一
素顔に口紅で美いから、その色に紛うけれども、可愛い音は、唇が鳴るのではない。お蔦は、皓歯に酸漿を含んでいる。……
「早瀬の細君はちょうど(二十)と見えるが三だとサ、その年紀で酸漿を鳴らすんだもの、大概素性も知れたもんだ、」と四辺近所は官員の多い、屋敷町の夫人連が風説をする。
すでに昨夜も、神楽坂の縁日に、桜草を買ったついでに、可いのを撰って、昼夜帯の間に挟んで帰った酸漿を、隣家の娘――女学生に、一ツ上げましょう、と言って、そんな野蛮なものは要らないわ! と刎ねられて、利いた風な、と口惜がった。
面当てというでもあるまい。あたかもその隣家の娘の居間と、垣一ツ隔てたこの台所、腰障子の際に、懐手で佇んで、何だか所在なさそうに、しきりに酸漿を鳴らしていたが、ふと銀杏返しのほつれた鬢を傾けて、目をぱっちりと開けて何かを聞澄ますようにした。
コロコロコロコロ、クウクウコロコロと声がする。唇の鳴るのに連れて。
ちょいと吹留むと、今は寂寞として、その声が止まって、ぼッと腰障子へ暖う春の日は当るが、軒を伝う猫も居らず、雀の影もささぬ。
鼠かと思ったそうで、斜に棚の上を見遣ったが、鍋も重箱もかたりとも云わず、古新聞がまたがさりともせぬ。
四辺を見ながら、うっかり酸漿に歯が触る。とその幽な音にも直ちに応じて、コロコロ。少し心着いて、続けざまに吹いて見れば、透かさずクウクウ、調子を合わせる。
聞き定めて、
「おや、」と云って、一段下流の板敷へ下りると、お源と云う女中が、今しがたここから駈け出して、玄関の来客を取次いだ草履が一ツ。ぞんざいに黒い裏を見せて引くり返っているのを、白い指でちょいと直し、素足に引懸け、がたり腰障子を左へ開けると、十時過ぎの太陽が、向うの井戸端の、柳の上から斜っかけに、遍く射込んで、俎の上に揃えた、菠薐草の根を、紅に照らしたばかり。
多分はそれだろう、口真似をするのは、と当りをつけた御用聞きの酒屋の小僧は、どこにも隠れているのではなかった。
眉を顰めながら、その癖恍惚した、迫らない顔色で、今度は口ずさむと言うよりもわざと試みにククと舌の尖で音を入れる。響に応じて、コロコロと行ったが、こっちは一吹きで控えたのに、先方は発奮んだと見えて、コロコロコロ。
これを聞いて、屈んで、板へ敷く半纏の裙を掻取り、膝に挟んだ下交の褄を内端に、障子腰から肩を乗出すようにして、つい目の前の、下水の溜りに目を着けた。
もとより、溝板の蓋があるから、ものの形は見えぬけれども、優い連弾はまさしくその中。
笑を含んで、クウクウと吹き鳴らすと、コロコロと拍子を揃えて、近づいただけ音を高く、調子が冴えてカタカタカタ!
「蛙だね。」
と莞爾した、その唇の紅を染めたように、酸漿を指に取って、衣紋を軽く拊ちながら、
「憎らしい、お源や…………」
来て御覧、と呼ぼうとして、声が出たのを、圧えて酸漿をまた吸った。
ククと吹く、カタカタ、ククと吹く、カタカタ、蝶々の羽で三味線の胴をうつかと思われつつ、静かに長くる春の日や、お蔦の袖に二三寸。
「おう、」と突込んで長く引いた、遠くから威勢の可い声。
来たのは江戸前の魚屋で。
二
ここへ、台所と居間の隔てを開け、茶菓子を運んで、二階から下りたお源という、小柄の可い島田の女中が、逆上せたような顔色で、
「奥様、魚屋が参りました。」
「大きな声をおしでないよ。」
とお蔦は振向いて低声で嗜め、お源が背後から通るように、身を開きながら、
「聞こえるじゃないか。」
目配せをすると、お源は莞爾して俯向いたが、ほんのり紅くした顔を勝手口から外へ出して路地の中を目迎える。
「奥様は?」
とその顔へ、打着けるように声を懸けた。またこれがその(おう。)の調子で響いたので、お源が気を揉んで、手を振って圧えた処へ、盤台を肩にぬいと立った魚屋は、渾名を(め組)と称える、名代の芝ッ児。
半纏は薄汚れ、腹掛の色が褪せ、三尺が捻じくれて、股引は縮んだ、が、盤台は美い。
いつもの向顱巻が、四五日陽気がほかほかするので、ひしゃげ帽子を蓮の葉かぶり、ちっとも涼しそうには見えぬ。例によって飲こしめした、朝から赤ら顔の、とろんとした目で、お蔦がそこに居るのを見て、
「おいでなさい、奥様、へへへへへ。」
「お止しってば、気障じゃないか。お源もまた、」
と指の尖で、鬢をちょいと掻きながら、袖を女中の肩に当てて、
「お前もやっぱり言うんだもの、半纏着た奥様が、江戸に在るものかね。」
「だって、ねえ、めのさん。」
とお源は袖を擦抜けて、俎板の前へ蹲む。
「それじゃ御新造かね。」
「そんなお銭はありやしないわ。」
「じゃ、おかみさん。」
「あいよ。」
「へッ、」
と一ツ胸でしゃくって笑いながら、盤台を下ろして、天秤を立掛ける時、菠薐草を揃えている、お源の背を上から見て、
「相かわらず大な尻だぜ、台所充満だ。串戯じゃねえ。目量にしたら、およそどのくれえ掛るだろう。」
「お前さんの圧ぐらい掛ります。」
「ああいう口だ。はははは、奥さんのお仕込みだろう。」
「めの字、」
「ええ、」
「二階にお客さまが居るじゃないか、奥様はおよしと言うのにね。」
「おっと、そうか、」
ぺろぺろと舌を吸って、
「何だって、日蔭ものにして置くだろう、こんな実のある、気前の可い……」
「値切らない、」
「ほんによ、所帯持の可い姉さんを。分らない旦じゃねえか。」
「可いよ。私が承知しているんだから、」
と眦の切れたのを伏目になって、お蔦は襟に頤をつけたが、慎ましく、しおらしく、且つ湿やかに見えたので、め組もおとなしく頷いた。
お源が横向きに口を出して、
「何があるの。」
「へ、野暮な事を聞くもんだ。相変らず旨えものを食してやるのよ。黙って入物を出しねえな。」
「はい、はい、どうせ無代価で頂戴いたしますものでございます。めのさんのお魚は、現金にも月末にも、ついぞ、お代をお取り遊ばしたことはございません。」
「皮肉を言うぜ。何てったって、お前はどうせ無代価で頂くもんじゃねえか。」
「大きに、お世話、御主人様から頂きます。」
「あれ、見や、島田を揺ってら。」
「ちょいと、番ごといがみあっていないでさ。お源や、お客様に御飯が出そうかい。」
「いかがでございますか、婦人の方ですから、そんなに、お手間は取れますまい。」
三
「だってお前、急に帰りそうもないじゃないか。」
と云って、め組の蓋を払った盤台を差覗くと、鯛の濡色輝いて、広重の絵を見る風情、柳の影は映らぬが、河岸の朝の月影は、まだその鱗に消えないのである。
俎板をポンと渡すと、目の下一尺の鮮紅、反を打って飜然と乗る。
とろんこの目には似ず、キラリと出刃を真名箸の構に取って、
「刺身かい。」
「そうね、」
とお蔦は、半纏の袖を合わせて、ちょっと傾く。
「焼きねえ、昨日も刺身だったから……」
と腰を入れると腕の冴、颯と吹いて、鱗がぱらぱら。
「ついでに少々お焼きなさいますなぞもまた、へへへへへ、お宜しゅうございましょう。御婦人のお客で、お二階じゃ大層お話が持てますそうでございますから。」
「憚様。お客は旦那様のお友達の母様でございます。」
めの字が鯛をおろす形は、いつ見てもしみじみ可い、と評判の手つきに見惚れながら、お源が引取って口を入れる。
えらを一突き、ぐいと放して、
「凹んだな。いつかの新ぎれじゃねえけれど、めの公塩が廻り過ぎたい。」
「そういや、めの字、」
とお蔦は片手を懐に、するりと辷る黒繻子の襟を引いて、
「過日頼んだ、河野さん許へ、その後廻ってくれないッて言うじゃないか、どうしたの?」
「むむ、河野ッて。何かい、あの南町のお邸かい。」
「ああ、なぜか、魚屋が来ないッて、昨日も内へ来て、旦那にそう言っていなすったよ。行かないの、」
「行かねえ。」
「ほんとうに、」
「行きませんとも!」
「なぜさ、」
「なぜッて、お前、あん獣ア、」
お源が慌しく、
「めのさん、」
「何だ。」
「めのさんや。お前さんちょいと、お二階に来ていらっしゃるのはその河野さんの母様じゃないか、気をお着けな。」
帽子をすっぽり亀の子竦みで、
「ホイ阿陀仏、へい、あすこにゃ隠居ばかりだと思ったら……」
「いいえね、つい一昨日あたり故郷の静岡からおいでなすったんですとさ。私がお取次に出たら河野の母でございます、とおっしゃったわ。」
「だから、母様が見えたのに、おいしいものが無いッて、河野さんが言っていなすったのさ、お前、」
「おいしいものが聞いて呆れら。へい、そして静岡だってね。」
「ああ、」
「と御維新以来、江戸児の親分の、慶喜様が行っていた処だ。第一かく申すめの公も、江戸城を明渡しの、落人を極めた時分、二年越居た事がありますぜ。
馬鹿にしねえ、大親分が居て、それから私が居た土地だ。大概江戸ッ児になってそうなもんだに、またどうして、あんな獣が居るんだろう。
聞きねえ。
過日もね、お前、まったくはお前、一軒かけ離れて、あすこへ行くのは荷なんだけれども、ちとポカと来たし、佳い魚がなくッて困るッて言いなさる、廻ってお上げ、とお前さんが口を利くから、チョッ蔦ちゃんの言うこッた。
脛を達引け、と二三度行ったわ。何じゃねえか、一度お前、おう、先公、居るかいッて、景気に呼んだと思いねえ。」
お蔦は莞爾して、
「せんこうッて誰のこったね。」
「内の、お友達よ。河野さんは、学士だとか、学者だとか、先生だとか言うこッたから、一ツ奉って呼んだのよ。」
と鰭をばっさり。
四
「可いじゃねえか、お前、先公だから先公よ。何も野郎とも兄弟とも言ったわけじゃねえ。」
と庖丁の尖を危く辷らして、鼻の下を引擦って、
「すると何だ。肥満のお三どんが、ぶっちょう面をしゃあがって、旦那様とか、先生とかお言いなさい、御近所へ聞えます、と吐しただろうじゃねえか。
ええ、そんなに奉られたけりゃ三太夫でも抱えれば可い。口に税を出すくらいなら、憚んながら私あ酒も啖わなけりゃ魚も売らねえ。お源ちゃんの前だけれども。おっとこうした処は、お尻の方だ。」
「そんなに、お邪魔なら退けますよ。」
お源が俎板を直して向直る。と面を合わせて、
「はははははは、今日あ、」
「何かい、それで腹を立って行かないのかい。」
「そこはお前さんに免じて肝の虫を圧えつけた。翌日も廻ったがね、今度は言種がなお気に食わねえ。
今日はもうお菜が出来たから要らないよサ。合点なるめえじゃねえか。私が商う魚だって、品に因っちゃ好嫌えは当然だ。ものを見てよ、その上で欲しくなきゃ止すが可い。喰いたくもねえものを勿体ねえ、お附合いに買うにゃ当りやせん、食もたれのなんぞで、せせり箸をされた日にゃ、第一魚が可哀相だ。
こっちはお前、河岸で一番首を討取る気組みで、佳いものを仕入れてよ、一ツおいしく食わせてやろうと、汗みずくで駈附けるんだ。醜女が情人を探しはしめえし、もう出来たよで断られちゃ、間尺に合うもんじゃねえ。ね、蔦ちゃんの前だけれど、」
「今度は私が背後を向こうか。」
とお蔦は、下に居る女中の上から、向うの棚へ手を伸ばして、摺鉢に伏せた目笊を取る。
「そらよ、こっちが旦の分。こりゃお源坊のだ。奥様はあらが可い、煮るとも潮にするともして、天窓を噛りの、目球をつるりだ。」
「私は天窓を噛るのかい。」
お蔦は莞爾して、め組にその笊を持たせながら、指の尖で、涼しい鯛の目をちょいと当る。
「ワンワンに言うようだわ、何だねえ、失礼な。」
とお源は柄杓で、がたりと手桶の底を汲む。
「田舎ものめ、河野の邸へ鞍替しろ、朝飯に牛はあっても、鯛の目を食った犬は昔から江戸にゃ無えんだ。」
「はい、はい、」
手桶を引立てて、お源は腰を切って、出て、溝板を下駄で鳴らす。
「あれ、邪険にお踏みでない。私の情人が居るんだから。」
「情人がね。」
「へい、」
と言ったばかり、こっちは忙がしい顔色で、女中は聞棄てにして、井戸端へかたかた行く。
「溝の中に、はてな。」
印半纏の腰を落して、溝板を見当に指しながら、ひしゃげた帽子をくるりと廻わして、
「変ってますね。」
「見せようか。」
「是非お目に懸りてえね。」
「お待ちよ、」
と目笊は流へ。お蔦は立直って腰障子へ手をかけたが、溝の上に背伸をして、今度は気構えて勿体らしく酸漿をクウと鳴らすと、言合せたようにコロコロコロ。
「ね、可愛いだろう。」
カタカタカタ!
「蛙だ、蛙だ。はははは、こいつア可い。なるほど蔦ちゃんの情人かも知れねえ。」
「朧月夜の色なんだよ。」
得意らしく済ました顔は、柳に対して花やかである。
「畜生め、拝んでやれ。」
と好事に蹲込んで、溝板を取ろうとする、め組は手品の玉手箱の蓋を開ける手つきなり。
「お止しよ、遁げるから、」
と言う処へ、しとやかに、階子段を下りる音。トタンに井戸端で、ざあと鳴ったは、柳の枝に風ならず、長閑に釣瓶を覆したのである。
見知越
五
続いてドンドン粗略に下りたのは、名を主税という、当家、早瀬の主人で、直ぐに玄関に声が聞える。
「失礼、河野さんに……また……お遊びに。さようなら。……」
格子戸の音がしたのは、客が外へ出たのである。その時、お蔦の留めるのも聞かないで、溝なる連弾を見届けようと、やにわにその蓋を払っため組は、蛙の形も認めない先に、お蔦がすっと身を退いて、腰障子の蔭へ立隠れをしたので、ああ、落人でもないに気の毒だ、と思って、客はどんな人間だろうと、格子から今出た処を透かして見る。とそこで一つ腰を屈めて、立直った束髪は、前刻から風説のあった、河野の母親と云う女性。
黒の紋羽二重の紋着羽織、ちと丈の長いのを襟を詰めた後姿。忰が学士だ先生だというのでも、大略知れた年紀は争われず、髪は薄いが、櫛にてらてらと艶が見えた。
背は高いが、小肥に肥った肩のやや怒ったのは、妙齢には御難だけれども、この位な年配で、服装が可いと威が備わる。それに焦茶の肩掛をしたのは、今日あたりの陽気にはいささかお荷物だろうと思われるが、これも近頃は身躾の一ツで、貴婦人方は、菖蒲が過ぎても遊ばさるる。
直ぐに御歩行かと思うと、まだそれから両手へ手袋を嵌めたが、念入りに片手ずつ手首へぐっと扱いた時、襦袢の裏の紅いのがチラリと翻る。
年紀のほどを心づもりに知っため組は、そのちらちらを一目見ると、や、火の粉が飛んだように、へッと頸を窘めた処へ、
「まだ、花道かい?」
とお蔦が低声。
「附際々々、」
ともう一息め組の首を縮める時、先方は格子戸に立かけた蝙蝠傘を手に取って、またぞろ会釈がある。
「思入れ沢山だ。いよう!」
おっとその口を塞いだ。声はもとより聞えまいが、こなたに人の居るは知れたろう。
振返って、額の広い、鼻筋の通った顔で、屹と見越した、目が光って、そのまま悠々と路地を町へ。――勿論勝手口は通らぬのである。め組はつかつかと二足三足、
「おやおやおや、」
調子はずれな声を放って、手を拡げてぼうとなる。
「どうしたの。」
「可訝しいぜ。」
と急に威勢よく引返して、
「あれが、今のが、その、河野ッてえのの母親かね、静岡だって、故郷あ、」
「ああ。」
「家は医師じゃねえかしらん。はてな。」
「どうした、め組。」
とむぞうさに台所へ現われた、二十七八のこざっぱりしたのは主税である。
「へへへへへ、」
満面に笑を含んだ、め組は蓮葉帽子の中から、夕映のような顔色。
「お早うござい。」
「何が早いものか。もう午飯だろう、何だ御馳走は、」
と覗込んで、
「ははあ、鯛だな。」
「鯛とおっしゃいよ、見ッともない。」
とお蔦が笑う。
「他の魚屋の商うのは鯛さ、め組のに限っちゃ鯛よ、なあ、めい公。」
「違えねえ。」
「だって、貴郎は柄にないわ、主公様は大人しく鯛魚とおっしゃるもんです、ねえ、めのさん。」
「違えねえ。」
主税は色気のない大息ついて、
「何にしろ、ああ腹が空いたぜ。」
「そうでしょうッて、寝坊をするから、まだ朝御飯を食らないもの。」
「違えねえ、確にアリャ、」
と、め組は路地口へ伸上る。
六
「大分御執心のようだが、どうした。」
と、め組のその素振に目を着けて、主税は空腹だというのに。……
「後姿に惚れたのかい。おい、もう可い加減なお婆さんだぜ。」
「だって貴郎にゃお婆さんでも、め組には似合いな年紀ごろだわ。ねえ、ちょいと、」
「へへへ、違えねえ。」
「よく、(違えねえ。)を云う人さ。」
「だから、確だろうと思うんでさ。」
と呟いて独で飲込み、仰向いて天秤棒を取りながら、
「旦那、」
「己ら御免だ。」と主税は懐手で一ツ肩を揺る。
「え、何を。」
「文でも届けてくれじゃないか。」
「御串戯。いえさ、串戯は止して今のお客は直ぐに南町の家へ帰りそうな様子でしたかね。」
「むむ、ずッと帰ると言ったっけ。」
「難有え、」
額をびっしゃり。
「後を慕って、おおそうだ、と遣れ。」
「行くのかい、河野さんへ。」
「ちょっぴりね、」
「じゃ可いけれど。貴郎、」
と主税を見て莞爾して、
「めい公がね、また我儘を云って困ったんですよ。お邸風を吹かしたり、お惣菜並に扱うから、河野さんへはもう行かないッて。折角お頼まれなすったものを、貴郎が困るだろうと思って、これから意見をしてやろうと思った処だったのよ。」
「そうか。」
となぜか、主税は気の無い返事をする。
「御覧なさい。そうすると急にあの通り。ほんとうに気が変るっちゃありやしない。まるで猫の目ね。」
「違えねえ、猫の目の犬の子だ。どっこい忙がしい、」
と荷を上げそうにするのを見て、
「待て、待て、」
「沢山よ。貴郎の分は三切あるわ。まだ昨日のも残ってるじゃありませんか。めのさん、可いんだよ。この人にね、お前の盤台を覗かせると、皆欲がるンだから……」
「これ、」
旦那様苦い顔で、
「端近で何の事たい、野良猫に扱いやあがる。」
「だっ……て、」
「め組も黙って笑ってる事はない、何か言え、営業の妨害をする婦だ。」
「肯かないよ、めの字、沢山なんだから、」
「まあ、お前、」
「いいえ、沢山、大事な所帯だわ。」
「驚きますな。」
「私、もう障子を閉めてよ。」
「め組、この体だ。」
「へへへ、こいつばかりゃ犬も食わねえ、いや、四寸ずつ食りまし。」
「おい、待てと云うに。」
「さっさとおいでよ、魚屋のようでもない。」
「いや、遣瀬がねえ。」
と天秤棒を心にして、め組は一ツくるりと廻る。
「お菜のあとねだりをするんじゃ、ないと云うに。」
と笑いながらお蔦を睨んで、
「なあ、め組。」
「ええ、」
「これから河野へ行くんだろう。」
「三枚並で駈附けまさ。」
「それに就いてだ、ちょいと、ここに話が出来た。」
七
「その、河野へ行くに就いてだが、」
と主税は何か、言淀んで、
「何は、」
お蔦に目配せ、
「茶はないのか。」
「お茶ッて? 有りますわ。ほほほほ、まあ、人に叱言を云う癖に、貴郎こそ端近で見ッともないじゃありませんか―ありますわ―さあ、あっちへいらっしゃい。」
と上ろうとする台所に、主税が立塞がっているので、袖の端をちょいと突いて、
「さあ、」
め組は威勢よく、
「へい、跡は明晩……じゃねえ、翌の朝だ。」
「待なッてば、」
「可いよ、めのさん。」
「はて、どうしたら、」と首を振る。
「お前たちは、」
と主税は呆れた顔で呵々と笑って、
「相応に気が利かないのに、早飲込だからこんがらがって仕様がない。め組もまた、さんざ油を売った癖に、急にそわそわせずともだ。まあ、待て、己が話があると言えば。
そこでだ……お茶と申すは、冷たい……」
と口へつけて、指で飲む真似。
「と行る一件だ。」
「め組に……」
「沢山だ、沢山だ。私なら、」
と声ばかり沢山で、俄然として蜂の腰、竜の口、させ、飲もうの構になる。
「不可ません、もう飲んでるんだもの。この上煽らして御覧なさい。また過日のように、ちょいと盤台を預っとくんねえ、か何かで、」
お蔦は半纏の袖を投げて、婀娜に酔ッぱらいを、拳固で見せて、
「それッきり、五日の間行方知れずになっちまう。」
「旦那、こうなると頂きてえね、人間は依怙地なもんだ。」
「可いから、己が承知だから、」
「じゃ、め組に附合って、これから遊びにでも何でもおいでなさい。お腹が空いたって私、知らないから。さあ、そこを退いて頂戴よ、通れやしないわね。」
「ああ、もしもし、」
主税は身を躱して通しながら、
「御立腹の処を重々恐縮でございますが、おついでに、手前にも一杯、同じく冷いのを、」
「知りませんよ。」
とつっと入る。
「旦も、ゆすり方は素人じゃねえ。なかなか馴れてら、」
もう飲みかけたようなもの言いで、腰障子から首を突込み、
「今度八丁堀の私の内へ遊びに来ておくんなせえ。一番私がね、嚊々左衛門に酒を強請る呼吸というのをお目にかけまさ。」
「女房が寄せつけやしまい、第一吃驚するだろう、己なんぞが飛込んじゃ、山の手から猪ぐらいに。所かわれば品かわるだ、なあ、め組。」
と下流へかけて板の間へ、主税は腰を掛け込んで、
「ところで、ちと申かねるが、今の河野の一件だ。」
「何です、旦、」
と吃驚するほど真顔。
「お前さんや、奥様で、私に言い憎いって事はありゃしねえ、また私が承って困るって事もねえじゃねえか。
嚊々を貸せとも言いなさりゃしめえ、早い話が。何また御使い道がありゃ御用立て申します。」
「打附けた話がこうだ。南町はちと君には遠廻りの処を、是非廻って貰いたいと云うもんだから、家内で口を利いて行くようになったんだから、ここがちと言い憎いのだが、今云った、それ、膚合の合わない処だ。
今来た、あの母親も、何のかのって云っているからな、もう彼家へは行かない方が可いぜ。心持を悪くしてくれちゃ困るよ。また何だ、その内に一杯奢るから。」
とまめやかに言う。
八
皆まで聞かず、め組は力んで、
「誰が、誰があんな許へ、私ア今も、だからそう云ってたんで、頼まれたッて行きゃしねえ。」
「ところが、また何か気が変って、三枚並で駈附けるなぞと云うからよ。」
「そりゃ、何でさ、ええ、ちょいとその気になりゃなッたがね、商いになんか行くもんか。あの母親ッて奴を冷かしに出かける肝でさ。」
「そういう料簡だから、お前、南町御構いになるんだわ。」
と盆の上に茶呑茶碗……不心服な二人分……焼海苔にはりはりは心意気ながら、極めて恭しからず押附ものに粗雑に持って、お蔦が台所へ顕れて、
「お客様は、め組の事を、何か文句を言ったんですか。」
「文句はこっちにあるんだけれど、言分は先方にあったのよ。」
と盆を受取って押出して、
「さあ、茶を一ツ飲みたまえ。時に、お茶菓子にも言分があるね、もうちっとどうか腹に溜りそうなものはないかい。」
「貴郎のように意地汚ではありません。め組は何にも食べやしないのよ。」
「食べやしねえばかりじゃありませんや、時々、このせいで食べられなくなる騒ぎだ。へへへ、」
と帽子を上へ抜上げると、元気に額の皺を伸ばして、がぶりと一口。鶺鴒の尾のごとく、左の人指をひょいと刎ね、ぐいと首を据えて、ぺろぺろと舌舐る。
主税はむしゃりと海苔を頬張り、
「め組は可いが己の方さ、何とももって大空腹の所だから。」
「ですから御飯になさいなね、種々な事を言て、お握飯を拵えろって言いかねやしないんだわ。」
「実は……」と莞爾々々、
「その気なきにしもあらずだよ。」
「可い加減になさいまし、め組は商売がありますよ。疾くお話しなさいなね。」
「そう、そう。いや、可い気なもんです。」
と糸底を一つ撫でて、
「その言分というのは、こうだ。どうも、あの魚屋も可いが、門の外から(おう)と怒鳴り込んで、(先公居るか。)は困る。この間も御隠居をつかまえて、こいつあ婆さんに食わしてやれは、いかにもあんまりです。内じゃがえんに知己があるようで、真に近所へ極が悪い。それに、聞けば芸者屋待合なんぞへ、主に出入りをするんだそうだから、娘たちのためにもならず、第一家庭の乱れです。また風説によると、あの、魚屋の出入をする家は、どこでも工面が悪いって事たから、かたがた折角、お世話を願ったそうだけれど、宜しいように、貴下から……と先ずざっとこうよ。」
め組より、お蔦が呆れた顔をして、
「わざわざその断りに来なすったの。」
「そうばかりじゃなかったが、まあ、それも一ツはあった。」
「仰山だわねえ。」
「ちと仰山なようだけれど、お邸つき合いのお勝手口へ、この男が飛込んだんじゃ、小火ぐらいには吃驚したろう。馴れない内は時々火事かと思うような声で怒鳴り込むからな。こりゃ世話をしたのが無理だった。め組怒っちゃ不可い。」
「分った……」
と唐突に膝を叩いて、
「旦那、てっきりそうだ、だから、私ア違えねえッて云ったんだ。彼奴、兇状持だ。」
「ええ―」
何としたか、主税、茶碗酒をふらりと持った手が、キチンと極る。
「兇状持え?」とお蔦も袖を抱いたのである。
め組は、どこか当なしに睨むように目を据えて、
「それを、私ア、私アそれをね、ウイ、ちゃんと知ってるんだ。知ってるもんだから、だもんだから。……」
九
「ウイ、だから私が出入っちゃ、どんな事で暴露ようも知れねえという肚だ。こっちあ台所までだから、ちっとも気がつかなかったが、先方じゃ奥から見懸けたもんだね。一昨日頃静岡から出て来たって、今も蔦ちゃんの話だっけ。
状あ見やがれ、もっと先から来ていたんだ。家風に合わねえも、近所の外聞もあるもんか、笑かしゃあがら。」
と大きに気勢う。
「何だ、何だ、兇状とは。」
「あの、河野さんの母様がかい。」
とお蔦も真顔で訝った。
「あれでなくって、兇状持は、誰なもんかね、」
「ほほほ、貴郎、真面目で聞くことはないんだわ。め組の云う兇状持なら、あの令夫人がああ見えて、内々大福餅がお好きだぐらいなもんですよ。お彼岸にお萩餅を拵えたって、自分の女房を敵のように云う人だもの。ねえ、そうだろう。めの字、何か甘いものが好なんだろう。」
「いずれ、何か隠喰さ、盗人上戸なら味方同士だ。」
「へへ、その通り、隠喰いにゃ隠喰いだが、喰ったものがね、」
「何だ、」
「馬でさ。」
「馬だと……」
「旅俳優かい。」
「いんや、馬丁……貞造って……馬丁でね。私が静岡に落ちてた時分の飲友達、旦那が戦争に行った留守に、ちょろりと嘗めたが、病着で、の出るほど食ったんだ。」
主税は思わず乗出して、酒もあったが元気よく、
「ほんとうか、め組、ほんとうかい。」
と事を好んだ聞きようをする。
「嘘よ、貴郎、あの方たちが、そんなことがあって可いもんですか、めの字、滅多なことは云うもんじゃありません、他の事と違うよ、お前、」
「あれ、串戯じゃねえ。これが嘘なら、私の鯛[#ルビの「てえ」は底本では「てい」]は場違だ。ええ、旦那、河野の本家は静岡で、医者だろうね。そら、御覧じろ、河野ッてえから気がつかなかった。門に大な榎があって、榎邸と云や、お前、興津江尻まで聞えたもんだね。
今見りゃ、ここを出た客てえのは、榎邸の奥様で、その馬丁の情婦だ。
だから私ア、冷かしに行ってやろうと思ったんだ。嘘にもほんとうにも、児があらあ、児が。ああ、」
また一口がぶりと遣って、はりはりを噛んだ歯をすすって、
「ねえ、大勢小児がありましょう。」
「南町の学士先生もその一人、何でも兄弟は大勢ある。八九人かも知れないよ、いや、ほんとうなら驚いたな。」
「おお、待ちねえ、その先生は幾歳だね。」
「六か、七だ。」
「二十とだね、するとその上か、それとも下かね。どっち道その人じゃねえ。何でも馬丁の因果のたねは婦人なんだ。いずれ縁附いちゃいるだろうが、これほど確な事はねえ。私ア特別で心得てるんで、誰も知っちゃいますめえよ。知らぬは亭主ばかりなりじゃねえんだから、御存じは魚屋惣助(本名)ばかりなりだ。
はははは、下郎は口のさがねえもんだ。」
ぐいと唇を撫でた手で、ポカリと茶碗の蓋をした。
「危え、危え、冷かしに行くどころじゃねえ。鰒汁とこいつだけは、命がけでも留められねえんだから、あの人のお酌でも頂き兼ねねえ。軍医の奥さんにお手のもので、毒薬装られちゃ大変だ。だが、何だ、旦那も知らねえ顔でいておくんねえ、とかく町内に事なかれだからね。」
「ああ、お前ももうおいででない。」
「行くもんか、行けったってお断りだ。お断り、へへへ、お断り、」
と茶碗を捻くる。
「厭な人だよ。仕様がないね、さあ、茶碗をお出しなね。」
「おお、」
と何か考え込んだ、主税が急に顔を上げて、
「もうちっと精しくその話を聞かせないか。」
井戸端から、婦人の凧が切れて来たかと、お源が一文字に飛込んだ。
「旦、旦那様、あの、何が、あの、あのあの、」
矢車草
十
お源のその慌しさ、駈けて来た呼吸づかいと、早口の急込に真赤になりながら、直ぐに台所から居間を突切って、取次ぎに出る手廻しの、襷を外すのが膚を脱ぐような身悶えで、
「真砂町の、」
「や、先生か。」
真砂町と聞いただけで、主税は素直に突立ち上る。お蔦はさそくに身を躱して、ひらりと壁に附着いた。
「いえ、お嬢様でございます。」
「嬢的、お妙さんか。」
と謂うと斉しく、まだ酒のある茶碗を置いた塗盆を、飛上る足で蹴覆して、羽織の紐を引掴んで、横飛びに台所を消えようとして、
「赤いか、」
お蔦を見向いて面を撫でると、涼しい瞳で、それ見たかと云う目色で、
「誰が見ても……」と、ぐっと落着く。
「弱った。」と頭を圧える。
「朝湯々々、」と莞爾笑う。
「軍師なるかな、諸葛孔明。」といい棄てに、ばたばたどんと出て行ったは、玄関に迎えるのである。
ふらふらとした目を据えて、まだ未練にも茶碗を放さなかった、め組の惣助、満面の笑に崩れた、とろんこの相格で、
「いよう、天人。」と向うを覗く。
「不可いよ、」
と強く云う、お蔦の声が屹としたので、きょとんとして立つ処を、横合からお源の手が、ちょろりとその執心の茶碗を掻攫って、
「失礼だわ。」
と極めつける。天下大変、吃驚して、黙って天秤の下へ潜ると、ひょいと盤台の真中へ。向うの板塀に肩を寄せたは、遠くから路を開く心得、するするとこれも出て行く。
もう、玄関の、格子が開きそうなものだと思うと、音もしなければ、声もせぬので、お蔦が、
「御覧、」と目配せする。
覗くは失礼と控えたのが、遁腰で水口から目ばかり出したと思うと、反返るように引込んで、
「大変でございます。お台所口へいらっしゃいます。」
「ええ、こちらへ、」
と裾を捌くと、何と思ったか空を望み、破風から出そうにきりりと手繰って、引窓をカタリと閉めた。
「あれ、奥様。」
「お前、そのお盆なんぞ、早くよ。」と釣鐘にでも隠れたそうに、肩から居間へ飜然と飛込む。
驚いたのはお源坊、ぼうとなって、ただくるくると働く目に、一目輝くと見たばかりで、意気地なくぺたぺたと坐って、偏に恐入ってお辞儀をする。
「御免なさいよ。」
と優い声、はッと花降る留南奇の薫に、お源は恍惚として顔を上げると、帯も、袂も、衣紋も、扱帯も、花いろいろの立姿。まあ! 紫と、水浅黄と、白と紅咲き重なった、矢車草を片袖に、月夜に孔雀を見るような。
め組が刎返した流汁の溝溜もこれがために水澄んで、霞をかけたる蒼空が、底美しく映るばかり。先祖が乙姫に恋歌して、かかる処に流された、蛙の児よ、いでや、柳の袂に似た、君の袖に縋れかし。
妙子は、有名な独逸文学者、なにがし大学の教授、文学士酒井俊蔵の愛娘である。
父様は、この家の主人、早瀬主税には、先生で大恩人、且つ御主に当る。さればこそ、嬢様と聞くと斉しく、朝から台所で冷酒のぐい煽り、魚屋と茶碗を合わせた、その挙動魔のごときが、立処に影を潜めた。
まだそれよりも内証なのは、引窓を閉めたため、勝手の暗い……その……誰だか。
十一
妙子の手は、矢車の花の色に際立って、温柔な葉の中に、枝をちょいと持替えながら、
「こんなものを持っていますから、こちらから、」
とまごつくお源に気の毒そう。ふっくりと優しく微笑み、
「お邪魔をしてね。」
「どういたしまして、もう台なしでございまして、」と雑巾を引掴んで、
「あれ、お召ものが、」
と云う内に、吾妻下駄が可愛く並んで、白足袋薄く、藤色の裾を捌いて、濃いお納戸地に、浅黄と赤で、撫子と水の繻珍の帯腰、向う屈みに水瓶へ、花菫の簪と、リボンの色が、蝶々の翼薄黄色に、ちらちらと先ず映って、矢車を挿込むと、五彩の露は一入である。
「ここに置かして頂戴よ。まあ、お酒の香がしてねえ、」と手を放すと、揺々となる矢車草より、薫ばかりも玉に染む、顔酔いて桃に似たり。
「御覧なさい、矢車が酔ってふらふらするわ。」と罪もなく莞爾する。
お源はどぎまぎ、
「ええ、酒屋の小僧が、ぞんざいだものでございますから。」
「ちょいと、溢したの。やっぱり悪戯な小僧さん? 犬にばっかり弄っているんでしょう、私ン許のも同一よ。」
一廉社会観のような口ぶり、説くがごとく言いながら、上に上って、片手にそれまで持っていた、紫の風呂敷包、真四角なのを差置いた。
「お裾が汚れます、お嬢様。」
「いいえ、可のよ、」
と褄は上げても、袖は板の間に敷くのであった。
「あの、お惣菜になすって下さい。」
「どうも恐れ入ります。」
「旨くはありませんよ、どうせ、お手製なんですから。」
少し途切れて、
「お内ですか。」
「はい、」
「主税さんは……あの旦那様は、」
と言いかけて、急に気が着いたか、
「まあ、どうしたの、暗いのねえ。」
成程、そこまでは水口の明が取れたが、奥へ行く道は暗かった。
「も、仕様がないのでございますよ、ほんとうに、あら、どうしましょう。」
とお源は飛上って、慌てて引窓を、くるり、かたり。颯と明るく虹の幻、娘の肩から矢車草に。
その時台所へ落着いて顔を出した、主人の主税と、妙子は面を見合わせた。
「驚かして上げましょうと思ったんだけれども。」と、笑って串戯を言いながら、瓶なる花と対丈に、そこに娘が跪居るので、渠は謹んで板に片手を支いたのである。
「驚かしちゃ、私厭ですよ。」
「じゃ、なぜそんな水口からなんぞお入んなさいます。ちゃんと玄関へお出迎いをしているじゃありませんか。」
「それでもね、」
と愛々しく打傾き、
「お惣菜なんか持込むのに、お玄関からじゃ大業ですもの。それに、あの、花にも水を遣りたかったの。」
「綺麗ですな、まあ、お源、どうだ、綺麗じゃないか。」
「ほんとうにお綺麗でございますこと。」と、これは妙子に見惚れている。
「同じく頂戴が出来ますんで?」
「どうしようかしら。お茶を食るんなら可けれど、お酒を飲んじゃ、可哀相だわ。」
「え、酒なんぞ。」
「厭な、おほほ、主税さん、飲んでるのね。」
「はは、はは、さ、まあ、二階へ。」
と遁出すような。後へするする衣の音。階子段の下あたりで、主税が思出したように、
「成程、今日は日曜ですな。」
「どうせ、そうよ、(日曜)が遊びに来たのよ。」
十二
二階の六畳の書斎へ入ると、机の向うへ引附けるは失礼らしいと思ったそうで、火鉢を座中へ持って出て、床の間の前に坐り蒲団。
「どうぞ、お敷きなさいまし。」
主税は更って、慇懃に手を支いて、
「まあ、よくいらっしゃいました。」
「はい、」とばかり。長年内に居た書生の事、随分、我儘も言ったり、甘えたり、勉強の邪魔もしたり、悪口も言ったり、喧嘩もしたり。帽子と花簪の中であった。が、さてこうなると、心は同一でも兵子帯と扱帯ほど隔てが出来る。主税もその扱にすれば、お嬢さんも晴がましく、顔の色とおなじような、毛巾を便にして、姿と一緒にひらひらと動かすと、畳に陽炎が燃えるようなり。
「御無沙汰を致しまして済みません。奥様もお変りがございませんで、結構でございます。先生は相変らず……飲酒りますか。」
「誰か、と同一ように……やっぱり……」と莞爾。落着かない坐りようをしているから、火鉢の角へ、力を入れて手を掛けながら、床の掛物に目を反らす。
主税は額に手を当てて、
「いや、恐縮。ですが今日のは、こりゃ逆上せますんですよ。前刻朝湯に参りました。」
「父様もね、やっぱり朝湯に酔うんですよ。不思議だわね。」
主税は胸を据えた体に、両膝にぴたりと手を置き、
「平に、奥様には御内分。貴女また、早瀬が朝湯に酔っていたなぞと、お話をなすっては不可ませんよ。」
「ほんとうに貴郎の半分でも、父様が母様の言うことを肯くと可いんだけれど、学校でも皆が評判をするんですもの、人が悪いのはね、私の事を(お酌さん。)なんて冷評すわ。」
「結構じゃありませんか。」
「厭だわ、私は。」
「だって、貴女、先生がお嬢さんのお酌で快く御酒を召食れば、それに越した事はありません。後にその筋から御褒美が出ます。養老の滝でも何でも、昔から孝行な人物の親は、大概酒を飲みますものです。貴女を(お酌さん。)なぞと云う奴は、親のために焼芋を調え、牡丹餅を買い……お茶番の孝女だ。」
と大に擽って笑うと、妙子は怨めしそうな目で、可愛らしく見たばかり。
「私は、もう帰ります。」
「御串戯をおっしゃっては不可ません。これからその焼芋だの、牡丹餅だの。」
「ええ、私はお茶番の孝女ですから。」
「まあ、御褒美を差上げましょう。」
と主税が引寄せる茶道具の、そこらを視めて、
「お客様があったのね。お邪魔をしたのじゃありませんか。」
「いいえ、もう帰った後です。」
「厭な人ね?」
と唐突に澄まして云う。
「見たんですか。」
「見やしませんけれど、御覧なさいな。お茶台に茶碗が伏っているじゃありませんか、お茶台に茶碗を伏せる人は、貴下嫌だもの、父様も。」
「天晴れ御鑑定、本阿弥でいらっしゃる。」と急須子をあける。
「誰方なの?」
「御存じのない者です。河野と云う私の友達……来ていたのはその母親ですよ。」
「河野ね? 主税さん。」と妙子はふっくりした前髪で打傾き、
「学士の方じゃなくって、」
「知っていらっしゃるか。」と茶筒にかけた手を留めた。
「その母様と云うのは、四十余りの、あの、若造りで、ちょいとお化粧なんぞして、細面の、鼻筋の通った、何だか権式の高い、違って?」
「まったく。どうして貴女、」
「私の学校へ、参観に。」
新学士
十三
「昨日は母様が来て御厄介でした。」
と、今夜主税の机の際に、河野英吉が、まだ洋服の膝も崩さぬ前から、
「君、困ったろう、母様は僕と違って、威儀堂々という風で厳粛だから、ははは、」
と肩を揺って、無邪気と云えば無邪気、余り底の無さ過ぎるような笑方。文学士と肩書の名刺と共に、新いだけに美しい若々しい髯を押揉んだ。ちと目立つばかり口が大いのに、似合わず声の優しい男で。気焔を吐くのが愚痴のように聞きなされる事がある。もっとも、何をするにも、福、徳とだけ襟を数えれば済む身分。貧乏は知らないと云っても可いから、愚痴になるわけはないが、自分の親を、その年紀で、友達の前で、呼ぶに母様をもってするのでも大略解る。酒に酔わずにアルコオルに中毒るような人物で。
年紀は二十七。従五位勲三等、前の軍医監、同姓英臣の長男、七人の同胞の中に英吉ばかりが男子で、姉が一人、妹が五人、その中縁附いたのが三人で。姉は静岡の本宅に、さる医学士を婿にして、現に病院を開いている。
南町の邸は、祖母さんが監督に附いて、英吉が主人で、三人の妹が、それぞれ学校に通っているので、すでに縁組みした令嬢たちも、皆そこから通学した。別家のようで且つ学問所、家厳はこれに桐楊塾と題したのである。漢詩の嗜がある軍医だから、何等か桐楊の出処があろう、但しその義審ならず。
英吉に問うと、素湯を飲むような事を云う。枝も栄えて、葉も繁ると云うのだろう、松柏も古いから、そこで桐楊だと。
説を為すものあり、曰く、桐楊の桐は男児に較べ、楊は令嬢たちに擬えたのであろう。漢皇重色思傾国……楊家女有、と同一字だ。道理こそ皆美人であると、それあるいは然らむ。が男の方は、桐に鳳凰、とばかりで出処が怪しく、花骨牌から出たようであるから、遂にどちらも信にはならぬ。
休題、南町の桐楊塾は、監督が祖母さんで、同窓が嬢たちで、更に憚る処が無いから、天下泰平、家内安全、鳳凰は舞い次第、英吉は遊び放題。在学中も、雨桐はじめ烏金の絶倍で、しばしばかいがんに及んだのみか、卒業も二年ばかり後れたけれども、首尾よく学位を得たと聞いて、親たちは先ず占めた、びきで、あおたんの掴みだと思うと、手八の蒔直しで夜泊の、昼流連。祖母さんの命を承けて、妹連から注進櫛の歯を挽くがごとし。で、意見かたがたしかるべき嫁もあらばの気構えで、この度母親が上京したので、妙子が通う女学校を参観したと云うにつけても、意のある処が解せられる。
「どうだい、君、窮屈な思いをしたろう。」
親が参って、さぞ御迷惑、と悪気は無い挨拶も、母様で、威儀で、厳粛で、窮屈な思いを、と云うから、何と豪いか、恐入ったろう、と極めつけるがごとくに聞える。
例の調子と知っているから、主税は別に気にも留めず、勿論、恐入る必要も無いので、
「姑に持とうと云うんじゃなし、ちっとも窮屈な事はありません。」
机の前に鉄拐胡坐で、悠然と煙草を輪に吹く。
「しかし、君、その自から、何だろう。」
とその何だか、火箸で灰を引掻いて、
「僕は窮屈で困る。母様がああだから、自から襟を正すと云ったような工合でね。……
直の妹なんざ、随分脱兎のごとしだけれど、母様の前じゃほとんど処女だね。」
と髯を捻る。
十四
「で、何かね、母様は、」
と主税は笑いながら、わざと同一ように母様と云って、煙管を敲き、
「しばらく御滞在なんですかい。」
「一月ぐらい居るかも知れない、ああ、」と火鉢に凭掛る。
「じゃ当分謹慎だね。今夜なぞも、これから真直にお帰りだろう、どこへも廻りゃしますまいな。」
「うふふ、考えてるんだ。」とまた灰に棒を引く。
「相変らず辛抱が[#「辛抱が」は底本では「幸抱が」]出来ないか。」
「うむ、何、そうでもない。母様が可愛がってくれるから、来ている間は内も愉快だよ。賑じゃあるし、料理が上手だからお菜も旨いし、君、昨夜は妹たちと一所に西洋料理を奢って貰った、僕は七皿喰った。ははは、」
と火箸をポンと灰に投て、仰向いて、頬杖ついて、片足を鳶になる。
「御馳走と云えば内へ来るめ組だが、」
皆まで聞かず、英吉は突放したように、
「ありゃ君、もう来なくッても可いよ。余り失礼な奴だと、母様が大変感情を害したからね、君から断ってくれたまえ。」
と真面目で云って、衣兜から手巾をそそくさ引張出し、口を拭いて、
「どうせ東京の魚だもの、誰のを買ったって新鮮いのは無い。たまに盤台の中で刎ねてると思や、蛆で蠢くか、そうでなければ比目魚の下に、手品の鰌が泳いでるんだと、母様がそう云ったっけ。」
め組が聞いたら、立処に汝の一命覚束ない、事を云って、けろりとして、
「静岡は口の奢った、旨いものを食う処さ。汽車の弁当でも試たまえ、東海道一番だよ。」
主税はどこまでも髯のある坊ちゃんにして、逆らわない気で、
「いや、何か、手前どもで、め組のものを召食って、大層御意に叶ったから、是非寄越してくれと誰かが仰有るもんだから取あえず差立てたんだ。御家風を存じないでもなかったけれども、承知の上で、君がたってと云ったから、」
「僕は構わん。僕は構わんが、あの調子だもの、祖母さんや妹たちはもとよりだ。故郷から連れて来ている下女さえ吃驚したよ。母様は、僕を呼びつけて談じたです。あんなものに朋輩呼ばわりをされるような悪い事をしたか。そこいらの芸妓にゃ、魚屋だの、蒲鉾屋の職人、蕎麦屋の出前持の客が有ると云うから、お前、どこぞで一座でもおしだろう、とね、叱られたです。
僕は何、あれは通りもんです。早瀬の許へ行っても、同一く、今日は旨えものを食わせてやろう。居るか、と云った調子です、と云ったら、母様が云うにゃ、当前だ、早瀬じゃ、細君……」
と云いかけて、ぐっと支えたが、ニヤリとして、
「君、僕は饒舌りやしないよ。僕は決して饒舌らんさ。秘密で居ることを知ってるから、君の不利益になるような事は云わないがね、妹たちが知ってるんだ。どこかで聞いて来てたもんだから、ついね、」
と気の毒そう。
「まあ、可い、そんな事は構わないが、僕と懇意にしてくれるんなら、もうちっと君、遊蕩を控えて貰いたいね。
昨日も君の母様が来て、つくづく若様の不始末を愚痴るのが、何だか僕が取巻きでもして、わッと浮かせるようじゃないか。
高利を世話して、口銭を取る。酒を飲ませてお流頂戴。切々内へ呼び出しちゃ、花骨牌でも撒きそうに思ってるんだ。何の事はない、美少年録のソレ何だっけ、安保箭五郎直行さ。甚しきは美人局でも遣りかねないほど軽蔑していら。母様の口ぶりが、」
とややその調子が強くなったが、急に事も無げな串戯口、
「ええ、隊長、ちと謹んでくれないか。」
「母様の来ている内は謹慎さ。」
と灰を掻きまわして、
「その代り、西洋料理七皿だ。」と火箸をバタリ。
十五
「じゃあ色気より食気の方だ、何だか自棄に食うようじゃないか。しかし、まあそれで済みゃ結構さ。」
「済みやしないよ、七皿のあとが、一銚子、玉子に海苔と来て、おひけとなると可いんだけれど、やっぱり一人で寝るんだから、大きに足が突張るです。それに母様が来たから、ちっとは小遣があるし、二三時間駈出して行って来ようかと思う。どうだろう、君、迷惑をするだろうか。」
と甘えるような身体つき、座蒲団にぐったりして、横合から覗いて云う。
「何が迷惑さ。君の身体で、御自分お出かけなさるに、ちっとも迷惑な事はない。迷惑な事はないが……」
「いや、ところが今夜は、君の内へ来たことを、母様が知ってるからね。今のような話じゃ、また君が引張出したように、母様に思われようかと、心配をするだろうと云うんだ。」
「お疑いなさるは御勝手さ。癪に障ればったって、恐い事、何あるものか、君の母親が何だ?」
と云いかけて、語気をかえ、
「そう云っちまえば、実も蓋もない。痛くない腹を探られるのは、僕だって厭だ。それにしても早瀬へ遊びに行くと云う君に、よく故障を入れなかったね。」
「うむ、そりゃあれです、君に逢わない内は疑っていないでもなかったがね、」
あえて臆面は無い容子で、
「昨日逢ってから、そうした人じゃないようだ、と頷いていた。母様はね、君、目が高いんだ、いわゆる士を知る明ありだよ。」
「じゃ、何か、士を知る明があって、それで、何か、そうした人じゃないようだ、(ようだ。)とまだ疑があるのか。」
「だってただ一面識だものね、三四度交際って見たまえ。ちゃんと分るよ、五度とは言わない。」
「何も母様に交際うには当らんじゃないか。せめて年増ででもあればだが、もう婆さまだ。」
と横を向いて、微笑んで、机の上の本を見た。何の書だか酒井蔵書の印が見える。真砂町から借用のものであろう。
英吉は、火鉢越に覗きながら、その段は見るでもなく、
「年紀は取ってるけれど、まだ見た処は若いよ。君、婦人会なんぞじゃ、後姿を時々姉と見違えられるさ。
で、何だ、そうやって人を見る明が有るもんだから、婿の選択は残らず母様に任せてあるんだ。取当てるよ。君、内の姉の婿にした医学士なんざ大当りだ。病院の立派になった事を見たまえな。」
「僕なんざ御選択に預れまいか。」
と気を、その書物に取られたか、木に竹を接いだような事を云うと、もっての外真面目に受けて、
「君か、君は何だ、学位は持っちゃおらんけれど、独逸のいけるのは僕が知ってるからね。母様の信用さえ得てくれりゃ、何だ。ええ君、妹たちには、もとより評判が可いんだからね、色男、ははは、」
と他愛なく身体中で笑い、
「だって、どうする。階下に居るのを、」
背後を見返り、
「湯かい。見えなかったようだっけ。」
主税は堪えず失笑したが、向直って話に乗るように、
「まあ、可い加減にして、疾く一人貰っちゃどうだ。人の事より御自分が。そうすりゃ遊蕩も留みます。安保箭五郎悪い事は言わないが、どうだ。」
「むむ、その事だがね。」
とぐったりしていた胸を起して、また手巾で口を拭いて、なぜか、縞のズボンを揃えて、ちゃんと畏まって、
「実はその事なんだ。」
「何がその事だ。」
「やっぱりその事だ。」
「いずれその事だろう。」
「ええ、知ってるのか。」
「ちっとも知らない、」
と煙管を取って、
「いや、真面目に真面目に、何か、心当りでも出来たかね。」
縁談
十六
時に河野がその事と言えば、いずれ婦に違いないが、早瀬はいつもこの人から、その収紅拾紫、鶯を鳴かしたり、蝶を弄んだりの件について、いや、ああ云ったがこれは何と、こう申したがそれは如何。無心をされたがどうしたものか、なるべくは断りたい、断ったら嫌われようか、嫌われては甚だ不好い。一体恋でありながら金子をくれろは変な工合だ、妙だよ。その意志のある処を知るに苦む、などと、※[#「そろべくそろ」の合字、59-2]紅をさして、蚯蚓までも突附けて、意見? を問われるには恐れている。
誇るに西洋料理七皿をもってする、式のごとき若様であるから、冷評せば真に受ける、打棄って置けば悄げる、はぐらかしても乗出す。勢い可い加減にでも返事をすれば、すなわち期せずして遊蕩の顧問になる。尠からず悩まされて、自分にお蔦と云う弱点があるだけ、人知れず冷汗が習であったから、その事ならもう聞くまい、と手強く念を入れると、今夜はズボンの膝を畏っただけ大真面目。もっとも馴染の相談も串戯ではないのだけれども。特に更って、ついにない事、もじもじして、
「実はね、母様も云ったんだ、君に相談をして見ろと……」
「縁談だね、真面目な。」
珍らしそうに顔を見て、
「母様から御声懸りで、僕に相談と云う縁談の口は、当時心当りが無いが。ああ、」
と軽く膝を叩いた。
「隣家のかい。むむ、あれは別嬪だ。ちょいと高慢じゃあるが、そのかわり学校はなかなか出来るそうだ。」
英吉は小児のように頭を振って、
「ううむ、違うよ。」
「違う。じゃ誰だい。」
と落着いて尋ねると、慌てて衣兜へ手を突込み、肩を高うして、一ツ揺って、
「真砂町の、」
「真砂町」
と聞くや否や、鸚鵡返しに力が入った。床の間にしっとりと露を被いだ矢車の花は、燈の明を余所に、暖か過ぎて障子を透した、富士見町あたりの大空の星の光を宿して、美しく活っている。
見よ、河野が座を、斜に避けた処には、昨日の袖の香を留めた、友染の花も、綾の霞も、畳の上を消えないのである。
真砂町、と聞返すと斉しく、屹とその座に目を注いだが、驚破と謂わば身をもって、影をも守らん意気組であった。
英吉はまた火箸を突支棒のようにして、押立尻をしながら、火鉢の上へ乗掛って、
「あの、酒井ね、君の先生の。あすこに娘があるんだね。」
「あるさ、」と云ったが、余り取っても着けないようで、我ながら冷かに聞えたから、
「知らなかったかな、君は。随分その方へかけちゃ、脱落はあるまいに。」
「洋燈台下暗しで、(と大に洒落れて、)さっぱり気が付かなかった。君ン許へもちょいちょい遊びに来るんだろう。」
「お成りがあるさ。僕には御主人だ。」
「じゃ一度ぐらい逢いそうなものだった。」
何か残惜く、かごとがましく、不平そうに謂ったのが、なぜ見せなかった、と詰るように聞えたので、早瀬は石を突流すごとく、
「縁が無かったんだろうよ。」
「ところがあります、ははは、」と、ここでまた相好とともに足を崩して、ぐたりと横坐りになって、
「思うに逢わずして思わざるに……じゃない。向うも来れば僕も来るのに、此家で逢いそうなものだったが、そうでなくって君、学校で見たよ。ああ、あの人の行く学校で、妙子さんの行く学校で。」
と、何だか話しに乗らないから、畳かけて云った。妙子、と早や名のこの男に知られたのを、早瀬はその人のために恥辱のように思って、不快な色が眉の根に浮んだ。
「どうして、学校で、」
とこの際わざと尋ねたのである。母子で参観したことは、もう心得ていたのに。
十七
「どうもこうも無いさ。母様と二人で参観に出掛けたんだ。教頭は僕と同窓だからね。先にから来て見い、来て見い、と云うけれど、顔の方じゃ大した評判の無い学校だから、馬鹿にしていたが驚いたね。勿論五年級にゃ佳いのが居ると云ったっけが、」
「じゃあその教頭、媒酌人も遣るんだな。」
と舌尖三分で切附けたが、一向に感じないで、
「遣るさ。そのかわり待合や、何かじゃ、僕の方が媒酌人だよ。」
「怪しからん。黒と白との、待て? 海老茶と緋縮緬の交換だな。いや、可い面の皮だ。ずらりと並べて選取りにお目に掛けます、小格子の風だ。」
「可いじゃないか、学校の目的は、良妻賢母を造るんだもの、生理の講義も聞かせりゃ、媒酌もしようじゃあないか。」
とこの人にして大警句。早瀬は恐入った体で、
「成程、」
「勿論人を見てするこッた、いくら媒酌人をすればッて、人ごとに許しゃしない。そこは地位もあり、財産もあり、学位も有るもんなら、」
と自若として、自分で云って、意気頗る昂然たりで、
「講堂で良妻賢母を拵えて、ちゃんと父兄に渡す方が、双方の利益だもの。教頭だって、そこは考えているよ。」
「で何かね、」
早瀬は、斜めに開き直って、
「そこで僕の、僕の先生の娘を見たんだな。」
「ああ、しかも首席よ。出来るんだね。そうして見た処、優美で、品が良くって、愛嬌がある。沢山ない、滅多にないんだ。高級三百顔色なし。照陽殿裏第一人だよ。あたかも可、学校も照陽女学校さ。」
と冷えた茶をがぶりと一口。浮かれの体とおいでなすって、
「はは、僕ばかりじゃない、第一母様が気に入ったさ。あれなら河野家の嫁にしても、まあまあ……恥かしくない、と云って、教頭に尋ねたら、酒井妙子と云うんだ。ちょっと、教員室で立話しをしたんだから、委いことは追てとして、その日は帰った。
すると昨日、母様がここへ訪ねて来たろう。帰りがけに、飯田町から見附を出ようとする処で、腕車を飛ばして来た、母衣の中のがそれだッたって、矢車の花を。」
と言いかけて、床の間を凝と見て、
「ああ、これだこれだ。」
ひょいと腰を擡げて、這身にぬいと手を伸ばした様子が、一本引抜きそうに見えたので、
「河野!」
「ええ、」
「それから。おい、肝心な処だ。フム、」
乗って出たのに引込まれて、ト居直って、
「あの砂埃の中を水際立って、駈け抜けるように、そりゃ綺麗だったと云うのだ。立留って見送ると、この内の角へ車を下ろしたろう。
そろそろ引返したんです、母様がね。休んでいた車夫に、今のお嬢さんは真中の家へですか。へい、さようで、と云うのを聞いて帰ったのさね。」
と早口に饒舌って、
「美人だねえ。君、」とゆったり顔を見る。
「ト遣った工合は、僕が美人のようだ、厭だ。結婚なんぞ申込んじゃ、」と笑いながら、大に諷するかのごとくに云って、とんと肩を突いて、
「浮気ものめ。」
「浮気じゃない、今度ばかしゃ大真面目だがね、君、どうかなるまいか。」
また甘えるように、顔を正的に差出して、頤を支えた指で、しきりに忙く髯を捻る。
早瀬はしばらく黙ったが、思わず拱いていた腕に解くと、背後ざまに机に肱、片手をしかと膝に支いて、
「貰うさ。」
「え。」
「お貰いなさい。」
「くれようか。」
「話によっちゃ、くれましょう。」
「後継者じゃないんだね。」
「勿論後継者じゃあない。」
「じゃ、まあ、話は出来るとして、」と、澄まして云って、今度は心ありげに早瀬の顔を。
「だが、何だよ、私ア」と云った調子が変って、
「媒介人は断るぜ、照陽女学校の教頭じゃないんだから。」
十八
そうすると英吉が、かねて心得たりの態度で、媒酌人は勿論、しかるべき人をと云ったのが、其許ごときに勤まるものかと、軽んじ賤しめたように聞えて、
「そりゃ、いざとなりゃ、教育界に名望のある道学者先生の叔父もあるし、また父様の幕下で、現下その筋の顕職にある人物も居るんだから、立派に遣ってくれるんだけれど、その君、媒酌人を立てるまでに、」
と手を揃えて、火鉢の上へ突出して、じりりと進み、
「先方の身分も確めねばならず、妙子、(ともう呼棄てにして)の品行の点もあり、まあ、学校は優等としてだね。酒井は飲酒家だと云うから、遺伝性の懸念もありだ。それは大丈夫としてからが、ああいう美しいのには有りがちだから、肺病の憂があってはならず、酒井の親属関係、妙子の交友の如何、そこらを一つ委しく聞かして貰いたいんだがね。」
主税は堪りかねて、ばりばりと烏府の中を突崩した。この暖いのに、河野が両手を翳すほど、火鉢の火は消えかかったので、彼は炭を継ごうとして横向になっていたから、背けた顔に稲妻のごとく閃いた額の筋は見えなかったが、
「もう一度聞こう、何だっけな。先方の身分?」
「うむ、先方の身分さ。」
「独逸文学者よ、文学士だ……大学教授よ。知ってるだろう、私の先生だ。」
「むむ、そりゃ分ってるがね、妙子の品行の点もあり、」
「それから、」
「遺伝さ、」
「肺病かね、」
「親族関係、交友の如何さ。何、友達の事なんぞ、大した条件ではないよ。結婚をすれば、処女時代の交際は自然に疎くなるです。それに母様が厳しく躾れば、その方は心配はないが、むむ、まだ要点は財産だ。が、酒井は困っていやしないだろうか。誰も知った侠客風の人間だから、人の世話をすりゃ、つい物費も少くない。それにゃ、評判の飲酒家だし、遊ぶ方も盛だと云うし、借金はどうだろう。」
主税は黙って、茶を注いだが、強いて落着いた容子に見えた。
「何かね、持参金でも望みなのかね。」
「馬鹿を謂いたまえ。妹たちを縁附けるに、こちらから持参はさせるが、僕が結婚するに、いやしくも河野の世子が持参金などを望むものか。
君、僕の家じゃ、何だ、女の児が一人生れると、七夜から直ぐに積立金をするよ。それ立派に支度が出来るだろう。結婚してからは、その利息が化粧料、小遣となろうというんだ。自然嫁入先でも幅が利きます。もっともその金を、婿の名に書き替るわけじゃないが、河野家においてさ、一人一人の名にして保管してあるんだから、例えば婿が多日月給に離れるような事があっても、たちまち破綻を生ずるごとき不面目は無い。
という円満な家庭になっているんだ。で先方の財産は望じゃないが、余り困っているようだと、親族の関係から、つい迷惑をする事になっちゃ困る。娘の縁で、一時借用なぞというのは有がちだから。」
「酒井先生は江戸児だ!」
と唐突に一喝して、
「神田の祭礼に叩き売っても、娘の縁で借りるもんかい。河野!」
と屹と見た目の鋭さ。眉を昂げて、
「髯があったり、本を読んだり、お互の交際は窮屈だ。撲倒すのを野蛮と云うんだ。」
お蔦は湯から帰って来た。艶やかな濡髪に、梅花の匂馥郁として、繻子の襟の烏羽玉にも、香やは隠るる路地の宵。格子戸を憚って、台所の暗がりへ入ると、二階は常ならぬ声高で、お源の出迎える気勢もない。
石鹸を巻いた手拭を持ったままで、そっと階子段の下へ行くと、お源は扉に附着いて、一心に聞いていた。
十九
「先生が酒を飲もうと飲むまいと、借金が有ろうと無かろうと、大きなお世話だ。遺伝が、肺病が、品行が何だ。当方からお給事をしようと云うんじゃなし、第一欲しいと仰有ったって、差上げるやら、平に御免を被るやら、その辺も分らないのに、人の大切な令嬢を、裸体にして検査するような事を聞くのは、無礼じゃないか。
私あ第一、河野。世間の宗教家と称うる奴が、吾々を捕えて、罪の児だの、救ってやるのと、商売柄好な事を云う。薬屋の広告は構わんが、しらきちょうめんな人間に向って罪の子とは何んだい。本人はともかくも、その親たちに対して怪しからん言種だと思ってるんです。
今君が尋問に及んだ、先生の令嬢の身許検べの条件が、ただの一ケ条でもだ。河野英吉氏の意志から出たのなら、私はもう学者や紳士の交際は御免蒙る。そのかわりだ、半纏着の附合いになって撲倒すよ。はははは、えい、おい、」
と調子が砕けて、
「母様の指揮だろう、一々。私はこうして懇意にしているからは、君の性質は知ってるんだ。君は惚れたんだろう。一も二もなく妙ちゃんを見染たんだ。」
「うう、まあ……」と対手の血相もあり、もじもじする。
「惚れてよ、可愛い、可憐いものなら、なぜ命がけになって貰わない。
結婚をしたあとで、不具になろうが、肺病になろうが、またその肺病がうつって、それがために共々倒れようが、そんな事を構うもんか。
まあ、何は措いて、嫁の内の財産を云々するなんざ、不埒の到だ。万々一、実家の親が困窮して、都合に依って無心合力でもしたとする。可愛い女房の親じゃないか。自分にも親なんだぜ、余裕があったら勿論貢ぐんだ。無ければ断る。が、人情なら三杯食う飯を一杯ずつ分るんだ。着物は下着から脱いで遣るのよ。」
と思い入った体で、煙草を持った手の尖がぶるぶると震えると、対手の河野は一向気にも留めない様子で、ただ上の空で聞いて首だけ垂れていたが、かえって襖の外で、思わずはらはらと落涙したのはお蔦である。
何の話? と声のはげしいのを憂慮って、階子段の下でそっと聞くと、縁談でございますよ、とお源の答えに、ええ、旦那の、と湯上りの颯と上気した顔の色を変えたが、いいえ、河野様が御自分の、と聞いて、まあ、と呆れたように莞爾して、忍んで段を上って、上り口の次の室の三畳へ、欄干を擦って抜足で、両方へ開けた襖の蔭へ入ったのを、両人には気が付かずに居るのである。
と河野は自分には勢のない、聞くものには張合のない口吻で、
「だが、母さんが、」
「母様が何だ。母様が娶うんじゃあるまい、君が女房にするんじゃないか。いつでもその遣方だから、いや、縁談にかかったの、見合をしたの、としばしば聞かされるのが一々勘定はせんけれども、ざっと三十ぐらいあった。その内、君が、自分で断ったのは一ツもあるまい。皆母さんがこう云った。叔父さんが、ああだ、父さんが、それだ、と難癖を附けちゃ破談だ。
君の一家は、およそどのくらいな御門閥かは知らん。河野から縁談を申懸けられる天下の婦人は、いずれも恥辱を蒙るようで、かねて不快に堪えんのだ。
昔の国守大名が絵姿で捜せば知らず、そんな御註文に応ずるのが、ええ、河野、どこにだってあるものか。」
と果は歎息して云うのであった。河野は急に景気づいて、
「何、無いことはありゃしない。そりゃ有るよ。君、僕ン許の妹たちは、誰でもその註文に応ずるように仕立ててあるんだ。
揃って容色も好、また不思議に皆別嬪だ。知ってるだろう。生れたての嬰児の時は、随分、おかしな、色の黒いのもあるけれど、母さんが手しおに掛けて、妙齢にするまでには、ともかくも十人並以上になるんだ、ね、そうじゃないか。」
主税は返す言もなく、これには否応なく頷かされたのである。蓋し事実であるから。
一家一門
二十
「それから、財産は先刻も謂った通り、一人一人に用意がしてある。病気なり、何なりは、父様も兄も本職だから注意が届くよ。その他は万事母様が預かって躾けるんだ。
好嫌は別として、こちらで他に求める条件だけは、ちゃんとこちらにも整えてあるんだから、強ち身勝手ばかり謂うんじゃない。
けれども、品行の点は、疑えば疑えると云うだろう。そこはね、性理上も斟酌をして、そろそろ色気が、と思う時分には、妹たちが、まだまだ自分で、男をどうのこうのという悪智慧の出ない先に、親の鑑定で、婿を見附けて授けるんです。
否も応も有りやしない。衣服の柄ほども文句を謂わんさ。謂わない筈だ、何にも知らないで授けられるんだから。しかし間違いはない、そこは母さんの目が高いもの。」
「すると何かね、婿を選ぶにも、およそその条件が満足に解決されないと不可んのだね。」
「勿論さ、だから、皆円満に遣っとるよ。第一の姉が医学士さね、直の妹の縁附いているのが、理学士。その次のが工学士。皆食いはぐれはないさ。……今また話しのある四番目のも医学士さ、」
「妙に選取って揃えたもんだな。」
「うむ、それは父様の主義で、兄弟一家一門を揃えて、天下に一階級を形造ろうというんだ。なるべくは、銘々それぞれの収入も、一番の姉が三百円なら、次が二百五十円、次が二百円、次が百五十円、末が百円といった工合に長幼の等差を整然と附けたいというわけだ。
先ず行われている、今の処じゃ。そうしてその子、その孫、と次第にこの社会における地位を向上しようというのが理想なんです。例えば、今の代が学士なら、その次が博士さ、大博士さね。君。
謂って見れば、貴族院も、一家族で一党を立てることが出来る。内閣も一門で組織し得るようにという遠大の理想があるんだ。また幸に、父様にゃ孫も八九人出来た。姪を引取って教育しているのも三四人ある。着々として歩を進めている。何でも妹たちが人才を引着けるんだ。」
人事ながら、主税は白面に紅を潮して、
「じゃ、君の妹たちは、皆学士を釣る餌だ。」
「餌でも可い、構わんね。藤原氏の為だもの。一人や二人犠牲が出来ても可いが、そりゃ大丈夫心配なしだ。親たちの目は曇りやしない。
次第々々に地位を高めようとするんだから、奇才俊才、傑物は不可ん。そういうのは時々失敗を遣る。望む処は凡才で間違いの無いのが可いのだ。正々堂々の陣さ、信玄流です。小豆長光を翳して旗下へ切込むようなのは、快は快なりだが、永久持重の策にあらず……
その理想における河野家の僕が中心なんだろう。その中心に据ろうという妻なんだから、大に慎重の態度を取らんけりゃならんじゃないか。詰り一家の女王なんだから、」
河野は、渠がいわゆる正々堂々として説くこと一条。その理想における根ざしの深さは、この男の口から言っても、例の愚痴のように聞えるのや、その落着かない腰には似ない、ほとんど動かすべからざる、確乎としたものであった。
「いや、よく解った、成程その主義じゃ、人の娘の体格検査をせざあなるまい。しかし私は厭だ! 私の娘なら断るよ、たとい御試験には及第を致しましても、」
と冷かに笑うと、河野は人物に肖ず、これには傲然として、信ずる処あるごとく、合点んだ笑い方をして、
「でも、条件さえ通過すれば、僕は娶うよ。ははは、きっと貰うね、おい、一本貰って行くぜ。」
と脱兎のごとく、かねて計っていたように、この時ひょいと立つと、肩を斜めに、衣兜に片手を突込んだまま、急々と床の間に立向うて、早や手が掛った、花の矢車。
片膝立てて、颯と色をかえて、
「不可いよ。」
「なぜかい?」
と済まして見返る。主税は、ややあせった気味で、
「なぜと云って、」
「はははは、そこが、肝心な処だ、と母様が云ったんだ。」
と突立ったまま、ニヤリとして、
「早瀬、君がどうかしているんじゃないか、ええ、おい、妙子を。」
二十一
冷か、熱か、匕首、寸鉄にして、英吉のその舌の根を留めようと急ったが、咄嗟に針を吐くあたわずして、主税は黙って拳を握る。
英吉は、ここぞ、と土俵に仕切った形で、片手に花の茎を引掴み、片手で髯を捻りながら、目をぎろぎろと……ただ冴えない光で、
「だろう、君、筒井筒振分髪と云うんだろう。それならそう云いたまえ、僕の方にもまた手加減があるんだ、どうだね。」
信玄流の敵が、かえってこの奇兵を用いたにも係らず、主税の答えは車懸りでも何でもない、極めて平凡なものであった。
「怪しからん事を云うな、串戯とは違う、大切なお嬢さんだ。」
「その大切のお嬢さんをどうかしているんじゃないか、それとも心で思ってるんか。」
「怪しからん事を云うなと云うのに。」
「じゃ確かい。」
「御念には及びません。」
「そんなら何も、そう我が河野家の理想に反対して、人が折角聞こうとする、妙子の容子を秘さんでも可いじゃないか。話が纏まりゃ、その人にも幸福だよ、河野一党の女王になるんだ。」
「幸か、不幸か、そりゃ知らん、が、私は厭だ。一門の繁栄を望むために、娘を餌にするの、嫁の体格検査をするの、というのは真平御免だ。惚れたからは、癩でも肺病でも構わんのでなくっちゃ、妙ちゃんの相談は決してせん。勿論お嬢は瑕のない玉だけれど、露出しにして河野家に御覧に入れるのは、平相国清盛に招かれて月が顔を出すようなものよ。」といささか云い得て濃い煙草を吻と吐いたは、正にかくのごとく、山の端の朧気ならん趣であった。
「なら可い、君に聞かんでも余処で聞くよ。」
と案外また英吉は廉立った様子もなく、争や勝てりの態度で、
「しかし縁起だ、こりゃ一本貰って行くよ。妙子が御持参の花だから、」
「…………」
「君がどうと云う事も無いのなら、一本二本惜むにゃ当るまい、こんなに沢山あるものを、」
「…………」
「失敬、」
あわや抜き出そうとする。と床しい人香が、はっと襲って、
「不可ませんよ。」と半纏の襟を扱きながら、お蔦が襖から、すっと出て、英吉の肩へ手を載せると、蹌踉けるように振向く処を、入違いに床の間を背負って、花を庇って膝をついて、
「厭ですよ、私が活けたのが台なしになります。」
と嫣然として一笑する。
「だって、だって君、突込んであるんじゃないか、池の坊も遠州もありゃしない。ちっとぐらい抜いたって、あえてお手前が崩れるというでもないよ。」
とさすがに手を控えて、例の衣兜へ突込んだが、お蔦の目前を、(子を捉ろ、子捉ろ。)の体で、靴足袋で、どたばた、どたばた。
「はい、これは柳橋流と云うんです。柳のように房々活けてありましょう、ちゃんと流儀があるじゃありませんか。」
「嘘を吐きたまえ、まあ可いから、僕が惚込んだ花だから。」
主税は火鉢をぐっと手許へ。お蔦はすらりと立って、
「だってもう主のある花ですもの。」
「主がある!」と目をる。
「ええ、ありますとも、主税と云ってね。」
「それ見ろ、早瀬、」
「何だ、お前、」
「いいえ、貴下、この花を引張るのは、私を口説くのと同一訳よ。主があるんですもの。さあ、引張って御覧なさい。」
と寄ると、英吉は一足引く。
「さあ、口説いて頂戴、」
と寄ると、英吉は一足引く。微笑みながら擦り寄るたびに、たじたじと退って、やがて次の間へ、もそりと出る。
道学先生
二十二
月の十二日は本郷の薬師様の縁日で、電車が通るようになっても相かわらず賑かな。書肆文求堂をもうちっと富坂寄の大道へ出した露店の、いかがわしい道具に交ぜて、ばらばら古本がある中の、表紙の除れた、けばの立った、端摺の甚い、三世相を開けて、燻ぼったカンテラの燈で見ている男は、これは、早瀬主税である。
何の事ぞ、酒井先生の薫陶で、少くとも外国語をもって家を為し、自腹で朝酒を呷る者が、今更いかなる必要があって、前世の鸚鵡たり、猩々たるを懸念する?
もっとも学者だと云って、天気の好い日に浅草をぶらついて、奥山を見ないとも限らぬ。その時いかなる必要があって、玉乗の看板を観ると云う、奇問を発するものがあれば、その者愚ならずんば狂に近い。鰻屋の前を通って、好い匂がしたと云っても、直ぐに隣の茶漬屋へ駈込みの、箸を持ちながら嗅ぐ事をしない以上は、速断して、伊勢屋だとは言憎い。
主税とても、ただ通りがかりに、露店の古本の中にあった三世相が目を遮ったから、見たばかりだ、と言えばそれまでである。けれども、渠は目下誰かの縁談に就いて、配慮しつつあるのではないか。しかも開けて見ている処が――夫婦相性の事――は棄置かれぬ。
且つその顔色が、紋附の羽織で、の厚い内君と、水兵服の坊やを連れて、別に一人抱いて、鮨にしようか、汁粉にしようか、と歩行っている紳士のような、平和な、楽しげなものではなく、主税は何か、思い屈した、沈んだ、憂わしげな色が見える。
好男子世に処して、屈託そうな面色で、露店の三世相を繰るとなると、柳の下に掌を見せる、八卦の亡者と大差はない、迷いはむしろそれ以上である。
所以ある哉、主税のその面上の雲は、河野英吉と床の間の矢車草……お妙の花を争った時から、早やその影が懸ったのであった。その時はお蔦の機知で、柔能く強を制することを得たのだから、例なら、いや、女房は持つべきものだ、と差対いで祝杯を挙げかねないのが、冴えない顔をしながら、湯は込んでいたか、と聞いて、フイと出掛けた様子も、その縁談を聞いた耳を、水道の水で洗わんと欲する趣があった。
本来だと、朋友が先生の令嬢を娶りたいに就いて、下聴に来たものを、聞かせない、と云うも依怙地なり、料簡の狭い話。二才らしくまた何も、娘がくれた花だといって、人に惜むにも当らない。この筆法をもってすれば、情婦から来た文殻が紛込んだというので、紙屑買を追懸けて、慌てて盗賊と怒鳴り兼ねまい。こちの人措いて下さんせ、と洒落にも嗜めてしかるべき者までが、その折から、ちょいと留女の格で早瀬に花を持せたのでも、河野一家に対しては、お蔦さえ、如何の感情を持つかが明かに解る。
それは英吉と、内の人の結婚に対する意見の衝突の次第を、襖の蔭で聴取ったせいもあろう。
そうでなくっても、惚れそうな芸妓はないか。新学士に是非と云って、達引きそうな朋輩はないか、と煩く尋ねるような英吉に、厭なこった、良人が手を支いてものを言う大切なお嬢さんを、とお蔦はただそれだけでさえ引退る。処へ、幾条も幾条も家中の縁の糸は両親で元緊をして、颯さらりと鵜縄に捌いて、娘たちに浮世の波を潜らせて、ここを先途と鮎を呑ませて、ぐッと手許へ引手繰っては、咽喉をギュウの、獲物を占め、一門一家の繁昌を企むような、ソンな勘作の許へお嬢さんを嫁られるもんか。
いいえ、私が肯かないわ、とお源をつかまえて談ずる処へ、熱い湯だった、といくらか気色を直して、がたひし、と帰って来た主税に、ちょいとお前さん、大丈夫なんですか、とお蔦の方が念を入れたほどの勢。
二十三
何が大丈夫だか、主税には唐突で、即座には合点しかねるばかり、お蔦の方の意気込が凄じい。
まだ、取留めた話ではなし、ただ学校で見初めた、と厭らしく云う。それも、恋には丸木橋を渡って落ちてこそしかるべきを、石の橋を叩いて、杖を支いて渡ろうとする縁談だから、そこいら聴合わせて歩行く中に、誰かの口で水を注せば、直ぐに川留めの洪水ほどに目を廻わしてお流れになるだろう。
けれども、なぜか、母子連で学校へ観に行った、と聞いただけで、お妙さんを観世物にし、またされたようで癪に障った。しかし物にはなるまいよ、と主税が落着くと、いいえ、私は心配です。どこをどう聞き廻ったって、あのお嬢さんに難癖を着けるものはありません。いずれ真砂町様へ言入れるに違いますまい。それに河野と云う人が、他に取柄は無いけれど、ただ頼もしいのが押の強いことなんですから、一押二押で、悪くすると出来ますよ。出来るような気がしてならない。私は何だかもうお妙さんが、ぺろぺろと嘗められる夢を見て、今夜にも寝ていて魘されそうで、お可哀相でなりません。貴郎油断をしちゃ厭ですよ、と云った――お蔦の方が、その晩毛虫に附着かれた夢を見た。いつも河野のその眉が似ていると思ったから。――
もっとも河野は、綺麗に細眉にしていたが、剃りづけませぬよう、と父様の命令で、近頃太くしているので、毛虫ではない、臥蚕である。しかるにこの不生産的の美人は、蚕の世を利するを知らずして、毛虫の厭うべきを恐れていた、不心得と言わねばならぬ。
で、お蔦は、たとい貴郎が、その癖、内々お妙さんに岡惚をしているのでも可い。河野に添わせるくらいなら、貴郎の令夫人にして私が追出される方がいっそ増だ、とまで極端に排斥する。
この異体同心の無二の味方を得て、主税も何となく頼母しかったが、さて風はどこを吹いていたか、半月ばかりは、英吉も例になく顔を見せなかった。
と一日、
(早瀬氏は居らるるかね。)
応柄のような、そうかと云って間違いの無いような訪ずれ方をして、お源に名刺を取次がせた者がある。
主税は、しかかっていた翻訳の筆を留めて、請取って見ると、ちょっと心当りが無かったが、どんな人だ、と聞くと、あの、痘痕のおあんなさいます、と一番疾く目についた人相を言ったので、直ぐ分った。
本名坂田礼之進、通り名をアバ大人、誰か早口な男がタの字を落した。ゆっくり言えばアバタ大人、どちらでもよく通る。通りが可ければと言って、渾名を名刺に書くものはない。手札は立派に、坂田礼之進……傍へ羅馬字で、L. Sakata.
すなわち歴々の道学者先生である。
渠の道学は、宗教的ではない、倫理的、むしろ男女交際的である。とともに、その痘痕と、細君が若うして且つ美であるのをもって、処々の講堂においても、演説会においても、音に聞えた君子である。
謂うまでもなく道徳円満、ただしその細君は三度目で、前の二人とも若死をして、目下のがまた顔色が近来、蒼い。
と云ってあえて君子の徳を傷けるのではない、が、要のないお饒舌をするわけではない。大人は、自分には二度まで夫人を殺しただけ、盞の数の三々九度、三度の松風、ささんざの二十七度で、婚姻の事には馴れてござる。
処へ、名にし負う道学者と来て、天下この位信用すべき媒妁人は少いから、呉も越も隔てなく口を利いて巧く纏める。従うて諸家の閨門に出入すること頻繁にして時々厭らしい! と云う風説を聞く。その袖を曳いたり、手を握ったりするのが、いわゆる男女交際的で、この男の余徳であろう。もっとも出来た験はない。蓋しせざるにあらず能わざるなりでも何でも、道徳は堅固で通る。於爰乎、品行方正、御媒妁人でも食って行かれる……
二十四
道学先生の、その坂田礼之進であるから、少くともめ組が出入りをするような家庭? へ顔出しをする筈がない。と一度は怪んだが、偶然河野の叔父に、同一道学者何某の有るのに心付いて、主税は思わず眉を寄せた。
諸家お出入りの媒妁人、ある意味における地者稼の冠たる大家、さては、と早やお妙の事が胸に応えて、先ずともかくも二階へ通すと、年配は五十ばかり。推しものの痘痕は一目見て気の毒な程で、しかも黒い。字義をもって論ずると月下氷人でない、竈下炭焼であるが、身躾よく、カラアが白く、磨込んだ顔がてらてらと光る。地の透く髪を一筋梳に整然と櫛を入れて、髯の尖から小鼻へかけて、ぎらぎらと油ぎった処、いかにも内君が病身らしい。
さて、お初にお目に懸りまする、いかがでごわりまするか、ますます御翻訳で、とさぞ食うに困って切々稼ぐだろう、と謂わないばかりな言を、けろりとして世辞に云って、衣兜から御殿持の煙草入、薄色の鉄の派手な塩瀬に、鉄扇かずらの浮織のある、近頃行わるる洋服持。どこのか媒妁人した御縁女の贈物らしく、貰った時の移香を、今かく中古に草臥れても同一香の香水で、追かけ追かけ香わせてある持物を取出して、気になるほど爪の伸びた、湯が嫌らしい手に短い延の銀煙管、何か目出度い薄っぺらな彫のあるのを控えながら、先ず一ツ奥歯をスッと吸って、寛悠と構えた処は、生命保険の勧誘も出来そうに見えた。
甚だ突然でごわりまするが、酒井俊蔵氏令嬢の儀で……ごわりまして、とまたスッと歯せせりをする。
それ、えへん! と云えば灰吹と、諸礼躾方第一義に有るけれども、何にも御馳走をしない人に、たといが葱臭かろうが、干鱈の繊維が挟っていそうであろうが、お楊枝を、と云うは無礼に当る。
そこで、止むことを得ず、むずむずする口を堪える下から、直ぐに、スッとまたぞうろ風を入れて、でごわりまするに就いて、かような事は、余り正面から申入れまするよりと、考えることでごわりまする……と掻つまんで謂えば、自分はいまだ一面識も無いから、門生の主税から紹介をして貰いたいと言うのである。
南無三、橋は渡った、いつの間にか、お妙は試験済の合格になった。
今は表向に縁談を申込むばかりにしたらしい。それに、自分に紹介を求めるのは、英吉に反対した廉もあり、主税は面当をされるように擽たく思ったばかりか、少からず敵の機敏に、不意打を食ったのである。
いや、お断り申しましょう、英吉君に難癖のある訳ではないが、河野家の理想と言うものが根も葉も挙げて気に入らない。余所で紹介をお求めなさるなり、また酒井先生は紹介の有り無しで、客の分隔をするような人ではないから――直接にお話しなすって、御縁があれば纏る分。心に潔しとしない事に、名刺一枚御荷担は申兼ぬる、と若武者だけに逸ってかかると、その分は百も合点で、戦場往来の古兵。
取りあえず、スースーと歯をすすって、ニヤニヤと笑いかけて、何か令嬢お身の上に就いて、下聴をするのが、御賛成なかったとか申すことでごわりましたな。御説に因れば、好いた女なら娼妓でも(と少しおまけをして、)構わん、死なば諸共にと云う。いや、人生意気を重んず、(ト歯をすすって)で、ごわりまするが、世間もあり親もあり……
とこれから道学者の面目を発揮して、河野のためにその理想の、道義上完美にして非難すべき点の無いのを説くこと数千言。約半日にして一先ず日暮前に立帰った。ざっと半日居たけれども、飯時を避けるなぞは、さすがに馴れたものである。
二十五
客が来れば姿を隠すお蔦が内に居るほどで、道学先生と太刀打して、議論に勝てよう道理が無い。主税の意気ずくで言うことは、ただ礼之進の歯ですすられるのみであったが、厭なものは厭だ、と城を枕に討死をする態度で、少々自棄気味の、酒井先生へ紹介は断然、お断り。
そこを一つお考え直されて、と言を残して帰った後で、アバ大人が媒妁ではなおの事。とお妙の顔が蒼くなって殺されでもするように、酒も飲まないで屈託をする、とお蔦はお蔦で、かくまってあった姫君を、鐘を合図に首討って渡せ、と懸合われたほどの驚き加減。可愛い夫が可惜がる大切なお主の娘、ならば身替りにも、と云う逆上せ方。すべてが浄瑠璃の三の切を手本だが、憎くはない。
さあ、貴郎、そうしていらっしゃる処ではありません、早く真砂町へおいでなすって、先生が何なら奥様まで、あんな許へは御相談なさいませんように、お頼みなさらなくッちゃ不可ません。ちょいと、羽織を着換えて、と箪笥をがたりと引いて、アア、しばらく御無沙汰なすった、明日め組が参りますから、何ぞお土産をお持ちなさいまし、先生はさっぱりしたものがお好きだ、と云うし、彼奴が片思いになるように鮑がちょうど可い、と他愛もない。
馬鹿を云え、縁談の前へ立って、讒口なんぞ利こうものなら、己の方が勘当だ、そんな先生でないのだから、と一言にして刎ねられた、柳橋の策不被用焉。
また考えて見れば、道学者の説を待たずとも、河野家に不都合はない。英吉とても、ただちとだらしの無いばかり、それに結婚すれば自然治まる、と自分も云えば、さもあろう。人の前で、母様と云おうが、父様と云おうが、道義上あえて差支はない、かえって結構なくらいである。
そのこれを難ずるゆえんは……曰く……言い難しだから、表向きはどこへも通らぬ。
困ったな、と腕を組めば、困りましたねえ、とお蔦も鬱ぐ。
ここへ大いなる福音を齎らし来ったのはお源で。
手廻りの使いに遣ったのに、大分後れたにもかかわらず、水口の戸を、がたひし勢よく、唯今帰りました、あの、御新造様、大丈夫でございます。
明後日出来るのかい、とお蔦がきりもりで、夏の掻巻に、と思って古浴衣の染を抜いて形を置かせに遣ってある、紺屋へ催促の返事か、と思うと、そうでない。
この忠義ものは、二人の憂を憂として、紺屋から帰りがけに、千栽ものの、風呂敷包を持ったまま、内の前を一度通り越して、見附へ出て、土手際の売卜者に占て貰った、と云うのであった。
対手は学士の方ですって、それまで申して占て貰いましたら、とても縁は無い断念めものだ、と謂いましたから、私は嬉しくって、三銭の見料へ白銅一つ発奮みました。可い気味でございますと、独りで喜んでアハアハ笑う。
まあ、嬉しいじゃないか、よく、お前、お嬢さんの年なんか知っていたね、と云うと、勿怪な顔をして、いいえ、誰方のお年も存じません。お蔦は腑に落ちない容子をして、売卜者は、年紀を聞きゃしないかい。ええ、聞きましたから私の年を謂ってやりました。
当前よ、対手が学士でお前じゃ、と堪りかねて主税が云うのを聞いて、目をって、しばらくして、ええ! 口惜いと、台所へ逃込んで、売卜屋の畜生め、どたどたどた。
二人は顔を見合せて、ようように笑が出た。
すぐにお蔦が、新しい半襟を一掛礼に遣って、その晩は市が栄えたが。
二三日経って、ともかく、それとなく、お妙がお持たせの重箱を返しかたがた、土産ものを持って、主税が真砂町へ出向くと、あいにく、先生はお留守、令夫人は御墓参、お妙は学校のひけが遅かった。
二十六
仮にその日、先生なり奥方なりに逢ったところで、縁談の事に就いて、とこう謂うつもりでなく、また言われる筋でもなかったが、久闊振ではあり、誰方も留守と云うのに気抜けがする。今度来た玄関の書生は馴染が薄いから、巻莨の吸殻沢山な火鉢をしきりに突着けられても、興に乗る話も出ず。しかしこの一両日に、坂田と云う道学者が先生を訪問はしませんか、と尋ねて、来ない、と聞いただけを取柄。土産ものを包んで行った風呂敷を畳みもしないで突込んで、見ッともないほど袂を膨らませて、ぼんやりして帰りがけ、その横町の中程まで来ると、早瀬さん御機嫌宜しゅう、と頓興に馴々しく声を懸けた者がある。
玄関に居た頃から馴染の車屋で、見ると障子を横にして眩い日当りを遮った帳場から、ぬい、と顔を出したのは、酒井へお出入りのその車夫。
おうと立停まって一言二言交すついでに、主税はふと心付いて、もしやこの頃、先生の事だの、お嬢さんの事を聞きに来たものはないか、と聞くと、月はじめにモオニングを着た、痘痕のある立派な旦那が。
来たか! へい、お目出たい話なんだからちっとばかり様子を聞かせな、とおっしゃいましてね。終にゃ、き様、お伴をするだろう、懸りつけの医師はどこだ、とお尋ねなさいましたっけ。
台所から、筒袖を着た女房が、ひょっこり出て来て、おやまあ早瀬さん、と笑いかけて、いいえ、やどでもここが御奉公と存じましてね、もうもう賞めて賞めて賞め抜いてお聞かせ申しましてございますよ。お嬢様も近々御縁が極りますそうで、おめでとう存じます、えへへ、と燥いだ。
余計な事を、と不興な顔をして、不愛想に分れたが、何も車屋へ捜りを入れずともの事だ、またそれにしても、モオニング着用は何事だと、苦々しさ一方ならず。
曲角の漬物屋、ここいらへも探偵が入ったろうと思うと、筋向いのハイカラ造りの煙草屋がある。この亭主もベラベラお饒舌をする男だが、同じく申上げたろう、と通りがかりに睨むと、腰かけ込んだ学生を対手に、そのまた金歯の目立つ事。
内へ帰ると、お蔦はお蔦で、その晩出直して、今度は自分が売卜の前へ立つと、この縁はきっと結ばる、と易が出たので、大きに鬱ぐ。
もっとも売卜者も如才はない。お源が行ったのに較べれば、容子を見ただけでも、お蔦の方が結ばるに違いないから。
一日措いて、主税が自分嘱まれのさる学校の授業を済まして帰って来ると、門口にのそりと立って、頤を撫でながら、じろじろ門札を視めていたのが、坂田礼之進。
早やここから歯をスーと吸って、先刻からお待ち申して……はちと変だ。
さては誰も物申に応うるものが無かったのであろう。女中は外出で? お蔦は隠れた。……
無人で失礼。さあ、どうぞ、と先方は編上靴で手間が取れる。主税は気早に靴を脱いで、癇癪紛に、突然二階へ懸上る。段の下の扉の蔭から、そりゃこそ旦那様。と、にょっと出た、お源を見ると、取次に出ないも道理、勝手働きの玉襷、長刀小脇に掻込んだりな。高箒に手拭を被せたのを、柄長に構えて、逆上せた顔色。
馬鹿め、と噴出して飛上る後から、ややあって、道学先生、のそりのそり。
二階の論判一時に余りけるほどに、雷様の時の用心の線香を芬とさせ、居間から顕われたのはお蔦で、艾はないが、禁厭は心ゆかし、片手に煙草を一撮。抜足で玄関へ出て、礼之進の靴の中へ。この燃草は利が可かった。※[#「火+發」、91-4]と煙が、むらむらと立つ狼煙を合図に、二階から降りる気勢。飜然路地へお蔦が遁込むと、まだその煙は消えないので、雑水を撒きかけてこの一芸に見惚れたお源が、さしったりと、手でしゃくって、ざぶりと掛けると、おかしな皮の臭がして、そこら中水だらけ。
二十七
それ熟々、史を按ずるに、城なり、陣所、戦場なり、軍は婦の出る方が大概敗ける。この日、道学先生に対する語学者は勝利でなく、礼之進の靴は名誉の負傷で、揚々と引挙げた。
ゆえ如何となれば、お厭とあれば最早紹介は求めますまい、そのかわりには、当方から酒井家へ申入れまする、この縁談に就きまして、貴方から先生に向って、河野に対する御非難をなされぬよう。御意見は御意見、感情問題は別として、これだけはお願い申したいでごわりまするが、と婉曲に言いは言ったが、露骨に遣ったら、邪魔をする勿であるから、御懸念無用と、男らしく判然答えたは可いけれども、要するに釘を刺されたのであった。
礼之進の方でも、酒井へ出入りの車夫まで捜を入れた程だから、その分は随分手が廻って、従って、先生が主税に対する信用の点も、情愛のほども、子のごとく、弟のごときものであることさえ分ったので、先んずれば人を制すで、ぴたりとその口を圧えたのであろう。
讒口は決して利かない、と早瀬は自分も言ったが、またこの門生の口一ツで、見事、纏る縁も破ることは出来たのだったに。
ここで賽は河野の手に在矣。ともかくもソレ勝負、丁か半かは酒井家の意志の存する処に因るのみとぞなんぬる。
先生が不承知を言えばだけれども、諾、とあればそれまで。お妙は河野英吉の妻になるのである。河野英吉の妻にお妙がなるのであるか。
お蔦さえ、憂慮うよりむしろ口惜がって、ヤイヤイ騒ぐから、主税の、とつおいつは一通りではない。何は措ても、余所ながら真砂町の様子を、と思うと、元来お蔦あるために、何となく疵持足、思いなしで敷居が高い。
で何となく遠のいて、ようよう二日前に、久しぶりで御機嫌窺いに出た処、悪くすると、もう礼之進が出向いて、縁談が始まっていそうな中へ、急に足近くは我ながら気が咎める。
愚図々々すれば、貴郎例に似合わない、きりきりなさいなね……とお蔦が歯痒がる。
勇を鼓して出掛けた日が、先生は、来客があって、お話中。玄関の書生が取次ぐ、と(この次、来い。)は、ぎょっとした。さりとて曲がない。内証のお蔦の事、露顕にでも及んだかと、まさかとは思うが気怯れがして、奥方にもちょいと挨拶をしたばかり。その挨拶を受けらるる時の奥方が、端然として針仕事の、気高い、奥床しい、懐い姿を見るにつけても、お蔦に思較べて、いよいよ後暗さに、あとねだりをなさらないなら、久しぶりですから一銚子、と莞爾して仰せある、優しい顔が、眩いように後退して、いずれまた、と逃出すがごとく帰りしなに、お客は誰?……とそっと玄関の書生に当って見ると、坂田礼之進、噫、止ぬる哉。
しばらくは早瀬の家内、火の消えたるごとしで、憂慮しさの余り、思切って、更に真砂町へ伺ったのが、すなわち薬師の縁日であったのである。
ちと、恐怖の形で、先ず玄関を覗いて、書生が燈下に読書するのを見て、またお邪魔に、と頭から遠慮をして、さて、先生は、と尋ねると、前刻御外出。奥様は、と云うと、少々御風邪の気味。それでは、お見舞に、と奥に入ろうとする縁側で、女中が、唯今すやすやと御寐になっていらっしゃいます、と云う。
悄々玄関へ戻って、お嬢さんは、と取って置きの頼みの綱を引いて見ると、これは、以前奉公していた女中で、四ッ谷の方へ縁附いたのが、一年ぶりで無沙汰見舞に来て、一晩御厄介になる筈で、お夜食が済むと、奥方の仰に因り、お嬢さんのお伴をして、薬師の縁日へ出たのであった。
それでは私も通の方を、いずれ後刻、とこれを機に。出しなにまた念のために、その後、坂田と云うのは来ませんか、と聞くと、アバ大人ですか、と書生は早や渾名を覚えた。ははは、来ましたよ。今日の午後。
男金女土
二十八
主税は、礼之進が早くも二度の魁を働いたのに、少なからず機先を制せられたのと――かてて加えてお蔦の一件が暴露たために、先生が太く感情を損ねられて、わざとにもそうされるか、と思われないでもない――玄関の畳が冷く堅いような心持とに、屈託の腕を拱いて、そこともなく横町から通りへ出て、件の漬物屋の前を通ると、向う側がとある大構の邸の黒板塀で、この間しばらく、三方から縁日の空が取囲んで押揺がすごとく、きらきらと星がきらめいて、それから富坂をかけて小石川の樹立の梢へ暗くなる、ちょっと人足の途絶え処。
東へ、西へ、と置場処の間数を示した標杙が仄白く立って、車は一台も無かった。真黒な溝の縁に、野を焚いた跡の湿ったかと見える破風呂敷を開いて、式のごとき小灯が、夏になってもこればかりは虫も寄るまい、明の果敢さ。三束五束附木を並べたのを前に置いて、手を支いて、縺れ髪の頸清らかに、襟脚白く、女房がお辞儀をした、仰向けになって、踏反って、泣寐入りに寐入ったらしい嬰児が懐に、膝に縋って六歳ばかりの男の子が、指を銜えながら往来をきょろきょろと視める背後に、母親のその背に凭れかかって、四歳ぐらいなのがもう一人。
一陣風が吹くと、姿も店も吹き消されそうで哀な光景。浮世の影絵が鬼の手の機関で、月なき辻へ映るのである。
さりながら、縁日の神仏は、賽銭の降る中ならず、かかる処にこそ、影向して、露にな濡れそ、夜風に堪えよ、と母子の上に袖笠して、遠音に観世ものの囃子の声を打聞かせたまうらんよ。
健在なれ、御身等、今若、牛若、生立てよ、と窃に河野の一門を呪って、主税は袂から戛然と音する松の葉を投げて、足疾くその前を通り過ぎた。
ふと例の煙草屋の金歯の亭主が、箱火鉢を前に、胸を反らせて、煙管を逆に吹口でぴたり戸外を指して、ニヤリと笑ったのが目に附くと同時に、四五人店前を塞いだ書生が、こなたを見向いて、八の字が崩れ、九の字が分れたかと一同に立騒いで、よう、と声を懸ける、万歳、と云う、叱、と圧えた者がある。
向うの真砂町の原は、真中あたり、火定の済んだ跡のように、寂しく中空へ立つ火気を包んで、黒く輪になって人集り。寂寞したその原のへりを、この時通りかかった女が二人。
主税は一目見て、胸が騒いだ。右の方のが、お妙である。
リボンも顔も単に白く、かすりの羽織が夜の艶に、ちらちらと蝶が行交う歩行ぶり、紅ちらめく袖は長いが、不断着の姿は、年も二ツ三ツ長けて大人びて、愛らしいよりも艶麗であった。
風呂敷包を左手に載せて、左の方へ附いたのは、大一番の円髷だけれども、花簪の下になって、脊が低い。渾名を鮹と云って、ちょんぼりと目の丸い、額に見上げ皺の夥多しい婦で、主税が玄関に居た頃勤めた女中どん。
心懸けの好い、実体もので、身が定まってからも、こうした御機嫌うかがいに出る志。お主の娘に引添うて、身を固めて行く態の、その円髷の大いのも、かかる折から頼もしい。
煙草屋の店でくるくるぱちぱち、一打ばかりの眼球の中を、仕切て、我身でお妙を遮るように、主税は真中へ立ったから、余り人目に立つので、こなたから進んで出て、声を掛けるのは憚って差控えた。
そうしてお妙が気が付かないで、すらすらと行過ぎたのが、主税は何となく心寂しかった。つい前の年までは、自分が、ああして附いて出たに。
とリボンが靡いて、お妙は立停まった。
肩が離れて、大な白足袋の色新しく、附木を売る女房のあわれな灯に近いたのは円髷で。実直ものの丁寧に、屈み腰になって手を出したは、志を恵んだらしい。親子が揃って額ずいた時、お妙の手の巾着が、羽織の紐の下へ入って、姿は辻の暗がりへ。
書生たちは、ぞろぞろと煙草屋の軒を出て、斉く星を仰いだのである。
二十九
○男金女土大に吉、子五人か九人あり衣食満ち富貴にして――
男金女土こそ大吉よ
衣食みちみち…………
と歌の方も衣食みちみちのあとは、虫蝕と、雨染みと、摺剥けたので分らぬが、上に、業平と小町のようなのが対向いで、前に土器を控えると、万歳烏帽子が五人ばかり、ずらりと拝伏した処が描いてある。いかさまにも大吉に相違ない。
主税は、お妙の背後姿を見送って、風が染みるような懐手で、俯向き勝ちに薬師堂の方へ歩行いて来て、ここに露店の中に、三世相がひっくりかえって、これ見よ、と言わないばかりなのに目が留まって、漫に手に取って、相性の処を開けたのであった。
その英吉が、金の性、お妙が、土性であることは、あらかじめお蔦が美い指の節から、寅卯戌亥と繰出したものである。
半吉ででもある事か、大に吉は、主税に取って、一向に芽出度ない。勿論、いかに迷えば、と云って、三世相を気にするような男ではないけれども、自分はとにかく、先生は言うに及ばずながら、奥方はどうかすると、一白九紫を口にされる。同じ相性でも、始わるし、中程宜しからず、末覚束なしと云う縁なら、いくらか破談の方に頼みはあるが……衣食満ち満ち富貴……は弱った。
のみならず、子五人か、九人あるべしで、平家の一門、藤原一族、いよいよ天下に蔓らんずる根ざしが見えて容易でない。
すでに過日も、現に今日の午後にも、礼之進が推参に及んだ、というきっさきなり、何となく、この縁、纏まりそうで、一方ならず気に懸る。
ああ、先生には言われぬ事、奥方には遠慮をすべき事にしても、今しも原の前で、お妙さんを見懸けた時、声を懸けて呼び留めて、もし河野の話が出たら、私は厭、とおっしゃいよ、と一言いえば可かったものを。
大道で話をするのが可訝ければ、その辺の西洋料理へ、と云っても構わず、鳥居の中には藪蕎麦もある。さしむかいに云うではなし、円髷も附添った、その女中とても、長年の、犬鷹朋輩の間柄、何の遠慮も仔細も無かった。
お妙さんがまた、あの目で笑って、お小遣いはあるの? とは冷評しても、どこかへ連れられるのを厭味らしく考えるような間ではないに、ぬかったことをしたよ。
なぞと取留めもなく思い乱れて、凝とその大吉を瞻めていると、次第次第に挿画の殿上人に髯が生えて、たちまち尻尾のように足を投げ出したと思うと、横倒れに、小町の膝へ凭れかかって、でれでれと溶けた顔が、河野英吉に、寸分違わぬ。
「旦那いかがでございます。えへへ、」と、かんてらの灯の蔭から、気味の悪い唐突の笑声は、当露店の亭主で、目を細うして、額で睨んで、
「大分御意に召しましたようで、えへへ。」
「幾干だい。」
とぎょっとした主税は、空で値を聞いて見た。
「そうでげすな。」
と古帽子の庇から透かして、撓めつつ、
「二十銭にいたして置きます。」と天窓から十倍に吹懸ける。
その時かんてらが煽る。
主税は思わず三世相を落して、
「高価い!」
「お品が少うげして、へへへ、当節の九星早合点、陶宮手引草などと云う活版本とは違いますで、」
「何だか知らんが、さんざ汚れて引断ぎれているじゃないか。」
「でげすがな、絵が整然としておりますでな、挿絵は秀蘭斎貞秀で、こりゃ三世相かきの名人でげす。」
と出放題な事を云う。相性さえ悪かったら、主税は二十銭のその二倍でもあえて惜くはなかったろう。
「余り高価いよ。」と立ちかける。
「お幾干で? ええ、旦那。」
と引据えるように圧えて云った。
「半分か。」
「へい。」
「それだって廉くはない。」
三十
亭主は膝を抱いて反身になり、禅の問答持って来い、という高慢な顔色で。
「半価値は酷うげす。植木屋だと、じゃあ鉢は要りませんか、と云って手を打つんでげすがな。画だけ引剥して差上げる訳にも参りませんで。どうぞ一番御奮発を願いてえんで。五銭や十銭、旦那方にゃ何だけの御散財でもありゃしません。へへへへへ、」
「一体高過ぎる、無法だよ。」
と主税はその言い種が憎いから、ますます買う気は出なくなる。
「でげすがな、これから切通しの坂を一ツお下りになりゃ、五両と十両は飛ぶんでげしょう。そこでもって、へへへ、相性は聞きたし年紀は秘したしなんて寸法だ。ええ、旦那、三世相は御祝儀にお求め下さいな。」
いよいよむっとして、
「要らない。」と、また立とうとする。
「じゃもう五銭、五百、たった五銭。」
片手を開いて、肱で肩癖の手つきになり、ばらばらと主税の目前へ揉み立てる。
憤然として衝と立った。主税の肩越しにきらりと飛んで、かんてらの燻った明を切って玉のごとく、古本の上に異彩を放った銀貨があった。
同時に、
「要るものなら買って置け。」
とのある、凜とした声がかかった。
主税は思わず身を窘めた。帽子を払って、は、と手を下げて、
「先生。」
露店の亭主は這出して、慌てて古道具の中へ手を支いて、片手で銀貨を圧えながら、きょとんと見上げる。
茶の中折帽を無造作に、黒地に茶の千筋、平お召の一枚小袖。黒斜子に丁子巴の三つ紋の羽織、紺の無地献上博多の帯腰すっきりと、片手を懐に、裄短な袖を投げた風采は、丈高く痩せぎすな肌に粋である。しかも上品に衣紋正しく、黒八丈の襟を合わせて、色の浅黒い、鼻筋の通った、目に恐ろしく威のある、品のある、[#「、」は底本では「。」]眉の秀でた、ただその口許はお妙に肖て、嬰児も懐くべく無量の愛の含まるる。
一寸見には、かの令嬢にして、その父ぞとは思われぬ。令夫人は許嫁で、お妙は先生がいまだ金鈕であった頃の若木の花。夫婦の色香を分けたのである、とも云うが……
酒井はどこか小酌の帰途と覚しく、玉樹一人縁日の四辺を払って彳んだ。またいつか、人足もややこの辺に疎になって、薬師の御堂の境内のみ、その中空も汗するばかり、油煙が低く、露店の大傘を圧している。
会釈をしてわずかに擡げた、主税の顔を、その威のある目で屹と見て、
「少いものが何だ、端銭をかれこれ人中で云っている奴があるかい、見っともない。」
と言い棄てて、直ぐに歩を移して、少し肩の昂ったのも、霜に堪え、雪を忍んだ、梅の樹振は潔い。
呆気に取られた顔をして、亭主が、ずッと乗出しながら、
「へい。」
とばかり怯えるように差出した三世相を、ものをも言わず引掴んで、追縋って跡に附くと、早や五六間前途へ離れた。
「どうも恐入ります。ええ、何、別に入用なのじゃないのでございますから、はい、」
と最初の一喝に怯気々々もので、申訳らしく独言のように言う。
酒井は、すらりと懐手のまま、斜めに見返って、
「用らないものを、何だって価を聞くんだ。素見すのかい、お前は、」
「…………」
「素見すのかよ。」
「ええ、別に、」と俯向いて怨めしそうに、三世相を揉み、且つ捻くる。
少時して、酒井はふと歩を停めて、
「早瀬。」
「はい、」
とこの返事は嬉しそうに聞えたのである。
三十一
名を呼ばれるさえ嬉しいほど、久闊懸違っていたので、いそいそ懐かしそうに擦寄ったが、続いて云った酒井の言は、太く主税の胸を刺した。
「どこへ行くんだ。」
これで突放されたようになって、思わず後退りすること三尺半。
この前の、原一つ越した横町が、先生の住居である。そなたに向って行くのに、従って歩行くものを、(どこへ行く。)は情ない。散々の不首尾に、云う事も、しどろになって、
「散歩でございます。」
「わざわざ、ここの縁日へ出て来たのか。」
「いいえ、実は……」
といささか取附くことが出来た……
「先刻、御宅へ伺いましたのですが、御留守でございましたから、後程にまた参りましょうと存じまして、その間この辺にぶらついておりました。先生は、」
酒井がずッと歩行き出したので、たじたじと後を慕うて、
「どちらへ?」
「俺か。」
「ずッと御帰宅でございますか。」
知れ切ったような事を、つなぎだけに尋ねると、この答えがまた案外なものであった。
「俺は、何だ、これからお前の処へ出掛けるんだ。」
「ええ!」と云ったが、何は措いても夜が明けたように勇み立って、
「じゃ、あのこちらから……角の電車へ、」と自分は一足引返したが、慌ててまた先へ出て、
「お車を申しましょうか。」
とそわそわする。
「水道橋まで歩行くが可い。ああ、酔醒めだ。」と、衣紋を揺って、ぐっと袖口へ突込んだ、引緊めた腕組になったと思うと、林檎の綺麗な、芭蕉実の芬と薫る、燈の真蒼な、明い水菓子屋の角を曲って、猶予わず衝と横町の暗がりへ入った。
下宿屋の瓦斯は遠し、顔が見えないからいくらか物が云いよくなって、
「奥さんが、お風邪気でいらっしゃいますそうで、不可ませんでございます。」
「逢ったか。」
「いえ、すやすやお寐みだと承りましたから、御遠慮申しました。」
「妙は居たかい。」
「四谷へ縁附いております、先のお光をお連れなさいまして、縁日へ。」
「そうか、娘が出歩行くようじゃ、大した御容態でもなしさ。」
と少し言が和らいで来たので、主税は吻と呼吸を吐いて、はじめて持扱った三世相を懐中へ始末をすると、壱岐殿坂の下口で、急な不意打。
「お前の許でも皆健康か。」
また冷りとした。内には女中と……自分ばかり、(皆健康か。)は尋常事でない。けれども、よもや、と思うから、その(皆)を僻耳であろう、と自分でも疑って、
「はい?」
と、聞直したつもりを、酒井がそのまま聞流してしまったので(さようでございます。)と云う意味になる。
で、安からぬ心地がする。突当りの砲兵工廠の夜の光景は、楽天的に視ると、向島の花盛を幻燈で中空へ顕わしたようで、轟々と轟く響が、吾妻橋を渡る車かと聞なさるるが、悲観すると、煙が黄に、炎が黒い。
通りかかる時、蒸気が真白な滝のように横ざまに漲って路を塞いだ。
やがて、水道橋の袂に着く――酒井はその雲に駕して、悠々として、早瀬は霧に包まれて、ふらふらして。
無言の間、吹かしていた、香の高い巻莨を、煙の絡んだまま、ハタとそこで酒井が棄てると、蒸気は、ここで露になって、ジューと火が消える。
萌黄の光が、ぱらぱらと暗に散ると、炬のごとく輝く星が、人を乗せて衝と外濠を流れて来た。
電車
三十二
河野から酒井へ申込んだ、その縁談の事の為ではないが、同じこの十二日の夜、道学者坂田礼之進は、渠が、主なる発企者で且つ幹事である処の、男女交際会――またの名、家族懇話会――委しく註するまでもない、その向の夫婦が幾組か、一処に相会して、飲んだり、食ったり、饒舌ったり……と云うと尾籠になる。紳士貴婦人が互に相親睦する集会で、談政治に渉ることは少ないが、宗教、文学、美術、演劇、音楽の品定めがそこで成立つ。現代における思潮の淵源、天堂と食堂を兼備えて、薔薇薫じ星の輝く美的の会合、とあって、おしめと襷を念頭に置かない催しであるから、留守では、芋が焦げて、小児が泣く。町内迷惑な……その、男女交際会の軍用金。諸処から取集めた百有余円を、馴染の会席へ支払いの用があって、夜、モオニングを着て、さて電燈の明い電車に乗った。
(アバ大人ですか、ハハハ今日の午後。)と酒井先生方の書生が主税に告げたのと、案ずるに同日であるから、その編上靴は、一日に市中のどのくらいに足跡を印するか料られぬ。御苦労千万と謂わねばならぬ。
先哲曰く、時は黄金である。そんな隙潰しをしないでも、交際会の会費なら、その場で請取って直ぐに払いを済したら好さそうなものだが、一先ず手許へ引取って、更めて夫子自身を労するのは? 知らずや、この勘定の時は、席料なしに、そこの何とか云う姉さんに、茶の給仕をさせて無銭で手を握るのだ、と云ったものがある。世には演劇の見物の幹事をして、それを縁に、俳優と接吻する貴婦人もあると云うから。
もっともこれは、嘘であろう。が、会費を衣兜にして、電車に乗ったのは事実である。
「ええ、込合いますから御注意を願います。」
礼之進は提革に掴りながら、人と、車の動揺の都度、なるべく操りのポンチたらざる態度を保って、しこうして、乗合の、肩、頬、耳などの透間から、痘痕を散らして、目を配って、鬢、簪、庇、目つきの色々を、膳の上の箸休めの気で、ちびりちびりと独酌の格。ああ、江戸児はこの味を知るまい、と乗合の婦の移香を、楽みそうに、歯をスーと遣って、片手で頤を撫でていたが、車掌のその御注意に、それと心付くと、俄然として、慄然として、膚寒うして、腰が軽い。
途端に引込めた、年紀の若い半纏着の手ッ首を、即座の冷汗と取って置きの膏汗で、ぬらめいた手で、夢中にしっかと引掴んだ。
道学先生の徳孤ならず、隣りに掏摸が居たそうな。
「…………」
と、わなないて、気が上ずッて、ただ睨む。
対手は手拭も被らない職人体のが、ギックリ、髪の揺れるほど、頭を下げて、
「御免なすって、」と盗むように哀憐を乞う目づかいをする。
「出、出しおろう、」
と震え声で、
「馬鹿!」と一つ極めつけた。
「どうぞ、御免なすって、真平、へい……」
と革に縋ったまま、ぐったりとなって、悄気返った職人の状は、消えも入りたいとよりは、さながら罪を恥じて、自分で縊ったようである。
「コリャ」とまた怒鳴って、満面の痘痕を蠢かして、堪えず、握拳を挙げてその横頬を、ハタと撲った。
「あ、痛、」
と横に身を反らして、泣声になって、
「酷、酷うござんすね……旦那、ア痛々、」
も一つ拳で、勝誇って、
「酷いも何も要ったものか。」
哄と立上る多人数の影で、月の前を黒雲が走るような電車の中。大事に革鞄を抱きながら、車掌が甲走った早口で、
「御免なさい、何ですか、何ですか。」
三十三
カラアの純白な、髪をきちんと分けた紳士が、職人体の半纏着を引捉えて、出せ、出せ、と喚いているからには、その間の消息一目して瞭然たりで、車掌もちっとも猶予わず、むずと曲者の肩を握った。
「降りろ――さあ、」
と一ツしゃくり附けると、革を離して、蹌踉と凭れかかる。半纏着にまた凭れ懸かるようになって、三人揉重なって、車掌台へ圧されて出ると、先から、がらりと扉を開けて、把手に手を置きながら、中を覗込んでいた運転手が、チリン無しにちょうどそこの停留所に車を留めた。
御嶽山を少し進んだ一ツ橋通を右に見る辺りで、この街鉄は、これから御承知のごとく東明館前を通って両国へ行くのである。
「少々お待ちを……」
と車掌も大事件の肩を掴まえているから、息急いて、四五人押込もうとする待合わせの乗組を制しながら、後退りに身を反らせて、曲者を釣身に出ると、両手を突張って礼之進も続いて、どたり。
後からぞろぞろと七八人、我勝ちに見物に飛出たのがある。事ありと見て、乗ろうとしたのもそのまま足を留めて、押取巻いた。二人ばかり婦も交って。
外へ、その人数を吐出したので、風が透いて、すっきり透明になって、行儀よく乗合の膝だけは揃いながら、思い思いに捻向いて、硝子戸から覗く中に、片足膝の上へ投げて、丁子巴の羽織の袖を組合わせて、茶のその中折を額深く、ふらふら坐眠りをしていたらしい人物は、酒井俊蔵であった。
けれども、礼之進が今、外へ出たと見ると同時に、明かにその両眼をいた瞳には、一点も睡そうな曇が無い。
惟うに、乗合いの蔭ではあったが、礼之進に目を着けられて、例の(ますます御翻訳で。)を前置きに、(就きましては御縁女儀、)を場処柄も介わず弁じられよう恐があるため、計略ここに出たのであろう。ただしその縁談を嫌ったという形跡はいささかも見当らぬが。
「攫られたのかい。」
「はい、」
と見ると、酒井の向い合わせ、正面を右へ離れて、ちょうどその曲者の立った袖下の処に主税が居て、かく答えた。
「何でございますか、騒ぎです。」
先生の前で、立騒いでは、と控えたが、門生が澄まし込んで冷淡に膝に手を置いているにも係わらず、酒井はずッと立って、脊高く車掌台へ出かけて、ここにも立淀む一団の、弥次の上から、大路へ顔を出した……時であった。
主客顛倒、曲者の手がポカリと飛んで、礼之進の痘痕は砕けた、火の出るよう。
「猿唐人め。」
あろう事か、あっと頬げたを圧えて退る、道学者の襟飾へ、斜かいに肩を突懸けて、横押にぐいと押して、
「何だ、何だ、何だ、何だと? 掏摸だ、盗賊だと……クソを啖え。ナニその、胡麻和のような汝が面を甜めろい! さあ、どこに私が汝の紙入を掏ったんだ。
こっちあまた、串戯じゃねえ。込合ってる中だから、汝の足でも踏んだんだろう、と思ってよ。足ぐれえ踏んだにしちゃ、怒りようが御大層だが、面を見や、踵と大した違えは無えから、ははは、」
と夜の大路へ笑が響いて、
「汝の方じゃ、面を踏まれた分にして、怒りやがるんだ、と断念めてよ。難有く思え、日傭取のお職人様が月給取に謝罪ったんだ。
いつ出来た規則だか知らねえが、股ッたア出すなッてえ、肥満った乳母どんが焦ッたがりゃしめえし、厭味ッたらしい言分だが、そいつも承知で乗ってるからにゃ、他様の足を踏みゃ、引摺下される御法だ、と往生してよ。」
と、車掌にひょこと頭を下げて、
「へいこら、と下りてやりゃ、何だ、掏摸だ。掏摸たア何でえ。」
また礼之進に突懸る。
三十四
「掏られた、盗られたッて、幾干ばかり台所の小遣をごまかして来やあがったか知らねえけれど、汝がその面で、どうせなけなしの小遣だろう、落しっこはねえ。
へん、鈍漢。どの道、掏られたにゃ違えはねえが、汝がその間抜けな風で、内からここまで蟇口が有るもんかい、疾くの昔にちょろまかされていやあがったんだ。
さあ、お目通りで、着物を引掉って神田児の膚合を見せてやらあ、汝が口説く婦じゃねえから、見たって目の潰れる憂慮はねえ、安心して切立の褌を拝みゃあがれ。
ええこう、念晴しを澄ました上じゃ、汝、どうするか見ろ。」
「やあ、風が変った、風が変った。」
と酒井は快活に云って、原の席に帰った。
車掌台からどやどやと客が引込む、直ぐ後へ――見張員に事情を通じて、事件を引渡したと思われる――車掌が勢なく戻って、がちゃりと提革鞄を一つ揺って、チチンと遣ったが、まだ残惜そうに大路に半身を乗出して人だかりの混々揉むのを、通り過ぎ状に見て進む。
と錦帯橋の月の景色を、長谷川が大道具で見せたように、ずらりと繋って停留していた幾つとない電車は、大通りを廻り舞台。事の起った車内では、風説とりどり。
あれは掏摸の術でございます。はじめに恐入っていた様子じゃ、確に業をしたに違いませんが、もう電車を下りますまでには同類の袂へすっこかしにして、証拠が無いから逆捻じを遣るでございます、と小商人風の一分別ありそうなのがその同伴らしい前垂掛に云うと、こちらでは法然天窓の隠居様が、七度捜して人を疑えじゃ、滅多な事は謂われんもので、のう。
そうおっしゃれば、あの掏られた、と言いなさる洋服を着た方も、おかしな御仁でござりますよ。此娘の貴下、(と隣に腰かけた、孫らしい、豊肌した娘の膝を叩いて、)簪へ、貴下、立っていてちょいちょい手をお触りなさるでございます。御仁体が、御仁体なり、この娘が恥かしがって、お止しよ、お止しよ、と申しますから、何をなさる、と口まで出ましたのを堪えていたのでござりますよ。お止しよ、お祖母さんと、その娘はまた同じことをここで云って、ぼうと紅くなる。
法然天窓は苦笑いをして……後からせせるやら、前からは毛の生えた、大な足を突出すやら……など、浄瑠璃にもあって、のう、昔、この登り下りの乗合船では女子衆が怪しからず迷惑をしたものじゃが、電車の中でも遣りますか、のう、結句、掏摸よりは困りものじゃて。
駄目でさ、だってお前さん、いきなり引摺り下ろしてしまったんだから、それ、ばらばら一緒に大勢が飛出しましたね、よしんばですね、同類が居た処で、疾の前、どこかへ、すっ飛んでいるんですから手係りはありやしません。そうでなくって、一人も乗客が散らずに居りゃ、私達だって関合いは抜けませんや。巡査が来て、一応検べるなんぞッて事になりかねません。ええ、後はどうなるッて、お前さん、掏摸は現行犯ですからね、証拠が無くって、知らないと云や、それまででさ。またほんとうに掏られたんだか何だか知れたもんじゃありません、どうせ間抜けた奴なんでさあね、と折革鞄を抱え込んだ、どこかの中小僧らしいのが、隣合った田舎の親仁に、尻上りに弁じたのである。
いずれ道学先生のために、祝すべき事ではない。
あえて人の憂を見て喜ぶような男ではないが、さりとて差当りああした中の礼之進のために、その憂を憂として悲むほどの君子でもなかろう。悪くすると(状を見ろ。)ぐらいは云うらしい主税が、風向きの悪い大人の風説を、耳を澄まして聞き取りながら、太く憂わしげな面色で。
実際鬱込んでいるのはなぜか。
忘れてはならぬ、差向いに酒井先生が、何となく、主税を睨むがごとくにしていることを。
三十五
鬱ぐも道理、そうして電車の動くままに身を任せてはいるものの、主税は果してどこへ連れらるるのか、雲に乗せられたような心持がするのである。
もっとも、薬師の縁日で一所になって、水道橋から外濠線に乗った時は、仰せに因って飯田町なる、自分の住居へ供をして行ったのであるが、元来その夜は、露店の一喝と言い、途中の容子と言い、酒井の調子が凜として厳しくって、かねて恩威並び行わるる師の君の、その恩に預かれそうではなく、罰利生ある親分の、その罰の方が行われそうな形勢は、言わずともの事であったから、電車でも片隅へ蹙んで、僥倖そこでも乗客が込んだ、人蔭になって、眩い大目玉の光から、顔を躱わして免れていたは可いが、さて、神楽坂で下りて、見附の橋を、今夜に限って、高い処のように、危っかしく渡ると、件の売卜者の行燈が、真黒な石垣の根に、狐火かと見えて、急に土手の松風を聞く辺から、そろそろ足許が覚束なくなって、心も暗く、吐胸を支いたのは、お蔦の儀。
ひとえに御目玉の可恐いのも、何を秘そう繻子の帯に極ったのであるから、これより門口へかかる……あえて、のろけるにしもあらずだけれども、自分の跫音は、聞覚えている。
その跫音が、他の跫音と共に、澄まして音信れれば、(お帰んなさい。)で、出て来るは定のもの。分けて、お妙の事を、やきもき気を揉んでいる処。それが為にこうして出向いた、真砂町の様子を聞き度さに、特に、似たもの夫婦の譬、信玄流の沈勇の方ではないから、随分飜然と露れ兼ねない。
いざ、露れた場合には……と主税は冷汗になって、胸が躍る。
あいにく例のように話しもしないで、ずかずか酒井が歩行いたので、とこう云う間もなかった、早や我家の路地が。
堪りかねて、先生と、呼んで、女中が寝ていますと失礼ですから、一足! と云うが疾いか、(お先へ、)は身体で出て、横ッ飛びに駈け抜ける内も、ああ、我ながら拙い言分。
(待て! 待て!)
それ、声が掛った。
酒井はそこで足を留めた。
屹と立って、
(宵から寐るような内へ、邪魔をするは気の毒だ。他へ行こう、一緒に来な。)
で路が変って、先生のするまま、鷲に攫われたような思いで乗ったのが、この両国行――
なかなか道学者の風説に就いて、善悪ともに、自から思虜を回らすような余裕とては無いのである。
電車が万世橋の交叉点を素直ぐに貫いても、鷲は翼を納めぬので、さてはこのまま隅田川へ流罪ものか、軽くて本所から東京の外へ追放になろうも知れぬ。
と観念の眼を閉じて首垂れた。
「早瀬、」
「は、」
「降りるんだ。」
一場展開した広小路は、二階の燈と、三階の燈と、店の燈と、街路の燈と、蒼に、萌黄に、紅に、寸隙なく鏤められた、綾の幕ぞと見る程に、八重に往来う人影に、たちまち寸々と引分けられ、さらさらと風に連れて、鈴を入れた幾千の輝く鞠となって、八方に投げ交わさるるかと思われる。
ここに一際夜の雲の濃やかに緑の色を重ねたのは、隅田へ潮がさすのであろう、水の影か、星が閃く。
我が酒井と主税の姿は、この広小路の二点となって、浅草橋を渡果てると、富貴竈が巨人のごとく、仁丹が城のごとく、相対して角を仕切った、横町へ、斜めに入って、磨硝子の軒の燈籠の、媚かしく寂寞して、ちらちらと雪の降るような数ある中を、蓑を着た状して、忍びやかに行くのであった。
柏家
三十六
やがて、貸切と書いた紙の白い、その門の柱の暗い、敷石のぱっと明い、静粛としながら幽なように、三味線の音が、チラチラ水の上を流れて聞える、一軒大構の料理店の前を通って、三つ四つ軒燈籠の影に送られ、御神燈の灯に迎えられつつ、地の濡れた、軒に艶ある、その横町の中程へ行くと、一条朧な露路がある。
芸妓家二軒の廂合で、透かすと、奥に薄墨で描いたような、竹垣が見えて、涼しい若葉の梅が一木、月はなけれど、風情を知らせ顔にすっきりと彳むと、向い合った板塀越に、青柳の忍び姿が、おくれ毛を銜えた態で、すらすらと靡いている。
梅と柳の間を潜って、酒井はその竹垣について曲ると、処がら何となく羽織の背の婀娜めくのを、隣家の背戸の、低い石燈籠がト踞んだ形で差覗く。
主税は四辺を見て立ったのである。
先生がその肩の聳えた、懐手のまま、片手で不精らしくとんとんと枝折戸を叩くと、ばたばたと跫音聞えて、縁の雨戸が細目に開いた。
と派手な友染の模様が透いて、真円な顔を出したが、燈なしでも、その切下げた前髪の下の、くるッとした目は届く。隔ては一重で、つい目の前の、丁子巴の紋を見ると、莞爾々々と笑いかけて、黙って引込むと、またばたばたばた。
程もあらせず、どこかでねじを圧したと見える、その小座敷へ、電燈が颯と点くのを合図に、中脊で痩ぎすな、二十ばかりの細面、薄化粧して眉の鮮明な、口許の引緊った芸妓島田が、わざとらしい堅気づくり。袷をしゃんと、前垂がけ、褄を取るのは知らない風に、庭下駄を引掛けて、二ツ三ツ飛石を伝うて、カチリと外すと、戸を押してずッと入る先生の背中を一ツ、黙言で、はたと打った。これは、この柏屋の姐さんの、小芳と云うものの妹分で、綱次と聞えた流行妓である。
「大層な要害だな。」
「物騒ですもの。」
「ちっとは貯蓄ったか。」
と粗雑に廊下へ上る。先生に従うて、浮かぬ顔の主税と入違いに、綱次は、あとの戸を閉めながら、
「お珍らしいこと。」
「…………。」
「蔦吉姉さんはお達者?」と小さな声。
主税はヒヤリとして、ついに無い、ものをも言わず、恐れた顔をして、ちょっと睨んで、そっと上って、開けた障子へ身体は入れたが、敷居際へ畏まる。
酒井先生、座敷の真中へぬいと突立ったままで――その時茶がかった庭を、雨戸で消して入り来る綱次に、
「どうだ、色男が糶出したように見えるか。」
とずッと胸を張って見せる。
「私には解りません、姉さんにお見せなさいまし、今に帰りますから、」
「そう目前が利かないから、お茶を挽くのよ。当節は女学生でも、今頃は内には居ない。ちっと日比谷へでも出かけるが可い。」
「憚様、お座敷は宵の口だけですよ。」
と姿見の前から座蒲団をするりと引いて、床の間の横へ直した。
「さあ、早瀬さん。」と、もう一枚。
主税は膝の傍へ置いたままなり。
友染の羽織を着たのが、店から火鉢を抱えて来て、膝と一所に、お大事のもののように据えると、先生は引跨ぐ体に胡坐の膝へ挟んで、口の辺を一ツ撫でて、
「敷きな、敷きな。」
と主税を見向いた。
「はい、」
とばかりで、その目玉に射られるようで堅くなってどこも見ず、面を背けると端なく、重箪笥の前なる姿見。ここで梳る柳の髪は長かろう、その姿見の丈が高い。
三十七
「お敷きなさいなね、貴下、此家へいらっしゃりゃ、先生も何もありはしません、御遠慮をなさらなくっても可いんですよ。」
と意気、文学士を呑む。この女は、主税が整然としているのを、気の毒がるより、むしろ自分の方が、為に窮屈を感ずるので。
その癖、先生には、かえって、遠慮の無い様子で、肩を並べるようにして支膝で坐りながら、火鉢の灰をならして、手でその縁をスッと扱く。
「茶を一ツ、熱いのを。」
酒井は今のを聞かない振で、
「それから酒だ。」
綱次は入口の低い襖を振返って、ト拝む風に、雪のような手を敲く。
「自分で起て。少いものが、不精を極めるな。」
「厭ですよ。ちゃんと番をしていなくっては。姉さんに言いつかっているんだから。」
と言いながら、人懐かしげに莞爾して、
「ねえ、早瀬さん。」
「で、ございますかな。」とようよう膝去り出して、遠くから、背を円くして伸上って、腕を出して、巻莨に火を点けたが、お蔦が物指を当てた襦袢の袖が見えたので、気にして、慌てて、引込める。
「ちっと透かさないか、籠るようだ。」
「縁側ですか。」
「ううむ、」
と頭を掉ったので、すっと立って、背後の肱掛窓を開けると、辛うじて、雨落だけの隙を残して、厳しい、忍返しのある、しかも真新い黒板塀が見える。
「見霽しでも御覧なさいよ。」
と主税を振向いてまた笑う。
酒井が凝と、その塀を視めて、
「一面の杉の立樹だ、森々としたものさ。」
と擽って、独で笑った。
「しかし山焼の跡だと見えて、真黒は酷いな。俺もゆくゆくは此家へ引取られようと思ったが、裏が建って、川が見えなくなったから分別を変えたよ。」
そこへ友染がちらちら来る。
「お出花を、早く、」
「はあ、」
「熱くするんだよ。」
「これ、小児ばっかり使わないで、ちっと立って食うものの心配でもしろ。民はどうした、あれは可い。小老実に働くから。今に帰ったら是非酌をさせよう。あの、愛嬌のある処で。」
「そんなに、若いのが好なら、御内のお嬢さんが可いんだわ。ねえ早瀬さん。」
これには早瀬も答えなかったが、先生も苦笑した。
「妙も近頃は不可くなったよ。奥方と目配をし合って、とかく銚子をこぎって不可ん。第一酌をしないね。学校で、(お酌さん。)と云うそうだ。小児どもの癖に、相応に皮肉なことを云うもんだ。」
「貴郎には小児でも、もうお嫁入盛じゃありませんか。どうかすると、こっちへもいらっしゃる、学校出の方にゃ、酒井さんの天女が、何のと云っちゃ、あの、騒いでおいでなさるのがありますわ。」
「あの、嬰児をか、どこの坊やだ。」
「あら、あんなことを云って。こちらの早瀬さんなんかでも、ちょうど似合いの年紀頃じゃありませんか。」
と何でものう云ってのけたが、主税は懐中の三世相とともに胸に支えて俯向いた。
「その癖、当人は嫁入と云や鼠の絵だと思っているよ。」
と云いかけて莞爾として、
「むむ、これは、猫の前で危い話だ。」
と横顔へ煙を吹くと、
「引掻いてよ。」と手を挙げたが、思い出したように座を立って、
「どうしたんだろうねえ、電話は、」と呟いて出ようとする。
「おい、阿婆は?」
「もう寐ました。」
「いや、老人はそう有りたい。」
座の白ける間は措かず、綱次はすぐに引返して、
「姉さんは、もう先方は出たそうですわ。」
云う間程なく、矢を射るような腕車一台、からからと門に着いたと思うと、
「唯今!」と車夫の声。
三十八
「そうかい。」
と……意味のある優しい声を、ちょいと誰かに懸けながら、一枚の襖音なく、すらりと開いて入ったのは、座敷帰りの小芳である。
瓜核顔の、鼻の準縄な、目の柔和い、心ばかり面窶がして、黒髪の多いのも、世帯を知ったようで奥床しい。眉のやや濃い、生際の可い、洗い髪を引詰めた総髪の銀杏返しに、すっきりと櫛の歯が通って、柳に雨の艶の涼しさ。撫肩の衣紋つき、少し高目なお太鼓の帯の後姿が、あたかも姿見に映ったれば、水のように透通る細長い月の中から抜出したようで気高いくらい。成程この婦の母親なら、芸者家の阿婆でも、早寝をしよう、と頷かれる。
「まあ、よくいらしってねえ。」
と主税の方へ挨拶して、微笑みながら、濃い茶に鶴の羽小紋の紋着二枚袷、藍気鼠の半襟、白茶地に翁格子の博多の丸帯、古代模様空色縮緬の長襦袢、慎ましやかに、酒井に引添うた風采は、左支えなく頭が下るが、分けてその夜の首尾であるから、主税は丁寧に手を下げて、
「御機嫌宜う、」と会釈をする。
その時、先生撫然として、
「芸者に挨拶をする奴があるか。」
これに一言句あるべき処を、姉さんは柔順いから、
「お出花が冷くなって、」
と酒井の呑さしを取って、いそいそ立って、開けてある肱掛窓から、暗い雨落へ、ざぶりと覆すと、斜めに見返って、
「大な湯覆しだな、お前ン許のは。」
「あんな事ばかり云って、」
と、主税を見て莞爾して、白歯を染めても似合う年紀、少しも浮いた様子は見えぬ。
それから、小芳は伏目になって、二人の男へ茶を注いだが、ここに居ればその役目の、綱次は車が着いた時、さあお帰りだ、と云うとともに、はらはら座敷を出たのと知るべし。
酒井は軽く襟を扱いて、
「そこで、御馳走は、」
「綱次さんが承知をしてます。」
「また寄鍋だろう、白滝沢山と云う。」
「どうですか。」
と横目で見て、嬉しそうに笑を含む。
「いずれ不漁さ。」
と打棄るように云ったが、向直って、
「早瀬、」と呼んだ声が更まった。
「ええ。」
「先刻の三世相を見せろ。」
一仔細なくてはならぬ様子があるので、ぎょっとしながら、辞むべき数ではない。……柏家は天井裏を掃除しても、こんなものは出まいと思われる、薄汚れたのを、電燈の下に、先生の手に、もじもじと奉る。
引取って、ぐいと開けた、気が入って膝を立てた、顔の色が厳しくなった。と見て胆を冷したのは主税で、小芳は何の気も着かないから、晴々しい面色で、覗込んで、
「心当りでも出来たんですか。」
不答。煙草の喫さしを灰の中へ邪険に突込み、
「何は、どうした。」
と唐突に聞かれたので、小芳は恍惚したように、酒井の顔を視めると……
「あれよ、ちょいと意気な、清元の旨い、景気の可い、」
いいいい本を引返して、
「扱帯で、鏡に向った処は、絵のようだという評判の……」
と凝と見られて、小芳は引入れられたように、
「蔦吉さん。」
と云って、喫いかけた煙管を忘れる。
主税は天窓から悚然とした。
「あれはどうした。」
「え、」
「俺はさっぱり山手になって容子を知らんが、相変らず繁昌か。」
三十九
小芳は我知らず、(ああ、どうしよう。)と云う瞳が、主税の方へ流るるのを、無理に堪えて、酒井を瞻った顔が震えて、
「蔦吉さんはもう落籍ましたそうです。」
と言わせも果てずに、
「(そうです。)は可怪い。近所に居ながら、知らんやつがあるか、判然謂え、落籍たのか!」
「はい、」と伏目になったトタンに、優しげな睫毛が、(どうかなさいよ。)と、主税の顔へ目配せする。
酒井は、主税を見向きもしないで、悠々とした調子になり、
「そりゃ可い事をした、泥水稼業を留めたのは芽出度い。で、どこに居る、当時は………よ?」
「私はよく存じませんので……あの、どこか深川に居るんですって。」
「深川? 深川と云う人に落籍されたのか、川向うの深川かい。」
「…………。」
「どうだよ、おい、知らない奴があるか。お前、仲が好くって、姉妹のようだと云ったじゃないか。姉妹分が落籍たのに、その行先が分らない、べら棒があるもんかい。
姉さんとか、小芳さんとか云って、先方でも落籍祝いに、赤飯ぐらい配ったろう、お前食ったろう、そいつを。
蒸立だとか、好い色だとか云って、喜んでよ、こっちからも、の切手の五十銭ぐらい祝ったろう。小遣帳に記いているだろう。その婦の行先が知れない奴があるものか。
知らなきゃ馬鹿だ。もっとも、己のような素一歩と腐合おうと云う料簡方だから、はじめから悧怜でないのは知れてるんだ。馬鹿は構わん、どうせ、芸者だ、世間並じゃない。芸者の馬鹿は構わんが、薄情は不可んな! 薄情は。薄情な奴は俺ら真平だ。」
「いつ、私が、薄情な、」
と口惜しく屹となる処を、酒井の剣幕が烈いので、悄れて声が霑んだのである。
「薄情でない! 薄情さ。懇意な婦の、居処を知らなけりゃ薄情じゃないか。」
「だって、貴郎。だって、先方でも、つい音信をしないもんですから、」
「先方が音信をしなくっても、お前の薄情は帳消は出来ん。なぜこっちから尋ねんのだ。こんな稼業だから、暇が無い。行通はしないでも、居処が分らんじゃ、近火はどうする! 火事見舞に町内の頭も遣らん、そんな仲よしがあるものか、薄情だよ、水臭いよ。」
姉さんの震えるのを見て、身から出た主税は堪りかねて、
「先生、」
と呼んだが、心ばかりで、この声は口へは出なかった。
酒井は耳にも掛けないで、
「済まん事さ、俺も他人でないお前を、薄情者にはしたくないから、居処を教えてやろう。
堀の内へでも参詣る時は道順だ。煎餅の袋でも持って尋ねてやれ。おい、蔦吉は、当時飯田町五丁目の早瀬主税の処に居るよ。」
真蒼になって、
「先生、」
「早瀬!」
と一声屹となって、膝を向けると、疾風一陣、黒雲を捲いて、三世相を飛ばし来って、主税の前へはたと落した。
眼の光射るがごとく
「見ろ! 野郎は、素袷のすッとこ被よ。婦は編笠を着て三味線を持った、その門附の絵のある処が、お前たちの相性だ。はじめから承知だろう。今更本郷くんだりの俺の縄張内を胡乱ついて、三世相の盗人覗きをするにゃ当るまい。
その間抜けさ加減だから、露店の亭主に馬鹿にされるんだ。立派な土百姓になりゃあがったな、田舎漢め!」
四十
主税はようよう、それも唾が乾くか、かすれた声で、
「三世相を見ておりましたのは、何も、そんな、そんな訳じゃございません……」とだけで後が続かぬ。
「翻訳でも頼まれたか、前世は牛だとか、午だとか。」
と串戯のような警抜な詰問が出たので、いささか言が引立って、
「いいえ、実はその何でございまして。その、この間中から、お嬢さんの御縁談がはじまっております、と聞きましたもんですから、」
小芳はそっと酒井を見た。この間でも初に聞いた、お妙の縁談と云うのを珍らしそうに。
「ははあ、じゃ何か、妙と、河野英吉との相性を検べたのかい。」
果せる哉、礼之進が運動で、先生は早や平家の公達を御存じ、と主税は、折柄も、我身も忘れて、
「はい、」と云って、思わず先生の顔を見ると、瞼が颯と暗くなるまで、眉の根がじりりと寄って、
「大きに、お世話だ。酒井俊蔵と云う父親と、歴然とした、謹(夫人の名。)と云う母親が附いている妙の縁談を、門附風情が何を知って、周章なさんな。
僭上だよ、無礼だよ、罰当り!
お前が、男世帯をして、いや、菜が不味いとか、女中が焼豆腐ばかり食わせるとか愚痴った、と云って、可いか、この間持って行った重詰なんざ、妙が独活を切って、奥さんが煮たんだ。お前達ア道具の無い内だから、勿体ない、一度先生が目を通して、綺麗に装ってあるのを、重箱のまま、売婦とせせり箸なんぞしやあがって、弁松にゃ叶わないとか、何とか、薄生意気な事を言ったろう。
よく、その慈姑が咽喉に詰って、頓死をしなかったよ。
無礼千万な、まだその上に、妙の縁談の邪魔をするというは何事だ。」
と大喝した。
主税は思わず居直って、
「邪魔を……私、私が、邪魔なんぞいたしますものでございますか。」
「邪魔をしない! 邪魔をせんものが、縁談の事に付いて、坂田が己に紹介を頼んだ時、お前なぜそれを断ったんだ。」
「…………」
「なぜ断った?」
「あんな、道学者、」
「道学者がどうした。結構さ。道学者はお前のような犬でない、畜生じゃないよ。何か、お前は先方の河野一家の理想とか、主義とかに就いて、不服だ、不賛成だ、と云ったそうだ。不服も不賛成もあったものか。人間並の事を云うな。畜生の分際で、出過ぎた奴だ。
第一、汝のような間違った料簡で、先生の心が解るのかよ! お前は不賛成でも己は賛成だか、お前は不服でも己は心服だか――知れるかい。
何のかのと、故障を云って、(御門生は、令嬢に思召しがあるのでごわりましょう。)と坂田が歯を吸って、合点んでいたが、どうだ。」
「ええ! あの、痘痕が、」
と色をかえて戦いた。主税はしかも点々と汗を流して、
「他の事とは違います、聞棄てになりません。私は、私は、これは、改めて、坂田に談じなければなりません。」
「何だ、坂田に談じる? 坂田に談じるまでもない。己がそう思ったらどうするんだ、先生が、そう思ったら何とするよ。」
「誰が、先生、そんな事。」
「いいや、内の玄関の書生も云った、坂田が己の許へ来たと云うと、お前の目の色が違うそうだ。車夫も云った、車夫の女房も云ったよ。(誰か妙の事を聞きに来たものはないか。)と云って、お前、車屋でまで聞くんだそうだな。恥しくは思わんか、大きな態をしやあがって、薄髯の生えた面を、どこまで曝して歩行いているんだ。」
と火鉢をぐいぐいと揺って。
四十一
「あっちへ蹌々、こっちへ踉々、狐の憑いたように、俺の近所を、葛西街道にして、肥料桶の臭をさせるのはどこの奴だ。
何か、聞きゃ、河野の方で、妙の身体に探捜を入れるのが、不都合だとか、不意気だとか言うそうだが、」
噫、礼之進が皆饒舌った……
「意気も不意気も土百姓の知った事かい。これ、河野はお前のような狐憑じゃないのだぜ。
学位のある、立派な男が、大切な嫁を娶るのだ。念を入れんでどうするものか。検べるのは当前だ。芸者を媽々にするんじゃない。
また己の方じゃ、探捜を入れて貰いたいのよ。さあ、どこでも非難をして見ろ、と裸体で見せて差支えの無いように、己と、謹とで育てたんだ。
何が可恐い? 何が不平だ? 何が苦しい? 己は、渠等の検べるのより、お前がそこらをまごつく方がどのくらい迷惑か知れんのだ。
よしんば、奴等に、身元検べをされるのが迷惑とする、癪に障るとなりゃ、己がちゃんと心得てる。この指一本、妙の身体を秘した日にゃ、按摩の勢揃ほど道学者輩が杖を突張って押寄せて、垣覗きを遣ったって、黒子一点も見せやしない、誰だと思う、おい、己だ。」
とまた屹と見て、
「なぜ、泰然と落着払って、いや、それはお芽出度い、と云って、頼まれた時、紹介をせん。癪に障る、野暮だ、と云う道学者に、ぐッと首根ッ子を圧えられて、(早瀬氏はこれがために、ちと手負猪でごわりましてな。)なんて、歯をすすらせるんだ。
馬鹿野郎! 俺ら弟子はいくらでもある、が小児の内から手許に置いて、飴ン棒までねぶらせて、妙と同一内で育てたのは、汝ばかりだ。その子分が、道学者に冷かされるような事を、なぜするよ。
(世間に在るやつでごわります。飼犬に手を噛まれると申して。以来あの御門生には、令嬢お気を着けなさらんと相成りませんで。)坂田が云ったを知ってるか。
馬鹿野郎、これ、」
と迫った調子に、慈愛が籠って、
「さほどの鈍的でもなかったが、天罰よ。先生の目を眩まして、売婦なんぞ引摺込む罰が当って、魔が魅したんだ。
嫁入前の大事な娘だ、そんな狐の憑いた口で、向後妙の名も言うな。
生意気に道学者に難癖なんぞ着けやあがって、汝の面当にも、娘は河野英吉にたたッ呉れるからそう思え。」
「貴郎、」
と小芳が顔を上げて、
「早瀬さんに、どんな仕損いが、お有んなすったか存じませんが、決して、お内や、お嬢さんの……(と声が曇って、)お為悪かれ、と思ってなすったんじゃござんすまいから、」
「何だ。為悪かれ、と思わん奴が、なぜ芸者を引摺込んで、師匠に対して申訳のないような不埒を働く。第一お前も、」
稲妻が西へ飛んで、
「同類だ、共謀だ、同罪だよ。おい、芸者を何だと思っている。藪入に新橋を見た素丁稚のように難有いもんだと思っているのか。馬鹿だから、己が不便を掛けて置きゃ、増長して、酒井は芸者の情婦を難有がってると思うんだろう。高慢に口なんぞ突出しやがって、俯向いておれ。」
はっと首垂れたが、目に涙一杯。
「そんな、貴郎、難有がってるなんのッて、」
「難有くないものを、なぜ俺の大事な弟子に蔦吉を取持ったんだい!」
主税は手を支いて摺って出た。
「先、先生、姉さんは、何にも御存じじゃございません、それは、お目違いでございまして、」
と大呼吸を胸で吐くと、
「黙れ! 生れてから、俺、目違いをしたのは、お前達二人ばかりだ。」
四十二
「お言葉を反しますようでございますが、」
主税は小芳の自分に対する情が仇になりそうなので、あるにもあられず据身になって、
「誰がそういうことをお耳に入れましたか存じませんが、芸者が内に居りますなんてとんだ事でございます。やっぱり、あの坂田の奴が、怪しかりません事を。私は覚悟がございます、彼奴に対しましては、」と目の血走るまで意気込んだが、後暗い身の明は、ちっとも立つのではなかった。
「覚悟がある、何の覚悟だ。己に申訳が無くって、首を縊る覚悟か。」
「いえ、坂田の畜生、根もない事を、」
「馬鹿!」
と叱して、調子を弛めて、
「も休み休み言え。失礼な、他人の壁訴訟を聞いて、根も無い事を疑うような酒井だと思っているか。お前がその盲目だから悪い事を働いて、一端己の目を盗んだ気で洒亜々々としているんだ。
先刻どうした、牛込見附でどうしたよ。慌てやあがって、言種もあろうに、(女中が寝ていますと失礼ですから。)と駈出した、あれは何の状だ。婆が高利貸をしていやしまい、主人の留守に十時前から寝込む奴がどこに在る。
また寝ていれば無礼だ、と誰が云ったい。これ、お前たちに掛けちゃ、己の目は暗でも光るよ。飯田町の子分の内には、玄関の揚板の下に、どんな生意気な、婦の下駄が潜んでるか、鼻緒の色まで心得てるんだ。べらぼうめ、内証でする事は客の靴へ灸を据えるのさえ秘しおおされないで、(恐るべき家庭でごわります。)と道学者に言われるような、薄っぺらな奴等が、先生の目を抜こうなぞと、天下を望むような叛逆を企てるな。
悪事をするならするように、もっと手際よく立派に遣れ。見事に己を間抜けにして見ろ。同じ叱言を云うんでも、その点だけは恐入ったと、鼻毛を算まして讃めてやるんだ。三下め、先生の目を盗んでも、お前なんぞのは、たかだか駈出しの(タッシェン、ディープ)だ。」
これは、(攫徒)と云う事だそうである。主税は折れるように手をハッと支いた。
「恐入ったか、どうだ。」
「ですが、全く、その、そんな事は……」
「無い?」
「…………」
「芸者は内に居ないと云うのか。」
「はい。」
霹靂のごとく、
「帰れ!」
小芳が思わず肩を窘める。
「早瀬さん、私、私じゃ、」
と声が消えて、小芳は紋着の袖そのまま、眉も残さず面を蔽う。
「いや、愛想の尽きた蛆虫め、往生際の悪い丁稚だ。そんな、しみったれた奴は盗賊だって風上にも置きやしない、酒井の前は恐れ多いよ、帰れ!
これ、姦通にも事情はある、親不孝でも理窟を云う。前座のような情実でもあって、一旦内へ入れたものなら、猫の児の始末をするにも、鰹節はつきものだ。談を附けて、手を切らして、綺麗に捌いてやろうと思って、お前の許へ行くつもりで、百と、二百は、懐中に心得て出て来たんだ。
この段になっても、まだ、ああ、心得違いをいたしました。先生よしなに、とは言い得ないで、秘し隠しをする料簡じゃ、汝が家を野天にして、婦とさかっていたいのだろう。それで身が立つなら立って見ろ。口惜しくば、おい、こうやって馴染の芸者を傍に置いて、弟子に剣突をくわせられる、己のような者になって出直して来い。
さあ、帰れ、帰れ、帰れ! 汚わしい。帰らんか。この座敷は己の座敷だ。己の座敷から追出すんだ。帰らんか、野郎、帰れと云うに、そこを起たんと蹴殺すぞ!」
「あれ、お謝罪をなさいまし。」と小芳が楯に、おろおろする。
主税は、砕けよ、と身を揉んで、
「小芳さん、お取なしを願います。」と熟と瞻めて色が変った。
「奥さんに、奥さんに、お願いなさいよ、」
四十三
「何を、奥さんに頼めだい、黙れ。謹が芸者の取持なんぞすると思うか。先刻も云う通り、芳、お前も同類だ、同類は同罪だよ。早瀬を叩出した後じゃ己が追出る、お前ともこれきりだから、そう思え。」
と言わるるままに、忍び音が、声に出て、肩の震えが、袖を揺った。小芳は幼いもののごとく、あわれに頭を掉って、厭々をするのであった。
「姉さん、」
と思込んだ顔を擡げた、主税は瞼を引擦って、元気づいたような……調子ばかりで、一向取留の無い様子、しどろになって、
「貴女は、貴女は御心配下さいませんように……先生、」
と更めて、両手を支いて、息を切って、
「申訳がございません。とんだ連累でお在んなさいます。どうぞ、姉さんには、そんな事をおっしゃいません様に、私を御存分になさいまして。」
「存分にすれば蹴殺すばかりよ。」
と吐出すように云って、はじめて、豊かに煙を吸った。
「じゃ恐入ったんだな。
内に蔦吉が居るんだな。
もう陳じないな。」
「心得違いをいたしまして……何とも申しようがございません。」
と吻と息を吐いたと思うと、声が霑む。
最早罪に伏したので、今までは執成すことも出来なかった小芳が、ここぞ、と見計って、初心にも、袂の先を爪さぐりながら、
「大目に見てお上なすって下さいまし。蔦吉さんも仇な気じゃありません。決して早瀬さんのお世帯の不為になるような事はしませんですよ。一生懸命だったんですから。あんな派手な妓が落籍祝どころじゃありません、貴郎、着換も無くしてまで、借金の方をつけて、夜遁げをするようにして落籍たんですもの。
堅気に世帯が持てさえすれば、その内には、世間でも、商売したのは忘れましょうから、早瀬さんの御身分に障るようなこともござんすまい。もうこの節じゃ、洗濯ものも出来るし、単衣ぐらい縫えますって、この間も夜晩く私に逢いに来たんですがね。」
と婀娜な涙声になって、
「羽織が無いから日中は出られない、と拗ねたように云うのがねえ、どんなに嬉しそうだったでしょう。それに土地馴れないのに、臆病な妓ですから、早瀬さんがこうやって留守にしていなさいます、今頃は、どんなに心細がって、戸に附着いて、土間に立って、帰りを待っているか知れません、私あそれを思うと……」
と空色の、瞼を染めて、浅く圧えた襦袢の袖口。月に露添う顔を見て、主税もはらはらと落涙する。
「世迷言を言うなよ。」
と膠もなく、虞氏が涙を斥けて、
「早瀬どうだ、分れるか。」
「行処もございません、仕様が無いんでございますから、先生さえ、お見免し下さいますれば、私の外聞や、そんな事は。世間体なんぞ。」と半云って唾が乾く。
「いや、不可ん、許しやしないよ。」
「そう仰有って下さいますのも、世間を思って下さいますからでございます。もう、私は、自分だけでは、決心をいたしまして、世間には、随分一人前の腕を持っていながら、財産を当に婿養子になりましたり、汝が勝手に嫁にすると申して、人の娘の体格検査を望みましたり、」
と赫となって、この時やや血の色が眉宇に浮んだ。
「女学校の教師をして、媒妁をいたしましたり……それよりか、拾人の無い、社会の遺失物を内へ入れます方が、同じ不都合でも、罪は浅かろうと存じまして。それも決して女房になんぞ、しますわけではございません。一生日蔭ものの下女同様に、ただ内証で置いてやりますだけのことでございますから。」
「血迷うな。腕があって婿養子になる、女学校で見合をする、そりゃ勝手だ、己の弟子じゃないんだから、そのかわり芸者を内へ入れる奴も弟子じゃないのだ、分らんか。」
四十四
折から食卓を持って現れた、友染のその愛々しいのは、座のあたかも吹荒んだ風の跡のような趣に対して、散り残った帰花の風情に見えた。輝く電燈の光さえ、凩の対手や空に月一つ、で光景が凄じい。
一言も物いわぬ三人の口は、一度にバアと云って驚かそうと、我がために、はた爾く閉されているように思って、友染は簪の花とともに、堅くなって膳を据えて、浮上るように立って、小刻に襖の際。
川千鳥がそこまで通って、チリチリ、と音が留まった。杯洗、鉢肴などを、ちょこちょこ運んで、小ぢんまりと綺麗に並べる中も、姉さんは、ただ火鉢をちっとずらしたばかり、悄れて俯向いて、ならば直ぐに、頭が打つのを圧えたそうに、火箸に置く手の白々と、白けた容子を、立際に打傾いで、熟と見て出ようとする時、
「食うものはこれだけか。」
と酒井は笑みを含んだが、この際、天窓から塩で食うと、大口を開けられたように感じたそうで、襖の蔭で慄然と萎んで壁の暗さに消えて行く。
慌てて、あとを閉めないで行ったから、小芳が心付いて立とうとすると、するすると裾を捌いて、慌しげに来たのは綱次。
唯今の注進に、ソレと急いで、銅壺の燗を引抜いて、長火鉢の前を衝と立ち状に来た。
前垂掛けとはがらりと変って、鉄お納戸地に、白の角通しの縮緬、かわり色の裳を払って、上下対の袷の襲、黒繻珍に金茶で菖蒲を織出した丸帯、緋綸子の長襦袢、冷く絡んだ雪の腕で、猶予らう色なく、持って来た銚子を向けつつ、
「お酌、」
冴えた音を入れると、鶯のほうと立つ、膳の上の陽炎に、電気の光が和いで、朧々と春に返る。
「まだ宵の口かい。」
「柏家だけではね。」と莞爾する。
「遠慮なく出懸けるが可い、しかし猥褻だな。」
「あら、なぜ?」
「十一時過ぎてからの座敷じゃないか。」
「御免なさいよ、苦界だわ。ねえ、早瀬さん、さあ、めしあがれよ、ぐうと、」
「いいえ、もう、」
主税は猪口を視むるのみ。
「お察しなさいよ。」
と先生にまたお酌をして、
「御贔屓の民子ちゃんが、大江山に捕まえられていますから、助出しに行くんだわ。渡辺の綱次なのよ。」
「道理こそ、鎖帷子の扮装だ。」
「錣のように、根が出過ぎてはしなくって。姉さん、」
と髢に手を触る。
「いいえ、」
と云って、言の内に、(そんな心配をおしでない。)の意味が籠る。綱次は、(安心)の体に、胸をちょいと軽く撫でて、
「おいしいものが、直ぐにあとから、」
「綱次姉さん、また電話よ。」
と廊下から雛妓の声。
「あい、あい、あちらでも御用とおっしゃる。では、直き行って来ますから、貴下帰っちゃ、厭ですよ、民ちゃんを連れて来て、一所にまたお汁粉をね。」
酒井は黙って頷いた。
「早瀬さん、御緩り。」
と行く春や、主税はそれさえ心細そうに見送って、先生の目から面を背ける。
酒井は、杯を、つっと献し、
「早瀬、近う寄れ、もっと、」
と進ませ、肩を聳かして屹と見て、
「さあ、一ツ遣ろう。どうだ、別離の杯にするか。」
「…………」
「それとも婦を思切るか。芳、酌いでやれ、おい、どうだ、早瀬。これ、酌いでやれ、酌がないかよ。」
銚子を挙げて、猪口を取って、二人は顔を合せたのである。
四十五
その時、眼光稲妻のごとく左右を射て、
「何を愚図々々しているんだ。」
「私がお願いでござんすから、」と小芳は胸の躍るのを、片手で密と圧えながら、
「ともかくも今夜の処は、早瀬さんを帰して上げて下さいまし。そうしてよく考えさして、更めてお返事をお聞きなすって下さいましな、後生ですわ、貴郎。
ねえ、早瀬さん、そうなさいよ。先生も、こんなに仰有るんですから、貴下もよく御分別をなさいまし、ここは私が身にかえてお預り申しますから。よ……」
と促がされても立ちかねる、主税は後を憂慮うのである。
「蔦吉さんが、どんなに何したって、私が知らない顔をしていれば可かったのですけれど、思う事は誰も同一だと、私、」
と襟に頤深く、迫った呼吸の早口に、
「身につまされたもんだから、とうとうこんな事にしてしまって、元はと云えば……」
「そんな、貴女が悪いなんて、そんな事があるもんですか。」
と酒井の前を庇う気で、肩に力味を入れて云ったが、続いて言おうとする、
(貴女がお世話なさいませんでも……)の以下は、怪しからず、と心着いて、ハッとまた小さくなった。
「いいえ、私が悪いんです。ですから、後で叱られますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」
「ならん! この場に及んで分別も糸瓜もあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、婦を連れて駈落をしかねない。短兵急に首を圧えて叩っ斬ってしまうのだ。
早瀬。」
と苛々した音調で、
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支えん、婦が怨んでも、泣いても可い。憧れ死に死んでも可い。先生の命令だ、切れっちまえ。
俺を棄てるか、婦を棄てるか。
むむ、この他に言句はないのよ。」
(どうだ。)と頤で言わせて、悠然と天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓に肱をついた。
「婦を棄てます。先生。」
と判然云った。そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の猪口と相触れて、カチリと鳴った。
「幾久く、お杯を。」と、ぐっと飲んで目を塞いだのである。
物をも言わず、背向きになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、
「そっちの、そっちの熱い方を。――もう一杯、もう一ツ。」
と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物を懐へ、羽織の紐を引懸けて、ずッと立った。
「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」
小芳はひたと、酒井の肩に、前髪の附くばかり、後に引添うて縋り状に、
「お帰んなさるの。」
「謹が病気よ。」
と自分で雨戸を。
「それは不可ませんこと。」と縁側に、水際立ってはらりと取った、隅田の春の空色の褄。力なき小芳の足は、カラリと庭下駄に音を立てたが、枝折戸のまだ開かぬほど、主税は座をずらして、障子の陰になって、忙く巻莨を吸うのであった。
二時ばかり過ぎてから、主税が柏家の枝折戸を出たのは、やがて一時に近かったろう。その時は姉さんはじめ、綱次ともう一人のその民子と云う、牡丹の花のような若いのも、一所に三人で路地の角まで。
「お互に辛抱するのよう。」と酒気のある派手な声で、主税を送ったのは綱次であった。ト同時に渠は姉さんと、手をしっかりと取り合った。
時に、寂りした横町の、とある軒燈籠の白い明と、板塀の黒い蔭とに挟って、平くなっていた、頬被をした伝坊が、一人、後先をして、密と出て、五六歩行過ぎた、早瀬の背後へ、……抜足で急々。
「もし、」
「…………」
「先刻アどうも。よく助けて下すったねえ。」
と頬かむりを取った顔は……礼之進に捕まった、電車の中の、その半纏着。
誰が引く袖
四十六
土曜日は正午までで授業が済む――教室を出る娘たちで、照陽女学校は一斉に温室の花を緑の空に開いたよう、溌と麗な日を浴びた色香は、百合よりも芳しく、杜若よりも紫である。
年上の五年級が、最後に静々と出払って、もうこれで忘れた花の一枝もない。四五人がちらほらと、式台へ出かかる中に、妙子が居た。
阿嬢は、就中活溌に、大形の紅入友染の袂の端を、藤色の八ツ口から飜然と掉って、何を急いだか飛下りるように、靴の尖を揃えて、トンと土間へ出た処へ、小使が一人ばたばたと草履穿で急いで来て、
「ああ酒井様。」
と云う。優等生で、この容色であるから、寄宿舎へ出入りの諸商人も知らぬ者は無いのに、別けて馴染の翁様ゆえ、いずれ菖蒲と引き煩らわずに名を呼んだ。
「ははい。」
と振向くと、小使は小腰を屈めて、
「教頭様が少し御用がござります。」
「私に、」
「ちょっとお出で下さりまし。」
「あら、何でしょう、」
と友達も、吃驚したような顔ですと、出口に一人、駒下駄を揃えて一人、一人は日傘を開け掛けて、その辺の辻まで一所に帰る、お定まりの道連が、斉しく三方からお妙の顔を瞻って黙った。
この段は、あらかじめ教頭が心得さしたか、翁様がまた、そこらの口が姦いと察した気転か。
「何か、お父様へ御託づけものがござりますで。」
「まあ、そう、」
と莞爾して、
「待ってて下すって?」と三人へ、一度に黒目勝なのを働して見せると、言合せた様に、二人まで、胸を撫で下して、ホホホと笑った――お腹が空いた――という事だそうである。
お妙はずんずん小使について廊下を引返しながら、怒ったような顔をして、振向いて同じように胸の許を擦って見せた。
「応接室でござりますわ。」
教員室の前を通ると、背後むきで、丁寧に、風呂敷の皺を伸して、何か包みかけていたのは習字の教師。向うに仰様に寝て、両肱を空に、後脳を引掴むようにして椅子にかかっていたのは、数学の先生で。看護婦のような服装で、ちょうど声高に笑った婦は、言わずとも、体操の師匠である。
行きがかりに目についた、お妙は直ぐに俯目になって、コトコト跫音が早くなった。階子段の裏を抜けると、次の次の、応接室の扉は、半開きになって、ペンキ塗の硝子戸入の、大書棚の前に、卓子に向って二三種新聞は見えたが、それではなしに、背文字の金の燦爛たる、新い洋書の中ほどを開けて読む、天窓の、てらてら光るのは、当女学校の教頭、倫理と英文学受持…の学士、宮畑閑耕。同じ文学士河野英吉の親友で、待合では世話になり、学校では世話をする(蝦茶と緋縮緬の交換だ。)と主税が憤った一人である。
この編の記者は、教頭氏、君に因って、男性を形容するに、留南奇の薫馥郁としてと云う、創作的文字をここに挟み得ることを感謝しよう。勿論、その香の、二十世紀であるのは言うまでもない。
お妙は、扉に半身を隠して留まる。小使はそのまま向うへ行過ぎる。
閑耕は、キラリ目金を向けて、じろりと見ると、目を細うして、髯の尖をピンと立てた、頤が円い。
「こちらへ、」
と鷹揚に云って、再び済まして書見に及ぶ。
お妙は扉に附着いたなりで、入口を左へ立って、本の包みを抱いたまま、しとやかに会釈をしたが、あえてそれよりは進まなかった。
「こちらへ。」と無造作なように、今度は書見のまま声をかけたが、落着かれず、またひょいと目を上げると、その発奮で目金が躍る。
頬桁へ両手をぴったり、慌てて目金の柄を、鼻筋へ揉込むと、睫毛を圧え込んで、驚いて、指の尖を潜らして、瞼を擦って、
「は、は、は、」と無意味な笑方をしたが、向直って真面目な顔で、
「どうですな。」
四十七
もう傍へ来そうなものと、閑耕教頭が再び、じろりと見ると、お妙は身動きもしないで、熟と立って、臈たけた眉が、雲の生際に浮いて見えるように俯向いているから、威勢に怖じて、頭も得上げぬのであろう、いや、さもあらん、と思うと……そうでない。酒井先生の令嬢は、笑を含んでいるのである。
それは、それは愛々しい、仇気ない微笑であったけれども、この時の教頭には、素直に言う事を肯いて、御前へ侍わぬだけに、人の悪い、与し易からざるものがあるように思われた。で、苦い顔をして、
「酒井さん、ここへ来なくちゃ不可んですよ。」
時に教頭胸を反らして、卓子をドンと拳で鳴らすと、妙子はつつと勇ましく進んで、差向いに面を合わせて、そのふっくりした二重瞼を、臆する色なく、円くって、
「御用ですか。」
と云った風采、云い知らぬ品威が籠って、閑耕は思いかけず、はっと照らされて俯向いた。
教場でこそあれ、二人だけで口を利くのは、抑々生れて以来最初である。が、これは教場以外ではいかなる場合にても、こうであろうも計られぬ。
はて、教頭ほどの者が、こんな訳ではない筈だが、と更めて疑の目を挙げると、脊もすらりとして椅子に居る我を仰ぐよ、酒井の嬢は依然として気高いのである。
「酒井さん……」
声の出処が、倫理を講ずるようには行かぬ。
咽喉が狂って震えがあるので、えへん! と咳いて、手巾で擦って、四辺をしたが、湯も水も有るのでない、そこで、
「小ウ使いい、」と怒鳴った。
「へ――い、」
と謹んだ返事が響く。教頭はこれに因って、大にその威厳を恢復し得て、勢に乗じて、
「貴娘に聞く事があるのですが、」
「はい。」
「参謀本部の翻訳をして、まだ学校なども独逸語を持っていますな――早瀬主税――と云う、あれは、貴娘の父様の弟子ですな。」
「ええ、そう…………」
「で、貴娘の御宅に置いて、修業をおさせなすったそうだが、一体あれの幾歳ぐらいの時からですか。」
「知りません。」
と素気なく云った。
「知らない?」
と妙な顔をして、額でお妙を見上げて、
「知らないですか。」
「ええ、前にからですもの。内の人と同一ですから、いつ頃からだか分りませんの。」
「貴娘は幾歳ぐらいから、交際をしたですか。」
「…………」
と黙って教頭を見て、しかも不思議そうに、
「交際って、私、厭ねえ。早瀬さんは内の人なんですもの。」と打微笑む。
「内の人。」
「ええ、」と猶予わず頷いた。
「貴娘、そういう事を言っては不可ますまい。あれを(内の人)だなんと云うと、御両親をはじめ、貴娘の名誉に関わるでしょうが、ああ、」
と口を開いてニヤリとする。
お妙はツンとして横を向いた、眦に優い怒が籠ったのである。
閑耕は、その背けた顔を覗込むようにして、胸を曲げ、膝を叩きながら、鼻の尖に、へへん、と笑って、
「あんな者と、貴娘交際するなんて、芸者を細君にしていると云うじゃありませんか。汚わしい。怪しからん不行跡です。実に学者の体面を汚すものです。そういう者の許へ貴娘出入りをしてはなりません。知らない事はないのでしょう。」
妙子は何にも言わなかったが、はじめて眩しそうに瞬きした。
小使が来て、低頭して命を聞くと、教頭は頤で教えて、
「何を、茶をくれい。」
「へい。」
「そこを閉めて行け、寄宿生が覗くようだ。」
四十八
扉が閉ると、教頭身構を崩して、仰向けに笑い懸けて、
「まあ、お掛なさい、そこへ。貴娘のためにならんから、云うのだよ。」
わざわざ立って突着けた、椅子の縁は、袂に触れて、その片袖を動かしたけれども、お妙は規則正しいお答礼をしただけで、元の横向きに立っている。
「早瀬の事はまだまだ、それどころじゃないですが、」と直ぐにまた眉を顰めて、談じつけるような調子に変って、
「酒井さん、早瀬は、ありゃ罪人だね、我々はその名を口にするさえ憚るべき悪漢ですね。」
とのッそり手を伸ばして、卓子の上に散ばった新聞を撫でながら、
「貴娘、今日のA……新聞を見んのですか。」
一言聞くと、颯と瞼を紅にして、お妙は友染の襦袢ぐるみ袂の端を堅く握った。
「見ませんか、」
と問返した時、教頭は傲然として、卓子に頤杖を支く。
「ええ、」とばかりで、お妙は俯向いて、瞬きしつつ、流眄をするのであった。
「別に、一大事に関して早瀬は父様の許へ、頃日に参った事はないですかね。或は何か貴娘、聞いた事はありませんか。」
小さな声だったが判然と、
「いいえ。」と云って、袖に抱いた風呂敷包みの紫を、皓歯で噛んだ。この時、この色は、瞼のその朱を奪うて、寂しく白く見えたのである。
「行かん筈はないでしょうが、貴娘、知っていて、まだ私の前に、秘すのじゃないかね。」
「存じませんの。」
と頭を掉ったが、いたいけに、拗ねたようで、且つくどいのを煩さそう。
「じゃ、まあ、知らないとして。それから、お話するですがね。早瀬は、あれは、攫徒の手伝いをする、巾着切の片割のような男ですぞ!」
簪の花が凜として色が冴えたか気が籠って、屹と、教頭を見向いたが、その目の遣場が無さそうに、向うの壁に充満の、偉なる全世界の地図の、サハラの砂漠の有るあたりを、清い瞳がうろうろする。
「勿論早瀬は、それがために、分けて規律の正しい、参謀本部の方は、この新聞が出ない先に辞職、免官に、なったです。これはその攫徒に遭った、当人の、御存じじゃろうね、坂田礼之進氏、あの方の耳に第一に入ったです。
で、見ないんなら御覧なさい。他の二三の新聞にも記いてあるですが。このA……が一番悉しい。」
と落着いて向うへ開いて、三の面を指で教えて、
「ここにありますが、お読みなさい。」
「帰って、私、内で聞きます。」と云った、唇の花が戦いだ。
「は、は、は、貴娘、(内の人)だなんと云ったから、極りが悪いかね。何、知らないんなら宜しいです。私は貴娘の名誉を思って、注意のために云うんだから、よくお聞きなさい。帰って聞いたって駄目さね。」
と太く侮った語気を帯びて、
「父様は、自分の門生だから、十に八九は秘すですもの。何で真相が解りますか。」
コツコツ廊下から剥啄をした者がある。と、教頭は、ぎろりと目金を光らしたが、反身に伸びて、
「カム、イン、」と猶予わずに答えた。
この剥啄と、カム、インは、余りに呼吸が合過ぎて、あたかもかねて言合せてあったもののようである。
すなわち扉を細目に、先ず七分立の写真のごとく、顔から半身を突入れて中を覗いたのは河野英吉。白地に星模様の竪ネクタイ、金剛石の針留の光っただけでも、天窓から爪先まで、その日の扮装想うべしで、髪から油が溶けそう。
早や得も言われぬ悦喜の面で、
「やあ、」と声を懸けると、入違いに、後をドーン。
扉の響きは、ぶるぶると、お妙の細い靴の尖に伝わって、揺らめく胸に、地図の大西洋の波が煽る。
四十九
「失敬、失敬。」
とちと持上げて、浮かせ気味に物馴れた風で、河野は教頭と握手に及んで、
「やあ、失敬、」と云いながら、お妙の背後から、横顔をじろりと見る。
河野の調子の発奮んだほど、教頭は冷やかな位に落着いた態度で、
「どこの帰りか。」
「大学(と力を入れて、)の図書館に検べものをして、それから精養軒で午飯を食うて来た。これからまたH博士の許へ行かねばならん。」
と忙しそうに肩を掉って、
「君(とわざと低声で呼んで、)この方は……」
「生徒――」と見下げたように云う。
「はあ、」
「ミス酒井と云う、」と横を向いて忍び笑を遣る。
「うむ、真砂町の酒井氏の、」
と首を伸ばして、分ったような、分らぬような、見知越のような、で、ないような、その辺あやふやなお妙の顔の見方をしたが、
「君、紹介してくれたまえ。」
「学校で、紹介は可訝かろう。」
「だってもう教場じゃないじゃないか。」
「それでは、」と真に余儀なさそうに、さて、厳格に、
「酒井さん、過般も参観に見えられた、これは文学士河野英吉君。」
同じ文字を露した大形の名刺の芬と薫るのを、疾く用意をしていたらしい、ひょいと抓んで、蚤いこと、お妙の袖摺れに出そうとするのを、拙い! と目で留め、教頭は髯で制して、小鼻へ掛けて揉み上げ揉み上げ揉んだりける。
英吉は眼をって、急いでその名刺と共に、両手を衣兜へ突込んだが、斜めに腰を掉るよと見れば、ちょこちょこ歩行きに、ぐるりと地図を背負って、お妙の真正面へ立って、も一つ肩を揉んで、手の汗を、ずぼんの横へ擦りつけて、清めた気で、くの字形に腕を出したは、短兵急に握手の積か、と見ると、揺がぬ黒髪に自然と四辺を払れて、
「やあ、はははは、失敬。」
と英吉大照れになって、後ざまに退って(おお、神よ。)と云いそうな態になり、
「お遊びにいらっしゃい、妹たちが、学校は違いますが、皆貴女を知っているのですよ。はあ……」
と独で頷いて、大廻りに卓子の端を廻って、どたりと、腹這いになるまでに、拡げた新聞の上へ乗懸って、
「何を話していたのだい。」
教頭をちょいと見れば、閑耕は額で睨めつけ、苦き顔して、その行過を躾めながら、
「実は、今、酒井さんに忠告をしている処だ。」
お妙は色をまた染めた。
「そうだとも! ええ、酒井さん……」
黙っているから、
「酒井さん!」
「ははい、」と声がふるえて聞える。
「貴娘知らんのならお聞きなさい。頃日の事ですが、今も云った、坂田礼之進氏が、両国行の電車で、百円ばかり攫徒に掏られたです。取られたと思うと、気が着いて、直に其奴を引掴えて、車掌とで引摺下ろしたまでは、恐入って冷却していたその攫徒がだね、たちまち烈火のごとくに猛り出して、坂田氏をなぐった騒ぎだ。」
「撲られたってなあ、大人、気の毒だったよ。」
「災難とも。で、何です。巡査が来たけれども、何の証拠も挙らんもんで、その場はそれッきりで、坂田氏は何の事はない、打たれ損の形だったんだね。お聞きなさい――貴娘。
証拠は無かったが、怪むべき風体の奴だから、その筋の係が、其奴を附廻して、同じ夜の午前二時頃に、浅草橋辺で、フトした星が附いて取抑えると、今度は袱紗に包んだ紙入ぐるみ、手も着けないで、坂田氏の盗られた金子を持っていたんだ。
ねえ、貴娘。拘引して厳重に検べたんだね。どこへそれまで隠して置いたか。先刻は無かった紙入を、という事になる……とです。」
あくまで慎重に教頭が云うと、英吉が軽しく、
「妙だ、妙だよ。妙さなあ。」
五十
「攫徒の名も新聞に出ているがね、何とか小僧万太と云うんだ。其奴の白状した処では、電車の中で掏った時、大不出来しに打攫まって、往生をしたんだが、対手が面を撲ったから、癪に障って堪らないので、ちょうど袖の下に俯向いていた男の袖口から、早業でその紙入をずらかし込んで、もう占めた、とそこで逆捻に捻じたと云うんだね。
ところで、まん直しの仕事でもしたいものだと、柳橋辺を、晩くなってから胡乱ついていると、うっかり出合ったのが、先刻、紙入れを辷らかした男だから、金子はどうなったろうと思って、捕まったらそれ迄だ、と悪度胸で当って見ると、道理で袖が重い、と云って、はじめて、気が着いて、袂を探してその紙入を出してくれて、しかし、一旦こっちの手へ渡ったもんだから、よく攫徒仲間が遣ると云う、小包みにでもして、その筋へ出さなくっちゃ不可んぞ、と念を入れて渡してくれた。一所に交番へ来い! とも云わずに、すっきりしたその人へ義理が有るから、手も附けないで突出すつもりで、一先ず木賃宿へ帰ろうとする処を、御用になりました。たった一時でも善人になってぼうとした処だったから掴まったんで、盗人心を持った時なら、浅草橋の欄干を蹈んで、富貴竈の屋根へ飛んでも、旦那方の手に合うんじゃないと、太平楽を並べた。太い奴は太い奴として。
酒井さん。その攫徒の、袖の下になって、坂田氏の紙入を預ったという男は、誰だと思いますか、ねえ、これが早瀬なんだ。」
と教頭は椅子をずらして、卓子を軽く打って、
「どうです、貴娘が聞いても変だろうが。
その筋じゃ、直きその関係者にも当りがついて、早瀬も確か一二度警察へ呼ばれた筈だ。しかしその申立てが、攫徒の言に符合するし、早瀬もちっとは人に知られた、しかるべき身分だし、何は措いても、名の響いた貴娘の父様の門下だ、というので、何の仔細も無く済むにゃ済んだ。
真砂町の御宅へも、この事に附いて、刑事が出向いたそうだが、そりゃ憚って新聞にも書かず、御両親も貴娘には聞かせんだろう。
で、とんだ災難で、早瀬は参謀本部の訳官も辞した、と新聞には体裁よく出してあるが、考えて御覧なさい。
同じ電車に乗っていて、坂田氏が掏られた事をその騒ぎで知らん筈がない。知っていてだね、紙入が自分の袂に入っている事を……まあ、仮に攫徒に聞かれるまで気がつかなんだにしてからがだ、いよいよ分った時、面識の有る坂田氏へ返そうとはしないで、ですね、」
河野にも言を分けて、
「直接に攫徒に渡してやるもいかがなもんだよ。何よりもだね、そんな盗賊とひそひそ話をして……公然とは出来んさ、いずれ密々話さ。」
誰も否とは云わんのに、独りで嵩にかかって、
「紙入を手から手へ譲渡をするなんて、そんな、不都合な、後暗い。」
「だがね、」
とちょいちょい、新聞を見るようにしては、お妙の顔を伺い伺い、嬢があらぬ方を向いて、今は流眄もしなくなったので、果は遠慮なく視めていたのが、なえた様な声を出して、
「坂田が疑うように、攫徒の同類だという、そんな事は無いよ。君、」
「どうとも云えん。酒井氏の内に居たというだけで、誰の子だか素性も知れないんだというじゃないか。」
「父上に……聞いて……頂戴。」
とお妙は口惜しそうに、あわれや、うるみ声して云った。
二人密と目を合せて、苦々しげに教頭が、
「あえてそういう探索をする必要は無いですがね、よしんば何事も措いて問わんとして、少くとも攫徒に同情したに違いない、そうだろう。」
「そりゃあの男の主義かも知れんよ。」
「主義、危険極まる主義だ。で、要するにです、酒井さん。ああいう者と交際をなさるというと、先ず貴嬢の名誉、続いてはこの学校の名誉に係りますから、以来、口なんぞ利いてはなりません。宜しいかね。危険だから近寄らんようになさい、何をするか分らんから、あんな奴は。」
お妙は気を張つめんと勤むるごとく、熟と瞶る地図を的に、目をって、先刻からどんなに堪えたろう。得忍ばず涙ぐむと、もうはらはらと露になって、紫の包にこぼれた。あわれ主税をして見せしめば、ために命も惜むまじ。
五十一
いや、学士二人驚いた事。
「貴娘、どうしたんだ。」
と教頭が椅子から突立った時は、お妙は始からしっかり握った袂をそのまま、白羽二重の肌襦袢の筒袖の肱を円く、本の包に袖を重ねて、肩をせめて揉込むばかり顔を伏せて、声は立てずに泣くのであった。
「ええ、どうして泣くです。」
靴音高く傍へ寄ると、河野も慌しく立って来て、
「泣いちゃ不可ませんなあ、何も悲い事は無いですよ。」
「私は貴娘を叱ったんじゃない。」
「けれども、君の話振がちと穏でなかったよ。だから誤解をされたんだ。貴娘泣く事はありません、」
と密と肩に手を掛けたが、お妙の振払いもしなかったのは、泣入って、知らなかったせいであったに……
河野英吉嬉しそうな顔をして、
「さあ、機嫌を直してお話しなさい。」と云う時、きょときょと目で、お妙の俯向いた玉の頸へ、横から徐々と頬を寄せて、リボンの花結びにちょっと触れて、じたじたと総身を戦かしたが、教頭は見て見ぬ振の、謂えらく、今夜の会計は河野持だ。
途端にお妙が身動をしたので、刎飛ばされたように、がたりと退る。
「もう帰っても可いんですか。」
と顔を隠したままお妙が云った。これには返す言もあるまい。
「可いですとも!」
と教頭が言いも果てぬに、身を捻ったなりで、礼もしないで、つかつかと出そうにすると、がたがたと靴を鳴らして、教頭は及腰に追っかけて、
「貴娘内へ帰って、父様にこんな事を話しては不可んですよ。貴娘の名誉を重んじて忠告をしただけですから、ね、宜いですかね、ね。」
急いた声で賺すがごとく、顔を附着けて云うのを聞いて、お妙は立留まって、おとなしく頷いたが、(許す。)の態度で、しかも優しかった。
「ああ。」と、安堵の溜息を一所にして、教頭は室の真中に、ぼんやりと突立つ。
河野の姿が、横ざまに飛んで、あたふた先へ立って扉を開いて控えたのと、擦違いに、お妙は衝と抜けて、顔に当てた袖を落した。
雨を帯びたる海棠に、廊下の埃は鎮まって、正午過の早や蔭になったが、打向いたる式台の、戸外は麗な日なのである。
ト押重って、木の実の生った状に顔を並べて、斉しくお妙を見送った、四ツの髯の粘り加減は、蛞蝓の這うにこそ。
真砂町の家へ帰ると、玄関には書生が居て、送迎いの手数を掛けるから、いつも素通りにして、横の木戸をトンと押して、水口から庭へ廻って、縁側へ飛上るのが例で。
さしむき今日あたりは、飛石を踏んだまま、母様御飯、と遣って、何ですね、唯今も言わないで、と躾められそうな処。
そうではなかった。
例の通りで、庭へ入ると、母様は風邪が長引いたので、もう大概は快いが、まだちっと寒気がする肩つきで、寝着の上に、縞の羽織を羽織って、珍らしい櫛巻で、面窶れがした上に、色が抜けるほど白くなって、品の可いのが媚かしい。
寝床の上に端然と坐って、膝へ掻巻の襟をかけて、その日の新聞を読む――半面が柔かに蒲団に敷いている。
これを見ると、どうしたか、お妙は飛石に突据えられたようになって、立留まった。
美しい袂の影が、座敷へ通って、母様は心着いて、
「遅かったね。」
「ええ、お友達と作文の相談をしていたの。」
優しくも教頭のために、腹案があったと見えて、淀みなく返事をしながら、何となく力なさそうに、靴を脱ぎかける処へ、玄関から次の茶の間へ、急いで来た跫音で、襖の外から、書生の声、
「お嬢さんですか、今日の新聞に、切抜きをなすったのは。」
紫
五十二
お茶漬さらさら、大好な鰺の新切で御飯が済むと、硯を一枚、房楊枝を持添えて、袴を取ったばかり、くびれるほど固く巻いた扱帯に手拭を挟んで、金盥をがらん、と提げて、黒塗に萌葱の綿天の緒の立った、歯の曲った、女中の台所穿を、雪の素足に突掛けたが、靴足袋を脱いだままの裾短なのをちっとも介意わず、水口から木戸を出て、日の光を浴びた状は、踊舞台の潮汲に似て非なりで、藤間が新案の(羊飼。)と云う姿。
お妙は玄関傍、生垣の前の井戸へ出て、乾いてはいたが辷りのある井戸流へ危気も無くその曲った下駄で乗った。女中も居るが、母様の躾が可いから、もう十一二の時分から膚についたものだけは、人手には掛けさせないので、ここへは馴染で、水心があって、つい去年あたりまで、土用中は、遠慮なしにからからと汲み上げて、釣瓶へ唇を押附けるので、井筒の紅梅は葉になっても、時々花片が浮ぶのであった。直に桃色の襷を出して、袂を投げて潜らした。惜気の無い二の腕あたり、柳の絮の散るよと見えて、井戸縄が走ったと思うと、金盥へ入れた硯の上へ颯とかかる、水が紫に、墨が散った。
宿墨を洗う気で、楊枝の房を、小指を刎ねてりはじめたが、何を焦れたか、ぐいと引断るように邪険である。
ト構内の長屋の前へ、通勤に出る外、余り着て来た事の無い、珍らしい背広の扮装、何だか衣兜を膨らまして、その上暑中でも持ったのを見懸けぬ、蝙蝠傘さえ携えて、早瀬が前後をしながら、悄然として入って来たが、梅の許なるお妙を見る……
「おお、」
と慌しい、懐しげな声をかけて、
「お嬢さん。」
お妙はそれまで気がつかなかった。呼れて、手を留て主税を見たが、水を汲んだ名残か、顔の色がほんのりと、物いわぬ目は、露や、玉や、およそ声なく言なき世のそれらの、美しいものより美しく、歌よりも心が籠った。
「また、水いたずらをしているんですね。」
と顔を視めて元気らしく、呵々と笑うと、柔い瞳が睨むように動き止まって、
「金魚じゃなくってよ。硯を洗うの。」
「ああ、成程。」
と始めて金盥を覗込んで俯向いた時、人知れず目をしばたたいたが、さあらぬ体で、
「御清書ですかい。」
「いいえ、あの、絵なの。あの、上手な。明後日学校へ持って行くのを、これから描くんだわ。」
「御手本は何です、姉様の顔ですか。」
「嘘よ、そんなものじゃないわ。ああ、」
と莞爾して、独りで頷いて、
「もっと可いもの、杜若に八橋よ。」
「から衣きつつ馴れにし、と云うんですね。」
と云いかけて愁然たり。
お妙は何の気もつかない、派手な面色して、
「まあ、いつ覚えて、ちょいと、感心だわねえ。」
「可哀相に。」
と苦笑いをすると、お妙は真顔で、
「だって、主税さん、先年私の誕生日に、お酒に酔って唄ったじゃありませんか。貴下は、浅くとも清き流れの方よ。ほんとの歌は柄に無いの。」
とつけつけ云う。
「いや、恐入りましたよ。(トちょっと額に手を当てて、)先生は?」と更めて聞くと、心ありげに頷いて、
「居てよ、二階に。」(おいでなさいな。)を色で云って、臈たく生垣から、二階を振仰ぐ。
主税はたちまち思いついたように、
「お嬢さん、」と云うや否や、蝙蝠傘を投出すごとく、井の柱へ押倒して、勢猛に、上衣を片腕から脱ぎかけて、
「久しぶりで、私が洗って差上げましょう。」と、脱いだ上衣を、井戸側へ突込むほど引掛けたと思うと、お妙がものを云う間も無かった。手を早や金盥に突込んで、
「貴娘、その房楊枝を。――浅くとも清き流れだ。」
五十三
「あら、乱暴ねえ。ちょいと、まだ釣瓶から雫がするのに、こんな処へ脱ぐんだもの。」
と躾めるように云って、お妙は上衣を引取って、露に白い小腕で、羽二重で結えたように、胸へ、薄色を抱いたのである。
「貴娘は、先生のように癇性で、寒の中も、井戸端へ持出して、ざあざあ水を使うんだから、こうやって洗うのにも心持は可いけれども、その代り手を墨だらけにするんです。爪の間へ染みた日にゃ、ちょいとじゃ取れないんですからね。」
「厭ねえ、恩に被せて。誰も頼みはしないんだわ。」
「恩に被せるんじゃありません。爪紅と云って、貴娘、紅をさしたような美い手の先を台なしになさるから、だから云うんです。やっぱり私が居た時分のように、お玄関の書生さんにしてお貰いなさいよ。
ああ、これは、」
と片頬笑みして、
「余り上等な墨ではありませんな。」
「可いわ! どうせ安いんだわ。もう私がするから可くってよ。」
「手が墨だらけになりますと云うのに。貴娘そんな邪険な事を云って、私の手がお身代に立っている処じゃありませんか。」
「それでもね、こうやってお召物を持っている手も、随分、随分(と力を入れて、微笑んで、)迷惑してよ。」
「相変らずだ。(と独言のように云って、)ですが、何ですね、近頃は、大層御勉強でございますね。」
「どうしてね? 主税さん。」
「だって、明後日お持ちなさろうという絵を、もう今日から御手廻しじゃありませんか。」
「翌日は日曜だもの、遊ばなくっちゃ、」
「ああ日曜ですね。」
と雫を払った、硯は顔も映りそう。熟と見て振仰いで、
「その、衣兜にあります、その半紙を取って下さい。」
「主税さん。」
「はあ、」
「ほほほほ、」とただ笑う。
「何が、可笑しいんです。え、顔に墨が刎ねましたか。」
「いいえ、ほほほほ。」
「何ですてば、」
「あのね、」
「はあ。」
「もしかすると……」
「ええ、ええ。」
「ほほほ、翌日また日曜ね、貴郎の許へ遊びに行ってよ。」
水に映った主税の色は、颯と薄墨の暗くなった。あわれ、仔細あって、飯田町の家はもう無かったのである。
「いらっしゃいましとも。」
と勢込んで、思入った語気で答えた。
「あの、庭の白百合はもう咲いたの、」
「…………」
「この間行った時、まだ莟が堅かったから、早く咲くように、おまじないに、私、フッフッとふくらまして来たけれど、」
と云う口許こそふくらなりけれ。主税の背は、搾木にかけて細ったのである。
ト見て、お妙が言おうとする時、からりと開いた格子の音、玄関の書生がぬっと出た。心づけても言うことを肯かぬ、羽織の紐を結ばずに長くさげて、大跨に歩行いて来て、
「早瀬さん、先生が、」
二階の廊下は目の上の、先生はもう御存じ。
「は、唯今、」
と姿は見えぬ、二階へ返事をするようにして、硯を手に据え、急いで立つと、上衣を開いて、背後へ廻って、足駄穿いたが対丈に、肩を抱くように着せかける。
「やあ、これは、これはどうも。」
と骨も砕くる背に被いで、戦くばかり身を揉むと、
「意地が悪いわ、突張るんだもの。あら、憎らしいわねえ。」
と身動きに眉を顰めて――長屋の窓からお饒舌りの媽々の顔が出ているのも、路地口の野良猫が、のっそり居るのも、書生が無念そうにその羽織の紐をくるくると廻すのも――一向気にもかけず、平気で着せて、襟を圧えて、爪立って、
「厭な、どうして、こんなに雲脂が生きて?」
五十四
主税が大急ぎで、ト引挟まるようになって、格子戸を潜った時、手をぶらりと下げて見送ったお妙が、無邪気な忍笑。
「まあ、粗かしいこと。」
まことに硯を持って入って、そのかわり蝙蝠傘と、その柄に引掛けた中折帽を忘れた。
後へ立淀んで、こなたを覗めた書生が、お妙のその笑顔を見ると、崩れるほどにニヤリとしたが、例の羽織の紐を輪形に掉って、格子を叩きながら、のそりと入った。
誰も居なくなると、お妙はその二重瞼をふっくりとするまで、もう、(その速力をもってすれば。)主税が上ったらしい二階を見上げて、横歩行きに、井の柱へ手をかけて、伸上るようにしていた。やがて、柱に背をつけて、くるりと向をかえて凭れると、学校から帰ったなりの袂を取って、振をはらりと手許へ返して、睫毛の濃くなるまで熟と見て、袷と唐縮緬友染の長襦袢のかさなる袖を、ちゅうちゅうたこかいなと算えるばかりに、丁寧に引分けて、深いほど手首を入れたは、内心人目を忍んだつもりであるが、この所作で余計に目に着く。
ただし遣方が仇気ないから、まだ覗いている件の長屋窓の女房の目では、おやおや細螺か、鞠か、もしそれ堅豆だ、と思った、が、そうでない。
引出したのは、細長い小さな紙で、字のかいたもの、はて、怪しからんが、心配には及ばぬ――新聞の切抜であった。
さればこそ、学校の応接室でも、しきりに袂を気にしたので、これに、主税――対坂田の百有余円を掏った……掏摸に関した記事が、細に一段ばかり有ることは言うまでもない。
お妙は、今朝学校へ出掛けに、女中が味噌汁を装って来る間に、膳の傍へ転んだようになって、例に因って三の面の早読と云うのをすると、(独語学者の掏摸。)と云う、幾分か挑撥的の標語で、主税のその事が出ていたので、持ちかえて、見直したり、引張ったり、畳んだり、太く気を揉んだ様子だったが、ツンと怒った顔をしたと思うと、お盆を差出した女中と入違いに、洋燈棚へついと起って、剪刀を袖の下へ秘して来て、四辺をして、ずぶりと入れると、昔取った千代紙なり、めっきり裁縫は上達なり、見事な手際でチョキチョキチョキ。
母様は病気を勤めて、二階へ先生を起しに行って、貴郎、貴郎と云う折柄。書生は玄関どたんばたん。女中はちょうど、台所の何かの湯気に隠れたから、その時は誰も知らなかったが、知れずに済みそうな事でもなし、またこれだけを切取っても、主税の迷惑は隠されぬ、内へだって、新聞は他に二三種も来るのだけれども、そんな事は不関焉。
で、教頭の説くを待たずして、お妙は一切を知っていたので、話を聞いて驚くより、無念の涙が早かったのである。
と書生はまた、内々はがき便見たようなものへ、投書をする道楽があって、今日当り出そうな処と、床の中から手ぐすねを引いたが、寝坊だから、奥へ先繰になったのを、あとで飛附いて見ると、あたかもその裏へ、目的物が出る筈の、三の面が一小間切抜いてあるので、落胆したが、いや、この悪戯、嬢的に極ったり、と怨恨骨髄に徹して、いつもより帰宅の遅いのを、玄関の障子から睨め透して待構えて、木戸を入ったのを追かけて詰問に及んだので、その時のお妙の返事というのが、ああ、私よ。と済したものだった。
それをまたひとりでここで見直しつつ、半ば過ぎると、目を外らして、多時思入った風であったが、ばさばさと引裂いて、くるりと丸めてハタと向う見ずに投り出すと、もう一ツの柱の許に、その蝙蝠傘に掛けてある、主税の中折帽へ留まったので、
「憎らしい。」と顔を赤めて、刎ね飛ばして、帽子を取って、袖で、ばたばたと埃を払った。
書生が、すっ飛んで、格子を出て、どこへ急ぐのか、お妙の前を通りかけて、
「えへへへ。」
その時お妙は、主税の蝙蝠傘を引抱えて、
「どこへ行くの。」
「車屋へ大急ぎでございます。」
「あら、父上はお出掛け。」
「いいえ、車を持たせて、アバ大人を呼びますので、ははは。」
はなむけ
五十五
媒妁人は宵の口、燈火を中に、酒井とさしむかいの坂田礼之進。
「唯今は御使で、特にお車をお遣わしで恐縮にごわります。実はな、ちょと私用で外出をいたしおりましたが、俗にかの、虫が知らせるとか申すような儀で、何か、心急ぎ、帰宅いたしますると、門口に車がごわりまして、来客かと存じましたれば、いや、」と、額を撫でて笑うのに前歯が露出。
「はははは、すなわち御持せのお車、早速間に合いました。実は好都合と云って宜しいので、これと申すも、偏に御縁のごわりまする兆でごわりまするな、はあ、」
酒井も珍らしく威儀を正して、
「お呼立て申して失礼ですが、家内が病気で居ますんで、」と、手を伸して、巻莨をぐっ、と抜く。
「時に、いかがでごわりまするな、御令室御病気は。御勝れ遊ばさん事は、先達ての折も伺いましてごわりましてな。河野でも承り及んで、英吉君の母なども大きにお案じ申しております。どういう御容体でいらっしゃりまするか、私もその、甚だ心配を仕りまするので、はあ、」
「別に心配なんじゃありません。肺病でも癩病でもないんですから。」
と先生警抜なことを云って、俯向きざまに、灰を払ったが、左手を袖口へ掻込んで胸を張って煙を吸った。礼之進は、畏ったズボンの膝を、張肱の両手で二つ叩いて、スーと云ったばかりで、斜めに酒井の顔を見込むと、
「たかだか風邪のこじれです。」
「その風邪が万病の原じゃ、と誰でも申すことでごわりまするが、事実でな。何分御注意なさらんとなりません。」
と妙に白けた顔が、燈火に赤く見えて、
「では、さように御病中でごわりましては、御縁女の事に就きまして、御令室とまだ御相談下さります間もごわりませんので?」
と重々しく素引きかけると、酒井は事も無げな口吻。
「いや、相談はしましたよ。」
「ははあ、御相談下さりましたか。それは、」と頤を揉んで、スーと云って、
「御令室の思召はいかがでごわりましょうか。実はな、かような事は、打明けて申せば、貴下より御令室の御意向が主でごわりまするで、その御言葉一ツが、いかがの極まりまする処で、推着けがましゅうごわりますが、英吉君の母も、この御返事……と申しまするより、むしろ黄道吉日をば待ちまして、唯今もって、東京に逗留いたしておりまする次第で。はあ。御令室の御言葉一ツで、」
と、意気込んで、スーと忙しく啜って、
「何か、私までも、それを承りまするに就いて、このな、胸が轟くでごわりまするが、」
と熟と見据えると、酒井は半ば目を閉じながら、
「他ならぬ先生の御口添じゃあるし、伺った通りで、河野さんの方も申分も無い御家です。実際、願ってもない良縁で、もとよりかれこれ異存のある筈はありませんが、ただ不束な娘ですから、」
「いや、いや、」
と頭を掉って、大に発奮み、
「とんだ事でごわります、怪しかりませんな、河野英吉夫人を、不束などと御意なされますると、親御の貴下のお口でも、坂田礼之進聞棄てに相成りません、はははは。で、御承諾下さりますかな。」
「家内は大喜びで是非とも願いたいと言いますよ。」
時に襖に密と当った、柔な衣の気勢があった――それは次の座敷からで――先生の二階は、八畳と六畳二室で、その八畳の方が書斎であるが、ここに坂田と相対したのは、壇から上口の六畳の方。
礼之進はまた額に手を当て、
「いや、何とも。私大願成就仕りましたような心持で。お庇を持ちまして、痘痕が栄えるでごわりまする。は、はは、」
道学先生が、自からその醜を唱うるは、例として話の纏まった時に限るのであった。
五十六
望んでも得難き良縁で異存なし、とあれば、この縁談はもう纏ったものと、今までの経験に因って、道学者はしか心得るのに、酒井がその気骨稜々たる姿に似ず、悠然と構えて、煙草の煙を長々と続ける工合が、どうもまだ話の切目ではなさそうで、これから一物あるらしい、底の方の擽ったさに、礼之進は、日一日歩行廻る、ほとぼりの冷めやらぬ、靴足袋の裏が何となく生熱い。
坐った膝をもじもじさして、
「ええ、御令室が御快諾下されましたとなりますると、貴下の思召は。」
ちっとも猶予らわずに、
「私に言句のあろう筈はありません。」
「はあ、成程、」と乗かかったが、まだ荷が済まぬ。これで決着しなければならぬ訳だが……
「しますると、御当人、妙子様でごわりまするが。」
「娘は小児です。箸を持って、婿をはさんで、アンとお開き、と哺めてやるような縁談ですから、否も応もあったもんじゃありません。」
と小刻に灰を落したが、直ぐにまた煙草にする。
道学先生、堪りかねて、手を握り、膝を揺って、
「では、御両親はじめ、御縁女にも、御得心下されましたれば、直ぐ結納と申すような御相談はいかがなものでごわりましょうか。善は急げでごわりまするで。」と講義の外の格言を提出した。
「先生、そこですよ。」と灰吹に、ずいと突込む。
「成程、就きまして、何か、別儀が。」
「大有り。(と調子が砕けて、)私どもは願う処の御縁であるし、妙にもかれこれは申させません。無論ですね、お前、河野さんの嫁になるんだ。はい、と云うに間違いはありませんが、他にもう一人、貴下からお話し下すって、承知をさせて頂きたいものがあるんです。どうでしょう、その者へ御相談下さるわけに参りましょうか。」
「お易い事で。何でごわりまするか、どちらぞ、御親類ででもおあんなさりまするならば、直ぐにこの足で駈着けましても宜しゅう存じまするで。ええ、御姓名、御住所は何とおっしゃる?」
「住居は飯田町ですが、」
と云う時、先生の肩がやや聳えた。
「早瀬ですよ。」
「御門生。」と、吃驚する。
「掏摸一件の男です。」と意味ありげに打微笑む。
礼之進、苦り切った顔色で、
「へへい、それはまた、どういう次第でごわりまするか、ただ御門生と承りましたが、何ぞ深しき理由でもおありなさりますと云う……」
「理由も何にもありません。早瀬は妙に惚れています。」と澄まして云った、酒井俊蔵は世に聞えたる文学士である。
道学者はアッと痘痕、目を円かにして口をつぐむ。
「実の親より、当人より、ぞッこん惚れてる奴の意向に従った方が一番間違が無くって宜しい。早瀬がこの縁談を結構だ、と申せば、直ぐに妙を差上げますよ。面倒は入らん。先生が立処に手を曳いて、河野へ連れてお出でなすって構いません。早瀬が不可い、と云えば、断然お断りをするまでです。」
黙ってはいられない。
「しますると、その、」
と少し顔の色も変えて、
「御門生は、妙子様に……」と、あとは他人でもいささか言いかねて憚ったのを、……酒井は平然として、
「惚れていますともさ。同一家に我儘を言合って一所に育って、それで惚れなければどうかしているんです。もっともその惚方――愛――はですな、兄妹のようか、従兄妹のようか、それとも師弟のようか、主従のようか、小説のようか、伝奇のようか、そこは分りませんが、惚れているにゃ違いないのですから、私は、親、伯父、叔母、諸親類、友達、失礼だが、御媒酌人、そんなものの口に聞いたり、意見に従ったりするよりは、一も二もない、早手廻しに、娘の縁談は、惚れてる男に任せるんです。いかがでしょう、先生、至極妙策じゃありませんか。それともまた酒飲みの料簡でしょうか。」
と串戯のように云って、ちょっと口切ったが、道学者の呆れて口が利けないのに、押被せて、
「さっぱりとそうして下さい。」
五十七
「貴下、ええ、お言葉ではごわりまするが、スー」と頬の窪むばかりに吸って、礼之進、ねつねつ、……
「さよういたしますると、御門生早瀬子が令嬢を愛すると申して、万一結婚をいたしたいと云うような場合におきましては……でごわりまする……その辺はいかがお計らいなされまする思召でごわりまするな。」
「勝手にさせます。」と先生言下に答えた。
これにまた少なからず怯かされて、
「しまするというと、貴下は自由結婚を御賛成で。」
「いや、」
「はあ、いかような御趣意に相成りまするか。」
「私は許嫁の方ですよ。」と酒井は笑う。
「許嫁? では、早瀬子と、令嬢とは、許嫁でお在なされますので。」
「決してそんな事はありません。許嫁は、私と私の家内とです。で、二人ともそれに賛成……ですか。同意だったから、夫婦になりましたよ。妙の方はどんな料簡だか、更らに私には分りません。早瀬とくッついて、それが自由結婚なら、自由結婚、誰かと駈落をすれば、それは駈落結婚、」と澄ましたものである。
「へへへ、御串戯で。御議論がちと矯激でごわりましょう!」
「先生、人の娘を、嫁に呉れい、と云う方がかえって矯激ですな、考えて見ると。けれども、習慣だからちっとも誰も怪まんのです。
貴下から縁談の申込みがある。娘には、惚れてる奴が居ますから、その料簡次第で御話を取極める、と云うに、不思議はありますまい。唐突に嫁入らせると、そのぞっこんであった男が、いや、失望だわ、懊悩だわ、煩悶だわ、辷った、転んだ、ととかく世の中が面倒臭くって不可んのです。」
「で、ごわりまするが、この縁談が破れますると、早瀬子はそれで宜しいとして、英吉君の方が、それこそ同じように、失望、懊悩、煩悶いたしましょうで、……その辺も御勘考下さりまするように。」
「大丈夫、」
と話は済んだように莞爾して、
「昔から媒酌人附の縁談が纏まらなかった為に、死ぬの、活きるの、と云った例はありません。騒動の起るのは、媒酌人なしの内証の奴に極ったものです。」
「はあ、」
と云って、道学者は口を開いて、茫然として酒井の顔を見ていたが、
「しかし、貴下、聞く処に拠りますると、早瀬子は、何か、芸妓風情を、内へ入れておると申すでごわりまするが。」
「さよう、芸妓を入れていて、自分で不都合だと思ったら、妙には指もさしますまい。直ちに河野へ嫁入らせる事に同意をしましょう。それとも内心、妙をどうかしたいというなら、妙と夫婦になる前に、芸妓と二人で、世帯の稽古をしているんでしょう。どちらとも彼奴の返事をお聞き下さい。或は、自分、妙を欲しいではないが、他なら知らず河野へは嫁っちゃ不可ん、と云えば、私もお断だ。どの道、妙に惚れてる奴だから、その真実愛しているものの云うことは、娘に取っては、神仏の御託宣と同一です。」
形勢かくのごとくんば、掏摸の事など言い出したら、なおこの上の事の破れ、と礼之進行詰って真赤になり、
「是非がごわりませぬ。ともかく、早瀬子を説きまして、更めて御承諾を願おうでごわりまする。が、困りましたな。ええ、先刻も飯田町の、あの早瀬子の居らるる路地を、私通りがかりに覗きますると、何か、魚屋体のものが、指図をいたして、荷物を片着けおりまする最中。どこへ引越される、と聞きましたら、(引越すんじゃない、夜遁げだい。)と怒鳴ります仕誼で、一向その行先も分りませんが。」
先生哄然として、
「はははは、事実ですよ。掏摸の手伝いをしたとかで、馬鹿野郎、東京には居られなくなって、遁げたんです。もうこちらへも暇乞に来ましたが、故郷の静岡へ引込む、と云っていましたから、河野さんの本宅と同郷でしょう。御相談なさるには便宜かも知れません。……御随意に、――お引取を。」
ああ、媒酌人には何がなる。黄色い手巾を忘れて、礼之進の帰るのを、自分で玄関へ送出して、引返して、二階へ上った、酒井が次のその八畳の書斎を開けると、そこには、主税が、膳の前に手を支いて、畏って落涙しつつ居たのである。夫人も傍に。
先生はつかつかと上座に直って、
「謹、酌をしてやれ。早瀬、今のはお前へ餞別だ。」
五十八
主税は心も闇だったろう、覚束なげな足取で、階子壇をみしみしと下りて来て、もっとも、先生と夫人が居らるる、八畳の書斎から、一室越し袋の口を開いたような明は射すが、下は長六畳で、直ぐそこが玄関の、書生の机も暗かった。
さすがは酒井が注意して――早瀬へ贐、にする為だった――道学者との談話を漏聞かせまいため、先んじて、今夜はそれとなく余所へ出して置いたので。羽織の紐は、結んだかどうか、まだ帰らぬ。
酔ってはいないが、蹌踉と、壁へ手をつくばかりにして、壇を下り切ると、主税は真暗な穴へ落ちた思がして、がっくりとなって、諸膝を支こうとしたが、先生はともかく、そこまで送り出そうとした夫人を、平に、と推着けるように辞退して来たものを、ここで躊躇している内に、座を立たれては恐多い、と心を引立てた腰を、自分で突飛ばすごとく、大跨に出合頭。
颯と開いた襖とともに、唐縮緬友染の不断帯、格子の銘仙の羽織を着て、いつか、縁日で見たような、三ツ四ツ年紀の長けた姿。円い透硝子の笠のかかった、背の高い竹台の洋燈を、杖に支く形に持って、母様の居室から、衝と立ちざまの容子であった。
お妙の顔を一目見ると、主税は物をも言わないで、そのままそこへ、膝を折って、畳に突伏すがごとく会釈をすると、お妙も、黙って差置いた洋燈の台擦れに、肩を細うして指の尖を揃えて坐る、袂が畳にさらりと敷く音。
こんな慇懃な挨拶をしたのは、二人とも二人には最初で。玄関の障子にほとんど裾の附着く処で、向い合って、こうして、さて別れるのである。
と主税が、胸を斜めにして、片手を膝へ上げた時、お妙のリボンは、何の色か、真白な蝶のよう、燈火のうつろう影に、黒髪を離れてゆらゆらと揺めいた。
「もう帰るの?」
と先へ声を懸けられて、わずかに顔を上げてお妙を見たが、この時の俤は、主税が世を終るまで、忘れまじきものであった。
机に向った横坐りに、やや乱れたか衣紋を気にして、手でちょいちょいと掻合わせるのが、何やら薄寒そうで風采も沈んだのに、唇が真黒だったは、杜若を描く墨の、紫の雫を含んだのであろう、艶に媚めかしく、且つ寂しく、翌日の朝は結う筈の後れ毛さえ、眉を掠めてはらはらと、白き牡丹の花片に心の影のたたずまえる。
「お嬢さん。」
「…………」
「御機嫌宜う。」
「貴下も。」とただ一言、無量の情が籠ったのである。
靴を穿いて格子を出るのを、お妙は洋燈を背にして、框の障子に掴まって、熟と覗くように見送りながら、
「さようなら。」
と勢よく云ったが、快く別れを告げたのではなく、学校の帰りに、どこかで朋達と別れる時のように、かかる折にはこう云うものと、規則で口へ出たのらしい。
格子の外にちらちらした、主税の姿が、まるで見えなくなったと思うと、お妙は拗ねた状に顔だけを障子で隠して、そのつかまった縁を、するする二三度、烈しく掌で擦ったが、背を捻って、切なそうに身を曲げて、遠い所のように、つい襖の彼方の茶の間を覗くと、長火鉢の傍の釣洋燈の下に、ものの本にも実際にも、約束通りの女中の有様。
ちょいと、風邪を引くよ、と先刻から、隣座敷の机に恁っかかって絵を描きながら、低声で気をつけたその大揺れの船が、この時、最早や見事な難船。
お妙はその状を見定めると、何を穿いたか自分も知らずに、スッと格子を開けるが疾いか、身動ぎに端が解けた、しどけない扱帯の紅。
五十九
「厭よ、主税さん、地方へ行っては。」
とお妙の手は、井戸端の梅に縋ったが、声は早瀬をせき留める。
「…………」
「厭だわ、私、地方へなんぞ行ってしまっては。」
主税は四辺を見たのであろう、闇の青葉に帽子が動いた。
「直き帰って来るんですからね、心配しないで下さいよ。」
「だって、直だって、一月や二月で帰って来やしないんでしょう。」
「そりゃ、家を畳んで参るんですもの。二三年は引込みます積りです。」
「厭ねえ、二三年。……月に一度ぐらいは遊びに行った日曜さえ、私、待遠しかったんだもの。そんな、二年だの、三年だの、厭だわ、私。」
お妙は格子戸を出るまでは、仔細らしく人目を忍んだようだけれども、こうなるとあえて人聞きを憚るごとき、低い声ではなかったのが、ここで急に密りして、
「あの、貴下、父様に叱られて、内証の……奥さん、」
「ええ!」
「その方と別れたから、それで悲くなって地方へ行ってしまうのじゃないの、ええ、じゃなくって?」
「…………」
「それならねえ、辛抱なさいよ。母様が、その方もお可哀相だから、可い折に、父様にそう云って、一所にして上げるって云ってるんですよ。私がね、(お酌さん。)をして、沢山お酒を飲まして、そうして、その時に頼めば可いのよ、父様が肯いてくれますよ。」
「……罰、罰の当った事をおっしゃる! 私は涙が溢れます、勿体ない。そりゃもう、先生の御意見で夢が覚ましたから、生れ代りましたように、魂を入替えて、これから修行と思いましたに、人は怨みません。自分の越度だけれど、掏摸と、どうしたの、こうしたの、という汚名を被ては、人中へは出られません。
先生は、かれこれ面倒だったら、また玄関へ来ておれ、置いてやろう、とおっしゃって下さいますけれども、先生のお手許に居ては、なお掏摸の名が世間に騒しくなるばかりです。
卑怯なようですけれど、それよりは当分地方へ引込んで、人の噂も七十五日と云うのを、果敢ないながら、頼みにします方が、万全の策だ、と思いますから、私は、一日旅行してさえ、新橋、上野の停車場に着くと拝みたいほど嬉しくなります、そんな懐い東京ですが、しばらく分れねばなりません。」
「厭だわ、私、厭、行っちゃ。」
言が途絶えると、音がした、釣瓶の雫が落ちたのである。
差俯向くと、仄かにお妙の足が白い。
「静岡へ参って落着いて、都合が出来ますと、どんな茅屋の軒へでも、それこそ花だけは綺麗に飾って、歓迎をしますから、貴娘、暑中休暇には、海水浴にいらしって下さい。
江尻も興津も直きそこだし、まだ知りませんが、久能山だの、竜華寺だの、名所があって、清見寺も、三保の松原も近いんですから、」
富士の山と申す、天までとどく山を御目にかけまするまで、主税は姫を賺して云った。
「厭だわ、そんな事よりか、私、来年卒業すると、もうあんな学校や教頭なんか用は無いんだから、そうすると、主税さんの許へ、毎日朝から行って、教頭なんかに見せつけてやるのにねえ。口惜しいわ、攫徒の仲間だの、巾着切の同類だのって、貴郎の事をそう云うのよ。そして、口を利いちゃ不可いって、学校の名誉に障るって云うのよ。可うござんす、帰途に直ぐに、早瀬さんへ行っていッつけてやるって、言おうかと思ったけれど、行状点を減かれるから。そうすると、お友達に負るから、見っともないから、黙っていたけれど、私、泣いたの。主税さん。卒業したら、その日から、(私も掏摸かい、見て頂戴。)と、貴下の二階に居て讐を取ってやりたかったに、残念だわねえ。」
と擦寄って、
「地方へ行かない工夫はないの?」と忘れたように、肩に凭れて、胸へ縋ったお妙の手を、上へ頂くがごとくに取って、主税は思わず、唇を指環に接けた。
「忘れません。私は死んでも鬼になって。」
君の影身に附添わん、と青葉をさらさらと鳴らしたのである。
巣立の鷹
六十
「おっと、ここ、ここ、飯田町の先生、こっちだ、こっちだ、はははは。」
十二時近い新橋停車場の、まばらな、陰気な構内も、冴返る高調子で、主税を呼懸けたのは、め組の惣助。
手荷物はすっかり、このいさみが預って、先へ来て待合わせたものと見える。大な支那革鞄を横倒しにして、えいこらさと腰を懸けた。重荷に小附の折革鞄、慾張って挟んだ書物の、背のクロオスの文字が、伯林の、星の光はかくぞとて、きらきら異彩を放つのを、瓢箪式に膝に引着け、あの右角の、三等待合の入口を、叱られぬだけに塞いで、樹下石上の身の構え、電燈の花見る面色、九分九厘に飲酒たり矣。
あれでは、我慢が仕切れまい、真砂町の井筒の許で、青葉落ち、枝裂けて、お嬢と分れて来る途中、どこで飲んだか、主税も陶然たるもので、かっと二等待合室を、入口から帽子を突込んで覗く処を、め組は渠のいわゆる(こっち。)から呼んだので。これが一言でブーンと響くほど聞えたのであるから、その大音や思うべし。
「やあ、待たせたなあ。」
主税も、こうなると元気なものなり。
ドッコイショ、と荷物は置棄てに立って来て、
「待たせたぜ、先生、私あ九時から来ていた。」
「退屈したろう、気の毒だったい。」
「うんや、何。」
とニヤリとして、半纏の腹を開けると、腹掛へ斜っかいに、正宗の四合罎、ト内証で見せて、
「これだ、訳やねえ、退屈をするもんか。時々喇叭を極めちゃあね、」
と向顱巻の首を掉って、
「切符の売下口を見物でさ。ははは、別嬪さんの、お前さん、手ばかりが、あすこで、真白にこうちらつく工合は、何の事あねえ、さしがねで蝶々を使うか、活動写真の花火と云うもんだ、見物だね。難有え。はははは。」
「馬鹿だな、何だと思う、お役人だよ、怪しからん。」
と苦笑いをして躾めながら、
「家はすっかり片附いたかい、大変だったろう。」
「戦だ、まるで戦だね。だが、何だ、帳場の親方も来りゃ、挽子も手伝って、燈の点く前にゃ縁の下の洋燈の破れまで掃出した。何をどうして可いんだか、お前さん、みんな根こそぎ敲き売れ、と云うけれど、そうは行かねえやね。蔦ちゃんが、手を突込んだ糠味噌なんざ、打棄るのは惜いから、車屋の媽々に遣りさ。お仏壇は、蔦ちゃんが人手にゃ渡さねえ、と云うから、私は引背負って、一度内へ帰ったがね、何だって、お前さん、女人禁制で、蔦ちゃんに、采を掉せねえで、城を明渡すんだから、煩かしいや。長火鉢の引出しから、紙にくるんだ、お前さん、仕つけ糸の、抜屑を丹念に引丸めたのが出たのにゃ、お源坊が泣出した。こんなに御新造さんが気をつけてなすったお世帯だのにッて、へん、遣ってやあがら。
ええ、飲みましたとも。鉄砲巻は山に積むし、近所の肴屋から、鰹はござってら、鮪の活の可いやつを目利して、一土手提げて来て、私が切味をお目にかけたね。素敵な切味、一分だめしだ。転がすと、一が出ようというやつを親指でなめずりながら、酒は鉢前で、焚火で、煮燗だ。
さあ、飲めってえ、と、三人で遣りかけましたが、景気づいたから手明きの挽子どもを在りったけ呼で来た。薄暗い台所を覗く奴あ、音羽から来る八百屋だって。こっちへ上れ。豆腐イもお馴染だろう。彼奴背負引け。やあ、酒屋の小僧か、き様喇叭節を唄え。面白え、となった処へ、近所の挨拶を済して、帰って来た、お源坊がお前さん、一枚着換えて、お化粧をしていたろうじゃありませんか。蚤取眼で小切を探して、さっさと出てでも行く事か。御奉公のおなごりに、皆さんお酌、と来たから、難有え、大日如来、己が車に乗せてやる、いや、私が、と戦だね。
戦と云やあ、音羽の八百屋は講釈の真似を遣った、親方が浪花節だ。
ああ、これがお世帯をお持ちなさいますお祝いだったら、とお源坊が涙ぐんだしおらしさに。お前さん、有象無象が声を納めて、しんみりとしたろうじゃねえか。戦だね。泣くやら、はははははは、笑うやら、はははは。」
六十一
「そこでお前さん、何だって、世帯をお仕舞えなさるんだか、金銭ずくなら、こちとらが無尽をしたって、此家の御夫婦に夜遁げなんぞさせるんじゃねえ、と一番しみったれた服装をして、銭の無さそうな豆腐屋が言わあ。よくしたもんだね。
銭金ずくなら、め組がついてる、と鉄砲巻の皿を真中へ突出した、と思いねえ。義理にゃ叶わねえ、御新造の方は、先生が子飼から世話になった、真砂町さんと云う、大先生が不承知だ。聞きねえ。師匠と親は無理なものと思え、とお祖師様が云ったとよ。無理でも通さにゃならねえ処を、一々御尤なんだから、一言もなしに、御新造も身を退いたんだ。あんなにお睦じかった、へへへ、」
「おい、可い加減にしないかい。」
「可いやね、お前さん、遠慮をするにゃ当らねえ、酒屋の御用も、挽子連も皆知ってらな。」
「なお、悪いぜ。」
「まあ、忍けときねえな。それを、お前、大先生に叱られたって、柔順に別れ話にした早瀬さんも感心だろう。
だが、何だ、それで家を畳むんじゃねえ。若い掏摸が遣損なって、人中で面を打たれながら、お助け、と瞬するから、そこア男だ。諾来た、と頼まれて、紙入を隠してやったのが暴露たんで、掏摸の同類だ、とか何とか云って、旦那方の交際が面倒臭くなったから、引払って駈落だとね。話は間違ったかも知れねえけれど、何だってお前さん頼まれて退かねえ、と云やあ威勢が可いから、そう云って、さあ、おい、皆、一番しゃん、と占める処だが、旦那が学者なんだから、万歳、と遣れ。いよう旦那万歳、と云うと御新造万歳、大先生万歳で、ついでにお源ちゃん万歳――までは可かったがね、へへへ、かかり合だ、その掏摸も祝ってやれ。可かろう、」
と乗気になって、め組の惣助、停車場で手真似が交って、
「掏摸万歳――と遣ったが、(すりばんだい。)と聞えましょう。近火のようだね。火事はどこだ、と木遣で騒いで、巾着切万歳! と祝い直す処へ、八百屋と豆腐屋の荷の番をしながら、人だかりの中へ立って見てござった差配様が、お前さん、苦笑いの顔をひょっこり。これこれ、火の用心だけは頼むよ、と云うと、手廻しの可い事は、車屋のかみさんが、あとへもう一度払を掛けて、縁側を拭き直そう、と云う腹で、番手桶に水を汲んで控えていて、どうぞ御安心下さいましッさ。
私は、お仏壇と、それから、蔦ちゃんが庭の百合の花を惜がったから、莟を交ぜて五六本ぶらさげて、お源坊と、車屋の女房とで、縁の雨戸を操るのを見ながら、梅坊主の由良之助、と云う思入で、城を明渡して来ましたがね。
世の中にゃ、とんだ唐変木も在ったもんで、まだがらくたを片附けてる最中でさ、だん袋を穿きあがった、」
と云いかけて、主税の扮装を、じろり。
「へへへ、今夜はお前さんも着ってるけれど。まあ、可いや。で何だ、痘痕の、お前さん、しかも大面の奴が、ぬうと、あの路地を入って来やあがって、空いたか、空いったか、と云やあがる。それが先生、あいたかった、と目に涙でも何でもねえ。家は空いたか、と云うんでさ。近頃流行るけれど、ありゃ不躾だね。お前さん、人の引越しの中へ飛込んで、値なんか聞くのは。たとい、何だ、二ツがけ大きな内へ越すんだって、お飯粒を撒いてやった、雀ッ子にだって残懐は惜いや、蔦ちゃんなんか、馴染になって、酸漿を鳴らすと鳴く、流元の蛙はどうしたろうッて鬱ぐじゃねえか。」
「止せよ、そんな事。」
と主税は帽子の前を下げる。
「まあさ、そんな中へ来やあがって、お剰に、空くのを待っていた、と云う口吻で、その上横柄だ。
誰の癪に障るのも同一だ、と見えて、可笑ゅうがしたぜ。車屋の挽子がね、お前さん、え、え、ええッて、人の悪いッたら、聾の真似をして、痘痕の極印を打った、其奴の鼻頭へ横のめりに耳を突かけたと思いねえ。奴もむか腹が立った、と見えて、空いた家か、と喚いたから、私ア階子段の下に、蔦ちゃんが香を隠して置いたらしい白粉入を引出しながら、空家だい! と怒鳴った。吃驚しやがって、早瀬は、と聞くから、夜遁げをしたよ、と威かすと、へへへ旦那、」
め組は極めて小さい声で、
「私ア高利貸だ、と思ったから……」
話も事にこそよれ、勿体ない、道学の先生を……高利貸。
六十二
ちと黙ったか、と思うと、め組はきょろきょろ四辺を見ながら、帰天斎が扱うように、敏捷く四合罎から倒にがぶりと飲って、呼吸も吐かず、
「それからね、人を馬鹿にしゃあがった、その痘痕めい、差配はどこだと聞きゃあがる。差配様か、差配様は此家の主人が駈落をしたから、後を追っかけて留守だ、と言ったら、苦った顔色をしやがって、家賃は幾干か知らんが、前にから、空いたら貸りたい、と思うておったんじゃ、と云うだろうじゃねえか。お前さん、我慢なるめえじゃねえかね。こう、可い加減にしねえかい。柳橋の蔦吉さんが、情人と世帯を持った家だ、汝達の手に渡すもんか。め組の惣助と云う魚河岸の大問屋が、別荘にするってよ、五百両敷金が済んでるんだ。帰れ、と喚くと、驚いて出て行ったっけ、はははは、どうだね、気に入ったろう、先生。」
「悪戯をするじゃないか。」
「だって、お前さん、言種が言種な上に、図体が気に食わねえや。しらふの時だったから、まだまあそれで済んだがね。掏摸万歳の時で御覧じろ、えて吉、存命は覚束ねえ。」
と図に乗って饒舌るのを、おかしそうに聞惚れて、夜の潮の、充ち満ちた構内に澪標のごとく千鳥脚を押据えて憚からぬ高話、人もなげな振舞い、小面憎かったものであろう、夢中になった渠等の傍で、駅員が一名、密と寄って、中にもめ組の横腹の辺で唐突に、がんからん、がんからん、がんからん。
「ひゃあ、」と据眼に呼吸を引いて、たじたじと退ると、駅員は冷々然として衝と去って、入口へ向いて、がらんがらん。
主税も驚いて、
「切符だ、切符だ。」
と思わず口へ出して、慌てて行くのを、
「おっと、おっと、先生、切符なら心得てら。」
「もう買っといたか、それは豪い。」
惣助これには答えないで、
「ええ、驚いたい、串戯じゃねえ、二合半が処フイにした。さあ、まあ、お乗んなせえ。」
荷物を引立てて来て、二人で改札口を出た。その半纏着と、薄色背広の押並んだ対照は妙であったが、乗客はただこの二人の影のちらちらと分れて映るばかり、十四五人には過ぎないのであった。
め組が、中ほどから、急にあたふたと駈出して、二等室を一ツ覗き越しにも一つ出て、ひょいと、飛込むと、早や主税が近寄る時は、荷物を入れて外へ出た。
「ここが可いや、先生。」
「何だ、青切符か。」
「知れた事だね、」
「大束を言うな、駈落の身分じゃないか。幾干だっけ。」
と横へ反身に衣兜を探ると、め組はどんぶりを、ざッくと叩き、
「心得てら。」
「お前に達引かして堪るものか。」
「ううむ、」と真面目で、頭を掉って、
「不残叩き売った道具のお銭が、ずッしりあるんだ。お前さんが、蔦ちゃんに遣れって云うのを、まだ預っているんだから、遠慮はねえ、はははは、」
「それじゃ遠慮しますまいよ。」
と乗込んだ時、他に二人。よくも見ないで、窓へ立って、主税は乗出すようにして妙なことを云った。それは――め組の口から漏らした、河野の母親が以前、通じたと云う――馬丁貞造の事に就いてであった。
「何分頼むよ。」
「むむ、可いって事に。」
主税は笑って、
「その事じゃない、馬丁の居処さ。己も捜すが、お前の方も。」
「……分った。」
と後退って、向うざまに顱巻を占め直した。手をそのまま、花火のごとく上へ開いて、
「いよ、万歳!」
傍へ来た駅員に、突のめるように、お辞儀をして、
「真平御免ねえ、はははは。」
主税は窓から立直る時、向うの隅に、婀娜な櫛巻の後姿を見た。ドンと硝子戸をおろしたトタンに、斜めに振返ったのはお蔦である。
はっと思うと、お蔦は知らぬ顔をして、またくるりと背を向いた。
汽車出でぬ。
貴婦人
一
その翌日、神戸行きの急行列車が、函根の隧道を出切る時分、食堂の中に椅子を占めて、卓子は別であるが、一人外国の客と、流暢に独逸語を交えて、自在に談話しつつある青年の旅客があった。
こなたの卓子に、我が同胞のしかく巧みに外国語を操るのを、嬉しそうに、且つ頼母しそうに、熟と見ながら、時々思出したように、隣の椅子の上に愛らしく乗かかった、かすりで揃の、袷と筒袖の羽織を着せた、四ツばかりの男の児に、極めて上手な、肉叉と小刀の扱い振で、肉を切って皿へ取分けてやる、盛装した貴婦人があった。
見渡す青葉、今日しとしと、窓の緑に降りかかる雨の中を、雲は白鷺の飛ぶごとく、ちらちらと来ては山の腹を後に走る。
函嶺を絞る点滴に、自然浴した貴婦人の膚は、滑かに玉を刻んだように見えた。
真白なリボンに、黒髪の艶は、金蒔絵の櫛の光を沈めて、いよいよ漆のごとく、藤紫のぼかしに牡丹の花、蕊に金入の半襟、栗梅の紋お召の袷、薄色の褄を襲ねて、幽かに紅の入った黒地友染の下襲ね、折からの雨に涼しく見える、柳の腰を、十三の糸で結んだかと黒繻子の丸帯に金泥でするすると引いた琴の絃、添えた模様の琴柱の一枚が、ふっくりと乳房を包んだ胸を圧えて、時計の金鎖を留めている。羽織は薄い小豆色の縮緬に……ちょいと分りかねたが……五ツ紋、小刀持つ手の動くに連れて、指環の玉の、幾つか連ってキラキラ人の眼を射るのは、水晶の珠数を爪繰るに似て、非ず、浮世は今を盛の色。艶麗な女俳優が、子役を連れているような。年齢は、されば、その児の母親とすれば、少くとも四五であるが、姉とすれば、九でも二十でも差支えはない。
婦人は、しきりに、その独語に巧妙な同胞の、鼻筋の通った、細表の、色の浅黒い、眉のやや迫った男の、少々しい口許と、心の透通るような眼光を見て、ともすれば我を忘れるばかりになるので、小児は手が空いたが、もう腹は出来たり、退屈らしく皿の中へ、指でくるくると環を描いた。それも、詰らなそうに、円い目で、貴婦人の顔を視めて、同一ようにそなたを向いたが、一向珍らしくない日本の兄より、これは外国の小父さんの方が面白いから、あどけなく見入って傾く。
その、不思議そうに瞳をくるくると遣った様子は、よっぽど可愛くって、隅の窓を三角に取って彳んだボオイさえ、莞爾した程であるから、当の外国人は髯をもじゃもじゃと破顔して、ちょうど食後の林檎を剥きかけていた処、小刀を目八分に取って、皮をひょいと雷干に、菓物を差上げて何か口早に云うと、青年が振返って、身を捻じざまに、直ぐ近かった、小児の乗っかった椅子へ手をかけて、
「坊ちゃん、いらっしゃい。好いものを上げますとさ。」とその言を通じたが、無理な乗出しようをして逆に向いたから、つかまった腕に力が入ったので、椅子が斜めに、貴婦人の方へ横になると、それを嬉しそうに、臆面なく、
「アハアハ、」と小児が笑う。
青年は、好事にも、わざと自分の腰をずらして、今度は危気なしに両手をかけて、揺籠のようにぐらぐらと遣ると、
「アハハ、」といよいよ嬉しがる。
御機嫌を見計らって、
「さあ、お来なさい、お来なさい。」
貴婦人の底意なく頷いたのを見て、小さな靴を思う様上下に刎ねて、外国人の前へ行くと、小刀と林檎と一緒に放して差置くや否や、にょいと手を伸ばして、小児を抱えて、スポンと床から捩取ったように、目よりも高く差上げて、覚束ない口で、
「万歳――」
ボオイが愛想に、ハタハタと手を叩いた。客は時に食堂に、この一組ばかりであった。
二
「今のは独逸人でございますか。」
外客の、食堂を出たあとで、貴婦人は青年に尋ねたのである。会話の英語でないのを、すでに承知していたので、その方の素養のあることが知れる。
青年は椅子をぐるりと廻して、
「僕もそうかと思いましたが、違います、伊太利人だそうです。」
「はあ、伊太利の、商人ですか。」
「いえ、どうも学者のようです。しかしこっちが学者でありませんから、科学上の談話は出来ませんでしたが、様子が、何だか理学者らしゅうございます。」
「理学者、そうでございますか。」
小児の肩に手を懸けて、
「これの父親も、ちとばかりその端くれを、致しますのでございますよ。」
さては理学士か何ぞである。
貴婦人はこう云った時、やや得意気に見えた。
「さぞおもしろい、お話しがございましたでしょうね。」
雪踏をずらす音がして、柔かな肱を、唐草の浮模様ある、卓子の蔽に曲げて、身を入れて聞かれたので、青年はなぜか、困った顔をして、
「どう仕りまして、そうおっしゃられては恐縮しましたな、僕のは、でたらめの理学者ですよ。ええ、」
とちょいと天窓を掻いて、
「林檎を食べた処から、先祖のニュウトン先生を思い出して、そこで理学者と遣ったんです。はは、はは、実際はその何だかちっとも分りません。」
「まあ。お人の悪い。貴郎は、」
と莞爾した流眄の媚かしさ。熟と見られて、青年は目を外らしたが、今は仕切の外に控えた、ボオイと硝子越に顔の合ったのを、手招きして、
「珈琲を。」
「ああ、こちらへも。」
と貴婦人も註文しながら、
「ですが、大層お話が持てましたじゃありませんか。彼地の文学のお話ででもございましたんですか。」
「どういたしまして、」
と青年はいよいよ弱って、
「人を見て法を説けは、外国人も心得ているんでしょう。僕の柄じゃ、そんな貴女、高尚な話を仕かけッこはありませんが、妙なことを云っていましたよ。はあ、来年の事を云っていました。西洋じゃ、別に鬼も笑わないと見えましてね。」
「来年の、どんな事でございます。」
「何ですって、今年は一度国へ帰って来年出直して来る、と申すことです。(日蝕があるからそれを見にまた出懸ける、東洋じゃほとんど皆既蝕だ。)と云いましたが、まだ日本には、その風説がないようでございますね。
有っても一向心懸のございません僕なんざ、年の暮に、太神宮から暦の廻りますまでは、つい気がつかないでしまいます。もっとも東洋とだけで、支那だか、朝鮮だか、それとも、北海道か、九州か、どこで観ようと云うのだか、それを聞き懸た処へ、貴女が食堂へ入っておいでなさいましたもんですから、(や、これは日蝕どころじゃない。)と云いましたよ。」
「じゃ、あとは、私をおなぶんなすったんでございましょうねえ。」
「御串戯おっしゃっては不可ません。」
「それでは、どんなお話でございましたの。」
「実は、どういう御婦人だ、と聞かれまして……」
「はあ、」
「何ですよ、貴女、腹をお立てなすっちゃ困りますが、ええ、」
と俯向いて、低声になり、
「女俳優だ、と申しました。」
「まあ、」と清い目をって、屹と睨むがごとくにしたが、口に微笑が含まれて、苦しくはない様子。
「沢山、そんなことを云ってお冷かしなさいまし。私はもう下りますから、」
「どちらで、」
と遠慮らしく聞くと、貴婦人は小児の事も忘れたように、調子が冴えて、
「静岡――ですからその先は御勝手におなぶり遊ばせ、室が違いましても、私の乗っております内は殺生でございますわ。」
「御心配はございません。僕も静岡で下りるんです。」
「お湯。」
と小児が云う時、一所に手にした、珈琲はまだ熱い。
三
「静岡はどちらへお越しなさいます。」
貴婦人が嬉しそうにして尋ねると、青年はやや元気を失った体に見えて、
「どこと云って当なしなんです。当分、旅籠屋へ厄介になりますつもりで。」
もしそれならば、土地の様子が聞きたそうに、
「貴女、静岡は御住居でございますか、それともちょっと御旅行でございますか。」
「東京から稼ぎに出ますんですと、まだ取柄はございますが、まるで田舎俳優ですからお恥しゅう存じます。田舎も貴下、草深と云って、名も情ないじゃありませんか。場末の小屋がけ芝居に、お飯炊の世話場ばかり勤めます、おやまですわ。」
と菫色の手巾で、口許を蔽うて笑ったが、前髪に隠れない、俯向いた眉の美しさよ。
青年は少時黙って、うっかり巻莨を取出しながら、
「何とも恐縮。決して悪気があったんじゃありません。貴女ぐらいな女優があったら、我国の名誉だと思って、対手が外国人だから、いえ、まったくそのつもりで言ったんですが、真に失礼。」
と真面目に謝罪って、
「失礼ついでに、またお詫をします気で伺いますが、貴女もし静岡で、河野さん、と云うのを御存じではございませんか。」
「河野……あの、」
深く頷き、
「はい、」
「あら、河野は私どもですわ。」
と無意識に小児の手を取って、卓子から伸上るようにして、胸を起こした、帯の模様の琴の糸、揺ぐがごとく気を籠めて、
「そして、貴下は。」
「英吉君には御懇親に預ります、早瀬主税と云うものです。」
と青年は衝と椅子を離れて立ったのである。
「まあ、早瀬さん、道理こそ。貴下は、お人が悪いわよ。」と、何も知った目に莞爾する。
主税は驚いた顔で、
「ええ、人が悪うございますって? その女俳優、と言いました事なんですかい。」
「いいえ、家が気に入らない、と仰有って、酒井さんのお嬢さんを、貴下、英吉に許しちゃ下さらないんですもの、ほほほ。」
「…………」
「兄はもう失望して、蒼くなっておりますよ。早瀬さん、初めまして、」
とこなたも立って、手巾を持ったまま、この時更めて、略式の会釈あり。
「私は英さんの妹でございます。」
「ああ、おうわさで存じております。島山さんの令夫人でいらっしゃいますか。……これはどうも。」
静岡県……某……校長、島山理学士の夫人菅子、英吉がかつて、脱兎のごとし、と評した美人はこれであったか。
足一度静岡の地を踏んで、それを知らない者のない、浅間の森の咲耶姫に対した、草深の此花や、実にこそ、と頷かるる。河野一族随一の艶。その一門の富貴栄華は、一にこの夫人に因って代表さるると称して可い。
夫の理学士は、多年西洋に留学して、身は顕職にありながら純然たる学者肌で、無慾、恬淡、衣食ともに一向気にしない、無趣味と云うよりも無造作な、腹が空けば食べるので、寒ければ着るのであるから、ただその分量の多からんことを欲するのみ。たのでも、焼いたのでも、酢でも構わず。兵児帯でも、ズボンでも、羽織に紐が無くっても、更に差支えのない人物、人に逢っても挨拶ばかりで、容易に口も利かないくらい。その短を補うに、令夫人があって存する数か、菅子は極めて交際上手の、派手好で、話好で、遊びずきで、御馳走ずきで、世話ずきであるから、玄関に引きも切れない来客の名札は、新聞記者も、学生も、下役も、呉服屋も、絵師も、役者も、宗教家も、……悉く夫人の手に受取られて、偏にその指環の宝玉の光によって、名を輝かし得ると聞く。
四
五円包んで恵むのもあれば、ビイルを飲ませて帰すのもあり、連れて出て、見物をさせるのもあるし、音楽会へ行く約束をするのもあれば、慈善市の相談をするのもある。飽かず、倦まず、撓まないで、客に接して、いずれもをして随喜渇仰せしむる妙を得ていて、加うるにその目がまた古今の能弁であることは、ここに一目見て主税も知った。
聞くがごとくんば、理学士が少なからぬ年俸は、過半菅子のために消費されても、自から求むる処のない夫は、すこしの苦痛も感じないで、そのなすがままに任せる上に、英吉も云った通り、実家から附属の化粧料があるから、天のなせる麗質に、紅粉の装をもってして、小遣が自由になる。しかも御衣勝の着痩はしたが、玉の膚豊かにして、汗は紅の露となろう、宜なる哉、楊家の女、牛込南町における河野家の学問所、桐楊塾の楊の字は、菅子あって、択ばれたものかも知れぬ。で、某女学院出の才媛である。
当時、女学校の廊下を、紅色の緒のたった、襲裏の上穿草履で、ばたばたと鳴らしたもので、それが全校に行われて一時物議を起した。近頃静岡の流行は、衣裳も髪飾もこの夫人と、もう一人、――土地随一の豪家で、安部川の橋の袂に、大巌山の峰を蔽う、千歳の柳とともに、鶴屋と聞えた財産家が、去年東京のさる華族から娶り得たと云う――新夫人の二人が、二つ巴の、巴川に渦を巻いて、お濠の水の溢るる勢。
「ちっとも存じませんで、失礼を。貴女、英吉君とは、ちっとも似ておいでなさらないから勿論気が着こう筈がありませんが。」
主税のこの挨拶は、真に如才の無いもので。熟々視ればどこにか俤が似通って、水晶と陶器とにしろ、目の大きい処などは、かれこれ同一であるけれども、英吉に似た、と云って嬉しがるような婦人はないから、いささかも似ない事にした。その段は大出来だったが、時に衣兜から燐寸を出して、鼻の先で吸つけて、ふっと煙を吐いたが早いか、矢のごとく飛んで来たボオイは、小火を見附けたほどの騒ぎ方で、
「煙草は不可んですな。」
「いや、これは。」主税は狼狽えて、くるりと廻って、そそくさ扉を開いて、隣の休憩室の唾壺へ突込んで、喫みさしを揉消して、太く恐縮の体で引返すと、そのボオイを手許へ呼んで、夫人は莞爾々々笑いながら低声で何か命じている。ただしその笑い方は、他人の失策を嘲けったのではなく、親類の不出来しを面白がったように見える。
「すっかり面目を失いました。僕は、この汽車の食堂は、生れてから最初だ。」
と、半ば、独言を云う。折から四五人どやどやと客が入った。それらには目もくれず、
「ほほほ、日本式ではないんだわねえ、貴下、お気には入りますまい。」
「どういたしまして、大恥辱。」
「旅馴れないのは、かえって江戸子の名誉なんですわ。」
ボオイが剰銭を持って来て、夫人の手に渡すのを見て、大照れの主税は、口をつけたばかりの珈琲もそのまま、立ったなりの腰も掛けずに、
「ここへも勘定。」
傍へ来て腰を屈めて、慇懃に小さな声で、
「御一所に頂戴いたしました、は、」
「飛んでもない、貴女、」
と今度は主税が火の附くように慌しく急って云うのを、夫人は済まして、紙入を帯の間へ、キラリと黄金の鎖が動いて、
「旅馴れた田舎稼ぎの……」
(女俳優)と云いそうだったが、客が居たので、
「女形にお任せなさいまし。」
とすらりと立った丈高う、半面を颯と彩る、樺色の窓掛に、色彩羅馬の女神のごとく、愛神の手を片手で曳いて、主税の肩と擦違い、
「さあ、こっちへいらしって、沢山お煙草を召上れ。」
と見返りもしないで先に立って、件の休憩室へ導いた。背に立って、ちょっと小首を傾けたが、腕組をした、肩が聳えて、主税は大跨に後に続いた。
窓の外は、裾野の紫雲英、高嶺の雪、富士皓く、雨紫なり。
五
聞けば、夫人は一週間ばかり以前から上京して、南町の桐楊塾に逗留していたとの事。桜も過ぎたり、菖蒲の節句というでもなし、遊びではなかったので。用は、この小児の二年姉が、眼病――むしろ目が見えぬというほどの容態で、随分実家の医院においても、治療に詮議を尽したが、その効なく、一生の不幸になりそうな。断念のために、折から夫理学士は、公用で九州地方へ旅行中。あたかも母親は、兄の英吉の事に就いて、牛込に行っている、かれこれ便宜だから、大学の眼科で診断を受けさせる為に出向いた、今日がその帰途だと云う。
もとよりその女の児に取って、実家の祖父さんは、当時の蘭医(昔取った杵づかですわ、と軽い口をその時交えて、)であるし、病院の院長は、義理の伯父さんだし、注意を等閑にしようわけはないので、はじめにも二月三月、しかるべき東京の専門医にもかかったけれども、どうしても治らないから、三年前にすでに思切って、盲目の娘、(可哀相だわねえ、と客観的の口吻だったが、)今更大学へ行ったって、所詮効のない事は知れ切っているけれど、……要するにそれは口実にしたんですわ、とちょいと堅い語が交った。
夫がまた、随分自分には我儘をさせるのに、東京へ出すのは、なぜか虫が嫌うかして許さないから、是非行きたいと喧嘩も出来ず。ざっと二年越、上野の花も隅田の月も見ないでいると、京都へ染めに遣った羽織の色も、何だか、艶がなくって、我ながらくすんで見えるのが情ない。
まあ、御覧なさい、と云う折から窓を覗いた。
この富士山だって、東京の人がまるっきり知らないと、こんなに名高くはなりますまい。自分は田舎で埋木のような心地で心細くってならない処。夫が旅行で多日留守、この時こそと思っても、あとを預っている主婦ならなおの事、実家の手前も、旅をかけては出憎いから、そこで、盲目の娘をかこつけに、籠を抜けた。親鳥も、とりめにでもならなければ可い、小児の罰が当りましょう、と言って、夫人は快活に吻々と笑う。
この談話は、主税が立続けに巻煙草を燻らす間に、食堂と客室とに挟まった、その幅狭な休憩室に、差向いでされたので。
椅子と椅子と間が真に短いから、袖と袖と、むかい合って接するほどで、裳は長く足袋に落ちても、腰の高い、雪踏の尖は爪立つばかり。汽車の動揺みに留南奇が散って、友染の花の乱るるのを、夫人は幾度も引かさね、引かさねするのであった。
主税はその盲目の娘と云うのを見た。それは、食堂からここへ入ると、突然客室の戸を開けようとして男の児が硝子扉に手をかけた時であった。――銀杏返しに結った、三十四五の、実直らしい、小綺麗な年増が、ちょうど腰掛けの端に居て、直ぐにそこから、扉を開けて、小児を迎え入れたので、さては乳母よ、と見ると、もう一人、被布を着た女の子の、キチンと坐って、この陽気に、袖口へ手を引込めて、首を萎めて、ぐったりして、その年増の膝に凭かかっていたのがあって、病気らしい、と思ったのが、すなわち話の、目の病い娘なのであった。
乳母の目からは、奥に引込んで、夫人の姿は見えないが、自分は居ながら、硝子越に彼方から見透くのを、主税は何か憚かって、ちょいちょい気にしては目遣いをしたようだったが、その風を見ても分る、優しい、深切らしい乳母は、太くお主の盲目なのに同情したために、自然から気が映ってなったらしく、女の児と同一ように目を瞑って、男の児に何かものを言いかけるにも、なお深く差俯向いて、いささかも室の外を窺う気色は無かったのである。
かくて彼一句、これ一句、遠慮なく、やがて静岡に着くまで続けられた。汽車には太く倦じた体で、夫人は腕を仰向けに窓に投げて、がっくり鬢を枕するごとく、果は腰帯の弛んだのさえ、引繕う元気も無くなって見えたが、鈴のような目は活々と、白い手首に瞳大きく、主税の顔を瞻って、物打語るに疲れなかった。
草深辺
六
県庁、警察署、師範、中学、新聞社、丸の内をさして朝ごとに出勤するその道その道の紳士の、最も遅刻する人物ももう出払って、――初夜の九時十時のように、朝の九時十時頃も、一時は魔の所有に寂寞する、草深町は静岡の侍小路を、カラカラと挽いて通る、一台、艶やかな幌に、夜上りの澄渡った富士を透かして、燃立つばかりの鳥毛の蹴込み、友染の背当てした、高台細骨の車があった。
あの、音の冴えた、軽い車の軋る響きは……例のがお出掛けに違いない。昨日東京から帰った筈。それ、衣更えの姿を見よ、と小橋の上で留るやら、旦那を送り出して引込だばかりの奥から、わざわざ駈出すやら、刎釣瓶の手を休めるやら、女連が上も下も斉しく見る目を聳てたが、車は確に、軒に藤棚があって下を用水が流れる、火の番小屋と相角の、辻の帳場で、近頃塗替えて、島山の令夫人に乗初めをして頂く、と十日ばかり取って置きの逸物に違いないが――風呂敷包み一つ乗らない、空車を挽いて、車夫は被物なしに駈けるのであった。
ものの半時ばかり経つと、同じ腕車は、通の方から勢よく茶畑を走って、草深の町へ曳込んで来た。時に車上に居たものを、折から行違った土地の豆腐屋、八百屋、(のりはどうですね――)と売って通る女房などは、若竹座へ乗込んだ俳優だ、と思ったし、旦那が留守の、座敷から縁越に伸上ったり、玄関の衝立の蔭になって差覗いた奥様連は、千鳥座で金色夜叉を演るという新俳優の、あれは貫一に扮る誰かだ、と立騒いだ。
主税がまた此地へ来ると、ちとおかしいほど男ぶりが立勝って、薙放しの頭髪も洗ったように水々しく、色もより白くすっきりあく抜けがしたは、水道の余波は争われぬ。土地の透明な光線には、(埃だらけな洋服を着換えた。)酒井先生の垢附を拝領ものらしい、黒羽二重二ツ巴の紋着の羽織の中古なのさえ、艶があって折目が凜々しい。久留米か、薩摩か、紺絣の単衣、これだけは新しいから今年出来たので、卯の花が咲くとともに、お蔦が心懸けたものであろう。
渠は昨夜、呉服町の大東館に宿って、今朝は夫人に迎えられて、草深さして来たのである。
仰いで、浅間の森の流るるを見、俯して、濠の水の走るを見た。たちまち一朶紅の雲あり、夢のごとく眼を遮る。合歓の花ぞ、と心着いて、流の音を耳にする時、車はがらりと石橋に乗懸って、黒の大構の門に楫が下りた。
「ここかい。」とひらりと出る。
「へい、」
と門内へ駈け込んで、取附の格子戸をがらがらと開けて、車夫は横ざまに身を開いて、浅黄裏を屈めて待つ。
冠木門は、旧式のままで敷木があるから、横附けに玄関まで曳込むわけには行かない。
男の児が先へ立って駈出して来る事だろう、と思いながら、主税が帽を脱いで、雨あがりの松の傍を、緑の露に袖擦りながら、格子を潜って、土間へ入ると、天井には駕籠でも釣ってありそうな、昔ながらの大玄関。
と見ると、正面に一段高い、式台、片隅の板戸を一枚開けて、後の縁から射す明りに、黒髪だけ際立ったが、向った土間の薄暗さ、衣の色朦朧と、俤白き立姿、夫人は待兼ねた体に見える。
会釈もさせず、口も利かさず、見迎えの莞爾して、
「まあ、遅かったわねえ。ああ御苦労よ。」
ちょいと車夫に声を懸けたが、
「さぞ寝坊していらっしゃるだろうと思ったの。さあ、こちらへ。さあ、」
口早に促されて、急いで上る、主税は明い外から入って、一倍暗い式台に、高足を踏んで、ドンと板戸に打附るのも、菅子は心づかぬまで、いそいそして。
「こちらへ、さあ、ずッとここから、ほほほ、市川菅女、部屋の方へ。」
と直ぐに縁づたいで、はらはらと、素足で捌く裳の音。
七
市川菅女……と耳にはしたが、玄関の片隅切って、縁へ駈込むほどの慌しさ、主税は足早に続く咄嗟で、何の意味か分らなかったが、その縁の中ほどで、はじめて昨日汽車の中で、夫人を女俳優だと、外人に揶揄一番した、ああ、祟だ、と気が付いた。
気が付いて、莞爾とした時、渠の眼は口許に似ず鋭かった。
ちょうどその横が十畳で、客室らしい造だけれども、夫人はもうそこを縁づたいに通越して、次の(菅女部屋)から、
「ずッといらっしゃいよ。」と声を懸ける。
主税が猶予うと、
「あら、座敷を覗いちゃ不可ません、まだ散らかっているんですから、」
と笑う。これは、と思うと、縁の突当り正面の大姿見に、渠の全身、飛白の紺も鮮麗に、部屋へ入っている夫人が、どこから見透したろうと驚いたその目の色まで、歴然と映っている。
姿見の前に、長椅子一脚、広縁だから、十分に余裕がある。戸袋と向合った壁に、棚を釣って、香水、香油、白粉の類、花瓶まじりに、ブラッシ、櫛などを並べて、洋式の化粧の間と見えるが、要するに、開き戸の押入を抜いて、造作を直して、壁を塗替えたものらしい。
薄萌葱の窓掛を、件の長椅子と雨戸の間へ引掛けて、幕が明いたように、絞った裙が靡いている。車で見た合歓の花は、あたかもこの庭の、黒塀の外になって、用水はその下を、門前の石橋続きに折曲って流るるので、惜いかな、庭はただ二本三本を植棄てた、長方形の空地に過ぎぬが、そのかわり富士は一目。
地を坤軸から掘覆して、将棊倒に凭せかけたような、あらゆる峰を麓に抱いて、折からの蒼空に、雪なす袖を飜して、軽くその薄紅の合歓の花に乗っていた。
「結構な御住居でございますな。」
ここで、つい通りな、しかも適切なことを云って、部屋へ入ると、長火鉢の向うに坐った、飾を挿さぬ、S巻の濡色が滴るばかり。お納戸の絹セルに、ざっくり、山繭縮緬の縞の羽織を引掛けて、帯の弛い、無造作な居住居は、直ぐに立膝にもなり兼ねないよう。横に飾った箪笥の前なる、鏡台の鏡の裏へ、その玉の頸に、後毛のはらはらとあるのが通って、新に薄化粧した美しさが背中まで透通る。白粉の香は座蒲団にも籠ったか、主税が坐ると馥郁たり。
「こんな処へお通し申すんですから、まあ、堅くるしい御挨拶はお止しなさいよ。ちょいと昨夜は旅籠屋で、一人で寂しかったでしょう。」
と火箸を圧えたそうな白い手が、銅壺の湯気を除けて、ちらちらして、
「昨夜にも、お迎いに上げましょうと思ったけれど、一度、寂しい思をさして置かないと、他国へ来て、友達の難有さが分らないんですもの。これからも粗末にして不実をすると不可ないから………」
と莞爾笑って、瞥と見て、
「それにもう内が台なしですからね、私が一週間も居なかった日にゃ、門前雀羅を張るんだわ。手紙一ツ来ないんですもの。今朝起抜けから、自分で払を持つやら、掃出すやら、大騒ぎ。まだちっとも片附ないんですけれど、貴下も詰らなかろうし、私も早く逢いたいから、可い加減にして、直ぐに車を持たせて、大急ぎ、と云ってやったんですがね。
あの、地方の車だって疾いでしょう。それでも何よ、まだか、まだか、と立って見たり坐って見たり、何にも手につかないで、御覧なさい、身化粧をしたまんま、鏡台を始末する方角もないじゃありませんか。とうとう玄関の処へ立切りに待っていたの。どこを通っていらしって?」
返事も聞かないで、ボンボン時計を打仰ぐに、象牙のような咽喉を仰向け、胸を反らした、片手を畳へ。
「まあ、まだ一時間にもならないのね。半日ばかり待ってたようよ。途中でどこを見て来ました。大東館の直きこっちの大きな山葵の看板を見ましたか、郵便局は。あの右の手の広小路の正面に、煉瓦の建物があったでしょう。県庁よ。お城の中だわ。ああ、そう、早瀬さん、沢山喫って頂戴、お煙草。露西亜巻だって、貰ったんだけれど、島山(夫を云う)はちっとも喫みませんから……」
八
それから名物だ、と云って扇屋の饅頭を出して、茶を焙じる手つきはなよやかだったが、鉄瓶のはまだ沸らぬ、と銅壺から湯を掬む柄杓の柄が、へし折れて、短くなっていたのみか、二度ばかり土瓶にうつして、もう一杯、どぶりと突込む。他愛なく、抜けて柄になってしまったので、
「まあ、」と飛んだ顔をして、斜めに取って見透した風情は、この夫人の艶なるだけ、中指の鼈甲の斑を、日影に透かした趣だったが、
「仕様がないわね。」と笑って、その柄を投り出した様子は、世帯の事には余り心を用いない、学生生活の俤が残った。
主税が、小児衆は、と尋ねると、二人とも乳母が連れて、土産ものなんぞ持って、東京から帰った報知旁々、朝早くから出向いたとある。
「河野の父さんの方も、内々小児をだしに使って、東京へ遊びに行った事を知っているんですから、言句は言わないまでも、苦い顔をして、髯の中から一睨み睨むに違いはないんですもの、難有くないわ。母様は自分の方へ、娘が慕って行ったんですから御機嫌が可いでしょう、もうちっと経つと帰って来ます。それまでは、私、実家へは顔を出さないつもりで、当分風邪をひいた分よ。」
と火鉢の縁に肱をついて、男の顔を視めながら、魂の抜け出したような仇気ないことを云う。
「そりゃ、悪いでしょう。」
と主税がかえって心配らしく、
「彼方から、誰方かお来なさりゃしませんか。貴女がお帰りだ、と知れましたら。」
「来るもんですか。義兄(医学士――姉婿を云う)は忙しいし、またちっとでも姉さんを出さないのよ。大でれでれなんですから。父さんはね、それにね、頃日は、家族主義の事に就いて、ちっと纏まった著述をするんだって、母屋に閉籠って、時々は、何よ、一日蔵の中に入りきりの事があってよ。蔵には書物が一杯ですから。父さんはね、医者なんですけれど、もと個人、人一人二人の病を治すより、国の病を治したい、と云う大な希望の人ですからね。過年、あの、家族主義と個人主義とが新聞で騒ぎましたね。あの時も、父様は、東京の叔父さんだの、坂田(道学者)さんに応援して、火の出るように、敵と戦ったんだわ。
惜い事に、兄さん(英吉)も奔走してくれたんですけれど、可い機関がなくって、ほんの教育雑誌のようなものに掲ったものですから、論文も、名も出ないでしまって、残念だからって、一生懸命に遣ってますの。確か、貴下の先生の酒井さんは、その時の、あの敵方の大立ものじゃなくって?」
と不意に質問の矢が来たので、ちと、狼狽ついたようだったが、
「どうでしたか、もう忘れましたよ。」と気もなく答える。
別に狙ったのでないらしく、
「でも、何でしょう、貴下は、やっぱり、個人主義でおいでなさるんでしょう。」
「僕は饅頭主義で、番茶主義です。」
と、なぜか気競って云って、片手で饅頭を色気なくむしゃりと遣って、息も吐かずに、番茶を呷る。
「あれ、嘘ばっかり。貴下は柳橋主義の癖に、」
夫人は薄笑いの目をぱっちりと、睫毛を裂いたように黒目勝なので睨むようにした。
「ちょいと、吃驚して。……そら、御覧なさい、まだ驚かして上げる事があるわ。」
と振返りざまに背後向きに肩を捻じて、茶棚の上へ手を遣った、活溌な身動きに、下交の褄が辷った。
そのまま横坐りに見得もなく、長火鉢の横から肩を斜めに身を寄せて、翳すがごとく開いて見せたは……
「や! 読本を買いましたね。」
「先生、これは何て云うの?」
「冷評しては不可ませんな、商売道具を。」
「いいえ、真面目に、貴下がこの静岡で、独逸語の塾を開くと云うから、早いでしょう、もう買って来たの。いの一番のお弟子入よ。ちょいと、リイダアと云うのを、独逸では……」
「レエゼウッフ(読本)――月謝が出ますぜ。」
「レエゼウッフ。」
九
「あの、何?」
と真に打解けたものいいで、
「精々勉強したら、名高い、ギョウテの(ファウスト)だとか、シルレルの(ウィルヘルム、テル)………でしたっけかね、それなんぞ、何年ぐらいで読めるようになるんでしょう。」
「直き読めます、」
と読本を受取って、片手で大掴みに引開けながら、
「僕ぐらいにはという、但書が入りますけれど。」
「だって……」
「いいえ、出来ます。」
「あら、ほんとに……」
「もっとも月謝次第ですな。」
「ああだもの、」
と衝と身を退いて、叱るがごとく、
「なぜそうだろう。ちゃんと御馳走は存じておりますよ。」
茶棚の傍の襖を開けて、つんつるてんな着物を着た、二百八十間の橋向う、鞠子辺の産らしい、十六七の婢どんが、
「ふァい、奥様。」と訛って云う。
聞いただけで、怜悧な菅子は、もうその用を悟ったらしい。
「誰か来たの?」
「ひゃあ、」
「あら、厭な。ちょいと、当分は留守とおいいと云ったじゃないの?」
「アニ、はい、で、ござりますけんど、お客様で、ござんしねえで、あれさ、もの、呉服町の手代衆でござりますだ。」
「ああ、谷屋のかい、じゃ構わないよ、こちらへ、」
と云いかけて、主税を見向いて、
「かくまって有る人だから……ほほほほ、そっちへ行きましょうよ。」
衣紋を直したと思うと、はらりと気早に立って、踞った婢の髪を、袂で払って、もう居ない。
トきょとんとした顔をして、婢は跡も閉めないで、のっそり引込む。
はて心得ぬ、これだけの構に、乳母の他はあの女中ばかりであろうか。主人は九州へ旅行中で、夫人が七日ばかりの留守を、彼だけでは覚束ない。第一、多勢の客の出入に、茶の給仕さえ鞠子はあやしい、と早瀬は四辺をしたが――後で知れた――留守中は、実家の抱車夫が夜宿りに来て、昼はその女房が来ていたので。昼飯の時に分ったのでは、客へ馳走は、残らず電話で料理屋から取寄せる……もっとも、珍客というのであったかも知れぬ。
そんな事はどうでも可いが、不思議なもので、早瀬と、夫人との間に、しきりに往来があったその頃しばらくの間は、この家に養われて中学へ通っている書生の、美濃安八の男が、夫人が上京したあと直ぐに、故郷の親が病気というので帰っていた――これが居ると、たとい日中は学校へ出ても、別に仔細は無かったろうに。
さて、夫人は、谷屋の手代というのを、隣室のその十畳へ通したらしい、何か話声がしている内、
「早瀬さん――」
主税は、夫人が此室を出て、大廻りに行った通りに、声も大廻りに遠い処に聞き取って、静にその跡を辿りつつ返事が遅いと、
「早瀬さん、」
と近くまた呼ぶ。今しがた、(かくまって有る人だ)と串戯を云ったものを。
「室数は幾つばかりあれば可くって?」
「何です、何です。」
余り唐突で解し兼ねる。
「貴下のお借りなさろうというお家よ。ちょいと、」
「ええ、そうですね。」
「おほほほ、話しが遠いわ。こっちへいらっしゃいよ。おほほほ、縁側から、縁側から。」
夫人がした通りに、茶棚の傍の襖口へ行きかけた主税は、(菅女部屋)の中を、トぐるりと廻って、苦笑をしながら縁へ出ると、これは! 三足と隔てない次の座敷。開けた障子に背を凭たせて、立膝の褄は深いが、円く肥えた肱も露に夫人は頬を支えていた。
「朝から戸迷いをなすっては、泊ったら貴下、どうして、」
と振向いた顔の、花の色は、合歓の影。
「へへへへへ」
と、向うに控えたのは、呉服屋の手代なり。鬱金木綿の風呂敷に、浴衣地が堆い。
二人連
十
午後、宮ヶ崎町の方から、ツンツンとあちこちの二階で綿を打つ音を、時ならぬ砧の合方にして、浅間の社の南口、裏門にかかった、島山夫人、早瀬の二人は、花道へ出たようである。
門際の流に臨むと、頃日の雨で、用水が水嵩増して溢るるばかり道へ波を打って、しかも濁らず、蒼く飜って竜の躍るがごとく、茂の下を流るるさえあるに、大空から賤機山の蔭がさすので、橋を渡る時、夫人は洋傘をすぼめた。
と見ると黒髪に変りはないが、脊がすらりとして、帯腰の靡くように見えたのは、羽織なしの一枚袷という扮装のせいで、また着換えていた――この方が、姿も佳く、よく似合う。ただし媚しさは少なくなって、いくらか気韻が高く見えるが、それだけに品が可い。
セルで足袋を穿いては、軍人の奥方めく、素足では待合から出たようだ、と云って邸を出掛けに着換えたが、膚に、緋の紋縮緬の長襦袢。
二人の児の母親で、その燃立つようなのは、ともすると同一軍人好みになりたがるが、垢抜けのした、意気の壮な、色の白いのが着ると、汗ばんだ木瓜の花のように生暖なものではなく、雪の下もみじで凜とする。
部屋で、先刻これを着た時も、乳を圧えて密と袖を潜らすような、男に気を兼ねたものではなかった。露にその長襦袢に水紅色の紐をぐるぐると巻いた形で、牡丹の花から抜出たように縁の姿見の前に立って、
(市川菅女。)と莞爾々々笑って、澄まして袷を掻取って、襟を合わせて、ト背向きに頸を捻じて、衣紋つきを映した時、早瀬が縁のその棚から、ブラッシを取って、ごしごし痒そうに天窓を引掻いていたのを見ると、
「そんな邪険な撫着けようがあるもんですか、私が分けて上げますからお待ちなさい。」
と云うのを、聞かない振でさっさと引込もうとしたので、
「あれ、お待ちなさい」と、下〆をしたばかりで、衝と寄って、ブラッシを引奪ると、窓掛をさらさらと引いて、端近で、綺麗に分けてやって、前へ廻って覗き込むように瞳をためて顔を見た。
胸の血汐の通うのが、波打って、風に戦いで見ゆるばかり、撓まぬ膚の未開紅、この意気なれば二十六でも、紅の色は褪せぬ。
境内の桜の樹蔭に、静々、夫人の裳が留まると、早瀬が傍から向うを見て、
「茶店があります、一休みして参りましょう。」
「あすこへですか。」
「お誂え通り、皺くちゃな赤毛布が敷いてあって、水々しい婆さんが居ますね、お茶を飲んで行きましょうよ。」
と謹んで色には出ぬが、午飯に一銚子賜ったそうで、早瀬は怪しからず可い機嫌。
「咽喉が渇いて?」
「ひりつくようです。」
「では……」
茶店の婆さんというのが、式のごとく古ぼけて、ごほん、と咳くのが聞えるから、夫人は余り気が進まぬらしかったが、二三人子守女に、きょろきょろ見られながら、ずッと入る。
「お掛けなさいまし。お日和でございます。よう御参詣なさりました。」
夫人が彳んでいて掛けないのを見て、早瀬は懐中から切立の手拭を出して、はたはたと毛布を払って、
「さあ、どうぞ、」
笑って云うと、夫人は婆さんを背後にして、悠々と腰を下ろして、
「江戸児は心得たものね。」
「人を馬鹿にしていらっしゃる。」
と、さしむかいの夫人の衣紋はずれに、店先を覗いて、
「やあ、甘酒がある……」
十一
「お止しなさいよ。先刻もあんなものを食ってさ、お腹を悪くしますから。」
と低声でたしなめるように云った、(先刻のあんなもの)は――鮪の茶漬で――慶喜公の邸あとだという、可懐しいお茶屋から、わざと取寄せた午飯の馳走の中に、刺身は江戸には限るまい、と特別に夫人が膳につけたのを、やがてお茶漬で掻込んだのを見て、その時は太く嬉しがった。
得てこれを嗜むもの、河野の一門に一人も無し、で、夫人も口惜いが不可いそうである。
「ここで甘酒を飲まなくっては、鳩にして豆、」
と云うと、婆さんが早耳で、
「はい、盆に一杯五厘宛でございます。」
「私は鳩と遊びましょう。貴下は甘酒でも冷酒でも御勝手に召食れ。」
と前の床几に並べたのを、さらりと撒くと、颯と音して、揃いも揃って雉子鳩が、神代に島の湧いたように、むらむらと寄せて来るので、また一盆、もう一盆、夫人は立上って更に一盆。
「一杯、二杯、三杯、四杯、五杯!」
早瀬はその数を算えながら、
「ああ、僕はたった一杯だ。婆さん甘酒を早く、」
「はいはい、あれ、まあ、御覧じまし、鳩の喜びますこと、沢山奥様に頂いて、クウクウかいのう、おおおお、」
と合点々々、ほたほた笑をこぼしながら甘酒を釜から汲む。
見る見るうち、輝く玄潮の退いたか、と鳩は掃いたように空へ散って、咄嗟に寂寞とした日当りの地の上へ、ぼんやりと影がさして、よぼよぼ、蠢いて出た者がある。
鼻の下はさまででないが、ものの切尖に痩せた頤から、耳の根へかけて胡麻塩髯が栗の毬のように、すくすく、頬肉がっくりと落ち、小鼻が出て、窪んだ目が赤味走って、額の皺は小さな天窓を揉込んだごとく刻んで深い。色蒼く垢じみて、筋で繋いだばかりげっそり肩の痩せた手に、これだけは脚より太い、しっかりした、竹の杖を支いたが、さまで容子の賤しくない落魄らしい、五十近の男の……肺病とは一目で分る……襟垢がぴかぴかした、閉糸の断れた、寝ン寝子を今時分。
藁草履を引摺って、勢の無さは埃も得立てず、地の底に滅入込むようにして、正面から辿って来て、ここへ休もうとしたらしかったが、目ももう疎くて、近寄るまで、心着かなんだろう。そこに貴婦人があるのを見ると、出かかった足を内へ折曲げ、杖で留めて、眩そうに細めた目に、あわれや、笑を湛えて、婆さんの顔をじろりと見た。
「おお、貞さんか。」
と耳立つほど、名を若く呼んだトタンに、早瀬は屹となって鋭く見た。
が、夫人は顔を背けたから何にも知らない。
「主あ、どうさしった、久しく見えなんだ。」
と云うさえ、下地はあるらしい婆さんの方が、見たばかりでもう、ごほごほ。
「方なしじゃ、」
思いの他、声だけは確であったが、悪寒がするか、いじけた小児がいやいやをすると同一に縮めた首を破れた寝ン寝子の襟に擦って、
「埒明かんで、久しい風邪でな、稼業は出来ず、段々弱るばっかりじゃ。芭蕉の葉を煎じて飲むと、熱が除れると云うので、」
と肩を怒らしたは、咳こうとしたらしいが、その力も無いか、口へ手を当てて俯向いた。
「何より利くそうなが、主あ飲しったか。」
「さればじゃ、方々様へ御願い申して頂いて来ては、飲んだにも、飲んだにも、大な芭蕉を葉ごとまるで飲んだくらいじゃけれど、少しも……」
とがっくり首を掉って、
「験が見えぬじゃて。」
験なきにはあらずかし、御身の骸は疾く消えて、賤機山に根もあらぬ、裂けし芭蕉の幻のみ、果敢なくそこに立てるならずや。
ごほごほと頷き頷き、咳入りつつ、婆さんが持って来た甘酒を、早瀬が取ろうとするのを、取らせまいと、無言で、はたと手で払った。この時、夫人は手巾で口を圧えながら、甘酒の茶碗を、衝と傍へ奪ったのである。
十二
「芭蕉の葉煎じたを立続けて飲ましって、効験の無い事はあるまいが、疾く快うなろうと思いなさる慾で、焦らっしゃるに因ってなおようない、気長に養生さっしゃるが何より薬じゃ。なあ、主、気の持ちように依るぞいの。」
と婆さんは渠を慰めるような、自分も勢の無いような事を云う。
病人は、苦を訴うるほどの元気も持たぬ風で、目で頷き、肩で息をし、息をして、
「この頃は病気と張合う勇もないで、どうなとしてくれ、もう投身じゃ。人に由っては大蒜が可え、と云うだがな。大蒜は肺の薬になるげじゃけれども、私はこう見えても癆咳とは思わん、風邪のこじれじゃに因って、熱さえ除れれば、とやっぱり芭蕉じゃ。」
愚痴のあわれや、繰返して、杖に縋った手を置替え、
「煎じて飲むはまだるこいで、早や、根からかぶりつきたいように思うがい。」
と切なそうに顔を獅噛める。
「焦らっしゃる事よ、苛れてはようない、ようないぞの。まあ、休んでござらんか、よ。主あどんなにか大儀じゃろうのう。」
「ちっと休まいて貰いたいがの、」
菅子と早瀬の居るのを見て、遠慮らしく、もじもじして、
「腰を下ろすとよう立てぬで、久しぶりで出たついでじゃ、やっとそこらを見て、帰りに寄るわい。見霽へ上る、この男坂の百四段も、見たばかりで、もうもう慄然とする慄然とする、」
と重そうな頭を掉って、顔を横向きに杖を上げると、尖がぶるぶる震う。
こなたに腰掛けたまま、胸を伸して、早瀬が何か云おうとした、(構わず休らえ、)と声を懸けそうだったが、夫人が、ト見て、指を弾いて禁めたので黙った。
「そんなら帰りに寄りなされ、気をつけて行かっしゃいよ。」
物は言わず、睡るがごとく頷くと、足で足を押動かし、寝ン寝子広き芭蕉の影は、葉がくれに破れて失せた。やがてこの世に、その杖ばかり残るであろう。その杖は、野墓に立てても、蜻蛉も留まるまい。病人の居たあとしばらくは、餌を飼っても、鳩の寄りそうな景色は無かった。
「お婆さん、」
と早瀬が調子高に呼んだ。
さすがに滅入っていた婆さんも、この若い、威勢の可い声に、蘇生ったようになって、
「へい、」
「今の、風説ならもう止しっこ。私は見たばかりで胸が痛いのよ。」
と、威しては可けそうもないので、片手で拝むようにして、夫人は厭々をした。
「いえ、一ツ心当りは無いか、家を聞いて見ようと思うんです。見物より、その方が肝心ですもの。」
「ああ、そうね。」
「どこか、貸家はあるまいか。」
「へい、無い事もござりませぬが、旦那様方の住まっしゃりますような邸は、この居まわりにはござりませぬ。鷹匠町辺をお聞きなさりましたか、どうでござります。」
「その鷹匠町辺にこそ、御邸ばかりで、僕等の住めそうな家はないのだ。」
「どんなのがお望みでござりまするやら、」
「廉いのが可い、何でも廉いのが可いんだよ。」
「早瀬さん。」と、夫人が見っともないと圧えて云う。
「長屋で可いのよ、長屋々々。」
と構わず、遣るので、また目で叱る。
「へへへ、お幾干ばかりなのをお捜しなされまするやら。」
心当りがあるか、ごほりと咳きつつ、甘酒の釜の蔭を膝行って出る。
「静岡じゃ、お米は一升幾干だい。」
「ええ。」
「厭よ、後生。」
と婆さんを避けかたがた、立構えで、夫人が肩を擦寄せると、早瀬は後へ開いて、夫人の肩越に婆さんを見て、
「それとも一円に幾干だね、それから聞いて屋賃の処を。」
「もう、私は、」と堪りかねたか、早瀬の膝をハタと打つと、赤らめた顔を手巾で半ば蔽いながら、茶店を境内へ衝と出る。
十三
どこも変らず、風呂敷包を首に引掛けた草鞋穿の親仁だの、日和下駄で尻端折り、高帽という壮佼などが、四五人境内をぶらぶらして、何を見るやら、どれも仰向いてばかり通る。
石段の下あたりで、緑に包まれた夫人の姿は、色も一際鮮麗で、青葉越に緋鯉の躍る池の水に、影も映りそうに彳んだが、手巾を振って、促がして、茶店から引張り寄せた早瀬に、
「可い加減になさいよ、極りが悪いじゃありませんか。」
「はい、お忘れもの。」
と澄ました顔で、洋傘を持って来た柄の方を返して出すと、夫人は手巾を持換えて、そうでない方の手に取ったが……不思議にこの男のは汗ばんでいなかった。誰のも、こういう際は、持ったあとがしっとり、中には、じめじめとするのさえある。……
夫人はちょいと俯目になって、軽くその洋傘を支いて、
「よく気がついてねえ。(小さな声で、)――大儀、」
「はッ、主税御供仕りまする上からは、御道中いささかたりとも御懸念はござりませぬ。」
「静岡は暢気でしょう、ほほほほほ。」
「三等米なら六升台で、暮しも楽な処ですって、婆さんが言いましたっけ。」
「あらまた、厭ねえ、貴下は。後生ですからその(お米は幾干だい、)と云うのだけは堪忍して頂戴な。もう私は極りが悪くって、同行は恐れるわ。」
「ええ、そうおっしゃれば、貴女もどうぞその手巾で、こう、お招きになるのだけは止して下さい。余りと云えば紋切形だ。」
「どうせね、柳橋のようなわけには……」
「いいえ、今も、子守女めらが、貴女が手巾をお掉りなさるのを見て、……はははは、」
「何ですって、」
「はははははは。」
と事も無げに笑いながら、
「(男と女と豆煎、一盆五厘だよ。)ッて、飛んでもない、わッと囃して遁げましたぜ。」
ツンと横を向く、脊が屹と高くなった。引かなぐって、その手巾をはたと地に擲つや否や、裳を蹴て、前途へつかつか。
その時義経少しも騒がず、落ちた菫色の絹に風が戦いで、鳩の羽はっと薫るのを、悠々と拾い取って、ぐっと袂に突込んだ、手をそのまま、袖引合わせ、腕組みした時、色が変って、人知れず俯向いたが、直ぐに大跨に夫人の後について、社の廻廊を曲った所で追着いた。
「夫人。」
「…………」
「貴女腹をお立てなすったんですか、困りましたな。知らぬ他国へ参りまして、今貴女に見棄てられては、東西も分りませんで、途方に暮れます。どうぞ、御機嫌をお直し下さい、夫人、」
「…………」
「英吉君の御妹御、菅子さん、」
「…………」
「島山夫人……河野令嬢……不可い、不可い。」
と口の裡で云って、歩行き歩行き、
「ほんとうに機嫌を直して、貴女、御世話下さい、なまじっか、貴女にお便り申したために、今更独じゃ心細くってどうすることも出来ません。もう決して貴女の前で、米の直は申しますまい。その代り、貴女もどうぞ貴族的でない、僕が住れそうな、実際、相談の出来そうな長屋式のをお心掛けなすって下さい。実はその御様子じゃ、二十円以内の家は念頭にお置きなさらないように見受けたものですから、いささか諷する処あるつもりで、」
いつの間にか、有名な随神門も知らず知らず通越した、北口を表門へ出てしまった。
社は山に向い、直ぐ畠で、かえって裏門が町続きになっているが、出口に家が並んでいるから、その前を通る時、主税も黙った。
夫人はもとより口を開かぬ。
やがて茶畑を折曲って、小家まばらな、場末の町へ、まだツンとした態度でずんずん入る。
大巌山の町の上に、小さな溝があるばかり、障子の破から人顔も見えないので、その時ずッと寄って、
「ものを云って下さいよ。」
「…………」
「夫人、」
「…………」
十四
少時――主税ももう口を利こうとは思わない様子になって、別に苦にする顔色でもないが、腕を拱いた態で、夫人の一足後れに跟いて行く。
裏町の中程に懸ると、両側の家は、どれも火が消えたように寂寞して、空屋かと思えば、蜘蛛の巣を引くような糸車の音が何家ともなく戸外へ漏れる。路傍に石の古井筒があるが、欠目に青苔の生えた、それにも濡色はなく、ばさばさ燥いで、流も乾びている。そこいら何軒かして日に幾度、と数えるほどは米を磨ぐものも無いのであろう。時々陰に籠って、しっこしの無い、咳の声の聞えるのが、墓の中から、まだ生きていると唸くよう。はずれ掛けた羽目に、咳止飴と黒く書いた広告の、それを売る店の名の、風に取られて読めないのも、何となく世に便りがない。
振返って、来た方を見れば、町の入口を、真暗な隧道に樹立が塞いで、炎のように光線が透く。その上から、日のかげった大巌山が、そこは人の落ちた谷底ぞ、と聳え立って峰から哄と吹き下した。
かつ散る紅、靡いたのは、夫人の褄と軒の鯛で、鯛は恵比寿が引抱えた処の絵を、色は褪せたが紺暖簾に染めて掛けた、一軒(御染物処)があったのである。
廂から突出した物干棹に、薄汚れた紅の切が忘れてある。下に、荷車の片輪はずれたのが、塵芥で埋った溝へ、引傾いて落込んだ――これを境にして軒隣りは、中にも見すぼらしい破屋で、煤のふさふさと下った真黒な潜戸の上の壁に、何の禁厭やら、上に春野山、と書いて、口の裂けた白黒まだらの狗の、前脚を立てた姿が、雨浸に浮び出でて朦朧とお札の中に顕れて活るがごとし。それでも鬼が来て覗くか、楽書で捏ちたような雨戸の、節穴の下に柊の枝が落ちていた……鬼も屈まねばなるまい、いとど低い屋根が崩れかかって、一目見ても空家である――またどうして住まれよう――お札もかかる家に在っては、軒を伝って狗の通るように見えて物凄い。
フト立留まって、この茅家を覗めた夫人が、何と思ったか、主税と入違いに小戻りして、洋傘を袖の下へ横えると、惜げもなく、髪で、件の暖簾を分けて、隣の紺屋の店前へ顔を入れた。
「御免なさいよ、御隣家の屋を借りたいんですが、」
「何でございますと、」
と、頓興な女房の声がする。
「家賃は幾干でしょうか。」
「ああ、貞造さんの家の事かね。」
余り思切った夫人の挙動に、呆気に取られて茫然とした主税は、(貞造。)の名に鋭く耳をそばだてた。
「空家ではござりませぬが。」
「そう、空家じゃないの、失礼。」
と肩の暖簾をはずして出たが、
「大照れ、大照れ、」
と言って、莞爾して、
「早瀬さん、」
「…………」
「人のことを、貴族的だなんのって、いざ、となりゃ私だって、このくらいな事はして上げるわ。この家じゃ、貴下だって、借りたいと言って聞かれないでしょう。ちょいと、これでも家の世話が私にゃ出来なくって?」
さすがに夫人もこれは離れ業であったと見え、目のふちが颯となって、胸で呼吸をはずませる。
その燃ゆるような顔を凝と見て、ややあって、
「驚きました。」
「驚いたでしょう、可い気味、」
と嬉しそうに、勝誇った色が見えたが、歩行き出そうとして、その茅家をもう一目。
「しかし極が悪かってよ。」
「何とも申しようはありません。当座の御礼のしるし迄に……」と先刻拾って置いた菫色の手巾を出すと、黙って頷いたばかりで、取るような、取らぬような、歩行きながら肩が並ぶ。袖が擦合うたまま、夫人がまだ取られぬのを、離すと落ちるし、そうかと云って、手はかけているから……引込めもならず……提げていると……手巾が隔てになった袖が触れそうだったので、二人が斉しく左右を見た。両側の伏屋の、ああ、どの軒にも怪しいお札の狗が……
貸小袖
十五
今来た郵便は、夫人の許へ、主人の島山理学士から、帰宅を知らせて来たのだろう……と何となくそういう気がしつつ――三四日日和が続いて、夜になってももう暑いから――長火鉢を避けた食卓の角の処に、さすがにまだ端然と坐って、例の(菅女部屋。)で、主税は独酌にして、ビイル。
塀の前を、用水が流るるために、波打つばかり、窓掛に合歓の花の影こそ揺れ揺れ通え、差覗く人目は届かぬから、縁の雨戸は開けたままで、心置なく飲めるのを、あれだけの酒好が、なぜか、夫人の居ない時は、硝子杯へ注ける口も苦そうに、差置いて、どうやら鬱ぐらしい。
襖が開いた、と思うと、羽織なしの引掛帯、結び目が摺って、横になって、くつろいだ衣紋の、胸から、柔かにふっくりと高い、真白な線を、読みかけた玉章で斜めに仕切って、衽下りにその繰伸した手紙の片端を、北斎が描いた蹴出のごとく、ぶるぶるとぶら下げながら出た処は、そんじょ芸者の風がある。
「やっと寝かしつけたわ。」
と崩るるように、ばったり坐って、
「上の児は、もう原っから乳母が好いんだし、坊も、久しく私と寝ようなんぞと云わなかったんだけれども、貴下にかかりっきりで構いつけないし、留守にばっかりしたもんだから、先刻のあの取ッ着かれようを御覧なさい。」
と手紙を見い見い忙しそうに云う。いかにもここで膳を出したはじめには、小児が二人とも母様にこびりついて、坊やなんざ、武者振つく勢。目の見えない娘は、寂しそうに坐ったきりで、しきりに、夫人の膝から帯をかけて両手で撫でるし、坊やは肩から負われかかって、背ける顔へ頬を押着け、躱す顔の耳許へかじりつくばかりの甘え方。見るまにぱらぱらに鬢が乱れて、面影も痩せたように、口のあたりまで振かかるのを掻い払うその白やかな手が、空を掴んで悶えるようで、(乳母来ておくれ。)と云った声が悲鳴のように聞えた。乳母が、(まあ、何でござります、嬢ちゃまも、坊っちゃまも、お客様の前で、)と主税の方を向いたばかりで、いつも嬢さまかぶれの、眠ったような俯目の、顔を見ようとしないので、元気なく微笑みながら、娘の児の手を曳くと、厭々それは離れたが、坊やが何と云っても肯かなくって、果は泣出して乱暴するので、時の間も座を惜しそうな夫人が、寝かしつけに行ったのである。
そこへ、しばらくして、郵便――だった。
すらすらと読果てた。手紙を巻戻しながら顔を振上げると、乱れたままの後れ毛を、煩さそうに掻上げて、
「ついぞ思出しもしなかった、乳なんか飲まれて、さんざ膏を絞られたわ。」
と急いで衣紋を繕って、
「さあ、お酌をしましょう。」
瓶を上げると、重い。
「まあ、ちっとも召喫らないのね。お酌がなくっては不可いの、ちょいと贅沢だわ。ほほほほ、家も極まったし、一人で世帯を持った時どうするのよ。」
「沢山頂きました、こんなに御厄介になっては、実に済みません……もう、徐々失礼しましょう。」
と恐しく真面目に云う。
「いいえ、返さない。この間から、お泊んなさいお泊んなさいと云っても、貴下が悪いと云うし、私も遠慮したけれど、可いわ、もう泊っても。今ね、御覧なさい、牛込に居る母様から手紙が来て、早瀬さんが静岡へお出なすって、幸いお知己になったのなら、精一杯御馳走なさい、と云って来たの。嬉しいわ、私。
あのね、実はこれは返事なんです。汽車の中でお目にかかった事から、都合があってこちらで塾をお開きなさるに就いて、ちっとも土地の様子を御存じじゃない、と云うから、私がお世話をしてなんて、そこはね、可いように手紙を出したの、その返事、」
と掌に巻き据えた手紙の上を、軽く一つとんと拍って、
「母様が可い、と云ったら、天下晴れたものなんだわ。緩り召食れ。そして、是非今夜は泊るんですよ。そのつもりで風呂も沸してありますから、お入んなさい。寝しなにしますか、それとも颯と流してから喫りますか。どちらでも、もう沸いてるわ。そして、泊るんですよ。可くって、」
念を入れて、やがて諾と云わせて、
「ああ、昨日も一昨日も、合歓の花の下へ来ては、晩方寂しそうに帰ったわねえ。」
十六
さて湯へ入る時、はじめて理学士の書斎を通った。が、机の上は乱雑で、そこに据えた座蒲団も無かった、早瀬に敷かせているのがそれらしい。
机には、広げたままの新聞も幅をすれば、小児の玩弄物も乗って、大きな書棚の上には、世帯道具が置いてある。
湯は、だだっ広い、薄暗い台所の板敷を抜けて、土間へ出て、庇間を一跨ぎ、据風呂をこの空地から焚くので、雨の降る日は難儀そうな。
そこに踞んでいた、例のつんつるてん鞠子の婢が、湯加減を聞いたが上塩梅。
どっぷり沈んで、遠くで雨戸を繰る響、台所をぱたぱた二三度行交いする音を聞きながら、やがて洗い果ててまた浴びたが、湯の設計は、この邸に似ず古びていた。
小灯の朦々と包まれた湯気の中から、突然褌のなりで、下駄がけで出ると、颯と風の通る庇間に月が見えた。廂はずれに覗いただけで、影さす程にはあらねども、と見れば尊き光かな、裸身に颯と白銀を鎧ったように二の腕あたり蒼ずんだ。
思わず打仰いで、
「ああ、お妙さん。」
俯向いた肩がふるえて、
「お蔦!」
蹌踉いたように母屋の羽目に凭れた時、
「早瀬さん、」と、つい台所に、派手やかな夫人の声で、
「貴下、上ったら、これにお着換えなさいよ。ここに置いときますから、」
「憚り、」
と我に返って、上って見ると、薄べりを敷いた上に、浴衣がある。琉球紬の書生羽織が添えてあったが、それには及ばぬから浴衣だけ取って手を通すと、桁短に腕が出て着心の変な事は、引上げても、引上げても、裾が摺るのを、引縮めて部屋へ戻ると……道理こそ婦物。中形模様の媚かしいのに、藍の香が芬とする。突立って見ていると、夫人は中腰に膝を支いて、鉄瓶を掛けながら、
「似合ったでしょう、過日谷屋が持って来て、貴下が見立てて下すったのを、直ぐ仕立てさしたのよ。島山のはまだ縫えないし、あるのは古いから、我慢して寝衣に着て頂戴。」
「むざむざ新らしいのを。」
と主税は袖を引張る。
「いいえ、私、今着て見たの、お初ではありません。御遠慮なく、でも、お気味が悪くはなくって。ちょいと着たから、」
「気味が悪い、」
「…………」
「もんですか。勿体至極もござらん。」
と極ったが、何かまだ物足りない。
「帯ですか。」
「さよう、」
「これを上げましょう。」
とすっと立って、上緊をずるりと手繰った、麻の葉絞の絹縮。
「…………」
目を見合せ、
「可いわ、」
とはたと畳に落して、
「私も一風呂入って来ましょう。今の内に。」
主税はあとで座敷を出て、縁側を、十畳の客室の前から、玄関の横手あたりまで、行ったり来たり、やや跫音のするまで歩行いた。
婢が来て、ぬいと立って、
「夫人が言いましけえ、お涼みなさりますなら雨戸を開けるでござります。」
「いや、宜しい。」
「はいい。」と念入りに返事する。
「いつも何時頃にお休みだい。」
と親しげに問いかけながら、口不重宝な返事は待たずに、長火鉢の傍へ、つかつかと帰って、紙入の中をざっくりと掴んだ。
疾い事、もう紙に両個。
「一個は乳母さんに、お前さんから、夫人に云わんのだよ。」
十七
寝たのはかれこれ一時。
膳は片附いて、火鉢の火の白いのが果敢ないほど、夜も更けて、寂と寒くなったが、話に実が入ったのと、もう寝よう、もう寝ようで炭も継がず。それでも火の気が便りだから、横坐りに、褄を引合せて肩で押して、灰の中へ露わな肱も落ちるまで、火鉢の縁に凭れかかって、小豆ほどな火を拾う。……湯上りの上、昼間歩行き廻った疲れが出た菅子は、髪も衣紋も、帯も姿も萎えたようで、顔だけは、ほんのりした――麦酒は苦くて嫌い、と葡萄酒を硝子杯に二ツばかりの――酔さえ醒めず、黒目は大きく睫毛が開いて、艶やかに湿って、唇の紅が濡れ輝く。手足は冷えたろうと思うまで、頭に気が籠った様子で、相互の話を留めないのを、余り晩くなっては、また御家来衆が、変にでも思うと不可ませんから、とそれこそ、人に聞えたら変に思われそうな事を、早瀬が云って、それでも夫人のまだ話し飽かないのを、幾度促しても肯入れなかったが……火鉢で隔てて、柔かく乗出していた肩の、衣の裏がするりと辷った時、薄寒そうに、がっくりと頷くと見ると、早急にフイと立つ……。
膝に搦んだ裳が落ちて、蹌踉めく袖が、はらりと、茶棚の傍の襖に当った。肩を引いて、胸を反らして、おっくらしく、身体で開けるようにして、次室へ入る。
板廊下を一つ隔てて、そこに四畳半があるのに、床が敷いてあって、小児が二人背中合せに枕して、真中に透いた処がある。乳母が両方を向いて寝かし附けたらしいが、よく寝入っていて、乳母は居なかった。
トそこを通り越して、見えなくなったきり、襖も閉めないで置きながら、夫人はしばらく経っても来なかった。
早瀬は灰に突込んだ堆い巻莨の吸殻を視めながら、ああ、喫んだと思い、ああ、饒舌ったと考える。
その話、と云うのが、かねて約束の、あの、ギョウテの(エルテル)を直訳的にという註文で、伝え聞くかの大詩聖は、ある時シルレルと葡萄の杯を合せて、予等が詩、年を経るに従いていよいよ貴からんことこの酒のごとくならん、と誓ったそうだわね、と硝子杯を火に翳してその血汐のごとき紅を眉に宿して、大した学者でしょう、などと夫人、得意であったが、お酌が柳橋のでなくっては、と云う機掛から、エルテルは後日にして、まあ、題も(ハヤセ)と云うのを是非聞かして下さい、酒井さんの御意見で、お別れなすった事は、東京で兄にも聞きましたが、恋人はどうなさいました。厭だわ、聞かさなくっちゃ、と強いられた。
早瀬は悉しく懺悔するがごとく語ったが、都合上、ここでは要を摘んで置く。……
義理から別離話になると、お蔦は、しかし二度芸者をする気は無いから、幸いめ組の惣助の女房は、島田が名人の女髪結。柳橋は廻り場で、自分も結って貰って懇意だし、め組とはまたああいう中で、打明話が出来るから、いっそその弟子になって髪結で身を立てる。商売をひいてからは、いつも独りで束ねるが、銀杏返しなら不自由はなし、雛妓の桃割ぐらいは慰みに結ってやって、お世辞にも誉められた覚えがある。出来ないことはありますまい、親もなし、兄弟もなし、行く処と云えば元の柳橋の主人の内、それよりは肴屋へ内弟子に入って当分梳手を手伝いましょう。……何も心まかせ、とそれに極まった。この事は、酒井先生も御承知で、内証で飯田町の二階で、直々に、お蔦に逢って下すって、その志の殊勝なのに、つくづく頷いて、手ずから、小遣など、いろいろ心着があった、と云う。
それぎり、顔も見ないで、静岡へ引込むつもりだったが、め組の惣助の計らいで、不意に汽車の中で逢って、横浜まで送る、と云うのであった。ところが終列車で、浜が留まりだったから、旅籠も人目を憚って、場末の野毛の目立たない内へ一晩泊った。
(そんな時は、)
と酔っていた夫人が口を挟んで、顔を見て笑ったので、しばらくして、
(背中合わせで、別々に。)
翌日、平沼から急行列車に乗り込んで、そうして夫人に逢ったんだと。……
うつらうつら
十八
中途で談話に引入れられて鬱ぐくらい、同情もしたが、芸者なんか、ほんとうにお止しなさいよ、と夫人が云う。主税は、当初から酔わなきゃ話せないで陶然としていたが、さりながら夫人、日本広しといえども、私にお飯を炊てくれた婦は、お蔦の他ありません。母親の顔も知らないから、噫、と喟然として天井を仰いで歎ずるのを見て、誰が赤い顔をしてまで、貸家を聞いて上げました、と流眄にかけて、ツンとした時、失礼ながら、家で命は繋げません、貴女は御飯が炊けますまい。明日は炊くわ。米をるのだ、と笑って、それからそれへ花は咲いたのだったが、しかし、気の毒だ、可哀相に、と憐愍はしたけれども、徹頭徹尾、(芸者はおよしなさい。)……この後たとい酒井さんのお許可が出ても、私が不承知よ。で、さてもう、夜が更けたのである。
出て来ない――夫人はどうしたろう。
がたがた音がした台所も、遠くなるまで寂寞して、耳馴れたれば今更めけど、戸外は数万の蛙の声。蛙、蛙、蛙、蛙、蛙と書いた文字に、一ツ一ツ音があって、天地に響くがごとく、はた古戦場を記した文に、尽く調があって、章と句と斉しく声を放って鳴くがごとく、何となく雲が出て、白く移り行くに従うて、動揺を造って、国が暗くなる気勢がする。
時に湯気の蒸した風呂と、庇合の月を思うと、一生の道中記に、荒れた駅路の夜の孤旅が思出される。
渠は愁然として額を圧えた。
「どうぞお休み下さりまし。」
と例の俯向いた陰気な風で、敷居越に乳母が手を支いた。
「いろいろお使い立てます。」
と直ぐにずッと立って、
「どちらですか。」
「そこから、お座敷へどうぞ……あの、先刻はまた、」と頭を下げた。
寝床はその、十畳の真中に敷いてあった。
枕許に水指と、硝子杯を伏せて盆がある。煙草盆を並べて、もう一つ、黒塗金蒔絵の小さな棚を飾って、毛糸で編んだ紫陽花の青い花に、玉の丸火屋の残燈を包んで載せて、中の棚に、香包を斜めに、古銅の香合が置いてあって、下の台へ鼻紙を。重しの代りに、女持の金時計が、底澄んで、キラキラ星のように輝いていた。
じろりと視めて、莞爾して、蒲団に乗ると、腰が沈む。天鵝絨の括枕を横へ取って、足を伸して裙にかさねた、黄縞の郡内に、桃色の絹の肩当てした掻巻を引き寄せる、手が辷って、ひやりと軽くかかった裏の羽二重が燃ゆるよう。
トタンに次の書斎で、するすると帯を解く音がしたので、まだ横にならなかった主税は、掻巻の襟に両肱を支いた。
乳母が何か云ったようだったが、それは聞えないで、派手な夫人の声して、
「ああ、このまま寝ようよ。どうせ台なしなんだから。」
と云ったと思うと、隔ての襖の左右より、中ほどがスーと開いたが、こなたの十畳の京間は広し、向うの灯も暗いから、裳はかくれて、乳の下の扱帯が見えた。
「お休みなさい。」
「失礼。」
と云う。襖を閉めて肩を引いた。が、幻の花環一つ、黒髪のありし辺、宙に残って、消えずに俤に立つ。
主税は仰向けに倒れたが、枕はしないで、両手を廻して、しっかと後脳を抱いた。目はハッキリといて、失せやらぬその幻を視めていた。時過ぎる、時過ぎる、その時の過ぎる間に、乳母が長火鉢の処の、洋燈を消したのが知れて、しっこは、しっこは、と小児に云うのが聞えたが、やがて静まって、時過ぎた。
早瀬は起上って、棚の残燈を取って、縁へ出た。次の書斎を抜けるとまた北向きの縁で、その突当りに、便所があるのだが、夫人が寝たから、大廻りに玄関へ出て、鞠子の婢の寝た裙を通って、板戸を開けて、台所の片隅の扉から出て、小用を達して、手を洗って、手拭を持つと、夫人が湯で使ったのを掛けたらしい、冷く手に触って、ほんのり白粉の香がする。
十九
寝室へ戻って、何か思切ったような意気込で、早瀬は勢よく枕して目を閉じたが、枕許の香は、包を開けても見ず、手拭の移香でもない。活々した、何の花か、その薫の影はないが、透通って、きらきら、露を揺って、幽な波を描いて恋を囁くかと思われる一種微妙な匂が有って、掻巻の袖を辿って来て、和かに面を撫でる。
それを掻払うごとく、目の上を両手で無慚に引擦ると、ものの香はぱっと枕に遁げて、縁側の障子の隅へ、音も無く潜んだらしかったが、また……有りもしない風を伝って、引返して、今度は軽く胸に乗る。
寝返りを打てば、袖の煽にふっと払われて、やがて次の間と隔ての、襖の際に籠った気勢、原の花片に香が戻って、匂は一処に集ったか、薫が一汐高くなった。
快い、さりながら、強い刺戟を感じて、早瀬が寝られぬ目を開けると、先刻(お休みなさい。)を云った時、菅子がそこへ長襦袢の模様を残した、襖の中途の、人の丈の肩あたりに、幻の花環は、色が薄らいで、花も白澄んだけれども、まだ歴々と瞳に映る。
枕に手を支き、むっくり起きると、あたかもその花環の下、襖の合せ目の処に、残燈の隈かと見えて、薄紫に畳を染めて、例の菫色の手巾が、寂然として落ちたのに心着いた。
薫はさてはそれからと、見る見る、心ゆくばかりに思うと、萌黄に敷いた畳の上に、一簇の菫が咲き競ったようになって、朦朧とした花環の中に、就中輪の大きい、目に立つ花の花片が、ひらひらと動くや否や、立処に羽にかわって、蝶々に化けて、瞳の黒い女の顔が、その同一処にちらちらする。
早瀬は、甘い、香しい、暖かな、とろりとした、春の野に横わる心地で、枕を逆に、掻巻の上へ寝巻の腹ん這になって、蒲団の裙に乗出しながら、頬杖を支いて、恍惚した状にその菫を見ている内、上にたたずむ蝶々と斉しく、花の匂が懐しくなったと見える。
やおら、手を伸して紫の影を引くと、手巾はそのまま手に取れた。……が菫には根が有って、襖の合せ目を離れない。
不思議に思って、蝶々がする風情に、手で羽のごとく手巾を揺動かすと、一寸ばかり襖が……開……い……た。
と見ると、手巾の片端に、紅の幻影が一条、柔かに結ばれて、夫人の閨に、するすると繋っていたのであった。
菫が咲いて蝶の舞う、人の世の春のかかる折から、こんな処には、いつでもこの一条が落ちている、名づけて縁の糸と云う。禁断の智慧の果実と斉しく、今も神の試みで、棄てて手に取らぬ者は神の児となるし、取って繋ぐものは悪魔の眷属となり、畜生の浅猿しさとなる。これを夢みれば蝶となり、慕えば花となり、解けば美しき霞となり、結べば恐しき蛇となる。
いかに、この時。
隔ての襖が、より多く開いた。見る見る朱き蛇は、その燃ゆる色に黄金の鱗の絞を立てて、菫の花を掻潜った尾に、主税の手首を巻きながら、頭に婦人の乳の下を紅見せて噛んでいた。
颯と花環が消えると、横に枕した夫人の黒髪、後向きに、掻巻の襟を出た肩の辺が露に見えた。残燈はその枕許にも差置いてあったが、どちらの明でも、繋いだものの中は断たれず。……
ぶるぶる震うと、夫人はふいと衾を出て、胸を圧えて、熟と見据えた目に、閨の内をして、としたようで、まだ覚めやらぬ夢に、菫咲く春の野をうごとく、裳も畳に漾ったが、ややあって、はじめてその怪い扱帯の我を纏えるに心着いたか、あ、と忍び音に、魘された、目の美しい蝶の顔は、俯向けに菫の中へ落ちた。
思いやり
二十
妙子は同伴も無しにただ一人、学校がえりの態で、八丁堀のとある路地へ入って来た。
通うその学校は、麹町辺であるが、どこをどう廻ったのか、真砂町の嬢さんがこの辺へ来るのは、旅行をするようなもので、野山を越えてはるばると……近所で温習っている三味線も、旅の衣はすずかけの、旅の衣はすずかけの。
目で聞くごとくぱっちりと、その黒目勝なのをったお妙は、鶯の声を見る時と同一な可愛い顔で、路地に立ってわしながら、橘に井げたの紋、堀の内講中のお札を並べた、上原と姓だけの門札を視めて、単衣の襟をちょいと合わせて、すっとその格子戸へ寄って、横に立って、洋傘を支いたが、声を懸けようとしたらしく、斜めに覗き込んだ顔を赤らめて、黙って俯向いて俯目になった。口許より睫毛が長く、日にさした影は小さく軒下に隠れた。
コトコトとその洋傘で、爪先の土を叩いていたが、
「御免なさい。」
とようよう云う、控え目だったけれども、朗に清しい、框の障子越にずッと透る。
中からよく似た、やや落着いた静な声で、
「はあ、誰方?」
お妙は自分から調子が低く、今のは聞えない分に極めていたのを、すぐの返事は、ちと不意討という風で、吃驚して顔を上げる。
「誰方、」
「あの……髪結さんの内はこっちでしょうか。」
「はい、こちらでございますが。」と座を立った気勢に連れて、もの云う調子が婀娜になる。
と真正面に内を透かして、格子戸に目を押附ける。
「何ぞ御用。」
といくらか透いていた障子をすらりと開ける。粋で、品の佳い、しっとりした縞お召に、黒繻子の丸帯した御新造風の円髷は、見違えるように質素だけれども、みどりの黒髪たぐいなき、柳橋の小芳であった。
立身で、框から外を見たが、こんな門には最明寺、思いも寄らぬ令嬢風に、急いで支膝になって、
「あいにく出掛けて居りませんが、貴嬢、どちら様でいらっしゃいますか。帰りましたら、直ぐ上りますように申しましょう。」
瞳も離さないで視めたお妙が、後馳せに会釈して、
「そう、でも、あの、誰方かおいででしょう。内へ来て貰うんじゃないの。私が結って欲しいのよ。どうせ、こんなのですから、」
と指でも圧えず、惜気なく束髪の鬢を掉って、
「お師匠さんでなくっても可いんです。お弟子さんがお在なら、ちょいと結んで下さいな。」
縋って頼むように仇なく云って、しっかり格子に掴まって、差覗きながら、
「小母さんでも可いわ。」
我を(小母さん)にして髪を結って、と云われたので、我ながら忘れたように、心から美しい笑顔になって、
「貴嬢、まあ、どちらから。あの、御近所でいらっしゃいますか。」
「いいえ、遠いのよ。」
「お遠うございますか。」
「本郷だわ。」
「ええ、」
「私ねえ、本郷のねえ、酒井と云うの。」
「お嬢様、まあ、」
と土間に一足おろしさまに、小芳は、急いで框から開ける手が、戸に掴まったお妙の指を、中から圧えたのも気が附かぬか、駒下駄の先を、逆に半分踏まえて、片褄蹴出しのみだれさえ、忘れたように瞻って、
「お妙様。」
「小母さんは、早瀬さんの……あの……お蔦さん?」
二十一
「いらっしゃいまし、」
と小芳が太く更まって、三指を突いた時、お妙は窮屈そうに六畳の上座へ直されていたのである。
「貴嬢、まあ、どうしてこんな処へ、たった御一人なんですか。途中で何かございませんでしたか、お暑かったでしょうのに。唯今手拭を絞って差上げます。」
と一斉に云いかけられて、袖で胸を煽いでいた手を留めて、
「暑いんじゃないの、私極が悪いから、それでもって、あの、」
と袂を顔に当てて、鈴のような目ばかり出して、
「小母さんが、お蔦さん?」と低声でまた聞いた。
「あれ、どうしましょう。あんまり思懸けない方がお見えなさいましたもんですから、私は狼狽てしまってさ。ほほほ、いうことも前後になるんですもの、まあ、御免なさいまし。
私は……じゃありません。その……何でございますよ、お蔦さんが煩らって寝ておりますので、見舞に来たんでございます。」
「ええ、御病気。」と憂慮しげに打傾く。
「はあ、久しい間、」
「沢山、悪くって?」
「いいえ、そんなでもないようですけれど、臥っておりますから、お髪はあげられませんでしょう。ですが、御緩くり、まあ、なさいまし。この頃では、お増さんも気に掛けて、早く帰って参りますから、ほんとうに……お嬢さん、」
と擦寄って、うっかりと見惚れている。
上框が三畳で、直ぐ次がこの六畳。前の縁が折曲った処に、もう一室、障子は真中で開いていたが、閉った蔭に、床があれば有るらしい。
向うは余所の蔵で行詰ったが、いわゆる猫の額ほどは庭も在って、青いものも少しは見える。小綺麗さは、酔だくれには過ぎたりといえども、お増と云う女房の腕で、畳も蒼い。上原とあった門札こそ、世を忍ぶ仮の名でも何でもない、すなわちこれめ組の住居、実は女髪結お増の家と云ってしかるべきであろう。
惣助の得意先は、皆、渠を称して恩田百姓と呼ぶ。註に不及、作取りのただ儲け、商売で儲けるだけは、飲むも可し、打つも可し、買うも可しだが、何がさてそれで済もうか。儲けを飲んで、資本で買って、それから女房の衣服で打つ。
それお株がはじまった、と見ると、女房はがちがちがちと在りたけの身上へ錠をおろして、鍵を昼夜帯へ突込んで、当分商売はさせません、と仕事に出る、
トかますの煙草入に湯銭も無い。おなまめだんぶつ、座敷牢だ、と火鉢の前に縮まって、下げ煙管の投首が、ある時悪心増長して、鉄瓶を引外ずし、沸立った湯を流へあけて、溝の湯気の消えぬ間に、笊蕎麦で一杯を極めた。
その時女房に勘当されたが、やっとよりが戻って以来、金目な物は重箱まで残らず出入先へ預けたから、家には似ない調度の疎末さ。どこを見てもがらんとして、間狭な内には結句さっぱりして可さそうなが、お妙は目を外らす壁張りの絵も無いので、しきりに袂を爪繰って、
「可いのよ、小母さん、髪結さんの許だから、極りが悪いからそう云って来たけれど、髪なんぞ結わなくったって構わなくってよ。ちっとも私、結いたくはないの、」
と投出したように云って、
「早瀬さんの、あの、主税さんの奥さんに、私、お目にかかれなくって?」
「姉さん、」
ト、障子の内から。
「あい、」と小芳が立構えで、縁へ振向いてそなたを見込むと、
「私、そこへ行っても可いかい?」
小芳が急いで縁づたいで、障子を向うへ押しながら、膝を敷居越に枕許。
枕についた肩細く、半ば掻巻を藻脱けた姿の、空蝉のあわれな胸を、痩せた手でしっかりと、浴衣に襲ねた寝衣の襟の、はだかったのを切なそうに掴みながら、銀杏返しの鬢の崩れを、引結えた頭重げに、透通るように色の白い、鼻筋の通った顔を、がっくりと肩につけて、吻と今呼吸をしたのはお蔦である。
二十二
お蔦は急に起上った身体のあがきで、寝床に添った押入の暗い方へ顔の向いたを、こなたへ見返すさえ術なそうであった。
枕から透く、その細う捩れた背へ、小芳が、密と手を入れて、上へ抱起すようにして、
「切なくはないかい、お蔦さん、起きられるかい、お前さん、無理をしては不可いよ。」
「ああ、難有う、」
とようよう起直って、顱巻を取ると、あわれなほど振りかかる後れ毛を掻上げながら、
「何だか、骨が抜けたようで可笑いわ、気障だねえ、ぐったりして。」
と蓮葉に云って、口惜しそうに力のない膝を緊め合わせる。
お妙はもう六畳の縁へ立って来て、障子に掴まって覗いていたが、
「寝ていらっしゃいよ、よう、そうしておいでなさいよ。私がそこへ行ってよ。」
とそれまで遠慮したらしかったが、さあとなると、飜然と縁を切って走込むばかりの勢――小芳の方が一目先へ御見の済んだ馴染だけ、この方が便りになったか、薄くお太鼓に結んだ黒繻子のその帯へ、擦着くように坐って、袖のわきから顔だけ出して、はじめて逢ったお蔦の顔を、瞬もしないで凝と視める。
肩を落して、お蔦が蒲団の外へ出ようとするのを、
「よう、そうしていらっしゃいなね。そんなにして、私は困るわ。」
「はじめまして、」
と余り白くて、血の通るのは覚束ない頸を下げて、手を支きつつ、
「失礼でございますから、」
「よう、私困るのよ。寝ていて下さらなくっては。小母さん、そう云って下さいな。」
と気を揉んで、我を忘れて、小芳の背中をとんとんと叩いて、取次げ、と急って云う。
その優しさが身に浸みたか、お蔦の手をしっかり握った、小芳の指も震えつつ、
「お蔦さん、可いから寝ておいでな、お嬢さんがあんなに云って下さるからさ。」
「いいえ、そんなじゃありません。切なければ直きに寝ますよ。お嬢さん、難有う存じます。貴嬢、よくおいで下さいましたのね。」
「そして、よく家が知れましたわね。この辺へは、滅多においでなさいましたことはござんせんでしょうにねえ。」
小芳はまた今更感心したように熟々云った。
「はあ、分らなくってね。私、方々で聞いて極りが悪かったわ。探すのさえ煩かしいんですもの。何だか、あの、小母さんたちは、ちょいとは、あの、逢って下さらなかろうと思って、私、心配ッたらなかってよ。」
「私たちが……」
「なぜでございますえ。」
と両方へ身を開いて、お妙を真中にして左右から、珍らしそうに顔を見ると、俯向きながら打微笑み、
「だって私は、ちっともお金子が無いんですもの。お茶屋へ行って、呼ばなくっては逢えないのじゃありませんか。」
お蔦がハッと吐息をつくと、小芳はわざと笑いながら、
「怪我にもそんな事があるもんですか。それに、お蔦さんも、もう堅気です。私が、何も……あの、もっとも、私に逢おうとおっしゃって下すったのではござんせんが、」
となぜか、怨めしそうな、しかも優い目で瞻って、
「私は何も、そんな者じゃありませんのに。」
「厭よ、小母さん、私両方とも写真で見て知っていてよ。」
と仇気なく、小芳の肩へ手を掛けて、前髪を推込むばかり、額をつけて顔を隠した。
二人目と目を見合せて、
「極が悪い、お蔦さん。」
「姉さん、私は恥かしい。」
「もう……」
「ああ、」
思わず一所に同音に云った。
「写真なんか撮るまいよ、」――と。
二十三
お妙は時に、小芳の背後で、内証で袂を覗いていたが、細い紙に包んだものを出して気兼ねそうに、
「小母さん、あの、お蔦さんが煩らっていらっしゃる事は、私は知らなかったんですから、お見舞じゃないの、あのね、あの、お土産に、私、極りが悪いわ。何にも有りませんから、毛糸で何か編んで上げようと思ったのよ。
だけれども何が可いか、ちっとも分らないでしょう。粋な芸者衆だから、ハイカラなものは不可いでしょう。靴足袋も、手袋も、銀貨入も、そんなものじゃ仕方が無いから、これをね、私、極りが悪いけれども持って来ました。小母さんから上げて頂戴。」
「お喜びなさいよ、お嬢さんが、」
「まあ、」
と嬉しそうに頂くのを、小芳は見い見い、蒲団へ膝を乗懸けて、
「何を下すったい。」
「開けて見ても可いかね。」
「早く拝見おしなねえ。」
「あら! 見ちゃ可厭よ、酷いわ、小母さんは。」
と背中を推着いて、たった今まで味方に頼んだのを、もう目の敵にして、小突く。
お蔦は病気で気も弱って、
「遠慮しましょうかね、」と柔順しく膝の上へ大事に置く。
「ほんとうに、お蔦さんは羨しいわねえ。」
とさも羨しそうに小芳が云うと、お妙はフト打仰向いて、目を大きくして何か考えるようだったが、もう一つの袂から緋天鵝絨の小さな蝦蟇口を可愛らしく引出して、
「小母さん、これを上げましょう。怒っちゃ可厭よ。沢山あると可いけれど、大な銀貨(五十銭)が三個だけだわ。
先の紙入の時は、お紙幣が……そうねえ……あの、四円ばかりあったのに、この間落してねえ。」
と驚いたような顔をして、
「どうしようかと思ったの。だからちっとばかしだけれど、小母さん怒らないで取っといて下さいな。」
小芳が吃驚したらしい顔を、お蔦は振上げた目で屹と見て、
「ああ、先生のお嬢さん。……とも……かくも……頂戴おしよ、姉さん、」
「お礼を申上げます。」
と作法正しく、手を支いたが、柳の髪の品の佳さ。頭も得上げず、声が曇って、
「どうぞ、此金で、苦界が抜けられますように。」
その時お蔦も、いもと仮名書の包みを開けて、元気よく発奮んだ調子で、
「おお、半襟を……姉さん、江戸紫の。」
「主税さんが好な色よ。」
と喜ばれたのを嬉しげに、はじめて膝を横にずらして、蒲団にお妙が袖をかけた。
「姉さん、」
と、お蔦は俯向いた小芳を起して、膝突合わせて居直ったが、頬を薄蒼う染るまでその半襟を咽喉に当てて、頤深く熟と圧えた、浴衣に映る紫栄えて、血を吐く胸の美しさよ。
「私が死んだら、姉さん、経帷子も何にも要らない、お嬢さんに頂いた、この半襟を掛けさしておくれよ、頼んだよ。」
と云う下から、桔梗を走る露に似て、玉か、はらはらと襟を走る。
「ええ、お前さん、そんな、まあ、拗ねたような事をお言いでない。お嬢さんのお志、私、私なんざ、今頂いた御祝儀を資本にして、銀行を建てるんです。そして借金を返してね、綺麗に芸者を止すんだよ。」
と串戯らしく言いながら、果敢ないお蔦の姿につけ、情にもろく崩折れつつ、お妙を中に面を背けて、紛らす煙草の煙も無かった。
小芳の心中、ともかくも、お蔦の頼み少ない風情は、お妙にも見て取られて、睫毛を幽に振わしつつ、
「お医者には懸っているの。」
「いいえ、私もその意見をしていた処でござんすよ。お医者様にもろくに診て貰わないで、薬も嫌いで飲まないんですもの、貴女からもそう云ってやって下さいましな。」
と、はじめて煙草盆から一服吸って、小芳はお妙の声を聞くのを、楽しそうに待つ顔色。
お取膳
二十四
その時お妙の言というのが、余り案外であったのから、小芳は慌しく銀の小さな吸口を払いて煙管を棄てたのである。
「お医者もお薬も、私だって大嫌いだわ。」
と至って真面目で、
「まずいものを内服せて、そしてお菓子を食べては悪いの、林檎を食べては不可いの、と種々なことを云うんですもの。
そんな事よりねえ、面白いことをしてお遊びなさいよ。」
小芳が(まあ。)と云う体で呆れると、お蔦は寂しそうな笑を見せて、
「お嬢さん、その貴嬢、面白いことが無いんですもの、」と勢のない呼吸をする。
「主税さんに逢えば可いでしょう。」
「え、」
「貴女、逢いたいでしょう。」
二人が黙って瞻っても、お妙は目まじろぎもしないで、
「私だって逢いたくってよ。静岡へ行ってから、全く一年になるんですもの、随分だと思うわ、手紙も寄越さないんですもの。私は、あんまりだと思ってよ。
絵のお清書をする時、硯を洗ってくれて、そしてその晩別れたのは、ちょうど今月じゃありませんか。その時の杜若なんざ、もう私、嬰児が描いたように思うんですよ。随分しばらくなんですもの、私だって逢いたいわ。」
と見る見る瞳にうるみを持ったが、活々した顔は撓まず、声も凜々と冴えた。
「それですから、貴女も逢いたかろうと思ってねえ。実は私相談に来たの。もっと早くから、来よう、来ようと思ったんだけれど、極が悪いしねえ、それに私見たようなものには逢って下さらないでしょうと思って、学校の帰りに幾度も九段まで来て止したの。
それでも、あの、築地から来るお友達に、この辺の事を聞いて置いて、九段から、電車に乗るのは分ったの。だけどもねえ、一度万世橋で降りてしまって、来られなくなった事があるのよ。
そのお友達と一所に来ると、新富座の処まで教えて上げましょうッて云うんだけれど、学校でまた何か言われると悪いから、今日も同一電車に乗らないように、招魂社の中にしばらく居たら、男の書生さんが傍へ来て附着いて歩行くんですもの。私、斬られるかと思って可恐かったわ、ねえ、お臀の肉が薬になると云うんでしょう、ですもの、危いわ。
もう一生懸命にここへ来て、まあ、可かった、と思ってよ。
あのね、あの、」
と蓐の綴糸を引張って、
「貴女も主税さんも、父さんに叱られてそれでこうしているんだって、可哀相だわ。私なら黙っちゃいないわ、我儘を云ってやるわ。だって、自分だって、母様が不可ないと云うお酒を飲んで仕様が無いんですもの。自分も悪いのよ。
貴女叱られたら、おあやまんなさいよ。そしてね、父さんはね、私や母様の云う事は、それは、憎らしくってよ、ちっとも肯かないけれど、人が来て頼むとねえ、何でも(厭だ。)とは言わないで、一々引受けるの。私ちゃんと伝授を知っているから、それを知らせて上げたいの、貴女が御病気で来られないんなら、小母さん、」
と隔てなく、小芳の膝に手を置いて、
「小母さんでも可うござんす。構わないで家へいらっしゃいよ。玄関の書生さんは婦のお客様をじろじろ見るから極が悪かったら遠慮は無いわ、ずんずん庭の方からいらっしゃい。
私がね、直ぐに二階へ連れてって、上げるわ。そうするとねえ、母様がお酒を出すでしょう。私がお酌をして酔わせてよ。アハアハ笑って、ブンと響くような大な声を出したら、そしたらもう可いわ。
是非、主税さんを呼んで下さい。電報で――電報と云って頂戴、可くって。不可いとか何とか、父さんがそう云ったら、膝をつかまえて離さないの。そして、お蔦さんが寂しがって、こんなに煩らっていらっしゃると云って御覧なさい。あんなに可恐らしくっても、あわれな話だと直きに泣くんですもの、きっと承知するわ。
そのかわり、主税さんが帰って来たら、日曜に遊びに行くから、そうしたらば、あの……」
と蓐の端につかまって、お蔦の顔を覗くようにして、
「貴女も、私を可厭がらないで、一所に遊んで頂戴よ。前に飯田町に行きたくっても、貴女が隠れるから、どんなに遠慮だったか知れないわ。」
もう二人とも泣いていたが、お蔦は、はッと面を伏せた。
二十五
涙を払って、お蔦が、
「姉さん、私は浮世に未練が出た。また生命が惜くなったよ。皆さんに心配を懸けないで、今日からお医師にも懸りましょう、薬も服むよ。
お嬢さん、もう早瀬さんには逢えなくっても、貴女がお達者でいらっしゃいます内は、死にたくはなくなりました。」
と身をせめて、わなわな震える。
「寒気がするのねえ、さあ、お寝なさいよ、私が掛けて上げましょう。」
掻巻の襟へ惜気もなく、お妙が袖も手も入れて引くのを見て、
「ああ、勿体ない。そんなになすっては不可ません。皆がそうじゃないって言いますけれど、私は色のついた痰を吐きますから、大切なお身体に、もしか、感染でもするとなりません。」
覚悟した顔の色の、颯と桃色なが心細い。
「可いわ!」
「可いわではござんせん。あれ、そして寒気なんぞしませんよ。もう私は熱くって汗が出るようなんです、それから、姉さん、」
と小芳を見て、
「何ぞ……」
と云うと、黙って頷く。
「来たらね、こんな処でなく、あっちへ行って、お前さん、お嬢さんと。」
「今日は私に任かせておくれ。」
「いいえ、」
「不可ないよ、私がするんだよ。」
「お嬢さん、ああですもの。見舞に来て、ちょっと、病人を苛めるものがあって、」
「無理ばっかり云う人だよ、私に理由があるんだから。」
「理由は私にだって有りますよ。あの、過般もお前さんに話したろう。早瀬さんと分れて、こうなる時、煙草を買え、とおっしゃって、先生の下すった、それはね、折目のつかない十円紙幣が三枚。勿体ないから、死んだらお葬式に使って欲しくって、お仏壇の抽斗へ紙に包んでしまってある、それを今日使いたいのよ。お嬢さんに差上げて、そして私も食べたいから、」
とただ言うのさえ病人だけ、遺言のように果敢なく聞えた。
「ああ、そんならそうおしな。どれ、大急ぎで、いいつけよう。」
「戸外は暑かろうねえ。」
「何の、お蔦さん。お嬢さんに上げるんだもの、無理にも洋傘をさすものか。」
「角の小間物屋で電話をお借りよ。」
「ああ、知ってるよ。あんまりあらくない中くらいな処が好かろうねえ。」
「私はヤケに大串が可いけれど、お嬢さんは、」
「ここで皆一所に食べるんでなくっちゃ、厭。」
「お相伴しますとも、お取膳とやらで、」
と小芳が嬉しそうに云う。
「じゃ、私も大きいの。」
「感心、」
とお蔦が莞爾。
「驚きましたねえ。」
と立つ。
「御飯も一所よ。」
「あいよ、」
と框を下りる時、褄を取りそうにして、振向いた目のふちが腫ぼったく、小芳は胸を抱いて、格子をがらがら。
「お嬢さん、」
とお蔦が懐しそうに、
「もともと、そういう約束で別れたんですけれど、私の方へも丸一年……ちっとも便がないんですよ。
人が教えてくれましてね、新聞を見ると、すっかり土地の様子が知れるッて言いますから、去年の七月から静岡の民友新聞と云うのを取りましてね、朝起きると直ぐ覗いて、もう見落しはしなかろうか、と隙さえあれば、広告まで読みますんですが、ちっとも早瀬さんの事を書いてあったことはありませんから、どうしておいでだか分りません。
この頃じゃ落胆して、勢も張合も無いんですけれども、もしやにひかされては見ています。
たった一度、早瀬さんのことを書いてあったのがござんしてね、切抜いて紙入の中へ入れてありますから、今、お目に掛けますよ。」
二十六
お蔦は蓐に居直って、押入の戸を右に開ける、と上も下も仏壇で、一ツは当家の。自分でお蔦が守をするのは同居だけに下に在る。それも何となくものあわれだけれども、後姿が褄の萎えた、かよわい状は、物語にでもあるような。直ぐにその裳から、仏壇の中へ消えそうに腰が細く、撫肩がしおれて、影が薄い。
紙入の中は、しばらく指の尖で掻探さねばならなかったほど、可哀相に大切に蔵って、小さく、整然と畳んで、浜町の清正公の出世開運のお札と一所にしてあった、その新聞の切抜を出す、とお妙は早や隔心も無く、十年の馴染のように、横ざまに蓐に凭れながら、頸を伸して、待構えて、
「ちょいと、どんなことが書いてあって。また掏賊を助けたりなんか、不可ないことをしたのじゃないの。急いで聞かして頂戴な。」
「いいえ、まあ、貴女がお読みなさいまし。」
「拝見な。」
と寝転ぶようにして、頬杖ついて、畳の上で読むのを見ながら、抜きかけた、仏壇の抽斗を覗くと、そこに仰向けにしてある主税の写真を密と見て、ほろりとしながら、カタリと閉めた。懐中へ、その酒井先生恩賜の紙幣の紙包を取って、仏壇の中に落ちた線香立ての灰を、フッフッと吹いて、手で撫でる。
戸外を金魚売が通った。
「何でしょう。この小使は、また可訝なものじゃないの、」
とお妙が顔を赤うして云う。新聞に書いたのは(AB横町。)と云う標題で、西の草深のはずれ、浅間に寄った、もう郡部になろうとするとある小路を、近頃渾名してAB横町と称える。すでに阿部郡であるのだから語呂が合い過ぎるけれども、これは独語学者早瀬主税氏が、ここに私塾を開いて、朝からその声の絶間のない処から、学生が戯にしか名づけたのが、一般に拡まって、豆腐屋までがAB横町と呼んで、土地の名物である。名物と云えば、も一ツその早瀬塾の若いもので、これが煮焼、拭掃除、万端世話をするのであるが、通例なら学僕と云う処、粋な兄哥で、鼻唄を唱えばと云っても学問をするのでない。以前早瀬氏が東京で或学校に講師だった、そこで知己の小使が、便って来たものだそうだが、俳優の声色が上手で落語も行る。時々(いらっしゃい、)と怒鳴って、下足に札を通して通学生を驚かす、とんだ愛敬もので、小使さん、小使さんと、有名な島山夫人をはじめ、近頃流行のようになって、独逸語をその横町に学ぶ貴婦人連が、大分御贔屓である、と云う雑報の意味であった。
小芳が、おお暑い、と云いつつ、いそいそと帰って来た。
話にその小使の事も交って、何であろうと三人が風説とりどりの中へ、へい、お待遠様、と来たのが竹葉。
小芳が火を起すと、気取気の無いお嬢さん、台所へ土瓶を提げて出る。お蔦も勢に連れて蹌踉起きて出て、自慢の番茶の焙じ加減で、三人睦くお取膳。
お妙が奈良漬にほうとなった、顔がほてると洗ったので、小芳が刷毛を持って、颯とお化粧を直すと、お蔦がぐい、と櫛を拭いて一歯入れる。
苦労人が二人がかりで、妙子は品のいい処へ粋になって、またあるまじき美麗さを、飽かず視めて、小芳が幾度も恍惚気抜けのするようなのを、ああ、先生に瓜二つ、御尤もな次第だけれども、余り手放しで口惜いから、あとでいじめてやろう、とお蔦が思い設けたが、……ああ、さりとては……
いずれ両親には内証なんだから、と(おいしかってよ。)を見得もなく門口でまで云って、遅くならない内、お妙は八ツ下りに帰った。路地の角まで見送って、ややあって引返した小芳が、ばたばたと駈込んで、半狂乱に、ひしと、お蔦に縋りついて、
「我慢が出来ない。我慢が出来ない。我慢が出来ない。あんな可愛いお嬢さんにお育てなすったお手柄は、真砂町の夫人だけれど、産……産んだのは私だよ。私の子だよ、お蔦さん、身体へ袖が触る度に、胸がうずいてならなんだ、御覧よ、乳のはったこと。」
と、手を引入れて引緊めて、わっとばかりに声を立てると、思わず熟と抱き合って、
「あれ、しっかりおし、小芳さん、癪が起ると不可いよ。私たちは何の因果で、」
芸者なんぞになったとて、色も諸分も知抜いた、いずれ名取の婦ども、処女のように泣いたのである。
小待合
二十七
「こうこう、姉え、姉え、目を開いて口を利きねえ。もっとも、かっと開いたところで、富士も筑波も見えるかどうだか、覚束ねえ目だけれどよ。はははは、いくら江戸前の肴屋だって、玄関から怒鳴り込む奴があるかい。お客だぜ。お客様だぜ。おい、お前の方で惣菜は要らなくっても、己が方で座敷が要るんだ。何を! 座敷が無え、古風な事を言うな、芸者の霜枯じゃあるめえし。」
と盤台をどさりと横づけに、澄まして天秤を立てかける。微酔のめ組の惣助。商売の帰途にまたぐれた――これだから女房が、内には鉄瓶さえ置かないのである。
立迎えた小待合の女中は、坐りもやらず中腰でうろうろして、
「全くおあいにくなんですよ。」
と入口を塞いだ前へ、平気で、ずんと腰を下ろして、
「見ねえ、身もんでえをする度に、どんぶりが鳴らあ。腹の虫が泣くんじゃねえ、金子の音だ。びくびくするねえ。お望みとありゃ、千両束で足の埃を払いて通るぜ。」
とあげ膝で、ボコポン靴をずぶりと脱いで、装塩のこなたへボカン。
声が高いのでもう一人、奥からばたばたと女中が出て来て、推重なると、力を得たらしく以前の女中が、
「ほんとうにお前さん、お座敷が無いのですよ。」
「看板を下ろせ、」
と喚いて、
「座敷がなくば押入へ案内しねえ、天井だって用は足りらい。やあ、御新規お一人様あ、」
と尻上りに云って、外道面の口を尖らす、相好塩吹の面のごとし。
「そっちの姉は話せそうだな。うんや、やっぱりお座敷ござなく面だ。変な面だな。はははは、トおっしゃる方が、あんまり変でもねえ面でもねえ。」
行詰った鼻の下へ、握拳を捻込むように引擦って、
「憚んながらこう見えても、余所行きの情婦があるぜ。待合へ来て見繕いで拵えるような、べらぼうな長生をするもんかい。
おう、八丁堀のめの字が来たが、の、の、承知か、承知か、と電話を掛けねえ。柳橋の小芳さん許だ。柏屋の綱次と云う美しいのが、忽然として顕れらあ。
どうだ、驚いたか。銀行の頭取が肴屋に化けて来たのよ。いよ、御趣向!」
と変な手つき、にゅうと女中の鼻頭へ突出して、
「それとも半纏着は看板に障るから上げねえ、とでも吐かして見ろ。河岸から鯨を背負って来て、汝ン許で泳がせるぞ、浜町界隈洪水だ。地震より恐怖え、屋体骨は浮上るぜ。」
女中二人が目配せして、
「ともかくお上んなさいまし、」
「どうにか致しますから。」
「何だ、どうにかする。格子で馴染を引くような、気障な事を言やあがる。だが心底は見届けたよ。いや、御案内引[#「引」は小書き]。」
と黄声を発して、どさり、と廊下の壁に打附りながら、
「どこだ、どこだ、さあ、持って来い、座敷を。」
で、突立って大手を拡げる。
「どうぞこちらへ、」
と廊下で別れて、一人が折曲って二階へ上る後から、どしどし乱入。とある六畳へのめずり込むと、蒲団も待たず、半股引の薄汚れたので大胡坐。
「御酒をあがりますか。」
「何升お燗をしますか、と聞きねえ。仕入れてあるんじゃ追つく[#「追つく」は底本では「追っく」]めえ。」
女中が苦笑いして立とうとすると、長々と手を伸ばして、据眼で首を振って、チョ、舌鼓を打って、
「待ちな待ちな。大夫前芸と仕って、一ツ滝の水を走らせる、」
とふいと立って、
「鷲尾の三郎案内致せ。鵯越の逆落しと遣れ。裏階子から便所だ、便所だ。」
どっかの夜講で聞いたそうな。
二十八
手水鉢の処へめ組はのっそり。里心のついた振られ客のような腰附で、中庭越に下座敷をきょろきょろと[#「きょろきょろと」は底本では「きよろきょろと」]したが、どこへ何んと見当附けたか、案内も待たず、元の二階へも戻らないで、とある一室へのっそりと入って、襖際へ、どさりとまた胡坐になる。
女中が慌しく駈込んで、
「まあ、どこへいらっしゃるんですか。」
と、たしなめるように云うと、
「ここにいらっしゃら。ははは、心配するな。」
「困りますよ。隣のお座敷には、お客様が有るじゃありませんか。」
「構わねえ、一向構わねえ。」
「こちらがお構いなさいませんでも、あちら様で。」
「可いじゃねえか、お互だ。こんな処へ来て何も、向う様だって遠慮はねえ。大家様の隠居殿の葬礼に立つとってよ、町内が質屋で打附ったようなものだ。一ツ穴の狐だい。己あまた、猫のさかるような高い処は厭だからよ。勘当された息子じゃねえが、二階で寝ると魘されらあ。身分相当割床と遣るんだ。棟割に住んでるから、壁隣の賑かなのが頼もしいや。」
「不可ませんよ、そんなことをお言いなすっちゃ、選好んでこのお座敷へいらっしゃらないだって、幾らでも空いてるじゃありませんか。」
「空いてる! こう、たった今座敷はねえ、おあいにくだと云ったじゃねえか。気障は言わねえ、気障な事は云わねえから、黙って早く燗けて来ねえよ。」
いいがかりに止むを得ず、厭な顔して、
「じゃ、御酒を上るだけになすって下さいよ、お肴は?」
「肴は己が盤台にあら。竹の皮に包んでな、斑鮭の鎌ン処があるから、そいつを焼いて持って来ねえ。蔦ちゃんが好だったんだが、この節じゃ何にも食わねえや、折角残して帰っても今日も食うめえ。」
と独言になって、ぐったりして、
「媽々に遣るんじゃ張合が無え。焼いて来ねえ、焼いて来ねえ。」
女中は、気違かと危んで、怪訝な顔をしたが、試みに、
「そして綱次さんを掛けるんですか。」
「うんや、今度はこっちがおあいにくだ。ちっとも馴染でも情婦でもねえ。口説きように因っちゃ出来ねえ事もあるめえと思うのよ。もっとも惚れてるにゃ惚れてるんだ。待ちねえ、隣の室で口説いてら、しかも二人がかりだ。」
「ちょっと、」
と留めて姉さんは興さめ顔。
「こっちは一人だ、今に来たら、お前も手伝って口説いてくんねえ。何だ、何だ、(と聞く耳立てて)純潔な愛だ。けつのあいたあ何だい。」
と、襖にどしんと顔を当てて、
「蟻の戸渡でいやあがらあ、べらぼうめ。」
「やかましい!」
隣の室から堪りかねたか叱咤した。
「地声だ!」
「あれ、」
と女中が留めようとする手も届かず、ばたりめ組が襖を開けると、いつの間に用意をしたか、取って捨てた手拭の中から腹掛を出た出刃庖丁。
「この毛唐人めら、汝、どうするか見やあがれ。」
あッと云って、真前に縁へ遁げた洋服は――河野英吉。続いて駈出そうとする照陽女学校の教頭、宮畑閑耕の胸づくし、釦が引ちぎれて辷った手で、背後から抱込んだ。
「そ、そこに泣いていらっしゃるなア大先生の嬢様でがしょう。飯田町の路地で拝んで、一度だが忘れねえ。此奴等がこの地獄宿へ引張込んだのを見懸けたから、ちびりちびり遣りながら、痴の色ばなしを冷かしといて、ゆっくり撲ろうと思ったが、勿体なくッて我慢ならねえ。酒井さんのお嬢さん、私がこうやっている処を、ここへ来て、こン唐人打挫いておやんなせえ、お打ちなせえ、お打ちなせえ。
どうしてまたこんな処へ。……何、八丁堀へおいでなすって。ええ、お帰んなさる電車で逢ったら、一人で遠歩きが怪しいから、教師の役目で検べるッて、……沙汰の限りだ。
むむ、此奴等、活かして置くんじゃねえけれど、娑婆の違った獣だ、盆に来て礼を云え。」
と突飛ばすと、閑耕の匐った身体が、縁側で、はあはあ夢中になって体操のような手つきでいた英吉に倒れかかって、脚が搦んで漾う処へ、チャブ台の鉢を取って、ばらり天窓から豆を浴びせた。惣助呵々と笑って、大音に、
「鬼は外、鬼は外――」
道子
二十九
夫の所好で白粉は濃いが、色は淡い。淡しとて、容色の劣る意味ではない。秋の花は春のと違って、艶を競い、美を誇る心が無いから、日向より蔭に、昼より夜、日よりも月に風情があって、あわれが深く、趣が浅いのである。
河野病院長医学士の内室、河野家の総領娘、道子の俤はそれであった。
どの姉妹も活々して、派手に花やかで、日の光に輝いている中に、独り慎ましやかで、しとやかで、露を待ち、月にあこがるる、芙蓉は丈のびても物寂しく、さした紅も、偏えに身躾らしく、装った衣も、鈴虫の宿らしい。
いつも引籠勝で、色も香も夫ばかりが慰むのであったが、今日は寺町の若竹座で、某孤児院に寄附の演劇があって、それに附属して、市の貴婦人連が、張出しの天幕を臨時の運動場にしつらえて、慈善市を開く。謂うまでもなく草深の妹は先陣承りの飛将軍。そこでこの会のほとんど参謀長とも謂つべき本宅の大切な母親が、あいにく病気で、さしたる事ではないが、推してそういう場所へ出て、気配り心扱いをするのは、甚だ予後のために宜しからず、と医家だけに深く注意した処から、自分で進んだ次第ではなく、道子が出席することになった。――六月下旬の事なりけり。
朝涼の内に支度が出来て、そよそよと風が渡る、袖がひたひたと腕に靡いて、引緊った白の衣紋着。車を彩る青葉の緑、鼈甲の中指に影が透く艶やかな円髷で、誰にも似ない瓜核顔、気高く颯と乗出した処は、きりりとして、しかも優しく、媚かず温柔して、河野一族第一の品。
嗜も気風もこれであるから、院長の夫人よりも、大店向の御新姐らしい。はたそれ途中一土手田畝道へかかって、青田越に富士の山に対した景色は、慈善市へ出掛ける貴女とよりは、浅間の社へ御代参の御守殿という風があった。
車は病院所在地の横田の方から、この田畝を越して、城の裏通りを走ったが、突かけ若竹座へは行くのでなく、やがて西草深へ挽込んで、楫棒は島山の門の、例の石橋の際に着く。
姉夫人は、余り馴れない会場へ一人で行くのが頼りないので、菅子を誘いに来たのであったが、静かな内へ通って見ると、妹は影も見えず、小児達も、乳母も書生も居ないで、長火鉢の前に主人の理学士がただ一人、下宿屋に居て寝坊をした時のように詰らなそうな顔をして、膳に向って新聞を読んでいた。火鉢に味噌汁の鍋が掛って、まだそれが煮立たぬから、こうして待っているのである。
気軽なら一番威かしても見よう処、姉夫人は少し腰を屈めて、縁から差覗いた、眉の柔な笑顔を、綺麗に、小さく畳んだ手巾で半ば隠しながら、
「お一人。」
「やあ、誰かと思った。」
と髯のべったりした口許に笑は見せたが、御承知の為人で、どうとも謂わぬ。
姉夫人は、やっぱり半分隠れたまま、
「滝ちゃんや、透さんは。」
「母様が出掛けるんで、跡を追うですから、乳母が連れて、日曜だから山田(玄関の書生の名)もついて遊びです。平時だと御宅へ上るんだけれど、今日の慈善会には、御都合で貴女も出掛けると云うから、珍らしくはないが、また浅間へ行って、豆か麩を食わしとるですかな。」
「ではもう菅子さんは参りましたね。」
「先刻出たです。」
なぜ待っててくれないのだろう、と云う顔色もしないで、
「ああ、もっと早く来れば可うござんした。一所に行って欲しかったし、それに四五日お来えなさらないから、滝ちゃんや透さんの顔も見たくって、」
と優しく云って本意なそう。一門の中に、この人ばかり、一人も小児を持たぬ。
三十
姉夫人の、その本意無げな様子を見て、理学士は、ああ、気の毒だと思うと、この人物だけにいっそ口重になって、言訳もしなければ慰めもせずに、希代にニヤリとして黙ってしまう。
と直ぐ出掛けようか、どうしようと、気抜のした姿うら寂しく、姉夫人も言なく、手を掛けていた柱を背に向直って、黒塀越に、雲切れがしたように合歓の散った、日曜の朝の青田を見遣った時、ぶつぶつ騒しい鍋の音。
と見ると、むらむらと湯気が立って、理学士が蓋を取った、がよっぽど腹が空いたと見えて、
「失礼します。」と碗を手にする。
「お待ちなさいまし、煮詰りはしませんか。」
と肉色の絽の長襦袢で、絽縮緬の褄摺る音ない、するすると長火鉢の前へ行って、科よく覗いて見て、
「まあ、辛うござんすよ、これじゃ、」
と銅壺の湯を注して、杓文字で一つ軽く圧えて、
「お装け申しましょう、」と艶麗に云う。
「恐縮ですな。」
と碗を出して、理学士は、道子が、毛一筋も乱れない円髷の艶も溢さず、白粉の濃い襟を据えて、端然とした白襟、薄お納戸のその紗綾形小紋の紋着で、味噌汁を装う白々とした手を、感に堪えて見ていたが、
「玉手を労しますな、」
と一代の世辞を云って、嬉しそうに笑って、
「御馳走(とチュウと吸って)これは旨い。」
「人様のもので義理をして。ほほほ、お土産も持って参りません。」
その挨拶もせずに、理学士は箸もつけないで、ごッくごッく。
「非常においしいです。僕は味噌汁と云うものは、塩が辛くなきゃ湯を飲むような味の無いものだとばかり思うたです。今、貴女、干杓に二杯入れたですね。あれは汁を旨く喰わせる禁厭ですかね。」
「はい、お禁厭でございます。」
と云った目のふちに、蕾のような微笑を含んでいたから。
「は、は、は、串戯でしょう。」
「菅子さんに聞いて御覧なさいまし。」
「そう云えば貴女、もうお出掛けなさらなければなりますまいで。」
「は、私はちっとも急ぎませんけれど、今日は名代も兼ねておりますから、疾く参ってお手伝いをいたしませんと、また菅子さんに叱言を言われると不可ません――もうそれでは、若竹座へ参っております時分でしょうね。」
「うんえ、」
頬ばった飯に籠って、変な声。
「道寄をしたですよ。貴女これからおいでなさるなら、早瀬の許へお出でなさい、あすこに居ましょうで。」
「しますと、あの方も御一所なんですか。」
「一所じゃないです。早瀬がああいう依怙地もんですで。半分馬鹿にしていて、孤児院の義捐なんざ賛成せんです。今日は会へも出んと云うそうで。それを是非説破して引張出すんだと云いましたから、今頃は盛に長紅舌を弄しておるでしょう、は、はは、」
と調子高に笑って、厭な顔をして、
「行って見て下さらんか。貴女、」
「はい、」
となぜか俯向いたが、姉夫人はそのまましとやかに別れの会釈。
「また逢違いになりませんように、それでは御飯を召食りかけた処を、失礼ですが、」
「いや、もう済んだです。」
その日は珍らしく理学士が玄関まで送って出た。
絹足袋の、静な畳ざわりには、客の来たのを心着かなかった鞠子の婢も、旦那様の踏みしだいて出る跫音に、ひょっこり台所から顔を見せる。
「今日は、」
と少し打傾いて、姉夫人が、物優しく声をかける。
「ひゃあ、」と打魂消て棒立ちになったは、出入りをする、貴婦人の、自分にこんな様子をしてくれるのは、ついぞ有った験が無いので。
車夫が門外から飛込んで来て駒下駄を直す。
「AB横町でしたかね。あすこへ廻りますから、」
「へい、へい、ペロペロの先生の。」と心得たるものである。
三十一
早瀬は、妹が連れて父の住居へも来れば病院へも二三度来て知っているが、新聞にまで書いた、塾の(小使)と云う壮佼はどんなであろう。男世帯だと云うし、他に人は居ないそうであるから、取次にはきっとその(小使)が出るに違いない、と籠勝な道子は面白いものを見もし聞もしするような、物珍らしい、楽しみな、時めくような心持もして、早や大巌山が幌に近い、西草深のはずれの町、前途は直ぐに阿部の安東村になる――近来評判のAB横町へ入ると、前庭に古びた黒塀を廻らした、平屋の行詰った、それでも一軒立ちの門構、低く傾いたのに、独語教授、と看板だけ新しい。
車を待たせて、立附けの悪い門をあければ、女の足でも五歩は無い、直き正面の格子戸から物静かに音ずれたが、あの調子なれば、話声は早や聞えそうなもの、と思う妹の声も響かず、可訝な顔をして出て来ようと思ったその(小使)でもなしに、車夫のいわゆるぺろぺろの先生、早瀬主税、左の袖口の綻びた広袖のような絣の単衣でひょいと出て、顔を見ると、これは、とばかり笑み迎えて、さあ、こちらへ、と云うのが、座敷へ引返す途中になるまで、気疾に引込んでしまったので、左右の暇も無く、姉夫人は鶴が山路に蹈迷ったような形で、机だの、卓子だの、算を乱した中を拾って通った。
菅子さんは、と先ず問うと、まだ見えぬ。が、いずれお立寄りに相違ない。今にも威勢の可い駒下駄の音が聞えましょう。格子がからりと鳴ると、立処にこの部屋へお姿が露れますからお休みなさりながらお待ちなさい、と机の傍に坐り込んで、煙草を喫もうとして、打棄って、フイと立って蒲団を持出すやら、開放しましょう、と障子を押開いたかと思うと、こっちの庭がもうちっとあると宜しいのですが、と云うやら。散らかっておりまして、と床の間の新聞を投り出すやら。火鉢を押出して突附けるかとすれば、何だ、熱いのに、と急いでまた摺すやら。なぜか見苦しいほど慌しげで、蜘蛛の囲をかけるように煩く夫人の居まわりを立ちつ居つ。間には口を続けて、よくいらっしゃいました、ようこそおいで、思いがけない、不思議な御方が、不思議だ、不思議だ、と絶ず饒舌ったのである。
「まあ、まあ、どうぞ、どうぞ、」
とその中に落着いた夫人もつい、口早になって、顔を振上げながら、ちと胸を反らして、片手で煙を払うような振をした。
早瀬はその時、机の前の我が座を離れて、夫人の背後に突立っていたので、上下に顔を見合わせた。余り騒がれたためか、内気な夫人の顔は、瞼に色を染めたのである。
と、早瀬は人間が変ったほど、落着いて座に返って、徐に巻莨を取って、まだ吸いつけないで、ぴたりと片手を膝に支いた、肩が聳えた。
「夫人、貴女はこれから慈善市へいらしって、貧者のためにお働きなさるんですねえ。」
と沈んで云う。
顔を見詰められたので、睫毛を伏せて、
「はい、ですが私はただお手伝いでございます。」
「お願いがございます。」
と匐るがごとく、主税がはたと両手を支いた。
余り意外な事の体に、答うる術なく、黙って流眄に見ていたが、果しなく頭も擡げず、突いた手に畳を掴んだ憂慮しさに、棄ても置かれぬ気になって、
「貴下、まあ、更まって何でございますの。」
とは云ったが、思入った人の体に、気味悪くもなって、遁腰の膝を浮かせる。
「失礼な事を云うようですが、今日の催はじめ、貴女方のなさいます慈善は、博くまんべんなく情をお懸けになりますので、旱に雨を降らせると同様の手段。萎えしぼんだ草樹も、その恵に依って、蘇生るのでありますが、しかしそれは、広大無辺な自然の力でなくっては出来ない事で、人間業じゃ、なかなか焼石へ如露で振懸けるぐらいに過ぎますまい。」
三十二
「広く行渉るばかりを望んで、途中で群消えになるような情を掛けずに、その恵の露を湛えて、ただ一つのものの根に灌いで、名もない草の一葉だけも、蒼々と活かして頂きたい。
大勢寄ってなさる仕事を、貴女方、各々御一人宛で、専門に、完全に、一人を救って下さるわけには参りませんか。力が余れば二人です、三人です、五人ですな。余所の子供の世話を焼く隙に、自分の児に風邪を感かせないように、外国の奴隷に同情をする心で、御自分お使いになる女中を勦ってやって欲しいんですが、これじゃ大掴みのお話です、何もそれをかれこれ申上げるわけではないのです。
ところが、差当り、今目の前に、貴女の一雫の涙を頂かないと、死んでも死に切れない、あわれな者があるんです。
この事に就きましては、私は夜の目も合わないほど心を苦めまして。」
とようよう少し落着いて、
「前から、貴女の御憐愍を願おうと思っていたんですけれど、島山さんのと違って、貴女には軽々しくお目に懸る事も出来ませんし、そうかと云って、打棄って置けば、取返しのなりません一大事、どうしようかと存じておりました処へ、実に何とも思いがけない、不思議な御光来で、殊にそれが慈善会にいらっしゃる途中などは、神仏の引合わせと申しても宜しいのです。
どうぞ、その、遍く御施しになろうという如露の水を一雫、一滴で可うございます、私の方へお配分なすってくださるわけには参りませんか。
御存じの風来者でありますけれども、早瀬が一生の恩に被ます。」
と拳を握り緊めて云うのを、半ば驚き、半ば呆れ、且つ恐れて聞いていたようだった。重かった夫人の眉が、ここに至ると微笑に開けて、深切に、しかし躾めるような優しい調子で、
「お金子が御入用なんでございますか。」
と胸へ、しなやかに手を当てたは、次第に依っては、直にも帯の間へ辷って、懐紙の間から華奢な(嚢物)の動作である。道子はしばしば妹の口から風説されて、その暮向を知っていた。
ト早瀬の声に力が入って、
「金子にも何にも、私が、自分の事ではありません。」
「まあ、失礼な事を云って、」
と襟を合わせて面を染め、
「どうしましょう私は。では貴下の事ではございませんので。」
「ええ、勿論、救って頂きたい者は他にあるんです。」
「どうぞ、あの、それは島山のに御相談下さいまし。私もまた出来ますことなら、蔭で――お手伝いいたしましょうけれど、河野(医学士)が、喧しゅうございますから。」
……差俯向いて物寂しゅう、
「私が自分では、どうも計らい兼ねますの。それには不調法でもございますし……何も、妹の方が馴れておりますから。」
「いや、貴女でなくては不可んのです。ですから途方に暮れます。その者は、それにもう死にかかった病人で、翌日も待たないという容体なんです。
六十近い老人で、孫子はもとより、親類らしい者もない、全然やもめで、実際形影相弔うというその影も、破蒲団の中へ消えて、骨と皮ばかりの、その皮も貴女、褥摺れに摺切れているじゃありませんか。
日の光も見えない目を開いて、それでただ一目、ただ一目、貴女、夫人の顔が見たいと云います。」
「ええ、」
「御介抱にも及びません、手を取って頂くにも及びません、言をお交わし下さるにも及びません、申すまでもない、金銭の御心配は決して無いので。真暗な地獄の底から一目貴女を拝むのを、仏とも、天人とも、山の端の月の光とも思って、一生の思出に、莞爾したいと云うのですから、お聞届け下さると、実に貴女は人間以上の大善根をなさいます。夫人、大慈大悲の御心持で、この願いをお叶え下さるわけには参りませんか、十分間とは申しません。」
と、じりじりと寄ると、姉夫人、思わず膝を進めつつ、
「どこの、どんな人でございますの。」
「直きこの安東村に居るんです。貞造と申して、以前御宅の馬丁をしたもので、……夫人、貴女の、実の……御父上……」
三十三
「その……手紙を御覧なさいましたら、もうお疑はありますまい。それは貴女の御父上、英臣さんが、御出征中、貴女の母様が御宅の馬丁貞造と……」
早瀬はちょっと言を切って……夫人がその時、わななきつつ持つ手を落して、膝の上に飜然と一葉、半紙に書いた女文字。その玉章の中には、恐ろしい毒薬が塗籠んででもあったように、真蒼になって、白襟にあわれ口紅の色も薄れて、頤深く差入れた、俤を屹と視て、
「……などと云う言だけも、貴女方のお耳へ入れられる筈のものじゃありません、けれども、差迫った場合ですから、繕って申上げる暇もありません。
で、そのために貴女がおできなすったんで、まだお腹にいらっしゃる間には、貴女の母様が水にもしようか、という考えから、土地に居ては、何かにつけて人目があると、以前、母様をお育て申した乳母が美濃安八の者で、――唯今島山さんの玄関に居る書生は孫だそうです。そこへ始末をしに行ってお在なすった間に、貞造へお遣わしなすったお手紙なんです。
馬丁はしていたが、貞造はしかるべき禄を食んだ旧藩の御馬廻の忰で、若気の至りじゃあるし、附合うものが附合うものですから、御主人の奥様と出来たのを、嬉しい紛れ、鼻で指をさして、つい酒の上じゃ惚気を云った事もあるそうですが、根が悪人ではないのですから、児をなくすという恐い相談に震い上って、その位なら、御身分をお棄てなすって、一所に遁げておくんなさい。お肯入れ無く、思切った業をなさりゃ、表向きに坐込む、と変った言種をしたために、奥さんも思案に余って、気を揉んでいなすった処へ、思いの外用事が早く片附いて、英臣さんが凱旋でしょう。腹帯にはちっと間が在ったもんだから、それなりに日が経って、貴女は九月児でお在なさる。
が、世間じゃ、ああ、よくお育ちなすった、河野さんは、お家が医者だから。……そうでないと、大抵九月児は育たんものだと申します。また旧弊な連中は、戦争で人が多く死んだから、生れるのが早い、と云ったそうです。
名誉に、とお思いなすったか、それとも最初の御出産で、お喜びの余りか、英臣さんは現に貴女の御父上だ。
貞造は、無事に健かに産れた児の顔を一目見ると、安心をして、貴女の七夜の御祝いに酔ったのがお残懐で、お暇を頂いて、お邸を出たんです。
朝晩お顔を見ていちゃ、またどんな不了簡が起るまいものでもない、という遠慮と、それに肺病の出る身体、若い内から僂麻質があったそうで。旁々お邸を出るとなると、力業は出来ず、そうかと云って、その時分はまだ達者だった、阿母を一人養わなければならないもんですから、奥さんが手切なり心着なり下すった幾干かの金子を資本にして、初めは浅間の額堂裏へ、大弓場を出したそうです。
幸い商売が的に当って、どうにか食って行かれる見込みのついた処で、女房を持ったんですがね。いや、罰は覿面だ。境内へ多時かかっていた、見世物師と密通いて、有金を攫って遁げたんです。しかも貴女、女房が孕んでいたと云うじゃありませんか。」
「まあ、」
と、夫人は我知らず嘆息した。
「忌々しい、とそこで大弓の株を売って、今度は安東村の空地を安く借りて、馬場を拵えて、貸馬を行ったんですな。
貴女、それこそ乳母日傘で、お浅間へ参詣にいらしった帰り途、円い竹の埒に掴って、御覧なすった事もありましょう。道々お摘みなすった鼓草なんぞ、馬に投げてやったりなさいましたのを、貞造が知っています。
阿母が死んだあとで、段々馬場も寂れて、一斉に二頭斃死た馬を売って、自暴酒を飲んだのが、もう飲仕舞で。米も買えなくなる、粥も薄くなる。やっと馬小屋へ根太を打附けたので雨露を凌いで、今もそこに居るんですが、馬場のあとは紺屋の物干になったんです。……」
三十四
「私は不思議な縁で、去年静岡へ参って……しかもその翌日でした。島山さんのと、浅間を通った時、茶店へ休んで、その貞造に逢ったんです。それからこういう秘密な事を打明けられるまで、懇意になって、唯今の処じゃ、是非貴女のお耳へ入れなくってはなりませんほど、老人危篤なのでございます。
私でさえ、これは一番貴女に願って、逢ってやって頂きたいと思いましたから、今迄幾度か病人に勧めても見ましたけれども、いやいや、何にも御存じない貴女に、こういう事をお聞かせ申すのは、足を取って地獄へ引落すようなもの。あとじゃ月も日も、貴女のお目には暗くなろう。お最惜い、と貞造が頭を掉ります。
道理だと控えました。もっとも私も及ばずながら医師の世話もしたんです、薬も飲ませました。名高い医学士でお在なさるから一ツ河野さんの病院へ入院してはどうか、余所ながらお道さんのお顔を見られようから、と云いましたが、もっての外だ、と肯きません。
清い者です。
人の悪い奴で御覧なさい、対手が貴女の母様で、そのお手紙が一通ありゃ、貞造は一生涯朝から刺身で飲めるんですぜ。
またちっとでも強情りがましい了見があったり、一銭たりとも御心配を掛るような考があるんなら、私は誓って口は利かんのです。
そうじゃない! ただ一目拝みたいと云う、それさえ我慢をし抜いた、それもです……老人自分じゃ、まだ治らないとは思っていなかったからなので。煎じて飲むのがまだるッこし、薬鍋の世話をするものも無いから、薬だと云う芭蕉の葉を、青いまんまで噛ったと言います――
その元気だから、どうかこうか薬が利いて、一度なんざ、私と一所に安倍川へ行って餅を食べて茶を喫んで帰った事もあったんですが、それがいいめを見せたんで、先頃からまたどッと褥に着いて、今は断念めた処から、貴女を見たい、一目逢いたいと、現に言うようになったんです。
容態が容態ですから、どうぞ息のある内にと心配をしていたんですが、人に相談の出来る事じゃなし、御宅へ参ってお話をしようにも、こりゃ貴女と対向いでなくっては出来ますまい。
失礼だけれども、御主人の医学士は、非常に貴女を愛していらっしゃるために、恐ろしく嫉妬深い、と島山さんのに、聞きました。
ほとんど当惑していた処へ、今日のおいでは実に不思議と云っても可い。一言(父よ。)とおっしゃって、とそれまでも望むんじゃないのです。弥陀の白光とも思って、貴女を一目と、云うのですから、逢ってさえ下されば、それこそ、あの、屋中真黒に下った煤も、藤の花に咲かわって、その紫の雲の中に、貴女のお顔を見る嬉しさはどんなでしょう。
そうなれば、不幸極まる、あわれな、情ない老人が、かえって百万人の中に一人も得られない幸福なものとなって、明かに端麗な天人を見ることを得て、極楽往生を遂げるんです、――夫人。」
と云った主税の声が、夫人の肩から総身へ浸渡るようであった。
「貞造は、貴女の実の父親で、またある意味から申すと、貴女の生命の恩人ですよ。」
「は……い。」
「会は混雑しましょう。若竹座は大変な人でしょう。それに夜も更けると申しますから、人目を紛らすのに仔細ありません。得難い機会です。私がお供をして、ちょっと見舞に参るわけにはまいりませんか。」
と片手に燐寸を持ったと思うと、片手が衝と伸びて猶予らわず夫人の膝から、古手紙を、ト引取って、
「一度お話した上は、たとい貴女が御不承知でも、もうこんなものは、」
と※[#「火+發」、316-3]と火を摺ると、ひらひらと燃え上って、蒼くなって消えた。が、靡きかかる煙の中に、夫人の顔がちらちらと動いて、何となく、誘われて膝も揺ら揺ら。
居坐を直して、更まって、
「お連れ下さいまし、どうぞ。」
がらがらと格子の開く音。それ、言わぬことか。早や座に見えた菅子の姿。眩いばかりの装いで、坐りもやらず、
「まあ、姉さん!」
私語
三十五
「もう遅いわ、姉さん、早くいらっしゃらないでは、何をしているの、」
と菅子は立ったままで急込んで云う。戸外の暑さか、駈込んだせいか、赫と逆上せた顔の色。
胸打騒げる姉夫人、道子がかえって物静かに、
「先刻から待っていたんですよ。」
「待っていたって、私は方々に用があるんだもの、さっさと行って下さらないじゃ、」
「何ですねえ、邪険な、和女を待っていたんですよ。来がけに草深へも寄ったのよ。一所に連れて行って欲しいと思って。――さあ、それでは行きましょうね。」
「私は用があるわ。」
「寄道をするんですか。」
「じゃ……ないけども、これから、この早瀬さんと一議論して、何でも慈善会へ引張り出すんですから手間が取れてよ。」
とまだ坐りもせぬ。
主税は腕組をしながら、
「はははは、まあ、貴女も、お聞きなさい、お菅さんの議論と云うのを。いくら僕を説いたって、何にもなりゃしないんですから。」
「承わって参りましょうか。」
と姉夫人が立ちかけた膝をまた据えて、何となく残惜そうな風が見えると、
「早くいらっしゃらなくっちゃ……私は可いけれども、姉さん、貴女は兄さん(医学士)がやかましいんだもの、面倒よ。」
と見下す顔を、斜めに振仰いだ、蒼白い姉の顔に、血が上って、屹となったが、寂しく笑って、
「ああ、そうね、私は前に参りましょう。会場の様子は分らないけれど、別にまごつくような事はありますまいから。」
とおとなしく云って、端然と会釈して、
「お邪魔をいたしましてございます。」とちょいと早瀬の目を見たが――双方で瞬きした。
「まあ、御一所が宜しいじゃありませんか。お菅さんもそうなさい。」
「いいえ、そうしてはおられません、もっと、」
と声に力が籠って、
「種々お話を伺いとう存じますけれども……」
「私も、直だわ。」
「待っていますよ。」
と優しい物越、悄々と出る後姿。主税は玄関へ見送って、身を蔽にして、密とその袂の端を圧えた。
「さようなら!」
勢よく引返すと、早や門の外を轣轆として車が行く。
「暑い、暑い、どうも大変に暑いのね。」
菅子はもうそこに、袖を軽く坐っていたが、露の汗の悩ましげに、朱鷺色縮緬の上〆の端を寛めた、辺は昼顔の盛りのようで、明い部屋に白々地な、衣ばかりが冷しい蔭。
「久振だわね。」
「久振じゃないじゃありませんか。今の言種は何です、ありゃ。……姉さんにお気の毒で、傍で聞いていられやしない。」
「だって事実だもの。病院に入切で居ながら、いつの何時には、姉さんが誰と話をしたッて事、不残旦那様御存じなの、もう思召ったらないんですからね。
それでも大事にして置かないと、院長は家中の稼ぎ人で、すっかり経済を引受けてるんだわ。お庇様で一番末の妹の九ツになるのさえ、早や、ちゃんと嫁入支度が出来てるのよ。
道楽一ツするんじゃなし、ただ、姉さんを楽みにして働いているんですからね。ちっとでも怒らしちゃ大変なのだから、貴下も気をつけて下さらなくっちゃ困るわ。」
「何を云ってるんです、面白くもない。」
「今の様子ッたら何です、厭に御懇ね。そして肩を持つことね。油断もすきもなりはしない。」
「可い加減になさい。串戯も、」
「だって姉さんが、どんな事があればッたって、男と対向いで五分間と居る人じゃないのよ。貴下は口前が巧くって、調子が可いから、だから坐り込んでいるんじゃありませんか。ほんとうに厭よ。貴下浮気なんぞしちゃ、もう、沢山だわ。」
「まるでこりゃ、人情本の口絵のようだ。何です、対向った、この体裁は。」
三十六
しめやかな声で、夫人が――
「貴下……どうするのよ。」
「…………」
「私がこれほど願っても、まだ妙子さんを兄さん(英吉)には許してくれないの。今までにもどんなに頼んだか知れないのに、それじゃ貴下、あんまりじゃありませんか。
去年から口説通しなんだわ。貴下がはじめて、静岡へ来て、私と知己になったというのを聞いて、(精一杯御待遇をなさい。)ッて東京から母さんが手紙でそう云って寄越したのも、酒井さんとの縁談を、貴下に調えて頂きたければこそだもの。
母さんだって、どのくらい心配しているか知れないんだわ。今まで、ついぞ有った験は無い。こちらから結婚を申込んで刎ねられるなんて、そんな事――河野家の不名誉よ、恥辱ッたらありませんものね。
兄さんも、どんなにか妙子さんを好いていると見えて、一体が遊蕩過ぎる処へ、今度の事じゃ失望して、自棄気味らしいのよ、遣り方が。自分で自分を酒で殺しちゃ、厭じゃありませんか、まあ、」
と一際低声で、
「ちょいと、いかな事ても小待合へなんぞ倒込むんですって。監督の叔父さんから内々注意があるもんだから、もう疾くに兄さんへは家でお金子を送らない事にして、独立で遣れッて名義だけれども、その実、勘当同様なの。
この頃じゃ北町(桐楊塾)へも寄り着かないんですって。
だってどこに転がっていたって、皆お金子が要るんでしょう。どこから出て? いずれ借りるんだわ。また河野の家の事を知っていて、高利で貸すものがあるんだから困っちまう。千と千五百と纏ったお金子で、母様が整理を着けたのも二度よ。洋行させる費用に、と云って積立ててあった兄さんの分は、とうの昔無くなって、三度目の時には皆私たち妹の分にまで、手がついたんじゃありませんか。
妙子さんの話がはじまってからは、ちょうど私も北町へ行っていて知っているけれど、それは、気の毒なほど神妙になったのに。……
もともと気の小さい、懐育ちのお坊ちゃんなんだから、遊蕩も駄々で可かったんだけれど、それだけにまた自棄になっちゃ乱暴さが堪らないんだもの。
病院の義兄は養子だし、大勢の兄弟中に、やっと学位の取れた、かけ替えのない人を、そんなにしてしまっちゃ、それは家でもほんとうに困るのよ。
早瀬さん、貴下の心一つで、話が纏まるんじゃありませんか。私が頼むんだから助けると思って肯いて頂戴、ねえ……それじゃ、あんまり貴下薄情よ。」
「ですから、ですから。」
と圧えるように口を入れて、
「決して厭だとは言いません。厭だとは言いやしない。これからでも飛んで行って、先生に話をして結納を持って帰りましょう。」
事もなげに打笑って、
「それじゃ反対だった。結納はこちらから持って行くんでしたっけ。」
「そのかわりまた、(あの安東村の紺屋の隣家の乞食小屋で結婚式を挙げろ)ッて言うんでしょう。貴下はなぜそう依怙地に、さもしいお米の価を気にするようなことを言うんだろう。
ほんとうに串戯ではないわ! 一家の浮沈と云ったような場合ですからね。私もどんなに苦労だか知れないんだもの。御覧なさい[#「御覧なさい」は底本では「御覧さない」]、痩せたでしょう。この頃じゃ、こちらに、どんな事でもあるように、島山(理学士)を見ると、もうね、身体が萎むような事があるわ。土間へ駈下りて靴の紐を解いたり結んだりしてやってるじゃありませんか。
跪いて、夫の足に接吻をする位なものよ。誰がさせるの、早瀬さん。――貴下の意地ひとつじゃありませんか。
ちっとは察して、肯いてくれたって、満更罰は当るまいと、私思うんですがね。」
机に凭れて、長くなって笑いながら聞いていた主税が、屹と居直って、
「じゃ貴女は、御自分に面じて、お妙さんを嫁に欲いと言うんですか。」
「まあ……そうよ。」
「そう、それでは色仕掛になすったんだね。」
三十七
「怒ったの、貴下、怒っちゃ厭よ、私。貴下はほんとうにこの節じゃ、どうして、そんなに気が強くなったんだろうねえ。」
「貴女が水臭い事を言うからさ。」
「どっちが水臭いんだか分りはしない。私はまさか、夜内を出るわけには行かず、お稽古に来たって、大勢入込みなんだもの。ゆっくりお話をする間も無いじゃありませんか。
過日何と言いました。あの合歓の花が記念だから、夜中にあすこへ忍んで行く――虫の音や、蛙の声を聞きながら用水越に立っていて、貴女があの黒塀の中から、こう、扱帯か何ぞで、姿を見せて下すったら、どんなだろう。花がちらちらするか、闇か、蛍か、月か、明星か。世の中がどんな時に、そんな夢が見られましょう――なんて串戯云うから、洗濯をするに可いの、瓜が冷せて面白いのッて、島山にそう云って、とうとうあすこの、板塀を切抜いて水門を拵えさせたんだわ。
頭痛がしてならないから、十畳の真中へ一人で寝て見たいの、なんのッて、都合をするのに、貴下は、素通りさえしないじゃありませんか。」
「演劇のようだ。」
と低声で笑うと、
「理想実行よ。」と笑顔で言う。
「どうして渡るんです。」
「まさか橋をかける言種は、貴下、無いもの。」
「だから、渡られますまい。」
「合歓の樹の枝は低くってよ。掴って、お渡んなさいなね。」
「河童じゃあるまいし、」
「ほほほほ、」
と今度は夫人の方が笑い出したが。
「なにしろ、貴下は不実よ。」
「何が不実です。」
「どうかして下さいな。」
――更って――
「妙子さんを。」
「ですから色仕掛けか、と云うんです。」
「あんな恐い顔をして、(と莞爾して。)ほんとうはね、私……自ら欺むいているんだわ。家のために、自分の名誉を犠牲にして、貴下から妙子さんを、兄さんの嫁に貰おう、とそう思ってこちらへ往来をしているの。
でなくって、どうして島山の顔や、母様の顔が見ていられます。第一、乳母にだって面を見られるようよ。それにね、なぜか、誰よりも目の見えない娘が一番恐いわ。母さん、と云って、あの、見えない目で見られると、悚然してよ。私は元気でいるけれど、何だか、そのために生身を削られるようで瘠せるのよ。可哀相だ、と思ったら、貴下、妙子さんを下さいな。それが何より私の安心になるんです。……それにね、他の人は、でもないけれど、母様がね、それはね、実に注意深いんですから、何だか、そうねえ、春の歌留多会時分から、有りもしない事でもありそうに疑っているようなの。もしかしたら、貴下私の身体はどうなると思って? ですから妙子さんさえ下されば、有形にも無形にも立派な言訳になるんだわ。ひょっとすると、母様の方でも、妙子さんの為にするのだ、と思っているのかも知れなくってよ。顔さえ見りゃ、(私がどうかして早瀬さんに承知させます。)と、母様が口を利かない先にそう言って置くから。よう、後生だから早瀬さん。」
言い言い、縋るように言う。
「詰らん言を。先生のお嬢さんを言訳に使って可いもんですか。」
「そうすると、私もう、母さんの顔が見られなくなるかも知れませんよ。」
「僕だって活きて二度と、先生の顔が見られないように……」と思わず拳を握ったのを、我を引緊められたごとくに、夫人は思い取って、しみじみ、
「じゃ、私の、私の身体はどうなって?」
「訳は無い、島山から離縁されて、」
「そんな事が、出来るもんですか。」
「出来ないもんですか。当前だ、」
と自若として言うと、呆れたように、また……莞爾、
「貴下はどうしてそうだろう。」
三十八
「どうもこうもありはしません、それが当前じゃありませんか。義、周の粟を食わずとさえ云うんだ。貴女、」
と主税は澄まして言い懸けたが、常ならぬ夫人の目の色に口を噤んだ。菅子は息急しい胸を圧えるのか、乳の上へ手を置いて、
「何だって、そりゃあんまりだわ、早瀬さん、」
と、ツンとする。
「不都合ですとも! 島山さんが喜ばないのに、こうして節々おいでなさるんです。
それでいて、家庭の平和が保てよう法は無い。実はこうこうだ、と打明けて、御主人の意見にお任せなさい。私もまた卑怯な覚悟じゃありません。事実明かに、その人の好まない自分の許へ令夫人をお寄せ申すんだから、謹んで島山さんの思わくに服するんだ。
だから貴女もそうなさい。懊悩も煩悶も有ったもんか。世の中には国家の大法を犯し、大不埒を働いて置いて、知らん顔で口を拭いて澄ましていようなどと言う人があるが、間違っています。」
夫人はこれを戯のように聞いて、早瀬の言を露も真とは思わぬ様子で、
「戯談おっしゃいよ! 嘘にも、そんな事を云って、事が起ったら子供たちはどうするの?」
と皆まで言わせず、事も無げに答えた。
「無論、島山さんの心まかせで、一所に連れて出ろと、言われりゃ連れて出る。置いて行けとなら、置いて……」
「暢気で怒る事も出来はしない。身に染みて下さいな、ね……」
「何が暢気だろう、このくらい暢気でない事はない。小使と私と二人口でさえ、今の月謝の収入じゃ苦しい処へ、貴女方親子を背負い込むんだ。静岡は六升代でも痩腕にゃ堪えまさ。」
余の事と、夫人は凝と瞻って、
「私がこんなに苦労をするのに、ほんとに貴下は不実だわ。」
「いざと云う時、貴女を棄てて逐電でもすりゃ不実でしょう。胴を据えて、覚悟を極めて、あくまで島山さんが疑って、重ねて四ツにするんなら、先へ真二ツになろうと云うのに、何が不実です。私は実は何にも知らんが、夫人が御勝手に遊びにおいでなさるんだなんて言いはしない。」
「そう云ってしまっては、一も二も無いけれど。」
「また、一も二も無いんですから、」
「だって世の中は、そう貴下の云うようには参りませんもの。」
「ならんのじゃない、なる、が、勝手にせんのだ。恋愛は自由です、けれども、こんな世の中じゃ罪になる事がある。盗賊は自由かも知れん、勿論罪になる。人殺、放火、すべて自由かも知れんが、罪になります。すでにその罪を犯した上は、相当の罰を受けるのがまた当前じゃありませんか。愚図々々塗秘そうとするから、卑怯未練な、吝な、了見が起って、他と不都合しながら亭主の飯を食ってるような、猫の恋になるのがある。しみったれてるじゃありませんか。度胸を据えて、首の座へお直んなさい。私なんざ疾くに――先生……には面は合わされない、お蔦……の顔も見ないものと思っている。この上は、どんなことだって恐れはしません。
それに貴女は、島山さんに不快を感じさせながら、まだやっぱり、夫には貞女で、子には慈悲ある母親で、親には孝女で、社会の淑女で、世の亀鑑ともなるべき徳を備えた貴婦人顔をしようとするから、痩せもし、苦労もするんです。
浮気をする、貞女、孝女、慈母、淑女、そんな者があるものか。」
「じゃ……私を、」
と擦寄って、
「不埒と言わないばッかりね。」
さすがに顔の色をかえて屹と睨むと、頷いて、
「同時に私だって、」
と笑って言う。
その肩を突いて、
「まあ、仕ようの無い我儘だよ。」
三十九
「貴下は始めからそうなんだわ。……
道学者の坂田(アバ大人)さんが、兄さんの媒口を利くのが癪に障るからって、(攫徒の手つだいをして、参謀本部も諭旨免官になりました。攫徒は、その時の事を恩にして、警察では、知らない間に袂へ入れて置いて逆捩を食わしたように云ってくれたけれど、その実は、知っていて攫徒の手から紙入を受取ってやったんだ。それで宜しくばお稽古にお出でなさい、早瀬主税は攫徒の補助をした東京の食詰者です。)とこの塾を開く時、千鳥座かどこかで公衆に演説をする、と云った人だもの――私が留めたから止したけれど……」
早瀬の胸のあたりに、背向きになって、投げ出した褄を、熟と見ながら、
「私、どうしたら、そんな乱暴な人を友だちにしたんだか。」
と自から怪むがごとく独言つと、
「不都合な方と知りながら、貴女と附合ってる私と同一でしょう。」
「だって私は、貴下のために悪いようにとした事は一つも無いのに、貴下の方じゃ、私の身の立たないように、立たないようにと言うじゃありませんか。早瀬さんへ行くのが悪いんなら、(どうでもして下さい、御心まかせ。)何のって、そんな事が、譬えにも島山に言われるもんですか。
島山の方は、それで離縁になるとして、そうしたら、貴下、第一河野の家名はどうなると思うのよ。末代まで、汚点がついて、系図が汚れるじゃありませんか。」
「すでに云々が有るんじゃありませんか。それを秘そうとするんじゃありませんか。卑怯だと云うんです。」
「そんな事を云って、なぜ、貴下は、」
少し起返って、なお背向きに、
「貴下にちっとも悪意を持っていない、こうして名誉も何も一所に捧げているような、」
と口惜しそうに、
「私を苦しめようとなさるんだろうねえ。」
「ちっとも苦しめやしませんよ。」
「それだって、乱暴な事を言ってさ、」
「貴女が困っているものを、何も好き好んで表向にしようと言うんじゃない。不実だの、無情だの、私の身体はどうなるの、とお言いなさるから、貴女の身体は、疑の晴れくもりで――制裁を請けるんだ、と言うんです。貴女ばかり、と言ったら不実でしょう。男が諸共に、と云うのに、ちっとも無情な事はありますまい。どうです。」
と言う顔を斜めに視て、
「ですから、そんな打破しをしないでも、妙子さんさえ下さると、円満に納まるばかりか、私も、どんなにか気が易まって、良心の呵責を免れることが出来ますッて云うのにね。肯きますまい! それが無情だ、と云うんだわ。名誉も何も捧げている婦の願いじゃありませんか、肯いてくれたって可いんだわ。」
「(名誉も何も)とおっしゃるんだ。」
「ああ、そうよ。」と捩向いて清く目をく。
「なぜその上、家も河野もと言わんのです。名誉を別にした家がありますか。家を別にした河野がありますか。貴女はじめ家門の名誉と云う気障な考えが有る内は、情合は分りません。そういうのが、夫より、実家の両親が大事だったり、他の娘の体格検査をしたりするのだ。お妙さんに指もささせるもんですか。
お妙さんの相談をしようと云うんなら、先ず貴女から、名誉も家も打棄って、誰なりとも好いた男と一所になるという実証をお挙げなさい。」
と意気込んで激しく云うと、今度は夫人が、気の無い、疲れたような、倦じた調子で、
「そしてまた(結婚式は、安東村の、あの、乞食小屋見たような茅屋で挙げろ)でしょう。貴下はまるッきり私たちと考えが反対だわ。何だか河野の家を滅ぼそうというような様子だもの、家に仇する敵だわ。どうして、そんな人を、私厭でないんだか、自分で自分の気が知れなくッてよ。ああ、そして、もう、私、慈善市へ行かなくッては。もう何でも可いわ! 何でも可いわ。」
夫人と……別れたあとで、主税はカッと障子を開けて、しばらく天を仰いでいたが、
「ああ、今日はお妙さんの日だ。」と、呟いて仰向けに寝た――妙子の日とは――日曜を意味したのである。
宵闇
四十
同、日曜の夜の事で。
日が暮れると、早瀬は玄関へ出て、框に腰を掛けて、土間の下駄を引掛けたなり、洋燈を背後に、片手を突いて長くなって一人でいた。よくぞ男に生れたる、と云う陽気でもなく、虫を聞く時節でもなく、家は古いが、壁から生えた芒も無し、絵でないから、一筆描きの月のあしらいも見えぬ。
ト忌々しいと言えば忌々しい、上框に、灯を背中にして、あたかも門火を焚いているような――その薄あかりが、格子戸を透して、軒で一度暗くなって、中が絶えて、それから、ぼやけた輪を取って、朦朧と、雨曝の木目の高い、門の扉に映って、蝙蝠の影にもあらず、空を黒雲が行通うか何ぞのように、時々、むらむらと暗くなる……また明くなる。
目も放さず、早瀬がそれを凝と視める内に、濁ったようなその灯影が、二三度ゆらゆらと動いて、やがて礫した波が、水の面に月輪を纏めた風情に、白やかな婦の顔がそこを覗いた。
門の扉が開くでもなしに……続いて雪のような衣紋が出て、それと映合ってくッきりと黒い鬢が、やがて薄お納戸の肩のあたり、きらりと光って、帯の色の鮮麗になったのは――道子であった。
門に立忍んで、密と扉を開けて、横から様子を伺ったものである。
一目見ると、早瀬は、ずいと立って、格子を開けながら、手招ぎをする。と、立直って後姿になって、AB横町の左右をす趣であったが、うしろ向きに入って、がらがらと後を閉めると、三足ばかりを小刻みに急いで来て、人目の関には一重も多く、遮るものが欲しそうに、また格子を立てた。
「ようこそ、」と莞爾して云う。
姉夫人は、口を、畳んだ手巾で圧えたが、すッすッと息が忙しく、
「誰方も……」
「誰も。」
「小使さんは?」
ともう馴染んだか尋ね得た。
「あれは朝っから、貞造の方へ遣ってあります。目の離せません容態ですから。」
「何から何まで難有う存じます……一人の親を……済みませんですねえ。」
とその手巾が目に障る。
「済まないのは私こそ。でもよく会場が抜けられましたな。」
「はい、色艶が悪いから、控所の茶屋で憩むように、と皆さんが、そう言って下さいましたから、好い都合に、点燈頃の混雑紛れに出ましたけれど、宅の車では悪うございますから、途中で辻待のを雇いますと、気が着きませんでしたが、それが貴下、片々蠣目のようで、その可恐らしい目で、時々振返っては、あの、幌の中を覗きましてね、私はどんなに気味が悪うござんしてしょう。やっとこの横町の角で下りて、まあ、御門まで参りましたけれども、もしかお客様でも有っては悪いから、と少時立っておりましたの。」
「お心づかい、お察し申します。」
と頭を下げて、
「島山さんの、お菅さんには。」
「今しがた参りました。あんなに遅くまで――こちら様に。」
「いいえ。」
「それでは道寄りをいたしましたのでございましょう。灯の点きます少し前に見えましたっけ、大勢の中でございますから、遠くに姿を見ましたばかりで、別に言も交わさないで、私は急いで出て参りましたので。」
「成程、いや、お茶も差上げませんで失礼ですが、手間が取れちゃまたお首尾が悪いと不可ません。直ぐに、これから、」
「どうぞそうなすって下さいまし、貴下、御苦労様でございますねえ。」
「御苦労どころじゃありません。さあ、お供いたしましょう。」
ふと心着いたように、
「お待ちなさいよ、夫人。」
四十一
早瀬は今更ながら、道子がその白襟の品好く麗しい姿を視めて、
「宵暗でも、貴女のその態じゃ恐しく目に立って、どんな事でまたその蠣目の車夫なんぞが見着けまいものでもありません。ちょいと貴女手巾を。」
と慌しい折から手の触るも顧みず、奪うがごとく引取って、背後から夫人の肩を肩掛のように包むと、撫肩はいよいよ細って、身を萎めたがなお見好げな。
懐中からまた手拭を出して、夫人に渡して、
「姉さん冠りと云うのになさい、田舎者がするように。」
「どうせ田舎者なんですもの。」
と打傾いて、髷にちょっと手を当てて、
「こうですか。」白地を被って俯向けば、黒髪こそは隠れたれ、包むに余る鬢の馥の、雪に梅花を伏せたよう。
主税は横から右瞻左瞻て、
「不可い、不可い、なお目立つ。貴女、失礼ですが、裾を端折って、そう、不可んな。長襦袢が突丈じゃ、やっぱり清元の出語がありそうだ。」
と口の裡に独言きつつ、
「お気味が悪くっても、胸へためて、ぐっと上げて、足袋との間を思い切って。ああ、おいたわしいな。」
「厭でございますね。」
「御免なさいよ。」
と言うが疾いか、早瀬の手は空を切って、体を踞んだと思うと、
「あれ、」
かっとなって、ふらふらと頭重く倒れようとした――手を主税の肩に突いて、道子はわずかに支えたが、早瀬の掌には逸早く壁の隅なる煤を掬って、これを夫人の脛に塗って、穂にあらわれて蔽われ果てぬ、尋常なその褄はずれを隠したのであった。
「もう、大丈夫、河野の令夫人とは見えやしない。」
と、框の洋燈を上から、フッ!
留南奇を便に、身を寄せて、
「さあ、出掛けましょう。」
胸に当った夫人の肩は、誘わるるまで、震えていた。
この横町から、安東村へは五町に足りない道だけれども、場末の賤が家ばかり。時に雨もよいの夏雲の閉した空は、星あるよりも行方遥かに、たまさか漏るる灯の影は、山路なる、孤家のそれと疑わるる。
名門の女子深窓に養われて、傍に夫無くしては、濫りに他と言葉さえ交えまじきが、今日朝からの心の裡、蓋し察するに余あり。
我は不義者の児なりと知り、父はしかも危篤の病者。逢うが別れの今世に、臨終のなごりを惜むため、華燭銀燈輝いて、見返る空に月のごとき、若竹座を忍んで出た、慈善市の光を思うにつけても、横町の後暗さは冥土にも増るのみか。裾端折り、頬被して、男――とあられもない姿。ちらりとでも、人目に触れて、貴女は、と一言聞くが最後よ、活きてはいられない大事の瀬戸。辛く乗切って行く先は……実の親の死目である。道子が心はどんなであろう。
大巌山の幻が、闇の気勢に目を圧えて、用水の音凄じく、地を揺るごとく聞えた時、道子は俤さえ、衣の色さえ、有るか無きかの声して、
「夢ではないのでしょうかしら。宙を歩行きますようで、ふらふらして、倒れそうでなりません。早瀬さん、お袖につかまらして下さいまし。」
「しっかりと! 可い塩梅に人通りもありませんから。」
人は無くて、軒を走る、怪しき狗が見えたであろう。紺屋の暖簾の鯛の色は、燐火となって燃えもせぬが、昔を知ればひづめの音して、馬の形も有りそうな、安東村へぞ着きにける。
四十二
道子は声もうように、
「ここは野原でございますか。」
「なぜ、貴女?」
「真中に恐しい穴がございますよ。」
「ああ、それは道端の井戸なんです。」
と透しながら早瀬が答えた。古井戸は地獄が開けた、大なる口のごとくに見えたのである。
早瀬より、忍び足する夫人の駒下駄が、かえって戦きに音高く、辿々しく四辺に響いて、やがて真暗な軒下に導かれて、そこで留まった。が、心着いたら、心弱い婦は、得堪えず倒れたであろう、あたかもその頸の上に、例の白黒斑な狗が踞っているのである。
音訪う間も無く、どたんと畳を蹴て立つ音して、戸を開けるのと、ついその框に真赤な灯の、ほやの油煙に黒ずんだ小洋燈の見ゆるが同時で、ぬいと立ったは、眉の迫った、目の鋭い、細面の壮佼で、巾狭な単衣に三尺帯を尻下り、粋な奴を誰とかする、すなわち塾の(小使)で、怪! 怪! 怪! アバ大人を掏損こねた、万太と云う攫徒である。
はたと主税と面を合わせて、
「兄哥!」
「…………」
「不可えぜ。」と仮色のように云った。
「何だ――馬鹿、お連がある。」
「やあ、先生、大変だ。」
「どう、大変。」
衝と入る。袂に縋って、牲の鳥の乱れ姿や、羽掻を傷めた袖を悩んで、塒のような戸を潜ると、跣足で下りて、小使、カタリと後を鎖し、
「病人が冷くなったい。」
「ええ、」
「今駈出そうてえ処でさ。」
「医者か。」
「お医者は直ぐに呼んで来たがね、もう不可えッて、今しがた帰ったんで。私あ、ぼうとして坐っていましたが、何でもこりゃ先生に来て貰わなくちゃ、仕様がないと、今やっと気が附いて飛んで行こうと思った処で。」
「そんな法はない。死ぬなんて、」
と飛び込むと、坐ると同時で、ただ一室だからそこが褥の、筵のような枕許へ膝を落して、覗込んだが、慌しく居直って、三布蒲団を持上げて、骨の蒼いのがくッきり見える、病人の仰向けに寝た胸へ、手を当てて熟としたが、
「奥さん、」
と静に呼ぶ。
道子が、取ったばかりの手拭を、引摺るように膝にかけて、振を繕う遑もなく、押並んで跪いた時、早瀬は退って向き直って、
「線香なんぞ買って――それから、種々要るものを。」
「へい、宜うがす。」
ぼんやり戸口に立っていた小使は、その跣足のまま飛んで出た。
と見れば、貞造の死骸の、恩愛に曳かれて動くのが、筵に響いて身に染みるように、道子の膝は打震いつつ、幽に唱名の声が漏れる。
「よく御覧なさいましよ。貴女も見せてお上げなさいよ。ああ、暗くって、それでは顔が、」
手洋燈を摺らして出したが、灯が低く這って届かないので、裏が紺屋の物干の、破子の下に、汚れた飯櫃があった、それへ載せて、早瀬が立って持出したのを、夫人が伸上るようにして、霑をもった目を見据え、現の面で受取ったが、両方掛けた手の震えに、ぶるぶると動くと思うと、坂になった蓋を辷って、呀と云う間に、袖に俯向いて、火を吹きながら、畳に落ちて砕けたではないか! 天井が真紫に、筵が赫と赤くなった。
この明で、貞造の顔は、活きて眼を開いたかと、蒼白た鼻も見えたが、松明のようにひらひらと燃え上る、夫人の裾の手拭を、炎ながら引掴んで、土間へ叩き出した早瀬が、一大事の声を絞って、
「大変だ、帯に、」と一声。余りの事に茫となって、その時座を避けようとする、道子の帯の結目を、引断れよ、と引いたので、横ざまに倒れた裳の煽り、乳のあたりから波打って、炎に燃えつと見えたのは、膚の雪に映る火をわずかに襦袢に隔てたのであった。トタンに早瀬は、身を投げて油の上をぐるぐると転げた。火はこれがために消えて、しばらくは黒白も分かず。阿部街道を戻り馬が、遥に、ヒイインと嘶く声。戸外で、犬の吠ゆる声。
「可恐い真暗ですね。」
品々を整えて、道の暗さに、提灯を借りて帰って来た、小使が、のそりと入ると、薄色の紋着を、水のように畳に流して、夫人はそこに伏沈んで、早瀬は窓をあけて、子に腰をかけて、吻として腕をさすっていた。――猛虎肉酔初醒時。揩磨苛痒風助威。
廊下づたい
四十三
家の業でも、気の弱い婦であるから、外科室の方は身震いがすると云うので、是非なく行かぬ事になっているが、道子は、両親の注意――むしろ命令で、午後十時前後、寝際には必ず一度ずつ、入院患者の病室を、遍く見舞うのが勤めであった。
その時は当番の看護婦が、交代に二人ずつ附添うので、ただ(御気分はいかがですか、お大事になさいまし、)と、だけだけれども、心優しき生来の、自から言外の情が籠るため、病者は少なからぬ慰安を感じて、結句院長の廻診より、道子の端麗な、この姿を、待ち兼ねる者が多い。怪しからぬのは、鼻風邪ごときで入院して、貴女のお手ずからお薬を、と唸ると云うが、まさかであろう。
で――この事たるや、夫の医学士、名は理順と云う――院長は余り賛成はしないのだけれども、病人を慰めるという仕事は、いかなる貴婦人がなすっても仔細ない美徳であるし、両親もたって希望なり、不問に附して黙諾の体でいる。
ト今夜もばたばたと、上草履の音に連れて、下階の病室を済ました後、横田の田畝を左に見て、右に停車場を望んで、この向は天気が好いと、雲に連なって海が見える、その二階へ、雪洞を手にした、白衣の看護婦を従えて、真中に院長夫人。雲を開いたように階子段を上へ、髪が見えて、肩、帯が露れる。
質素な浴衣に昼夜帯を……もっともお太鼓に結んで、紅鼻緒に白足袋であったが、冬の夜なぞは寝衣に着換えて、浅黄の扱帯という事がある。そんな時は、寝白粉の香も薫る、それはた異香薫ずるがごとく、患者は御来迎、と称えて随喜渇仰。
また実際、夫人がその風采、その容色で、看護婦を率いた状は、常に天使のごとく拝まれるのであったに、いかにやしけむ、近い頃、殊に今夜あたり、色艶勝れず、円髷も重そうに首垂れて、胸をせめて袖を襲ねた状は、慎ましげに床し、とよりは、悄然と細って、何か目に見えぬ縛の八重の縄で、風に靡く弱腰かけて、ぐるぐると巻かれたよう。従って、前後を擁した二体の白衣も、天にもし有らば美しき獄卒の、法廷の高く高き処へ夫人を引立てて来たようである。
扉を開放した室の、患者無しに行抜けの空は、右も左も、折から真白な月夜で、月の表には富士の白妙、裏は紫、海ある気勢。停車場の屋根はきらきらと露が流れて輝く。
例に因って、室々へ、雪洞が入り、白衣が出で、夫人が後姿になり、看護婦が前に向き、ばたばたばた、ばたばたと規律正しい沈んだ音が長廊下に断えては続き、処々月になり、また雪洞がぽっと明くなって、ややあって、遥かに暗い裏階子へ消える筈のが、今夜は廊下の真中を、ト一列になって、水彩色の燈籠の絵の浮いて出たように、すらすらこなたへ引返して来て、中程よりもうちっと表階子へ寄った――右隣が空いた、富士へ向いた病室の前へ来ると、夫人は立留って、白衣は左右に分れた。
順に見舞った中に、この一室だけは、行きがけになぜか残したもので。……
と見ると胡粉で書いた番号の札に並べて、早瀬主税と記してある。
道子は間に立って、徐に左右を見返り、黙って目礼をして、ほとんど無意識に、しなやかな手を伸ばすと、看護婦の一人が、雪洞を渡して、それは両手を、一人は片手を、膝のあたりまで下げて、ひらりと雪の一団。
ずッと離れて廊下を戻る。
道子は扉に吸込まれた。ト思うと、しめ切らないその扉の透間から、やや背屈みをしたらしい、低い処へ横顔を見せて廊下を差覗くと、表階子の欄干へ、雪洞を中にして、からみついたようになって、二人附着いて、こなたを見ていた白衣が、さらりと消えて、壇に沈む。
四十四
寝台に沈んだ病人の顔の色は、これが早瀬か、と思うほどである。
道子は雪洞を裾に置いて、帯のあたりから胸を仄かに、顔を暗く、寝台に添うて彳んで、心を細めた洋燈のあかりに、その灰のような面を見たが、目は明かに開いていた。
ト思うと、早瀬に顔を背けて、目を塞いだが、瞳は動くか、烈しく睫毛が震えたのである。
ややあって、
「早瀬さん、私が分りますか。」
「…………」
「ようよう今日のお昼頃から、あの、人顔がお分りになるようにおなんなさいましたそうでございますね。」
「お庇様で。」
と確に聞えた。が、腹でもの云うごとくで、口は動かぬ。
「酷いお熱だったんでございますのねえ。」
「看護婦に聞きました。ちょうど十日間ばかり、全ッきり人事不省で、驚きました。いつの間にか、もう、七月の中旬だそうで。」と瞑ったままで云う。
「宅では、東京の妹たちが、皆暑中休暇で帰って参りました。」
少し枕を動かして、
「英吉君も……ですか。」
「いいえ、あの人だけは参りませんの。この頃じゃ家へ帰られないような義理になっておりますから、気の毒ですよ。
ああ、そう申せば、」と優しく、枕許の置棚を斜に見て、
「貴下は、まあ、さぞ東京へお帰りなさらなければならなかったんでございましょうに。あいにく御病気で、ほんとうに間が悪うございましたわね。酒井様からの電報は御覧になりましたの?」
「見ました、先刻はじめて、」
と調子が沈む。
「二通とも、」
「二通とも。」
「一通はただ(直ぐ帰れ。)ですが、二度目のには、ツタビョウキ(蔦病気)――かねて妹から承っておりました。貴下の奥さんが御危篤のように存じられます。御内の小使さん、とそれに草深の妹とも相談しまして、お枕許で、失礼ですが、電報の封を解きまして、私の名で、貴下がこのお熱の御様子で、残念ですがいらっしゃられない事を、お返事申して置きました。ですが、まあ、何という折が悪いのでございましょう。ほんとうにお察し申しております。」
「……病気が幸です。達者で居たって、どの面さげて、先生はじめ、顔が合されますもんですか。」
「なぜ? 貴下、」
と、熟と頤を据えて、俯向いて顔を見ると、早瀬はわずかに目を開いて、
「なぜとは?」
「…………」
「第一、貴女に、見せられる顔じゃありません。」
と云う呼吸づかいが荒くなって、毛布を乗出した、薄い胸の、露わな骨が動いた時、道子の肩もわなわなして、真白な手の戦くのが、雪の乱るるようであった。
「安東村へおともをしたのは……夢ではないのでございますね。」
早瀬は差置かれた胸の手に、圧し殺されて、あたかも呼吸の留るがごとく、その苦を払わんとするように、痩細った手で握って、幾度も口を動かしつつ辛うじて答えた。
「夢ではありません、が、この世の事ではないのです。お、お道さん、毒を、毒を一思いに飲まして下さい。」
と魚の渇けるがごとく悶ゆる白歯に、傾く鬢からこぼるるよと見えて、衝と一片の花が触れた。
颯となった顔を背けて、
「夢でなければ……どうしましょう!」
と道子は崩れたように膝を折って、寝台の端に額を隠した。窓の月は、キラリと笄の艶に光って、雪燈は仄かに玉のごとき頸を照らした。
これより前、看護婦の姿が欄干から消えて、早瀬の病室の扉が堅く鎖されると同時に、裏階子の上へ、ふと顕れた一人の婦があって、堆い前髪にも隠れない、鋭い瞳は、屹と長廊下を射るばかり。それが跫音を密めて来て、隣の空室へ忍んだことを、断って置かねばならぬ。こは道子等の母親である。
――同一事が――同一事が……五晩六晩続いた。
四十五
妙なことが有るもので、夜ごとに、道子が早瀬の病室を出る時間の後れるほど、人こそ替れ、二人ずつの看護婦の、階子段の欄干を離れるのが遅くなった。
どうせそこに待っていて、一所に二階を下りるのではない――要するに、遠くから、早瀬の室を窺う間が長くなったのである、と言いかえれば言うのである。
で、今夜もまた、早瀬の病室の前で、道子に別れた二人の白衣が、多時宙にかかったようになって、欄干の処に居た。
広庭を一つ隔てた母屋の方では、宵の口から、今度暑中休暇で帰省した、牛込桐楊塾の娘たちに、内の小児、甥だの、姪だのが一所になった処へ、また小児同志の客があり、草深の一家も来、ヴァイオリンが聞える、洋琴が鳴る、唱歌を唄う――この人数へ、もう一組。菅子の妹の辰子というのが、福井県の参事官へ去年の秋縁着いてもう児が出来た。その一組が当河野家へ来揃うと、この時だけは道子と共に、一族残らず、乳母小間使と子守を交ぜて、ざっと五十人ばかりの人数で、両親がついて、かねてこれがために、清水港に、三保に近く、田子の浦、久能山、江尻はもとより、興津、清見寺などへ、ぶらりと散歩が出来ようという地を選んだ、宏大な別荘の設が有って、例年必ずそこへ避暑する。一門の栄華を見よ、と英臣大夫妻、得意の時で、昨年は英吉だけ欠けたが、……今年も怪しい。そのかわり、新しく福井県の顕官が加わるのである……
さて母屋の方は、葉越に映る燈にも景気づいて、小さいのが弄ぶ花火の音、松の梢に富士より高く流星も上ったが、今は静になった。
壇の下から音もなく、形の白い脊の高いものが、ぬいと廊下へ出た、と思うと、看護婦二人は驚いて退った。
来たのは院長、医学士河野理順である。
ホワイト襯衣に、縞の粗い慢な筒服、上靴を穿いたが、ビイルを呷ったらしい。充血した顔の、額に顱割のある、髯の薄い人物で、ギラリと輝く黄金縁の目金越に、看護婦等を睨め着けながら、
「君たちは……」
と云うた眼が、目金越に血走った。
「道子に附いているんじゃないか。」
「は、」と一人が頭を下げる。
「どうしたか。」
「は、早瀬さんの室を、お見舞になります時は、いつも私どもはお附き申しませんでございます。」と爽な声で答えた。
「なぜかい。」
「奥様がおっしゃいます。御本宅の英吉様の御朋友ですから、看護婦なぞを連れては豪そうに見えて、容体ぶるようで気恥かしいから、とおっしゃって、お連れなさいませんので、は……」と云う。
「いつもそうか。」
と尋ねた時、衣兜に両手を突込んで、肩を揺った。
「はい、いつでも、」
「む、そうか。」と言い棄てに、荒らかに廊下を踏んだ。
「あれ、主人の跫音でございます。」
「院長ですか。」
道子は色を変えて、
「あれ、どうしましょう、こちらへ参りますよ。アレ、」
「院長が入院患者を見舞うのに、ちっとも不思議はありません。」と早瀬は寝ながら平然として云った。
目も尋常ならず、おろおろして、
「両親も知りませんが、主人は酷い目に逢わせますのでございますよ。」としめ木にかけられた様に袖を絞って立窘むと、
「寝台の下へお隠れなさい。可いから、」
とむっくと起きた、早瀬は毛布を飜して、夫人の裾を隠しながら、寝台に屹と身構えたトタンに、
「院長さんが御廻診ですよう!」と看護婦の金切声が物凄く響いたのである。
理順は既に室に迫って、あわや開けようとすると、どこに居たか、忽然として、母夫人が立露れて、扉に手を掛けた医学士の二の腕を、横ざまにグッと圧えて……曰く、
「院長。」
と、その得も言われぬ顔を、例の鋭い目で、じろりと見て、
「どうぞ、こちらへ。いいえ、是非。」
燃ゆるがごとき嫉妬の腕を、小脇にしっかり抱込んだと思うと、早や裏階子の方へ引いて退いた。――
蛍
四十六
「己が分るか、分るか。おお酒井だ。分ったか、しっかりしな。」
酒井俊蔵ただ一人、臨終のお蔦の枕許に、親しく顔を差寄せた。次の間には……
「ああ、皆居るとも。妙も居るよ。大勢居るから気を丈夫に持て! ただ早瀬が見えん、残念だろう、己も残念だ。病気で入院をしていると云うから、致方が無い。断念めなよ。」
と、黒髪ばかりは幾千代までも、早やその下に消えそうな、薄白んだ耳に口を寄せて、
「未来で会え、未来で会え。未来で会ったら一生懸命に縋着いていて離れるな。己のような邪魔者の入らないように用心しろ。きっと離れるなよ。先生なんぞ持つな。
己はこういう事とは知らなんだ。お前より早瀬の方が可愛いから、あれに間違いの無いように、怪我の無いようにと思ったが、可哀相な事をしたよ。
早瀬に過失をさすまいと思う己の目には、お前の影は彼奴に魔が魅しているように見えたんだ。お前を悪魔だと思った、己は敵だ。間をせいたって処女じゃない。真逢いたくば、どんなにしても逢えん事はない。世間体だ、一所に居てこそ不都合だが、内証なら大目に見てやろうと思ったものを、お前たちだけに義理がたく、死ぬまで我慢をし徹したか。可哀相に。……今更卑怯な事は謂わない、己を怨め、酒井俊蔵を怨め、己を呪えよ!
どうだ、自分で心を弱くして、とても活きられない、死ぬなんぞと考えないで、もう一度石に喰ついても恢復って、生樹を裂いた己へ面当に、早瀬と手を引いて復讐をして見せる元気は出せんか、意地は無いか。
もう不可まいなあ。」
と、忘れたようなお蔦の手を膝へ取って、熟と見て、
「瘠せたよ。一昨日見た時よりまた半分になった。――これ、目を開きなよ、しっかりしな、己だ、分ったか、ああ先生だよ。皆居る、妙も来ている。姉さん――小芳か、あすこに居るよ。
なぜ、お前は気を長くして、早瀬が己ほどの者になるのを待たん、己でさえ芸者の情婦は持余しているんだ、世の中は面倒さな。
あの腰を突けばひょろつくような若い奴が、お前を内へ入れて、それで身を立って行かれるものか。共倒れが不便だから、剣突を喰わしたんだが、可哀相に、両方とも国を隔って煩らって、胸一つ擦って貰えないのは、お前たち何の因果だ。
さぞ待っているだろうな、早瀬の来るのを。あれが来るから、と云って、お前、昨夜髪を結ったそうだ。ああ、島田が好く出来た、己が見たよ。」
と云う時、次の室で泣音がした。続いてすすり泣く声が聞えたが、その真先だったのは、お蔦のこれを結った、髪結のお増であった。芸妓島田は名誉の婦が、いかに、丹精をぬきんでたろう。
上らぬ枕を取交えた、括蒲団に一が沈んで、後毛の乱れさえ、一入の可傷さに、お蔦は薄化粧さえしているのである。
お蔦は恥じてか、見て欲かったか、肩を捻って、髷を真向きに、毛筋も透通るような頸を向けて、なだらかに掛けた小掻巻の膝の辺に、一波打つと、力を入れたらしく寝返りした。
四十七
「似合った、似合った、ああ、島田が佳く出来た。早瀬なんかに分るものか。顔を見せな、さあ。」
とじりりと膝を寄せて、その時、颯と薄桃色の瞼の霑んだ、冷たい顔が、夜の風に戦ぐばかり、蓐の隈に俤立つのを、縁から明取りの月影に透かした酒井が、
「誰か来て蛍籠を外しな、厭な色だ。」
「へへい、」と頓興な、ぼやけた声を出して、め組が継の当った千草色の半股引で、縁側を膝立って来た――婦たちは皆我を忘れて六畳に――中には抱合って泣いているのもあるので、惣助一人三畳の火鉢の傍に、割膝で畏って、歯を喰切った獅噛面は、額に蝋燭の流れぬばかり、絵にある燈台鬼という顔色。時々病人の部屋が寂とするごとに、隣の女連の中へ、四ツ這に顔を出して、
(死んだか、)と聞いて、女房のお増に流眄にかけられ、
(まだか、)と問うて、また睨めつけられ、苦笑いをしては引込んで控えたのが――大先生の前なり、やがて仏になる人の枕許、謹しんで這って出て、ひょいと立上って蛍籠を外すと、居すくまった腰が据らず、ひょろり、で、ドンと縁へ尻餅。魂が砕けたように、胸へ乱れて、颯と光った、籠の蛍に、ハット思う処を、
「何ですね、お前さん、」
と鼻声になっている女房に剣呑を食って、慌てて遁込む。
この物音に、お蔦はまたぱっちりと目をいて、心細く、寂しげに、枕を酒井に擦寄せると……
「皆居る、寂しくはないよ。しかしどうだい。早瀬が来たら、誰も次の室へ行って貰って、こうやって、二人許りで、言いたいことがあるだろう。致方が無い断念めな。断念めて――己を早瀬だと思え。世界に二人と無い夫だと思え。早瀬より豪い男だ。学問も出来る、名も高い、腕も有る、あれよりは年も上だ。脊も高い、腹も確だ、声も大い、酒も強い、借金も多い、男振もあれより増だ。女房もあり、情婦もあり、娘も有る。地位も名誉も段違いの先生だ。酒井俊蔵を夫と思え、情夫と思え、早瀬主税だと思って、言いたいことを言え、したいことをしろ、不足はあるまい。念仏も弥陀も何も要らん、一心に男の名を称えるんだ。早瀬と称えて袖に縋れ、胸を抱け、お蔦。……早瀬が来た、ここに居るよ。」
と云うと、縋りついて、膝に乗るのを、横抱きに頸を抱いた。
トつかまろうとする手に力なく、二三度探りはずしたが、震えながらしっかりと、酒井先生の襟を掴んで、
「咽喉が苦しい、ああ、呼吸が出来ない。素人らしいが、(と莞爾して、)口移しに薬を飲まして……」
酒井は猶予らわず[#「猶予らわず」は底本では「猶了らわず」]、水薬を口に含んだのである。
がっくりと咽喉を通ると、気が遠くなりそうに、仰向けに恍惚したが、
「早瀬さん。」
「お蔦。」
「早瀬さん……」
「むむ、」
「先、先生が逢っても可いって、嬉しいねえ!」
酒井は、はらはらと落涙した。
おとずれ
四十八
病室の寝台に、うつらうつらしていた早瀬は、フト目が覚めたが……昨夜あたりから、歩行いて厠へ行かれるようになったので、もう看護婦も付いておらぬ。毎晩極ったように見舞ってくれた道子が、一昨日の夜の……あの時から、ふッつり来ないし、一寝入りして覚めた今は、昼間、菅子に逢ったのも、世を隔てたようで心寂しい。室内を横伝い、まだ何か便り無さそうだから、寝台の縁に手をかけて、腰を曲げるようにして出たが、扉の外になると、もう自分でも足の確なのが分って、両側のそちこちに、白い金盥に昇汞水の薄桃色なのが、飛々の柱燈に見えるのを、気の毒らしく思うほど、気も爽然して、通り過ぎた。
どこも寝入って、寂として、この二三日[#「二三日」は底本では「三三日」]めっきり暑さが増したので、中には扉を明けたまま、看護婦が廊下へ雪のような裙を出して、戸口に横わって眠ったのもあった。遠くで犬の吠ゆる声はするが、幸いどの呻吟声も聞えずに、更けてかれこれ二時であろう。
厠は表階子の取附きにもあって、そこは燈も明いが、風は佳し、廊下は冷たし、歩行くのも物珍らしいので、早瀬はわざと、遠い方の、裏階子の横手の薄暗い中へ入った。
ざぶり水を注けながら、見るともなしに、小窓の格子から田圃を見ると、月は屋の棟に上ったろう、影は見えぬが青田の白さ。
風がそよそよと渡ると見れば、波のように葉末が分れて、田の水の透いたでもなく、ちらちらと光ったものがある。緩い、遅い、稲妻のように流れて、靄のかかった中に、土のひだが数えられる、大巌山の根を低く繞って消えたのは、どこかの電燈が閃いて映ったようでもあるし、蛍が飛んだようにも思われる。
手水と、その景色にぶるぶると冷くなって、直ぐに開けて出ようとする。戸の外へ、何か来て立っていて、それがために重いような気がして、思わず猶予って[#「猶予って」は底本では「猶了って」]、暗い中に、昼間被かえた自分の浴衣の白いのを、視めて悚然として咳をしたが、口の裡で音には出ぬ。
「早瀬さん。」
「お蔦か、」
と言った自分の声に、聞えた声よりも驚かされて、耳を傾けるや否や、赫となって我を忘れて、しゃにむに引開けようとした戸が、少しきしんで、ヒヤリと氷のような冷いものを手に掴んで、そのまま引開けると、裏階子が大な穴のように真黒なばかりで、別に何にも無い。
瓦を噛むように棟近く、夜鴉が、かあ、と鳴いた。
鳴きながら、伝うて飛ぶのを、として仰ぎながら、導かれるようにふらふらと出ると、声の止む時、壇階子の横を廊下に出ていた。
と見ると打向い遥か斜めなる、渠が病室の、半開きにして来た扉の前に、ちらりと見えた婦の姿。――出たのか、入ったのか、直ぐに消えた。
ぱたぱたと、我ながら慌しく跫音立てて、一文字に駈けつけたが、室へ入口で、思わず釘附にされたようになった。
バサリと音して、一握の綿が舞うように、むくむくと渦くばかり、枕許の棚をほとんど転って飛ぶのは、大きな、色の白い蛾で。
枕をかけて陰々とした、燈の間に、あたかも鞠のような影がさした。棚には、菅子が活けて置いた、浅黄の天鵝絨に似た西洋花の大輪があったが、それではなしに――筋一ツ、元来の薬嫌が、快いにつけて飲忘れた、一度ぶり残った呑かけの――水薬の瓶に、ばさばさと当るのを、熟と瞻めて立つと、トントントンと壇を下りるような跫音がしたので、どこか、と見当も分らず振向いたのが表階子の方であった。その正面の壁に、一番明かった燈が、アワヤ消えそうになっている。
その時、蛾に向うごとく、衝と踏込む途端に、
「私ですよう引[#「引」は小書き]」と床に沈んで、足許の天井裏に、電話の糸を漏れたような、夢の覚際に耳に残ったような、胸へだけ伝わるような、お蔦の声が聞えたと思うと、蛾がハタと落ちた。
はじめて心付くと、厠の戸で冷く握って、今まで握緊めていた、左の拳に、細い尻尾のひらひらと動くのは、一尾の守宮である。
はっと開くと、雫のように、ぽたりと床に落ちたが、足を踏張ったまま動きもせぬ。これに目も放さないで、手を伸ばして薬瓶を取ると、伸過ぎた身の発奮みに、蹌踉けて、片膝を支いたなり、口を開けて、垂々と濺ぐと――水薬の色が光って、守宮の頭を擡げて睨むがごとき目をかけて、滴るや否や、くるくると風車のごとく烈しく廻るのが、見る見る朱を流したように真赤になって、ぶるぶると足を縮めるのを、早瀬は瞳を据えて屹と視た。
四十九
早瀬はその水薬の残余を火影に透かして、透明な液体の中に、芥子粒ほどの泡の、風のごとくめぐる状に、莞爾して、
「面白い!」
と、投げる様に言棄てたが、恐気も無く、一分時の前は炎のごとく真紅に狂ったのが、早や紫色に変って、床に氷ついて、飜った腹の青い守宮を摘んで、ぶらりと提げて、鼻紙を取って、薬瓶と一所に、八重にくるくると巻いて包んで、枕許のその置戸棚の奥へ、着換の中へ突込んで、ついでにまだ、何かそこらを探したのは、落ちた蛾を拾おうとするらしかったが、それは影も無い。
なお棚には、他に二つばかり処方の違った、今は用いぬ、同一薬瓶があった。その一個を取って、ハタと叩きつけると、床に粉々になるのを見向きもしないで、躍上るように勢込んで寝台に上って、むずと高胡坐を組んだと思うと、廊下の方を屹と見て、
「馬鹿な奴等! 誰だと思う。」
と言うと斉しく、仰向けに寝て、毛布を胸へ。――鶏の声を聞きながら、大胆不敵な鼾で、すやすやと寝たのである。
暁かけて、院長が一度、河野の母親大夫人が一度、前後して、この病室を差覗いて、人知れず……立去った。
早瀬が目を覚ますと、受持の看護婦が、
「薬は召上りましたか。瓶が落ちて破れておりましたが。」
と注意をしたのは言うまでもなかった。
で、新い瓶がもう来ていたが、この分は平気で服した。
その日燈の点くちと前に、早瀬は帯を緊直して、看護婦を呼んで、
「お世話になりました。お庇様でどうやら助りました。もう退院をしまして宜しいそうで、後の保養は、河野さんの皆さんがいらっしゃる、清水港の方へ来てしてはどうか、と云って下さいますから、参ろうかと思います。何にしても一旦塾の方へ引取りますが、種々用がありますから、人を遣って、内の小使をお呼び下さい。それから、お呼立て申して済みませんが、少々お目に懸りたい事がございます。ちょっとこの室までお運びを願いたい、と河野さんに。……いや、院長さんじゃありません、母屋にいらっしゃる英臣さん。」
「はあ、大先生に……申し上げましょう。」
「どうぞ。ああ、もし、もし、」
と出掛けた白衣の、腰の肥いのを呼留めて、
「御書見中ででもありましたら、御都合に因って、こちらから参りましても可うございますと。」
馴染んでいるから、黙って頷いて室を出て、表階子の方へ跫音がして、それぎり忙しい夕暮の蝉の声。どこかの室で、新聞を朗読するのが聞えたが、ものの五分間経ったのではなかった。二階もまだ下り切るまいと思うのに、看護婦が、ばたばた忙しく引返して、発奮に突込むように顔を出して、
「お客様ですよ。」
「島山さんの?」
と言う、呼吸も引かず、早瀬は目をって茫然とした。
昨夜の事の不思議より、今目前の光景を、かえって夢かと思うよう、恍惚となったも道理。
看護婦の白衣にかさなって、紫の矢絣の、色の薄いが鮮麗に、朱緞子に銀と観世水のやや幅細な帯を胸高に、緋鹿子の背負上げして、ほんのり桜色に上気しながら、こなたを見入ったのは、お妙である!
「まあ!……」
ときょとんとして早瀬はひたと瞻めた。
「主税さん。」
と、一年越、十年も恋しく百年も可懐い声をかけて、看護婦の傍をすっと抜けて真直に入ったが、
「もう快くって?」
と胸を斜めに、帯にさし込んだ塗骨の扇子も共に、差覗くようにした。
「お嬢さん……」とまだとしている。
「しばらくね。」
と前へ言われて、はじめて吃驚した顔をして、
「先生は?」
「宜しくッて、母さんも。」と、ちゃんと云う。
五十
寝台と椅子との狭い間、目前にその燃ゆるような帯が輝いているので、辷り下りようとする、それもならず。蒼空の星を仰ぐがごとく、お妙の顔を見上げながら、
「どうして来たんです。誰と。貴女。いつ。どの汽車で。」と、一呼吸に慌しい。
「今日の正午の汽車で、今来たわ。惣助ッて肴屋さんが一所なの。」
「ええ、め組がお供で。どうしてあれを御存じですね。」
「お蔦さんの事よ、」
と言いかける、口の莟が動いたと思うと、睫毛が濃くなって、ほろりとして、振返ると、まだそこに、看護婦が立っているので、慌てて袂を取って、揉込むように顔を隠すと、美しい眉のはずれから、振が飜って、朱鷺色の絽の長襦袢の袖が落ちる。
「今そんな事を聞いちゃ、厭!」
と突慳貪なように云った。勿、問いそそこに人あるに、涙得堪えず、と言うのである。
看護婦は心得て、
「では、あの、お言託は。」
「ちと後にして頂きましょう。お嬢さん、そして、お伴をしました、め組の奴は?」
「停車場で荷物を取って来るの。半日なら大丈夫だって、氷につけてね、貴下の好なお魚を持って来たのよ。病院なら直き分ります、早くいらっしゃいッて、車をそう云って、あの、私も早く来たかったから、先へ来たわ。皆、そうやって思ってるのに、貴下は酷いわ。手紙も寄越さないんですもの。お蔦さん……」
とまた声が曇って、黙って差俯向いた主税を見て、
「あの、私ねえ、いろいろ沢山話があるわ。入院していらっしゃる、と云うから、どんなに悪いんだろうと思ったら、起きていられるのね。それだのに、まあ……お蔦さん……私……貴下に叱言を言うこともあるけれど、大事な用があるから、それを済ましてから緩りしましょうね。」
と甘えるように直ぐ変って、さも親しげに、
「小刀はあって?」
余り唐突な問だったから、口も利けないで……また目をる。
「では、さあ、私の元結を切って頂戴。」
「元結を? お嬢さんの。」
「ええ、私の髪の、」
と、主税が後へずらないとその膝に乗ったろう、色気も無く、寝台の端に、後向きに薄いお太鼓の腰をかけると、緋鹿子がまた燃える。そのままお妙は俯向いて、玉のごとき頸を差伸べ、
「お切んなさいよ、さあ、早くよ。父上も知っていてよ、可いんだわ。」
と美しく流眄に見返った時、危なく手がふるえていた。小刀の尖が、夢のごとく、元結を弾くと、ゆらゆらと下った髪を、お妙が、はらりと掉ったので、颯と流れた薄雲の乱るる中から、ふっと落ちた一握の黒髪があって、主税の膝に掛ったのである。
早瀬は氷を浴びたように悚然とした。
「お蔦さんに託ったの。あの、記念にね、貴下に上げて下さいッて、主税さん、」
と向う状に、椅子の凭に俯伏せになると、抜いて持った簪の、花片が、リボンを打って激しく揺れて、
「もうその他には逢えないのよ。」
お蔦の記念の玉の緒は、右の手に燃ゆるがごとく、ひやひやと練衣の氷れるごとき、筒井筒振分けて、丈にも余るお妙の髪に、左手を密と掛けながら、今はなかなかに胴据って、主税は、もの言う声も確に、
「亡くなったものの髪毛なんぞ。……
飛んでも無い。先生が可い、とおっしゃいましたか、奥様が可い、とおっしゃったんですかい。こんなものをお頭へ入れて。御出世前の大事なお身体じゃありませんか。ああ、鶴亀々々、」
と貴いものに触るように、静にその緑の艶を撫でた。
「私、出世なんかしたかないわ。髪結さんにでも何にでもなってよ。」
と勇ましく起直って、
「父さんがね、主税さん、病気が治ったら東京へお帰んなさいッて、そうして、あの、……お墓参をしましょうね。」
日蝕
五十一
日盛りの田畝道には、草の影も無く、人も見えぬ。村々では、朝から蔀を下ろして、羽目を塞いだのさえ少くない。田舎は律義で、日蝕は日の煩いとて、その影には毒あり、光には魔あり、熱には病ありと言伝える。さらぬだにその年は九分九厘、ほとんど皆既蝕と云うのであった。
早朝日の出の色の、どんよりとしていたのが、そのまま冴えもせず、曇りもせず。鶏卵色に濁りを帯びて、果し無き蒼空にただ一つ。別に他に輝ける日輪があって、あたかもその雛形のごとく、灰色の野山の天に、寂寞として見えた――
風は終日無かった。蒸々と悪気の籠った暑さは、そこらの田舎屋を圧するようで、空気は大磐石に化したるごとく、嬰児の泣音も沈み、鶏の羽さえ羽叩くに懶げで、庇間にかけた階子に留まって、熟と中空を仰ぐのさえ物ありそうな。透間に射し入る日の光は、風に動かぬ粉にも似て、人々の袖に灰を置くよう、身動にも払われず、物蔭にも消えず、細かに濃く引包まれたかの思がして、手足も顔も同じ色の、蝋にも石にも固るか、とばかり次第に息苦しい。
白昼凝って、尽く太陽の黄なるを包む、混沌たる雲の凝固とならんず光景。万有あわや死せんとす、と忌わしき使者の早打、しっきりなく走るは鴉で。黒き礫のごとく、灰色の天狗のごとく乱れ飛ぶ、とこれに驚かされたようになって、大波を打つのは海よ。その、山の根を畝り、岩に躍り、渚に飜って、沖を高く中空に動けるは、我ここに天地の間に充満たり、何物の怪しき影ぞ、円なる太陽の光を蔽うやとて、大紅玉の悩める面を、拭い洗わんと、苛立ち、悶え、憤れる状があったが、日の午に近き頃には、まさにその力尽き、骨萎えて、また如何ともするあたわざる風情して、この流動せる大偉人は、波を伏せ※[#「さんずい+散」、367-14]きを収めて、なよなよと拡げた蒼き綿のようになって、興津、江尻、清水をかけて、三保の岬、田子の浦、久能の浜に、音をも立てず倒れたのである。
一分たちまち欠け始めた、日の二時頃、何の落人か慌しき車の音。一町ばかりを絶えず続いて、轟々と田舎道を、清水港の方から久能山の方へ走らして通る、数八台。真前の車が河野大夫人富子で、次のが島山夫人菅子、続いたのが福井県参事官の新夫人辰子、これが三番目の妹で、その次に高島田に結ったのが、この夏さる工学士とまた縁談のある四番の操子で、五ツ目の車が絹子と云う、三五の妙齢。六台目にお妙が居た。
一所に東京へと云うのを……仔細あって……早瀬が留めて、清水港の海水浴に誘ったのである。
お妙の次を道子が乗った。ドン尻に、め組の惣助、婦ばかりの一群には花籠に熊蜂めくが、此奴大切なお嬢の傍を、決して離れる事ではない。
これは蓋し一門の大統領、従五位勲三等河野英臣の発議に因て、景色の見物をかねて、久能山の頂で日蝕の観測をしようとする催で。この人達には花見にも月見にも変りはないが、驚いて差覗いた百姓だちの目には、天宮に蝕の変あって、天人たちが遁げるのだと思ったろう。
共に清水港の別荘に居る、各々の夫は、別に船をしつらえて、三保まわりに久能の浜へ漕ぎ寄せて、いずれもその愛人の帰途を迎えて、夜釣をしながら海上を戻る計画。
小児たち、幼稚いのは、傅、乳母など、一群に、今日は別荘に残った次第。すでに前にも言ったように、この発議は英臣で、真前に手を拍って賛成したのは菅子で、余は異論なく喜んで同意したが、島山夫人は就中得意であった。
と云うのは、去年汽車の中で、主税が伊太利人に聞いたと云うのを、夫人から話し伝えて、まだ何等の風説の無い時、東京の新聞へ、この日の現象を細かに論じて載せたのは理学士であったから。その名たちまち天下に伝えて、静岡では今度の日蝕を、(島山蝕)――とさえ称えたのである。
五十二
田を行く時、白鷺が驚いて立った。村を出る時、小店の庭の松葉牡丹に、ちらちら一行の影がさした。聯る車は、薄日なれば母衣を払って、手に手にさしかざしたいろいろの日傘に、あたかも五彩の絹を中空に吹き靡かしたごとく、死したる風も颯と涼しく、美女たちの面を払って、久能の麓へ乗附けたが、途中では人一人、行脚の僧にも逢わなかったのである。
蝕あり、変あり、兵あり、乱ある、魔に囲まれた今日の、日の城の黒雲を穿った抜穴の岩に、足がかりを刻んだ様な、久能の石段の下へ着くと、茶店は皆ひしひしと真夜中のごとく戸を鎖して、蜻蛉も飛ばず。白茶けた路ばかり、あかあかと月影を見るように、寂然としているのを見て、大夫人が、
「野蛮だね。」
と嘲笑って、車夫に指揮して、一軒店を開けさして、少時休んで、支度が出来ると、帰りは船だから車は不残帰す事にして、さて大なる花束の糸を解いて、縦に石段に投げかけた七人の裾袂、ひらひらと扇子を使うのが、さながら蝶のひらめくに似て、め組を後押えで、あの、石段にかかった。
が、河野の一族、頂へ上ったら、思いがけない人を見よう。
これより前、相貌堂々として、何等か銅像の揺ぐがごとく、頤に髯長き一個の紳士の、握に銀の色の燦爛たる、太く逞き杖を支いて、ナポレオン帽子の庇深く、額に暗き皺を刻み、満面に燃るがごとき怒気を含んで、頂の方を仰ぎながら、靴音を沈めて、石段を攀じて、松の梢に隠れたのがあった。
これなん、ここに正に、大夫人がなせるごとく、海を行く船の竜頭に在るべき、河野の統領英臣であったのである。
英臣が、この石段を、もう一階で、東照宮の本殿になろうとする、一場の見霽に上り着いて、海面が、高くその骨組の丈夫な双の肩に懸った時、音に聞えた勘助井戸を左に、右に千仞の絶壁の、豆腐を削ったような谷に望んで、幹には浦の苫屋を透し、枝には白き渚を掛け、緑に細波の葉を揃えた、物見の松をそれぞと見るや――松の許なる据置の腰掛に、長くなって、肱枕して、面を半ば中折の帽子で隠して、羽織を畳んで、懐中に入れて、枕した頭の傍に、薬瓶かと思う、小さな包を置いて、悠々と休んでいた一個の青年を見た。
と立向って、英臣が杖を前につき出した時、日を遮った帽子を払って、柔かに起直って、待構え顔に屹と見迎えた。その青年を誰とかなす――病後の色白きが、清く瘠せて、鶴のごとき早瀬主税。
英臣は庇下りに、じろりと視めて、
「疾かった、のう」と鷹揚に一ツ頤でしゃくる。
「御苦労様です。」
と、主税は仰ぐようにして云った。
「いや、ここで話しょうと云うたのは私じゃで、君の方が病後大儀じゃったろう。しかし、こんな事を、好んで持上げたのはそちらじゃて、五分々々か、のう、はははは、」
と髯の中に、唇が薄く動いて、せせら笑う。
早瀬は軽く微笑みながら、
「まあ、お掛けなさいまし。」
と腰掛けた傍を指で弾いた。
「や、ここで可え。話は直き分る。」と英臣は杖を脇挟んで、葉巻を銜えた。
「早解りは結構です、そこで先日のお返事は?」
「どうかせい、と云うんじゃった、のう。もう一度云うて見い。」
「申しましょうかね。」
「うむ、」
と吸いつけた唾を吐く。
「ここで極て下さいましょうか。過日、病院で掛合いました時のように、久能山で返事しようじゃ困りますよ。ここは久能山なんですから。またと云っちゃ竜爪山へでも行かなきゃならない。そうすりゃ、まるで天狗が寄合いをつけるようです。」
「余計な事を言わんで、簡単に申せ。」
と今の諧謔にやや怒気を含んで、
「私が対手じゃ、立処に解決してやる!」
「第一!」
と言った……主税の声は朗であった。
「貴下の奥さんを離縁なさい。」
隼
五十三
一言亡状を極めたにも係わらず、英臣はかえって物静に聞いた。
「なぜか。」
「馬丁貞造と不埒して、お道さんを産んだからです。」
強いて言を落着けて、
「それから、」
「第二、お道さんを私に下さい。」
「何でじゃ?」
「私と、いい中です。」
「むむ、」
と口の内で言った。
「それから、」
「第三、お菅さんを、島山から引取っておしまいなさい。」
「なぜな。」
「私と約束しました。」
「誰と?」
はたと目を怒らすと、早瀬は澄まして、
「私とさ。」
「うむ、それから?」
「第四、病院をお潰しなさい。」
「なぜかい。」
「医学士が毒を装ります。」
「まだ有った、のう。」と、落着いて尋ねた。
「河野家の家庭は、かくのごとく汚れ果てた。……最早や、忰の嫁を娶るのに、他の大切な娘の、身分系図などを検べるような、不埒な事はいたしますまい。また一門の繁栄を計るために、娘どもを餌にして、婿を釣りますまい。
就中、独逸文学者酒井俊蔵先生の令嬢に対して、身の程も弁えず、無礼を仕りました申訳が無い、とお詫びなさい。
そうすりゃ大概、河野家は支離滅裂、貴下のいわゆる家族主義の滅亡さ。そこで敗軍した大将だ。貴下は安東村の貞造の馬小屋へでも引込むんだ。ざっと、まあ、これだけさ。」
と帽子で、そよそよと胸を煽いだ。
時に蝕しつつある太陽を、いやが上に蔽い果さんずる修羅の叫喚の物凄く響くがごとく、油蝉の声の山の根に染み入る中に、英臣は荒らかな声して、
「発狂人!」
「ああ、狂人だ、が、他の気違は出来ないことを云って狂うのに、この狂気は、出来る相談をして澄ましているばかりなんだよ。」
舌もやや釣る、唇を蠢かしつつ、
「で、私がその請求を肯かんけりゃ、汝、どうすッとか言うんじゃのう。」と、太息を吐いたのである。
「この毒薬の瓶をもって、ちと古風な事だけれど、恐れながらと、遣ろうと云うのだ。それで大概、貴下の家は寂滅でしょうぜ。」
英臣は辛うじて罵り得た。
「騙じゃのう、」
「騙ですとも。」
「強請じゃが。汝、」
「強請ですとも。」
「それで汝人間か。」
「畜生でしょうか。」
「それでも独逸語の教師か。」
「いいえ、」
「学者と言われようか。」
「どういたしまして、」
「酒井の門生か。」
「静岡へ来てからは、そんな者じゃありません。騙です。」
「何、騙じゃ、」
「強請です。畜生です。そして河野家の仇なんです。」
「黙れ!」
と一喝、虎のごとき唸をなして、杖をひしと握って、
「無礼だ。黙れ、小僧。」
「何だ、小父さん。」
と云った。英臣は身心ともに燃ゆるがごとき中にも、思わず掉下す得物を留めると、主税は正面へ顔を出して、呵々と笑って、
「おい、己を、まあ、何だと思う。浅草田畝に巣を持って、観音様へ羽を伸すから、隼の力と綽名アされた、掏摸だよ、巾着切だよ。はははは、これからその気で附合いねえ、こう、頼むぜ、小父さん。」
五十四
「己が十二の小僧の時よ。朝露の林を分けて、塒を奥山へ出たと思いねえ。蛙の面へ打かけるように、仕かけの噴水が、白粉の禿げた霜げた姉さんの顔を半分に仕切って、洒亜と出ていら。そこの釣堀に、四人連、皆洋服で、まだ酔の醒めねえ顔も見えて、帽子は被っても大童と云う体だ。芳原げえりが、朝ッぱら鯉を釣っているじゃねえか。
釣ってるのは鯉だけれど、どこのか田畝の鰌だろう。官員で、朝帰りで、洋服で、釣ってりゃ馬鹿だ、と天窓から呑んでかかって、中でも鮒らしい奴の黄金鎖へ手を懸ける、としまった! この腕を呻と握られたんだ。
掴えて打ちでもする事か、片手で澄まし込んで釣るじゃねえか。釣った奴を籠へ入れて、(小僧これを持って供をしろ。)ッて、一睨睨まれた時は、生れて、はじめて縮んだのさ。
こりゃ成程ちょろッかな(隼)の手でいかねえ。よく顔も見なかったのがこっちの越度で、人品骨柄を見たって知れる――その頃は台湾の属官だったが、今じゃ同一所の税関長、稲坂と云う法学士で、大鵬のような人物、ついて居た三人は下役だね。
後で聞きゃ、ある時も、結婚したての細君を連れて、芳原を冷かして、格子で馴染の女に逢って、
(一所に登楼るぜ。)と手を引いて飛込んで、今夜は情女と遊ぶんだから、お前は次の室で待ってるんだ、と名代へ追いやって、遊女と寝たと云う豪傑さね。
それッきり、細君も妬かないが、旦那も嫉気少しもなし。
いつか三月ばかり台湾を留守にして、若いその細君と女中と書生を残して置くと、どこの婦も同一だ。前から居る下役の媽々ども、いずれ夫人とか、何子とか云う奴等が、女同士、長官の細君の、年紀の若いのを猜んだやつさ。下女に鼻薬を飼って讒言をさせたんだね。その法学士が内へ帰ると、(お帰んなさいまし、さて奥様はひょんな事。)と、書生と情交があるように言いつける。とよくも聞かないで、――(出て行け。)――と怒鳴り附けた。
誰に云ったと思います。細君じゃない。その下女にさ。
どうです。のろかったり、妬過ぎたり、凡人業じゃねえような、河野さん、貴下のお婿様連にゃ、こういうのは有りますまい。
己が掴ったのはその人だ。首を縮めて、鯉の入った籠を下げて、(魚籃)の丁稚と云う形で、ついて行くと、腹こなしだ、とぶらりぶらり、昼頃まで歩行いてさ、それから行ったのが真砂町の酒井先生の内だった。
学校のお留守だったが、親友だから、ずかずかと上って、小僧も二階へ通されたね。(奥さん、これにもお膳を下さい。)と掏摸にも、同一ように、吸物膳。
女中の手には掛けないで、酒井さんの奥方ともあろう方が、まだ少かった――縮緬のお羽織で、膳を据えて下すって、(遠慮をしないで召食れ、)と優しく言って下すった時にゃ、己あ始めて涙が出たのよ。
先生がお帰りなさると、四ツ膳の並んだ末に、可愛い小僧が居るじゃねえか。(何だい、)と聞かれたので、法学士が大口開いて(掏摸だよ。)と言われたので、ふッつり留める気になったぜ、犬畜生だけ、情には脆いのよ。
法学士が、(さあ、使賃だ、祝儀だ、)と一円出して、(酒が飲めなきゃ飯を食ってもう帰れ、御苦労だった、今度ッからもっと上手に攫れよ。)と言われて、畳に喰ついて泣いていると、(親がないんだわねえ、)と、勿体ねえ、奥方の声がうるんだと思いねえ。(晩の飯を内で食って、翌日の飯をまた内で食わないか、酒井の籠で飼ってやろう、隼。)と、それから親鳥の声を真似て、今でも囀る独逸語だ。
世の中にゃ河野さん、こんな猿を養って、育ててくれる人も有るのに、お前さん方は、まあ何という、べらぼうな料簡方だい。
可愛い娘たちを玉に使って、月給高で、婿を選んで、一家の繁昌とは何事だろう。
たまたま人間に生を受けて、しかも別嬪に生れたものを、一生にたった一度、生命とはつりがえの、色も恋も知らせねえで、盲鳥を占めるように野郎の懐へ捻込んで、いや、貞女になれ、賢母になれ、良妻になれ、と云ったって、手品の種を通わせやしめえし、そう、うまく行くものか。
見たが可い、こう、己が腕がちょいと触ると、学校や、道学者が、新粉細工で拵えた、貞女も賢母も良妻も、ばたばたと将棊倒しだ。」
英臣の目は血走った。
五十五
「河野の家には限らねえ。およそ世の中に、家の為に、女の児を親勝手に縁附けるほど惨たらしい事はねえ。お為ごかしに理窟を言って、動きの取れないように説得すりゃ、十六や七の何にも知らない、無垢な女が、頭一ツ掉り得るものか。羞含んで、ぼうとなって、俯向くので話が極って、赫と逆上せた奴を車に乗せて、回生剤のような酒をのませる、こいつを三々九度と云うのよ。そこで寝て起りゃ人の女房だ。
うっかり他と口でも利きゃ、直ぐに何のかのと言われよう。それで二人が繋って、光った態でもして歩行けば、親達は緋縅の鎧でも着たように汝が肩身をひけらかすんだね。
娘が惚れた男に添わせりゃ、たとい味噌漉を提げたって、玉の冠を被ったよりは嬉しがるのを知らねえのか。傍の目からは筵と見えても、当人には綾錦だ。亭主は、おい、親のものじゃねえんだよ。
己が言うのが嘘だと思ったら、お道さんに聞いて見ねえ。病院長の奥様より、馬小屋へ入っても、早瀬と世帯が持ちたいとよ。お菅さんにも聞いて見ねえ。」
「不埒な奴だ?」
と揺いた英臣の髯の色、口を開いて、黒煙に似た。
「不埒は承知よ。不埒を承知でした事を、不埒と言ったって怯然ともしねえ。豪い、と讃めりゃ吃驚するがね。
今更慌てる事はないさ、はじめから知れていら。お前さんの許のような家風で、婿を持たした娘たちと、情事をするくらい、下女を演劇に連出すより、もっと容易いのは通相場よ。
こう、もう威張ったって仕ようがねえ。恐怖くはないと言えば、」
と微笑みながら、
「そんな野暮な顔をしねえで、よく言うことを聞け、と云うに。――
おい、まだ驚く事があるぜ。もう一枝、河野の幹を栄さそうと、お前さんが頼みにしている、四番目の娘だがね、つい、この間、暑中休暇で、東京から帰って来た、手入らずの嬢さんは、医学士にけがされたぜ。
己に毒薬を装らせたし、ばれかかったお道さんの一件を、穏便にさせるために、大奥方の計らいで、院長に押附けたんだ。己と合棒の万太と云う、幼馴染の掏摸の夥間が、ちゃんと材料を上げていら。
やっぱり家の為だろう。河野家の名誉のために、旧悪を知ってる上、お道さんと不都合した、早瀬と云う者を毒殺しようと、娘を一人傷物にしたんじゃないか。
そこを言うのだ。児よりも家を大切がる残酷な親だと云うのは、よ。
なぜ手をついて懺悔をしない。悪かった。これからは可愛い娘を決して名聞のためには使いますまい。家柄を鼻にかけて他の娘に無礼も申掛けますまい、と恐入ってしまわないよ。
小児一人犠牲にして、毒薬なんぞ装らないでも、坊主になって謝んねえな。」
五十六
面も触らず言を継ぎ、
「それに、お前さん何と云った。――この間も病院で、この掛合をする前に、念のために聞いた時だ。――
たって英吉君の嫁に欲しいとお言いなさる、私が先生のお妙さんは、実は柳橋の芸者の子だが、それでも差支えは無いのですか、と尋ねたら、お前さん、もっての外な顔をして、いや、途方もない。そんな賤しい素性の者なら、たとえ英吉がその為に、憧れ死をしようとも、己たち両親が承知をせん。家名に係わる、と云ったろう。
こう、お前たちにゃ限らねえ。世間にゃそうした情無え了簡な奴ばかりだから、そんな奴等へ面当に、河野の一家を鎗玉に挙げたんだ。
はじめから話にならねえ縁談だから可いけれど、これが先生も承知の上、嬢さんも好いた男で、いざ、と云う時、そでねえ系図しらべをされて、芸者の子だというだけで、破談にでもなった時の、先生御夫婦、お嬢さんの心持はどんなだろう。
己らそれを思うから、人間並にゃ附合えねえ肩書つきの悪丁稚を、一人前に育てた上、大切な嬢さんに惚れているなら添わしてやろう、とおっしゃって下すった、先生御夫婦のお志。掏摸の野郎と顔をならべて、似而非道学者の坂田なんぞを見返そうと云った江戸児のお嬢さんに、一式の恩返し、二ツあっても上げたい命を、一ツ棄てるのは安価いものよ。
お前さんにゃ気の毒だ。さぞ御迷惑でございましょう。」
と丁寧に笑って言って、
「迷惑や気の毒を勘酌して巾着切が出来るものか。真人間でない者に、お前、道理を説いたって、義理を言って聞かしたって、巡査ほどにも恐くはねえから、言句なしに往生するさ。軍に負けた、と思えば可かろう。
掏摸の指で突いても、倒れるような石垣や、蟻で崩れる濛を穿って、河野の旗を立てていたって、はじまらねえ話じゃねえか。
お前さん、さぞ口惜かろう。打ちたくば打て、殺したくば殺しねえ、義理を知って死ぬような道理を知った己じゃねえが、嬢さんに上げた生命だから、その生命を棄てるので、お道さんや、お菅さんにも、言訳をするつもりだ。死んでも寂い事はねえ、女房が先へ行って待っていら。
お蔦と二人が、毒蛇になって、可愛いお妙さんを守護する覚悟よ。見ろ、あの竜宮に在る珠は、悪竜が絡い繞って、その器に非ずして濫りに近づく者があると、呪殺すと云うじゃないか。
呪詛われたんだ、呪詛われたんだ。お妙さんに指を差して、お前たちは呪詛われたんだ。」
と膝に手を置き、片面を、怪しきものの走るがごとく颯と暗くなった海に向けて、蝕ある凄き日の光に、水底のその悪竜の影に憧るる面色した時、隼の力の容貌は、かえって哲学者のごときものであった。
英臣は苔蒸せる石の動かざるごとく緘黙した。
一声高らかに雉子が啼くと、山は暗くなった。
勘助井戸の星を覗こうと、末の娘が真先に飜然と上って、続いて一人々々、名ある麗人の霊のごとく朦朧として露われた途端に、英臣はかねてその心構えをしたらしい、やにわに衣兜から短銃を出して、衝と早瀬の胸を狙った。あわやと抱き留めた惣助は刎倒されて転んだけれども、渠危し、と一目見て、道子と菅子が、身を蔽いに、背より、胸より、ひしと主税を庇ったので、英臣は、面を背けて嘆息し、たちまち狙を外らすや否や、大夫人を射て、倒して、硝薬の煙とともに、蝕する日の面を仰ぎつつ、この傲岸なる統領は、自からその脳を貫いた。
抱合って、目を見交わして、姉妹の美人は、身を倒に崖に投じた。あわれ、蔦に蔓に留まった、道子と菅子が色ある残懐は、滅びたる世の海の底に、珊瑚の砕けしに異ならず。
折から沖を遥に、光なき昼の星よと見えて、天に連った一点の白帆は、二人の夫等の乗れる船にして、且つ死骸の俤に似たのを、妙子に隠して、主税は高く小手を翳した。
その夜、清水港の旅店において、爺は山へ柴苅に、と嬢さんを慰めつつ、そのすやすやと寐たのを見て、お蔦の黒髪を抱きながら、早瀬は潔く毒を仰いだのである。
早瀬の遺書は、酒井先生と、河野とに二通あった。
その文学士河野に宛てたは。――英吉君……島山夫人が、才と色とをもって、君の為に早瀬を擒にしようとしたのは事実である。また我自から、道子が温良優順の質に乗じて、謀って情を迎えたのも事実である。けれども、そのいずれの操をも傷けぬ。双互にただ黙会したのに過ぎないから、乞う、両位の令妹のために、その淑徳を疑うことなかれ。特に君が母堂の馬丁と不徳の事のごときは、あり触れた野人の風説に過ぎなかった。――事実でないのを確めたに就いて、我が最初の目的の達しられないのに失望したが、幸か、不幸か、浅間の社頭で逢った病者の名が、偶然貞造と云うのに便って、狂言して姉夫人を誘出し得たのであった。従って、第四の令妹の事はもとより、毒薬の根も葉もないのを、深夜蛾が燈に斃ちたのを見て、思い着いて、我が同類の万太と謀って、渠をして調えしめた毒薬を、我が手に薬の瓶に投じて、直ちに君の家厳に迫った。
不義、毒殺、たとえば父子、夫妻、最親至愛の間においても、その実否を正すべく、これを口にすべからざる底の条件をもって、咄嗟に雷発して、河野家の家庭を襲ったのである。私は掏賊だ、はじめから敵に対しては、機謀権略、反間苦肉、有ゆる辣手段を弄して差支えないと信じた。
要はただ、君が家系門閥の誇の上に、一部の間隙を生ぜしめて、氏素性、かくのごとき早瀬の前に幾分の譲歩をなさしめん希望に過ぎなかったに、思わざりき、久能山上の事あらんとは。我は偏に、君の家厳の、左右一顧の余裕のない、一時の激怒を惜むとともに、清冽一塵の交るを許さぬ、峻厳なるその主義に深大なる敬意を表する。
英吉君、能うべくは、我意を体して、より美く、より清き、第二の家庭を建設せよ。人生意気を感ぜずや――云々の意を認めてあった。
門族の栄華の雲に蔽われて、自家の存在と、学者の独立とを忘れていた英吉は、日蝕の日の、蝕の晴るると共に、嗟嘆して主税に聞くべく、その頭脳は明に、その眼は輝いたのである。
早瀬は潔く云々以下、二十一行抹消。――前篇後篇を通じその意味にて御覧を願う。はじめ新聞に連載の時、この二十一行なし。後単行出版に際し都合により、徒を添えたるもの。或はおなじ単行本御所有の方々の、ここにお心つかいもあらんかとて。
明治四十(一九〇七)年一〜四月