み申すぞ」
この間うちから、常に寡黙で沈鬱にみえていた法月弦之丞は、その時、まるで人が違ったように、そういうや否や、血相すごく身仕度して、阿波侍の一行を追うべく宙を飛んで走りだした。
変事を知らせにきた半斎の家の者も、それと一緒に、これまた時雨堂の方へ、落ちつかぬ足どりを急がせて戻って行く。
こうして夜は一段と更け沈み、打出ヶ浜にはうねうねと白い波ばかりが、あとの寂寞とした大気の中にほしいままな舞躍の声をあげている。
お綱だけは、まだそこに立っていた。
しょんぼりと、瓦小屋の柱にもたれて――。
「……やっぱり縁がないのかねえ……」と、思わずもれる溜息がやるせない。
月影の中へ月より白く消えてゆく弦之丞の姿を、いつまでもいつまでもジイとそこからみつめているうちに、辺りの月光は茫と霞んで、松葉の露のような泪が、お綱の両の睫毛にいッぱいな玉を泛かべていた。
弦之丞には、行路の一顧にもすぎぬ女であったろうが、お綱の身にとってみれば、手のうちの珠を奪われたよりは、もっと絶望的な空虚が胸をひたすのであった。
明けやすい短夜である。五更といえばもう有明けの色がどこにもほのかである。
誰もいない打出ヶ浜……。
見る人もなく聞く人もない瓦小屋。
瓦へかむせてある濡れ莚へ、居崩れたままにうっ伏したお綱は、生まれて初めて真から悲しいということを知って、誰に気づかいもなく、シク、シク……とすすり泣きを洩らしていた。
やがて、ボウーという法螺の音が聞こえる。
矢走へ通う松本の船渡しから、一番船のでる知らせである。
(江戸へお帰り、江戸へお帰り、お綱さん、諦めて江戸へお帰りよ。月夜の風邪をこじらすと、命取りになりますよ)
一番船の貝の音はこういってお綱をなだめ促すように鳴っていた。
らんらんとした太陽が照りつけていた。小鳥の声が晴々とひびく、山や峰は孔雀色の光に濡れ、傾斜の樹々は強烈な陽をうけて、白い水蒸気をあげている。
「急げ、急げ」
今しも、笠取の盆地から、禅定寺峠の七曲りを、ヒタヒタと登ってゆく武士の一群れがあった。
昨日の嵐にふるい落とされた病葉が、道一面に散りしいていて、そこを踏みしめてゆく大勢の足音の前に、山小禽が腹毛を見せてツイツイとおどろき飛ぶ――。
「急げ、急げ」
「峠を越えると郷の口」
「郷の口には休み場もある」
「何しろ支度をかえなければやりきれない」
「明け方から急に疲れを覚えてきた」
「兵糧がほしい」
「もう一息、もう一息!」
「道も河内へ入れば平坦になる。大阪表まで六、七里とはないぞ」
一行はへトヘトに疲れていた。
先に立って励ますのは天堂一角、九鬼弥助、森啓之助。
二挺の駕を列に挟んで、以下二十人ほどの侍がつづいてゆく。難路へかかるたびに出る愚痴は、夜を徹してこの悪路を、関の裏街道から休みもなしに押してきた汗と喘ぎの悲鳴である。
縄括りにした二挺の山駕、それをかついでいるのも侍だ。時折、肩を代え、肩を代えして、螺旋状にうねッた道を峠の頂まで登ってきたが、
「あっ、また血がこぼれる……」
ドカンと、一挺の駕尻を下ろしてしまった。
その駕の裾から、おびただしい血汐が滴りだしている。みる間に、それは幾すじもの赤い線となって、生ける蚯蚓のように、土の上を横縦に流れだした。
「こう血をだしては死ぬであろう」
「だめだ。死ぬぞ、こいつは」
下ろした駕を取りまいてガヤガヤしだした。
「この分では、所詮、大阪までは保っていまい」
「お下屋敷へつく前に、死骸になってしまっては、骨折り損というものだ」
様子をふりかえった天堂一角は、森や九鬼とともに、つかつかとそこへ戻ってきたが、半ば疲労に挫けている一同を見て、
「死なしてはならん!」
一喝をくれて、みずから駕の縄を切りほどき、垂れを上げて中を覗くと、自分もいっそう狼狽した気色である。
「すぐに手当てを加えろ。これから大事なお調べにかける奴、死なしては、ここまで骨を折ってきた甲斐がないぞ」
大勢の手で、駕の中から引きずりだされたのは、唐草銀五郎であった。
深股の傷は、柘榴のように弾けている。ほかにも一、二ヵ所の掠り傷があって、五体はむごたらしい紅に塗られていた。
「用意の金創は誰が持っている」
「はっ、これに」
「指先へ付けて塗りつけろ。そして血止めをギリギリと巻きしめておけ」
「はっ」
「誰か、水を探してこい、水を」
「はっ」すぐ二、三人が渓流へ駈け下りた。
銀五郎は、おびただしい出血に、グッタリと気を失っている。情けにあらずしてそれを手当てする侍たちには、無論荒々しく扱われた。
「一方は大丈夫だろうな」
水を待つ間に、九鬼弥助がいった。一方とはつまりもう一つの駕を指すので、その中には、俵一八郎が無念の縛めをうけて、押し込まれているのは明白である。
中の一人が、こう答えた。
「あの者のほうは、捕える時に深傷を負わせてございませんから、まず御懸念には及びませぬ」
「そうか……」
九鬼はうなずいて、一角と啓之助が立っている岩の側へ歩みだした。
その時、天堂一角は、腕ぐみをしたまま、峠の七曲りを見下ろしていたが、何を見出したものか、眉に険を立てて、にわかにただならぬ色を現した。
「悪い所へ……」一角は舌うちを鳴らして、
「誰かここへ登ってくる」と、ひそめた眉のあたりへ手をかざした。
「高野詣りか三塔の行者か……それともただの通行人か、なにしろ四、五人でございますな」
それをうけて、森啓之助がつぶやくと、九鬼弥助も側に立って伸び上がりながら、
「なるほど!」と同じほうへ眼を据えた。そして三人とも、しばらくの間、峠の上り道からここへ指してくる人影を眺めていたが、そのうちに九鬼弥助が一笑に附して、
「まさか追手ではありますまい」
「無論、そんな者でないことは分っているが……」と一角は注意ぶかい容子で、あたりにいる侍たちへも聞かすように、
「ただの旅人にいたせ、かような態を見れば、何かと眼をそばだてて行くに相違ない。万一、蜂須賀家の者と知られて、世間へ噂いたされては後日の不為であろう。とにかく、銀五郎の体を、どこかへ隠したがようござる」
「いかにも!」啓之助も同意して、にわかにあわてた眼づかいをしながら、
「こりゃ、手当ては後にして、先に銀五郎の体を見えぬ所へ運んでおけ。そして、各もしばらくの間、姿の見えぬようにしているがよい」
「はっ、承知しました」答えると、侍たちは、ただちに銀五郎の手足を取りあって、灌木の夏草の茂みにつつまれた細道へ隠れてしまった。
そして、二挺の山駕も、邪魔にならない所へ片づけさせた後に、天堂一角は陽よけの笠を傾げ、弥助と啓之助は、道ばたの岩に腰を下ろして、何気ない風にたばこをくゆらしている……。
しばらく森としているうちに、さっき、ここから姿の眺められた旅人たちであろう、何か声高に話してくる声が足音とともに近づいてきた。
「よく晴れましたなあ、谷の霧が」
「まったくいい気持で。何しろ、山を歩きつけると、あの埃ッぽくって物騒な本街道は歩けません」
「街道すじも、喧嘩がなくって大名の往来さえなければ、決して悪かあありませんが」
「おお、ここに立つと、ちょうど、宇治川の流れが、水でくの字を描いたように見えます」
「山もよいじゃありませんか。東のほうをごらんなさい。昔、徳川様に見出されて、お抱えになった忍者の出生地――有名な甲賀の山国があの辺です」
「なるほど、つまり幕府の甲賀者が出た郷で……」
「さよう、あの尖った山が矢筈ヶ岳、その右手のが猪の背山とかいいましたよ。まア名なんぞはどうでも、あの襞になっている山の皺が、なんともいえない深味のある色じゃございませんか」
すぐそこまで来たのをみると、六部、高野詣り、道者などの五人連れで、いずれも白い甲がけ脚絆に杖をもっているが、中に一人、それをもたない虚無僧の天蓋が一つまじっていた。
「どうです?」
高野詣りが腰をのばしていった。
「この辺で、一服やるとしましょうか」
すると、六部がソッと袖をひいて、道ばたにいる侍を目で知らせながら、さりげない調子で、
「いや、もう一息まいりましょう」
「そうですか、じゃあ……」
「下りへかかる岐れ路に、たしか、眺めのいい場所があった筈で……」スタスタと通り過ぎてしまった。多少何か無気味にも思ったようなふうである。
一人の虚無僧も、他の行者たちについて足を早めたが、行き過ぎてから、二、三度うしろをふりかえった。わざと、やりすごす気で、たばこをくゆらしていた一角や弥助は、その五人を一様一色な遍路とばかり思っていたので、虚無僧のまじっていたことも、またその天蓋のかげに明敏なまなざしが働いていたことにも気がつかなかった。
気味の悪い侍を見かけたのがきッかけで、無口になった五人の道者連は、それから二十丁ほどタッタと下ってきたが、やがて、甲賀路と宇治の岐れ道へきた時、
「では、皆様……」
と、虚無僧だけが、ふいに立ちどまって、
「私だけは、ここでお別れ申します」
「おや」と、四人は変な顔をして、
「虚無僧さん、あなたは甲賀へおいでになるので……?」
「はい」虚無僧は慇懃に、
「もとよりあてのある旅ではございませんが、最前、峠の上から甲賀の山を見ましてから、急にまいりたくなりましたので」
「そうですか――ですが、ここからまいりますと、木元、裏白なんていう、嶮しい山や峠ばかりで、いくら山好きでもあきあきしますぜ」
「ほかにちと思いだした用事もございますゆえ」
「そうですか、じゃせっかくお大事においでなさい」
「ありがとうぞんじます。今朝からご一緒になりまして、いろいろお世話になりました」
「なんの、遍路の者はお互いでございます。草鞋の代えや旅籠銭は大丈夫ですか」
「はい、用意しておりまする」
「お一人になったら、必ず、暮れないうちに宿をとることですよ。じゃ、お気をつけなすッて……」
半日の道づれを捨てるのも、何か名残惜しそうに、一人を減らして四人になった道者たちは、コトン、コトン、と杖の音を淋しくさせて、禅定寺の峠を下りにかかって行く。
虚無僧は、寂然と立って見送っていた。
旅の人の情けはうれしい! しみじみ思うのである。ことに、ああした遍路同士が、貧しい情けをおくりあうことは、泪ぐましいほどで、闘争の巷や富家の門では見られない美しさだと思うのであった。
そして、静かに、道端へ寄って行った。
朽木の根から、滴々と落ちている清水に喉をうるおそうとして、ふと、苔や木の葉に埋もれている道しるべの石をみると、
南――郷の口をへて奈良街道。
北――裏白越え甲賀路。
としてある。
「甲賀……」じっと見つめている虚無僧の胸に、懐古の念が清水のように湧いてきた。「甲賀といえば、甲賀組の発祥地、いうまでもなくお千絵殿の祖先の郷じゃ……」
不思議な心地がするのである。
ゆくりなく、恋人の祖先に巡り会ったような心地がする。そしてそこに、なお道しるべの文字を見入っていた虚無僧は、法月弦之丞なのであった。
弦之丞は、ゆうべ、打出ヶ浜からまっしぐらに立ってきた。無論、蜂須賀家の者を追いかけて、銀五郎を取り返すためにである。
一八郎のことは、彼の念頭に薄かった。およそのことは察していたが、まだ深くその人を知らないために。
しかし、銀五郎の一身だけは、命を賭しても取り返さずにはおかない決心であった。自分というものが、江戸の地をふむことのできない境遇である間は、銀五郎こそ、お千絵様の身を守り、甲賀家を支えてくれる唯一の力だ。
蜂須賀の侍たちは、世間の目を避けるためにも、必ず裏街道をとって大阪へ戻るであろうと察したので、彼は、迷うことなく道をとって、夜の暁方に、醍醐の山寺で一刻ばかり休んでいた。
そこで落ちあったのが、今、別れた遍路の人々である。天蓋や、わらじなども、その人たちが、寺で工面してくれた物だった。弦之丞は、先の目をくらますために、その人たちとここまで同行してきたのである。
そして、計らずも、峠の頂で、天堂一角や九鬼弥助の姿を見かけた。
先では気がつかなかったが、弦之丞は、あの瞬間にそれを見遁していない。駕も二つあった、その他の侍たちはどこかに休んででもいるのだろう――そううなずいて通り過ぎた。
ここは岐路になっているが、ここまではどうしても一本道。いやでも応でも、天堂一角やあの駕が、目の前を通りかかる筈である。
弦之丞は、一口の清水に、湧き沸る血を抑えながら、ゆたりと、道しるべの側へ腰を下ろした。
「……もう急ぐことはあるまい」
彼は、ことさらに心を落ちつけるため、尺八を取って、眼を半眼に閉じ、ゆるやかに唇を湿していた。
禅定寺峠――、あの頂から少し下って、森々たる日蔭へ入ると、右は沢へなだれて、密生した楢の傾斜で、上にも、栃や松が生い茂っており、旅馴れた者にも気味悪い暗緑な木下闇――。時たまつんざく鳥のけたたましさは、斬られた女の声のようだ。
程もなく、シタシタと、地をうつ大勢の足音が、その勾配を湿っぽく流れてくる。
さきに峠の上の平地で、二挺の山駕を下ろしていた阿波侍の一群れである。
森啓之助と九鬼弥助は、俵一八郎を入れた山駕の側につき、その後からは、天堂一角が銀五郎の駕を守って、なんの予感もなさそうに、例の岐れ路まで進んできた。
と――不意に、どこかで、
「待てッ」
ピンと、耳をつんざいた声がした。
すぐ続けざまに同じ音声が、
「しばらく待て!」
こう、叫んだかと思うと、道しるべの石から、躍然と立ってきた法月弦之丞が、あわてる列をかきわけて、すばやく、一八郎の駕の棒鼻をドンと抑えてしまった。
「や、や……」とうろたえる者を睥睨して、
「蜂須賀の方々へ、ちと申し入れたい儀があって、ここにてお待ちうけ致していた。とにかく、この二挺の駕をお止めなさい!」
と、身をかためて、目に余る一行の道を阻めた。
「なにッ」
聞くより九鬼弥助は、刀のこじりをはね上げて、弦之丞の姿へ目をいからしつつ、
「知らぬことならとにかく、吾々を蜂須賀家の者と知って足を止めよとは言語道断だ。一体汝はどこのうろたえ者だッ」
「もう、見忘れ召されたか――」と、弦之丞は片手で天蓋の紐を解いた。それは、早くも八方の敵をうける用意である。
「――いつぞや川長の門口で、お志の鳥目を浴びたあげく、その夜裏庭では各のお手の内まで拝見いたした虚無僧でござる」
「えっ……」弥助は胆をヒヤリとさせたが、怯みをみせまいとするのであろう、なおも、額に青筋をうねらせて、
「おお、その虚無僧がどうしたというのだ。何のゆえにこの駕を止めるのだ」
「されば、もとよりその夜の意趣遺恨ではなく、拙者の知人である銀五郎と、ほか一名の者が、故なくして、方々に捕われたと聞き、お下げ渡しを願いに出たのでござる」
「ならぬッ」
弥助は一喝をくれて、かたわらの森啓之助を顧みながら、
「こんな奴にかまっていては暇つぶし。それッ、お先へおやンなさい」
「心得た」というと、森啓之助、ほか八、九人の侍とともに、一団になって駕尻をあげた。
「ええ、待たぬか」と、弦之丞が、それを支えんとする隙を狙って、
「邪魔するなッ」
粗暴な九鬼弥助が、抜き打ちに斬りつける。
はっ――と思うと、弦之丞は、身を沈めて、手元へのめッてきた弥助の大刀を、目もとまらぬ隙にもぎ取った。しまッた! ――弥助は、色を失って飛び退いたが、時遅し、法月弦之丞に持たれた一刀は、あだかも名刀に変ったかと思われるばかりな冴えを増して、片手打ちに、ズウンと弥助の肋まで斬りこんでしまった。
「わッ……」細かい血が濛とあがる……。九鬼弥助は空をつかんで、楢の傾斜へ落ちこんで行った。
銀五郎の駕を止めて、こなたに立っていた天堂一角は、その態を見るなり、
「おのれッ」といいざま、ジリジリと詰め寄ってきた。
一角は、啓之助のような、白面柔弱でなく、また、弥助よりも兇暴であるかもしれないが粗暴ではない。その剣を放つにしても、彼らの腕とは格段な差があり、弦之丞にとっても、侮るべからざる剛敵である。
この隙に、柔弱者の啓之助は、人数の半分以上を引きつれて、一八郎の駕一つを固めながら、ダッ――と麓へさして急いでしまった。
その後の怖るべきものは、天堂一角だけである。あとの葉武者は何ほどのことがあろう――と、弦之丞は、それに三分の気を構え、七分の心力を一角に向けて、血ぬられた大刀を青眼にとりなおした。
ギラギラした大刀の数が、車の歯のように、弦之丞のまわりを取り巻いている。天堂一角は、たえず彼の前へ前へと、切ッ尖を向けていた。
しかし、いつまでたっても、弦之丞に微傷を負わせることもできない。
無碍に、一歩でも、手元へ近づいて行った者は、たちまち、相手の一閃を浴びて、あえなき血けむりを揚げてしまう。
すでに四人は斬られていた……。
また斃れた! パサッ――と、濡手拭をはたくような血の音。
だんだん頭数が減ってゆくばかりだ。一角を除く以外の者は、もう怯気に襲われてか、ともすると逃げ足にみえる。
斬っても斬っても、弦之丞の構えは、すぐ鉄壁に戻っていた。そのために、一角はどうしてもつけ入ることができない。何という流名だろう? 何という構えであろう? そして何と倫を絶した技だろうか。
一角にとって、頼み甲斐のない助太刀は、また一人が朱になったのをきッかけに、わッとひるみ立って、麓の方へ逃げだした。
うまくはずして行った森啓之助でも呼んでくる気か? おそらく、あの啓之助に、ふたたびここへ戻ってくるほどな勇気はあるまい。
だが、さすがに天堂一角は、あくまでそこを退かなかった。人まぜをせぬ一人と一人、ややしばらく息をひそめて睨み合った。原士の中で、有名な使い手だけあって、難波一方流と覚しき太刀筋はたしかなもの。弦之丞とて、迂濶にはあしらえない。
こういう筋のいい太刀は、ほとんど、その斬る手も引く手も見せない迅さを持っている。戛っ! とばかり、たった一度、双方の白刃が摺り合ったかと思うと、天堂一角の姿は、忽然としてそこらにあらず、弦之丞のすぐ側の樹に、どこから飛んできたのか、一条の捕縄が、蛇のように絡みついて、ピンと向うへ張っていた。
弦之丞と一角の技は、とうとう優劣がつかなかった。この時の場合は、まず互角といっていい。なぜならば計らざる者が、その刹那を引き分けてしまったのだ。
と、いうのは。
時雨堂から、危うく逃れた目明し万吉。この変事を、住吉村にいる常木鴻山へ知らせようとして、ヘトヘトになりながら、折も折、この山越えにかかってきた。
そして二人が切り結んでいる態を見るや、彼はなんの猶予もなく、得意の捕縄をスルスルと解いて、天堂一角へ狙いをつけた。
そこで、捕縄の先が、宙をうねって行った途端に、一角は早くも感づいて、楢の茂った谷間の崖へ身を躍らしてしまったのだ。
「もしやあなた様は、時雨堂においでになった、法月様ではございませんか」
的をはずした捕縄を輪にしながら万吉は、弦之丞の前へ姿を見せた。
「おう、してお身は何者でござる」
「あの晩、泊り合せた万吉という者ですが、深いお話は後にして、どうか、あすこにある駕から先にみて上げて下さいまし……、何だか、苦しそうな呻き声が洩れております」
駈け寄って、山駕を括した縄を切りほどくと、銀五郎の体が力なく外へ横仆れになった。さっき、多少の手当てを加えられたので、気はついていたが、奄々として苦しそうな息づかい。
「おッ、銀五郎ではないか」
弦之丞は、白い膝の上へ、その体を抱え込んで、二度ほど、耳元へ口をつけて名をよんだ。
「あ……弦之丞様……」
「分ったか。気をたしかにもて」
「分りました……」ガックリとうなずいて、「お助けなすって下さいましたか」
「おお、蜂須賀家の者の手より取り戻したのじゃ。もう決して案じることはないぞ」
「せっかくですが……弦之丞様、そのお骨折りは無駄でした」
「な、なんと申す。この弦之丞がそちを取り返したのが無駄じゃというか」
「無駄です! わ、わっしゃ、ちっともうれしかあありません……」
「うれしくない?」
弦之丞はせきこんだ。彼としてこれまでの力を尽して助けた者から、こんな情けない言葉を聞こうとは、あまりに心外であるに違いない。
静かに鵯が啼いている。
万吉は、あたりの死骸を谷間に蹴こんで、あっちこっちを見張っていた。
「弦之丞様……」銀五郎は、傷手を忘れて改まった。
「さだめしお腹が立ちましょう。命がけで助けた者が、うれしくないの無駄だのといえば、誰だって、むっとするのが当り前です。……ですが、嘘の嫌いな唐草銀五郎、まったくうれしくございません」
「心得ぬことを申すではないか。腹蔵なく、そのわけを承ろう」
「申しましょう……これをいわないでどうするものか」
ほッと熱い息をついた。
こらえてはいるが、あれほど出血した銀五郎は、深傷でよほど体も疲れているとみえ、眼の縁には青い蔭が隈どっており、きれぎれにいう声にも、どこかしら精がない。
「わけというのは、この銀五郎が、失礼ながらあなた様にあいそをつかしているからです。早くいやあ見きりをつけてしまったんだ……法月弦之丞という方は、腕は優れているけれど、泪もなければ血もない武士だと……」
「待て。ではそちは、あくまでお千絵様のことをいうて、この身を責めるのじゃな」
「責めます! 弦之丞様。わっしをこうして助けてくれる程なお心で、なぜ、お千絵様を救って上げては下さいませぬか」
「ウーム、いうな銀五郎! そのことだけはいうてくれるな」
「いえ、い、いわなくちゃなりません……」銀五郎は彼の手頸を固く握りしめた。怖ろしい力のふるえが感じられる。その眼は衰えた中にもあらん限りの訴えを燃焼している。唇が渇く、舌がもつれる……しかもまだ烈々の侠血は唐草の五体に溢れ返って見える。
「先の晩にも、あの通り、諄いお願いを致しました。もうこれが最後のお言葉をきく時です。さ、おっしゃって下さいまし。江戸へ帰ってお千絵様を救ってあげて下さるか。それとも厭か……それを」
「無理じゃ……」弦之丞は良心の苛責と、銀五郎の言葉の鞭に、顔まで蒼白になりながら身を悶える。
「江戸へは帰られぬ仔細がある。それはたびたびいうてあるではないか。おう! この弦之丞の心も察してくれい」
「では、どうありましても?」
「……身に骨肉がないならば――父や母や兄弟や、そして家門や徳川家の直参などという家統がないならば……」
「わ、わかりました」いうかと思うと銀五郎、ガバと前へうっ伏した。いつの間にか、弦之丞が側においた刀を忍ばせていたらしい。びっくりして抱き起こしてみると、切ッ尖深く自分の手で脇腹を抉っていた。
こんこんと流れでる鮮血が、自分の膝へも温く浸み徹ってくるのを感じながら、弦之丞はなにもいわずに、ただひしと銀五郎を抱きしめた。
唐草は断末の朱に悶え苦しんだ。が、彼には、ふたたび起てない自覚があった。多市が最期をとげたこと、一八郎が捕えられたこと、すべての破綻とともに、自分の終るのも当然だとは知っている。
恨むらくは、ついに、阿波の土を一足もふまないこと――そして法月弦之丞をついに動かすことができなかったこの二つ。
この二つの恨事は、彼が白骨となるまでも、永劫に抱く心残りであらねばならぬ。
急に、抱えている腕へ重みがかかった。ガクリとこときれた様子。
石のようになって、睫毛に泪をさえ溜めていた弦之丞。はッと吾に返って、眼がしらの露を払い、銀五郎の頬へ自分の頬をピタとつけて耳に口。
「これ、銀五郎! 銀五郎!」
声のかぎり呼びかえすと、さっきから始終を見ていた万吉が咄嗟の気転、手拭に清水を湿して飛んできて、銀五郎の口へタラタラと注ぎこんだ。
ぽかと、眸を開いたのを見て、弦之丞はきっとなった。そして、彼の薄らぐ魂へも、はっきりとうなずけるような音声でこういった。
「こりゃ唐草! そちの最期に一言の手向けがある。今日までは、大府大番頭の家名をけがすまいとおもい、また私の両親や兄弟たちに憂き目を見せたくないばかりに、恋を捨て武士を捨て、血も泪もない懦夫となり終っていたが、今こそ、岐路に立った弦之丞は、自分の指して行く道を瞭かに思い決したぞ! 臨終のきわによう聞いてゆけ! そちの頼みはたしかにこのほうがひき受けた! 必ずお千絵どのの今の境界、骨身にかけて救ってとらす。また甲賀の家も支えてみせる。なおそのためには、この身の武運が尽きぬ以上、阿波の本土に入り込んで、世阿弥殿の末路を見届け、蜂須賀家の内秘を必ず突き止めてみせるであろう。よいか! 聞こえたか、銀五郎! 法月弦之丞の今日の誓い、これを黄泉の餞別として受けてくれい……」
銀五郎のなきがらを埋めた土の上に、淋しい山の花が手向けられたのは、それから一刻ほど後のこと。
弦之丞は合掌して、しばらくの間瞑目した。万吉ですら、しきりに涙がさしてきてたまらない様子。
そこは峠の道を横に入った崖の中腹で、甲賀の山、河内平、晴れた日には紀淡の海も望まれよう、風に鳴る静かな古松と榛の木にかこまれている。
「じゃ弦之丞様、いよいよあなた様も御決心の通り、これからただちに江戸表へお立ちでございましょうか」
万吉はこう改まって、先ず一通り自分たちのいきさつから今日に至るまでの事情を話した後に、もし弦之丞がここから江戸へ向うならば、自分はお千絵様に会うことを一時思い止まって住吉村にある常木鴻山へ、事態の急変を知らせたいという気持を述べた。
すべてを聞きながら、思案をしていたが弦之丞。
「いや……」と向きなおって、
「その住吉村へは拙者がまいって、一度常木氏にもお目にかかっておこう。ところで、江戸のお千絵殿や銀五郎の身寄りのほうへも、早くこのことを知らせねばならぬが……」と、また、小首を傾げて考え沈む。
「む! 万吉」ハタと膝を打って、「江戸表へは、そちが一足先へまいってくれぬか」
「えっ、お千絵様のお屋敷へ?」
「そうじゃ。銀五郎のかたみとなったこの髪の毛を持って、お千絵殿に会った上、仔細残りなく話してくれい。そして、いずれこの弦之丞も追っつけ江戸へまいるであろうとな」
「蔭ながらわっしもいろいろ伺っております。そう申し上げたなら、さぞお喜びでございましょう」
「しかし、それもごく密々に――本来江戸へは帰れぬ事情のあるこのほう、必ずとも他人の耳には触れないようにな……」
「そこに抜かりはございません。じゃ、わっしは行きがけに大津絵師の半斎老人の所へ寄って、何かの詫びや礼をすました後に、その足で江戸表へ急ぎます。ところで、あなた様と江戸で落ち合える段どりは、およそ何日ごろになりましょうな」
「まず二月か三月ほど後であろう」
「たいそうお手間がとれるんですね」
「聞けば、近いうちに蜂須賀阿波守は、卍丸をしたてて徳島城へ帰国いたすとある。安治川尻の下屋敷の様子、その取りこみに紛れてザッとうかがってくるつもりじゃ。さもなくては、お千絵殿に会ったところで、充分この後の諜し合せがつかぬからのう」
「へえ……」といったが、万吉は相手の顔をけろりと見ていた。十手を箸のように持って、この年まで目明しの飯を食ってきた自分でさえ、あの下屋敷の塀の節穴さえ覗けずにいたものをと、少し片腹痛い気がしないでもない。
「ですが、ずいぶん危のうございますぜ」
「なんの、危なかったら引き退るまで、あわよくば、俵一八郎を救い出せるかも知れぬ」
「ああ、俵の旦那も、とうとう阿波の犠牲になってしまった……」ふと暗然とつぶやいたが、気を取り直すように立ち上がった。
「そう事が決まりましたら、一刻も早くお別れと致します。今度こそは、かけがえのねえあなたのお力、どうぞめったな足を踏みださねえように。また、常木様にお会いになりました節は、万吉はこうこうと、俵様のことのついでに、お伝えなすって下さいまし」
「心得ている。それではもう出立するか」
「へえ、にわかに気が急いておりますので」
「銀五郎が、この土の下に眠っておるかと思うと、拙者は、何やらここが立ち去りにくい」
「ごもっともでございます。江戸であなたとお千絵様が、恋とやらに燃えていた頃は、ずいぶん世話をやかせたという話だそうで」
「その昔、お千絵殿の父世阿弥殿から、少しの恩義をうけたのに感じて、こうまで義理を尽くしたのは見上げた男。弦之丞が岐路の迷いを離れたのも、銀五郎の血と熱に染め揚げられたようなものじゃ」
「わっしも江戸へまいりましたら、偽紫に染まないで、その真っ赤な男気ッてところにあやかりたいものでございます」
「おお……」と弦之丞は尺八を取り上げて、
「銀五郎の手向けに一曲吹こう、そちも別れに聞いてまいるがいい」
「あ、そいつはご勘弁願います。でなくてさえ先程から、俵様のご無念がおもわれたり、唐草親分の非業な姿が目について堪らねえところ――。この上哀れッぽい一節切を聞いた日には、嬶のことまで思いだしやす。泪のなの字も目明しにゃ禁物、一足お先へ押ッ放してお貰い申します」
怖い物から逃げるように、万吉は、道中笠を西日へ傾げて、禅定寺峠から江戸へ心を急がせて行った――。
机が一脚、寂然としてある。
柿の木から洩れる秋の陽が、古畳の目に明るく射していた。
あたりは草深い百姓家らしいが、その部屋の中は百姓家らしくなく、和漢の書籍だの、舶載のエレキテルだの、そうかと思うと、薬を刻む薬研が見えるし、机の上には下手な蘭字が書きかけてあり、異人墓の石のかけらがその文鎮になっている。
そして誰も人はいない。
ガランとして、明けッ放しになったまま、しばらくは日向溜りの秋の蠅が、黒豆のようにジッとしていた。
「おほん……」
ややあって、どこかで一ツ咳払いがしたかと思うと、厠の戸のさるがカタンといった。
厠の戸をギーと開けて、悠々と出てきたのが、すなわち机と薬研の主であろう。
誰かと思うと、久しぶりにその細い丁髷と細い顎を見せた、平賀源内なのである。
手洗鉢の水を、南天の葉へチョッチョッとかけて、手拭掛けに手を伸ばしながら、さて、おもむろに庭の秋色を眺め廻した後、机の抽斗から薬草の胚子らしいものを取り出して庭へ下りた。
長崎で手に入れてきた蛮種の薬草の胚子を蒔いて、一つまた暢気な漢方医者どもを、あっといわせよう下心とみえる。
縁の下から鍬を取りだして、それを杖のように突きながら、離々とした秋草の中を歩きだした。
そして、ここら辺りでと思う所で、サクリと鍬を入れたが、その鍬を土にさしたまま、源内はヒョッと妙な顔をしてしまった。――というのは垣の外に、胡散くさい人影が、しきりに辺りをうかがっていたからであろう。
「また嫌な奴が立ち廻っているな……」
こう思ったので、平賀源内、障らぬ神に祟りなしというふうに、胚子の袋をそこにおいて、こっそり部屋へ戻ってきた。
「おれは医者だよ。天下が誰のものになろうとおかまいはない。そう執念深くつけ廻さなくってもよさそうなものじゃないか……。常木鴻山と一緒にいたので睨まれたのだろうが、もうよい加減にして貰いたいな。心煩という病気になる、蘭方でいえば神経衰弱……」
煙管へ一服つめてみたが、うまくないのでほうりだした。今度は薬研を引きよせて、桂皮か何かをザクザクと刻みはじめる。
「おれは医者だから漢薬蘭薬なんでも売るが、病気は薬で癒らない。まして心煩――神経衰弱なぞはてこずりものだ。罹りたくないな、あんな病には。他人はかかってくれなければ困るが、おれは罹るのはご免だよ」
手さえ動かしていればザクザク薬が切れて行く。空想をするにはいい仕事だ。
「――驚いたなあ、あの時は。あの時から心煩だ。常木鴻山がぬきや仲間の者を使って、阿波へ渡ろうと準備をしているのを、いつの間にか蜂須賀に嗅ぎつけられた――今考えてみると、あれは三次の密告だな。住吉村のぬきや屋敷へ、不意に覆面のやつが斬り込んできた。二、三十人はいただろう。堪ったものじゃない。鴻山は浜から小舟で逃げだしたが、おれは異人墓へもぐりこんで、やっと命だけは無事にすんだ……。だが、どうもそれ以来、人を見るとびっくりしていけない」
小鳥の声が朗らかだ。
薬研の音が面白い、医者はのんきな商売だとは、平賀源内、思っていない。
「一体おれが物好き過ぎる……」反省心が出てきたらしい。
「何も好んで、常木鴻山などと一緒に、ぬきや屋敷に潜っていることはなかったのさ。ここにこうして、百姓家の一間を借りて、小遣い取りの病人も来るのだから、おとなしく、異人墓の文字でも写して勉強しておりゃいいことさ。だがどうしたろう鴻山は? 舟で逃げたから捕りはしまい、紀州の奥でも隠れたかな、何しろおれは迷惑した。もう、天満浪人だの隠密だの、蜂須賀家だのッて、そんな物騒な渦の中へは飛び込むまいぞ。そうともそうとも、早く一つエレキテルや火浣布でも仕上げて、大金儲けをしなくっちゃ……」
動悸がやむと、大分考え方が明るくなる。
その時、門垣根の外から、妙な尺八の音が静かに訪れてきた。
尺八の呂々はいつまでも門を立ち去らない。
源内は、耳うるさくなったように、薬研の手も止めずに、
「お通ンなさい」と断った。
在方を徘徊する悪い虚無僧の中には、断れば断るほど下手な尺八を吹き立てて、揚句の果てには強請りだすような者もあるが、今のは源内の一言でピッタリ止んだ。
いい按配、蜂須賀家の探りでもないらしい、行ってしまったな――と思っていると、また同じ所から、
「少しものを訊ねたいが」という声がする。
源内は、うんざりした顔で、
「なんですか」
「こちらに住まわれているのは、もしや平賀殿と申されはすまいか。間違ったらご容赦にあずかりたい」
「いかにも、源内ともうす医家でござるが……?」
「おう、やっと尋ね当てましたな」と虚無僧の者、木戸がある訳でもないので、垣の門から、ズッとそこへ入ってきた。
「どなた? ……」医家の尊厳を保つために、机の前へ帰って、片肘を乗せ、「ご病気でござるか、診て進ぜよう、さあお上がりなされ」ととぼけている。
「いや、薬餌を求めに伺った者ではございませぬ。拙者は法月弦之丞と申す者――」
「待たっしゃい。言葉も江戸のようであるし……法月とは聞いたような」
「麹町に住居いたす法月一学の悴。江戸ではかねて御高名を承っておりましたが、お目にかかるのは初めてにござります」
「ほほう……麹町の法月一学殿といえば、大番頭をお勤めになる七千石の旗本、その御子息であらっしゃるか。ふウむ……」と少し意外な顔をしたが、「そして私に何の御用がありますかな。だいぶ尋ね廻ったようなお言葉であったが」
「実は」
いいかけると、源内、
「まず……」と蒲団を縁先へ出して、「お掛け下さい」
「いただきます。宗法でござれば……」
天蓋の会釈をして、ゆったりと腰を下ろし、根瘤の煙草盆に一服つけて、のどかに紫煙をくゆらしながら、徐々と訊ねだした話はこうである。
禅定寺峠から、万吉を江戸に立たせ、自分だけ大阪へ戻ってきた弦之丞。訊ねれば、すぐにも会えると思っていた住吉村へ行ってみて、思わぬ失望をした。
ぬきや屋敷は、住む人もなく荒廃して、そこには、以前のようなやからも住んでいなければ、常木鴻山も源内もすでにいなかった。
浜の者に聞きあわせると、なんでも四、五日ほど前の夜に、手が入って上げられたという話。これは理に合わないので、なおも詮索してみた揚句、どうも蜂須賀家の者に意図を知られて、姿をくらましたらしく思われた。
つい、一月余りの日が空しく過ぎて、いつか秋風が立ちそめた。
そういつまでも、鴻山の所在を探しているゆとりもない身――弦之丞は阿州屋敷へそれとなく目をつけ初めた。ところで、今日も安治川尻から何気なく波除山の裾へ来たところで、偶然、源内の住居を覗いた訳であった。
かいつまんだ話を聞いて、
「そうですか、それはもう住吉村には誰もおりますまいよ」といってから、「では、いまだに鴻山殿の居所は分りませんかな」
それを訊ねに来た弦之丞へ向って、源内の方から訊ねている。
「皆目聞き及ぶところがございませぬ。拙者は、源内殿こそご承知ではないかと存じて、お見かけ申したのを倖いに、こうお邪魔申した訳でござるが」
「いかさま、一緒にいた私がそれを知らねばならぬ筈だ。ですがな弦之丞様、何しろワッと来られたのが真夜中で、鴻山殿が浜から小舟に飛び乗ったのは見ましたが、それから先はお互いにちりぢりばらばら……もっとも、この源内はあなた方のもくろみに、何の関りもないのでして……」
変なところで断りを付け加えた。するとその時、
「ご免下さいまし……」
優しい声の訪れがする。見ると、萩の乱るる垣根越しに白い横顔――下婢を連れてたたずんだのが、細かい葉の間から艶めかしい姿をチラつかせている。
「お入り」
源内が机の側から細い顎を見せると、下婢を外へ残して、つつましやかに入ってきた若い女は、病家の者であろう、
「あの、先生、おさしつかえはございませんの? ……」と、弦之丞の後ろでちょっと立ち淀む。
「なアに、かまいませんよ。別に気のおけるお客人ではない。先にちょっと診て上げよう……どうだな、寝汗の工合は? 相変らず寝られない? それやいかん、グウグウ寝て、おいしいものをウンと食べて、心を明るく持つのが一番。お化粧もせいぜいきれいになさるがいい、遊山もいい、芝居も結構。こんな割のいい病気はない……だが一ついけない、男はな。いくら暇があっても、色恋だけは禁制でござるよ」
「あれ、あんな……」
「ははは、それは冗談、まずこちらへお寄んなさい」
ここで病家をとっているのは、長崎帰りのホンの旅中の内職だが、源内、医業にかけてもなかなかちょくで、殊に女には当りがよい。
まるで子供をあやすほどに優しい。人形のように前へ坐らせた。
弦之丞は少し退って、その診察の手際を眺めていたが、女の後ろ形が、極めて痩せていることから眼をみはって、帯つきや肩の線や、瑁の笄の滑かさや、桔梗の花の裂目のようにくっきりした襟の生え際に、おや? ……という面持。
「ありがとう存じました」と、源内の前を離れた時に、女もチラと弦之丞の天蓋を正面から覗いて、
「まア、あなたは!」
びっくりしたような声である。
「や、お米殿であったか。最前から、どうも見たようなと思いだされておりました」
「私はまたちっとも存じませんで――」お米の頬には白粉の下から桃色の血がボッとしてきた。蝋人形の冷たい顔に灯が映えたようである。
「こんな所でお目にかかろうとは不思議なご縁でございます……私はまさかあなた様とは思いませんでしたの」言葉の辻褄を失っているのは、お米の胸に、川長で初めて会った時のことや、関の山で死のうとまでした思い出が、いっぺんにこぐらかッているのであろう。
川長のお米にそれほど思われているとは、夢にも知らなければ、また素ぶりにも気づかない弦之丞は、心もち天蓋の頭を下げて慇懃に、
「ここでお目にかかったのを倖いに、何よりはこの夏の頃お世話になったお礼を申し上げねばならぬ。殊に大津の半斎殿には、きついご迷惑をかけまして、蔭ながらお気の毒に存じている」
「いいえ、そのご挨拶は、万吉というお人が、あれから後江戸へ行く途中に寄って下さいまして、いろいろお話も伺いました。その時の様子では、弦之丞様がまた大阪へお戻りになったとやら……実は心の中だけで、もう一度ぐらいは、キットどこかで会いはしまいかと思っておりましたら。まアほんとにこうして……」
細々とした指と指を綾に組んで、前髪の蔭からじっと熱ッぽい流し眄を向けた。もっと人目のない所で、しみじみと話したいようなふうも溢れている。
「ではお米殿にも、あれから後に、間もなく大津より戻られたと見えますの」
「はい、叔父に厳しく叱られまして。気が進みませんけれど、こちらの先生へも通い始めました。私、ほんとにわがままなのでございますよ」
「ご病気であれば是非がない、近頃はどうでござります、少しはおよろしいか?」
「ええ……」と眸を納めて、お米の顔は急に暗くなった。心に悲哀やひるみが湧きでる時には、争われぬ病のかげが目くぼに漂いだしてくる。
「病さえなければ――」とお米は血に渦を巻かせて考える。
「私は必ずこの人を自分のものにしてみせるのだけれど!」
ほんとにそれだけの熱がある。男というものの体験がある。病さえなければ、お米の性格はもッと強く恋にぶつかって行くだろう。それを、己も知る癆咳といういまわしい病が邪魔をする時、お米は、その悪魔を飼っている自分の血と呪われた身を亡ぼしてやりたくなる。
床の間の薬筥に向って、真鍮の匙をにゅう鉢に鳴らしていた源内は、様子を振りかえって、
「ははあ……」と、お米の容体を診てしまった。
源内の手前、永居もできず、お米は調薬を渡されると、是非なく帰り支度をして、弦之丞に心を残しながらそこを出ていった。
「若い身なのに、癆咳であるそうな。不憫な者でございますのう」
その後で、弦之丞と源内の話。
「あまりきれい過ぎますよ、あの縹緻がな」
「ご丹精で、癒るお見込がござろうか」
「イヤ、癒りませんな。叔父御にせがまれて薬は上げているものの、不治の病、ことにあの年頃――男恋しい盛りですからの。蛇精亀血を啜りましても、それ、一方の煩悩を煽るにすぎません。まことに可哀そうなもので」
とまた、門口で弦之丞の名を呼ぶ者がある。
出てみると、お米の召し連れていた女中のお藤、弦之丞の手へ蝶結びにした裸文を渡すと、返辞も待たずに小走りに戻ってしまう。
何気なく解いてみると、そこらの茶店で、筆や紙を借りての走り書であろう。文辞もそそくさと、是非お話ししたいことがある、待っています、九条村の渡舟の前まで来て下さい。とある。
弦之丞はいささか当惑の面もち。
お米の方では、思いがけないよい機を、どうかして遁すまいと、九条安治川の渡舟小屋の側に立って、秋陽に縒れる川波をまぶしそうにしてたたずんでいた。
「そして弦之丞様は、キット来るとおっしゃったかい?」
裸文を手渡して、そこへ帰ってきた女中のお藤に、こう念をおすと、お藤は自分の恋のように顔を赧らめる。
「いいえ、そこまでは伺ってまいりません。だって、奥で源内様が、聞いておいでになるのですもの」
「気がきかないねえ、お医者様にはかかわりのないことじゃないか」
「けれど、やきもきなさいますな、きっとおいでになりますよ。お嬢様のようなご縹緻よしに思われて、心を動かさないお人なら、よッぽどどうかしております」
「あら、よいほどにお世辞をお言い……」
袂でフワリと打った時、楊柳の黄色い枯葉がピラピラと舞って光る。
川口へ下ってゆく、高瀬舟や番所船、十反帆の影などが、ゆるゆると流れてゆく合間に、向う岸の四貫島の森から白い鳥群が粉のように飛び立つのが見えた。
「もしやあなたは、川長の御寮人様ではございませんか」
渡舟待ちの前から、こう話しかけてきた中年増がある。身装は地味、世帯やつれの影もあるが、腰をかがめた時下げた髪に、珊瑚の五分珠が目につくほどないい土佐だった。
「おや、お前は元、私の家の仲居をしていた、お吉じゃなかったかえ?」
「さようでございます、ずいぶん久しくお米様のお顔も見ませんでしたが、大そうご成人なさいましたこと」
「お前も、家にいた頃と違って、すッかり堅気のお内儀らしくなりましたね」
「いいえ、気苦労ばかりしているので、装にも振にも構えなくなりました」
「そして今でも、家を出た時の人と、一緒に暮らしておいでなの?」
「はい、添い遂げているという名ばかりで……」
「それが一番倖せじゃないか。私なんか、他人には羨まれるような身の上でも……」とツイ自身へ反れるのを口ごもって「結構だよ、そういう苦労はね。で、ご亭主さんは、何を稼業にしているのかい?」
お吉は、言いにくそうにうつむいて、
「いやな渡世で、十手持ちなのでございますが、かんじんな東のお奉行所の御用はおッぽり放しで、この二月程前に、プイと家を出ましたっきり、生きたものやら死んだものやら、何の便りもございません。それでこうして、四貫島の観音様へ、毎日お詣りしているのですが、お米様、ほんとに、人の女房となってみると、いうにいえない苦労があるものでございますよ」
「二月も戻らないでは、さぞ心配なことだろうね」
「もうもう、どんなに思うた男でも、目明しの女房になど、決してなるものではございませぬ」
「いつも命がけの渡世だからね。そして、お前のご亭主は、何という人だったかしら?」
「万吉と申しまして、仲間受けだけはよい人なのでございますが」
「あ、万吉? その人ならツイこのあいだ、私が大津で逢ったばかり」
「えっ、お米様、じゃ万吉は、あの、無事でおりましたか……」お吉は、観世音の霊験にでも会ったように胸をおどらせて問いつめた。
ピタ――と草履の音が止った。四、五間先の砂利置場の蔭、そこから、じっとこっちをみつめたのは、この辺りに下屋敷のある蜂須賀家の森啓之助――例の素迅い仲間の宅助を後ろにつれて。
「出るよウ」
船頭の声に急かれて、渡舟の桟橋へドタドタと人の跫音がなだれていった。
お米との立ち話で、良人の万吉が大津の半斎の所へ立ち寄り、その足で江戸へ向ったと聞いたお吉は、わずかの消息にでも、ほっとした嬉しさを感じたが、渡舟の出るのに気忙しく、
「じゃお米様、いずれまたゆるりとお目にかかります」
いそいそと駈けだして、船の上からもう一度頭を下げた。
「お嬢様、こッちへ隠れておいでなさいませ」
「あれ、なぜだい、お藤」
「でも、これで渡舟をやり過ごすのが、幾度目だか分りませんもの。船頭や待ち合せていた者も、変に思って、私たちを見ているじゃありませんか」
「そういえば弦之丞様、どうしたのだろうね」
「そろそろ日が暮れてまいりますのに、男という者は、水を向けるとこの通り、わざとじらすんでございますよ」
「じらされるのならいいけれど、もしかして、私を嫌っているのではないかしら、病気のこともご存じだからね」
「いやですよ、またカーッとして、短気なことをなすっては」
「ああ、日が暮れる。お藤や……どうかしておくれなねえ……」
「だって、困ってしまうじゃありませんか。こうなると弦之丞様も憎らしい。では、私がもう一度、源内様の所へ戻って、いるか、いないか見てまいりましょう」
「じゃ、早くにね……」と、お米が振りかえると、女中のお藤は、もう小刻みの足になって、砂利場の側を駈けだしていた。
と一緒に、石置場の蔭から、急に仲間態の男が立って、ドーンとお藤にぶつかって行った。
「あぶない……」
こっちでお米が声を筒抜かせた。――ハッと思って眼をみはるとお藤の体はグッタリして、仲間の脇の下に掻い込まれ、声も得立てずズルズルと川縁へ。
「あれッ! お藤や、お藤や!」
夢中で走りだしたお米の眼の前にザブーンとすごい波音がして、雨のような水玉が、陸の上まで飛び散ってきた。
「助けて下さい――召使が突き落された! あれ! 流れて行きます。誰か来て――ッ」必死に人を呼ぶその口へ、何者か、大きな掌を蓋してしまった。そして羽交締めに強く抱きすくめた。お米の指が離そうともがく、抱えた両手の力は強い。折も悪く、早や逢魔ガ刻に近い九条堤、人通りも絶えている。
「騒いではならぬ。こりゃお米殿、案じた者ではないによって、少しの間静かにしているがよい」
「オ! その声は、ケ、啓之助様……」
「手を離して進ぜるが、逃げてはならぬぞ。逃げる影へは思わず刀が追いかけたがる」
「く、苦しい……」
「宅助、すまぬが、しばらくの間、向うの堤に立って、人通りを見張っていてくれ」
「切のうござんす……も、森様、逃げは致しませぬから、この、この乳の上の手を早く離して下さいませ」
「そうだ、そなたの病気はここにあったの。うッかり肺臓へ力を入れて、さだめし胸が苦しかったであろう。ゆるしてくれ。これというのも一念にそちを想う煩悩盲目、悪い心でしたのではない」
「エエ、何ぼ何でも、罪もない女中を河へ突き落して、その上こんなご無態は、あんまりでございます」
「そう怨むのはもっともだが、いよいよ阿波への帰国も近く、待てど暮らせどそなたからの返事はなし。ここで見かけたを倖いに、是が非でもあの話を取り決めたいと思うたからじゃ」
「……とおっしゃるのは?」
「もうそなたの胸には考えがついている筈!」
「阿波へ連れて行こうと、いつぞやおっしゃったあのことでございますか」
「折もよし、四、五日のうちに太守の御帰国卍丸の船出! どうにでも隠す工夫をしてそなたを連れてゆく所存。もう否応はあるまいのう……」
森啓之助が手離すとともに、お米の体は朽木倒れに、砂利場の山へうっ伏してしまった。
「どうした?」
寄ってみると、ひどく息が切ないらしい。肺臓の喘ぎに背中は大きく波打っている。しかし一度は真ッ蒼になった顔色が、その時急に、反動的な紅潮をさし、針で突けば血の吹きそうな耳朶をしている。
「拙者が、阿波へ連れて行こうというのは、恋ばかりではない。そなたの苦しむ癆咳にも、あの潮の香や山の気が、どんな薬よりも利くであろう――、そう思うて勧めるのじゃ」
「…………」
「な、お米、今が心の決め所じゃ、よもやいやではあるまいの」
「……森様……」
「うむ、得心がまいったか」
「どうしても私には、阿波へ渡る気になれませぬ」
「あの鳴門の渦の海、越えぬ者は怖ろしがる。だが、恋もそれに同じこと、渡ってみれば苦もないのじゃ。ましてや千石積のお関船、渦に巻かるるおそれもなし、楽しい彼岸は一夜のうちに迎えてくれる」
「そんな訳ではなく、どうしても」
「な、何ッ」ふるえを帯びた啓之助の声。
「いやだというのか!」お米の耳をつんざいた。
「…………」
「うーむ、ではとくからの量見であろう。なぜ、いやとあらば早くから、きッぱりといいきらぬッ!」
「お察しなされて下さいませ……素気ないことをいいきれぬ、弱い客商売の娘でございます」
「だまれッ。客商売じゃと申すいいわけは、つまり、いろは茶屋の売女同様に、この啓之助を手玉に取ったという意味かッ! よしッ、拙者もお船手の森啓之助、腕にかけてもつれてゆく。オオ、きッと阿波へつれてまいるぞ」
「あ、ご無態な……」
「逃してなろうか。宅助、宅助ッ、手を貸せい!」
帛を裂くような悲鳴が流れた。
風が出た――いつかドップリと深い宵闇。
大川の三角洲、四貫島、うす寒い川風が、蕭々と芦を鳴らしてやまぬ。
鬢を吹かせて走りだしたのは森啓之助。その小脇に引っ抱えられたお米は、あわれ悶絶、猿轡の無残な姿が、もがく力をさえ失って、ダラリと白い手を垂らしたまま……。
堤を下りて市岡新田、耕地の闇を四、五町走ると、道はふたたび大川の洲へ出て、そこに一艘の高瀬舟。
「旦那、わしの肩へお貸しなさい」
「ウム、さすがに疲れた……よいか、水へ落すなよ」
「生人形のようなもの、軽いもんでさ」
「よし、船は拙者が抑えている」
「おッと!」
お米を肩に引っ担いで、仲間の宅助、ぽんと舟へ飛び移った。
続いて啓之助。
グンと棹を押すと、舟底をザラザラと折れ芦が撫でて、二つばかり舳が廻った。
藁箒を取って、櫓臍へ湿りをくれた宅助、ツーウと半町ほど流れにまかした所から、向う河岸春日出の、宏大な館の甍をグッと睨んで、
「旦那、お長屋の方じゃありますまいね」
「違う!」
「じゃお船蔵?」
「水門へ着けろ」
「目付が控えておりますぜ」
「まずいな」
「生きものですから、バレた日には困りまさ」
「うむ……お下屋敷へはなお持ち込めぬし……」
「女一人のために、家断絶なんざ、ましゃくに合いません」
「意地だ、どこかへ着けろ」
「と、しますと、六軒家の森ですね」
「お船蔵の外にあたるではないか」
「白状しますが、実は、仲間部屋や船番の下ッ端が、こッそり夜遊びに出る抜け道が一つあるんで」
「よしッ、そこへやれ」
「合点です!」意気込んだ宅助、三角洲を右に見て、腕ッ限りグングンと櫓を撓める。
この一伍一什を、源内の所から帰りがけに、ふと見かけてつけて来たのは、法月弦之丞であった。やや暫し、芦の洲に半身を没して、じっと行手を見定めていたが、何思ったか、俄かに芦を掻き分けて走りだした。
芦の深みに隠されて、苫をかぶった一艘の軽舸がある。ザワザワと掻き分けてきた弦之丞、苫をはねのけてそれへ跳び移り、早くも砂を崩して川底から離れだした。
退き汐時か水脚の迅いこと、満々たる大河へのぞんで、舟は見る間に木の葉流し――。
彼方の川面を水明りに透かしてみると、さきに陸を離れた啓之助の舟、櫓韻かすかに、今しも三角洲の先から舳を曲げて、春日出の岸へと真一文字に漕ぎ急いで行く。
「おお、案に違わず……だが女をかどわかして、どこから屋敷内へ運びこむつもり? ……どうして阿波へつれ行くつもり? うむ、ことによると阿州屋敷にも隠し道が」
流れに任せた軽舸の中では、法月弦之丞の目と手足、その時怖ろしく迅速に働いていた。
まず先に、顎の紐を解いて、かなぐり捨てた天蓋、ヒラ――と河へほうり投げた。
鼠木綿の手甲脚絆も、一瞬の間に解きほぐし、斜めにかけた袈裟掛絡、胸に下げた三衣袋、すべて手早くはずしてしまうと、次には平絎の帯、白の宗服、そッくりそこへ脱ぎ捨てる。
と、思うと。
かねてから三衣袋に潜ませておいた黒奉書の袷一枚、風をはらませてフワリと身にまとい、目立たぬ色の膝行袴をりりしくうがち、船底の板子を二、三枚はねのけた。
取りだしたのは藁苞である、グイとしごいて、苞からむきだされたのは、蝋色鞘の滑らかな大小。
蜂須賀家の下屋敷を探る上に、これらのことは、疾くから用意のあったこと。かくて、軽快な武士姿と変った弦之丞は、櫓仕立をしてグングンと先の船を慕い始めた。
一方は、森啓之助。そんな者がつけてくるとは夢にも知らない。
舟は矢の如く安治川を横切って春日出岸、蜂須賀家のお船蔵や下屋敷の下をさかのぼり、六軒家の真っ暗な藪岸へ着いた。
「さ、旦那、女を下から抱き上げて下さい」
仲間の宅助は、先へ這い上がって両手を伸ばした。闇にも艶な姿がズルズルと引きずり上げられる。
川長のお米は、猿轡をかけられて藪の中に横伏せとなったまま、もがき疲れたか、脛も露にグッタリとしていた。
もしかして、こときれては玉なしだぞ、と啓之助、そっと猿轡へ手をやってみたが、大丈夫、温い涙が指先へ触れた。
「宅助、そちのいった抜け道とはどこか」
「向うに見える森を抜けると、お屋敷堺の高塀があります。そのどん詰りの藪畳で」
「家中の者の眼に触れるようなことはあるまいな」
「さっきも申し上げた通り、仲間部屋の者が夜遊びに出るだけで、めったにお見廻りが来る所じゃありません」
「そうか」
「ところで女は、どこへ押し込んでおくおつもりですかい」
「お船蔵の綱部屋はどうじゃ。あの部屋の鍵は拙者が預り役だによって、余人に開けられるおそれもない」
「なるほど、そいつあいい所へお気がつきました。綱部屋へほうり込んでおけば、いざお関船が出るっていう場合にも、ほかの荷物に紛らわして、卍丸の船底へ積んでしまうのは、何の造作もございません」
「なにしろ、ここ三、四日がかんじんだ。無事に阿波へ着いた上は、幾らでも褒美をつかわすから、ずいぶん骨を折ってくれ」
「ようがすとも!」宅助は再びお米を肩にかけてドンドン走り出した。如法闇夜の梟の森は、たちまち、その跫音と三人の影を吸ってしまった。
と――安治川の中ほどには、弦之丞の軽舸が、ギッギッとこっちへ向っている。
さかのぼるので舟脚が遅い、面を掠める飛沫の霧! 息づまりそうな川風に鬢髪が立つ。
「おお、六軒家の藪岸へつけたな!」弦之丞は、さらに必死と漕ぎだしたが、岸が近づくに従って、思わず櫓音を偸ませた。
蜂須賀家の船蔵が、すぐ目の前に横たわっているからだ。百本杭の柵が見え、掘割が見え水門が見える。乱松の間から高く聳えているのは汐見櫓、番所の灯がチラチラと水に赤い影を縒らせ、不寝の番が見張っている。
そこから続いて川下へ数丁、塀囲いの別廓をなして、宏壮な棟を望ませている所は、阿波守重喜が大阪表の別荘――いわゆる安治川のお下屋敷。ここ須臾の間に、法月弦之丞が、探りの眼をつけ初めた目標の建物である。
六軒家の梟林に、荒れはてた誓文神の祠がある。この辺一帯、梟や渡り鳥の巣をかけるのが多く、冬になると綿屑のようなものがどの梢にも絡まって見えるそうな。
今は秋。林の中は芒明りといいたいくらい、ボウと白光の花叢がほのかである。
川から上がった弦之丞、草を分けて奥へ奥へと入ってゆく。そこで、誓文神の狐格子をふり仰いで、はてな! と少し立ち迷った。
「たしかにこの辺へ来た筈だが?」
森啓之助らの姿を、ここまでつけてきたところで、皆目見当がつかなくなってしまった。と――狐格子の前に、何やら光る物が落ちているのに眼を止めた。
拾ってみると、滑かな瑁の笄。お米のものと判定するよりほかはない。
「あ! ことによると」と誓文神の狐格子をポンと押して覗きこんだ。
はたして、その中は抜け道の口であった。
祠の内は床板もなく洞然として、六尺ばかり掘り下げてある。そこを下りて、しばらく横へ歩いて行くと、案のごとく、仲間部屋の者が博奕や夜遊びに出入りする隠し道、弦之丞は、まんまと蜂須賀家の囲い内へ出た。
「しめた!」と胸がおどる。
物かげに潜んで、一応辺りを眺め廻すと、船手組のお長屋や役宅の棟が鉤の手なりに建てならび、阿波守の住む下屋敷の方へも、ここからは何の障壁もなく、庭つづきで行かれそうだ。
「いよいよ重喜の身辺に近づいて見ることができた。これも銀五郎の導きであろう」
弦之丞は、四囲鉄壁のこの屋敷内へ、あまりやすやすと入れたことを奇蹟に思った。
この隠し道を知ったとたんに、かれの心は、片恋のお米を不憫と思うことすら忘れていた。燃えているのは功名心、探秘心、それはお千絵様のためにである。
広い屋敷の中はシンと寝静まっていた。弦之丞は、物の影から影へ移って、下屋敷へ近づこうとしたが、道に迷ったものか、思わぬ所へ出て、思わぬ物の影を見上げた。
それは、安治川から水を引いて水門のうちへ諸船を繋いでおくお船蔵――。荷船、脇船、色塗の伊達小早などが七、八艘みえる中に、群をぬいて大きな一艘のお関船は阿波の用船千石積の卍丸。
寛永このかた、五百石以上の船は、幕府の禁令なので、表積みは半分に称しているが、長さ十八間、幅七間、二十四反帆、二十四挺櫓、朱の欄干を立てめぐらし、金ちりばめの金具や屋形の結構さ、二十五万石の太守のお座船だけあって、壮麗目を奪うばかりである。
「さすがに裕福な阿波の楼船だけあって、将軍家の安宅丸にも劣らぬものだ」と、弦之丞も思わず物蔭からしばらく見とれていたものだった。
そして、何かの物音に、ひょいと後ろをふりかえると一軒の綱倉がある様子。
金網を張った白壁の切窓に、かすかな灯影がゆらめいていたので、何心なく覗いてみると、さっきの二人が、ここへ入り込んでいた。
「やいッ」という声は仲間の宅助。
蝋燭の裸火を前に置いて、
「これほど俺や啓之助様が、ことを分けての親切なのに、いい加減駄々をこねやがれ。旦那はとにかく、この宅助が承知しねえぞ」
優しい言葉に乗らないので、今度は脅しにかかっているらしい。
すすり泣きの声がする……。お米の姿が裸火にてらされていた。蛇のようにとぐろをまいている船綱のなかに身を埋めて、
「嫌です、嫌です! 阿波へなんか……」
「ちぇッ」と、宅助は舌を鳴らして、「旦那、とてもこいつア諦めものだ。卍丸が出るまでに、お目付へ知られては一大事、いっそのこと今のうちにバッサリ斬って、煩悩の根を断っておしまいなすったほうがようがすぜ」
ただし、脅かしに――と目まぜに知らせていうと、森啓之助も心得ている。大刀の鞘を払って、お米の頬へ切ッ尖を突きつけた。
「あ、不愍な……」と外にいた弦之丞、助けてやる工夫はないかと、綱倉の戸へ抜足さしてゆくとまた、それに添ってよれてゆく一つの影。
不寝の番の武士であろう。ジ――と隙をうかがって、
「うぬ! 曲者ッ」
気殺の声と早技。
弦之丞の脾腹を狙って、りゅうッと突きだした手槍のケラ首! 対手をはずしたか、ぶすッと白壁へ刺し込んだなと思うと、法月弦之丞の姿は、時すでにそこにあらず、どう切られたものか藩士の侍、槍をつかんだまま肩口柘榴なりに割れている……。
パチッ……と一石。いい音だ。
榧の碁盤へ那智黒の石。
ここでしばらく間があろう、というふうに、竹屋三位卿有村、扇子をとって肘をのせ、
「まず、ごゆるり……」と、余裕の綽々さをみせたものである。
局に対している人は阿波守重喜。
「なんの」
といったが、指に挟んでいる朝鮮貝の白一石、盤面の宙をさまようことやや久しく……。
パチリ! やがての音である。
「いよいよ本丸火の手と見えました」
「猪口才」
白、電瞬に打ってゆく。
「こうまいる」
「はて、きたなき敵でありつるわよ」
「孫子九変の伏手と申し、すなわち兵法の一手でござる」
「あな笑止、苦しい言い訳」
パチリ、パチリ、たちまち戦雲漠々としてきた。
碁盤碁石は立派だが、阿波守も有村卿も、やはり衆にもれぬザル組でおわすらしい。
しかし、負けぬ気の殿と、慷慨家で壮年の公卿様との対局は、技を別にして興のある碁敵だ。
ここは下屋敷の一部、名づけて隣帆亭という茶席。
初更ながら深沈とした奥庭、秋草や叢竹が、程よく配られた数寄屋の一亭に、古風な短檠に灯をともしてパチリ、パチリ、と闘石の音……そして、あたりは雨かとばかり啼きすだく虫。
その虫の音がフトやむと、
「殿……」
庭先の踏石へ、一人の家臣がうずくまった。
「何じゃ?」
阿波守は盤面から目も放たない。
「明日お出船に相成ります、卍丸のことについて、ちと御意を得たいと存じまして」
「何じゃと申すに」
「船中お屋形の御調度の物」
「ウム」パチリ! と打って、「ウム……」後の手を考えている。
「例年の通りにてよろしゅうござりましょうか」
「啓之助に任せておけ、森に」
「は、京都よりのお荷物は、あれだけで余の物はござりませぬか」
「ない」
「それから、汐の都合で、卍丸は明日の暁に纜綱を解きまする。これは森様よりのお言葉、殿にも何かのお支度、今宵のうちに願わしゅう存じます」
「ウム……。分っている」
家来の者が、礼をして立ち去りかけると、
「あ、待て!」と呼んで、阿波守初めて短檠の光を顔にうけてこちらを向いた。
「京都よりおしのびの方達はまだ見えぬか」
「は、まだ御着邸なさりませぬ」
「申しつけてはあるが、見えられたらすぐここへ」
「心得ております」
しばらくするとまた虫の音と碁石の音。
竹屋三位卿は、年まだ十八の頃、かの宝暦変の陰謀にくみして、徳川討つべしを熱叫したため、真ッ先に幕府から睨まれた公卿である。けれど時の桃園帝からは、いたく頼もしく思されていた一人である。
他の十七卿の堂上が、問罪謹慎をうけるはめとなるや、有村は忽然と姿を隠した。
自殺したという説――その頃、もっぱらであった。
「幕府などの手に、自由を縛られて堪るものか」
という気概の有村、自殺などをする筈がない。コッソリ蜂須賀家の奥に隠れ、長々と寝たり起きたりして垂加流の神学書、孫子呉起の兵書などを耽読していた。
重喜とよく議論もやる。
兵学、弓術、馬術、邸内でできることなら何にでも対手になる。居候のくせにして三位卿有村、妥協が嫌いだから時々口舌火を発し、ひいては、ただちに、幕府討つべし! ということになる。これには阿波守もてこずるらしい。
一兵一矢の蓄えもなく、居候をしている素寒貧の若公卿には、どんな過激な議論も吐けようけれど、重喜には、譜代の臣、阿波二十五万石の足枷がある。そう、滅多に動けたものではない。
たとえ、尊王の赤心、反徳川の意気、胸に炎々たるものがあっても、下手なことをしたひには、藩祖正勝以来の渭之津の城の白壁に、矢玉煙硝玉の穴があくはめとなる。
「殿! おしのびのご来客、ただ今お着きになりました」
さっきの家臣が報らせてきた。
庭伝いに、数寄屋へ通った客なる人、京浪人と称しているが、まことは七条左馬頭、梅渓右少将、交野左京太夫の三卿で、歴々たる公卿たちである。
一様にしのびの目立たぬ身装、茶室であるから仰山な会釈はなく、短檠の灯もほの揺らがぬ程、もの静かに席へつく。
「お待ちうけ申しておッた」
盤面の石をサラサラと掃いて阿波守が座に直ると尾について、
「ずいぶん遅いお見えでありました」と、居候の竹屋三位卿主人顔して不平をいう。
「例の京町奉行の目が、うるさく見張っておりますために……」右少将がおとなしく言い訳する。
七条左馬頭、改まって、
「阿波侯におかれては、いよいよ明日、卍丸でお国表へお引揚げなさる由、何やら盟主を失うような寂寥を覚えまする」
「されば、そのほうが、策を得たものではないかと存じまして」
「無論、異議なくよろしゅうござりましょう」と、賛同したのは交野卿。語を次いで「宝暦の大変より、早八年の星霜を経ておりますゆえ、幕府そのものには、近頃油断のふうも見えてまいりましたが、かえって、天満組の一部の者や、また江戸方の隠密中に、執念く目をつけている輩がありますとやら」
「あるどころか、彼らの暗中飛躍こそ怖るべきで――」と竹屋三位が、這個の消息通をもって任じながら、
「第一に、吾々たちに御当家という後ろ楯のあることを観破した者は、江戸方の隠密甲賀世阿弥。これは、御本国剣山の山牢に、終身押しこめてありますゆえまず安心。ところがここにまた、天満浪人の常木鴻山、俵一八郎などと申す者あって、江戸の隠密どもと結託なし、御当家の内秘を探りにかかっております」
「すりゃ大事、また宝暦の轍をふむことになろうも知れぬ……」右少将は色をかえた。
「しかし、御安心なさるがよろしい」
竹屋三位卿、わが手功のように、
「鴻山は住吉村から追っ払い、また一八郎はすみやかに召し捕りました。やがてこれも剣山へ送って、世阿弥同様、終身間者牢の住人となりますわけで……」
「やれ、それは何よりな」
「水も洩らしは致しませぬ。御明敏な重喜公、それに、不肖三位有村が帷幕にあっていたしますこと」
「ははははは……」と、それまで黙っていた阿波守は、いじけずにして濶達で、若々しい居候の言葉が気に入ったらしく哄笑した。そしてすぐに真顔になり、
「余事はおいて三卿の方々、かねて、諸方へつかわしました密使の模様は?」
「即答、または評議中、御返事まちまちではありますが、今日まで内諾あった諸国諸侯の御連名……」と年長の交野左京太夫、ふところを探って細長い包みを解き、帛紗を敷いてその上へ、スラリと一巻の連名状を繰り展げた。
「三位殿、御苦労ながら」
阿波守が目くばせすると、
「は」立ってあたりに人なきやをたしかめ、縁の端に坐りなおして見張役となる。
世が世なら竹屋三位卿も、九重の歌会、王廟の政治に参じる身分、まさか、見張番まで勤めるのでもあるまいが、朝廷の御衰微今より甚しきはなく、公卿の無視さるること幕府の小役人にも劣ってきた今の世が世である。是非がない時勢なのである。
「食客だからと思えば癪にさわるが、これも一天の君の御為と思えば……」
三位卿は、かこち顔な見張の端居。
「おお……」と乗りだして扇子をつき、連名状へ眼を落した阿波守、三卿とともに息をのんで、ズーと血判をたどりながら、
「盟主、徳大寺公城公!」固唾をのんで呟いた。
「堂上お味方二十七家、事いよいよに迫りますれば、京方すべてを含みます」と左馬頭がそれに応じる。
「宇治に在す竹内式部先生!」
「軍師と仰ぎますつもり」
「江戸表は山県大弐、まッ先に火を放って、箱根の嶮に王軍を待つの計か」
「しかと諜じあわせてあります」
「して、大義に呼応の諸大名は?」
「筆頭!」交野卿、扇子の要を文字について、
「蜂須賀阿波守重喜公。すなわち御当家」
「ウム!」
「肥前、久留米の有馬忠可公」
「オオ」
「大洲の加藤家、柳川の立花家」
「ウム」
「佐賀の鍋島、熊本の細川、濃州八幡の金森家……」と言いかけた時、
「やッ、怪しい気配!」見張の三位卿が手を振った。
怪しい者! と聞いて、三卿の面々、あわただしく連名状を巻き納めた。
阿波守もきっとなる。
短檠の灯がボッと燻って、一抹の不安が燭をかすめ、なんとなくいやな空気がみちた。
「誰だッ――、何者じゃ!」
若気な三位卿は、もう庭手へ降りて木立の闇へどなっていた。
ザワッと奥の方で樹木が揺れた、つづいて人の足音がする――と思うと、不意に姿を見せた一人の武士、六尺棒を掻い込んで、血眼になりながらバラバラと飛んできた。
「あッ、止まれ」
「はっ」
「控えろ! 阿波守殿がおいでの場所じゃ」
屋敷の者らしいので、三位卿がズカズカ寄ってみると、六尺棒を持った男は、数寄屋のうちにいる歴々の姿をみて、びっくりしたように両手をついた。
「無礼なやつめ!」有村は叱りとばして、
「今宵は、この亭の近くへ、何人たりとも近よるなと申しつけてあるのに」
「はっ、私は、その庭番の者にござります」
「いよいよ不埒ではないか、警固すべき者自身が、お席を騒がしては何もならぬ」
「重々恐れ入りました」
「退れ退れ。御前へは身が取りなしてくれる」
「しかし、なおもう一応、お庭内をあらためませねば、そのお役目が立ちませぬので」
「何故」
「先頃から、奥牢へ入れてあります俵一八郎という天満浪人」
「ウム、大津より差し立てきた一八郎。それがどうした」
「いや、その浪人は牢舎中も、きわめて神妙に致しておりますが、外よりして、しきりに牢へ近づこうとする者がござります」
「奇怪なことを申す、すりゃまったくか」
「今も今とて、何気なく見廻りましたところ、吾々の眼を偸んで、怪しい影が奥牢の戸に近づき、何やら声をかけようとしておりますゆえ、思わず、待てッ! と厳しく追いかけましたが、たちまち影を見失い、ツイ御座所近くになるのも忘れて、この不始末をつかまつりました」
「役目の忠実、こりゃ咎める筋はなかろう」と、三位卿は数寄屋の縁から阿波守のほうへ向いて、
「お聞き及びの通り。どうやら、この邸内にも、一八郎へ気脈を通じる者がある様子でござりますぞ」
「心得ぬことじゃ。番士!」
「はッ」
「すすめ、もっと近く」
「は」六尺棒を置いて夜番の侍、おそるおそる沓ぬぎの前へきて、蟇のようにつくばった。
「只今の申し条、偽りはあるまいの」
「なんで! 畏れ多うござります」
「では訊くが、しきりに俵一八郎の身に近づこうとする者は、一体、どのような風采、また面貌など、しかと見届けておいたかどうじゃ」
「手抜かりのお咎めある節は、申し開きもござりませぬが、前の夜も今夜も、チラと見た影を追い失いましたばかりで、その辺、残念ながら突き止めておりませぬ」
「そうか……」と阿波守の顔は暗い。三卿の人々も首をひねって聞いていた。
「しかし、ただ一つ瞭かなことがござります」
「フム、それは?」
「曲者はたしかに女であるということ――。これは夜目ながら見受けました」
「なにッ?」
阿波守は眸をキラリとさせて、
「その怪しい奴が女じゃとは、ますます不思議な沙汰、さては、女中どもの中に、一八郎と同腹のやつが住み込んでいるのではないか」
「にわかに申しきれませぬが、前後の様子から推しましても、やはり御邸内にいる者の所為らしく考えまする」
「不覚な訳じゃ!」重喜は、それを自分に向っていった。緻密にかがっておいた秘密の目を、何者かに乱されている不快がこみあげていた。
「では……」と、しばらく重苦しい考えに落ちていたが、何か一策を案じたらしく、気をかえて、
「番士!」
「はッ」
「森啓之助を呼べ! すぐに。そして別の広間へは、明々と燭の数をつらねて、この下屋敷の女中どもを一人残らず居並べておけ! 酒肴の用意手早くいたせよ! よいか! 明日は卍丸の船出ゆえに、別れの宴を酌むのである」
晴々としていいつけた。
白々とした粉黛の顔に、パッと桃色の灯をうけながら、十四、五人の侍女たち、皆一つずつの燭台をささげ、闇を払って長廊下から百畳敷の菊の間へ流れこんだ。
まもなく阿波守重喜、茶亭からここへ席を移し、京浪人と称する三卿を初め、食客の竹屋三位卿もついてくる。
明日は船出の別れの宴、ここに大名らしい大まかな歓楽の夜となって――。
「方々、心ゆくまで酔いましょうぞ」
まず、阿波守から盃を上げてこういう。
「長夜の宴!」右少将が即興に答えた。
「されば、名残の宴でもある。藩祖が阿波の国を賜うて以来、上府帰国の船中では、太守を初め水夫楫主[#「水夫楫主」は底本では「水夫揖主」]、一滴の酒をねぶることもゆるさぬ家憲でござりますゆえ」
「得たり賢し、飲みましょう!」常に無聊な食客の三位卿、こういう晩は大好きである。
阿波守もそろそろ微醺をおびてきた。
「おお酔おうぞ、謡おうぞ」
「舞いましょう! 何なりと」
「よかろう。鼓を――」と、すぐに侍女の手から受けて、阿波守が緒を締めるのを、
「いけません」
と、三位卿が横から奪った。
「小鼓はかくなん申す有村、大倉流の鍛えを以て打ちまする。舞人は殿、いざ――」
「では舞おうか! 鳴門舞!」
「一だんと見ものでござろう、阿波守殿の鳴門舞――」と、七条卿、梅渓卿、交野卿、みないい色になってやんやと興がる。
「侍女どもも見ておけや」
襖際に居並んでいる奥仕えの女たち、ホホと笑んで珍しい殿の舞振りに眼をあつめた。
「打てや三位卿、秘蔵の小鼓撫子を――」
「あっ」と有村は容を正してポーン! 打ったり、撫子!
津の名人大倉六蔵、それには及びもないけれど、どうやら居候の芸達者。
ポン、ポン! ……音冴えをみすまして阿波守、白足袋の爪さき静かに辷り出る……。
「おおウ鳴門、大鳴門!」
舞えば三卿も声について、それに合せて謡いだした。
「大――鳴門! 大鳴門!」
「濁世無限の底に鳴るウ――大鳴門! 大鳴門!」
「流せや濁世、侵せよ鳴門!」
「濁り世の底に、鳴るわ鳴るわ」
「怒るわ怒るわ――鳴門の渦!」
「洗えや鳴門――」
「澆季の濁り世」
ポーン! と三位卿、吾を忘れて、
「討てや徳川ッ」
はッと驚いて三卿が、謡うを止めた時である。長廊下をツツツと小走りに来た近侍の者。
「殿様――」と、両手をつく。
「なんじゃ!」
「お召しになりました森啓之助殿」
「ウム、最前から待ちかねているのじゃ、なぜ早く姿を見せぬ?」
「卍丸御用意のため、川口の脇船へ何かの諜しあわせにおいでになり、只今、お船蔵にはおいでがないそうでござります」
「なんじゃ今頃――、きゃつ、近頃どうか致している」と、舌打ちして呟いたが、
「是非がない。では天堂一角を呼べッ」
「はっ」
退こうとすると、阿波守、またあわただしく呼び止めて、
「待て待て、ここへ参るついでに、奥牢へ入れおいた俵一八郎、庭先へ曳いてこいと申せ」
近侍が立ち去るとともに阿波守、また朗々たる音声で鳴門舞を舞いだした。だが、舞いながらその眼ざし、襖ぎわに居流れている女中たちの数をスッカリ読んでいた。
と、庭先へ動いてくる人影がみえた。
「一角、まいったか!」
舞い納めて、阿波守がこういうと、
「はっ」天堂一角の答えがして、
「俵一八郎をここに召し連れました」
「ウム、早かった」
強くうなずいて、さて、大きく、
「あらぬ疑惑をもって当家の内秘を覗かんとする天満の痩浪人、船出の別宴によい肴じゃ、重喜がみずから血祭りにしてくりょう! 女中ども、誰かある! 佩刀を取れ」
と、居流れた侍女たちを、鋭い眼で見廻した。
「お佩刀」
すぐに小姓が差し出すのを、
「ウム」と左手へ引っ提げた重喜。「その燭台を廊下へ出して、女どもも余が血祭りを見物せい!」
自慢の銘刀、ほたる斬り信国の柄に手をかけてギラリと抜く。
「阿波殿、少し酔ってまいられたかな?」と三位有村は、腑に落ちない顔をして小鼓を片寄せたが、ほかの三卿は、血を見ることを珍しげに端近く褥を進めた。
女中たちは命じられたまま、燭台の幾つかを廊下へ出して花のごとく居流れたものの、一脈の殺気、殿の眉宇から流れて、なんとなく恐ろしい。
「こやつか、血祭りの生贄は!」
鳴門舞の謡声より、なお太やかな音声をして、阿波守重喜ハッタと庭面を睨みすえた。
そこには憔悴した俵同心、一角に縄尻をとられて控えている。
関の時雨堂から、ここへ囚われて来てより早百日、肩骨張って色青白く、めっきり痩せ衰えてみえるが、意気は軒昂。
晃々たる菊の間の燭へ正面を切ッて、臆する色もなく重喜の面を見上げた。
見下ろす眸と一八郎の眸、カチッと絡み合ったまま、互いに睨みすえながら無言の争闘ややしばらく……。やがてのこと阿波守、
「その面構えでは、問うても容易に口を開くまいが」と、前置きしてほたる斬りの切ッ尖を、廊下の上から突き向けた。
「余が下屋敷へ、汝の手から住み込ませた同腹の女があろう。ここに居並んだ奥仕えの女の内にその廻し者が潜んでいる筈。有態に名を明かさば、命だけは助けてつかわそう」
耳うるさし、というふうに、一八郎は眼を閉じたが、その時、廊下に並んだ侍女の三人目に、十六、七かと見える丸顔の少女、首を垂れてブルブルと肩骨をふるわせた。
「面倒じゃ! 痩浪人を荒蓙へのせて水の用意ッ」阿波守が呼ばわると、「はっ」と庭先にいた天堂一角や番士たち、あわただしく働いて、瞬間に成敗すべき死の座を作る。
「御用意、整いました」
一角が庭下駄を揃えると共に、ほたる斬り信国を引っ提げた阿波守、ズカリとそれへ足を進ませるかと思うと――。
ふいと側の女中へ眼をつけた。
十六、七の愛くるしい小間使、ハッとして手を袖の裏へ隠したが、帯の前から懐剣の袋の紐! タラリと解けて下がっている。
「天満浪人の廻し者ッ!」
咄嗟にうしろへ寄るや否、阿波守重喜の片足が、ポンと女の帯を蹴った。
「あッ! ……」と優しく魂切った声――と一緒に、蹴落された少女の姿は落花微塵、隠し持っていた懐剣をほうり投げて、一八郎の側へ仆れるとともにワッと泣き崩れた。
声を揃えて朋輩の女たち、
「オッ、お鈴殿!」と意外に衝たれて眼をみはる。
鳩の密使を飛ばして、常に俵同心の手へ、屋敷の内事を洩らしていたのはこのお鈴。
「泣くな! うろたえ者めがッ」
一八郎は激越な声で叱りつけた。そして思わず側へ仆れた妹を、抱き寄せようとしたけれど、両手の自由はきかないのである。
「ああ、すべてこうなる世であるのだ、泣くな、妹よ! よいか、兄の側で死ねるを嬉しいと思うがよいぞ」苦しい声を唇で噛みしめた。
ところへ、一人の近侍が、森啓之助の来たことを告げた。阿波守は、一八郎を血祭りにすると称して、思う壺に女中の中から諜者を見出した満足ににっことして、
「啓之助、啓之助」
呼び立てながら信国の太刀を鞘に納める。
「はっ」と一角の側へ、頭を下げたのは森啓之助。「明日の御用意のため駈け廻っておりましたゆえ、ツイお召しも知らず遅うなりまして」
こう言い訳したが、実は、密かに公務の暇を偸み、お米を隠してある綱倉に潜り込んで、何をしていたか分らない。
「明日、卍丸の脇船へは誰が乗るの?」
「石田十太郎殿の組手が乗ります」
「そちが代れ、都合がある」
「はッ」
「そして脇船の荷底へ、この一八郎とお鈴の二人、積み込んでまいるのじゃ」
「心得てござります」
「撫養の浦へ着船の節は、渭之津城へ寄るには及ばず、すぐ吉野川をさかのぼって、剣山の間者牢へ二人の奴を送りこむよう。この大役、しかと申しつけたぞ」
欣んだのは啓之助、お米を阿波へ連れこむには、本船卍丸より脇備えで行く番船の方が何かにつけて好都合。得たりや応、という色は隠して、俵一八郎とお鈴を番士に引っ立てさせお船蔵へ急いで行った。
お鈴と一八郎の兄妹を、啓之助の手へ渡して、阿波守が席へ戻ると、三位卿は物足らぬ顔だった。
「常にご自慢のほたる斬り信国、とうとう血祭りの御用に成りませんでしたな」
「もとよりあれは重喜の手策……」
ほほ笑んで盃を取り上げたが、ふと苦い味を覚えて下へおく。
「御炯眼のほど恐れいった。しかし、あれまでにしてなぜ御成敗なさらぬのか、この左馬頭には少し腑に落ちかねまするが」
こんどは、七条卿の疑問が出た。
左京太夫や梅渓卿も同感らしく、
「密事を嗅ぎつけている輩、剣山に封じおくのも無事であろうが、いッそ、断刀の錆と致したほうが、安心でもあり、お手数もないことと考えまするが……」
「その儀、重喜も承知しておりますが、当蜂須賀家の掟として、捕えた隠密は、昔から必ず剣山へ差し立てることになっている」
「ほう、それはまたいつ頃から?」
「今より百二十余年前、蜂須賀三代の国主は義伝公、当時南には天草の乱が起っておりました」
「フム、義伝公。蜂須賀至鎮とおおせられて、非常に英俊豪邁なお方、巷間の伝えによれば、眼点の瞳が二ツあったとか承る」
「さよう、とにかく、群臣も慴伏する威風がござった。その頃江戸に将軍たる者は三代家光、この義伝公を怖るること一方ではありませんでした」
「なるほど、大いに頷けます」
「折も折とて天草の乱には、戦に破れた落人どもが、阿波こそ頼るべしとあって、海伝いにおびただしく紛れこみ、また義伝公は、左右なくそれを剣山に匿われた」
「では当時にも、天草乱後の虚をうかがって、徳川討伐の壮図があったのでござろう」
「いや、その辺は分りかねる。しかし、今日なお渭山の城に蓄えある、武器、船具、楯、強薬、鏃、金銀の軍用は、みな当時、天草より持ち込んだ物や、義伝公の御用意であったことはたしかでござる」
「ウーム……それが百二十年後の今日になって、皇室の御為に、役立ってまいるとは不思議な訳」
「少し話がそれましたが、さてその義伝公、泰平の豪傑はとかく不遇で、遂に毒殺されました」
「ア、誰に?」
「家光の廻し者」
「隠密でござるか」
「イヤ、義伝公の奥方であった。それは家光の姪で、幕府より義伝を毒殺せいという旨をうけて、阿波へ嫁いできた美女でござる」
「己が殺そうとする者へ嫁いでくる花嫁の心。それは思いやらるるが、徳川の陰険政治、よく現れておりますのう」
「記録によれば正月の末、城下千光寺の徳命観梅の日でござった。義伝公の梅見の酒へ毒を盛りました。それは世にも恐ろしい鴆毒、さすがの豪傑も濠の石橋まで馬を返して斃れました。徳川家より嫁いできたその奥方、また毒を仰いで助任川に身を投じた。すわ、城内城下は申すに及ばず、阿波一国の騒動、鼎のわくがごとしでござる」
「徳川討てと叫びましたろう」
「無論、浦々軍船の仕立てをなし、城下は甲冑の騎馬武者で埋めたと、今も古老の話でござる。しかし、当時四囲の情勢では、まだ若い幕府の力、所詮、仆すことはできませぬ。恨みをのんだ家中ども、ここにすさまじく結束して、江戸より奥方に従いてきた腰元用人は申すに及ばず、到る所の徳川に縁ある者を隠密と見なし、日ごと夜ごと、これを助任川の河原にだして斬りました。ために、富田の浦は血に赤く、河原は鬼哭啾々として、無残というも愚かなこと、長く、渭之津の城に怪異妖聞やむことを知らず、という結果になりました」
「オオ殺戮の祟り! それで」
「一種の迷信を生じたものか、四、五代目の太守の世より剣山の山牢制度ができたのでござる」
女中や小姓は遠ざけられて、その時、菊の間には阿波守そのほか四人の影だけ……。
白い襖という襖一面、伊藤若冲の描いた乱菊の墨色あざやかに、秋の夜は冷々と冴え更けている。
と……、床わきの書院窓の外へ、スルスルと蜘蛛這いに寄ってきて、ジッと、中の話を聞いていた者があった。
頭は切下げ、無紋の黒着、腰から二本の蝋色鞘がヌッとうしろへ立っている。
それは法月弦之丞であった。
書院窓に耳をつけて、なおも、菊の間の話をジッと聞いている……。
お米が、綱倉へかどわかされてきた晩――。彼は、番士の手槍を引っぱずして一太刀に斬ッて捨てて、もとの誓文神の抜け穴から姿を隠した。
そして四日目。
いよいよ明日は卍丸が出るという今宵。お船蔵の混雑にまぎれて、大胆にも、この下屋敷の域まで足を踏み入れてきた。
宵のうちに、隣帆亭の方で、阿波守初め四人の公卿が、密議をこらしていた様子も樹立の中からうかがっていた。
しかし、そこでは、容易に近づけなかったが、やがて、広間の方へ席を移して、別宴になった隙を計り、彼は用部屋の床下から奥へ匍い進んで、ムックリ、ここへ姿を現したのである。
足拵えはわらじ膝行袴、身軽にしたのはイザという場合の用意だ。
剣山の間者牢の由来――天草当時のいきさつ、また義伝公毒害のことから徳川家へ根強い怨恨をふくんでいる訳――。それらの話をきくにつけて、弦之丞は心の裡で、
「ウーム、いよいよ阿波の密謀はたしかだ」と信じた。
さらにまた、それが一朝一夕の陰謀でなく、義伝公以来歴代の太守が、幕府に隙さえあらばと、常に鏃を研いでいたことに違いない、とも思った。
およそ、一国の民心に彫りつけられた程の怨みは、必ずその子に伝え、その孫に語られ、報復の遂げられるまで、世々、代々忘れぬものだ。ましてや、一代の英君と仰いでいた義伝公を、徳川家の詭策に害せられた阿波の怨みというものは、弓取の子孫は無論、半農半武家の原士の胆にも銘じ、野に働く藍取り唄にも現れたろう。
してみると、阿波の反徳川思想は、今日や昨日のことでなく、永い歴史と根深い宿怨のある所。
それかあらぬか、蜂須賀の子女は、当時すこぶる貧乏で幕府からは好まれぬ公卿堂上へ多く嫁いでいる。重喜のすぐ先代をみても、一女は花山院大納言の正室に、また鷹司家、醍醐大納言、中院中将などとも浅からぬ姻戚の仲であった。
そこへ宝暦の気運が芽ざし、尊王皇学の風が起り、倒幕の風雲がわずかながら動いてきた。
公卿縉紳と密接な結びがあり、しかも如上の歴史をもつ蜂須賀家が、その裏面に策動するのは、あまり、当然すぎるほど当然なこと。
今――菊の間の話をきき、それやこれを思い合せて、法月弦之丞、思わず、慄然とせざるを得なかった。
「ああ、幕府は遂に仆されるのかもしれない」
フイと、そんな気持がした。
これほどあきらかな、危ない気運が芽ざしつつあるのに、何という江戸城ののんきさだ。前将軍家重の遊惰なこと。今の十代家治の悠々逸楽。
義伝毒害の宿怨を忘れぬ阿波や、塩を舐めて皇学を起さんとしつつある公卿とは、その意気なり境遇なりが、あまりに雲泥な相違である。
しかし、弦之丞一箇の立場はまた別だ。
幕府が危ないと感じたら、未然に救うのが彼の立場だった。
あぶないのは江戸城のみか、恋人お千絵様の前途はなお暗い――。その禍いは、彼女の父世阿弥が、阿波に入って帰らぬことが第一の原因だ。
おお! 甲賀世阿弥といえば。
ことによると彼はまだ生きている。いや! きっと生きているに違いない。
どこに? それは剣山の間者牢だ。彼は囚われて十年の月日を、おそらく間者牢の中に送っているだろう。
もはや、疑うべきもないことだ。今も、阿波守自身が、菊の間で話していたではないか。
「――で、囚えた隠密は必ず、剣山の山牢へ送って、終身封じこめるのが掟でござる」と。
彼は、心の奥で叫んだ。
「今夜の忍びはムダでなかった!」
そこで、書院窓の明りを避けて、ソロ……と四、五尺身を退いた。――と思うと長廊下、忍者ふせぎの仕掛張が、キキキキ……と鳴くかのように軋みだす。
はッとしたが弦之丞、甲賀組の者ではないから、浮体とか音伏とかいう忍法を知らない。思わず片膝を立て、一足跳びに廊下から庭先へ飛ぼうとした。
途端に、杉戸を蹴って駈け寄った天堂一角。
「おのれッ!」とばかり、うしろから組むが早いか、腕を輪締めに喉首を引っ掛けて、タタタタタと大廊下を五、六間引き戻した。
うしろから咽を巻き込んだ一角の腕、荒木流のやわらで首閂という必殺の手である。
この際、声をだすのは自殺するのと同じわけになる。自力をしぼってもがくのはなおあぶない。といって、連れ拍子に五、六間も後へ持ってゆかれれば、グッタリとして顎の下が紫色になりおわるのは必然なこと。
不意であるから、弦之丞もハッとしたには相違ない。
まず呼吸に気力をあつめたろう。
無論、心得のある彼、声もださず力もこめず、一角の引き戻すまま大廊下を逆に歩いた――いや、よろけた。
そのまに、左の肩を探って、対手の拇指をギュッと握る。いわゆる技の手懸り、一瞬の妙機である。
気当の一喝! 対手の耳をつんざいたかと思うと、エエイッ、襷を切って払ったよう。
身を沈めた弦之丞の肩越しに、天堂一角の体は斜めに飛んで、大廊下から庭先へと、見事もんどり打っていた。
――と思うと一閃の剣光、シュッと走って弦之丞の毛を斬ったかと思われる。
一角とてさすがである。櫓落しに投げ飛ばされた咄嗟には、空間に腰の大刀を払ったのみか、トーンと猫がえりをして庭先へ立っていた。
「くせ者!」
と、この時初めて呼ばわった。
同時に右手の大刀を、颯然と横に払ってきたので、彼はすばやく後ろへ身を開いた。その弾みに塗枠の襖障子一、二枚を煽って菊の間の中へドッと仆れる。
と見れば、広間は暗澹たる暗闇。
いつのまにやら一点の燈灯もなく、阿波守を初め三卿の人々は、物音と同時にすばやく奥へ退座してしまったらしい。
倒れた襖を踏みつけたので、弦之丞は菊の間の闇へよろけこんだ。その影こそ、不敵な曲者にまぎれもあらずと、胸を躍らしたのは衝立のかげに身を潜めていた竹屋三位。いつのまにか切目長押に掛けられてあった小薙刀を引き抱えている。
壮気はさかんだが、世間見ずの有村は、この屋敷の懸人になってから、いっぱしの武芸者となった気でいる。だが轗軻不遇とやらで、まだいっぺんも真剣の場合にのぞんだことがないのを常から嘆じていたところだ。
折から今の曲者という声! よき獲物、ござンなれと息まいたものであろう。日頃の鍛錬を薙刀の柄にこめて、そこへよろけてきた弦之丞の影を見るや否や、月山流の型どおりにその腰車を手強く払った。
だが人一人、そうたやすく斬れないこと無論である。
弦之丞の身は飛燕のごとくかわっていた。そして三位有村は薙刀の坂刃に風を切らせてのめりこんだが、ウム! と踏み止まって左手の一本延ばしに切り返すと、一緒に薙刀は、空を躍って天井からはね落され、三位卿その人はと見れば、はるかなる床の間の花瓶と共に仆れて、花と水を狼藉に浴びていた。
「ちッ! ……残念」
起き上がって薙刀を拾った時、次の間の襖がサッと開いた。甲斐甲斐しく装立った近侍の者、三人、五人、七人、十人ずつ――得物を取って続々と八方へ駈け散ってゆく。
「初太刀をつけたのはこの有村、余人に功を奪われてなるものか」
腰の痛みを忘れて自分も一緒に走りだすと、
「三位殿、三位殿」
後ろで呼び止める声がする。
ふりかえってみると阿波守、微笑を含んで立っていた。
「どこへまいらるる?」
「どこへといって、今の騒ぎ、殿にもご存じでおわそうが」
「知っております。それゆえ、すばやく次の間へ逃げ退いたのじゃ」
「日頃の口ほどにもない殿じゃ!」三位卿は歯がゆそうに、
「この奥深い所まで、入り込んでまいった不敵なやつ、逃がしては一大事でござる。この有村が引っ縛めてまいる所存」
「はははは」重喜は愉快そうに笑った。
「さようなことは家臣どもに任せてお置きなさるがよろしい。あなたの月山流ではちとむずかしい曲者、手配は天堂一角が常から残りなく固めているゆえ、おおかた、今にどこからかここへ捕えてまいるであろう」
築山の辺からお船蔵境の木立――または大殿の屋根から床下に至るまで、弦之丞を尋ねる武士が、今や、右往左往に入り乱れて見える。
下屋敷の騒音を後にして、弦之丞は今、脱兎のごとく船蔵の方へ走ってきた。
ほッと、息をついて、あたりの闇を透かしてみると、ここはいつかの晩、綱倉の窓からお米の啜り泣く声をきいた記憶のある掘割岸。
翌日は、安治川を出る筈の卍丸も、岸をかえたとみえてそこには影なく、ドボリ、ドボリ……と掘割へ揺れこむ波の音があるばかり、無月の秋はことさらに暗い。
「オオウーイ」
不意にすぐ近くの闇の中で、こう呼ぶ者の声が水へ響いて行ったので、弦之丞は陸へ引き揚げられてあった過書舟の底へ身を退いて、その陰から様子をうかがっていた。
「オオウーイ」
続いて別な声がまた呼ぶと、木魂返しに向うからも、応ーッと答える声がする。
と、掘割の水門から、ギイッ、ギイッ、と櫓を押してきた一艘の見張舟がある。黒い波紋を大きく描いて人影の立っている桟橋へ漕ぎ寄せてきた。
「ご苦労だった」
という声は森啓之助。
続いて繋綱を取る者、舟へ飛びのる者、しばらくドカドカ騒いでいる様子は、下屋敷から引っ立ててきた俵一八郎とお鈴を、脇船へ移すためにこの見張舟を呼んだものらしかった。
「縄目は大丈夫か」
啓之助がしきりに聞いている。
「脇船へ積みこむまでに、川の中へでも飛びこまれては身の失策になることじゃ」
「横杭へ縛りつけておきました」
「ウム、それならまず間違いはあるまい。念のため、その帆布を二人の上からかぶせておけ」
「はっ、こう致しますか」
「よかろう! ところで方々にはもう御用がないゆえ、ここをお引き揚げなさるがよい」
「でも、森様お一人では」
「いや、ご配慮には及ばぬ。卍丸の方も手不足であろうし、やがて殿のお座がえも仰せだされるであろう。これまでお手を貸していただけば、あとは拙者が仲間相手に送りこみます」
「では」と、番士船手の人々は、そこを去って各の持場へ分れて行った。
その人々のいなくなるのを見澄ますと、啓之助はヒラリと陸へ上がってきた。なお念入りに前後を見廻し、足早に飛んできたのはすぐ前の綱倉。
「宅助、宅助」
戸を叩くと、用心深く四、五寸開いて、
「おお、旦那でしたか」
「どうしたお米は?」忙しく中へ入って見廻したが、少し色をなして、
「見えないではないか」
「あわてちゃいけませんぜ、夜半になったら卍丸へ運びこむから、支度をしておけと旦那がおっしゃったんで、たッた今女をこの長櫃へ押し込んでいたところでさ」と、仲間の宅助、意味あり気に側の長櫃を指さした。
「ア、それがにわかの模様変えでな」
「えッ、手違いに?」
「なにさ、こっちにとればなおさら都合のいい話。剣山へ送る者があるので、急に脇船の方を承って行くことになった」
「おお、そいつア旦那、お誂えじゃありませんか」
「されば、今すぐに俵一八郎と一緒に積み込むつもり、その長櫃をあれまで持ちだしてくれと申すのじゃ」
「オット合点、と言いてえが、旦那、こいつア一人じゃ持ち切れませんや」
「よし、身どもも手を貸そう」
「そうまでお惚れなさいましたか」
「ばかを申せ。ウーム、これや重い!」
「恋の貫目でございますもの。わっしのほうがなお重い!」
「つまずくなよ」
「まッ暗だア、色情の闇路」
「ソレ、そこに繋いである見張舟へ……」
「旦那、わっしが先へ下りますから、手をはずさないでいておくんなさい……はずしてドボンと沈めたところで、この宅助は元々だが、旦那が浮かばれねえでしょう」
小舟の中へ、ドンと長櫃を下ろした時だ。
物蔭から走りだした法月弦之丞。
「待てッ」
繋綱を解きかけている宅助をほうり投げ、驚く啓之助を突きのけて、舟の中へ躍りこもうとした。
かねて、目明し万吉から仔細を聞いていた俵同心とその妹、また片恋の不愍な女も、事のついでに救って行こうとしたのだが、人の運命はともあれ、彼自身の危機が、すでにそこへ迫っていたのは是非もない……。
闇を、低く流れてくるのは槍である。閃々と横に光を刻んでくるのは白刃である。
蜂須賀名物の猛者、原士の者や若侍の面々。曲者がお船蔵の方へ駈け抜けたときいて、天堂一角をまッ先に、今、ここへ殺到した。
先の一角がピタと足をとめて、
「おおあれだッ――法月弦之丞!」
指を指し示すとともに、
「それッ」
浪がしらがかぶったような勢いで、槍や刀、入りまじった二、三十名の武士が、ドッとその人影の後ろへ衝いて行った。
あやういかな、法月弦之丞。
前は満々とみなぎる水。
うしろは刀を植えならべた殺陣。
唐草銀五郎の遺志をついで、今宵初めて望む所の秘密境へ、一歩の足跡をつけた彼も、それをわずかの思い出として、ここに進退きわまるであろうか?
と思われたが……。
ハッと振りかえった途端に、弦之丞、案外落ちつきすまして、刀の柄をソロリと握った。
果たして凄い意気ごみで来た若侍たちも、六尺以上は近寄ってこず、自然と、そこへ半円の陣を作って、
「神妙にしろッ」
「のがれる道はないぞ」
口々に、空気合いの声ばかりが激しい。
彼がここでユッタリと構えたのは、充分な理由があることで、弦之丞には尊い一つの体験がある。
その話は――。
江戸雁木坂にいる戸ヶ崎夕雲。当代の名人であり、弦之丞の師であった。上泉流の剣法に虎白和尚の禅機を取り入れ、称して無住心剣夕雲流といっている。彼はその夕雲門で、まず第一の使い手だった。
ある年の春である。朧夜だった。
何かのことに夜を更かして、護持院ヶ原を帰るさ、怨みを含む他流の者が、三十人余り党を組んで待ち伏せ、いわゆる闇討を食った。
追い散らして血路をひらき、無事に屋敷へ帰ったものの、五、六ヵ所の薄傷を負ったので、数日床についていると、やがて様子を見にきた夕雲先生、それを見て、
(大たわけ者!)
見舞いでなく、叱りつけた。
(夕雲流の名を汚し召された。一体その夜の敵は何人か?)ときかるるまま弦之丞は、むしろ得意に、
(三十人)と答えると、夕雲、
(三人か? ……)
(イヤ三十人程で)
(違うであろう、三人であろう)
(イイヤ、たしかに三十人で)
(はアて! 会得の悪い!)不機嫌にいったがまた面を和らげて、(およそ一人が数人に取り囲まれる場合、敵は三人よりないものじゃ。どんな場所にも必ず背を守る楯はある。右敵、左敵、前敵、これ以上に敵はない。対手の数はあってもただ一人へこれ以上の剣が一度にかかれる理由がない。さすれば三十人も三人の敵と同じ、四十人も同じこと。要は身と心の据え方一つ。どうだ、分ったか)
この時、口伝をうけたのが獅子刀、虎乱の剣。二つながら衆を対手とする時の刀法である。弦之丞はそれを味得していた。
今――。
彼は、無銘二尺七、八寸の大刀を静かに抜かんとしている。一人と一人との立ち合いなら別だが、衆に囲まれてしまった時は、この抜く時があぶない! いかなる居合の達人にしても、ここは毛ほどの隙――隙といい得なければ手塞ぎが生じる。
両面の剣が、その虚につけ入ってくるのは必然だ。こう張りつめた殺気というものは、瞬間、そこに剣もなく人もなく音もなく、ただ悽愴な鬼気だけがシーッと凍りつめてくる。
ブルッと動く太刀尖は見えても、容易に手元へ斬りこんで行かず、キラリと光流を閃めかす槍の穂も、無碍にはさっと突いてこない。
一つは弦之丞が、々たる眼くばりのみで、柄に手をかけたまま抜かずにいるのが、かえって無気味であったかもしれない。
こうして、五ツ息六ツ息する間がたつ……。
と、後ろの船で、長櫃の蓋を四、五寸持ち上げ、
「げ、弦之丞様――ッ」
と、お米が死身で声を揚げた。
弦之丞様――ッ、とお米が助けを呼んだのと、天堂一角の構えていた槍が、ダッ――と彼の右へ向って突き出されたのと、ほとんど同時。
だが、その槍の穂がくるより早く、弦之丞は刀の柄をつかんだまま、踵を蹴って左へ跳び、同時に鍔鳴りさせて一刀を抜き払った。
と思うと姿が見えない!
対手の姿は見えないで、そこには濛とした血煙だけが残っていた。衆は渦を巻いて混乱し、一人は真一文字に走っているのだ。
「のがすなッ」
タタタタッと、八、九人は駈けつづけたが、それも、追いつくたびにただ一刀で薙ぎ伏せられた。虎乱の太刀風、獅子刀の切ッ尖、寄るべくもない鋭さで、彼の行くあと行く跡へ、幾人かの若侍が苦鳴と血煙をあげてぶっ仆れた。
「ええ、これほどの手配りを破られたか」と、歯軋りをした天堂一角、樫柄の槍を抱えなおして、疾風のごとく追いかけたが、その寸隙に十間ほどの隔りができていた。
弦之丞は、一八郎を救うこと、またお米のことも諦めてしまった。今はこの屋敷から身を脱するだけが容易でない。しかし、綱倉から例の誓文神の祠へ出る抜け道までは、さほど遠くなく、充分地の理も見究めてあるので、やや窪地になった藪の中へザッ――と姿を隠してしまった。
途端に、彼の隠れた所から、ものの四、五尺と離れていない銀杏の幹へ、プーン! と凄い音がして一本の飛槍が突き立った。
刺さった樫柄の震動が止まらぬうちに、駈けてきたのは、それを投げた天堂一角。
「しまッた!」といって、すぐ藪の窪へ走りこんだが、そこに意外な抜け道の口を見出して、
「オーッ」呆然として立ちすくんだ。
「天堂一角!」するとまた彼の姿を追ってきた者が、藪の外から呼びだした。
「誰だ」
「竹屋三位じゃ」
「オオ三位卿様で?」
「阿波守殿がすぐに来いとの御意であるぞ」
「ただいまの曲者が、この抜け道より屋敷の外へ逃げ出しました。せっかくながら一角、それを追ってまいりますゆえ戻られませぬ」
「いや、曲者の逃げたこと、殿も御承知。何せい卍丸へお座がえの時期が迫った。早く早く!」
オオ、そういえば、夜は疾くに子の刻を過ぎ、やがて八刻半(午前三時)にも近かろう。
暁の七ツから六ツ半刻の間がその日の満潮。浅瀬や洲を交わす都合の上に、ぜひ卍丸はその時刻に纜を解かねばならぬ。
とすると――一角もあわてざるを得なかった。
彼はぜひなく三位卿について足を早めた。
卍丸は下屋敷の裏庭――安治川の横について、阿波守はすでに楼船の屋形へ褥を移していた。
支度は一月も前から手廻しされているが、重喜の身の廻りの物を運ぶ侍女たちや、潮除けの幔幕を張りめぐらす者や、櫂をしらべる水夫楫主、または朱塗の欄の所々に、槍お船印の差物を立てならべる侍などが、事俄かのように目を廻している。
その混雑の中を通って、天堂一角、おそるおそる船屋形の座所へ伺候した。そして弦之丞をとり逃がしたことを首尾悪そうに言い訳するのだった。
阿波守は、別に不機嫌な様子もなかった。その代りに、一角の足がしびれのきれる程黙然として考えこむ。
やがて、明快な言葉が出た。
「ぜひがない! 昨夜の混雑をつけこまれたのじゃ」
そういったのはよかったが、次に突然、
「一角、そちは帰国を見あわせい、しばらく暇をとらすであろう」
「あっ、お暇を?」一角は冷やりとした。しばらくを、永のと、聞き間違えたのである。
「ウム! まず一両年遊歴する気で、思う所を歩いてこい。ただし、その間にも役目があるぞ。ほかでもない、法月弦之丞、きゃつをつけ廻して必ず討って取ることじゃ! 彼こそ昨夜の密話を残らず聞きおったに相違ない、生かしておいては後図の妨げ、大事の破綻を醸そうも知れぬ。よいか!」
「はっ」
「充分、そちに討てる自信があろうの」
「身に代えて刺止めまする」
「それで、余の船出も心安い。何かのことども、江戸表へ立ち廻った節上屋敷の重役どもに、計ろうて貰うがよい」と座を立って、三位卿と共に船楼の欄に立つ阿波守。
「オオ、ちぬの浦が明るくなった」と呟いた。
霧の底から海があらわれ、霧の上から朝の陽がさんさんと射る。一の洲二の洲の水尾木も、順に点々と明け放れて、潮の満ち満ちてきた安治川一帯、紺の大水に金泥を吐き流したよう。
高いところで法螺の音が鳴った。
蜂須賀家の水見櫓――。
阿波へ出るべき卍丸は、今、ともづなを解いている。
上の過書船支配所でも、それに答える川合図をする。と、半刻ほどは舟止めとなり、ウロ舟、物売り、石垣舟、すべてが影をひそめてしまうところは、ちょうど陸における大名行列が下座先触れの法式と変りがない。
森啓之助の乗りこんだ脇船は、一あし先に川口へ漕ぎ出していた。
ところで、お米はどうしたろう。
今朝は彼女の船出ともいえる。だが、ああ、それはなんと暗い運命の船出だろう。
脇船の底――長櫃の中――そこにあるのは永遠の悲恋と恐怖の闇ではないか。このかがやかしい光明の微塵もないのである。
やがて着く彼岸で、その泪と闇の長櫃の中から、どんなお米の運命が生まれることやら……?
それは知るよしもなく、知る者は、今船やぐらに立っている啓之助のみだった。
「オオ……よく凪ぎた、よく凪ぎた。潮の色あい風都合も上々吉だ」
自己の幸運を祝福する言葉とも聞こえる。
彼には溢れる光明があった。
ニヤリと、いやな思い出し笑いを洩らして……また役目の水見八方へ小手をかざした。
ボウ――と川上から二番貝。
卍丸は徐々と川口へ向って辷りだしてくる。そして、やや取舵に一の洲の杭とすれすれに鏡の海へ泛かみかけた。啓之助の船は、脇備えの形をとって、その後から漕ぎ従う用意をする。これも渡海の際の常例である。
阿波守の乗っている卍丸――その舷に立てつらねた船印の差物には、桐のかげ紋と卍の紋、朝の潮風をうけてへんぽんとひるがえった。
槍の緋羅紗は太陽より赤く、燦として波に映ゆる黄金の金具は魚群も遠ざける威風がある。艫幕いッぱいに風をはらむかと思うと、やがて、颯! 颯! 颯! 二十四挺の櫓拍子が、音頭と共に快く波を切った――。
「有村殿! 有村殿!」
こう呼んだのは船上の阿波守である。
「はっ、御用で」と、胴の間梯子を駈け上がってきたのは元気な三位卿。海をのぞむと誰しもが自然と大きな声になる。
「お召しでございましたか」
「されば、あまりに好い眺め、一人でほしいままにするのは惜しいと存じてな」
「一天晴朗、今日のお船出祝着に存じます」
「不吉な昨夜の騒動も、これで清々しく拭われた」
「ちょうどこの船が、沖から浦曲を見るころには、お別れにみえた、三卿のかたがたも、京都へお帰りある時刻」
「あっ……」阿波守は不意に、屋形の鯨幕をパラリと下ろして、三位卿の眺めを塞いでしまった。
その時船はちょうど、川口の左岸にある目印山(後の天保山)の裾から遠からぬ辺にあった。丘には、松の間から黒い燈明台がそびえている。諸国廻船の目印となる丘だ。
臥龍に這った松の木に足をふみかけ、その丘の上から卍丸の船影を見下ろしていた武士がある。それは法月弦之丞であった。
「やがて見よ、阿波守」
彼は梢に手をかけながら、心のうちで声をあげた。
「いかに関を封じておくとも、弦之丞が、きっと一度は汝の領土を踏みにまいるぞ! うごかぬ証拠をつかみに行くのじゃ。――オオ、一度江戸表へ立ち帰った上に、改めて、阿波二十五万石の喉笛へ、とどめを刺しに出なおそう!」
見送っていると、その一刹那。
どこからか、風を切ってきた妻白の矢が一本! 危なくも弦之丞の耳を掠って、ぷつん! と後ろの幹へ刺さった。
「さすがは重喜、油断なく自分の姿をもう見つけたか? ……」と、弦之丞も先の用意の周密なのに驚いて、矢柄を見ると切銘にいわく、
――竹屋三位藤原之有村。
のどかな音頭に櫓拍子の声――そして朗らかにあわせるお国口調のお船歌が、霧の秘密につつまれている秋の鳴門の海へ指してうすれて行った。
了
底本:「鳴門秘帖(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年9月11日第1刷発行
2004(平成16)年1月9日第20刷発行
※副題は底本では、「上方(かみがた)の巻」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2013年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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