第五の男は語る。
「唯今は『酉陽雑爼』と『宣室志』のお話がありました。そこで、わたくしには其の拾遺しゅういといったような意味で、唐代の怪談総まくりのようなものを話せという御注文ですが、これはなかなか大変でございます。とても短い時間に出来ることではありません。勿論、著名の物を少々ばかり紹介いたすに過ぎないと御承知ください。就きましては、まず『白猿伝』を申し上げます。この作者の名は伝わって居りません。唐に欧陽詢おうようじゅんという大学者がありまして、後に渤海男ぼっかいだんほうぜられましたが、この人の顔が猿に似ているというので、或る人がいたずらにこんな伝奇を創作したのであって、本当に有った事ではないという説があります。しかし〈志怪の書〉について、その事実の有無を論議するのは、無用の弁に近いかとも思われます。ともかくも古来有名な物になって居りまして、かの頼光らいこう大江山おおえやま入りなども恐らくこれが粉本ふんぼんであろうと思われますから、事実の有無うむを問わず、ここに紹介することに致します。
 そのほかには、原化記げんかき朝野僉載ちょうやせんさい博異記はくいき、伝奇、広異記こういき幻異志げんいしなどから、面白そうな話を選んで申し上げたいと存じます。これらもみな有名の著作でありまして、一つ一つ独立して紹介するの価値があるのでございますが、あとがつかえて居りますから、そのなかで特色のあるお話を幾つか拾い出すにとどめて置きます。右あらかじめお含み置きください」

   白猿伝

 りょう六朝りくちょう)の大同だいどうの末年、平南将軍藺欽りんきんをつかわして南方を征討せしめた。その軍は桂林けいりんに至って、李師古りしこ陳徹ちんてつを撃破した。別将の欧陽※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)おうようこつは各地を攻略して長楽ちょうらくに至り、ことごとく諸洞の敵をたいらげて、深く険阻けんその地に入り込んだ。
 欧陽※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)の妻は白面細腰はくめんさいよう、世に優れたる美人であったので、部下の者は彼に注意した。
「将軍はなぜ麗人を同道して、こんな蕃地へ踏み込んでおでになったのです。ここらの山の神は若い女をぬすむといいます。殊に美しい人はあぶのうございますから、よく気をお付けにならなければいけません」
 ※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)はそれを聞いて甚だ不安になった。夜は兵をあつめて宿舎の周囲を守らせ、妻を室内に深く閉じ籠めて、下婢かひ十余人を付き添わせて置くと、その夜は暗い風が吹いた。五更ごこう(午前三時―五時)に至るまで寂然せきぜんとして物音もきこえないので、守る者も油断して仮寝うたたねをしていると、たちまち何物かはいって来たらしいので驚いて眼をさますと、将軍の妻はすでに行くえ不明であった。とびらはすべて閉じたままで、どこから出入りしたか判らない。門の外はけわしい峰つづきで、眼さきも見えない闇夜にはどこへ追ってゆくすべもない。夜が明けても、そこらになんの手がかりも見いだされなかった。
 ※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)の痛憤はいうまでもない。彼はこのままむなしくかえらないと決心して、病いと称してここに軍をとどめ、毎日四方を駈けめぐって険阻の奥まで探り明かした。こうしてひと月あまりを経たるのち、百里(六丁一里)ほどを隔てた竹藪で妻の繍履ぬいぐつの片足を見付け出した。雨に湿れ朽ちてはいたが、確かにそれと認められたので、※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)はいよいよ悲しみ怒って、そのゆくえ捜索の決心をますます固めた。
 彼は三十人の壮士をすぐって、武器をたずさえ、糧食を背負い、巌窟がんくつね、野原で食事をして、十日あまりも進むうちに、宿舎を去ること二百里、南のかたに一つの山を認めた。山は青くひいでて、その下には深いたにをめぐらしていた。一行は木を編んで、嶮しい巌やあおい竹のあいだを渡り越えると、時に紅いきものが見えたり、笑い声がきこえたりした。
 つたかずらをじて登り着くと、そこには良い樹を植えならべて、そのあいだには名花も咲いている。緑の草がやわらかに伸びて、さながら毛氈もうせんを敷いたようにも見える。あたりは清く静けく、一種の別天地である。
 路を東にとって石門にむかうと、婦女数十人、いずれも鮮麗の衣服を着て歌いたわむれていたが、※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)の一行を見てみな躊躇するようにたたずんでいた。やがて近づくと、かれらは一行にむかって、なにしに来たかといた。※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)は事情をつまびらかに打ち明けると、女たちは顔をみあわせて嘆息した。
「あなたの奥さんはひと月ほど前からここに来ておいでですが、今は病気で寝ておられます。来てごらんなさい」
 門をはいると、木の扉がある。内はひろくて、座敷のようなものが三、四室ある。壁に沿うてとこを設け、その床は綿に包まれている。※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)の妻は石のとうの上に寝ていたが、畳をかさね、しとねをかさねて、結構な食物がたくさんに列べてあった。たがいに眼を見合わせると、妻は急に手を振って、夫に早く立ち去れという意を示した。
 女たちは言った。
「奥さんはこの頃お出でですが、わたし達の中にはもう十年もここにいる者があります。ここは神霊ある物の棲む所で、自由に人を殺す力を持っています。百人の精兵でも、かれを取り押えることは出来ません。幸いに今は留守ですから、還らない間に早く立ち去るが好うございます。しかしい酒二石と、食用の犬十匹と、麻数十きんとを持ってお出でになれば、みんなが一致して彼を殺すことが出来ます。来るならば必ず正午ごろに来てください。それも直ぐに来てはなりません。十日を過ぎてお出でなさい」
 それでは十日の後に再び来ると約束して、※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)の一行は立ち帰った。それから美酒と犬と麻とを用意して、約束の時刻にたずねて行くと、女たちは待っていた。
「かれは酒が大好きで、酔うと力が満ちて来ると見えて、私たちに言いつけて綵糸いろいとで自分のからだをゆかに縛り付けさせます。そうして、一つねあがると、糸は切れてしまうのです。しかし三本の糸をまき付けると、力が不足で切ることが出来ません。それですから、きぬのなかに麻を隠して置いて縛ったらば、おそらく切ることは出来まいと思われます。彼のからだはすべて鉄のようで刃物などは透りませんが、ただへそのした五、六寸のところを大事そうに隠していますから、そこがきっと急所で、刃物を防ぐことが出来ないのであろうと察せられます」
 女たちは更にかたわらの巌室いわむろを指さして教えた。
「そこは食物ぐらですから暫く忍んでおいでなさい。酒を花の下に置き、犬を林のなかに放して置いて、わたし達の計略が成就じょうじゅした時に、あなた方に合図をします」
 その通りにして、一行は息を忍ばせて待っていると、日も早やさるの刻(午後三時―五時)とおぼしき頃に、練絹ねりぎぬのような物があなたの山から飛ぶが如くに走って来て、たちまちにほらのなかにはいった。見れば、身のたけ六尺余の男で、美しいひげをたくわえ、白衣を着て杖を曳いていた。かれは女たち大勢に取り巻かれて庭に出たが、たちまちに犬を見つけて驚き喜び、身を跳らせて引っ捕えたかと思うと、引き裂いて片端からくらい尽くした。女たちは玉の杯で酒をすすめると、機嫌よく笑い興じながらかれは数の酒を飲んだ。
 女たちはかれをたすけて奥にはいったが、そこでも又笑い楽しむ声がきこえた。やや暫くして、女が出て来て※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)の一行を招いたので、すぐに武器をたずさえて踏み込むと、一頭の大きい白猿が四足しそくゆかにくくられていて、一行を見るや慌て騒いで、しきりに身をもがいても動くことが出来ず、いたずらに電光のような眼を輝かすばかりであった。一行は先を争って刃を突き立てたが、あたかも鉄石の如くである。しかも臍の下を刺すと、やいばは深く突き透って、そそぐが如くに血が流れた。
「ああ、天がおれを殺すのだ」と、かれは大きい溜め息をついた。「貴様たちの働きではない。しかし貴様の女房はもうはらんでいる。必ずその子を殺すな。明天子に逢って家を興すに相違ないぞ」
 言い終って彼は死んだ。そのくらをさがすと、宝物珍品が山のように積まれていて、およそ人世の珍とする物は備わらざるなしという有様であった。名香めいこうこく、宝剣一そう、婦女三十人、その婦女はみな絶世の美女で、久しいものは十年もとどまっている。容色おとろえた者はどこへか連れて行かれて、どうなってしまうか判らない。女を取り、物を取るのはすべて自分ひとりで、他に党類はない。朝はたらいで顔を洗い、帽をかぶり、白衣を着るが、寒さ暑さに頓着せず、全身は長さ幾寸の白い毛におおわれている。
 かれが家にある時は、常に木彫りの書物を読んでいるが、その文字は符篆ふてんの如くで、誰にも読むことは出来ない。晴れた日には両手に剣を舞わすが、その光りは身をめぐって飛び、あたかも円月の如くである。飲み食いは時を定めず、好んで木実このみや栗を食うが、もっとも犬をたしなみ、啖い殺して血を吸うのである。ひるを過ぎると飄然として去り、半日に数千里を往復して夕刻には必ず帰って来る。夜は婦女にたわむれて暁に至り、かつて眠ったことがない。要するに※(「けものへん+暇のつくり」、第4水準2-80-45)かかく[#「けものへん+矍」、133-13]のたぐいである。
 ことしの秋、木の葉が落ち始める頃に、かれはさびしそうに言った。
「おれは山の神に訴えられて、死罪になりそうだ。しかし救いをもろもろの霊ある物に求めたから、どうにかまぬかれるだろう」
 前月、書物を収めてある石橋が火を発して、その木簡もっかんを焼いてしまった。かれは書物を石の下に置いたのである。かれは悵然ちょうぜんとしてまた言った。
「おれは千歳せんざいにして子がなかったが、今や初めて子を儲けた。おれの死期もいよいよ至った」
 かれはまた、女たちを見まわして、涙を催しながら言った。
「この山は険阻で、かつて人の踏み込んだことのない所だ。上は高くして樵夫きこりなども見えず、下は深うして虎狼ころう怪獣が多い。ここへもし来る者があれば、それは天の導きというものだ」
 怪物の話はこれで終った。※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)はその宝玉や珍品や婦女らを連れて帰ったが、婦女のうちには我が家を知っていて、無事に戻る者もあった。※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)の妻は一年の後に男の子を生んだが、その容貌は父にていた。
 ※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)は後にちん武帝ぶていのために誅せられたが、彼は平素から江総こうそうと仲がよかった。江総は※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)の子の聡明なるを愛して、常に自分の家に留めて置いたので、※(「糸+乞」、第3水準1-89-89)のほろびる時にもその子は難をまぬかれた。生長の後、その子は果たして文学に達し、書を善くし、名声を一代に知られた。
(白猿伝)
   女侠

 唐の貞元年中、博陵はくりょう崔慎思さいしんし進士しんしに挙げられて上京したが、京に然るべき第宅ていたくがないので、他人の別室を借りていた。家主は別の母屋おもやに住んでいたが、男らしい者は一人も見えず、三十ぐらいの容貌きりょうのよい女と唯ふたりの女中がいるばかりであった。崔は自分の意を通じて、その女を妻にしたいと申し入れると、彼女は答えた。
「わたくしは人に仕えることの出来る者ではありません。あなたとは不釣合いです。なまじいに結婚して後日ごじつの恨みを残すような事があってはなりません」
 それではめかけになってくれと言うと、女は承知した。しかも彼女は自分の姓を名乗らなかった。そうして二年あまりも一緒に暮らすうちに、ひとりの子を儲けた。それから数月の後、ある夜のことである。崔は戸を閉じ、とばりを垂れてしんに就くと、夜なかに女の姿が見えなくなった。
 崔はおどろいて、さては他に姦夫かんぷがあるのかと、憤怒いきどおりに堪えぬままに起き出でて室外をさまよっている時、おぼろの月のひかりに照らされて、彼女は屋上から飛び降りて来た。白の練絹を身にまとって、右の手には、匕首あいくち、左の手には一人の首をたずさえているのである。
「わたくしの父は罪なくして郡守に殺されました。その仇を報ずるために、城中に入り込んで数年を送りましたが、今や本意を遂げました。ここに長居は出来ません。もうおいとまをいたします」
 彼女は身支度して、かの首をふくろに収め、それを小脇にかかえて言った。
「わたくしは二年間あなたのお世話になりまして、幸いに一人の子を儲けました。この住居も二人の奉公人もすべてあなたに差し上げますから、どうぞ子供の養育を願います」
 男に別れてかきを越え、家を越えて立ち去ったので、崔も暫くはただ驚嘆するのみであった。やがて女はまた引っ返して来た。
「子供に乳をやって行くのを忘れましたから、ちょっと飲ませて来ます」
 彼女は室内にはいったが、やや暫くして出て来た。
「乳をたんと飲ませました」
 言い捨てて出たままで、彼女はかさねて帰らなかった。それから時を移しても、赤児あかごの啼く声がちっとも聞えないので、崔は怪しんでうかがうと、赤児もまた殺されていた。
 その子を殺したのは、のちの思いの種を断つためであろう。昔の侠客もこれには及ばない。
(原化記)
   霊鏡

 唐の貞元年中、漁師十余人が数そうの船に小網を載せて漁に出た。蘇州そしゅうの太湖が松江しょうこうに入るところである。
 網をおろしたがちっとも獲物えものはなかった。やがて網にかかったのは一つの鏡で、しかもさのみに大きい物でもないので、漁師はいまいましがって水に投げ込んだ。それから場所をかえて再び網をおろすと、又もやかの鏡がかかったので、漁師らもさすがに不思議に思って、それを取り上げてよく視ると、鏡はわずかに七、八寸であるが、それに照らすと人の筋骨きんこつから臓腑ぞうふまではっきりと映ったので、最初に見た者はおどろいて気絶した。
 ほかの者も怪しんで鏡にむかうと、皆その通りであるので、驚いて倒れる者もあり、嘔吐はきけを催す者もあった。最後の一人は恐れて我が姿を照らさず、その鏡を取って再び水中に投げ込んでしまった。彼は倒れている人びとを介抱して我が家へ帰ったが、あれは確かに妖怪であろうと言い合った。
 あくる日もつづいて漁に出ると、きょうは網に入る魚が平日の幾倍であった。漁師のうちで平生から持病のある者もみな全快した。故老の話によると、その鏡は河や湖水のうちに在って、数百年に一度あらわれるもので、これまでにも見た者がある。しかもそれが何の精であるかを知らないという。
(同上)
   仏像

 白鉄余はくてつよ延州えんしゅう胡人こじん西域せいいきの人)である。彼は邪道をもって諸人を惑わしていたが、深山の柏の樹の下にあかがねの仏像を埋め、その後数年、そこに草が生えたのを見すまして、土地の人びとをあざむいた。
「昨夜わたしが山の下を通ると、仏のひかりを見た。日をさだめて精進潔斎しょうじんけっさいをして、尊い御仏みほとけを迎えることにしたい」
 定めの日に数百人をあつめて、ここらという所を掘りかえしたが、仏は見付からなかった。彼はまた言った。
「諸人が誠心をささげて布施物ふせもつを供えなければ、仏の姿を拝むことは出来ない」
 集まっている男女はあらそって百余万銭を供えると、彼はさきに埋めたところを掘り起して、一体の仏像を示した。その噂が四方に伝わって、それを拝ませてくれという者が多くなると、彼はまた宣言した。
「尊い御仏を拝むと、万病が本復ほんぷくする」
 その計略成就して、数百里のあいだの老若男女ろうにゃくなんにょがみな集まった。そこで、紫やや黄の綾絹あやぎぬをもって幾重にも仏像をつつみ、拝む者があれば先ずその一重をいで見せる。一回の布施が十万銭、その正体を拝むまでには幾十万銭に及ぶのであった。
 こんな詭計きけいを用いているうちに、一、二年の後には土地の者がみな彼に帰伏した。彼は遂に乱をおこして、みずから光王こうおうと称し、もろもろの官職を設け、長吏ちょうりを置き、諸国の禍いをなすこと数年に及んだので、朝廷は将軍程務挺ていむていに命じてこれを討たしめ、かれらをほろぼして光王を斬った。
(朝野僉載)
   孝子

 東海に郭純かくじゅんという孝子があった。母をうしなって彼は大いにこくした。その哭するごとに、鳥の群れがたくさん集まって来るのである。官から使者を派して取調べさせると、果たしてその通りであったので、彼は孝子として村の入口に表彰された。
 後に聞くと、この孝子は哭するごとに、地上に餅をき散らして鳥にあたえた。それが幾たびも続いたので、その泣き声を聞きつけると、鳥の群れは餅を拾うために集まって来たのであった。
(同上)
   壁龍

 柴紹さいしょうの弟なにがしは身も軽く、足もはやく、どんな所へでも身を躍らせてのぼるばかりか、十余歩ぐらいは飛んで行った。
 唐の太宗たいそう皇帝が彼に命じて長孫無忌ちょうそんむき(太宗の重臣)の鞍を取って来いと言った。同時に無忌にも内報して、取られないように警戒しろと注意した。その夜、鳥のようなものが無忌の邸内に飛び込んで、二つの鞍を二つに切って持ち去った。それ逃がすなと追いかけたが、遂に捉え得なかった。
 帝はまたかれに命じて丹陽公主たんようこうしゅ(公主=皇女)の枕を取って来いと言った。それは金をちりばめたはこ付きの物である。かれは夜半にその寝室へ忍び入って、手をもって睡眠中の公主の顔を撫でた。思わず頭をあげるあいだに、かれは他の枕とりかえて来た。公主は夜の明けるまでそれを覚らなかった。
 又ある時、彼は吉莫靴かわぐつをはいて、石瓦の城に駈けあがった。城上のかきには手がかりがないので、かれは足をもって仏殿の柱を踏んで、のきさきに達し、さらにたるきじて百尺の楼閣に至った。実になんの苦もないのである。太宗帝は不思議に思った。
「こういう男は都の近所に置かない方がよい」
 彼は地方官として遠いところへうつされた。時の人びとは彼を称して壁龍へきりゅうといった。
 太宗は又かつて長孫無忌に七宝帯を賜わった。そのあたい千金である。この当時、段師子だんししと呼ばれる大泥坊があって、屋上の椽のあいだから潜り込んで無忌の枕もとに降り立った。
「動くと、命がありませんぞ」
 彼は白刃を突き付けて、その枕の函の中から七宝帯を取り出した。更にその白刃を床に突き立てて、それを力に飛びあがって、ふたたび元の椽のあいだから逃げ去った。
(同上)
   登仙奇談

 唐の天宝てんぽう年中、河南※(「糸+侯」、第4水準2-84-44)かなんこうし県の仙鶴観せんかくかんには常に七十余人の道士が住んでいた。いずれも専ら修道を怠らない人びとで、未熟の者はここに入ることが出来なかった。
 ここに修業の道士は、毎年九月三日の夜をもって、一人は登仙とうせんすることを得るという旧例があった。
 夜が明ければ、その姓名をしるして届け出るのである。勿論、誰が登仙し得るか判らないので、毎年その夜になると、すべての道士らはみな戸を閉じず、思い思いに独り歩きをして、天の迎いを待つのであった。
 張竭忠ちょうけっちゅうがここの県令となった時、その事あるを信じなかった。そこで、九月三日の夜二人の勇者に命じて、武器をたずさえて窺わせると、宵のあいだは何事もなかったが、夜も三更さんこうに至る頃、一匹の黒い虎が寺内へり来たって、一人の道士をくわえて出た。それと見て二人は矢を射かけたがあたらなかった。しかも虎は道士を捨てて走り去った。
 夜が明けて調べると、昨夜は誰も仙人になった者はなかった。二人はそれを張に報告すると、張は更に府に申し立てて、弓矢の人数をあつめ、仙鶴観に近い太子陵の東にある石穴のなかをあさると、ここに幾匹の虎を獲た。穴の奥には道士の衣冠や金簡のたぐい、人の毛髪や骨のたぐいがたくさんに残っていた。これがすなわち毎年仙人になったという道士の身の果てであった。
 その以来、仙鶴観に住む道士も次第に絶えて、今は陵を守る役人らの住居となっている。
(博異記)
   蒋武

 唐の宝暦ほうれき年中、循州河源じゅんしゅうかげん蒋武しょうぶという男があった。骨格たくましく、豪胆剛勇の生まれで、山中の巌窟に独居して、狩猟に日を送っていた。彼は蹶張けっちょうを得意とし、熊や虎やひょうが、その弦音つるおとに応じてたおれた。蹶張というのは片足で弓を踏ん張って射るのである。そのやじりをあらためると、皆その獣のむねをつらぬいていた。
 ある時、甚だ忙がしそうに門を叩く者があるので、蒋は扉を隔ててうかがうと、一匹の猩々しょうじょうが白い象にまたがっていた。蒋は猩々がよく人の言葉を語ることを知っているので、内からいた。
「象と一緒に来たのはどういうわけだ」
「象に危難がせまって居ります。わたくしに人間の話が出来るというので、わたくしを乗せてお願いに出たのでございます」と、猩々は答えた。
「その危難のわけを言え」と、蒋はまた訊いた。
「この山の南二百余里のところに、天にそびゆる大きい巌穴いわあながございます」と、猩々は言った。「そのなかに長さ数百尺の巴蛇うわばみが棲んで居ります。その眼はいなずまのごとく、そのきばはつるぎの如くで、そこを通る象の一類はみな呑まれたりまれたりします。その難に遭うもの幾百、もはや逃げ隠れるすべもありません。あなたが弓矢を善くするのを存じて居りますので、どうぞ毒矢をもってかれを射殺して、われわれのうれいを除いて下されば、かならず御恩報じをいたします」
 象もまた地にひざまずいて、涙を雨のごとくに流した。
「御承知ならば、矢をたずさえてお乗り下さい」と、猩々はうながした。
 蒋は矢に毒を塗って、象の背にまたがった。行けば果たして巌の下に二つの眼が輝いて、その光りは数百歩を射るのであった。
「あれが蛇の眼です」と、猩々は教えた。
 それを見て、蒋も怒った。彼は得意の蹶張をこころみて、ひと矢で蛇の眼を射ると、象は彼を乗せたままではしり避けた。やがて巌穴のなかでは雷の吼えるような声がして、大蛇だいじゃは躍り出てのたうち廻ると、数里のあいだの木も草も皆その毒気に焼けるばかりであった。蛇は狂い疲れて、日の暮れる頃にたおれた。
 それから穴のあたりを窺うと、そこには象の骨と牙とが、山のように積まれていた。十頭の象があらわれて来て、その長い鼻であかい牙一枚ずつを捲いて蒋に献じた。それを見とどけて、猩々も別れて去った。蒋は初めの象に牙を積んで帰ったが、後にその牙を売って大いに資産を作った。
(伝奇)
   笛師

 唐の天宝の末に、安禄山あんろくざんが乱をおこして、潼関どうかんの守りも敗れた。都の人びとも四方へ散乱した。梨園りえん弟子ていしのうちに笛師ふえしがあって、これも都を落ちて終南山しゅうなんざんの奥に隠れていた。
 そこに古寺があったので、彼はそこに身を忍ばせていると、ある夜、風清く月明らかであるので、彼はやるかたもなき思いを笛に寄せて一曲吹きすさむと、嚠喨りゅうりょうの声は山や谷にひびき渡った。たちまちにそこへ怪しい物がはいって来た。かしらは虎で、かたちは人、身には白い着物をていた。
 笛師はおどろきおそれて、階をくだって立ちすくんでいると、その人は言った。
「いい笛のだ。もっと吹いてくれ」
 よんどころなしに五、六曲を吹きつづけると、その人はいい心持そうに聴きほれていたが、やがておおいびきで寝てしまった。笛師はそっと抜け出して、そこらの高いの上にじ登ると、枝や葉が繁っているので、自分の影をかくすに都合がよかった。やがてその人は眼をさまして、笛師の見えないのに落胆したらしく、大きい溜め息をついた。
「早く喰わなかったので、逃がしてしまった」
 彼は立って、長くうそぶくと、暫くして十数頭の虎が集まって来て、その前にひざまずいた。
「笛吹きの小僧め、おれの寝ている間に逃げて行った。路を分けて探して来い」と、かれは命令した。
 虎の群れはこころ得て立ち去ったが、夜の五更ごこうの頃に帰って来て、人のように言った。
「四、五里のところを探し歩きましたが、見付かりませんでした」
 その時、月は落ちかかって、斜めに照らす光りが樹の上の人物を映し出した。それを見てかれは笑った。
「貴様は雲かすみと消え失せたかと思ったが、はは、此処ここにいたのか」
 かれは虎の群れに指図して、笛師を取らせようとしたが、樹が高いので飛び付くことが出来ない。かれも幾たびか身を跳らせたが、やはり目的を達しなかった。かれらもとうとう思い切って立ち去ると、やがて夜もあけて往来の人も通りかかったので、笛師は無事に樹から離れた。
(広異記)
   担生

 昔、ある書生が路で小さい蛇に出逢った。持ち帰って養っていると、数月の後にはだんだんに大きくなった。書生はいつもそれをにないあるいて、かれを担生たんせいと呼んでいたが、蛇はいよいよ長大になって、もう担い切れなくなったので、これをはん県の東の大きい沼のなかへ放してやった。
 それから四十余年の月日は過ぎた。かの蛇は舟をくつがえすような大蛇だいじゃとなって、土地の人びとに沼のぬしと呼ばれるようになった。迂闊に沼に入る者は、かならず彼に呑まれてしまった。一方の書生は年すでに老いて他国にあり、何かの旅であたかもこの沼のほとりを通りかかると、土地の者が彼に注意した。
「この沼には大蛇が棲んでいて人を食いますから、その近所を通らないがよろしゅうございます」
 時は冬の最中さなかで、気候も甚だ寒かったので、今ごろ蛇の出る筈はないと、書生はかずにその沼へさしかかった。行くこと二十里余、たちまち大蛇があらわれて書生のあとを追って来た。書生はその蛇の形や色を見おぼえていた。
「おまえは担生ではないか」
 それを聞くと、蛇はかしらを垂れて、やがてしずかに立ち去った。書生は無事に范県にゆき着くと、県令は蛇を見たかと訊いた。見たと答えると、その蛇に逢いながら無事であったのは怪しいというので、書生はひとまず獄屋につながれた。結局、彼も妖妄ようもうの徒であると認められて、死刑におこなわれることになった。書生は心中大いに憤った。
「担生の奴め。おれは貴様を養ってやったのに、かえっておれを死地におとしいれるとは何たることだ」
 蛇はその夜、県城を攻め落して一面のみずうみとした。唯その獄屋だけには水がひたさなかったので、書生は幸いに死をまぬかれた。
 天宝の末年に独孤暹どっこせんという者があって、そのしゅうとは范県の県令となっていた。三月三日、家内の者どもと湖水に舟を浮かべていると、子細もなしに舟は俄かに顛覆して、家内大勢がほとんど溺死しそうになった。
(同上)
   板橋三娘子

 ※(「さんずい+(丶/下)」、第3水準1-86-52)べん州の西に板橋店はんきょうてんというのがあった。店の姐さんは三娘子さんじょうしといい、どこから来たのか知らないが、三十歳あまりの独り者で、ほかには身内もなく、奉公人もなかった。家は幾間いくまかに作られていて、食い物を売るのが商売であった。
 そんな店に似合わず、家は甚だ富裕であるらしく、驢馬ろばのたぐいを多く飼っていて、往来の役人や旅びとの車に故障を生じた場合には、それを馬匹ばひつやすく売ってやるので、世間でも感心な女だと褒めていた。そんなわけで、旅をする者は多くここに休んだり、泊まったりして、店はすこぶる繁昌した。
 唐の元和げんな年中、きょ州の趙季和ちょうきわという旅客が都へ行く途中、ここに一宿いっしゅくした。趙よりも先に着いた客が六、七人、いずれもとうに腰をかけていたので、あとから来た彼は一番奥の方の榻に就いた。その隣りは主婦あるじの居間であった。
 三娘子は諸客に対する待遇すこぶる厚く、夜ふけになって酒をすすめたので、人びとも喜んで飲んだ。しかし趙は元来酒を飲まないので、余り多くは語らず笑わず、行儀よく控えていると、夜の二更(午後九時―十一時)ごろに人びとはみな酔い疲れて眠りに就いた。三娘子も居間へかえって、扉を閉じて灯を消した。
 諸客はみな熟睡しているが、趙ひとりは眠られないので、幾たびか寝返りをしているうちに、ふと耳に付いたのは主婦の居間で何かごそごそいう音であった。それは生きている物が動くように聞えたので、趙は起きかえって隙間から窺うと、あるじの三娘子は或るうつわを取り出して、それを蝋燭の火に照らし視た。さらに手箱のうちから一具の鋤鍬すきくわと、一頭の木牛ぼくぎゅうと、一個の木人ぼくじんとを取り出した。牛も人も六、七寸ぐらいの木彫り細工である。それらをかまどの前に置いて水をふくんで吹きかけると、木人は木馬を牽き、鋤鍬をもってゆかの前の狭い地面を耕し始めた。
 三娘子はさらにまた、ひと袋の蕎麦そば種子たねを取り出して木人にあたえると、彼はそれをいた。すると、それがまた、見るみるうちに生長して花を着け、実を結んだ。木人はそれを刈ってんで、たちまちに七、八升の蕎麦粉を製した。彼女はさらに小さいうすを持ち出すと、木人はそれをいて麺を作った。それが済むと、彼女は木人らを元の箱に収め、麺をもって焼餅しょうべい数枚を作った。
 暫くして※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)とりの声がきこえると、諸客は起きた。三娘子はさきに起きて灯をともし、かの焼餅を客にすすめて朝の点心てんしんとした。しかし趙はなんだか不安心であるので、何も食わずに早々出発した。彼はいったん表へ出て、また引っ返して戸の隙から窺うと、他の客は焼餅を食い終らないうちに、一度に地を蹴っていなないた。かれらはみな変じて驢馬となったのである。三娘子はその驢馬を駆って家のうしろへ追い込み、かれらの路銀ろぎんや荷物をことごとく巻き上げてしまった。
 趙はそれを見ておどろいたが、誰にも秘して洩らさなかった。それからひと月あまりの後、彼は都からかえる途中、再びこの板橋店へさしかかったが、彼はここへ着く前に、あらかじめ蕎麦粉の焼餅を作らせた。その大きさは前に見たと同様である。そこで、なにげなく店に着くと、三娘子は相変らず彼を歓待した。
 その晩は他に相客がなかったので、主婦はいよいよ彼を丁寧に取扱った。夜がふけてから何か御用はないかとたずねたので、趙は言った。
「あしたの朝出発のときに、点心てんしんを頼みます……」
「はい、はい。間違いなく……。どうぞごゆるりとおやすみください」
 こう言って、彼女は去った。
 夜なかに趙はそっと窺うと、彼女は先夜と同じことを繰り返していた。夜があけると、彼女は果物と、焼餅数枚を皿に盛って持ち出した。それから何かを取りに行った隙をみて、趙は自分の用意して来た焼餅一枚を取り出して、皿にある焼餅一枚とり換えて置いた。そうして、三娘子を油断させるために、自分の焼餅を食って見せたのである。
 いざ出発というときに、彼は三娘子に言った。
「実はわたしも焼餅を持っています。一つたべて見ませんか」
 取り出したのはさきに掏りかえて置いた三娘子の餅である。
 彼女は礼をいって口に入れると、忽ちにいなないて驢馬に変じた。それはなかなか壮健な馬であるので、趙はそれに乗って出た。ついでにかの木人と木牛も取って来たが、その術を知らないので、それを用いることが出来なかった。
 趙はその驢馬に乗って四方を遍歴したが、かつて一度もあやまちなく、馬は一日に百里をあゆんだ。それから四年の後、彼は関に入って、華岳廟かがくびょうの東五、六里のところへ来ると、路ばたに一人の老人が立っていて、それを見ると手をって笑った。
「板橋の三娘子、こんな姿になったか」
 老人はさらに趙にむかって言った。
「かれにも罪はありますが、あなたに逢っては堪まらない。あまり可哀そうですから、もうゆるしてやってください」
 彼は両手で驢馬の口と鼻のあたりを開くと、三娘子はたちまち元のすがたで跳り出た。彼女は老人を拝し終って、ゆくえも知れずに走り去った。
(幻異志)

底本:「中国怪奇小説集」光文社
   1994(平成6)年4月20日第1刷発行
※校正には、1999(平成11)年11月5日3刷を使用しました。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2003年7月31日作成
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