一

 みち幅三げんとない横町の両側には、いろとりどりの店々が虹のように軒をつらねて、銀座裏の明るい一団を形づくっていた。青いネオンで「カフェ・青蘭せいらん」と書かれた、裏露路にしてはかなり大きなその店の前には、恒川つねかわと呼ぶ小綺麗な煙草店があった。二階建で間口二けん足らずの、細々こまごまと美しく飾りたてた明るい店で、まるで周囲の店々からこぼれおちるジャズの音を掻きあつめるように、わけもなくその横町の客を一手に吸いよせて、ぬくぬくと繁昌していた。
 その店の主人というのは、もう四十をとっくに越したらしい女で、恒川房枝ふさえ――女文字で、そんな標札がかかっていた。横町の人びとの噂によると、なんでも退職官吏の未亡人ということで、もう女学校もえるような娘が一人あるのだが、色の白い肉づきの豊かな女で、歳にふさわしく地味なつくりを装ってはいるが、どこかまだ燃えつきぬ若さがみなぎっていた。そしていつの頃からか、のッぺりした三十がらみの若い男が、いり込んで、遠慮深げに近所の人びとと交際つきあうようになっていた。けれども、酔いれたようなその静けさは、永くは続かなかった。煙草店が繁昌して、やがて女中を兼ねた若い女店員が雇われて来ると、間もなく、いままで穏かだった二人の調和が、みるみる乱れて来た。澄子すみこと呼ぶ二十を越したばかりのその女店員は、小麦色の血色のいい娘で、まりのようにはずみのいい体を持っていた。
 煙草屋の夫婦喧嘩を真ッ先にみつけたのは、「青蘭」の女給達だった。「青蘭」の二階のボックスから、窓越しに向いの煙草屋の表二階が見えるのだが、なにしろ三間と離れていない街幅なので、そこから時どき、思いあまったような女主人のわめき声が、聞えて来るのだった。時とすると、窓の硝子扉ガラスドアへ、あられもない影法師のうつることさえあった。そんな時「青蘭」の女達は、席をへだてて客の相手をしていながらも、そっと顔を見合せては、そこはかとない溜息をつく。ところが、そうした煙草屋の不穏な空気は、バタバタと意外に早く押しつめられて、ここに、至極不可解きわまる奇怪な事件となって、なんとも気味の悪い最後にぶつかってしまった。そしてその惨劇の目撃者となったのは、恰度ちょうどその折、「青蘭」の二階の番に当っていた女給達だった。
 それは天気工合からいっても、なにか間違いの起りそうな、変な気持のする晩のこと、宵の口から吹きはじめた薄ら寒い西の風が、十時頃になってふッと止まってしまうと、急に空気がよどんで、秋の夜とは思われない妙な蒸暑さがやって来た。いままで表二階の隅の席で、客の相手をしていた女給の一人は、そこで腰をあげると、ハンカチで襟元をあおりながら窓際によりそって、スリ硝子ガラスのはまった開き窓を押しあけたのだが、何気なく前の家を見ると、急に悪い場面とこでも見たように顔をそむけて、そのまま自分の席へ戻り、それから仲間達へ黙って眼で合図を送った。
 煙草屋の二階では、半分開けられた硝子ガラス窓の向うで、殆んど無地とも見える黒っぽい地味な着物を着た、色の白い女主人の房枝が、男ではない、女店員の澄子を前に坐らせて、なにかしきりに口説きたてていた。澄子は、いちいちうなずきもせず、黙ってふくれッ面をして、相手に顔をそむけていたのだが、黒地に思い切り派手な臙脂えんじ色の井桁いげた模様を染め出した着物が今夜の彼女を際立って美しく見せていた。けれども房枝は、直ぐに「青蘭」の二階の気配に気づいてか、キッと敵意のこもった顔をこちらへ向けると、そそくさと立上って窓の硝子ガラス戸をぴしゃりと締めてしまった。ジャズが鳴っていてかなり騒々しいのに、まるでこちらの窓を締めたように、その音は高く荒々しかった。
 女給達は、ホッとして顔を見合せた。そして互に、眼と眼で囁き交した。
 ――今夜はいつもと違ってるよ。
 ――いよいよ本式に、澄ちゃんに喰ってかかるんだ。
 まったく、いつもと変っていた。無闇と喚き立てず、黙ってじりじり責めつけているらしかった。時折、高い声がしても、それは直ぐに辺りの騒音の中に、かき消されてしまった。十一時を過ぎると、母親に云いつけられたのか女学校へ行っている娘の君子が、店をしまって、ガラガラと戸締りをしはじめた。煙草屋は、十一時を打つといつも店をしまう。ただ売台の前の硝子ガラス戸に小さな穴のような窓が明いていて、そこからおそい客に煙草を売ることが出来るようにしてあった。達次郎たつじろう――それが房枝の若い情人おとこの名前だったのだが、この男も、どうしたのか、今夜は店先へも顔を出さなかった。
 ――確かに今夜は深刻だよ。
 ――達次郎と澄ちゃんの仲、とうとう証拠を押えられたんかな。
 女給達は、再び眼と眼で囁き合うのだった。けれどもやがて辺りがどんどん静かになって来て、四丁目の交叉点をわたる電車の響が聞えるようになる頃には、もうカンバンを気にしだした彼女達は煙草屋を忘れて、宵のうちからトラになっている三人組の客を追い出すことに腐心していた。惨劇のもち上ったのは、恰度この時のことだった。
 最初、泣くとも呻くとも判らない押しつぶしたような低い悲鳴が、さっきのままで栄螺さざえの蓋のように窓を締められたまま電気のともっていた煙草屋の二階のほうから聞えて来た。
「青蘭」の女達は、期せずして再び顔を見合した。が、直ぐに同じ方角からなにか人間の倒れるような音がドウと聞えて来ると、ハッとなった女達は顔色を変えて立上り、身を乗りだすようにして窓越しに向いの家を覗きみた。
 煙草屋の二階の窓には、その時、たじたじとよろめくような大きな人影がうつったかと思うと、ゆらめきながらその影法師はジャリーンと電気にぶつかり、途端に部屋の中が真ッ暗になった。が、直ぐにそのままよろめく気配がして表の硝子ガラス窓によろけかかり、ガチャンと云う激しい音と共にその窓硝子ガラスの真ン中にはまった大きな奴がれおちると、そこから影法師の主の背中が現れた。
 殆んど無地とも見える黒っぽい地味な着物を着た、うなじの白いその女は、われた窓からはみ出した右手に、血にまみれた剃刀らしい鋭い刃物を持ち、背中を硝子ガラス戸にもたせかけたまま、はげしく肩で息づきながらそのまましばらく呆然と真ッ暗な部屋の中をみつめていたが、すぐに「青蘭」の窓際の人の気配に気づいてか、チラッと振返るようにしながら再びよろよろと闇の中へ掻き消えてしまった。真ッさおで、歪んだ、睨みつけるような顔だった。
「青蘭」の窓際では、「ヒャーッ」と女給達の悲鳴があがった。泣き出しそうなおろおろ声も混った。が、女達の後ろから同じように惨劇を目撃していた三人組の客達は、流石さすが男だけに、すぐに馳けだしてものも云わずにドタドタと階段を馳けおりると、階下で遊んでいた客や女に、
「大変だ!」
「人殺しだ!」
 と叫びながら表に飛び出して行った。そのうちの一人は交番へ飛んでいった。あとの二人がすっかり酔もさめはててうろうろしていると、その時、煙草屋の店の中からバタバタ音がして、激しくぶつかるようにゴジゴジと慌しく戸をあけて、桃色のタオルの寝巻を着た娘の君子が飛び出して来た。そしてもう表に飛び出してうろうろしていた男や女を見ると、誰彼のみさかいもなく、
「澄ちゃんが、誰かに殺されてるよウ!」
 泣声で、喚きたてた。
 間もなく警官達がやって来た。
 殺されていたのは、やっぱり澄子だった。電気のれ消えた真ッ暗な部屋の中に、さっき「青蘭」の女達の見たときのままの、派手な臙脂えんじの井桁模様の着物を着て、裾を乱して仰向きにぶっ倒れていた。最初、懐中電燈を持って飛び込んで来た警官の一人は、倒れた澄子の咽喉のどがヒューヒューと低く鳴っているのを聞きつけると、直ぐに寄りそって抱き起したのだが、女は、喘ぎながら、
「……房……房枝……」
 と蚊細い声で呻いたまま、ガックリなってしまった。
 咽喉のど元へ斬りつけられたと見えて、鋭い刃物のきずが二筋ほどえぐるように引ッ掻かれていた。あたり一面の血の海だ。その血の池の端のほうに、窓に近く血にまみれた日本剃刀が投げ捨てられていた。
 問題の房枝は、もう人びとが駈けつけた時には、家の中には見当らなかった。房枝だけではない。達次郎もいなかった。ただ、娘の君子だけが、二階へも上れずに、青くなって店先でガタガタと顫えていた。
「青蘭」の女達は、さっきから自分達の見ていた全部の出来事を、簡単にかいつまんで、だがひどく落つきのない調子で、警官に申立てた。例の三人組も、その申立てを裏書きした。この証人達[#「達」は底本では「連」]の申立てと云い、被害者の残した断末魔の言葉といい、早くも警官は事件の大体を呑み込んで、早速房枝の捜査にとりかかった。
 煙草屋の二階には、殺人の行われた部屋の他に、裏に面した部屋と、間の部屋と、都合二部屋あった。が、その二部屋ともに房枝の姿は見えなかった。階下したには、店の他に、やはり二部屋あった。が、むろん房枝は見当らない。表には、もう十一時から戸締りがしてある。警官達が崩れ込んだ前後にも、そこから逃げ出す隙はなかった。そこで彼等は、台所へ押掛けた。そこはこの家の裏口になっていて、幅三尺位の露次ろじが、隣に並んだ三軒の家の裏を通って、表通りとは別の通りへ抜けられるようになっていた。その露次を通り抜けて街へ出たところには、しかし人の好さそうな焼鳥屋が、宵から屋台を張っていた。焼鳥屋は頑固に首を振って、もう二時間も三時間も、この露次から出入ではいりした者はない、とハッキリ申立てた。そこで警官は引返すと、今度はいよいよガタピシと煙草屋の厳重な家宅捜査をしはじめた。そして、便所でも押入でも、片ッ端から容赦なしに捜して行くうちに、とうとう二階の、それも当の殺人の行われた部屋の押入の中に、房枝をみつけてしまった。
 ところが、真ッ先にその押入の唐紙からかみをあけた警官は、あけるがいなや、叫んだ。
「や、や、失敗しまった!」
 押入の中で、もう房枝は死んでいた。
 さっきに「青蘭」の女達が見たときのままの、殆んど無地とも見える黒っぽい地味な着物を着て、首に手拭を巻いて、それで締めたのか、締められたのか、グンナリなって死んでいた。血の気の引いた真ッさおな顔には、もう軽いむくみが来ていたが、それが房枝である事は間違いなかった。娘の君子は、警官に抱きめられながらも、母親の変りはてた姿へおいおいと声をあげて泣きかけていた。
 いままで警官の後ろからコッソリ死人を覗き込んでいた例の三人組の一人が、黄色い声でいった。
「ああ、この死人ひとですよ。あっちの、派手な着物を着た方の女を、剃刀で殺したのは、この女です」
 すると上役らしい警官が乗り出して、大きく頷いていたが、やがていった。
「――つまり、なんだな、あの澄子という女を殺してから、この房枝は、暫く呆然として立竦たちすくんどったが、「青蘭」の窓から、君達に見られとったと知ると、急に正気に戻って……さりとて階下したへおりるのは危険だから、ひとまずよろよろと押入の中へ隠れ込んだ……が、そうしているうちにも、いよいよ自責と危険に責められるにつれ、堪えられなくなってとうとう自殺した……ふむ、まずそんな事だな」
 警官はそう云って、桃色の寝巻のままで泣きじゃくっている君子のほうへ、手帳を出しながら身を屈めた。
 ところが、それから間もなく検判事と一緒に警察医が現場へ出張して来て、本格的な調べが始まり、やがて房枝の検屍にかかると、俄然、なんとも奇怪至極な、気味の悪い事実が立証されて来た。
 それは、房枝が澄子を殺したのであるから、当然房枝は、澄子よりあとから死んだわけであって、澄子より先に死んでいる筈はないのであるが、それにもかかわらず、まだ澄子の死体にはほのかに生気が残っており体温もさめ切っていないというのに、房枝の死後現象はかなりに進行していて、冷却や屍固しこ、屍斑等々のあらゆる条件を最も科学的に冷静に観察した結果、確実に最少限一時間以上を経過している、と医師が確固たる断定を下したのだった。
「そ、そいつアおかしいですね……」と先程の警官がメンクラッて云った。「そうすると……いや、飛んでもないことだ……つまり、もう澄子が殺されてから二十分位になりますが、房枝が死後一時間と云うと、澄子が殺されたより四十分くらい前に、被害者より先に、加害者が死んでいた――ってことになりますよ。……逆に考えると、澄子が断末魔に残したあの『房枝』ってのも、それから大勢の証人達が見たと云う剃刀を振廻していたその『房枝』ってのも、それは本物ではなく、もうその時にはとっくに死んでいた房枝……飛んでもない……房枝の幽霊ってことになりますよ。幽霊の殺人※(感嘆符疑問符、1-8-78)……それも銀座の、ジャズの街の真ン中で、幽霊が出たんだから、こいつア新聞屋にゃア大受けだがね……」

          二

 事件は、俄然紛糾しはじめた。警官達は大きな壁にでもぶつかった思いで、ハタと行き詰ってしまった。しかも、問題が二つに分れて来た。死人が二人になった。そのうちの一人は、幽霊に殺され、他の一人は、死んでから、幽霊になってふらふらと人を殺しに出掛けたことになる。なんという奇怪な話だろう。
 しかし、このまま踏みとどまっていることは出来ない。警官達は直ぐに気をとりなおして、再び調査にとりかかった。
 まず、あとから殺された澄子のほうは、ひとまず後廻しにして、とりあえず房枝の死について調べ始めた。
 ――いったい房枝は、自殺したのか? それとも他殺か?
 けれどもこの疑問に対しては、警察医は、縊死とは違って、自分から手拭で首を締めて死ぬなどと云うことは、仲々出来ないと云う理由で、他殺説を主張した。判検事も、警官も、大体その意見に賛成した。そして階下したの店の間を陣取って、いよいよ正式の訊問が始まった。
 まず、娘の君子が呼び出された。母親を失った少女は、すっかりとり乱して、しゃくりあげながら次のような陳述をした。
 その晩、母の房枝は、君子に店番を命ずると、澄子を連れて表二階へあがって行った。それが十時頃だった。君子は、その時の母の様子がひどく不機嫌なのを知ったが、よくある事で大して気にもとめず、雑誌なぞ読みながら店番をしていたが、十一時になると、学校へ行くので朝早いためすっかりねむくなってしまい、そのままいつものように店をしまって裏二階の自分の部屋へ引きとり、睡ってしまった。二階の階段を登った時には、表の部屋からは話声は聞えなかった。が、君子にとっては、それは疑いを抱かせるよりも、妙に恥かしいような遠慮を覚えさしたと云うのだった。ところが、しばらくうとうととしたと思うころ、表の部屋のほうで、例の悲鳴と人の倒れる音を聞いて眼をさまし、しばらく寝床の中でなんだろうと考え考え迷っていたが、急に不安を覚えだすと、堪えられなくなって寝床から抜け出し、表の部屋へ行って見たのだが電気が消えていたのでいよいよ不安に胸を躍らせながら、間の部屋に電気をつけてそこの唐紙をそおッとあけて表の部屋を覗きみた。そしてその部屋の真中に澄子が倒れているのをみつけるとそのまま声も上げずに転ぶようにして階下したへ駈けおり、表の戸をコジあけるようにして人々に急を訴えたのだ――大体そんな陳述だった。
「表の部屋を覗いた時に、窓のところにお母さんが立っていなかったか?」
 警官の問に君子は首を振って答えた。
「いいえ、もうその時には、お母さんはいませんでした」
「それで驚いて階下したへ降りた時に、お母さんがいないのを見ても、別に不審は起らなかったのか?」
「……お母さんは、時どき夜おそくから、小父おじさんと一緒にお酒を飲みに行かれますので、また今夜も、そんな事かと思って……」
「小父さん? 小父さんと云ったね? 誰れの事だ?」
 警官は直ぐにその言葉を聞きとがめた。そこで君子は、達次郎のことを恐る恐る申立てた。そしてビクビクしながらつけ加えた。
「……今夜小父さんは、お母さんよりも先に、まだ私が店番をしている時に出て行きました……でも、裏口はあけてありますので、途中で一度帰って来たかも知れませんが、私は眠っていたので少しも知りませんでした」
「いったい何処どこへ、飲みに行くのかね?」
「知りません」
 そこで係官は、直ぐに部下を走らせて、達次郎の捜査を命じた。そして引続いて、「青蘭」の女給達と、例の三人組が、証人として訊問を受けることになった。
 証人達は、いちばん始めに申立てた事をもう一度繰返した。しかしむろんそれ以外に、なにも新しい証言は出来なかった。ただ、君子の申立が、自分達の見ていたところと一致していることと、それから達次郎のことに関して、女給達が、君子の知っていた程度のことを申立てただけだった。
 そこで訊問が一通り済むと、大体房枝の殺された時刻が判って来た。つまり、「青蘭」の女給達に見られて、澄子と対座していた房枝が、荒々しく窓の硝子ガラス戸を締めた、あの時から、十一時頃までの間に殺された事になる。そうすると、君子の証言が正しい限り、その間達次郎は家にいなかったではないか? しかし、君子が店番をしている間に、そっと裏口から忍び込んで二階に上り、房枝を絞殺して再び逃げ去った、と見る事は出来ないだろうか? いずれにしても、これは達次郎を調べないことには判らない。
 その達次郎は、しかしそれから間もなく、警官の手にもかからずにふらふらと一人で帰って来た。なにがなんだか、わけのわからぬ顔つきで、問わるるままにへどもどと答えていった。
 それによると、達次郎は、十時からいままで、新橋の「たこ八」というおでん屋で、なにも知らずに飲み続けていたということだった。直ぐに警官の一人が「鮹八」へ急行した。が、やがて連行されて来た「鮹八」の主人は、達次郎を見ると、直ぐに云った。
「ハイ、確かにこちら様は、十時頃からつい先刻さっきまで、手前共においでになりました。……それはもう、家内も、他のお客さんも、ご存知の筈でございます……」
 係官は、ガッカリして、「鮹八」を顎で追いやった。
 達次郎にはアリバイが出て来た。さあこうなると、捜査はそろそろあせり気味になって来た。表には君子が番をしていたし、裏口には、出たところで焼鳥屋が、誰も通らなかったと頑張っている。表二階の窓は「青蘭」の二階から監視されていたし、裏二階の君子の部屋の窓には内側から錠が下ろしてあった。よしんば錠が下してなかったとしても、その窓の外には、台所の屋根の上に二坪ほどの物干場があり、その周りには厳重な針金の忍返しのびかえしがついている。尚又、裏口から焼鳥屋のいた横の通りへ通ずる露次に面した隣り三軒の家々も、念のため調べて見れば、どの家も露次に面した勝手口には宵から戸締りがしてあり、怪しいふしは見当らない。すると、房枝の殺された頃に、煙草屋のその密室も同様な家の中にいたのは、後から殺された澄子と、店番をしていた君子の二人だけになる。
 いまはもう、どう考えてもこの二人を疑うより他に道がない。そこで早速、君子がまず槍玉にあがった。しかし、もうここまで来ると、舞台が狭くなって、始め房枝を殺した犯人を捜すつもりの推理が、澄子の奇怪な殺害事件とかさなり合って来て、まるで変テコなものになってしまうのだった。例えば、もしも君子が、少からず無理な考え方だが、とにかくひとまず母親の房枝を殺したことにする。するともう房枝は死んでしまったのだから、そのあとから澄子を殺しに出掛けるのは妙だ。そこで今度は、澄子が房枝を殺した事にしてみる。しかしこれも前と同じように、殺された房枝があとから澄子を殺しに出掛けるのは妙だ。――結局、とどのつまりは、澄子の奇怪な殺害事件に戻って来るのだった。そして係官達は、いよいよ幽霊の殺人事件に、真正面からぶつかって行くより方法がなくなってしまった。皆んなムキになって頭をしぼった。
 ――まず、澄子が殺された頃に、煙草屋のその密室も同様な家の中にいたのは、もう澄子より先に殺されていた房枝と、裏二階の部屋で寝に就いていたと云う君子との二人になる。が、なかなかに幽霊を信じることの出来ない警官達は、「青蘭」の窓から証人達が澄子を殺した房枝を見たと云っても、それはチラッと見ただけで、その顔が確かに房枝のものであったかどうかは誰もハッキリ云い得ず、ただ黒い無地の着物を着ていたことだけが一致した証言だったのだから、これは房枝などが澄子を殺しに出掛けたのではむろんなく、君子が、母の房枝の着物を着て澄子を殺し、あとから桃色の寝巻に着換えた、と見てはどうか?
 しかしこの意見は、直ぐに破れてしまった。現場の窓から、殺人の直後にふらふらと房枝らしいその姿が消えてから、「青蘭」の連中が表へかけつけ、そこで寝衣ねまきを着た君子にぶつかるまでに、殆んど三分位いしか時間がない。その間に君子が着ていた母の着物を脱いで、それを再び母の死骸へ着せるなぞと云うことは到底出来っこない。
 では、母の着ていた着物ではなしに、他の同じような黒っぽい、三、四けん離れたら無地に見えそうな地味な着物を着て、芝居を打ったとしたならどうなる? これは出来そうなことだ。そこで警官達は、煙草屋の徹底的な家宅捜査を行った。ところが、そのような着物は、わずかに箪笥の抽斗ひきだしから房枝のものが二、三枚出て来ただけであったが、しかしそれは皆、虫除け薬を施してキチンと文庫紙の中に畳みこんであって、とうてい三分や四分の早業でそうと出来るものではない事が判った……いや、それでなくたって、もしも君子が犯人であったとしても、それならば澄子が死際に残した房枝の名前はいったいどうなる……どう考えたって、澄子を殺したのは、君子なぞではありっこない……。
 警察は、とうとうその夜の捜査を投げ出してしまった。
 翌日になると、果して新聞は一斉に幽霊の出現説をデカデカと書き立てた。警察は、ヤッキになって、前と同じようなことを、蒸し返し調べたてた。新しい収獲と云えば、兇器に使われた例の剃刀を鑑識課へ廻した結果、その剃刀は柄が細くてハッキリした指紋が一つも残っていない事と、達次郎を引立てて調べた結果、達次郎がいつの間にか澄子と出来合っていて、そのために家の中が揉め合っていた事なぞが、判明したに過ぎなかった。
 ところが、そうして警察が五里霧中の境を彷徨さまよいはじめようとするその日の夕方になって、ここに突然奇妙な素人探偵が現れて、係りの警察官に会見を申し込んで来た。
 それは、「青蘭」の支配人バー・テンで、西村にしむらと名乗る青年だった。ガリガリベルを鳴らして、せわしげに電話を掛けてよこした。
「……もしもし、警部さんですか。私は『青蘭』のバー・テンですが、幽霊の正体が判りました。澄子さんを殺した幽霊犯人の正体が、判ったんですよ……今晩こちらへお出掛け下さいませんか?……ええ、その折お話しいたします……いや、幽霊をお眼に掛けます……」

          三

「青蘭」の二階へ、部下の刑事を一人連れてその警部がやって来た時には、もう辺りはとっぷり暮れて、昨夜の事件も忘れたように、横町は明るく、ジャズのに溢れていた。が、流石に物見高い市中のこととて、煙草屋の前には、弥次馬らしい人影が、幾人もうろうろしていた。「青蘭」には、階上うえにも階下したにもかなりに客が立てこんでいて、それがみんな煙草屋の幽霊の噂をしているのだった。
 白い上着に蝶ネクタイを結んだ西村支配人バー・テンは、愛想よく警部達を迎え、二階へ案内すると、表の窓際に近い席をすすめて、女達に飲物を持って来させたりした。が、警部は最初から苦り切っていて、ろくに口もきかず、胡散臭うさんくさげに支配人バー・テンのすることすことを、ジロジロうかがっていた。
 窓越に見える直ぐ前の煙草屋の二階には、死体はもう解剖のために運ばれて行ったので、普段とかわりなく、スリ硝子ガラスのはまったその窓には、電気が明るくともっていた。
「実は、なんです」支配人バー・テンが口を切った。「……下手に御説明申上げたりするよりは、いっそ実物を見て頂いたほうが、お判り願えると思いまして」
「いったい君は、何を見せるつもりなんだね?」
 警部が、疑い深げに問返した。
「ええ、その……私のみつけ出した、幽霊なんですが」
 すると警部は遮切さえぎるようにして、
「じゃア君は、もう澄子を殺した犯人を、知ってると云うんだね?」
「ええ大体……」
「誰なんだね? 君は現場を見ていたのかね?」
「いいえ、見ていたわけではありませんが……あの時には、もう房枝さんは殺されていたんですから、あとには二人しかいないわけでして……」
「じゃア君子が殺したとでも云うんかね?」
 警部は嘲けるように云った。
「いいえ違いますよ」支配人バー・テンは烈しく首を振りながら、「君ちゃんは、もう貴方あなたがたのほうで、落第になってるじゃアありませんか」
「じゃアもう、誰もないぜ」
 警部は投げ出すようにりかえった。
「あります」と西村青年は笑いながら、「澄ちゃんがあるじゃアないですか」
「なに澄子?」
「そうです。澄子が澄子を殺したんです」
「じゃア自殺だって云うんか?」
「そうですよ」とここで西村君は、ふと真面目な顔をしながら、「皆んな、始めっから、飛んでもない感違いをしていたんですよ。死んでしまった後から発見みつけたんなら、こんなことにもならなかったでしょうが、なんしろ、自分で自分の笛を掻き切って、もがき死にするところを、その藻掻もがき廻るところだけを見たもんですから、自殺の現場を、他殺の現場と感違いしてしまったんですよ。……私の考えでは、恐らく房枝さんを殺したのも、澄子だと思うんです。つまり、昨晩あの時の房枝の折檻が、痴話喧嘩になり、揚句の果てに房枝を絞め殺してしまった澄子は、正気に返るにつれて、自分のしでかした逃れることの出来ない恐ろしい罪を知ると、ひとまず房枝の死体を押入に隠して……これは多分、十一時になって君子が二階へ上って来る危険を覚えたからでしょうか……それから悶々として苦しんだ揚句、とうとう自殺してしまったんでしょう。つまり、最初あの房枝の死体のみつかった時に、貴方がたのお考えになった事の逆になるわけですよ。だから、あの断末魔の澄子が、房枝の名を呼んだと云うのも、自分を殺した人の名を呼んだのではなくて、自分が殺してしまった人の名を、悔悟にかられて叫んだ、とまア、そう私は考えるんですよ」
「冗談じゃアないぜ」警部がとうとう吹き出してしまった。「すると君は、あの時、ホラそこにいる女給さん達が見た、あの無地の着物を着て、剃刀を持って、ガラス窓によろけかかった女を、房枝ではなく澄子だと云うんだね?……飛んでもない、それこそ感違いだよ。いいかい。まず第一、着物のことを考えて見たまえ。房枝はあの通り地味な着物を着ていたし、澄子は、あの通り派手な着物を着ていたし……」
「お待ち下さい」支配人バー・テンが遮切った。「つまり、そこんとこですよ。幽霊が出たと云うのはね……もう仕度が出来たと思いますから、これからひとつ、その幽霊の正体をみて頂こうと思いますが……」とむっくり起き上りながら、「……まだお判りになりませんか? 銀座の真ン中に出た幽霊の正体が……これはしかし、あの事件の起きた時の様子や、家の構えなどを、よく考えて見れば、誰にでも判ると思うんですが……」
 支配人バー・テンはそう云って、意地悪そうに笑うと、呆気あっけにとられている警部達を残して、階下したへ降りて行った。が、直ぐに自転車用の大きなナショナル・ランプを持って引返して来ると、窓際に立って警部へ云った。
「じゃア幽霊をお眼に掛けますから、どうぞここへお立ち願います」
 警部はふくつらをして、支配人バー・テンの云う通り窓際へ立った。いままで、遠慮して遠巻にしていた女給や客達も、この時ぞろぞろと窓の方へ雪崩なだれよって来た。支配人バー・テンが云った。
「お向いの窓を見ていて下さいよ」
 三間ばかり前のその煙草屋の二階の窓には、その時はまだ前と同じように静かにあかりがともっていたのだが、やがてその部屋の中に人の気配がすると、窓硝子ガラスへ人影がうつった。
 こちらの人びとは、何事が始まるだろうと思わず身を乗り出すようにして見詰めていると、窓の影法師は大きくゆらめいて、手を差しのべ、途端にパッと電燈が消えた。
「いいですか。あの時は影法師の主が、ゆらめいた途端に電気にぶつかって、やはりこんな風に暗くなったんですね」
 しかし支配人バー・テンのその言葉の終らぬうちに、向いの窓が、内側からガラガラっとあけられると、そこから、昨晩人びとの見たと同じような、殆んど無地とも見える黒っぽい地味な着物を着た女の後姿が、白いうなじを見せてやみの中にポッカリ現れた。途端に支配人バー・テンが、持っていたナショナル・ランプの光を、その女の背中に投げかけた。と、なんと今まで、殆んど無地とも見える黒っぽい着物を着ていた年増女の姿が、不意に、黒地に思い切り派手な臙脂えんじの井桁模様を染めだした着物を看た、若い娘の姿に変ってしまった。
「君ちゃん。ありがとう」
 支配人バー・テンが、向うの窓へ呼びかけた。すると窓の女は、静かにこちらを向いて淋しげに微笑んだ。君子の顔だった。
「ご覧になったでしょう。……いや、君子さんと、あの着物は、ちょっとこの実験のために拝借したんですよ」
 支配人バー・テンはそう云って振返ると、呆気にとられている警部の顔へ、悪戯いたずらそうに笑いかけながら、再び云った。
「まだ、お判りになりませんか?……じゃア、申上げましょう。……いいですか、こう云う事を一寸ちょっと考えて見て下さい。例えばですね、赤いインキで書いた文字を、普通の色のないガラスで見ると、ガラスなしで見ると同じように赤い文字に見えるでしょう? しかし、同じように赤いインキで書いた文字を、今度は赤いガラスを通して見ると、赤い文字は何も見えませんよ。……恰度、あの写真の現像をする時にですね……私は、あれが道楽なんですが……赤い電気の下で、現像に夢中になっていると、不意に、直ぐ自分の横へ確かに置いた筈の赤い紙に包んだ印画紙が、どこかへ消えてしまって、すっかり面喰めんくらってしまうことがよくありますね。びっくりして手探りで探してみると、チャーンとその何にも見えないとこで手答えがあったりして……ええ、あれと同じですよ。ところが、今度はその赤いガラスの代りに、青いガラスを通して赤インキの文字を見ると、前とは逆に、黒く、ハッキリと見えましょう?……」
「ふム成る程」警部が云った。「君の云うことは、判るような、気がする、がしかし……」
「なんでもないですよ」と西村支配人バー・テンは笑いながら続けた。「じゃ、今度は、その赤インキの文字を、紅色の、臙脂えんじ色の、派手な井桁模様の着物と置き換えてみましょう。すると、普通の光線の下では、それは臙脂の井桁模様に見えましょう? ところが、いまの赤インキの文字の例と同じように、一旦青い光線を受けると、その臙脂の井桁模様は暗黒い井桁模様になってしまいます。黒い井桁模様になっただけならいいんですが、その井桁模様の染め出された地の色が黒では、黒と黒のかち合いで模様もへちまもなくなってしまい、黒い無地の着物とより他に見えようがありません」
「しかし君。電燈は消えたんだぜ」
「ええそうですよ。あの部屋の中の普通の電燈が消えたからこそ、一層私の意見が正しく現れたんです」
「じゃア、青い電燈が、その時いつの間についたんかね?」
「え? そいつア始めっからついてたですよ。その時にパッとついたんでしたなら、誰にだって気がつきますよ。つまり、その時に青い電燈が始めてついたんではなくて、向うの部屋の普通の電燈が消えた時に、始めていままでついていた青い電燈が、ハッキリ働きかけたんです。だから、この窓にいた人たちは、少しも気づかなかったんですよ」
「いったいその、青い電燈はどこについてたんです」
「いやもう、皆さんご承知の筈じゃアありませんか!」
 警部はこの時、ハッとなると、支配人バー・テンの言葉を皆まで聞かずに窓際へかけよった。そして窓枠へ手を掛け足を乗せると、外へ落ちてしまいそうに身を乗り出して、上の方を振仰いだが、直ぐに、「ウム、成るほど!」と叫んだ。
「青蘭」のその窓の上には、大きく「カフェ・青蘭」と書かれた青いネオン・サインが、鮮かに輝いているのだった。
「しかし、それにしても、よくまアこんな事に気がついたね?」
 あとでビールをおごりながら、警部は支配人バー・テンにこう尋ねた。若い支配人バー・テンは、急にてれ臭そうに笑いながらいった。
「いや、なんでもないですよ。……第一私なぞ、こんな幽霊現象なら、いつもちょっとしたやつを見て暮しているんですからね」と女給達のほうを顎でしゃくりながら、「この連中、昼と夜では、同じ着物もまるで違っちまうんですからね……これも一種の、銀座幽霊ですよ……」
(「新青年」昭和十一年十月号)

底本:「とむらい機関車」国書刊行会
   1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「新青年」博文館
   1936(昭和11)年10月号
初出:「新青年」博文館
   1936(昭和11)年10月号
入力:大野晋
校正:川山隆
2007年9月1日作成
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