それが、例の、お十夜と、一角と周馬であった。
こん度の旅は、無論、お綱と万吉のあとを追って、そのうえに、法月弦之丞を刺止めるまでの目的だろうに、わらじ、野袴、編笠という、本格の支度をしているのは天堂一角だけで、周馬は笠なし、お十夜は、笠もわらじも嫌いだといって、素のまま着流しに草履ばきという風態。
まだ軽井沢ぐらいはいいが、それから先の和田峠、猪の字ヶ原の高原、木曾の※所[#「土へん+刀」、U+2F850、145-11]などへかかったら、どうする気だろうと思われるが、小手調べの碓氷峠でも、さして難儀な顔もみせないところは、お十夜も周馬も、旅にはひとかどの見識をもつものとみえる。
「はてな? ……まさか、おれたちの行く道が見当違いをしているのじゃあるまいな」
上田の城下へ入る前に、追分の辻から佐久街道へ折れて、青々とした麦畑や、菜の花に染め分けられた耕地や森や、千曲の清冽などを見渡しながら、フイに、お十夜がこう言いだした。
「なぜ?」
と、ふりかえったのは天堂一角。
根岸の闇で、法月弦之丞にやられた太刀傷が致命にいたらなかったまでも、かなり深傷であったとみえて、いまだに左手を首に吊っているのが、いかにも暴勇な剣客らしく目立って、往来の者が必ず、ふりかえってゆく。
「冗談じゃアねえ」
と、お十夜はふところ手で、
「もう江戸から四十里余り、三晩も泊りを重ねているのに、行っても行っても、万吉とお綱の姿が先に見当らねえじゃアねえか」
「そのことなら心配は無用だ。まさかに使屋の半次が、口から出放題なことを言いはしまい」
「それなら、もうたいがいに追いついている筈だが」
「イヤ大丈夫。実は小諸の立場で念入りに聞いておいたことがある。ちょうど、きのうの朝立ちで、それらしい二人づれが、間違いなくこの街道へ折れたという問屋場の話であった」
「ふウむ……そうか。すると今のところで、日数にしてたッた一日、道のりにして小十里しか離れていない勘定になる。それじゃ、もう一息で追いつけるだろう」
と、お十夜の語気は、景趣の変化につれて旅らしい軽快をもってきたが、周馬は、いっこう面白くない顔で、どこかで折った桑の枝を、杖とも鞭ともつかずに持って、一番あとからおくれがちに歩いてくる。で、一角が、
「一服やろうではないか」
千曲の板橋を渡るとすぐに、日当りのいい河原蓬へ腰をおろすと、
「よかろう――少し時間は惜しいが」
とお十夜も煙草入れを出して、きれいな玉石を床几にとった。
「まだまだ先は永いから、そうあせるには及ぶまい。おい、旅川氏」
「なんだ」
「少し休息してまいろう」
「さようか」
「貴公、あまり旅を好まぬとみえる」
「旅は好きだが、どうも、こんどの旅ははなはだ面白くない。人間の感情は正直だ、アテのない道かと思うと一日に十里の旅は楽でない」
「これは頼もしくない言葉。なぜ、今度の旅にアテがないと申されるか」
「孫兵衛や貴殿はいい。しかし、この周馬にとってみれば、こうまでしても、万吉や弦之丞を殺さねばならぬという必要がない」
「ばかなことを。墨屋敷を焼いたのはお綱の為業でござるぞ。また、お千絵をああして奪ったのは万吉でござるぞ、よいか! そしてそれを傀儡したやつは法月弦之丞ではないか。それでも貴公は、きゃつらに何の怨みもないか! いやさ、吾々と力を協せて、その怨みを思い知らせてやるという気が起こらぬのか」
「どうも大して起こらぬなあ」
「ちイッ。ぶ、武士らしくもないッ」
「お千絵といい、墨屋敷の財宝も、今ではみんな幻滅となってしまった。その揚句に命がけで、万吉や弦之丞を狙ったところで、何の埋合せにもなりはしない。拙者はもうここでお別れいたすよ。江戸へ帰って寝ていた方がはるかましだ」
「その無念を晴らすがいいではないか。その怨みを!」
「でも――親の仇ではないからなあ」
周馬が歪んだもの言いぶりに、一角はムッとなって、
「だれが親の仇だといった?」
煙管を片手にもって立ち上がった。
相手が、胸板へ迫ってきた血相に、周馬は少し言いすぎたことを後悔したが、行きがかりとなった唇は心と反対に動いて、
「うわッ面なあげ足をとるな! それまで深い遺恨はもてぬといったまでの分ではないか」
「ばかなッ」と、一角はそれを睨み返した。
「では、なぜ、江戸を立つ前にそういわぬか。ここまで来た旅先で、面白くもないケチをつける奴だ」
「ケチはつけんよ、ただ旅川周馬一個人の立場について言明しているのだ」
「臆病風にさそわれてきたのだろう。江戸表にいるうちは、貴様も吾々と合体して、どこまでも、法月弦之丞を討つと誓い、また、万吉も生かしてはおけぬと罵っていたではないか」
「それは、そう思ったこともある。しかし、遺恨の怨みのというやつは、カッとなったときこそ真剣にもなれるが、明けても暮れても、いつまで火の玉みたいになってはおられない。ことにサ、旅になんぞ出てみると、よけいに冷静になるからなア」
「じゃアどうでも、吾々と目的を一ツにして行く気はないというのだな」
「オイ天堂氏。よく貴公は目的目的というけれど、これからお綱や万吉に追いついて、なお、弦之丞を討ったにしても、いったいその暁に、この周馬は何をつかむ勘定になるんだな? それが拙者には茫漠なのだ」
「勘定? ……フーム、すると貴様はなんだな、すべて最初から、打算一方でかかっているのか。武士の意気地もなく、また、復讐の念慮もなく」
「だれが意気地ばかりで命がけになれるものか。早い話がお手前にしろ、お十夜にしろ、みな胸に一物ある仕事ではないか。――周馬にはその報酬がない」
「呆れてものがいえぬわい。まるで腐った町人根性、もうそんな似而非侍とつきあう要はない、いやならここから帰れ帰れ!」
「なんだ、帰れとは!」
周馬も少し目柱を立てた。
いくら武士の意地立てを軽蔑している周馬でも、ここまで罵倒されれば存分だ。そして思わず左の手が鯉口へ行ってしまったので、いやでも右の肩が挑戦的に一角の胸に寄りつく。
カチカチと、河原の石で煙管の首をはたきながら、お十夜孫兵衛、こいつアおもしろい、周馬と一角でぶつかり合って、どんな仲間割れを演じるか、やるまでやらしておいてみよう――という態度で、止めもせずに、また葉煙草を悠々とつめている。
「なんだ、帰れとは!」旅川周馬、重ねて癇にふるえながら、
「万吉やお綱はとにかく、弦之丞を討つには、お十夜の腕でもまだ心細いから、ぜひ助太刀を頼むと、いんぎんに、汝が両手をついて頼んだからこそ同道してやったのだ。それを、帰れとはなんだ! 帰れとはッ」
「やかましいわッ。貴様も多少は頼み甲斐になる奴かと見そこなって、蜂須賀家の御事情まで洩らしたが、その性根を聞いていやになった。もう頼まん! 身どもと孫兵衛とできっと弦之丞を討ってみせる」
「オオ、そんなことは勝手にせい」
「いらざることを! トットと江戸表へ引っ返せ」
「誰が!」と周馬は、パッと袴をはたいて、
「ウム、ここで別れてくれる」と、青筋を立てて歩きかけると、天堂一角、業腹でたまらないように、つかんでいた銀延の煙管を、周馬の横顔に叩きつけて、
「ふた股武士めッ」とののしった。
その煙管が運わるく、小柄のように、コツンと周馬のこめかみを打ったので、さすがのかれも、そのまま後ろをみせて立ち去ることもならず、
「ウヌ!」
と腰の一刀を抜き払って、天堂一角の真眉間へ跳びかかった。
抜くまでの意気地はあるまいと、周馬の足元を、あまり見くびりすぎていたのと、左手の利かないために、一角は不意をくらって、あッ――とうしろへ飛びかわしたが、大きな玉石につまずいて、よろりと腰を砕いたので、仆れながら片手払いにパチンと抜きあわせた。
お十夜はニヤニヤ笑って眺めていた、吸いつけた煙管を口にくわえたままで。
この勝負をほうっておいたらどうなるだろう?
天堂一角にして左手の自由がきけば、もちろん、勝目は問うところではないが、まだ繃帯のとれぬ片腕が、よほど体のかけ引きを妨げるから、そこに、かなりな力量を減退されるものとみなければならぬ。
一方の周馬はといえば、これは、太刀筋において、グッと劣るが、最初から、あらん限りな罵詈を浴びせられた揚句で、無茶にムラッとした途端の切ッ尖であるから、ふだんの周馬の実質よりも、相当な強みを加えている筈だ。
とすると、この仲間われの斬合いは、まず一角六分、周馬四分の力とみて、いずれは双方斬ッつ斬られつ、相討に近いケリをつけるのがおちであろう。
闘鶏のカケ合せでも見るようにお十夜はこう考えて、冷淡に落ちついていたが、まさか、血をみるまでほうってもおけず、やッと二人をかき分けて、
「どうしたッていうんだ。周馬も一角も」
と、仔細らしく仲裁に入った。
「イヤ、どいてくれ! お十夜」
こうなると周馬は一そう息巻いて、
「あまりといえば口の過ぎた天堂の言い分、叩ッ斬ってくれねば虫が納まらん」
「片腹痛いことを、なんで貴様のようなヘロヘロ武士に」
満顔を朱にして、一角も片手にかぶった大刀を下ろそうとはしない。その太い腕節にはみみずのような血管がふくれている。
「旅先で兄弟喧嘩はよそうじゃねえか。え、一角。オイ周馬」
「ム、しかし、周馬を無事に江戸へ帰すと、阿波の内密を吹聴いたさぬ限りもない。拙者は主君のお家のためにも、この二股武士を生かしてはおけぬ」
「まさか、いくら周馬でも、そこまで悪気がある訳ではあるまい。まア、このお十夜に任しておいてくれ、周馬の気持はよく分っている」
考えてみれば一角も、法月弦之丞という強敵をひかえている前に、一人の味方を失うのは得策でない。周馬も、一時、カッとした疳筋の血が下がってみれば、もとより、好むところの斬合いではないので、不承不承に、イヤ、むしろホッとした気持で、お十夜の扱いに任せることになった。
で、その晩は、小県の下和田宿に着いて、いかがわしい旅籠でいかがわしい女どもを揚げ、いかがわしい酒と肴で、昼の仲直りということになり、酔がたけなわとなるに及んでは、周馬がいかがわしい三味線に合せて、怪しげな江戸唄の声自慢までやりだした。
これで、酔中の妥協もついた。だいぶ酔ったらしい天堂一角、振分けを解いて、今まで二人に示したことのない、蜂須賀阿波守のお墨付を出してみせたりした。
そして、天堂一角は、どういう胸算をもっているのか、大望を遂げて帰国すれば、蜂須賀家では屈指な格式にとりあげられるのは無論のこと、やがてまた、幕府が仆れ蜂須賀家が将軍の職をつぐ日には、自分も、十万石や二十万石の大名に成り上がることになる。つまり、今はその階梯だと、すばらしい気焔をあげて、周馬やお十夜の欲望のあまりに小さいことを冷笑した。
その揚句に、いよいよろれつの廻らぬ舌で、
「だ、だから、貴公たちもすこし大きな慾を、か、か、かいたらどんなものでござる。……女! あはははは……女なんテ、ウーイ、女なんテ、ありゃ、男が畢生の力をぶち込むものにはなりませんぞ。うふふふふ……ウソとお考えなさるなら、お十夜殿、アイヤ周馬先生、ど、ど、堂島へ出て、万金を賭して相場をやってごらんなさい。お、お綱だッて、お千絵様のことだッて頭から消えてしまう。イヤ、当然に消えてしまう!」
と、天堂一角、怖ろしく自信をもって、また珍らしくグデングデンに酔って、八戒のように寝てしまった。
だが、そんな酔いどれの哲学に頓着なく、お十夜は、座の目ぼしい女をさらっていつのまにか別間へかくれ、周馬もそれに習って、お千絵様を夢みながら、お千絵様とは似もつかぬ飯盛と旅のふすまをひッかついだ。
翌朝は、三人とも元気に肩を並べて、霞の晴れるまに大門峠を越え、和田村をすぎて、やがて午少し過ぎには、和田の大峠をのぼりつめた。
佐平治茶屋で支度をすまして、やおら、立ち上がって日ざしをみた。まだ七刻にはかなり間がある。諏訪泊りには楽な時間。
九輪草の多い下り道を、少し大股になりかけると、削り落したような絶壁の下から、うねうねと渓谷に曲っていく道を、先に、話しながらいく男と女がチラと目に止まった。
花が散る花が散る。
天女にも五衰の相の悲しみはあるというが、花の梢は、いくら散っても散っても衰えないで、大地に空に、クルクルクルクル白光の渦を描いてめぐる。
これがほんとの朧夜というのだろう。
微風はぬるく耳をなでるが、耳を驚かす音とてはない。空も森も伽藍も池も山門も、ありとあらゆる象のものが、シットリとした水気をふくんで、錫の細粉でも舞っているように光る、ほのかな春月がどこかしらにある。
その明りもきわめて鈍く、目をみはればみはるほど、白毫の光が睫毛をさえぎるので、ここはどこかしら? と思い惑っているとかすかに一点の御灯がみえる。
アア、江戸で有名な、浅草の観音堂だな。
道理で、五重の塔がある、淡島堂がある。弁天山の鐘楼がある。
オヤ、誰かきたらしい。
小さい娘の跫音だ。
なんという可愛らしい小娘だろう。一人かと思ったら、また同い年ぐらいな少女が後からくる。何しに今ごろ通るのだろう?
道づれなのか? 別々なのか? だが、どっちにしても、なんと似ている少女だろう。オヤ、いけない、二人ともに目がつぶれている、手探りで歩いている――アアあぶない、あんな方へ。
おいおい、そんな方へ向いてゆくとあぶないよ。
池があるよ。橋は向うだよ。
おーい。聞こえないとみえる。おーい。
空の模様が変ってきた。
花旋風にさらわれるなよ、通り魔に肌を切られるなよ。あれッ、盲の小娘はどうした? 盲の小娘は? どこかでヒーッと泣いているようだが……。
しまった。
とうとう池に落ちてしまった。ああ、溺れてゆく、もがいている。
誰か助けてやらないか、観世音はアレを救おうとしないのか、あの盲目の小娘を見殺しにするのか。
いけないいけない、見るまに深いほうへ入ってゆく、アア悲しそうな顔を向けて――。や! しかも、しかも! あれは他人ではないぞ、わしの娘ではないか、オオわしの娘だ、どっちもわしの娘なのだ。
早く助けてやってくれい。
誰か――誰か。
わしはあすこへ行くことができない。
誰かいないか、人はいないか。
アア観世音菩薩。
あれは私の娘です。
お千絵です――お綱です。
* * *
四国阿波の国第一の峻峰、つるぎ山の頂から一羽の角鷹が、バタバタバタと翼を鳴らして斜めに飛び、やがて、模糊とした霞の底へ沈んで行った。
何かの音におどろかされて、甲賀世阿弥は、ふッと、深い夢からさめた。
さめて、あたりの現実を見廻してみると、ここは江戸の観音堂でもなく、また花の散る朧夜でもなかった。
江戸の地から何百里を隔て、本土の国とは鳴門の海を隔てた阿波の国――。それも、海を抜くこと六千尺にあまるつるぎ山の洞窟である。
チチ、チチ、と山千禽のさえずりが聞こえるから、もう夜は明けているのだろうが、世阿弥の側には、魚油を点した火皿の燈心が、今のかれの命のように、心細く燃え残っている。
「ああ……」
と世阿弥は、夢の疲れを太く呻いた。
この洞窟の中こそ、つるぎ山の間者牢である。かれが十一年の春秋をくり返した阿波の山牢。
また今年も、雪が解けて、春がきて、木の芽が吹いた。そして、きょうという日の夜が明けたが、それは、世阿弥にとって何の希望を意味するものでもなかった。
深い洞窟の中は、三間幅ぐらいな板敷となっていて、そこに、藺ござや獣皮が敷いてあった。
ぬらぬらと光って、生きもののような岩の肌からしたたる雫が、冬は氷柱となって剣の天井となり、夏はポタポタと乳のごとく清水を降らすので、いつか世阿弥が黒木柱を組んで、その上へ、柏葉樹の葉をたくさんに葺いておいたが、それも今では、真ッ黒に朽ちて、時折、氷より冷やかな白玉を襟すじに落してくる。
「ああ、夢だった……」
やがて世阿弥はこういって、残り惜しそうな眼をあげた。
夢ほど楽しいものはない。夢はこの山牢を解放して、剣山から江戸までもさまよわせてくれる。今の世阿弥と現実の世の中との交渉は、ただ時折にみる夢だけに繋がれている。
やがて、かれは薄暗い岩窟から外へ這いだした。
そこには、何ものも萌え立たせずにはおかない春の太陽が、らんらんと群峰の肩からのぼりかけていた。鵯、橿鳥、駒鳥、岩乙鳥、さまざまな鳥がその恵みを礼讃し、あたりの山草や植物も、かがやかしい芽や花に力をみせて、世阿弥の瞳はクラクラとしてしまった。
「あ……」と、かれは、痛いように、両手を顔に当てながら、洞窟の前からトボトボと低地の水際へ下りて行った。十一年もの間、岩窟に起き伏ししていたせいもあろうが、その姿は、この世の人とは思われない。陽の前に立っても、かれには影がないようだ。
岩から岩へチロチロ流れてくる雪解の水に、世阿弥は、ガクリと膝をついた。藁でつかねた麻のような髪を濡らして撫であげた。
そして、その清冽に口をそそぎかけた時、かれは、意外な物を見つけだした。あわててうがいの水を吐いて、向うの草むらへ飛びついた。
そこに四、五本の花梨の木が生えていた。秋から冬にかけて黄色い果実がつく頃には、この樹の実がもつ特色のある芳香が、世阿弥をひどく慰めてくれるので、友達のような気がする樹である。今みると、その木の根にからむ雑草の中に、一本の、真新しい狩矢が突っ立っている。
抜いてみると、矢羽はぜいたくな鷹の石打、やじりは槇の葉形のドキドキするものであった。それに錆がみえないところから察するに、つい、昨日かきょうの流れ矢であろうと思われる。
「ほ、また誰か、徳島城の者が、山へムダ矢を放ちにきているな……」
こんなことをつぶやきながら、世阿弥はそれをつかんで、洞窟の前へ戻ってきた。そして、日光に目を慣らしてから、改めて、その矢骨をズーと眺め廻していると、やじり二寸ほど上がったところに、沈金彫で蚤のような細字。
竹屋三位有村。
という切銘が読まれた。
「ああ竹屋……竹屋三位? ……」
かれにも記憶のある名とみえてややしばらく、それをみつめていると、どこかで明らかな人声がきこえだした。
「啓之助、啓之助」
「はッ」
「どうした? 意気地のない奴じゃ」
「イヤ、意気地のないわけではございませんが、さすがに、倶利伽羅坂十八町を、ひと息に上ってまいったので、やや疲労をおぼえました」
「まだ、この上には一ノ森、二ノ森の嶮路がある。そんなことでは心細いぞ」
「いや、とんでもないことを」
「なにがとんでもないことじゃ」
「春とは申せ、まだ渓谷には雪があり、藤の森あたりはすこぶる危険でございます」
「ばかを申せ。きょうは是が非でも二ノ森を踏破して、お花畑の天ッ辺から三十五社、蟻の細道、または人跡未踏という、剣の刃渡り、百足虫腹までも、越えてみなければ気がすまぬ」
「なんと仰せあろうとも、まだ五月にならぬうちは、これより上のお供はできませぬ」
「ではこのほう一人で登りつめる」
「また有村様の横紙破りな。万一お怪我のある時には、この啓之助の落度として、殿より御叱責をうけねばなりませぬ。どうぞ、今日はこの辺で、ひとつ日置流のお手際を拝見いたしたいもので」
朽葉一枚こぼれても、カラカラとひびく山中の静寂――、それはだいぶ遠いらしいが、世阿弥の耳へは怖ろしく近く聞こえてくる。
空谷の跫音である。
世阿弥は耳をたてて、その人声のする方へ伸びあがった。
たいそう近くに聞こえると思ったが、その実在は遠くであった。かれのおる山牢は、一面の矮生植物につつまれた、瘤のような地点だが、そこから見下ろすとズッと麓にあたる所に、ポチと、二個の寸影が立っている。
「お、あの人物だな……。だが、山目付でもないらしい? ……」とつぶやくうちに、世阿弥の姿が、ガサガサと樹木をわけて、その人影の方へ下って行った。
しかし、ある程度まで下りてゆくと、もうその先へは一歩も出られぬことになっている。
なぜかといえば、つるぎ山覗き滝の深潭から穴吹川へ落ちてゆく激流が、とうとうと飛沫を散らしている上に、その岩壁に添って、瘤山の瀬をグルリと柵でめぐらしてあるからである。
つまりこの瘤山は、ひとつの山の離れ島をなしているわけだ。かれの終身間者牢は、この自然の地形と、人為の柵内とに局限されている上に、また、ここと麓の間には、三ヵ所の山関があって、たえず詰役の山番がいるから、どうしたって遁れだすことはできない。そしてその山見廻りは、麻植、板野の里あたりの原士が交代で詰めることになっている。
甲賀世阿弥。
今――このつるぎ山の奥に、めッたにない人語を聞いたので、吾を忘れて、瘤山の柵ぎわまで駈け下りたが、別に、なんぞこれという目的があったのではない。ただ、その人影へ本能的に引きよせられたまでのこと。
ちょうど身の丈ぐらいな這松やつつじが、うまく体を蔽い隠したので、そのままジッと、柵の外を眺めていると、さっき倶利伽羅坂の上にみえた二人が、依然と、はばかりない高声で話しながら、すぐ流れの向うへまできて、爼板岩の端へ腰を下ろした。
「啓之助、啓之助」
まるで、家来でも呼びつけるように、またそこでこういったのは、蜂須賀家の永居候、竹屋三位卿であった。
「諦めてやろう。それほどまでに頼むなら――」
「お、では、つるぎ山踏破のこと、お見合せ下さいますか」
と初めて、ホッとしたらしく答えたのは、阿波守、三位卿などとともに、昨年大阪表の安治川から、卍丸でこの阿波の国元へ帰っている森啓之助なのである。
あの時、森啓之助は、脇船の底に一個の長持を積んで阿波へ帰った筈だ。その長持の中には、たしかに、川長のお米が隠してあった筈――。
さすれば、あの多病薄命なお米も、今はこの阿波の国の人となっている筈だが、啓之助は、そのお米の身をどう始末してしまったのか、人には、おくびにもそれを洩らしたことがない。
と――一緒に、あの時、かれは太守阿波守からいいつけられて、このつるぎ山の間者牢へ、俵一八郎と妹のお鈴を護送してきている。一八郎は、今なお、世阿弥のいる瘤山よりまだ奥深い、一ノ森の山牢へ封じこめてあるが、妹のお鈴は、この冬の寒気に凍え死んでいた。
で、啓之助は、以来、お船手方の役目をかねつつ、時々、このつるぎ山の目付役を仰せつかって、月に一度ずつは、必ず山牢の様子を巡察することになっていた。
きょうも、実は、かれは山目付巡察の役目できていたのだが、そろそろ春めいてきたところから、食客の若公卿、家中のもてあまし者、竹屋三位卿が、なんでも同行するというので、はるばる、徳島の城下から、山支度と狩装束できたのはいいが、日置流自慢の竹屋卿の弓も、二、三日の小鳥追いに、あまり大した獲物がなかったので、すぐに飽きてしまった。
飽きたら先に徳島城へ帰るかと、啓之助が放っておくと、こんどは、まだ絶巓には氷原もあろうというのに、蟻の小道まで踏破しゆかねば、阿波守への土産話にならぬといいだして、駄々な若公卿の本領を発揮し、さんざんに、啓之助をてこずらせてきたところであった。
だが、この山牢のある近い所までくると、さすがに、森厳な冷気と山気があって、きょうは諦めようと我を折ったので、啓之助は、はじめてホッと安心した。
で、ご機嫌の変らぬうちに、よろしく下山をすすめようと思っていると、不意に、森々とした空気を破って、
「山番ッ、山番ッ、山番はいねえか――」
とはるかな上で、絶叫するものがあった。
「ヤ……?」
啓之助はハッとして、三位卿の顔をみた。三位卿も、木魂につんざいた今の声に驚いて、爼板岩の上へ突っ立った。
と――また一声。
「山番ッ――」という叫びが、高い木立の奥でしたかと思うと、時鳥のように、それなり後はシーンとしてしまった。
「何かあったな? ……」
竹屋三位は、星でも占うようにつぶやいた。
「この山に、異変のある筈がございませぬ」
啓之助が否定した。
「イヤ、今の最後の声に鬼気があった。誰か人が斬り殺されたぞ」
「それは気のせいでござりましょう」
「啓之助、お前は兵学に通じておらぬから、話せない。人が殺される間際の五音ほど明らかなものはないのじゃ。たしかに誰か殺されている。イヤ、誰かではない。今叫んだ声の主が斬られた……」
いいも終らぬ時だった。
真上の細道から、血まみれになった山番の下士が二人、バラバラと転び落ちに下りてきた。三位卿の音声学もばかにはできない。啓之助は横顔を打たれたように、
「何事だッ」と、怒鳴った。
「おッ、お目付」
「ウム、いかが致した?」
「い、一大事です……」と息をかすらせたが、すぐ要領をいった。
「また、あの乱暴者が狂乱して、牢番の佐平の脇差を奪って斬り殺しました」
「えっ、斬った?」
と、おうむ返しにせきこむ啓之助の言葉尻を取って、三位卿は得意らしく、
「ム、斬ったろう!」と大きくうなずいた。
「で、どうした、彼奴は?」
「佐平の声に驚いて、吾々が駈けつけてみた時は、もう柵を破っている切迫で」
「ヤ、脱牢したか!」
「すわとばかり、組みつきましたなれど、なにせい、血刀を持っている上に、いつものような死物狂い、とても、二人の敵ではなく、みるまにあの柵際から西谷へ向って、身を躍らせてしまいました」
「ば、ばか!」と森啓之助、口ぎたなく呶喝して、
「破牢して西谷へ飛び下りたのを見届けながら、空しく逃げ降りてくる奴があるか。合図鳴子は何のために備えてあると思うのじゃ。うろたえ者め! 早く鳴子を引いて麓へ合図をしろ! 早く引けッ、鳴子をッ」
「おッ」
と、蹴飛ばされたようにはね上がって、
「そうだった!」と山番の一人、バラバラと彼方の黄櫨の木の下へ駈けだした。
ヒラリと、その喬木の下枝へ飛びついたかと思うと、猿のようにバサバサと木の葉を散らして攀じ登った。
登りつめた八分目の梢に、タラリと、一本の藤蔓がかかっている――、片手で幹に抱きついて、片手をそれへ伸ばした山番の下士が、力いッぱいグンと引くと、電波のような力のうねりが、喬木の梢から梢をへて、谷のあなたの山関へ届いた様子……。
かすかだが、物々しく、グワラグワラッと鳴った合図の音響が返ってくる。
下に立って、仰むいていた啓之助は、それを聞きたしかめて下りようとする上の者を、
「待てッ」と手をあげて制止した。
「待て! そして、しばらくそこで様子を観望しておれ」
「は!」と、虚空で返辞をする。
「見えるだろう、鞘橋の木戸が」
「うかがえます――、只今の鳴子合図に、手配の人数が動きだしました」
「ム、鬼淵の間道のほうは?」
「よく見えませぬが……」と樹上の居場所をかえて手をかざしながら――「オオ、駈け向ってゆきました、原士の方が十四、五名」
「鷭の平には?」
「見張が立った様子です」
「よし!」と森啓之助、うなずきを与えた。そして三位卿をかえりみながら、
「もう大丈夫――天魔鬼神でもこの山から踏みだすことはなりませぬ」と笑みをみせた。
「脱走を企てたのは何者か」
「御存じの、俵一八郎でござります」
「ウム、あれか」
三位卿は、安治川屋敷の雪洞と、阿波守が手に持った、ほたる斬り信国の光を想い起こした。
「森様――」とまた、樹上から樹下へ、物見の山番が呼びかけた。
「おウ、なんじゃ」と、声に応じて振りあおぐ。
「見つけたらしゅうございます。俵一八郎を、八方から一ヵ所へ、ワラワラと人数が集まって行きました」
「そうか。手もなく捕えてしまったのであろう。では降りてもよろしい」と命令した。
で、啓之助は、すっかり不安を一掃したらしく、岩の上へ腰を下ろして、三位卿へ話を向けなおした。
「あなた様もご承知でございましょう。鳩使いの天満浪人、俵同心と申した奴で」
「知っている。安治川のお屋敷へ妹を棲みこませていた者じゃ」
「その妹の鈴も、この剣山に同獄しておりましたが、極寒のうちに、凍死してしまいました。それ以来、一八郎め、ほとんど、野獣のように荒れ狂って無謀な脱走をくわだてますので、特に、山番二人と牢番一名をつけておきましたが、またもやこんな騒ぎをしでかしました」
「自暴自棄になっているのだ」
「この分では、ただの山牢では不安心ゆえ、改めて、前神の森の石子牢へぶちこんでくれましょう」
「それほど手数のかかる奴なら、なぜひと思いに、首を打ってしまわぬじゃろう」
「隠密は斬るな、終身山牢へ入れて鳴門の向うへは返すな、間者を斬ると徳島城へ祟りをする――というのは、義伝様以来、破れぬお家の掟でござります」
「そうそう、大阪表におった頃、そういう話を阿波殿の口からも聞いたことがある。そのために、十一年余りも、この上の洞窟に封じ込まれている甲賀世阿弥、あれはまだ存生でいるのか」
「生きているというのも名ばかり、まるで、うつせみかまゆを脱けた蛾のように老いさらぼうておりまする」
「道理で、この柵の中から上は陰森としているな」と、その世阿弥が、流れをへだてた向うの柵ぎわに、ジッと身をかがめているとは知らずに、三位卿、なに気なくふりかえった。
その眼を避けようとして、世阿弥はあわてて身を引っ込めたが、おおいかぶさっていた山笹やつつじの葉がガサガサと動いたので、
「や、何者か?」
と三位卿、身を屈して流れのうちから向うを睨んだ。
啓之助もズーと柵ぎわを見渡したが、格別、異状がないので、気にかけずに、
「山鳥か何ぞでござりましょう」と打ち消すと、
「おお、あんな所に」
「何をお見つけなさりました」
「わしが昨日射た流れ矢の先がチラと見える」
という声を聞いて、隠れていた世阿弥はハッと思ったが、もうなおのこと身を動かすことはできない。
「あれは秘蔵の鷹の石打じゃ。あとで誰かに流れを越させて、拾っておいてくれるように」
「承知いたしました」と、啓之助が答えるのと一緒に、竹屋三位、不意に、ヤッと叫んで小手をひるがえした。矢羽の先が浮いている木の葉の中へ、小柄を投げて試したのだ。
それでも、何のそよぎもしないので、かれは初めて心をゆるしたが、小柄を打ったはずみに、己れのふところから金襴皮の料紙入れが落ちて、ズズズと岩の間へ辷りこんだのを知らずにいた。
倶利伽羅坂の方から、にわかに、殺気だった人声がしてくる――。
精悍な装いをした阿波の原士の十数人、一人の武士の両腕をねじとって、無二無三に引きずり上げてきた。それは脱走をもくろんで捕われてきた俵一八郎。見違えるほど痩せ細って、頬骨は尖り、目は青隈をとったよう、眉間にも血、腕にも血、足にも血……。ふた目とみられぬ姿である。
「お、来たか」と森啓之助、バラバラとそれを迎えながら、
「いく度となく山を騒がす憎ッくい奴、こんどは前神の石子牢へぶちこんで、身動きのならぬように致しておけ」
「石子牢? 合点です!」と、あけび蔓を輪にして提げていた一人の原士、流れへ寄ってザブザブとそれを濡らし、ピューッと手でしごいて紐のように柔らかくしたのを、「それッ」と向うへ投げてやった。
歯がみをしながら俵一八郎、見るまに、あけび巻きにされてしまった。その水気が乾くに従い、蔓は針金より固くなって、一分一分肉へ食いこんでいく一種の呪縛だ。
柵の向うでは、甲賀世阿弥が、息を殺してこの無残さを眺めていた。かれの太股にも鋭い小柄が立っていた。――だが、今はそれを抜くだけの微動もゆるされない。世阿弥は、流れる血さえない傷口をおさえて、ジッとこらえつめていた。
阿波の国だけにあった特殊な武家階級、原士という一族の中には、その頃までも、殺伐な野武士の血が多分に遺伝されていた。
蜂須賀家の家来であって、家来の束縛はうけていないし、無禄の浪士に似て浪士でもない。いわば、山野へ放ち飼いにされていた客分である。
領主の田数帳にある以外の山地は、どこでも、かれらの自由所領とされていた。だから、かれらは決して城下に屋敷をもっていない。みな、阿讃山脈の根から、四国三郎の流れに沿った奥深くに、土俗風な門戸を構えている。
その中には戦国以来の旧家もあり、天草の残党だという家もある。山を伐り拓いて吉野川へ流す材木や、南国的な花の咲く長順煙草などは、かれらの所領を富ますものであった。それでいて、皆ひとかどの武術に長け、スワ城下に喧嘩でもあるとかいって、猛然と、かれらの群が、吉野川の流域を下る時は、ほうふつとして古の野武士だ。
その、気の荒い原士たちは、なんらの仮借なく俵一八郎を引ッ立てて、前神の石子牢へぶちこんでしまった。石子牢というのは、一種の風穴で、穴の奥から冷たい風が吹いてくる上に、あたりの断崖からは、夜も昼も、たえずザラザラと小石の降る音がしている。
一八郎をその中へほうり入れると穴の口へは、大石や小石をかこってほんの食物を投げ込まれるだけの余地を残した。これでよし、と森啓之助は、竹屋三位卿を促して、その日は麓へ下りてしまう。
翌日から、山はまた終日シンと静まり返っていた。石子牢に狂う一八郎の叫びも聞えなくなった。
一日ごとに、太陽の熱度が昂くなって、木や草ばかりがズンズンと伸びていった。静中の動、なんらかの力がそこに鬱している。
だが――山は静かだ。
鬼気をひそめて静かである。
ところが、ここに不思議な現象が起こりだした。といっても、世間の巷とは違うから、そう大した異変ではないが、この山としては少なくもひとつの変った現象には相違ない。
それは何かというと、あれ以来、世阿弥の様子がにわかに生々としてきたことだ。かれは、竹屋三位の小柄が自分の太股に深く突き刺さったにもかかわらず、山牢の前へ這い戻って、ニヤリと、十一年目といってもいい独り笑みを洩らしたのである。
「初めて知った……。ウーム、この山には、自分の他に、まだ一人の同志がいる……。何といったっけ、オオ俵一八郎、俵一八郎、かれはたしかに大阪表の天満組同心だ。あの様子では、ごく近ごろに、この山牢へ送りこまれてきたらしいから、さだめし、その後の消息に通じているだろう。なんとかして、あの一八郎と一度話をしてみたいものだ」
こういう希望が燃えだしたのである。希望は生命の火のようなものだ。希望のうすれる時には人は老い、希望の赫々とする時には人は若やいでくる。
世阿弥は小柄の傷を癒すために毎日、薬草の葉をムシっては、青い草汁を傷口へなすりこんだ、そして柵から脱けうる方法と場所に苦しんでいた。
ひどく山の荒れた晩があった。翌朝みると、一本の山栗の大木が、柵をくずして仆れていた。山番の者がそれを繕いにこないうちに、かれはその朽木を引き入れて、草むらの中に隠しておいた。
春の夜も、山荒れのあと二、三日は、冬のような月の冴え方をしていた。世阿弥は真夜中ごろになって、獣のように、間者牢から這いだした。
かれは、青白い月魄をあびて、鬼のように働いた。やがて柵に攀じて外へ辷り出したかと思うと、世阿弥は、隠しておいた朽木を激流の岩に架けて、飛沫のかかる丸木の上を這って渡った。
「俵殿、俵殿……」
やっと尋ねあてた石子牢を覗いて、こう呼んだのは世阿弥である。パラパラパラパラ崖から小石が降っている。その断壁面の荒い岩肌に、藤の森から青い月がさしていた。
「一八郎殿……」と、もう一度、石と石との間をかき分けて、世阿弥が声をかけるとややあって、
「うウ……、た、たれだ!」
と風穴の中で物音がした。――物音はしたが、一八郎もこの深夜に訪れたものを深く怪しんだとみえて、めったに穴口へ顔を寄せてこない。
「俵一八郎殿……。わしは甲賀世阿弥と申すものでござる。阿波の者ではござらぬ。十一年以前からこの山牢に封じこまれている世阿弥と申す幕府の隠密でござる」
「やッ、世阿弥殿?」
「ご承知か」
「知っている!」と、一八郎、青白い顔を石の間からさし出した。世阿弥は、妖鬼に睨まれるような凄さをおぼえた。
「ウーム、なるほど。いかにも世阿弥殿であった。たしかにそこもとがこのつるぎ山にいるとは存じていたが、どうしても会うことができない。それゆえ、わざと、柵を破って山を騒がせ、そこもとの気がつくように致していたが……ああ、とうとうお気づき召されたか」
「や、では脱走する目的ではなくて?」
「なんで。――この山峡を脱走したとて、四面は山と海との二十七関、とても逃げおおせぬことは某も心得ている」
「うむ、仰せの通りじゃ。土佐境も讃岐越も逃げ道はない」
「しかし、お目にかかればもう本望でござる。世阿弥殿、一言お告げいたしたいことがある」
「オオ!」と顔を寄せあうと、二人の間へ、ザア――と箕を開けたような砂礫が落ちてきた。それをかき落して、また穴口を作りながら、甲賀世阿弥。
「わしも、お身に会ったなら、何ぞ消息が聞かれようかと、それ一念で、山牢の柵を破ってまいったのじゃ。して、わしに告げたいこととは」
「江戸表におらるるそこもとの御息女お千絵殿という方から便りをもって、唐草銀五郎というものが、阿波へ入りこむべく大阪表までまいりました」
「オオ、さては、唐草が娘の消息をもって阿波へまいりますとな?」
「さ、ところがその銀五郎は、目的の途中で、あえない最期をとげたのでござる。場所は、大津の禅定寺峠。――某もまたその時に、阿波の侍のために捕われて、とうとうここへ送られてまいった。しかし、御落胆なさるな、まだ安治川屋敷に押しこまれている当時、手前の妹の鈴が探ったところによると、われらと同腹の者で天満組の目明しをしている万吉と申す者が、法月弦之丞という人の力を借りて、再度、阿波へまいる支度のために、お千絵殿を尋ねて行ったということでござります……」
「はて? ……法月弦之丞と申せば、わしが江戸表にいた当時は、まだ十四、五の美少年で、夕雲流の塾へ通っていた大番組の子息――。どうしてそれが、娘の千絵を存じているのであろう」
「二人は恋の仲だそうでござる」
世阿弥は不思議な気がした。かれが、夢にみるお千絵は、いつも彼が江戸を去った時のおさないお千絵であったから……。
「なるほど、もうそんなこともありそうな年頃。では、ついでをもって伺うが、その千絵女のほかに、お綱と申すものの消息をお知りなさるまいか」
「お綱? ……それはまた何者でござりますな」
「実を申すと、母違いの娘でござるが」
「ひと頃、大阪表を立ち廻っていた、女スリの見返りお綱という者はござったが? ……」
「いや、それは全く別人じゃ」
「無論、そのお綱ではござりますまい。だが、ほかにはお綱というような名は、誰の口からも聞いたことがなかった……」
「ないのが当然でござろう、親子の情、お笑い下さい」
「しかし世阿弥殿。ただ今お告げした通り、弦之丞殿が江戸へついた暁には、さだめし、それらの消息や、また公儀の旨をふくんで、いつかは一度、この山牢へも訪れるものと察しられる。必ずともそれを信じて、気を落さぬように」
「十一年ぶりで、初めてその吉報を聞きますわい。そうあればお手前もなおのこと、御短気をなされずに、阿波の密謀が公となって、幕府よりお救いのある日をお待ちなさるがよい」
「ところが……」と、一八郎は暗然として、
「某の命は旦夕に迫っています。それで……」
といいかけるうちに、もう彼の面には、ありありとした死相がうかんでいた。
そこへ山番のしわぶきがきこえてきたので、世阿弥は、一八郎のいった意味を「なぜか?」と問い返してみる隙もなく、石子牢の前を離れて駈けだした。
森をぬけて断崖に出で、藤蔓にすがりながら瘤山の裾へ戻ってきた。そして、朽木丸太を架けておいた所へ出るまで、流れぎわの岩石と水草の間を這ってくると、何やら、妙なものがフト指先にふれた。
さわったと思うと、それが岩の間へ、スルリと辷って行ったので、あわてて拾い取ってみると、月明りでしかとは分らないが、どうやら古風な懐紙挟みで、金襴革の二つ折り、旅用とみえて懐紙以外なものが厚ぼったく挟んである。
「分った、これはあの竹屋三位が持ちものであろう」
世阿弥は、格別役にたつものとは思わなかったが、そのまま、ふところへ入れて、以前の所から激流を渡った。
そして、後に疑いを残さぬように、朽木を流れの中へ突き落すと、パッと白い水煙をあげて、その丸木が大蛇のように浮かんでゆく。
で、無論、世阿弥が柵を出て、石子牢にいる一八郎と話をまじえたなどということは、山詰の役人、誰一人として気がつかなかったが、永らく蟄伏していた世阿弥の心は、その日から、俄然と眼をさまして一縷の望みを江戸の空へつないだ。
「わしがここにいるということは、まだ世の中から忘れられていなかった。今に! 今に! 誰かくるに違いない」
こういう信念をもったのである。
「しかし? ……」と冷静になってみる時に、世阿弥は、それもまた、あまりにはかない凡情にすぎないのではないかと疑った。
単なる人恋しさから燃える希望ではないかと反省した。
幾多の危険を冒して、ここへ訪ねてきた者に、この姿を彼に見せ、彼の姿を自分が見たところで、果たして何の意義があろう。やはり、それも一つの夢想に過ぎない。一時の煩悩を、よろこばせ、涙ぐませるだけのことではないか。
――とも思うし、いやいや、そうではないとも思いなおした。
この厳しい密領へ、命がけで忍んでくる者があれば、それは、必ずや大きな意義をもたらすものか、求めに来る者でなければならない。
宝暦変以来、密雲につつまれているこの国の内秘。その謎をとき、その秘密の鍵を握っているのは自分だ。
法月弦之丞とやらいう者、また、天満組の万吉とやらいう者が、ここへ来る日があると、俵一八郎がいったのは、そうだ! その鍵を自分へ求めに来るのに相違ない。
永い山牢生活に、自分はあまり愚に返っていた。ただいたずらに、江戸へ残してきた二人の娘の愛情にばかり囚われていた。
本来、自分がこの阿波へ入り、こうした運命を招いた時の使命はなんだったか! 鳴門の渦と剣山の雲に蔽われていた徳島城の大秘密をあばいて、天下をアッといわせようという壮図に燃えていたのではないか。
老いたものだ。甲賀世阿弥も、いつのまにか焼きが廻った。その頃の元気を思うと恥かしい。
そうだ。支度をしておこう!
いつ何人がこの山を訪れても、すぐに、自分の探っておいた限りの言葉を、その者へ、手渡すことができるように。――よしや、それが無駄になるまでも。
かれの思慮は、ここへ、ピッタリと落ちついた。
死花だ! 死花だ! と彼の心は躍ってくる。徳島城内のかずかずの密謀や、歴々と、阿波一国にみなぎっている反徳川の風潮を、十分に探っていながら、この終身牢に枯死してしまう運命であったものが、誰かの手で、江戸城へ届けられるとすれば、その甲賀世阿弥に死花が咲くわけである。
虫のごとき死をまぬがれて、人間らしい死を遂げることができる。
で、世阿弥はその支度をしようとした。
しかし、ひるがえってみると、この山牢の中に、悠々と、そういう記録などを書き残しておく、筆墨などはない筈である。
「はて? ……」と、その方策に腕をこまぬいた時、かれは、岩の間から拾ってきた、竹屋三位の懐紙入れを思いうかべて、中を開いてみる気になった。
別にこれぞという物もなかったが、その懐紙挟みの中に、一帖の絵図がしのばせてあった。
小形な法帖みたいに折り畳んであるので、サラリと押し開いてみると、竹屋卿がわらじがけで実地を写したものらしく、徳島城の要害から、撫養、土佐泊、鳴門のあたりを雑に書きかけてある海図だった。
だが、世阿弥の目には、それが書き半端な海図とのみ単純には看過されなかったとみえて、
「お、これは、軍船の配りや布陣の線を引いたものじゃ。や、鏡島の袋潟――鳴門の裏海には、いつのまにか、こんなにも多数の軍船がひそめてあったか」
と、図面の角点を数えて目をみはった。
「よいものが手に入った。これも、一つの証拠にはなる。しかも、公卿方の者が自写したのは、何より有力な証拠品である。ウム、そうだ、これへ自分が隠密して探り得た箇条を書き加えて……」
ひとりうなずいた甲賀世阿弥は、ふすまに使っている鹿の毛皮をとりだし、また、瘤山の窪みへ下りて、手ごろな篠を切ってきた。で、何をするのかと思うと、この間、太股へうけた一本の小柄を細工刀として、斑竹の細い尖を切り落し、鹿皮のワキ毛をむしって、一本の細筆を作ったのである。
さて、筆はできたが、墨汁を何から得よう。
かれはまた、草木の中を歩いて、紫、藍、紅、さまざまな花をもんで試みたが、どれも日光にあえば色を失うのみか、筆にかかる粘力がない。
その中でも、割合に色素のありそうな、ぎらん草の花を選んで洞へ帰った。そして紫色の汁を絞り、指を噛んで、自分の血汐をタラタラとそれへ注ぎまぜた。
岩を机とし、獣油を灯し、かれは、さながら大蔵経を写しにかかる行者のごとく、端然と洞穴にこもって、自分の血とぎらん草の汁へ筆をぬらしはじめた。
そして、竹屋三位が鳴門水陣の線を引きかけてある、あの折帖の余白へ、きわめて細い字で、ポトリと五、六字書いた。
書けた文字をジッとみつめていると、血と紫花の汁がうまく混和して、墨よりも強い、玉虫色の光沢をおびてくる。
「これでいい」
と、世阿弥は額を抑えた。
遅々とした筆が運ばれだす。
灯がつきれば獣油を足し、筆が渇けば指の血を絞って……。
だが、筆にふくませる血液も、やがて、指からはしたたらなくなって、かれは、五体のいたる所を小柄で破った。
* * *
煙草船や藍玉船が、白い帆を張って、ゆるゆると吉野川を辷ってゆく。
その底には、もう若鮎がチラチラ光っているだろう。南国らしい黄花の畑、変化に富んだ両岸の風景もかくべつだが、何よりはその大河の、砂と水のきれいなことといったらない。
きれいなといえば、水も水だが、アレをごらん、あのかんこ船に乗って、こッちへ上ってくる御新造様は、いずれ御城下のお方だろうが、なんというお美しいことだろう――と、藍取歌を唄っていた陸の娘が見とれていた。なるほど、この山水の紅一点。今――西麻植の岸へ船をつけて、スラリと、そこへ下りた美人がある。
阿波にはたくさんに美人がいるが、あの豊麗な、肉感的な、南国色の娘たちとは、これはまた、クッキリと趣をかえた美人。
太夫鹿の子の腰帯に、裾を上げて花結びにタラリと垂れ、柳に衣裳をかけたようななよやかさは、東風にもたえまいと思われるほど、細ッそりとした形である。
「宅助や……」と、うしろを向いて、
「うっとうしいから、お前、これを持っていておくれでないか」
紅緒の菅笠を下郎に渡すと、うけたお供の仲間は、それを自分の笠に重ねて、
「へい。もうお近うございますよ」
と、南の空をふり仰いだ。
剣山がそびえている。
「ここから、もう何里ぐらい歩いたらいいの」
「さア、私もこんな奥へ来たのは初めてで、よく見当はつきませんが、川島郷から湯立船戸、ザッと四、五里も歩いたら、穴吹口へ着きましょうか」
「そこが、あの山の麓かね? ……。まだずいぶんあるらしいが、どこかに駕屋でもないかしら」
「へへへへ、お米様。いつまで大阪表にいる気じゃ困りますぜ。ここは阿波の国も吉野川のグンと奥、そんな物があって堪るものじゃございません」
仲間づれの旅の女は、静かな大河に沿った道を、上へとって歩きだした。
豆の花が飛ぶかとばかりに、たくさんな蝶が舞っている。群蝶にくるまれて行くうしろ姿が、目を吸われるほど美しい。
「そんなことをいうけれど、お前……」
仲間風情へ話しかけるには、もったいない笑くぼをみせて、
「立派な乗物はないだろうが、山駕とかいうものぐらいはあるだろうに」
「そりゃ、ない訳はございますまい。第一、馬ならたしかにお間に合せ致します」
「人をばかにおしでない」
ちょっと睨むまねをして、
「在所のお嫁さんじゃあるまいし、誰が、馬へのるなんていったえ」
「お怒りなすっちゃいけません。だから、乗物はないと、まっすぐに申しあげているんで」
「お前は私をなぶるから嫌いさ」
「エエ、どうせ嫌いは分っております。なにしろ大阪表にいた頃から、この宅助は、仇役にばかり廻っておりましたからね」
「ずいぶん私をひどい目に会わせました」
「またお怨みでござンすかい」
「一生忘れやしませんとも」
「じょ、じょウだんじゃねえ!」
と仲間の宅助、下司らしく頭を掻いて、
「そのお怨みはお門違いでござンしょう。ねえ、主人持ちのかなしさに、わっしはただ、いいつけられたことを真ッ正直に承るだけのこッてすぜ。命がけで安治川の渡船場から、お前様を引ッさらってきたり、長持の底へ入れて綱倉の番人をしたり、ずいぶんロクでもねえことはやりましたが、その揚句に、思いを遂げて、うまい花の汁を吸ったのは、すなわち、手前のご主人様――怨むなら、その森啓之助様をお怨みなさいまし」
「知らないよ……」
「そう、早くお歩きなさいますと、またすぐに息が喘れますぜ」
「――お前も怨むし、啓之助様も私は怨む……。ああ、こんな国のこんな山郷を歩こうとは思わなかった」
「いけねえいけねえ。そういう溜息がでた後は、いつでもきまってお体が悪くなる。気をかえて、雲雀の声でもお聞きなせえ」
「思い出すと腹が立つもの……」
「まアよろしいじゃござンせんか。これが、大江山へでもさらわれて、酒顛童子のようなやつを亭主にしたというのなら、そりゃ諦めもつきますまいが、城下端れの小粋な寮へ納まって、お化粧料もタップリなら、遊山やぜいたくもしたい三昧、森啓之助様の思われもので、お米の方様というお身分は、決して悪い仕合せじゃございませんぜ」
この仲間の粘り舌が、少ししつこくなってきたので、傷つきやすい旅の心は、急に女を憂鬱にさせた。
もう、いわずもがなのことだが、この痩形の美人こそ、去年の秋まで、大阪の立慶河岸にいた川長の娘お米であった。
連れているのは啓之助の仲間、お米を阿波へ運ぶ時に、骨を折った宅助である。二人の口ぶりから察するに、お米はその後、心ならずも、啓之助の意に従わねばならぬ、余儀ない境遇に落ちているらしい。
だが、その心の奥底には、当然、まだ啓之助の腕では、ねじ伏せきれないものかあるだろう。
それが二人の会話にチラチラ出る。弱い女の不平と反抗だ。けれど形の上では、もう誰が目にも、お米は啓之助の囲い女、宅助はその番人という態になっているのを否めない。
ただ、幾分か、お米にとってよろこぶべきことは、あの癆咳の病のかげが、大阪にいた頃より大層よくなっていることだった。瞼のあたりの青いかげや、病的であった頬の肉艶、それがズッと健康らしく見えてきた。
環境が変ったからであろう。
お米の囲われている寮のあり所が、海気と松風に恵まれている地に相違ない。
黙って歩くと道が遠い。
何の用向きをもってきたのか、指して行く剣山の麓までは、まだなかなか道のりがありそうだ。
「こいつはいけねえ、とうとうこじれやすいお米をこじらしてしまった」と、仲間の宅助が後からテクテク供をしながら、少ししゃべりすぎたかなと後悔した。そして、何とかひとつご機嫌をとり結ばなくっちゃ……と思っていると、
「おウい――」と、突然。
うしろのほうから遠呼びに手を振ってくる男がある。
「おーい」とまた一度呼びとめて、こっちへ急いでくる者をふりかえると、顔は見えない、一文字の笠、ヒラヒラするのは縞合羽だ。
「誰だろう。こんな所で呼ばれる者はない筈だが……」お米が少し気味悪げに道をよけていると、程もあらず、そこへ追いついてきた一文字笠の男は、
「もし、川長のお米さん」
と、いきなり、図星をさして、合羽の片袖をうしろへはねた。
帯の間の手拭をぬき取り、口を歪めながら、生え際の汗を拭いている顔を覗いたが、お米にも宅助にも、どうも覚えのない男だ。
「私をご存じのようだけれど……お前さんは?」
「お忘れでございますか」
「さア……どうも」
「去年の夏の初め頃は、立慶河岸へ屋根舟をつけて、よくお前さんの家の、川魚料理を食べに行ったものですぜ」
「ああ、それじゃ店のお馴染みでございましたか」
「なアに、馴染みというほどでもねえが、お十夜孫兵衛という男と、飲み仲間でよく一座したことがある」
「それを聞いて思い出しました。ではあなたは住吉村にいた……」
「そうよ、あの頃ぬきや屋敷に住んでいた甲比丹の三次という者だ」
「まア、人というものは思いがけない所で逢うものでございますね」
「冗談をいいなさんな、読本の筋じゃあるめえし、こんな四国の山奥で、バッタリ行き逢ったり何かして堪るものか。実はお前の尋ねてゆく人に俺も少し用があって、この通りの汗だくで追いついてきたのよ」
「私の尋ねてゆく人って? ……」
「トボけちゃいけませんや、お前さんの旦那様だ」
お米はほろ苦い顔をした。
仔細をきくと、甲比丹の三次は、去年以来、禁制の密貿易をやるぬきやの仲間とちりぢりばらばらになって、諸方の港場を流れていたが、うまい仕事も見つからないので、これから尋ねてゆく森啓之助に、身の振り方をつけて貰うのだといった。
「なんだい、この虫ケラは?」
と側にきいていた宅助は、その虫のいい言い草と、三次の図太い面構えにあきれている。
お米とすれば、もと大阪の店へ来つけた客ではあり、啓之助とこの男と、どんな関係があるかないかも知らないので、話に釣られながら、肩を並べて歩きだすよりほかなかった。
「ふざけた野郎だ」
虫の納まらない仲間の宅助、後から来て先へ立った甲比丹の三次へ、突ッかけるように、
「おい!」と声をかけた。
「なんでえ!」語気が同じに弾んでくる。
「どこへ行くんだ、てめえは一体」
「今もいったとおり、森様へ用向きがあるんだ。城下のお屋敷をたずねたところが留守、じゃテッキリと思って、お米さんの妾宅へ行ったところが、そこも留守だ。で、だんだん探ったところが、吉野川を舟でお前たちが上ったということが知れたから、やッとこうして道づれになれたてえものよ」
「だが、ちょッと待ちねえ。うちの旦那は、お前のような者たあ知合いがねえ筈だぜ」
「向うで知らなくっても、こちらさまはよくご存じの者だからしかたがねえ」
「しかたがねえという法があるものか。どこの馬の骨だか牛の骨だか分らぬ者に、なんで旦那が逢うものか、はるばる行ってみるだけ無駄骨だ」
「ご親切はありがてえが、よけいなことはいって貰うめえ」
「なにを」
「およしッ――宅助」お米はあわてて目で止めた。この人気のない山郷で、間違いでもあられた日には、女はどうする術もない。殊に、隼のような三次のまなざしを見ただけでも、そんな手軽いコケ脅しに怖じて、後へ引っ返すような生やさしい食いつめ者でないことは分り過ぎている。
それよりは、一刻も早く、啓之助や原士たちのいる剣山の麓へ辿りつくことを急いだ方がよいと、お米は息ぎれをこらえつづけた。
つるぎ山の麓口に、原始的な一部落がある。巨大な石材や自然木の柵に囲まれている建物は、原士の詰めている山番所、その向うに目付屋敷が見えた。その附近に散在しているのは、つるぎ山を見廻る小者小屋や、土佐境の関所へ交代してゆく山役人の溜りなどである。
陣屋門みたいなそこの出入り口へ、今、足を引きずって来たのはお米と仲間の宅助で、もうこの辺へ来て四方を仰ぐと、綱付山、赤帽子岳、丸笹の峰などが、白雲の上に巨影をみせているので、まったく、山奥へ来たという感じが深い。
「もうここまで来れば、日が暮れようと、雨が降ろうと、安心なものでございます。どれ、とにかく、取次を頼んでみましょう」
と、宅助がつかつか門際へ寄ってゆくと、前後してきた甲比丹の三次が、もうそこにいた組子の者に、腰をかがめて何かしゃべっている。すると、
「さようか、では、しばらくそこに待っておれ」
と一人の小者が奥の目付屋敷へ入って行った様子。三次は、なれなれしく門小屋の土間炉へしゃがみこんで、煙草入れをとりだしていた。
「恐れ入りますが、ちょっと、お願い申します」
こんどは宅助が揉み手をして行って、
「御城下からお出張になっている、森啓之助様へお目にかかりたい者でござります。どうぞお取次を願います」
「その森啓之助様なら、只今、同役が知らせに行ったよ。しばらく待っておいでなさい」
「いえ」宅助は、わざと三次へ目もくれないで、
「そこにいる者とは違います。手前は、啓之助様の召使なので、へい」
「ああ、同行してきた者ではないのか」といっているうちに、奥の目付屋敷の方から、森啓之助の姿がこっちへ向いて歩いてきた。
「誰じゃ、この方に密用があると申してまいった者は?」と啓之助、そこへ来て見廻すと一緒に、すぐと、門のかげにチラと見えたお米の姿に気づいたが、わざとそれを後廻しにして、組子にたずねた。
「ええ、啓之助様、その甲比丹の三次はここにおります。どうもまことにお久しぶりで」
「はて、そちは? ……いっこう覚えがないように思うが」
「こんな山の中だから、思いだせないのでございましょう。あなたもお船手組の森様、わっしも密貿易船の三次です。お互に水の上で顔を合せりゃ、ああ、あの時のあの野郎かと……」
「うむ、わかった、あの三次か」
「折り入って、お願いがあってまいりやした。誰か、お美しいお客様もあるところ、長いお邪魔はいたしませんが、ちょっと、しばらくお顔を貸していただきてえと存じますが」
啓之助は、下らぬ者を取り次いだ、組子の愚鈍を腹立たしく思ったが、何となく、脇の下へもたれこんでくるような三次の口ぶりを、強くはね返してもまずいかと考えたらしく、
「そうか、では目付屋敷の、執務所の縁がわへ行って控えているがいい。何の用事かしらぬが、後からまいってきいてやる」
「ありがとう存じます。やれやれ、これでわっしもホッと致しやした。何だッて、この山奥まで尋ねてきて、面会は相ならんなどと、木戸を突かれた日にゃ御難ですからネ」
脱いだ合羽を片腕に垂らして、お米のほうへ目をくれながら、自然石の石段を上って、向うの役宅の庭へ廻って行った。
と、啓之助は、それを待ちかねて、すぐに門の外へ出た。そして、サッサと向うの樹蔭へ行ってから、お米を目でさし招いた。
「どうしたというのだ、お前は? 勝手に出歩いてはならぬというのに、このような役向きの所へ何しにきた。また、連れてくる宅助も宅助じゃ」
こう咎めたが、啓之助の挙動は、むしろ、お米が不意に来たよろこびに、落ちつかないほどなのである。
誰にも内緒にしている匿し女が、役向きの出先へ不意にやって来たので、啓之助は、こそぐッたいよろこびと舌打ちしたいような困惑を感じた。
目付屋敷には、まだ竹屋三位がいるので、そこへ曰くのあるお米を連れこむことはできないし、逢曳のように外でひそひそと話しているのは、なおさら外聞にかかわる。
で、自分が案内して、附近の家へお米を待たせておき、口を拭いて、目付の執務所へ帰ってきた。
啓之助が使用している机の側から、煙草盆を煙管の首で引ッかけて、その縁側に腰をすえこんでいた甲比丹の三次。顔をみると狎れッこい態度で、
「ああいう美女をこの山奥まで逢いに来させるなんて、旦那も、なかなか罪つくりでございますね」と、啓之助にとっては、すこぶる不愉快なお追従笑いをした。
「そんなことはどうでもいいが、三次とやら」
「やらはござんすまい……ご存じの仲で」
「揚げ足をとるな。多用な役宅のことじゃによって、用向きの次第、簡単に承ろう」
「簡単にね、結構でございます。じゃ手ッ取り早く申しますが、森様、まことにご迷惑じゃございましょうが、ひとつ、わっしをお船手か何かでお使いなすって下さいませんか」
「では、何か、貴様は雇われ口を求めにまいったのか」
「至る所を食い詰めましてね、もうこの阿波よりほかにゃ、のんきに暮らせそうな所はねえんで」
「それは断る。殊に、お船手の水夫も、今では他国者をお召抱えにはなるまい」
「じゃ、それはよろしゅうございます。断られて引っ込むことに致しやす――。その代りにですね、森様、たんとじゃございません、千両といいてえが、その半分ほど、ご拝借願いたいと思いますが、どんなものでございましょう」
「な、なにをいうのだ」
「お金を貸してくれという話なので」
「そちは正気でないと見えるな。暴言を吐くにも程があるぞ」
「程があると思うから、千両欲しいところを、こっちから五百両と負けて出ているんじゃございませんか。安いもんでございます、何とか算段をしておくんなさい。それもサ、何もお前さんの自腹を切って出せという話じゃねえ、蜂須賀家のお金蔵から、威張って引きだせる筋のものです」
「だまれ! 蜂須賀家の公金を、たとえ一文でも、貴様のような奴に下さる筋があろうか」
「出ねえものを取ろうとして、無駄骨を折るような三次じゃございません。じゃ、そのところを、チョッピリ耳こすり致しますが、蜂須賀様じゃ、また近頃、だいぶ精を出して、火薬を買い込むって話じゃございませんか――あの天下御法度の戦薬をね。そりゃ、何かに要るからでござンしょうが、廈門船や西班牙船から長崎沖で密買した火薬を、この阿波の由岐港に荷揚げをしてコッソリと、渭の津の山へ運びこむってえ噂が、もっぱら評判でございますよ、といっても、色をかえて、びっくりすることはございません。その評判は海の上のことで、まだ怖い江戸城の親玉へまでは知れていねえ話ですから」
「…………」無言でいるうちに、啓之助の色が青くなってきた。この獰猛な男の毒ッ気にあてられたのだ。そして彼は四、五年前にも、新鋭の銃器何千挺を、外船から密輸入した時、その折海の上で働いていた密輸入仲間に甲比丹の三次という名が重きをなしていたことを思いだした。
「もうよけいなおしゃべりは止めましょう。わっしも、楽に食えている身分なら、御無心なぞにゃまいりませんが、去年、住吉村の巣を荒されちまった後、どうも運の悪いことばかりで、食うや食わずの手下が五、六人も、口を開いて待っているんです。どうぞ何とかお助けの方法を講じてやっておくんなさい、でないと、わっしは我慢いたしますが、空ッ腹まぎれに乾分の奴が、御当家のことを、どんなふうに世間へ吹聴するかもしれませんので」
「これこれ三次、貴様は何か思い違いをしているらしい、そりゃ何かの誤聞であろう」
「冗談いっちゃいけません、永年潮風に吹かれている密輸入の三次、海の上のことなら迅風耳だ! じゃ、こんどはお前さんの手相を一つ見てやろう」と、片あぐらを抱えこんだ三次は、テコでも動かぬ面構えをして、啓之助の顔をジッと見ながら、
「あー、お前も少し密輸入をやったことがあるな。しかも、そいつア美しい生物で、イヤだと泣くのを手込にして、お関船の底へ隠し、他領者を入れちゃならぬ御城下へくわえこみながら、殿様の目をかすめているという人相だ……」
と、啓之助をゆすっていると、どこからか、ヒュッ――と風を切ってきた矢が、三次の喉笛を貫いて、白い矢羽を真ッ赤に染めた。
ひどく酒の醗酵する香がすると思うと、そこは山役人の食料や調度の物を入れておく納屋らしく、裏の土間に、咽せるばかりな酒樽が積んである。
お米は、そこの薄暗い一間に、いつまでも待たされていた。もとより装飾も何もない部屋なので、夜になることを思うと、急に心細くなった。それに、家の中に蒸れている酒の気がたまらなく鼻をついて、香だけでも酔いそうになった。
それとは反対に、宅助は、冷酒を酌んで、五、六杯も盗み飲みをした揚句、いつか、裏土間の藁の上へ、高鼾をかいて居眠ってしまった様子。
重い戸の開く音がした。啓之助が入ってきたのである。真っ青な顔をして――。
「お米……」
「旦那様ですか」
「ウム、どこにいるのじゃ」
「こちらの部屋でございます」
「あ、そこは、納屋番が夜寝る所じゃ、その廊下の奥がよい」
「どこも同じじゃございませんか。ほんとにひどい旅籠だこと……。ああ、この天井板のない屋根裏を見ていると、大阪表から来た時の、怖かッた船底が思いだされます」
「ばかな」
かれも、それをいわれることは、古傷にさわられるような気持がすると見えて、舌打ちをしながら、お米の側へ来て坐った。するとお米は、「あら……」と、後ろへ手をついて、
「血が……あなたの袖に、ま、耳のところへも、なまなましい血が……」と目をみはった。
いわれた所を撫で廻して、掌についた色を眺めながら、
「なんでもない」
「どうなすったのでございます」
「甲比丹の三次の血だよ、わしの身から流れた血ではない」
「え? ……あの三次を、殺したのでございますか」
「竹屋三位が矢をもって射殺したのだ。あの居候殿は、人を殺すのが好きで困る」と、かれは血におびえた心のうちで、三次の手下どもが、火薬一件や自分とお米のいきさつなどを、世間に流布せねばよいがと案じていた。
お米もまた、啓之助の頬へ、ベトリとつぶれた血糊のかたまりを見て、にわかに、胸がムカムカとしてきた。この国へきてから、しばらく忘れていた血痰が、胸のどこかに、時機を待って鬱滞しているのではないかというような神経を起こしたりした。
「陰気だな、この中は」
「早くお話をして、私は、今日のうちに御城下へ帰ります。こんな所に、一晩夜を明かしてはいられません」
「ばかを申せ、今頃から帰れるものか」
「でも、いたたまれやしませんもの」
「一体、何用があってまいったのだ。こういう山家ということを存じながら、来たほうが悪いではないか」
「実は、急に、お願いがありまして……」
「また、大阪へやってくれということか」と苦ッぽい声の下から、針のような筋が啓之助の眉に立った。
「エエ……」
先にいわれてしまったので、お米はうつむきながら、かすかに、哀れッぽい声をかすらせた。そして、来る途中で巧みに織ってきた作りごとが、グッと喉につかえてしまった。
「何度いおうと、いけないといった以上、ゆるすことはできないのじゃ。もう四、五年もたったらやってくれる、それまでは大阪へ帰ることはならぬ」
「帰るとおっしゃいますけれど、決して、もう、大阪へ行って、戻らないというのではございません、すぐにまた阿波へ」
「いけないといったら!」
「だって、そ、そんな……」
「くどいッ」
「そんなこと、む、無理でございます」
「ちイッ、くどいというに!」
いきなり啓之助が、お米の頬を打った時、お米は、ワッと泣いて、
「口惜しい、わ、わたしは、こんな所へ手込に連れてこられた上に、お母さんが死んでも家へ帰られない」
涙がこぼれてくると、胸につかえていた空言までが、苦もなく、真実そうにスラスラ口へ出てきた。
お米の怨みがましい泣き声をきくと、啓之助はまたかというような舌打ちをして、じゃけんに唇を噛みしめた。
「何をメソメソ泣くのだ! ものの分らぬにも程がある」
「わ、わからないのは、あなたのほうじゃございませんか」
「やかましい、ここをどこだと思うのだ、男の役目先へまで来て吠え面をかく奴があるか」
「どこであろうと、私は言いたいことを申します。エエ、弱くしていれば、私なんか、今にあなたのために殺されてしまうかもしれない」
「ウム! どうしようと、この啓之助の一存だ」
「私だって、なにもこの国へ、島流しにされた科人ではなし、身を売ってきた女でもございませんからね」
お米も負けずに言い返した。
そして、止めどもなく、流れる涙を流れるままに任して、いかにも憎そうに、啓之助を睨みつけている。
その眼が、以前から怨みつらみの数をならべて、男にものをいうような時、啓之助の気持も妙に荒んできて、食いちがっている二人の心と心とが、行く所まで、いがみあわなければ止まないのが常であった。
今も、かれはお米の眼色から、深い反抗が自分に燃えてくるのを感じて、
「身を売ってきた女ではない? フーン、だから、どうしろというのだ」と青ざめて、殊さらに冷たくいった。いう下からお米もまた、
「帰して下さいというんです!」と肩に波を打った。
「どこへ?」
「大阪の家へ」
「虫のいいことを――だれが!」
「か、かえして、くれないとおっしゃるんですか」
「知れたこッた」
「よ、ようございます――、あなたがお暇をくれないなら、私は私の勝手に大阪へ行きますから。立慶河岸のお母さんが、危篤だという早打がきているのに、帰らずにはおられませんからね……」
「嘘をいえ、そんな、見え透いた偽りをいっても、この啓之助が手放すものか」
「嘘ではございません、宅助に聞いてごらんなさいまし、たしかに、家から手紙が来ているのですから」
「くどい! 何といおうが、わしが大阪へ行くときには連れても行くが、そち一人でまいることはならぬ」
「そ、そんなことをいわないで……」お米は我を折って、啓之助の膝へ泣きくずれながら、「――すぐに帰ってきますから、どうぞ、二十日ほどお暇を下さいまし、ほんとに、今いったような、知らせが来ているのですから」
「いけないッ」と、それでも啓之助が意地強く突ッ放すと、お米はもう嘘や頼みではきき入れられない口惜しさと捨鉢とで、
「あなたは鬼だ! 悪魔のようなお人です!」
「オオ、おれは鬼だ。お前がわしをそうさせたのじゃ」
「みんなに聞いて貰います、世間の人に何もかも話してやります。お関船の底へ無体に私をほうりこんで、その上にまだ……」
「大きな声をするなッ」
「しますッ。どっちが無理か世間にきいて貰います」
「ばか、ここは剣山の麓だぞ」
「向うの目付屋敷には、竹屋三位様がいらっしゃいます。三位様のお耳へ届くように、私はわざと大きな声でいってやるのです」いきなり立って、窓の障子へ手をかけた女は、もうヒステリックにうわずっていて、放っておいたら、威嚇ばかりでなく、ほんとに、何をしゃべりだすかしれないような血相だったので、啓之助もうろたえ気味に、
「ばか! つまらぬことを口走るな」
と、お米の口を手でふさいで、
「そんなことが御家中へ洩れたら、わしばかりではない、二人の身の破滅ではないか」
「い、いいえ、いいえ!」
啓之助の手へ爪を立てながら、お米は、髪のこわれるのも忘れて、首を振った。
「いってやります――御家中方の耳へ」
「お米! あまり男を見くびるなよ。そちは命が惜しくないのかッ」
「殺すのですか、殺すというのですか」
「ウーム、どこまで口の減らぬ女め、啓之助にも、いよいよとなれば、それ相応な覚悟がある」
「殺してください、死んでも私は」
「ええ、どうして貴様は、そうわしを……」
ねじ仆して重なりあった体が、人目もなく挑みあった。肺臓の弱いお米は、啓之助に胸を押されて、苦しげに目をふさいだが、啓之助は盲になったように、その細い喉首を抱きしめた。お米は、さからいきれない力をふるわせて、ヨヨ……とすすり泣きを洩らすばかりだった。そして、殺すといい、殺してくれと叫んでいた男と女が、気だるい春昼の納屋倉に、蒸れ合うばかりな情炎の餓鬼となって苦悶した。
しばらくしてから……
「ね、今のこと」
お米は、たぼのくずれを、きゃしゃな指で梳きあげながら、男に、うしろを向けていた。
「いいでしょう、ほんとに」
その姿を見るともなしに見やりながら、啓之助は腕枕をかって、グッタリと横に寝ている、酒がさめたような血色をして、
「そんなにも大阪が恋しいか」
「そりゃあ……」
髪へ手を当てたまま、そこらに落ちた鬢止めを目で探して――
「生れた土地ですもの。それに、アアして、不意に来てしまったのですもの」
啓之助も、少し哀れげを催して、「じゃ、きっと半月ぐらいで帰ってこいよ」
「行ってもよろしゅうございますか」
「うむ」
「では、これから帰って、すぐに支度や何かをして」
女が、苦もなく急きだすのを見ると、かれの心はまた、たやすく手離したくないように動きだして、
「だが? ……まあ待て」と重苦しい口を濁して、そして、何かいおうとしたことまで黙ってしまった。お米は、かれの遅疑をみると、「いいとおっしゃったのでしょう、ね、あなた」
あわてて、一生懸命に、啓之助のそばへすりよって、男の体を抱くように、
「じらさないで、後生ですから」
と、機嫌をとると、
「エイ、娼婦みたいな真似をするな」
啓之助は、かえって癇にふれた声をして、お米を突き放して起き上がりざま、ふところからつかみだした船切手の木札を、女の膝へ叩きつけた。
「行ってこい! だが、なんだぞ、もし大阪へ行ったきり戻らぬ時には、きッと命を貰いにまいるぞ、いいか、それだけを忘れるなよ」
「まあ、邪推ぶかい」
「それでなくとも、貴様は剣山の隠密みたいに、隙さえあれば逃げたがっているんだ」
「そんなことがあるもんですか、きっと、一日でも早く、阿波へ帰ってまいります」
「宅助を付けてやる、あれを連れてゆけ」
「エエ、その方が、私も気強うございます」
「で、近いうちには、お関船の便がないから、上方へ荷をだす四国屋のあきない船へのせて貰うがいい。そして、帰りには、月の下旬に阿波へ戻る同じ船で、きっと帰ってこないと承知せぬぞ」
ともすると、啓之助が気を試そうとするふうなので、お米はうれしそうな顔色を隠すことに注意していた。
と。二人のいるこの納屋蔵のまわりへ、急ぎ足にきた人足が止まって、
「森様――。森様はここにおいでではございませんか」戸をこじあけて入ってくる様子だ。
「あ、誰かきました」
「お米」
啓之助はあわててあたりを見廻して、納屋番の藁ぶとんが積んであるうしろへ、女を隠した。そして自分から入口の土間へ姿をみせ、
「啓之助はここにいるが、なんじゃ」
「あ、おいでなさいましたか」
入ってきたのは、剣山の山番たち、ゾロゾロと七、八人、一人が手に一本の矢を持って、漆が干からびたような鏃の血汐を啓之助に見せていった。
「石牢にいる俵一八郎が死んでおります」
「えっ、一八郎が絶命した?」
「はい、何者かに、射殺されたので」
「それを見せい」
引ったくるように取ってみると、まさしく竹屋三位の矢である。この間三位卿は、間者牢のいわれを聞いてその迷信を嘲笑していた。
そして、冗談のように、今でも隠密を殺せば徳島城にたたりがあるかないか、試しに、世阿弥か一八郎かどちらかのひとりを殺してみたら面白いがといっていた。
また責任のない居候どのが、口に年貢のいらぬ戯れ言をいうな、とその時は、啓之助も笑っていたが、これをみると、竹屋三位卿、ほんとに、剣山の迷信へ、槇葉の鏃をうちこんでしまった。
「とにかく一八郎の死骸を片づけ、仔細を徳島城へ申しおくることにいたそう。いつもながら放恣な三位卿、困ったことをしでかしたものだ」
と眉をひそめながら、啓之助は、また鏃の血の痕をみるにつけて、思わず肌を寒くした。
かれの脳裡にも、自分では意識しない迷信のおびえがあった。
「――折も折、渭の津のお城に、何ぞ不吉なことがなければいいが……」こう思う不快さに目をつぶった。啓之助ばかりでなく、変を知らせてきた山番たちも、伝説の禁断を破ったことが、何となくそらおそろしい様子で、必然、この結果がなくてはならぬように信じている。
強請にきた甲比丹の三次を、物蔭から一矢に射た時には、三位卿の殺人好みも悪くは思えなかったが、その放恣な矢を石牢の中へまで放ったのは、いくら大事な食客殿としても、少し殿の優遇に狎れすぎるきらいがある、と啓之助は、目付役という自分の職責の上から腹を立てた。
それを報告したら、さだめし太守も神経を突ッつかれるに相違ない。けれど下手に隠蔽しておいて後日に分るような場合には、自分の落度とならざるを得ないから、一刻も早く徳島城へ帰って、ありのままに上申し、向後あの居候殿の放縦も少し慎しむような方針をとるべく、上にも御意見しなければならぬ――と啓之助は、山番たちの前に息まいて、それぞれの指図を与え、納屋蔵の外へ追いやった。
そして自分は、前の陰湿な部屋へ戻っていった。そこには今し方、お米がとりみだしたすすり泣きや髪の匂いが、愛慾の感情にからみやすく漂っていたが、かれの頭脳は不意の事件で忘れたようになっていた。
「お米、わしもにわかに、御城下へ帰る都合になったから、すぐに支度をせい」
「え、これからすぐに」
「ウム、空も少し曇り模様、明日とのばして雨にでもなると困る。疲れたであろうがすぐに立とう」
「いいえ、まだ歩けないほどではございません」
隠れていた藁ぶとんの蔭から、そういいながら、襟をかきあわせて立ったお米は、徳島へではなく、大阪表へ早く帰れる都合になったうれしさを、思わず顔に出している。
酔いと疲れで、だらしなく寝込んでいた仲間の宅助、にわかに起こされてうろたえながら、またわらじの緒を結びなおして、裏道から四、五丁出てゆくと、啓之助は菅笠に霰の打ッさき羽織で、先に廻って待ちあわせていた。
「もし家中の者に出会ったら、わしの側を離れて、素知らぬ振りをしてゆくがよい。吉野川へ出れば下りの舟、乗ってしまえば別に人目の心配はないわけだが」
匿し女を持っているのも、なかなか細心でなければならぬ。啓之助は歩きながら、たまたまくる里の百姓にも気を配って、お米と道をひとつにして行く。
「徳島へつくと、わしは屋敷へも寮へも寄っている暇がない。さッきお前が聞いていた通りの事情で、すぐに登城して殿へ委細の報告をせねばならぬから――。で、お前は、いずれ寮へ帰った上に、何かの支度もあろうから、その間に、宅助をやって、四国屋の荷船の都合を問い合わせてみい。それから、最前渡した船切手、あれを落さぬようにな、よいか、また大阪へまいっても、御当家のことや要らざることを他言してはならぬぞ。宅助、そちにも何かの注意を頼んでおくぞ」
もう二里ほどは歩いたろうと思われる頃である――三人のゆく後ろから、大地に馬蹄をひびかせて、まっしぐらに駒を飛ばしてきた若者がある。
驚いて、両方へ道を開いたとたんに、土を飛ばして、鞭をくれ、疾風一陣に駈けぬけた馬上の人――パパパパッ――と十数間走り越したところで、急に手綱をしぼり止めたかと思うと、
「オオ、啓之助、啓之助!」
ふりかえって、家来のように呼んだものだ。
「――早くまいれよ、徳島城へ! 女の足をいたわっていると間にあわんぞ! 江戸へ上った天堂一角より、何やら大事な知らせがまいって、また一会議あろうと申すぞ。身にも急いで帰城せよと、阿波殿からのお招きじゃ。早くこい! 早くこい! 天下の風雲急ならんとする秋、女のひとりぐらいは捨てて行ってもよいではないか」
そこで、ピシリッとまた一鞭、悍馬をあおッた竹屋三位は、菜種の花を蹴ちらして、もうもうと皮肉な砂煙を啓之助に残して行った。
気がついてみると、午後も早遅いのではあろうが、にわかに空も地もドンヨリと薄ぐらく、剣山の肩の一部が、まッ黒に見える以外は、いちめんなる雲であった。その雲の裡には、甲賀世阿弥が、今も血汐の筆をとって、秘帖に精をしぼっているだろう。
雲の奥か、地の果てからか、おそろしい響きが人身に感じてきた。
煙草畑の娘たちは、雑草抜きをやめて姿をかくした。やがて、土佐境の空には春雷が鳴っていた。
諏訪の温泉町は、ちょうど井桁に家がならんでいる。どこの宿屋にも公平に内風呂というものはないので、その井の字なりの町のまんなかにある三棟の大湯へ、四方の旅籠のお客様がみな手拭をブラ下げて蝟集していた。
ここは木曾路をへてくる上方の客、信濃路からくる善光寺帰りの旅人、和田峠をこえて江戸の方角から辿りつく旅人などが、一夕の垢を洗うべく温泉をたのしみに必ずわらじを脱ぐので、中仙道の宿駅のうちでも指折りな繁華をみせていた。
夕方の六刻というと、もう三道の客が織るように入ってくる。温泉町の入口は馬や駕や運送の人足で埋まっていた。昼間はさしては白くもみえない湯けむりが、宿屋の軒にまでモクモクと這いだして、硫黄の匂いまでがなんとなく生新しく鼻をうってくる。
赤い前垂をかけた宿引の女が、ぶかっこうな杉下駄をはいて猫じゃらしの帯をふりながら、向う側とこっち側で、互いに腕にヨリをかけるのはその時分で、
「かしわ屋でございます、かしわ屋はこちらでございます」
「桔梗屋は手前どもで、昨年もごひいきになりました」
「ハイ、越後屋でございます」
「お馴染の鍵屋はこちらでございます」
喋々とさえずるばかりでなく、信濃そだちの強力で、笹をひッたくる、振分を預かってしまう、合羽の袖にほころびをこしらえる。文句をいえば、晩にわたしが縫ってあげます――と上手に見る。またそういうのに宿引女の極伝があるそうで、わざとほころびをきらす女ばかり抱えておく別宿もあったりする。
なにしろ、大湯の横にひッついている湯番小屋で、五刻の拍子木を打ち、導引の笛がヒューと澄む頃までは、このかしましさがやまないのである。
「ホイ」
「ここだな」
「会田屋さん、お客様だぜ」
下ノ湯の角にある大きな宿の店先へ、二挺の駕がおろされた。
「ご苦労様」
「駕屋さん、こちらへ掛けて一服お吸い」
「ようお着きなさいました」
「お洗足水を」
「いえ、お荷物はこちらへ」
女中や番頭に取り巻かれて、すすぎ盥の前へ腰かけたのは、商家の内儀らしい年増の女と、地味な縞ものを着た手代風の男であった。
足を拭いていると、帳場格子にいた会田屋の老主人が、ちらと見て、初めて気がついたように筆を耳に挟んで出てきた。
「これはお珍らしいことで、四国屋のお内儀様ではございませんか」
「おや」と、つつましい笑い方に黒豆をならべたようなおはぐろの歯を見せて、
「善七さんでしたか、いつもお達者らしくて、ほんに、けっこうでございます」
「はい、おかげさまで、ありがたいことでござります。したがお内儀様、こんどもやはり善光寺へお詣りのお帰りでいらっしゃいますか」
「ええ、それが実は、小諸のほうの取引先に、ちと藍草の掛けがたまりましたので、信心やら商用やら」
「おお、それじゃたいそうな廻り道で……きょうはあの和田峠をお越えなさりましたな。さぞお疲れなことでございましょう」
「疲れもどこかへ消えてしまいました。その和田峠から、とんだ目にあいましてね」
「ま、そこではなんでございますから、さ、どうぞこっちへ」
「新吉や」と、手代の方へ目交ぜをして――「お前も早くこッちへ体を隠したがよい。そんな所に坐っていると、また外から見えるじゃないか」
「四国屋様」
「はい」
「なにか外で、怖ろしいことにでもお逢いなされましたか」
「エエ、和田峠から、私たちを、つけ廻してくる侍がありましてね」
「へえ、あなた方を? ……」
「お宅へ着いて、ホッとひと安心いたしましたが、まだこのように胸が波を打っておりまする。誰か、お冷水を一杯下さいませんか」
「怖ろしい侍たちでございました。しかもそれが三人づれで、和田峠の下りから、オーイと、私たちを呼びはじめたではございませんか」
四国屋とよばれた商家の内儀は、宿屋の老主人にこう話して、青い眉毛の痕をひそめた。
「ほ、三人づれの侍が?」
「ふりかえってみますと、上から早足に追ってまいります。それは、かなり間がありましたゆえ、わたしどもは怖い一心で、麓へつくとすぐに駕へ乗ってまいりましたが、気味の悪い侍たちは、それから先まで執念ぶかく駈けてきたそうでございます」
「ま、なんという図々しい奴」
「藍草の掛けを取ってまいりましたので、その金に目をつけられたかと存じます」
「そうかも知れませぬ。ですが、もうご安心なさいまし、ここへ来たとて、決して泊めは致しませぬ」
「もしまた、姿でも見つけると、これから先、上方までの道中が、ほんとに思いやられます」
「そういう訳なら、早く、奥の部屋へ隠れておしまいなさいませ。おいよ、四国屋のお内儀様を……そうだな、どこがよかろうか」
主の善七が考えていると、そのまに、四国屋のお久良と手代の新吉は、案内もなしに奥の廊下へバタバタと走りこんでしまった。
妙に思って、なんの気なしに善七が店先を見ると、今、お久良から話をきいていたばかりの三人組の侍。
「ここだろう」
「ここらしい……」と、あたりをジロジロねめ廻しながら、遠慮なく店へ寄ってきた。
ひとりは熊谷笠をかぶり、ひとりは総髪、そのうしろには、底光りのする眼をもった黒頭巾黒着の武士。
これはいうまでもなく、お十夜とほかふたりの者である。和田峠の中腹を下ってきた時、周馬と一角が、先へ遠く急いでゆく男女のうしろ姿をみとめて、あれこそ、お綱と万吉に相違ないとばかり、にわかに意気ごんで、足を早めて追いかけたのだ。
すると、追えば追うほど、いよいよ先の男女が、後もみずに逃げだす様子なので、初めの怪しみは、的確に、それと思いこむようになってしまった。
「駕のついたのはたしかにここだ」と周馬が会田屋の前で明言すると、お十夜と一角がズッと中をさし覗きながら、ゆるせよ、と声をかけて、すぐに埃をハタき笠と振分を投げだしそうにした。
外にいた客引の女が、それと知って、あわてて洗足水だらいをそこへすえると、帳場のわきに立って眼を丸くしていた主の善七、びっくりして店先へ飛んでくるなり、
「ばか!」と、女をどなりつけた。
「もうどの部屋もいッぱいで、御案内する座敷もないのに、なんでお断りしないのだ。気のきかないやつめ、ましてやお武家様方へ、しッ、失礼千万な」
叱られた女は、いったい、何がどうした叱言なのかわからないが、客商売の断るかけひきはままあるので、そのまま、口をつぐんでいる。
「どうも申し訳がございません」
善七は如才なく両手をついて、
「せっかくでございますが、上も下も、折悪しくふさがりまして、御用に足りますような座敷は一つもござりませぬ。まことに申しかねますが、どうぞほか様へひとつお越しのほどを」
三人は黙って顔を見合せたが、こう不自然な断り方をされてみると、一層、ここへ逃げこんだ男女がてッきりそれと思われるし、善七の方にしてみれば、そう疑ってくる三人組の侍が、ますます道中稼ぎの浪人者とみてとれる。
「そうか、座敷がないとあらば、無理に泊ろうとはいわぬが……」
と天堂一角、傷の片腕を胸に曲げ、熊谷笠のうちから亭主の面を睨みつけた。
「今し方のこと、当家へわらじをぬいだ男女がある筈、それをここへ呼びだして貰いたい」
「おまちがいではございませんか……私どもには、いっこうそんなお客様は」
「隠すな! たしかに見届けてまいったのだ」
「いえ、決して、隠しなどを」
「では出せ、その者をこれへ出せ!」
「でも、そういうお客様は、ハイ、今し方ならなおのこと、男女づれのお泊りはございませぬ」と、一角の威嚇を巧みにうけて、どこまでも善七が言いぬけていると、側にみていたお十夜が、ちぇッと、歯がゆそうに癇を起こして、
「やい、亭主、甘くみてたかをくくっていると、気の毒だが、土足で家探しという荒療治になるぞ、いくら茶代をハズまれたかしらねえが、それとこれと、どっちが算盤玉に合うか、よく考えて返辞をしろ」
これはまるでムキ出しな浪人伝法。一角ほど肩肱は張らないが、その代りに、黙って刀が先にものをいいそうだ。
大湯の八間燈や宿屋の軒行燈にちょうど灯の入る刻限なので、退屈な温泉の客と入りこんでくる旅人が、たちまち輪になって、会田屋の前をふさいでしまった。
「見世物ではないぞ、なんでそこらに立つか! あっちへ行け、あっちへ行け」
旅川周馬は、お十夜と背なかあわせに向いて、むらがる弥次馬を追っぱらいながら、顎のにきびをつぶしている。
そのうちに、湯番がきて、会田屋の肩をもったり、喧嘩と思いちがいして、仲裁に入る侍が出たりして、お十夜のかけあいも、ついに、一場の喜劇となってしまった。
土地には土地の約束もあるし、ことに、温泉町のような場所には、犯すべからざる旅客の掟がある。いくら一角の自来也鞘や、周馬の風采にひと癖ありとみえても、めッたにそれを破らすものではない。
なおこれ以上の騒動を起こすと松本の代官所からやっかいな者が出張ってくる懸念もあり、かたがた衆人環視の中なので、ぜひなく三人は、会田屋の前を離れた。
しかし、そこを去ったとはいうものの、もとより素直にこの諏訪の温泉の町を出てしまったわけでは無論ない。七、八歩あるいて、すぐ前の十三屋という家へ入った。そして、会田屋の二階と向い合っている表二階を明けさせて、ここから前の出口を見届けていようということになった。
さらに、それでも不安な点があるので、宿の者に過分な心づけを与えて、あの時刻に、会田屋へ入った男女の客が、裏口からでも立った時には早速知らせてくれと、念入りに手を廻して、さて、やっと、旅装を解いたのである。
周馬もどてらになり、一角もどてらに着かえたが、お十夜は着流しなので、あえてその必要もなく、茶をすすっていると、それを残して、二人はいつのまにか外の温泉につかってきた。
「なかなかいい温泉だ、お十夜も一風呂ザッと浴びてこないか」
「おれは後で行くよ、寝しなに」
膳がくる。蜆汁の椀、鯉のあらい、木の芽田楽、それに酒。
信州路へ入って、鯉の料理にお目にかからない日はないぞ――といいながら、周馬が椀をチュッとすすって、うむ、こいつはいい、諏訪湖の味がするぞという。
このあたりで古い歴史のある俚謡、木曾ぶしの絃歌が、赤く曇った湯気の町にサンザめきだす頃になると、
「どうだ、ひとつよぼうか」
と周馬がぬけめのない提案をもちだすと、「なにを?」と一角が通じない反問をする。
「なにをって、すなわち、唄い女をさ」
返辞をしないで一角は、またのび上がって会田屋の門口を見おろしていた。お十夜は何をおかしく感じたか、周馬の顔をみて苦笑をもらし、それを隠すべく杯をさした。
平凡なる一夜をすごして、翌朝、起きるやいな、見張りを頼んでおいた宿の者をよんで、会田屋の男女が立ったかどうかを問いただすと、まだたしかに落ちついているという返辞。
その宿の男は、きのう、三人が会田屋の店に立った少し前に、駕を出て前の家に入った男女を見届けているということをいっているので、お十夜も一角も、すっかりこの男の見張りを信頼していた。
けれど、この男の見届けた事実に相違はなく、和田峠から追ってきた自分たちの眼が錯覚をおこしているのだとは、今にいたっても気がつかない。
遂にまたそれに惹かれて、一日を暮らしてしまった。そして、一角も周馬も寝しずまった真夜中である。お十夜はただひとり、緒のゆるい宿屋の下駄を突っかけて、屋根へ大きな石が幾つものせてある大湯の浴槽へつかりに出かけた。
どこもかしこも、昼のように明るく燈がつき放しになっているが、疲れたような空気がシーンと沈んでいる。孫兵衛は空を仰いで青い星を見た、どこの二階の障子にも影法師がない。
いつもかれのみは、こういう時刻を好んで湯にひたる習慣である。習慣というよりは努めているのだろう、とかく人に疑惑されている十夜頭巾を解くのに、ひとりの者が側にあってもならない。だが、今頃になれば大湯の中にも誰もおりはしまい。
もうもうと白い湯けむりをあげている板囲いの浴槽は、上ノ湯、中ノ湯と二棟に別れて長屋なりにつづいている。孫兵衛は歩みよった順からまず中ノ湯の戸をぐわらッとあけて、ふと、脱衣場の棚をみると、女の帯と寝衣がおいてあった。
で孫兵衛。それを避けて上ノ湯の方へ歩みだした。板囲いの戸が細目に開いているので、覗いてみると、いッぱいな湯けむりで中はもうとしているが、チョロチョロと温泉が湧きこぼれる音のほか別に人気もないらしいので、スッと土間口へ足を入れ、腰の助広を取って棚へおこうとすると、からりと、鞘にふれて鳴ったものがある。
見ると、尺八、いや、それと同じような一節切の竹と天蓋。――これはまずい、あいにくとここにも誰か湯浴みをしているやつがある――と舌打ちをしてフト向うへ眸をこらすと、湯気にまぎらわしい鼠色の衣を着た一人の虚無僧、掛絡を外し、丸ぐけの帯を解き、これから湯壺へ入ろうとしている。
何思ったか、かれは、いきなりそこを飛び出し、宿の二階へ戻ってくるやいな、寝酒に酔って正体もなく眠っている周馬と一角とを揺すぶり起こして、
「おい、起きろ、すぐに支度をしろ、支度を」
不意に夢を破られて、赤い眼を渋そうにあいた二人は、時ならぬ頃に、お十夜があわただしい態をキョトンとして眺めながら、
「なにを騒いでいるのだ」
と枕に顎を乗せたけれど、容易に立ち上がりそうもない。
「意外なやつに出会ったぞ。まアいいから、とにかく起き上がってくれ」
「起きろというのか」
「ぐずぐずしているまには、またとない機会をのがしてしまうことになる」と孫兵衛は、用捨なく二人の夜具をはねのけた。かくてはいかに横着な周馬でも一角でも、安閑と寝てはいられないので、それと一緒に飛び上がって、
「では、会田屋に泊っているやつが、宿をぬけだして行ったのだろう」と、当然そうあるべきことと、思い当るところをいったが、孫兵衛はそれでもないとかぶりを振って、枕元の水挿を取り、
「とにかく、こいつをグーと飲んで、よく眼をさまして貰いたい。その上で話すとしよう」
「ふム? ……」と一角は、やや怪訝な顔をしたが、すすめられるまでもなく、酔ざめのほしかったところなので、それを取って水挿の口から喉を鳴らして飲み干し、周馬にもすすめると、周馬は事態の容易ならぬさまにやや寒さをもよおしたらしく、いらない、とばかり身を硬くしてお十夜の面をジッと見つめている。
「ところで、何だ、お十夜」
「周馬」
「ウム」
「一角」
「オオ」
「法月弦之丞がツイ鼻の先に来ているぞ」
「えっ……弦之丞が」
この一句は一斗の酔ざめの水をのむより二人の目を冴えさせてしまった。
「――今おれが何の気もなく上ノ湯へ行ったところが、そこに一人の虚無僧がいる。湯気にさえぎられて先ではこっちの姿を見なかったらしいが、おれの眼にはしかと分った、まちがいなく法月弦之丞、ちょうど温泉につかっている頃だから、そこを襲ってやろうと思うがどうだ」
「よしッ。いい所を見つけてきた」
一角が鐺を突いて立つと、旅川周馬、
「だが、待ちたまえ」と、沈着を装って、
「江戸表で探った所から推すと、その弦之丞は、もうとくに、垂井の国分寺に着いて、道者船の出る日を待ちあわせている筈だ。それが、いまだにこの辺にいるというのは腑に落ちないように思うが……」
「腑に落ちても落ちないでも、この孫兵衛が見届けてきた事実をどうする」
「しかし、疑心暗鬼ということもあるから」
「疑心暗鬼?」
「常に弦之丞のことを念頭にえがいているため、その錯覚で、縁なき虚無僧までが、それらしく見える場合もない限りではない」
「ちぇッ、また周馬が小理窟をならべだした。時刻を移して、かれに先手を打たれては大変だ。お十夜! こんにゃく問答をしている場合ではあるまい、すぐに行こう!」
自来也鞘の下緒をしごいて、一角が性急にそこを出たので、孫兵衛もまた、周馬をすてて梯子を下り、周馬もまた、いやおうなくついて、宿の外へ飛び出した。
深夜、人なき浴槽に身をひたして、こんこんと噴きだす温泉のせせらぎに耳心を洗いながら、快い疲れをおぼえていた法月弦之丞は、やがて湯から上がって衣類をつけなおした。
常木鴻山と松平左京之介のほかは、誰も知らぬまに、代々木荘を出立したかれである。日程にすれば、もうとくに美濃路に入っている筈だが、道者船にのりあわせるには、向うでだいぶ待つことになるので、わざと道を迂回して、屋代上田などに旧知の剣友をたずね、さながら的なき旅をするもののように、今日も夜にかけて峠を越え、この温泉町に辿りついたのを幸いに、自然の報謝をうけて、旅の垢を洗っていたのだ。
さて、久しぶりに爽快な気を味わったが、時刻はいたって都合が悪い、もう夜半もすぎてやがて五更になる頃おい、宿をとる間はなし、といってこれから塩尻の高原へかかるのも早過ぎる気がするし? ……。
ままよ、かりそめにせよ、普化僧の法衣を借りてある以上は、樹下石上も否むべきではない。道に任せて歩き、疲れた所を宿として草にも伏そう。と笛袋をさし、天蓋をかぶりかけていると、湯小屋の戸がガタンと動いた。
が、風でも吹き去ったのか、そのまま誰も入ってくる様子はないので、かれは片足立ちになって、わらじの緒を結んでいた。と、またかすかな音が外でする、人の跫音低いささやき……、それは耳に触れる程なものでないにしても、かれの心耳には明らかな空気の動揺を感じられた。
試みに戸へ手をかけて、一、二寸、ズズ……と引いてみると、外からひっそりした夜気がスーと流れこんでくるだけで、格別なこともないが、なにか、一脈の殺気が弦之丞の面を打ってくるように思われる。もっとも、かれには、最前ここをあけた男が、妙にそそくさと戻って行った不審もあったところだが……。
「はてな、これはおかしい」と気づいたので、かれは湯小屋の羽目へ背中を貼りつけたまま、サッと不意に引き開くと、それを待ちかまえていたらしい者が、ふいに躍りこんでくるなり、白刃をふって湯けむりの空を斬った。
さてはと、足をあげて弦之丞、その男の腰とおぼしい所を蹴って放す。
ドボーンと湯槽の中に湯の飛沫が立った。さだめし首から先に突ッ込んだのであろう。ぷッ……と濡れ鼠になって喚いたのは旅川周馬。
「一角ッ、早く助剣を!」
いうまに弦之丞は、戸口から外へ足を踏みだした。とたんである。右に添って隠れていた一角の大刀、左に息をのんでいたお十夜の助広が、かれの姿を待ちかまえていた。
足をすくった孫兵衛の刀は、風を流して湯小屋の柱へズンと食いこみ、一角の烈刀は一節切の竹にはね返されて、柄手にきびしいしびれを感じたばかり。
人を斬らんとする程の力で、柱へ斬りこんだそぼろ助広は、とっさ、たやすくは抜きとれないので、気をいらった孫兵衛は刀をそこに残したまま、ダッ――と追って弦之丞の後ろに組みつき、ここぞという一念を拇指にこめて、相手の喉にくいこませたまま、
「一角、わき腹を突け!」と呶鳴った。けれど、寄り進んできた天堂の前には、そう呶鳴った孫兵衛そのものの体が、もんどり打って躍ってきたので、ふりかぶった大刀を無碍にふって落せば、弦之丞を打つ前に、お十夜を両断にしてしまったかもしれない。
この一瞬に三人は、前後も場所がらも時刻も忘れて、すさまじい声と気合を発したのであろう。たちまち、四方に密集している温泉宿の二階や店先には、何ごとかと驚いたふうな人影が立って、またぞろ静かな温泉の町の平和はおびやかされてしまった。
木曾福島の関所の高地から目の下の宿を見おろすと、屋根へ石をのせた家ばかりが櫛比していて、ちょうど豆板という菓子でも干してあるような奇観。
その関所の西口から急落している石段を、今、ひとりの儒者ふうの男、肩から紐で合財袋と小瓢をさげ、その小瓢のごとく飄々乎として降りてくる。
宿へ入ると、瓢先生、左右に軒をつらねている名物屋を、しきりに右顧し左眄して、干し岩魚の味をたずね、骨接薬の匂いをかぎ、檜細工や干瓢屋の軒さきにまで立ったが、ベツになんにも買いはしない。
あまつさえお六櫛を造る店の前では、がらにもなく挿櫛や鬢櫛を手にとって、仔細にその細工のあとを眺め、ふところから日誌をだして二、三種の形を写した上、値だんも聞かずに、またその先へぶらぶら歩いて行ってしまう。
すこし変っている男だ。
いたって悠長な旅には違いない。後からくる旅人がいくら先へ追い越して行こうと、駕屋が声をかけようと、一向気にとめる風もないが、何かに見とれている場合、不意に馬の長い顔が肩へ食いつきそうにでもなる時は、さすがに少し驚いて蛙のように横へ飛ぶ。
すると、この宿の出はずれには、あだかも、この変り者を待ち設けていたように風変りな店が控えていた。
木曾街道で有名な、ももんじ店である。隣から隣へつづいて半丁ばかりの両側は、みな、大熊、熊の胆、貂の皮、などという看板をかけた店ばかり。狐、猪、小熊の生けるを檻に飼って往来の目をひく店もあり、美々しい奇鳥の啼き声に人足を呼ぼうとする家もある。そして、獣皮、獣蝋、膏薬、角細工、馬具革、袋ものなど、あらゆる獣産物を売っている。
瓢先生は、果たしてこの奇なる景観にうたれたとみえて、やがて百獣店の一軒へ、ずッと寄って行ったかと思うと、その店先へ腰をおろした。
「いらっしゃいまし、熊の胆をさしあげますか」
亭主が早くも貝殻の詰まった箱を持ちかけると、かれは侮辱されたように、その熊の胆を舐めたと同じ顔をして、
「そんな物はいらん。わしは医者だからな」
と、店の中を見廻した。
「ああ、なるほど」
亭主は自分の魯鈍に感心した。
細くつめて結んだ髷なり風采なりが、医者といわれればどう眺めても医者である。
「黒貂のがあるかい」
「? ……て何でございましょうか」
「てのひらだよ、黒い貂の」
「ああ、なるほど」とまたうなずいたが、
「どうもおあいにく様で。それにいくら木曾の山中でも黒毛の貂などはめったに捕れません」
「じゃ、こんど出た時に送って貰おう」
「おうけあいはできませんが、お所だけ伺っておいてみましょう」
「ム、わしは、大阪の九条村、平賀源内というものだよ」
「あ、平賀先生で、お名まえは伺っておりました。どちらへお越しでございますか」
「御岳へ薬草採りにまいったが、どうも、ほしいものがあまりなくてな……。だがまた、意外な儲け物もいたしたよ。これ」と合財袋の口をのぞかせて、採集してきた草根木皮を一掴みつかんで見せていたが、その時、ふと店先を過ぎてゆく旅人の姿に目を追って、
「ではまた、なんぞ要る品があった時には、手紙を出して注文するから、よろしく頼むよ」
あわてて百獣店を出た源内は、七、八間ほど走りだすと、先へゆく二人づれの後ろへ、
「おい、万吉。そこへゆくのは、天満の万吉ではないか」と呼んで煽ぐように手をふった。
声に気がついて、足を止めた先の者は、中仙道の順路を辿ってこの木曾街道のなかばにある目明しの万吉とお綱であった。
通りすがった姿を見かけて、百獣店から追ってきた源内は、とんだよい道づれを見つけた気で、緩々たる歩調とのどかなあるきばなしに、木曾風俗の漫評や、御岳山の裏谷で採った薬草の効能や、そうかと思うと、近頃、大阪に見えない鴻山はどうしたろうとか、俵一八郎の伝書鳩はどうだとか、木曾のお六櫛に朱漆をかけてミネに銀の金具をかぶせ、こいつをひとつ源内櫛と銘をうって花柳界に流行らせてみたら面白かろうとか、それからそれへ、とめどもなくしゃべりつづける。
おかげでお綱と万吉は、数里の道のりをいつのまにか歩いたが、御岳の薬草やお六櫛のことなどは、二人の旅に他山の石ほどの値打もない。だが、どうせ歩く道はひとつなので、その晩は須原の駅に泊りをとって、同じ部屋にくつろぐと、晩酌の話にまた源内流の旅行要心談がでる。
まず駅舎へついたら、土地の東西南北、宿の雪隠や裏表を第一に睨んでおくこと。刀脇差はこじりを背中で挟むくらいに床の下へさしこんで寝ること。隣座敷でする碁将棋の音や浄瑠璃などには決して口をつりこまれぬこと。またこういう物を持って歩くと便利だよと、智慧の環のような金具を出して五ツの鈎に解き放し、それを長押へ一つずつ懸けて、笠、衣類、合財袋、煙草入れ、旅の身上をのこらずこれに吊ってみせる。
駕に酔ったのは船暈より気もちが悪い。酔い癖のある者は駕の戸をあけて乗るがいい。ムカムカ頭痛がしてきた時には、熱湯に生姜の絞り汁を入れて呑む。ことに女は鳩尾をシッカリと締めて乗ることだ、とこれはお綱のほうへ向いていった。
船もなかなか難儀なものだ。ひどく酔う者は血まで吐く。硫黄か懐中付木をふところにして乗ると船に酔わないというが、ひどく船酔いした時には、半夏陳皮茯苓の三味を合せて呑ませるさ、だが、そんな物のない場合が多いから、しかる時には、童子の便をのますとたちまち効果がある。きたないというなかれ、[#「なかれ、」は底本では「なかれ、、」]血を吐くよりはましではないか、もし童子便なき時は、大人の尿を呑ますべし――と鹿つめらしく講義をしたが、これは、阿波へ行こうという考えの万吉とお綱に、参考とまではならなくとも、ちょっと耳をひかれた話。
なお、田螺を妙りつけて旅先で用うれば水あたりのうれいがない。笠の下へ桃の葉をしいてかぶれば日射病にかからない。足の土踏まずが熱して腫れ痛む時にはみみずを泥のまま摺りつぶして塗ること秘方の一つ。苦参という草を床の下へ敷いて寝るか、枳の葉を抱いて寝ると蚤よけになるということにまで源内談義が及びかけた時――不意に、今までヒッソリしていた隣り座敷で、
「だ、だッてお前、どの顔さげて、阿波へ帰れるものじゃない……」
声をたかぶらせていう者がある。
シク、シクと嗚咽する様子が女であった、連れとみえて慰めている。若い男で、その婦人の召使であるらしい。
「ま、お内儀様、そう取りつめて、お考えなさるからいけません。阿波へお帰りなさらぬの、死んでしまうなどと、そんなにまで……」
「お前は奉公人だから、そうまでは思うまいが、私にしてみれば、面目なくて、このまま旦那様へは顔が合されません」
「いえ、私もお内儀様についてきながら、こういう大事をひき起こしたのですから、その罪は同じでござります。けれど、お金のことですから、死んでお詫びをしたところで、それが戻るという訳じゃなし」
「でもお前、こんどの掛けは少ないけれど、藍年貢の足しにするお金で、私の戻りを待っている場合じゃないか、それをお前……それをあんな者にゆすり盗られて」
阿波――という言葉がでたのでお綱はそのほうへ耳を澄ました。万吉もどうやら事情があるらしいことと、思わず膝を起こしかける。
けれど源内は、さっきも説いた旅行要心の心得通りに、それを抑え自分の声をひそめてしまった。
あらかた察しがついたので、源内と万吉は相談の上、境の襖をあけて隣り座敷へ入って行った。
途方にくれた様子で、そこにいた内儀と手代風の男は、先頃、和田峠でも人違いをされて、諏訪の会田屋へ逃げこんだ四国屋のお久良と手代の新吉であった。
事情をきいてみるとこの二人は、あの時の難儀をどうにか遁れたと思うと、こんどは正真正銘のゴマの蠅に目ぼしをつけられて、四日四晩もつきまとわれたあげく、とうとうこの宿の一ツ手前にある人なき峠で、腰帯にくるんだままの掛けの大金をゴマの蠅に強奪されてしまった。それもただの金ならいいが、藍と煙草の年貢金として、蜂須賀様へ納めなければならない急場に持って帰る途中なので、国元で、首を長くして待っている主人へ、どうにも顔向けがならないので……と、思わず取り乱した理由を話したり、合宿の方の旅情まで不愉快にしてすまぬという詫びをのべる。
これが癪の病とか霍乱とかいう話なら、源内にも応急策はいろいろあるが、少なからぬ大金ではあるし、相手がよほど腕のすごいゴマの蠅ときいては、どうも匙加減の及ぶ所ではない。これはよろしく職掌がらの目明しの万吉がいい相談相手であろうと、自分は精神的に慰めだけをいうに止めて、先へ臥床へ入ってしまった。
翌朝は源内、かねて名古屋へ廻る予定なので、一同に別れをつげ、先へ宿を立って行ったが、四国屋の者と万吉とお綱とは、午近くまで宿に残ってそこの二階から前の街道を見張っていた。
するとやがて、皿のような眼をして、通る旅人を見ていた手代の新吉が、
「あいつだ、もし、あいつです、あいつです」と、障子の蔭から指さして万吉とお綱に教えた。
「あ、じゃ向う側に添ってゆく、あの青髯のこい大男ですね」
「そうです、赤銅作りの脇差をさしている。あ、こっちを睨みやがった、気がついているのかしら?」
「じゃ、万吉さん、すぐ戻ってくるから、支度をして、宿屋の門まで出ていておくれ」と、どういう相談ができているのか、お綱はひとりで梯子を下りて行ったかと思うと、もう門を出て、ゴマの蠅の後になり先になりして、五、六町ほど歩いて行った。
残ったほうの万吉は、宿の勘定や旅支度など、すっかりすまして駕を頼んだ。けれど自分は乗らずにお久良と新吉だけをその中へ隠して、しばらく帳場で四方山の話をしている。
と――そこで煙草を五、六服吸ったかと思うと、お綱が、すこし微笑しながら帰ってきた。そして、結び丸めた腰帯を、
「この品でしょう?」
お久良の駕の中へ落してやった。ザクリという金の音がした。あっ――とびっくりして、うれしまぎれに駕から飛びだそうとするのを、万吉が抑えるようにして、
「さ、急いで、今のうちに道をはかどっておしまいなせえ。なに、礼なんかにゃ及ばねえ、御縁があったらまた会いましょう」
無理に別れて二人の駕を先に立たせ、お綱と自分とは後からブラブラ歩きだした。
そして中川原の立場までくると、さっきのゴマの蠅が、道しるべの石へ自分の笠をかぶせ、あたりの草の上へ荷物や帯を解きちらして、何か紛失物でもしたように、蚤取り眼でバタバタと着物をはたいては考えている姿が見かけられた。
万吉は思わずプッと吹き出して、口を抑えて横向きに通りすぎた。お綱も横目で見たことは見て行ったが、なんの表情も現わさなかった。人を助けるためにしても、よしまたそれがどういう理由でも、掏られた者のうろたえざまをみるのは、かれの懺悔心が人知れぬ痛みを感じる。
美濃へ入って垂井の国分寺へもやがて近くなった。日いち日とはかどる旅の春も深くなってゆく。
国分寺につけば、そこで法月弦之丞に会えようと思うことを張合いにして、お綱と万吉は、その日、夕照をみながら少し無理な道のりをかけ、もちの木坂の登りにかかった。
「男でさえも足の筋が針金のように突っ張ってきたくらいだから、お綱さん、お前はさぞくたびれたことだろう」
坂の中途に立ち止まって、汗ばむ胸へ手拭を入れた。そこからはるかに見渡すと、漠とした雲の海に加賀の白山が群巒をぬいて望まれる。
「いいえ、阿波へ越えて剣山まで行き着こうというのですもの、これくらいな所でくたびれてしまってどうなるものじゃありませんよ」
「そうよな、まだほんとうの難所はこれから先だ、血の池があるか針の山が待っているか、どっちにしても命がけの……」そういいながら、まだどれほどの登りだろうかと、もちの木坂の勾配を見上げると、その中途に、名古屋へ出る裏街道の辻があって、目印の七本松がそびえている。
深山笹に夕風がそよいで、ひと足ごとに落日の紅耀がうすれてゆく。ぶらぶら上ってその辻まできてみると、椿と藪に埋まって西行法師の歌碑があり、それと並んで低い竹垣根を結い廻した高札場がある。みると、宿役の布告や、何者かの人相書や、雑多なものがベタベタと貼りつけてあるが、目につくのはその側に、別に立っている生新しい一本の立札。
なにげなく立ち寄った万吉、読み下してみてサッと色を変えた。それは二人がこれから指して行こうとする垂井の国分寺から出た寺触で、春の道者船停止の沙汰が公示してある。
例年当寺ニテ執行ノ阿波丈六寺代印可ノ儀併ビニ遍路人便乗ノ扱イ等俄ニ阿州家ヨリ御差止メ有之候ヲ以テ中止イタシ候尚秋船ノ遍路ハ其折再告申スベキ事。
「あ! ……こ、こりゃいけねえ」
高札の真偽を疑い、おのれの眼を疑うように、万吉はくり返しくり返しそれを読みつづけたが、
「ウーム、こういう沙汰が阿波から出たとすると、いつのまにか蜂須賀家では、もう用意を固めているものとみえる」
「じゃ、この春は、遍路の者の船まで止めてしまったのかしら」
「そういうふうに書いてあるが」
「とすると……弦之丞様は?」
「さあ、どうしたか、この模様変りとすれば、国分寺に足をとめている筈はありますまい」
嘆息といっしょに腕を組んで触札を睨みつけていたが、もう意地もなく気をくじいてしまったように、
「まずかった!」と臍をかんで悔むのだった。
「俺としたことが、思えばとんだ手ぬかりをやっていた。阿波へ入る目標にばかり気をとられていて、こっちの内幕を探られていることを、少しも頭においていなかったのが大失策――、こりゃあ天堂一角が、江戸から本国へいちいち早打をうって知らしていたので、こっちの先手を越して道者船を取止めたのに違えねえ。ウウム。これじゃまた阿波へ足ぶみをする道順が、百倍も千倍も大困難になってきたわえ」
腸をしぼるような万吉の呻きをきいて、お綱も落胆のあまりそこへ坐ってしまいたくなった。進んでいいか退いていいか、その利害を思慮してみる勇気さえない。
垂井まで行けば、弦之丞にも会えるだろうし、国分寺の印可をうけて、目的地への渡海もたやすくできるものと、互に励ましあってきただけに、二人は希望の目前を絶壁に塞がれて、茫とした当惑に立ちつくしてしまった。
すると、坂の中腹、少し平地になった草原と空茶店から、ひとりの武士、いたちのように顔を出した。
こなたの高札場に立っている、お綱と万吉のうしろ姿を眺めて、首を引っこめたかと思うと、こんどはその中から四、五人の侍が飛びだして、青い夕闇をすかしているような眼ざし。
指さしながら、何かひそひそとささやきあっていたかと思うと、やがて中のひとりが、二本の指を唇へ当てた。
と――不意に静かに、夕風をうごかして、笹鳴りの音か、水の響きかとばかり、あたりへ鳴ってひろがったのは呼子の笛――。
赤い芽をもった樫の林に、ありやなしやの宵月がほのかだ。
あやしげな呼子の音に、万吉はぎょッとしてお綱に目くばせした。そして高札の前を離れるやいな、のめるようにもちの木坂を駈け上がった。
とたんに崖の両側からバラバラと飛び下りて来た野袴の武士、前をふさいで十人あまり、いずれも厳重な草鞋がけ、柄頭をそろえて、
「待てッ」
坂の上から押しかかって、二人を前の場所まで突き戻してきた。
とみれば、中腹の平地にも、三々伍々の人影が草や石に腰を下ろして、その光景を眺めている。都会の武士らしからぬ言語風俗、まぎれもなくこの者たちは、阿波の国から急行してきたか、あるいは命をうけて安治川の阿州屋敷から出張ったものか、いずれにせよ蜂須賀の原士なるには相違ない。
「おい! こっちへ――」
ヌッと立ってさしまねいたのは、最前呼子を吹いた原士、坂の上から押し戻してきた者たちへこういって、一同草原のまん中に待ちかまえていると、お綱は利腕を取られ、万吉は万吉でその襟がみをつかまれたまま、否応なくそこへ取り囲まれてきた。
「貴様だろう! 江戸表から阿波へまぎれ込もうとしてきた目明しの万吉はッ。ウヌ、そこにいるのこそ見返りお綱という女に違いない。望みにまかせて剣山へ連れて行ってやる、わざわざ迎えにきてやったのだ、神妙にしろよ」
こういい渡すと左右にいた原士が、バラリッと二人の前へ縄を解いた。万吉は飛びすさってお綱の身をかばったが、わざとおののく様子をみせて、
「な、何をなさいますんで――ちっともわけが分りません、私どもは商用がてら御岳詣りをしてきた帰りの者で、お言葉のような者ではございません。お人違いじゃございませぬか」
「その白をきる面が、なんで今向うの高札の前にあんな様子をして立ちすくんでいたか。貴様たちをはじめ法月弦之丞が、この木曾街道へかかることを承知して、罠を掛けて待っていたのだ。その逃げ口上は通用せぬ」
「どうおっしゃいましても、そんな者でないことにはしかたがございません、へい、私は今も申し上げた通りの旅商人、これは妹の……」あくまでも言いのがれてみようと必死の弁をふるっていると、向うの空茶店の蔭から、頭から褄先まで真っ黒に着流したひとりの浪人者、ふところ手をしてそれへ出てきながら、
「よせよ、万吉」
と、せせら笑いをうかべて側に立った。
ひょいと見ると、青白い夕月をうけて頭巾の顔――意外やお十夜孫兵衛だ。
「あっ」
と万吉、もう言いのがれの及ばぬはめ、手を振りきって立とうとすると、原士の者と一緒にうしろに立っていた旅川周馬が、
「どこへ行く」
たぶさをつかんで後ろへ仆した。
それを眺めながら、孫兵衛、手も出さずに苦笑いをかすめさせて、
「よせよ、万吉、そのジタバタが野暮というものだ。てめえも天満の万吉とかいって、二十五万石の大国へ十手を振りあげた男じゃねえか。その上望みどおりに剣山で、生涯終らしてやるという迎えの御人数へ、手対いをしては罰があたるぞ」――孫兵衛の言葉が続いているうちであった。もちの木坂の裏道から、樹葉を分けて駈け登ってきた編笠の男。
息がきれたか、途中の岩石に立ち、ホッと麓のほうへ眼をつけていたが、やがてまた、栗鼠のごとき素早さで、岩や根笹をつかみながら、一同のいる平地の一端へその姿を躍り立たせた。
何か? ――という気色で、皆の眼がハッとそれへ惹きよせられていると、編笠の男はさらにそこでも下のほうへ向って、耳へ手を当てていたが、
「方々、静かにしろ!」と手を振った。
そして一足跳びに疾走してきながら、編笠をそこへ叩きつけ、意気軒昂な眉をあげて、
「来たぞ! いよいよここへ」
と、語尾を強めて言ったのは、すなわち天堂一角だ。
来たとは何者?
かねて期していることではあるらしいが、黒々とむらがり寄っていた人数が、思わず息を内へひそめた瞬間に、ちょうどもちの木坂の下あたりから喨々と夜を澄ましてくる一節切の音のあることが分った。
「ム! とうとうきたな」
麓のほうをのぞみながら、お十夜と一角が、口のうちで強くうなずくと、気早に、下緒を解いて、袖を引っからげた原士の面々も、
「オオ、あの一節切か」
と、険しい目合図を投げ交わしながら、あたりの空気に氷を張らすばかり、シーンとした緊張味をみなぎらせた。
その間にも、次第に近づいてくる竹の音は、一味冷徹な鬼気を流してきて、そこに、鍔ぶるいをひそめる者、柄糸へ唇をつける者などの血汐をいよいよ惣毛立たせ、いよいよ猛くジリジリと沸き騒がせる。
周馬に襟がみをつかまれた上に、二人の原士に両腕をねじ上げられていた万吉は、もう今がすべての最期かと思った。天堂一角と本国との間に、かくも巧妙な連絡がついていては所詮、剣山はおろか、徳島の城下はおろか、鳴門潟の磯を見ることさえ不可能なわけ。
もとより、こうと知っていたなら、やすやすと原士どもの囲みに陥ちるのではなかった――とこみあげる無念に体をふるわせたものの、それもいわゆる噬臍の悔いなるもので、かれはたちまち、お綱も自分と同じような縄目にかかるのを見ながら、数人の原士に蹴仆され、周馬だかお十夜だかに後ろ手に締めあげられたまま、向うの松の大木へ引きずり寄せられ胴縛りにくくり付けられてしまった。
「それ、ぐずぐずしている間には!」と一方が急き立つと、
「向う側へも七、八人廻れ」
「よしッ!」といって珍らしく旅川周馬が疾駆するのを、天堂一角が、それへ続く原士たちへ、
「静かに――」と注意して、さらにお十夜の姿をふりかえった。
「孫兵衛、ぜひとも今夜はぬかってくれるな」
「ウム、大丈夫だろう?」と気をもたせて――
「これだけの助太刀に、俺たち三人が足場を撰って待ちかまえているんだ。諏訪じゃあこっちで斬りかけるとたんに、宿屋の奴や湯番の者が拍子木なんぞ叩き廻って、弥次馬を呼んでしまったから取り逃がしてしまったが、人の絶えたもちの木坂、新手をかえてこれだけの者が一太刀ずつかすッても、たいがい息のねは止まってしまうだろうと思う」
「ただ髀肉の嘆にたえないのは、この場合にきて拙者の左腕だ」
「まだ思うように伸びないかな?」
「繃帯は取ったが、柄を自由に扱うことはむずかしい。戸田流の一本使いというような型はとるが、いざとなるとどこか気力の入らぬものでな」
「ま、おれが先手に斬って仆すから、しばらく形勢を眺めていてくれ」
と、孫兵衛にも、今夜は十二分な確信があるもののごとく、他の者とはやや離れて、七本松のうしろへジッと体をかがませていた。
一瞬のまに、そこは墓場ともない寂寞の地域に帰っていた。三々伍々に躍っていたあれだけの人数も、ひとり残らず姿を消してしまい、ガサと隠れ場所をそよがす者もない。そして、薄曇りした宵月の明りで、向うの草原にもがいているお綱と万吉だけが、視界の中に動いているものの影である。
その時、気がついてみると、いつのまにか、麓のほうからくる一節切の音が途切れていた。と思うと――こんどは不意に、前よりは数倍近い所に、呂々とした音が起こって、もうその人はやがて坂の中段を横に切って行く渓流の丸木橋までかかってきたかと思われる。
「あ! ……あれは山千禽! 山千禽……の曲」
松の根方にもがいていたお綱は、転々としながらこう叫んだ。叫んだけれど声は出ない。さいぜんお十夜のために、扱帯を解かれて猿ぐつわをかけられていた。
「ちイッ……」無駄と知りながら、お綱はもがかずにはいられなかった。叫ばずにはいられなかった。
「弦之丞様ア!」
必死に喉をからしているつもりでも、天地は森として笛の音以外の何ものも伝えない。ただ、お綱の体が根笹の中にひとりでのた打つばかりである。
冷々と樹海の空をめぐっている山嵐の声と一節切の諧音は、はからずも神往な調和を作って、ほとんど、自然心と人霊とを、ピッタリ結びつけてしまったかのごとく澄みきっていた。
木々に精があるなら、花に化身があるなら、あなおもしろの交響よ! とこの宵月に舞踊するであろう。
々としてやまず、呂々として尽きるところを知らぬ一節切の吹き人も、今は現であるだろうか。吹いては一歩、流しては一歩、夜旅の興趣と、おのれの芸味に酔いつつ来るのだろうか。
いや、一片の風流子の心事と、法月弦之丞の心に波うつものとは、大なる隔てがある筈だ。したがって、同じ竹枝の奏びにしても、その訴えるところは、巷や僧院の普化たちとは必然なちがいをもつ。
かれはおそらく、この木曾の夜の道を踏んで、あの禅定寺峠の頂に、骨を埋めている唐草銀五郎のおもかげを、目にうかべずにはいられまい。
血みどろな合掌と、銀五郎が最期の声を新たに思いうかべる時――またかかる夜かれの菩提心は、知らず知らずにも一節切の一曲をその霊に手むけさせる。
なおその呂韻に異常な熱を加えてくると、かれの胸底にひそんでいる剣侠的な情感は、笛の孔を破るばかりな覇気をおびてほとばしる。それは悲壮な行進の譜であり、かれの余裕と鬱勃の勇を示すものだ、易水をわたる侠士の歌だ。
そうした山千禽の曲の叫びは、かれの目指す鳴門の海にもひびき剣山の世阿弥が夢にも通うであろう。
その、法月弦之丞の姿は、今、もちの木坂三ツ目の曲り勾配、空谷の桟橋を渡っていた。
竹の歌口へ唇をあてながら、うつむきかげんに歩んでくる、その肩のあたり、裾のあたり、チラチラ影絵の雪のようにかすめて消えるものは、上の梢をこして映る、淡い月影の斑であった。
山をめぐると坂の中腹。
月かげもない両側の崖に、道はやや急な爪先のぼりとなる。
バサリと、時々ころげてくるものは、落椿の音だった。――弦之丞はこの辺から、一節切を笛袋におさめて、ややしばらくの闇を辿る。
と、山犬のように、四、五人――七、八人ずつ――這いつくばった黒い影が……。
西行塚の平地へきて、ホッと一息入れながら、弦之丞の天蓋がクルリと後ろへ振り向いた途端に、その影は両端の草むらや岩の根に、サッと野分に吹かれた草のようになびいてしまう。
一刻ばかり前に、お綱と万吉とが立った国分寺の触札は、悪魔の囮のように弦之丞の目を招いていた。そして彼もなにげなくその柵の側へ足を吸いよせられて行った。
「…………」
笠の裡から黙読している弦之丞には、さしたる驚動も見えなかった。むしろ、当然こうあるべきこととうなずいてもいる風。
路傍の一草のごとく、それを見て去らんとすると、その刹那だ! 七本松の黒々とわだかまった闇の蔭にシーッと息をこらしているかのような氷刃の鋭気。
踵をかえして七、八歩、うしろを見るといつのまにか、そこにも狼群のような原士が、兇刃を植えならべて、じわじわと、静から動へ移らんとする空気をみなぎらしている。
左右の草むらにも閃々たる伏刃。
坂の上、坂の下、四方は全き剣の垣だ。法月弦之丞は、もう一歩でもゆるがせにそこを動くことはできない。
すると。
どう考えたか弦之丞、足もとの岩の上へ、ゆたりと腰を下ろしてしまった。
同時に、天蓋をぬぎ掛絡をはずし、そして、一本一本の指を握って折り曲げた。
あたかも盲が勘をめぐらすように――。
こういう危地に陥ちた場合、かれは必ず数度の息を静かに吸ってかかる。
いかなる兇暴な殺刃でも、冷々として騒がずに、その呼吸の支度をしている間には、容易に、斬ってかかり得ないものだ。
かれに、狐疑と逡巡をいだかせ、その間に、われは心耳心眼を研いで、悔いなき剣の行きどころを決する。
いわゆる、胆まず敵をのむのである。
見えざる敵を見、聞こえざる音を聞き、光なき闇をも瞬間に察しなければならぬ。その思慮なく、おのれの勇を過信して、一人の剣を交わし左右の敵を電瞬に切って捨てたくらいでは、その寸隙に八面の殺刀が、たちどころに一人の相手を蜂の巣と刺激するに足るであろう。
弦之丞が師事し、味得しているところの、戸ヶ崎夕雲の夕雲流なる剣法が、神陰とひとしく、そもそも白虎和尚の禅機から発足していて、剣気と禅妙の味通、生死同風の悟徹の底から生まれているだけに、あざやかなる剣を舞わす派手技よりは、まずもって剣前に、半眼の心をいたすこと夕雲工夫の奥伝とする。
で――今。
もちの木坂に足場をかためて、待ちもうけていた敵の重囲の中核に陥ちつつ、法月弦之丞がことさらに悠々と腰をかけたのもその心。笠掛絡を地に捨てて、指の節を一本ずつ、ポキリ、ポキリと、もむようにして、四方を睥睨しているのも、まさに、その気構えをととのえているものと思われる。
しかし。
それもほんの一瞬である。
そよそよと吹く風が、およそ、二、三度鬢づらを撫でたほどな秒間――。
もの蔭や草むらに、また地に匍匐している敵の数も残らず読めた――かるが故に、その陣外にあって、飛び道具を離す二の手はあるまい。四方に散立する大樹の梢にも、それらしい奴のよじ登っている様子もないことが分った。
うむ! ではまず敵は周囲にある二十四、五人だな。――阿波の原士――それに入りまじってあるものは天堂一角、お十夜孫兵衛、旅川周馬。
こう、弦之丞は、心のうちでうなずいた。
諏訪の大湯で、かれらが自分を擁撃した後から、弦之丞はすでに前後の経過を察していた。今、道者船とり止めの高札を見ても、それが故に、さまで驚きもせず落胆もしなかった。また、信濃境から、後なる三人が先へ駈けぬけて行ったことにも気がついていたので、今宵の伏刃も、あらかた、かくあるべく予期していたところ。
さらば来い!
修法のものに不退転という言葉がある。
つるぎ山へ行き着こうとする目的は、ちょうど彼岸へ達そうとするその信仰と一つだ。ここまで足を踏みだして来ながら、わずか一基の高札文や、三、四十本の錆刀に行き当ったからとて、やわか、一歩でも足を後へ戻してよいものか。
山も阻めてみよ、海も防いでみよ、阿波の関も固めてみよ。
必ず、法月弦之丞は、つるぎ山の間者牢へまで、この足を踏みかけずにはおかぬ。
おお、それを堰かんとすればするほど、不退転の信を強め、自己の一念の度を加えていってみせる!
と――青年弦之丞が全身の熱血は、ここに、火ともならんほど燃えあがって、手はおのずから腰刀の柄へかかり、胆、気、力の充ちみなぎった五体は、徐々に岩を離れてヌーと伸びあがった。
さながら、岩角に雄躯をのばした牡獅子の姿――壮であり美であった。
そして不意に大声の一喝。
「どうしたのだッ! 卑怯な奴めら」
打って響かせた気魄の鋭さ。
これが、白皙痩身の美丈夫、あの弦之丞の声音かと疑われる。
シーッと静まり返っている八方の閃刃。機を逸したか、胆をのまれてしまったか、それに応じる気合いもないうちに、またかれは凛々たる語気を張って、
「――阿波の原士とは問わでも読めた。汝らの待ち伏せていた法月弦之丞はここにおるぞ。何をしびれをきらしているのか! さッ、かかって来いッ! 斬りつけて来い! さまたげのないもちの木坂はのぞむ所の足場であった。どれほど腕の精魂がつづくものか、夕雲流の八天斬り、九地に死骸の山を積ンでくれる!」
爛とした眼の向くところ、タジタジと退身に動く相手の気配が、敵ながらもどかしそうであった。――と弦之丞は一方の物かげへ向かって、
「――旅川周馬はいないか! お十夜孫兵衛はその中におらぬのか! 天堂一角はいかが致した。いつもこそこそと拙者をつけ狙うておるくせに、なぜ今ここへ真っ向に躍り立って、いさぎよく弦之丞へ名乗りかけぬか。――ウウム! 返辞がないな! では逆礼ながら待ち伏せられたこのほうから初太刀がまいるぞッ――」
「生意気なッ」
と、初めて、怒声を叩き返したのは、剽悍なる原士のひとり、無謀! 血気な太刀に風をくらわせて、閃光とともに弦之丞の身辺へ躍りかかって行った。
待つや久し――
柄に満を持していた弦之丞の片肘、ピクリッと脈を打ったかのごとく動いて、真っ向に躍ってきた影をすくうかとみれば、バッ――と鞘を脱した離弦の太刀!
それはひそやかに、後ろに廻っていたものの腰車を払って、遺憾なきまでに斬って抜け、左へ返すやいな、八相の落し。
剣風一陣、もう三名が血まつりの犠牲となった。
「わアーっ」
という鬨の声、期せずして、山をゆるがし、皓々たる刀林をどよませてきたのは、その途端だ。
血をみて発作的にふるいあがった声――獣性も人もけじめなきかを思わする兇暴なる挑戦の猛吼。
「それッ」
「相手はひとりだ!」
「鬼神ではあるまい! ひるむなッ」
二十余名の原士の姿、ここに黒々と明らさまなる影を描き、かつ躍り、坂の下段、坂の上方から、弦之丞ひとりを挟んでミリミリと鋭刃を詰めあった。
すでに、返り血の斑点を身に浴び、剣それ以外に何ものもない、無想境の神に入った弦之丞は、仆れ重なった三個の死体に片足を踏まえて、
「オッ。いざ来い!」
と無銘の皓刀、ふたたび、八相の天に振りかぶって、双眸らんらん、四面に構えた。
「むむッ」
「おおッ」
と取りかこむ数多の人数――ズ、ズ、ズ、ズ――と弦之丞の周りを巡って動いていたかと思うと、坂の上手の者六、七人、足場のいい地勢から、かこみをくずして乱剣の太刀風荒く、いちどにドッと斬りつける!
「押しきれ!」
「退くなッ」
と坂の下手へ廻った者も、機を狙って切ッ尖をそろえ、颯、颯、颯然! 真っ黒になってなだれかかる――
剣の光は閃々と乱れて見えたが、その時、ここ、もちの木坂の一地点――ほとんど、人と人と人と人とのかたまりが、一個の野晒をあばき合う狼群のごとく眺められて、さしも、法月弦之丞、どうなってしまったか、その群影に揉みこまれて、しばらくの間というもの、かれの姿を識別しようもない。
が、それも一刻。
ワッとどよみ立ったかと思うと、すべての影がボヤッと隠れた――四、五人斃れた血煙の霧だろう――と見れば刹那に弦之丞の姿、逆風剣の切ッ尖を、上手の者の足もとに薙ぎつけて、まっしぐらに坂の上手へ踊り進んでいる。
逃げるかと見て、追いかけると、不意に、一転して立ちなおった。こんどは地勢を改めて、すべての人数を下へ見おろし、吾から寄って左風剣、右風の剣、無二無三に斬ってまくる。
その鋭刃になぎ立てられ、半数あまりの原士たちが、算をみだし、傷を負って、ドドドッ――と下り勾配へ押し崩れてゆくのを、夜叉のごとく追いかけて、ひとりあまさず斬り伏させずにはやまないかにみえた。
思うに、今こそ、弦之丞が剣をとっての本相は、かれが平常の、白皙柳眉の柔和仮面をかなぐりすて、獅身夜叉面のおそろしき本体を見するのであろう。
逃げおくれるのを跳び斬りに切ッて放し、なおも疾風! 引ッさげ刀! ピューッと血糊をすごきながら追って走ると、そのうしろへ、
「待てッ、弦之丞――」
とからみついた閃光がある。そぼろ助広の閃光であった。
「なにッ」
と坂の勾配に、惰勢のついた行き足を止めて、ふりかえるや、その真眉間へ、
「かッ!」とばかり、目のくらむような気当と一緒に、猿臂のばしにふりつけてきた岩砕の太刀。
丹石流の呼吸である。
業刀はそぼろ助広、持ち人はいうまでもないお十夜孫兵衛。
チャリン! という音の冴え。双方の鍔へ――鏘然として、まッ青な火が降った。
斬るか、斬られるか。
やるか、とるか。
剣と剣の間には、毛髪をいれる妥協もない。
触れたがさいご、焼金からシューッと青い火花が飛ぶ――火花は生命の目ばたきだ。
豹の四肢のごとく、伸縮の自由な孫兵衛の腕ぶしには、一種の粘力があってなかなかあなどり難い。ことには弦之丞がすでに散々な疲労をおぼえているに反して、その気息には新しい力がある。
すさまじい一合二合! そこでガッキと鍔が食いあったが弦之丞、坂の下寄りへ廻っていたので、柄手をねじって、ひッぱずした。
「あっ!」と、その時、孫兵衛のほうに、不意に息が抜けたのは、ヒタ押しに上方から鍔競を押す気ごみであったらしい。かれの上体は弾みをくって、坂を斜めに泳いでしまった。すると、
「おのれッ」と、また一人。
小高い所から飛び下りて、片手かぶりの大刀を、そのまま梨割りにふるって落してきたのは、殿をしろと孫兵衛にいわれていた、天堂一角。
いつまで周馬の現われぬのに業をにやして、もう我慢ができないというふうに、片手上段で飛び下りたが、早くも弦之丞、剣下を交わしてしまったのみか、裾を払って、その隙に、一方の低地へ駈け下りた。
そこは最前、弦之丞がここへ来る前に、三人を初め原士のすべてが、たむろをしていた草原で、わざとそこへ走ったのは、なお闘うべく地相を選みなおしたものか。
かれが平地へ立ちなおったのをみると、草原の隅に身を屈していた旅川周馬、ムクムクと身を起こして、しずかに近くへ近くへと這いまわって行った。――そのまに一角とお十夜は、さらに猛然と、切ッ尖をならべ、たとえどんなことがあるとも、今夜こそは弦之丞を刺しとめずにはおかぬという気勢を示した。そして、先に乱離となった原士の方も駈けあわせてきて、捲土重来の手ぐすねをひき、ふたたび疲れた弦之丞を危地へ誘い込もうとする。
もう最前の場所からこの平地までの間には、弦之丞の烈刀にあたって血みどろになったものが、少なくも八、九名はのた打っている筈だが、残余の氷刃が一ヵ所に晃々と集立すると、いっこう人数が減ったとはみえない。
そのおびただしい光ものが、チカチカきらめくたびごとに、弦之丞の命が、一分二分ずつ、磨り減らされてゆくのではあるまいか――どう倫を絶した使い手にしろ、疲れぬ肉体というものを持っている筈がない。
だが、静かにそこを冷観すると、なんという壮美な活景だろう。空には妖麗な金剛雲――地にはほのかな宵月の明り。
花には露の玉があり、草は柔らかい呼吸をしていた。そこへ、人間の生血が惜しげもなくフリまかれる。
かくて麗しい夜は夜だが、お綱は苦しい、修羅の刻々だ! 万吉も深い血の池へ溺れこんでいるようにもがいた。二人は縛められている松の根元を転々としながら、どうかして、縄を噛み切ろうと、さまざまに悶えて体を蝦のごとく折り曲げた。
すると、万吉の縛り付けられている松の木から、二、三間ばかり離れた所に、旅川周馬が身を折り敷いて、玉薬をこめ火縄を吹き、あなたにある弦之丞の姿を狙って、あわや短銃の引金を引こうとしている。
「畜生! ……」と思ったが、縄目に自由を奪われている万吉には、どうする術もない。
しかし、最前から、ジッと身を隠し通していた旅川周馬、引金をひいたらただ一発で、必ず弦之丞の急所を撃ってみせようとする意図なのに相違ない。
危機は間髪!
弦之丞の致命をつかみかけている危機は、かれの身辺よりむしろここにあった。
「エエいまいましい! みすみすそこにいる奴を眺めながら――」と万吉の歯が下唇をかみしめた。と、かれは足を踏ン張って、松の根元から芋虫のように転がった。そして、五体の肉をもがかせて、縄の伸びるかぎり周馬の方へズリ出してゆく――。
周馬はといえば、今や、構えを取った銃先の焦点へ全念をこらしかけていたので、それとは気づかずに指へ力をこめかけると、いきなり、伸びて廻った万吉の足が、ウム! とその片肘を蹴払った。
とたんに、ズドーンという硝薬のひびき。的を狂わせて天空へ音波をゆすッた。
徒労になった轟音に、耳をガンとさせた旅川周馬。
はからぬ邪魔をした万吉の足へ、カッと眼をいからせて、
「ちぇッ、なにをしやがる!」
と、まだ余煙のからんでいる短銃をイヤというほど叩きつけた。
と――今の爆音に気がついて、旋風のごとく、そこへ猪突してきた者がある。
眉はあがり、髪はみだれ、気息はあらく炎のよう――手には幾多の生胴をかけた血あぶらのうく直刃の一刀。
それを引っさげて疾駆してきた。
弦之丞である、天魔神を思わする姿である。
さながら潮をさしまねくように、わッと刃囲をくずして追いかかる後ろの声に振り向きもせず、来るや、そこなる周馬を目がけて、
「えーいッ」
とばかり一跳足。
逆風を切ッて横薙ぎに一揮り、相手の胴へビューッと走ったは、またもやあの手――弦之丞が今宵同じ手ぐちで四人までも斬っている夕雲流の逆風剣――すなわち八天斬りと誇称されるあぶない切ッ尖。
周馬。
いきなりその剣風をくらッて、吹ッ飛ばされたかのごとく、あッ――と後ろへ片足立ち、気当を返して腰の太刀を、
「おうッ」とすぐに抜きあわしたが、無論、自分の体を退いているので、その払いは虚にして空、キリキリ舞いをやったにすぎない。
もう一歩――その刹那に、弦之丞の返し太刀が、足とともにふって落されたら、旅川周馬、その時、梨か竹かのように二ツに割られている筈である。
だが、すぐ後へ――お十夜と一角が電馳して来た。原士の乱刃が迫っていた。
で――弦之丞はその寸隙を惜しんだのであろう。周馬へまいる余地のある太刀を、ヒラリと返して横へ駈けるや、そこに仆れていた万吉の縄目を、プツリと斬って孫兵衛と一角のほうを防いだ。
何か、異様な叫びをあげて――まったく何を叫んだか分らない――はね上がった目明しの万吉は、お綱のそばへ転げて行って、次にかれの縄を切った。
猿ぐつわを振りほどくと、お綱は、吾を忘れて、弦之丞の名を呼んだ。
弦之丞も、無論、それをお綱の声と聞いたであろう。だが、周馬、一角、お十夜――こう三人の鋭刃を前にして、かれは死力に汗をしぼっていた場合であるから、或いは、聞こえなかったかも知れない。
万吉は新手の意気ごみで、道中差の鞘を払った。お綱もまた、母のかたみであり、剣山に辿りついた時、父の世阿弥に名のるべき唯一の証として、愛護してきたあの銘刀へ手をかけた。
かくて――
春月を隠した美しい金剛雲の下で、その夜、惜し気もなく犠牲に散らされた鮮血が、どこまで、もちの木坂満地の若草を紅にしたことか? ……。
やがて、刃影の跳躍も、一場の夢幻となってかき消えた。そして、木曾の往還は何ごともなかったように夜が明ける。
小荷駄の鈴が街道の朝を知らせ、小禽が愉快にさえずりだした。真昼の太陽に草の露が乾くころには、墨汁をこぼしたかと思われる道ばたの血痕も、馬蹄やわらじの土埃に蔽われて、誰の目にも、ゆうべの修羅が気づかれない。
幾つもの死骸や負傷はどこへ運び去られて行ったか、夜明けの前に手ぎわよく片づけられていたのである。で、すべての旅人はみな常と変りはなく、もちの木坂を通りすぎたが、敏覚な虫類――虻や蝶や太陽虫などはいたる所の草の根から、面をそむけて飛んでいた。