あらすじ
「婦系図」は、江戸時代の東京を舞台に、早瀬主税とその妻のお蔦、そして個性的な魚屋・め組の惣助が繰り広げる、人情味あふれる物語です。ある日、主税の友人である河野英吉とその母親が訪れ、お蔦は河野の母親に奇妙な印象を受けます。一方、め組は河野の母親の過去に隠された秘密を知っており、その秘密が物語に波乱を巻き起こします。美しい娘・妙子の登場、そしてめ組と河野の母親の関係が明らかになるにつれて、物語は予想外の展開を見せ、読者を魅了します。
     鯛、比目魚

       一

 素顔に口紅でうつくしいから、その色にまがうけれども、可愛いは、唇が鳴るのではない。おつたは、皓歯しらは酸漿ほおずきを含んでいる。……
「早瀬の細君レコはちょうど(二十はたち)と見えるが三だとサ、その年紀としで酸漿を鳴らすんだもの、大概素性も知れたもんだ、」と四辺あたり近所は官員つとめにんの多い、屋敷町の夫人おくさま連が風説うわさをする。
 すでに昨夜ゆうべも、神楽坂の縁日に、桜草を買ったついでに、いのをって、昼夜帯の間に挟んで帰った酸漿を、隣家となりの娘――女学生に、一ツ上げましょう、と言って、そんな野蛮なものは要らないわ! とねられて、利いた風な、と口惜くやしがった。
 面当つらあてというでもあるまい。あたかもその隣家となりの娘の居間と、垣一ツ隔てたこの台所、腰障子の際に、懐手でたたずんで、何だか所在なさそうに、しきりに酸漿を鳴らしていたが、ふと銀杏返いちょうがえしのほつれたびんを傾けて、目をぱっちりと開けて何かを聞澄ますようにした。
 コロコロコロコロ、クウクウコロコロと声がする。唇の鳴るのに連れて。
 ちょいと吹留ふきやむと、今は寂寞しんとして、その声が止まって、ぼッと腰障子へ暖う春の日は当るが、軒を伝う猫もらず、雀の影もささぬ。
 鼠かと思ったそうで、ななめに棚の上を見遣みやったが、鍋も重箱もかたりとも云わず、古新聞がまたがさりともせぬ。
 四辺あたりを見ながら、うっかり酸漿に歯が触る。とそのかすかにも直ちに応じて、コロコロ。少し心着いて、続けざまに吹いて見れば、透かさずクウクウ、調子を合わせる。
 聞き定めて、
「おや、」と云って、一段下流しもながしの板敷へ下りると、お源と云う女中が、今しがたここからけ出して、玄関の来客を取次いだ草履が一ツ。ぞんざいに黒い裏を見せてひっくり返っているのを、白い指でちょいと直し、素足に引懸ひっかけ、がたり腰障子を左へ開けると、十時過ぎの太陽が、向うの井戸端の、柳の上からはすっかけに、あまね射込さしこんで、まないたの上に揃えた、菠薐草ほうれんそうの根を、くれないに照らしたばかり。
 多分はそれだろう、口真似くちまねをするのは、と当りをつけた御用聞きの酒屋の小僧は、どこにも隠れているのではなかった。
 眉をひそめながら、その癖恍惚うっとりした、迫らない顔色かおつきで、今度は口ずさむと言うよりもわざと試みにククと舌のさきで音を入れる。響に応じて、コロコロとったが、こっちは一吹きで控えたのに、先方さき発奮はずんだと見えて、コロコロコロ。
 これを聞いて、かがんで、板へ敷く半纏はんてんすそ掻取かいとり、膝に挟んだ下交したがいつま内端うちわに、障子腰から肩を乗出すようにして、つい目のさきの、下水の溜りに目を着けた。
 もとより、溝板どぶいたふたがあるから、ものの形は見えぬけれども、やさし連弾つれびきはまさしくその中。
 えみを含んで、クウクウと吹き鳴らすと、コロコロと拍子を揃えて、近づいただけ音を高く、調子が冴えてカタカタカタ!
「蛙だね。」
 と莞爾にっこりした、その唇の紅を染めたように、酸漿を指に取って、衣紋えもんかろちながら、
「憎らしい、お源や…………」
 来て御覧、と呼ぼうとして、声が出たのを、おさえて酸漿をまた吸った。
 ククと吹く、カタカタ、ククと吹く、カタカタ、蝶々の羽で三味線さみせんの胴をうつかと思われつつ、静かにくる春の日や、お蔦の袖に二三寸。
「おう、」と突込つっこんで長く引いた、遠くから威勢のい声。
 来たのは江戸前の魚屋で。

       二

 ここへ、台所と居間の隔てを開け、茶菓子を運んで、二階から下りたお源という、小柄こがらい島田の女中が、逆上のぼせたような顔色かおつきで、
「奥様、魚屋が参りました。」
「大きな声をおしでないよ。」
 とお蔦は振向いて低声こごえたしなめ、お源が背後うしろから通るように、身を開きながら、
「聞こえるじゃないか。」
 目配せをすると、お源は莞爾にっこりして俯向うつむいたが、ほんのりあかくした顔を勝手口から外へ出して路地のうちを目迎える。
奥様おくさんは?」
 とその顔へ、打着ぶつけるように声を懸けた。またこれがその(おう。)の調子で響いたので、お源が気をんで、手を振っておさえた処へ、盤台はんだいを肩にぬいと立った魚屋は、渾名あだなを(組)ととなえる、名代の芝ッ
 半纏は薄汚れ、腹掛の色がせ、三尺がじくれて、股引ももひきは縮んだ、が、盤台はうつくしい。
 いつもの向顱巻むこうはちまきが、四五日陽気がほかほかするので、ひしゃげ帽子を蓮の葉かぶり、ちっとも涼しそうには見えぬ。例によってこしめした、朝から赤ら顔の、とろんとした目で、お蔦がそこに居るのを見て、
「おいでなさい、奥様おくさん、へへへへへ。」
「おしってば、気障きざじゃないか。お源もまた、」
 と指のさきで、びんをちょいときながら、袖を女中の肩に当てて、
「お前もやっぱり言うんだもの、半纏着た奥様おくさんが、江戸に在るものかね。」
「だって、ねえ、のさん。」
 とお源は袖を擦抜けて、俎板まないたの前へしゃがむ。
「それじゃ御新造ごしんぞかね。」
「そんなおあしはありやしないわ。」
「じゃ、おかみさん。」
「あいよ。」
「へッ、」
 と一ツ胸でしゃくって笑いながら、盤台を下ろして、天秤てんびんを立掛ける時、菠薐草を揃えている、お源のせなを上から見て、
「相かわらずおおきな尻だぜ、台所充満だいどこいっぱいだ。串戯じょうだんじゃねえ。目量めかたにしたら、およそどのくれえ掛るだろう。」
「お前さんのおしぐらい掛ります。」
「ああいう口だ。はははは、奥さんのお仕込みだろう。」
の字、」
「ええ、」
「二階にお客さまが居るじゃないか、奥様おくさんはおよしと言うのにね。」
「おっと、そうか、」
 ぺろぺろと舌を吸って、
「何だって、日蔭ものにして置くだろう、こんな実のある、気前のい……」
「値切らない、」
「ほんによ、所帯持の可い姉さんを。分らないだんじゃねえか。」
「可いよ。私が承知しているんだから、」
 とまなじりの切れたのを伏目になって、お蔦は襟におとがいをつけたが、慎ましく、しおらしく、且つ湿しめやかに見えたので、組もおとなしくうなずいた。
 お源が横向きに口を出して、
「何があるの。」
「へ、野暮な事を聞くもんだ。相変らずうめえものをくわしてやるのよ。黙って入物を出しねえな。」
「はい、はい、どうせ無代価ただで頂戴いたしますものでございます。のさんのお魚は、現金にも月末つきずえにも、ついぞ、お代をお取り遊ばしたことはございません。」
「皮肉を言うぜ。何てったって、お前はどうせ無代価で頂くもんじゃねえか。」
「大きに、お世話、御主人様から頂きます。」
「あれ、見や、島田をゆすぶってら。」
「ちょいと、番ごといがみあっていないでさ。お源や、お客様に御飯が出そうかい。」
「いかがでございますか、婦人おんなの方ですから、そんなに、お手間は取れますまい。」

       三

「だってお前、急に帰りそうもないじゃないか。」
 と云って、組の蓋を払った盤台を差覗さしのぞくと、たいの濡色輝いて、広重の絵を見る風情、柳の影は映らぬが、河岸の朝の月影は、まだそのうろこに消えないのである。
 俎板をポンと渡すと、目の下一尺の鮮紅からくれないそりを打って飜然ひらりと乗る。
 とろんこの目には似ず、キラリと出刃を真名箸まなばしかまえに取って、
「刺身かい。」
「そうね、」
 とお蔦は、半纏の袖を合わせて、ちょっと傾く。
「焼きねえ、昨日も刺身だったから……」
 と腰を入れると腕のさえさっと吹いて、鱗がぱらぱら。
「ついでに少々お焼きなさいますなぞもまた、へへへへへ、およろしゅうございましょう。御婦人のお客で、お二階じゃ大層お話が持てますそうでございますから。」
憚様はばかりさま。お客は旦那様のお友達の母様おっかさんでございます。」
 の字が鯛をおろす形は、いつ見てもしみじみ可い、と評判の手つきに見惚みとれながら、お源が引取って口を入れる。
 えらを一突き、ぐいと放して、
へこんだな。いつかの新ぎれじゃねえけれど、の公塩が廻り過ぎたい。」
「そういや、の字、」
 とお蔦は片手を懐に、するりとすべ黒繻子くろじゅすの襟を引いて、
過日このあいだ頼んだ、河野こうのさんとこへ、そののち廻ってくれないッて言うじゃないか、どうしたの?」
「むむ、河野ッて。何かい、あの南町のおやしきかい。」
「ああ、なぜか、魚屋が来ないッて、昨日きのうも内へ来て、旦那にそう言っていなすったよ。行かないの、」
「行かねえ。」
「ほんとうに、」
「行きませんとも!」
「なぜさ、」
「なぜッて、おめえ、あんけだものア、」
 お源があわただしく、
のさん、」
「何だ。」
のさんや。お前さんちょいと、お二階に来ていらっしゃるのはその河野さんの母様おっかさんじゃないか、気をお着けな。」
 帽子をすっぽり亀の子すくみで、
「ホイ阿陀仏おだぶつ、へい、あすこにゃ隠居ばかりだと思ったら……」
「いいえね、つい一昨日おとといあたり故郷おくにの静岡からおいでなすったんですとさ。私がお取次に出たら河野の母でございます、とおっしゃったわ。」
「だから、母様が見えたのに、おいしいものが無いッて、河野さんが言っていなすったのさ、お前、」
「おいしいものが聞いて呆れら。へい、そして静岡だってね。」
「ああ、」
「と御維新以来このかた江戸児えどッこの親分の、慶喜様が行っていた処だ。第一かく申すの公も、江戸城を明渡しの、落人おちうどめた時分、二年越居た事がありますぜ。
 馬鹿にしねえ、大親分が居て、それからわっしが居た土地だ。大概てえげい江戸ッ児になってそうなもんだに、またどうして、あんな獣が居るんだろう。
 聞きねえ。
 過日こないだもね、おめえ、まったくはお前、一軒かけ離れて、あすこへくのは荷なんだけれども、ちとポカと来たし、うおがなくッて困るッて言いなさる、廻ってお上げ、とお前さんが口を利くから、チョッ蔦ちゃんの言うこッた。
 すね達引たてひけ、と二三度行ったわ。何じゃねえか、一度おめえ、おう、先公、居るかいッて、景気に呼んだと思いねえ。」
 お蔦は莞爾にっこりして、
せんこうッて誰のこったね。」
「内の、お友達よ。河野さんは、学士だとか、学者だとか、先生だとか言うこッたから、一ツ奉って呼んだのよ。」
 とひれをばっさり。

       四

いじゃねえか、おめえ、先公だから先公よ。何も野郎とも兄弟きょうでえとも言ったわけじゃねえ。」
 と庖丁のさきを危くすべらして、鼻の下を引擦ひっこすって、
「すると何だ。肥満ふとっちょのお三どんが、ぶっちょう面をしゃあがって、旦那様とか、先生とかお言いなさい、御近所へ聞えます、とぬかしただろうじゃねえか。
 ええ、そんなに奉られたけりゃ三太夫でも抱えれば可い。口に税を出すくらいなら、はばかんながらわっしあ酒もくらわなけりゃ魚も売らねえ。お源ちゃんのめえだけれども。おっとこうした処は、お尻の方だ。」
「そんなに、お邪魔なら退けますよ。」
 お源が俎板を直して向直る。とおもてを合わせて、
「はははははは、今日こんちあ、」
「何かい、それで腹を立ってかないのかい。」
「そこはお前さんに免じてかんの虫をおさえつけた。翌日あくるひも廻ったがね、今度は言種いいぐさがなお気に食わねえ。
 今日はもうおかずが出来たから要らないよサ。合点がってんなるめえじゃねえか。わっしが商う魚だって、品に因っちゃ好嫌すききれえは当然あたりめえだ。ものを見てよ、その上で欲しくなきゃ止すが可い。喰いたくもねえものを勿体もってえねえ、お附合いに買うにゃ当りやせん、食もたれの※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびなんぞで、せせり箸をされた日にゃ、第一うおが可哀相だ。
 こっちはおめえ、河岸で一番首を討取る気組みで、佳いものを仕入れてよ、一ツおいしく食わせてやろうと、汗みずくで駈附けるんだ。醜女すべた情人いろを探しはしめえし、もう出来たよで断られちゃ、間尺に合うもんじゃねえ。ね、蔦ちゃんの前だけれど、」
「今度は私が背後うしろを向こうか。」
 とお蔦は、下に居る女中の上から、向うの棚へ手を伸ばして、摺鉢すりばちに伏せた目笊めざるを取る。
「そらよ、こっちがだんの分。こりゃお源坊のだ。奥様おくさんあらが可い、煮るともうしおにするともして、天窓あたまかじりの、目球めだまをつるりだ。」
「私は天窓を噛るのかい。」
 お蔦は莞爾にっこりして、組にその笊を持たせながら、指の尖で、涼しい鯛の目をちょいと当る。
「ワンワンに言うようだわ、何だねえ、失礼な。」
 とお源は柄杓ひしゃくで、がたりと手桶ておけの底をむ。
「田舎ものめ、河野の邸へ鞍替くらがえしろ、朝飯にぎゅうはあっても、てえの目を食った犬は昔から江戸にゃ無えんだ。」
「はい、はい、」
 手桶を引立ひったてて、お源は腰を切って、出て、溝板どぶいたを下駄で鳴らす。
「あれ、邪険にお踏みでない。私の情人いろが居るんだから。」
「情人がね。」
「へい、」
 と言ったばかり、こっちは忙がしい顔色かおつきで、女中は聞棄てにして、井戸端へかたかた行く。
みぞの中に、はてな。」
 印半纏しるしばんてんの腰を落して、溝板を見当にゆびさしながら、ひしゃげた帽子をくるりと廻わして、
「変ってますね。」
「見せようか。」
「是非お目にかかりてえね。」
「お待ちよ、」
 と目笊はながしへ。お蔦は立直って腰障子へ手をかけたが、どぶの上に背伸をして、今度は気構えて勿体らしく酸漿ほおずきをクウと鳴らすと、言合せたようにコロコロコロ。
「ね、可愛いだろう。」
 カタカタカタ!
けえろだ、蛙だ。はははは、こいつア可い。なるほど蔦ちゃんの情人かも知れねえ。」
朧月夜おぼろづきよの色なんだよ。」
 得意らしく済ました顔は、柳に対して花やかである。
「畜生め、拝んでやれ。」
 と好事ものずき蹲込しゃがみこんで、溝板を取ろうとする、組は手品の玉手箱のふたを開ける手つきなり。
「お止しよ、げるから、」
 と言う処へ、しとやかに、階子段はしごだんを下りる音。トタンに井戸端で、ざあと鳴ったは、柳の枝に風ならず、長閑のどか釣瓶つるべかえしたのである。


     見知越

       五

 続いてドンドン粗略ぞんざいに下りたのは、名を主税ちからという、当家、早瀬の主人で、直ぐに玄関に声が聞える。
「失礼、河野さんに……また……お遊びに。さようなら。……」
 格子戸の音がしたのは、客が外へ出たのである。その時、お蔦の留めるのも聞かないで、どぶなる連弾つれびきを見届けようと、やにわにその蓋を払った組は、蛙の形も認めない先に、お蔦がすっと身を退いて、腰障子の蔭へ立隠れをしたので、ああ、落人でもないに気の毒だ、と思って、客はどんな人間だろうと、格子から今出た処を透かして見る。とそこで一つ腰をかがめて、立直った束髪は、前刻さっきから風説うわさのあった、河野の母親と云う女性にょしょう
 黒の紋羽二重の紋着もんつき羽織、ちと丈の長いのを襟を詰めた後姿。せがれが学士だ先生だというのでも、大略あらまし知れた年紀としは争われず、髪は薄いが、櫛にてらてらとつやが見えた。
 背は高いが、小肥こぶとりに肥った肩のやや怒ったのは、妙齢としごろには御難だけれども、この位な年配で、服装みなりが可いと威が備わる。それに焦茶の肩掛ショオルをしたのは、今日あたりの陽気にはいささかお荷物だろうと思われるが、これも近頃は身躾みだしなみの一ツで、貴婦人あなた方は、菖蒲あやめが過ぎても遊ばさるる。
 直ぐに御歩行おはこびかと思うと、まだそれから両手へ手袋をめたが、念入りに片手ずつ手首へぐっとしごいた時、襦袢じゅばんの裏の紅いのがチラリとかえる。
 年紀としのほどを心づもりに知った組は、そのちらちらを一目見ると、や、火の粉が飛んだように、へッとうなじすくめた処へ、
「まだ、花道かい?」
 とお蔦が低声こごえ
附際つけぎわ々々、」
 ともう一息組の首をすくめる時、先方さきは格子戸に立かけた蝙蝠傘こうもりがさを手に取って、またぞろ会釈がある。
「思入れ沢山だくさんだ。いよう!」
 おっとその口を塞いだ。声はもとより聞えまいが、こなたに人の居るは知れたろう。
 振返って、額の広い、鼻筋の通った顔で、きっと見越した、目が光って、そのまま悠々と路地を町へ。――勿論勝手口は通らぬのである。組はつかつかと二足三足、
「おやおやおや、」
 調子はずれな声を放って、手を拡げてぼうとなる。
「どうしたの。」
可訝おかしいぜ。」
 と急に威勢よく引返ひっかえして、
「あれが、今のが、その、河野ッてえのの母親おふくろかね、静岡だって、故郷くにあ、」
「ああ。」
うち医師いしゃじゃねえかしらん。はてな。」
「どうした、組。」
 とむぞうさに台所へ現われた、二十七八のこざっぱりしたのは主税である。
「へへへへへ、」
 満面にえみを含んだ、組は蓮葉はすっぱ帽子の中から、夕映ゆうやけのような顔色がんしょく
「お早うござい。」
「何が早いものか。もう午飯おひるだろう、何だ御馳走は、」
 と覗込のぞきこんで、
「ははあ、てえだな。」
たいとおっしゃいよ、見ッともない。」
 とお蔦が笑う。
「他の魚屋の商うのはたいさ、組のに限っちゃてえよ、なあ、めい公。」
「違えねえ。」
「だって、貴郎あなたは柄にないわ、主公様だんなさまは大人しく鯛魚たいとととおっしゃるもんです、ねえ、のさん。」
「違えねえ。」
 主税は色気のない大息ついて、
なんにしろ、ああ腹が空いたぜ。」
「そうでしょうッて、寝坊をするから、まだ朝御飯をあがらないもの。」
「違えねえ、たしかにアリャ、」
 と、組は路地口へ伸上る。

       六

「大分御執心のようだが、どうした。」
 と、組のその素振に目を着けて、主税は空腹すきはらだというのに。……
「後姿に惚れたのかい。おい、もうい加減なお婆さんだぜ。」
「だって貴郎あなたにゃお婆さんでも、組には似合いな年紀としごろだわ。ねえ、ちょいと、」
「へへへ、違えねえ。」
「よく、(違えねえ。)を云う人さ。」
「だから、たしかだろうと思うんでさ。」
 とつぶやいてひとりで飲込み、仰向いて天秤棒を取りながら、
「旦那、」
ら御免だ。」と主税は懐手で一ツ肩をゆする。
「え、何を。」
「文でも届けてくれじゃないか。」
御串戯ごじょうだん。いえさ、串戯は止して今のお客は直ぐに南町のうちへ帰りそうな様子でしたかね。」
「むむ、ずッと帰ると言ったっけ。」
難有ありがてえ、」
 額をびっしゃり。
「後を慕って、おおそうだ、とれ。」
くのかい、河野さんへ。」
「ちょっぴりね、」
「じゃ可いけれど。貴郎、」
 と主税を見て莞爾にっこりして、
「めい公がね、また我儘わがままを云って困ったんですよ。お邸風を吹かしたり、お惣菜並に扱うから、河野さんへはもう行かないッて。折角お頼まれなすったものを、貴郎が困るだろうと思って、これから意見をしてやろうと思った処だったのよ。」
「そうか。」
 となぜか、主税は気の無い返事をする。
「御覧なさい。そうすると急にあの通り。ほんとうに気が変るっちゃありやしない。まるで猫の目ね。」
「違えねえ、猫の目の犬の子だ。どっこい忙がしい、」
 と荷を上げそうにするのを見て、
「待て、待て、」
「沢山よ。貴郎の分は三切あるわ。まだ昨日きのうのも残ってるじゃありませんか。めのさん、可いんだよ。この人にね、お前の盤台を覗かせると、みんなほしがるンだから……」
「これ、」
 旦那様苦い顔で、
「端近で何のこったい、野良猫に扱いやあがる。」
「だっ……て、」
組も黙って笑ってる事はない、何か言え、営業の妨害さまたげをするおんなだ。」
かないよ、めの字、沢山なんだから、」
「まあ、お前、」
「いいえ、沢山、大事な所帯だわ。」
「驚きますな。」
「私、もう障子を閉めてよ。」
組、このていだ。」
「へへへ、こいつばかりゃ犬も食わねえ、いや、寸ずつあがりまし。」
「おい、待てと云うに。」
「さっさとおいでよ、魚屋のようでもない。」
「いや、遣瀬やるせがねえ。」
 と天秤棒をしんにして、組は一ツくるりと廻る。
「おかずのあとねだりをするんじゃ、ないと云うに。」
 と笑いながらお蔦をにらんで、
「なあ、組。」
「ええ、」
「これから河野へくんだろう。」
「三枚並で駈附けまさ。」
「それに就いてだ、ちょいと、ここに話が出来た。」

       七

「その、河野へ行くに就いてだが、」
 と主税は何か、言淀んで、
「何は、」
 お蔦に目配せ、
「茶はないのか。」
「お茶ッて? 有りますわ。ほほほほ、まあ、人に叱言こごとを云う癖に、貴郎あなたこそ端近で見ッともないじゃありませんか―ありますわ―さあ、あっちへいらっしゃい。」
 と上ろうとする台所に、主税が立塞がっているので、袖の端をちょいと突いて、
「さあ、」
 組は威勢よく、
「へい、跡は明晩……じゃねえ、あしたの朝だ。」
まちなッてば、」
「可いよ、めのさん。」
「はて、どうしたら、」と首を振る。
「お前たちは、」
 と主税は呆れた顔で呵々からからと笑って、
「相応に気が利かないのに、早飲込だからこんがらがって仕様がない。組もまた、さんざ油を売った癖に、急にそわそわせずともだ。まあ、待て、おれが話があると言えば。
 そこでだ……お茶と申すは、冷たい……」
 と口へつけて、指で飲む真似。
「とる一件だ。」
組に……」
「沢山だ、沢山だ。わっしなら、」
 と声ばかり沢山で、俄然がぜんとして蜂の腰、竜の口、させ、飲もうのかまえになる。
不可いけません、もう飲んでるんだもの。この上あおらして御覧なさい。また過日いつかのように、ちょいと盤台を預っとくんねえ、か何かで、」
 お蔦は半纏の袖を投げて、婀娜あだに酔ッぱらいを、拳固で見せて、
「それッきり、五日の間行方知れずになっちまう。」
「旦那、こうなると頂きてえね、人間は依怙地いこじなもんだ。」
「可いから、己が承知だから、」
「じゃ、組に附合って、これから遊びにでも何でもおいでなさい。お腹が空いたって私、知らないから。さあ、そこを退いて頂戴よ、通れやしないわね。」
「ああ、もしもし、」
 主税は身をかわして通しながら、
「御立腹の処を重々恐縮でございますが、おついでに、手前にも一杯、同じく冷いのを、」
「知りませんよ。」
 とつっと入る。
「旦も、ゆすり方は素人じゃねえ。なかなか馴れてら、」
 もう飲みかけたようなもの言いで、腰障子から首を突込み、
「今度八丁堀のわっしの内へ遊びに来ておくんなせえ。一番ひとつ私がね、嚊々左衛門かかあざえもんに酒を強請ねだる呼吸というのをお目にかけまさ。」
女房かみさんが寄せつけやしまい、第一吃驚びっくりするだろう、己なんぞが飛込んじゃ、山の手からいのししぐらいに。所かわれば品かわるだ、なあ、組。」
 と下流したながしへかけて板の間へ、主税は腰を掛け込んで、
「ところで、ちと申かねるが、今の河野の一件だ。」
「何です、旦、」
 と吃驚するほど真顔。
「おめえさんや、奥様おくさんで、わっしに言い憎いって事はありゃしねえ、また私が承って困るって事もねえじゃねえか。
 嚊々かかあを貸せとも言いなさりゃしめえ、早い話が。何また御使い道がありゃ御用立て申します。」
打附ぶッつけた話がこうだ。南町はちと君には遠廻りの処を、是非廻って貰いたいと云うもんだから、家内うちで口を利いてくようになったんだから、ここがちと言い憎いのだが、今云った、それ、膚合はだあいの合わない処だ。
 今来た、あの母親おふくろも、何のかのって云っているからな、もう彼家あすこへは行かない方が可いぜ。心持を悪くしてくれちゃ困るよ。また何だ、その内に一杯おごるから。」
 とまめやかに言う。

       八

 皆まで聞かず、組は力んで、
「誰が、誰があんなとこへ、わっしア今も、だからそう云ってたんで、頼まれたッて行きゃしねえ。」
「ところが、また何か気が変って、三枚並で駈附けるなぞと云うからよ。」
「そりゃ、何でさ、ええ、ちょいとその気になりゃなッたがね、商いになんか行くもんか。あの母親おふくろッて奴を冷かしに出かけるはらでさ。」
「そういう料簡りょうけんだから、お前、南町御構いになるんだわ。」
 と盆の上に茶呑茶碗……不心服な二人ににん分……焼海苔やきのりはりはりは心意気ながら、極めて恭しからず押附おッつけものに粗雑ぞんざいに持って、お蔦が台所へあらわれて、
「お客様は、組の事を、何か文句を言ったんですか。」
「文句はこっちにあるんだけれど、言分は先方さきにあったのよ。」
 と盆を受取って押出して、
「さあ、茶を一ツ飲みたまえ。時に、お茶菓子にも言分があるね、もうちっとどうか腹に溜りそうなものはないかい。」
「貴郎のように意地きたなではありません。組は何にも食べやしないのよ。」
「食べやしねえばかりじゃありませんや、時々、このせいで食べられなくなる騒ぎだ。へへへ、」
 と帽子を上へ抜上げると、元気に額のしわを伸ばして、がぶりと一口。鶺鴒せきれいの尾のごとく、左の人指ひとさしをひょいとね、ぐいと首を据えて、ぺろぺろと舌舐したなめずる。
 主税はむしゃりと海苔を頬張り、
組は可いが己の方さ、何とももって大空腹の所だから。」
「ですから御飯になさいなね、種々いろんな事をいって、お握飯むすびこしらえろって言いかねやしないんだわ。」
「実は……」と莞爾々々にこにこ
「その気なきにしもあらずだよ。」
「可い加減になさいまし、組は商売がありますよ。はやくお話しなさいなね。」
「そう、そう。いや、可い気なもんです。」
 と糸底を一つ撫でて、
「その言分というのは、こうだ。どうも、あの魚屋も可いが、門の外から(おう)と怒鳴り込んで、(先公居るか。)は困る。この間も御隠居をつかまえて、こいつあ婆さんに食わしてやれは、いかにもあんまりです。内じゃがえん知己ちかづきがあるようで、まことに近所へきまりが悪い。それに、聞けば芸者屋待合なんぞへ、主に出入ではいりをするんだそうだから、娘たちのためにもならず、第一家庭の乱れです。また風説うわさによると、あの、魚屋の出入でいりをするうちは、どこでも工面が悪いってこったから、かたがた折角、お世話を願ったそうだけれど、宜しいように、貴下あなたから……と先ずざっとこうよ。」
 組より、お蔦が呆れた顔をして、
「わざわざその断りに来なすったの。」
「そうばかりじゃなかったが、まあ、それも一ツはあった。」
「仰山だわねえ。」
「ちと仰山なようだけれど、お邸つき合いのお勝手口へ、この男が飛込んだんじゃ、小火ぼやぐらいには吃驚びっくりしたろう。馴れない内は時々火事かと思うような声で怒鳴り込むからな。こりゃ世話をしたのが無理だった。組怒っちゃ不可いけない。」
「分った……」
 と唐突だしぬけに膝を叩いて、
「旦那、てっきりそうだ、だから、私ア違えねえッて云ったんだ。彼奴あいつ、兇状持だ。」
「ええ―」
 何としたか、主税、茶碗酒をふらりと持った手が、キチンときまる。
「兇状持え?」とお蔦も袖を抱いたのである。
 組は、どこか当なしににらむように目を据えて、
「それを、わっしア、私アそれをね、ウイ、ちゃんと知ってるんだ。知ってるもんだから、だもんだから。……」

       九

「ウイ、だからわっしが出入っちゃ、どんな事で暴露ばれようも知れねえというはらだ。こっちあ台所でえどこまでだから、ちっとも気がつかなかったが、先方さきじゃ奥から見懸けたもんだね。一昨日おととい頃静岡から出て来たって、今も蔦ちゃんの話だっけ。
 ざまあ見やがれ、もっと先から来ていたんだ。家風に合わねえも、近所の外聞もあるもんか、わらかしゃあがら。」
 と大きに気勢きおう。
「何だ、何だ、兇状とは。」
「あの、河野さんの母様おっかさんがかい。」
 とお蔦も真顔でいぶかった。
「あれでなくって、兇状持は、誰なもんかね、」
「ほほほ、貴郎あなた真面目まじめで聞くことはないんだわ。組の云う兇状持なら、あの令夫人おくさんがああ見えて、内々大福餅がお好きだぐらいなもんですよ。お彼岸にお萩餅はぎこしらえたって、自分の女房かみさんかたきのように云う人だもの。ねえ、そうだろう。の字、何か甘いものがすきなんだろう。」
「いずれ、何か隠喰かくしぐいさ、盗人上戸どろぼうじょうごなら味方同士だ。」
「へへ、その通り、隠喰いにゃ隠喰いだが、喰ったものがね、」
「何だ、」
「馬でさ。」
「馬だと……」
「旅俳優やくしゃかい。」
「いんや、馬丁べっとう……貞造って……馬丁でね。わっしが静岡に落ちてた時分の飲友達、旦那が戦争に行った留守に、ちょろりとめたが、病着やみつきで、※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびの出るほど食ったんだ。」
 主税は思わず乗出して、酒もあったが元気よく、
「ほんとうか、組、ほんとうかい。」
 と事を好んだ聞きようをする。
「嘘よ、貴郎、あの方たちが、そんなことがあって可いもんですか、の字、滅多なことは云うもんじゃありません、ほかの事と違うよ、お前、」
「あれ、串戯じょうだんじゃねえ。これが嘘なら、わっしてえ[#ルビの「てえ」は底本では「てい」]場違ばちげえだ。ええ、旦那、河野の本家は静岡で、医者だろうね。そら、御覧ごろうじろ、河野ッてえから気がつかなかった。門におおきえのきがあって、榎やしきと云や、おめえ興津おきつ江尻まで聞えたもんだね。
 今見りゃ、ここを出た客てえのは、榎邸の奥様おくさんで、その馬丁の情婦いろおんなだ。
 だから私ア、冷かしに行ってやろうと思ったんだ。嘘にもほんとうにも、があらあ、児が。ああ、」
 また一口がぶりとって、はりはりんだ歯をすすって、
「ねえ、大勢小児こどもがありましょう。」
「南町の学士先生もその一にん、何でも兄弟は大勢ある。八九人かも知れないよ、いや、ほんとうなら驚いたな。」
「おお、待ちねえ、その先生は幾歳いくつだね。」
「六か、七だ。」
二十はたちとだね、するとその上か、それとも下かね。どっち道その人じゃねえ。何でも馬丁の因果のたねは婦人おんななんだ。いずれ縁附いちゃいるだろうが、これほどたしかな事はねえ。わっしア特別で心得てるんで、誰も知っちゃいますめえよ。知らぬは亭主ばかりなりじゃねえんだから、御存じは魚屋惣助そうすけ(本名)ばかりなりだ。
 はははは、下郎は口のさがねえもんだ。」
 ぐいと唇を撫でた手で、ポカリと茶碗のふたをした。
「危え、危え、冷かしに行くどころじゃねえ。鰒汁てっぽうとこいつだけは、命がけでもめられねえんだから、あの人のお酌でも頂き兼ねねえ。軍医の奥さんにお手のもので、毒薬いっぷくられちゃ大変だ。だが、何だ、旦那も知らねえ顔でいておくんねえ、とかく町内に事なかれだからね。」
「ああ、お前ももうおいででない。」
「行くもんか、行けったってお断りだ。お断り、へへへ、お断り、」
 と茶碗をひねくる。
いやな人だよ。仕様がないね、さあ、茶碗をお出しなね。」
「おお、」
 と何か考え込んだ、主税が急に顔を上げて、
「もうちっとくわしくその話を聞かせないか。」
 井戸端から、婦人おんなたこが切れて来たかと、お源が一文字に飛込んだ。
、旦那様、あの、何が、あの、あのあの、」


     矢車草

       十

 お源のそのあわただしさ、けて来た呼吸いきづかいと、早口の急込せきこみ真赤まっかになりながら、直ぐに台所から居間を突切つっきって、取次ぎに出る手廻しの、たすきを外すのがはだを脱ぐような身悶みもだえで、
真砂町まさごちょうの、」
「や、先生か。」
 真砂町と聞いただけで、主税は素直まっすぐ突立つったち上る。お蔦はさそくに身をかわして、ひらりと壁に附着くッついた。
「いえ、お嬢様でございます。」
「嬢的、おたえさんか。」
 とうとひとしく、まだ酒のある茶碗を置いた塗盆を、飛上る足で蹴覆けかえして、羽織のひも引掴ひッつかんで、横飛びに台所を消えようとして、
「赤いか、」
 お蔦を見向いておもてを撫でると、涼しい瞳で、それ見たかと云う目色めつきで、
「誰が見ても……」と、ぐっと落着く。
「弱った。」とつむりおさえる。
「朝湯々々、」と莞爾にっこり笑う。
「軍師なるかな、諸葛孔明しょかつこうめい。」といい棄てに、ばたばたどんと出て行ったは、玄関に迎えるのである。
 ふらふらとした目を据えて、まだ未練にも茶碗を放さなかった、組の惣助、満面のえみに崩れた、とろんこの相格そうごうで、
「いよう、天人。」と向うをのぞく。
不可いけないよ、」
 ときつく云う、お蔦の声がきっとしたので、きょとんとして立つ処を、横合からお源の手が、ちょろりとその執心の茶碗を掻攫かっさらって、
「失礼だわ。」
 とめつける。天下大変、吃驚びっくりして、黙って天秤てんびんの下へ潜ると、ひょいと盤台の真中まんなかへ。向うの板塀に肩を寄せたは、遠くから路を開く心得、するするとこれも出てく。
 もう、玄関の、格子がきそうなものだと思うと、音もしなければ、声もせぬので、お蔦が、
「御覧、」と目配せする。
 覗くは失礼と控えたのが、遁腰にげごしで水口から目ばかり出したと思うと、反返そりかえるように引込ひっこんで、
「大変でございます。お台所口へいらっしゃいます。」
「ええ、こちらへ、」
 と裾をさばくと、何と思ったか空を望み、破風はふから出そうにきりりと手繰って、引窓をカタリと閉めた。
「あれ、奥様。」
「お前、そのお盆なんぞ、早くよ。」と釣鐘にでも隠れたそうに、肩から居間へ飜然ひらりと飛込む。
 驚いたのはお源坊、ぼうとなって、ただくるくると働く目に、一目輝くと見たばかりで、意気地なくぺたぺたと坐って、ひとえに恐入ってお辞儀をする。
「御免なさいよ。」
 とやさしい声、はッと花降る留南奇とめきの薫に、お源は恍惚うっとりとして顔を上げると、帯も、たもとも、衣紋えもんも、扱帯しごきも、花いろいろの立姿。まあ! 紫と、水浅黄と、白とくれない咲き重なった、矢車草を片袖に、月夜に孔雀くじゃくを見るような。
 組が刎返はねかえした流汁の溝溜どぶだまりもこれがために水澄んで、霞をかけたる蒼空あおぞらが、底美しく映るばかり。先祖が乙姫に恋歌して、かかる処に流された、蛙の児よ、いでや、柳の袂に似た、君の袖にすがれかし。
 妙子は、有名な独逸ドイツ文学者、なにがし大学の教授、文学士酒井俊蔵の愛娘である。
 父様とうさんは、このの主人、早瀬主税には、先生で大恩人、且つ御主おしゅうに当る。さればこそ、嬢さんと聞くとひとしく、朝から台所で冷酒ひやざけのぐいあおり、魚屋と茶碗を合わせた、その挙動ふるまい魔のごときが、立処たちどころに影を潜めた。
 まだそれよりも内証ないしょなのは、引窓を閉めたため、勝手の暗い……その……誰だか。

       十一

 妙子の手は、矢車の花の色に際立って、温柔しなやかな葉の中に、枝をちょいと持替えながら、
「こんなものを持っていますから、こちらから、」
 とまごつくお源に気の毒そう。ふっくりと優しく微笑ほほえみ、
「お邪魔をしてね。」
「どういたしまして、もう台なしでございまして、」と雑巾を引掴ひッつかんで、
「あれ、お召ものが、」
 と云う内に、吾妻下駄あずまげたが可愛く並んで、白足袋薄く、藤色の裾を捌いて、濃いお納戸なんど地に、浅黄と赤で、撫子なでしこと水の繻珍しゅちんの帯腰、向うかがみに水瓶みずがめへ、花菫はなすみれかんざしと、リボンの色が、蝶々の翼薄黄色に、ちらちらと先ず映って、矢車を挿込むと、五彩の露は一入ひとしおである。
「ここに置かして頂戴よ。まあ、お酒のにおいがしてねえ、」と手を放すと、揺々ゆらゆらとなる矢車草より、薫ばかりも玉に染む、かんばせいて桃に似たり。
「御覧なさい、矢車が酔ってふらふらするわ。」と罪もなく莞爾にっこりする。
 お源はどぎまぎ、
「ええ、酒屋の小僧が、ぞんざいだものでございますから。」
「ちょいと、こぼしたの。やっぱり悪戯いたずらな小僧さん? 犬にばっかりからかっているんでしょう、私ンとこのも同一おんなじよ。」
 一廉いっかど社会観のような口ぶり、説くがごとく言いながら、上に上って、片手にそれまで持っていた、紫の風呂敷包、真四角なのを差置いた。
「お裾が汚れます、お嬢様。」
「いいえ、いいのよ、」
 とつまは上げても、袖は板の間に敷くのであった。
「あの、お惣菜になすって下さい。」
「どうも恐れ入ります。」
おいしくはありませんよ、どうせ、お手製なんですから。」
 少し途切れて、
「お内ですか。」
「はい、」
「主税さんは……あの旦那様は、」
 と言いかけて、急に気が着いたか、
「まあ、どうしたの、暗いのねえ。」
 成程、そこまでは水口のあかりが取れたが、奥へ行く道は暗かった。
「も、仕様がないのでございますよ、ほんとうに、あら、どうしましょう。」
 とお源は飛上って、慌てて引窓を、くるり、かたり。さっと明るく虹の幻、娘の肩から矢車草に。
 その時台所へ落着いて顔を出した、主人あるじの主税と、妙子はおもてを見合わせた。
おどかして上げましょうと思ったんだけれども。」と、笑って串戯じょうだんを言いながら、かめなる花と対丈ついたけに、そこに娘が跪居ついいるので、かれは謹んで板に片手をいたのである。
「驚かしちゃ、私いやですよ。」
「じゃ、なぜそんな水口からなんぞお入んなさいます。ちゃんと玄関へお出迎いをしているじゃありませんか。」
「それでもね、」
 と愛々しく打傾き、
「お惣菜なんか持込むのに、お玄関からじゃ大業ですもの。それに、あの、花にも水を遣りたかったの。」
「綺麗ですな、まあ、お源、どうだ、綺麗じゃないか。」
「ほんとうにお綺麗でございますこと。」と、これは妙子に見惚みとれている。
「同じく頂戴が出来ますんで?」
「どうしようかしら。お茶をあがるんならいいけれど、お酒をのむんじゃ、可哀相だわ。」
「え、酒なんぞ。」
「厭な、おほほ、主税さん、飲んでるのね。」
「はは、はは、さ、まあ、二階へ。」
 と遁出にげだすような。後へするするきぬの音。階子段はしごだんの下あたりで、主税が思出したように、
「成程、今日は日曜ですな。」
「どうせ、そうよ、(日曜)が遊びに来たのよ。」

       十二

 二階の六畳の書斎へ入ると、机の向うへ引附けるは失礼らしいと思ったそうで、火鉢を座中へ持って出て、床の間の前に坐り蒲団ぶとん
「どうぞ、お敷きなさいまし。」
 主税はあらたまって、慇懃いんぎんに手をいて、
「まあ、よくいらっしゃいました。」
「はい、」とばかり。長年内に居た書生の事、随分、我儘わがままも言ったり、甘えたり、勉強の邪魔もしたり、悪口も言ったり、喧嘩けんかもしたり。帽子と花簪の中であった。が、さてこうなると、心は同一おなじでも兵子帯へこおび扱帯しごきほど隔てが出来る。主税もその扱にすれば、お嬢さんも晴がましく、顔の色とおなじような、毛巾ハンケチ便たよりにして、姿と一緒にひらひらと動かすと、畳に陽炎かげろうが燃えるようなり。
「御無沙汰を致しまして済みません。奥様おくさんもお変りがございませんで、結構でございます。先生は相変らず……飲酒めしあがりますか。」
たれか、と同一おんなじように……やっぱり……」と莞爾にっこり。落着かない坐りようをしているから、火鉢の角へ、力を入れて手を掛けながら、床の掛物に目をらす。
 主税は額に手を当てて、
「いや、恐縮。ですが今日のは、こりゃ逆上のぼせますんですよ。前刻さっき朝湯に参りました。」
父様とうさんもね、やっぱり朝湯に酔うんですよ。不思議だわね。」
 主税は胸を据えたていに、両膝にぴたりと手を置き、
「平に、奥様おくさんには御内分。貴女あなたまた、早瀬が朝湯に酔っていたなぞと、お話をなすっては不可いけませんよ。」
「ほんとうに貴郎あなたの半分でも、父様が母様の言うことをくと可いんだけれど、学校でもみんなが評判をするんですもの、人が悪いのはね、私の事を(お酌さん。)なんて冷評ひやかすわ。」
「結構じゃありませんか。」
「厭だわ、私は。」
「だって、貴女、先生がお嬢さんのお酌で快く御酒を召食めしあがれば、それに越した事はありません。いまにその筋から御褒美ごほうびが出ます。養老の滝でも何でも、昔から孝行な人物の親は、大概酒を飲みますものです。貴女を(お酌さん。)なぞと云う奴は、親のために焼芋を調え、牡丹餅おはぎを買い……お茶番の孝女だ。」
 とおおいくすぐって笑うと、妙子は怨めしそうな目で、可愛らしく見たばかり。
「私は、もう帰ります。」
御串戯ごじょうだんをおっしゃっては不可ません。これからその焼芋だの、牡丹餅おはぎだの。」
「ええ、私はお茶番の孝女ですから。」
「まあ、御褒美を差上げましょう。」
 と主税が引寄せる茶道具の、そこらをながめて、
「お客様があったのね。お邪魔をしたのじゃありませんか。」
「いいえ、もう帰った後です。」
「厭な人ね?」
 と唐突だしぬけに澄まして云う。
「見たんですか。」
「見やしませんけれど、御覧なさいな。お茶台に茶碗がふさっているじゃありませんか、お茶台に茶碗を伏せる人は、貴下きらいだもの、父様も。」
天晴あっぱれ御鑑定、本阿弥ほんあみでいらっしゃる。」と急須子きびしょをあける。
誰方どなたなの?」
「御存じのない者です。河野と云う私の友達……来ていたのはその母親ですよ。」
「河野ね? 主税さん。」と妙子はふっくりした前髪で打傾き、
「学士の方じゃなくって、」
「知っていらっしゃるか。」と茶筒にかけた手を留めた。
「その母様おっかさんと云うのは、四十余りの、あの、若造りで、ちょいとお化粧なんぞして、細面ほそおもての、鼻筋の通った、何だか権式の高い、違って?」
「まったく。どうして貴女、」
「私の学校へ、参観に。」


     新学士

       十三

昨日きのう母様かあさんが来て御厄介でした。」
 と、今夜主税の机のわきに、河野英吉えいきちが、まだ洋服の膝も崩さぬさきから、
「君、困ったろう、母様は僕と違って、威儀堂々という風で厳粛だから、ははは、」
 と肩をゆすって、無邪気と云えば無邪気、余り底の無さ過ぎるような笑方。文学士と肩書の名刺と共に、あたらしいだけに美しい若々しいひげ押揉おしもんだ。ちと目立つばかり口がおおきいのに、似合わず声の優しい男で。気焔きえんを吐くのが愚痴のように聞きなされる事がある。もっとも、何をするにも、福、徳とだけ襟を数えれば済む身分。貧乏は知らないと云ってもいから、愚痴になるわけはないが、自分の親を、その年紀としで、友達の前で、呼ぶに母様をもってするのでも大略あらかた解る。酒に酔わずにアルコオルに中毒あたるような人物で。
 年紀としは二十七。じゅ五位くん三等、さきの軍医監、同姓英臣ひでおみの長男、七人の同胞きょうだいうちに英吉ばかりが男子で、姉が一人、妹が五人、その中縁附いたのが三人で。姉は静岡の本宅に、さる医学士を婿にして、現に病院を開いている。
 南町の邸は、祖母おばあさんが監督に附いて、英吉が主人あるじで、三人の妹が、それぞれ学校に通っているので、すでに縁組みした令嬢たちも、皆そこから通学した。別家のようで且つ学問所、家厳はこれに桐楊とうよう塾と題したのである。漢詩のたしなみがある軍医だから、何等か桐楊の出処があろう、但しその義つまびらかならず。
 英吉に問うと、素湯さゆを飲むような事を云う。枝も栄えて、葉も繁ると云うのだろう、松柏も古いから、そこで桐楊だと。
 説をすものあり、曰く、桐楊のきりは男児に較べ、やなぎ令嬢むすめたちになぞらえたのであろう。漢皇重色思傾国いろをおもんじてけいこくをおもう……楊家女有ようかにじょあり、と同一おんなじ字だ。道理こそ皆美人であると、それあるいはしからむ。が男の方は、桐に鳳凰ほうおう、とばかりで出処が怪しく、花骨牌はなふだから出たようであるから、遂にどちらもあてにはならぬ。
 休題さておき、南町の桐楊塾は、監督が祖母さんで、同窓がむすめたちで、更にはばかる処が無いから、天下泰平、家内安全、鳳凰は舞い次第、英吉は遊び放題。在学中も、雨桐はじめ烏金からすがねの絶倍で、しばしばかいがんに及んだのみか、卒業も二年ばかり後れたけれども、首尾よく学位を得たと聞いて、親たちは先ず占めた、びきで、あおたんつかみだと思うと、手八てはち蒔直まきなおしで夜泊よどまりの、昼流連ひるながし。祖母さんの命をけて、妹連から注進櫛の歯をくがごとし。で、意見かたがたしかるべき嫁もあらばの気構えで、この度母親が上京したので、妙子が通う女学校を参観したと云うにつけても、意のある処が解せられる。
「どうだい、君、窮屈な思いをしたろう。」
 親が参って、さぞ御迷惑、と悪気は無い挨拶あいさつも、母様かあさんで、威儀で、厳粛で、窮屈な思いを、と云うから、何とえらいか、恐入ったろう、とめつけるがごとくに聞える。
 いつもの調子と知っているから、主税は別に気にも留めず、勿論、恐入る必要も無いので、
「姑に持とうと云うんじゃなし、ちっとも窮屈な事はありません。」
 机の前に鉄拐胡坐てっかあぐらで、悠然と煙草を輪に吹く。
「しかし、君、そのおのずから、何だろう。」
 とその何だか、火箸で灰を引掻ひっかいて、
「僕は窮屈で困る。母様がああだから、自から襟を正すと云ったような工合でね。……
 じきの妹なんざ、随分脱兎だっとのごとしだけれど、母様の前じゃほとんど処女だね。」
 と髯をひねる。

       十四

「で、何かね、母様かあさんは、」
 と主税は笑いながら、わざと同一おんなじように母様と云って、煙管きせるはたき、
「しばらく御滞在なんですかい。」
「一月ぐらい居るかも知れない、ああ、」と火鉢に凭掛よりかかる。
「じゃ当分謹慎だね。今夜なぞも、これから真直まっすぐにお帰りだろう、どこへも廻りゃしますまいな。」
「うふふ、考えてるんだ。」とまた灰に棒を引く。
「相変らず辛抱が[#「辛抱が」は底本では「幸抱が」]出来ないか。」
「うむ、何、そうでもない。母様が可愛がってくれるから、来ている間は内も愉快だよ。にぎやかじゃあるし、料理が上手だからおかずうまいし、君、昨夜ゆうべは妹たちと一所に西洋料理をおごって貰った、僕は七皿喰った。ははは、」
 と火箸をポンと灰になげて、仰向いて、頬杖ほおづえついて、片足をとんびになる。
「御馳走と云えば内へ来る組だが、」
 皆まで聞かず、英吉は突放つっぱなしたように、
「ありゃ君、もう来なくッても可いよ。余り失礼な奴だと、母様が大変感情を害したからね、君から断ってくれたまえ。」
 と真面目で云って、衣兜かくしから手巾ハンケチをそそくさ引張出し、口をいて、
「どうせ東京の魚だもの、誰のを買ったって新鮮あたらしいのは無い。たまに盤台の中でねてると思や、うじうごくか、そうでなければ比目魚ひらめの下に、手品のどじょうが泳いでるんだと、母様がそう云ったっけ。」
 組が聞いたら、立処たちどころに汝の一命覚束おぼつかない、事を云って、けろりとして、
「静岡は口の奢った、旨いものを食う処さ。汽車の弁当でもたまえ、東海道一番だよ。」
 主税はどこまでも髯のある坊ちゃんにして、逆らわない気で、
「いや、何か、手前どもで、組のものを召食めしあがって、大層御意に叶ったから、是非寄越してくれと誰かが仰有おっしゃるもんだから取あえず差立てたんだ。御家風を存じないでもなかったけれども、承知の上で、君がたってと云ったから、」
「僕は構わん。僕は構わんが、あの調子だもの、祖母おばあさんや妹たちはもとよりだ。故郷くにから連れて来ている下女さえ吃驚びっくりしたよ。母様は、僕を呼びつけて談じたです。あんなものに朋輩呼ばわりをされるような悪い事をしたか。そこいらの芸妓げいしゃにゃ、魚屋だの、蒲鉾かまぼこ屋の職人、蕎麦そば屋の出前持の客が有ると云うから、お前、どこぞで一座でもおしだろう、とね、叱られたです。
 僕は何、あれは通りもんです。早瀬のとこへ行っても、同一おなじく、今日は旨えものを食わせてやろう。居るか、と云った調子です、と云ったら、母様が云うにゃ、当前あたりまえだ、早瀬じゃ、細君……」
 と云いかけて、ぐっとつかえたが、ニヤリとして、
「君、僕は饒舌しゃべりやしないよ。僕は決して饒舌らんさ。秘密で居ることを知ってるから、君の不利益になるような事は云わないがね、妹たちが知ってるんだ。どこかで聞いて来てたもんだから、ついね、」
 と気の毒そう。
「まあ、可い、そんな事は構わないが、僕と懇意にしてくれるんなら、もうちっと君、遊蕩あそびを控えて貰いたいね。
 昨日きのうも君の母様が来て、つくづく若様の不始末を愚痴るのが、何だか僕が取巻きでもして、わッと浮かせるようじゃないか。
 高利アイスを世話して、口銭を取る。酒を飲ませておながれ頂戴。切々せつせつ内へ呼び出しちゃ、花骨牌はなふだでもきそうに思ってるんだ。何の事はない、美少年録のソレ何だっけ、安保箭五郎直行あほのやごろうなおゆきさ。甚しきは美人局つつもたせでも遣りかねないほど軽蔑けいべつしていら。母様の口ぶりが、」
 とややその調子が強くなったが、急に事も無げな串戯口じょうだんぐち
「ええ、隊長、ちと謹んでくれないか。」
「母様の来ている内は謹慎さ。」
 と灰を掻きまわして、
「その代り、西洋料理七皿だ。」と火箸をバタリ。

       十五

「じゃあ色気より食気の方だ、何だか自棄やけに食うようじゃないか。しかし、まあそれで済みゃ結構さ。」
「済みやしないよ、七皿のあとが、一銚子ひとちょうし、玉子に海苔のりと来て、おひけとなると可いんだけれど、やっぱり一人で寝るんだから、大きに足が突張つっぱるです。それに母様が来たから、ちっとは小遣があるし、二三時間駈出して行って来ようかと思う。どうだろう、君、迷惑をするだろうか。」
 と甘えるような身体からだつき、座蒲団にぐったりして、横合からのぞいて云う。
「何が迷惑さ。君の身体で、御自分お出かけなさるに、ちっとも迷惑な事はない。迷惑な事はないが……」
「いや、ところが今夜は、君の内へ来たことを、母様が知ってるからね。今のような話じゃ、また君が引張出したように、母様に思われようかと、心配をするだろうと云うんだ。」
「お疑いなさるは御勝手さ。しゃくに障ればったって、恐い事、何あるものか、君の母親おふくろが何だ?」
 と云いかけて、語気をかえ、
「そう云っちまえば、実もふたもない。痛くない腹を探られるのは、僕だっていやだ。それにしても早瀬へ遊びに行くと云う君に、よく故障を入れなかったね。」
「うむ、そりゃあれです、君に逢わない内はうたぐっていないでもなかったがね、」
 あえて臆面おくめんは無い容子ようすで、
昨日きのう逢ってから、そうした人じゃないようだ、とうなずいていた。母様はね、君、目が高いんだ、いわゆる士を知る明ありだよ。」
「じゃ、何か、士を知る明があって、それで、何か、そうした人じゃないようだ、(ようだ。)とまだ疑があるのか。」
「だってただ一面識だものね、三四たび交際つきあって見たまえ。ちゃんと分るよ、五度とは言わない。」
「何も母様に交際うには当らんじゃないか。せめて年増ででもあればだが、もう婆さまだ。」
 と横を向いて、微笑ほほえんで、机の上の本を見た。何の書だか酒井蔵書の印が見える。真砂町から借用のものであろう。
 英吉は、火鉢越に覗きながら、その段は見るでもなく、
年紀としは取ってるけれど、まだ見た処は若いよ。君、婦人会なんぞじゃ、後姿を時々姉と見違えられるさ。
 で、何だ、そうやって人を見る明が有るもんだから、婿の選択は残らず母様に任せてあるんだ。取当てるよ。君、内の姉の婿にした医学士なんざ大当りだ。病院の立派になった事を見たまえな。」
「僕なんざ御選択に預れまいか。」
 と気を、その書物に取られたか、木に竹をいだような事を云うと、もっての外真面目まじめに受けて、
「君か、君は何だ、学位は持っちゃおらんけれど、独逸ドイツのいけるのは僕が知ってるからね。母様の信用さえ得てくれりゃ、何だ。ええ君、妹たちには、もとより評判が可いんだからね、色男、ははは、」
 と他愛なく身体からだ中で笑い、
「だって、どうする。階下したに居るのを、」
 背後うしろを見返り、
「湯かい。見えなかったようだっけ。」
 主税はこらえず失笑ふきだしたが、向直って話に乗るように、
「まあ、可い加減にして、はやく一人貰っちゃどうだ。人の事より御自分が。そうすりゃ遊蕩あそびみます。安保箭五郎悪い事は言わないが、どうだ。」
「むむ、その事だがね。」
 とぐったりしていた胸を起して、また手巾で口を拭いて、なぜか、しまのズボンを揃えて、ちゃんとかしこまって、
「実はその事なんだ。」
「何がその事だ。」
「やっぱりその事だ。」
「いずれその事だろう。」
「ええ、知ってるのか。」
「ちっとも知らない、」
 と煙管きせるを取って、
「いや、真面目に真面目に、何か、心当りでも出来たかね。」


     縁談

       十六

 時に河野がその事と言えば、いずれおんなに違いないが、早瀬はいつもこの人から、その収紅拾紫しゅうこうしゅうしうぐいすを鳴かしたり、蝶をもてあそんだりの件について、いや、ああ云ったがこれは何と、こう申したがそれは如何いかに。無心をされたがどうしたものか、なるべくは断りたい、断ったら嫌われようか、嫌われては甚だ不好まずい。一体スウィートでありながら金子かねをくれろは変な工合だ、妙だよ。その意志のある処を知るにくるしむ、などと、※[#「そろべくそろ」の合字、59-2]紅をさして、蚯蚓みみずまでも突附けて、意見? を問われるには恐れている。
 誇るに西洋料理七皿をもってする、かたのごとき若様であるから、冷評ひやかせば真に受ける、打棄うっちゃって置けばしょげる、はぐらかしても乗出す。勢い可い加減にでも返事をすれば、すなわち期せずして遊蕩あそびの顧問になる。すくなからず悩まされて、自分にお蔦と云う弱点よわみがあるだけ、人知れず冷汗がならいであったから、その事ならもう聞くまい、と手強く念を入れると、今夜はズボンの膝をかしこまっただけ大真面目。もっとも馴染なじみの相談も串戯じょうだんではないのだけれども。特にあらたまって、ついにない事、もじもじして、
「実はね、母様も云ったんだ、君に相談をして見ろと……」
「縁談だね、真面目な。」
 珍らしそうに顔を見て、
「母様から御声懸りで、僕に相談と云う縁談の口は、当時心当りが無いが。ああ、」
 と軽く膝を叩いた。
隣家となりのかい。むむ、あれは別嬪べっぴんだ。ちょいと高慢じゃあるが、そのかわり学校はなかなか出来るそうだ。」
 英吉は小児こどものようにかぶりを振って、
「ううむ、違うよ。」
「違う。じゃ誰だい。」
 と落着いて尋ねると、慌てて衣兜かくしへ手を突込つっこみ、肩を高うして、一ツゆすって、
「真砂町の、」
「真砂町※(感嘆符疑問符、1-8-78)
 と聞くや否や、鸚鵡返おうむがえしに力が入った。床の間にしっとりと露をかついだ矢車の花は、あかり余所よそに、暖か過ぎて障子をすかした、富士見町あたりの大空の星の光を宿して、美しくいかっている。
 見よ、河野が座を、ななめに避けた処には、昨日きのうの袖の香を留めた、友染の花も、あやの霞も、畳の上を消えないのである。
 真砂町、と聞返すとひとしく、きっとその座に目を注いだが、驚破すわわば身をもって、影をも守らん意気組であった。
 英吉はまた火箸を突支棒つっかいぼうのようにして、押立尻おったてじりをしながら、火鉢の上へ乗掛のっかかって、
「あの、酒井ね、君の先生の。あすこに娘があるんだね。」
「あるさ、」と云ったが、余り取っても着けないようで、我ながら冷かに聞えたから、
「知らなかったかな、君は。随分その方へかけちゃ、脱落ぬかりはあるまいに。」
洋燈ランプ台下暗しで、(とおおい洒落しゃれて、)さっぱり気が付かなかった。君ンとこへもちょいちょい遊びに来るんだろう。」
「お成りがあるさ。僕には御主人だ。」
「じゃ一度ぐらい逢いそうなものだった。」
 何か残惜く、かごとがましく、不平そうに謂ったのが、なぜ見せなかった、となじるように聞えたので、早瀬は石を突流すごとく、
「縁が無かったんだろうよ。」
「ところがあります、ははは、」と、ここでまた相好とともに足を崩して、ぐたりと横坐りになって、
「思うに逢わずして思わざるに……じゃない。向うも来れば僕も来るのに、此家ここで逢いそうなものだったが、そうでなくって君、学校で見たよ。ああ、あの人の行く学校で、妙子さんの行く学校で。」
 と、何だか話しに乗らないから、畳かけて云った。妙子、と早や名のこの男に知られたのを、早瀬はその人のために恥辱のように思って、不快な色が眉の根に浮んだ。
「どうして、学校で、」
 とこの際わざと尋ねたのである。母子おやこで参観したことは、もう心得ていたのに。

       十七

「どうもこうも無いさ。母様と二人で参観に出掛けたんだ。教頭は僕と同窓だからね。せんにから来て見い、来て見い、と云うけれど、顔の方じゃ大した評判の無い学校だから、馬鹿にしていたが驚いたね。勿論五年級にゃいのが居ると云ったっけが、」
「じゃあその教頭、媒酌人なこうどるんだな。」
 と舌尖したさき三分で切附けたが、一向に感じないで、
「遣るさ。そのかわり待合や、何かじゃ、僕の方が媒酌人だよ。」
「怪しからん。黒と白との、待て? 海老茶と緋縮緬ひぢりめんの交換だな。いや、可いつらの皮だ。ずらりと並べて選取よりどりにお目に掛けます、小格子の風だ。」
「可いじゃないか、学校の目的は、良妻賢母を造るんだもの、生理の講義も聞かせりゃ、媒酌なこうどもしようじゃあないか。」
 とこの人にして大警句。早瀬は恐入った体で、
「成程、」
「勿論人を見てするこッた、いくら媒酌人をすればッて、人ごとに許しゃしない。そこは地位もあり、財産もあり、学位も有るもんなら、」
 と自若として、自分で云って、意気すこぶ昂然こうぜんたりで、
「講堂で良妻賢母をこしらえて、ちゃんと父兄に渡す方が、双方の利益だもの。教頭だって、そこは考えているよ。」
「で何かね、」
 早瀬は、斜めに開き直って、
「そこで僕の、僕の先生の娘を見たんだな。」
「ああ、しかも首席よ。出来るんだね。そうして見た処、優美しとやかで、品が良くって、愛嬌あいきょうがある。沢山ない、滅多にないんだ。高級三百顔色なし。照陽殿裏第一人だよ。あたかもよし、学校も照陽女学校さ。」
 と冷えた茶をがぶりと一口。浮かれの体とおいでなすって、
「はは、僕ばかりじゃない、第一母様が気に入ったさ。あれなら河野家の嫁にしても、まあまあ……恥かしくない、と云って、教頭に尋ねたら、酒井妙子と云うんだ。ちょっと、教員室で立話しをしたんだから、くわしいことは追てとして、その日は帰った。
 すると昨日きのう、母様がここへ訪ねて来たろう。帰りがけに、飯田町から見附みつけを出ようとする処で、腕車くるまを飛ばして来た、母衣ほろの中のがそれだッたって、矢車の花を。」
 と言いかけて、床の間をじっと見て、
「ああ、これだこれだ。」
 ひょいと腰をもたげて、這身はいみにぬいと手を伸ばした様子が、一本ひともと引抜ひんぬきそうに見えたので、
「河野!」
「ええ、」
「それから。おい、肝心な処だ。フム、」
 乗って出たのに引込まれて、ト居直って、
「あの砂埃すなほこりの中を水際立って、駈け抜けるように、そりゃ綺麗だったと云うのだ。立留って見送ると、この内の角へ車を下ろしたろう。
 そろそろ引返ひっかえしたんです、母様がね。休んでいた車夫に、今のお嬢さんは真中の家へですか。へい、さようで、と云うのを聞いて帰ったのさね。」
 と早口に饒舌しゃべって、
「美人だねえ。君、」とゆったり顔を見る。
「ト遣った工合は、僕が美人のようだ、厭だ。結婚なんぞ申込んじゃ、」と笑いながら、おおいに諷するかのごとくに云って、とんと肩を突いて、
「浮気ものめ。」
「浮気じゃない、今度ばかしゃ大真面目だがね、君、どうかなるまいか。」
 また甘えるように、顔を正的まともに差出して、おとがいを支えた指で、しきりにせわしく髯をひねる。
 早瀬はしばらく黙ったが、思わずこまぬいていた腕に解くと、背後うしろざまに机にひじ、片手をしかと膝にいて、
「貰うさ。」
「え。」
「お貰いなさい。」
「くれようか。」
「話によっちゃ、くれましょう。」
後継者あととりじゃないんだね。」
「勿論後継者じゃあない。」
「じゃ、まあ、話は出来るとして、」と、澄まして云って、今度は心ありげに早瀬の顔を。
「だが、何だよ、あっしア」と云った調子が変って、
媒介人なこうどは断るぜ、照陽女学校の教頭じゃないんだから。」

       十八

 そうすると英吉が、かねて心得たりの態度で、媒酌人は勿論、しかるべき人をと云ったのが、其許そのもとごときに勤まるものかと、かろんじいやしめたように聞えて、
「そりゃ、いざとなりゃ、教育界に名望のある道学者先生の叔父もあるし、また父様とうさんの幕下で、現下その筋の顕職にある人物も居るんだから、立派に遣ってくれるんだけれど、その君、媒酌人を立てるまでに、」
 と手を揃えて、火鉢の上へ突出して、じりりと進み、
先方さきの身分も確めねばならず、妙子、(ともう呼棄てにして)の品行の点もあり、まあ、学校は優等としてだね。酒井は飲酒家さけのみだと云うから、遺伝性の懸念もありだ。それは大丈夫としてからが、ああいう美しいのには有りがちだから、肺病のうれいがあってはならず、酒井の親属関係、妙子の交友の如何いかん、そこらを一つくわしく聞かして貰いたいんだがね。」
 主税はたまりかねて、ばりばりと烏府すみとりの中を突崩した。この暖いのに、河野が両手をかざすほど、火鉢の火は消えかかったので、彼は炭を継ごうとして横向になっていたから、背けた顔に稲妻のごとくひらめいた額の筋は見えなかったが、
「もう一度聞こう、何だっけな。先方さきの身分?」
「うむ、先方の身分さ。」
「独逸文学者よ、文学士だ……大学教授よ。知ってるだろう、私の先生だ。」
「むむ、そりゃ分ってるがね、妙子の品行の点もあり、」
「それから、」
「遺伝さ、」
「肺病かね、」
「親族関係、交友の如何いかんさ。何、友達の事なんぞ、大した条件ではないよ。結婚をすれば、処女時代の交際は自然にうとくなるです。それに母様が厳しくしつければ、その方は心配はないが、むむ、まだ要点は財産だ。が、酒井は困っていやしないだろうか。誰も知った侠客きょうかく風の人間だから、人の世話をすりゃ、つい物費ものいりも少くない。それにゃ、評判の飲酒家さけのみだし、遊ぶ方も盛だと云うし、借金はどうだろう。」
 主税は黙って、茶をいだが、強いて落着いた容子に見えた。
「何かね、持参金でも望みなのかね。」
「馬鹿をいたまえ。妹たちを縁附けるに、こちらから持参はさせるが、僕が結婚するに、いやしくも河野の世子が持参金などを望むものか。
 君、僕の家じゃ、何だ、女のが一人生れると、七夜から直ぐに積立金をするよ。それ立派に支度が出来るだろう。結婚してからは、その利息が化粧料、小遣となろうというんだ。自然嫁入先でも幅が利きます。もっともその金を、婿の名に書きかえるわけじゃないが、河野家においてさ、一人一人の名にして保管してあるんだから、例えば婿が多日しばらく月給に離れるような事があっても、たちまち破綻はたんを生ずるごとき不面目は無い。
 という円満な家庭になっているんだ。で先方さきの財産は望じゃないが、余り困っているようだと、親族の関係から、つい迷惑をする事になっちゃ困る。娘の縁で、一時借用なぞというのは有がちだから。」
「酒井先生は江戸児えどっこだ!」
 と唐突だしぬけに一喝して、
「神田の祭礼まつりに叩き売っても、娘の縁で借りるもんかい。河野!」
 ときっと見た目の鋭さ。眉をげて、
「髯があったり、本を読んだり、お互の交際は窮屈だ。撲倒はりたおすのを野蛮と云うんだ。」
 お蔦は湯から帰って来た。艶やかな濡髪に、梅花の匂馥郁ふくいくとして、繻子しゅすの襟の烏羽玉うばたまにも、香やは隠るる路地の宵。格子戸をはばかって、台所の暗がりへ入ると、二階は常ならぬ声高で、お源の出迎える気勢けはいもない。
 石鹸シャボンを巻いた手拭てぬぐいを持ったままで、そっと階子段はしごだんの下へ行くと、お源はひらき附着くッついて、一心に聞いていた。

       十九

「先生が酒を飲もうと飲むまいと、借金が有ろうと無かろうと、大きなお世話だ。遺伝が、肺病が、品行が何だ。当方こちらからお給事みやづかえをしようと云うんじゃなし、第一欲しいと仰有おっしゃったって、差上げるやら、平に御免を被るやら、その辺も分らないのに、人の大切な令嬢を、裸体はだかにして検査するような事を聞くのは、無礼じゃないか。
 わっしあ第一、河野。世間の宗教家ととなうる奴が、吾々をつかまえて、罪のだの、救ってやるのと、商売柄すきな事を云う。薬屋の広告は構わんが、しらきちょうめんな人間に向って罪の子とは何んだい。本人はともかくも、その親たちに対して怪しからん言種いいぐさだと思ってるんです。
 今君が尋問に及んだ、先生の令嬢の身許検みもとしらべの条件が、ただの一ケ条でもだ。河野英吉氏の意志から出たのなら、私はもう学者や紳士の交際は御免こうむる。そのかわりだ、半纏着はんてんぎの附合いになって撲倒すよ。はははは、えい、おい、」
 と調子が砕けて、
「母様の指揮さしずだろう、一々。私はこうして懇意にしているからは、君の性質は知ってるんだ。君は惚れたんだろう。一も二もなく妙ちゃんを見染みそめたんだ。」
「うう、まあ……」と対手あいての血相もあり、もじもじする。
「惚れてよ、可愛い、可憐いとしいものなら、なぜ命がけになって貰わない。
 結婚をしたあとで、不具かたわになろうが、肺病になろうが、またその肺病がうつって、それがために共々倒れようが、そんな事を構うもんか。
 まあ、何はいて、嫁の内の財産を云々うんぬんするなんざ、不埒ふらちいたりだ。万々一、実家さとの親が困窮して、都合に依って無心合力ごうりょくでもしたとする。可愛い女房の親じゃないか。自分にも親なんだぜ、余裕があったら勿論貢ぐんだ。無ければ断る。が、人情なら三杯食う飯を一杯ずつわけるんだ。着物は下着から脱いで遣るのよ。」
 と思い入った体で、煙草を持った手のさきがぶるぶると震えると、対手の河野は一向気にも留めない様子で、ただ上の空で聞いてこうべだけ垂れていたが、かえってふすまの外で、思わずはらはらと落涙したのはお蔦である。
 何の話? と声のはげしいのを憂慮きづかって、階子段の下でそっと聞くと、縁談でございますよ、とお源の答えに、ええ、旦那の、と湯上りのさっと上気した顔の色を変えたが、いいえ、河野様が御自分の、と聞いて、まあ、と呆れたように莞爾にっこりして、忍んで段を上って、上り口の次のの三畳へ、欄干てすりを擦って抜足で、両方へ開けた襖の蔭へ入ったのを、両人ふたりには気が付かずに居るのである。
 と河野は自分にはいきおいのない、聞くものには張合のない口吻くちぶりで、
「だが、母さんが、」
「母様が何だ。母様がもらうんじゃあるまい、君が女房にするんじゃないか。いつでもその遣方だから、いや、縁談にかかったの、見合をしたの、としばしば聞かされるのが一々勘定はせんけれども、ざっと三十ぐらいあった。その内、君が、自分で断ったのは一ツもあるまい。皆母さんがこう云った。叔父さんが、ああだ、父さんが、それだ、と難癖を附けちゃ破談だ。
 君の一家いっけは、およそどのくらいな御門閥ごもんばつかは知らん。河野から縁談を申懸けられる天下の婦人は、いずれも恥辱を蒙るようで、かねて不快に堪えんのだ。
 昔の国守大名が絵姿で捜せば知らず、そんな御註文に応ずるのが、ええ、河野、どこにだってあるものか。」
 と果は歎息して云うのであった。河野は急に景気づいて、
「何、無いことはありゃしない。そりゃ有るよ。君、僕ンとこの妹たちは、誰でもその註文に応ずるように仕立ててあるんだ。
 揃って容色きりょうよし、また不思議にみんな別嬪べっぴんだ。知ってるだろう。生れたての嬰児あかんぼの時は、随分、おかしな、色の黒いのもあるけれど、母さんが手しおに掛けて、妙齢としごろにするまでには、ともかくも十人並以上になるんだ、ね、そうじゃないか。」
 主税は返すことばもなく、これには否応なくうなずかされたのである。けだし事実であるから。


     一家一門

       二十

「それから、財産は先刻さっきった通り、一人一人に用意がしてある。病気なり、何なりは、父様も兄も本職だから注意が届くよ。その他は万事母様が預かってしつけるんだ。
 好嫌すききらいは別として、こちらで他に求める条件だけは、ちゃんとこちらにも整えてあるんだから、あながち身勝手ばかり謂うんじゃない。
 けれども、品行の点は、疑えば疑えると云うだろう。そこはね、性理上も斟酌しんしゃくをして、そろそろ色気が、と思う時分には、妹たちが、まだまだ自分で、男をどうのこうのという悪智慧わるぢえの出ない先に、親の鑑定めがねで、婿を見附けて授けるんです。
 いやも応も有りやしない。衣服きものの柄ほども文句を謂わんさ。謂わないはずだ、何にも知らないで授けられるんだから。しかし間違いはない、そこは母さんの目が高いもの。」
「すると何かね、婿を選ぶにも、およそその条件が満足に解決されないと不可いかんのだね。」
「勿論さ、だから、みんな円満に遣っとるよ。第一の姉が医学士さね、じきの妹の縁附いているのが、理学士。その次のが工学士。みんな食いはぐれはないさ。……今また話しのある四番目のも医学士さ、」
「妙に選取えりどって揃えたもんだな。」
「うむ、それは父様の主義で、兄弟一家いっけ一門を揃えて、天下に一階級を形造ろうというんだ。なるべくは、銘々それぞれの収入も、一番の姉が三百円なら、次が二百五十円、次が二百円、次が百五十円、末が百円といった工合に長幼の等差を整然きちんと附けたいというわけだ。
 先ず行われている、今の処じゃ。そうしてその子、その孫、と次第にこの社会における地位を向上しようというのが理想なんです。例えば、今のが学士なら、その次が博士さ、大博士さね。君。
 謂って見れば、貴族院も、一家族で一党を立てることが出来る。内閣も一門で組織し得るようにという遠大の理想があるんだ。また幸に、父様にゃ孫も八九人出来た。めいを引取って教育しているのも三四人ある。着々として歩を進めている。何でも妹たちが人才を引着けるんだ。」
 人事ひとごとながら、主税は白面にこうを潮して、
「じゃ、君の妹たちは、皆学士を釣る餌だ。」
「餌でも可い、構わんね。藤原氏の為だもの。一人や二人犠牲ぎせいが出来ても可いが、そりゃ大丈夫心配なしだ。親たちの目は曇りやしない。
 次第々々に地位を高めようとするんだから、奇才俊才、傑物は不可いかん。そういうのは時々失敗を遣る。望む処は凡才で間違いの無いのが可いのだ。正々堂々の陣さ、信玄流です。小豆長光をかざして旗下へ切込むようなのは、快は快なりだが、永久持重の策にあらず……
 その理想における河野家の僕が中心なんだろう。その中心にすわろうというさいなんだから、おおいに慎重の態度を取らんけりゃならんじゃないか。詰り一家いっけ女王クウィインなんだから、」
 河野は、かれがいわゆる正々堂々として説くこと一条。その理想における根ざしの深さは、この男の口から言っても、例の愚痴のように聞えるのや、その落着かない腰には似ない、ほとんど動かすべからざる、確乎としたものであった。
「いや、よく解った、成程その主義じゃ、人の娘の体格検査をせざあなるまい。しかし私はいやだ! 私の娘なら断るよ、たとい御試験には及第を致しましても、」
 と冷かに笑うと、河野は人物にず、これには傲然ごうぜんとして、信ずる処あるごとく、合点のみこんだ笑い方をして、
「でも、条件さえ通過すれば、僕はもらうよ。ははは、きっと貰うね、おい、一本貰って行くぜ。」
 と脱兎のごとく、かねて計っていたように、この時ひょいと立つと、肩を斜めに、衣兜かくしに片手を突込んだまま、急々つかつかと床の間に立向うて、早や手が掛った、花の矢車。
 片膝立てて、さっと色をかえて、
不可いけないよ。」
「なぜかい?」
 と済まして見返る。主税は、ややあせった気味で、
「なぜと云って、」
「はははは、そこが、肝心な処だ、と母様が云ったんだ。」
 と突立ったまま、ニヤリとして、
「早瀬、君がどうかしているんじゃないか、ええ、おい、妙子を。」

       二十一

 れいか、熱か、匕首ひしゅ、寸鉄にして、英吉のその舌の根を留めようとあせったが、咄嗟とっさに針を吐くあたわずして、主税は黙ってこぶしを握る。
 英吉は、ここぞ、と土俵に仕切った形で、片手に花のじく引掴ひッつかみ、片手でひげひねりながら、目をぎろぎろと……ただ冴えない光で、
「だろう、君、筒井筒振分髪と云うんだろう。それならそう云いたまえ、僕の方にもまた手加減があるんだ、どうだね。」
 信玄流の敵が、かえってこの奇兵を用いたにも係らず、主税の答えは車懸りでも何でもない、極めて平凡なものであった。
「怪しからん事を云うな、串戯じょうだんとは違う、大切なお嬢さんだ。」
「その大切のお嬢さんをどうかしているんじゃないか、それとも心で思ってるんか。」
「怪しからん事を云うなと云うのに。」
「じゃ確かい。」
「御念には及びません。」
「そんなら何も、そう我が河野家の理想に反対して、人が折角聞こうとする、妙子の容子をかくさんでも可いじゃないか。話がまとまりゃ、その人にも幸福だよ、河野一党の女王クウィインになるんだ。」
「幸か、不幸か、そりゃ知らん、が、私は厭だ。一門の繁栄を望むために、娘を餌にするの、嫁の体格検査をするの、というのは真平御免だ。惚れたからは、なりでも肺病でも構わんのでなくっちゃ、妙ちゃんの相談は決してせん。勿論お嬢はきずのない玉だけれど、露出むきだしにして河野家に御覧に入れるのは、平相国清盛に招かれて月が顔を出すようなものよ。」といささか云い得て濃い煙草をほっいたは、正にかくのごとく、山の朧気おぼろげならん趣であった。
「なら可い、君に聞かんでも余処わきで聞くよ。」
 と案外また英吉は廉立かどだった様子もなく、争や勝てりの態度で、
「しかし縁起だ、こりゃ一本貰って行くよ。妙子が御持参の花だから、」
「…………」
「君がどうと云う事も無いのなら、一本二本惜むにゃ当るまい、こんなに沢山あるものを、」
「…………」
「失敬、」
 あわや抜き出そうとする。と床しい人香が、はっと襲って、
不可いけませんよ。」と半纏の襟をしごきながら、お蔦がふすまから、すっと出て、英吉の肩へ手を載せると、蹌踉よろけるように振向く処を、入違いに床の間を背負しょって、花をかばって膝をついて、
「厭ですよ、私が活けたのが台なしになります。」
 と嫣然えんぜんとして一笑する。
「だって、だって君、突込んであるんじゃないか、池の坊も遠州もありゃしない。ちっとぐらい抜いたって、あえてお手前が崩れるというでもないよ。」
 とさすがに手を控えて、例の衣兜へ突込んだが、お蔦の目前めさきを、(子をろ、子捉ろ。)の体で、靴足袋で、どたばた、どたばた。
「はい、これは柳橋流と云うんです。柳のように房々活けてありましょう、ちゃんと流儀があるじゃありませんか。」
「嘘を吐きたまえ、まあ可いから、僕が惚込んだ花だから。」
 主税は火鉢をぐっと手許へ。お蔦はすらりと立って、
「だってもう主のある花ですもの。」
「主がある!」と目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはる。
「ええ、ありますとも、主税と云ってね。」
「それ見ろ、早瀬、」
「何だ、お前、」
「いいえ、貴下あなた、この花を引張ひっぱるのは、私を口説くのと同一おんなじ訳よ。主があるんですもの。さあ、引張って御覧なさい。」
 と寄ると、英吉は一足引く。
「さあ、口説いて頂戴、」
 と寄ると、英吉は一足引く。微笑ほほえみながらり寄るたびに、たじたじと退すさって、やがて次の間へ、もそりと出る。


     道学先生

       二十二

 月の十二日は本郷の薬師様の縁日で、電車が通るようになっても相かわらずにぎやかな。書肆ほんやの文求堂をもうちっと富坂寄とみざかよりの大道へ出した露店ほしみせの、いかがわしい道具に交ぜて、ばらばら古本がある中の、表紙のれた、けばの立った、端摺はしずれひどい、三世相を開けて、くすぼったカンテラのあかりで見ている男は、これは、早瀬主税である。
 何の事ぞ、酒井先生の薫陶くんとうで、少くとも外国語をもって家をし、自腹で朝酒をあおる者が、今更いかなる必要があって、前世の鸚鵡おうむたり、猩々しょうじょうたるを懸念する?
 もっとも学者だと云って、天気のい日に浅草をぶらついて、奥山を見ないとも限らぬ。その時いかなる必要があって、玉乗の看板を観ると云う、奇問を発するものがあれば、その者愚ならずんば狂に近い。鰻屋の前を通って、好い匂がしたと云っても、直ぐに隣の茶漬屋へ駈込みの、箸を持ちながらぐ事をしない以上は、速断して、伊勢屋だとは言憎い。
 主税とても、ただ通りがかりに、露店ほしみせの古本の中にあった三世相が目を遮ったから、見たばかりだ、と言えばそれまでである。けれども、かれは目下誰かの縁談に就いて、配慮しつつあるのではないか。しかも開けて見ている処が――夫婦相性の事――は棄置かれぬ。
 且つその顔色かおつきが、紋附の羽織で、※(「ころもへん+施のつくり」、第3水準1-91-72)ふきの厚い内君マダムと、水兵服の坊やを連れて、別に一人抱いて、鮨にしようか、汁粉にしようか、と歩行てくっている紳士のような、平和な、楽しげなものではなく、主税は何か、思い屈した、沈んだ、憂わしげな色が見える。
 好男子世に処して、屈託そうな面色おももちで、露店の三世相を繰るとなると、柳の下にてのひらを見せる、八卦の亡者と大差はない、迷いはむしろそれ以上である。
 所以ゆえあるかな、主税のその面上の雲は、河野英吉と床の間の矢車草……お妙の花を争った時から、早やその影が懸ったのであった。その時はお蔦の機知さそくで、柔ごうを制することを得たのだから、いつもなら、いや、女房は持つべきものだ、と差対さしむかいで祝杯を挙げかねないのが、冴えない顔をしながら、湯は込んでいたか、と聞いて、フイと出掛けた様子も、その縁談を聞いた耳を、水道の水で洗わんと欲する趣があった。
 本来だと、朋友ともだちが先生の令嬢をめとりたいに就いて、下聴したぎきに来たものを、聞かせない、と云うも依怙地いこじなり、料簡りょうけんの狭い話。二才らしくまた何も、娘がくれた花だといって、人に惜むにも当らない。この筆法をもってすれば、情婦いろから来た文殻ふみがら紛込まぎれこんだというので、紙屑買を追懸おっかけて、慌てて盗賊どろぼうと怒鳴り兼ねまい。こちの人いて下さんせ、と洒落しゃれにもたしなめてしかるべき者までが、その折から、ちょいと留女の格で早瀬に花をもたせたのでも、河野一家いっけに対しては、お蔦さえ、如何いかんの感情を持つかが明かに解る。
 それは英吉と、内の人の結婚に対する意見の衝突の次第を、襖の蔭で聴取ったせいもあろう。
 そうでなくっても、惚れそうな芸妓げいしゃはないか。新学士に是非と云って、達引たてひきそうな朋輩はないか、とうるさく尋ねるような英吉に、いやなこった、良人うちのが手をいてものを言う大切なお嬢さんを、とお蔦はただそれだけでさえ引退ひっさがる。処へ、幾条いくすじも幾条もうち中の縁の糸は両親で元緊もとじめをして、さっさらりと鵜縄うなわさばいて、娘たちに浮世の波をくぐらせて、ここを先途とあゆを呑ませて、ぐッと手許へ引手繰ひったぐっては、咽喉のどをギュウの、獲物を占め、一門一家いちもんいっけの繁昌を企むような、ソンな勘作のとこへお嬢さんをられるもんか。
 いいえ、私がかないわ、とお源をつかまえて談ずる処へ、い湯だった、といくらか気色を直して、がたひし、と帰って来た主税に、ちょいとお前さん、大丈夫なんですか、とお蔦の方が念を入れたほどのいきおい

       二十三

 何が大丈夫だか、主税には唐突だしぬけで、即座には合点がってんしかねるばかり、お蔦の方の意気込がすさまじい。
 まだ、取留めた話ではなし、ただ学校で見初めた、と厭らしく云う。それも、恋には丸木橋を渡って落ちてこそしかるべきを、石の橋を叩いて、ステッキいて渡ろうとする縁談だから、そこいら聴合わせて歩行あるうちに、誰かの口で水をせば、直ぐに川留めの洪水ほどに目を廻わしてお流れになるだろう。
 けれども、なぜか、母子連おやこづれで学校へ観に行った、と聞いただけで、お妙さんを観世物みせものにし、またされたようでしゃくに障った。しかし物にはなるまいよ、と主税が落着くと、いいえ、私は心配です。どこをどう聞き廻ったって、あのお嬢さんに難癖を着けるものはありません。いずれ真砂町さんへ言入れるに違いますまい。それに河野と云う人が、他に取柄は無いけれど、ただ頼もしいのが押の強いことなんですから、一押二押で、悪くすると出来ますよ。出来るような気がしてならない。私は何だかもうお妙さんが、ぺろぺろとめられる夢を見て、今夜にも寝ていてうなされそうで、お可哀相でなりません。貴郎あなた油断をしちゃ厭ですよ、と云った――お蔦の方が、その晩毛虫に附着くッつかれた夢を見た。いつも河野のその眉が似ていると思ったから。――
 もっとも河野は、綺麗に細眉にしていたが、剃りづけませぬよう、と父様の命令で、近頃太くしているので、毛虫ではない、臥蚕がさんである。しかるにこの不生産的の美人は、蚕の世を利するを知らずして、毛虫のいとうべきを恐れていた、不心得と言わねばならぬ。
 で、お蔦は、たとい貴郎が、その癖、内々お妙さんに岡惚おかぼれをしているのでも可い。河野に添わせるくらいなら、貴郎の令夫人おくさんにして私が追出おんだされる方がいっそ増だ、とまで極端に排斥する。
 この異体同心の無二の味方を得て、主税も何となく頼母たのもしかったが、さて風はどこを吹いていたか、半月ばかりは、英吉もいつもになく顔を見せなかった。
 と一日あるひ
(早瀬氏はらるるかね。)
 応柄おうへいのような、そうかと云って間違いの無いような訪ずれ方をして、お源に名刺を取次がせた者がある。
 主税は、しかかっていた翻訳のペンを留めて、請取って見ると、ちょっと心当りが無かったが、どんな人だ、と聞くと、あの、痘痕あばたのおあんなさいます、と一番はやく目についた人相を言ったので、直ぐ分った。
 本名坂田礼之進、通り名をアバ大人、誰か早口な男がタの字を落した。ゆっくり言えばアバタ大人、どちらでもよく通る。通りがければと言って、渾名あだなを名刺に書くものはない。手札は立派に、坂田礼之進……かたわら羅馬ロオマ字で、L. Sakata.
 すなわち歴々の道学者先生である。
 かれの道学は、宗教的ではない、倫理的、むしろ男女交際的である。とともに、その痘痕あばたと、細君が若うして且つ美であるのをもって、処々の講堂においても、演説会においても、音に聞えた君子である。
 うまでもなく道徳円満、ただしその細君は三度目で、さきの二人とも若死をして、目下いまのがまた顔色が近来、あおい。
 と云ってあえて君子の徳をきずつけるのではない、が、要のないお饒舌しゃべりをするわけではない。大人は、自分には二度まで夫人を殺しただけ、さかずきの数の三々九度、三度の松風、ささんざの二十七度で、婚姻の事には馴れてござる。
 処へ、名にし負う道学者と来て、天下この位信用すべき媒妁人なこうどは少いから、えつも隔てなく口を利いてうままとめる。従うて諸家の閨門けいもんに出入すること頻繁にして時々厭らしい! と云う風説うわさを聞く。その袖をいたり、手を握ったりするのが、いわゆる男女交際的で、この男の余徳ほまちであろう。もっとも出来たためしはない。けだしせざるにあらずあたわざるなりでも何でも、道徳は堅固で通る。於爰乎ここにおいてか、品行方正、御媒妁人おなこうどでも食ってかれる……

       二十四

 道学先生の、その坂田礼之進であるから、少くとも組が出入りをするような家庭? へ顔出しをするはずがない。と一度ひとたびあやしんだが、偶然ふと河野の叔父に、同一おなじ道学者何某なにがしの有るのに心付いて、主税は思わず眉を寄せた。
 諸家お出入りの媒妁人、ある意味における地者稼じものかせぎの冠たる大家、さては、と早やお妙の事が胸に応えて、先ずともかくも二階へ通すと、年配は五十ばかり。しものの痘痕あばたは一目見て気の毒な程で、しかも黒い。字義をもって論ずると月下氷人でない、竈下かまのした炭焼であるが、身躾みだしなみよく、カラアが白く、磨込んだ顔がてらてらと光る。の透く髪を一筋すき整然きちんと櫛を入れて、髯のさきから小鼻へかけて、ぎらぎらと油ぎった処、いかにも内君が病身らしい。
 さて、お初にお目にかかりまする、いかがでごわりまするか、ますます御翻訳で、とさぞ食うに困って切々稼ぐだろう、とわないばかりなことを、けろりとして世辞に云って、衣兜かくしから御殿持の煙草入、薄色の鉄の派手な塩瀬に、鉄扇かずらの浮織のある、近頃行わるる洋服持。どこのか媒妁人した御縁女の贈物らしく、貰った時の移香を、今かく中古ちゅうぶる草臥くたびれても同一おなじにおいの香水で、おっかけ追かけにおわせてある持物を取出して、気になるほど爪の伸びた、湯がきらいらしい手に短いのべの銀煙管ぎせる、何か目出度い薄っぺらなほりのあるのを控えながら、先ず一ツ奥歯をスッと吸って、寛悠ゆっくりと構えた処は、生命保険の勧誘も出来そうに見えた。
 甚だ突然でごわりまするが、酒井俊蔵氏令嬢の儀で……ごわりまして、とまたスッと歯せせりをする。
 それ、えへん! と云えば灰吹と、諸礼躾方しつけかた第一義に有るけれども、何にも御馳走をしない人に、たとい※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくび葱臭ねぎくさかろうが、干鱈ひだらの繊維がはさまっていそうであろうが、お楊枝ようじを、と云うは無礼に当る。
 そこで、止むことを得ず、むずむずする口をこらえる下から、直ぐに、スッとまたぞうろ風を入れて、でごわりまするに就いて、かような事は、余り正面から申入れまするよりと、考えることでごわりまする……とかいつまんで謂えば、自分はいまだ一面識も無いから、門生の主税から紹介をして貰いたいと言うのである。
 南無三、橋は渡った、いつの間にか、お妙は試験済の合格になった。
 今は表向に縁談を申込むばかりにしたらしい。それに、自分に紹介を求めるのは、英吉に反対したかどもあり、主税は面当つらあてをされるようにくすぐったく思ったばかりか、少からず敵の機敏に、不意打を食ったのである。
 いや、お断り申しましょう、英吉君に難癖のある訳ではないが、河野家の理想と言うものが根も葉も挙げて気に入らない。余所よそで紹介をお求めなさるなり、また酒井先生は紹介の有り無しで、客の分隔わけへだてをするような人ではないから――直接じかにお話しなすって、御縁があればまとまる分。心に潔しとしない事に、名刺一枚御荷担は申兼ぬる、と若武者だけにはやってかかると、その分は百も合点がってんで、戦場往来の古兵ふるつわもの
 取りあえず、スースーと歯をすすって、ニヤニヤと笑いかけて、何か令嬢お身の上に就いて、下聴したぎきをするのが、御賛成なかったとか申すことでごわりましたな。御説に因れば、好いた女なら娼妓じょろうでも(と少しおまけをして、)構わん、死なば諸共にと云う。いや、人生意気を重んず、(ト歯をすすって)で、ごわりまするが、世間もあり親もあり……
 とこれから道学者の面目を発揮して、河野のためにその理想の、道義上完美にして非難すべき点の無いのを説くこと数千言。約半日にして一先ず日暮前に立帰った。ざっと半日居たけれども、飯時を避けるなぞは、さすがに馴れたものである。

       二十五

 客が来れば姿を隠すお蔦が内に居るほどで、道学先生と太刀打して、議論に勝てよう道理が無い。主税の意気ずくで言うことは、ただ礼之進の歯ですすられるのみであったが、厭なものは厭だ、と城を枕に討死をする態度で、少々自棄やけ気味の、酒井先生へ紹介は断然、お断り。
 そこを一つお考え直されて、とことばを残して帰った後で、アバ大人が媒妁なこうどではなおの事。とお妙の顔があおくなって殺されでもするように、酒も飲まないで屈託をする、とお蔦はお蔦で、かくまってあった姫君を、鐘を合図に首討って渡せ、と懸合われたほどの驚き加減。可愛い夫が可惜いとおしがる大切なおしゅうの娘、ならば身替りにも、と云う逆上のぼせ方。すべてが浄瑠璃の三のきりを手本だが、憎くはない。
 さあ、貴郎、そうしていらっしゃる処ではありません、早く真砂町へおいでなすって、先生が何なら奥様おくさんまで、あんなとこへは御相談なさいませんように、お頼みなさらなくッちゃ不可いけません。ちょいと、羽織を着換えて、と箪笥たんすをがたりと引いて、アア、しばらく御無沙汰なすった、明日あした組が参りますから、何ぞお土産をお持ちなさいまし、先生はさっぱりしたものがお好きだ、と云うし、彼奴あいつが片思いになるようにあわびがちょうど可い、と他愛もない。
 馬鹿を云え、縁談のさきへ立って、讒口なかぐちなんぞ利こうものなら、おれの方が勘当だ、そんな先生でないのだから、と一言にしてねられた、柳橋の策不被用焉もちいられず
 また考えて見れば、道学者の説を待たずとも、河野家に不都合はない。英吉とても、ただちとだらしの無いばかり、それに結婚すれば自然治まる、と自分も云えば、さもあろう。人の前で、母様かあさんと云おうが、父様とうさまと云おうが、道義上あえて差支さしつかえはない、かえって結構なくらいである。
 そのこれを難ずるゆえんは……曰く……言い難しだから、表向きはどこへも通らぬ。
 困ったな、と腕を組めば、困りましたねえ、とお蔦もふさぐ。
 ここへ大いなる福音をもたらし来ったのはお源で。
 手廻りの使いにったのに、大分後れたにもかかわらず、水口の戸を、がたひしいきおいよく、唯今ただいま帰りました、あの、御新造様ごしんぞさん、大丈夫でございます。
 明後日あさって出来るのかい、とお蔦がきりもりで、夏の掻巻かいまきに、と思って古浴衣の染を抜いて形を置かせに遣ってある、紺屋へ催促の返事か、と思うと、そうでない。
 この忠義ものは、二人のうれいを憂として、紺屋から帰りがけに、千栽ものの、風呂敷包を持ったまま、内の前を一度通り越して、見附へ出て、土手際の売卜者うらないて貰った、と云うのであった。
 対手あいては学士の方ですって、それまで申して占て貰いましたら、とても縁は無い断念あきらめものだ、といましたから、私は嬉しくって、三銭の見料へ白銅一つ発奮はずみました。可い気味でございますと、独りで喜んでアハアハ笑う。
 まあ、嬉しいじゃないか、よく、お前、お嬢さんの年なんか知っていたね、と云うと、勿怪もっけな顔をして、いいえ、誰方どなたのお年も存じません。お蔦はに落ちない容子をして、売卜者うらないしゃは、年紀としを聞きゃしないかい。ええ、聞きましたから私の年を謂ってやりました。
 当前あたりまえよ、対手が学士でお前じゃ、とたまりかねて主税が云うのを聞いて、目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、しばらくして、ええ! 口惜くやしいと、台所へ逃込んで、売卜屋の畜生め、どたどたどた。
 二人は顔を見合せて、ようようにわらいが出た。
 すぐにお蔦が、新しい半襟を一掛ひとかけ礼に遣って、その晩は市が栄えたが。
 二三日って、ともかく、それとなく、お妙がお持たせの重箱を返しかたがた、土産ものを持って、主税が真砂町へ出向くと、あいにく、先生はお留守、令夫人おくがたは御墓参、お妙は学校のひけが遅かった。

       二十六

 仮にその日、先生なり奥方なりに逢ったところで、縁談の事に就いて、とこううつもりでなく、また言われる筋でもなかったが、久闊振ひさしぶりではあり、誰方どなたも留守と云うのに気抜けがする。今度来た玄関の書生は馴染なじみが薄いから、巻莨まきたばこの吸殻沢山な火鉢をしきりに突着けられても、興に乗る話も出ず。しかしこの一両日に、坂田と云う道学者が先生を訪問はしませんか、と尋ねて、来ない、と聞いただけを取柄。土産ものを包んで行った風呂敷を畳みもしないで突込んで、見ッともないほどたもとを膨らませて、ぼんやりして帰りがけ、その横町の中程まで来ると、早瀬さん御機嫌宜しゅう、と頓興とんきょうに馴々しく声を懸けた者がある。
 玄関に居た頃から馴染の車屋で、見ると障子を横にしてまばゆい日当りを遮った帳場から、ぬい、と顔を出したのは、酒井へお出入りのその車夫わかいしゅ
 おうと立停まって一言二言交すついでに、主税はふと心付いて、もしやこの頃、先生の事だの、お嬢さんの事を聞きに来たものはないか、と聞くと、月はじめにモオニングを着た、痘痕あばたのある立派な旦那が。
 来たか! へい、お目出たい話なんだからちっとばかり様子を聞かせな、とおっしゃいましてね。しまいにゃ、き様、お伴をするだろう、かかりつけの医師いしゃはどこだ、とお尋ねなさいましたっけ。
 台所から、筒袖を着た女房が、ひょっこり出て来て、おやまあ早瀬さん、と笑いかけて、いいえ、やどでもここが御奉公と存じましてね、もうもうめて賞めて賞め抜いてお聞かせ申しましてございますよ。お嬢様も近々御縁がきまりますそうで、おめでとう存じます、えへへ、とはしゃいだ。
 余計な事を、と不興な顔をして、不愛想に分れたが、何も車屋へ捜りを入れずともの事だ、またそれにしても、モオニング着用は何事だと、苦々しさ一方ならず。
 曲角の漬物屋、ここいらへも探偵いぬが入ったろうと思うと、筋向いのハイカラ造りの煙草屋がある。この亭主もベラベラお饒舌しゃべりをする男だが、同じく申上げたろう、と通りがかりににらむと、腰かけ込んだ学生を対手あいてに、そのまた金歯の目立つ事。
 内へ帰ると、お蔦はお蔦で、その晩出直して、今度は自分が売卜うらないの前へ立つと、この縁はきっと結ばる、と易が出たので、大きにふさぐ。
 もっとも売卜者も如才はない。お源が行ったのに較べれば、容子を見ただけでも、お蔦の方が結ばるに違いないから。
 一日いて、主税が自分たのまれのさる学校の授業を済まして帰って来ると、門口にのそりと立って、あごを撫でながら、じろじろ門札をながめていたのが、坂田礼之進。
 早やここから歯をスーと吸って、先刻さっきからお待ち申して……はちと変だ。
 さては誰も物申ものもうに応うるものが無かったのであろう。女中おんな外出そとでで? お蔦は隠れた。……
 無人ぶにんで失礼。さあ、どうぞ、と先方さき編上靴あみあげぐつで手間が取れる。主税は気早に靴を脱いで、癇癪紛かんしゃくまぎれに、突然二階へ懸上る。段の下のひらきの蔭から、そりゃこそ旦那様。と、にょっと出た、お源を見ると、取次に出ないも道理、勝手働きの玉襷たまだすき長刀なぎなた小脇に掻込かいこんだりな。高箒たかぼうき手拭てぬぐいかぶせたのを、柄長に構えて、逆上のぼせた顔色がんしょく
 馬鹿め、と噴出ふきだして飛上る後から、ややあって、道学先生、のそりのそり。
 二階の論判ろッぱん一時ひとときに余りけるほどに、雷様の時の用心の線香をふんとさせ、居間からあらわれたのはお蔦で、もぐさはないが、禁厭まじないは心ゆかし、片手に煙草を一撮ひとつまみ。抜足で玄関へ出て、礼之進の靴の中へ。この燃草もえぐさききが可かった。ぱっ[#「火+發」、91-4]と煙が、むらむらと立つ狼煙のろしを合図に、二階から降りる気勢けはい飜然ひらり路地へお蔦が遁込にげこむと、まだその煙は消えないので、雑水ぞうみずきかけてこの一芸に見惚れたお源が、さしったりと、手でしゃくって、ざぶりと掛けると、おかしな皮の臭がして、そこら中水だらけ。

       二十七

 それ熟々つらつら、史をあんずるに、城なり、陣所、戦場なり、いくさおんなの出る方が大概ける。この日、道学先生に対する語学者は勝利でなく、礼之進の靴は名誉の負傷で、揚々と引挙げた。
 ゆえ如何いかんとなれば、おいやとあれば最早紹介は求めますまい、そのかわりには、当方から酒井家へ申入れまする、この縁談に就きまして、貴方あなたから先生に向って、河野に対する御非難をなされぬよう。御意見は御意見、感情問題は別として、これだけはお願い申したいでごわりまするが、と婉曲に言いは言ったが、露骨にったら、邪魔をするなかれであるから、御懸念無用と、男らしく判然はっきり答えたは可いけれども、要するに釘を刺されたのであった。
 礼之進の方でも、酒井へ出入りの車夫くるまやまでさぐりを入れた程だから、その分は随分手が廻って、従って、先生が主税に対する信用の点も、情愛のほども、子のごとく、弟のごときものであることさえ分ったので、先んずれば人を制すで、ぴたりとその口をおさえたのであろう。
 讒口なかぐちは決して利かない、と早瀬は自分も言ったが、またこの門生の口一ツで、見事、まとまる縁も破ることは出来たのだったに。
 ここでさいは河野の手に在矣ありい。ともかくもソレ勝負、丁か半かは酒井家の意志の存する処に因るのみとぞなんぬる。
 先生が不承知を言えばだけれども、諾、とあればそれまで。お妙は河野英吉の妻になるのである。河野英吉の妻にお妙がなるのであるか。
 お蔦さえ、憂慮きづかうよりむしろ口惜くやしがって、ヤイヤイ騒ぐから、主税の、とつおいつは一通りではない。何はおいても、余所よそながら真砂町の様子を、と思うと、元来お蔦あるために、何となくきず持足、思いなしで敷居が高い。
 で何となく遠のいて、ようよう二日前に、久しぶりで御機嫌うかがいに出た処、悪くすると、もう礼之進が出向いて、縁談が始まっていそうな中へ、急に足近くは我ながら気が咎める。
 愚図々々ぐずぐずすれば、貴郎あなたいつもに似合わない、きりきりなさいなね……とお蔦が歯痒はがゆがる。
 勇を鼓して出掛けた日が、先生は、来客があって、お話中。玄関の書生が取次ぐ、と(この次、来い。)は、ぎょっとした。さりとて曲がない。内証ないしょうのお蔦の事、露顕にでも及んだかと、まさかとは思うが気怯きおくれがして、奥方にもちょいと挨拶をしたばかり。その挨拶を受けらるる時の奥方が、端然として針仕事の、気高い、奥床しい、なつかしい姿を見るにつけても、お蔦に思較べて、いよいよ後暗うしろめたさに、あとねだりをなさらないなら、久しぶりですから一銚子ひとちょうし、と莞爾にっこりして仰せある、優しい顔が、まぶしいように後退しりごみして、いずれまた、と逃出すがごとく帰りしなに、お客は誰?……とそっと玄関の書生に当って見ると、坂田礼之進、ああやんぬるかな
 しばらくは早瀬の家内、火の消えたるごとしで、憂慮きづかわしさの余り、思切って、更に真砂町へ伺ったのが、すなわち薬師の縁日であったのである。
 ちと、恐怖おずおずの形で、先ず玄関をのぞいて、書生が燈下に読書するのを見て、またお邪魔に、と頭から遠慮をして、さて、先生は、と尋ねると、前刻御外出。奥様おくさんは、と云うと、少々御風邪の気味。それでは、お見舞に、と奥に入ろうとする縁側で、女中おんなが、唯今すやすやと御寐おやすみになっていらっしゃいます、と云う。
 悄々すごすご玄関へ戻って、お嬢さんは、と取って置きの頼みの綱を引いて見ると、これは、以前奉公していた女中おんなで、四ッ谷の方へ縁附かたづいたのが、一年ぶりで無沙汰見舞に来て、一晩御厄介になるはずで、お夜食が済むと、奥方のおおせに因り、お嬢さんのお伴をして、薬師の縁日へ出たのであった。
 それでは私もとおりの方を、いずれ後刻のちほど、とこれをしおに。出しなにまた念のために、その後、坂田と云うのは来ませんか、と聞くと、アバ大人ですか、と書生は早や渾名を覚えた。ははは、来ましたよ。今日の午後ひるすぎ


     男金女土

       二十八

 主税は、礼之進が早くも二度のかけを働いたのに、少なからず機先を制せられたのと――かてて加えてお蔦の一件が暴露ばれたために、先生がいたく感情を損ねられて、わざとにもそうされるか、と思われないでもない――玄関の畳が冷く堅いような心持とに、屈託の腕をこまぬいて、そこともなく横町から通りへ出て、くだんの漬物屋の前を通ると、向う側がとある大構おおがまえの邸の黒板塀で、この間しばらく、三方から縁日の空が取囲んで押揺おしゆるがすごとく、きらきらと星がきらめいて、それから富坂をかけて小石川の樹立こだちこずえへ暗くなる、ちょっと人足の途絶え処。
 東へ、西へ、と置場処の間数けんすうを示した標杙くい仄白ほのしろく立って、車は一台も無かった。真黒まっくろな溝の縁に、野をいた跡の湿ったかと見える破風呂敷やぶれぶろしきを開いて、かたのごとき小灯こともしが、夏になってもこればかりは虫も寄るまい、あかり果敢はかなさ。三束みたば五束いつたば附木つけぎを並べたのを前に置いて、手をいて、もつれ髪のうなじ清らかに、襟脚白く、女房がお辞儀をした、仰向けになって、踏反ふんぞって、泣寐入なきねいりに寐入ったらしい嬰児あかんぼが懐に、膝にすがって六歳むッつばかりの男の子が、指をくわえながら往来をきょろきょろとながめる背後うしろに、母親のそのせなもたれかかって、四歳よッつぐらいなのがもう一人。
 一陣ひとしきり風が吹くと、姿も店も吹き消されそうであわれ光景ありさま。浮世の影絵が鬼の手の機関からくりで、月なき辻へ映るのである。
 さりながら、縁日の神仏は、賽銭さいせんの降る中ならず、かかる処にこそ、影向ようごうして、露にな濡れそ、夜風に堪えよ、と母子おやこの上に袖笠して、遠音に観世ものの囃子はやしの声を打聞かせたまうらんよ。
 健在すこやかなれ、御身等、今若、牛若、生立おいたてよ、とひそかに河野の一門をのろって、主税はたもとから戛然かちりと音する松の葉を投げて、足くその前を通り過ぎた。
 ふと例の煙草屋の金歯の亭主が、箱火鉢を前に、胸を反らせて、煙管きせるを逆に吹口でぴたり戸外おもてを指して、ニヤリと笑ったのが目に附くと同時に、四五人店前みせさきを塞いだ書生が、こなたを見向いて、八の字が崩れ、九の字が分れたかと一同に立騒いで、よう、と声を懸ける、万歳、と云う、しっ、とおさえた者がある。
 向うの真砂町の原は、真中あたり、火定の済んだ跡のように、寂しく中空へ立つ火気を包んで、黒く輪になって人集ひとだかり。寂寞ひっそりしたその原のへりを、この時通りかかった女が二人。
 主税は一目見て、胸が騒いだ。右の方のが、お妙である。
 リボンも顔もひとえに白く、かすりの羽織が夜のつやに、ちらちらと蝶が行交う歩行あるきぶり、くれないちらめく袖は長いが、不断着の姿は、年も二ツ三ツけて大人びて、愛らしいよりも艶麗あでやかであった。
 風呂敷包を左手ゆんでに載せて、左の方へ附いたのは、大一番の円髷まるまげだけれども、花簪はなかんざしの下になって、脊が低い。渾名をたこと云って、ちょんぼりと目の丸い、額に見上げじわ夥多おびただしいおんなで、主税が玄関に居た頃勤めた女中おさんどん。
 心懸けのい、実体じっていもので、身が定まってからも、こうした御機嫌うかがいに出る志。おしゅうの娘に引添ひっそうて、身を固めてふりの、その円髷のおおきいのも、かかる折から頼もしい。
 煙草屋の店でくるくるぱちぱち、一打いちダアスばかりの眼球めのたまの中を、仕切しきって、我身でお妙を遮るように、主税は真中へ立ったから、余り人目に立つので、こなたから進んで出て、声を掛けるのははばかって差控えた。
 そうしてお妙が気が付かないで、すらすらと行過ぎたのが、主税は何となく心寂しかった。ついさきの年までは、自分が、ああして附いて出たに。
 とリボンがなびいて、お妙は立停まった。
 肩が離れて、おおきな白足袋の色新しく、附木つけぎを売る女房のあわれなともしびちかづいたのは円髷で。実直ものの丁寧に、かがみ腰になって手を出したは、志を恵んだらしい。親子が揃ってぬかずいた時、お妙の手の巾着きんちゃくが、羽織の紐の下へ入って、姿は辻の暗がりへ。
 書生たちは、ぞろぞろと煙草屋の軒を出て、ひとしく星を仰いだのである。

       二十九

 ○男金女土おとこかねおんなつちおおいよし、子五人か九人あり衣食満ち富貴ふっきにして――
    男金女土こそ大吉よ
    衣食みちみち…………
 と歌の方も衣食みちみちのあとは、虫蝕むしくいと、雨染あまじみと、摺剥すりむけたので分らぬが、上に、業平なりひらと小町のようなのが対向さしむかいで、前に土器かわらけを控えると、万歳烏帽子まんざいえぼしが五人ばかり、ずらりと拝伏した処が描いてある。いかさまにも大吉に相違ない。
 主税は、お妙の背後うしろ姿を見送って、風が染みるような懐手で、俯向うつむき勝ちに薬師堂の方へ歩行あるいて来て、ここに露店の中に、三世相がひっくりかえって、これ見よ、と言わないばかりなのに目が留まって、そぞろに手に取って、相性の処を開けたのであった。
 その英吉が、金のしょう、お妙が、土性であることは、あらかじめお蔦がうつくしい指の節から、寅卯戌亥とらういぬいと繰出したものである。
 半吉ででもある事か、おおいよしは、主税に取って、一向に芽出度めでたくない。勿論、いかに迷えば、と云って、三世相を気にするような男ではないけれども、自分はとにかく、先生は言うに及ばずながら、奥方はどうかすると、一白九紫を口にされる。同じ相性でも、はじめわるし、中程宜しからず、末覚束おぼつかなしと云う縁なら、いくらか破談の方に頼みはあるが……衣食満ち満ち富貴……は弱った。
 のみならず、子五人か、九人あるべしで、平家の一門、藤原一族、いよいよ天下にはびこらんずる根ざしが見えて容易でない。
 すでに過日いつかも、現に今日の午後ひるすぎにも、礼之進が推参に及んだ、というきっさきなり、何となく、この縁、纏まりそうで、一方ならず気に懸る。
 ああ、先生には言われぬ事、奥方には遠慮をすべき事にしても、今しも原の前で、お妙さんを見懸けた時、声を懸けて呼び留めて、もし河野の話が出たら、私はいや、とおっしゃいよ、と一言いえば可かったものを。
 大道で話をするのが可訝おかしければ、その辺の西洋料理へ、と云っても構わず、鳥居の中には藪蕎麦やぶそばもある。さしむかいに云うではなし、円髷も附添った、その女中おんなとても、長年の、犬鷹朋輩の間柄、何の遠慮も仔細しさいも無かった。
 お妙さんがまた、あの目で笑って、お小遣いはあるの? とは冷評ひやかしても、どこかへ連れられるのを厭味らしく考えるようななかではないに、ぬかったことをしたよ。
 なぞと取留めもなく思い乱れて、じっとその大吉をみつめていると、次第次第に挿画さしえの殿上人にひげが生えて、たちまち尻尾のように足を投げ出したと思うと、横倒れに、小町の膝へもたれかかって、でれでれと溶けた顔が、河野英吉に、寸分違わぬ。
「旦那いかがでございます。えへへ、」と、かんてらの灯の蔭から、気味の悪い唐突だしぬけ笑声わらいごえは、当露店の亭主で、目を細うして、額でにらんで、
「大分御意に召しましたようで、えへへ。」
幾干いくらだい。」
 とぎょっとした主税は、くうで値を聞いて見た。
「そうでげすな。」
 と古帽子のひさしから透かして、めつつ、
「二十銭にいたして置きます。」と天窓あたまから十倍に吹懸ふっかける。
 その時かんてらがあおる。
 主税は思わず三世相を落して、
高価たかい!」
「お品が少うげして、へへへ、当節の九星早合点、陶宮手引草などと云う活版本とは違いますで、」
「何だか知らんが、さんざ汚れて引断ひっちぎれているじゃないか。」
「でげすがな、絵が整然ちゃんとしておりますでな、挿絵は秀蘭斎貞秀で、こりゃ三世相かきの名人でげす。」
 と出放題な事を云う。相性さえ悪かったら、主税は二十銭のその二倍でもあえて惜くはなかったろう。
「余り高価いよ。」と立ちかける。
「お幾干で? ええ、旦那。」
 と引据ひっすえるようにおさえて云った。
「半分か。」
「へい。」
「それだってやすくはない。」

       三十

 亭主は膝を抱いて反身そりみになり、禅の問答持って来い、という高慢な顔色がんしょくで。
「半価値ねだんひどうげす。植木屋だと、じゃあ鉢は要りませんか、と云って手を打つんでげすがな。画だけ引剥ひっぺがして差上げる訳にも参りませんで。どうぞ一番ひとつ御奮発を願いてえんで。五銭や十銭、旦那方にゃ何だけの御散財でもありゃしません。へへへへへ、」
「一体高過ぎる、無法だよ。」
 と主税はその言いぐさが憎いから、ますます買う気は出なくなる。
「でげすがな、これから切通しの坂を一ツお下りになりゃ、五両と十両は飛ぶんでげしょう。そこでもって、へへへ、相性は聞きたし年紀としかくしたしなんて寸法だ。ええ、旦那、三世相は御祝儀にお求め下さいな。」
 いよいよむっとして、
「要らない。」と、また立とうとする。
「じゃもう五銭、五百、たった五銭。」
 片手を開いて、ひじ肩癖けんぺきの手つきになり、ばらばらと主税の目前めさきみ立てる。
 憤然としてつッと立った。主税の肩越しにきらりと飛んで、かんてらのくすぶったあかりを切って玉のごとく、古本の上に異彩を放った銀貨があった。
 同時に、
「要るものなら買って置け。」
 と※(「金+肅」、第3水準1-93-39)さびのある、りんとした声がかかった。
 主税は思わず身をすくめた。帽子を払って、は、と手を下げて、
「先生。」
 露店の亭主は這出して、慌てて古道具の中へ手をいて、片手で銀貨をおさえながら、きょとんと見上げる。
 茶の中折帽なかおれを無造作に、黒地に茶の千筋、平お召の一枚小袖。黒斜子くろななこ丁子巴ちょうじどもえの三つ紋の羽織、紺の無地献上博多の帯腰すっきりと、片手を懐に、裄短ゆきみじかな袖を投げた風采は、丈高くせぎすな肌にいなせである。しかも上品に衣紋えもん正しく、黒八丈くろはちの襟を合わせて、色の浅黒い、鼻筋の通った、目に恐ろしく威のある、品のある、[#「、」は底本では「。」]眉の秀でた、ただその口許くちもとはお妙にて、嬰児みどりごなつくべく無量の愛の含まるる。
 一寸見ちょっとみには、かの令嬢にして、その父ぞとは思われぬ。令夫人おくがた許嫁いいなずけで、お妙は先生がいまだ金鈕きんぼたんであった頃の若木の花。夫婦ふたりの色香を分けたのである、とも云うが……
 酒井はどこか小酌の帰途かえりと覚しく、玉樹一人縁日の四辺あたりを払ってたたずんだ。またいつか、人足もややこのあたりまばらになって、薬師の御堂の境内のみ、その中空も汗するばかり、油煙が低く、露店ほしみせ大傘おおがらかさを圧している。
 会釈をしてわずかにもたげた、主税の顔を、その威のある目できっと見て、
わかいものが何だ、端銭はしたをかれこれ人中で云っている奴があるかい、見っともない。」
 と言い棄てて、直ぐに歩を移して、少し肩のあがったのも、霜に堪え、雪を忍んだ、梅の樹振は潔い。
 呆気あっけに取られた顔をして、亭主が、ずッと乗出しながら、
「へい。」
 とばかりおびえるように差出した三世相を、ものをも言わず引掴ひッつかんで、追縋おいすがって跡に附くと、早や五六間前途むこうへ離れた。
「どうも恐入ります。ええ、何、別に入用いりようなのじゃないのでございますから、はい、」
 と最初の一喝に怯気々々びくびくもので、申訳らしく独言ひとりごとのように言う。
 酒井は、すらりと懐手のまま、斜めに見返って、
らないものを、何だって価を聞くんだ。素見ひやかすのかい、お前は、」
「…………」
「素見すのかよ。」
「ええ、別に、」と俯向うつむいて怨めしそうに、三世相を揉み、且つひねくる。
 少時しばらくして、酒井はふとあゆみを停めて、
「早瀬。」
「はい、」
 とこの返事は嬉しそうに聞えたのである。

       三十一

 名を呼ばれるさえ嬉しいほど、久闊しばらく懸違かけちがっていたので、いそいそ懐かしそうに擦寄ったが、続いて云った酒井のことばは、いたく主税の胸を刺した。
「どこへ行くんだ。」
 これで突放されたようになって、思わず後退あとしざりすること三尺半。
 このさきの、原一つ越した横町が、先生の住居すまいである。そなたに向って行くのに、従って歩行あるくものを、(どこへ行く。)は情ない。散々の不首尾に、云う事も、しどろになって、
「散歩でございます。」
「わざわざ、ここの縁日へ出て来たのか。」
「いいえ、実は……」
 といささか取附くことが出来た……
「先刻、御宅へ伺いましたのですが、御留守でございましたから、後程にまた参りましょうと存じまして、その間この辺にぶらついておりました。先生は、」
 酒井がずッと歩行あるき出したので、たじたじと後を慕うて、
「どちらへ?」
「俺か。」
「ずッと御帰宅おかえりでございますか。」
 知れ切ったような事を、つなぎだけに尋ねると、この答えがまた案外なものであった。
「俺は、何だ、これからお前の処へ出掛けるんだ。」
「ええ!」と云ったが、何はいても夜が明けたように勇み立って、
「じゃ、あのこちらから……角の電車へ、」と自分は一足引返ひっかえしたが、慌ててまた先へ出て、
「お車を申しましょうか。」
 とそわそわする。
「水道橋まで歩行くが可い。ああ、酔醒えいざめだ。」と、衣紋えもんゆすって、ぐっと袖口へ突込んだ、引緊ひきしめた腕組になったと思うと、林檎りんごの綺麗な、芭蕉実バナナふんと薫る、あかり真蒼まっさおな、あかるい水菓子屋の角を曲って、猶予ためらわずと横町の暗がりへ入った。
 下宿屋の瓦斯がすは遠し、顔が見えないからいくらか物が云いよくなって、
「奥さんが、お風邪でいらっしゃいますそうで、不可いけませんでございます。」
「逢ったか。」
「いえ、すやすやおやすみだと承りましたから、御遠慮申しました。」
「妙は居たかい。」
「四谷へ縁附かたづいております、せんのおみつをお連れなさいまして、縁日へ。」
「そうか、こども出歩行であるくようじゃ、大した御容態でもなしさ。」
 と少しことばが和らいで来たので、主税はほっ呼吸いきいて、はじめて持扱った三世相を懐中ふところへ始末をすると、壱岐殿坂いきどのざか下口おりぐちで、急な不意打。
「お前のとこでもみんな健康たっしゃか。」
 また冷りとした。内には女中と……自分ばかり、(皆健康か。)は尋常事ただごとでない。けれども、よもや、と思うから、その(皆)を僻耳ひがみみであろう、と自分でも疑って、
「はい?」
 と、聞直したつもりを、酒井がそのまま聞流してしまったので(さようでございます。)と云う意味になる。
 で、安からぬ心地がする。突当りの砲兵工廠ぞうへいの夜の光景は、楽天的にながめると、向島の花盛を幻燈で中空へ顕わしたようで、轟々ごうごうとどろく響が、吾妻橋を渡る車かと聞なさるるが、悲観すると、煙が黄に、炎が黒い。
 通りかかる時、蒸気が真白まっしろな滝のように横ざまにみなぎって路を塞いだ。
 やがて、水道橋のたもとに着く――酒井はその雲にして、悠々として、早瀬は霧に包まれて、ふらふらして。
 無言の間、吹かしていた、香の高い巻莨まきたばこを、煙の絡んだまま、ハタとそこで酒井が棄てると、蒸気は、ここで露になって、ジューと火が消える。
 萌黄もえぎの光が、ぱらぱらとやみに散ると、きょのごとく輝く星が、人を乗せて外濠そとぼりを流れて来た。


     電車

       三十二

 河野から酒井へ申込んだ、その縁談の事の為ではないが、同じこの十二日の、道学者坂田礼之進は、かれが、主なる発企者で且つ幹事である処の、男女交際会――またの名、家族懇話会――くわしく註するまでもない、その向の夫婦が幾組か、一処に相会して、飲んだり、食ったり、饒舌しゃべったり……と云うと尾籠びろうになる。紳士貴婦人が互に相親睦あいしんぼくする集会で、談政治にわたることは少ないが、宗教、文学、美術、演劇、音楽の品定めがそこで成立つ。現代における思潮の淵源、天堂と食堂を兼備えて、薔薇しょうび薫じ星の輝く美的の会合、とあって、おしめたすきを念頭に置かない催しであるから、留守では、芋が焦げて、小児こどもが泣く。町内迷惑な……その、男女交際会の軍用金。諸処から取集めた百有余円を、馴染なじみの会席へ支払いの用があって、夜、モオニングを着て、さて電燈のあかるい電車に乗った。
(アバ大人ですか、ハハハ今日の午後ひるすぎ。)と酒井先生方の書生が主税に告げたのと、案ずるに同日であるから、その編上靴は、一日に市中のどのくらいに足跡を印するか料られぬ。御苦労千万と謂わねばならぬ。
 先哲曰く、時は黄金である。そんな隙潰ひまつぶしをしないでも、交際会の会費なら、その場で請取って直ぐに払いを済したら好さそうなものだが、一先ず手許へ引取って、あらためて夫子自身ふうしみずからを労するのは? 知らずや、この勘定の時は、席料なしに、そこの何とか云う姉さんに、茶の給仕をさせて無銭ただで手を握るのだ、と云ったものがある。世には演劇しばいの見物の幹事をして、それを縁に、俳優やくしゃ接吻キスする貴婦人もあると云うから。
 もっともこれは、嘘であろう。が、会費を衣兜かくしにして、電車に乗ったのは事実である。
「ええ、込合いますから御注意を願います。」
 礼之進は提革さげかわつかまりながら、人と、車の動揺の都度、なるべく操りのポンチたらざる態度を保って、しこうして、乗合の、肩、頬、耳などの透間から、痘痕あばたを散らして、目を配って、びんずらかんざしひさし、目つきの色々を、膳の上の箸休めの気で、ちびりちびりと独酌の格。ああ、江戸児えどッこはこの味を知るまい、と乗合のおんなの移香を、たのしみそうに、歯をスーとって、片手であごを撫でていたが、車掌のその御注意に、それと心付くと、俄然がぜんとして、慄然りつぜんとして、はだ寒うして、腰が軽い。
 途端に引込ひっこめた、年紀としの若い半纏着はんてんぎの手ッ首を、即座の冷汗と取って置きの膏汗あぶらあせで、ぬらめいた手で、夢中にしっかと引掴ひッつかんだ。
 道学先生の徳孤ならず、隣りに掏摸すりが居たそうな。
「…………」
 と、わなないて、気が上ずッて、ただにらむ。
 対手あいて手拭てぬぐいかぶらない職人体のが、ギックリ、髪の揺れるほど、を下げて、
「御免なすって、」と盗むように哀憐あわれみを乞う目づかいをする。
「出、出しおろう、」
 と震え声で、
「馬鹿!」と一つめつけた。
「どうぞ、御免なすって、真平、へい……」
 と革にすがったまま、ぐったりとなって、悄気しょげ返った職人のさまは、消えも入りたいとよりは、さながら罪を恥じて、自分でくびくくったようである。
「コリャ」とまた怒鳴って、満面の痘痕をうごめかして、こらえず、握拳にぎりこぶしを挙げてその横頬よこづらを、ハタとった。
「あ、いた、」
 と横に身をらして、泣声になって、
ひどうござんすね……旦那、ア痛々たた、」
 も一つ拳で、勝誇って、
「酷いも何も要ったものか。」
 どっと立上る多人数たにんずの影で、月の前を黒雲が走るような電車の中。大事に革鞄かばんを抱きながら、車掌が甲走った早口で、
「御免なさい、何ですか、何ですか。」

       三十三

 カラアの純白まっしろな、髪をきちんと分けた紳士が、職人体の半纏着を引捉ひっとらえて、出せ、出せ、とわめいているからには、その間の消息一目して瞭然りょうぜんたりで、車掌もちっとも猶予ためらわず、むずと曲者の肩をとりしばった。
「降りろ――さあ、」
 と一ツしゃくり附けると、革を離して、蹌踉よろよろもたれかかる。半纏着にまた凭れ懸かるようになって、三人揉重もみかさなって、車掌台へされて出ると、せんから、がらりと扉を開けて、把手ハンドルに手を置きながら、中を覗込のぞきこんでいた運転手が、チリン無しにちょうどそこの停留所に車を留めた。
 御嶽山おんたけさんを少し進んだ一ツ橋どおりを右に見る辺りで、この街鉄は、これから御承知のごとく東明館前を通って両国へ行くのである。
「少々お待ちを……」
 と車掌も大事件の肩を掴まえているから、息いて、四五人押込もうとする待合わせの乗組を制しながら、後退あとじさりに身をらせて、曲者を釣身に出ると、両手を突張つっぱって礼之進も続いて、どたり。
 後からぞろぞろと七八人、我勝ちに見物に飛出たのがある。事ありと見て、乗ろうとしたのもそのまま足を留めて、押取巻おっとりまいた。二人ばかりおんなも交って。
 外へ、その人数を吐出したので、風が透いて、すっきり透明になって、行儀よく乗合の膝だけは揃いながら、思い思いに捻向ねじむいて、硝子戸がらすどから覗く中に、片足膝の上へ投げて、丁子巴ちょうじどもえの羽織の袖を組合わせて、茶のその中折を額深ひたいぶかく、ふらふら坐眠いねむりをしていたらしい人物は、酒井俊蔵であった。
 けれども、礼之進が今、外へ出たと見ると同時に、明かにその両眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらいた瞳には、一点もねむそうなくもりが無い。
 おもうに、乗合いの蔭ではあったが、礼之進に目を着けられて、例の(ますます御翻訳で。)を前置きに、(就きましては御縁女儀、)を場処柄もかまわず弁じられようおそれがあるため、計略ここに出たのであろう。ただしその縁談を嫌ったという形跡はいささかも見当らぬが。
られたのかい。」
「はい、」
 と見ると、酒井の向い合わせ、正面を右へ離れて、ちょうどその曲者の立った袖下の処に主税が居て、かく答えた。
「何でございますか、騒ぎです。」
 先生の前で、立騒いでは、と控えたが、門生が澄まし込んで冷淡に膝に手を置いているにも係わらず、酒井はずッと立って、脊高せだかく車掌台へ出かけて、ここにも立淀む一団ひとかたまりの、弥次の上から、大路へ顔を出した……時であった。
 主客顛倒しゅかくてんどう、曲者の手がポカリと飛んで、礼之進の痘痕あばたは砕けた、火の出るよう。
「猿唐人め。」
 あろう事か、あっと頬げたをおさえて退すさる、道学者の襟飾ネクタイへ、はすっかいに肩を突懸つっかけて、横押にぐいと押して、
「何だ、何だ、何だ、何だと? 掏摸すりだ、盗賊どろぼうだと……クソをくらえ。ナニその、胡麻和ごまあえのようなてめえつらめろい! さあ、どこにわっしてめえの紙入をったんだ。
 こっちあまた、串戯じょうだんじゃねえ。込合ってる中だから、汝の足でも踏んだんだろう、と思ってよ。足ぐれえ踏んだにしちゃ、怒りようが御大層だが、面を見や、かかとと大した違えは無えから、ははは、」
 と夜の大路へわらいが響いて、
てめえの方じゃ、面を踏まれた分にして、怒りやがるんだ、と断念あきらめてよ。難有ありがたく思え、日傭取ひようとりのお職人様が月給取に謝罪あやまったんだ。
 いつ出来た規則だか知らねえが、ももッたア出すなッてえ、肥満ふとった乳母おんばどんがじれッたがりゃしめえし、厭味ッたらしい言分だが、そいつも承知で乗ってるからにゃ、他様ほかさまの足を踏みゃ、引摺下ひきずりおろされる御法だ、と往生してよ。」
 と、車掌にひょこと頭を下げて、
「へいこら、と下りてやりゃ、何だ、掏摸だ。掏摸たア何でえ。」
 また礼之進に突懸つっかかる。

       三十四

られた、られたッて、幾干いくらばかり台所の小遣いりようをごまかして来やあがったか知らねえけれど、てめえがそのつらで、どうせなけなしの小遣だろう、落しっこはねえ。
 へん、鈍漢のろま。どの道、掏られたにゃ違えはねえが、汝がその間抜けな風で、内からここまで蟇口がまぐちが有るもんかい、とっくの昔にちょろまかされていやあがったんだ。
 さあ、お目通りで、着物を引掉ひっぷるって神田児かんだッこ膚合はだあいを見せてやらあ、汝が口説くおんなじゃねえから、見たって目のつぶれる憂慮きづけえはねえ、安心して切立きったてふんどしを拝みゃあがれ。
 ええこう、念晴しを澄ました上じゃ、うぬ、どうするか見ろ。」
「やあ、風が変った、風が変った。」
 と酒井は快活に云って、もとの席に帰った。
 車掌台からどやどやと客が引込む、直ぐ後へ――見張員に事情を通じて、事件を引渡したと思われる――車掌がいきおいなく戻って、がちゃりと提革鞄さげかばんを一つゆすって、チチンと遣ったが、まだ残惜そうに大路に半身を乗出して人だかりの混々ごたごた揉むのを、通り過ぎざまに見て進む。
 と錦帯橋きんたいきょうの月の景色を、長谷川が大道具で見せたように、ずらりとつながって停留していた幾つとない電車は、大通りを廻り舞台。事の起った車内では、風説うわさとりどり。
 あれは掏摸すりでございます。はじめに恐入っていた様子じゃ、確にわざをしたに違いませんが、もう電車を下りますまでには同類のたもとへすっこかしにして、証拠が無いから逆捻さかねじを遣るでございます、と小商人こあきんど風の一分別ありそうなのがその同伴つれらしい前垂掛まえだれかけに云うと、こちらでは法然天窓ほうねんあたまの隠居様が、七度ななたび捜して人を疑えじゃ、滅多な事は謂われんもので、のう。
 そうおっしゃれば、あの掏られた、と言いなさる洋服ふくを着た方も、おかしな御仁でござりますよ。此娘これ貴下あなた、(と隣に腰かけた、孫らしい、豊肌ぽってりした娘の膝を叩いて、)かんざしへ、貴下、立っていてちょいちょい手をお触りなさるでございます。御仁体が、御仁体なり、このが恥かしがって、お止しよ、お止しよ、と申しますから、何をなさる、と口まで出ましたのをこらえていたのでござりますよ。お止しよ、お祖母さんと、その娘はまた同じことをここで云って、ぼうと紅くなる。
 法然天窓は苦笑いをして……後からせせるやら、前からは毛の生えた、おおきな足を突出すやら……など、浄瑠璃にもあって、のう、昔、この登り下りの乗合船では女子衆おなごしゅが怪しからず迷惑をしたものじゃが、電車の中でも遣りますか、のう、結句、掏摸よりは困りものじゃて。
 駄目でさ、だってお前さん、いきなり引摺り下ろしてしまったんだから、それ、ばらばら一緒に大勢が飛出しましたね、よしんばですね、同類が居た処で、とっくさき、どこかへ、すっ飛んでいるんですから手係りはありやしません。そうでなくって、一人も乗客のりてが散らずに居りゃ、私達わっしだちだって関合かかりあいは抜けませんや。巡査おまわりが来て、一応しらべるなんぞッて事になりかねません。ええ、後はどうなるッて、お前さん、掏摸は現行犯ですからね、証拠が無くって、知らないと云や、それまででさ。またほんとうに掏られたんだか何だか知れたもんじゃありません、どうせ間抜けた奴なんでさあね、と折革鞄おりかばんを抱え込んだ、どこかの中小僧らしいのが、隣合った田舎の親仁おやじに、尻上りに弁じたのである。
 いずれ道学先生のために、祝すべき事ではない。
 あえて人のうれいを見て喜ぶような男ではないが、さりとて差当りああした中の礼之進のために、その憂を憂としてかなしむほどの君子でもなかろう。悪くすると(状を見ろ。)ぐらいは云うらしい主税が、風向きの悪い大人の風説うわさを、耳を澄まして聞き取りながら、いたく憂わしげな面色おももちで。
 実際鬱込ふさぎこんでいるのはなぜか。
 忘れてはならぬ、差向いに酒井先生が、何となく、主税をにらむがごとくにしていることを。

       三十五

 鬱ぐも道理ことわり、そうして電車の動くままに身を任せてはいるものの、主税は果してどこへ連れらるるのか、雲に乗せられたような心持がするのである。
 もっとも、薬師の縁日で一所になって、水道橋から外濠線そとぼりせんに乗った時は、仰せに因って飯田町なる、自分の住居すまいへ供をして行ったのであるが、元来その夜は、露店の一喝と言い、途中の容子と言い、酒井の調子がりんとして厳しくって、かねて恩威並び行わるる師の君の、その恩に預かれそうではなく、罰利生ばちりしょうある親分の、その罰の方が行われそうな形勢は、言わずともの事であったから、電車でも片隅へすくんで、僥倖さいわいそこでも乗客のりてが込んだ、人蔭になって、まばゆい大目玉の光から、顔をわしてまぬかれていたは可いが、さて、神楽坂で下りて、見附の橋を、今夜に限って、高い処のように、危っかしく渡ると、くだん売卜者うらない行燈あんどうが、真黒まっくろな石垣の根に、狐火かと見えて、急に土手の松風を聞くあたりから、そろそろ足許が覚束なくなって、心も暗く、吐胸とむねいたのは、お蔦の儀。
 ひとえに御目玉の可恐おそろしいのも、何をかくそう繻子しゅすの帯にきわまったのであるから、これより門口へかかる……あえて、のろけるにしもあらずだけれども、自分の跫音あしおとは、聞覚えている。
 その跫音が、他の跫音と共に、澄まして音信おとずれれば、(お帰んなさい。)で、出て来るは定のもの。分けて、お妙の事を、やきもき気を揉んでいる処。それが為にこうして出向いた、真砂町の様子を聞き度さに、ことに、似たもの夫婦のたとえ、信玄流の沈勇の方ではないから、随分飜然ひらりあらわれ兼ねない。
 いざ、露れた場合には……と主税は冷汗になって、胸が躍る。
 あいにくいつものように話しもしないで、ずかずか酒井が歩行あるいたので、とこう云うひまもなかった、早や我家の路地が。
 たまりかねて、先生と、呼んで、女中おんなが寝ていますと失礼ですから、一足! と云うがはやいか、(お先へ、)は身体からだで出て、横ッ飛びにけ抜ける内も、ああ、我ながらつたない言分。
(待て! 待て!)
 それ、声が掛った。
 酒井はそこで足を留めた。
 きっと立って、
(宵からるような内へ、邪魔をするは気の毒だ。わきへ行こう、一緒に来な。)
 で路が変って、先生のするまま、わしさらわれたような思いで乗ったのが、この両国行――
 なかなか道学者の風説うわさに就いて、善悪ともに、自から思虜をめぐらすような余裕とては無いのである。
 電車が万世橋めがねの交叉点を素直まっすぐに貫いても、鷲は翼を納めぬので、さてはこのまま隅田川おおかわ流罪ながしものか、軽くて本所から東京の外へ追放になろうも知れぬ。
 と観念のまなこを閉じて首垂うなだれた。
「早瀬、」
「は、」
「降りるんだ。」
 一場展開した広小路は、二階のと、三階の燈と、店の燈と、街路の燈と、あおに、萌黄もえぎに、くれないに、寸隙すきまなくちりばめられた、あやの幕ぞと見る程に、八重に往来ゆきかう人影に、たちまち寸々ずたずたと引分けられ、さらさらと風に連れて、鈴を入れた幾千の輝くまりとなって、八方に投げ交わさるるかと思われる。
 ここに一際夜の雲のこまやかに緑の色を重ねたのは、隅田へ潮がさすのであろう、水の影か、星がきらめく。
 我が酒井と主税の姿は、この広小路の二点となって、浅草橋を渡果てると、富貴竈ふうきかまどが巨人のごとく、仁丹が城のごとく、相対して角を仕切った、横町へ、斜めに入って、磨硝子すりがらすの軒の燈籠の、なまめかしく寂寞ひっそりして、ちらちらと雪の降るような数ある中を、みのを着たさまして、忍びやかに行くのであった。


     柏家

       三十六

 やがて、貸切と書いた紙の白い、その門の柱の暗い、敷石のぱっとあかるい、静粛しんとしながらかすかなように、三味線さみせんが、チラチラ水の上を流れて聞える、一軒大構おおがまえの料理店の前を通って、三つ四つ軒燈籠の影に送られ、御神燈の灯に迎えられつつ、つちの濡れた、軒につやある、その横町の中程へ行くと、一条ひとすじおぼろな露路がある。
 芸妓家げいしゃや二軒の廂合ひあわいで、透かすと、奥に薄墨で描いたような、竹垣が見えて、涼しい若葉の梅が一木ひとき、月はなけれど、風情を知らせ顔にすっきりとたたずむと、向い合った板塀越に、青柳の忍び姿が、おくれ毛をくわえたていで、すらすらとなびいている。
 梅と柳の間をくぐって、酒井はその竹垣について曲ると、処がら何となく羽織の背の婀娜あだめくのを、隣家となりの背戸の、低い石燈籠がトしゃがんだ形で差覗さしのぞく。
 主税は四辺あたりを見て立ったのである。
 先生がその肩のそびえた、懐手のまま、片手で不精らしくとんとんと枝折戸しおりどを叩くと、ばたばたと跫音あしおと聞えて、縁の雨戸が細目に開いた。
 と派手な友染の模様が透いて、真円まんまるな顔を出したが、あかりなしでも、その切下げた前髪の下の、くるッとした目は届く。隔ては一重で、つい目のさきの、丁子巴の紋を見ると、莞爾々々にこにこと笑いかけて、黙って引込ひっこむと、またばたばたばた。
 程もあらせず、どこかでねじを圧したと見える、その小座敷へ、電燈がさっくのを合図に、中脊でやせぎすな、二十はたちばかりの細面ほそおもて、薄化粧して眉の鮮明あざやかな、口許くちもと引緊ひきしまった芸妓げいこ島田が、わざとらしい堅気づくり。あわせをしゃんと、前垂がけ、つまを取るのは知らない風に、庭下駄を引掛ひっかけて、二ツ三ツ飛石を伝うて、カチリと外すと、戸を押してずッと入る先生の背中を一ツ、黙言だんまりで、はたと打った。これは、この柏屋かしわやねえさんの、小芳こよしと云うものの妹分で、綱次つなじと聞えた流行妓はやりっこである。
「大層な要害だな。」
「物騒ですもの。」
「ちっとは貯蓄たまったか。」
 と粗雑ぞんざいに廊下へ上る。先生に従うて、浮かぬ顔の主税と入違いに、綱次は、あとの戸を閉めながら、
「お珍らしいこと。」
「…………。」
「蔦吉姉さんはお達者?」と小さな声。
 主税はヒヤリとして、ついに無い、ものをも言わず、恐れた顔をして、ちょっとにらんで、そっと上って、開けた障子へ身体からだは入れたが、敷居際へかしこまる。
 酒井先生、座敷の真中へぬいと突立ったままで――その時茶がかった庭を、雨戸で消してり来る綱次に、
「どうだ、色男が糶出せりだしたように見えるか。」
 とずッと胸を張って見せる。
「私には解りません、姉さんにお見せなさいまし、今に帰りますから、」
「そう目前めさきが利かないから、お茶をくのよ。当節は女学生でも、今頃は内には居ない。ちっと日比谷へでも出かけるがい。」
憚様はばかりさま、お座敷は宵の口だけですよ。」
 と姿見の前から座蒲団をするりと引いて、床の間の横へ直した。
「さあ、早瀬さん。」と、もう一枚。
 主税は膝のわきへ置いたままなり。
 友染の羽織を着たのが、店から火鉢を抱えて来て、膝と一所に、お大事のもののように据えると、先生は引跨ひんまたぐ体に胡坐あぐらの膝へ挟んで、口のあたりを一ツ撫でて、
「敷きな、敷きな。」
 と主税を見向いた。
「はい、」
 とばかりで、その目玉に射られるようで堅くなってどこも見ず、おもてを背けるとはしなく、重箪笥かさねだんすの前なる姿見。ここでくしけずる柳の髪は長かろう、その姿見の丈が高い。

       三十七

「お敷きなさいなね、貴下あなた此家ここへいらっしゃりゃ、先生も何もありはしません、御遠慮をなさらなくっても可いんですよ。」
 と意気、文学士を呑む。この女は、主税が整然きちんとしているのを、気の毒がるより、むしろ自分の方が、為に窮屈を感ずるので。
 その癖、先生には、かえって、遠慮の無い様子で、肩を並べるようにして支膝つきひざで坐りながら、火鉢の灰をならして、手でその縁をスッとしごく。
「茶を一ツ、熱いのを。」
 酒井は今のを聞かない振で、
「それから酒だ。」
 綱次は入口の低いふすまを振返って、ト拝む風に、雪のような手をたたく。
「自分でて。わかいものが、不精をめるな。」
いやですよ。ちゃんと番をしていなくっては。姉さんに言いつかっているんだから。」
 と言いながら、人懐かしげに莞爾にっこりして、
「ねえ、早瀬さん。」
「で、ございますかな。」とようよう膝去いざり出して、遠くから、背を円くして伸上って、腕を出して、巻莨まきたばこに火をけたが、お蔦が物指ものさしを当てた襦袢じゅばんの袖が見えたので、気にして、慌てて、引込める。
「ちっと透かさないか、こもるようだ。」
「縁側ですか。」
「ううむ、」
 とかぶりったので、すっと立って、背後うしろ肱掛窓ひじかけまどを開けると、辛うじて、雨落だけのすきを残して、いかめしい、忍返しのある、しかも真新まあたらしい黒板塀が見える。
見霽みはらしでも御覧なさいよ。」
 と主税を振向いてまた笑う。
 酒井がじっと、その塀をながめて、
「一面の杉の立樹だ、森々としたものさ。」
 とくすぐって、ひとりで笑った。
「しかし山焼の跡だと見えて、真黒はひどいな。俺もゆくゆくは此家こちらへ引取られようと思ったが、裏が建って、川が見えなくなったから分別を変えたよ。」
 そこへ友染がちらちら来る。
「お出花を、早く、」
「はあ、」
「熱くするんだよ。」
「これ、小児こどもばっかり使わないで、ちっと立って食うものの心配でもしろ。たみはどうした、あれはい。小老実こまめに働くから。今に帰ったら是非酌をさせよう。あの、愛嬌あいきょうのある処で。」
「そんなに、若いのがすきなら、御内のお嬢さんが可いんだわ。ねえ早瀬さん。」
 これには早瀬も答えなかったが、先生も苦笑した。
「妙も近頃は不可いけなくなったよ。奥方と目配めくばせをし合って、とかく銚子をこぎって不可いかん。第一酌をしないね。学校で、(お酌さん。)と云うそうだ。小児どもの癖に、相応に皮肉なことを云うもんだ。」
貴郎あなたには小児でも、もうお嫁入ざかりじゃありませんか。どうかすると、こっちへもいらっしゃる、学校出の方にゃ、酒井さんの天女エンゼルが、何のと云っちゃ、あの、騒いでおいでなさるのがありますわ。」
「あの、嬰児あかんぼをか、どこの坊やだ。」
「あら、あんなことを云って。こちらの早瀬さんなんかでも、ちょうど似合いの年紀頃としごろじゃありませんか。」
 と何でものう云ってのけたが、主税は懐中ふところの三世相とともに胸につかえて俯向うつむいた。
「その癖、当人は嫁入と云や鼠の絵だと思っているよ。」
 と云いかけて莞爾かんじとして、
「むむ、これは、猫の前で危い話だ。」
 と横顔へ煙を吹くと、
引掻ひっかいてよ。」と手を挙げたが、思い出したように座を立って、
「どうしたんだろうねえ、電話は、」とつぶやいて出ようとする。
「おい、阿婆おっかあは?」
「もうました。」
「いや、老人としよりはそう有りたい。」
 座の白ける間は措かず、綱次はすぐに引返ひっかえして、
「姉さんは、もう先方むこうは出たそうですわ。」
 云う間程なく、矢を射るような腕車くるま一台、からからとかどに着いたと思うと、
唯今ただいま!」と車夫の声。

       三十八

「そうかい。」
 と……意味のある優しい声を、ちょいと誰かに懸けながら、一枚のふすま音なく、すらりといて入ったのは、座敷帰りの小芳である。
 瓜核顔うりざねがおの、鼻の準縄じんじょうな、目の柔和やさしい、心ばかり面窶おもやつれがして、黒髪の多いのも、世帯を知ったようで奥床しい。眉のやや濃い、生際はえぎわい、洗い髪を引詰ひッつめた総髪そうがみ銀杏返いちょうがえしに、すっきりと櫛の歯が通って、柳に雨のつやの涼しさ。撫肩の衣紋えもんつき、少し高目なお太鼓の帯の後姿が、あたかも姿見に映ったれば、水のように透通る細長い月の中から抜出したようで気高いくらい。成程このおんなの母親なら、芸者家の阿婆おっかあでも、早寝をしよう、とうなずかれる。
「まあ、よくいらしってねえ。」
 と主税の方へ挨拶して、微笑ほほえみながら、濃い茶に鶴の羽小紋の紋着もんつき二枚あわせ藍気鼠あいけねずみの半襟、白茶地しらちゃじ翁格子おきなごうしの博多の丸帯、古代模様空色縮緬ちりめん長襦袢ながじゅばん、慎ましやかに、酒井に引添ひっそうた風采とりなりは、左支さしつかえなくつむりが下るが、分けてそのの首尾であるから、主税は丁寧に手を下げて、
「御機嫌う、」と会釈をする。
 その時、先生撫然ぶぜんとして、
「芸者に挨拶をする奴があるか。」
 これに一言句ひともんくあるべき処を、姉さんは柔順おとなしいから、
「お出花が冷くなって、」
 と酒井の呑さしを取って、いそいそ立って、開けてある肱掛窓ひじかけまどから、暗い雨落へ、ざぶりとかえすと、斜めに見返って、
おおき湯覆ゆこぼしだな、お前ンとこのは。」
「あんな事ばかり云って、」
 と、主税を見て莞爾にっこりして、白歯を染めても似合う年紀とし、少しも浮いた様子は見えぬ。
 それから、小芳は伏目になって、二人の男へ茶をいだが、ここに居ればその役目の、綱次は車が着いた時、さあお帰りだ、と云うとともに、はらはら座敷を出たのと知るべし。
 酒井はかるく襟をしごいて、
「そこで、御馳走は、」
「綱次さんが承知をしてます。」
「また寄鍋だろう、白滝沢山と云う。」
「どうですか。」
 と横目で見て、嬉しそうにえみを含む。
「いずれ不漁しけさ。」
 と打棄うっちゃるように云ったが、向直って、
「早瀬、」と呼んだ声があらたまった。
「ええ。」
先刻さっきの三世相を見せろ。」
 一仔細ひとしさいなくてはならぬ様子があるので、ぎょっとしながら、いなむべきすうではない。……柏家は天井裏を掃除しても、こんなものは出まいと思われる、薄汚れたのを、電燈のもとに、先生の手に、もじもじと奉る。
 引取ひっとって、ぐいと開けた、気が入って膝を立てた、顔の色が厳しくなった。と見てきもを冷したのは主税で、小芳は何の気も着かないから、晴々しい面色おももちで、覗込のぞきこんで、
「心当りでも出来たんですか。」
 不答こたえず。煙草のすいさしを灰の中へ邪険に突込つっこみ、
「何は、どうした。」
 と唐突だしぬけに聞かれたので、小芳は恍惚うっとりしたように、酒井の顔をながめると……
「あれよ、ちょいと意気な、清元のうまい、景気のい、」
 いいいい本を引返ひっかえして、
扱帯しごきで、鏡に向った処は、絵のようだという評判の……」
 とじっと見られて、小芳は引入れられたように、
「蔦吉さん。」
 と云って、喫いかけた煙管きせるを忘れる。
 主税は天窓あたまから悚然ぞっとした。
「あれはどうした。」
「え、」
「俺はさっぱり山手のてになって容子を知らんが、相変らず繁昌はんじょうか。」

       三十九

 小芳は我知らず、(ああ、どうしよう。)と云う瞳が、主税の方へ流るるのを、無理にこらえて、酒井をみまもった顔が震えて、
「蔦吉さんはもう落籍ひきましたそうです。」
 と言わせも果てずに、
「(そうです。)は可怪おかしい。近所に居ながら、知らんやつがあるか、判然はっきりえ、落籍ひいたのか!」
「はい、」と伏目になったトタンに、優しげな睫毛まつげが、(どうかなさいよ。)と、主税の顔へ目配せする。
 酒井は、主税を見向きもしないで、悠々とした調子になり、
「そりゃ可い事をした、泥水稼業をめたのは芽出度い。で、どこに居る、当時は………よ?」
「私はよく存じませんので……あの、どこか深川に居るんですって。」
「深川? 深川と云う人に落籍されたのか、川向うの深川かい。」
「…………。」
「どうだよ、おい、知らない奴があるか。お前、仲が好くって、姉妹きょうだいのようだと云ったじゃないか。姉妹分が落籍たのに、その行先が分らない、べら棒があるもんかい。
 姉さんとか、小芳さんとか云って、先方さきでも落籍ひき祝いに、赤飯ぐらい配ったろう、お前食ったろう、そいつを。
 蒸立だとか、好い色だとか云って、喜んでよ、こっちからも、※(「にんべん」、第4水準2-1-21)にんべんの切手の五十銭ぐらい祝ったろう。小遣帳にいているだろう。そのおんなの行先が知れない奴があるものか。
 知らなきゃ馬鹿だ。もっとも、おれのような素一歩すいちぶと腐合おうと云う料簡方りょうけんかただから、はじめから悧怜りこうでないのは知れてるんだ。馬鹿は構わん、どうせ、芸者だ、世間並じゃない。芸者の馬鹿は構わんが、薄情は不可いかんな! 薄情は。薄情な奴はおいら真平だ。」
「いつ、私が、薄情な、」
 と口惜くやしくきっとなる処を、酒井の剣幕がはげしいので、しおれて声がうるんだのである。
「薄情でない! 薄情さ。懇意なおんなの、居処を知らなけりゃ薄情じゃないか。」
「だって、貴郎あなた。だって、先方さきでも、つい音信たよりをしないもんですから、」
先方さき音信たよりをしなくっても、お前の薄情は帳消は出来ん。なぜこっちから尋ねんのだ。こんな稼業だから、暇が無い。行通ゆきかよいはしないでも、居処が分らんじゃ、近火きんかはどうする! 火事見舞に町内のかしらも遣らん、そんな仲よしがあるものか、薄情だよ、水臭いよ。」
 姉さんの震えるのを見て、身から出た主税はたまりかねて、
「先生、」
 と呼んだが、心ばかりで、この声は口へは出なかった。
 酒井は耳にも掛けないで、
「済まん事さ、俺も他人でないお前を、薄情者にはしたくないから、居処を教えてやろう。
 堀の内へでも参詣まいる時は道順だ。煎餅の袋でも持って尋ねてやれ。おい、蔦吉は、当時飯田町五丁目の早瀬主税の処に居るよ。」
 真蒼まっさおになって、
「先生、」
「早瀬!」
 と一声きっとなって、膝を向けると、疾風一陣、黒雲をいて、三世相を飛ばし来って、主税の前へはたと落した。
 眼の光射るがごとく
「見ろ! 野郎は、素袷すあわせのすッとこかぶりよ。おんなは編笠を着て三味線さみせんを持った、その門附かどつけの絵のある処が、お前たちの相性だ。はじめから承知だろう。今更本郷くんだりの俺の縄張内を胡乱うろついて、三世相の盗人覗ぬすっとのぞきをするにゃ当るまい。
 その間抜けさ加減だから、露店ほしみせの亭主に馬鹿にされるんだ。立派な土百姓になりゃあがったな、田舎漢いなかものめ!」

       四十

 主税はようよう、それもつばが乾くか、かすれた声で、
「三世相を見ておりましたのは、何も、そんな、そんな訳じゃございません……」とだけで後が続かぬ。
「翻訳でも頼まれたか、前世は牛だとか、うまだとか。」
 と串戯じょうだんのような警抜な詰問が出たので、いささかことば引立ひったって、
「いいえ、実はその何でございまして。その、この間中から、お嬢さんの御縁談がはじまっております、と聞きましたもんですから、」
 小芳はそっと酒井を見た。このなかでも初に聞いた、お妙の縁談と云うのを珍らしそうに。
「ははあ、じゃ何か、妙と、河野英吉との相性をしらべたのかい。」
 果せるかな、礼之進が運動で、先生は早や平家の公達きんだちを御存じ、と主税は、折柄も、我身も忘れて、
「はい、」と云って、思わず先生の顔を見ると、まぶたさっと暗くなるまで、眉の根がじりりと寄って、
「大きに、お世話だ。酒井俊蔵と云う父親と、歴然れっきとした、謹(夫人の名。)と云う母親が附いている妙の縁談を、門附風情が何を知って、周章あわてなさんな。
 僭上せんじょうだよ、無礼だよ、罰当り!
 お前が、男世帯をして、いや、菜が不味まずいとか、女中おんなが焼豆腐ばかり食わせるとか愚痴った、と云って、いか、この間持って行った重詰なんざ、妙が独活うどを切って、奥さんが煮たんだ。お前達ア道具の無い内だから、勿体もったいない、一度先生が目を通して、綺麗にってあるのを、重箱のまま、売婦ばいたとせせりばしなんぞしやあがって、弁松にゃ叶わないとか、何とか、薄生意気な事を言ったろう。
 よく、その慈姑くわい咽喉のどに詰って、頓死とんしをしなかったよ。
 無礼千万な、まだその上に、妙の縁談の邪魔をするというは何事だ。」
 と大喝した。
 主税は思わず居直って、
「邪魔を……わたくしが、邪魔なんぞいたしますものでございますか。」
「邪魔をしない! 邪魔をせんものが、縁談の事に付いて、坂田がおれに紹介を頼んだ時、お前なぜそれを断ったんだ。」
「…………」
「なぜ断った?」
「あんな、道学者、」
「道学者がどうした。結構さ。道学者はお前のような犬でない、畜生じゃないよ。何か、お前は先方さきの河野一家の理想とか、主義とかに就いて、不服だ、不賛成だ、と云ったそうだ。不服も不賛成もあったものか。人間並の事を云うな。畜生の分際で、出過ぎた奴だ。
 第一、きさまのような間違った料簡りょうけんで、先生の心が解るのかよ! お前は不賛成でも己は賛成だか、お前は不服でも己は心服だか――知れるかい。
 何のかのと、故障を云って、(御門生は、令嬢に思召しがあるのでごわりましょう。)と坂田が歯を吸って、合点のみこんでいたが、どうだ。」
「ええ! あの、痘痕あばたが、」
 と色をかえてわなないた。主税はしかも点々たらたらと汗を流して、
ほかの事とは違います、聞棄てになりません。わたくしは、私は、これは、改めて、坂田に談じなければなりません。」
「何だ、坂田に談じる? 坂田に談じるまでもない。己がそう思ったらどうするんだ、先生が、そう思ったら何とするよ。」
「誰が、先生、そんな事。」
「いいや、内の玄関の書生も云った、坂田が己のとこへ来たと云うと、お前の目の色が違うそうだ。車夫も云った、車夫の女房も云ったよ。(誰か妙の事を聞きに来たものはないか。)と云って、お前、車屋でまで聞くんだそうだな。恥しくは思わんか、大きななりをしやあがって、薄髯うすひげの生えたつらを、どこまでさらして歩行あるいているんだ。」
 と火鉢をぐいぐいとゆすぶって。

       四十一

「あっちへ蹌々ひょろひょろ、こっちへ踉々よろよろ、狐のいたように、俺の近所を、葛西かさい街道にして、肥料桶こえたごにおいをさせるのはどこの奴だ。
 何か、聞きゃ、河野の方で、妙の身体からだ探捜さぐりを入れるのが、不都合だとか、不意気ぶいきだとか言うそうだが、」
 ああ、礼之進が皆饒舌しゃべった……
「意気も不意気も土百姓の知った事かい。これ、河野はお前のような狐憑じゃないのだぜ。
 学位のある、立派な男が、大切な嫁をるのだ。念を入れんでどうするものか。しらべるのは当前あたりまえだ。芸者を媽々かかあにするんじゃない。
 またおれの方じゃ、探捜を入れて貰いたいのよ。さあ、どこでも非難をして見ろ、と裸体はだかで見せて差支えの無いように、己と、謹とで育てたんだ。
 何が可恐おそろしい? 何が不平だ? 何が苦しい? 己は、渠等かれらの検べるのより、お前がそこらをまごつく方がどのくらい迷惑か知れんのだ。
 よしんば、奴等に、身元検べをされるのが迷惑とする、しゃくに障るとなりゃ、己がちゃんと心得てる。この指一本、妙の身体からだかくした日にゃ、按摩あんまの勢揃ほど道学者輩がつえを突張って押寄せて、垣覗かきのぞきを遣ったって、黒子ほくろ一点ひとつも見せやしない、誰だと思う、おい、己だ。」
 とまたきっと見て、
「なぜ、泰然と落着払って、いや、それはお芽出度い、と云って、頼まれた時、紹介をせん。癪に障る、野暮だ、と云う道学者に、ぐッと首根ッ子をおさえられて、(早瀬氏はこれがために、ちと手負じしでごわりましてな。)なんて、歯をすすらせるんだ。
 馬鹿野郎! おいら弟子はいくらでもある、が小児こどもの内から手許に置いて、あめン棒までねぶらせて、妙と同一ひとつ内で育てたのは、きさまばかりだ。その子分が、道学者に冷かされるような事を、なぜするよ。
(世間に在るやつでごわります。飼犬に手をまれると申して。以来あの御門生には、令嬢お気を着けなさらんと相成りませんで。)坂田が云ったを知ってるか。
 馬鹿野郎、これ、」
 と迫った調子に、慈愛が籠って、
「さほどの鈍的とんちきでもなかったが、天罰よ。先生の目をくらまして、売婦ばいたなんぞ引摺込む罰が当って、魔がしたんだ。
 嫁入前の大事な娘だ、そんな狐の憑いた口で、向後こうご妙の名も言うな。
 生意気に道学者に難癖なんぞ着けやあがって、てめえ面当つらあてにも、娘は河野英吉にたたッ呉れるからそう思え。」
貴郎あなた、」
 と小芳が顔を上げて、
「早瀬さんに、どんな仕損いが、お有んなすったか存じませんが、決して、お内や、お嬢さんの……(と声が曇って、)お為悪かれ、と思ってなすったんじゃござんすまいから、」
「何だ。為悪かれ、と思わん奴が、なぜ芸者を引摺込んで、師匠に対して申訳のないような不埒ふらちを働く。第一お前も、」
 稲妻が西へ飛んで、
「同類だ、共謀ぐるだ、同罪だよ。おい、芸者を何だと思っている。藪入やぶいりに新橋を見た素丁稚すでっちのように難有ありがたいもんだと思っているのか。馬鹿だから、己が不便ふびんを掛けて置きゃ、増長して、酒井は芸者の情婦いろを難有がってると思うんだろう。高慢に口なんぞ突出しやがって、俯向うつむいておれ。」
 はっと首垂うなだれたが、目に涙一杯。
「そんな、貴郎、難有がってるなんのッて、」
「難有くないものを、なぜ俺の大事な弟子に蔦吉を取持ったんだい!」
 主税は手をいてって出た。
、先生、姉さんは、何にも御存じじゃございません、それは、お目違いでございまして、」
 と大呼吸おおいきを胸でくと、
「黙れ! 生れてから、おいら、目違いをしたのは、お前達二人ばかりだ。」

       四十二

「お言葉をかえしますようでございますが、」
 主税は小芳の自分に対する情があだになりそうなので、あるにもあられず据身すえみになって、
「誰がそういうことをお耳に入れましたか存じませんが、芸者が内に居りますなんてとんだ事でございます。やっぱり、あの坂田の奴が、怪しかりません事を。わたくしは覚悟がございます、彼奴あいつに対しましては、」と目の血走るまで意気込んだが、後暗い身のあかりは、ちっとも立つのではなかった。
「覚悟がある、何の覚悟だ。おれに申訳が無くって、首をくくる覚悟か。」
「いえ、坂田の畜生、根もない事を、」
「馬鹿!」
 としっして、調子をゆるめて、
「も休み休み言え。失礼な、他人の壁訴訟を聞いて、根も無い事を疑うような酒井だと思っているか。お前がその盲目めくらだから悪い事を働いて、一端いっぱし己の目を盗んだ気で洒亜々々しゃあしゃあとしているんだ。
 先刻さっきどうした、牛込見附でどうしたよ。慌てやあがって、言種いいぐさもあろうに、(女中が寝ていますと失礼ですから。)と駈出した、あれは何のざまだ。ばばあが高利貸をしていやしまい、主人あるじの留守に十時前から寝込む奴がどこに在る。
 また寝ていれば無礼だ、と誰が云ったい。これ、お前たちに掛けちゃ、己の目はやみでも光るよ。飯田町の子分の内には、玄関の揚板の下に、どんな生意気な、おんなの下駄が潜んでるか、鼻緒の色まで心得てるんだ。べらぼうめ、内証ないしょうでする事は客の靴へ灸を据えるのさえかくしおおされないで、(恐るべき家庭でごわります。)と道学者に言われるような、薄っぺらな奴等が、先生の目を抜こうなぞと、天下を望むような叛逆を企てるな。
 悪事をするならするように、もっと手際よく立派に遣れ。見事に己を間抜けにして見ろ。同じ叱言こごとを云うんでも、その点だけは恐入ったと、鼻毛をましてめてやるんだ。三下め、先生の目を盗んでも、お前なんぞのは、たかだか駈出しの(タッシェン、ディープ)だ。」
 これは、(攫徒すり)と云う事だそうである。主税は折れるように手をハッといた。
「恐入ったか、どうだ。」
「ですが、全く、その、そんな事は……」
「無い?」
「…………」
「芸者は内に居ないと云うのか。」
「はい。」
 霹靂へきれきのごとく、
「帰れ!」
 小芳が思わず肩をすくめる。
「早瀬さん、私、私じゃ、」
 と声が消えて、小芳は紋着もんつきの袖そのまま、眉も残さずおもておおう。
「いや、愛想の尽きた蛆虫うじむしめ、往生際の悪い丁稚でっちだ。そんな、しみったれた奴は盗賊どろぼうだって風上にも置きやしない、酒井の前は恐れ多いよ、帰れ!
 これ、姦通まおとこにも事情はある、親不孝でも理窟を云う。前座のような情実わけでもあって、一旦内へ入れたものなら、猫のの始末をするにも、鰹節かつおぶしはつきものだ。はなしを附けて、手を切らして、綺麗にさばいてやろうと思って、お前のとこへ行くつもりで、百と、二百は、懐中ふところに心得て出て来たんだ。
 この段になっても、まだ、ああ、心得違いをいたしました。先生よしなに、とは言い得ないで、秘し隠しをする料簡りょうけんじゃ、うぬが家を野天のでんにして、おんなとさかっていたいのだろう。それで身が立つなら立って見ろ。口惜くやしくば、おい、こうやって馴染なじみの芸者をそばに置いて、弟子に剣突けんつくをくわせられる、己のような者になって出直して来い。
 さあ、帰れ、帰れ、帰れ! けがらわしい。帰らんか。この座敷は己の座敷だ。己の座敷から追出すんだ。帰らんか、野郎、帰れと云うに、そこをたんと蹴殺けころすぞ!」
「あれ、お謝罪わびをなさいまし。」と小芳がたてに、おろおろする。
 主税は、砕けよ、と身を揉んで、
「小芳さん、お取なしを願います。」とじっみつめて色が変った。
「奥さんに、奥さんに、お願いなさいよ、」

       四十三

「何を、奥さんに頼めだい、黙れ。謹が芸者の取持なんぞすると思うか。先刻さっきも云う通り、芳、お前も同類だ、同類は同罪だよ。早瀬を叩出した後じゃおれ追出おんでる、お前ともこれきりだから、そう思え。」
 と言わるるままに、忍び音が、声に出て、肩の震えが、袖をゆすった。小芳はいとけないもののごとく、あわれにかぶりって、厭々をするのであった。
「姉さん、」
 と思込んだ顔をもたげた、主税はまぶた引擦ひっこすって、元気づいたような……調子ばかりで、一向取留の無い様子、しどろになって、
貴女あなたは、貴女は御心配下さいませんように……先生、」
 とあらためて、両手をいて、息を切って、
「申訳がございません。とんだ連累まきぞえでお在んなさいます。どうぞ、姉さんには、そんな事をおっしゃいません様に、わたくしを御存分になさいまして。」
「存分にすれば蹴殺すばかりよ。」
 と吐出すように云って、はじめて、豊かに煙を吸った。
「じゃ恐入ったんだな。
 内に蔦吉が居るんだな。
 もう陳じないな。」
「心得違いをいたしまして……何とも申しようがございません。」
 とほっと息をいたと思うと、声がうるむ。
 最早罪に伏したので、今までは執成とりなすことも出来なかった小芳が、ここぞ、と見計みはからって、初心にも、たもとの先をつまさぐりながら、
「大目に見ておあげなすって下さいまし。蔦吉さんもあだな気じゃありません。して早瀬さんのお世帯の不為ふためになるような事はしませんですよ。一生懸命だったんですから。あんな派手な落籍祝ひきいわいどころじゃありません、貴郎あなた着換きがえも無くしてまで、借金の方をつけて、夜遁よにげをするようにして落籍ひいたんですもの。
 堅気に世帯が持てさえすれば、その内には、世間でも、商売したのは忘れましょうから、早瀬さんの御身分に障るようなこともござんすまい。もうこの節じゃ、洗濯ものも出来るし、単衣ひとえものぐらい縫えますって、この間も夜おそく私に逢いに来たんですがね。」
 と婀娜あだな涙声になって、
「羽織が無いから日中は出られない、とねたように云うのがねえ、どんなに嬉しそうだったでしょう。それに土地ところ馴れないのに、臆病おくびょうな妓ですから、早瀬さんがこうやって留守にしていなさいます、今頃は、どんなに心細がって、戸に附着くッついて、土間に立って、帰りを待っているか知れません、私あそれを思うと……」
 と空色の、まぶたを染めて、浅くおさえた襦袢じゅばんの袖口。月に露添う顔を見て、主税もはらはらと落涙する。
世迷言よまいごとを言うなよ。」
 とにべもなく、虞氏ぐしなんだしりぞけて、
「早瀬どうだ、分れるか。」
行処ゆきどこもございません、仕様が無いんでございますから、先生さえ、お見免みのがし下さいますれば、わたくしの外聞や、そんな事は。世間体なんぞ。」となかば云ってが乾く。
「いや、不可いかん、許しやしないよ。」
「そう仰有おっしゃって下さいますのも、世間を思って下さいますからでございます。もう、わたくしは、自分だけでは、決心をいたしまして、世間には、随分一人前の腕を持っていながら、財産を当に婿養子になりましたり、てまえが勝手に嫁にすると申して、人の娘の体格検査を望みましたり、」
 とかっとなって、この時やや血の色が眉宇びうに浮んだ。
「女学校の教師をして、媒妁なこうどをいたしましたり……それよりか、拾人ひろいての無い、社会の遺失物おとしものを内へ入れます方が、同じ不都合でも、罪は浅かろうと存じまして。それも決して女房になんぞ、しますわけではございません。一生日蔭ものの下女同様に、ただ内証ないしょうで置いてやりますだけのことでございますから。」
「血迷うな。腕があって婿養子になる、女学校で見合をする、そりゃ勝手だ、己の弟子じゃないんだから、そのかわり芸者を内へ入れる奴も弟子じゃないのだ、分らんか。」

       四十四

 折から食卓を持って現れた、友染のその愛々しいのは、座のあたかも吹荒んだ風の跡のような趣に対して、散り残った帰花かえりばなの風情に見えた。輝く電燈の光さえ、こがらし対手あいてや空に月一つ、で光景がすさまじい。
 一言も物いわぬ三人の口は、一度にバアと云って驚かそうと、我がために、はたしかく閉されているように思って、友染はかんざしの花とともに、堅くなって膳を据えて、浮上るように立って、小刻こきざみふすまの際。
 川千鳥がそこまで通って、チリチリ、とが留まった。杯洗はいせん鉢肴はちさかななどを、ちょこちょこ運んで、小ぢんまりと綺麗に並べるうちも、姉さんは、ただ火鉢をちっとずらしたばかり、しおれて俯向うつむいて、ならば直ぐに、つむりが打つのをおさえたそうに、火箸に置く手の白々と、白けた容子を、立際に打傾うちかしいで、じっと見て出ようとする時、
「食うものはこれだけか。」
 と酒井は笑みを含んだが、この際、天窓あたまから塩で食うと、大口を開けられたように感じたそうで、襖の蔭で慄然ぞっすくんで壁の暗さに消えて行く。
 慌てて、あとを閉めないで行ったから、小芳が心付いて立とうとすると、するすると裾をさばいて、あわただしげに来たのは綱次。
 唯今の注進に、ソレと急いで、銅壺どうこかんを引抜いて、長火鉢の前をと立ちざまに来た。
 前垂掛けとはがらりと変って、鉄お納戸地に、白の角通かくとおしの縮緬ちりめん、かわり色のもすそを払って、上下うえした対のあわせかさね黒繻珍くろしゅちんに金茶で菖蒲あやめを織出した丸帯、緋綸子ひりんず長襦袢ながじゅばん、冷く絡んだ雪のかいなで、猶予ためらう色なく、持って来た銚子を向けつつ、
「お酌、」
 冴えた音を入れると、鶯のほうと立つ、膳の上の陽炎かげろうに、電気の光がやわらいで、朧々おぼろおぼろと春に返る。
「まだ宵の口かい。」
「柏家だけではね。」と莞爾にっこりする。
「遠慮なく出懸けるが可い、しかし猥褻わいせつだな。」
「あら、なぜ?」
「十一時過ぎてからの座敷じゃないか。」
「御免なさいよ、苦界だわ。ねえ、早瀬さん、さあ、めしあがれよ、ぐうと、」
「いいえ、もう、」
 主税は猪口ちょくながむるのみ。
「お察しなさいよ。」
 と先生にまたお酌をして、
御贔屓ごひいきの民子ちゃんが、大江山に捕まえられていますから、助出しに行くんだわ。渡辺の綱次なのよ。」
「道理こそ、鎖帷子くさりかたびら扮装いでたちだ。」
しころのように、根が出過ぎてはしなくって。姉さん、」
 とたぼに手を触る。
「いいえ、」
 と云って、ことばの内に、(そんな心配をおしでない。)の意味が籠る。綱次は、(安心)の体に、胸をちょいと軽く撫でて、
「おいしいものが、直ぐにあとから、」
「綱次姉さん、また電話よ。」
 と廊下から雛妓こどもの声。
「あい、あい、あちらでも御用とおっしゃる。では、き行って来ますから、貴下あなた帰っちゃ、厭ですよ、民ちゃんを連れて来て、一所にまたお汁粉をね。」
 酒井は黙ってうなずいた。
「早瀬さん、御緩ごゆっくり。」
 と行く春や、主税はそれさえ心細そうに見送って、先生の目からおもてを背ける。
 酒井は、杯を、つっとし、
「早瀬、近う寄れ、もっと、」
 と進ませ、肩をそびやかしてきっと見て、
「さあ、一ツ遣ろう。どうだ、別離わかれの杯にするか。」
「…………」
「それともおんなを思切るか。芳、いでやれ、おい、どうだ、早瀬。これ、酌いでやれ、酌がないかよ。」
 銚子を挙げて、猪口ちょくを取って、二人は顔を合せたのである。

       四十五

 その時、眼光稲妻のごとく左右を射て、
「何を愚図々々ぐずぐずしているんだ。」
「私がお願いでござんすから、」と小芳は胸の躍るのを、片手でそっおさえながら、
「ともかくも今夜の処は、早瀬さんを帰して上げて下さいまし。そうしてよく考えさして、あらためてお返事をお聞きなすって下さいましな、後生ですわ、貴郎あなた
 ねえ、早瀬さん、そうなさいよ。先生も、こんなに仰有おっしゃるんですから、貴下あなたもよく御分別をなさいまし、ここは私が身にかえてお預り申しますから。よ……」
 と促がされても立ちかねる、主税は後を憂慮きづかうのである。
「蔦吉さんが、どんなになんしたって、私が知らない顔をしていればかったのですけれど、思う事は誰も同一おなじだと、私、」
 と襟におとがい深く、迫った呼吸いきの早口に、
「身につまされたもんだから、とうとうこんな事にしてしまって、元はと云えば……」
「そんな、貴女あなたが悪いなんて、そんな事があるもんですか。」
 と酒井の前をかばう気で、肩に力味りきみを入れて云ったが、続いて言おうとする、
(貴女がお世話なさいませんでも……)の以下は、怪しからず、と心着いて、ハッとまた小さくなった。
「いいえ、私が悪いんです。ですから、後で叱られますから、貴下、ともかくもお帰んなすって……」
「ならん! この場に及んで分別も糸瓜へちまもあるかい。こんな馬鹿は、助けて返すと、おんなを連れて駈落かけおちをしかねない。短兵急に首をおさえて叩っ斬ってしまうのだ。
 早瀬。」
 と苛々した音調で、
「是も非も無い。さあ、たとえ俺が無理でも構わん、無情でも差支えん、おんなが怨んでも、泣いても可い。こがじにに死んでも可い。先生の命令いいつけだ、切れっちまえ。
 俺を棄てるか、婦を棄てるか。
 むむ、このほか言句もんくはないのよ。」
(どうだ。)とあごで言わせて、悠然と天井を仰いで、くるりと背を見せて、ドンと食卓にひじをついた。
「婦を棄てます。先生。」
 と判然はっきり云った。そこを、酌をした小芳の手の銚子と、主税の猪口ちょくと相触れて、カチリと鳴った。
「幾久く、お杯を。」と、ぐっと飲んで目を塞いだのである。
 物をも言わず、背向うしろむきになったまま、世帯話をするように、先生は小芳に向って、
「そっちの、そっちの熱い方を。――もう一杯ひとつ、もう一ツ。」
 と立続けに、五ツ六ツ。ほッと酒が色に出ると、懐中物を懐へ、羽織の紐を引懸けて、ずッと立った。
「早瀬は涙を乾かしてから外へ出ろ。」
 小芳はひたと、酒井の肩に、前髪の附くばかり、後に引添ひっそうてすがざまに、
「お帰んなさるの。」
「謹が病気よ。」
 と自分で雨戸を。
「それは不可いけませんこと。」と縁側に、水際立ってはらりと取った、隅田の春の空色のつま。力なき小芳の足は、カラリと庭下駄に音を立てたが、枝折戸のまだかぬほど、主税は座をずらして、障子の陰になって、せわし巻莨まきたばこを吸うのであった。
 二時ふたときばかり過ぎてから、主税が柏家の枝折戸を出たのは、やがて一時に近かったろう。その時は姉さんはじめ、綱次ともう一人のその民子と云う、牡丹ぼたんの花のような若いのも、一所に三人で路地の角まで。
「お互に辛抱するのよう。」と酒気さかけのある派手な声で、主税を送ったのは綱次であった。ト同時にかれは姉さんと、手をしっかりと取り合った。
 時に、ひっそりした横町の、とある軒燈籠の白いあかりと、板塀の黒い蔭とにはさまって、ひらたくなっていた、頬被ほおかむりをした伝坊が、一人、後先を※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわして、そっと出て、五六歩行過ぎた、早瀬の背後うしろへ、……抜足で急々つかつか
「もし、」
「…………」
先刻さっきアどうも。よく助けて下すったねえ。」
 と頬かむりを取った顔は……礼之進に捕まった、電車の中の、その半纏着はんてんぎ


     誰が引く袖

       四十六

 土曜日は正午ひるまでで授業が済む――教室を出る娘たちで、照陽女学校は一斉に温室の花を緑の空に開いたよう、ぱっうららかな日を浴びた色香は、百合よりも芳しく、杜若かきつばたよりも紫である。
 年上の五年級が、最後に静々と出払って、もうこれで忘れた花の一枝もない。四五人がちらほらと、式台へ出かかる中に、妙子が居た。
 阿嬢おじょうは、就中なかんずく活溌に、大形の紅入友染のたもとの端を、藤色の八ツ口から飜然ひらりって、何を急いだか飛下りるように、靴のさきを揃えて、トンと土間へ出た処へ、小使が一人ばたばたと草履穿ばきで急いで来て、
「ああ酒井様。」
 と云う。優等生で、この容色きりょうであるから、寄宿舎へ出入ではいりの諸商人しょあきんども知らぬ者は無いのに、別けて馴染なじみ翁様じいさまゆえ、いずれ菖蒲あやめと引き煩らわずに名を呼んだ。
「ははい。」
 と振向くと、小使は小腰をかがめて、
「教頭様が少し御用がござります。」
「私に、」
「ちょっとお出で下さりまし。」
「あら、何でしょう、」
 と友達も、吃驚びっくりしたような顔で※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわすと、出口に一人、駒下駄こまげたを揃えて一人、一人は日傘を開け掛けて、その辺の辻まで一所に帰る、お定まりの道連みちづれが、ひとしく三方からお妙の顔をみまもって黙った。
 この段は、あらかじめ教頭が心得さしたか、翁様じいさまがまた、そこらの口がかしましいと察した気転か。
「何か、お父様へ御託おことづけものがござりますで。」
「まあ、そう、」
 と莞爾にっこりして、
「待ってて下すって?」と三人へ、一度に黒目勝なのを働して見せると、言合せた様に、二人まで、胸を撫で下して、ホホホと笑った――お腹が空いた――という事だそうである。
 お妙はずんずん小使について廊下を引返ひっかえしながら、怒ったような顔をして、振向いて同じように胸のもとさすって見せた。
「応接でござりますわ。」
 教員室の前を通ると、背後うしろむきで、丁寧に、風呂敷のしわのばして、何か包みかけていたのは習字の教師。向うに仰様のけざまに寝て、両肱りょうひじを空に、後脳を引掴ひッつかむようにして椅子にかかっていたのは、数学の先生で。看護婦のような服装で、ちょうど声高に笑ったおんなは、言わずとも、体操の師匠である。
 行きがかりに目についた、お妙は直ぐに俯目ふしめになって、コトコト跫音あしおとが早くなった。階子段はしごだんの裏を抜けると、次の次の、応接室のドアは、半開きになって、ペンキ塗の硝子戸入がらすどいりの、大書棚の前に、卓子テイブルに向って二三種新聞は見えたが、それではなしに、背文字の金の燦爛さんらんたる、あたらし洋書ブックの中ほどを開けて読む、天窓あたまの、てらてら光るのは、当女学校の教頭、倫理と英文学受持…の学士、宮畑閑耕。同じ文学士河野英吉の親友で、待合では世話になり、学校では世話をする(蝦茶えびちゃ緋縮緬ひぢりめんの交換だ。)と主税が憤った一人である。
 この編の記者は、教頭氏、君に因って、男性を形容するに、留南奇とめきの薫馥郁ふくいくとしてと云う、創作的文字もんじをここにさしはさみ得ることを感謝しよう。勿論、そのにおいの、二十世紀であるのは言うまでもない。
 お妙は、ドアに半身を隠して留まる。小使はそのまま向うへ行過ぎる。
 閑耕は、キラリ目金めがねを向けて、じろりと見ると、目を細うして、ひげさきをピンと立てた、あごが円い。
「こちらへ、」
 と鷹揚おうように云って、再び済まして書見に及ぶ。
 お妙は扉に附着くッついたなりで、入口を左へ立って、本の包みを抱いたまま、しとやかに会釈をしたが、あえてそれよりは進まなかった。
「こちらへ。」と無造作なように、今度は書見のまま声をかけたが、落着かれず、またひょいと目を上げると、その発奮はずみで目金が躍る。
 頬桁ほおげたへ両手をぴったり、慌てて目金の柄を、鼻筋へ揉込もみこむと、睫毛まつげおさえ込んで、驚いて、指の尖をくぐらして、まぶたこすって、
「は、は、は、」と無意味な笑方をしたが、向直って真面目な顔で、
「どうですな。」

       四十七

 もうそばへ来そうなものと、閑耕教頭が再び、じろりと見ると、お妙は身動きもしないで、じっと立って、ろうたけた眉が、雲の生際に浮いて見えるように俯向うつむいているから、威勢にじて、かしら上げぬのであろう、いや、さもあらん、と思うと……そうでない。酒井先生の令嬢は、えみを含んでいるのである。
 それは、それは愛々しい、仇気あどけない微笑ほほえみであったけれども、この時の教頭には、素直に言う事をいて、御前おんまえさぶらわぬだけに、人の悪い、くみし易からざるものがあるように思われた。で、苦い顔をして、
「酒井さん、ここへ来なくちゃ不可いかんですよ。」
 時に教頭胸をらして、卓子テイブルをドンとこぶしで鳴らすと、妙子はつつと勇ましく進んで、差向いにおもてを合わせて、そのふっくりした二重瞼ふたかわめを、おくする色なく、円く※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、
「御用ですか。」
 と云った風采、云い知らぬ品威がこもって、閑耕は思いかけず、はっと照らされて俯向うつむいた。
 教場でこそあれ、二人だけで口を利くのは、抑々そもそも生れて以来最初はじめてである。が、これは教場以外ではいかなる場合にても、こうであろうも計られぬ。
 はて、教頭ほどの者が、こんな訳ではないはずだが、とあらためて疑の目を挙げると、脊もすらりとして椅子に居る我を仰ぐよ、酒井のむすめは依然として気高いのである。
「酒井さん……」
 声の出処でどころが、倫理を講ずるようにはかぬ。
 咽喉のどが狂って震えがあるので、えへん! としわぶいて、手巾ハンケチこすって、四辺あたり※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしたが、湯も水も有るのでない、そこで、
「小ウ使いい、」と怒鳴った。
「へ――い、」
と謹んだ返事が響く。教頭はこれに因って、おおいにその威厳を恢復かいふくし得て、いきおいに乗じて、
貴娘あなたに聞く事があるのですが、」
「はい。」
「参謀本部の翻訳をして、まだ学校なども独逸語を持っていますな――早瀬主税――と云う、あれは、貴娘の父様とうさんの弟子ですな。」
「ええ、そう…………」
「で、貴娘の御宅に置いて、修業をおさせなすったそうだが、一体あれの幾歳ぐらいの時からですか。」
「知りません。」
 と素気そっけなく云った。
「知らない?」
 と妙な顔をして、額でお妙を見上げて、
「知らないですか。」
「ええ、ぜんにからですもの。内の人と同一おんなじですから、いつ頃からだか分りませんの。」
「貴娘は幾歳いくつぐらいから、交際をしたですか。」
「…………」
 と黙って教頭を見て、しかも不思議そうに、
「交際って、私、いやねえ。早瀬さんは内の人なんですもの。」と打微笑む。
「内の人。」
「ええ、」と猶予ためらわずうなずいた。
「貴娘、そういう事を言っては不可いけますまい。あれを(内の人)だなんと云うと、御両親をはじめ、貴娘の名誉に関わるでしょうが、ああ、」
 と口を開いてニヤリとする。
 お妙はツンとして横を向いた、まなじりやさしい怒が籠ったのである。
 閑耕は、その背けた顔を覗込のぞきこむようにして、胸を曲げ、膝を叩きながら、鼻の尖に、へへん、と笑って、
「あんな者と、貴娘交際するなんて、芸者を細君にしていると云うじゃありませんか。汚わしい。怪しからん不行跡です。実に学者の体面を汚すものです。そういう者のとこへ貴娘出入りをしてはなりません。知らない事はないのでしょう。」
 妙子は何にも言わなかったが、はじめてまぶしそうに瞬きした。
 小使が来て、低頭して命を聞くと、教頭はあごで教えて、
「何を、茶をくれい。」
「へい。」
「そこを閉めて行け、寄宿生が覗くようだ。」

       四十八

 が閉ると、教頭身構みがまえを崩して、仰向けに笑い懸けて、
「まあ、お掛なさい、そこへ。貴娘あなたのためにならんから、云うのだよ。」
 わざわざ立って突着けた、椅子のへりは、たもとに触れて、その片袖を動かしたけれども、お妙は規則正しいお答礼じぎをしただけで、元の横向きに立っている。
「早瀬の事はまだまだ、それどころじゃないですが、」と直ぐにまた眉をひそめて、談じつけるような調子に変って、
「酒井さん、早瀬は、ありゃ罪人だね、我々はその名を口にするさえはばかるべき悪漢ですね。」
 とのッそり手を伸ばして、卓子テイブルの上に散ばった新聞を撫でながら、
「貴娘、今日のA……新聞を見んのですか。」
 一言聞くと、さっまぶたくれないにして、お妙は友染の襦袢じゅばんぐるみ袂の端を堅く握った。
「見ませんか、」
 と問返した時、教頭は傲然ごうぜんとして、卓子に頤杖あごづえく。
「ええ、」とばかりで、お妙は俯向うつむいて、瞬きしつつ、流眄しりめづかいをするのであった。
「別に、一大事に関して早瀬は父様のとこへ、頃日このごろに参った事はないですかね。あるいは何か貴娘、聞いた事はありませんか。」
 小さな声だったが判然はっきりと、
「いいえ。」と云って、袖に抱いた風呂敷包みの紫を、皓歯しらはんだ。この時、この色は、瞼のそのあけを奪うて、さみしく白く見えたのである。
「行かんはずはないでしょうが、貴娘、知っていて、まだ私の前に、かくすのじゃないかね。」
「存じませんの。」
 とつむりったが、いたいけに、ねたようで、且つくどいのをうるさそう。
「じゃ、まあ、知らないとして。それから、お話するですがね。早瀬は、あれは、攫徒すりの手伝いをする、巾着切きんちゃくきりの片割のような男ですぞ!」
 かんざしの花がりんとして色が冴えたか気が籠って、きっと、教頭を見向いたが、その目の遣場やりばが無さそうに、向うの壁に充満いっぱいの、おおいなる全世界の地図の、サハラの砂漠の有るあたりを、すずしい瞳がうろうろする。
「勿論早瀬は、それがために、分けて規律の正しい、参謀本部の方は、この新聞が出ない先に辞職、免官に、なったです。これはその攫徒に遭った、当人の、御存じじゃろうね、坂田礼之進氏、あの方の耳に第一に入ったです。
 で、見ないんなら御覧なさい。ほかの二三の新聞にもいてあるですが。このA……が一番くわしい。」
 と落着いて向うへ開いて、三の面を指で教えて、
「ここにありますが、お読みなさい。」
「帰って、私、内で聞きます。」と云った、唇の花がそよいだ。
「は、は、は、貴娘、(内の人)だなんと云ったから、きまりが悪いかね。何、知らないんならよろしいです。私は貴娘の名誉を思って、注意のために云うんだから、よくお聞きなさい。帰って聞いたって駄目さね。」
 といたあなどった語気を帯びて、
「父様は、自分の門生だから、十に八九はかくすですもの。何で真相が解りますか。」
 コツコツ廊下から剥啄ノックをした者がある。と、教頭は、ぎろりと目金を光らしたが、反身そりみに伸びて、
「カム、イン、」と猶予ためらわずに答えた。
 この剥啄と、カム、インは、余りに呼吸が合過ぎて、あたかもかねて言合せてあったもののようである。
 すなわちドアを細目に、先ず七分立しちぶだちの写真のごとく、顔から半身を突入れて中を覗いたのは河野英吉。白地に星模様のたてネクタイ、金剛石ダイアモンド針留ピンどめの光っただけでも、天窓あたまから爪先つまさきまで、その日の扮装いでたち想うべしで、髪から油がとろけそう。
 早やも言われぬ悦喜の面で、
「やあ、」と声を懸けると、入違いに、後をドーン。
 扉の響きは、ぶるぶると、お妙の細い靴の尖に伝わって、揺らめく胸に、地図の大西洋の波があおる。

       四十九

「失敬、失敬。」
 とちと持上げて、浮かせ気味に物れた風で、河野は教頭と握手に及んで、
「やあ、失敬、」と云いながら、お妙の背後うしろから、横顔をじろりと見る。
 河野の調子の発奮はずんだほど、教頭は冷やかな位に落着いた態度で、
「どこの帰りか。」
「大学(と力を入れて、)の図書館にしらべものをして、それから精養軒で午飯ひるめしを食うて来た。これからまたH博士のとこへ行かねばならん。」
 とせわしそうに肩をって、
「君(とわざと低声こごえで呼んで、)この方は……」
「生徒――」と見下げたように云う。
「はあ、」
「ミス酒井と云う、」と横を向いて忍び笑を遣る。
「うむ、真砂町の酒井氏の、」
 と首を伸ばして、分ったような、分らぬような、見知越みしりごしのような、で、ないような、その辺あやふやなお妙の顔の見方をしたが、
「君、紹介してくれたまえ。」
「学校で、紹介は可訝おかしかろう。」
「だってもう教場じゃないじゃないか。」
「それでは、」とまことに余儀なさそうに、さて、厳格に、
「酒井さん、過般いつかも参観に見えられた、これは文学士河野英吉君。」
 同じ文字をあらわした大形の名刺のぷんと薫るのを、く用意をしていたらしい、ひょいとつまんで、はやいこと、お妙の袖摺そですれに出そうとするのを、まずい! と目で留め、教頭は髯で制して、小鼻へ掛けて揉み上げ揉み上げ揉んだりける。
 英吉は眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、急いでその名刺と共に、両手を衣兜かくしへ突込んだが、斜めに腰を掉るよと見れば、ちょこちょこ歩行あるきに、ぐるりと地図を背負しょって、お妙の真正面まっしょうめんへ立って、も一つ肩を揉んで、手の汗を、ずぼんの横へこすりつけて、清めた気で、くの字なりに腕を出したは、短兵急に握手のつもりか、と見ると、ゆるがぬ黒髪に自然おのず四辺あたりはらわれて、
「やあ、はははは、失敬。」
 と英吉大照れになって、後ざまに退さがって(おお、神よ。)と云いそうなたいになり、
「お遊びにいらっしゃい、妹たちが、学校は違いますが、みんな貴女を知っているのですよ。はあ……」
 とひとりうなずいて、大廻りに卓子テイブルの端を廻って、どたりと、腹這はらんばいになるまでに、拡げた新聞の上へ乗懸のりかかって、
「何を話していたのだい。」
 教頭をちょいと見れば、閑耕は額でめつけ、苦き顔して、その行過やりすごしたしなめながら、
「実は、今、酒井さんに忠告をしている処だ。」
 お妙は色をまた染めた。
「そうだとも! ええ、酒井さん……」
 黙っているから、
「酒井さん!」
「ははい、」と声がふるえて聞える。
貴娘あなた知らんのならお聞きなさい。頃日このごろの事ですが、今も云った、坂田礼之進氏が、両国行の電車で、百円ばかり攫徒すりられたです。取られたと思うと、気が着いて、ただち其奴そいつ引掴ひッつかまえて、車掌とで引摺下ろしたまでは、恐入って冷却していたその攫徒がだね、たちまち烈火のごとくにたけり出して、坂田氏をなぐった騒ぎだ。」
なぐられたってなあ、大人、気の毒だったよ。」
「災難とも。で、何です。巡査が来たけれども、何の証拠もあがらんもんで、その場はそれッきりで、坂田氏は何の事はない、たれ損の形だったんだね。お聞きなさい――貴娘。
 証拠は無かったが、あやしむべき風体の奴だから、その筋の係が、其奴を附廻して、同じの午前二時頃に、浅草橋辺で、フトした星が附いて取抑えると、今度は袱紗ふくさに包んだ紙入ぐるみ、手も着けないで、坂田氏の盗られた金子かねを持っていたんだ。
 ねえ、貴娘。拘引こういんして厳重に検べたんだね。どこへそれまで隠して置いたか。先刻は無かった紙入を、という事になる……とです。」
 あくまで慎重に教頭が云うと、英吉が※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そそっかしく、
「妙だ、妙だよ。妙さなあ。」

       五十

攫徒すりの名も新聞に出ているがね、何とか小僧万太まんたと云うんだ。其奴そいつの白状した処では、電車の中で掏った時、大不出来おおふでかしに打攫ふんづかまって、往生をしたんだが、対手あいてつらなぐったから、しゃくに障ってたまらないので、ちょうど袖の下に俯向うつむいていた男の袖口から、早業でその紙入をずらかし込んで、もう占めた、とそこで逆捻さかねじに捻じたと云うんだね。
 ところで、まん直しの仕事でもしたいものだと、柳橋辺を、おそくなってから胡乱うろついていると、うっかり出合ったのが、先刻さっき、紙入れをすべらかした男だから、金子かねはどうなったろうと思って、捕まったらそれ迄だ、と悪度胸で当って見ると、道理で袖が重い、と云って、はじめて、気が着いて、たもとを探してその紙入を出してくれて、しかし、一旦こっちの手へ渡ったもんだから、よく攫徒仲間が遣ると云う、小包みにでもして、その筋へ出さなくっちゃ不可いかんぞ、と念を入れて渡してくれた。一所に交番へ来い! とも云わずに、すっきりしたその人へ義理が有るから、手も附けないで突出すつもりで、一先ず木賃宿へ帰ろうとする処を、御用になりました。たった一時ひとときでも善人になってぼうとした処だったから掴まったんで、盗人心ぬすっとごころを持った時なら、浅草橋の欄干てすりんで、富貴竈ふうきかまどの屋根へ飛んでも、旦那方の手に合うんじゃないと、太平楽を並べた。太い奴は太い奴として。
 酒井さん。その攫徒の、袖の下になって、坂田氏の紙入を預ったという男は、誰だと思いますか、ねえ、これが早瀬なんだ。」
 と教頭は椅子をずらして、卓子をかろく打って、
「どうです、貴娘が聞いても変だろうが。
 その筋じゃ、きその関係者にも当りがついて、早瀬も確か一二度警察へ呼ばれたはずだ。しかしその申立てが、攫徒のことばに符合するし、早瀬もちっとは人に知られた、しかるべき身分だし、何はいても、名の響いた貴娘の父様の門下だ、というので、何の仔細しさいも無く済むにゃ済んだ。
 真砂町の御宅へも、この事に附いて、刑事が出向いたそうだが、そりゃはばかって新聞にも書かず、御両親も貴娘には聞かせんだろう。
 で、とんだ災難で、早瀬は参謀本部の訳官も辞した、と新聞には体裁よく出してあるが、考えて御覧なさい。
 同じ電車に乗っていて、坂田氏が掏られた事をその騒ぎで知らん筈がない。知っていてだね、紙入が自分の袂に入っている事を……まあ、仮に攫徒に聞かれるまで気がつかなんだにしてからがだ、いよいよ分った時、面識の有る坂田氏へ返そうとはしないで、ですね、」
 河野にもことばを分けて、
直接じかに攫徒に渡してやるもいかがなもんだよ。何よりもだね、そんな盗賊どろぼうとひそひそ話をして……公然とは出来んさ、いずれ密々話ひそひそばなしさ。」
 誰も否とは云わんのに、独りでかさにかかって、
「紙入を手から手へ譲渡ゆずりわたしをするなんて、そんな、不都合な、後暗い。」
「だがね、」
 とちょいちょい、新聞を見るようにしては、お妙の顔を伺い伺い、嬢があらぬ方を向いて、今は流眄しりめづかいもしなくなったので、果は遠慮なくながめていたのが、なえた様な声を出して、
「坂田が疑うように、攫徒の同類だという、そんな事は無いよ。君、」
「どうとも云えん。酒井氏の内に居たというだけで、誰の子だか素性も知れないんだというじゃないか。」
父上とうさんに……聞いて……頂戴。」
 とお妙は口惜くやしそうに、あわれや、うるみ声して云った。
 二人そっと目を合せて、苦々しげに教頭が、
「あえてそういう探索をする必要は無いですがね、よしんば何事も措いて問わんとして、少くとも攫徒に同情したに違いない、そうだろう。」
「そりゃあの男の主義かも知れんよ。」
「主義、危険極まる主義だ。で、要するにです、酒井さん。ああいう者と交際をなさるというと、先ず貴嬢あなたの名誉、続いてはこの学校の名誉に係りますから、以来、口なんぞ利いてはなりません。宜しいかね。危険だから近寄らんようになさい、何をするか分らんから、あんな奴は。」
 お妙は気をはりつめんと勤むるごとく、じっみまもる地図を的に、目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、先刻さっきからどんなにこらえたろう。忍ばず涙ぐむと、もうはらはらと露になって、紫の包にこぼれた。あわれ主税をして見せしめば、ために命も惜むまじ。

       五十一

 いや、学士二人驚いた事。
貴娘あなた、どうしたんだ。」
 と教頭が椅子から突立つったった時は、お妙は始からしっかり握ったたもとをそのまま、白羽二重の肌襦袢の筒袖のひじまろく、本の包に袖を重ねて、肩をせめて揉込むばかり顔を伏せて、声は立てずに泣くのであった。
「ええ、どうして泣くです。」
 靴音高くそばへ寄ると、河野もあわただしく立って来て、
「泣いちゃ不可いけませんなあ、何も悲い事は無いですよ。」
「私は貴娘を叱ったんじゃない。」
「けれども、君の話振がちとおだやかでなかったよ。だから誤解をされたんだ。貴娘泣く事はありません、」
 とそっと肩に手を掛けたが、お妙の振払いもしなかったのは、泣入って、知らなかったせいであったに……
 河野英吉嬉しそうな顔をして、
「さあ、機嫌を直してお話しなさい。」と云う時、きょときょと目で、お妙の俯向うつむいた玉のうなじへ、横から徐々そろそろと頬を寄せて、リボンの花結びにちょっと触れて、じたじたと総身をわななかしたが、教頭は見て見ぬ振の、おもえらく、今夜の会計は河野もちだ。
 途端にお妙が身動をしたので、刎飛はねとばされたように、がたりと退すさる。
「もう帰ってもいんですか。」
 と顔を隠したままお妙が云った。これには返すことばもあるまい。
「可いですとも!」
 と教頭が言いも果てぬに、身をひねったなりで、礼もしないで、つかつかと出そうにすると、がたがたと靴を鳴らして、教頭は及腰およびごしに追っかけて、
「貴娘内へ帰って、父様にこんな事を話しては不可いかんですよ。貴娘の名誉を重んじて忠告をしただけですから、ね、いですかね、ね。」
 いた声ですかすがごとく、顔を附着くッつけて云うのを聞いて、お妙は立留まって、おとなしくうなずいたが、(許す。)の態度で、しかも優しかった。
「ああ。」と、安堵あんどの溜息を一所にして、教頭は室の真中に、ぼんやりと突立つ。
 河野の姿が、横ざまに飛んで、あたふた先へ立ってドアを開いて控えたのと、擦違いに、お妙はついと抜けて、顔に当てた袖を落した。
 雨を帯びたる海棠かいどうに、廊下のほこりは鎮まって、正午過ひるすぎの早や蔭になったが、打向いたる式台の、戸外おもてうららかな日なのである。
 ト押重おっかさなって、の実のったさまに顔を並べて、ひとしくお妙を見送った、四ツの髯の粘り加減は、蛞蝓なめくじの這うにこそ。
 真砂町のうちへ帰ると、玄関には書生が居て、送迎いの手数を掛けるから、いつも素通りにして、横の木戸をトンと押して、水口から庭へ廻って、縁側へ飛上るのが例で。
 さしむき今日あたりは、飛石を踏んだまま、母様かあさん御飯、と遣って、何ですね、唯今ただいまも言わないで、とたしなめられそうな処。
 そうではなかった。
 いつもの通りで、庭へ入ると、母様は風邪が長引いたので、もう大概は快いが、まだちっと寒気がする肩つきで、寝着ねまきの上に、しまの羽織を羽織って、珍らしい櫛巻で、面窶おもやつれがした上に、色が抜けるほど白くなって、品の可いのがなまめかしい。
 寝床の上に端然きちんと坐って、膝へ掻巻かいまきの襟をかけて、その日の新聞を読む――半面が柔かに蒲団ふとんに敷いている。
 これを見ると、どうしたか、お妙は飛石に突据えられたようになって、立留まった。
 美しい袂の影が、座敷へ通って、母様は心着いて、
「遅かったね。」
「ええ、お友達と作文の相談をしていたの。」
 優しくも教頭のために、腹案があったと見えて、淀みなく返事をしながら、何となく力なさそうに、靴を脱ぎかける処へ、玄関から次の茶の間へ、急いで来た跫音あしおとで、ふすまの外から、書生の声、
「お嬢さんですか、今日の新聞に、切抜きをなすったのは。」


     紫

       五十二

 お茶漬さらさら、大好だいすきあじの新切で御飯が済むと、すずりを一枚、房楊枝ふさようじを持添えて、袴を取ったばかり、くびれるほど固く巻いた扱帯しごき手拭てぬぐいを挟んで、金盥かなだらいをがらん、と提げて、黒塗に萌葱もえぎの綿天の緒の立った、歯の曲った、女中の台所穿ばきを、雪の素足に突掛つっかけたが、靴足袋を脱いだままの裾短すそみじかなのをちっとも介意かまわず、水口から木戸を出て、日の光を浴びたさまは、踊舞台の潮汲しおくみに似て非なりで、藤間が新案の(羊飼。)と云う姿。
 お妙は玄関わき、生垣の前の井戸へ出て、乾いてはいたがすべりのある井戸ながし危気あぶなげも無くその曲った下駄で乗った。女中も居るが、母様のしつけいから、もう十一二の時分からはだについたものだけは、人手には掛けさせないので、ここへは馴染なじみで、水心があって、つい去年あたりまで、土用中は、遠慮なしにからからと汲み上げて、釣瓶つるべへ唇を押附おッつけるので、井筒の紅梅は葉になっても、時々花片はなびらが浮ぶのであった。すぐに桃色のたすきを出して、袂を投げてくぐらした。惜気の無い二の腕あたり、柳のわたの散るよと見えて、井戸縄が走ったと思うと、金盥へ入れた硯の上へさっとかかる、水が紫に、墨が散った。
 宿墨を洗う気で、楊枝の房を、小指をねて※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしりはじめたが、何をれたか、ぐいと引断ひっちぎるように邪険である。
 ト構内かまえうちの長屋の前へ、通勤つとめに出る外、余り着て来た事の無い、珍らしい背広の扮装いでたち、何だか衣兜かくしを膨らまして、その上暑中でも持ったのを見懸けぬ、蝙蝠傘こうもりがささえ携えて、早瀬が前後あとさき※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしながら、悄然しょうぜんとして入って来たが、梅のもとなるお妙を見る……
「おお、」
 とあわただしい、懐しげな声をかけて、
「お嬢さん。」
 お妙はそれまで気がつかなかった。よばれて、手をとめて主税を見たが、水を汲んだ名残なごりか、顔の色がほんのりと、物いわぬ目は、露や、玉や、およそ声なくことばなき世のそれらの、美しいものより美しく、歌よりも心が籠った。
「また、水いたずらをしているんですね。」
 と顔をながめて元気らしく、呵々からからと笑うと、やさしい瞳がにらむように動き止まって、
「金魚じゃなくってよ。硯を洗うの。」
「ああ、成程。」
 と始めて金盥を覗込のぞきこんで俯向うつむいた時、人知れず目をしばたたいたが、さあらぬ体で、
「御清書ですかい。」
「いいえ、あの、絵なの。あの、上手な。明後日あさって学校へ持って行くのを、これからくんだわ。」
「御手本は何です、姉様あねさまの顔ですか。」
「嘘よ、そんなものじゃないわ。ああ、」
 と莞爾にっこりして、独りでうなずいて、
「もっと可いもの、杜若かきつばたに八橋よ。」
「から衣きつつれにし、と云うんですね。」
 と云いかけて愁然しゅうぜんたり。
 お妙は何の気もつかない、派手な面色おももちして、
「まあ、いつ覚えて、ちょいと、感心だわねえ。」
「可哀相に。」
 と苦笑いをすると、お妙は真顔で、
「だって、主税さん、先年いつか私の誕生日に、お酒に酔って唄ったじゃありませんか。貴下あなたは、浅くとも清き流れの方よ。ほんとの歌は柄に無いの。」
 とつけつけ云う。
「いや、恐入りましたよ。(トちょっと額に手を当てて、)先生は?」とあらためて聞くと、心ありげに頷いて、
「居てよ、二階に。」(おいでなさいな。)を色で云って、ろうたく生垣から、二階を振仰ぐ。
 主税はたちまち思いついたように、
「お嬢さん、」と云うや否や、蝙蝠傘こうもりがさを投出すごとく、井の柱へ押倒おったおして、いきおい猛に、上衣を片腕から脱ぎかけて、
「久しぶりで、私が洗って差上げましょう。」と、脱いだ上衣を、井戸側へ突込つっこむほど引掛ひっかけたと思うと、お妙がものを云うひまも無かった。手を早や金盥に突込んで、
「貴娘、その房楊枝を。――浅くとも清き流れだ。」

       五十三

「あら、乱暴ねえ。ちょいと、まだ釣瓶からしずくがするのに、こんな処へ脱ぐんだもの。」
 とたしなめるように云って、お妙は上衣を引取ひっとって、あらわに白い小腕こがいなで、羽二重でゆわえたように、胸へ、薄色を抱いたのである。
「貴娘は、先生のように癇性かんしょうで、寒のうちも、井戸端へ持出して、ざあざあ水を使うんだから、こうやって洗うのにも心持はいけれども、その代り手を墨だらけにするんです。爪の間へ染みた日にゃ、ちょいとじゃ取れないんですからね。」
「厭ねえ、恩にせて。誰も頼みはしないんだわ。」
「恩に被せるんじゃありません。爪紅つまべにと云って、貴娘、紅をさしたようなうつくしい手の先を台なしになさるから、だから云うんです。やっぱり私が居た時分のように、お玄関の書生さんにしてお貰いなさいよ。
 ああ、これは、」
 と片頬笑かたほえみして、
「余り上等な墨ではありませんな。」
「可いわ! どうせ安いんだわ。もう私がするからくってよ。」
「手が墨だらけになりますと云うのに。貴娘そんな邪険な事を云って、私の手がお身代みがわりに立っている処じゃありませんか。」
「それでもね、こうやってお召物を持っている手も、随分、随分(と力を入れて、微笑んで、)迷惑してよ。」
「相変らずだ。(と独言ひとりごとのように云って、)ですが、何ですね、近頃は、大層御勉強でございますね。」
「どうしてね? 主税さん。」
「だって、明後日あさってお持ちなさろうという絵を、もう今日から御手廻しじゃありませんか。」
翌日あしたは日曜だもの、遊ばなくっちゃ、」
「ああ日曜ですね。」
 と雫を払った、硯は顔も映りそう。じっと見て振仰いで、
「その、衣兜かくしにあります、その半紙を取って下さい。」
「主税さん。」
「はあ、」
「ほほほほ、」とただ笑う。
「何が、可笑おかしいんです。え、顔に墨がねましたか。」
「いいえ、ほほほほ。」
「何ですてば、」
「あのね、」
「はあ。」
「もしかすると……」
「ええ、ええ。」
「ほほほ、翌日あしたまた日曜ね、貴郎あなたとこへ遊びに行ってよ。」
 水に映った主税の色は、さっと薄墨の暗くなった。あわれ、仔細しさいあって、飯田町の家はもう無かったのである。
「いらっしゃいましとも。」
 と勢込んで、思入った語気で答えた。
「あの、庭の白百合はもう咲いたの、」
「…………」
「この間行った時、まだつぼみが堅かったから、早く咲くように、おまじないに、私、フッフッとふくらまして来たけれど、」
 と云う口許くちもとこそふくらなりけれ。主税のせなは、搾木しめぎにかけて細ったのである。
 ト見て、お妙が言おうとする時、からりといた格子の音、玄関の書生がぬっと出た。心づけても言うことをかぬ、羽織の紐を結ばずに長くさげて、大跨おおまた歩行あるいて来て、
「早瀬さん、先生が、」
 二階の廊下は目の上の、先生はもう御存じ。
「は、唯今、」
 と姿は見えぬ、二階へ返事をするようにして、硯を手に据え、急いで立つと、上衣を開いて、背後うしろへ廻って、足駄穿いたが対丈ついたけに、肩を抱くように着せかける。
「やあ、これは、これはどうも。」
 と骨も砕くる背にかついで、わななくばかり身を揉むと、
「意地が悪いわ、突張るんだもの。あら、憎らしいわねえ。」
 と身動みじろきに眉をひそめて――長屋の窓からお饒舌しゃべりの媽々かかあの顔が出ているのも、路地口の野良猫が、のっそり居るのも、書生が無念そうにその羽織の紐をくるくると廻すのも――一向気にもかけず、平気で着せて、襟をおさえて、爪立つまだって、
「厭な、どうして、こんなに雲脂ふけきて?」

       五十四

 主税が大急ぎで、ト引挟ひっぱさまるようになって、格子戸をくぐった時、手をぶらりと下げて見送ったお妙が、無邪気な忍笑。
「まあ、※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そそっかしいこと。」
 まことに硯を持って入って、そのかわり蝙蝠傘こうもりと、その柄に引掛けた中折帽なかおれを忘れた。
 後へ立淀んで、こなたをながめた書生が、お妙のその笑顔を見ると、崩れるほどにニヤリとしたが、例の羽織の紐を輪なりって、格子を叩きながら、のそりと入った。
 誰も居なくなると、お妙はその二重瞼ふたかわめをふっくりとするまで、もう、(その速力をもってすれば。)主税が上ったらしい二階を見上げて、横歩行あるきに、井の柱へ手をかけて、伸上るようにしていた。やがて、柱にせなをつけて、くるりと向をかえてもたれると、学校から帰ったなりのたもとを取って、ふりをはらりと手許へ返して、睫毛まつげの濃くなるまでじっと見て、あわせ唐縮緬めりんす友染の長襦袢ながじゅばんのかさなる袖を、ちゅうちゅうたこかいなとかぞえるばかりに、丁寧に引分けて、深いほど手首を入れたは、内心人目を忍んだつもりであるが、この所作で余計に目に着く。
 ただし遣方が仇気あどけないから、まだ覗いているくだんの長屋窓の女房かみさんの目では、おやおや細螺きしゃごか、まりか、もしそれ堅豆かたまめだ、と思った、が、そうでない。
 引出したのは、細長い小さな紙で、字のかいたもの、はて、怪しからんが、心配には及ばぬ――新聞の切抜であった。
 さればこそ、学校の応接室でも、しきりに袂を気にしたので、これに、主税――対坂田の百有余円を掏った……掏摸に関した記事が、こまかに一段ばかり有ることは言うまでもない。
 お妙は、今朝学校へ出掛けに、女中おんな味噌汁おみおつけって来る間に、膳のそばへ転んだようになって、例に因って三の面の早読と云うのをすると、(独語学者の掏摸。)と云う、幾分か挑撥的の標語みだしで、主税のその事が出ていたので、持ちかえて、見直したり、引張ひっぱったり、畳んだり、いたく気を揉んだ様子だったが、ツンと怒った顔をしたと思うと、お盆を差出した女中おんなと入違いに、洋燈ランプ棚へついとって、剪刀はさみを袖の下へかくして来て、四辺あたり※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわして、ずぶりと入れると、昔取った千代紙なり、めっきり裁縫しごとは上達なり、見事な手際でチョキチョキチョキ。
 母様かあさんは病気を勤めて、二階へ先生を起しに行って、貴郎あなた、貴郎と云う折柄。書生は玄関どたんばたん。女中はちょうど、台所の何かの湯気に隠れたから、その時は誰も知らなかったが、知れずに済みそうな事でもなし、またこれだけを切取っても、主税の迷惑は隠されぬ、内へだって、新聞はほかに二三種も来るのだけれども、そんな事は不関焉おかまいなし
 で、教頭の説くを待たずして、お妙は一切を知っていたので、話を聞いて驚くより、無念の涙が早かったのである。
 と書生はまた、内々はがき便だより見たようなものへ、投書をする道楽があって、今日当り出そうな処と、床の中から手ぐすねを引いたが、寝坊だから、奥へ先繰せんぐりになったのを、あとで飛附いて見ると、あたかもその裏へ、目的物が出るはずの、三の面が一小間切抜いてあるので、落胆がっかりしたが、いや、この悪戯いたずら、嬢的にきわまったり、と怨恨うらみ骨髄に徹して、いつもより帰宅かえりの遅いのを、玄関の障子からすかして待構えて、木戸を入ったのを追かけて詰問に及んだので、その時のお妙の返事というのが、ああ、私よ。とすましたものだった。
 それをまたひとりでここで見直しつつ、半ば過ぎると、目を外らして、多時しばらく思入った風であったが、ばさばさと引裂ひっさいて、くるりと丸めてハタと向う見ずにほうり出すと、もう一ツの柱のもとに、その蝙蝠傘こうもりに掛けてある、主税の中折帽なかおれへ留まったので、
「憎らしい。」と顔を赤めて、ね飛ばして、帽子ハットを取って、袖で、ばたばたとほこりを払った。
 書生が、すっ飛んで、格子を出て、どこへ急ぐのか、お妙の前を通りかけて、
「えへへへ。」
 その時お妙は、主税の蝙蝠傘を引抱ひっかかえて、
「どこへくの。」
「車屋へ大急ぎでございます。」
「あら、父上とうさんはお出掛け。」
「いいえ、車を持たせて、アバ大人を呼びますので、ははは。」


     はなむけ

       五十五

 媒妁人なこうどは宵の口、燈火ともしびを中に、酒井とさしむかいの坂田礼之進。
「唯今は御使で、ことにお車をお遣わしで恐縮にごわります。実はな、ちょと私用で外出をいたしおりましたが、俗にかの、虫が知らせるとか申すような儀で、何か、心急ぎ、帰宅いたしますると、門口に車がごわりまして、来客らいかくかと存じましたれば、いや、」と、額を撫でて笑うのに前歯が露出あらわ
「はははは、すなわち御持おもたせのお車、早速間に合いました。実は好都合と云って宜しいので、これと申すも、ひとえに御縁のごわりまするしるしでごわりまするな、はあ、」
 酒井も珍らしく威儀を正して、
「お呼立て申して失礼ですが、家内が病気で居ますんで、」と、手を伸して、巻莨まきたばこをぐっ、と抜く。
「時に、いかがでごわりまするな、御令室御病気は。御勝おすぐれ遊ばさん事は、先達ての折も伺いましてごわりましてな。河野でも承り及んで、英吉君の母なども大きにお案じ申しております。どういう御容体でいらっしゃりまするか、わたくしもその、甚だ心配をつかまつりまするので、はあ、」
「別に心配なんじゃありません。肺病でも癩病でもないんですから。」
 と先生警抜なことを云って、俯向うつむきざまに、灰を払ったが、左手ゆんでを袖口へ掻込かいこんで胸を張って煙を吸った。礼之進は、かしこまったズボンの膝を、張肱はりひじの両手で二つ叩いて、スーと云ったばかりで、斜めに酒井の顔を見込むと、
「たかだか風邪のこじれです。」
「その風邪が万病のもとじゃ、と誰でも申すことでごわりまするが、事実まったくでな。何分御注意なさらんとなりません。」
 と妙に白けた顔が、燈火に赤く見えて、
「では、さように御病中でごわりましては、御縁女の事に就きまして、御令室とまだ御相談下さります間もごわりませんので?」
 と重々しく素引そびきかけると、酒井は事も無げな口吻くちぶり
「いや、相談はしましたよ。」
「ははあ、御相談下さりましたか。それは、」とあごを揉んで、スーと云って、
「御令室の思召おぼしめしはいかがでごわりましょうか。実はな、かような事は、打明けて申せば、貴下あなたより御令室の御意向が主でごわりまするで、その御言葉一ツが、いかがの極まりまする処で、推着おしつけがましゅうごわりますが、英吉君の母も、この御返事……と申しまするより、むしろ黄道吉日をば待ちまして、唯今もって、東京こちら逗留とうりゅういたしておりまする次第で。はあ。御令室の御言葉一ツで、」
 と、意気込んで、スーとせわしくすすって、
「何か、わたくしまでも、それを承りまするに就いて、このな、胸がとどろくでごわりまするが、」
 とじっと見据えると、酒井は半ば目を閉じながら、
ほかならぬ先生の御口添じゃあるし、伺った通りで、河野さんの方も申分も無い御家です。実際、願ってもない良縁で、もとよりかれこれ異存のあるはずはありませんが、ただ不束ふつつかな娘ですから、」
「いや、いや、」
 と頭をって、おおき発奮はずみ、
「とんだ事でごわります、怪しかりませんな、河野英吉夫人を、不束などと御意なされますると、親御の貴下のお口でも、坂田礼之進聞棄てに相成りません、はははは。で、御承諾下さりますかな。」
「家内は大喜びで是非とも願いたいと言いますよ。」
 時にふすまと当った、やわらかきぬ気勢けはいがあった――それは次の座敷からで――先生の二階は、八畳と六畳二室ふたまで、その八畳の方が書斎であるが、ここに坂田と相対したのは、壇から上口あがりぐちの六畳の方。
 礼之進はまた額に手を当て、
「いや、何とも。わたくし大願成就仕りましたような心持で。おかげを持ちまして、痘痕あばたが栄えるでごわりまする。は、はは、」
 道学先生が、自からその醜を唱うるは、例として話の纏まった時に限るのであった。

       五十六

 望んでも得難き良縁で異存なし、とあれば、この縁談はもうまとまったものと、今までの経験に因って、道学者はしか心得るのに、酒井がその気骨稜々りょうりょうたる姿に似ず、悠然と構えて、煙草の煙を長々と続ける工合が、どうもまだ話の切目ではなさそうで、これから一物あるらしい、底の方のくすぐったさに、礼之進は、日一日歩行あるき廻る、ほとぼりの冷めやらぬ、靴足袋の裏が何となく生熱い。
 坐った膝をもじもじさして、
「ええ、御令室が御快諾下されましたとなりますると、貴下あなた思召おぼしめしは。」
 ちっとも猶予ためらわずに、
「私に言句もんくのあろう筈はありません。」
「はあ、成程、」と乗かかったが、まだ荷が済まぬ。これで決着しなければならぬ訳だが……
「しますると、御当人、妙子様でごわりまするが。」
「娘は小児こどもです。箸を持って、婿をはさんで、アンとお開き、とくくめてやるような縁談ですから、いやも応もあったもんじゃありません。」
 と小刻こきざみに灰を落したが、直ぐにまた煙草にする。
 道学先生、たまりかねて、手を握り、膝をゆすって、
「では、御両親はじめ、御縁女にも、御得心下されましたれば、直ぐ結納と申すような御相談はいかがなものでごわりましょうか。善は急げでごわりまするで。」と講義の外の格言を提出した。
「先生、そこですよ。」と灰吹に、ずいと突込む。
「成程、就きまして、何か、別儀が。」
「大有り。(と調子が砕けて、)私どもは願う処の御縁であるし、妙にもかれこれは申させません。無論ですね、お前、河野さんの嫁になるんだ。はい、と云うに間違いはありませんが、ほかにもう一人、貴下からお話し下すって、承知をさせて頂きたいものがあるんです。どうでしょう、その者へ御相談下さるわけに参りましょうか。」
「お易い事で。何でごわりまするか、どちらぞ、御親類ででもおあんなさりまするならば、直ぐにこの足で駈着けましても宜しゅう存じまするで。ええ、御姓名、御住所は何とおっしゃる?」
住居すまいは飯田町ですが、」
 と云う時、先生の肩がややそびえた。
「早瀬ですよ。」
「御門生。」と、吃驚びっくりする。
掏摸すり一件の男です。」と意味ありげに打微笑む。
 礼之進、苦り切った顔色がんしょくで、
「へへい、それはまた、どういう次第でごわりまするか、ただ御門生と承りましたが、何ぞ深しき理由でもおありなさりますと云う……」
「理由も何にもありません。早瀬は妙に惚れています。」と澄まして云った、酒井俊蔵は世に聞えたる文学士である。
 道学者はアッと痘痕、目をつぶらかにして口をつぐむ。
「実の親より、当人より、ぞッこん惚れてる奴の意向に従った方が一番間違が無くって宜しい。早瀬がこの縁談を結構だ、と申せば、直ぐに妙を差上げますよ。面倒はらん。先生が立処たちどころに手をいて、河野へ連れてお出でなすって構いません。早瀬が不可いけない、と云えば、断然お断りをするまでです。」
 黙ってはいられない。
「しますると、その、」
 と少し顔の色も変えて、
「御門生は、妙子様に……」と、あとは他人でもいささか言いかねてはばかったのを、……酒井は平然として、
「惚れていますともさ。同一ひとつ家に我儘わがままを言合って一所に育って、それで惚れなければどうかしているんです。もっともその惚方――愛――はですな、兄妹きょうだいのようか、従兄妹いとこのようか、それとも師弟のようか、主従しゅうじゅうのようか、小説のようか、伝奇のようか、そこは分りませんが、惚れているにゃ違いないのですから、私は、親、伯父、叔母、諸親類、友達、失礼だが、御媒酌人おなこうど、そんなものの口に聞いたり、意見に従ったりするよりは、一も二もない、早手廻しに、娘の縁談は、惚れてる男に任せるんです。いかがでしょう、先生、至極妙策じゃありませんか。それともまた酒飲みの料簡りょうけんでしょうか。」
 と串戯じょうだんのように云って、ちょっと口切くぎったが、道学者の呆れて口が利けないのに、押被おっかぶせて、
「さっぱりとそうして下さい。」

       五十七

貴下あなた、ええ、お言葉ではごわりまするが、スー」と頬の窪むばかりに吸って、礼之進、ねつねつ、……
「さよういたしますると、御門生早瀬子が令嬢を愛すると申して、万一結婚をいたしたいと云うような場合におきましては……でごわりまする……その辺はいかがお計らいなされまする思召おぼしめしでごわりまするな。」
「勝手にさせます。」と先生言下に答えた。
 これにまた少なからずおびやかされて、
「しまするというと、貴下は自由結婚を御賛成で。」
「いや、」
「はあ、いかような御趣意に相成りまするか。」
「私は許嫁いいなずけの方ですよ。」と酒井は笑う。
「許嫁? では、早瀬子と、令嬢とは、許嫁でおいでなされますので。」
「決してそんな事はありません。許嫁は、私と私の家内とです。で、二人ともそれに賛成……ですか。同意だったから、夫婦になりましたよ。妙の方はどんな料簡だか、らに私には分りません。早瀬とくッついて、それが自由結婚なら、自由結婚、誰かと駈落をすれば、それは駈落結婚、」と澄ましたものである。
「へへへ、御串戯ごじょうだんで。御議論がちと矯激きょうげきでごわりましょう!」
「先生、人の娘を、嫁に呉れい、と云う方がかえって矯激ですな、考えて見ると。けれども、習慣だからちっとも誰もあやしまんのです。
 貴下から縁談の申込みがある。娘には、惚れてる奴が居ますから、その料簡次第で御話を取極とりきめる、と云うに、不思議はありますまい。唐突だしぬけ嫁入よめらせると、そのぞっこんであった男が、いや、失望だわ、懊悩おうのうだわ、煩悶はんもんだわ、すべった、転んだ、ととかく世の中が面倒臭くって不可いかんのです。」
「で、ごわりまするが、この縁談が破れますると、早瀬子はそれで宜しいとして、英吉君の方が、それこそ同じように、失望、懊悩、煩悶いたしましょうで、……その辺も御勘考下さりまするように。」
「大丈夫、」
 と話は済んだように莞爾にっこりして、
「昔から媒酌人なこうど附の縁談が纏まらなかった為に、死ぬの、活きるの、と云ったためしはありません。騒動の起るのは、媒酌人なしの内証の奴にきまったものです。」
「はあ、」
 と云って、道学者は口をいて、茫然として酒井の顔を見ていたが、
「しかし、貴下、聞く処にりますると、早瀬子は、何か、芸妓げいしゃ風情を、内へ入れておると申すでごわりまするが。」
「さよう、芸妓を入れていて、自分で不都合だと思ったら、妙には指もさしますまい。直ちに河野へ嫁入らせる事に同意をしましょう。それとも内心、妙をどうかしたいというなら、妙と夫婦になる前に、芸妓と二人で、世帯の稽古をしているんでしょう。どちらとも彼奴あいつの返事をお聞き下さい。あるいは、自分、妙を欲しいではないが、ほかなら知らず河野へはっちゃ不可いかん、と云えば、私もおことわりだ。どの道、妙に惚れてる奴だから、その真実愛しているものの云うことは、娘に取っては、神仏かみほとけ御託宣おつげ同一おんなじです。」
 形勢かくのごとくんば、掏摸の事など言い出したら、なおこの上の事の破れ、と礼之進行詰って真赤まっかになり、
「是非がごわりませぬ。ともかく、早瀬子を説きまして、あらためて御承諾を願おうでごわりまする。が、困りましたな。ええ、先刻も飯田町の、あの早瀬子のらるる路地を、わたくし通りがかりにのぞきますると、何か、魚屋体のものが、指図をいたして、荷物を片着けおりまする最中。どこへ引越ひっこされる、と聞きましたら、(引越すんじゃない、夜遁よにげだい。)と怒鳴ります仕誼しぎで、一向その行先も分りませんが。」
 先生哄然こうぜんとして、
「はははは、事実ですよ。掏摸の手伝いをしたとかで、馬鹿野郎、東京には居られなくなって、遁げたんです。もうこちらへも暇乞いとまごいに来ましたが、故郷の静岡へ引込む、と云っていましたから、河野さんの本宅と同郷でしょう。御相談なさるには便宜かも知れません。……御随意に、――お引取を。」
 ああ、媒酌人なこうどには何がなる。黄色い手巾ハンケチを忘れて、礼之進の帰るのを、自分で玄関へ送出して、引返して、二階へ上った、酒井が次のその八畳の書斎を開けると、そこには、主税が、膳の前に手をいて、かしこまって落涙しつつ居たのである。夫人もそばに。
 先生はつかつかと上座に直って、
「謹、酌をしてやれ。早瀬、今のはお前へ餞別だ。」

       五十八

 主税は心もやみだったろう、覚束おぼつかなげな足取で、階子壇はしごだんをみしみしと下りて来て、もっとも、先生と夫人が居らるる、八畳の書斎から、一室ひとま越し袋の口を開いたようなあかりすが、下は長六畳で、直ぐそこが玄関の、書生の机も暗かった。
 さすがは酒井が注意して――早瀬へはなむけ、にする為だった――道学者との談話を漏聞かせまいため、先んじて、今夜はそれとなく余所よそへ出して置いたので。羽織の紐は、結んだかどうか、まだ帰らぬ。
 酔ってはいないが、蹌踉よろよろと、壁へ手をつくばかりにして、壇を下り切ると、主税は真暗まっくらな穴へ落ちたおもいがして、がっくりとなって、諸膝もろひざこうとしたが、先生はともかく、そこまで送り出そうとした夫人を、平に、と推着けるように辞退して来たものを、ここで躊躇ちゅうちょしている内に、座を立たれては恐多い、と心を引立ひったてた腰を、自分で突飛ばすごとく、大跨おおまたに出合頭。
 さっと開いたふすまとともに、唐縮緬めりんす友染の不断帯、格子の銘仙めいせんの羽織を着て、いつか、縁日で見たような、三ツ四ツ年紀としけた姿。円い透硝子すきがらすの笠のかかった、背の高い竹台の洋燈ランプを、杖にく形に持って、母様かあさん居室いまから、と立ちざまの容子ようすであった。
 お妙の顔を一目見ると、主税は物をも言わないで、そのままそこへ、膝を折って、畳に突伏つっぷすがごとく会釈をすると、お妙も、黙って差置いた洋燈の台擦だいずれに、肩を細うして指のさきを揃えて坐る、たもとが畳にさらりと敷く音。
 こんな慇懃いんぎんな挨拶をしたのは、二人とも二人には最初はじめてで。玄関の障子にほとんど裾の附着くッつく処で、向い合って、こうして、さて別れるのである。
 と主税が、胸を斜めにして、片手を膝へ上げた時、お妙のリボンは、何の色か、真白な蝶のよう、燈火ともしびのうつろう影に、黒髪を離れてゆらゆらとゆらめいた。
「もう帰るの?」
 と先へ声を懸けられて、わずかに顔を上げてお妙を見たが、この時のおもかげは、主税が世を終るまで、忘れまじきものであった。
 机に向った横坐りに、やや乱れたか衣紋えもんを気にして、手でちょいちょいと掻合わせるのが、何やら薄寒うすらさむそうで風采とりなりも沈んだのに、唇が真黒まっくろだったは、杜若かきつばたく墨の、紫のしずくを含んだのであろう、えんなまめかしく、且つ寂しく、翌日あすの朝は結う筈の後れ毛さえ、眉をかすめてはらはらと、白き牡丹の花片に心の影のたたずまえる。
「お嬢さん。」
「…………」
「御機嫌う。」
「貴下も。」とただ一言、無量のなさけが籠ったのである。
 靴を穿いて格子を出るのを、お妙は洋燈をせなにして、かまちの障子につかまって、じっと覗くように見送りながら、
「さようなら。」
 といきおいよく云ったが、快く別れを告げたのではなく、学校の帰りに、どこかで朋達ともだちと別れる時のように、かかる折にはこう云うものと、規則で口へ出たのらしい。
 格子の外にちらちらした、主税の姿が、まるで見えなくなったと思うと、お妙はねたさまに顔だけを障子で隠して、そのつかまった縁を、するする二三度、烈しくたなそここすったが、せなって、切なそうに身を曲げて、遠い所のように、つい襖の彼方あなたの茶の間を覗くと、長火鉢のわきの釣洋燈の下に、ものの本にも実際にも、約束通りの女中おさんの有様。
 ちょいと、風邪を引くよ、と先刻さっきから、隣座敷の机にっかかって絵をきながら、低声こごえで気をつけたその大揺れの船が、この時、最早や見事な難船。
 お妙はその状を見定めると、何を穿いたか自分も知らずに、スッと格子を開けるがはやいか、身動みじろぎに端が解けた、しどけない扱帯しごきくれない

       五十九

いやよ、主税さん、地方いなかへ行っては。」
 とお妙の手は、井戸端の梅にすがったが、声は早瀬をせき留める。
「…………」
「厭だわ、私、地方いなかへなんぞ行ってしまっては。」
 主税は四辺あたりを見たのであろう、やみの青葉に帽子ぼうが動いた。
き帰って来るんですからね、心配しないで下さいよ。」
「だって、じきだって、一月や二月で帰って来やしないんでしょう。」
「そりゃ、家を畳んで参るんですもの。二三年は引込ひっこみます積りです。」
「厭ねえ、二三年。……月に一度ぐらいは遊びに行った日曜さえ、私、待遠しかったんだもの。そんな、二年だの、三年だの、厭だわ、私。」
 お妙は格子戸を出るまでは、仔細しさいらしく人目を忍んだようだけれども、こうなるとあえて人聞きをはばかるごとき、低い声ではなかったのが、ここで急にひっそりして、
「あの、貴下あなた父様とうさんに叱られて、内証の……奥さん、」
「ええ!」
「その方と別れたから、それでかなしくなって地方いなかへ行ってしまうのじゃないの、ええ、じゃなくって?」
「…………」
「それならねえ、辛抱なさいよ。母様かあさんが、その方もお可哀相だから、い折に、父様にそう云って、一所にして上げるって云ってるんですよ。私がね、(お酌さん。)をして、沢山お酒を飲まして、そうして、その時に頼めば可いのよ、父様がいてくれますよ。」
「……罰、罰の当った事をおっしゃる! 私は涙がこぼれます、勿体ない。そりゃもう、先生の御意見で夢がさめましたから、生れ代りましたように、魂を入替えて、これから修行と思いましたに、人は怨みません。自分の越度おちどだけれど、掏摸すりと、どうしたの、こうしたの、という汚名をては、人中へは出られません。
 先生は、かれこれ面倒だったら、また玄関へ来ておれ、置いてやろう、とおっしゃって下さいますけれども、先生のお手許に居ては、なお掏摸の名が世間にさわがしくなるばかりです。
 卑怯なようですけれど、それよりは当分地方いなかへ引込んで、人の噂も七十五日と云うのを、果敢はかないながら、頼みにします方が、万全の策だ、と思いますから、私は、一日旅行してさえ、新橋、上野の停車場ステイションに着くと拝みたいほど嬉しくなります、そんななつかしい東京ですが、しばらく分れねばなりません。」
「厭だわ、私、厭、行っちゃ。」
 ことばが途絶えると、音がした、釣瓶つるべしずくが落ちたのである。
 差俯向さしうつむくと、ほのかにお妙の足が白い。
「静岡へ参って落着いて、都合が出来ますと、どんな茅屋あばらやの軒へでも、それこそ花だけは綺麗に飾って、歓迎ウェルカムをしますから、貴娘あなた、暑中休暇には、海水浴にいらしって下さい。
 江尻も興津もきそこだし、まだ知りませんが、久能山だの、竜華寺だの、名所があって、清見寺も、三保の松原も近いんですから、」
 富士の山と申す、天までとどく山を御目にかけまするまで、主税は姫をすかして云った。
「厭だわ、そんな事よりか、私、来年卒業すると、もうあんな学校や教頭なんか用は無いんだから、そうすると、主税さんのとこへ、毎日朝から行って、教頭なんかに見せつけてやるのにねえ。口惜くやしいわ、攫徒すりの仲間だの、巾着切の同類だのって、貴郎あなたの事をそう云うのよ。そして、口を利いちゃ不可いけないって、学校の名誉に障るって云うのよ。うござんす、帰途かえりに直ぐに、早瀬さんへ行っていッつけてやるって、言おうかと思ったけれど、行状点をかれるから。そうすると、お友達にまけるから、見っともないから、黙っていたけれど、私、泣いたの。主税さん。卒業したら、その日から、(私も掏摸かい、見て頂戴。)と、貴下の二階に居てかたきを取ってやりたかったに、残念だわねえ。」
 と擦寄って、
地方いなかへ行かない工夫はないの?」と忘れたように、肩にもたれて、胸へすがったお妙の手を、上へ頂くがごとくに取って、主税は思わず、唇を指環ゆびわけた。
「忘れません。私は死んでも鬼になって。」
 君の影身に附添わん、と青葉をさらさらと鳴らしたのである。


     巣立の鷹

       六十

「おっと、ここ、ここ、飯田町の先生、こっちだ、こっちだ、はははは。」
 十二時近い新橋停車場ステイションの、まばらな、陰気な構内も、冴返る高調子で、主税を呼懸けたのは、組の惣助。
 手荷物はすっかり、このいさみが預って、先へ来て待合わせたものと見える。おおき支那革鞄しなかばんを横倒しにして、えいこらさと腰を懸けた。重荷に小附の折革鞄ポオトフォリオ、慾張って挟んだ書物の、背のクロオスの文字が、伯林ベルリンの、星の光はかくぞとて、きらきら異彩を放つのを、瓢箪ひょうたん式に膝に引着け、あの右角の、三等待合の入口を、叱られぬだけに塞いで、樹下石上の身の構え、電燈の花見る面色つらつき、九分九厘に飲酒おみつたり
 あれでは、我慢が仕切れまい、真砂町の井筒のもとで、青葉落ち、枝裂けて、お嬢と分れて来る途中、どこで飲んだか、主税も陶然たるもので、かっと二等待合室を、入口から帽子を突込んでのぞく処を、組はかれのいわゆる(こっち。)から呼んだので。これが一言ひとことでブーンと響くほど聞えたのであるから、その大音や思うべし。
「やあ、待たせたなあ。」
 主税も、こうなると元気なものなり。
 ドッコイショ、と荷物は置棄てに立って来て、
「待たせたぜ、先生、わっしあ九時から来ていた。」
「退屈したろう、気の毒だったい。」
「うんや、何。」
 とニヤリとして、半纏はんてんの腹を開けると、腹掛へはすっかいに、正宗の四合罎しごうびん、ト内証で見せて、
「これだ、訳やねえ、退屈をするもんか。時々喇叭らっぱめちゃあね、」
 と向顱巻むこうはちまきの首をって、
「切符の売下口うりさげぐちを見物でさ。ははは、別嬪べっぴんさんの、おめえさん、手ばかりが、あすこで、真白まっしろにこうちらつく工合は、何の事あねえ、さしがねで蝶々を使うか、活動写真の花火と云うもんだ、見物みものだね。難有ありがてえ。はははは。」
「馬鹿だな、何だと思う、お役人だよ、怪しからん。」
 と苦笑いをしてたしなめながら、
うちはすっかり片附いたかい、大変だったろう。」
いくさだ、まるで戦だね。だが、何だ、帳場の親方も来りゃ、挽子ひきこも手伝って、あかりめえにゃ縁の下の洋燈ランプこわれまで掃出した。何をどうして可いんだか、おめえさん、みんな根こそぎたたき売れ、と云うけれど、そうは行かねえやね。蔦ちゃんが、手を突込んだ糠味噌なんざ、打棄うっちゃるのはおしいから、車屋の媽々かかあに遣りさ。お仏壇は、蔦ちゃんが人手にゃ渡さねえ、と云うから、わっし引背負ひっしょって、一度内へけえったがね、何だって、お前さん、女人禁制で、蔦ちゃんに、さいふらせねえで、城を明渡すんだから、むずかしいや。長火鉢の引出しから、紙にくるんだ、お前さん、仕つけ糸の、抜屑を丹念に引丸ひんまるめたのが出たのにゃ、お源坊が泣出した。こんなに御新造ごしんさんが気をつけてなすったお世帯だのにッて、へん、遣ってやあがら。
 ええ、飲みましたとも。鉄砲巻は山に積むし、近所の肴屋さかなやから、かつおはござってら、まぐろいきの可いやつを目利して、一土手提げて来て、私が切味きれあじをお目にかけたね。素敵な切味、一分だめしだ。転がすと、ぴんが出ようというやつを親指でなめずりながら、酒は鉢前はちめえで、焚火で、煮燗にがんだ。
 さあ、飲めってえ、と、三人で遣りかけましたが、景気づいたから手明きの挽子どもを在りったけよんで来た。薄暗い台所だいどこを覗く奴あ、音羽から来る八百屋だって。こっちへ上れ。豆腐イもお馴染だろう。彼奴あいつ背負引しょびけ。やあ、酒屋の小僧か、き様喇叭節を唄え。面白え、となった処へ、近所の挨拶をすまして、けえって来た、お源坊がお前さん、一枚いちめえ着換えて、お化粧つくりをしていたろうじゃありませんか。蚤取眼のみとりまなこ小切こぎれを探して、さっさと出てでも行く事か。御奉公のおなごりに、皆さんお酌、と来たから、難有ありがてえ、大日如来、おらが車に乗せてやる、いや、わっちが、と戦だね。
 戦と云やあ、音羽の八百屋は講釈の真似を遣った、親方が浪花節だ。
 ああ、これがお世帯をお持ちなさいますお祝いだったら、とお源坊が涙ぐんだしおらしさに。おさん、有象無象うぞうむぞうが声を納めて、しんみりとしたろうじゃねえか。戦だね。泣くやら、はははははは、笑うやら、はははは。」

       六十一

「そこでおさん、何だって、世帯をお仕舞しめえなさるんだか、金銭ずくなら、こちとらが無尽をしたって、此家ここの御夫婦に夜遁よにげなんぞさせるんじゃねえ、と一番いっちしみったれた服装なりをして、銭の無さそうな豆腐屋が言わあ。よくしたもんだね。
 銭金ずくなら、組がついてる、と鉄砲巻の皿を真中まんなかへ突出した、と思いねえ。義理にゃ叶わねえ、御新造ごしんぞの方は、先生が子飼から世話になった、真砂町さんと云う、大先生が不承知だ。聞きねえ。師匠と親は無理なものと思え、とお祖師様が云ったとよ。無理でも通さにゃならねえ処を、一々御尤ごもっともなんだから、一言もなしに、御新造も身を退いたんだ。あんなにお睦じかった、へへへ、」
「おい、可い加減にしないかい。」
「可いやね、おめえさん、遠慮をするにゃ当らねえ、酒屋の御用も、挽子連も皆知ってらな。」
「なお、悪いぜ。」
「まあ、けときねえな。それを、お前、大先生に叱られたって、柔順すなおに別れ話にした早瀬さんも感心だろう。
 だが、何だ、それで家を畳むんじゃねえ。若い掏摸すり遣損やッそくなって、人中でつらたれながら、お助け、とまばたきするから、そこア男だ。諾来よしきた、と頼まれて、紙入を隠してやったのが暴露ばれたんで、掏摸の同類だ、とか何とか云って、旦那方の交際つきええが面倒臭くなったから、引払ひッぱらって駈落だとね。話は間違ったかも知れねえけれど、何だってお前さん頼まれて退かねえ、と云やあ威勢が可いから、そう云って、さあ、おい、みんな、一番しゃん、と占める処だが、旦那が学者なんだから、万歳、と遣れ。いよう旦那万歳、と云うと御新造万歳、大先生万歳で、ついでにお源ちゃん万歳――までは可かったがね、へへへ、かかり合だ、その掏摸も祝ってやれ。可かろう、」
 と乗気になって、組の惣助、停車場ステイションで手真似が交って、
「掏摸万歳――と遣ったが、(すりばんだい。)と聞えましょう。近火きんかのようだね。火事はどこだ、と木遣で騒いで、巾着切万歳! と祝い直す処へ、八百屋と豆腐屋の荷の番をしながら、人だかりの中へ立って見てござった差配様おおやさんが、おさん、苦笑いの顔をひょっこり。これこれ、火の用心だけは頼むよ、と云うと、手廻しの可い事は、車屋のかみさんが、あとへもう一度はたきを掛けて、縁側をき直そう、と云う腹で、番手桶に水を汲んで控えていて、どうぞ御安心下さいましッさ。
 わっしは、お仏壇と、それから、蔦ちゃんが庭の百合の花をおしがったから、つぼみを交ぜて五六本ぶらさげて、お源坊と、車屋の女房かみさんとで、縁の雨戸を操るのを見ながら、梅坊主の由良之助、と云う思入おもいれで、城を明渡して来ましたがね。
 世の中にゃ、とんだ唐変木も在ったもんで、まだがらくたを片附けてる最中でさ、だん袋を穿きあがった、」
 と云いかけて、主税の扮装いでたちを、じろり。
「へへへ、今夜はおさんもってるけれど。まあ、可いや。で何だ、痘痕あばたの、お前さん、しかも大面おおづらの奴が、ぬうと、あの路地を入って来やあがって、空いたか、空いったか、と云やあがる。それが先生、あいたかった、と目に涙でも何でもねえ。家は空いたか、と云うんでさ。近頃流行はやるけれど、ありゃ不躾ぶしつけだね。お前さん、人の引越しの中へ飛込んで、値なんか聞くのは。たとい、何だ、二ツがけ大きな内へ越すんだって、お飯粒まんまつぶいてやった、雀ッ子にだって残懐なごりおしいや、蔦ちゃんなんか、馴染なじみになって、酸漿ほおずきを鳴らすと鳴く、流元ながしもとけえろはどうしたろうッてふさぐじゃねえか。」
「止せよ、そんな事。」
 と主税は帽子の前を下げる。
「まあさ、そんな中へ来やあがって、おまけに、空くのを待っていた、と云う口吻くちぶりで、その上横柄だ。
 誰のしゃくに障るのも同一おんなじだ、と見えて、可笑おかしゅうがしたぜ。車屋の挽子がね、おさん、え、え、ええッて、人の悪いッたら、つんぼの真似をして、痘痕の極印を打った、其奴そいつ鼻頭はなづらへ横のめりに耳をつっかけたと思いねえ。奴もむか腹が立った、と見えて、空いたうちか、とわめいたから、わっし階子段はしごだんの下に、蔦ちゃんがにおいを隠して置いたらしい白粉入おしろいいれを引出しながら、空家だい! と怒鳴った。吃驚びっくりしやがって、早瀬は、と聞くから、夜遁げをしたよ、とおどかすと、へへへ旦那、」
 組は極めて小さい声で、
「私ア高利貸だ、と思ったから……」
 話も事にこそよれ、勿体ない、道学の先生を……高利貸。

       六十二

 ちと黙ったか、と思うと、組はきょろきょろ四辺あたりを見ながら、帰天斎が扱うように、敏捷すばやく四合罎からさかさまにがぶりとって、呼吸いきかず、
「それからね、人を馬鹿にしゃあがった、その痘痕あばためい、差配おおやはどこだと聞きゃあがる。差配様おおやさんか、差配様は此家ここ主人あるじが駈落をしたから、後を追っかけて留守だ、と言ったら、苦った顔色がんしょくをしやがって、家賃は幾干いくらか知らんが、ぜんにから、空いたら貸りたい、と思うておったんじゃ、と云うだろうじゃねえか。おさん、我慢なるめえじゃねえかね。こう、可い加減にしねえかい。柳橋の蔦吉さんが、情人いろと世帯を持ったうちだ、汝達てめえたちの手に渡すもんか。組の惣助と云う魚河岸の大問屋おおどいやが、別荘にするってよ、五百両敷金が済んでるんだ。けえれ、とわめくと、驚いて出て行ったっけ、はははは、どうだね、気に入ったろう、先生。」
悪戯いたずらをするじゃないか。」
「だって、おさん、言種いいぐさが言種な上に、図体が気に食わねえや。しらふの時だったから、まだまあそれで済んだがね。掏摸万歳のころ御覧ごろうじろ、えて吉、存命は覚束おぼつかねえ。」
 と図に乗って饒舌しゃべるのを、おかしそうに聞惚ききとれて、夜のしおの、充ち満ちた構内に澪標みおつくしのごとく千鳥脚を押据えてはばからぬ高話、人もなげな振舞い、小面憎かったものであろう、夢中になった渠等かれらそばで、駅員が一名、そっと寄って、中にも組の横腹のあたり唐突だしぬけに、がんからん、がんからん、がんからん。
 「ひゃあ、」と据眼すえまなこ呼吸いきを引いて、たじたじと退すさると、駅員は冷々然としてと去って、入口へ向いて、がらんがらん。
 主税も驚いて、
「切符だ、切符だ。」
 と思わず口へ出して、慌てて行くのを、
「おっと、おっと、先生、切符なら心得てら。」
「もう買っといたか、それはえらい。」
 惣助これには答えないで、
「ええ、驚いたい、串戯じょうだんじゃねえ、二合半こなからが処フイにした。さあ、まあ、お乗んなせえ。」
 荷物を引立ひったてて来て、二人で改札口を出た。その半纏着はんてんぎと、薄色背広の押並んだ対照は妙であったが、乗客のりてはただこの二人の影のちらちらと分れて映るばかり、十四五人には過ぎないのであった。
 組が、中ほどから、急にあたふたと駈出して、二等室を一ツのぞき越しにも一つ出て、ひょいと、飛込むと、早や主税が近寄る時は、荷物を入れて外へ出た。
「ここが可いや、先生。」
「何だ、青切符か。」
「知れた事だね、」
大束おおたばを言うな、駈落の身分じゃないか。幾干いくらだっけ。」
 と横へ反身そりみ衣兜かくしを探ると、組はどんぶりを、ざッくと叩き、
「心得てら。」
「お前に達引かして堪るものか。」
「ううむ、」と真面目で、かぶりって、
不残のこらず叩き売った道具のおあしが、ずッしりあるんだ。おさんが、蔦ちゃんに遣れって云うのを、まだ預っているんだから、遠慮はねえ、はははは、」
「それじゃ遠慮しますまいよ。」
 と乗込んだ時、他に二人。よくも見ないで、窓へ立って、主税は乗出すようにして妙なことを云った。それは――組の口から漏らした、河野の母親が以前、通じたと云う――馬丁べっとう貞造の事に就いてであった。
「何分頼むよ。」
「むむ、可いって事に。」
 主税は笑って、
「その事じゃない、馬丁の居処さ。おれも捜すが、お前の方も。」
「……分った。」
 と後退あとじさって、向うざまに顱巻はちまきを占め直した。手をそのまま、花火のごとく上へ開いて、
「いよ、万歳!」
 かたわらへ来た駅員に、つんのめるように、お辞儀をして、
「真平御免ねえ、はははは。」
 主税は窓から立直る時、向うの隅に、婀娜あだな櫛巻の後姿を見た。ドンと硝子戸がらすどをおろしたトタンに、斜めに振返ったのはお蔦である。
 はっと思うと、お蔦は知らぬ顔をして、またくるりとうしろを向いた。
 汽車出でぬ。
 

     貴婦人

       一

 その翌日、神戸行きの急行列車が、函根はこね隧道トンネルを出切る時分、食堂の中に椅子を占めて、卓子テイブルは別であるが、一にん外国の客と、流暢りゅうちょう独逸ドイツ語を交えて、自在に談話しつつある青年の旅客りょかくがあった。
 こなたの卓子に、我が同胞のしかく巧みに外国語を操るのを、嬉しそうに、且つ頼母たのもしそうに、じっと見ながら、時々思出したように、隣の椅子の上に愛らしくのっかかった、かすりで揃の、あわせと筒袖の羽織を着せた、四ツばかりの男のに、極めて上手な、肉叉フォーク小刀ナイフの扱いぶりで、チキンを切って皿へ取分けてやる、盛装した貴婦人があった。
 見渡す青葉、今日しとしと、窓の緑に降りかかる雨の中を、雲は白鷺しらさぎの飛ぶごとく、ちらちらと来ては山の腹をしりえに走る。
 函嶺はこねを絞る点滴したたりに、自然おのずからゆあみした貴婦人のはだは、滑かに玉を刻んだように見えた。
 真白なリボンに、黒髪のつやは、金蒔絵きんまきえの櫛の光を沈めて、いよいよ漆のごとく、藤紫のぼかしに牡丹ぼたんの花、しべに金入の半襟、栗梅の紋お召のあわせ、薄色のつまかさねて、かすかに紅の入った黒地友染の下襲したがさね、折からの雨に涼しく見える、柳の腰を、十三の糸で結んだかと黒繻子くろじゅすの丸帯に金泥でするすると引いた琴のいと、添えた模様の琴柱ことじ一枚ひとつが、ふっくりと乳房を包んだ胸をおさえて、時計の金鎖を留めている。羽織は薄い小豆色の縮緬ちりめんに……ちょいと分りかねたが……五ツ紋、小刀持つ手の動くに連れて、指環ゆびわの玉の、幾つか連ってキラキラ人のまなこを射るのは、水晶の珠数を爪繰つまぐるに似て、非ず、浮世は今をさかりの色。艶麗あでやか女俳優おんなやくしゃが、子役を連れているような。年齢としは、されば、そのの母親とすれば、少くとも四五であるが、姉とすれば、九でも二十はたちでも差支えはない。
 婦人は、しきりに、その独語に巧妙な同胞の、鼻筋の通った、細表の、色の浅黒い、眉のやや迫った男の、少々わかわかしい口許くちもとと、心の透通るような眼光まなざしを見て、ともすれば我を忘れるばかりになるので、小児こどもは手が空いたが、もう腹は出来たり、退屈らしく皿の中へ、指でくるくるといた。それも、詰らなそうに、円い目で、貴婦人の顔をながめて、同一おなじようにそなたを向いたが、一向珍らしくない日本のあにいより、これは外国の小父さんの方が面白いから、あどけなく見入って傾く。
 その、不思議そうに瞳をくるくるとった様子は、よっぽど可愛くって、隅の窓を三角に取ってたたずんだボオイさえ、莞爾にっこりした程であるから、当の外国人はひげをもじゃもじゃと破顔して、ちょうど食後の林檎りんごきかけていた処、小刀を目八分に取って、皮をひょいと雷干かみなりぼしに、菓物くだものを差上げて何か口早に云うと、青年が振返って、身をじざまに、直ぐ近かった、小児の乗っかった椅子へ手をかけて、
「坊ちゃん、いらっしゃい。いものを上げますとさ。」とそのことばを通じたが、無理な乗出しようをして逆に向いたから、つかまった腕に力が入ったので、椅子が斜めに、貴婦人の方へ横になると、それを嬉しそうに、臆面おくめんなく、
「アハアハ、」と小児が笑う。
 青年は、好事ものずきにも、わざと自分の腰をずらして、今度は危気あぶなげなしに両手をかけて、揺籠ゆりかごのようにぐらぐらと遣ると、
「アハハ、」といよいよ嬉しがる。
 御機嫌を見計らって、
「さあ、おいでなさい、お来なさい。」
 貴婦人の底意なくうなずいたのを見て、小さな靴を思う様上下うえしたねて、外国人の前へくと、小刀と林檎と一緒に放して差置くや否や、にょいと手を伸ばして、小児を抱えて、スポンと床から捩取もぎとったように、目よりも高く差上げて、覚束おぼつかない口で、
「万歳――」
 ボオイが愛想に、ハタハタと手を叩いた。客は時に食堂に、この一組ばかりであった。

       二

「今のは独逸ドイツ人でございますか。」
 外客がいかくの、食堂を出たあとで、貴婦人は青年に尋ねたのである。会話の英語イングリッシュでないのを、すでに承知していたので、その方の素養のあることが知れる。
 青年は椅子をぐるりと廻して、
「僕もそうかと思いましたが、違います、伊太利イタリイ人だそうです。」
「はあ、伊太利の、商人ですか。」
「いえ、どうも学者のようです。しかしこっちが学者でありませんから、科学上の談話はなしは出来ませんでしたが、様子が、何だか理学者らしゅうございます。」
「理学者、そうでございますか。」
 小児こどもの肩に手を懸けて、
「これの父親ちちも、ちとばかりその端くれを、致しますのでございますよ。」
 さては理学士か何ぞである。
 貴婦人はこう云った時、やや得意気に見えた。
「さぞおもしろい、お話しがございましたでしょうね。」
 雪踏せったをずらす音がして、やわらかなひじを、唐草の浮模様ある、卓子テイブルおおいに曲げて、身を入れて聞かれたので、青年はなぜか、困った顔をして、
「どうつかまつりまして、そうおっしゃられては恐縮しましたな、僕のは、でたらめの理学者ですよ。ええ、」
 とちょいと天窓あたまいて、
「林檎を食べた処から、先祖のニュウトン先生を思い出して、そこで理学者とったんです。はは、はは、実際はその何だかちっとも分りません。」
「まあ。お人の悪い。貴郎あなたは、」
 と莞爾にっこりした流眄ながしめなまめかしさ。じっと見られて、青年は目を外らしたが、今は仕切の外に控えた、ボオイと硝子がらす越に顔の合ったのを、手招きして、
珈琲コオヒイを。」
「ああ、こちらへも。」
 と貴婦人も註文しながら、
「ですが、大層お話が持てましたじゃありませんか。彼地あちらの文学のお話ででもございましたんですか。」
「どういたしまして、」
 と青年はいよいよ弱って、
「人を見て法を説けは、外国人も心得ているんでしょう。僕の柄じゃ、そんな貴女あなた、高尚な話を仕かけッこはありませんが、妙なことを云っていましたよ。はあ、来年の事を云っていました。西洋じゃ、別に鬼も笑わないと見えましてね。」
「来年の、どんな事でございます。」
「何ですって、今年は一度国へ帰って来年出直して来る、と申すことです。(日蝕にっしょくがあるからそれを見にまた出懸ける、東洋じゃほとんど皆既蝕かいきしょくだ。)と云いましたが、まだ日本には、その風説うわさがないようでございますね。
 有っても一向心懸こころがけのございません僕なんざ、年の暮に、太神宮から暦の廻りますまでは、つい気がつかないでしまいます。もっとも東洋とだけで、支那しなだか、朝鮮だか、それとも、北海道か、九州か、どこで観ようと云うのだか、それを聞きかけた処へ、貴女が食堂へ入っておいでなさいましたもんですから、(や、これは日蝕どころじゃない。)と云いましたよ。」
「じゃ、あとは、私をおなぶんなすったんでございましょうねえ。」
御串戯ごじょうだんおっしゃっては不可いけません。」
「それでは、どんなお話でございましたの。」
「実は、どういう御婦人だ、と聞かれまして……」
「はあ、」
「何ですよ、貴女、腹をお立てなすっちゃ困りますが、ええ、」
 と俯向うつむいて、低声こごえになり、
「女俳優やくしゃだ、と申しました。」
「まあ、」とすずしい目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、きっにらむがごとくにしたが、口に微笑が含まれて、苦しくはない様子。
沢山たんと、そんなことを云ってお冷かしなさいまし。私はもう下りますから、」
「どちらで、」
 と遠慮らしく聞くと、貴婦人は小児の事も忘れたように、調子が冴えて、
「静岡――ですからその先は御勝手におなぶり遊ばせ、へやが違いましても、私の乗っております内は殺生でございますわ。」
「御心配はございません。僕も静岡で下りるんです。」
「おぶう。」
 と小児が云う時、一所に手にした、珈琲はまだ熱い。

       三

「静岡はどちらへお越しなさいます。」
 貴婦人が嬉しそうにして尋ねると、青年はやや元気を失った体に見えて、
「どこと云って当なしなんです。当分、旅籠屋はたごやへ厄介になりますつもりで。」
 もしそれならば、土地の様子が聞きたそうに、
貴女あなた、静岡は御住居おすまいでございますか、それともちょっと御旅行でございますか。」
「東京から稼ぎに出ますんですと、まだ取柄はございますが、まるで田舎俳優やくしゃですからお恥しゅう存じます。田舎も貴下あなた草深くさぶかと云って、名も情ないじゃありませんか。場末の小屋がけ芝居に、お飯炊まんまたきの世話場ばかり勤めます、おやまですわ。」
 とすみれ色の手巾ハンケチで、口許をおおうて笑ったが、前髪に隠れない、俯向うつむいた眉の美しさよ。
 青年は少時しばらく黙って、うっかり巻莨まきたばこを取出しながら、
「何とも恐縮。決して悪気があったんじゃありません。貴女ぐらいな女優があったら、我国の名誉だと思って、対手あいてが外国人だから、いえ、まったくそのつもりで言ったんですが、まことに失礼。」
 と真面目まじめ謝罪あやまって、
「失礼ついでに、またお詫をします気で伺いますが、貴女もし静岡で、河野こうのさん、と云うのを御存じではございませんか。」
「河野……あの、」
 深くうなずき、
「はい、」
「あら、河野はわたくしどもですわ。」
 と無意識に小児こどもの手を取って、卓子テイブルから伸上るようにして、胸を起こした、帯の模様の琴の糸、ゆるぐがごとく気を籠めて、
「そして、貴下は。」
「英吉君には御懇親に預ります、早瀬主税ちからと云うものです。」
 と青年はと椅子を離れて立ったのである。
「まあ、早瀬さん、道理こそ。貴下は、お人が悪いわよ。」と、何も知った目に莞爾にっこりする。
 主税は驚いた顔で、
「ええ、人が悪うございますって? その女俳優おんなやくしゃ、と言いました事なんですかい。」
「いいえ、うちが気に入らない、と仰有おっしゃって、酒井さんのお嬢さんを、貴下、英吉に許しちゃ下さらないんですもの、ほほほ。」
「…………」
「兄はもう失望して、あおくなっておりますよ。早瀬さん、初めまして、」
 とこなたも立って、手巾を持ったまま、この時あらためて、略式の会釈あり。
わたくしは英さんの妹でございます。」
「ああ、おうわさで存じております。島山さんの令夫人おくさんでいらっしゃいますか。……これはどうも。」
 静岡県……なにがし……校長、島山理学士の夫人菅子すがこ、英吉がかつて、脱兎だっとのごとし、と評した美人たおやめはこれであったか。
 足一度ひとたび静岡の地を踏んで、それを知らない者のない、浅間せんげんの森の咲耶姫さくやひめに対した、草深の此花このはなや、にこそ、とうなずかるる。河野一族随一のえん。その一門の富貴栄華は、いつにこの夫人に因って代表さるると称してい。
 夫の理学士は、多年西洋に留学して、身は顕職にありながら純然たる学者肌で、無慾、恬淡てんたん、衣食ともに一向気にしない、無趣味と云うよりも無造作な、腹が空けば食べるので、寒ければ着るのであるから、ただその分量の多からんことを欲するのみ。※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)たのでも、焼いたのでも、酢でも構わず。兵児帯へこおびでも、ズボンでも、羽織に紐が無くっても、更に差支えのない人物、人に逢っても挨拶ばかりで、容易に口も利かないくらい。その短を補うに、令夫人があって存するすうか、菅子は極めて交際上手の、派手好で、話好で、遊びずきで、御馳走ずきで、世話ずきであるから、玄関に引きも切れない来客の名札は、新聞記者も、学生も、下役も、呉服屋も、絵師も、役者も、宗教家も、……ことごとく夫人の手に受取られて、ひとえにその指環の宝玉の光によって、名を輝かし得ると聞く。

       四

 五円包んで恵むのもあれば、ビイルを飲ませて帰すのもあり、連れて出て、見物をさせるのもあるし、音楽会へ行く約束をするのもあれば、慈善市バザアの相談をするのもある。飽かず、まず、たゆまないで、客に接して、いずれもをして随喜渇仰せしむる妙を得ていて、加うるにその目がまた古今の能弁であることは、ここに一目見て主税も知った。
 聞くがごとくんば、理学士が少なからぬ年俸は、過半菅子のために消費されても、自から求むる処のない夫は、すこしの苦痛も感じないで、そのなすがままに任せる上に、英吉も云った通り、実家さとから附属の化粧料があるから、天のなせる麗質に、紅粉のよそおいをもってして、小遣が自由になる。しかも御衣勝おんぞがち着痩きやせはしたが、玉のはだえ豊かにして、汗はくれないの露となろう、むべなるかな楊家ようかじょ、牛込南町における河野家の学問所、桐楊とうよう塾の楊の字は、菅子あって、えらばれたものかも知れぬ。で、某女学院出の才媛である。
 当時、女学校の廊下を、紅色の緒のたった、襲裏かさねうら上穿うわばき草履で、ばたばたと鳴らしたもので、それが全校に行われて一時ひとしきり物議を起した。近頃静岡の流行は、衣裳も髪飾もこの夫人と、もう一人、――土地随一の豪家で、安部川の橋のたもとに、大巌山おおいわやまの峰をおおう、千歳の柳とともに、鶴屋と聞えた財産家が、去年東京のさる華族からめとり得たと云う――新夫人の二人が、二つともえの、巴川に渦を巻いて、おほりの水のあふるるいきおい
「ちっとも存じませんで、失礼を。貴女、英吉君とは、ちっとも似ておいでなさらないから勿論気が着こうはずがありませんが。」
 主税のこの挨拶は、まことに如才の無いもので。熟々つくづく視ればどこにかおもかげが似通って、水晶と陶器せととにしろ、目の大きい処などは、かれこれ同一そっくりであるけれども、英吉に似た、と云って嬉しがるような婦人おんなはないから、いささかも似ない事にした。その段は大出来だったが、時に衣兜かくしから燐寸マッチを出して、鼻の先で吸つけて、ふっと煙を吐いたが早いか、矢のごとく飛んで来たボオイは、小火ぼやを見附けたほどの騒ぎ方で、
煙草たばこ不可いかんですな。」
「いや、これは。」主税は狼狽うろたえて、くるりと廻って、そそくさを開いて、隣の休憩室の唾壺だこへ突込んで、みさしを揉消もみけして、いたく恐縮の体で引返すと、そのボオイを手許てもとへ呼んで、夫人は莞爾々々にこにこ笑いながら低声こごえで何か命じている。ただしその笑い方は、他人の失策を嘲けったのではなく、親類の不出来ふでかしを面白がったように見える。
「すっかり面目を失いました。僕は、この汽車の食堂は、生れてから最初はじめてだ。」
 と、半ば、独言ひとりごとを云う。折から四五人どやどやと客が入った。それらには目もくれず、
「ほほほ、日本式ではないんだわねえ、貴下、お気には入りますまい。」
「どういたしまして、大恥辱。」
「旅馴れないのは、かえって江戸子えどっこの名誉なんですわ。」
 ボオイが剰銭つりを持って来て、夫人の手に渡すのを見て、大照れの主税は、口をつけたばかりの珈琲もそのまま、立ったなりの腰も掛けずに、
「ここへも勘定。」
 そばへ来て腰をかがめて、慇懃いんぎんに小さな声で、
「御一所に頂戴いたしました、は、」
「飛んでもない、貴女、」
 と今度は主税が火の附くようにあわただしくあせって云うのを、夫人は済まして、紙入を帯の間へ、キラリと黄金きんの鎖が動いて、
「旅馴れた田舎稼ぎの……」
女俳優おんなやくしゃ)と云いそうだったが、客が居たので、
女形おやまにお任せなさいまし。」
 とすらりと立った丈高う、半面をさっと彩る、かば色の窓掛に、色彩羅馬ロオマ女神じょしんのごとく、愛神キュピットの手を片手でいて、主税の肩と擦違い、
「さあ、こっちへいらしって、沢山たんとお煙草を召上れ。」
 と見返りもしないで先に立って、くだんの休憩室へ導いた。うしろに立って、ちょっと小首を傾けたが、腕組をした、肩がそびえて、主税は大跨おおまたに後に続いた。
 窓の外は、裾野の紫雲英げんげ高嶺たかねの雪、富士しろく、雨紫なり。

       五

 聞けば、夫人は一週間ばかり以前から上京して、南町の桐楊塾に逗留とうりゅうしていたとの事。桜も過ぎたり、菖蒲あやめの節句というでもなし、遊びではなかったので。用は、この小児こども二年ふたつ姉が、眼病――むしろ目が見えぬというほどの容態で、随分実家さとの医院においても、治療に詮議せんぎを尽したが、そのかいなく、一生の不幸になりそうな。断念あきらめのために、折から夫理学士は、公用で九州地方へ旅行中。あたかも母親は、兄の英吉の事に就いて、牛込に行っている、かれこれ便宜だから、大学の眼科で診断を受けさせる為に出向いた、今日がその帰途かえりだと云う。
 もとよりその女のに取って、実家さと祖父おじいさんは、当時の蘭医(昔取ったきねづかですわ、と軽い口をその時交えて、)であるし、病院の院長は、義理の伯父さんだし、注意を等閑にしようわけはないので、はじめにも二月三月、しかるべき東京の専門医にもかかったけれども、どうしても治らないから、三年前にすでに思切って、盲目めくらの娘、(可哀相だわねえ、と客観かっかん的の口吻くちぶりだったが、)今更大学へ行ったって、所詮かいのない事は知れ切っているけれど、……要するにそれは口実にしたんですわ、とちょいと堅いことばが交った。
 夫がまた、随分自分には我儘わがままをさせるのに、東京へ出すのは、なぜか虫が嫌うかして許さないから、是非行きたいと喧嘩も出来ず。ざっと二年越、上野の花も隅田の月も見ないでいると、京都へ染めに遣った羽織の色も、何だか、つやがなくって、我ながらくすんで見えるのが情ない。
 まあ、御覧なさい、と云う折から窓をのぞいた。
 この富士山だって、東京の人がまるっきり知らないと、こんなに名高くはなりますまい。自分は田舎で埋木うもれぎのような心地こころもちで心細くってならない処。夫が旅行で多日しばらく留守、この時こそと思っても、あとを預っている主婦あるじならなおの事、実家さとの手前も、旅をかけては出憎いから、そこで、盲目めくらの娘をかこつけに、籠を抜けた。親鳥も、とりめにでもならなければ可い、小児の罰が当りましょう、と言って、夫人は快活に吻々ほほと笑う。
 この談話は、主税が立続けに巻煙草をくゆらす間に、食堂と客室とに挟まった、その幅狭な休憩室に、差向いでされたので。
 椅子と椅子と間がまことに短いから、袖と袖と、むかい合って接するほどで、もすそは長く足袋に落ちても、腰の高い、雪踏せったさき爪立つまたつばかり。汽車の動揺どよみに留南奇とめきが散って、友染の花の乱るるのを、夫人は幾度いくたびも引かさね、引かさねするのであった。
 主税はその盲目のと云うのを見た。それは、食堂からここへ入ると、突然いきなり客室の戸を開けようとして男の硝子扉がらすどに手をかけた時であった。――銀杏返いちょうがえしに結った、三十四五の、実直らしい、小綺麗な年増が、ちょうど腰掛けの端に居て、直ぐにそこから、を開けて、小児を迎え入れたので、さては乳母よ、と見ると、もう一人、被布ひふを着た女の子の、キチンと坐って、この陽気に、袖口へ手を引込ひっこめて、首をすくめて、ぐったりして、その年増の膝によりかかっていたのがあって、病気らしい、と思ったのが、すなわち話の、目のわるなのであった。
 乳母の目からは、奥に引込んで、夫人の姿は見えないが、自分は居ながら、硝子越に彼方むこうから見透みえすくのを、主税は何かはばかって、ちょいちょい気にしては目遣いをしたようだったが、その風を見ても分る、優しい、深切らしい乳母は、いたくおしゅう盲目めしいなのに同情したために、自然おのずから気が映ってなったらしく、女の児と同一おなじように目をねむって、男の児に何かものを言いかけるにも、なお深く差俯向さしうつむいて、いささかも室の外をうかが気色けしきは無かったのである。
 かくて彼一句、これ一句、遠慮なく、やがて静岡に着くまで続けられた。汽車にはいたうんじた体で、夫人はかいなを仰向けに窓に投げて、がっくりびんを枕するごとく、果は腰帯のゆるんだのさえ、引繕う元気も無くなって見えたが、鈴のような目は活々と、白い手首に瞳大きく、主税の顔をみまもって、物打語るに疲れなかった。


     草深辺

       六

 県庁、警察署、師範、中学、新聞社、丸の内をさして朝ごとに出勤するその道その道の紳士の、最も遅刻する人物ももう出払って、――初夜の九時十時のように、朝の九時十時頃も、一時ひとしきりは魔の所有もの寂寞ひっそりする、草深町くさぶかまちは静岡の侍小路さむらいこうじを、カラカラといて通る、一台、つややかなほろに、夜上りの澄渡った富士を透かして、燃立つばかりの鳥毛の蹴込けこみ、友染のせなか当てした、高台細骨の車があった。
 あの、の冴えた、軽い車のきしる響きは……例のがお出掛けに違いない。昨日きのう東京から帰ったはず。それ、衣更ころもがえの姿を見よ、と小橋の上でとまるやら、旦那を送り出して引込ひっこんだばかりの奥から、わざわざ駈出すやら、刎釣瓶はねつるべの手を休めるやら、女づれが上も下もひとしく見る目をそばだてたが、車は確に、軒に藤棚があって下を用水が流れる、火の番小屋と相角あいかどの、辻の帳場で、近頃塗替えて、島山の令夫人おくがた乗初のりそめをして頂く、と十日ばかり取って置きの逸物に違いないが――風呂敷包み一つ乗らない、空車を挽いて、車夫は被物かぶりものなしに駈けるのであった。
 ものの半時ばかりつと、同じ腕車くるまは、とおりの方からいきおいよく茶畑を走って、草深の町へ曳込ひきこんで来た。時に車上に居たものを、折から行違った土地の豆腐屋、八百屋、(のりはどうですね――)と売って通る女房かみさんなどは、若竹座へ乗込んだ俳優やくしゃだ、と思ったし、旦那が留守の、座敷から縁越に伸上ったり、玄関の衝立ついたての蔭になって差覗さしのぞいた奥様連は、千鳥座で金色夜叉をるという新俳優の、あれは貫一にる誰かだ、と立騒いだ。
 主税がまた此地こっちへ来ると、ちとおかしいほど男ぶりが立勝って、薙放なぎはなしの頭髪かみも洗ったように水々しく、色もより白くすっきりあく抜けがしたは、水道の余波なごりは争われぬ。土地の透明な光線には、(ほこりだらけな洋服を着換えた。)酒井先生の垢附あかつきを拝領ものらしい、黒羽二重二ツともえ紋着もんつきの羽織の中古ちゅうぶるなのさえ、艶があって折目が凜々りりしい。久留米か、薩摩か、紺絣こんがすり単衣ひとえもの、これだけは新しいから今年出来たので、卯の花が咲くとともに、おつたが心懸けたものであろう。
 かれは昨夜、呉服町の大東館に宿って、今朝は夫人に迎えられて、草深さして来たのである。
 仰いで、浅間せんげんの森の流るるを見、して、ほりの水の走るを見た。たちまち一朶いちだくれないの雲あり、夢のごとくまなこを遮る。合歓ねむの花ぞ、と心着いて、ながれの音を耳にする時、車はがらりと石橋に乗懸のりかかって、黒の大構おおがまえの門にかじが下りた。
「ここかい。」とひらりと出る。
「へい、」
 と門内へ駈け込んで、取附とッつきの格子戸をがらがらと開けて、車夫は横ざまに身を開いて、浅黄裏をかがめて待つ。
 冠木門かぶきもんは、旧式のままで敷木があるから、横附けに玄関まで曳込むわけには行かない。
 男のが先へ立って駈出して来る事だろう、と思いながら、主税がぼうしを脱いで、あまあがりの松のわきを、緑の露に袖擦りながら、格子をくぐって、土間へ入ると、天井には駕籠かごでも釣ってありそうな、昔ながらの大玄関。
 と見ると、正面に一段高い、式台、片隅の板戸を一枚開けて、うしろの縁からす明りに、黒髪だけ際立ったが、向った土間の薄暗さ、きぬの色朦朧もうろうと、おもかげ白き立姿、夫人は待兼ねた体に見える。
 会釈もさせず、口も利かさず、見迎えの莞爾にっこりして、
「まあ、遅かったわねえ。ああ御苦労よ。」
 ちょいと車夫わかいしゅに声を懸けたが、
「さぞ寝坊していらっしゃるだろうと思ったの。さあ、こちらへ。さあ、」
 口早に促されて、急いで上る、主税はあかるい外から入って、一倍暗い式台に、高足を踏んで、ドンと板戸に打附ぶッつかるのも、菅子は心づかぬまで、いそいそして。
「こちらへ、さあ、ずッとここから、ほほほ、市川菅女、部屋の方へ。」
 と直ぐに縁づたいで、はらはらと、素足でさばもすその音。

       七

 市川菅女……と耳にはしたが、玄関の片隅切って、縁へ駈込むほどのあわただしさ、主税は足早に続く咄嗟とっさで、何の意味か分らなかったが、その縁の中ほどで、はじめて昨日きのう汽車の中で、夫人を女俳優やくしゃだと、外人に揶揄やゆ一番した、ああ、たたりだ、と気が付いた。
 気が付いて、莞爾かんじとした時、かれまなこ口許くちもとに似ず鋭かった。
 ちょうどその横が十畳で、客室きゃくまらしいつくりだけれども、夫人はもうそこを縁づたいに通越して、次の(菅女部屋)から、
「ずッといらっしゃいよ。」と声を懸ける。
 主税が猶予ためらうと、
「あら、座敷をのぞいちゃ不可いけません、まだ散らかっているんですから、」
 と笑う。これは、と思うと、縁の突当り正面の大姿見に、渠の全身、飛白かすりの紺も鮮麗あざやかに、部屋へ入っている夫人が、どこから見透みすかしたろうと驚いたその目の色まで、歴然ありありと映っている。
 姿見の前に、長椅子ソオフア一脚、広縁だから、十分に余裕ゆとりがある。戸袋と向合った壁に、棚を釣って、香水、香油、白粉おしろいたぐい、花瓶まじりに、ブラッシ、櫛などを並べて、洋式の化粧の間と見えるが、要するに、開き戸の押入を抜いて、造作を直して、壁を塗替えたものらしい。
 薄萌葱うすもえぎの窓掛を、くだん長椅子ソオフアと雨戸のあい引掛ひっかけて、幕が明いたように、絞ったすそなびいている。車で見た合歓ねむの花は、あたかもこの庭の、黒塀の外になって、用水はその下を、門前の石橋続きに折曲って流るるので、惜いかな、庭はただ二本ふたもと三本みもとを植棄てた、長方形の空地に過ぎぬが、そのかわり富士は一目。
 地を坤軸こんじくから掘覆ほりかえして、将棊倒しょうぎだおしせかけたような、あらゆる峰をふもといだいて、折からの蒼空あおぞらに、雪なす袖をひるがえして、軽くその薄紅うすくれないの合歓の花に乗っていた。
「結構な御住居おすまいでございますな。」
 ここで、つい通りな、しかも適切なことを云って、部屋へ入ると、長火鉢の向うに坐った、飾を挿さぬ、S巻の濡色が滴るばかり。お納戸の絹セルに、ざっくり、山繭縮緬やままゆちりめんしまの羽織を引掛けて、帯のゆるい、無造作な居住居いずまいは、直ぐに立膝にもなり兼ねないよう。横に飾った箪笥たんすの前なる、鏡台の鏡のうちへ、その玉のうなじに、後毛おくれげのはらはらとあるのがかよって、あらたに薄化粧した美しさが背中まで透通る。白粉の香は座蒲団にもこもったか、主税が坐ると馥郁ふくいくたり。
「こんな処へお通し申すんですから、まあ、堅くるしい御挨拶はお止しなさいよ。ちょいと昨夜ゆうべは旅籠屋で、一人で寂しかったでしょう。」
 と火箸をおさえたそうな白い手が、銅壺の湯気をけて、ちらちらして、
昨夜ゆうべにも、お迎いに上げましょうと思ったけれど、一度、寂しい思をさして置かないと、他国へ来て、友達の難有ありがたさが分らないんですもの。これからも粗末にして不実をすると不可いけないから………」
 と莞爾にっこり笑って、ちらりと見て、
「それにもう内が台なしですからね、私が一週間も居なかった日にゃ、門前雀羅じゃくらを張るんだわ。手紙一ツ来ないんですもの。今朝起抜けから、自分ではたきを持つやら、掃出すやら、大騒ぎ。まだちっとも片附ないんですけれど、貴下あなたも詰らなかろうし、私も早く逢いたいから、い加減にして、直ぐに車を持たせて、大急ぎ、と云ってやったんですがね。
 あの、地方いなかの車だってはやいでしょう。それでも何よ、まだか、まだか、と立って見たり坐って見たり、何にも手につかないで、御覧なさい、身化粧みじまいをしたまんま、鏡台を始末する方角もないじゃありませんか。とうとう玄関のとこへ立切りに待っていたの。どこを通っていらしって?」
 返事も聞かないで、ボンボン時計を打仰ぐに、象牙のような咽喉のどを仰向け、胸をらした、片手を畳へ。
「まあ、まだ一時間にもならないのね。半日ばかり待ってたようよ。途中でどこを見て来ました。大東館のきこっちの大きな山葵わさびの看板を見ましたか、郵便局は。あの右の手の広小路の正面に、煉瓦の建物があったでしょう。県庁よ。お城の中だわ。ああ、そう、早瀬さん、沢山たんとあがって頂戴、お煙草。露西亜ロシヤ巻だって、貰ったんだけれど、島山(夫を云う)はちっともみませんから……」

       八

 それから名物だ、と云って扇屋の饅頭を出して、茶をほうじる手つきはなよやかだったが、鉄瓶のはまだたぎらぬ、と銅壺から湯を柄杓ひしゃくの柄が、へし折れて、短くなっていたのみか、二度ばかり土瓶にうつして、もう一杯、どぶりと突込む。他愛たわいなく、抜けて柄になってしまったので、
「まあ、」と飛んだ顔をして、斜めに取って見透みすかした風情は、この夫人ひとえんなるだけ、中指なかざし鼈甲べっこうを、日影に透かした趣だったが、
「仕様がないわね。」と笑って、その柄をほうり出した様子は、世帯しょたいの事には余り心を用いない、学生生活のおもかげが残った。
 主税が、小児こども衆は、と尋ねると、二人とも乳母ばあやが連れて、土産ものなんぞ持って、東京から帰った報知しらせ旁々かたがた、朝早くから出向いたとある。
「河野の父さんの方も、内々小児をだしに使って、東京へ遊びに行った事を知っているんですから、言句もんくは言わないまでも、苦い顔をして、ひげの中から一睨ひとにらみ睨むに違いはないんですもの、難有ありがたくないわ。母様かあさんは自分の方へ、娘が慕って行ったんですから御機嫌が可いでしょう、もうちっとつと帰って来ます。それまでは、私、実家さとへは顔を出さないつもりで、当分風邪をひいた分よ。」
 と火鉢の縁にひじをついて、男の顔をながめながら、魂の抜け出したような仇気あどけないことを云う。
「そりゃ、悪いでしょう。」
 と主税がかえって心配らしく、
彼方むこうから、誰方どなたかおいでなさりゃしませんか。貴女がお帰りだ、と知れましたら。」
「来るもんですか。義兄にいさん(医学士――姉婿を云う)は忙しいし、またちっとでも姉さんを出さないのよ。大でれでれなんですから。父さんはね、それにね、頃日このごろは、家族主義の事に就いて、ちっと纏まった著述をするんだって、母屋に閉籠とじこもって、時々は、何よ、一日蔵の中に入りきりの事があってよ。蔵には書物が一杯ですから。父さんはね、医者なんですけれど、もと個人、人一人二人のやまいを治すより、国の病を治したい、と云うおおき希望のぞみの人ですからね。過年いつか、あの、家族主義と個人主義とが新聞で騒ぎましたね。あの時も、父様とうさんは、東京の叔父さんだの、坂田(道学者)さんに応援して、火の出るように、敵と戦ったんだわ。
 惜い事に、兄さん(英吉)も奔走してくれたんですけれど、可い機関がなくって、ほんの教育雑誌のようなものにったものですから、論文も、名も出ないでしまって、残念だからって、一生懸命に遣ってますの。確か、貴下の先生の酒井さんは、その時の、あの敵方の大立ものじゃなくって?」
 と不意に質問の矢が来たので、ちと、狼狽まごついたようだったが、
「どうでしたか、もう忘れましたよ。」ともなく答える。
 別に狙ったのでないらしく、
「でも、何でしょう、貴下あなたは、やっぱり、個人主義でおいでなさるんでしょう。」
「僕は饅頭主義で、番茶主義です。」
 と、なぜか気競きおって云って、片手で饅頭を色気なくむしゃりと遣って、息もかずに、番茶をあおる。
「あれ、嘘ばっかり。貴下は柳橋主義の癖に、」
 夫人は薄笑いの目をぱっちりと、睫毛まつげを裂いたように黒目勝なのでにらむようにした。
「ちょいと、吃驚びっくりして。……そら、御覧なさい、まだ驚かして上げる事があるわ。」
 と振返りざまに背後うしろ向きに肩をじて、茶棚の上へ手を遣った、活溌な身動みじろきに、下交したがいつますべった。
 そのまま横坐りに見得もなく、長火鉢の横から肩を斜めに身を寄せて、かざすがごとく開いて見せたは……
「や! 読本とくほんを買いましたね。」
「先生、これは何て云うの?」
冷評ひやかしては不可いけませんな、商売道具を。」
「いいえ、真面目に、貴下がこの静岡で、独逸語の塾を開くと云うから、早いでしょう、もう買って来たの。いの一番のお弟子入よ。ちょいと、リイダアと云うのを、独逸では……」
「レエゼウッフ(読本)――月謝が出ますぜ。」
「レエゼウッフ。」

       九

「あの、何?」
 とまことに打解けたものいいで、
「精々勉強したら、名高い、ギョウテの(ファウスト)だとか、シルレルの(ウィルヘルム、テル)………でしたっけかね、それなんぞ、何年ぐらいで読めるようになるんでしょう。」
き読めます、」
 と読本を受取って、片手で大掴おおづかみに引開けながら、
「僕ぐらいにはという、但書が入りますけれど。」
「だって……」
「いいえ、出来ます。」
「あら、ほんとに……」
「もっとも月謝次第ですな。」
「ああだもの、」
 とと身を退いて、叱るがごとく、
「なぜそうだろう。ちゃんと御馳走は存じておりますよ。」
 茶棚のわきふすまを開けて、つんつるてんな着物を着た、二百八十間の橋向う、鞠子辺まりこあたりの産らしい、十六七のおさんどんが、
「ふァい、奥様。」となまって云う。
 聞いただけで、怜悧りこうな菅子は、もうその用を悟ったらしい。
「誰か来たの?」
「ひゃあ、」
「あら、いやな。ちょいと、当分は留守とおいいと云ったじゃないの?」
「アニ、はい、で、ござりますけんど、お客様で、ござんしねえで、あれさ、もの、呉服町の手代しゅでござりますだ。」
「ああ、谷屋のかい、じゃ構わないよ、こちらへ、」
 と云いかけて、主税を見向いて、
「かくまって有る人だから……ほほほほ、そっちへきましょうよ。」
 衣紋えもんを直したと思うと、はらりと気早に立って、つくばったおんなの髪を、袂で払って、もう居ない。
 トきょとんとした顔をして、婢は跡も閉めないで、のっそり引込む。
 はて心得ぬ、これだけのかまえに、乳母の他はあの女中ばかりであろうか。主人は九州へ旅行中で、夫人が七日ばかりの留守を、彼だけでは覚束ない。第一、多勢の客の出入に、茶の給仕さえ鞠子はあやしい、と早瀬は四辺あたり※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしたが――後で知れた――留守中は、実家さとかかえ車夫が夜宿とまりに来て、昼はその女房が来ていたので。昼飯の時に分ったのでは、客へ馳走は、残らず電話で料理屋から取寄せる……もっとも、珍客というのであったかも知れぬ。
 そんな事はどうでも可いが、不思議なもので、早瀬と、夫人との間に、しきりに往来ゆききがあったその頃しばらくの間は、この家に養われて中学へ通っている書生の、美濃安八みのあはちの男が、夫人が上京したあと直ぐに、故郷の親が病気というので帰っていた――これが居ると、たとい日中ひなかは学校へ出ても、別に仔細しさいは無かったろうに。
 さて、夫人は、谷屋の手代というのを、隣室となりのその十畳へ通したらしい、何か話声がしている内、
「早瀬さん――」
 主税は、夫人が此室ここを出て、大廻りに行った通りに、声も大廻りに遠い処に聞き取って、静にその跡を辿たどりつつ返事が遅いと、
「早瀬さん、」
 と近くまた呼ぶ。今しがた、(かくまって有る人だ)と串戯じょうだんを云ったものを。
室数まかずは幾つばかりあればくって?」
「何です、何です。」
 余り唐突だしぬけで解し兼ねる。
貴下あなたのお借りなさろうというおうちよ。ちょいと、」
「ええ、そうですね。」
「おほほほ、話しが遠いわ。こっちへいらっしゃいよ。おほほほ、縁側から、縁側から。」
 夫人がした通りに、茶棚のわきの襖口へ行きかけた主税は、(菅女部屋)の中を、トぐるりと廻って、苦笑にがわらいをしながら縁へ出ると、これは! 三足と隔てない次の座敷。開けた障子にせなたせて、立膝の褄は深いが、円く肥えたひじあらわに夫人は頬を支えていた。
「朝から戸迷とまどいをなすっては、泊ったら貴下、どうして、」
 と振向いた顔の、花の色は、合歓ねむの影。
「へへへへへ」
 と、向うに控えたのは、呉服屋の手代なり。鬱金うこん木綿の風呂敷に、浴衣地がうずたかい。


     二人連

       十

 午後ひるすぎ、宮ヶ崎町の方から、ツンツンとあちこちの二階で綿を打つ音を、時ならぬきぬたの合方にして、浅間の社の南口、裏門にかかった、島山夫人、早瀬の二人は、花道へ出たようである。
 門際のながれに臨むと、頃日このごろの雨で、用水が水嵩みずかさ増してあふるるばかり道へ波を打って、しかも濁らず、あおひるがえってりょうの躍るがごとく、しげりもとを流るるさえあるに、大空から賤機山しずはたやまの蔭がさすので、橋を渡る時、夫人は洋傘かさをすぼめた。
 と見ると黒髪に変りはないが、脊がすらりとして、帯腰のなびくように見えたのは、羽織なしの一枚あわせという扮装でたちのせいで、また着換えていた――この方が、姿もく、よく似合う。ただしなまめかしさは少なくなって、いくらか気韻が高く見えるが、それだけに品が可い。
 セルで足袋を穿いては、軍人の奥方めく、素足では待合から出たようだ、と云ってやしき出掛でがけに着換えたが、はだに、紋縮緬もんちりめん長襦袢ながじゅばん
 二人のの母親で、その燃立つようなのは、ともすると同一おなじ軍人好みになりたがるが、あか抜けのした、意気のさかんな、色の白いのが着ると、汗ばんだ木瓜ぼけの花のように生暖なまあたたかなものではなく、雪の下もみじでりんとする。
 部屋で、先刻さっきこれを着た時も、乳をおさえてそっと袖をくぐらすような、男に気を兼ねたものではなかった。あらわにその長襦袢に水紅とき色の紐をぐるぐると巻いたなりで、牡丹の花から抜出たように縁の姿見の前に立って、
(市川菅女。)と莞爾々々にこにこ笑って、澄まして袷を掻取かいとって、襟を合わせて、ト背向うしろむきにうなじじて、衣紋えもんつきを映した時、早瀬が縁のその棚から、ブラッシを取って、ごしごしかゆそうに天窓あたま引掻ひっかいていたのを見ると、
「そんな邪険な撫着なでつけようがあるもんですか、私が分けて上げますからお待ちなさい。」
 と云うのを、聞かない振でさっさと引込ひっこもうとしたので、
「あれ、お待ちなさい」と、下〆したじめをしたばかりで、と寄って、ブラッシを引奪ひったくると、窓掛をさらさらと引いて、端近で、綺麗に分けてやって、前へ廻ってのぞき込むように瞳をためて顔を見た。
 胸の血汐ちしおの通うのが、波打って、風にそよいで見ゆるばかり、たわまぬはだえの未開紅、この意気なれば二十六でも、くれないの色はせぬ。
 境内の桜の樹蔭こかげに、静々、夫人のもすそが留まると、早瀬がかたわらから向うを見て、
「茶店があります、一休みして参りましょう。」
「あすこへですか。」
「おあつらえ通り、しわくちゃな赤毛布あかげっとが敷いてあって、水々しい婆さんが居ますね、お茶を飲んで行きましょうよ。」
 と謹んで色には出ぬが、午飯ひる一銚子ひとちょうし賜ったそうで、早瀬は怪しからず可い機嫌。
咽喉のどが渇いて?」
「ひりつくようです。」
「では……」
 茶店の婆さんというのが、かたのごとく古ぼけて、ごほん、とくのが聞えるから、夫人は余り気が進まぬらしかったが、二三人子守女もりっこに、きょろきょろ見られながら、ずッと入る。
「お掛けなさいまし。お日和でございます。よう御参詣なさりました。」
 夫人がたたずんでいて掛けないのを見て、早瀬は懐中ふところから切立の手拭てぬぐいを出して、はたはたと毛布けっとを払って、
「さあ、どうぞ、」
 笑って云うと、夫人は婆さんを背後うしろにして、悠々と腰を下ろして、
江戸児えどっこは心得たものね。」
「人を馬鹿にしていらっしゃる。」
 と、さしむかいの夫人の衣紋はずれに、店先を覗いて、
「やあ、甘酒がある……」

       十一

「お止しなさいよ。先刻さっきもあんなものをあがってさ、お腹を悪くしますから。」
 と低声こごえでたしなめるように云った、(先刻のあんなもの)は――鮪の茶漬で――慶喜公の邸あとだという、可懐なつかしいお茶屋から、わざと取寄せた午飯ひるの馳走の中に、刺身は江戸には限るまい、と特別に夫人が膳につけたのを、やがてお茶漬で掻込かっこんだのを見て、その時はいたく嬉しがった。
 得てこれをたしなむもの、河野の一門に一人も無し、で、夫人も口惜くやしいが不可いけないそうである。
「ここで甘酒を飲まなくっては、鳩にして豆、」
 と云うと、婆さんが早耳で、
「はい、盆に一杯五厘ずつでございます。」
「私は鳩と遊びましょう。貴下あなたは甘酒でも冷酒でも御勝手に召食めしあがれ。」
 と前の床几しょうぎに並べたのを、さらりとくと、さっと音して、揃いも揃って雉子鳩きじばとが、神代かみよに島のいたように、むらむらと寄せて来るので、また一盆、もう一盆、夫人は立上って更に一盆。
「一杯、二杯、三杯、四杯、五杯!」
 早瀬はその数をかぞえながら、
「ああ、僕はたった一杯だ。婆さん甘酒を早く、」
「はいはい、あれ、まあ、御覧ごろうじまし、鳩の喜びますこと、沢山たんと奥様に頂いて、クウクウかいのう、おおおお、」
 と合点がってん々々、ほたほたえみをこぼしながら甘酒を釜からむ。
 見る見るうち、輝く玄潮くろしお退いたか、と鳩は掃いたように空へ散って、咄嗟とっさ寂寞せきばくとした日当りの地の上へ、ぼんやりと影がさして、よぼよぼ、うごめいて出た者がある。
 鼻の下はさまででないが、ものの切尖きっさきせたおとがいから、耳の根へかけて胡麻塩髯ごましおひげが栗のいがのように、すくすく、頬肉ほおじしがっくりと落ち、小鼻が出て、窪んだ目が赤味走って、額のしわは小さな天窓あたま揉込もみこんだごとく刻んで深い。色あおあかじみて、筋でつないだばかりげっそり肩の痩せた手に、これだけは脚より太い、しっかりした、竹の杖をいたが、さまで容子ようすいやしくない落魄おちぶれらしい、五十ぢかの男の……肺病とは一目で分る……襟垢がぴかぴかした、閉糸とじいとれた、寝ン寝子を今時分。
 藁草履わらぞうり引摺ひきずって、いきおいの無さはほこり立てず、地の底に滅入込めりこむようにして、正面から辿たどって来て、ここへ休もうとしたらしかったが、目ももううとくて、近寄るまで、心着かなんだろう。そこに貴婦人があるのを見ると、出かかった足を内へ折曲げ、杖で留めて、まばゆそうに細めた目に、あわれや、笑をたたえて、婆さんの顔をじろりと見た。
「おお、ていさんか。」
 と耳立つほど、名を若く呼んだトタンに、早瀬はきっとなって鋭く見た。
 が、夫人は顔を背けたから何にも知らない。
ぬしあ、どうさしった、久しく見えなんだ。」
 と云うさえ、下地はあるらしい婆さんの方が、見たばかりでもう、ごほごほ。
「方なしじゃ、」
 思いのほか、声だけは確であったが、悪寒がするか、いじけた小児こどもいやいやをすると同一おなじすくめた首を破れた寝ン寝子の襟にこすって、
埒明らちあかんで、久しい風邪でな、稼業は出来ず、段々弱るばっかりじゃ。芭蕉の葉を煎じて飲むと、熱がれると云うので、」
 と肩を怒らしたは、咳こうとしたらしいが、その力も無いか、口へ手を当てて俯向うつむいた。
「何より利くそうなが、主あのましったか。」
「さればじゃ、方々様へ御願い申して頂いて来ては、飲んだにも、飲んだにも、おおきな芭蕉を葉ごとまるで飲んだくらいじゃけれど、少しも……」
 とがっくり首をって、
げんが見えぬじゃて。」
 しるしなきにはあらずかし、御身のむくろく消えて、賤機山に根もあらぬ、裂けし芭蕉の幻のみ、果敢はかなくそこに立てるならずや。
 ごほごほとうなずき頷き、咳入りつつ、婆さんが持って来た甘酒を、早瀬が取ろうとするのを、取らせまいと、無言で、はたと手で払った。この時、夫人は手巾ハンケチで口をおさえながら、甘酒の茶碗を、わきへ奪ったのである。

       十二

「芭蕉の葉煎じたを立続けて飲ましって、効験ききめの無い事はあるまいが、はやうなろうと思いなさるよくで、あせらっしゃるに因ってなおようない、気長に養生さっしゃるが何より薬じゃ。なあ、ぬし、気の持ちように依るぞいの。」
 と婆さんはかれを慰めるような、自分もせいの無いような事を云う。
 病人は、苦を訴うるほどの元気も持たぬ風で、目で頷き、肩で息をし、息をして、
「この頃は病気やまいと張合ういさみもないで、どうなとしてくれ、もう投身なげみじゃ。人に由っては大蒜にんにくえ、と云うだがな。大蒜は肺の薬になるげじゃけれども、わしはこう見えても癆咳ろうがいとは思わん、風邪のこじれじゃに因って、熱さえれれば、とやっぱり芭蕉じゃ。」
 愚痴のあわれや、繰返して、杖にすがった手を置替え、
「煎じて飲むはまだるこいで、早や、根からかぶりつきたいように思うがい。」
 と切なそうに顔を獅噛しかめる。
「焦らっしゃる事よ、れてはようない、ようないぞの。まあ、休んでござらんか、よ。主あどんなにか大儀じゃろうのう。」
「ちっと休まいて貰いたいがの、」
 菅子と早瀬の居るのを見て、遠慮らしく、もじもじして、
「腰を下ろすとよう立てぬで、久しぶりで出たついでじゃ、やっとそこらを見て、帰りに寄るわい。見霽みはらしへ上る、この男坂の百四段も、見たばかりで、もうもう慄然ぞっとする慄然ぞっとする、」
 と重そうなかぶりって、顔を横向きに杖を上げると、さきがぶるぶる震う。
 こなたに腰掛けたまま、胸を伸して、早瀬が何か云おうとした、(構わず休らえ、)と声を懸けそうだったが、夫人が、ト見て、指をはじいてめたので黙った。
「そんなら帰りに寄りなされ、気をつけて行かっしゃいよ。」
 物は言わず、ねむるがごとく頷くと、足で足を押動かし、寝ン寝子広き芭蕉の影は、葉がくれに破れて失せた。やがてこの世に、その杖ばかり残るであろう。その杖は、野墓に立てても、蜻蛉とんぼも留まるまい。病人の居たあとしばらくは、餌を飼っても、鳩の寄りそうな景色は無かった。
「お婆さん、」
 と早瀬が調子高に呼んだ。
 さすがに滅入っていた婆さんも、この若い、威勢の可い声に、蘇生よみがえったようになって、
「へい、」
「今の、風説うわさならもう止しっこ。私は見たばかりで胸が痛いのよ。」
 と、おどしてはけそうもないので、片手で拝むようにして、夫人は厭々をした。
「いえ、一ツ心当りは無いか、うちを聞いて見ようと思うんです。見物より、その方が肝心ですもの。」
「ああ、そうね。」
「どこか、貸家はあるまいか。」
「へい、無い事もござりませぬが、旦那様方の住まっしゃりますような邸は、この居まわりにはござりませぬ。鷹匠町たかじょうまち辺をお聞きなさりましたか、どうでござります。」
「その鷹匠町辺にこそ、御邸ばかりで、僕等の住めそうな家はないのだ。」
「どんなのがお望みでござりまするやら、」
やすいのがい、何でも廉いのが可いんだよ。」
「早瀬さん。」と、夫人が見っともないとおさえて云う。
「長屋で可いのよ、長屋々々。」
 と構わず、遣るので、また目で叱る。
「へへへ、お幾干いくらばかりなのをお捜しなされまするやら。」
 心当りがあるか、ごほりと咳きつつ、甘酒の釜の蔭を膝行いざって出る。
「静岡じゃ、お米は一升幾干いくらだい。」
「ええ。」
「厭よ、後生。」
 と婆さんをけかたがた、立構えで、夫人が肩を擦寄せると、早瀬はうしろへ開いて、夫人の肩越に婆さんを見て、
「それとも一円に幾干だね、それから聞いて屋賃の処を。」
「もう、私は、」とたまりかねたか、早瀬の膝をハタと打つと、赤らめた顔を手巾ハンケチで半ばおおいながら、茶店を境内へつっと出る。

       十三

 どこも変らず、風呂敷包を首に引掛けた草鞋穿わらじばき親仁おやじだの、日和下駄で尻端折しりはしょり、高帽という壮佼あにいなどが、四五人境内をぶらぶらして、何を見るやら、どれも仰向いてばかり通る。
 石段の下あたりで、緑に包まれた夫人の姿は、色も一際鮮麗あざやかで、青葉越に緋鯉ひごいの躍る池の水に、影も映りそうにたたずんだが、手巾ハンケチを振って、促がして、茶店から引張り寄せた早瀬に、
「可い加減になさいよ、きまりが悪いじゃありませんか。」
「はい、お忘れもの。」
 と澄ました顔で、洋傘ひがさを持って来た柄の方を返して出すと、夫人は手巾を持換えて、そうでない方の手に取ったが……不思議にこの男のは汗ばんでいなかった。誰のも、こういう際は、持ったあとがしっとり、中には、じめじめとするのさえある。……
 夫人はちょいと俯目ふしめになって、かろくその洋傘ひがさいて、
「よく気がついてねえ。(小さな声で、)――大儀、」
「はッ、主税御供おんともつかまつりまする上からは、御道中いささかたりとも御懸念はござりませぬ。」
「静岡は暢気のんきでしょう、ほほほほほ。」
「三等米なら六升台で、暮しも楽な処ですって、婆さんが言いましたっけ。」
「あらまた、厭ねえ、貴下あなたは。後生ですからその(お米は幾干だい、)と云うのだけは堪忍かにして頂戴な。もう私は極りが悪くって、同行は恐れるわ。」
「ええ、そうおっしゃれば、貴女もどうぞその手巾で、こう、お招きになるのだけは止して下さい。余りと云えば紋切形だ。」
「どうせね、柳橋のようなわけには……」
「いいえ、今も、子守女もりっこめらが、貴女が手巾をおりなさるのを見て、……はははは、」
「何ですって、」
「はははははは。」
 と事も無げに笑いながら、
「(男と女と豆煎、一盆五厘だよ。)ッて、飛んでもない、わッとはやしてげましたぜ。」
 ツンと横を向く、脊がきっと高くなった。ひっかなぐって、その手巾をはたとつちなげうつや否や、もすそけって、前途むこうへつかつか。
 その時義経少しも騒がず、落ちたすみれ色の絹に風がそよいで、鳩のはっと薫るのを、悠々と拾い取って、ぐっとたもとに突込んだ、手をそのまま、袖引合わせ、腕組みした時、色が変って、人知れず俯向うつむいたが、直ぐに大跨おおまたに夫人の後について、やしろの廻廊を曲った所で追着おッついた。
夫人おくさん。」
「…………」
「貴女腹をお立てなすったんですか、困りましたな。知らぬ他国へ参りまして、今貴女に見棄てられては、東西も分りませんで、途方に暮れます。どうぞ、御機嫌をお直し下さい、夫人おくさん、」
「…………」
「英吉君の御妹御、菅子さん、」
「…………」
「島山夫人……河野令嬢……不可いけない、不可い。」
 と口のうちで云って、歩行あるき歩行き、
「ほんとうに機嫌を直して、貴女、御世話下さい、なまじっか、貴女にお便り申したために、今更ひとりじゃ心細くってどうすることも出来ません。もう決して貴女の前で、米のは申しますまい。その代り、貴女もどうぞ貴族的でない、僕がすまれそうな、実際、相談の出来そうな長屋式のをお心掛けなすって下さい。実はその御様子じゃ、二十円以内の家は念頭にお置きなさらないように見受けたものですから、いささか諷する処あるつもりで、」
 いつの間にか、有名な随神門も知らず知らず通越した、北口を表門へ出てしまった。
 社は山に向い、直ぐ畠で、かえって裏門が町続きになっているが、出口に家が並んでいるから、その前を通る時、主税も黙った。
 夫人はもとより口を開かぬ。
 やがて茶畑を折曲って、小家まばらな、場末の町へ、まだツンとした態度でずんずん入る。
 大巌山の町の上に、小さな溝があるばかり、障子のやぶれから人顔も見えないので、その時ずッと寄って、
「ものを云って下さいよ。」
「…………」
夫人おくさん、」
「…………」

       十四

 少時しばらく――主税ももう口を利こうとは思わない様子になって、別に苦にする顔色かおつきでもないが、腕をこまぬいたなりで、夫人の一足後れにいてく。
 裏町の中程に懸ると、両側の家は、どれも火が消えたように寂寞ひっそりして、空屋かと思えば、蜘蛛くもの巣を引くような糸車の音が何家どこともなく戸外おもてへ漏れる。路傍みちばたに石の古井筒があるが、欠目に青苔あおごけの生えた、それにも濡色はなく、ばさばさはしゃいで、ながしからびている。そこいら何軒かして日に幾度、と数えるほどは米を磨ぐものも無いのであろう。時々陰に籠って、しっこしの無い、咳の声の聞えるのが、墓の中から、まだ生きているとうめくよう。はずれ掛けた羽目に、咳止飴せきどめあめと黒く書いた広告びらの、それを売る店の名の、風に取られて読めないのも、何となく世に便りがない。
 振返って、来た方を見れば、町の入口を、真暗まっくら隧道トンネル樹立こだちが塞いで、炎のように光線ひざしが透く。その上から、日のかげった大巌山が、そこは人の落ちた谷底ぞ、とそびえ立って峰からどっと吹き下した。
 かつ散るくれないなびいたのは、夫人のつまと軒のたいで、鯛は恵比寿えびす引抱ひっかかえた処の絵を、色はせたが紺暖簾こんのれんに染めて掛けた、一軒(御染物処おんそめものどころ)があったのである。
 ひさしから突出した物干棹ものほしざおに、薄汚れたもみきれが忘れてある。下に、荷車の片輪はずれたのが、塵芥ごみうまった溝へ、引傾いて落込んだ――これを境にして軒隣りは、中にも見すぼらしい破屋あばらやで、すすのふさふさと下った真黒まっくろ潜戸くぐりどの上の壁に、何の禁厭まじないやら、上に春野山、と書いて、口の裂けた白黒まだらのいぬの、前脚を立てた姿が、雨浸あめじみに浮び出でて朦朧もうろうとお札の中にあらわれていけるがごとし。それでも鬼が来てのぞくか、楽書ででっちたような雨戸の、節穴の下にひいらぎの枝が落ちていた……鬼もかがまねばなるまい、いとど低い屋根が崩れかかって、一目見ても空家である――またどうして住まれよう――お札もかかる家に在っては、軒を伝って狗の通るように見えて物凄ものすごい。
 フト立留まって、この茅家あばらやながめた夫人が、何と思ったか、主税と入違いに小戻りして、洋傘ひがさを袖の下へよこたえると、惜げもなく、髪で、くだんの暖簾を分けて、隣の紺屋の店前みせさきへ顔を入れた。
「御免なさいよ、御隣家おとなりいえを借りたいんですが、」
「何でございますと、」
 と、頓興とんきょうな女房の声がする。
「家賃は幾干いくらでしょうか。」
「ああ、貞造さんのうちの事かね。」
 余り思切った夫人の挙動ふるまいに、呆気あっけに取られて茫然とした主税は、(貞造。)の名に鋭く耳をそばだてた。
「空家ではござりませぬが。」
「そう、空家じゃないの、失礼。」
 と肩の暖簾をはずして出たが、
「大照れ、大照れ、」
 と言って、莞爾にっこりして、
「早瀬さん、」
「…………」
「人のことを、貴族的だなんのって、いざ、となりゃ私だって、このくらいな事はして上げるわ。このうちじゃ、貴下だって、借りたいと言って聞かれないでしょう。ちょいと、これでも家の世話が私にゃ出来なくって?」
 さすがに夫人もこれは離れわざであったと見え、目のふちがさっとなって、胸で呼吸いきをはずませる。
 その燃ゆるような顔をじっと見て、ややあって、
「驚きました。」
「驚いたでしょう、可い気味、」
 と嬉しそうに、勝誇った色が見えたが、歩行あるき出そうとして、その茅家をもう一目。
「しかしきまりが悪かってよ。」
「何とも申しようはありません。当座の御礼のしるし迄に……」と先刻さっき拾って置いた菫色の手巾を出すと、黙ってうなずいたばかりで、取るような、取らぬような、歩行あるきながら肩が並ぶ。袖が擦合うたまま、夫人がまだ取られぬのを、離すと落ちるし、そうかと云って、手はかけているから……引込めもならず……提げていると……手巾が隔てになった袖が触れそうだったので、二人がひとしく左右を見た。両側の伏屋ふせやの、ああ、どの軒にも怪しいお札のいぬが……


     貸小袖

       十五

 今来た郵便は、夫人のもとへ、主人あるじの島山理学士から、帰宅を知らせて来たのだろう……と何となくそういう気がしつつ――三四日日和が続いて、夜になってももう暑いから――長火鉢をけた食卓の角の処に、さすがにまだ端然きちんと坐って、例の(菅女部屋。)で、主税は独酌にして、ビイル。
 塀の前を、用水が流るるために、波打つばかり、窓掛に合歓ねむの花の影こそ揺れ揺れ通え、差覗く人目は届かぬから、縁の雨戸は開けたままで、心置なく飲めるのを、あれだけの酒ずきが、なぜか、夫人の居ない時は、硝子杯コップける口も苦そうに、差置いて、どうやらふさぐらしい。
 ふすまいた、と思うと、羽織なしの引掛帯ひっかけおび、結び目がって、横になって、くつろいだ衣紋えもんの、胸から、柔かにふっくりと高い、真白まっしろな線を、読みかけた玉章たまずさで斜めに仕切って、衽下おくみさがりにその繰伸くりのばした手紙の片端を、北斎が描いた蹴出けだしのごとく、ぶるぶるとぶら下げながら出た処は、そんじょ芸者それしゃの風がある。
「やっと寝かしつけたわ。」
 と崩るるように、ばったり坐って、
「上のは、もうもとっから乳母ばあやいんだし、坊も、久しく私と寝ようなんぞと云わなかったんだけれども、貴下にかかりっきりで構いつけないし、留守にばっかりしたもんだから、先刻さっきのあの取ッ着かれようを御覧なさい。」
 と手紙を見い見いせわしそうに云う。いかにもここで膳を出したはじめには、小児こどもが二人とも母様かあさんにこびりついて、坊やなんざ、武者振つくいきおい。目の見えないは、さみしそうに坐ったきりで、しきりに、夫人の膝から帯をかけて両手で撫でるし、坊やは肩から負われかかって、背ける顔へ頬を押着おッつけ、かわす顔の耳許みみもとへかじりつくばかりの甘え方。見るまにぱらぱらにびんが乱れて、面影もせたように、口のあたりまで振かかるのをい払うその白やかな手が、空をつかんでもだえるようで、(乳母ばあや来ておくれ。)と云った声が悲鳴のように聞えた。乳母うばが、(まあ、何でござります、嬢ちゃまも、坊っちゃまも、お客様の前で、)と主税の方を向いたばかりで、いつも嬢さまかぶれの、眠ったような俯目ふしめの、顔を見ようとしないので、元気なく微笑ほほえみながら、娘の児の手をくと、厭々それは離れたが、坊やが何と云ってもかなくって、果は泣出して乱暴するので、時の間も座を惜しそうな夫人が、寝かしつけに行ったのである。
 そこへ、しばらくして、郵便――だった。
 すらすらと読果てた。手紙を巻戻しながら顔を振上げると、乱れたままの後れ毛を、うるさそうに掻上げて、
「ついぞ思出しもしなかった、乳なんか飲まれて、さんざあぶらを絞られたわ。」
 と急いで衣紋を繕って、
「さあ、お酌をしましょう。」
 瓶を上げると、重い。
「まあ、ちっとも召喫めしあがらないのね。お酌がなくっては不可いけないの、ちょいと贅沢ぜいたくだわ。ほほほほ、うちまったし、一人で世帯を持った時どうするのよ。」
「沢山頂きました、こんなに御厄介になっては、実に済みません……もう、徐々そろそろ失礼しましょう。」
 と恐しく真面目に云う。
「いいえ、返さない。この間から、お泊んなさいお泊んなさいと云っても、貴下が悪いと云うし、私も遠慮したけれど、いわ、もう泊っても。今ね、御覧なさい、牛込に居る母様かあさまから手紙が来て、早瀬さんが静岡へおいでなすって、幸いお知己ちかづきになったのなら、精一杯御馳走なさい、と云って来たの。嬉しいわ、私。
 あのね、実はこれは返事なんです。汽車の中でお目にかかった事から、都合があってこちらで塾をお開きなさるに就いて、ちっとも土地の様子を御存じじゃない、と云うから、私がお世話をしてなんて、そこはね、可いように手紙を出したの、その返事、」
 とてのひらに巻き据えた手紙の上を、かろく一つとんとって、
母様かあさんが可い、と云ったら、天下晴れたものなんだわ。ゆっく召食めしあがれ。そして、是非今夜は泊るんですよ。そのつもりで風呂もわかしてありますから、お入んなさい。寝しなにしますか、それともさっと流してからあがりますか。どちらでも、もう沸いてるわ。そして、泊るんですよ。くって、」
 念を入れて、やがてうんと云わせて、
「ああ、昨日きのう一昨日おとといも、合歓の花の下へ来ては、晩方さみしそうに帰ったわねえ。」

       十六

 さて湯へ入る時、はじめて理学士の書斎を通った。が、机の上は乱雑で、そこに据えた座蒲団も無かった、早瀬に敷かせているのがそれらしい。
 机には、広げたままの新聞も幅をすれば、小児こども玩弄物おもちゃも乗って、大きな書棚の上には、世帯道具が置いてある。
 湯は、だだっ広い、薄暗い台所の板敷を抜けて、土間へ出て、庇間ひあわい一跨ひとまたぎ、すえ風呂をこの空地くうちから焚くので、雨の降る日は難儀そうな。
 そこにしゃがんでいた、例のつんつるてん鞠子のおさんが、湯加減を聞いたが上塩梅じょうあんばい
 どっぷり沈んで、遠くで雨戸を繰る響、台所だいどこをぱたぱた二三度行交いする音を聞きながら、やがて洗い果ててまた浴びたが、湯の設計こしらえは、この邸に似ず古びていた。
 小灯こともし朦々もうもうと包まれた湯気の中から、突然いきなりふんどしのなりで、下駄がけで出ると、さっと風の通る庇間に月が見えた。ひさしはずれにのぞいただけで、影さす程にはあらねども、と見れば尊き光かな、裸身はだみに颯と白銀しろがねよろったように二の腕あたりあおずんだ。
 思わず打仰いで、
「ああ、おたえさん。」
 俯向うつむいた肩がふるえて、
「お蔦!」
 蹌踉よろめいたように母屋の羽目にもたれた時、
「早瀬さん、」と、つい台所だいどこに、派手やかな夫人の声で、
「貴下、上ったら、これにお着換えなさいよ。ここに置いときますから、」
はばかり、」
 と我に返って、上って見ると、薄べりを敷いた上に、浴衣がある。琉球つむぎの書生羽織が添えてあったが、それには及ばぬから浴衣だけ取って手を通すと、桁短ゆきみじかに腕が出て着心の変な事は、引上げても、引上げても、裾がるのを、引縮めて部屋へ戻ると……道理こそ婦物おんなもの。中形模様のなまめかしいのに、あいの香がぷんとする。突立って見ていると、夫人は中腰に膝をいて、鉄瓶を掛けながら、
「似合ったでしょう、過日いつか谷屋が持って来て、貴下が見立てて下すったのを、直ぐ仕立てさしたのよ。島山のはまだ縫えないし、あるのは古いから、我慢して寝衣ねまきに着て頂戴。」
「むざむざ新らしいのを。」
 と主税は袖を引張る。
「いいえ、私、今着て見たの、お初ではありません。御遠慮なく、でも、お気味が悪くはなくって。ちょいと着たから、」
「気味が悪い、」
「…………」
「もんですか。勿体至極もござらん。」
 ときまったが、何かまだ物足りない。
「帯ですか。」
「さよう、」
「これを上げましょう。」
 とすっと立って、上緊うわじめをずるりと手繰った、麻の葉絞の絹ちぢみ
「…………」
 目を見合せ、
いわ、」
 とはたと畳に落して、
「私も一風呂入って来ましょう。今の内に。」
 主税はあとで座敷を出て、縁側を、十畳の客室きゃくまの前から、玄関の横手あたりまで、行ったり来たり、やや跫音あしおとのするまで歩行あるいた。
 おさんが来て、ぬいと立って、
夫人おくさまが言いましけえ、お涼みなさりますなら雨戸を開けるでござります。」
「いや、よろしい。」
「はいい。」と念入りに返事する。
「いつも何時頃にお休みだい。」
 と親しげに問いかけながら、口不重宝な返事は待たずに、長火鉢のわきへ、つかつかと帰って、紙入の中をざっくりと掴んだ。
 はやい事、もう紙に両個ふたつ
一個ひとつ乳母ばあやさんに、お前さんから、夫人おくさんに云わんのだよ。」

       十七

 寝たのはかれこれ一時。
 膳は片附いて、火鉢の火の白いのが果敢はかないほど、夜も更けて、しんと寒くなったが、話に実がったのと、もう寝よう、もう寝ようで炭も継がず。それでも火の気が便りだから、横坐りに、つまを引合せて肩で押して、灰の中へあらわなひじも落ちるまで、火鉢のふちもたれかかって、小豆あずきほどな火を拾う。……湯上りの上、昼間歩行あるき廻った疲れが出た菅子は、髪も衣紋も、帯も姿もえたようで、顔だけは、ほんのりした――麦酒ビイルは苦くて嫌い、と葡萄酒を硝子杯コップに二ツばかりの――えいさえ醒めず、黒目は大きく睫毛まつげが開いて、艶やかに湿うるおって、唇のくれないが濡れ輝く。手足は冷えたろうと思うまで、かしらに気が籠った様子で、相互たがいの話をめないのを、余りおそくなっては、また御家来しゅが、変にでも思うと不可いけませんから、とそれこそ、人に聞えたら変に思われそうな事を、早瀬が云って、それでも夫人のまだ話し飽かないのを、幾度いくたび促しても肯入ききいれなかったが……火鉢で隔てて、柔かく乗出していた肩の、きぬの裏がするりとすべった時、薄寒そうに、がっくりとうなずくと見ると、早急さっきゅうにフイと立つ……。
 膝にからんだもすそが落ちて、蹌踉よろめく袖が、はらりと、茶棚のわきふすまに当った。肩を引いて、胸をらして、おっくらしく、身体からだで開けるようにして、次室つぎへ入る。
 板廊下を一つ隔てて、そこに四畳半があるのに、床が敷いてあって、小児が二人背中合せに枕して、真中まんなかに透いた処がある。乳母うばが両方を向いて寝かし附けたらしいが、よく寝入っていて、乳母は居なかった。
 トそこを通り越して、見えなくなったきり、襖も閉めないで置きながら、夫人はしばらくっても来なかった。
 早瀬は灰に突込んだうずたか巻莨まきたばこの吸殻をながめながら、ああ、んだと思い、ああ、饒舌しゃべったと考える。
 その話、と云うのが、かねて約束の、あの、ギョウテの(エルテル)を直訳的にという註文で、伝え聞くかの大詩聖は、ある時シルレルと葡萄の杯を合せて、予等われらが詩、年を経るに従いていよいよ貴からんことこの酒のごとくならん、と誓ったそうだわね、と硝子杯コップを火にかざしてその血汐ちしおのごときくれないを眉に宿して、大した学者でしょう、などと夫人、得意であったが、お酌が柳橋のでなくっては、と云う機掛きっかけから、エルテルは後日ごにちにして、まあ、題も(ハヤセ)と云うのを是非聞かして下さい、酒井さんの御意見で、お別れなすった事は、東京で兄にも聞きましたが、恋人はどうなさいました。厭だわ、聞かさなくっちゃ、と強いられた。
 早瀬はくわしく懺悔ざんげするがごとく語ったが、都合上、ここでは要を摘んで置く。……
 義理から別離わかれ話になると、お蔦は、しかし二度芸者つとめをする気は無いから、幸い組の惣助そうすけの女房は、島田が名人の女髪結。柳橋は廻り場で、自分も結って貰って懇意だし、組とはまたああいう中で、打明話が出来るから、いっそその弟子になって髪結で身を立てる。商売をひいてからは、いつも独りで束ねるが、銀杏返いちょうがえしなら不自由はなし、雛妓おしゃくの桃割ぐらいは慰みに結ってやって、お世辞にも誉められた覚えがある。出来ないことはありますまい、親もなし、兄弟もなし、行く処と云えば元の柳橋の主人の内、それよりは肴屋さかなやへ内弟子に入って当分梳手すきてを手伝いましょう。……何も心まかせ、とそれにまった。この事は、酒井先生も御承知で、内証ないしょうで飯田町の二階で、直々じきじきに、お蔦に逢って下すって、その志の殊勝なのに、つくづくうなずいて、手ずから、小遣など、いろいろ心着こころづけがあった、と云う。
 それぎり、顔も見ないで、静岡へ引込ひっこむつもりだったが、組の惣助の計らいで、不意に汽車の中で逢って、横浜まで送る、と云うのであった。ところが終列車で、浜が留まりだったから、旅籠はたごも人目をはばかって、場末の野毛の目立たない内へ一晩泊った。
(そんな時は、)
 と酔っていた夫人が口を挟んで、顔を見て笑ったので、しばらくして、
(背中合わせで、別々に。)
 翌日、平沼から急行列車に乗り込んで、そうして夫人あなたに逢ったんだと。……


     うつらうつら

       十八

 中途で談話はなしに引入れられてふさぐくらい、同情もしたが、芸者なんか、ほんとうにお止しなさいよ、と夫人が云う。主税は、当初はじめから酔わなきゃ話せないで陶然としていたが、さりながら夫人、日本広しといえども、私におまんまたいてくれたおんなは、お蔦の他ありません。母親の顔も知らないから、ああ、と喟然きぜんとして天井を仰いで歎ずるのを見て、誰が赤い顔をしてまで、貸家を聞いて上げました、と流眄しりめにかけて、ツンとした時、失礼ながら、家で命はつなげません、貴女は御飯が炊けますまい。明日は炊くわ。米を※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)るのだ、と笑って、それからそれへ花は咲いたのだったが、しかし、気の毒だ、可哀相に、と憐愍あわれみはしたけれども、徹頭徹尾、(芸者はおよしなさい。)……この後たとい酒井さんのお許可ゆるしが出ても、私が不承知よ。で、さてもう、夜が更けたのである。
 出て来ない――夫人はどうしたろう。
 がたがた音がした台所も、遠くなるまで寂寞ひっそりして、耳馴れたれば今更めけど、戸外おもて万のかわずの声。蛙、蛙、蛙、蛙、蛙と書いた文字に、一ツ一ツ音があって、天地あめつちに響くがごとく、はた古戦場を記した文に、ことごと調しらべがあって、章と句とひとしく声を放って鳴くがごとく、何となく雲が出て、白く移り行くに従うて、動揺どよみを造って、国が暗くなる気勢けはいがする。
 時に湯気の蒸した風呂と、庇合ひあわいの月を思うと、一生の道中記に、荒れた駅路うまやじの夜の孤旅ひとりたびが思出される。
 かれは愁然として額をおさえた。
「どうぞお休み下さりまし。」
 と例の俯向うつむいた陰気な風で、敷居越に乳母が手をいた。
「いろいろお使い立てます。」
 と直ぐにずッと立って、
「どちらですか。」
「そこから、お座敷へどうぞ……あの、先刻はまた、」とつむりを下げた。
 寝床はその、十畳の真中まんなかに敷いてあった。
 枕許まくらもと水指みずさしと、硝子杯コップを伏せて盆がある。煙草盆を並べて、もう一つ、黒塗金蒔絵きんまきえの小さな棚を飾って、毛糸で編んだ紫陽花あじさいの青い花に、ぎょく丸火屋まるぼや残燈ありあけを包んで載せて、中の棚に、香包を斜めに、古銅の香合が置いてあって、下の台へ鼻紙を。重しの代りに、女持の金時計が、底澄んで、キラキラ星のように輝いていた。
 じろりとながめて、莞爾にっこりして、蒲団に乗ると、腰が沈む。天鵝絨びろうど括枕くくりまくらを横へ取って、足をのばしてすそにかさねた、黄縞きじまの郡内に、桃色の絹の肩当てした掻巻かいまきを引き寄せる、手がすべって、ひやりとかろくかかった裏の羽二重が燃ゆるよう。
 トタンに次の書斎で、するすると帯を解く音がしたので、まだ横にならなかった主税は、掻巻の襟に両肱を支いた。
 乳母が何か云ったようだったが、それは聞えないで、派手な夫人の声して、
「ああ、このまま寝ようよ。どうせ台なしなんだから。」
 と云ったと思うと、隔てのふすまの左右より、中ほどがスーといたが、こなたの十畳の京間は広し、向うのあかりも暗いから、もすそはかくれて、の下の扱帯しごきが見えた。
「お休みなさい。」
「失礼。」
 と云う。襖を閉めて肩を引いた。が、幻の花環一つ、黒髪のありしあたり、宙に残って、消えずにおもかげに立つ。
 主税は仰向けに倒れたが、枕はしないで、両手を廻して、しっかと後脳を抱いた。目はハッキリと※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらいて、失せやらぬその幻を視めていた。時過ぎる、時過ぎる、その時の過ぎる間に、乳母が長火鉢の処の、洋燈ランプを消したのが知れて、しっこは、しっこは、と小児こどもに云うのが聞えたが、やがて静まって、時過ぎた。
 早瀬は起上って、棚の残燈ありあけを取って、縁へ出た。次の書斎を抜けるとまた北向きの縁で、その突当りに、便所かわやがあるのだが、夫人が寝たから、大廻りに玄関へ出て、鞠子のおさんの寝たすそを通って、板戸を開けて、台所だいどこの片隅のひらきから出て、小用をして、手を洗って、手拭てぬぐいを持つと、夫人が湯で使ったのを掛けたらしい、冷く手に触って、ほんのり白粉おしろいにおいがする。

       十九

 寝室ねまへ戻って、何か思切ったような意気込で、早瀬はいきおいよく枕して目を閉じたが、枕許のこうは、包を開けても見ず、手拭の移香でもない。活々した、何の花か、その薫の影はないが、透通って、きらきら、露をゆすって、かすかな波を描いて恋をささやくかと思われる一種微妙な匂が有って、掻巻の袖を辿たどって来て、やわらかにおもてを撫でる。
 それを掻払かいはらうごとく、目の上を両手で無慚むざん引擦ひっこすると、ものの香はぱっと枕にげて、縁側の障子の隅へ、音も無く潜んだらしかったが、また……有りもしない風を伝って、引返ひっかえして、今度はかろく胸に乗る。
 寝返りを打てば、袖のあおりにふっと払われて、やがて次の間と隔ての、襖の際に籠った気勢けはいもと花片はなびらに香が戻って、匂は一処に集ったか、薫が一汐ひとしお高くなった。
 快い、さりながら、強い刺戟を感じて、早瀬が寝られぬ目を開けると、先刻さっき(お休みなさい。)を云った時、菅子がそこへ長襦袢の模様を残した、襖の中途の、人の丈の肩あたりに、幻の花環は、色が薄らいで、花も白澄んだけれども、まだ歴々ありありと瞳に映る。
 枕に手をき、むっくり起きると、あたかもその花環の下、襖の合せ目の処に、残燈ありあけくまかと見えて、薄紫に畳を染めて、例のすみれ色の手巾ハンケチが、寂然せきぜんとして落ちたのに心着いた。
 薫はさてはそれからと、見る見る、心ゆくばかりに思うと、萌黄もえぎに敷いた畳の上に、一簇ひとむれの菫が咲き競ったようになって、朦朧もうろうとした花環の中に、就中なかんずくりんの大きい、目に立つ花の花片が、ひらひらと動くや否や、立処たちどころに羽にかわって、蝶々に化けて、瞳の黒い女の顔が、その同一おなじ処にちらちらする。
 早瀬は、甘い、かんばしい、暖かな、とろりとした、春の野によこたわる心地で、枕を逆に、掻巻の上へ寝巻の腹んばいになって、蒲団の裙に乗出しながら、頬杖ほおづえを支いて、恍惚うっとりしたさまにその菫を見ている内、上にたたずむ蝶々とひとしく、花の匂が懐しくなったと見える。
 やおら、手を伸して紫の影を引くと、手巾はそのまま手に取れた。……が菫には根が有って、襖の合せ目を離れない。
 不思議に思って、蝶々がする風情に、手で羽のごとく手巾を揺動かすと、一すんばかり襖が…………い……た。
 と見ると、手巾の片端に、くれない幻影まぼろし一条ひとすじ、柔かに結ばれて、夫人のねやに、するするとつながっていたのであった。
 菫が咲いて蝶の舞う、人の世の春のかかる折から、こんな処には、いつでもこの一条が落ちている、名づけてえにしの糸と云う。禁断の智慧ちえ果実このみひとしく、今も神の試みで、棄てて手に取らぬ者は神のとなるし、取って繋ぐものは悪魔の眷属けんぞくとなり、畜生の浅猿あさましさとなる。これを夢みれば蝶となり、慕えば花となり、解けば美しき霞となり、結べば恐しき蛇となる。
 いかに、この時。
 隔ての襖が、より多く開いた。見る見るあかくちなわは、その燃ゆる色に黄金のうろこの絞を立てて、菫の花を掻潜かいくぐった尾に、主税の手首を巻きながら、かしらに婦人のの下をくれない見せてんでいた。
 さっと花環が消えると、横に枕した夫人の黒髪、後向きに、掻巻の襟を出た肩のあたりあらわに見えた。残燈ありあけはその枕許にも差置いてあったが、どちらのあかりでも、繋いだものの中は断たれず。……
 ぶるぶる震うと、夫人はふいとふすまを出て、胸をおさえて、じっと見据えた目に、閨の内を※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわして、※(「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2-12-81)ぼうとしたようで、まだ覚めやらぬ夢に、菫咲く春の野を※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)さまようごとく、もすそも畳にただよったが、ややあって、はじめてその怪い扱帯しごきの我をまとえるに心着いたか、あ、と忍び音に、うなされた、目の美しい蝶の顔は、俯向けに菫の中へ落ちた。


     思いやり

       二十

 妙子は同伴つれも無しにただ一人、学校がえりのなりで、八丁堀のとある路地へ入って来た。
 通うその学校は、麹町こうじまち辺であるが、どこをどう廻ったのか、真砂町まさごちょうの嬢さんがこの辺へ来るのは、旅行をするようなもので、野山を越えてはるばると……近所で温習ならっている三味線さみせんも、旅の衣はすずかけの、旅の衣はすずかけの。
 目で聞くごとくぱっちりと、その黒目勝なのを※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはったお妙は、鶯の声を見る時と同一おんなじな可愛い顔で、路地に立って※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしながら、たちばなに井げたの紋、堀の内講中こうじゅうのお札を並べた、上原かんばらと姓だけの門札かどふだながめて、単衣ひとえの襟をちょいと合わせて、すっとその格子戸へ寄って、横に立って、洋傘ひがさいたが、声を懸けようとしたらしく、斜めにのぞき込んだ顔を赤らめて、黙って俯向うつむいて俯目ふしめになった。口許くちもとより睫毛まつげが長く、日にさした影は小さく軒下に隠れた。
 コトコトとその洋傘ひがさで、爪先つまさきの土を叩いていたが、
「御免なさい。」
 とようよう云う、控え目だったけれども、ほがらかすずしい、かまちの障子越にずッととおる。
 中からよく似た、やや落着いたしずかな声で、
「はあ、誰方どなた?」
 お妙は自分から調子が低く、今のは聞えない分にめていたのを、すぐの返事は、ちと不意討という風で、吃驚びっくりして顔を上げる。
「誰方、」
「あの……髪結さんの内はこっちでしょうか。」
「はい、こちらでございますが。」と座を立った気勢けはいに連れて、もの云う調子が婀娜あだになる。
 と真正面まっしょうめんに内を透かして、格子戸に目を押附おッつける。
「何ぞ御用。」
 といくらか透いていた障子をすらりと開ける。粋で、品のい、しっとりしたしまお召に、黒繻子くろじゅすの丸帯した御新造ごしんぞ風の円髷まるまげは、見違えるように質素じみだけれども、みどりの黒髪たぐいなき、柳橋の小芳こよしであった。
 立身たちみで、框から外を見たが、こんなかどには最明寺、思いも寄らぬ令嬢風に、急いで支膝つきひざになって、
「あいにく出掛けてりませんが、貴嬢あなた、どちら様でいらっしゃいますか。帰りましたら、直ぐ上りますように申しましょう。」
 瞳も離さないで視めたお妙が、後馳おくればせに会釈して、
「そう、でも、あの、誰方かおいででしょう。内へ来て貰うんじゃないの。私が結って欲しいのよ。どうせ、こんなのですから、」
 と指でもおさえず、惜気おしげなく束髪のびんって、
「お師匠さんでなくってもいんです。お弟子さんがおいでなら、ちょいと結んで下さいな。」
 すがって頼むようにあどなく云って、しっかり格子につかまって、差覗きながら、
「小母さんでも可いわ。」
 我を(小母さん)にして髪を結って、と云われたので、我ながら忘れたように、心から美しい笑顔になって、
「貴嬢、まあ、どちらから。あの、御近所でいらっしゃいますか。」
「いいえ、遠いのよ。」
「お遠うございますか。」
「本郷だわ。」
「ええ、」
「私ねえ、本郷のねえ、酒井と云うの。」
「お嬢様、まあ、」
 と土間に一足おろしさまに、小芳は、急いで框から開ける手が、戸に掴まったお妙の指を、中からおさえたのも気が附かぬか、駒下駄こまげたの先を、さかさに半分踏まえて、片褄蹴出かたづまけだしのみだれさえ、忘れたようにみまもって、
「お妙様。」
「小母さんは、早瀬さんの……あの……お蔦さん?」

       二十一

「いらっしゃいまし、」
 と小芳がいたあらたまって、三指を突いた時、お妙は窮屈そうに六畳の上座じょうざへ直されていたのである。
貴嬢あなた、まあ、どうしてこんな処へ、たった御一人なんですか。途中で何かございませんでしたか、お暑かったでしょうのに。唯今ただいま手拭を絞って差上げます。」
 と一斉いっときに云いかけられて、袖で胸をあおいでいた手を留めて、
「暑いんじゃないの、私きまりが悪いから、それでもって、あの、」
 とたもとを顔に当てて、鈴のような目ばかり出して、
「小母さんが、お蔦さん?」と低声こごえでまた聞いた。
「あれ、どうしましょう。あんまり思懸けない方がお見えなさいましたもんですから、私は狼狽とっちてしまってさ。ほほほ、いうことも前後あとさきになるんですもの、まあ、御免なさいまし。
 私は……じゃありません。その……何でございますよ、お蔦さんが煩らって寝ておりますので、見舞に来たんでございます。」
「ええ、御病気。」と憂慮きづかわしげに打傾く。
「はあ、久しい間、」
沢山たんと、悪くって?」
「いいえ、そんなでもないようですけれど、ふせっておりますから、おぐしはあげられませんでしょう。ですが、御緩ごゆっくり、まあ、なさいまし。この頃では、お増さんも気に掛けて、早く帰って参りますから、ほんとうに……お嬢さん、」
 と擦寄って、うっかりと見惚みとれている。
 上框あがりぐちが三畳で、直ぐ次がこの六畳。前の縁が折曲おりまがった処に、もう一室ひとま、障子は真中まんなかで開いていたが、閉った蔭に、床があれば有るらしい。
 向うは余所よその蔵で行詰ったが、いわゆる猫の額ほどは庭も在って、青いものも少しは見える。小綺麗さは、のんだくれには過ぎたりといえども、お増と云う女房の腕で、畳もあおい。上原とあった門札こそ、世を忍ぶ仮の名でも何でもない、すなわちこれ組の住居すまい、実は女髪結お増の家と云ってしかるべきであろう。
 惣助の得意先は、皆、かれを称して恩田百姓と呼ぶ。註に不及およばず作取つくりどりのただ儲け、商売あきないで儲けるだけは、飲むもし、つも可し、買うも可しだが、何がさてそれで済もうか。儲けを飲んで、資本もとでで買って、それから女房の衣服きもので打つ。
 それお株がはじまった、と見ると、女房はがちがちがちと在りたけの身上しんしょうへ錠をおろして、鍵を昼夜帯へ突込んで、当分商売はさせません、と仕事に出る、
 トかますの煙草入に湯銭も無い。おなまめだんぶつ、座敷牢だ、と火鉢の前にすくまって、下げ煙管ぎせるの投首が、ある時悪心増長して、鉄瓶を引外ひっぱずし、沸立にたった湯をながしへあけて、溝の湯気の消えぬ間に、笊蕎麦ざるそば一杯いちめた。
 その時女房に勘当されたが、やっとよりが戻って以来、金目な物は重箱まで残らず出入先へ預けたから、家には似ない調度の疎末そまつさ。どこを見てもがらんとして、間狭ませまな内には結句さっぱりしてさそうなが、お妙は目を外らす壁張りの絵も無いので、しきりにたもとを爪繰って、
「可いのよ、小母さん、髪結さんのとこだから、極りが悪いからそう云って来たけれど、髪なんぞわなくったって構わなくってよ。ちっとも私、結いたくはないの、」
 と投出したように云って、
「早瀬さんの、あの、主税さんの奥さんに、私、お目にかかれなくって?」
「姉さん、」
 ト、障子の内から。
「あい、」と小芳が立構えで、縁へ振向いてそなたを見込むと、
「私、そこへ行ってもいかい?」
 小芳が急いで縁づたいで、障子を向うへ押しながら、膝を敷居越に枕許。
 枕についた肩細く、半ば掻巻かいまきを藻脱けた姿の、空蝉うつせみのあわれな胸を、せた手でしっかりと、浴衣にかさねた寝衣ねまきの襟の、はだかったのを切なそうにつかみながら、銀杏返しのびんの崩れを、引結ひきゆわえたかしら重げに、透通るように色の白い、鼻筋の通った顔を、がっくりと肩につけて、ほっと今呼吸いきをしたのはお蔦である。

       二十二

 お蔦は急に起上った身体からだのあがきで、寝床に添った押入の暗い方へ顔の向いたを、こなたへ見返すさえじゅつなそうであった。
 枕から透く、その細うれたせなへ、小芳が、そっと手を入れて、上へ抱起すようにして、
「切なくはないかい、お蔦さん、起きられるかい、お前さん、無理をしては不可いけないよ。」
「ああ、難有ありがとう、」
 とようよう起直って、顱巻はちまきを取ると、あわれなほど振りかかる後れ毛を掻上げながら、
「何だか、骨が抜けたようで可笑おかしいわ、気障きざだねえ、ぐったりして。」
 と蓮葉はすはに云って、口惜くやしそうに力のない膝をめ合わせる。
 お妙はもう六畳の縁へ立って来て、障子に掴まってのぞいていたが、
「寝ていらっしゃいよ、よう、そうしておいでなさいよ。私がそこへ行ってよ。」
 とそれまで遠慮したらしかったが、さあとなると、飜然ひらりと縁を切って走込むばかりのいきおい――小芳の方が一目先へ御見の済んだ馴染なじみだけ、この方が便りになったか、薄くお太鼓に結んだ黒繻子のその帯へ、擦着すりつくように坐って、袖のわきから顔だけ出して、はじめて逢ったお蔦の顔を、瞬もしないでじっながめる。
 肩を落して、お蔦が蒲団の外へ出ようとするのを、
「よう、そうしていらっしゃいなね。そんなにして、私は困るわ。」
「はじめまして、」
 と余り白くて、血の通るのは覚束おぼつかないうなじを下げて、手をきつつ、
「失礼でございますから、」
「よう、私困るのよ。寝ていて下さらなくっては。小母さん、そう云って下さいな。」
 と気を揉んで、我を忘れて、小芳の背中をとんとんと叩いて、取次げ、とあせって云う。
 その優しさが身に浸みたか、お蔦の手をしっかり握った、小芳の指も震えつつ、
「お蔦さん、可いから寝ておいでな、お嬢さんがあんなに云って下さるからさ。」
「いいえ、そんなじゃありません。切なければきに寝ますよ。お嬢さん、難有ありがとう存じます。貴嬢あなた、よくおいで下さいましたのね。」
「そして、よくうちが知れましたわね。この辺へは、滅多においでなさいましたことはござんせんでしょうにねえ。」
 小芳はまた今更感心したように熟々つくづく云った。
「はあ、分らなくってね。私、方々で聞いてきまりが悪かったわ。探すのさえむずかしいんですもの。何だか、あの、小母さんたちは、ちょいとは、あの、逢って下さらなかろうと思って、私、心配ッたらなかってよ。」
「私たちが……」
「なぜでございますえ。」
 と両方へ身を開いて、お妙を真中まんなかにして左右から、珍らしそうに顔を見ると、俯向うつむきながら打微笑み、
「だって私は、ちっともお金子かねが無いんですもの。お茶屋へ行って、呼ばなくっては逢えないのじゃありませんか。」
 お蔦がハッと吐息といきをつくと、小芳はわざと笑いながら、
「怪我にもそんな事があるもんですか。それに、お蔦さんも、もう堅気です。私が、何も……あの、もっとも、私に逢おうとおっしゃって下すったのではござんせんが、」
 となぜか、怨めしそうな、しかもやさしい目でみまもって、
「私は何も、そんな者じゃありませんのに。」
「厭よ、小母さん、私両方とも写真で見て知っていてよ。」
 と仇気あどけなく、小芳の肩へ手を掛けて、前髪を推込むばかり、額をつけて顔を隠した。
 二人目と目を見合せて、
きまりが悪い、お蔦さん。」
「姉さん、私は恥かしい。」
「もう……」
「ああ、」
 思わず一所に同音に云った。
「写真なんか撮るまいよ、」――と。

       二十三

 お妙は時に、小芳の背後うしろで、内証ないしょうで袂をのぞいていたが、細い紙に包んだものを出して気兼ねそうに、
「小母さん、あの、お蔦さんが煩らっていらっしゃる事は、私は知らなかったんですから、お見舞じゃないの、あのね、あの、お土産に、私、極りが悪いわ。何にも有りませんから、毛糸で何か編んで上げようと思ったのよ。
 だけれども何が可いか、ちっとも分らないでしょう。粋な芸者しゅだから、ハイカラなものは不可いけないでしょう。靴足袋も、手袋も、銀貨入も、そんなものじゃ仕方が無いから、これをね、私、極りが悪いけれども持って来ました。小母さんから上げて頂戴。」
「お喜びなさいよ、お嬢さんが、」
「まあ、」
 と嬉しそうに頂くのを、小芳は見い見い、蒲団へ膝を乗懸けて、
「何を下すったい。」
「開けて見ても可いかね。」
「早く拝見おしなねえ。」
「あら! 見ちゃ可厭いやよ、ひどいわ、小母さんは。」
 と背中を推着おッついて、たった今まで味方に頼んだのを、もう目のかたきにして、小突く。
 お蔦は病気で気も弱って、
「遠慮しましょうかね、」と柔順おとなしく膝の上へ大事に置く。
「ほんとうに、お蔦さんはうらやましいわねえ。」
 とさも羨しそうに小芳が云うと、お妙はフト打仰向いて、目を大きくして何か考えるようだったが、もう一つの袂から緋天鵝絨ひびろうどの小さな蝦蟇口がまぐちを可愛らしく引出して、
「小母さん、これを上げましょう。怒っちゃ可厭よ。沢山たんとあると可いけれど、おおきな銀貨(五十銭)が三個みッつだけだわ。
 せんの紙入の時は、お紙幣さつが……そうねえ……あの、四円ばかりあったのに、この間落してねえ。」
 と驚いたような顔をして、
「どうしようかと思ったの。だからちっとばかしだけれど、小母さん怒らないで取っといて下さいな。」
 小芳が吃驚びっくりしたらしい顔を、お蔦は振上げた目できっと見て、
「ああ、先生のお嬢さん。……とも……かくも……頂戴おしよ、姉さん、」
「お礼を申上げます。」
 と作法正しく、手をいたが、柳の髪の品のさ。つむり上げず、声が曇って、
「どうぞ、此金これで、苦界くがいが抜けられますように。」
 その時お蔦も、いもと仮名書の包みを開けて、元気よく発奮はずんだ調子で、
「おお、半襟を……姉さん、江戸紫の。」
「主税さんが好な色よ。」
 と喜ばれたのを嬉しげに、はじめて膝を横にずらして、蒲団にお妙が袖をかけた。
「姉さん、」
 と、お蔦は俯向うつむいた小芳を起して、膝突合わせて居直ったが、頬を薄蒼うそむるまでその半襟を咽喉のどに当てて、おとがい深くじっおさえた、浴衣に映る紫栄えて、血を吐く胸の美しさよ。
「私が死んだら、姉さん、経帷子きょうかたびらも何にも要らない、お嬢さんに頂いた、この半襟を掛けさしておくれよ、頼んだよ。」
 と云う下から、桔梗ききょうを走る露に似て、玉か、はらはらと襟を走る。
「ええ、お前さん、そんな、まあ、ねたような事をお言いでない。お嬢さんのお志、私、私なんざ、今頂いた御祝儀を資本もとでにして、銀行を建てるんです。そして借金を返してね、綺麗に芸者を止すんだよ。」
 と串戯じょうだんらしく言いながら、果敢はかないお蔦の姿につけ、なさけにもろく崩折くずおれつつ、お妙を中におもてを背けて、紛らす煙草の煙も無かった。
 小芳の心中、ともかくも、お蔦の頼み少ない風情は、お妙にも見て取られて、睫毛まつげかすかに振わしつつ、
「お医者には懸っているの。」
「いいえ、私もその意見をしていた処でござんすよ。お医者様にもろくにて貰わないで、薬も嫌いで飲まないんですもの、貴女からもそう云ってやって下さいましな。」
 と、はじめて煙草盆から一服吸って、小芳はお妙の声を聞くのを、楽しそうに待つ顔色かおつき


     お取膳

       二十四

 その時お妙のことばというのが、余り案外であったのから、小芳はあわただしく銀の小さな吸口をはたいて煙管きせるを棄てたのである。
「お医者もお薬も、私だって大嫌いだわ。」
 と至って真面目まじめで、
「まずいものを内服のませて、そしてお菓子を食べては悪いの、林檎を食べては不可いけないの、と種々いろんなことを云うんですもの。
 そんな事よりねえ、面白いことをしてお遊びなさいよ。」
 小芳が(まあ。)と云う体で呆れると、お蔦は寂しそうなえみを見せて、
「お嬢さん、その貴嬢あなた、面白いことが無いんですもの、」とせいのない呼吸いきをする。
「主税さんに逢えば可いでしょう。」
「え、」
「貴女、逢いたいでしょう。」
 二人が黙ってみまもっても、お妙は目まじろぎもしないで、
「私だって逢いたくってよ。静岡へ行ってから、全く一年になるんですもの、随分だと思うわ、手紙も寄越さないんですもの。私は、あんまりだと思ってよ。
 絵のお清書をする時、すずりを洗ってくれて、そしてその晩別れたのは、ちょうど今月じゃありませんか。その時の杜若かきつばたなんざ、もう私、嬰児あかんぼが描いたように思うんですよ。随分しばらくなんですもの、私だって逢いたいわ。」
 と見る見る瞳にうるみを持ったが、活々した顔はたわまず、声も凜々りんりんと冴えた。
「それですから、貴女も逢いたかろうと思ってねえ。実は私相談に来たの。もっと早くから、来よう、来ようと思ったんだけれど、きまりが悪いしねえ、それに私見たようなものには逢って下さらないでしょうと思って、学校の帰りに幾度いくたびも九段まで来て止したの。
 それでも、あの、築地から来るお友達に、この辺の事を聞いて置いて、九段から、電車に乗るのは分ったの。だけどもねえ、一度万世橋めがねで降りてしまって、来られなくなった事があるのよ。
 そのお友達と一所に来ると、新富座の処まで教えて上げましょうッて云うんだけれど、学校でまた何か言われると悪いから、今日も同一おなじ電車に乗らないように、招魂社の中にしばらく居たら、男の書生さんがそばへ来て附着くッついて歩行あるくんですもの。私、斬られるかと思って可恐こわかったわ、ねえ、おしりが薬になると云うんでしょう、ですもの、危いわ。
 もう一生懸命にここへ来て、まあ、かった、と思ってよ。
 あのね、あの、」
 ととこ綴糸とじいとを引張って、
「貴女も主税さんも、父さんに叱られてそれでこうしているんだって、可哀相だわ。私なら黙っちゃいないわ、我儘わがままを云ってやるわ。だって、自分だって、母様かあさん不可いけないと云うお酒を飲んで仕様が無いんですもの。自分も悪いのよ。
 貴女叱られたら、おあやまんなさいよ。そしてね、父さんはね、私や母様の云う事は、それは、憎らしくってよ、ちっともかないけれど、人が来て頼むとねえ、何でも(厭だ。)とは言わないで、一々引受けるの。私ちゃんと伝授を知っているから、それを知らせて上げたいの、貴女が御病気で来られないんなら、小母さん、」
 と隔てなく、小芳の膝に手を置いて、
「小母さんでもうござんす。構わないでうちへいらっしゃいよ。玄関の書生さんはおんなのお客様をじろじろ見るからきまりが悪かったら遠慮は無いわ、ずんずん庭の方からいらっしゃい。
 私がね、直ぐに二階へ連れてって、上げるわ。そうするとねえ、母様がお酒を出すでしょう。私がお酌をして酔わせてよ。アハアハ笑って、ブンと響くようなおおきな声を出したら、そしたらもう可いわ。
 是非、主税さんを呼んで下さい。電報で――電報と云って頂戴、可くって。不可いけないとか何とか、父さんがそう云ったら、膝をつかまえて離さないの。そして、お蔦さんがさみしがって、こんなに煩らっていらっしゃると云って御覧なさい。あんなに可恐こわらしくっても、あわれな話だときに泣くんですもの、きっと承知するわ。
 そのかわり、主税さんが帰って来たら、日曜に遊びにくから、そうしたらば、あの……」
 ととこの端につかまって、お蔦の顔を覗くようにして、
「貴女も、私を可厭いやがらないで、一所に遊んで頂戴よ。ぜんに飯田町に行きたくっても、貴女が隠れるから、どんなに遠慮だったか知れないわ。」
 もう二人とも泣いていたが、お蔦は、はッとおもてを伏せた。

       二十五

 涙を払って、お蔦が、
「姉さん、私は浮世に未練が出た。また生命いのちおしくなったよ。皆さんに心配を懸けないで、今日からお医師いしゃにも懸りましょう、薬もむよ。
 お嬢さん、もう早瀬さんには逢えなくっても、貴女がお達者でいらっしゃいます内は、死にたくはなくなりました。」
 と身をせめて、わなわな震える。
「寒気がするのねえ、さあ、お寝なさいよ、私が掛けて上げましょう。」
 掻巻かいまきの襟へ惜気もなく、お妙が袖も手も入れて引くのを見て、
「ああ、勿体ない。そんなになすっては不可いけません。みんながそうじゃないって言いますけれど、私は色のついたたんを吐きますから、大切なお身体からだに、もしか、感染うつりでもするとなりません。」
 覚悟した顔の色の、さっと桃色なが心細い。
いわ!」
「可いわではござんせん。あれ、そして寒気なんぞしませんよ。もう私は熱くって汗が出るようなんです、それから、姉さん、」
 と小芳を見て、
「何ぞ……」
 と云うと、黙ってうなずく。
「来たらね、こんな処でなく、あっちへ行って、お前さん、お嬢さんと。」
「今日は私に任かせておくれ。」
「いいえ、」
不可いけないよ、私がするんだよ。」
「お嬢さん、ああですもの。見舞に来て、ちょっと、病人をいじめるものがあって、」
「無理ばっかり云う人だよ、私に理由わけがあるんだから。」
「理由は私にだって有りますよ。あの、過般いつかもお前さんに話したろう。早瀬さんと分れて、こうなる時、煙草を買え、とおっしゃって、先生の下すった、それはね、折目のつかない十円紙幣さつが三枚。勿体ないから、死んだらお葬式とむらいに使って欲しくって、お仏壇の抽斗ひきだしへ紙に包んでしまってある、それを今日使いたいのよ。お嬢さんに差上げて、そして私も食べたいから、」
 とただ言うのさえ病人だけ、遺言のように果敢はかなく聞えた。
「ああ、そんならそうおしな。どれ、大急ぎで、いいつけよう。」
戸外おもては暑かろうねえ。」
「何の、お蔦さん。お嬢さんに上げるんだもの、無理にも洋傘こうもりをさすものか。」
「角の小間物屋で電話をお借りよ。」
「ああ、知ってるよ。あんまりあらくない中くらいな処がかろうねえ。」
「私はヤケに大串が可いけれど、お嬢さんは、」
「ここでみんな一所に食べるんでなくっちゃ、厭。」
「お相伴しますとも、お取膳とやらで、」
 と小芳が嬉しそうに云う。
「じゃ、私も大きいの。」
「感心、」
 とお蔦が莞爾にっこり
「驚きましたねえ。」
 と立つ。
「御飯も一所よ。」
「あいよ、」
 とかまちを下りる時、つまを取りそうにして、振向いた目のふちがはれぼったく、小芳は胸を抱いて、格子をがらがら。
「お嬢さん、」
 とお蔦が懐しそうに、
「もともと、そういう約束で別れたんですけれど、私の方へも丸一年……ちっとも便たよりがないんですよ。
 人が教えてくれましてね、新聞を見ると、すっかり土地の様子が知れるッて言いますから、去年の七月から静岡の民友新聞と云うのを取りましてね、朝起きると直ぐのぞいて、もう見落しはしなかろうか、とひまさえあれば、広告まで読みますんですが、ちっとも早瀬さんの事を書いてあったことはありませんから、どうしておいでだか分りません。
 この頃じゃ落胆がっかりして、せいも張合も無いんですけれども、もしやにひかされては見ています。
 たった一度、早瀬さんのことを書いてあったのがござんしてね、切抜いて紙入の中へ入れてありますから、今、お目に掛けますよ。」

       二十六

 お蔦はしとねに居直って、押入の戸を右に開ける、と上も下も仏壇で、一ツは当家の。自分でお蔦が守をするのは同居だけに下に在る。それも何となくものあわれだけれども、後姿がつまえた、かよわいさまは、物語にでもあるような。直ぐにそのもすそから、仏壇の中へ消えそうに腰が細く、撫肩がしおれて、影が薄い。
 紙入の中は、しばらく指のさきで掻探さねばならなかったほど、可哀相に大切だいじしまって、小さく、整然きちんと畳んで、浜町の清正公せいしょうこうの出世開運のお札と一所にしてあった、その新聞の切抜を出す、とお妙は早や隔心へだてごころも無く、十年の馴染のように、横ざまにとこもたれながら、うなじのばして、待構えて、
「ちょいと、どんなことが書いてあって。また掏賊すりを助けたりなんか、不可いけないことをしたのじゃないの。急いで聞かして頂戴な。」
「いいえ、まあ、貴女がお読みなさいまし。」
「拝見な。」
 と寝転ぶようにして、頬杖ほおづえついて、畳の上で読むのを見ながら、抜きかけた、仏壇の抽斗ひきだしを覗くと、そこに仰向けにしてある主税の写真をそっと見て、ほろりとしながら、カタリと閉めた。懐中ふところへ、その酒井先生恩賜の紙幣さつの紙包を取って、仏壇の中に落ちた線香立ての灰を、フッフッと吹いて、手で撫でる。
 戸外おもてを金魚売が通った。
「何でしょう。この小使は、また可訝おかしなものじゃないの、」
 とお妙が顔を赤うして云う。新聞に書いたのは(ABアアベエ横町。)と云う標題みだしで、西の草深のはずれ、浅間に寄った、もう郡部になろうとするとある小路を、近頃渾名あだなしてAB横町ととなえる。すでに阿部ごおりであるのだから語呂が合い過ぎるけれども、これは独語学者早瀬主税氏が、ここに私塾を開いて、朝からその声の絶間のない処から、学生がたわむれにしか名づけたのが、一般に拡まって、豆腐屋までがAB横町と呼んで、土地の名物である。名物と云えば、も一ツその早瀬塾の若いもので、これが煮焼にたき、拭掃除、万端世話をするのであるが、通例なら学僕と云う処、いなせ兄哥あにいで、鼻唄をうたえばと云っても学問をするのでない。以前早瀬氏が東京である学校に講師だった、そこで知己ちかづきの小使が、便って来たものだそうだが、俳優やくしゃの声色が上手で落語もる。時々(いらっしゃい、)と怒鳴って、下足に札を通して通学生を驚かす、とんだ愛敬もので、小使さん、小使さんと、有名な島山夫人をはじめ、近頃流行のようになって、独逸語をその横町に学ぶ貴婦人連が、大分御贔屓ごひいきである、と云う雑報の意味であった。
 小芳が、おお暑い、と云いつつ、いそいそと帰って来た。
 話にその小使の事も交って、何であろうと三人が風説うわさとりどりの中へ、へい、お待遠様、と来たのが竹葉。
 小芳が火を起すと、気取気の無いお嬢さん、台所へ土瓶を提げて出る。お蔦もいきおいに連れて蹌踉よろよろ起きて出て、自慢の番茶のほうじ加減で、三人睦くお取膳。
 お妙が奈良漬にほうとなった、顔がほてると洗ったので、小芳が刷毛はけを持って、さっとお化粧つくりを直すと、お蔦がぐい、と櫛をいて一歯入れる。
 苦労人くろうとが二人がかりで、妙子は品のいい処へ粋になって、またあるまじき美麗あでやかさを、飽かずながめて、小芳が幾度いくたび恍惚うっとり気抜けのするようなのを、ああ、先生に瓜二つ、御尤ごもっともな次第だけれども、余り手放しで口惜くやしいから、あとでいじめてやろう、とお蔦が思い設けたが、……ああ、さりとては……
 いずれ両親には内証ないしょなんだから、と(おいしかってよ。)を見得もなく門口でまで云って、遅くならない内、お妙は八ツ下りに帰った。路地の角まで見送って、ややあって引返ひっかえした小芳が、ばたばたと駈込んで、半狂乱に、ひしと、お蔦にすがりついて、
「我慢が出来ない。我慢が出来ない。我慢が出来ない。あんな可愛いお嬢さんにお育てなすったお手柄は、真砂町の夫人おくさんだけれど、……産んだのは私だよ。私の子だよ、お蔦さん、身体からだへ袖が触るたんびに、胸がうずいてならなんだ、御覧よ、乳のはったこと。」
 と、手を引入れて引緊ひきしめて、わっとばかりに声を立てると、思わずじっと抱き合って、
「あれ、しっかりおし、小芳さん、しゃくが起ると不可いけないよ。私たちは何の因果で、」
 芸者なんぞになったとて、色も諸分しょわけも知抜いた、いずれ名取のおんなども、処女むすめのように泣いたのである。


     小待合

       二十七

「こうこう、あねえ、姉え、目をいて口を利きねえ。もっとも、かっと開いたところで、富士も筑波も見えるかどうだか、覚束ねえ目だけれどよ。はははは、いくら江戸めえ肴屋さかなやだって、玄関から怒鳴り込む奴があるかい。お客だぜ。お客様だぜ。おい、おめえの方で惣菜は要らなくっても、おらが方で座敷が要るんだ。何を! 座敷が無え、古風な事を言うな、芸者の霜枯じゃあるめえし。」
 と盤台はんだいをどさりと横づけに、澄まして天秤てんびんを立てかける。微酔ほろえい組の惣助。商売あきない帰途かえりにまたぐれた――これだから女房が、内には鉄瓶さえ置かないのである。
 立迎えた小待合の女中は、坐りもやらず中腰でうろうろして、
「全くおあいにくなんですよ。」
 と入口を塞いだ前へ、平気で、ずんと腰を下ろして、
「見ねえ、身もんでえをするたんびに、どんぶりが鳴らあ。腹の虫が泣くんじゃねえ、金子かねの音だ。びくびくするねえ。お望みとありゃ、千両束で足のほこりはたいて通るぜ。」
 とあげ膝で、ボコポン靴をずぶりと脱いで、装塩もりじおのこなたへボカン。
 声が高いのでもう一人、奥からばたばたと女中が出て来て、推重おっかさなると、力を得たらしく以前の女中が、
「ほんとうにお前さん、お座敷が無いのですよ。」
「看板を下ろせ、」
 とわめいて、
「座敷がなくば押入へ案内しねえ、天井だって用は足りらい。やあ、御新規お一人様あ、」
 と尻上りに云って、外道面げどうづらの口を尖らす、相好塩吹の面のごとし。
「そっちのあねえは話せそうだな。うんや、やっぱりお座敷ござなくづらだ。変な面だな。はははは、トおっしゃる方が、あんまり変でもねえ面でもねえ。」
 行詰った鼻の下へ、握拳にぎりこぶし捻込ねじこむように引擦ひっこすって、
はばかんながらこう見えても、余所行よそゆきの情婦いろがあるぜ。待合まちええへ来て見繕いでこしれえるような、べらぼうな長生ながいきをするもんかい。
 おう、八丁堀のの字が来たが、の、の、承知か、承知か、と電話を掛けねえ。柳橋の小芳さんとこだ。柏屋かしわや綱次つなじと云う美しいのが、忽然こつぜんとしてあらわれらあ。
 どうだ、驚いたか。銀行の頭取が肴屋に化けて来たのよ。いよ、御趣向!」
 と変な手つき、にゅうと女中の鼻頭はなさきへ突出して、
「それとも半纏着はんてんぎは看板に障るから上げねえ、とでもかして見ろ。河岸から鯨を背負しょって来て、てめえとこで泳がせるぞ、浜町界隈かいわい洪水だ。地震より恐怖おっかねえ、屋体骨やていぼねは浮上るぜ。」
 女中二人が目配せして、
「ともかくお上んなさいまし、」
「どうにか致しますから。」
「何だ、どうにかする。格子で馴染を引くような、気障きざな事を言やあがる。だが心底は見届けたよ。いや、御案内引[#「引」は小書き]。」
 と黄声きなこえを発して、どさり、と廊下の壁に打附ぶつかりながら、
「どこだ、どこだ、さあ、持って来い、座敷を。」
 で、突立って大手を拡げる。
「どうぞこちらへ、」
 と廊下で別れて、一人が折曲おりまがって二階へ上る後から、どしどし乱入。とある六畳へのめずり込むと、蒲団も待たず、半股引はんももひきの薄汚れたので大胡坐おおあぐら
御酒ごしゅをあがりますか。」
「何升おかんをしますか、と聞きねえ。仕入れてあるんじゃおッつく[#「追つく」は底本では「追っく」]めえ。」
 女中が苦笑いして立とうとすると、長々と手を伸ばして、据眼すえまなこで首を振って、チョ、舌鼓を打って、
「待ちな待ちな。大夫たゆう前芸とつかまつって、一ツ滝の水を走らせる、」
 とふいと立って、
「鷲尾の三郎案内致せ。鵯越ひよどりごえの逆落しと遣れ。裏階子うらばしごから便所だ、便所だ。」
 どっかの夜講で聞いたそうな。

       二十八

 手水ちょうず鉢の処へ組はのっそり。里心のついた振られ客のような腰附で、中庭越に下座敷をきょろきょろと[#「きょろきょろと」は底本では「きよろきょろと」]※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしたが、どこへ何んと見当附けたか、案内も待たず、元の二階へも戻らないで、とある一室ひとまへのっそりと入って、襖際ふすまぎわへ、どさりとまた胡坐あぐらになる。
 女中があわただしく駈込んで、
「まあ、どこへいらっしゃるんですか。」
 と、たしなめるように云うと、
「ここにいらっしゃら。ははは、心配するな。」
「困りますよ。隣のお座敷には、お客様が有るじゃありませんか。」
「構わねえ、一向構わねえ。」
「こちらがお構いなさいませんでも、あちら様で。」
いじゃねえか、おたげえだ。こんな処へ来て何も、向う様だって遠慮はねえ。大家様の隠居殿の葬礼ともれいに立つとってよ、町内が質屋で打附ぶつかったようなものだ。一ツ穴の狐だい。おらあまた、猫のさかるような高い処は厭だからよ。勘当された息子じゃねえが、二階で寝るとうなされらあ。身分相当割床と遣るんだ。棟割むなわりに住んでるから、壁隣のにぎやかなのが頼もしいや。」
不可いけませんよ、そんなことをお言いなすっちゃ、選好えりこのんでこのお座敷へいらっしゃらないだって、幾らでも空いてるじゃありませんか。」
「空いてる! こう、たった今座敷はねえ、おあいにくだと云ったじゃねえか。気障きざは言わねえ、気障な事は云わねえから、黙って早くけて来ねえよ。」
 いいがかりに止むを得ず、厭な顔して、
「じゃ、御酒を上るだけになすって下さいよ、おさかなは?」
「肴はおらが盤台にあら。竹の皮に包んでな、斑鮭ぶちじゃけの鎌ンとこがあるから、そいつを焼いて持って来ねえ。蔦ちゃんがすきだったんだが、この節じゃ何にも食わねえや、折角残してけえっても今日も食うめえ。」
 と独言ひとりごとになって、ぐったりして、
媽々かかあに遣るんじゃ張合はりええが無え。焼いて来ねえ、焼いて来ねえ。」
 女中は、気違かとあやぶんで、怪訝けげんな顔をしたが、試みに、
「そして綱次さんを掛けるんですか。」
「うんや、今度はこっちがおあいにくだ。ちっとも馴染なじみでも情婦いろでもねえ。口説きように因っちゃ出来ねえ事もあるめえと思うのよ。もっとも惚れてるにゃ惚れてるんだ。待ちねえ、隣のへやで口説いてら、しかも二人がかりだ。」
「ちょっと、」
 と留めて姉さんは興さめ顔。
「こっちは一人だ、今に来たら、おめえも手伝って口説いてくんねえ。何だ、何だ、(と聞く耳立てて)純潔な愛だ。けつのあいたあ何だい。」
 と、ふすまにどしんとつらを当てて、
「蟻の戸渡とわたりでいやあがらあ、べらぼうめ。」
「やかましい!」
 隣のへやから堪りかねたか叱咤しったした。
「地声だ!」
「あれ、」
 と女中が留めようとする手も届かず、ばたり組が襖を開けると、いつの間に用意をしたか、取って捨てた手拭の中から腹掛を出た出刃庖丁。
「この毛唐人めら、うぬ、どうするか見やあがれ。」
 あッと云って、真前まっさきに縁へげた洋服は――河野英吉。続いて駈出そうとする照陽女学校の教頭、宮畑閑耕みやばたかんこうむなづくし、ぼたんひっちぎれてすべった手で、背後うしろから抱込んだ。
「そ、そこに泣いていらっしゃるなア大先生の嬢様でがしょう。飯田町の路地で拝んで、一度だが忘れねえ。此奴等こいつらがこの地獄宿へ引張込んだのを見懸けたから、ちびりちびり遣りながら、こけの色ばなしを冷かしといて、ゆっくりなぐろうと思ったが、勿体なくッて我慢ならねえ。酒井さんのお嬢さん、わっしがこうやっている処を、ここへ来て、こン唐人打挫ぶっくじいておやんなせえ、おちなせえ、お打ちなせえ。
 どうしてまたこんな処へ。……何、八丁堀へおいでなすって。ええ、お帰んなさる電車で逢ったら、一人で遠歩きが怪しいから、教師の役目でしらべるッて、……沙汰の限りだ。
 むむ、此奴等、活かして置くんじゃねえけれど、娑婆の違ったけだものだ、盆に来て礼を云え。」
 と突飛ばすと、閑耕ののめった身体からだが、縁側で、はあはあ夢中になって体操のような手つきでいた英吉に倒れかかって、脚がからんでただよう処へ、チャブ台の鉢を取って、ばらり天窓あたまから豆を浴びせた。惣助呵々からからと笑って、大音に、
「鬼は外、鬼は外――」


     道子

       二十九

 夫の所好このみ白粉おしろいは濃いが、色は淡い。淡しとて、容色きりょうの劣る意味ではない。秋の花は春のと違って、えんを競い、美を誇る心が無いから、日向ひなたより蔭に、昼より夜、日よりも月に風情があって、あわれが深く、趣が浅いのである。
 河野病院長医学士の内室、河野家の総領娘、道子のおもかげはそれであった。
 どの姉妹きょうだいも活々して、派手に花やかで、日の光に輝いている中に、独り慎ましやかで、しとやかで、露を待ち、月にあこがるる、芙蓉ふようは丈のびても物寂しく、さした紅も、ひとえに身躾みだしなみらしく、装ったきぬも、鈴虫の宿らしい。
 いつも引籠勝ひっこもりがちで、色も香も夫ばかりが慰むのであったが、今日は寺町の若竹座で、なにがし孤児院に寄附の演劇があって、それに附属して、市の貴婦人連が、張出しの天幕テントを臨時の運動場にしつらえて、慈善市バザアを開く。うまでもなく草深の妹は先陣承りの飛将軍。そこでこの会のほとんど参謀長ともいつつべき本宅の大切な母親が、あいにく病気で、さしたる事ではないが、してそういう場所へ出て、気配り心扱いをするのは、甚だ予後のためによろしからず、と医家だけに深く注意した処から、自分で進んだ次第ではなく、道子が出席することになった。――六月下旬の事なりけり。
 朝涼あさすずの内に支度が出来て、そよそよと風が渡る、袖がひたひたとかいななびいて、引緊ひきしまった白の衣紋着えもんつき。車を彩る青葉の緑、鼈甲べっこう中指なかざしに影が透く艶やかな円髷まるまげで、誰にも似ない瓜核顔うりざねがお、気高くさっと乗出した処は、きりりとして、しかも優しく、なまめかず温柔おっとりして、河野一族第一の品。
 たしなみも気風もこれであるから、院長の夫人よりも、大店向おおだなむき御新姐ごしんぞらしい。はたそれ途中一土手田畝道たんぼみちへかかって、青田ごしに富士の山に対した景色は、慈善市バザアへ出掛ける貴女レディとよりは、浅間の社へ御代参の御守殿という風があった。
 車は病院所在地の横田の方から、この田畝を越して、城の裏通りを走ったが、つっかけ若竹座へは行くのでなく、やがて西草深へ挽込ひきこんで、楫棒かじぼうは島山の門の、例の石橋の際に着く。
 姉夫人は、余り馴れない会場へ一人で行くのが頼りないので、菅子を誘いに来たのであったが、静かな内へ通って見ると、妹は影も見えず、小児こども達も、乳母ばあやも書生も居ないで、長火鉢の前に主人あるじの理学士がただ一人、下宿屋に居て寝坊をした時のように詰らなそうな顔をして、膳に向って新聞を読んでいた。火鉢に味噌汁のなべかかって、まだそれが煮立たぬから、こうして待っているのである。
 気軽なら一番ひとつおどかしても見よう処、姉夫人は少し腰をかがめて、縁から差覗いた、眉のやわらかな笑顔を、綺麗に、小さく畳んだ手巾ハンケチで半ば隠しながら、
「お一人。」
「やあ、誰かと思った。」
 とひげのべったりした口許くちもとわらいは見せたが、御承知の為人ひととなりで、どうともわぬ。
 姉夫人は、やっぱり半分なかば隠れたまま、
「滝ちゃんや、とおるさんは。」
母様かあさんが出掛けるんで、跡を追うですから、乳母ばあやが連れて、日曜だから山田(玄関の書生の名)もついて遊びです。平時いつもだと御宅へ上るんだけれど、今日の慈善会には、御都合で貴女も出掛けると云うから、珍らしくはないが、また浅間へ行って、豆かを食わしとるですかな。」
「ではもう菅子さんは参りましたね。」
先刻さっき出たです。」
 なぜ待っててくれないのだろう、と云う顔色かおつきもしないで、
「ああ、もっと早く来ればうござんした。一所に行って欲しかったし、それに四五日おえなさらないから、滝ちゃんや透さんの顔も見たくって、」
 と優しく云って本意ほいなそう。一門のうちに、この人ばかり、一人いちにんも小児を持たぬ。

       三十

 姉夫人の、その本意無げな様子を見て、理学士は、ああ、気の毒だと思うと、この人物だけにいっそ口重になって、言訳もしなければ慰めもせずに、希代にニヤリとして黙ってしまう。
 と直ぐ出掛けようか、どうしようと、気抜のした姿うらさみしく、姉夫人もことばなく、手を掛けていた柱をせなに向直って、黒塀越に、雲切れがしたように合歓ねむの散った、日曜の朝の青田を見遣った時、ぶつぶつ騒しい鍋の音。
 と見ると、むらむらと湯気が立って、理学士がふたを取った、がよっぽどおなかが空いたと見えて、
「失礼します。」と碗を手にする。
「お待ちなさいまし、煮詰りはしませんか。」
 と肉色の長襦袢ながじゅばんで、絽縮緬ちりめんつまる音ない、するすると長火鉢の前へ行って、しなよくのぞいて見て、
「まあ、辛うござんすよ、これじゃ、」
 と銅壺どうこの湯をして、杓文字しゃもじで一つ軽くおさえて、
「おけ申しましょう、」と艶麗あでやかに云う。
「恐縮ですな。」
 と碗を出して、理学士は、道子が、毛一筋も乱れない円髷のつやこぼさず、白粉の濃い襟を据えて、端然とした白襟、薄お納戸のその紗綾形さやがた小紋の紋着もんつきで、味噌汁おつけよそ白々しろしろとした手を、感に堪えて見ていたが、
「玉手を労しますな、」
 と一代の世辞を云って、嬉しそうに笑って、
「御馳走(とチュウと吸って)これはうまい。」
「人様のもので義理をして。ほほほ、お土産も持って参りません。」
 その挨拶もせずに、理学士ははしもつけないで、ごッくごッく。
「非常においしいです。僕は味噌汁と云うものは、塩が辛くなきゃ湯を飲むような味の無いものだとばかり思うたです。今、貴女、干杓ひしゃくに二杯入れたですね。あれは汁を旨く喰わせる禁厭まじないですかね。」
「はい、お禁厭でございます。」
 と云った目のふちに、つぼみのような微笑ほほえみを含んでいたから。
「は、は、は、串戯じょうだんでしょう。」
「菅子さんに聞いて御覧なさいまし。」
「そう云えば貴女、もうお出掛けなさらなければなりますまいで。」
「は、私はちっとも急ぎませんけれど、今日は名代みょうだいも兼ねておりますから、はやく参ってお手伝いをいたしませんと、また菅子さんに叱言こごとを言われると不可いけません――もうそれでは、若竹座へ参っております時分でしょうね。」
「うんえ、」
 頬ばった飯に籠って、変な声。
「道寄をしたですよ。貴女これからおいでなさるなら、早瀬のとこへお出でなさい、あすこに居ましょうで。」
「しますと、あの方も御一所なんですか。」
「一所じゃないです。早瀬がああいう依怙地いこじもんですで。半分馬鹿にしていて、孤児院の義捐ぎえんなんざ賛成せんです。今日は会へも出んと云うそうで。それを是非説破して引張出すんだと云いましたから、今頃は盛に長紅舌をろうしておるでしょう、は、はは、」
 と調子高に笑って、いやな顔をして、
「行って見て下さらんか。貴女、」
「はい、」
 となぜか俯向うつむいたが、姉夫人はそのまましとやかに別れの会釈。
「また逢違いになりませんように、それでは御飯を召食めしあがりかけた処を、失礼ですが、」
「いや、もう済んだです。」
 その日は珍らしく理学士が玄関まで送って出た。
 絹足袋の、しずかな畳ざわりには、客の来たのを心着かなかった鞠子のおさんも、旦那様の踏みしだいて出る跫音あしおとに、ひょっこり台所だいどこから顔を見せる。
「今日は、」
 と少し打傾いて、姉夫人が、物優しく声をかける。
「ひゃあ、」と打魂消うったまげて棒立ちになったは、出入ではいりをする、貴婦人の、自分にこんな様子をしてくれるのは、ついぞ有ったためしが無いので。
 車夫が門外から飛込んで来て駒下駄を直す。
「AB横町でしたかね。あすこへ廻りますから、」
「へい、へい、ペロペロの先生の。」と心得たるものである。

       三十一

 早瀬は、妹が連れて父の住居すまいへも来れば病院へも二三度来て知っているが、新聞にまで書いた、塾の(小使)と云う壮佼わかいものはどんなであろう。男世帯だと云うし、他に人は居ないそうであるから、取次にはきっとその(小使)が出るに違いない、と籠勝こもりがちな道子は面白いものを見もしききもしするような、物珍らしい、楽しみな、時めくような心持ここちもして、早や大巌山がほろに近い、西草深のはずれの町、前途さきは直ぐに阿部の安東村になる――近来ちかごろ評判のAB横町へ入ると、前庭に古びた黒塀をめぐらした、平屋の行詰った、それでも一軒立ちの門構もんがまえ、低く傾いたのに、独語教授、と看板だけ新しい。
 車を待たせて、立附けの悪い門をあければ、女の足でも五歩いつあしは無い、き正面の格子戸から物静かに音ずれたが、あの調子なれば、話声は早や聞えそうなもの、と思う妹の声も響かず、可訝おかしな顔をして出て来ようと思ったその(小使)でもなしに、車夫のいわゆるぺろぺろの先生、早瀬主税、左の袖口のほころびた広袖どてらのようなかすり単衣ひとえでひょいと出て、顔を見ると、これは、とばかり笑み迎えて、さあ、こちらへ、と云うのが、座敷へ引返ひっかえす途中になるまで、気疾きばやに引込んでしまったので、左右とこういとまも無く、姉夫人は鶴が山路に蹈迷ふみまよったような形で、机だの、卓子テイブルだの、算を乱した中を拾って通った。
 菅子さんは、と先ず問うと、まだ見えぬ。が、いずれお立寄りに相違ない。今にも威勢の可い駒下駄の音が聞えましょう。格子がからりと鳴ると、立処たちどころにこの部屋へお姿があらわれますからお休みなさりながらお待ちなさい、と机のわきに坐り込んで、煙草たばこもうとして、打棄うっちゃって、フイと立って蒲団を持出すやら、開放あけはなしましょう、と障子を押開おっぴらいたかと思うと、こっちの庭がもうちっとあるとよろしいのですが、と云うやら。散らかっておりまして、と床の間の新聞をほうり出すやら。火鉢を押出して突附けるかとすれば、何だ、熱いのに、と急いでまたずらすやら。なぜか見苦しいほどあわただしげで、蜘蛛くもをかけるようにうるさく夫人の居まわりを立ちつ居つ。間には口を続けて、よくいらっしゃいました、ようこそおいで、思いがけない、不思議な御方が、不思議だ、不思議だ、とたえ饒舌しゃべったのである。
「まあ、まあ、どうぞ、どうぞ、」
 とそのうちに落着いた夫人もつい、口早になって、顔を振上げながら、ちと胸をらして、片手で煙を払うようなふりをした。
 早瀬はその時、机の前の我が座を離れて、夫人の背後うしろ突立つったっていたので、上下うえしたに顔を見合わせた。余り騒がれたためか、内気な夫人のかんばせは、まぶたに色を染めたのである。
 と、早瀬は人間が変ったほど、落着いて座に返って、おもむろ巻莨まきたばこを取って、まだ吸いつけないで、ぴたりと片手を膝にいた、肩がそびえた。
夫人おくさん、貴女はこれから慈善市じぜんしへいらしって、貧者びんぼうにんのためにお働きなさるんですねえ。」
 と沈んで云う。
 顔を見詰められたので、睫毛まつげを伏せて、
「はい、ですが私はただお手伝いでございます。」
「お願いがございます。」
 とのめるがごとく、主税がはたと両手を支いた。
 余り意外な事の体に、答うるすべなく、黙って流眄ながしめに見ていたが、果しなくこうべもたげず、突いた手に畳をつかんだ憂慮きづかわしさに、棄ても置かれぬ気になって、
「貴下、まあ、あらたまって何でございますの。」
 とは云ったが、思入った人の体に、気味悪くもなって、遁腰にげごしの膝を浮かせる。
「失礼な事を云うようですが、今日のもよおしはじめ、貴女方のなさいます慈善は、博くまんべんなくなさけをお懸けになりますので、ひでりに雨を降らせると同様の手段。えしぼんだ草樹も、そのめぐみに依って、蘇生いきかえるのでありますが、しかしそれは、広大無辺な自然の力でなくっては出来ない事で、人間わざじゃ、なかなか焼石へ如露じょろで振懸けるぐらいに過ぎますまい。」

       三十二

「広く行渉ゆきわたるばかりを望んで、途中で群消むらぎえになるような情を掛けずに、その恵の露をたたえて、ただ一つのものの根にそそいで、名もない草の一葉だけも、蒼々あおあおと活かして頂きたい。
 大勢寄ってなさる仕事を、貴女方、各々めいめい御一人ずつで、専門に、完全に、一にんを救って下さるわけには参りませんか。力が余れば二人です、三人です、五人ですな。余所よその子供の世話を焼くひまに、自分のに風邪をかせないように、外国の奴隷に同情をする心で、御自分お使いになる女中をいたわってやって欲しいんですが、これじゃ大掴おおづかみのお話です、何もそれをかれこれ申上げるわけではないのです。
 ところが、差当り、今目の前に、貴女の一雫ひとしずくの涙を頂かないと、死んでも死に切れない、あわれな者があるんです。
 この事に就きましては、わたくしは夜の目も合わないほど心を苦めまして。」
 とようよう少し落着いて、
ぜんから、貴女の御憐愍ごれんみんを願おうと思っていたんですけれど、島山さんのと違って、貴女には軽々かろがろしくお目にかかる事も出来ませんし、そうかと云って、打棄うっちゃって置けば、取返しのなりません一大事、どうしようかと存じておりました処へ、まことに何とも思いがけない、不思議な御光来おいでで、殊にそれが慈善会にいらっしゃる途中などは、神仏の引合わせと申しても宜しいのです。
 どうぞ、その、あまねく御施しになろうという如露の水を一雫、一滴でうございます、わたくしの方へお配分すそわけなすってくださるわけには参りませんか。
 御存じの風来者でありますけれども、早瀬が一生の恩にます。」
 とこぶしを握りめて云うのを、半ば驚き、半ば呆れ、且つ恐れて聞いていたようだった。重かった夫人の眉が、ここに至ると微笑ほほえみに開けて、深切に、しかしたしなめるような優しい調子で、
「お金子かねが御入用なんでございますか。」
 と胸へ、しなやかに手を当てたは、次第に依っては、すぐにも帯の間へすべって、懐紙ふところがみの間から華奢きゃしゃな(嚢物ふくろもの)の動作こなしである。道子はしばしば妹の口から風説うわさされて、その暮向くらしむきを知っていた。
 ト早瀬の声に力が入って、
金子かねにも何にも、わたくしが、自分の事ではありません。」
「まあ、失礼な事を云って、」
 と襟を合わせておもてを染め、
「どうしましょう私は。では貴下の事ではございませんので。」
「ええ、勿論、救って頂きたい者はほかにあるんです。」
「どうぞ、あの、それは島山のに御相談下さいまし。私もまた出来ますことなら、蔭で――お手伝いいたしましょうけれど、河野(医学士)が、やかましゅうございますから。」
 ……差俯向さしうつむいて物寂しゅう、
「私が自分では、どうも計らい兼ねますの。それには不調法でもございますし……何も、妹の方が馴れておりますから。」
「いや、貴女でなくては不可いかんのです。ですから途方に暮れます。その者は、それにもう死にかかった病人で、翌日あすも待たないという容体なんです。
 六十近い老人で、孫子はもとより、親類みよりらしい者もない、全然まるっきりやもめで、実際形影相弔うというその影も、破蒲団やぶれぶとんの中へ消えて、骨と皮ばかりの、その皮も貴女、褥摺とこずれに摺切れているじゃありませんか。
 日の光も見えない目を開いて、それでただ一目、ただ一目、貴女、夫人おくさんの顔が見たいと云います。」
「ええ、」
「御介抱にも及びません、手を取って頂くにも及びません、ことばをお交わし下さるにも及びません、申すまでもない、金銭の御心配は決して無いので。真暗まっくらな地獄の底から一目貴女を拝むのを、仏とも、天人とも、山のの月の光とも思って、一生の思出に、莞爾にっこりしたいと云うのですから、お聞届け下さると、実に貴女は人間以上の大善根をなさいます。夫人おくさん、大慈大悲の御心持で、この願いをお叶え下さるわけには参りませんか、十分間とは申しません。」
 と、じりじりと寄ると、姉夫人、思わず膝を進めつつ、
「どこの、どんな人でございますの。」
きこの安東あんとう村に居るんです。貞造と申して、以前御宅の馬丁べっとうをしたもので、……夫人おくさん、貴女の、実の……御父上おとうさん……」

       三十三

「その……手紙を御覧なさいましたら、もうお疑はありますまい。それは貴女の御父上おとうさん英臣ひでおみさんが、御出征中、貴女の母様おっかさんが御宅の馬丁貞造と……」
 早瀬はちょっとことばを切って……夫人がその時、わななきつつ持つ手を落して、膝の上に飜然ひらりと一葉、半紙に書いた女文字。その玉章たまずさの中には、恐ろしい毒薬が塗籠ぬりこんででもあったように、真蒼まっさおになって、白襟にあわれ口紅の色も薄れて、おとがい深く差入れた、おもかげきっと視て、
「……などと云うことばだけも、貴女方のお耳へ入れられるはずのものじゃありません、けれども、差迫った場合ですから、繕って申上げるいとまもありません。
 で、そのために貴女がおできなすったんで、まだおはらにいらっしゃる間には、貴女の母様おっかさんが水にもしようか、という考えから、土地に居ては、何かにつけて人目があると、以前、母様をお育て申した乳母が美濃安八あはちの者で、――唯今島山さんの玄関に居る書生は孫だそうです。そこへ始末をしに行っておいでなすった間に、貞造へお遣わしなすったお手紙なんです。
 馬丁はしていたが、貞造はしかるべき禄をんだ旧藩の御馬廻のせがれで、若気の至りじゃあるし、附合うものが附合うものですから、御主人の奥様おくさんと出来たのを、嬉しい紛れ、鼻で指をさして、つい酒の上じゃ惚気のろけを云った事もあるそうですが、根が悪人ではないのですから、をなくすというおそろしい相談に震い上って、その位なら、御身分をお棄てなすって、一所にげておくんなさい。お肯入ききいれ無く、思切ったわざをなさりゃ、表向きに坐込む、と変った言種いいぐさをしたために、奥さんも思案に余って、気を揉んでいなすった処へ、思いの外用事が早く片附いて、英臣さんが凱旋がいせんでしょう。腹帯にはちっと間が在ったもんだから、それなりに日がって、貴女は九月児ここのつきごでおいでなさる。
 が、世間じゃ、ああ、よくお育ちなすった、河野さんは、お家が医者だから。……そうでないと、大抵九月児は育たんものだと申します。また旧弊な連中れんじゅうは、戦争で人が多く死んだから、生れるのが早い、と云ったそうです。
 名誉に、とお思いなすったか、それとも最初はじめての御出産で、お喜びの余りか、英臣さんは現に貴女の御父上おとうさんだ。
 貞造は、無事に健かに産れた児の顔を一目見ると、安心をして、貴女の七夜の御祝いに酔ったのがお残懐なごりで、お暇を頂いて、お邸を出たんです。
 朝晩お顔を見ていちゃ、またどんな不了簡ふりょうけんが起るまいものでもない、という遠慮と、それに肺病の出る身体からだ、若い内から僂麻質リョウマチスがあったそうで。旁々かたがたお邸を出るとなると、力業ちからわざは出来ず、そうかと云って、その時分はまだ達者だった、阿母おふくろを一人養わなければならないもんですから、奥さんが手切てぎれなり心着こころづけなり下すった幾干いくらかの金子かね資本もとでにして、初めは浅間の額堂裏へ、大弓場を出したそうです。
 幸い商売が的に当って、どうにか食って行かれる見込みのついた処で、女房を持ったんですがね。いや、ばち覿面てきめんだ。境内へ多時しばらくかかっていた、見世物師と密通くッついて、有金をさらってげたんです。しかも貴女、女房がはらんでいたと云うじゃありませんか。」
「まあ、」
 と、夫人は我知らず嘆息した。
「忌々しい、とそこで大弓の株を売って、今度は安東村の空地を安く借りて、馬場をこさえて、貸馬をったんですな。
 貴女、それこそ乳母おんば日傘で、お浅間へ参詣にいらしった帰り途、円い竹のらちつかまって、御覧なすった事もありましょう。道々お摘みなすった鼓草たんぽぽなんぞ、馬に投げてやったりなさいましたのを、貞造が知っています。
 阿母おふくろが死んだあとで、段々馬場も寂れて、一斉いっときに二ひき斃死おちた馬を売って、自暴やけ酒を飲んだのが、もう飲仕舞で。米も買えなくなる、かゆも薄くなる。やっと馬小屋へ根太を打附ぶッつけたので雨露をしのいで、今もそこに居るんですが、馬場のあとは紺屋の物干になったんです。……」

       三十四

わたくしは不思議な縁で、去年静岡へ参って……しかもその翌日でした。島山さんのと、浅間を通った時、茶店へ休んで、その貞造に逢ったんです。それからこういう秘密な事を打明けられるまで、懇意になって、唯今の処じゃ、是非貴女のお耳へ入れなくってはなりませんほど、老人危篤きとくなのでございます。
 私でさえ、これは一番ひとつ貴女に願って、逢ってやって頂きたいと思いましたから、今迄幾度いくたびか病人に勧めても見ましたけれども、いやいや、何にも御存じない貴女に、こういう事をお聞かせ申すのは、足を取って地獄へ引落すようなもの。あとじゃ月も日も、貴女のお目には暗くなろう。お最惜いとしい、と貞造がかぶりります。
 道理もっともだと控えました。もっとも私も及ばずながら医師いしゃの世話もしたんです、薬も飲ませました。名高い医学士でおいでなさるから一ツ河野さんの病院へ入院してはどうか、余所よそながらお道さんのお顔を見られようから、と云いましたが、もっての外だ、ときません。
 清い者です。
 人の悪い奴で御覧なさい、対手あいてが貴女の母様おっかさんで、そのお手紙が一通ありゃ、貞造は一生涯朝から刺身で飲めるんですぜ。
 またちっとでも強情ねだりがましい了見があったり、一銭たりとも御心配をかけるようなかんがえがあるんなら、私は誓って口は利かんのです。
 そうじゃない! ただ一目拝みたいと云う、それさえ我慢をし抜いた、それもです……老人自分じゃ、まだ治らないとは思っていなかったからなので。煎じて飲むのがまだるッこし、薬鍋の世話をするものも無いから、薬だと云う芭蕉の葉を、青いまんまでかじったと言います――
 その元気だから、どうかこうか薬が利いて、一度なんざ、私と一所に安倍川へ行って餅を食べて茶をんで帰った事もあったんですが、それがいいめを見せたんで、先頃からまたどッととこに着いて、今は断念あきらめた処から、貴女を見たい、一目逢いたいと、うつつに言うようになったんです。
 容態が容態ですから、どうぞ息のある内にと心配をしていたんですが、人に相談の出来る事じゃなし、御宅へ参ってお話をしようにも、こりゃ貴女と対向さしむかいでなくっては出来ますまい。
 失礼だけれども、御主人の医学士は、非常に貴女を愛していらっしゃるために、恐ろしく嫉妬深い、と島山さんのに、聞きました。
 ほとんど当惑していた処へ、今日のおいでは実に不思議と云っても可い。一言(父よ。)とおっしゃって、とそれまでも望むんじゃないのです。弥陀みだ白光びゃっこうとも思って、貴女を一目と、云うのですから、逢ってさえ下されば、それこそ、あの、屋中うちじゅう真黒まっくろに下ったすすも、藤の花に咲かわって、その紫の雲の中に、貴女のお顔を見る嬉しさはどんなでしょう。
 そうなれば、不幸極まる、あわれな、情ない老人が、かえって百万人の中に一人も得られない幸福なものとなって、明かに端麗な天人を見ることを得て、極楽往生を遂げるんです、――夫人おくさん。」
 と云った主税の声が、夫人の肩から総身へ浸渡るようであった。
「貞造は、貴女のうみの父親で、またある意味から申すと、貴女の生命の恩人ですよ。」
「は……い。」
「会は混雑しましょう。若竹座は大変な人でしょう。それに夜もけると申しますから、人目を紛らすのに仔細しさいありません。得難い機会です。わたくしがお供をして、ちょっと見舞に参るわけにはまいりませんか。」
 と片手に燐寸マッチを持ったと思うと、片手がと伸びて猶予ためらわず夫人の膝から、古手紙を、ト引取って、
「一度お話した上は、たとい貴女が御不承知でも、もうこんなものは、」
 とぱっ[#「火+發」、316-3]と火をると、ひらひらと燃え上って、蒼くなって消えた。が、なびきかかる煙の中に、夫人の顔がちらちらと動いて、何となく、誘われて膝も揺ら揺ら。
 居坐いずまいを直して、あらたまって、
「お連れ下さいまし、どうぞ。」
 がらがらと格子の開く音。それ、言わぬことか。早や座に見えた菅子の姿。まばゆいばかりの装いで、坐りもやらず、
「まあ、姉さん!」


     私語さゞめごと

       三十五

「もう遅いわ、姉さん、早くいらっしゃらないでは、何をしているの、」
 と菅子は立ったままで急込せきこんで云う。戸外おもての暑さか、駈込んだせいか、かっ逆上のぼせた顔の色。
 胸打騒げる姉夫人、道子がかえって物静かに、
先刻さっきから待っていたんですよ。」
「待っていたって、私は方々に用があるんだもの、さっさと行って下さらないじゃ、」
「何ですねえ、邪険な、和女あなたを待っていたんですよ。来がけに草深へも寄ったのよ。一所に連れて行って欲しいと思って。――さあ、それでは行きましょうね。」
「私は用があるわ。」
「寄道をするんですか。」
「じゃ……ないけども、これから、この早瀬さんと一議論して、何でも慈善会へ引張り出すんですから手間が取れてよ。」
 とまだ坐りもせぬ。
 主税は腕組をしながら、
「はははは、まあ、貴女も、お聞きなさい、お菅さんの議論と云うのを。いくら僕を説いたって、何にもなりゃしないんですから。」
「承わって参りましょうか。」
 と姉夫人が立ちかけた膝をまた据えて、何となく残惜そうな風が見えると、
「早くいらっしゃらなくっちゃ……私はいけれども、姉さん、貴女は兄さん(医学士)がやかましいんだもの、面倒よ。」
 と見下みおろす顔を、斜めに振仰いだ、蒼白あおじろい姉の顔に、血がのぼって、きっとなったが、寂しく笑って、
「ああ、そうね、私はさきに参りましょう。会場の様子は分らないけれど、別にまごつくような事はありますまいから。」
 とおとなしく云って、端然きちんと会釈して、
「お邪魔をいたしましてございます。」とちょいと早瀬の目を見たが――双方で瞬きした。
「まあ、御一所が宜しいじゃありませんか。お菅さんもそうなさい。」
「いいえ、そうしてはおられません、もっと、」
 と声に力が籠って、
種々いろいろお話を伺いとう存じますけれども……」
「私も、じきだわ。」
「待っていますよ。」
 と優しい物越、悄々しおしおと出る後姿。主税は玄関へ見送って、身をおおいにして、そっとそのたもとの端をおさえた。
「さようなら!」
 いきおいよく引返すと、早や門の外を轣轆れきろくとして車が行く。
「暑い、暑い、どうも大変に暑いのね。」
 菅子はもうそこに、袖を軽く坐っていたが、露の汗の悩ましげに、朱鷺とき色縮緬の上〆うわじめの端をゆるめた、あたりは昼顔の盛りのようで、あかるい部屋に白々地あからさまな、きぬばかりがすずしい蔭。
「久振だわね。」
「久振じゃないじゃありませんか。今の言種いいぐさは何です、ありゃ。……姉さんにお気の毒で、そばで聞いていられやしない。」
「だって事実だもの。病院に入切はいりきりで居ながら、いつの何時なんどきには、姉さんが誰と話をしたッて事、不残のこらず旦那様御存じなの、もう思召おぼしめしったらないんですからね。
 それでも大事にして置かないと、院長は家中うちじゅうの稼ぎ人で、すっかり経済を引受けてるんだわ。お庇様かげさまで一番末の妹の九ツになるのさえ、早や、ちゃんと嫁入支度が出来てるのよ。
 道楽一ツするんじゃなし、ただ、姉さんをたのしみにして働いているんですからね。ちっとでも怒らしちゃ大変なのだから、貴下も気をつけて下さらなくっちゃ困るわ。」
「何を云ってるんです、面白くもない。」
「今の様子ッたら何です、いや御懇ごねんごろね。そして肩を持つことね。油断もすきもなりはしない。」
「可い加減になさい。串戯じょうだんも、」
「だって姉さんが、どんな事があればッたって、男と対向さしむかいで五分間と居る人じゃないのよ。貴下は口前が巧くって、調子が可いから、だから坐り込んでいるんじゃありませんか。ほんとうに厭よ。貴下浮気なんぞしちゃ、もう、沢山だわ。」
「まるでこりゃ、人情本の口絵のようだ。何です、対向った、この体裁は。」

       三十六

 しめやかな声で、夫人が――
「貴下……どうするのよ。」
「…………」
「私がこれほど願っても、まだ妙子さんを兄さん(英吉)には許してくれないの。今までにもどんなに頼んだか知れないのに、それじゃ貴下、あんまりじゃありませんか。
 去年から口説くどき通しなんだわ。貴下がはじめて、静岡こちらへ来て、私と知己ちかづきになったというのを聞いて、(精一杯御待遇おもてなしをなさい。)ッて東京から母さんが手紙でそう云って寄越したのも、酒井さんとの縁談を、貴下に調えて頂きたければこそだもの。
 母さんだって、どのくらい心配しているか知れないんだわ。今まで、ついぞ有ったためしは無い。こちらから結婚を申込んでねられるなんて、そんな事――河野家の不名誉よ、恥辱ッたらありませんものね。
 兄さんも、どんなにか妙子さんを好いていると見えて、一体が遊蕩あそび過ぎる処へ、今度の事じゃ失望して、自棄やけ気味らしいのよ、遣り方が。自分で自分を酒で殺しちゃ、厭じゃありませんか、まあ、」
 と一際低声こごえで、
「ちょいと、いかなこッても小待合へなんぞ倒込むんですって。監督おめつけの叔父さんから内々注意があるもんだから、もうとっくに兄さんへはうちでお金子かねを送らない事にして、独立で遣れッて名義だけれども、その実、勘当同様なの。
 この頃じゃ北町(桐楊塾)へも寄り着かないんですって。
 だってどこに転がっていたって、みんなお金子が要るんでしょう。どこから出て? いずれ借りるんだわ。また河野の家の事を知っていて、高利で貸すものがあるんだから困っちまう。千と千五百とまとまったお金子で、母様が整理を着けたのも二度よ。洋行させる費用に、と云って積立ててあった兄さんの分は、とうの昔無くなって、三度目の時には皆私たち妹の分にまで、手がついたんじゃありませんか。
 妙子さんの話がはじまってからは、ちょうど私も北町へ行っていて知っているけれど、それは、気の毒なほど神妙になったのに。……
 もともと気の小さい、懐育ちのお坊ちゃんなんだから、遊蕩あそびも駄々でかったんだけれど、それだけにまた自棄になっちゃ乱暴さがたまらないんだもの。
 病院の義兄にいさんは養子だし、大勢の兄弟なかに、やっと学位の取れた、かけ替えのない人を、そんなにしてしまっちゃ、それはうちでもほんとうに困るのよ。
 早瀬さん、貴下の心一つで、話が纏まるんじゃありませんか。私が頼むんだから助けると思っていて頂戴、ねえ……それじゃ、あんまり貴下薄情よ。」
「ですから、ですから。」
 とおさえるように口を入れて、
して厭だとは言いません。厭だとは言いやしない。これからでも飛んで行って、先生に話をして結納を持って帰りましょう。」
 事もなげに打笑って、
「それじゃ反対あべこべだった。結納はこちらから持って行くんでしたっけ。」
「そのかわりまた、(あの安東村の紺屋の隣家となりの乞食小屋で結婚式を挙げろ)ッて言うんでしょう。貴下はなぜそう依怙地いこじに、さもしいお米のを気にするようなことを言うんだろう。
 ほんとうに串戯じょうだんではないわ! 一家の浮沈と云ったような場合ですからね。私もどんなに苦労だか知れないんだもの。御覧なさい[#「御覧なさい」は底本では「御覧さない」]せたでしょう。この頃じゃ、こちらに、どんな事でもあるように、島山(理学士)を見ると、もうね、身体からだすくむような事があるわ。土間へ駈下りて靴の紐を解いたり結んだりしてやってるじゃありませんか。
 ひざまずいて、夫の足に接吻キッスをする位なものよ。誰がさせるの、早瀬さん。――貴下の意地ひとつじゃありませんか。
 ちっとは察して、肯いてくれたって、満更罰は当るまいと、私思うんですがね。」
 机にもたれて、長くなって笑いながら聞いていた主税が、きっと居直って、
「じゃ貴女は、御自分に面じて、お妙さんを嫁にほしいと言うんですか。」
「まあ……そうよ。」
「そう、それでは色仕掛になすったんだね。」

       三十七

「怒ったの、貴下、怒っちゃ厭よ、私。貴下はほんとうにこの節じゃ、どうして、そんなに気が強くなったんだろうねえ。」
「貴女が水臭い事を言うからさ。」
「どっちが水臭いんだか分りはしない。私はまさか、よる内を出るわけにはかず、お稽古に来たって、大勢入込いれごみなんだもの。ゆっくりお話をする間も無いじゃありませんか。
 過日いつか何と言いました。あの合歓の花が記念だから、夜中にあすこへ忍んで行く――虫の音や、かわずの声を聞きながら用水越に立っていて、貴女があの黒塀の中から、こう、扱帯しごきか何ぞで、姿を見せて下すったら、どんなだろう。花がちらちらするか、やみか、蛍か、月か、明星か。世の中がどんな時に、そんな夢が見られましょう――なんて串戯じょうだん云うから、洗濯をするに可いの、瓜が冷せて面白いのッて、島山にそう云って、とうとうあすこの、板塀を切抜いて水門をこしらえさせたんだわ。
 頭痛がしてならないから、十畳の真中まんなかへ一人で寝て見たいの、なんのッて、都合をするのに、貴下は、素通りさえしないじゃありませんか。」
演劇しばいのようだ。」
 と低声こごえで笑うと、
「理想実行よ。」と笑顔で言う。
「どうして渡るんです。」
「まさか橋をかける言種いいぐさは、貴下、無いもの。」
「だから、渡られますまい。」
「合歓の樹の枝は低くってよ。つかまって、お渡んなさいなね。」
河童かっぱじゃあるまいし、」
「ほほほほ、」
 と今度は夫人の方が笑い出したが。
「なにしろ、貴下は不実よ。」
「何が不実です。」
「どうかして下さいな。」
 ――あらたまって――
「妙子さんを。」
「ですから色仕掛けか、と云うんです。」
「あんな恐い顔をして、(と莞爾にっこりして。)ほんとうはね、私……自らあざむいているんだわ。家のために、自分の名誉を犠牲ぎせいにして、貴下から妙子さんを、兄さんの嫁に貰おう、とそう思ってこちらへ往来ゆききをしているの。
 でなくって、どうして島山の顔や、母様の顔が見ていられます。第一、乳母ばあやにだっておもてを見られるようよ。それにね、なぜか、誰よりも目の見えない娘が一番恐いわ。母さん、と云って、あの、見えない目で見られると、悚然ぞっとしてよ。私は元気でいるけれど、何だか、そのために生身を削られるようでせるのよ。可哀相だ、と思ったら、貴下、妙子さんを下さいな。それが何より私の安心になるんです。……それにね、ほかの人は、でもないけれど、母様がね、それはね、実に注意深いんですから、何だか、そうねえ、春の歌留多かるた会時分から、有りもしない事でもありそうにうたぐっているようなの。もしかしたら、貴下私の身体からだはどうなると思って? ですから妙子さんさえ下されば、有形にも無形にも立派な言訳になるんだわ。ひょっとすると、母様の方でも、妙子さんの為にするのだ、と思っているのかも知れなくってよ。顔さえ見りゃ、(私がどうかして早瀬さんに承知させます。)と、母様が口を利かない先にそう言って置くから。よう、後生だから早瀬さん。」
 言い言い、すがるように言う。
「詰らんことを。先生のお嬢さんを言訳に使って可いもんですか。」
「そうすると、私もう、母さんの顔が見られなくなるかも知れませんよ。」
「僕だって活きて二度と、先生の顔が見られないように……」と思わずこぶしを握ったのを、我を引緊ひきしめられたごとくに、夫人は思い取って、しみじみ、
「じゃ、私の、私の身体はどうなって?」
「訳は無い、島山から離縁されて、」
「そんな事が、出来るもんですか。」
「出来ないもんですか。当前あたりまえだ、」
 と自若として言うと、呆れたように、また……莞爾にっこり
「貴下はどうしてそうだろう。」

       三十八

「どうもこうもありはしません、それが当前じゃありませんか。義、周の粟をくらわずとさえ云うんだ。貴女、」
 と主税は澄まして言い懸けたが、ただならぬ夫人の目の色に口をつぐんだ。菅子は息急いきぜわしい胸をおさえるのか、の上へ手を置いて、
「何だって、そりゃあんまりだわ、早瀬さん、」
 と、ツンとする。
「不都合ですとも! 島山さんが喜ばないのに、こうして節々おいでなさるんです。
 それでいて、家庭の平和が保てよう法は無い。実はこうこうだ、と打明けて、御主人の意見にお任せなさい。私もまた卑怯な覚悟じゃありません。事実明かに、その人の好まない自分のとこ令夫人おくがたをお寄せ申すんだから、謹んで島山さんの思わくに服するんだ。
 だから貴女もそうなさい。懊悩おうのう煩悶はんもんも有ったもんか。世の中には国家の大法を犯し、大不埒だいふらちを働いて置いて、知らん顔で口を拭いて澄ましていようなどと言う人があるが、間違っています。」
 夫人はこれをたわむれのように聞いて、早瀬のことばを露もまこととは思わぬ様子で、
戯談じょうだんおっしゃいよ! 嘘にも、そんな事を云って、事が起ったら子供たちはどうするの?」
 と皆まで言わせず、事も無げに答えた。
「無論、島山さんの心まかせで、一所に連れて出ろと、言われりゃ連れて出る。置いて行けとなら、置いて……」
暢気のんきで怒る事も出来はしない。身に染みて下さいな、ね……」
「何が暢気だろう、このくらい暢気でない事はない。小使と私と二人口でさえ、今の月謝の収入じゃ苦しい処へ、貴女方親子を背負しょい込むんだ。静岡は六升代でも痩腕にゃこたえまさ。」
 あまりの事と、夫人はじっみまもって、
「私がこんなに苦労をするのに、ほんとに貴下は不実だわ。」
「いざと云う時、貴女を棄てて逐電ちくてんでもすりゃ不実でしょう。胴を据えて、覚悟をめて、あくまで島山さんが疑って、重ねて四ツにするんなら、先へ真二まっぷたツになろうと云うのに、何が不実です。私は実は何にも知らんが、夫人おくさんが御勝手に遊びにおいでなさるんだなんて言いはしない。」
「そう云ってしまっては、一も二も無いけれど。」
「また、一も二も無いんですから、」
「だって世の中は、そう貴下の云うようには参りませんもの。」
「ならんのじゃない、なる、が、勝手にせんのだ。恋愛は自由です、けれども、こんな世の中じゃ罪になる事がある。盗賊どろぼうは自由かも知れん、勿論罪になる。人殺、放火つけび、すべて自由かも知れんが、罪になります。すでにその罪を犯した上は、相当の罰を受けるのがまた当前あたりまえじゃありませんか。愚図々々ぐずぐず塗秘ぬりかくそうとするから、卑怯未練な、けちな、了見が起って、ひとと不都合しながら亭主の飯を食ってるような、猫の恋になるのがある。しみったれてるじゃありませんか。度胸を据えて、首の座へお直んなさい。私なんざくに――先生……にはおもては合わされない、お蔦……の顔も見ないものと思っている。この上は、どんなことだって恐れはしません。
 それに貴女は、島山さんに不快を感じさせながら、まだやっぱり、夫には貞女で、子には慈悲ある母親で、親には孝女で、社会の淑女で、世の亀鑑きかんともなるべき徳を備えた貴婦人顔をしようとするから、痩せもし、苦労もするんです。
 浮気をする、貞女、孝女、慈母、淑女、そんな者があるものか。」
「じゃ……私を、」
 と擦寄って、
「不埒と言わないばッかりね。」
 さすがに顔の色をかえてきっにらむと、うなずいて、
「同時に私だって、」
 と笑って言う。
 その肩を突いて、
「まあ、仕ようの無い我儘わがままだよ。」

       三十九

「貴下は始めからそうなんだわ。……
 道学者の坂田(アバ大人)さんが、兄さんの媒口なこうどぐちを利くのがしゃくに障るからって、(攫徒すりの手つだいをして、参謀本部も諭旨免官になりました。攫徒は、その時の事を恩にして、警察では、知らない間にたもとへ入れて置いて逆捩さかねじを食わしたように云ってくれたけれど、その実は、知っていて攫徒の手から紙入を受取ってやったんだ。それでよろしくばお稽古にお出でなさい、早瀬主税は攫徒の補助をした東京の食詰者くいつめものです。)とこの塾を開く時、千鳥座かどこかで公衆に演説をする、と云った人だもの――私が留めたから止したけれど……」
 早瀬の胸のあたりに、背向うしろむきになって、投げ出したつまを、じっと見ながら、
「私、どうしたら、そんな乱暴な人を友だちにしたんだか。」
 と自から怪むがごとく独言ひとりごつと、
「不都合な方と知りながら、貴女と附合ってる私と同一おんなじでしょう。」
「だって私は、貴下のために悪いようにとした事は一つも無いのに、貴下の方じゃ、私の身の立たないように、立たないようにと言うじゃありませんか。早瀬さんへ行くのが悪いんなら、(どうでもして下さい、御心まかせ。)何のって、そんな事が、たとえにも島山に言われるもんですか。
 島山の方は、それで離縁になるとして、そうしたら、貴下、第一河野の家名はどうなると思うのよ。末代まで、汚点しみがついて、系図がけがれるじゃありませんか。」
「すでに云々うんぬんが有るんじゃありませんか。それをかくそうとするんじゃありませんか。卑怯だと云うんです。」
「そんな事を云って、なぜ、貴下は、」
 少し起返って、なお背向うしろむきに、
「貴下にちっとも悪意を持っていない、こうして名誉も何も一所に捧げているような、」
 と口惜くやしそうに、
「私を苦しめようとなさるんだろうねえ。」
「ちっとも苦しめやしませんよ。」
「それだって、乱暴な事を言ってさ、」
「貴女が困っているものを、何も好き好んで表向おもてむきにしようと言うんじゃない。不実だの、無情だの、私の身体からだはどうなるの、とお言いなさるから、貴女の身体は、疑の晴れくもりで――制裁を請けるんだ、と言うんです。貴女ばかり、と言ったら不実でしょう。男が諸共に、と云うのに、ちっとも無情な事はありますまい。どうです。」
 と言う顔を斜めに視て、
「ですから、そんな打破ぶちこわしをしないでも、妙子さんさえ下さると、円満に納まるばかりか、私も、どんなにか気がやすまって、良心の呵責かしゃくを免れることが出来ますッて云うのにね。きますまい! それが無情だ、と云うんだわ。名誉も何も捧げているおんなの願いじゃありませんか、肯いてくれたって可いんだわ。」
「(名誉も何も)とおっしゃるんだ。」
「ああ、そうよ。」と捩向ねじむいてすずしく目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらく。
「なぜその上、家も河野もと言わんのです。名誉を別にした家がありますか。家を別にした河野がありますか。貴女はじめ家門の名誉と云う気障きざな考えが有る内は、情合は分りません。そういうのが、夫より、実家さと両親ふたおやが大事だったり、ひとの娘の体格検査をしたりするのだ。お妙さんに指もささせるもんですか。
 お妙さんの相談をしようと云うんなら、先ず貴女から、名誉も家も打棄うっちゃって、誰なりとも好いた男と一所になるという実証をお挙げなさい。」
 と意気込んで激しく云うと、今度は夫人が、気の無い、疲れたような、うんじた調子で、
「そしてまた(結婚式は、安東村の、あの、乞食小屋見たような茅屋あばらやで挙げろ)でしょう。貴下はまるッきり私たちと考えが反対あべこべだわ。何だか河野の家を滅ぼそうというような様子だもの、家にあだするかたきだわ。どうして、そんな人を、私厭でないんだか、自分で自分の気が知れなくッてよ。ああ、そして、もう、私、慈善市バザアへ行かなくッては。もう何でも可いわ! 何でも可いわ。」
 夫人と……別れたあとで、主税はカッと障子を開けて、しばらく天を仰いでいたが、
「ああ、今日はお妙さんの日だ。」と、つぶやいて仰向けに寝た――妙子の日とは――日曜を意味したのである。


     宵闇

       四十

 おなじ、日曜のの事で。
 日が暮れると、早瀬は玄関へ出て、かまちに腰を掛けて、土間の下駄を引掛けたなり、洋燈ランプ背後うしろに、片手を突いて長くなって一人でいた。よくぞ男に生れたる、と云う陽気でもなく、虫を聞く時節でもなく、家は古いが、壁から生えたすすきも無し、絵でないから、一筆きの月のあしらいも見えぬ。
 ト忌々いみいみしいと言えば忌々しい、上框あがりがまちに、ともしびを背中にして、あたかも門火かどびを焚いているような――その薄あかりが、格子戸をすかして、軒で一度暗くなって、中が絶えて、それから、ぼやけた輪を取って、朦朧もうろうと、雨曝あまざれの木目の高い、門のに映って、蝙蝠こうもりの影にもあらず、空を黒雲が行通うか何ぞのように、時々、むらむらと暗くなる……またあかるくなる。
 目も放さず、早瀬がそれをじっながめる内に、濁ったようなその灯影が、二三度ゆらゆらと動いて、やがてつぶてした波が、水のおもに月輪をまとめた風情に、白やかなおんなの顔がそこをのぞいた。
 門のくでもなしに……続いて雪のような衣紋えもんが出て、それと映合うつりあってくッきりと黒いびんが、やがて薄お納戸の肩のあたり、きらりと光って、帯の色の鮮麗あざやかになったのは――道子であった。
 門に立忍んで、と扉を開けて、横から様子を伺ったものである。
 一目見ると、早瀬は、ずいと立って、格子を開けながら、手招ぎをする。と、立直って後姿になって、ABアアベエ横町の左右を※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわす趣であったが、うしろ向きに入って、がらがらと後を閉めると、三足ばかりを小刻みに急いで来て、人目の関には一重も多く、遮るものが欲しそうに、また格子を立てた。
「ようこそ、」と莞爾にっこりして云う。
 姉夫人は、口を、畳んだ手巾ハンケチおさえたが、すッすッと息がせわしく、
誰方どなたも……」
「誰も。」
「小使さんは?」
 ともう馴染んだか尋ね得た。
「あれは朝っから、貞造の方へ遣ってあります。目の離せません容態ですから。」
「何から何まで難有ありがとう存じます……一人の親を……済みませんですねえ。」
 とその手巾が目に障る。
「済まないのは私こそ。でもよく会場が抜けられましたな。」
「はい、色艶が悪いから、控所の茶屋でやすむように、と皆さんが、そう言って下さいましたから、い都合に、点燈頃あかりのつきごろの混雑紛れに出ましたけれど、宅の車では悪うございますから、途中で辻待のを雇いますと、気が着きませんでしたが、それが貴下あなた、片々蠣目かきめのようで、その可恐こわらしい目で、時々振返っては、あの、ほろの中を覗きましてね、私はどんなに気味が悪うござんしてしょう。やっとこの横町の角で下りて、まあ、御門まで参りましたけれども、もしかお客様でも有っては悪いから、と少時しばらく立っておりましたの。」
「お心づかい、お察し申します。」
 とこうべを下げて、
「島山さんの、お菅さんには。」
「今しがた参りました。あんなに遅くまで――こちら様に。」
「いいえ。」
「それでは道寄りをいたしましたのでございましょう。あかりきます少し前に見えましたっけ、大勢の中でございますから、遠くに姿を見ましたばかりで、別にことばも交わさないで、私は急いで出て参りましたので。」
「成程、いや、お茶も差上げませんで失礼ですが、手間が取れちゃまたお首尾が悪いと不可いけません。直ぐに、これから、」
「どうぞそうなすって下さいまし、貴下、御苦労様でございますねえ。」
「御苦労どころじゃありません。さあ、お供いたしましょう。」
 ふと心着いたように、
「お待ちなさいよ、夫人おくさん。」

       四十一

 早瀬は今更ながら、道子がその白襟の品好くうるわしい姿をながめて、
宵暗よいやみでも、貴女あなたのそのなりじゃ恐しく目に立って、どんな事でまたその蠣目の車夫なんぞが見着けまいものでもありません。ちょいと貴女手巾ハンケチを。」
 とあわただしい折から手の触るも顧みず、奪うがごとく引取って、背後うしろから夫人の肩を肩掛ショオルのように包むと、撫肩はいよいよ細って、身をすくめたがなお見げな。
 懐中ふところからまた手拭てぬぐいを出して、夫人に渡して、
あねさんかぶりと云うのになさい、田舎者がするように。」
「どうせ田舎者なんですもの。」
 と打傾いて、まげにちょっと手を当てて、
「こうですか。」白地をかぶって俯向うつむけば、黒髪こそは隠れたれ、包むに余るびんの、雪に梅花を伏せたよう。
 主税は横から右瞻左瞻とみこうみて、
不可いけない、不可い、なお目立つ。貴女、失礼ですが、裾を端折はしょって、そう、不可いかんな。長襦袢ながじゅばん突丈ついたけじゃ、やっぱり清元の出語でがたりがありそうだ。」
 と口のうち独言つぶやきつつ、
「お気味が悪くっても、胸へためて、ぐっと上げて、足袋との間を思い切って。ああ、おいたわしいな。」
いやでございますね。」
「御免なさいよ。」
 と言うがはやいか、早瀬の手は空を切って、体をしゃがんだと思うと、
「あれ、」
 かっとなって、ふらふらとつむり重く倒れようとした――手を主税の肩に突いて、道子はわずかに支えたが、早瀬のたなそこには逸早く壁の隅なるすすすくって、これを夫人のはぎに塗って、穂にあらわれておおわれ果てぬ、尋常なそのつまはずれを隠したのであった。
「もう、大丈夫、河野の令夫人おくがたとは見えやしない。」
 と、框の洋燈ランプを上から、フッ!
 留南奇とめき便たよりに、身を寄せて、
「さあ、出掛けましょう。」
 胸に当った夫人の肩は、誘わるるまで、震えていた。
 この横町から、安東村へは五町に足りない道だけれども、場末のしずが家ばかり。時に雨もよいの夏雲の閉した空は、星あるよりも行方はるかに、たまさか漏るる灯の影は、山路なる、孤家ひとつやのそれと疑わるる。
 名門の女子深窓に養われて、かたわらに夫無くしては、みだりに他と言葉さえ交えまじきが、今日朝からの心のうちけだし察するにあまりあり。
 我は不義者のなりと知り、父はしかも危篤きとくの病者。逢うが別れの今世こんじょうに、臨終いまわのなごりをおしむため、華燭かしょく銀燈輝いて、見返る空に月のごとき、若竹座を忍んで出た、慈善市バザアの光を思うにつけても、横町の後暗さは冥土よみじにもまさるのみか。裾端折り、頬被ほほかぶりして、男――とあられもない姿。ちらりとでも、人目に触れて、貴女は、と一言聞くが最後よ、活きてはいられない大事の瀬戸。からく乗切ってく先は……まことの親の死目である。道子が心はどんなであろう。
 大巌山の幻が、やみ気勢けはいに目をおさえて、用水の音すさまじく、地をるごとく聞えた時、道子はおもかげさえ、きぬの色さえ、有るか無きかの声して、
「夢ではないのでしょうかしら。宙を歩行あるきますようで、ふらふらして、倒れそうでなりません。早瀬さん、お袖につかまらして下さいまし。」
「しっかりと! 塩梅あんばいに人通りもありませんから。」
 人は無くて、軒を走る、怪しきいぬが見えたであろう。紺屋の暖簾の鯛の色は、燐火おにびとなって燃えもせぬが、昔を知ればひづめの音して、馬の形も有りそうな、安東村へぞ着きにける。

       四十二

 道子は声も※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)さまようように、
「ここは野原でございますか。」
「なぜ、貴女?」
真中まんなかに恐しい穴がございますよ。」
「ああ、それは道端の井戸なんです。」
 とすかしながら早瀬が答えた。古井戸は地獄が開けた、おおいなる口のごとくに見えたのである。
 早瀬より、忍び足する夫人の駒下駄が、かえっておののきに音高く、辿々たどたどしく四辺あたりに響いて、やがて真暗まっくらな軒下に導かれて、そこで留まった。が、心着いたら、心弱いひとは、堪えず倒れたであろう、あたかもそのうなじの上に、例の白黒まだらいぬうずくまっているのである。
 音訪おとなう間も無く、どたんと畳をて立つ音して、戸を開けるのと、ついそのかまち真赤まっかな灯の、ほやの油煙に黒ずんだ小洋燈こランプの見ゆるが同時で、ぬいと立ったは、眉の迫った、目の鋭い、細面ほそおもて壮佼わかもので、巾狭はばぜま単衣ひとえに三尺帯を尻下り、いなせやっこを誰とかする、すなわち塾の(小使)で、怪! 怪! 怪! アバ大人を掏損すりそこねた、万太まんたと云う攫徒すりである。
 はたと主税とおもてを合わせて、
兄哥あにい!」
「…………」
不可いけねえぜ。」と仮色こわいろのように云った。
「何だ――馬鹿、お連がある。」
「やあ、先生、大変だ。」
「どう、大変。」
 と入る。たもとすがって、にえの鳥の乱れ姿や、羽掻はがいいためた袖を悩んで、ねぐらのような戸をくぐると、跣足はだしで下りて、小使、カタリと後をし、
「病人が冷くなったい。」
「ええ、」
「今駈出そうてえ処でさ。」
「医者か。」
「お医者は直ぐに呼んで来たがね、もう不可いけねえッて、今しがた帰ったんで。わっしあ、ぼうとして坐っていましたが、何でもこりゃ先生に来て貰わなくちゃ、仕様がないと、今やっと気が附いて飛んで行こうと思った処で。」
「そんな法はない。死ぬなんて、」
 と飛び込むと、坐ると同時いっしょで、ただ一室ひとまだからそこがしとねの、むしろのような枕許へ膝を落して、覗込のぞきこんだが、あわただしく居直って、三布蒲団みのぶとんを持上げて、骨のあおいのがくッきり見える、病人の仰向けに寝た胸へ、手を当ててじっとしたが、
「奥さん、」
 としずかに呼ぶ。
 道子が、取ったばかりの手拭を、引摺ひきずるように膝にかけて、ふりを繕ういとまもなく、押並んでひざまずいた時、早瀬は退すさって向き直って、
「線香なんぞ買って――それから、種々いろいろ要るものを。」
「へい、うがす。」
 ぼんやり戸口に立っていた小使は、その跣足はだしのまま飛んで出た。
 と見れば、貞造の死骸なきがらの、恩愛にかれて動くのが、筵に響いて身に染みるように、道子の膝は打震いつつ、かすかに唱名の声が漏れる。
「よく御覧なさいましよ。貴女も見せてお上げなさいよ。ああ、暗くって、それでは顔が、」
 手洋燈をらして出したが、あかりが低く這って届かないので、裏が紺屋の物干の、※(「木+靈」、第3水準1-86-29)やぶれれんじの下に、汚れた飯櫃めしびつがあった、それへ載せて、早瀬が立って持出したのを、夫人が伸上るようにして、うるみをもった目を見据え、うつつおもてで受取ったが、両方掛けた手の震えに、ぶるぶると動くと思うと、坂になったふたすべって、※(「口+阿」、第4水準2-4-5)あなやと云う間に、袖に俯向うつむいて、火を吹きながら、畳に落ちて砕けたではないか! 天井が真紫に、筵がかっと赤くなった。
 このあかりで、貞造の顔は、活きてまなこを開いたかと、蒼白あおざめた鼻も見えたが、松明たいまつのようにひらひらと燃え上る、夫人の裾の手拭を、炎ながら引掴ひッつかんで、土間へ叩き出した早瀬が、一大事の声を絞って、
「大変だ、帯に、」と一声。余りの事にぼうとなって、その時座を避けようとする、道子の帯の結目むすびめを、引断ひっきれよ、と引いたので、横ざまに倒れたもすそあおり、のあたりから波打って、炎に燃えつと見えたのは、はだえの雪に映る火をわずかに襦袢に隔てたのであった。トタンに早瀬は、身を投げて油の上をぐるぐると転げた。火はこれがために消えて、しばらくは黒白あやめも分かず。阿部街道を戻り馬が、はるかに、ヒイインといななく声。戸外おもてで、犬の吠ゆる声。
可恐おッそろしい真暗ですね。」
 品々を整えて、道の暗さに、提灯ちょうちんを借りて帰って来た、小使が、のそりと入ると、薄色の紋着を、水のように畳に流して、夫人はそこに伏沈んで、早瀬は窓をあけて、※(「木+靈」、第3水準1-86-29)子に腰をかけて、ほっとして腕をさすっていた。――猛虎肉酔初醒時もうこにくにようてはじめてさむるとき揩磨苛痒風助威かようをかいましてかぜいをたすく


     廊下づたい

       四十三

 家の業でも、気の弱いおんなであるから、外科室の方は身震いがすると云うので、是非なくかぬ事になっているが、道子は、両親の注意――むしろ命令で、午後十時前後、寝際には必ず一度ずつ、入院患者の病室を、あまねく見舞うのが勤めであった。
 その時は当番の看護婦が、交代に二人ずつ附添うので、ただ(御気分はいかがですか、お大事になさいまし、)と、だけだけれども、心優しき生来うまれつきの、おのずから言外の情が籠るため、病者は少なからぬ慰安を感じて、結句院長の廻診より、道子の端麗な、この姿を、待ち兼ねる者が多い。怪しからぬのは、鼻風邪ごときで入院して、貴女のお手ずからお薬を、とうなると云うが、まさかであろう。
 で――この事たるや、夫の医学士、名は理順りじゅんと云う――院長は余り賛成はしないのだけれども、病人を慰めるという仕事は、いかなる貴婦人がなすっても仔細しさいない美徳であるし、両親もたって希望なり、不問に附して黙諾の体でいる。
 ト今夜もばたばたと、上草履の音に連れて、下階したの病室を済ました後、横田の田畝たんぼを左に見て、右に停車場ステイションを望んで、この向は天気が好いと、雲に連なって海が見える、その二階へ、雪洞ぼんぼりを手にした、白衣びゃくえの看護婦を従えて、真中まんなかに院長夫人。雲を開いたように階子段はしごだんを上へ、髪が見えて、肩、帯があらわれる。
 質素じみな浴衣に昼夜帯を……もっともお太鼓に結んで、紅鼻緒に白足袋であったが、冬のなぞは寝衣ねまきに着換えて、浅黄の扱帯しごきという事がある。そんな時は、寝白粉ねおしろいの香も薫る、それはた異香くんずるがごとく、患者は御来迎、ととなえて随喜渇仰。
 また実際、夫人がその風采とりなり、その容色きりょうで、看護婦を率いたさまは、常に天使のごとく拝まれるのであったに、いかにやしけむ、近い頃、殊に今夜あたり、色艶すぐれず、円髷まるまげも重そうに首垂うなだれて、胸をせめて袖をかさねた状は、慎ましげに床し、とよりは、悄然しょうぜんと細って、何か目に見えぬいましめの八重の縄で、風になびく弱腰かけて、ぐるぐると巻かれたよう。従って、前後を擁した二体の白衣も、天にもし有らば美しき獄卒の、法廷の高く高き処へ夫人を引立てて来たようである。
 ドア開放あけはなした室の、患者無しに行抜けの空は、右も左も、折から真白まっしろな月夜で、月の表には富士の白妙しろたえ、裏は紫、海ある気勢けはい。停車場の屋根はきらきらと露が流れて輝く。
 例に因って、室々へ、雪洞が入り、白衣が出で、夫人が後姿になり、看護婦が前に向き、ばたばたばた、ばたばたと規律正しい沈んだ音が長廊下に断えては続き、処々月になり、また雪洞がぽっとあかくなって、ややあって、遥かに暗い裏階子うらばしごへ消えるはずのが、今夜は廊下の真中まんなかを、ト一列になって、水彩色みずさいしきの燈籠の絵の浮いて出たように、すらすらこなたへ引返ひっかえして来て、中程よりもうちっと表階子へ寄った――右隣が空いた、富士へ向いた病室の前へ来ると、夫人は立留って、白衣は左右に分れた。
 順に見舞った中に、この一室だけは、行きがけになぜか残したもので。……
 と見ると胡粉ごふんで書いた番号の札に並べて、早瀬主税と記してある。
 道子はなかに立って、おもむろに左右を見返り、黙って目礼をして、ほとんど無意識に、しなやかな手を伸ばすと、看護婦の一人が、雪洞を渡して、それは両手を、一人は片手を、膝のあたりまで下げて、ひらりと雪の一団ひとかたまり
 ずッと離れて廊下を戻る。
 道子はドアに吸込まれた。ト思うと、しめ切らないその扉の透間から、やや背屈せかがみをしたらしい、低い処へ横顔を見せて廊下を差覗さしのぞくと、表階子の欄干てすりへ、雪洞を中にして、からみついたようになって、二人附着くッついて、こなたを見ていた白衣が、さらりと消えて、壇に沈む。

       四十四
 
 寝台ねだいに沈んだ病人の顔の色は、これが早瀬か、と思うほどである。
 道子は雪洞を裾に置いて、帯のあたりから胸をほのかに、顔を暗く、寝台に添うてたたずんで、しんを細めた洋燈ランプのあかりに、その灰のようなおもてを見たが、目は明かに開いていた。
 ト思うと、早瀬に顔を背けて、目を塞いだが、瞳は動くか、烈しく睫毛まつげが震えたのである。
 ややあって、
「早瀬さん、私が分りますか。」
「…………」
「ようよう今日のお昼頃から、あの、人顔がお分りになるようにおなんなさいましたそうでございますね。」
 「お庇様かげさまで。」
 とたしかに聞えた。が、腹でもの云うごとくで、口は動かぬ。
ひどいお熱だったんでございますのねえ。」
「看護婦に聞きました。ちょうど十日間ばかり、まるッきり人事不省で、驚きました。いつの間にか、もう、七月の中旬なかばだそうで。」とねむったままで云う。
「宅では、東京の妹たちが、みんな暑中休暇で帰って参りました。」
 少し枕を動かして、
「英吉君も……ですか。」
「いいえ、あの人だけは参りませんの。この頃じゃうちへ帰られないような義理になっておりますから、気の毒ですよ。
 ああ、そう申せば、」と優しく、枕許の置棚をななめに見て、
「貴下は、まあ、さぞ東京へお帰りなさらなければならなかったんでございましょうに。あいにく御病気で、ほんとうに間が悪うございましたわね。酒井様からの電報は御覧になりましたの?」
「見ました、先刻はじめて、」
 と調子が沈む。
「二通とも、」
「二通とも。」
「一通はただ(直ぐ帰れ。)ですが、二度目のには、ツタビョウキ(蔦病気)――かねて妹から承っておりました。貴下の奥さんが御危篤ごきとくのように存じられます。御内の小使さん、とそれに草深の妹とも相談しまして、お枕許で、失礼ですが、電報の封を解きまして、私の名で、貴下がこのお熱の御様子で、残念ですがいらっしゃられない事を、お返事申して置きました。ですが、まあ、何という折が悪いのでございましょう。ほんとうにお察し申しております。」
「……病気が幸です。達者で居たって、どのつらさげて、先生はじめ、顔が合されますもんですか。」
「なぜ? 貴下、」
 と、じっおとがいを据えて、俯向うつむいて顔を見ると、早瀬はわずかに目をいて、
「なぜとは?」
「…………」
「第一、貴女に、見せられる顔じゃありません。」
 と云う呼吸いきづかいが荒くなって、毛布けっとを乗出した、薄い胸の、あらわな骨が動いた時、道子の肩もわなわなして、真白な手のおののくのが、雪の乱るるようであった。
「安東村へおともをしたのは……夢ではないのでございますね。」
 早瀬は差置かれた胸の手に、し殺されて、あたかも呼吸の留るがごとく、そのくるしみを払わんとするように、痩細やせほそった手で握って、幾度いくたびも口を動かしつつ辛うじて答えた。
「夢ではありません、が、この世の事ではないのです。お、お道さん、毒を、毒を一思いに飲まして下さい。」
 とうおの渇けるがごとくもだゆる白歯に、傾くびんからこぼるるよと見えて、一片ひとひらの花が触れた。
 さっとなった顔を背けて、
「夢でなければ……どうしましょう!」
 と道子は崩れたように膝を折って、寝台の端に額を隠した。窓の月は、キラリとこうがいつやに光って、雪燈ぼんぼりは仄かに玉のごときうなじを照らした。
 これよりさき、看護婦の姿が欄干から消えて、早瀬の病室のが堅くとざされると同時に、裏階子うらはしごの上へ、ふとあらわれた一にんおんながあって、うずたかい前髪にも隠れない、鋭い瞳は、と長廊下を射るばかり。それが跫音あしおとひそめて来て、隣の空室あきまへ忍んだことを、断って置かねばならぬ。こは道子等の母親である。
 ――同一おなじ事が――同一事が……五晩六晩続いた。

       四十五

 妙なことが有るもので、夜ごとに、道子が早瀬の病室を出る時間の後れるほど、人こそ替れ、二人ずつの看護婦の、階子段の欄干を離れるのが遅くなった。
 どうせそこに待っていて、一所に二階を下りるのではない――要するに、遠くから、早瀬の室を窺う間が長くなったのである、と言いかえれば言うのである。
 で、今夜もまた、早瀬の病室の前で、道子に別れた二人の白衣びゃくえが、多時しばらく宙にかかったようになって、欄干の処に居た。
 広庭を一つ隔てた母屋の方では、宵の口から、今度暑中休暇で帰省した、牛込桐楊塾の娘たちに、内の小児こどもおいだの、めいだのが一所になった処へ、また小児同志の客があり、草深の一家いっけも来、ヴァイオリンが聞える、洋琴オルガンが鳴る、唱歌を唄う――この人数にんずへ、もう一組。菅子の妹の辰子というのが、福井県の参事官へ去年こぞの秋縁着いてもうが出来た。その一組が当河野家へ来揃うと、この時だけは道子と共に、一族残らず、乳母小間使と子守を交ぜて、ざっと五十人ばかりの人数で、両親ふたおやがついて、かねてこれがために、清水みなとに、三保に近く、田子の浦、久能山、江尻はもとより、興津おきつ清見きよみ寺などへ、ぶらりと散歩が出来ようという地を選んだ、宏大な別荘のもうけが有って、例年必ずそこへ避暑する。一門の栄華を見よ、と英臣大夫妻、得意の時で、昨年は英吉だけ欠けたが、……今年も怪しい。そのかわり、新しく福井県の顕官が加わるのである……
 さて母屋の方は、葉越に映るともしびにも景気づいて、小さいのがもてあそぶ花火の音、松のこずえに富士より高く流星も上ったが、今はしずかになった。
 壇の下から音もなく、形の白い脊の高いものが、ぬいと廊下へ出た、と思うと、看護婦二人は驚いて退すさった。
 来たのは院長、医学士河野理順である。
 ホワイト襯衣しゃつに、しまあらゆるやか筒服ずぼん、上靴を穿いたが、ビイルをあおったらしい。充血した顔の、額に顱割はちわれのある、ひげの薄い人物で、ギラリと輝く黄金縁きんぶちの目金越に、看護婦等をめ着けながら、
「君たちは……」
 と云うたまなこが、目金越に血走った。
「道子に附いているんじゃないか。」
「は、」と一にんこうべを下げる。
「どうしたか。」
「は、早瀬さんの室を、お見舞になります時は、いつもわたくしどもはお附き申しませんでございます。」とさわやかな声で答えた。
「なぜかい。」
「奥様がおっしゃいます。御本宅の英吉様の御朋友ですから、看護婦なぞを連れてはえらそうに見えて、容体ぶるようで気恥かしいから、とおっしゃって、お連れなさいませんので、は……」と云う。
「いつもそうか。」
 と尋ねた時、衣兜かくしに両手を突込んで、肩をゆすった。
「はい、いつでも、」
「む、そうか。」と言い棄てに、荒らかに廊下を踏んだ。

「あれ、主人あるじ跫音あしおとでございます。」
「院長ですか。」
 道子は色を変えて、
「あれ、どうしましょう、こちらへ参りますよ。アレ、」
「院長が入院患者を見舞うのに、ちっとも不思議はありません。」と早瀬は寝ながら平然として云った。
 目も尋常ただならず、おろおろして、
「両親も知りませんが、主人あるじひどい目に逢わせますのでございますよ。」としめ木にかけられた様に袖を絞って立窘たちすくむと、
寝台ねだいの下へお隠れなさい。いから、」
 とむっくと起きた、早瀬は毛布けっとひるがえして、夫人の裾を隠しながら、寝台にきっと身構えたトタンに、
「院長さんが御廻診ですよう!」と看護婦の金切声が物凄ものすごく響いたのである。
 理順は既に室に迫って、あわや開けようとすると、どこに居たか、忽然こつぜんとして、母夫人が立露たちあらわれて、ドアに手を掛けた医学士の二の腕を、横ざまにグッとおさえて……曰く、
「院長。」
 と、その得も言われぬ顔を、例の鋭い目で、じろりと見て、
「どうぞ、こちらへ。いいえ、是非。」
 燃ゆるがごとき嫉妬のかいなを、小脇にしっかり抱込んだと思うと、早や裏階子の方へ引いて退いた。――


     蛍

       四十六

おれが分るか、分るか。おお酒井だ。分ったか、しっかりしな。」
 酒井俊蔵ただ一人、臨終いまわのお蔦の枕許に、親しく顔を差寄せた。次の間には……
「ああ、みんな居るとも。妙も居るよ。大勢居るから気を丈夫に持て! ただ早瀬が見えん、残念だろう、己も残念だ。病気で入院をしていると云うから、致方いたしかたが無い。断念あきらめなよ。」
 と、黒髪ばかりは幾千代までも、早やその下に消えそうな、薄白んだ耳に口を寄せて、
「未来で会え、未来で会え。未来で会ったら一生懸命に縋着すがりついていて離れるな。己のような邪魔者の入らないように用心しろ。きっと離れるなよ。先生なんぞ持つな。
 己はこういう事とは知らなんだ。お前より早瀬の方が可愛いから、あれに間違いの無いように、怪我の無いようにと思ったが、可哀相な事をしたよ。
 早瀬に過失あやまちをさすまいと思う己の目には、お前の影は彼奴あいつに魔がしているように見えたんだ。お前を悪魔だと思った、己はかたきだ。なかせいたって処女きむすめじゃない。まこと逢いたくば、どんなにしても逢えん事はない。世間体だ、一所に居てこそ不都合だが、内証なら大目に見てやろうと思ったものを、お前たちだけに義理がたく、死ぬまで我慢をしとおしたか。可哀相に。……今更卑怯な事はわない、己を怨め、酒井俊蔵を怨め、己をのろえよ!
 どうだ、自分で心を弱くして、とても活きられない、死ぬなんぞと考えないで、もう一度石にくいついても恢復なおって、生樹なまきを裂いた己へ面当つらあてに、早瀬と手を引いて復讐しかえしをして見せる元気は出せんか、意地は無いか。
 もう不可いけまいなあ。」
 と、忘れたようなお蔦の手を膝へ取って、じっと見て、
せたよ。一昨日おととい見た時よりまた半分になった。――これ、目をきなよ、しっかりしな、己だ、分ったか、ああ先生だよ。みんな居る、妙も来ている。姉さん――小芳か、あすこに居るよ。
 なぜ、お前は気を長くして、早瀬が己ほどの者になるのを待たん、己でさえ芸者の情婦いろは持余しているんだ、世の中は面倒さな。
 あの腰を突けばひょろつくような若い奴が、お前を内へ入れて、それで身を立って行かれるものか。共倒れが不便ふびんだから、剣突けんつくを喰わしたんだが、可哀相に、両方とも国を隔って煩らって、胸一つさすって貰えないのは、お前たち何の因果だ。
 さぞ待っているだろうな、早瀬の来るのを。あれが来るから、と云って、お前、昨夜ゆうべ髪をったそうだ。ああ、島田がく出来た、己が見たよ。」
 と云う時、次の泣音なくねがした。続いてすすり泣く声が聞えたが、その真先まっさきだったのは、お蔦のこれを結った、髪結のお増であった。芸妓げいこ島田は名誉のおんなが、いかに、丹精をぬきんでたろう。
 上らぬ枕を取交えた、括蒲団くくりぶとんいちが沈んで、後毛おくれげの乱れさえ、一入ひとしお可傷いたましさに、お蔦は薄化粧さえしているのである。
 お蔦は恥じてか、見てほしかったか、肩をひねって、まげを真向きに、毛筋も透通るようなうなじを向けて、なだらかに掛けた小掻巻こがいまきの膝のあたりに、一波打つと、力を入れたらしく寝返りした。

       四十七

「似合った、似合った、ああ、島田がく出来た。早瀬なんかに分るものか。顔を見せな、さあ。」
 とじりりと膝を寄せて、その時、さっと薄桃色のまぶたうるんだ、冷たい顔が、夜の風にそよぐばかり、しとねくまおもかげ立つのを、縁から明取あかりとりの月影に透かした酒井が、
「誰か来て蛍籠を外しな、いやな色だ。」
「へへい、」と頓興な、ぼやけた声を出して、組がつぎの当った千草色の半股引はんももひきで、縁側を膝立って来た――おんなたちは皆我を忘れて六畳に――中には抱合って泣いているのもあるので、惣助一人三畳の火鉢のわきに、割膝でかしこまって、歯を喰切くいしばった獅噛面しがみづらは、額に蝋燭ろうそくの流れぬばかり、絵にある燈台鬼という顔色がんしょく。時々病人の部屋がしんとするごとに、隣の女連の中へ、四ツばいに顔を出して、
(死んだか、)と聞いて、女房のお増に流眄しりめにかけられ、
(まだか、)と問うて、まためつけられ、苦笑いをしては引込ひっこんで控えたのが――大先生の前なり、やがて仏になる人の枕許、謹しんで這って出て、ひょいと立上って蛍籠を外すと、居すくまった腰がすわらず、ひょろり、で、ドンと縁へ尻餅。魂が砕けたように、胸へ乱れて、颯と光った、籠の蛍に、ハット思う処を、
「何ですね、お前さん、」
 と鼻声になっている女房かみさん剣呑けんのみを食って、慌てて遁込にげこむ。
 この物音に、お蔦はまたぱっちりと目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらいて、心細く、寂しげに、枕を酒井に擦寄せると……
みんな居る、寂しくはないよ。しかしどうだい。早瀬が来たら、誰も次のへ行って貰って、こうやって、二人許りで、言いたいことがあるだろう。致方しかたが無い断念あきらめな。断念めて――己を早瀬だと思え。世界に二人と無い夫だと思え。早瀬よりえらい男だ。学問も出来る、名も高い、腕も有る、あれよりは年も上だ。脊も高い、腹もたしかだ、声もおおきい、酒も強い、借金も多い、男ぶりもあれよりましだ。女房もあり、情婦いろもあり、娘も有る。地位も名誉も段違いの先生だ。酒井俊蔵を夫と思え、情夫いろおとこと思え、早瀬主税だと思って、言いたいことを言え、したいことをしろ、不足はあるまい。念仏も弥陀みだなんにも要らん、一心に男の名をとなえるんだ。早瀬と称えて袖にすがれ、胸を抱け、お蔦。……早瀬が来た、ここに居るよ。」
 と云うと、縋りついて、膝に乗るのを、横抱きにうなじを抱いた。
 トつかまろうとする手に力なく、二三度探りはずしたが、震えながらしっかりと、酒井先生の襟をつかんで、
咽喉のどが苦しい、ああ、呼吸いきが出来ない。素人らしいが、(と莞爾にっこりして、)口移しに薬を飲まして……」
 酒井は猶予ためらわず[#「猶予らわず」は底本では「猶了らわず」]、水薬を口に含んだのである。
 がっくりと咽喉を通ると、気が遠くなりそうに、仰向けに恍惚うっとりしたが、
「早瀬さん。」
「お蔦。」
「早瀬さん……」
「むむ、」
、先生が逢っても可いって、嬉しいねえ!」
 酒井は、はらはらと落涙した。


     おとずれ

       四十八

 病室の寝台ねだいに、うつらうつらしていた早瀬は、フト目が覚めたが……昨夜あたりから、歩行あるいてかわやかれるようになったので、もう看護婦も付いておらぬ。毎晩きまったように見舞ってくれた道子が、一昨日おとといの……あの時から、ふッつり来ないし、一寝入りして覚めた今は、昼間、菅子に逢ったのも、世を隔てたようで心寂しい。室内を横伝い、まだ何か便り無さそうだから、寝台の縁に手をかけて、腰を曲げるようにして出たが、の外になると、もう自分でも足のたしかなのが分って、両側のそちこちに、白い金盥かなだらい昇汞水しょうこうすいの薄桃色なのが、飛々の柱燈はしらあかりに見えるのを、気の毒らしく思うほど、気も爽然さっぱりして、通り過ぎた。
 どこも寝入って、しんとして、この二三日[#「二三日」は底本では「三三日」]めっきり暑さが増したので、中にはを明けたまま、看護婦が廊下へ雪のようなすそを出して、戸口によこたわって眠ったのもあった。遠くで犬の吠ゆる声はするが、幸いどの呻吟声うめきごえも聞えずに、更けてかれこれ二時であろう。
 厠は表階子おもてばしご取附とッつきにもあって、そこはあかりあかるいが、風はし、廊下は冷たし、歩行あるくのも物珍らしいので、早瀬はわざと、遠い方の、裏階子の横手の薄暗い中へ入った。
 ざぶり水をけながら、見るともなしに、小窓の格子から田圃たんぼを見ると、月はの棟に上ったろう、影は見えぬが青田の白さ。
 風がそよそよと渡ると見れば、波のように葉末が分れて、田の水の透いたでもなく、ちらちらと光ったものがある。緩い、遅い、稲妻のように流れて、もやのかかった中に、土のひだが数えられる、大巌山の根を低くめぐって消えたのは、どこかの電燈がひらめいて映ったようでもあるし、蛍が飛んだようにも思われる。
 手水ちょうずと、その景色にぶるぶると冷くなって、直ぐに開けて出ようとする。戸の外へ、何か来て立っていて、それがために重いような気がして、思わず猶予ためらって[#「猶予って」は底本では「猶了って」]、暗い中に、昼間かえた自分の浴衣の白いのを、ながめて悚然ぞっとしてせきをしたが、口のうちで音には出ぬ。
「早瀬さん。」
「お蔦か、」
 と言った自分の声に、聞えた声よりも驚かされて、耳を傾けるや否や、かっとなって我を忘れて、しゃにむに引開けようとした戸が、少しきしんで、ヒヤリと氷のような冷いものを手に掴んで、そのまま引開けると、裏階子がおおきな穴のように真黒まっくろなばかりで、別に何にも無い。
 瓦をむように棟近く、夜鴉よがらすが、かあ、と鳴いた。
 鳴きながら、伝うて飛ぶのを、※(「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2-12-81)ぼうとして仰ぎながら、導かれるようにふらふらと出ると、声の止む時、壇階子の横を廊下に出ていた。
 と見ると打向い遥か斜めなる、かれが病室の、半開きにして来たの前に、ちらりと見えたおんなの姿。――出たのか、入ったのか、直ぐに消えた。
 ぱたぱたと、我ながらあわただしく跫音あしおと立てて、一文字に駈けつけたが、室へ入口で、思わず釘附にされたようになった。
 バサリと音して、一握ひとにぎりの綿が舞うように、むくむくとうずまくばかり、枕許の棚をほとんどころがって飛ぶのは、大きな、色の白いひとりむしで。
 枕をかけて陰々とした、ともしびの間に、あたかもまりのような影がさした。棚には、菅子が活けて置いた、浅黄の天鵝絨びろうどに似た西洋花の大輪おおりんがあったが、それではなしに――筋一ツ、元来の薬ぎらいが、快いにつけて飲忘れた、一度ぶり残った呑かけの――水薬すいやくの瓶に、ばさばさと当るのを、じっみつめて立つと、トントントンと壇を下りるような跫音がしたので、どこか、と見当も分らず振向いたのが表階子の方であった。その正面の壁に、一番あかるかったが、アワヤ消えそうになっている。
 その時、ひとりむしに向うごとく、と踏込む途端に、
「私ですよう引[#「引」は小書き]」と床に沈んで、足許の天井裏に、電話の糸を漏れたような、夢の覚際に耳に残ったような、胸へだけ伝わるような、お蔦の声が聞えたと思うと、ひとりむしがハタと落ちた。
 はじめて心付くと、厠の戸で冷く握って、今まで握緊にぎりしめていた、左のこぶしに、細い尻尾のひらひらと動くのは、一ぴき守宮やもりである。
 はっと開くと、しずくのように、ぽたりと床に落ちたが、足を踏張ったまま動きもせぬ。これに目も放さないで、手を伸ばして薬瓶を取ると、伸過ぎた身の発奮はずみに、蹌踉よろけて、片膝をいたなり、口を開けて、垂々たらたらそそぐと――水薬の色が光って、守宮の頭をもたげてにらむがごとき目をかけて、滴るや否や、くるくると風車のごとく烈しく廻るのが、見る見る朱を流したように真赤まっかになって、ぶるぶると足を縮めるのを、早瀬は瞳を据えてきっと視た。

       四十九

 早瀬はその水薬すいやく残余のこり火影ほかげに透かして、透明な液体の中に、芥子粒けしつぶほどの泡の、風のごとくめぐるさまに、莞爾にっこりして、
「面白い!」
 と、投げる様に言棄てたが、恐気おそれげも無く、一分時の前は炎のごとく真紅まっかに狂ったのが、早や紫色に変って、床に氷ついて、ひるがえった腹の青い守宮やもりつまんで、ぶらりと提げて、鼻紙を取って、薬瓶と一所に、八重にくるくると巻いて包んで、枕許のその置戸棚の奥へ、着換の中へ突込んで、ついでにまだ、何かそこらを探したのは、落ちた蛾を拾おうとするらしかったが、それは影も無い。
 なお棚には、他に二つばかり処方の違った、今は用いぬ、同一おなじ薬瓶があった。その一個ひとつを取って、ハタと叩きつけると、床に粉々になるのを見向きもしないで、躍上るように勢込んで寝台ねだいに上って、むずと高胡坐たかあぐらを組んだと思うと、廊下の方をきっと見て、
「馬鹿な奴等! 誰だと思う。」
 と言うとひとしく、仰向けに寝て、毛布けっとを胸へ。――とりの声を聞きながら、大胆不敵ないびきで、すやすやと寝たのである。
 暁かけて、院長が一度、河野の母親大夫人が一度、前後して、この病室を差覗さしのぞいて、人知れず……立去った。
 早瀬が目を覚ますと、受持の看護婦が、
「薬は召上りましたか。瓶が落ちてれておりましたが。」
 と注意をしたのは言うまでもなかった。
 で、あたらしい瓶がもう来ていたが、この分は平気で服した。
 その日あかりくちと前に、早瀬は帯を緊直しめなおして、看護婦を呼んで、
「お世話になりました。お庇様かげさまでどうやら助りました。もう退院をしまして宜しいそうで、後の保養は、河野さんの皆さんがいらっしゃる、清水港の方へ来てしてはどうか、と云って下さいますから、参ろうかと思います。何にしても一旦塾の方へ引取りますが、種々いろいろ用がありますから、人を遣って、内の小使をお呼び下さい。それから、お呼立て申して済みませんが、少々お目に懸りたい事がございます。ちょっとこの室までお運びを願いたい、と河野さんに。……いや、院長さんじゃありません、母屋にいらっしゃる英臣さん。」
「はあ、大先生に……申し上げましょう。」
「どうぞ。ああ、もし、もし、」
 と出掛けた白衣びゃくえの、腰のふといのを呼留めて、
「御書見中ででもありましたら、御都合に因って、こちらから参りましてもうございますと。」
 馴染んでいるから、黙ってうなずいて室を出て、表階子の方へ跫音あしおとがして、それぎり忙しい夕暮の蝉の声。どこかの室で、新聞を朗読するのが聞えたが、ものの五分間ったのではなかった。二階もまだ下り切るまいと思うのに、看護婦が、ばたばたせわしく引返して、発奮はずみに突込むように顔を出して、
「お客様ですよ。」
「島山さんの?」
 と言う、呼吸いきも引かず、早瀬は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって茫然とした。
 昨夜ゆうべの事の不思議より、今目前まのあたりの光景を、かえって夢かと思うよう、恍惚うっとりとなったも道理。
 看護婦の白衣にかさなって、紫の矢絣やがすりの、色の薄いが鮮麗あざやかに、朱緞子しゅどんすに銀と観世水のやや幅細な帯を胸高に、緋鹿子ひがのこ背負上しょいあげして、ほんのり桜色に上気しながら、こなたを見入ったのは、お妙である!
「まあ!……」
 ときょとんとして早瀬はひたとみつめた。
「主税さん。」
 と、一年越、十年ととせも恋しく百年ももとせ可懐なつかしい声をかけて、看護婦のかたわらをすっと抜けて真直まっすぐに入ったが、
「もうくって?」
 と胸を斜めに、帯にさし込んだ塗骨の扇子おうぎも共に、差覗さしのぞくようにした。
「お嬢さん……」とまだ※(「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2-12-81)ぼうとしている。
「しばらくね。」
 とさきへ言われて、はじめて吃驚びっくりした顔をして、
「先生は?」
「宜しくッて、母さんも。」と、ちゃんと云う。

       五十

 寝台ねだいと椅子との狭い間、目前めさきにその燃ゆるような帯が輝いているので、すべり下りようとする、それもならず。蒼空あおぞらの星を仰ぐがごとく、お妙の顔を見上げながら、
「どうして来たんです。誰と。貴女あなた。いつ。どの汽車で。」と、一呼吸ひといきあわただしい。
「今日の正午おひるの汽車で、今来たわ。惣助ッて肴屋さかなやさんが一所なの。」
「ええ、組がお供で。どうしてあれを御存じですね。」
「お蔦さんの事よ、」
 と言いかける、口のつぼみが動いたと思うと、睫毛まつげが濃くなって、ほろりとして、振返ると、まだそこに、看護婦が立っているので、慌ててたもとを取って、揉込もみこむように顔を隠すと、美しい眉のはずれから、ふりひるがえって、朱鷺とき色のの長襦袢の袖が落ちる。
「今そんな事を聞いちゃ、いや!」
 と突慳貪つっけんどんなように云った。、問いそそこに人あるに、涙堪えず、と言うのである。
 看護婦は心得て、
「では、あの、お言託ことづけは。」
「ちと後にして頂きましょう。お嬢さん、そして、お伴をしました、組の奴は?」
停車場ステイションで荷物を取って来るの。半日なら大丈夫だって、氷につけてね、貴下あなたすきなお魚を持って来たのよ。病院ならき分ります、早くいらっしゃいッて、車をそう云って、あの、私も早く来たかったから、先へ来たわ。みんな、そうやって思ってるのに、貴下あなたひどいわ。手紙も寄越さないんですもの。お蔦さん……」
 とまた声が曇って、黙って差俯向さしうつむいた主税を見て、
「あの、私ねえ、いろいろ沢山話があるわ。入院していらっしゃる、と云うから、どんなに悪いんだろうと思ったら、起きていられるのね。それだのに、まあ……お蔦さん……私……貴下に叱言こごとを言うこともあるけれど、大事な用があるから、それを済ましてからゆっくりしましょうね。」
 と甘えるように直ぐ変って、さも親しげに、
小刀ナイフはあって?」
 余り唐突だしぬけな問だったから、口も利けないで……また目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはる。
「では、さあ、私の元結もとゆいを切って頂戴。」
元結もとゆいを? お嬢さんの。」
「ええ、私の髪の、」
 と、主税が後へずらないとその膝に乗ったろう、色気も無く、寝台ねだいの端に、後向きに薄いお太鼓の腰をかけると、緋鹿子がまた燃える。そのままお妙は俯向うつむいて、玉のごときうなじを差伸べ、
「お切んなさいよ、さあ、早くよ。父上とうさんも知っていてよ、いんだわ。」
 と美しく流眄ながしめに見返った時、危なく手がふるえていた。小刀のさきが、夢のごとく、元結をはじくと、ゆらゆらと下った髪を、お妙が、はらりとったので、さっと流れた薄雲の乱るる中から、ふっと落ちた一握ひとにぎりの黒髪があって、主税の膝に掛ったのである。
 早瀬は氷を浴びたように悚然ぞっとした。
「お蔦さんにことづかったの。あの、記念かたみにね、貴下に上げて下さいッて、主税さん、」
 と向うざまに、椅子のかかり俯伏うつぶせになると、抜いて持ったかんざしの、花片が、リボンを打って激しく揺れて、
「もうそのほかには逢えないのよ。」
 お蔦の記念の玉の緒は、右の手に燃ゆるがごとく、ひやひやと練衣ねりぎぬの氷れるごとき、筒井筒振分けて、丈にも余るお妙の髪に、左手ゆんでそっと掛けながら、今はなかなかに胴据どうすわって、主税は、もの言う声もたしかに、
「亡くなったものの髪毛かみのけなんぞ。……
 飛んでも無い。先生がい、とおっしゃいましたか、奥様が可い、とおっしゃったんですかい。こんなものをおつむりへ入れて。御出世前の大事なお身体からだじゃありませんか。ああ、鶴亀々々、」
 と貴いものに触るように、しずかにその緑のつやを撫でた。
「私、出世なんかしたかないわ。髪結さんにでも何にでもなってよ。」
 と勇ましく起直って、
「父さんがね、主税さん、病気が治ったら東京へお帰んなさいッて、そうして、あの、……お墓参をしましょうね。」


     日蝕

       五十一

 日盛りの田畝道たんぼみちには、草の影も無く、人も見えぬ。村々では、朝からしとみを下ろして、羽目を塞いだのさえ少くない。田舎は律義で、日蝕は日の煩いとて、その影には毒あり、光には魔あり、熱にはやまいありと言伝える。さらぬだにその年は九分九厘、ほとんど皆既蝕と云うのであった。
 早朝あさまだき日の出の色の、どんよりとしていたのが、そのまま冴えもせず、曇りもせず。鶏卵たまご色に濁りを帯びて、果し無き蒼空あおぞらにただ一つ。別に他に輝ける日輪があって、あたかもその雛形ひながたのごとく、灰色の野山の天に、寂寞として見えた――
 風は終日ひねもす無かった。蒸々むしむしと悪気の籠った暑さは、そこらの田舎屋を圧するようで、空気は大磐石に化したるごとく、嬰児みどりご泣音なくねも沈み、鶏のさえ羽叩くにものうげで、庇間ひあわいにかけた階子はしごに留まって、じっと中空を仰ぐのさえ物ありそうな。透間にし入る日の光は、風に動かぬ粉にも似て、人々の袖に灰を置くよう、身動みじろぎにも払われず、物蔭にも消えず、こまやかに濃く引包ひッつつまれたかのおもいがして、手足も顔も同じ色の、蝋にも石にもかたまるか、とばかり次第に息苦しい。
 白昼凝って、ことごとく太陽の黄なるを包む、混沌こんとんたる雲の凝固かたまりとならんず光景ありさま。万有あわや死せんとす、と忌わしき使者つかいの早打、しっきりなく走るはからすで。黒きつぶてのごとく、灰色の天狗てんぐのごとく乱れ飛ぶ、とこれに驚かされたようになって、大波を打つのは海よ。その、山の根をうねり、岩に躍り、なぎさかえって、沖を高く中空に動けるは、我ここに天地の間に充満みちみちたり、何物の怪しき影ぞ、まどかなる太陽の光をおおうやとて、大紅玉の悩めるおもてを、ぬぐい洗わんと、苛立ち、もだえ、憤れるさまがあったが、日の午に近きころおいには、まさにその力尽き、骨えて、また如何いかんともするあたわざる風情して、この流動せる大偉人は、波を伏せしぶ[#「さんずい+散」、367-14]きを収めて、なよなよと拡げた蒼き綿のようになって、興津、江尻、清水をかけて、三保の岬、田子の浦、久能の浜に、音をも立てず倒れたのである。
 一たちまち欠け始めた、日の二時頃、何の落人おちゅうどあわただしき車の音。一町ばかりを絶えず続いて、轟々ごろごろと田舎道を、清水港の方から久能山のかたへ走らして通る、数八台。真前まっさきの車が河野大夫人富子で、次のが島山夫人菅子、続いたのが福井県参事官の新夫人辰子、これが三番目の妹で、その次に高島田に結ったのが、この夏さる工学士とまた縁談のある四番の操子みさこで、五ツ目の車が絹子と云う、三五の妙齢。六台目にお妙が居た。
 一所に東京へと云うのを……仔細しさいあって……早瀬が留めて、清水港の海水浴に誘ったのである。
 お妙の次を道子が乗った。ドン尻に、組の惣助、おんなばかりの一群ひとむれには花籠に熊蜂めくが、此奴こいつ大切なお嬢のかたえを、決して離れる事ではない。
 これはけだし一門の大統領、従五位勲三等河野英臣の発議に因て、景色の見物をかねて、久能山の頂で日蝕の観測をしようとするもよおしで。この人達には花見にも月見にも変りはないが、驚いて差覗いた百姓だちの目には、天宮に蝕の変あって、天人たちがげるのだと思ったろう。
 共に清水港の別荘に居る、各々めいめいの夫は、別に船をしつらえて、三保まわりに久能の浜へぎ寄せて、いずれもその愛人の帰途かえりを迎えて、夜釣をしながら海上を戻る計画。
 小児こどもたち、幼稚おさないのは、もり、乳母など、一群ひとむれに、今日は別荘に残った次第。すでに前にも言ったように、この発議は英臣で、真前まっさきに手をって賛成したのは菅子で、余は異論なく喜んで同意したが、島山夫人は就中なかんずく得意であった。
 と云うのは、去年汽車の中で、主税が伊太利人に聞いたと云うのを、夫人から話し伝えて、まだ何等の風説の無い時、東京の新聞へ、この日の現象を細かに論じて載せたのは理学士であったから。その名たちまち天下に伝えて、静岡では今度の日蝕を、(島山蝕)――とさえとなえたのである。

       五十二

 田をく時、白鷺が驚いて立った。村を出る時、小店の庭の松葉牡丹まつばぼたんに、ちらちら一行の影がさした。つらなる車は、薄日なれば母衣ほろを払って、手に手にさしかざしたいろいろの日傘に、あたかも五彩の絹を中空に吹きなびかしたごとく、死したる風もさっと涼しく、美女たおやめたちのおもてを払って、久能のふもとへ乗附けたが、途中では人一人、行脚の僧にも逢わなかったのである。
 蝕あり、変あり、兵あり、みだれある、魔に囲まれた今日の、日の城の黒雲を穿うがった抜穴の岩に、足がかりを刻んだ様な、久能の石段の下へ着くと、茶店は皆ひしひしと真夜中のごとく戸をとざして、蜻蛉とんぼうも飛ばず。白茶けた路ばかり、あかあかと月影を見るように、寂然ひっそりとしているのを見て、大夫人が、
「野蛮だね。」
 と嘲笑あざわらって、車夫に指揮さしずして、一軒店を開けさして、少時しばらく休んで、支度が出来ると、帰りは船だから車は不残のこらず帰す事にして、さておおいなる花束の糸を解いて、縦に石段に投げかけた七人の裾袂、ひらひらと扇子を使うのが、さながら蝶のひらめくに似て、組を後押えで、あの、石段にかかった。
 が、河野の一族、頂へ上ったら、思いがけない人を見よう。
 これよりさき、相貌堂々として、何等か銅像のゆるぐがごとく、おとがいひげ長き一個の紳士の、にぎりしろがねの色の燦爛さんらんたる、太くたくましステッキいて、ナポレオン帽子のひさし深く、額に暗きしわを刻み、満面にもゆるがごとき怒気を含んで、頂の方を仰ぎながら、靴音を沈めて、石段をじて、松のこずえに隠れたのがあった。
 これなん、ここに正に、大夫人がなせるごとく、海を行く船の竜頭に在るべき、河野の統領英臣であったのである。
 英臣が、この石段を、もう一階で、東照宮の本殿になろうとする、一場の見霽みはらしに上り着いて、海面うなづらが、高くその骨組の丈夫な双の肩にかかった時、音に聞えた勘助井戸を左に、右に千仞せんじんの絶壁の、豆腐を削ったような谷に望んで、幹には浦の苫屋とまやすかし、枝には白きなぎさを掛け、緑に細波さざなみの葉を揃えた、物見の松をそれぞと見るや――松のもとなる据置の腰掛に、長くなって、肱枕ひじまくらして、おもてを半ば中折の帽子で隠して、羽織を畳んで、懐中ふところに入れて、枕したつむりわきに、薬瓶かと思う、小さな包を置いて、悠々と休んでいた一個ひとりの青年を見た。
 と立向って、英臣がステッキを前につき出した時、日を遮った帽子を払って、柔かに起直って、待構え顔にと見迎えた。その青年を誰とかなす――病後の色白きが、清くせて、鶴のごとき早瀬主税。
 英臣は庇下ひさしさがりに、じろりとながめて、
はやかった、のう」と鷹揚おうように一ツあごでしゃくる。
「御苦労様です。」
 と、主税は仰ぐようにして云った。
「いや、ここで話しょうと云うたのはわしじゃで、君の方が病後大儀じゃったろう。しかし、こんな事を、好んで持上げたのはそちらじゃて、五分々々か、のう、はははは、」
 と髯の中に、唇が薄く動いて、せせら笑う。
 早瀬は軽く微笑ほほえみながら、
「まあ、お掛けなさいまし。」
 と腰掛けたかたわらを指ではじいた。
「や、ここでえ。話はき分る。」と英臣はステッキを脇挟んで、葉巻をくわえた。
「早解りは結構です、そこで先日のお返事は?」
「どうかせい、と云うんじゃった、のう。もう一度云うて見い。」
「申しましょうかね。」
「うむ、」
 と吸いつけたつばを吐く。
「ここできめて下さいましょうか。過日このあいだ、病院で掛合いました時のように、久能山で返事しようじゃ困りますよ。ここは久能山なんですから。またと云っちゃ竜爪山りゅうそうざんへでも行かなきゃならない。そうすりゃ、まるで天狗が寄合いをつけるようです。」
「余計な事を言わんで、簡単に申せ。」
 と今の諧謔かいぎゃくにやや怒気を含んで、
わし対手あいてじゃ、立処たちどころに解決してやる!」
「第一!」
 と言った……主税の声はほがらかであった。
貴下あなたの奥さんを離縁なさい。」


     隼

       五十三

 一言亡状いちげんぼうじょうを極めたにも係わらず、英臣はかえって物静ものしずかに聞いた。
「なぜか。」
馬丁べっとう貞造と不埒ふらちして、お道さんを産んだからです。」
 強いてことばを落着けて、
「それから、」
「第二、お道さんを私に下さい。」
「何でじゃ?」
「私と、いい中です。」
「むむ、」
 と口の内で言った。
「それから、」
「第三、お菅さんを、島山から引取っておしまいなさい。」
「なぜな。」
「私と約束しました。」
「誰と?」
 はたと目を怒らすと、早瀬は澄まして、
「私とさ。」
「うむ、それから?」
「第四、病院をおつぶしなさい。」
「なぜかい。」
「医学士が毒をります。」
「まだ有った、のう。」と、落着いて尋ねた。
「河野家の家庭は、かくのごとくけがれ果てた。……最早や、せがれの嫁をるのに、ひとの大切な娘の、身分系図などをしらべるような、不埒な事はいたしますまい。また一門の繁栄を計るために、娘どもを餌にして、婿を釣りますまい。
 就中なかんずく、独逸文学者酒井俊蔵先生の令嬢に対して、身の程も弁えず、無礼をつかまつりました申訳が無い、とお詫びなさい。
 そうすりゃ大概、河野家は支離滅裂、貴下のいわゆる家族主義の滅亡さ。そこで敗軍した大将だ。貴下は安東村の貞造の馬小屋へでも引込ひっこむんだ。ざっと、まあ、これだけさ。」
 と帽子で、そよそよと胸をあおいだ。
 時に蝕しつつある太陽を、いやが上におおい果さんずる修羅の叫喚さけび物凄ものすさまじく響くがごとく、油蝉の声の山の根に染み入る中に、英臣は荒らかな声して、
「発狂人!」
「ああ、狂人きちがいだ、が、ほかの気違は出来ないことを云って狂うのに、この狂気きちがいは、出来る相談をして澄ましているばかりなんだよ。」
 舌もやや釣る、唇をうごめかしつつ、
「で、わしがその請求をかんけりゃ、きさま、どうすッとか言うんじゃのう。」と、太息をいたのである。
「この毒薬の瓶をもって、ちと古風な事だけれど、恐れながらと、ろうと云うのだ。それで大概、貴下の家は寂滅でしょうぜ。」
 英臣は辛うじてののしり得た。
かたりじゃのう、」
「騙ですとも。」
強請ゆすりじゃが。きさま、」
「強請ですとも。」
「それできさま人間か。」
「畜生でしょうか。」
「それでも独逸語の教師か。」
「いいえ、」
「学者と言われようか。」
「どういたしまして、」
「酒井の門生か。」
「静岡へ来てからは、そんな者じゃありません。騙です。」
「何、騙じゃ、」
「強請です。畜生です。そして河野家のあだなんです。」
「黙れ!」
 と一喝、虎のごときうなりをなして、ステッキをひしと握って、
「無礼だ。黙れ、小僧。」
「何だ、小父さん。」
 と云った。英臣は身心ともに燃ゆるがごとき中にも、思わず掉下ふりおろす得物を留めると、主税は正面へ顔を出して、呵々からからと笑って、
「おい、おれを、まあ、何だと思う。浅草田畝たんぼに巣を持って、観音様へ羽をすから、はやぶさりき綽名あだなアされた、掏摸すりだよ、巾着切きんちゃくきりだよ。はははは、これからその気で附合いねえ、こう、頼むぜ、小父さん。」

       五十四

おれが十二の小僧の時よ。朝露の林を分けて、ねぐらを奥山へ出たと思いねえ。けえろつらぶっかけるように、仕かけの噴水が、白粉おしろいの禿げた霜げた姉さんの顔を半分に仕切って、洒亜しゃあと出ていら。そこの釣堀に、四人づれ、皆洋服で、まだ酔のめねえ顔も見えて、帽子はかぶっても大童おおわらわと云う体だ。芳原げえりが、朝ッぱら鯉を釣っているじゃねえか。
 釣ってるのは鯉だけれど、どこのか田畝のどじょうだろう。官員で、朝帰りで、洋服で、釣ってりゃ馬鹿だ、と天窓あたまから呑んでかかって、中でもふならしい奴の黄金鎖きんぐさりへ手を懸ける、としまった! この腕をうんと握られたんだ。
 つかまえてちでもする事か、片手で澄まし込んで釣るじゃねえか。釣った奴を籠へ入れて、(小僧これを持って供をしろ。)ッて、一睨ひとにらみ睨まれた時は、生れて、はじめてすくんだのさ。
 こりゃ成程ちょろッかな(隼)の手でいかねえ。よく顔も見なかったのがこっちの越度おちどで、人品骨柄を見たって知れる――その頃は台湾の属官だったが、今じゃ同一所おんなじとこの税関長、稲坂と云う法学士で、大鵬たいほうのような人物、ついて居た三人は下役だね。
 後で聞きゃ、ある時も、結婚したての細君を連れて、芳原を冷かして、格子で馴染なじみの女に逢って、
(一所に登楼あがるぜ。)と手を引いて飛込んで、今夜は情女いろおんなと遊ぶんだから、お前は次ので待ってるんだ、と名代みょうだいへ追いやって、遊女おいらんと寝たと云う豪傑さね。
 それッきり、細君もかないが、旦那も嫉気じんすけ少しもなし。
 いつか三月ばかり台湾を留守にして、若いその細君と女中と書生を残して置くと、どこのおんな同一おんなじだ。ぜんから居る下役の媽々かかあども、いずれ夫人とか、何子とか云う奴等が、女同士、長官の細君の、年紀としの若いのをそねんだやつさ。下女に鼻薬を飼って讒言つげぐちをさせたんだね。その法学士が内へ帰ると、(お帰んなさいまし、さて奥様はひょんな事。)と、書生と情交わけがあるように言いつける。とよくも聞かないで、――(出てけ。)――と怒鳴り附けた。
 誰に云ったと思います。細君じゃない。その下女にさ。
 どうです。のろかったり、妬過ぎたり、凡人わざじゃねえような、河野さん、貴下のお婿さん連にゃ、こういうのは有りますまい。
 己がつかまったのはその人だ。首をすくめて、鯉のへえった籠を下げて、(魚籃ぎょらん)の丁稚でっちと云う形で、ついてくと、腹こなしだ、とぶらりぶらり、昼頃まで歩行あるいてさ、それから行ったのが真砂町の酒井先生の内だった。
 学校のお留守だったが、親友だから、ずかずかと上って、小僧も二階へ通されたね。(奥さん、これにもお膳を下さい。)と掏摸すりにも、同一おんなじように、吸物膳。
 女中の手には掛けないで、酒井さんの奥方ともあろう方が、まだわかかった――縮緬ちりめんのお羽織で、膳を据えて下すって、(遠慮をしないで召食めしあがれ、)と優しく言って下すった時にゃ、おらあ始めて涙が出たのよ。
 先生がお帰りなさると、四ツ膳の並んだ末に、可愛い小僧が居るじゃねえか。(何だい、)と聞かれたので、法学士が大口開いて(掏摸だよ。)と言われたので、ふッつりめる気になったぜ、犬畜生だけ、なさけにはもろいのよ。
 法学士が、(さあ、使賃だ、祝儀だ、)と一円出して、(酒が飲めなきゃ飯を食ってもう帰れ、御苦労だった、今度ッからもっと上手にれよ。)と言われて、畳にくいついて泣いていると、(親がないんだわねえ、)と、勿体ねえ、奥方の声がうるんだと思いねえ。(晩の飯を内で食って、翌日あすの飯をまた内で食わないか、酒井の籠で飼ってやろう、隼。)と、それから親鳥の声を真似まねて、今でもさえずる独逸語だ。
 世の中にゃ河野さん、こんな猿を養って、育ててくれる人も有るのに、お前さん方は、まあ何という、べらぼうな料簡方りょうけんかただい。
 可愛い娘たちを玉に使って、月給高で、婿を選んで、一家いっけ繁昌はんじょうとは何事だろう。
 たまたま人間に生を受けて、しかも別嬪べっぴんに生れたものを、一生にたった一度、生命いのちとはつりがえの、色も恋も知らせねえで、盲鳥めくらどりを占めるように野郎の懐へ捻込ねじこんで、いや、貞女になれ、賢母になれ、良妻になれ、と云ったって、手品の種を通わせやしめえし、そう、うまく行くものか。
 見たが可い、こう、おれが腕がちょいと触ると、学校や、道学者が、新粉しんこ細工でこしらえた、貞女も賢母も良妻も、ばたばたと将棊倒しだ。」
 英臣の目は血走った。

       五十五

「河野の家には限らねえ。およそ世の中に、家の為に、女のを親勝手に縁附けるほどむごたらしい事はねえ。お為ごかしに理窟を言って、動きの取れないように説得すりゃ、十六や七の何にも知らない、無垢むくむすめが、かぶり一ツり得るものか。羞含はにかんで、ぼうとなって、俯向うつむくので話がきまって、かっ逆上のぼせた奴を車に乗せて、回生剤きつけのような酒をのませる、こいつを三々九度と云うのよ。そこで寝ておきりゃ人の女房だ。
 うっかりひとと口でも利きゃ、直ぐに何のかのと言われよう。それで二人がつながって、光ったなりでもして歩行あるけば、親達は緋縅ひおどしよろいでも着たようにうぬが肩身をひけらかすんだね。
 娘が惚れた男に添わせりゃ、たとい味噌漉みそこしを提げたって、玉の冠をかぶったよりは嬉しがるのを知らねえのか。はたの目からはむしろと見えても、当人には綾錦あやにしきだ。亭主は、おい、親のものじゃねえんだよ。
 己が言うのが嘘だと思ったら、お道さんに聞いて見ねえ。病院長の奥様より、馬小屋へへえっても、早瀬と世帯が持ちたいとよ。お菅さんにも聞いて見ねえ。」
不埒ふらちな奴だ?」
 とゆらめいた英臣の髯の色、口をいて、黒煙に似た。
「不埒は承知よ。不埒を承知でした事を、不埒と言ったって怯然びくともしねえ。えらい、とめりゃ吃驚びっくりするがね。
 今更慌てる事はないさ、はじめから知れていら。お前さんのとこのような家風で、婿を持たした娘たちと、情事いろごとをするくらい、下女を演劇しばいに連出すより、もっと容易たやすいのは通相場よ。
 こう、もう威張ったって仕ようがねえ。恐怖おっかなくはないと言えば、」
 と微笑ほほえみながら、
「そんな野暮な顔をしねえで、よく言うことを聞け、と云うに。――
 おい、まだ驚く事があるぜ。もう一枝、河野の幹をさかえさそうと、お前さんが頼みにしている、四番目の娘だがね、つい、この間、暑中休暇で、東京から帰って来た、手入らずの嬢さんは、医学士にけがされたぜ。
 己に毒薬をらせたし、ばれかかったお道さんの一件を、穏便にさせるために、大奥方の計らいで、院長に押附おッつけたんだ。己と合棒の万太と云う、幼馴染の掏摸の夥間なかまが、ちゃんと材料たねを上げていら。
 やっぱり家の為だろう。河野家の名誉のために、旧悪を知ってる上、お道さんと不都合した、早瀬と云う者を毒殺しようと、娘を一人傷物にしたんじゃないか。
 そこを言うのだ。こどもよりも家を大切がる残酷な親だと云うのは、よ。
 なぜ手をついて懺悔ざんげをしない。悪かった。これからは可愛い娘を決して名聞みょうもんのためには使いますまい。家柄を鼻にかけてひとの娘に無礼も申掛けますまい、と恐入ってしまわないよ。
 小児こども一人犠牲にえにして、毒薬なんぞ装らないでも、坊主になってあやまんねえな。」

       五十六

 おもてらずことばを継ぎ、
「それに、お前さん何と云った。――この間も病院で、この掛合をする前に、念のために聞いた時だ。――
 たって英吉君の嫁に欲しいとお言いなさる、わっしが先生のお妙さんは、実は柳橋の芸者の子だが、それでも差支えは無いのですか、と尋ねたら、お前さん、もっての外な顔をして、いや、途方もない。そんないやしい素性の者なら、たとえ英吉がその為に、こがじにをしようとも、己たち両親が承知をせん。家名に係わる、と云ったろう。
 こう、おめえたちにゃ限らねえ。世間にゃそうした情無なさけねえ了簡な奴ばかりだから、そんな奴等へ面当つらあてに、河野の一家いっけ鎗玉やりだまに挙げたんだ。
 はじめから話にならねえ縁談だから可いけれど、これが先生も承知の上、嬢さんも好いた男で、いざ、と云う時、そでねえ系図しらべをされて、芸者の子だというだけで、破談にでもなった時の、先生御夫婦、お嬢さんの心持はどんなだろう。
 おいらそれを思うから、人間並にゃ附合えねえ肩書つきの悪丁稚あくでっちを、一人前に育てた上、大切な嬢さんに惚れているなら添わしてやろう、とおっしゃって下すった、先生御夫婦のお志。掏摸の野郎と顔をならべて、似而非えせ道学者の坂田なんぞを見返そうと云った江戸児えどッこのお嬢さんに、一式の恩返し、二ツあっても上げたい命を、一ツ棄てるのは安価やすいものよ。
 お前さんにゃ気の毒だ。さぞ御迷惑でございましょう。」
 と丁寧に笑って言って、
「迷惑や気の毒を勘酌しんしゃくして巾着切が出来るものか。真人間でない者に、おめえ、道理を説いたって、義理を言って聞かしたって、巡査おまわりほどにも恐くはねえから、言句もんくなしに往生するさ。いくさに負けた、と思えばかろう。
 掏摸の指でつついても、倒れるような石垣や、蟻で崩れるほり穿って、河野の旗を立てていたって、はじまらねえ話じゃねえか。
 お前さん、さぞ口惜くやしかろう。ちたくば打て、殺したくば殺しねえ、義理を知って死ぬような道理を知った己じゃねえが、嬢さんに上げた生命いのちだから、その生命を棄てるので、お道さんや、お菅さんにも、言訳をするつもりだ。死んでもさびしい事はねえ、女房が先へ行って待っていら。
 お蔦と二人が、毒蛇になって、可愛いお妙さんを守護する覚悟よ。見ろ、あの竜宮に在る珠は、悪竜がまとめぐって、その器に非ずしてみだりに近づく者があると、呪殺すと云うじゃないか。
 呪詛のろわれたんだ、呪詛われたんだ。お妙さんに指を差して、お前たちは呪詛われたんだ。」
 と膝に手を置き、片面はんおもてを、怪しきものの走るがごとくと暗くなった海に向けて、蝕あるすごき日の光に、水底みなそこのその悪竜の影に憧るる面色おももちした時、隼の力の容貌は、かえって哲学者のごときものであった。
 英臣は苔蒸せる石の動かざるごとく緘黙かんもくした。
 一声高らかに雉子きじくと、山は暗くなった。
 勘助井戸の星をのぞこうと、末の娘が真先まっさき飜然ひらりと上って、続いて一人々々、名ある麗人の霊のごとく朦朧もうろうとしてあらわれた途端に、英臣はかねてその心構えをしたらしい、やにわに衣兜かくしから短銃ピストルを出して、と早瀬の胸を狙った。あわやといだき留めた惣助は刎倒はねたおされて転んだけれども、かれあやうし、と一目見て、道子と菅子が、身をおおいに、せなより、胸より、ひしと主税をかばったので、英臣は、おもてを背けて嘆息し、たちまち狙を外らすや否や、大夫人を射て、倒して、硝薬しょうやくの煙とともに、蝕する日のおもてを仰ぎつつ、この傲岸ごうがんなる統領は、自からその脳を貫いた。
 抱合って、目を見交わして、姉妹きょうだい美人たおやめは、身をさかさまに崖に投じた。あわれ、蔦にかずらとどまった、道子と菅子が色ある残懐なごりは、滅びたる世の海の底に、珊瑚さんごの砕けしに異ならず。
 折から沖をはるかに、光なき昼の星よと見えて、天につらなった一点の白帆は、二人の夫等の乗れる船にして、且つ死骸なきがらおもかげに似たのを、妙子に隠して、主税は高く小手をかざした。
 その、清水港の旅店において、じじいは山へ柴苅に、と嬢さんを慰めつつ、そのすやすやとたのを見て、お蔦の黒髪をいだきながら、早瀬は潔く毒を仰いだのである。

 早瀬の遺書は、酒井先生と、河野とに二通あった。
 その文学士河野にてたは。――英吉君……島山夫人が、才と色とをもって、君の為に早瀬をとりこにしようとしたのは事実である。また我自から、道子が温良優順の質に乗じて、はかって情を迎えたのも事実である。けれども、そのいずれの操をもきずつけぬ。双互にただ黙会したのに過ぎないから、乞う、両位の令妹のために、その淑徳を疑うことなかれ。特に君が母堂の馬丁ばていと不徳の事のごときは、あり触れた野人の風説に過ぎなかった。――事実でないのを確めたに就いて、我が最初の目的の達しられないのに失望したが、幸か、不幸か、浅間の社頭で逢った病者の名が、偶然貞造と云うのに便って、狂言して姉夫人を誘出おびきだし得たのであった。従って、第四の令妹の事はもとより、毒薬の根も葉もないのを、深夜ひとりむしともしびちたのを見て、思い着いて、我が同類の万太と謀って、渠をして調えしめた毒薬を、我が手に薬の瓶に投じて、直ちに君の家厳に迫った。
 不義、毒殺、たとえば父子、夫妻、最親至愛の間においても、その実否じっぷを正すべく、これを口にすべからざるていの条件をもって、咄嗟とっさらい発して、河野家の家庭を襲ったのである。私は掏賊すりだ、はじめから敵に対しては、機謀権略、反間苦肉、あらゆる辣手段らつしゅだんを弄して差支えないと信じた。
 要はただ、君が家系門閥もんばつの誇の上に、一部の間隙を生ぜしめて、氏素性、かくのごとき早瀬の前に幾分の譲歩をなさしめん希望に過ぎなかったに、思わざりき、久能山上の事あらんとは。我はひとえに、君の家厳の、左右一顧の余裕のない、一時の激怒をおしむとともに、清冽一塵の交るを許さぬ、峻厳なるその主義に深大なる敬意を表する。
 英吉君、あたうべくは、我意を体して、よりうつくしく、より清き、第二の家庭を建設せよ。人生意気を感ぜずや――云々の意をしたためてあった。
 門族の栄華の雲におおわれて、自家の存在と、学者の独立とを忘れていた英吉は、日蝕の日の、蝕の晴るると共に、嗟嘆さたんして主税に聞くべく、その頭脳はあきらかに、そのまなこは輝いたのである。


早瀬は潔く云々以下、二十一行抹消。――前篇後篇を通じその意味にて御覧を願う。はじめ新聞に連載の時、この二十一行なし。後単行出版に際し都合により、を添えたるもの。あるいはおなじ単行本御所有の方々の、ここにお心つかいもあらんかとて。
明治四十(一九〇七)年一〜四月

底本:「泉鏡花集成12」ちくま文庫、筑摩書房
   1997(平成9)年1月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十卷」岩波書店
   1940(昭和15)年5月15日
初出:「やまと新聞」
   1907(明治40)年1〜4月
入力:真先芳秋
校正:かとうかおり
2000年8月17日公開
2009年2月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。