あらすじ
楢渡《ならわたり》の崖は、深く、赤く、そして恐ろしい。谷底には、青い梢と白樺《しらかば》の幹だけが、小さく見える。その崖の向かい側には、五本の灰色の線が、赤い土から喰み出してゐる。それは、かつて火山灰に埋もれた、古い熔岩流《ようがんりう》の跡だ。昔は繋がっていた二つの崖は、いつかの時代に裂けてしまった。霧の日は、谷底はまっ白で見えなくなる。少年は、馬番の理助に連れられて、その谷へと分け入った。そこには、美味しいきのこが、たくさん生えていた。しかし、理助は、少年に茶色のきのこを採らせ、自分は白いきのこを炭俵に詰め込んだ。少年は、理助の意図が分からず、ただ疑問に思った。そして、その年の秋、少年は、友だちを誘って再び谷へと向かう。果たして、少年は、理助の秘密を解き明かすことができるのか。それにひどく深くて急でしたからのぞいて見ると全くくるくるするのでした。
谷底には水もなんにもなくてたゞ青い梢と白樺などの幹が短く見えるだけでした。
向ふ側もやっぱりこっち側と同じやうでその毒々しく赤い崖には横に五本の灰いろの太い線が入ってゐました。ぎざぎざになって赤い土から喰み出してゐたのです。それは昔山の方から流れて走って来て又火山灰に埋もれた五層の古い熔岩流だったのです。
崖のこっち側と向ふ側と昔は続いてゐたのでせうがいつかの時代に裂けるか罅れるかしたのでせう。霧のあるときは谷の底はまっ白でなんにも見えませんでした。
私がはじめてそこへ行ったのはたしか尋常三年生か四年生のころです。ずうっと下の方の野原でたった一人野葡萄を喰べてゐましたら馬番の理助が欝金の切れを首に巻いて木炭の空俵をしょって大股に通りかかったのでした。そして私を見てずゐぶんな高声で言ったのです。
「おいおい、どこからこぼれて此処らへ落ちた? さらはれるぞ。蕈のうんと出来る処へ連れてってやらうか。お前なんかには持てない位蕈のある処へ連れてってやらうか。」
私は「うん。」と云ひました。すると理助は歩きながら又言ひました。
「そんならついて来い。葡萄などもう棄てちまへ。すっかり唇も歯も紫になってる。早くついて来い、来い。後れたら棄てて行くぞ。」
私はすぐ手にもった野葡萄の房を棄ていっしんに理助について行きました。ところが理助は連れてってやらうかと云っても一向私などは構はなかったのです。自分だけ勝手にあるいて途方もない声で空に噛ぶりつくやうに歌って行きました。私はもうほんたうに一生けんめいついて行ったのです。
私どもは柏の林の中に入りました。
影がちらちらちらちらして葉はうつくしく光りました。曲った黒い幹の間を私どもはだんだん潜って行きました。林の中に入ったら理助もあんまり急がないやうになりました。又じっさい急げないやうでした。傾斜もよほど出てきたのでした。
十五分も柏の中を潜ったとき理助は少し横の方へまがってからだをかゞめてそこらをしらべてゐましたが間もなく立ちどまりました。そしてまるで低い声で、
「さあ来たぞ。すきな位とれ。左の方へは行くなよ。崖だから。」
そこは柏や楢の林の中の小さな空地でした。私はまるでぞくぞくしました。はぎぼだしがそこにもこゝにも盛りになって生えてゐるのです。理助は炭俵をおろして尤らしく口をふくらせてふうと息をついてから又言ひました。
「いゝか。はぎぼだしには茶いろのと白いのとあるけれど白いのは硬くて筋が多くてだめだよ。茶いろのをとれ。」
「もうとってもいゝか。」私はききました。
「うん。何へ入れてく。さうだ。羽織へ包んで行け。」
「うん。」私は羽織をぬいで草に敷きました。
理助はもう片っぱしからとって炭俵の中へ入れました。私もとりました。ところが理助のとるのはみんな白いのです。白いのばかりえらんでどしどし炭俵の中へ投げ込んでゐるのです。私はそこでしばらく呆れて見てゐました。
「何をぼんやりしてるんだ。早くとれとれ。」理助が云ひました。
「うん。けれどお前はなぜ白いのばかりとるの。」私がききました。
「おれのは漬物だよ。お前のうちぢゃ蕈の漬物なんか喰べないだらうから茶いろのを持って行った方がいゝやな。煮て食ふんだらうから。」
私はなるほどと思ひましたので少し理助を気の毒なやうな気もしながら茶いろのをたくさんとりました。羽織に包まれないやうになってもまだとりました。
日がてって秋でもなかなか暑いのでした。
間もなく蕈も大ていなくなり理助は炭俵一ぱいに詰めたのをゆるく両手で押すやうにしてそれから羊歯の葉を五六枚のせて繩で上をからげました。
「さあ戻るぞ。谷を見て来るかな。」理助は汗をふきながら右の方へ行きました。私もついて行きました。しばらくすると理助はぴたっととまりました。それから私をふり向いて私の腕を押へてしまひました。
「さあ、見ろ、どうだ。」
私は向ふを見ました。あのまっ赤な火のやうな崖だったのです。私はまるで頭がしいんとなるやうに思ひました。そんなにその崖が恐ろしく見えたのです。
「下の方ものぞかしてやらうか。」理助は云ひながらそろそろと私を崖のはじにつき出しました。私はちらっと下を見ましたがもうくるくるしてしまひました。
「どうだ。こはいだらう。ひとりで来ちゃきっとこゝへ落ちるから来年でもいつでもひとりで来ちゃいけないぞ。ひとりで来たら承知しないぞ。第一みちがわかるまい。」
理助は私の腕をはなして大へん意地の悪い顔つきになって斯う云ひました。
「うん、わからない。」私はぼんやり答へました。
すると理助は笑って戻りました。
それから青ぞらを向いて高く歌をどなりました。
さっきの蕈を置いた処へ来ると理助はどっかり足を投げ出して座って炭俵をしょひました。それから胸で両方から繩を結んで言ひました。
「おい、起して呉れ。」
私はもうふところへ一杯にきのこをつめ羽織を風呂敷包みのやうにして持って待ってゐましたが斯う言はれたので仕方なく包みを置いてうしろから理助の俵を押してやりました。理助は起きあがって嬉しさうに笑って野原の方へ下りはじめました。私も包みを持ってうれしくて何べんも「ホウ。」と叫びました。
そして私たちは野原でわかれて私は大威張りで家に帰ったのです。すると兄さんが豆を叩いてゐましたが笑って言ひました。
「どうしてこんな古いきのこばかり取って来たんだ。」
「理助がだって茶いろのがいゝって云ったもの。」
「理助かい。あいつはずるさ。もうはぎぼだしも過ぎるな。おれもあしたでかけるかな。」
私も又ついて行きたいと思ったのでしたが次の日は月曜ですから仕方なかったのです。
そしてその年は冬になりました。
次の春理助は北海道の牧場へ行ってしまひました。そして見るとあすこのきのこはほかに誰かに理助が教へて行ったかも知れませんがまあ私のものだったのです。私はそれを兄にもはなしませんでした。今年こそ白いのをうんととって来て手柄を立ててやらうと思ったのです。
そのうち九月になりました。私ははじめたった一人で行かうと思ったのでしたがどうも野原から大分奥でこはかったのですし第一どの辺だったかあまりはっきりしませんでしたから誰か友だちを誘はうときめました。
そこで土曜日に私は藤原慶次郎にその話をしました。そして誰にもその場所をはなさないなら一緒に行かうと相談しました。すると慶次郎はまるでよろこんで言ひました。
「楢渡なら方向はちゃんとわかってゐるよ。あすこでしばらく木炭を焼いてゐたのだから方角はちゃんとわかってゐる。行かう。」
私はもう占めたと思ひました。
次の朝早く私どもは今度は大きな籠を持ってでかけたのです。実際それを一ぱいとることを考へると胸がどかどかするのでした。
ところがその日は朝も東がまっ赤でどうも雨になりさうでしたが私たちが柏の林に入ったころはずゐぶん雲がひくくてそれにぎらぎら光って柏の葉も暗く見え風もカサカサ云って大へん気味が悪くなりました。
それでも私たちはずんずん登って行きました。慶次郎は時々向ふをすかすやうに見て
「大丈夫だよ。もうすぐだよ。」と云ふのでした。実際山を歩くことなどは私よりも慶次郎の方がずうっとなれてゐて上手でした。
ところがうまいことはいきなり私どもははぎぼだしに出っ会はしました。そこはたしかに去年の処ではなかったのです。ですから私は
「おい、こゝは新らしいところだよ。もう僕らはきのこ山を二つ持ったよ。」と言ったのです。すると慶次郎も顔を赤くしてよろこんで眼や鼻や一緒になってどうしてもそれが直らないといふ風でした。
「さあ、取ってかう。」私は云ひました。そして白いのばかりえらんで二人ともせっせと集めました。昨年のことなどはすっかり途中で話して来たのです。
間もなく籠が一ぱいになりました。丁度そのときさっきからどうしても降りさうに見えた空から雨つぶがポツリポツリとやって来ました。
「さあぬれるよ。」私は言ひました。
「どうせずぶぬれだ。」慶次郎も云ひました。
雨つぶはだんだん数が増して来てまもなくザアッとやって来ました。楢の葉はパチパチ鳴り雫の音もポタッポタッと聞えて来たのです。私と慶次郎とはだまって立ってぬれました。それでもうれしかったのです。
ところが雨はまもなくぱたっとやみました。五六つぶを名残りに落してすばやく引きあげて行ったといふ風でした。そして陽がさっと落ちて来ました。見上げますと白い雲のきれ間から大きな光る太陽が走って出てゐたのです。私どもは思はず歓呼の声をあげました。楢や柏の葉もきらきら光ったのです。
「おい、こゝはどの辺だか見て置かないと今度来るときわからないよ。」慶次郎が言ひました。
「うん。それから去年のもさがして置かないと。兄さんにでも来て貰はうか。あしたは来れないし。」
「あした学校を下ってからでもいゝぢゃないか。」慶次郎は私の兄さんには知らせたくない風でした。
「帰りに暗くなるよ。」
「大丈夫さ。とにかくさがして置かう。崖はぢきだらうか。」
私たちは籠はそこへ置いたまま崖の方へ歩いて行きました。そしたらまだまだと思ってゐた崖がもうすぐ目の前に出ましたので私はぎくっとして手をひろげて慶次郎の来るのをとめました。
「もう崖だよ。あぶない。」
慶次郎ははじめて崖を見たらしくいかにもどきっとしたらしくしばらくなんにも云ひませんでした。
「おい、やっぱり、すると、あすこは去年のところだよ。」私は言ひました。
「うん。」慶次郎は少しつまらないといふやうにうなづきました。
「もう帰らうか。」私は云ひました。
「帰らう。あばよ。」と慶次郎は高く向ふのまっ赤な崖に叫びました。
「あばよ。」崖からこだまが返って来ました。
私はにはかに面白くなって力一ぱい叫びました。
「ホウ、居たかぁ。」
「居たかぁ。」崖がこだまを返しました。
「また来るよ。」慶次郎が叫びました。
「来るよ。」崖が答へました。
「馬鹿。」私が少し大胆になって悪口をしました。
「馬鹿。」崖も悪口を返しました。
「馬鹿野郎」慶次郎が少し低く叫びました。
ところがその返事はたゞごそごそごそっとつぶやくやうに聞えました。どうも手がつけられないと云ったやうにも又そんなやつらにいつまでも返事してゐられないなと自分ら同志で相談したやうにも聞えました。
私どもは顔を見合せました。それから俄かに恐くなって一緒に崖をはなれました。
それから籠を持ってどんどん下りました。二人ともだまってどんどん下りました。雫ですっかりぬればらや何かに引っかゝれながらなんにも云はずに私どもはどんどんどんどん遁げました。遁げれば遁げるほどいよいよ恐くなったのです。うしろでハッハッハと笑ふやうな声もしたのです。
ですから次の年はたうとう私たちは兄さんにも話して一緒にでかけたのです。
了
底本:「新修宮沢賢治全集 第九巻」筑摩書房
1979(昭和54)年7月15日初版第1刷発行
1983(昭和58)年2月20日初版第5刷発行
底本の親本:「校本宮澤賢治全集」筑摩書房
入力:田代信行
校正:伊藤時也
2000年9月13日公開
2005年10月18日修正
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