登場人物

駕籠かごかき 權三ごんざ
權三の女房 おかん
駕籠かき 助十すけじふ
助十の弟 助八
家主 六郎兵衞
小間物屋 彦兵衞
彦兵衞のせがれ 彦三郎
左官屋 勘太郎
猿まはし 與助
願人坊主ぐわんにんばうず 雲哲うんてつ
おなじく 願哲
石子伴作いしこばんさく
ほかに長屋の男 女 娘 子供 捕方とりかた
 駕籠かきなど

  第一幕

享保きやうほ時代。大岡越前守ゑちぜんのかみが江戸の町奉行まちぶぎやうたりし頃。七月初旬の午後。
神田橋本町の裏長屋。壁一重を境にして、かみのかたには駕籠かき權三、しもの方は駕籠かき助十が住んでゐる。いづれも破れ障子のあばら屋にて、權三の家の臺所は奧にあり。助十のうちの臺所は下のかたにある。權三の家の土間には一ちやうの辻駕籠が置いてある。二軒の下のかたに柳が一本立つてゐて、その奧に路地の入口があると知るべし。

(けふは長屋の井戸がへにて、相長屋の願人坊主、雲哲、願哲の二人も手傳ひに出てゐるていにて、いづれも權三の家の縁に腰をかけて汗をふいてゐる。助十の弟助八は廿歳はたち前後のわか者、刺青ほりもののある男にて片肌をぬぎ、鉢卷、尻からげの跣足はだしにて澁團扇しぶうちはを持つて立つてゐる。權三の女房おかん、河岸かしの女郎あがりにて廿六七歳、これも手拭にて頭をつゝみ、たすきがけにて浴衣ゆかたつまをからげ、三人に茶を出してゐる。少しく離れて、猿まはし與助は手拭を頸にまき、浴衣の上に猿を背負ひ、おなじく尻からげの跣足にてぼんやりと立つてゐる。表には角兵衞獅子の太鼓の音きこゆ。)
雲哲 やれ、やれ、暑いことだぞ。
願哲 まさか笠をかぶつて井戸がへにも出られず、この素頭すあたまじり/\と照りつけられては、眼がくらみさうになる。
雲哲 まつたく今日の井戸がへは焦熱せうねつ地獄だ。
おかん お前さん達もあたしのやうに手拭でつつんでゐれば好いぢやありませんか。
願哲 かういふ時には女は格別、男は鉢卷でないとうも威勢がよくないからな。
助八 はゝ、笑はせるぜ。鉢卷をしたつて、すつとこかぶりをしたつて、願人坊主の相場がどう上るものか。
おかん 與助さん。おまへさんもお飮みでないかえ。(茶碗を出す。)
與助 (進みよりて丁寧に會釋する。)はい、はい。いや、これはありがたい。實はさつきからのどかわいてひり/\してゐました。
助八 いくらおめえの商賣でも、長屋の井戸がへにえて公を背負しよつて出ることもあるめえぢやあねえか。
與助 それがね。(猿をみかへる。)なにしろ這奴こいつがよく馴染なじんでゐるのでね。ちつとの間でもわたしの傍を離れないのですよ。
おかん 畜生でも可愛いもんだねえ。
與助 可愛いもんですよ。
助八 ぢやあ、おれも可愛がつてらうか。(猿のあたまを撫でる。)やい、えて公。手前も一緒に出て來ながら、親方の背中で高見の見物をきめてゐる奴があるものか。人並はづれて長え手を持つてゐるんぢやあねえか。みんなと一緒に綱をひいて、威勢好くエンヤラサアと遣つてくれ。おい、判つたか、判つたか。(猿の耳を引張れば、猿は引つかく。)え、え、てえ、痛てえ。こん畜生、だしぬけに引つ掻きやあがつたな。
おかん おまへさんが惡戲いたづらをするから惡いんだよ。
與助 こいつは何うも氣があらくつていけません。八さん。まあ堪忍して遣つてください。
助八 痛てえ、痛てえ。(手の甲を撫でながら。)氣がれえにも何にも、まつたく其奴は旅の山猿だ。江戸前の猿ぢやあねえ。
おかん 猿に江戸前も旅もあるものかね。うなぎと間違へてゐるんだよ。(笑ふ。)
雲哲 山の芋が鰻になつても、山猿がうなぎになつたと云ふ話は聞かないな。
願哲 はゝ、こいつは大笑ひだ。
助八 おい、與助。その山猿をおれに貸してくれ。
與助 え、どうするのだね。
助八 おれ一人が引つかゝれた上に、みんなのお笑ひ草になつちやあ割に合はねえ、そいつをこゝへ追つ放して、片っ端から引つ掻かして遣るのだ。
おかん (おどろく。)あれ、馬鹿なことをお云ひでないよ。あきれた人だねえ。
雲哲 惡巫山戲わるふざけはいけない、いけない。(起ちあがる。)
(助八は猿を取らうとする。與助は遣るまいとする。この爭ひのあひだに助八は又引つかゝれる。)
助八 あ、こん畜生め、又遣りやあがつたな。もういよ/\料簡れうけんがならねえ。うぬ、生膽いきぎもを取った上で、兩國りやうごくもゝんじい屋へ賣飛ばすからさう思へ。
與助 えゝ、人の商賣物をどうするのだ。
(助八と與助は爭つてゐるところへ、上のかたより助八の兄助十、三十歳前後、これも鉢卷、刺青のある肌ぬぎ、尻端折しりはしよりの跣足にて出づ。)
助十 やい、やい。なにを騷いでゐるのだ。煙草休みも好い加減にしろ。いつまでもこんな泥仕事をしちやあゐられねえ。日の暮れねえうちに早く濟して仕舞はなけりやあならねえのだ。みんなも精出して遣つてくれ。大屋さんに叱られるぞ。
與助 大屋さんに叱られては大變だ。さあ、行きませう。
雲哲 さうだ、さうだ。
願哲 やれ、やれ、又一と汗かくかな、
(與助と雲哲、願哲は上のかたに去る。)
助十 (おかんに。)おい、かみさん。おめえの宿六やどろくはどうしたね。
おかん 奧に寢てゐますよ。
助十 冗談ぢやあねえ。一年に一度の井戸がへだから、長屋中の者がみんな商賣を休んで、かうして泥だらけになつて働いてゐるんぢやねえか。その最中に自分ひとり悠々いう/\緩々くわん/\と寢そべつてゐる奴があるものか。あんまりお長屋の義理を知らねえ狸野郎の横着野郎わうちやくやろうだ。ぬす人のひる寢も好加減にしろと云って、早く引摺ひきずり起して來い。
おかん (むつとして。)何もそんなに呶鳴どなり散らさなくつてもいゝぢやありませんか。亭主の代りにわたしが出てゐりやあお長屋の義理は濟んでゐますよ。
助十 えゝ、おめえのやうな曳摺ひきずかゝあによろによろしてゐたつて何の役に立つものか。よし原の煤掃すゝはきとは譯が違はあ。早く亭主をひき摺り出せといふのに……。
助八 今までおれも氣がかなかつたが、こゝの權三はまだ出て來ねえのか。なるほど盜人のひる寢にも程があらあ。(おかんに。)さあ、早く連れて來ねえよ。
おかん おまへさん達は人聞きが惡い。二口目にはぬす人のひる寢なんぞと、大きな聲で云つておんなさるなよ。内の人は夜の商賣が主だから、晝間寢てゐるのさ。それに不思議があるものかね。
助十 それを云へば、おれだつて同じ商賣で片棒をかついでゐるのぢやあねえか。そのおれが斯うして働いてゐるのに、相棒の權三が寢てゐるといふ法があるものか。
おかん 相棒と云つても、内の人は先棒だよ。ちつとは遠慮をするものさ。
助十 先棒でも後棒でも、斯ういふときに遠慮が出來るものか。
助八 先棒をかさにきて、おつ大哥風あにいかぜを吹かすなら、おめえの亭主なんぞは頼まねえ。これからは兄貴とおれとが相棒で稼ぎに出るばかりだ。
おかん 兄弟が相棒で御神輿おみこしでもかつぎに出るのかえ。(土間を見返りてあざ笑ふ。)肝腎かんじんのかつぐ物があるかよ。
助十 (すこし詰まつて。)なに、駕籠なんぞは何處からでも拾つて來る。なあ、八。
助八 むゝ、大川へ行つてみろ。そんな駕籠なんぞはしほで幾らも流れて來らあ。
おかん 下駄の古いのと一緒になるものかね。ばか/\しい。詰らない無駄口をおききでないよ。
助十 手前の方がよつぽど無駄口をいてゐやあがる。河岸の切見世きりみせぺちやくちやさへづつてゐた癖がぬけねえので、近所となりは大迷惑だ。おなじ年明ねんあきを引摺り込むにしても、もう少し眞人間らしいのを連れて來ればいゝのに、權三の奴めも見かけによらねえはならし野郎だ。
(奧の障子をあけて權三、これも三十歳前後の刺青のある男、浴衣の片褄を取りながら出づ。)
權三 やい、やい。さつきから奧で聞いてゐりやあ、手前たちは兄弟揃つて、よくも口から出放題の惡體あくたいもくたいならべ立てやあがつたな。なるほど俺のかゝあは吉原の河岸見世にゐた女で、飛んだのろけをいふやうだが、おたがひに好き合つて夫婦になつたのだ。それがなんで洟つ垂らしだ。惚れた女とは夫婦になるなといふ奉行所のお觸れでも出たのか。ざまあ見やがれ。
おかん ほんたうに近所迷惑とはこつちで云ふことさ。よるも晝も兄弟喧嘩を商賣のやうにしてゐて、その仲裁に行くのはいつでもあたしの役ぢやあないか。
助八 えゝ、手前たちこそ毎日毎晩、犬も食はねえ夫婦喧嘩ばかりしてゐやあがつて、その留男とめをとこの役はいつでも誰が勤めると思つてゐるのだ。
助十 まあ、まあ、だまつてゐろ。こんなすべた女郎を相手にしたつて始まらねえ。やい、權三。(縁に腰をかける。)手前も海驢あしかの生れ變りぢやああるめえ。なんで一日寢そべつてゐるのだ。長屋中が惣出そうでの井戸がへを知らねえか。寢ぼけたつらを早く洗つて、みんなと一緒に綱を引きに出て來い。ふだんから相棒のよしみに、長屋の義理や附合ひといふものを教へてやるのだ。ありがたいと思つて禮をいへ。
權三 それだからおれの名代みやうだいに、嚊をこの通り出してあるぢやあねえか。一軒の家から一人づつ出りやあ澤山だ。
助十 女なんぞは頭數ばかりで役にやあ立たねえ。おれの家ぢやあ斯うして大の男が兄弟揃つて出てゐるのだ。
權三 そりやあ手前たちの物ずきで勝手に騷いでゐるのよ。だれも頼んだわけぢやあねえ。折角よく寢てゐるところを、無暗にがあ/\呶鳴りやあがつて、たうとう起してしまやあがつた。(眼をこする。)おい、おかん。茶を一杯くれ。
おかん あい、あい。
(おかんは茶を汲んでやれぱ、權三は飮む、この時、上のかたにて大勢の聲きこゆ。)
大勢 さあ、さあ、引いた、引いた。
助八 あにい、又始まつたぜ。早く行かう。
助十 むゝ、こんな奴等にかゝり合つてゐると、日が暮れらあ。
大勢 引いた、引いた。
助十 おうい。待つてくれ。
助八 待つてくれ。
(助十と助八は鉢卷をしめ直して、急いで上のかたへ行く。)
おかん ほんたうに憎らしい奴だねえ。あたしももう行くまいかしら。
權三 かまふものか。打つちやつて置け。(團扇うちはを取る。)このごろは晝間でも藪つ蚊が出て來やあがる。
おかん 暑い暑いと云つても、もう秋だとみえて、しまのおはかまをはいた蚊がだん/\に大きくなつて來たねえ。
(おかんも澁團扇をとつて權三をあふいでやる。)
權三 おや、おや、手前けふはいやに亭主孝行だな。今の話でむかしの事を思ひ出したか。
おかん なに、あいつ等へ面當つらあてさ。
權三 面當てでなけりやあ大事にしてくれねえのか。心ぼそいことだな。
(上のかたにて又もや大勢の聲きこゆ。)
大勢 引いた、引いた。エンヤラサア。
(上のかたより以前の雲哲と願哲が先に立ちて井戸換への綱を引き、つゞいて長屋の男二人と子供一人、その次に助十、いづれも綱をひいて出づ。又そのあとから長屋の女房と娘、つゞいて猿まはし與助は猿を背負ひ、その次に助八、長屋の男、子供など同じ綱をひいて出づ。井戸端にては水をあける音。一同は又引返して上のかたに入る。)
助十 (行きながら權三を見かへる。)やい、この野郎。早く出て來ねえか。
權三 勝手にしやがれ。
助十 なんだ。(寄らうとして、綱にひかれてよろ/\となる。)えゝ、さう無暗に引いちやあいけねえ。やい、權三、手前はどうしても出て來ねえのか。えゝ、さう引いちやあいけねえと云ふのに……。
(助十は綱に引かれて、よろけながら上のかたへ引返して入る。與助と助八はあとに殘る。)
助八 (これも行きながら權三夫婦を見て。)やい、やい、夫婦ながら唯見てゐることがあるものか。お祭が通るのぢやあねえ。早く出て來い。こいつ等、出て來ねえと唯は置かねえぞ。
(助八は寄らうとすると、與助の猿はその頭髻たぶさをつかんで引く。)
助八 えゝ、だれだ、誰だ。惡ふざけをしちやあいけねえ。止せ、よせ。
(助八は猿に引かれながら、上のかたに入る。)
權三 (笑ふ。)はゝ、好いせ物だぜ。
おかん あいつはさつきも猿に引つかゝれたんだよ。
權三 あんな奴等は猿を相手に、きやつ/\と云つてゐるのが丁度相富だ。
おかん ほんたうに猿芝居の役者だねえ。
(夫婦は笑つてゐる。やがておかんは氣がついたやうに上のかたを見かへる。)
おかん お長屋の人達がみんな出てゐるのに、中途から拔けてしまふのも何だから、せめてあたしだけでも行つて來ようかねえ。
權三 なに、打つちやつて置けといふのに……。ぐづ/\云ふのは助の兄弟ぐらゐのものだ。ほかにも文句をいふ奴があつたら、どいつでもおれが相手になつてらあ。長屋中がたばになつて來ても、びくともするもんぢやあねえ。矢でも鐵砲でも持つて來いだ。
おかん でも、大屋さんに叱られると困るぢやあないか。
權三 むゝ。(少し考へる。)去年もさん/″\あぶらを取られたつけな。
おかん それ、御覽な。ほかの奴はどうでも構はないけれど、大屋さんの心持を惡くするといけないからねえ。
權三 だが、大屋さんは善い人だ。まさかに店立たなだては食はせるとも云ふめえ。
おかん 善い人だけに、こつちでも其のつもりで附合はなくちやあ惡いよ。
權三 さうかなあ。(又かんがへる。)ぢやあ、いつそおれが行つて來ようか。(起ちかけて又かんがへる。)だが、これからのそ/\出て行くと、なんだか助の野郎におどかされたやうで、ちつとしやくだな。おれはまあ止さう。おめえも止せよ。
おかん 止してもいゝかねえ。
權三 大屋さんに叱られたら、あやまる分のことだ。なに、むづかしいことはねえ。あやまればきつと堪忍してくれるよ。
おかん あの大屋さんにあやまるのは、幾らあやまつても口惜しくはないけれど……。
權三 それだからあやまると決めて置けばいゝよ。
(上のかたより助八は猿を引つかゝへて出づ。あとより與助が追つて出づ。)
與助 これ、これ、わたしの猿をどこへ持つて行くのだ。
助八 こん畜生、二度も三度もおれにからかやあがつて……。もう生かして置かれるものか。あの井戸へ叩つ込んでしまふのだ。(上のかたへ引返して行きかゝる。)
與助 えゝ、飛んでもないことだ。
(與助は猿を取返さうとして爭ふところへ、上のかたより助十出づ。)
助十 これ、八。馬鹿なことをするなよ。
助八 なにが馬鹿だ。
助十 この最中に猿なんぞを相手にして騷いでゐる奴は馬鹿に相違ねえ。そんなものは打つちやつて置いて、早く行け、行け。
助八 いやだ、いやだ。こん畜生を井戸へ叩つ込まなけりやあ料簡出來ねえ。
助十 折角井戸がへをしたところへ、そんなものを叩つ込まれて堪るものか。馬鹿野郎、よせと云ふのに……。
助八 さねえ、止さねえ。
助十 そんなら猿の身代りに手前をぶち込むからさう思へ。
助八 なにを云やあがる。
(兄弟はむしり合ひ、なぐり合ひの喧嘩になる。その隙をみて與助は猿を取返し、逆さまに背負ひて上のかたへ走り去る。)
權三 仕樣のねえ奴等だな。(おかんに。)留めてやれ、留めてやれ。
(夫婦は縁から降りて、無理に兄弟を引き分ける。)
權三 毎日めづらしくもねえ、兄弟喧嘩はよせ、よせ。
おかん 八さんも兄さんにたてを突くのはよくないよ。
助八 べらぼうめ。猿の味方をして弟をなぐるやうな奴は兄貴ぢやあねえ。
助十 手前のやうな判らずやは猿にも劣つてゐるのだ。
權三 まあ、いゝと云ふことよ。兄弟喧嘩ぢやあ、どつちから膏藥代かうやくだいを取るわけにも行かねえ。つまり毆られ損だ。止せ、止せ。
(上のかたより家主六郎兵衞出づ。)
六郎 これ、これ、みんな何をしてゐるのだ。もうちつとだから怠けてはいけない。(上のかたに向つて團扇をあげる。)さあ、さあ、早く引いた、引いた。
(上のかたより雲哲、願哲をはじめ長屋の人々は綱を持ちて出で來り、再び上のかたへ引返してゆく。)
六郎 助八。おまへはこの忙がしい最中に猿にからかつて騷いでゐたさうだな。
助八 なに、こつちが猿にからかはれたので……。
六郎 まあ、なんでもいゝから早く行つて、手傳へ、手傳へ。貴樣は長屋で一枚看板の馬鹿野郎だ。
助八 あい、あい。大屋さんに逢つちやあかなはねえ。
(助八は叱られて、これも早々に上のかたへゆく。)
おかん 大屋さん。今日はお暑いのに御苦勞樣でございます。
權三 まあ、まあ、こゝへお掛けなせえ。
六郎 (權三を見て。)おゝ、お前はさつきから井戸端へ些とも顏を見せなかつたやうだな。
權三 (ぎよつとして。)え。實は其、すこし用がありまして……。
おかん 早くあやまつておしまひよ。(眼で知らせる。)
權三 まつたくよんどころない用がありまして……。
六郎 よんどころない用があつた……。
權三 へえ、急病人が出來まして……。
助十 いや、こいつ呆れた奴だ。もし、大屋さん。だまされちやあいけねえ。そんなことは皆んな嘘ですよ。
(夫婦はあわてて手をふる。)
助十 (いよ/\呶鳴る。)えゝ、嘘だ、嘘だ。大うその川獺かはうそだ。奧に樂々と晝寢をしてゐやあがつて、おれが幾度催促に來ても出て來なかつたぢやあねえか。
權三 だから、急病人が出來たと云つてゐるのが判らねえかよ。
助十 その急病人はどこにゐる。
權三 その急病人は……。おれだ、おれだ。
助十 這奴こいついよ/\呆れた奴だ。朝つぱらから酒を飮んでゐやあがつた癖に、急病人もよく出來た。あんまり人を馬鹿にするな。
おかん そのお酒にあたつたんですよ。
助十 えゝ、なにも彼も嘘だ、嘘だ。
六郎 成程これは嘘らしいぞ。これ、權三。おまへは去年のことを忘れたか。一年につた一度の井戸がへで、家主のおれまでが汗みづくになつて世話を燒いてゐる。そのなかで假病けびやうの晝寢なぞをしてゐて、長屋の義理が濟むと思ふか。去年もあれほど叱つて置いたのに、今年も相變らず横着をきめるとは太い奴だ。又、女房も女房だ。さつきちよいと其のなまちろい顏を出したかと思ふと、もうそれぎりで隱れてしまふとは、揃ひも揃つた横着者め。さあ、さあ、早く出て働け、働け。
夫婦 はい、はい。
(上のかたにて大勢の呼ぶ聲きこゆ。)
大勢 それ、引いた。引いた。エンヤラサア。
六郎 (上のかたを見て。)それ、引いて來る。早くしろ、早くしろ。
(助十は上のかたへ駈けてゆく。權三とおかんもかけ出してゆく。やがて上のかたより以前の如く、雲哲、願哲が先に立ち、長屋の男二人と子供ひとりが綱をひいて出づ。助十と權三とおかんも綱をひいてゐる。この時、下のかたの路地口より小間物屋彦三郎、廿歳ぐらゐの若者、旅すがたにて出づ。)
助十 さあ、さあ、引け、引け。
權三 引いたり、引いたり。
一同 エンヤラサア。
(彦三郎は綱をひく人々をけながら來るうちに、助十に突きあたる。)
助十 えゝ、なにをしやあがる。
(助十に突き退けられて、彦三郎はよろめきながら更に權三に突きあたる。)
權三 この野郎、邪魔な奴だ。
(權三に蹴られて、彦三郎はつまづき倒れる。水の音。一同は見返りもせずに、綱をひいて上のかたへ引返してる。)
六郎 これ、これ、手暴てあらいことをするな。(彦三郎を介抱する。)もし、飛んだ失禮をいたしました。
彦三郎 お江戸馴れませぬ者がお取込みのなかへ出まして、わたくしこそ飛んだお邪魔をいたして相濟みません。
六郎 いや、お若いにも似合はず御丁寧の御挨拶で、重々痛み入りました。御覽の通り、けふはこの長屋の井戸換へで混雜してゐるところへ、丁度におまへさんがお出でなすつたので、どうもお氣の毒なことを致しました。店子たなこに代つて家主のわたしがお詫をしますから、どうぞ料簡れうけんして遣つてください。おゝ、おゝ、泥だらけになつた。(手拭で彦三郎の膝のあたりを拭いてやる。)
彦三郎 いえ、おかまひ下さりますな。では、おまへ樣がこゝのお家主樣でござりますか。
六郎 はい、はい。こゝは神田の橋本町、その長屋をあづかつてゐる家主の六郎兵衞でございますよ。
彦三郎 おゝ、左樣でござりましたか。
(この時、以前の長屋の女房と娘、その次に助八と長屋の男三人、與助と子供ふたりが綱をひいて出づ。)
助八 (彦三郎に。)えゝ、なにをぼんやり突つ立つてゐやあがるのだ。この案山子かゝし野郎め。邪魔だ、邪魔だ。
六郎 よそのお方に失禮をするな。おまへの方でよけて行け。馬鹿野郎め。
助八 又叱られたか。
(水の音。人々はわや/\云ひながら上の方へ引返して去る。)
六郎 こゝらの長屋にゐる者は我殺がさつな奴等ばかり揃つてゐるので、他國のお方にはお恥かしうございます。して、おまへさんは誰をたづねてお出でなすつた。
彦三郎 お家主樣をおたづね申してまゐりました。
六郎 なに、わたしを尋ねて來た……。いや、それは、それは……。では、まあこゝへおかけなさい。
(六郎兵衞は先に立ちて、權三の家の縁に腰をかける。)
六郎 して、おまへさんはどこのお人だね。
彦三郎 大坂からまゐりました。
六郎 大坂からわたしを尋ねて……。では、もしや彦兵衞さんの……。
彦三郎 はい。わたくしはこのお長屋で長年お世話樣になりました小間物屋彦兵衞のせがれ彦三郎と申す者でござります。
六郎 あゝ、彦兵衞さんの息子かえ。(急に顏色を曇らせる。)遠いところをよく出て來なすつた。
彦三郎 (これも聲を曇らせる。)もし、お家主樣。父の彦兵衞はまつたく牢死いたしたのでござりますか。
六郎 いや、どうもお氣の毒なことで、今更なんとも云ひやうがない。手紙にも書いてあげた通り、彦兵衞さんは去年の暮にお召捕になつて、その御吟味中に病氣が出て、この三月に……。(鼻を詰まらせる。)たうとう御牢内で歿なくなりましたよ。
彦三郎 その節は色々御厄介になりまして、お禮の申上げやうもござりません。まことに有難うござりました。(涙ながらに手をつく。)御手紙によりますと、父は馬喰町ばくろちやうの米屋といふ旅籠屋はたごやの隱居所へ忍び込み、六十三歳になる女隱居を殺害して、金百兩をうばひ取つたと申すことでござりますが、それは本當でござりますか。
六郎 (氣の毒さうに。)さあ、彦兵衞さんに限つてそんな事のあらう筈はないと思つてゐたが、御奉行所の嚴しいお調べで本人はたうとう白状したと云ひますよ。
(上のかたより權三はぶら/\出で來り、この體をみて少し躊躇ちうちよし、やがて拔足をして家のうしろを廻り、下のかたの柳の下に立つて聽いてゐる。)
彦三郎 それがどうしても本當とは思はれません。わたくしの父は盜みを働くやうな、まして人を殺して金をぬすむやうな、そんな不義非道の人間ではござりません。あまりに御吟味がきびしいので、身におぼえのないことを申立てたのかも知れません。(だん/\激して來る。)もし、おまへ樣。いづれにしてもこれは何かの間違ひに相違ござりません。きつと何かの間違ひでござります。
六郎 息子のおまへさんがさう思ひつめるのも無理はないが、この一件は南の町奉行所のお係りで、お役人は各奉行ときこえてゐる大岡越前守樣だ。そのおさばきで落着らくちやくしたことだから、決して間違ひのあらう筈はないのだ。
彦三郎 さきほどは御吟味中と仰しやりましたが、それではもう落着いたしたのでござりますか。
六郎 實は本人の白状で事件は落着、そのお仕置は獄門ときまつた時に、彦兵衞さんは牢死したのだ。もう何と云つても仕方がない。せめてその死骸を引取つてやりたいと思つて、色々お嘆き申してみたが、重罪人であるから死骸を下げ渡すことは相成らぬといふので、殘念ながらどうすることも出來なかつたのだ。必ず惡く思はないで下さい。
彦三郎 情けないことでござりますな。(泣く。)
(このあひだに、上のかたよりおかん出づ。權三は眼で招けば、おかんもそつと家のうしろをまはつてゆく。權三は何かさゝやけば、おかんは首肯うなづいて、再び下のかたより自分の家のうしろへ廻つてゆく。權三は助十の家の縁に腰をかける。)
彦三郎 (眼をふいて。)いくら名奉行でも、大岡樣でも、このお捌きはきつと間違つて居ります。わたくしの父にかぎりまして、決してそんなことはない筈でござります。どう考へても、それはお奉行樣のお眼違ひでござります。
六郎 (なだめるやうに。)まあ、まあ、落着いて物を云ひなさい。今更おまへが何と云つたところで、お捌きも濟み、本人も死んでしまつたものを、どうにも仕樣があるまいではないか。
彦三郎 勿論唯今となりましては、たとひ何と申したところで死んだ父が生き返るわけではござりません。それはよんどころない不運と諦めも致しませうが、せめては無實の罪といふことをお上へ申立てまして、父彦兵衞の惡名を清めたうござります。お家主樣。わたくしが一生のおねがひでござりますから、どうぞお力添へをねがひます。御承知の通り、父は大坂生れ、わたくしも御當地は初めてで、右を見ても左を見ても、誰ひとり頼みになる人はござりません。もし、お家主樣。(手をあはせる。)お願ひでござります。お願ひでござります。
六郎 あゝ、そんなことを云つて泣かせてくれるな。(眼をふく。)折角のおまへの頼みだ。わたしも何うかして遣りたいのは山々だが、こればかりはどうも困つたな。(かんがへてゐる。)
(このあひだに、家の奧よりおかんがそつと出で、そこにある團扇をつて、氣のつかぬやうに六郎兵衞と彦三郎を煽いでゐる。上のかたより助十は汗をふきながら出づ。)
助十 あゝ、あつい、暑い。
權三 (小聲で。)おい、おい。
助十 なんだ。
(權三は彦三郎を指さして眼で知らせれば、助十もうなづいて、そつと家のうしろを廻つてゆく。)
彦三郎 もし、心ばかりははやつても、わたくしは若年者じやくねんもの、殊に御當地の勝手は知れず、なんとも致方がござりません。おまへ樣によい御分別はござりますまいか。
六郎 まあ、待つてくれ。わたしもしきりに考へてゐるのだが、これはなか/\むづかしい。
彦三郎 むづかしいと申しても、どうしても此儘では濟まされません。大坂を立ちます時にも、お父さんに限つてそんなことのあらう筈がないから、わたしがどんな難儀をしても、屹とお父さんの無實を訴へて來ると、母や弟にも立派に約束して參つたのでござります。
六郎 さうやかましく云はれると、氣が散つてならない。まあ靜かにして考へさせてくれなければいけない。
彦三郎 (せいて。)このまゝのめ/\と戻りましては、母にも弟にも會はす顏がござりません。わたくしを生かすも殺すも、おまへ樣のお心一つでござります。
六郎 むゝ、判つた、判つた。よく判つてゐます。それだからわたしも色々に工夫をこらしてゐるのだ。(上の方に向つて。)おい、おい。そつちの井戸がへも少し待つてくれ。さうざうしいと、どうも好い智慧が出ない。
(六郎兵衞は又かんがへてゐるを、彦三郎は待ち兼ねるやうに眺めてゐる。おかんは貰ひ泣の眼をふいてゐる。)
權三 (小聲で。)どうだい。いつそ思ひ切つて云つてみようか。
助十 だが、あぶねえ。うつかりした事を云つて、飛んだ係り合ひになると詰らねえぜ。
權三 それもさうだが……。(考へる。)大屋さんも困つてゐるやうだ。第一あの若けえのが可哀さうぢやあねえか。
助十 おれも可哀さうだとは思ふのだが、なにしろほかの事と違ふからな。一つ間違つた日にやあ、おれ達がどんな目に逢ふか判るめえぢやあねえか。よく考へてみろよ。
權三 むゝ。(少し躊躇する。)
彦三郎 もし、お家主樣。まだお考へは付きませんか。
六郎 (ため息をつく。)どうも困つたな。わたしも橋本町の六郎兵衞といへば、名主の玄關でも御奉行所の腰掛けでも、相當に幅のきく人間だが、こればかりは全く困つた。一旦おさばきの付いてしまつたものを、今更こつちからこぢ返すといふのは、つまり大岡樣を相手取つて喧嘩をするやうなものだがら、こいつは並大抵のことで行く筈がない。小間物屋彦兵衞は確かに無實の罪だといふ立派な證據でもあるか、それとも罪人はほかにあると云ふ確かな證人でもない限りはなあ。(腕をくむ。)
(權三は何か云はうとして起ちかゝるを、助十はあわててその袖をつかみ、まあ待てと制すれば、權三はまた躊躇する。)
彦三郎 (堪へかねて。)では、どうしても出來ぬことだとおつしやるのでござりますか。
六郎 さあ、出來ないとも限らないが、なにしろこいつは大仕事だ。わたしもこの年になるまで家主を勤めてゐるが、こんなことに出逢つたのは初めてだからな。
彦三郎 (決心して。)では、もうお頼み申しますまい。わたくしは自分の思ひ通りにいたします。(起ちかゝる。)
六郎 (彦三郎の袖を捉へる。)まあ、待ちなさい。お前さんは眼の色を變へてどうする積りだ。
彦三郎 これから御奉行所へ駈込みます。
六郎 御奉行所へかけ込む……。それはいけない。駈込み訴へは御法度ごはつとだ。
彦三郎 それはわたくしも存じて居りますが、もうかうなつたら致方がござりません。どんなおとがめを受けるのも覺悟の上で、駈込み訴へをいたします。どうぞ留めずにつて下さい。(振切つて行かうとする。)
六郎 どうして無暗に遣られるものか。飛んでもないことだ。いくら年が若いと云つていてはいけない。まあ、待ちなさい。待ちなさい。
彦三郎 いや、放して下さい。放してください。
六郎 いけない、いけない。
(彦三郎は無埋に振切つて行かうとするを、六郎兵衞は留める。おかんはうろ/\しながら權三を手招ぎし、なんとかしろと云ふ。權三ももう堪らなくなつて進み出で、彦三郎の前に立塞たちふさがる。)
權三 まあ、おまへさん。待ちなせえ。
彦三郎 えゝ、どなたも邪魔をして下さるな。
(彦三郎は突きのけて行かうとするを、權三は抱きとめる。)
權三 邪魔をするわけぢやあねえ。おれが好い智慧を貸してやるのだ。やい、やい、助十。見てゐることはねえ。一緒に留めてくれ、留めてくれ。
おかん (縁に出る。)助さんも早く何とかおしなねえ。
(助十も決心して起つ。)
助十 (彦三郎に。)まあ、待ちなせえ。待ちなせえ。まつたくおれ達が好い智慧を貸してやるのだ。まあ、まあ、落ち着いて云ふことを聞くがいゝぜ。
權三 まあ、おとなしくしろ、おとなしくしろ。
(權三と助十は無理に彦三郎を元の縁さきに押戻す。)
六郎 井戸がへで汗になつたところへ、また汗をかゝされた。やれ、やれ。(汗を拭く。)そこでお前達はほんたうに好い智慧があるのか。
權三 さう改まつて聞かれると少し困るが……。おい、助十。おめえから云へ。
助十 いや、おれはいけねえ。おれは不斷から口不調法だからな。
權三 うそをつけ。人一倍大きな聲で呶鳴りやあがる癖に……。
助十 えゝ、手前こそ矢鱈やたらに無駄口をきくぢやあねえか。
六郎 これ、これ、そんなことを云つてゐては果てしがない。おい、權三。先づおまへから口をきけ。
權三 どうしてもわつしが口切りかえ。やれ、やれ。
六郎 何がやれ/\だ。おれが名指しでお前に聞くのだから、さあ、はつきりと云へ。
權三 仕樣がねえな。(頭をおさへる。)ぢやあ、まあ聽いておくんなせえ。實はね、去年の十一月の末のことでごぜえました。(助十に。)おい、あれは幾日だつけな。
助十 さあ、おれもよくは覺えてゐねえが、なんでも二のとりの前の晩あたりぢやなかつたかな。
權三 違えねえ、二の酉の前の晩だ。その晩の九つ過ぎでもありましたらうか、この助十とわつしとが遲い仕事から歸つて來まして、馬喰町の横町へ差しかゝると、頬かむりをした一人の野郎が天水桶で何か洗つてゐるやうでしたから、何をしてゐるのかと提灯の火で透かしてみると、そいつは着物の袖を洗つてゐるらしいのです。
六郎 むゝ。それから何うした。
權三 (助十をみかへる。)おい、おれにばかり云はせてゐねえで、手前もちつとしやべれよ。かうなりあうでおたげえに係り合だ。
六郎 では、助十。そのあとを早く云へ。
助十 もし、大屋さん。うつかりした事をしやべつて、若しそれが間違ひだつた時には、どういふことになりませうね。
六郎 それは事にもよるな。その事によつて重い罪にもなれぱ、輕い罪にもなる。
助十 人殺しなんぞは重い方でせうね、
六郎 それは勿論のことだ。
助十 いけねえ、いけねえ。それだからおれはいやだといふのだ。權三。手前は勝手に何でもしやべれ。おらあ知らねえ、知らねえ。
權三 知らねえことがあるものか。おれと相棒をかついでゐたんぢやあねえか。
おかん (權三に。)もし、お前さん。そんな人にかまはないで、知つてゐることがあるなら早く云つておしまひなさいよ。あたしも何だか聽きたくなつて來たからさ。
彦三郎 (すり寄る。)どうぞ早く話して下さい。
權三 たうとうおれが人身御供ひとみごくうにあげられてしまつたか。ぢやあ、まあ話しませう。今もいふ通り、天水桶で袖を洗つてゐるだけならば、別に不思議と云ふほどのことでもねえが、そいつが光るものを持つてゐる。
六郎 光るものを持つてゐた……。それから何うした。
(人々はすり寄つて聽く。)
權三 その光るものを水で洗つてゐたんですよ。
六郎 天水桶で袖を洗ひ、何か光るものを洗つてゐたのだな。その光る物といふのは刃物らしかつたか。
權三 どうもさうらしいやうでした。それでもその時はたゞ變な奴だと思つたばかりで通り過ぎてしまつたのですが、明る朝になつて聞いてみると、その晩馬喰町の米屋といふ旅籠屋はたごやの隱居所で、六十幾つになる隱居婆さんが殺されて、門跡樣もんせきさまへ納めるとかいふ百兩の金を取られたさうで、わつしもびつくりしましたよ。
六郎 むゝ。(かんがへる。)して、その男はどんな風體ふうていで、年頃や人相は判らなかつたか。
權三 さあ、そこだ。(助十に。)おい、いゝかえ。思ひ切つて云つてしまふぜ。
助十 まあ、待つてくれ。もし、大屋さん。これから權の野郎が何を云ひ出すか知りませんが、わつしに係り合を付けねえで下さいよ。わつしはなんにも知らねえんだから……。
權三 いや、さうは行かねえ。おれと相棒でゐる以上は、どうしたつて手前もかゝり合ひだぞ。
助十 だつて、おれはなんにも云はねえ。
權三 云つても云はねえでも同じことだ。
おかん まあ、そんなことは何うでもいゝから、肝腎のところを早くお云ひなさいよ。じれつたい人だねえ。
六郎 まつたくおれもじれつたい。さあ、早く云へ、早く云へ。
彦三郎 さあ、早く聞かしてください。(詰めよる。)
權三 寄つてたかつておればかりいぢめちやあ困るな、助の野郎め、狡い奴だ。おぼえてゐろ。
彦三郎 もし、早く云つてください。早く……早く……。
權三 云ふよ、云ふよ。かうなつたら何でも云つて聞かせるよ。その男は……年頃は三十四五で、職人のやうな風體ふうていで……。
彦三郎 職人のやうな風體でござりましたか。
助十 (權三に。)おい、おい。もうその位にして置くがいゝぜ。
六郎 やかましい、默つてゐろ。(權三に。)まだそのほかに何か目じるしは無かつたか。
權三 さあ。(躊躇する。)
六郎 (おどすやうに。)これ、權三。なぜおれの前で隱し立てをする。正直に云はないとお前の爲にならないぞ。
おかん お前さん、なぜ隱してゐるんだねえ。をかしいぢやあないか。
權三 えゝ、もう自棄やけだ。みんな云つてしまへ。(少し聲をひそめて。)夜目ではあり、そいつは頬被ほゝかむりをしてゐたので、確なことは云へねえが、どうもそれが近所の奴らしいので……。
六郎 むゝ、近所の奴……。誰だ、誰だ。
權三 (思ひ切つて。)豐島町の裏にゐる左官屋の勘太郎によく似てゐたんですよ。
おかん まあ。あの人が……。
六郎 左官屋の勘太郎……。あいつによく似てゐたのか。これ、助十。どうでお前もかゝり合だから、正直に云はなければならないぞ。まつたく其奴は勘太郎に似てゐたのか。
助十 かうなりやあ俺ももう自棄やけだ。(大きな聲で。)そいつは豐島町の勘太郎、左官屋の勘太郎、たしかにあの勘太郎に相違ねえのだ。
六郎 これ、大きな聲をするなよ。
彦三郎 あゝ、ありがたい、有難い。お二人さんはわたくしに取つて神樣と云はうか、佛樣と申さうか。もし、もし、この通りでござります。(手をあはせて權三と助十を拜む。)
おかん それにしても、お前さん達の氣が知れないぢやあないか。それほど判つてゐるならば、なぜ早くそのことを云ひ出して、彦兵衞さんの無實の災難を救つて上げなかつたんだらうねえ。
權三 そのときに氣がつけば格別だが、あとになつちやあ無證據だ。うつかりしたことが云はれるものか。どんな係り合になるかも知れねえ。
六郎 それで二人ともに默つてゐたのか。横着者にも似合はない、氣の小さい奴等だな。
おかん 彦兵衞さんに疑ひのかゝつたのは、どういふわけだかよくは知らないけれど、不斷から正直者のあの人がお繩にかゝつて連れて行かれるのを、一つ長屋内で見てゐながら、今まで默つてゐるといふことがあるものかね。お前さん達は随分不人情だよ。
六郎 まつたく女房のいふ通りだ。せめておれだけにも内々で話して置いおくれゝば、なんとか仕樣のあつたものを……。(叱るやうに。)それほどの事を知つてゐながら、今まで口をふいて默つてゐるとは何のことだ。つまり貴樣達が彦兵衞さんを見殺しにしたやうなものだ。これ、彦三郎さん。お前さんのお父さんのかたきはこの權三と助十だ。なんの、禮をいふことがあるものか。わたしが證人になつてやるから、こゝで立派にかたき討をしなさい。
(權三と助十はびつくりする。)
權三 と、とんでもねえ。なんでおれ達が仇なものか。
助十 かたきと云ふのは勘太郎だ。
權三 あの勘太郎だ。
(云ひながら二人は逃げかゝる。)
六郎 待て、待て。貴樣たちが逃げたからと云つて濟むわけのものではない。かたき討はゆるしてやる代りに、その罪ほろぼしに彦三郎さんの味方をするか。
權三 (助十と顏を見あはせる。)あい、あい。きつと味方を致します。
六郎 よし、よし。それならば仕樣がある。(上のかたに向ひて。)おい、おい。誰か來てくれ。早く來てくれ。
(上のかたより助八を先に、雲哲と願哲出づ。)
六郎 おゝ、助八。おまへの家に麻繩のやうなものは三本ほどないか。
助八 さあ、三本はどうだかな、
おかん 内にも一本ぐらゐはありましたよ。
助八 なにしろ探して來ませう。
(助八は我家に入る。おかんも奧に入る。)
雲哲 用はもうそれだけかね。
六郎 いや、おまへ達もそこにゐてくれ。まだ外にも用があるのだ。
(おかんは奧より麻繩一本持ちて出づ。)
おかん これで間に合ひますかえ。
六郎 よし、よし。(繩をうけ取る。)
(助八も奧より麻繩二本を持ちて出づ。)
助八 大屋さん。これでいゝかね。
六郎 むゝ、これで丁度三本揃つた。
助八 そこで、これをどうしなさるのだ。
六郎 人間三人をしばるのだ。
一同 え。
權三 三人といふのは、誰と誰とを縛るんですね。
六郎 先づ貴樣を縛る。
權三 え。
六郎 それから助十を縛る。
助十 え。
六郎 それから彦三郎さんを縛る。
彦三郎 わたくしもお繩にかゝるのでござりますか。
六郎 この三人を數珠じゆずつなぎにして、南の御奉行所へいて行くのだ。
助八 いけねえ、いけねえ。あとの二人はどんな惡いことをしたか知らねえが、おれの兄貴に限つちやあ繩をかけられるやうな覺えはねえ筈だ。ふだんから兄弟喧嘩こそしてゐるが、おれに取つちやあ唯つた一人の兄貴だ。いはれも無しに繩附きにされてたまるものか。なんでおれの兄貴を縛るのだ。その譯をいへ。譯をいへ。
六郎 さうむきになつて怒るなよ。これには譯のあることだ。こゝにゐる若い人は小間物屋の彦兵衞さんの息子で、これからおまへの兄貴と權三を證人にして、お父さんの無實の罪を訴へて出ようといふのだ。
助八 證人ならば家主が附添ひで、おとなしく連れて行くがいゝぢやあねえか。なんで繩をかけるのだ。
六郎 そのわけは今云つて聞かせる。みんなもよく聞け。今度の一件は並一通なみひととほりのことではいけない。本來ならばこの彦三郎さんがどこにか宿を取つて、その町名主の手から御奉行所へ訴へて出るのが順當だが、そんなことでは容易にらちが明かないばかりか、一旦落着したおさばきの再吟味を願ふなどと云つては、御奉行樣のお手許てもとまでとゞかないうちに、下役人の手で握りつぶされてしまふのは知れてゐる。そこでおれが考へたには、この三人に繩をかけて御奉行所へ牽いて行つて、小間物屋彦兵衞のせがれ彦三郎と申す者がわたくし方へ押掛けてまゐり、父彦兵衞は決して盜みなど致すものでない。それを罪人と定められたは恐れながらお上のお眼がね違ひ、二つには家主の不穿索ふせんさくと、さん/″\の惡口を云ひつのるのみか、長屋の駕籠かき權三助十の兩人もその腰押しをいたして、理不盡の亂暴狼藉らうぜきをはたらき……。
權三 (おどろいて。)嘘だよ、うそだよ。おれ達が何をするものか。
助十 御奉行所へ行つて、そんな出鱈目でたらめを云はれちやあ大變だ。
六郎 まあ、騷ぐなよ。そのくらゐに云はなければ中々お取上げにはならないのだ。そこで、よんどころなく長屋中の者うち寄つて右三人を取押へ、かやうに引立ててまゐりましたれば、何とぞ上の御威光を以て彼等に理解を加へ、穩便をんびんに引取りまするやうに御取計おとりはからひを願ひ上げますると、おれの口から斯う訴へ出るのだ。どうだ、判つたか。かうすれば屹とお取上げになるに違ひない。
助八 なるほどさうかも知れねえな。こいつは巧めえことを考へ出したね。
おかん 大屋さんは正直な人だと思つてゐたら、うそをつくのは中々上手だわねえ。
助八 まつたく隅へは置かれねえや。
六郎 つまらないことをめるな。こつちは一生懸命だ。そこで、お白洲しらすへ呼び込まれたら、それからはめい/\の腕次第で、彦三郎さんは自分の思ふことを存分に云うが好し、權三と助十は自分の見た通りを逐一申立てて、馬喰町の隱居殺しはどうしても勘太郎の仕業であらうと存じますと、はつきり云ふのだ。(考へて。)彦三郎さんは大丈夫だらうが、おまへ達にそれが出來るか。
權三 出來ても出來ねえでも仕樣がねえ。今もかゝあに云はれた通り、一つ長屋の彦兵衞さんが繩附きになつて出て行くのを知つてゐながら、今まで默つてゐたのはどうも良くねえ。實はわつしも内々は氣がとがめて、なんだか寢ざめが好くなかつたのだから、その罪ほろぼしに出來るだけ遣つてみませうよ。
彦三郎 なにぶんお願ひ申します。(助十に。)おまへさんにも宜しくお頼み申します。
助十 まあ、心配しなさんな。かう見えても江戸つ子の神田つ子だ。自棄やけやん八で度胸を据ゑた日にやあ、相手が大岡樣でもなんでも構はねえ、云うだけのことは皆んなべら/\云つて遣らあ。細工は流々りう/\、仕上げを御覽ごらうじろだ。
權三 おや、おや、手前は急に強くなつたぜ。變な野郎だな。
六郎 だが、まあ、強くなつた方は結構だ。その勢ひで皆んな縛られてくれ。
おかん (かんがへる。)縛られて行つて、すぐに歸して下さるでせうかねえ。
六郎 それは受合へない。町内あづけとでも來ればめたものだが、吟味中は一先づ入牢じゆろうといふことになるかも知れないな。
おかん あら、牢に入れられるの……。(泣き出す。)お家主さん。それぢやああんまりぢやあありませんか。罪もない内の人を牢へ入れて……。若しいつまでも歸されなかつたら、お前さんどうしてくれるんですよ。
助八 吟味中は入牢なんていふことになると、兄貴もちつと可哀さうだな。もし、大屋さん。兄貴の身代りにわつしを縛つて行つてくれませんかね。どうせこしらへ事なら兄貴でも弟でも構ふめえ。わつしの亂暴は世間でも皆んな知つてゐるんだから、わつしが暴れたといふ方が却つて本當らしいかも知れませんぜ。
六郎 だが、その晩のことを詳しくお調べになつたときに、本人でないと申口まをしぐちが曖昧になつていけない。やつぱり兄貴を縛るより外はないな。
助八 (助十の顏をのぞく。)兄い、おめも好いかえ。
助十 いゝよ、いゝよ。大丈夫だ。
助八 だが、どうもおれを遣つた方がよささうだな。大屋さん、どうしてもいけませんかえ。
六郎 まあ、まあ、さう案じることはない。(おかんに。)おまへも泣くなよ。自慢ぢやあないが、大岡樣とこの家主が附いてゐるのだ。決して惡いやうにはならないよ。
おかん (不安らしく。)それもやつぱり大屋さんの嘘ぢやあありませんかえ。
六郎 おれだつて無暗に嘘をつくものか。安心しろよ。
おかん 若しもこれぎりで内の人が歸つて來なかつたら、屹とおまへさんを恨むからさう思つておいでなさいよ。(泣く。)
彦三郎 (氣の毒さうに。)どうも皆さんに御迷惑をかけまして、なんとも申譯もないことでござります。(六郎兵衞に。)では、お繩をおかけ下さりませ。(兩手をうしろへ廻す。)
六郎 おまへさんはわたしが縛る。(雲哲等に。)おまへ達は權三と助十を縛つてやれ。
雲哲 あい、あい。長屋中の持て餘し者がどつちもたうとう繩附きか。
願哲 これだから惡いことは出來ないな。
權三 なにを云やあがる。手前たちの知つたことぢやあねえ。
助十 あとでびつくりしやあがるな。さあ、どうとも勝手にしやあがれ。
(權三も助十も覺悟して縛られようとする。)
六郎 これ、ちつとぐらゐ痛くつても構はない、遠慮なしにぐる/\卷きにふん縛れよ。
雲哲 大屋さんからお許しが出たのだ。せいぜい嚴重に縛つてやれ。
願哲 はゝ、面白い、面白い。
おかん なにが面白いものか。ほんたうに好い面の皮だ。
助八 こいつ等、面白半分に騷ぎ立てやあがると、おれが料簡しねえぞ。
六郎 はて、喧嘩をしてはならない。靜かにしろ、靜かにしろ。
(雲哲と願哲は笑ひながら二人を縛りあげる。六郎兵衞も彦三郎を縛る。)
六郎 ところで、そつちの二人はかくも、この人を數寄屋橋内すきやばしうちまで引摺つて行くのは可哀さうだ。(土間をみかへる。)おゝ、丁度そこに駕籠がある、と云って、權三と助十は繩附きで擔がせるわけにも行かず、これ、助八。だれか相棒をさがして擔いで行け。
助八 え、おれにかつがせるのかえ。
六郎 あたりまへよ。貴樣の商賣ではないか。
助八 商賣は商賣だが、こいつは氣のねえ仕事だな。どうで酒手さかては出やあしめえ。
六郎 ぐづ/\云はずに、早く相棒を見つけて來いよ。おゝ、誰彼といふよりも、雲哲、おまへが片棒かついでやれ。
雲哲 大屋さんのお指圖だが、これは難儀だ。おれもとむらひの差荷さしになひはかついだが、生きた人間を乘せたのはまだ一度も擔いだことがないので……。
助八 まあ、仕方がねえ、おれが先棒になつて遣るから、あとからそろ/\附いて來い。さあ、手をかせ。
雲哲 やれ、やれ。兎かく長屋に事なかれだ。
(助八と雲哲は土間から駕籠を持ち出してくる。)
彦三郎 いえ、それではあんまり恐れ入ります。
六郎 なに、遠慮はないから乘つておいでなさい。
(六郎兵衞は彦三郎の手を取りて駕籠にのせる。助八と雲哲は身支度をする。おかんは奧に入る。上のかたより猿まはし與助がうろ/\出づ。)
與助 大屋さん。井戸がへは何うしますね。
六郎 急に大事の用が出來て、おれは御番所ごばんしよへ出なければならないから、井戸がへの方はまあ宜しく遣つてくれ。おゝ、さうだ。おまへにも用がある。願哲は權三の繩取りをして、おまへは助十の繩を取つて行け。
與助 (おどろいて。)え、どこへまゐります。
六郎 南の御奉行所へ行くのだ。
與助 え。(ふるへる。)
六郎 なにも怖がることはない。おれが一緒に附いて行くのだから安心しろ。
與助 はい、はい。
六郎 併し猿を背負つてゐては少し困るな。だれかに預けて行け。
與助 いえ、この猿めはとてもわたくしの傍を離れませんから、一緒に連れて行かして下さい。
六郎 では、まあ勝手にするがいゝや。(一同に。)さあ、めいめいの役割がきまつたら、日の暮れないうちに出かけようぜ。
(願哲は權三の繩を取り、與助は助十の繩を取りて引立てる。助八と雲哲は駕籠をき上げようとして、雲哲はよろける。)
助八 おい、おい、しつかりしろよ。
雲哲 おれは素人しらうとだ。仕方がない。
(奧よりおかんは新らしい手拭と半紙を持ちて出づ。)
おかん まあ、待つてください。(權三のふところに手拭と紙を入れる。)おまへさん、達者で歸つて來て下さいよ。
權三 えゝ、縁喜えんぎでもねえ、泣くな、泣くな。すぐに歸つて來るよ。
助八 (それを見て。)あ、おれも忘れた。待つてくれ。待つてくれ。(わが家の奧へかけ込む。)
六郎 (氣がついて。)あ、おれも忘れた。これ、雲哲。このまゝで御番所へは出られない。うちへ行つておれの羽織を取つて來てくれ。
雲哲 大屋さんは相變らず人使ひがあらいな。
六郎 生意氣なことをいふな。この願人坊主ぐわんにんぼうずめ、早く行つて來い。
雲哲 あい、あい。(上のかたに去る。)
おかん (權三に。)おまへさんも着物を着かへて行つちやあどうだえ。
權三 繩をほどいて又縛られるのは面倒だ。これでいゝ、これでいゝ。どうでお花見に行くんぢやねえ。
(家の奧より助八はさしの錢を持ちて出づ。)
助八 地獄の沙汰も金次第といふが、身上しんしやうふるつても二百の錢しかねえ。これでも何かの役に立つかも知れねえから、持つて行くがいゝぜ。(助十のふところに押込む。)
助十 唯つた二百ばかりがどうなるものか。見つともねえからせ、止せ。第一それをおれに呉れてしまふと、あしたの米を買ふ錢があるめえ。
助八 なに、おれは一日ぐらゐ食はずと生きてゐられらあ。まあ、まあ、持つて行く方がいいよ。
おかん ほんたうに心細くつてならないねえ。(權三に。)おまへさんにも幾らか持たして上げたいんだけれど……。ちよいとお待ちよ。表の質屋へ行つて來るからさ。
權三 そんなことをしてゐると遲くなる。すぐに歸つて來るんだから、錢なんぞは要らねえ、要らねえ。
(上のかたより雲哲は夏羽織を持ちて出づ。)
六郎 御苦勞、御苦勞。(羽織をきる。)さつきも云ふ通り、おれもこの年になるが、かういふ事は初めてだ。當年六十歳の初陣うひぢんで、なんだか武者震むしやぶるひがして來たようだ。
權三 大將の大屋さんがふるへ出しちやあ困るぜ。
助十 どうぞしつかりお頼み申しますよ。
六郎 なに、大丈夫。さあ、威勢よく出陣だ。
彦三郎 皆さん、おねがひ申します。
權三 さあ、繰出くりだせ。
助十 くり出せ。
(六郎兵衞は先に立ち、助八と雲哲は彦三郎をのせたる駕籠をかきあげると、雲哲は又よろける。助八も一緒によろける。權三と助十は願哲と與助に繩を取られてゆく。おかんは不安らしく見送る。石町こくちやうの夕七つの鐘きこゆ。)
――幕――
  第二幕

前の場とおなじ道具。權三と助十の家。第一幕より一月ほど後の朝。
(權三の家では、權三とおかんが酒の膳を前にして、夫婦喧嘩をしてゐる。)
權三 (片肌ぬいで。)やい、やい、この阿魔あま。叩つ殺すからさう思へ。
おかん さあ、殺せるなら殺して御覽。いくら自分の女房でも、横町の黒やぶちを殺したのとは譯が違ふからね。おまへさんも勘太郎の二代目になりたいのかえ。
權三 なに、勘太郎の二代目だ。おれがいつ人殺しをした。
おかん 現在あたしをぶち殺さうとしてゐるぢやあないか。勘太郎は赤の他人を殺したんだが、おまへは自分の連れ添ふ女房を殺さうといふのだから、なほ/\罪が深いよ。
權三 べらぼうめ。手前なんぞは横町の黒や斑と大したちげえがあるものか。黒や斑はおれの顏をみると、をふつて來るだけも可愛らしいや。
おかん 尻つ尾をふつて來るどころか、あたしなんぞはこんな家へ來て、女房の役からおさんどんの役まで勤めてゐるんぢやあないか。それでも可愛くないのかよ。一體おまへだの、隣の助十だのといふ奴を唯置くといふ法があるものか。このあひだの時に牢屋へでもはふり込んでしまへばいゝものを、町内預けにして無事に歸してよこしたお奉行樣の氣が知れないねえ。
權三 あのときに手前は一粒十六もんといひさうな涙をこぼして、おい/\泣きやあがつたのを忘れたか。おれが町内あづけになつて、無事にけえつて來た顏をみると、手前は又むやみに喜んで、子供のやうに手放しで泣きやあがつた。さうして、大岡樣はありがたいと手をあはせて拜んだぢやあねえか。今になつてお奉行樣の氣が知れねえもねえものだ。手前勝手も好加減にしろ。
おかん そのときは其時さ。けふのやうに亭主風を吹かせて勝手氣儘のことを云はれちやあ、あたしだつて蟲が承知しないだらうぢやないか。
權三 亭主が酒を買つて來いといふのが、なんで勝手氣儘だ。どんな裏店うらだなでも一軒のあるじが、酒ぐらゐ飮むのは當りめえだぞ。
おかん 一軒のあるじなら主人あるじらしく、酒を買ふ錢を五十でも百でも、耳を揃へてならべてお見せよ。
權三 その錢がねえから手前に頼むのぢやねえか。判らねえ外道げだうだな。
おかん 外道でも般若はんにやでも、質草はもう何にもないよ。
權三 それだから大屋さんへ行つて頼めといふのだ。
おかん 家賃を小半年こはんとしも溜めてゐる上に、そんな蟲のいゝことが云つて行かれるものかね。まして此の矢先ぢやあないか。
權三 この矢先だから頼みに行けといふのだ。ふだんの時とは譯が違はあ。
おかん そんならお前が自分で行つておいでな。
權三 おれが行かれねえから、手前に頼むのだ。さういふことは女の役だ。
おかん 金を借りに行くのは女の役だ……。(あざ笑ふ。)權現樣ごんげんさまがそんなことをお決めなすつたのかえ。
權三 あゝ云へば斯ういふと、手前のやうに亭主を見くびつてゐる女も世界に少ねえものだ。
おかん おまへのやうに女房をいぢめる亭主も世界にたんとあるまいよ。
權三 うぬ、もうどうしても助けちやあ置かねえぞ、念佛でも題目でも勝手に唱へてゐろ。
(權三は土間に飛び降りて、駕籠の息杖いきづゑを持ち來れば、おかんはいくゞりて駕籠のかげに隱れるを、權三は杖をふりあげて追ひまはす。上のかたより猿まはし與助は商賣に出る姿にて、猿を背負ひて出で、このていをみて割つて入る。)
與助 又いつもの夫婦喧嘩か。まあ、まあ、靜かにしなさい。
權三 こん畜生があんまり不貞腐ふてくさるから、ぶち殺してしまはうと思ふのさ。
おかん まあ、聽いて下さいよ。毎日商賣にも出られないで、米櫃こめびつがた付いてゐる最中に、朝から酒を買への何のと勝手な熱ばかり吹くから、あたしが少し口答へをすると、すぐに生かすの殺すのといふ騷ぎさ。愛想が盡きるぢやあありませんか。
與助 どつちの贔屓ひいきをするでもないが、どうもそれは御亭主の方がよくないやうだな。
權三 なぜ惡いんだよ。
與助 なぜと云つて、おまへは町内あづけの身の上ではないか。それが朝から酒を飮んで、女房を生かすの殺すのと騷ぎ立てて、そんなことがお上の耳に這入つたらどうするのだ。今度の一件の落着らくちやくするまでは、せい/″\謹愼してゐなければなるまいではないか。
おかん それをあたしが云つて聞かせても、馬の耳に念佛なんですよ。
權三 うるせえ。引込んでゐろ。(すこし眞面目になつて。)なるほど、おめえの云ふ通り、こんなことが聞えたら好くねえだらうね。
與助 それはよくないに決まつてゐる。それだから、まあおとなしくしてゐなさいと云ふのだ。
權三 むゝ。(いよ/\しよげて。)どうも詰らねえことになつてしまつたな。
(この時、隣の助十の家でも怒鳴る聲がきこえる。)
助十 この野郎、どうしても唯は置かねえぞ。
助八 喧嘩なら廣いところへ出て來い。
(臺所の被れ障子を蹴放して、助八は擂粉木すりこぎを持ちてをどり出づ。つゞいて助十は出刃庖丁でばぼうちやうを持ちて出づ。)
おかん あら、隣でも大變だよ。
與助 あつちは刃物を特つてゐる。これはあぶない。
(與助は猿を縁におろして、怖々こは/″\ながら留めようとしてゐると、上のかたより願人坊主の雲哲と願哲は商賣に出る姿にて、住吉踊の傘をかつぎて出で、これを見て騷ぐ。)
雲哲 やあ、やあ、又はじめたのか。
願哲 刃物をふりまはしては劍難けんのんだ。
(助十と助八は捨臺詞すてぜりふにて鬪つてゐる。雲哲と願哲は思案して、權三の家の土間から駕籠を持ち出し、與助も手傳ひて、よき隙を見て助十と助八のあひだに突き出し、その駕籠をかせにして二人を隔てる。)
助十 えゝ、邪魔なものを持出しやあがるな。
助八 早く退けろ、退けてくれ。
雲哲 まあ、待つた、待つた。
願哲 あぶない、あぶない。
與助 兄弟喧嘩もいゝ加減にしなさい。
權三 さう/″\しい奴等だな。(縁先に出る。)おい、助十。もう止せよ。おれたちは町内あづけの身の上だから、むやみに騷ぎ立てるとお咎めを受けるのを知らねえか。
助十 そりやあおれも知つてゐるが、あの野郎があんまり癪にさはるからよ。
おかん (表に出る。)朝つぱらから喧嘩なんぞをして見つともないぢやないが。一體どうしたの。
助十 町内あづけの身の上で、うつかりと出あるくわけにも行かず、よんどころなしに小さくなつてゐると、あの野郎め、その思ひやりも無しに毎晩遊び歩いてゐやあがつて、ゆうべもたうとうけえらねえ。仕方がねえから、今朝もおれが水を汲む、飯を炊くといふ始末だ。そこへぼんやり歸つて來やあがつて、碌に挨拶もしねえでおれの炊いた飯を平氣でくらつてゐやあがる。あんまり人を馬鹿にしてゐやあがるから、おれが一番きめ付けてやると、逆ねぢに食つてかゝつて來やあがる。野郎め、ゆうべは何處かで振られて來やあがつて、その八つあたりを兄貴に持つて來るなんて、途方も途徹もねえ奴だ。おれが腹を立つのも無理はあるめえ。
助八 一年に一度や二度ぐらゐ兄貴に飯を炊かせたつて罰のあたるほどのこともあるめえ。第一その米はだれが買つたんだよ。
助十 おれはお預けの身の上だ。
助八 おあづけを好い幸ひにして、弟にばかり働かせることがあるものか。せめて小遣こづかひ取りに草鞋わらじでもへといふのに、それもしねえで毎日毎晩ごろ/\してゐやあがる。一體、うちの兄貴だの、隣の權三だのといふ野郎どもを、無事に歸してよこすといふ、お奉行樣の氣が知れねえ。このあひだから牢屋へぶち込んで置けばいゝのだ。
權三 こいつもかゝあと同じやうなことを云やあがる。手前の兄貴はどうだか知らねえが、この權三は牢に入れられるやうな惡いことはしねえのだ。うそだと思ふなら、大岡樣のところへ行つて聽いてみろ。
助八 えゝ、わざ/\聽きに行くまでもねえ。どうで所拂ところばらひか追放にでもなる奴等だから、お慈悲で當分歸してくれたのだ。手前達は知らねえのか、左官屋の勘太郎はきのふの夕方、無事に歸されて來たぞ。
助十 (おどろく。)え、ほんたうか。
(權三もびつくりして出て來る。)
權三 おい、おい。ほんたうか、本當か。
おかん 本當に勘太郎は歸されたのかえ。
助十 そりやあちつとも知らなかつた。(又かんがへて。)やい、手前。おれ達をかつぐのぢやあねえか。
助八 (すました顏で。)まあ、かれこれ云ふことはねえ。論より證據だ。豐島町へ行つて勘太郎の家を覗いてみろ。今ごろは鼻唄で祝ひ酒でも飮んでゐらあ。
權三 こりやあ驚いたな。どうしたのだらう。
おかん やつぱり人違ひだつたのかねえ。
雲哲 なるほどさう云へば、お奉行所からの差紙さしがみで、大屋さんと彦三郎さんは今朝早くから數寄屋橋へ出て行つたさうだ。
助十 ふむう。(權三と顏をみあはせる。)
與助 大屋さんの話では、左官の勘太郎といふ奴は不斷から身持のよくない男で、本職のこてよりもさいころを持つ方を商賣にしてゐる。さうして、丁度去年の暮頃から博奕ばくちに勝つたと云つて、急に身なりをこしらへたり、酒を飮んだり、女を買つたりして遊びあるいている。いや、まだそればかりでなく、馬喰町の女隱居の殺された晩にも、あいつは夜が更けてから歸つて來て、木戸を叩いてつと入れて貰つたといふことだ。
おかん そのほかにも色々怪しいことがあるから、どうしても勘太郎の仕業に相違ない。今度の一件も十に九つはこつちの物だと、大屋さんも大變よろこんでゐなすつたのだが、どういふわけでそれが急に引つくり返つてしまつたのかねえ。
願哲 流石さすがの大屋さんも今朝はよつぽど苦勞ありさうな顏をして出て行つたといふから、どうもむづかしいのかも知れないな。
與助 八さんのいふ通り、勘太郎がゆうべ歸されて來たのが論より證據だ。
おかん 困つたことになつたねえ。(權三に。)おまへさん。どうするえ。
權三 どうすると云つて……。おれも面喰めんくらつてしまつた。おい、助十。どうも困つたな。
助十 まつたく困つたな。だからおれが止せといふのに、手前がつまらねえ娑婆しやばを出して、云はずとも好いことをべら/\しやべつたもんだから、到頭こんなことになつてしまつたのだ。
權三 それだからおれも唯、勘太郎らしいと曖昧あいまいに云つて置かうと思つたのを、大屋さんが何でも勘太郎に相違ございませんと、はつきり云つてしまへと指圖するもんだから、おれもつい其氣になつたのだ。手前だつて御白洲おしらすで、確かに左樣でございますと云つたぢやねえか。
助十 そりやあお奉行樣が確かに左樣かと念を押すから、おれの方でもついうつかりと、ハイ左樣でございますと云つてしまつたのよ。おれが好んで云つたわけぢやあねえ。
權三 好んで云つても云はねえでも、御白洲で一旦云つてしまつた以上は、もう取返しは付かねえ。どうしたら好からうな。
助十 さあ、どうしたらよからう。おい、八。なんとか工夫はあるめえかな。
助八 それ見ねえ。めい/\のからだに火が付いてゐるのだ。兄弟喧嘩なんぞしてゐるやうな場合ぢやねえぢやあねえか。
おかん ほんたうに夫婦喧嘩どころの騷ぎぢやあないよ。
權三 所拂ところばらひぐらゐで濟むだらうか。(かんがへる。)もしお呼び出しになつて、今度こそは入牢申付くるなぞと來た日にやあ助からねえぜ。
與助 あの彦三郎といふ人は年も若し、親孝行の一心から出たことだから、上のお慈悲もあるだらうが、おまへ達はどうだかなあ。
助十 このあひだは牢へぶち込まれようが何うしようが構はねえといふ料簡だつたが、さて斯うなつてみると、どうも牢なんぞへは行きたくねえ。やつぱりあの時に止せばよかつたのだ。やい、權三。おれは一生手前を恨むぞ。
權三 そんなことを云つてくれるなよ。かうなりやあお互えに一蓮托生いちれんたくしやうぢやあねえか。なにしろ何うも弱つたな。
おかん (權三の袖をひく。)おまへさん。いつそ今のうちに姿を隱しちやあどうだえ。
權三 おれが逃げたら、あとの者に難儀がかゝるだらう。今度はおめえが町内預けにでもなるかも知れねえぜ。
おかん (涙ぐむ。)そりやあ亭主の爲だもの、仕方がないやね。
助八 ぢやあ、兄い。おめえも逃げることにするか。逃げるなら、大屋さん達の歸らねえうちの方がいゝぜ。
雲哲 だが、二人を逃がしてしまつたら、家の者ばかりでなく、大屋さんや月番の行事は勿論、まかり間違へば相長屋一同が迷惑することになるだらう。
願哲 さうだ、さうだ。皆ながどんな迷惑をることになるかも知れないから、駈落なんぞは止して貰ひたいな。
與助 それもうまく逃げおほせればいゝが、途中でつかまつたが最後、罪はいよ/\重くなるばかりだ。
助十 それもさうだな。ぢやあ、まあ大屋さんの歸るまで、おとなしく待つとしようか。
助八 大屋さんが歸つて來たら、もう間にあふめえぜ。
與助 いや、駈落はよくないよ。
おかん それぢやあ何うすればいゝのさ。
與助 それはわたしにも判らないが、なにしろ困つた事が出來たものだ。
助十 おれたちはあの彦三郎の尻押しをして、大屋の家へあばれ込んだと云ふことになつてゐるんだからな。
權三 おまけにその勘太郎が人違ひと來た日にやあ、どう考へても無事ぢやあ濟むめえ。
助十 こりやあやつぱり駈落だ。
與助 いけない、いけない。
(與助と雲哲、願哲は助十を支へてゐる。下のかたの路地口より左官屋勘太郎、三十二三歳、身綺麗にいでたち、角樽つのだるするめをさげて出づ。)
雲哲 あ、勘太郎が來た。
與助 なに、勘太郎が來た。
願哲 ほんたうに來た、來た。
(人々は顏をみあはせ、權三と助十は思はずあとへ退る。勘太郎は何氣なく一同に挨拶する。)
勘太郎 みなさん、急にお涼しくなりました。
與助 (なんだか氣の毒さうに。)朝晩はめつきりと涼風すゞかぜが立つて來ました。
勘太郎 御近所に居りながら、つい/\御無沙汰ばかり致して居ります。
與助 はい、はい。おたがひ樣で……。
(人々は勘太郎のこゝろをはかりかねて、不安らしく眺めてゐる。)
勘太郎 駕籠屋の權三さんと助十さんの家はここでございますね。
おかん (もぢ/\しながら。)はい、はい。
助八 (度胸を据ゑて進み出づ。)そつちが權三、こつちが助十の家ですが、なんぞ御用ですかえ。
勘太郎 とき/″\錢湯でお目にかゝつてゐながら、ついお見それ申しました。お前さんは助さんの弟さんでしたね。わたしは豐島町の勘太郎ですよ。(云ひながら權三と助十に眼をつける。)おゝ、權さんも助さんもそこにゐるのか。
(權三と助十はだまつて俯向うつむいてゐる。)
勘太郎 早速ですが、わたしも飛んだ災難で、小一月も傳馬町でんまちやうの暗いところへ送られてゐましたが、流石は太岡越前守樣のお捌きで、白い黒いはすぐに判りまして、きのふの夕方、無事に下げられて來ました。
おかん (やはりもぢ/\しながら。)それはまあお目出たうございました。
勘太郎 今度のことに就きましては、權さんと助さんには色々御心配をかけたやうに聞いて居りますので、これはほんのお禮のおしるし、甚だ失禮ではございますが、どうぞお納めをねがひます。
おかん はい。(とは云ひながら手を出しかねてゐる。)
勘太郎 (助八に。)では、八さん。どうぞこれを……。
助八 (同じく變な顏をして。)え、どうしてこんな物をんなさるのだね。
勘太郎 今も申す通り、わたしも明るい體になつて世間へ出て來ましたから、近所隣へも心ばかりの配り物をいたしました。そのついでと申しては何ですが、これを權さんと助さんへもお禮心に差上げたいと存じまして……。
助八 ひどく切口上で、をかしいぢやあねえか。なんで禮をくれるのだ。(勘太郎の顏をながめてゐる。)
與助 おゝ、角樽に鯣……。いや、なか/\行き屆いたものだな。
(與助は猿を背負ひ、近寄つて覗く時、その背中にゐる猿は不意に手をのばして鯣を引つたくる。)
與助 (おどろいて。)えゝ、飛んでもないことをするな。(鯣を取返して、猿のあたまを打つ。)さあ、さあ、お詫をしろ。お詫をしろ。
(與助は背中より猿をおろし、その頭をおさへてお辭儀をさせようとすれば、猿はその手を拂ひ退け、齒をむき出して勘太郎に飛びかゝる。不意におどろきたる勘太郎はたちまち殘忍の相をあらはし、兩手に猿の喉を強くおさへて絞め殺し、その死骸を投げ出す。人々は呆氣あつけに取られたやうに眺めてゐると、與助は猿の死骸をかゝへて泣き出す。)
與助 おゝ、猿めが死んだ、死んだ。
雲哲 死んだ、死んだ。
おかん まあ、可哀さうだねえ。
勘太郎 いや、これはわたしが惡かつた。猿は死にましたか。
與助(泣く。)死にました、死にました。
(勘太郎は紙入から金三枚を取出し、紙にのせて出す。)
勘太郎 なにしろ猿めが無暗に飛びついて來るので、わたしも夢中になつて飛んだことをしてしまひました。お前さんの商賣道具をなくなしたつぐなひと、云つては少いかも知れないが、これでまあ堪忍してください。
(與助はだまつて泣いてゐる。)
雲哲 (與助のそばに寄る。)商賣道具の猿を殺されては、おまへも定めて困るだらうが、三兩といふ金があれば又どうにかなる。
願哲 これも災難とあきらめて、我慢しなさい。我慢しなさい。
與助 幾年も馴染んだ此の猿を金にかへられるものか。(又泣く。)
雲哲 さう云つても今更仕樣がない。(勘太郎の手より金を受取る。)さあ、これで代りの猿を買へばいゝのだ。
(雲哲と願哲は與助に金をわたし、なだめながら助十の家の縁の方へ連れてゆく。與助は猿をかゝへて泣いてゐる。)
勘太郎 わたしはなぜこんな手暴てあらいことをしたか。くれ/″\も堪忍して下さい。あゝ、これでさかなも臺無しになつてしまつた。まあ、酒だけでも納めて貰ひませう。
(勘太郎は落ちてゐる鯣を足にて蹴飛ばす。このあひだに權三と助十は眼で知らせ合ひ、形をあらためて勘太郎のまへに出る。)
權三 もし、勘さん。どうも何とも申譯がありません。この長屋にゐた彦兵衞のせがれが大坂からわざ/\下つて來て、おやぢの無實を訴へると云つて泣いて騷ぐ。大屋さんも氣の毒がつて色々世話を燒いてやる。それに釣り込まれてわつし等もついうつかりと詰まらねえことを饒舌しやべつたもんだから、今さら拔きさしもならねえやうな羽目になつてしまつて、たうとうお奉行所まで引張り出されるやうなことになつてね。
勘太郎 (冷かに。)いや、それは大抵知つてゐますよ。その節は色々御心配をかけました。
助十 まあ、さう云はねえで、一通りは聽いておくんなせえ。何もわつし等だつて確かに見とどけたと云ふわけぢや無し、ほんの夜目遠目でちらりと見ただけのことだから、正直にその通り云ふ筈だつたのが、御白洲へ出て曖昧な事を云つちやあならねえ、何でもはつきりと物をいへと大屋さんが云ふもんだから、物の間違ひが自然と大きくなつて、お前さんにも飛んだ御迷惑をかけてしまひました。今となつちやあ、わつし等もまつたく後悔してゐるんですから、どうかまあ料簡しておくんなせえ。
おかん ほかの事とは譯が違つて、まつたく料簡のにくいことでせうが、わたくし共が打揃つて幾重にもお詫をいたしますから、どうぞ御勘辨なすつて下さいまし。
勘太郎 (しづかに。)さうめい/\に御挨拶にやあ及びません。腹を立つてゐるくらゐなら、こんな物を持つてわざ/\お禮に來やあしませんよ。(やゝ皮肉らしく。)つまりはわたしの身状みじようが惡いからで……。左官屋の勘太郎は泥坊でもしさうな奴だ、人殺しでもしさうな奴だと、不斷からおまへさん達に睨まれてゐるので、自然こんなことになつたのですよ。
權三 いや、さう云はれると、いよ/\穴へでも這入りたくなるが、そこをまあ勘辨しておくんなせえ。
助十 これにりてこの後は、決して他人樣ひとさまの噂なんぞはしませんから、今度のところだけは何分勘辨して……。
勘太郎 まあ、同じことを幾度も云はないでもいゝ。なにしろ私はお禮に來たのだから、素直にこれを納めてください。わたしの持つて來た酒だからと云つて、まさかに毒が這入つてゐるわけでもないから。
助八 (むつとして。)おい、勘太郎さん。飛んだ人違ひをしてお前さんに迷惑をかけたのは重々こつちが惡い。それだから權三も、兄貴も、この通り平あやまりに謝まつてゐるぢやあねえか。それにおめえは男らしくもねえ。堪忍するなら堪忍する、堪忍しねえなら堪忍しねえと、なぜ綺麗さつぱりと云つてくれねえのだ。柄にもねえ切口上で、意地の惡い御殿女中のやうに、うはべは美しく云ひまはしながら、腹にはとげを持つてゐるのが面白くねえ。第一、お禮に來たとはなんの事だ。こつちはお前にあやまりこそすれ、おめえに禮を云はれる覺えはねえのだ。
勘太郎 (あざ笑ふ。)それはおまへさんのひがみといふものだ。お禮と云つたのが氣に入らなければ、わたしが無事に娑婆へ出て來た身祝ひだと思つてください。
助八 いけねえ、いけねえ。おれの持つて來た酒だからと云つて、まさがに毒が這入つてゐるわけでもねえなぞと、いやなことを云ふぢやあねえか。酒の毒よりもおめえの口に毒がある。それを默つて聽いてゐられるものか。折角のおこゝろざしだが、兄きに代つておれが斷るから、こんなものは持つて歸つて貰ひてえ。
勘太郎 それでは喧嘩だ。もう少し穩かに口をきいて貰ひたいな。
(權三の家の縁の下から一匹の犬が出て來て、勘太郎をみてすさまじく吠えながら飛びかゝらうとする。勘太郎は再び兇暴の相をあらはして屹と睨む。犬はます/\吠える。)
雲哲 又のら大が出て來やあがつたか。
願哲 貴樣も殺されるな。つ、叱つ。
(ふたりに逐はれて犬は上のかたへ逃げ去る。)
おかん (云譯らしく。)あの野良犬にやあ困るねえ、だれを見てもすぐ吠えるんだから。
權三 犬だつて可愛くねえ奴にやあえるのだらう。よく考へてみると、成程こりやあ八の云ふ通りで、折角のおこゝろざしは有難てえが、どうもおまへさんからこんな物を貰ひたくねえ。お禮にしてもお祝ひにしても、これは持つて歸つて貰はう。おい、助。さつきから無暗にあやまつて、損をしたやうだぜ。
助十 おれもさう思つてゐるのだ。(勘太郎に。)まつたくおめえの云ひ草は御殿女中で、いやにチク/\當るやうだ。堪忍しねえなら堪忍しねえ、恨みを云ひに來たなら恨みを云ひに來たとはつきり云つてくれ。面當てらしく酒や肴を持つて來て、眞綿に針で人をいぢめようとするのは、江戸つ子らしくねえ仕方だ。
勘太郎 なるほどお前さん達は江戸つ子だ。(又あざ笑ふ。)上方者かみがたものの尻押しをして、江戸つ子にぬれぎぬをきせるなぞとは、本當の江戸つ子でなければ出來ない藝だよ。
助十 やかましいやい。手前のやうな江戸つ子があるから、本當の江戸つ子のつらが汚れるのだ。こんなものは持つて歸れ。(角樽を投げ出す。)
勘太郎 おまへさん達はあやまつてゐるのか、喧嘩を賣るのか。
權三 もう斯うなりやあ喧嘩だ、喧嘩だ。
おかん まあ、お前、お待ちよ。
權三 えゝ、牢へ入れられようが、首が飛ばうが構はねえ。こんな野郎は半殺しにしてらなけりやあ氣が濟まねえのだ。
おかん また喧嘩を始めちやあいけない。おしよ。止しておくれよ。
(おかんは頻りに權三を支へる。)
勘太郎 近いうちにお咎めがあると思つて、みんな自棄になつてゐるのか。そんな病犬やまいぬの相手になつて、折角明るくなつた體をもう一度暗いところへ遣られては堪らない。はゝゝゝゝ。
(勘太郎は笑ひながら下のかたへ行きかゝると、助十は無言で飛びかゝつて、勘太郎の横面をなぐる。)
勘太郎 えゝ、なにをしやあがるのだ。氣ちがひめ。
(勘太郎は又もや人相を一變して、左右を睨む。)
勘太郎 おとなしくしてゐりやあ増長しやあがつて、好加減にしろ。豐島町の勘太郎を知らねえか。この大哥あにさんと喧嘩をするなら、からだの骨から鍛へて來い。
助八 こつちは生きてゐる人間だ。猿の喉を絞めるのとは譯が違ふぞ。
(助八は勘太郎にむしや振り付けば、勘太郎は突き退ける。助十は又むしやぶり付く。權三も留められるのを振切つて飛びかゝる。三人は遂に勘太郎をねぢ倒して袋叩きにする。)
權三 おい、與助。こいつはおめえの猿のかたきだ。みんなと一緒になぐれ、なぐれ。
雲哲 なるほど猿のかたき討か。
願哲 これも長屋の附合だ。
(與助は竹の鞭を把り、雲哲等も一緒に勘太郎をなぐる。)
勘太郎 さあ、どいつも皆んな下手人だぞ。殺すなら殺せ。立派に殺してくれ。
權三 こいつを歸すと面倒だ。ふん縛つてしまへ。
助十 八。このあひだの繩を持つて來い。
(助八は奧へかけ込んで麻繩を持つて來る。)
おかん 縛つてもいゝのかえ。
助八 よくつても惡くつても構ふものか。毒食はば皿までだ。
權三 さあ、早く縛れ、縛れ。
(助八は勘太郎を縛る。)
雲哲 どうも仕置しおきが暴くなつて來た。縛つてしまふのはちつとひどいな。
願哲 うか/\してゐて、こつちまでが係り合ひになつてはならない。長屋の附合も先づこのくらゐにして置かうか。
雲哲 これから先、何事が起つても、おれたちは知らないぞ、知らないぞ。
(雲哲、願哲は下のかたへ逃げ去る。)
與助 かたき討が濟んだら、わたしもこゝらにゐない方がよささうだ。
(與助も猿をかゝへて、おなじく路地の外へ逃げてゆきかけしが、又引返して來る。)
與助 これ、お役人が來たやうだぞ。
權三 なに、お役人が來た。
助十 そいつはいけねえ。どうしよう。
助八 どうしよう。
(三人はうろたへながら四邊あたりを見まはし、助十は駕籠に眼をつける。)
助十 これだ、これだ。
權三 ちげえねえ、早くしろ、早くしろ。
(三人は繩からげの勘太郎を引摺つて駕籠のなかへ押込み、外から垂簾たれをおろす。おかんは不安らしく表をのぞいてゐると、路地の口より石子伴作は捕方とりかたの者ふたりを連れ、雲哲と願哲を先に立てて出づ。)
伴作 左官の勘太郎は確かにこの裏にまゐつてゐるな。
雲哲 長屋の者と喧嘩をして居ります。
伴作 喧嘩をいたしてゐるか。
(伴作はつか/\と進み來る。權三夫婦、助十兄弟は薄氣味惡さうにあとへ退る。)
伴作 豐島町の左官屋勘太郎はいづれへまゐつた。
四人 え。(顏をみあはせる。)
伴作 こゝにまゐつてゐる筈ではないか。
權三 (曖昧に。)いえ、そんな者は……。
伴作 (雲哲等をみかへる)たしかに來てゐると申したな。
雲哲 はい。その勘太郎は……。
助十 (あわてて眼で制す。)その勘太郎は……。もう歸りましてございます。
伴作 (うたがふやうに。)歸つたか。
願哲 でも、たつた今までこゝにゐた筈だが……。
權三 なに、歸つたよ、歸つたよ。この通り、どこにもゐねえぢやあねえが。
(雲哲と顧哲は不審さうにそこらを見まはしてゐると、駕籠のなかにて勘太郎が叫ぶ。)
勘太郎 もし、お役人さま。勘太郎はこれに居ります。
(權三、助十等はぎよつとする。)
伴作 (捕方をみかへる。)それ。
(捕方は駕籠の垂簾をあけて、勘太郎をひき出す。)
伴作 この者にはだれが繩をかけた。
(權三等はだまつてゐる。)
伴作 御用によつて勘太郎を召捕りにまゐつたところ、先廻りをして誰が繩をかけた。
權三 では、勘太郎はお召捕りになるのでございますか。
伴作 昨日一旦ゆるして歸されたは、深い思召おぼしめしのあることで、かれの罪状いよ/\明白と相成つて、再びお召捕りに相成るのだ。
助十 いや、さうでございましたが。(安心して。)實はわたくしが縛りました。
權三 わたくしも縛りました。
助八 わたくしも手傳ひました。
伴作 おゝ、さうであつたか。委細はあらためて申し聞かせる。(捕方に。)それ、引立てい。
勘太郎 おかまひないと申渡されたわたくしが、どうして二度のお繩を頂戴いたすのでございませうか。
伴作 やかう申すな。尋常に立て、立て。
勘太郎 (強情に。)いえ、恐れながら申上げます。
捕方 えゝ、立て、立て。
(伴作は先に立ち、捕方は無理に勘太郎を引立てて下のかたに去る。一同は呆氣あつけに取られたやうにあとを見送る。)
權三 なんだか狐に化かされたやうだな。
與助 やつぱり勘太郎はお召捕りになるのか。それといふのも、おれの大事の猿を殺したむくいかも知れないぞ。
おかん いくら猿だつて無暗にひねり殺すやうな奴だもの、人間だつて殺し兼ねやあしないよ。
雲哲 さうだらうなあ、むやみにあいつに繩をかけて、どうなることかと心配してゐたが、これがあやまちの功名と云ふのかな。
願哲 かうなるとおまへ達はお叱りどころか、却つてお褒めにあづかるかも知れないぞ。
おかん お褒めにあづからないまでも、お叱りがなければ結構さ。お役人が來たと聞いた時には、わたしは本當にぞつとしたよ。
(路地の口より家主六郎兵衞と彦三郎出づ。)
おかん あら、大屋さんが歸つて來なすつた。
六郎 おゝ、みんなこゝにゐたか。まあ、まあ、めでたい、目出たい。わたしもこれで重荷をおろした。
彦三郎 みなさんのお蔭樣で、わたくしの本望もやうやく達しまして、こんな嬉しいことはござりません。
權三 本望が達したかえ。いや、それで判つた。今こゝへお役人が來て、勘太郎を召捕つて行きましたよ。
彦三郎 では、勘太郎はもう召捕られましたか。
助十 (自慢らしく)おれ達がふん縛つてお役人に引渡して遣つたよ。
六郎 いや、それは早手廻しであつたな。
助八 それにしても、どうでもお召捕りになる勘太郎をなぜ一旦ゆるして歸したんだね。
六郎 そこが大岡樣のえらい所だ。いくら權三と助十が證人に出てくれても、その晩に見た奴は左官の勘太郎に相違ございませんと云ふばかりでは、ほかには確かな證據がない。勘太郎は飽までもシラを切つて白状しない。さすがのお奉行樣も吟味の仕樣がないので、先づおかまひないと云ふことで勘太郎めを一旦下げて置いて、實はちやんと隱し目附めつけをつけてあつたのだ。ねえ、彦三郎さん。まつたく大岡樣はえらいではないか。
彦三郎 實に恐れ入りましてござります。今もお家主樣がおつしやる通り、一旦は勘太郎を無事に下げて、そつと隱し目附をつけて置かれますと、身におぼえのある勘太郎は、自分の家へ歸るとすぐに天井の板をはがして、そこに隱してあつた血だらけの金財布を取出して、臺所のへつゝひの下で燒いてしまつたさうでござります。
六郎 どうで燒くなら早く燒いてしまへばいゝものを、そこがやつぱり運の盡きで、今まで天井裏に隱して置いて、それをそつと取出したところを、隱し目附にすつかり睨まれてしまつたので、もう動きが取れない。そこで、今日あらためてお召捕りといふことになつたのだから、彼奴いくら強情を張つても、今度こそは再び娑婆へは出られまいよ。そこで、權三と助十だがな。
二人 はい、はい。
六郎 かうなつた以上は、勿論町内あづけも免されるな。
二人 はい、はい。
六郎 身分の低い者どもにも似合はず、侠氣をとこぎを以て小間物屋彦三郎に助力じよりきいたし、まことの罪人を訴へ出でたる段、近ごろ奇特に存ずるといふので、いづれ改めてお呼び出しの上、お奉行樣から直々のお褒めがある筈だぞ。
二人 やあ、ありがてえ、ありがてえ。
助八 ぢやあ、御褒美も出るだらうか。
六郎 慾張つた奴だ。まだそこまでは判るものか。
與助 やれ、やれ、これでわたしも安心したが、かうなると彦兵衞さんはいよ/\氣の毒だつたな。
おかん 今更うたがひが晴れたところで、どうにも取返しが付かないからねえ。
六郎 いや、そこが又、大岡樣のえらい所だ。みんなびつくりするなよ。
(六郎兵衞は彦三郎に指圖すれば、彦三郎はこゝろ得て、路地の外へ出てゆく。)
權三 (かんがへる。)いくら大岡樣がえらいと云つても、まさか死んだ者を生かしてけえしやあしめえ。
助十 死ぬもの貧乏とはよく云つたものだな。
六郎 ところが、生かして歸してくれたよ。
一同 え。
六郎 大岡樣は初めから見透しで、どうも彦兵衞さんは本當の罪人らしくない。これは何かの間違ひであらうといふので、表向おもてむきは牢中病死と披露ひろうして、實は生かして置いて下すつたのだ。
おかん ぢやあ、彦兵衞さんは生きてゐるんですかえ。
六郎 むゝ、むゝ、生きてゐるよ。
權三 彦兵衞さんは生きてゐる……どこまで行つても、狐に化かされてゐるやうだぜ。
助十 なに、化かされてゐることがあるものか。おれにはちやんと判ってゐらあ。なるほど大岡樣はえらいものだな。
助八 名奉行とあがめ奉つるも嘘ぢやあねえ。
與助 彦兵衞さんが生き返つてくれりやあ、おれの猿なんぞは死んでもいゝ。
(下のかたより駕籠かき二人が附添ひ、彦三郎は父彦兵衞の手を取りて介抱しながら出づ。)
彦三郎 みなさん。御安心ください。父はこの通りでござります。
六郎 今はまつ晝間ぴるまだ。幽靈ではないからよく見なさい。
彦兵衞 みなさん有難うございます。
一同 おゝ、彦兵衞さんだ、彦兵衞さんだ。
(一同はよろこんで彦兵衞のまはりに駈けあつまる。)
――幕――
(大正十五年七月)

底本:「現代日本文學全集56 小杉天外 小栗風葉 岡本綺堂 眞山青果集」筑摩書房 
   1957(昭和32)年6月15日発行
入力:林田清明
校正:松永正敏
2003年12月17日作成
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