あらすじ
巴里府に住む医学生の「余」は、隣室の下宿人「目科」の奇妙な行動に疑問を抱き、密かに観察を始めます。目科は、時に立派な服装で、時に粗末な仕事着で出歩くなど、不可解な振る舞いを見せます。ある夜、目科は顔に血まみれで部屋に戻り、「余」に手当てを頼みます。その後、目科は「余」を晩餐に誘い、二人の間柄は近くなります。しかし、ある事件に巻き込まれることで、目科の正体が、探偵吏であることが明らかになるのです。
「あア/\斯(こ)うも警察のお手が能(よ)く行届き、何(ど)うしても逃れぬ事が出来ぬと知(しっ)たら、決して悪事は働かぬ所だッたのに」とは或(ある)罪人が己(おの)れの悪事露見して判事の前に引据(ひきすえ)られし時の懺悔(ざんげ)の言葉なりとかや、余(よ)は此(この)言葉を聞き此記録を書綴る心を起しぬ、此記録を読むものは何人(なんびと)も悪事を働きては間職(ましょく)に合わぬことを覚(さと)り、算盤珠(そろばんだま)に掛けても正直に暮すほど利益な事は無きを知らん、殊(こと)に今日(こんにち)は鉄道も有り電信も有る世界にて警察の力を潜(くゞ)り果(おお)せるとは到底(とうてい)出来ざる所にして、晩(おそ)かれ早かれ露見して罰せらるゝは一つなり。
 斯く云わば此記録の何たるやは自(おのずか)ら明かならん、個(こ)は罪人を探り之を追い之と闘い之に勝ち之に敗られなどしたる探偵の実話の一なり。
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 余が医学を修めて最早(もはや)卒業せんとせし頃(時に余が年二十三)余は巴里府(ぱりふ)プリンス街に下宿し居(い)たるが余が借れる間(ま)の隣の室(へや)に中肉中背にて髭髯(くちひげ)を小綺麗(こぎれい)に剃附(そりつけ)て容貌にも別に癖の無き一人の下宿人あり、宿(やど)の者等(ら)此人を目科(めしな)「様(さん)」とて特に「様(さん)」附にして呼び、帳番も廊下にて摺違(すれちが)うたびに此人には帽子を脱ぎて挨拶(あいさつ)するなど大(おおい)に持做(もてなし)ぶりの違う所あるにぞ、余は何時(いつ)とも無く不審を起し目科とは抑(そ)も何者にやと疑いたり、素(もと)より室と室、隣同士の事とて或は燐寸(まっち)を貸し或は小刀(ないふ)を借るぐらいの交際(つきあい)は有り、又時としては朝一緒に宿を出(い)で次の四辻にて分るゝまで語らいながら歩むなどの事も有りたれど其身分其職業などは探り知ろう様(よう)も無く唯(た)だ此の目科に美しき細君ありて充分目科を愛し且(か)つ恭(うやま)う様子だけは知れり、去(さ)れど目科は妻ある身に不似合なる不規則千万(せんばん)の身持にて或時は朝猶(なお)暗き内に家を出(いず)るかと思えば或時は夜通し帰り来(きた)らず又人の皆寝鎮(ねしずま)りたる後(のち)に至(いた)り細君を叩き起すことも有り其上(そのうえ)時々は一週間ほど帰り来らぬことも珍しからず、斯(かく)も不規則なる所夫(おっと)に仕え細君が能(よ)く苦情を鳴(なら)さぬと思えば余は益々訝(いぶか)しさに堪(た)えず、終(つい)に帳番に打向(うちむか)いて打附(うちつけ)に問いたる所、目科の名前が余の口より離れ切るや切らぬうち帳番は怫然(ふつぜん)と色を作(な)し、毎(いつ)も宿り客の内幕を遠慮も無く話し散(ちら)すに引代(ひきかえ)て、余計な事をお問(とい)なさるなと厳しく余を遣込(やりこ)めたれば余が不審は是よりして却(かえっ)て、益々募(つの)り、果(はて)は作法をも打忘れて熱心に目科の行(おこな)いを見張るに至れり。
 見張り初(はじ)めてより幾程(いくほど)も無く余は目科の振舞に最(い)と怪しく且(かつ)恐ろしげなる事あるを見て何(ど)うせ碌(ろく)な人には非(あら)ずと思いたり、其事は他(ほか)ならず、或日目科は当時の流行を穿(うが)ちたる最(いと)立派なる服を被(き)かざり胸には「レジョン、ドノル」の勲章を燦(きら)めかせて外(ほか)より帰ると見たるに其(その)僅(わず)か数日後に彼れは最下等の職人が纏(まと)う如(ごと)き穢(きたな)らしき仕事衣(しごとぎ)に破れたる帽子を戴(いたゞ)きて家を出(いで)たり、其時の彼れが顔附は何処(どこ)とも無く悪人の相(そう)を帯び一目見るさえ怖(こわ)らしき程なりき、是さえあるに或午後は又彼れが出行(いでゆ)かんとするとき其細君が閾(しきい)の許(もと)まで送り出で、余所目(よそめ)にも羨(うらや)まるゝほど親(したし)げに彼れが首に手を巻きて別れのキスを移しながら「貴方(あなた)、大事をお取(とり)なさい、内(うち)には私(わたく)しが気遣うて待て居ますから」と叫びたり、大事を取れとは何事にや、委細(いさい)の心は分らねど扨(さて)は、扨は、細君が彼れの身持を咎(とが)めぬのみかは何も彼も承知の上で却て彼れに腹を合せ、彼れが如き異様なる振舞を為(な)さしむるにや、斯く思いて余は殆(ほとん)ど震い上り世には恐ろしき夫婦もある哉(かな)と嘆(たん)じたれど、此後の事は是よりも猶(な)お酷(ひど)かりき。
 余は修学に身を委ねながらも、夜に入(い)りては「レローイ」珈琲館(かひいかん)と云えるに行き球(たま)や歌牌(かるた)の勝負を楽むが捨難(すてがた)き蕩楽(どうらく)なりしが、一夜(あるよ)夫等(それら)の楽み終りて帰り来り、猶(な)お球突(たまつき)の戯(たわむ)れを想いながら眠りに就(つき)しに、夢に球と球と相触れて戞々(かつ/\)と響く音に耳を襲われ、驚き覚(さ)めて頭(かしら)を※(「てへん+擧」、第4水準2-13-59)(あぐ)れば其響は球の音にあらで外より余が室の戸を急がわしく打叩くにぞありける、時ならぬ真夜中に人の眠りを妨るは何(いず)れの没情漢(ぼつじょうかん)ぞと打呟(うちつぶや)きながら、起行(おきゆ)きて戸を開くに、突(つい)て入(い)る一人(いちにん)は是なん目科其人にして衣服の着様(きざま)は紊(みだ)れ、飾り袗(しゃつ)の胸板は引裂かれ、帽子は失い襟飾りは曲りたるなど一目に他人と組合い攫(つか)み合いたるを知る有様なるに其うえ顔は一面に血塗(まみ)れなれば余は全く仰天し「や、や、貴方は何(ど)う成(なさ)ッた」と叫び問う、目科は其声高しと叱り鎮めて「いや此傷は、なに太(たい)した事でも有ますまいが何分にも痛むので幸い貴方が医学生だから手当を仕(し)て貰おうと思いまして」と答う、余は無言の儘(まゝ)に彼れを据(すわ)らせ其傷を検(あらた)むるに成(な)るほど血の出る割には太(たい)した怪我にもあらず、爾(さ)れど左の頬を耳より口まで引抓(ひっかゝ)れたる者にして処々(ところ/″\)に肉さえ露出(むきいで)たれば痛みは左(さ)こそと察せらる、頓(やが)て余が其傷を洗いて夫々(それ/″\)の手術を施し終れば目科は厚く礼を述べ「いや是くらいの怪我で逃れたのは未(まだ)しもです。併(しか)し此事は誰にも言わぬ様に願います」との注意を遺(のこ)して退(しりぞ)きたり、是より夜の明るまで余は眠るにも眠られず、様々の想像を浮べ来りて是か彼(あ)れかと考え廻すに目科は追剥(おいはぎ)か盗坊(どろぼう)か但(たゞ)しは又強盗か、何しろ極々(ごく/\)の悪人には相違なし。
 爾(さ)れど彼れ翌日は静かに余が室に入来(いりきた)り再び礼を繰返したる末、意外にも余に晩餐の饗応せんと言出(いいいで)たり、晩餐の饗応などとは彼れが柄に無き事と思い余は少し不気味ながらも唯(たゞ)彼れが本性を見現(みあらわ)さんと思う一心にて其招きに応じ、気永く構えて耳と目の及ぶだけ気を附けたれど露(つゆ)ほども余の疑いを晴す如き事柄は聞出しもせねば見出しもせずに晩餐を終りたり。
 爾(そう)は云え是よりして余と目科の間柄は一入(ひとしお)近くなり、目科も何やら余に交(まじわ)りを求めんとする如く幾度と無く余を招きて細君と共々に間食(かんじき)を為(な)し殊(こと)に又夜に入(い)りては欠(かゝ)さず余を「レローイ」珈琲館まで追来(おいきた)り共に勝負事を試みたり、斯(か)くて七月の一夕(あるゆうべ)、五時より六時の間なりしが例の如く珈琲館にて戯(たわむ)れ居(い)たるに、衣類も穢(むさ)くるしく怪(あや)しげなる男一人(いちにん)、遽(あわたゞ)しく入来(いりきた)り何やらん目科の耳に細語(さゝや)くと見る間に目科は顔色を変て身構し「好(よ)し/\直(すぐ)に行く、早く帰ッて皆に爾(そう)云(い)え」と、命ずる間も急(いそが)わしげなり、男は此返事を得(う)るや又一散(いっさん)に走去りしが、後に目科は余に向い「誠に残念ですが、勤めには代られぬ譬(たとえ)です、此勝負は明日に譲り今日は是で失敬します」とて早や立去らん様子なり、勝負の中止も快からねど夫(それ)よりも不審に得堪(えた)えず、彼れが秘密を見現すは今なり、と余は思切ッて同行せざるの遺憾を述(のぶ)るに「爾(そう)さ、なに構うものか、来るなら一緒にお出(いで)なさい、随分面白いかも知れませぬから」斯(か)く聞きて余は嬉しさに心(こゝろ)迫(せ)き、返す言葉の暇さえ惜しく、其儘(そのまゝ)帽子を戴(いたゞ)きて彼れに従い珈琲館を走出(はしりいで)たり。


 目科に従いて走りながらも余は唯(た)だ彼れが本性を知る時の来りしを喜ぶのみ、此些細なる一事が余の後々に至大(しだい)なる影響を及ぼす可(べ)しとは思い寄ろう筈(はず)も無し、目科は宛(あたか)も足を渡世(とせい)の資本(もとで)にせる人なる乎(か)と怪しまるゝほど達者に走り余は辛(かろ)うじて其後に続くのみにて喘(あえ)ぎ/\ロデオン街(まち)に達せし頃、一輛(りょう)の馬車を認め目科は之(こ)れを呼留(よびとゞ)めて先(ま)ず余に乗らしめ馭者(ぎょしゃ)には「出来るだけ早く遣(や)れ、バチグノールのレクルース街(まち)三十九番館だ」と告げ其身も続て飛乗りつ只管(ひたすら)馬(うま)を急(せか)し立(たて)たり、「はゝア、行く先はバチグノールだと見えますな」とて余は最も謙遜の詞(ことば)を用い目科の返事を釣出(つりだ)さんと試むれど彼れ今までとは別人の如く其唇固く閉じ其眉半ば顰(ひそ)みたるまゝにて言葉を発せず其様深く心に思う所ありて余が言葉の通ぜぬに似たり、彼れ何を斯(か)く考うるや、眼(まなこ)徒(いたず)らに空(くう)を眺めて動かざるは六(むつ)かしき問題ありて※(「研のつくり」、第3水準1-84-17)(そ)を解かん為(た)め苦めるにや、頓(やが)て彼れ衣嚢(かくし)を探り最(いと)太(ふと)やかなる嗅煙草(かぎたばこ)の箱を取出(とりいだ)し幾度か鼻に当て我を忘れて其香気を愛(めず)る如くに見せ掛(かく)る、去(さ)れど余は兼(かね)てより彼れに此癖あるを知れり、彼れ其実は全く嗅煙草を嫌えるも唯(た)だ空(から)の箱を携(たずさ)え居(お)り、喜びにも悲みにも其心の動く度(たび)我(わが)顔色を悟られまじとて煙草を嚊(か)ぐに紛(まぎ)らせるなり、兎角(とかく)するうちに馬車は早やクリチーの坂を登り其外なる大通(おおどおり)を横に切りてレクルース街(まち)に入り約束の番地より少し手前にて停りたり、停るも道理や三十九番館の前には凡(およ)そ二三百の人集り巡査の制止をも聞かずして推合(おしあ)える程なれば馬車は一歩だも進み得ぬなり、余は何事なるや知らざれど茲(こゝ)にて目科と共に馬車を降(くだ)り群集を推分(おしわけ)て館の戸口に進まんとするに巡査の一人強く余等(よら)を遮(さえぎ)りて引退(ひきしりぞ)かしめんとす、目科は威長高(いたけだか)に巡査に向い「貴官は拙者(せっしゃ)を知(しり)ませんか、拙者は目科です、是なる若者は拙者と一処(いっしょ)に来たのです」目科の名を聞き巡査の剣幕は打って代り「いや貴方(あなた)でしたか、爾(そう)とは思いも寄りませず」と遽(あわたゞ)しく言訳するを聞捨て閾(しきい)を一足館内に歩み入れば驚きて茲(こゝ)に集(つど)える此家の店子(たなこ)の中に立ち、口に泡を吹かぬばかりに手真似しながら迫込(せきこみ)て話しせる一老女あり定めし此家の店番なる可(べ)し、目科は無遠慮に話の先を折り「何所(どこ)だ、何所です」と急ぎ問う「三階ですよ、三階の取附(とっつき)です、本統(ほんとう)に先(ま)ア此様な正直な家の中で、夫(それ)に日頃あの正直な老人を」と老女が答え来(きた)るを半分聞き直様(すぐさま)段梯子を四段ずつ一足に飛上(とびのぼ)る、余は肺の臓の破るゝと思うほど呼吸(いき)の世話(せわ)しきにも構わず其学(まね)をして続いて上れば三階なる取附の右の室は入口の戸も開放せし儘(まゝ)なるゆえ、之を潜りて客室、食堂、居室等を過ぎ小広(こびろ)き寝室(ねま)へと入込(いりこ)みぬ、見れば茲(こゝ)には早や両人の紳士ありて共に小棚の横手に立てり、其一人の外被(うわぎ)に青白赤(せいはくせき)三色の線ある徽章(しるし)を佩(おび)たるは問(とう)でも著(しる)き警察官にして今一人は予審判事ならん、判事より少し離れたる所に、卓子(ていぶる)に向い何事をか書認(かきしたゝ)めつゝ有るは確(たしか)に判事の書記生なり、是等(これら)の人々何が為に此室にきたりたるぞ、余は怪むひまも無く床の真中に血に塗れたる死骸あるに気附たり、小柄なる白髪の老人にして仰向(あおむき)に打倒(うちたお)れ、傷所(きずしょ)よりいでたる血潮は既に凝(こゞ)りて黒くなれり。
 余は驚きの余り蹌踉(よろめ)きて[#「蹌踉(よろめ)きて」は底本では「蹌跟(よろめ)きて」]倒れんとし纔(わずか)に傍らなる柱につかまり我が身体を支え得たり、支え得しまゝ暫(しば)しが程は殆(ほとん)ど身動きさえも得せず、読者よ余は当時医学生たりしだけに死骸を見たるは幾度なるを知らず病院にも之を見(み)学校にも之を見たり、然(しか)れども面(まのあ)たり犯罪の跡を見たるは実に此時が初てなり。然り此老人の死骸こそは恐ろしき犯罪の結果なること言う迄も無し、唯(たゞ)余の隣人目科は余ほどに驚き恐れず足踏(あしぶみ)も確に警察官の許(もと)に進むに、警察官は其顔を見るよりも「アア目科君か、折角呼(よび)に遣(やっ)たけれど君を迎えるほどの事件では無(なか)ッたよ目「とは又何(ど)う云う訳で「いや君の智慧を借るまでも無く罪人が分ッて、仕舞ッた、実は最(も)う逮捕状を発したから今頃は捕縛(ほばく)された時分だ」罪人が解りたらば先(ま)ずほッと安心すべきところなるに目科は爾(さ)は無くて痛く失望の色を現わし※(「研のつくり」、第3水準1-84-17)(そ)を体好(ていよ)く紛らさんため例の嚊煙草の箱を取出し鼻の先に二三度当て「おやおや罪人が分ッたのか」と云う、今度は予審判事が之に答えんとする如く「分ッたにも、最(も)う明白に分ッたよ、罪人は此老人が死切れた物と思い安心して逃て仕舞ッたが実は是(こ)れが本統(ほんとう)に天帝(てんてい)の見張て居ると云う者だろうよ、老人は未(ま)だ死切(しにきら)ずに居て、必死の思いで頭を上げ、傷口から出る血に指を浸して床へ罪人の名を書附て置(おい)て死(しん)だ。先(ま)ア見たまえそれ血の文字が歴々(あり/\)と残ッて居る」此(この)傷(いた)ましき語を聞きて余は直ちに床中(ゆかじゅう)を見廻すに成(な)るほど死骸の頭の辺に恐ろしき血の文字あり MONIS(モニシ) の綴りは死際(しにぎわ)の苦痛に震いし如く揺れ/\になりたれど読擬(よみまご)う可(べ)くもあらず、目科も之を見しかども彼れ驚きしか驚かざるか嚊煙草を振るのみにて顔色には現わさず唯(た)だ単に「夫(それ)で」と云う、今度は又警察署長「夫(それ)で分ッて居るじゃ無いか藻西太郎(もにしたろう)と云う者の名前の初めを書掛(かきかけ)て事切れと成(なっ)たのだ、藻西太郎とは此老人の唯一人の甥だ、老人が余ほど寵愛(ちょうあい)して居たと云う事だ」と説明す、目科は唯口の中(うち)にて何事をか呟くのみ、更(さら)に予審判事は今言いし警察官の説明を補わんとする如くに「此文字が何よりの証拠だから何(ど)の様な悪人でも剛情(ごうじょう)は張り得まい、殊(こと)に此老人を殺して夫(それ)が為に得の行くのは唯此藻西太郎一人(いちにん)だ、老人は巨多(あまた)の財産を持て居て、死(しに)さえすれば甥の藻西へ転がり込む様に成(なっ)て居る、のみならず老人の殺されたのは昨夜の事で、昨夜老人の許(もと)へ来たのは唯(た)だ藻西一人さ、帳番の証言だから是(これ)も確かだ、藻西は宵の九時頃に来て十二時頃まで居た相(そう)だ、其後では誰も老人の室へ這入(はいっ)た者が無いと云うから是ほど確な証拠は有るまい」目科は無言にて聞き終り意味有りげなる言葉にて「なるほど明かだ、日を見るよりも明かに藻西太郎と云う奴は大馬鹿だ、此老人が殺されさえすれば第一に自分は疑われる身だから、其疑いを避る様に、切(せめ)て盗坊(どろぼう)の所為(しわざ)にでも見せ掛け何か品物を盗んで置くとか此室を取散(とりちら)して置くとか夫(それ)くらいの事は仕(し)そうな者(もの)だ、老人を殺しながら夫(それ)をせぬとは余り馬鹿過ると云う者(もの)だ警察官「爾(そう)さ別に此室を取散(とりちら)すとか云う様な疑いを避ける工夫は仕て無(なか)ッた、殺すと早々逃たのだろう、余り智慧の逞(たくま)しい男では無いと見える、此向(このむき)なら捕縛すれば直(じき)に白状するだろう」と云い、猶(な)おも目科を小窓の所に誘い行きて小声にて何か話しを初め、判事は又書記に向い是(これ)も何やらん差図を与え初めたり。


 是(これ)にて先(ま)ず目科の身の上に関する不審だけは全く晴れたり、彼れは盗坊(どろぼう)にも非(あら)ず追剥にも非ず純然たる探偵吏(たんていり)なり、探偵吏なればこそ其身持不規則なりしなれ、身姿(みなり)時々変ぜしなれ、痛(いた)く細君に気遣われしなれ、「様(さん)」附(づけ)にも呼ばれしなれ、顔に傷をも受けしなれ、今は少しの不審も無し彼れが事は露ほども余が心に関せず、之に引代て唯(たゞ)痛(いた)く余の心に留り初めしは床の上の死骸なり、余が心は全く彼の死骸に縛附(しばりつけ)[#ルビの「しばりつけ」は底本では「しぱりつけ」]られたるに似たり、今まで目科を怪みたるよりも猶(な)お切に彼の死骸を思う、初て死体(しがい)を見し時の驚きと恐れとは何時(いつ)しか消えて次第に物の理を考うる力も己(われ)に復(かえ)りしかば余は唯(た)だ四辺(あたり)に在る総(すべ)ての物に熱心に注意を配り熱心に考え初めぬ、身は戸の口に立(たち)し儘(まゝ)なるも眼(まなこ)は室中(しつじゅう)を馳廻(はせまわ)れり、今まで絵入の雑誌などにて人殺(ひとごろし)の場所を写したる図などは見し事あり孰(いず)れにも其辺(そのあたり)最(い)と取散(とりちら)したる景色見えしに、実際なる此人殺しの寝室(ねま)の内には取散したる跡を見ず老人の日頃不自由なく暮し而(しか)も質素を旨(むね)として万事に注意の普(あまね)き事は是(これ)だけにて察せらる、寝床及び窓掛を初め在ゆる品物に手入能(よ)く行届き塵(ちり)も無ければ汚れも見えず、此老人の殺されしは必ず警察官及び判事等の推量せし通り昨夜の事なりしならん、其証拠とも云う可(べ)きは寝床の用意既に整い、寝巻及び肌着ともに寝台の傍(わき)に出(いだ)しあり猶(な)お枕頭(まくらもと)なる小卓(ていぶる)の上には寝際(ねぎわ)に飲(のま)ん為なるべく、砂糖水を盛(もり)たる硝盃(こっぷ)[#ルビの「こっぷ」は底本では「こっぶ」]も其儘(そのまゝ)にして又其横手には昨日の毎夕新聞一枚と外(ほか)に寸燐(まっち)の箱一個あり、小棚の隅に置きたる燭台は其蝋燭既に燃尽(もえつく)せしかど定めし此犯罪を照したるものならん、曲者は蝋燭を吹消さずに逃去りしと見え燭台の頂辺(てっぺん)に氷柱(つらゝ)の如く垂れたる燭涙(しょくるい)は黒き汚れの色を帯ぶ、個(こ)は蝋燭の自から燃尽すまで燃居(もえい)たるしるしなり。
 総(すべ)て是等(これら)の細(こまか)き事柄は殆(ほとん)ど一目にて余の眼(まなこ)に映じ尽(つく)せり、今思うに此時の余の眼は宛(あたか)も写真の目鏡(めがね)の如くなりし歟(か)、眼より直ちに種板(たねいた)とも云う可(べ)き余の心に写りたる所は最(い)と分明(ふんみょう)なるのみかは爾後(じご)幾年を経たる今日(こんにち)まで少しも消えず、余は今も猶(な)お其時の如く覚(おぼ)え居(お)れば少しの相違も無く其(その)室(へや)を描き得ん、予審判事の書記が寄れる卓子(ていぶる)の足の下に転がりて酒瓶(さけびん)の栓の在(あ)りし事をも記臆し、其(その)栓(せん)はコロップにて其一端に青き封蝋(ふうろう)の存(そん)したる事すらも忘れず、此後(こののち)千年生延(いきのび)るとも是等の事を忘る可くも非(あら)ず、余は真に此時まで斯(か)く仔細に看(み)て仔細に心に留る事の出来ようとは自(みずか)ら思いも寄らざりき、不意の事柄にて不意に此時現れたる能力なれば我が心の如何(いかん)を詳(くわし)く思見(おもいみ)る暇(ひま)も無かりき。
 我れと我が心に分らぬほど余は老人の死骸に近(ちかづ)き度(た)き望みを起し自ら制せんとして制し得ず、我心よりも猶(なお)強き一種の望みに推(お)され推されて余は警官及び判事を初め書記や目科の此室(へや)に在るをも忘れし程なり、彼等も別に余が事には心を留めざりしならん、判事は書記に差図を与え目科は警官と密々(ひそ/\)語らう最中なりしかば、余は咎(とが)められもせず又咎めらる可しと思いもせず、最(いと)平気に、最(いと)安心して、宛(あたか)も言附られし役目を行うが如くに泰然自若として老人の死骸の許(もと)に行き、其(その)傍(そば)に跪(ひざま)ずきてそろ/\と死骸を検査し初めぬ。
 此老人歳は七十歳より七十五歳までなる可し、背低くして肉瘠(や)せたれど健康は充分にして随分百歳までも生延得る容体とし頭髪(かみのけ)も猶(な)お白茶けたる黄色の艶を帯びて美しく、頬には一週間も剃刀(かみそり)を当ぬかと思うばかりに贅毛(むだけ)の延たれど個(こ)は死人に能(よ)く有る例しにて死したる後(のち)急に延たるものなる可く余は開剖室(かいぼうしつ)などにて同じ類(たぐい)を実見せしこと度々(たび/\)なれば別に怪(あやし)とも思わず唯(た)だ余が大(おおい)に怪しと思いたるは老人の顔の様子なり、老人の顔附は最(い)と穏(おだや)かにして笑(えみ)を浮めしとも云う可(べ)く殊(こと)に唇などは今しも友達に向いて親密なる話を初(はじめ)んとするなるかと疑わる、読者記臆せよ、老人の顔には笑こそあれ苦(くるし)みの様子は少しも存せざることを、是(こ)れ唯(た)だ一突(ひとつき)に、痛みをも苦みをも感ぜぬ中(うち)に死し去りたる証拠ならずや、余は実に爾(そ)う思いたり、此老人は突(つか)れてより顔を蹙(しか)むる間も無きうちに事切(ことぎれ)と為(な)りしなりと、若(も)し真に顔を蹙むる間も無かりしとせば如何(いか)にして MONIS(モニシ) の五文字を其(その)床(ゆか)に書記(かきしる)せしぞ、死(しぬ)るほどの傷を負い、其痛みを堪(こら)えて我生血(いきち)に指を染め其上にて字を書くとは一通りの事に非(あら)ず、充分に顔を蹙め充分に相(そう)を頽(くず)さん、夫(それ)のみか名を書くからには、死せし後にも此悪人を捕われさせ我が仇(あだ)を復(かえ)さんとの念あること必定(ひつじょう)なれば顔に恐ろしき怨みの相こそ現わるれ笑の浮ぼう筈(はず)万々(ばん/\)無く親友に話を初んとするが如き穏和の色の残ろう筈万々なし、今にも我が敵に噛附(かみつか)んずる程の怒れる面色(めんしょく)を存すべき筈ならずや。
 殊(こと)に老人の傷処(きずしょ)を検(あらた)め見れば咽(のど)を一突にて深く刺れ「苦(あっ)」とも云わずに死せしとこそ思わるれ、曲者(くせもの)の去りたる後まで生存(いきながら)えしとは認(みと)む可からず、笑の浮みしは実際にして又道理なり、血の文字を書きしとは、如何に考うるとも受取られず、あゝ余は唯(たゞ)是(これ)だけの事に気附てより、後にも先にも覚(おぼえ)なき程に打驚(うちおどろ)き胸のうち俄(にわか)に騒ぎ出(いだ)して、轟く動悸(どうき)に身も裂くるかと疑わる。
 去れば余は猶(な)お老人の傍(そば)を去る能(あた)わず、更に死体(しがい)の手を取りて検(あらた)むるに、余の驚きは更に強きを加え来(きた)れり、読者よ、老人の右の手には少しも血の痕(あと)を見ず唯(た)だ左の手の人差指のみ紅(あか)く血に塗(まみ)れしを見る、此老人は左の手にて血の文字を書きたりと云う可(べ)きか、否(いな)、否、否、左りの手にて書(かこ)う筈なし余は最早(もは)や我が心を抑(おさゆ)る能(あた)わず、我が言葉をも吐く能(あた)わず、身体に満々(みち/\)たる驚きに、余は其外の事を思う能わず、宛(あたか)も物に襲われし人の如く一声(せい)高く叫びし儘(まゝ)、跳上(はねあが)りて突立(つったち)たり。
 余の驚き叫びし声には室中の人皆驚きしと見え、余が自ら我が声を怪みて身辺を見廻りし頃には判事も警察官も目科も書記も皆余の周囲(まわり)に立ち「何だ「何事だ「何(ど)うした「何(ど)うしました」と遽(あわた)だしく詰問(つめと)う声、矢の如く余が耳を突く、余は猶(な)お一語をも発し得ず唯(た)だ「あ、あ、あれ、あれ」と吃(ども)りつゝ件(くだん)の死体(しがい)に指さすのみ、目科は幾分か余の意を暁(さと)りしにや直様(すぐさま)死体(しがい)に重(かさな)り掛り其両手を検め見て、猶予(ゆうよ)もせずに立上り「成(なる)ほど、血の文字は此老人が書いたので無い」と言い怪む判事警察官が猶お一言(ひとこと)も発せぬうち又蹐(せくゞ)みて死体(しがい)の手を取り其左のみ汚れしを挙(あ)げ示すに、警官も此証拠は争われず「あゝ大変な事を見落して居(おっ)たなア」と呟(つぶや)けり、目科は例の空(から)煙草を急ぎて其鼻に宛(あて)ながら「好(よ)く有(あ)る奴さ一番大切な証拠を一番後まで見落すとは、併(しか)し老人が自分で書(かい)たので無いとすれば事の具合が全く一変する、さア此文字は誰が書た、勿論老人を殺した奴が書たのだろう」判事と警官も一声に「爾(そう)とも爾とも目「愈々(いよ/\)爾とすれば曲者(くせもの)が老人を殺した後で自分の名を書附けると云う馬鹿はせぬなら、此曲者は無論藻西で無いと思わねばならぬ、是丈(これだけ)は誰も異存の無い所だから、此断案(だんあん)は両君何と下さるゝか」警官は茲(こゝ)に至りて言葉無し、判事は深く考えながら「爾さ、曲者が自分の名を書ぬ事は明かだ、書(かく)のは則(すなわ)ち自分へ疑いの掛らぬ為だから、爾だ他人(たじん)に疑いを掛けて自分が夫(それ)を逃れる為めだから、此名前で無い者が曲者だ、吾々(われ/\)は曲者の計略に載られて居たのだ、藻西太郎に罪は無い、爾とすれば本統(ほんとう)の罪人は誰だろう警「爾さ誰だろう目「夫を見出すは判「目科君、君の役目だ」
 斯(か)く一同の意見が全く一変せし所へ、宛(あたか)も外より入来(いりきた)る一巡査は藻西太郎を捕縛に行きたる一人(いちにん)なる可し「唯今帰りました」の声を先に立てゝ第一に警察官の前に行き「命令通り夫々手を尽しましたが是ほど旨(うま)く行(いっ)た事は有ません警「では藻西を捕縛したか、夫(それ)は大変だが巡「はい手も無く捕縛して仕舞いました夫に彼れ全く逃れぬ所を見てか不残(すっかり)白状して仕舞いました警「や、や藻西が白状したとな」


 罪なき人が白状する筈(はず)なければ藻西太郎が白状せしと云うを聞き一同は言葉も出ぬまでに驚き果て、中にも余の如きは只(た)だ夢かと思うばかりなりき、今まで余の集め得たる証拠は総(すべ)て彼(か)れの外(ほか)に真(まこと)の罪人あることを示せるに彼れ自ら白状したりとは何事ぞ、斯(かゝ)る事の有り得べきや、人々の中(うち)にて一番早く心を推鎮(おししず)めしは目科なり彼れ五六遍も嚊煙草の空箱を鼻に宛(あて)たる末(すえ)、件(くだん)の巡査に打向いて荒々しく「夫(それ)は全く間違いだ、お前が自分で欺されたのか爾(さ)無(な)くば吾々を欺して居るのだ必ず其二(ふたつ)に一(ひとつ)だ巡「其様(そのよう)な事は有ません夫(それ)は私しが誓います目「いや誓うには及ばぬ無言(だまっ)て居なさい、何でも藻西太郎の言た事をお前が聞違て白状だと思たのか、夫(それ)ともお前が手柄顔に何も彼も分ッた様に言い吾々を驚かせようと思ッたのだ」此厳しき言葉を聞くまで最(い)と謙遜に構えたる巡査なれど今は我慢が出来ずと思いし如く横柄に肩を聳動(うごか)し「へえ御免を蒙(こうむ)りましょう、憚(はゞか)りながら私しは其様な馬鹿でも無ければ嘘つきでも有(あり)ません自分の言う事くらいは心得て居(おり)ますから」と遣返(やりかえ)す、此儘に捨置なば二人の間に攫(つか)み合も初り兼(かね)ざる剣幕なれば警察長は捨置かれずと思いし如く割て入り「いや目科君待ち給え詳しく聞終ッた上で無ければ分らぬから」と云い更に巡査に打向いて「さ事の次第を細かに述べ今一応説明(ときあか)して見ろ」と命じたり、巡査は此命を得て俄(にわか)に己の重きを増したる如く一寸(ちょい)と目科を尻目に掛け容体(ようだい)ぶりて説き始む「私しは貴官の命を受け検査官一名及び同僚巡査一名と共に、都合三名で、ビヽエン街五十七番館に住む飾物模造職藻西太郎と云う者をば、バチグノールの此家に住で居る伯父(おじ)を殺したと云う嫌疑で捕縛の為め出張致しました」警察長は、成る可(べ)く彼れの言葉を切縮(きりちゞめ)させんと思う如く、将(は)た感心する如くに「其通り、其通り」と軽く頷首(うなず)く、巡査は益々力を得て「吾々三人馬車に乗り頓(やが)て其ビヽエン街に達しますと藻西太郎は丁度夕飯を初める所で妻と共に店の次の間で席に就(つこ)うと仕(し)て居ました、妻と云うのは年頃二十五歳より三十歳までの女で実に驚く可き美人です、吾々三人引続て其家に入込ますと藻西太郎は斯(かく)と見て直様(すぐさま)何の用事だと問いました、問うと検査官は衣嚢(かくし)より逮捕状を取出し法律の名を以て其方を捕縛に参たと答えました」此長々しき報告を目科は聞くに得堪ずと思いし如く「お前は要点だけ話す事が出来ぬのか」と迫(せか)し立るに巡査は一向頓着せず、「私は今まで随分捕縛には出張しましたが、捕縛と聞て此藻西太郎ほど喫驚(びっくり)したのは見た事が有りません、彼れは漸(ようや)く我れに復りて其様な筈は有ません必ず誰かの間違いでしょうと言ました、検査官が推返(おしかえ)して決して人違いで無いと答えますと夫(それ)では何の廉(かど)で捕縛しますと問返しました、オイ何の廉などゝ其様な児供欺(こどもだま)しを云(いっ)ても駄目(だめ)だよ其方の伯父(おじ)は何(ど)うした、既に死骸が其筋の目に留り其方が殺したと云う沢山の証拠が有る其方に於いて覚え有う、と詰寄る検査官の言葉を聞て驚いたの驚か無いのと云て全(まる)で度胸を失ッて仕舞ました、何か言(いお)うとするけれど其言葉は口から出ず蹌踉(よろめ)いて椅子に倒れると云う騒ぎです、検査官は彼れの首筋を捕えて柔かに引起し今更彼是れ云うても無益だ有体(ありてい)に白状しろ白状するに越した事は無いと諭(さと)しました、彼れは早や魂も抜けた様に成り馬鹿が人の顔を見る様に検査官の顔を見上てハイ何も彼も白状致します全く私しの仕(し)た業(わざ)ですと答えました」警察長は聞来りて「能(よ)く遣(やっ)た、能く遣た」と再び賛成の意を示すに巡査は全く勝誇りて「私し共は素(もと)より出来るだけ早く事を終る所存です、成る可く人を騒がすなと云うお差図を得て居ましたが何時(いつ)の間にか早や弥次馬ががや/\と其戸口に集りましたから検査官は罪人の手を引立てさゝ警察署で待て居るから直に行こうと云いますと罪人はやッと立上り有(あり)だけの勇気を絞り集めた声でハイ参りましょうと答えました吾々は是で最(も)う何も彼も旨(うま)く行たと思て居ましたが実は彼れの背後(うしろ)に女房の控えている事を忘れて居ました、此時まで藻西太郎の女房は気絶でも仕たかと思わるゝほど静で、腕椅子に沈込んだまゝ一言も発せずに居ましたが吾々が藻西を引立ようとすると宛(まる)で女獅々の狂う様に飛立て戸の前に立塞がり、通しません茲(こゝ)を通しませんと叫びましたが本統(ほんとう)に凄い様でした、流石(さすが)に検査官は慣て居るだけ静に制してイヤ内儀(ないぎ)腹も立うが仕方が無い其様な事をするだけ不為(ふため)だからと云ましたけれど女房は仲々聴きません果(はて)は両の手に左右の戸を捕え所天(おっと)に決して其様な罪は無い彼に限ッて悪事は働かぬとか所天が牢へ入られるなら私しも入れて下さいとか夫は/\最う聞くも気の毒なほど立腹し吾々を罵るやら誹(そし)るやら、容易には収り相(そう)も見えませんでしたが、何と云ても検査官の承知せぬのを見、今度は泣ながら詫をして何(ど)うか所天を許して呉れと願いました、気の毒は気の毒でも役目には代られませんから検査官は少しも動きません、女も終(つい)には思い切(きっ)たと見え所天の首に手を巻て貴方は此様な恐ろしい疑いを受けて無言(だまっ)て居るのですか覚えが無(ない)と言切てお仕舞いなさい貴方に限て其様な事の無いのは私しが知て居ますと泣きつ口説(くどき)つする様(さま)に一同涙を催(もよお)しました、夫(それ)だのに藻西太郎と云う奴は本統に酷(ひど)い奴ですよ、何(ど)うでしょう其泣て居る我が女房を邪慳(じゃけん)にも突飛(つきとば)しました、本統に自分の敵(かたき)とでも云う様に荒々しく突飛しました、女房は次の室(ま)まで蹌踉(よろめい)て行て仆(たお)れましたが夫(それ)でも先(ま)ア幸いな事には夫でいさくさも収りました、何でも女房は仆れた儘(まゝ)気絶した様子でしたが其暇に検査官は亭主を引立て直様(すぐさま)戸表(とおもて)に待せある馬車へと舁(かつ)いで行きました、いえ本統に藻西を舁いだのです彼れは足がよろ/\して馬車まで歩む事も出来ぬのです、え何と恐ろしい者じゃ有ませんか、我が悪事が早や露見したかと失望したので足が立なく成たのです、先々(まず/\)是で厄介を払たと思た所ろ女房の外に猶(ま)だ一つ厄介者が有たのですよ、夫を何だと思います、彼れの飼(かっ)て居る黒い犬です、犬の畜生女房より猶だ手に合ぬ奴で、吾々が藻西太郎を引立ようとすると※(「けものへん+言」、第4水準2-80-36)々(わん/\)と吠て吾々に食(くら)い附(つこ)うとするのみか追ても追ても仲々聴ません、実に気の強い犬ですよ、夫でも先(ま)ア味方は三人でしょう敵は纔(わずか)に一匹の犬だから漸(ようや)くに追退(おいのけ)て藻西を馬車へ引載ると今度は犬も調子を変え、一緒に馬車へ乗うとするのです、夫も到頭追払(おっぱら)いやッとの事で引上る運びに達しましたが、其引上る道々も検査官は藻西太郎を慰めようとしますけれど彼れ首(こうべ)を垂れて深く考え込む様子で一言も返事しません、夫から警察本署へ着た頃は少し心も落着た様子でしたが、頓(やが)て牢の中へ入(いれ)ますと、彼れ唯一人淋しい一室へ閉籠られただけ又首を垂れあゝ何(ど)うしたんだなア本統にと繰返し/\呟きます検査官は之を聞て再び彼れの傍に近附て何うしたか自分で知って居るだろう、愈々罪に服するかと問ますと彼れは爾(そう)ですと云わぬばかりに頷首(うなず)きながら何うか独りで置て下さいと云うのです、夫でも若(も)しや独りで置いて自殺でも企てる様な事が有ては成らぬと思い吾々は竊(ひそか)に見張を就(つけ)て牢から退き、検査官と同僚巡査一人とは本署に残り私しが此通り顛末の報告に参りました」と世に珍しき長談議も茲(こゝ)に漸(ようや)く終りを告げたり。
 聞終りて警察長は「是で最う何も彼も明々白々だ」と呟き予審判事も同じ思いと見え「左様(さよう)、明々白々です、外に何(ど)の様な事情が有(あろ)うとも藻西太郎が此事件の罪人と云う事は争われぬ」と云う、余は実に驚きたれど猶(な)お合点の行かぬ所あり横鎗を入んため将(まさ)に唇頭(くちびる)を動さんとするに目科も余と同じ想いの如く余よりも先に口を開き「是(これ)を明々白々とすれば藻西は伯父を殺した後で自分の名を書附て行た者と思わねばならぬ、其様な事は何うも無い筈(はず)だが、警「無さ相(そう)でも好(よ)いじゃ無いか当人が白状したと云えば夫から上確な事は無い、成るほど血の文字が少し合点が行かぬけれど是も当人に篤(とく)と問えば必ず其訳が分るだろう、唯吾々が充分の事情を知らぬから未(ま)だ合点が行かぬと云う丈の事」判事は目科の横鎗にて再び幾分の危(あやぶ)む念を浮べし如く「今夜早速(さっそく)牢屋へ行き篤(とく)と藻西太郎に問糺(といたゞ)して見よう」と云う。
 是(これ)にて判事は猶(な)お警察長に向い先刻死骸検査の為(た)め迎(むかえ)に遣(や)りたる医官等も最早(もは)や来(きた)るに間も有るまじければ夫(それ)まで茲(こゝ)に留(とゞま)られよと頼み置き其身は書記及び報告に来し件(くだん)の巡査と共に此家より引上げたり、後に警察長は予審判事の頼みに従いて踏留(ふみとゞま)りは留りしかど最早夕飯の時刻なれば、成る可く引上げを早くせんと思いし如くそろ/\室中(しつちゅう)の抽斗(ひきだし)及び押入等に封印を施し初めぬ。
 余と目科両人は同じ疑いに心迷い顔見合せて立つのみなりしが、目科は徐々(そろ/\)と其疑いの鎮まりし如く「爾(そう)さなア、矢張り血の文字は老人が書たのかも知れぬ」余は忽(たちま)ち目を見開き「老人が左の手でかね、其様な事が有うか夫(それ)に老人が唯(たゞ)一突(ひとつき)で文字などを書く間も無く死(しん)だ事は僕が受合う」あゝ余と目科との間柄は早や君(きみ)僕(ぼく)と云う程の隔て無き交(まじわ)りと為(な)れり目「全く相違ないのかね余「傷から云えば全く爾(そう)だよ、今に検査の医者も来るだろうから問うて見たまえ、尤(もっと)も僕は猶(な)お卒業もせぬ書生の事だから当(あて)には成らぬかも知れぬが医官に聞けば必ず分る」目科は又も空箱を取出しながら「此事件には猶(ま)だ吾々の知らぬ秘密の点が有るに極(きま)ッて居る、其点を検めるが肝腎だ夫(それ)を検めるには是から更に詮策を初めねばならぬが、爾(そう)だ更に初めても構いはせぬなア面白い初めようじゃ無いか好(よ)し/\其積(そのつもり)で先(ま)ず第一に此家の店番を呼び問正(といたゞ)して見よう」斯(こう)云(い)いて目科は梯子段(はしごだん)の際(きわ)に行き、手欄(てすり)より下階(した)を窺(のぞ)きて声を張上げ店番を呼立たり。


 店番の来るまでにて目科は更に犯罪の現場の検査を初め、中にも此(この)室(へや)の入口の戸に最も深く心を留めたり、戸の錠前は無傷にして少しも外より無理に推開きたる如き痕(あと)無(な)ければ是(これ)だけにて曲者(くせもの)が兎(と)にも角(かく)にも老人と懇意(こんい)の人なりしことは確(たしか)なり、余は又目科が斯(か)く詮鑿(さく)する間に室中を其方此方(そちこち)と見廻して先に判事の書記が寄りたる卓子(てえぶる)の下にて見し彼のコロップの栓を拾い上げたり、要(よう)も無き唯(ただ)一個(ひとつ)の空瓶の口なれば是が爾(さ)までの手掛りに為(な)ろうとは思わねど少しの手掛りをも見落さじとの熱心より之も念の為にとて拾い上げしなれ、拾い上げて検(あらた)め見るに是れ通常の酒瓶の栓にして別に異(かわ)りし所も無し、上の端には青き封蝋の着きし儘にて其真中に錐(きり)をもみ込し如き穴あるは是れ螺旋形(うずまき)のコロップ抜(ぬき)にて引抜(ひきぬき)たる痕(あと)なるべし、尤(もっと)も護謨(ごむ)同様に紳縮(のびちゞ)みする樹皮(きのかわ)なれば其穴は自(おのずか)ら塞(ふさ)がりて唯(た)だ其傷だけ残れるを見るのみなれば更に覆(くつが)えして下(しも)の端を眺れば茲(こゝ)には異様なる切創(きりきず)あり、何者が何の為にコロップの栓の裏に斯(かゝ)る切創を附けたるにや、其創は最(もっとも)鋭き刃物にて刺したる者にて老人の咽(のんど)を刺せし兇刃(きょうじん)も斯(かゝ)る業物(わざもの)なりしならん、老人の咽を突きしも此コロップを突し如くに突しにや、斯(か)く思いて余はゾッと身震いしつ、其儘(そのまゝ)持行きて目科に示すに彼れ右見左見(とみこうみ)打眺(うちなが)めたるすえ「コレハ大変な手掛だ」と云い嚊煙草の空箱を取出す間も無く喜びの色を浮べたれば、余は何故(なにゆえ)是が大変の手掛りなるやと怪みて打問うに彼れ今も猶(な)お押入其他の封印に忙わしき彼の警察長を尻目に見、彼れに何事も聞えぬ様小声にて説明(ときあか)す「何故だッて君、此コロップは曲者が捨て行たのでは無いか、先(ま)ず此傷を見給え此傷を、是は確に老人を刺した刃物で附けたのだ」余も同じく小声にて「何の為に目「何の為に、其様な事を聞く奴が有るものか、曲者は余程鋭い両刃(もろは)の短剣を持て来たのだ、両刃と云う事は此傷の形で分る、傷の中程が少し厚くて両の縁(ふち)が次第に細く薄く成(なっ)て居るじゃ無(な)いか余「成るほど爾(そう)だ目「爾(さ)すれば此(この)鋭利(するど)い短剣を曲者は何(ど)うして持て来たゞろう、人に見られぬ様に隠して居たのは明かだ、さア隠すなら何所(どこ)へ隠す、着物の衣嚢(かくし)とか其他先ず自分の身の中(うち)には違い無いが其鋭利(するど)いものを身の中へ隠すのは極めて険呑(けんのん)だ、少し間違えば自分の身に怪我をするか或は又剣先(きっさき)の刃を欠くと云う恐(おそれ)が有る、して見れば何かで其剣先を包んで置かねばならぬ、さア何で包んだ、即ち此コロップだろう、コロップは柔(やわら)かで少しも刃を傷める患(うれ)いが無いから夫(それ)で之をそッと其剣先へ刺込で衣嚢(かくし)へ入れて来たのだ余「説き得て妙目「老人を突く時に此コロップを外したが後では最(も)う誰にも認られぬうち早く立去ろうと思うからコロップなどは打忘れて帰たゞろう余「成るほど目「所(ところ)で比コロップには青い封蝋が附いて居るから何か一種の銘酒の瓶に用いて有ッたに違い無い、斯(か)く段々推して行けば次第に捜すのも易くなる、何にしろ此コロップは大変な手掛だ、是が手に入る以上は僕必ず曲者を捕えて見せる」と云終(いいおわ)りて其コロップを衣嚢(かくし)に入(いる)るに此所へ入来るは別人ならず今しも目科が呼置きたる此家の店番にして即ち先刻余と目科と此家に入込しとき店先にて大勢の店子等(たなこら)に泡を吹きつゝ話し居たる老女なり、女「何御用か知ませんが少々用事も有ますので余りお手間の取れぬ様に願います」と云いつゝ老女は目科の差出す椅子に寄れり、目科は何所(どこ)と無く威光高き調子を現わし「少し聞度(きゝた)い事が有るので、是から一々お前に問うから何も彼も腹臓なく答えぬと返てお前の不為(ふため)だよ女「はい心得ました」目科は判事の尋問する如く己れも先ず椅子に寄りて「殺された老人の名は何と云う、女「梅五郎(ばいごろう)と申(もうし)ました目「何時(いつ)から此(この)家(いえ)に住で居る女「はい八年前から目「其前は何所(どこ)に住だ女「夫(それ)まではリセリウ街(まち)で理髪店を開いて居ました、老人は理髪師で身代(しんだい)を作ッたのです目「何(ど)れほどの身代が有る女「確(たしか)には知ませんが老人の甥が時々申ますに伯父は命を取られると云う場合には随分百万法(フランク)くらいは出し兼ぬと云いました」目科は心の中にて「ふゝむ予審判事は何かの書面を頻(しき)りと書記に写させて居たから梅五郎の身代を残らず調べ上て行たと見えるな」と打呟(うちつぶや)き更に又老女に向い「して梅五郎老人は平生(へいぜい)何(ど)の様な人だッた女「極々(ごく/\)の善人でした、尤(もっと)も少し我儘(わがまゝ)で剛情な所は有ましたが高ぶりは致しません、少し機嫌の能(よ)い時は面白い事ばかり言て人を笑せました、爾(そう)でしょうよ流行社会の理髪師で巴里(ぱり)中の美人は一人残らず彼(あ)の人の手に掛ッて髪をくねらせて貰ッたと云う程ですもの目「暮し向は女「先(ま)ア当前ですねえ、自分で儲溜(もうけた)めた金で暮す人には丁度相当と思われる暮し方でした、夫(それ)かとて無駄使などは決して致しませんでしたが目「夫だけでは確(しか)と分らぬ何か是と云う格別な所が有そうな者だ女「有ますとも老人の室の掃除向(むき)と給仕とは私(わたく)しが引受けて居ましたもの、大層甲斐々々(かい/″\)しい老人で室の掃除などは大概(たいがい)一人(にん)で仕て仕舞い私には手を掛させぬ程でした、何がなし暇さえあれば掃(はい)たり拭(ふい)たり磨(みがい)たり仕て居るが癖ですから目「給仕の方は女「給仕の方は毎日昼の十二時を合図に私しがお膳を持て来るのです、夫が老人の朝飯です、朝飯が済でから身仕度するが凡(およ)そ二時まで掛ります、大層着物を被(き)るのが八(や)かましい人で毎(いつ)でも婚礼の時かと思うほど身綺麗(みぎれい)にして居ました、身仕度が終ると家を出て宵(よい)の六時まで散歩し六時に外で中食(ちゅうじき)を済せ、夫から多くはゲルボアの珈琲館に入り昔友達と珈琲を呑(のん)だり歌牌(かるた)を仕たりして遅くも夜の十一時には帰て来て寝床(ねどこ)に就きました、ですが唯(たっ)た一つ悪い事にはあの年に成(なっ)て猶(ま)だ女の後を追掛る癖が止みませんから私しは時々年に恥ても少しは謹(つゝし)むが好(よか)ろうと云いました、ですが誰でも落度は有る者(もの)で夫(それ)に若い頃の商売が商売で女には彼是(かれこ)れ云れた方ですから言えば無理も有りますまいが」と云い少し笑いを催し来(きた)れど目科は極めて真面目にて「して梅五郎の許(もと)へは沢山(たくさん)尋ねて来る人が有たのか女「はい有ッても極極(ごく/\)僅(わず)かです其うちで屡々(しば/\)来るのが甥の藻西太郎さんで、土曜日の度には必ず老人に呼ばれてラシウル料理店へ中食に行きました目「甥と老人との間柄は女「此上も無く好い仲でした目「是までに言争いでも仕た事は女「決して有りません、尤もお倉(くら)さんの事に就ては両方の言う事が折合ませんですけれど目「お倉さんとは誰の事だ女「藻西太郎さんの細君(おかみさん)です、実に奇麗な女ですよ。あの様なのが先(ま)ア立派な女と云うのでしょう、夫(それ)に外に悪い癖は有りませんけれど其お倉さんも大変な衣服蕩楽(なりどうらく)で藻西太郎さんの身代に釣あわぬほど立派な身姿(みなり)をして居ますから綺倆(きりょう)が一層引立ちます、ですから全体云えば老人が大層誉め無ければ成らぬ筈ですのに何(ど)う云う者か老人は其お倉さんが大嫌いで藻西太郎さんに向ッては手前は女房を愛し過る今に見ろ女房の鼻の先で追使われる様になるからとか、お倉は手前の様な亭主に満足する女じゃ無い、今に見ろ何か間違いを仕出来(しでか)すからとか其様な事ばかり言て居ました、爾々(そう/\)夫ばかりでは有りませんよ昨年も老人とお倉さんと喧嘩をした事が有ます、お倉さんは亭主(やど)に或(あ)る飾屋(かざりみせ)の株を買せるからと云い老人に大変な無心を言て来たのです、すると老人は一も二も無く跳附(はねつけ)て、己(おれ)が死んだ後では己の金を藻西太郎が何(ど)の様に仕ようと勝手だけれど兎(と)角も己の稼ぎ溜た金だから生て居る間は己の勝手にせねば成らぬ、一文でも人に貸して使わせる事は出来ぬなんぞと言ました」読者よ余の考えにては此点こそ最も大切の所なれば目科が充分に問詰るならんと思いしに彼れ意外にも達(たっ)て問返さん様子なく余が目配(めくばせ)するも知らぬ顔にて更に次の問題に移り「したが老人の殺されて居る所は何(ど)うして見出した女「何うしてとは、夫は私しが見出したのですよ、先(ま)あ何うでしょうお聞下さい私しは毎(いつ)もの通り十二時を合図に膳を持て老人の室まで来、兼(かね)て入口の合鍵を渡されて居る者ですから何気なく戸を開て、内へ這入(はいっ)て見ますると、可哀相に、此有様です」と言来(いいきた)りて老女は真実憫(あわ)れに堪えぬ如く声を啜(すゝ)りて泣出せしかば目科は之を慰めて「いやお前が爾(そう)まで悲むは尤もだが、最(も)う時が無い事で有るし先ず悲みを堪(こら)えて――女「はい堪えます、堪えます目「私(わし)の問う事に返事を仕て、さゝ、夫から何うした、其老人の死骸を見て其時お前は何と思ッた女「何と思わ無くとも分ッて居ます、甥の畜生が伯父の死(しぬ)るのを待兼て早く其身代を自分の物にする気になり殺したに極て居ます、私しは皆に爾(そう)云て遣(やり)ました目「併(しか)し、何故其甥が殺したに極て居る人を人殺しなどゝ云うは実に容易の事で無く其人を首切台へ推上(おしのぼ)すも同じ事だ、少し位は疑ッても容易に口にまで出して言触す事の出来る者で無い、夫くらいの事はお前も知て居るだろう女「だッて貴方(あなた)、甥で無くて誰が殺しましょう、藻西太郎は昨夜老人に逢(あい)に来て、帰て行たのは大方(おおかた)夜の十二時でした、毎(いつ)も来れば這入がけと帰掛(かえりがけ)とに大抵私しへ声を掛る人ですのに昨夜に限り来た時にも帰る時にも私しへ一言の挨拶をせぬから私しは変だと思て居ましたよ、何しろ昨夜其甥が帰てから今朝私しが死骸を見出した時まで誰も老人の室へ這入ッた者の無いのは確かです夫は私しが受合います」
 読者よ是だけの証言を聞き余は驚かざる可(べ)き乎(か)、余は実に仰天したり、余は此時猶お年も若く経験とても積ざれば、最早や藻西太郎の犯罪は警察官の云し如く真に明々白々にて此上問うだけ無益なりと思いたり去れど目科は流石(さすが)経験に富るだけ、且(か)つは彼れ如何に口重き証人にも其腹の中(うち)に在るだけを充分吐尽(はきつく)させる秘術を知れば猶(な)お失望の様子も無く宛(あたか)も独言(ひとりごと)を云う如き調子にて「成(な)る程昨夜藻西太郎が老人に逢(あい)に来た事は最(も)う確だな女「確かですとも、是ほど確かな事は有ません目「するとお前は藻西を見たのだね、其顔を確(しっか)り認(みとめ)たのだね女「いえ少しお待なさい、見たと云て顔を見た訳では有ません廊下へ行く所を見たのです、夫も彼れ急いで歩きましたから、何でも私に目認(みと)められまいと思う様に本統(ほんとう)に憎いじゃ有ませんか廊下の燈明(あかり)が充分で無いのを幸いちょい/\と早足に通過(とおりすぎ)ました」余は此一節(ふし)を聞きて思わず椅子より飛離れたり、是れ実に軽々しく聞過し難き所ならん、余は殆ど堪え兼て傍(かたわら)より問を発し「若(も)し夫だけの事ならばお前が確に藻西太郎と認めたとは云われぬじゃ無いか」老女は最(いと)怪(あやし)げに余を頭の頂辺(てっぺん)より足の先まで隈(くま)なく見終り「なに貴方、仮令(たとい)当人の顔は見ずとも連て居る犬を確に見ましたもの、犬は藻西に連られて来る度(たび)に私しが可愛がッて遣(や)りますから昨夜も私しの室へ来たのです、だから私しが余物(あまりもの)を遣(やろ)うとして居ると丁度(ちょうど)其時藻西が階段の所から口笛で呼ましたから犬は泡食(あわくっ)て三階へ馳上(はせあが)ッて仕舞ました」此返事を目科は何と聞きたるにや余は彼れの顔色を読まんとするに、彼れ例の空箱にて之を避(よ)け「して藻西の犬とは何(ど)の様な犬だ」と老女に問う女「はい前額(ひたい)に少し白い毛が有るばかりで其外は真黒な番犬(ばんいぬ)ですよ、名前はプラトと云ましてね、大層気むずかしい犬なんです、知ぬ人には誰にでも※(「口+曹」、第3水準1-15-16)(うな)りますが唯(たゞ)私しには時々食う者を貰う為め少しばかり穏(おだや)かです、藻西太郎より外の者の云う事は決して聴きません」是(こゝ)だけ聞きて目科は「夫で好し最(も)う聞く事は無いからお前下るが好い」と云い老女が外の戸まで立去るを看送(みおく)り済(すま)し更に余が方(かた)に打向いて「最(も)う何(ど)うしても藻西太郎の仕業(しわざ)と認める外は無い」と嘆息(たんそく)せり。
 目科が猶お老女を尋問し居たるうちに、先刻判事が向いに遣(やり)しと云いたる医官二名出張し来りて此時までも共々(とも/″\)に手を取りて老人の死骸を検(あらた)め居たれば余は一方に気の揉める中(うち)にも又一方に医官が検査の結果如何(いかゞ)と殆(ほとん)ど心配の思いに堪えず、凡(およ)そ医師二人(ににん)以上立会うときは十の場合が七八(なゝやつ)まで銘々見込を異にする者なれば若(も)し此場合に於ても二人其見る所同じからず、縦(よ)し一方が余の見立通り老人は唯一突にて痛(いたみ)を感ずる間も無きうちに事切れたりと見定むるとも其一方が然らずと云わば何とせん、青(あお)書生の余が言葉は斯(かゝ)る医官の証言に向いては少しの重みも有る可きに非ず、斯(かく)思いて余は二人の医官を見較ぶるに一方は瘠(や)せて背高く一方は肥(こえ)て背低し斯(かく)も似寄たる所少き二人の医官が同様の見立を為すは殆ど望み難(がた)き所なれば猶お彼等の言葉を聞かぬうちより既(すで)に失望し居たる所、彼等は頓(やが)て検査し終り、今まで居残れる警察長に向い不思議にも同一の報告を為(な)したり、同一の報告とは他ならず梅五郎老人は唯一突にて即死せし者なれば従ッて血の文字は老人の書し者に非ずと云うに在り。
 余は意外にも二人の医官が二人ながら余の意見と同一の報告を為せしを見、ほッと息して目科に向えば目科は益々怪しみて決し兼たる如く「フム老人が書たで無いとすれば誰が書たのだろう、藻西太郎か、藻西太郎が自分で自分の名を書附て行くと云う事は決して無い、無い/\何うしても無い、自分で自分の名を書くとは余り馬鹿げ過て居る」
 余は此言葉に何の批評をも加えねど、己が役目の漸(ようや)く終り、やッと晩餐に有附く可き時の来りしを歓びながら出(いで)て行く彼の警察長は目科の言葉を小耳に挟み彼れをからかうも一興と思いし如く「当人が既に殺しましたと白状した後で他人の君が六(むず)かしく道理を附け独り六かしがッて居るのは夫こそ余り馬鹿さが過るじゃ無いか」目科は怒りもせず「左様(さよう)、馬鹿さが過るかも知れぬ、事に由ると僕が全くの馬鹿かも知れぬ、けれども今に判然と合点の行く時が来るだろうよ」警察長は聞流して帰り去り、目科も亦(また)言流して余に向い出し抜(ぬけ)に「さア是から二人で警察本署へ行き、捕われて居る藻西太郎に逢て見よう」


 藻西太郎に逢(あっ)て見んとは素(もと)より余の願う所ろ何かは以て躊躇(ためら)う可(べ)き、早速目科に従いて又もや此家を走り出(いで)たり、余と云い目科と云い共に晩餐前(ぜん)なれど唯(たゞ)此事件に心を奪われ全く饑(うえ)を打忘れて自ら饑たりとも思わず、只管(ひたすら)走りて大通りに出で茲(こゝ)にて又馬車に飛乗りゼルサレム街に在(あ)る警察本署を推(さ)して急(いそが)せたり目科は馬車の中にても心一方(ひとかた)ならず騒ぐと見え、引切(ひっきり)なしに空(から)の煙草を嚊(か)ぐ真似し時々は「何(ど)うしても見出せねば、爾(そう)だ何うしても見出して呉れる」と打呟く声を洩す、余は目科に向いて馬車の隅にすくみしまゝ一つは我が胸に浮ぶ様々の想像を吟味(ぎんみ)するに急(いそが)わしく一は又目科の様子に気を附けるが忙わしさに一語だも発するひま無し、目科は又暫し考えし末、忽(たちま)ち衣嚢(かくし)を探りて先刻のコロップを取出し宛(あたか)も初めて胡桃(くるみ)を得たる小猿が其の剥方(むきかた)を知ずして空(むなし)く指先にて拈(ひね)り廻す如くに其栓を拈り廻して「何にしても此青い封蝋が大変な手掛りだ何うかして看破(みやぶ)らねば」との声を洩せり、斯(かく)て長き間走りし末、馬車は終(つい)に警察本署に達し其門前にて余等(よら)二人を卸(おろ)したり、日頃ならば警察の庭と聞くのみも先ず身震する方にして仲々足踏入る心は出(いで)ねど今は勇み進みて目科の後に従い入るのみかは常に爪弾(つまはじき)せし探偵吏(り)の、良民社会に対して容易ならぬ恩人なるを知り我が前に行く目科の身が急に重々しさを増し来(きた)り、其背長(せたけ)さえ七八寸も延しかと疑わる、即(やが)て其広き庭より廊下へ進み入り曲り曲りて但有(とあ)る小室(しょうしつ)の前に出(いず)れば中(うち)には二三の残り員(いん)、卓子(てえぶる)を囲みて雑話せるを見る、余は小声にて目科を控え「今時分藻西太郎に逢う事が出来ようか」と問う、目科は「出来るとも僕が此事件の詮鑿を頼まれて居るでは無いか仮令(たと)い夜の夜半(よなか)でも必要と認れば其罪人に逢い問糺(といたゞ)す事を許されて居る」と云い余を入口に待せ置き内に入りて二言三言、何事をか残員(のこりいん)と問答せし末、出来(いできた)りて再び余を従えつ又奥深く進み行き、裏庭とも思わるゝ所に出で、※(「研のつくり」、第3水準1-84-17)(そ)を横切りて長き石廊に登り行詰る所に至れば厳(いか)めしき鉄門あり、番人に差図(さしず)して之を開かせ其内に踏み入るに是が牢屋の入口なる可く左右に広き室ありて室には幾人の巡査集れるを見る、室と室との間に最(いと)険(けわ)しき階段あり之を登れば廊下にして廊下の両側に列(つら)なれる密室は悉(こと/″\)く是れ囚舎(ひとや)なるべく其戸に一々逞ましき錠を卸せり、廊下の入口に立てる一人、是が世に云う牢番ならんか、兼(かね)て小説などにて読みたる剛(こわ)らしき人とは違い存外に気も軽げなれど役目が役目だけ真面(まじめ)には構えたり、此者目科を見るよりも腰掛を離れて立ち「やア旦那ですか、多分入(いら)ッしゃるだろうと思ッて居ました何でもバチグノールの老人を殺した藻西とか云う罪人にお逢い成(なさ)るのでしょうね目「爾(そう)だ、何か其藻西に変ッた事でも有るのか牢番「なに変(かわっ)た事は有りませんが唯(た)ッた今警察長がお見(みえ)に成り彼れに逢て帰たばかりですから目「夫(それ)だけで能(よ)く己の来たのが藻西に逢う為めだと分ッたな牢番「いえ夫だけでは有ません、警察長は僅か二三分囚人と話て帰り掛けにアノ野郎言張て見る気力さえ無い、斯(こ)う早く罪に服そうとは思わなんだが是で最(も)う充分だ今に目科が遣て来て彼奴(きゃつ)の言立を聞き失望するだろうと何か此様な事を呟いて居ましたから」目科は之を聞き扨(さて)は罪人早(は)や既に爾(そう)まで罪に服したるやと驚きしものゝ如く、嚊煙草を取出す事すら打忘れて牢の入口を鋭く見遣(みや)れり、牢番は目科の様子に気を留ずして言葉を続け「成るほどあれでは服罪しましょう、私(わた)しは一目見た時から此野郎迚(とて)も言開(いいひらき)は出来まいと思いました目「して藻西は今何をして居る番「私しは役目通り今まで彼れを窺(のぞ)いて居ましたが、彼れ疾(と)くに後悔を初めたと見え泣て居ますよ、宛(まる)で身体の大きい赤坊です、声を放ッて泣て居ます目「何(ど)れ行て見よう、だが己(おれ)の逢て居る間、外で物音をさせては了(いけ)ないよ」と注意を与え目科は先ず抜足して牢の所に寄り窃(ひそ)かに内を窺い見る、余も其例に従うに成る程囚人藻西太郎は寝台(ねだい)の上に身を投げて俯伏(うつぶ)せしまゝ牢番の言し如く泣沈める体(てい)にして折々に肩の動くは泣じゃくりの為なるべく又時としては我身の上の恐ろしさに堪えぬ如く総身(そうしん)を震わせる事あり、見るだけにても気の毒なり、良(やゝ)ありて目科は牢の戸を開かせつ余を引連れて内に入る、藻西太郎は泣止みて起直り、寝台の上に身を置きしまゝ目科の顔を仰ぎ見るさま、痛く恐を帯びたるか爾(さ)なくば気抜せし者なり、余は目科の背後(うしろ)より彼れの人と為(な)りを倩々(つく/″\)見るに歳は三十五より八の間なる可(べ)く背は並よりも寧(むし)ろ高く肩広くして首短し、執(いず)れにしても美男子と云わるゝ男には非ず、美男子を遙か離れ、強き疱痘(ほうそう)の痕(あと)ありて顔の形痛く損し其額(ひたい)高きに過ぎ其鼻長きに過るなどは余ほど羊に近寄りたる者とも云う可し、去(さ)れど其(その)眼(まなこ)は穏和げにして歯は白く且(かつ)揃いたり。
 目科は牢に入るよりも大(おおい)に彼れが気を引立んとする如く慣々(なれ/\)しき調子にて「おやおや何うしたと云うのだ、其様に鬱(ふさ)いでばかり居ては仕様が無い」と云い彼が返事を待つ如く言葉を停めしも彼れ更に返事せざれば目科は猶(な)お進み「え、奮発するさ奮発を、これさこれ藻西さんお前も男じゃ無いか、私(わし)が若(も)しお前なら決して其様に凋(しお)れては居無いよ、男の気象(きしょう)を見せるのは此様な時だろう、何でお前は奮発せぬ、茲(こゝ)で一つ我身に覚えの無い事を知せ判事や警察官に一泡(ひとあわ)吹せて呉(くれ)ようじゃ無いか」実に目科は巧なり彼れが言葉には筆に尽せぬ力あり妙に人の心を動かすに足る、余若し罪人ならば唯(たゞ)彼れの一言に奮い起き仮令(たと)い何れほどの疑いに囲まれようとも其の疑いを蹴散して我身の潔白を知せ呉れんと励み立つ所なり、爾(さ)は云え目科は気も気に非ず、此一言実に藻西太郎の罪あるや無きやを探り尽す試験なれば胸の中(うち)如何(いか)ほどか騒立(さわだ)つやらん、藻西太郎は意外にも、無愛想なる調子にて「爾(そう)仰有(おっしゃ)ッても仕方が有りません、自分で殺した者は到底隠し切(きれ)ませんから」と答う、此返事に余は殆ど腰抜すほど驚きたり、あゝ当人が此口調では最早や疑いを容(い)るゝ余地も無し問うも無益、疑うは猶(な)お駄目なり、爾れど目科は猶お挫(くじ)けず「何だとお前が殺した、本統か、本統にお前か」藻西太郎は忽然(こつぜん)として、宛(あたか)も狂人が其狂気の発したるとき、将(まさ)に暴れんとして起(たつ)が如く、怒れる眼(まなこ)に朱を濺(そゝ)ぎ口角に泡を吹きて立上り「私しです、はい私しです、私し一人(いちにん)で殺しました、全体何度同じ事を白状すれば好いのですか、今し方も判事が来て、同じ事を問うたから何も彼も白状しました、ヘイ其白状に調印まで済せました、此上貴方は何を白状させ度(た)くて来たのですか、夫とも私が泣いて居るから信切(しんせつ)に夫を慰めようとて来て下さッたのかも知ませんが、今と為(なっ)ては恐しくも有ません、首切台は知て居ます、はい私しは人を殺したから其罪で殺されるのです」彼れの言条(いいじょう)は愈々(いよ/\)出(いで)て愈々明白なり、流石(さすが)の目科も絶望し、今まで熱心に握み居たる此事件も殆ど見限りて捨んかと思い初めし様子なりしが、空箱を一たび鼻に当て忽(たちま)ち勇気を取留し如く、彼の心を知る余にさえも絶望の色を見せぬうち早くも又元に復(かえ)り「爾(そう)か、本統にお前が殺したのか、夫にしても猶(ま)だ首切台ノ殺されるノと其様な事を云う時では無いよ、裁判と云う者は少しの証拠で人を疑うと同じ事で其代り又少しでも証拠の足らぬ所が有れば其罪を疑うて容易には罪に落さぬ。好いか、此度の事件でもお前の白状は白状だ、夫にしてもお前の白状だけでは足りぬ、猶(な)お其外の事柄を能(よ)く調て愈々(いよ/\)お前に相違ないと見込が附けば其時初めて罪に落す、若しお前の白状だけで外の証拠に疑わしい所が有れば情状酌量(じょう/\しゃくりょう)と云て罪を軽める事も有り又証拠不充分と云て其儘(そのまゝ)許す事も有る」と殆(ほとん)ど噛(かん)で食(ふく)めぬばかり諄々(じゅん/\)と説諭(ときさと)すに罪人は心の中に得も云えぬ苦しみを感じ右(と)せんか左(かく)答えんかと独り胸の中に闘いて言葉には得出(えいだ)さぬ如く、空しく長き※(「口+曹」、第3水準1-15-16)(うめ)き声を洩すのみ、此有様抑(そ)も如何ように見て取る可きか、目科は隙(すか)さず突(つい)て入り「就(つい)て問度(といた)い事が有る、お前は殺すほどあの伯父が憎かッたのか藻「なアに少しも憎くは有ません目「では何故殺した藻「伯父の身代(しんだい)が欲いから殺しました、此頃は商買(しょうばい)が不景気で日々(にちにち)苦しくなるばかりです、夫は同業に聞ても分ります、幸い伯父は金持ですけれど生て居る中は一文でも貸て呉れず、死(しに)さえすれば其身代が独(ひとり)で私しへ転がり込むと思いまして、目「分ッた/\、夫でお前は殺しても露見しまいと思ッたのか藻「はい爾(そう)思いました」あゝ目科は何故(なにゆえ)に斯(かく)も湿濃(しつこ)く問うなるや、余は必ず深き思惑の有る可しと疑い初(そ)めしに果せるかな彼れ忽(たちま)ち語調を変じ「夫は爾(そう)としてお前あの、伯父を殺した短銃(ぴすとる)は何所(どこ)で買(かっ)た」余は藻西が何と答うるにやと殆ど気遣(きづかわ)しさに堪えず手に汗を握れども藻西は驚きもせず怪みもせず「なに買たんじゃ有ません余程前から持て居たのです」と答う目「殺した後で其短銃を何うしたか藻「え、別に何うもしません、左様さ投捨て仕舞いました、外へ出てから目「では誰か拾た者があろう、好し/\私(わし)が能(よ)く探させて見よう」読者よ目科は奥の奥まで探り詰ん為め故(ことさら)に斯(かゝ)る偽(いつわ)りの問を設けて、試みながらも其色を露現(あら)わさず相も変らぬ静かなる顔付なり、稍(やゝ)ありて又問掛け「一つ合点の行かぬ事は全体犬を連て行くと云う事は無いよ、あれが大変な露見の本(もと)に成(なっ)た、あの様な者は内へ置て自分一人で行き相(そう)な者だッたのに」此問は何の意にて発せしや余は合点し得ざれども何故か藻西太郎は真実に打驚き「え、え、犬、犬を目「爾よ、プラトと云う黒犬をさ、店番が慥(たしか)にプラトを認めたと云う事だ」此語を聞きて藻西太郎の驚きは殆ど譬(たと)うるに者も無し、彼れ驚きしか怒りしか歯を噛み拳(こぶし)を握りて立ち、何事をか言出さんとする如く唇屡々(しば/\)動きたるも漸(ようや)くに我心を推鎮(おししず)め「え、え」と悔しげなる声を発して其儘寝台に尻餠(しりもち)搗(つ)き「えゝ、是でさえ最(も)う充分の苦みだのに此上、此上、何事も問うて下さるな、最う何(ど)う有ても返事しません」断乎(だんこ)として言放ち再び口を開かん様子も見えず、目科も此上問うの益なきを見て取りしか達(たっ)て推問(おしと)わんともせず、是にて藻西太郎を残し余と共に牢を出で、階(はしご)を下りて再び鉄の門を抜け、廊下を潜り庭を過(よぎ)り、余も彼れも、無言の儘にて戸表(おもて)へと立出しが余は茲(こゝ)に至りて我慢も仕切れず、目科の腕に手を掛けて問う「是で君は何と思う、え君、彼れ自分で殺したと白状して居るけれど伯父が何の刃物で殺されたか夫さえも知ぬじゃ無いか、君が短銃(ぴすとる)の問は実に甘(うま)かッたよ、彼は易々(やす/\)と其計略に落ちた、今度こそ彼れの無罪が明々白々と云う者だ、若し彼れが自分で殺したなら、なに短銃(ぴすとる)で無い短剣だッたと云う筈だのに」目科は簡単に「左様さ」と答えしが更に又「併(しか)し何方(どちら)とも云れぬよ罪人には随分思いの外に狂言の上手な奴が有て、判事や探偵を手球(てだま)に取るから余「だッて君目「いや/\僕は今まで色々な奴に出会(でっくわ)したゞけ容易には少しの事を信ぜぬて、併(しか)し今日の詮索は先ず是だけで沢山だ、是から帰て僕の室へ来、何か一口喫(た)べ給え、此後の詮索は明日又朝から掛るとしよう」


 是より目科が猶も余を背後(うしろ)に従え我宿に帰着き我室の戸を叩きしは夜も早や十時過なりき、戸を開きて出迎える細君は待兼し風情にて所天(おっと)の首にすがり附き情深きキスを移して「あゝ到頭(とうとう)お帰になりましたね今夜は何だか気に掛りまして」と言掛けて余が目科の背後(うしろ)に在るを見、忽(たちま)ち一歩引下り「おゝ御一緒に、今まで珈琲館に居(いら)しッたのですか、私しは又用事で外へお廻りに成たかと思いました、遊(あそん)でお帰り成(なさ)るには余り遅過るじゃ有ませんか」帰りの遅きは用事の為とのみ思いたるに余と一緒なるを見て扨(さて)は遊びの為なりしかと疑い初めたる者と知らる、目科は隙(すき)も有らせず「なに珈琲館を出たのは六時頃だッたがバチグノールに人殺(ひとごろし)が有たので隣室の方と共に其方(そのほう)へ廻ッて夫故(それゆえ)此通(このとお)り」と言開く、細君は顔色にて偽りならぬを悟りし乎(か)、調子を変て「おや爾(そう)」と呟けり、此短き「おや爾」には深き意味ある如く聞ゆ「おや/\、探偵を勤めて居ることを隣の方にまで知せたのですか」と云うに同じかる可(べ)し、目科は直ちに其意を汲(く)み「隣の方と一緒でも構わぬよ、探偵を勤めるが何も恥では有るまいし」と言い掛るを細君が「なに爾では有りませんよ」と鎮(しずめ)んとすれど耳に入れず「成る程世間には探偵を忌嫌(いみきら)う間違ッた人も有(あろ)うけれど一日でも此巴里(ぱり)に探偵が無かッて見るが好い悪人が跋扈(ばっこ)して巴里中の人は落々(おち/\)眠る事も出来ぬからさ、私は探偵の職業を誰に聞せても恥と思わぬ」とて喋々(ちょう/\)言張んとす、細君は斯(かゝ)る瞋(いか)りに慣たりと見え一言も口をはさまず、目科も頓(やが)て我言葉の過たるを悟りし如くがらり打解て打笑い「いや其様な事は何うでも好い、夫より先(ま)ア、二人とも空腹に堪えぬから何なりと喫(たべ)るものを」と云う、不意の食事は此職業には有りがちなれば細君は騒ぎもせず庖(くりや)の方(かた)に退きて五分間と経(へ)ぬうち早や冷肉の膳を持出で二人の前に供したれば、二人は無言(むげん)の儘忙わしく喫(た)べ初めしも、喫て先ず脾(ひ)だるさの鉾先だけ収まるや徐々(そろ/\)と話に掛り、目科は今宵の一条を洩さず細君に語り聞かす流石探偵の妻だけに細君も素人臭き聞手と違い時々不審など質問する孰(いず)れも能(よ)く炙所(きゅうしょ)に当れば余は殆ど感心し「此の聞具合では必ず多少の意見も有るだろう」と窃(ひそか)に思待(おもいま)つうちに、漸(ようや)く目科の話が終れば果せるかな細君は第一に「貴方は失念(ぬかっ)た事を仕ましたね」と云う、目科は宛(あたか)も今までの経験にて細君の意見の侮(あなど)り難きを知れる如く、此言葉に多少の重みを置き「失念(ぬかっ)た事とは何が細「現場を立去ッてから直(すぐ)に牢屋へ行くと云う事は有りませんよ目「だッて牢屋には肝腎(かんじん)の藻西太郎が居るだろうじゃ無いか細「でも貴方、藻西に逢た所で別に利益は無(なか)ッたでしょう、夫(それ)よりは何故直に藻西太郎の宅へ行き其(その)妻(さい)を尋問しませぬ」目科は成るほどゝ思いしか一語を発せず猶(な)お細君の説を聞く、細君は語を継ぎて「直に行けば猶(ま)だ藻西太郎が捕縛されて間も無い事では有るし、妻の心も落着いて居ぬ間ですから其所(そこ)を附込(つけこ)み問落せば何(ど)の様な事を口走たかも知れません、包み兼(かね)て白状するか、夫(それ)ほどまでに行かずとも貴方の眼(まなこ)で顔色ぐらい読む事が最(いと)易(やす)かッただろうと思いますよ」此口振は云う迄も無く藻西を真の罪人と思い詰ての事なれば余は椅子より飛上り「おや/\奥さん、夫(それ)では藻西太郎を本統の犯罪人と思召(おぼしめ)すのですか、ヱ貴女」細君は不意の横槍(よこやり)に少し驚きし如くなりしも、直に落着て何所(どこ)やら謙遜の様子を帯びつゝ「はい若(も)しや爾(そう)では有るまいかと私しは思います」余は是に対し熱心に藻西太郎が無罪なる旨を弁ぜんとするに細君は余に其暇を与えず、直ちに又言葉を継ぎて「孰(いず)れにしても此犯罪が其妻倉子とやら云う女の心から湧て出たには違い有ません私しは必ず爾(そう)だと思いますよ、若し犯罪が二十有るとすれば其中(そのうち)の左様さ十五までは大抵女の心から出て居ます、夫(それ)は私しの所天(おっと)に聞ても分ります、ねえ貴方」と一寸(ちょい)と目科に念を推して更に「のみならず店番の言立(いいたて)でも大概は察せられるじゃ有ませんか、店番は何と云いました倉子と云う女は大変な美人で、望みも大きく、決して藻西太郎の様な者に満足して居る者で無くて、夫で彼れを鼻の先で使い兼ないと云た様に私しは今聞取りましたが、爾(そう)ですか余「爾です細「して又藻西が家の暮しは何(なん)の様です随分困難だと云いましょう、ですから妻は自分の欲い物も買無(かわな)いし、現在金持の伯父が有ながら此様な貧苦をするのは馬鹿/″\しいと思ッたに違い有りません、既に昨年とかも藻西太郎に勧め伯父から大金を借出させようとした程では有ませんか、最早(もは)や我慢が仕切れ無く成た為としか思われません、夫(それ)を老人が跳附けて一文も貸さ無(なか)ッたゆえ自分の望みは外れて仕舞い老人が憎くなり夫かと云て急に死相(しにそう)な様子も無くあゝも達者では死だ所が自分等の最(も)う歯の抜ける頃だろう間(ま)が悪ければ自分等の方が却(かえっ)て老人に葬(とぶら)いを出して貰う仕儀(しぎ)に成るかも知れぬと斯(こう)思ッた者ですから是が段々と抗(こう)じて来て終(つい)に殺して仕舞う心にも成り間(ま)がな隙がな藻西太郎に説附(ときつ)けて到頭彼れに同意させ果(はて)は手ずから短刀を授けたかも知れません、藻西太郎も初めの中は何(どう)でしたか手を更(か)え品を変えて口説かれるうちにはツイ其気になり、夫(それ)に又商売は暇になる此儘居ては身代限り可愛い女房も食(くわ)し兼る事に成るし、貧苦の恐れと女房の嘆きに心まで暗(くらん)で仕舞い何(ど)うやら斯(こう)やら伯父を殺して其身代を取る気に成たのです藻西の外(ほか)には誰も其老人を殺して利益を得る者は一人も無いと云うたでは有りませんか、若(も)し盗坊(どろぼう)ならば知らぬ事、老人を殺した奴が何一品盗まずに立去たと云う所を見れば盗坊で有りません愈々(いよ/\)藻西に限ります藻西の外に其様な事をする者の有う筈が有ません、妻が必ず彼れに吹込み此罪を犯(おかさ)せたのです」と女の口には珍(めずらし)きほど道理を推して述べ来る、其言葉に順序も有り転末も有り、目科も是に感心せしか「成るほど」とて嘆息せり、余も感心せざるにあらねど余は何分(なにぶん)にも今まで心に集めたる彼れが無罪の廉々(かど/\)を忘れ兼れば「では何(どう)ですか、藻西太郎は伯父を殺して仕舞た後で故々(わざ/\)自分の名前を書附けて置て行く程の馬鹿者ですか」唯此一点が藻西の無罪を指示す最も明かなる証拠にして又最も強き箇条なれば是には目科の細君も必ず怯(ひる)みて閉口するならんと思いしに、細君は少しも怯(ひる)まず却(かえ)ッて余の問を怪む如くに「おや自分の名前を書附たから夫(それ)で馬鹿だと仰有るのですか、私しは馬鹿には迚(とて)も出来ぬ所だろうと思いますよ余「とは又何故です細「何故とて貴方、若し其名前を書附けずに行て仕舞ば一も二も無く自分が疑われるに極ッて居ます、疑いを避けるには大胆に自分の名前を書附ける外は有ません、夫を書附て置たればこそ現に彼の仕業で有るまいと思う人が出て来たでは有ませんか、貴方にしろ爾(そう)でしょう若(も)し何(ど)うしても自分が疑われるに極ッて居るなら其疑いを避る為には充分の度胸を出し自分の仕業とは思われぬ様な事を仕て置きましょう」此の力ある言開(いいひら)きには余も殆ど怯(ひる)まんとす、図らざりき斯(かゝ)る堂々たる大議論が女流の口より出来(いできた)らんとは
 余が怯まんとする色を見て細君は更に又力強き新論鋒(しんろんぽう)を指向(さしむけ)て「夫(それ)で無ければ第一又老人の左の手に血の附(つい)て居たのが分ら無くなッて来ます、若しも貴方の云う通り藻西太郎より外の者が老人を殺し其疑いを藻西に掛ようと思ッて血の文字を書たのなら、其者こそ文字は右の手で書くか左の手で書くかも知(しら)ぬ馬鹿ものと云わねばなりますまい、夫ほどの馬鹿ものが世に有ましょうか、老人の左の手へ血を附けて置けば誰も老人が自分で書いたとは思いません、曲者の目的は外れます、藻西太郎へ疑いを掛けようとして却(かえっ)て彼の疑いを掃い退(のけ)て遣(や)る様な者です、人を殺して後で其血で文字を書附るほど落着た曲者(くせもの)が真逆(まさか)に老人の左の手を右の手とは間違えますまい、ですから藻西の外に曲者が有るとすれば其曲者は決して老人の左の手へ血は附けません必ず何(ど)う見ても老人が自分で書たに違い無いと思われる様に右の手へ附けて置きます、所が之と事かわり、其曲者を私しの云う通り藻西自身だとすれば全く違ッて参ります何(ど)うでも左の手へ血を附(つけ)て置(おか)ねば成らぬのです、何故と仰有(おっしゃ)れば藻西ならば其文字を本統に老人が書たものと認められては大変です、自分の首が無く成ります、何(ど)うしても老人が書たで無く曲者の書たに違い無い様に見せて置ねばなりません、爾(そう)見せるには何うすれば好いのでしょう、即ち血を老人の左の手へ附けて置くに限ります、左の手に附て置けば誰も老人の仕業とは思わず、去(さ)ればとて現に藻西の名を書(かい)て有るから真逆(まさか)に藻西が自分で自分の名を書く程の馬鹿な事を仕様とは猶更(なおさら)思われず、否応(いやおう)なく疑いが外の人へ掛ッて行きます、論より証拠には貴方さえも無理に疑いを外の人へ持て行こうと成(なさ)ッて居るでは有ませんか、先(ま)ア能(よ)く考えて御覧なさい」と是だけ言て息を継ぐ、余が返事の出(いで)ぬを見、細君は少し気の毒と思いし如く「尤(もっと)も女の似而非(えせ)理屈とか云う者でしょう、素(もと)より現場も見ませんで、真逆当りは仕ませんけれど既に店番が藻西を見たと云い其上連(つれ)て居た犬は藻西の外の者へは馴染(なじま)ぬとも云たのでしょう夫(それ)や是(これ)や考えて見ると藻西と云う方が何(ど)うしても近いかと思われます、詰(つま)り藻西は何(なん)でしょう随分智慧の利(き)く男で、通例の手段では倒底助からぬと思ッたからずッと通越して此様な工夫を定めたのでしょう」細君の言葉の調子が斯(か)く大(おおい)に柔かくなるに連れ余の疑いも亦再び芽を吹き「爾(そう)すると藻西が自分で白状したのは何(ど)う云う者でしょう細「夫(それ)が即ち彼れの工夫の一部分では有ませんか余「だッて貴女、彼れは老人が何で殺されたか夫(それ)さえ知ぬ程ですもの細「知ぬ事は有ますまい、貴方がたが鎌を掛たから夫(それ)を幸いに益々知らぬ振(ふり)をするのです、此方から短銃(ぴすとる)と言た時に直様(すぐさま)はい其短銃(ぴすとる)は云々(しか/″\)と答えたのが益々彼れの手管(てくだ)ですわ、詰(つま)り彼れは丁度計略の裏を書(かい)て居るのです、其時若し彼れがいえ短銃(ぴすとる)では有ません短剣でしたと答えたなら貴方がたも之ほどまで彼れを無罪とは思わず彼れの工夫が破れて仕舞いましょう、貴方がたの見て驚く所が彼れの利口な所だと私しは思いますが」
 余は猶(な)お何とやら腑に落ぬ所あれば更に議論を進めんとするに、目科は横合(よこあい)より細君に声を掛け「これ/\、和女(そなた)は今夜何(ど)うかして居るよ、毎(いつ)もと違い余り小説じみた事を云う」と制し更に余が方(かた)に向来(むききた)りて「今夜は最(も)う置きたまえ、僕は既に眠くなッた。其代り明早朝に又君を誘うから」
 実に目科は多年経験を積みし為め事に掛れば熱心に働き通し、其代り又一(ひとた)び心を休めんと決すれば、其休むる時間丈(だ)け全く其事を忘れ尽して他の事を打楽しむ癖を生じたる如くなるも余には仲々其真似出来ず「然(さ)らば」とて夫婦に分れを告げ居間に帰りて寝て後も唯(たゞ)此事件のみ気に掛り眠らんとして眠り得ず、「あゝ藻西太郎は罪無きに相違なし」と呟き「罪なき者が何故に自ら白状したるや」と怪み、胸に此二個の疑団(ぎだん)闘い、微睡(まどろ)みもせず夜を明しぬ


 読者よ、初めて此犯罪に疑いを容(い)れたるは実に余なり、余が老人の死骸を見て其顔に苦痛の体(てい)なきと其右の手に血の痕なきを知りてより斯(かく)は疑い初めたる者なれば余は如何にしても藻西太郎の無罪なるを証拠立てねばならず、のみならず現に無罪と思う者が裁判官の過ちや其外の事情の為め人殺しの罪に落さるゝを見、知ぬ顔にて過さる可(べ)きや、余は此事件の真実の転末を知んが為には身を捨(すて)るも可なり職業を捨(すつ)るも惜からずとまでに思いたり、思い/\て夜を明し藻西太郎は確に無罪なりと思い詰(つむ)るに至りしかど又翻(ひるが)えりて目科の細君が言たる所を考え見れば、余が無罪の証拠と見認(みと)むる者は悉(こと/″\)く有罪の証拠なり細君の言葉は仮令(たと)い目科の評せし如く幾分か「小説じみ」たるに相違無しとするも道理に叶わぬ所とては少しも無し、成るほど藻西太郎は其妻にほだされて伯父を殺すの事情充分あり「之加(しか)も自ら殺せしと白状したり」愈々(いよ/\)彼れが殺せしとすれば成るほど其疑を免るゝ奇策として我名を記(しる)すの外なきなり、我名を記すも老人の右の手を以て記す可からず、唯左の手を以て記すの一方なり、余の疑いは実に粉々に打砕かれたるに同じ、余は殆ど返す可き言葉を知ず、あゝ余は竟(つい)に此詮索を廃す可きか、余の過ちを自認す可きか。
 余が殆ど思い屈したる折しも昨夜の約束を忘れずして目科は余の室に入来れり、彼れは余の如く細君の言葉には感服せざるか思(おもい)屈(くっ)する体(てい)更に無く、却(かえっ)て顔色も昨夜より晴渡れり、彼れ第一に口を開き「今日も君一緒に行くが其代り今から誡(いまし)めて置く事が有る僕が何(ど)の様な事を仕ようと決して口を出し給うな、若(も)し僕に口をきゝ度(た)いなら誰も外に人の居無い本統の差向いに成(なっ)た時を見て言給え」余は素(もと)より自ら我が智識我が経験の目科に及ばざるを知れば此誡めを不平には思わず唯(たゞ)再び此詮索に取掛るの嬉しさに一も二も無く承諾して早速に家を出(いで)しが、目科の今日の打扮(いでたち)は毎(いつ)もより遙か立派にして殊に時計其他の持物も殆ど贅沢の限りを尽し何(ど)う見ても衣服蕩楽(なりどうらく)、持物蕩楽なる金満家の主人にして若し小間物屋の店の者にでも見せたらば斯(かゝ)る紳士を得意にし度(た)しと必ず涎(よだれ)を流すならん、何故(なにゆえ)に斯(かく)も立派に出立(いでたち)しや、余は不審の思いを為し、歩みながらも「君今日は何(ど)の様な方針を取る積りか」と問しに目科は平気にて「問わずとも知れて居よう、藻西太郎の妻倉子を調(しらべ)るのさ」扨(さて)は目科も細君の議論に打負け、昨夜分るゝまで藻西を無罪と認めしに今朝は早(は)や藻西が其妻に煽起(そゝの)かされて伯父を殺せし者と認め藻西の妻を調べんと思えるなるか、斯(か)く思いて余は少し失望せしに目科は敏(さと)くも余の心を察せし如く「僕が吾が妻の意見を聞くのを君は可笑(おかし)いと思うだろうが、有名なる探偵の中(うち)には下女の意見まで問うた人が有る、今までの経験に由(よ)り僕は何(ど)の様な事件でも一度(ひとたび)は女房の意見を聞いて見る、女房は女の事で随分詰らぬ事も言い殊に其意見が何うかすると昨夜の様に小説じみて来るけれど、僕は又単に事実の方へのみ傾き過る事が有ッて僕の考えと妻の考えを折衷(せっちゅう)すると丁度好い者が出来て来る」と云う是(これ)にて見れば満更細君の意見にのみ心酔したる様にも有らねば余は稍(や)や安心し、今日中に如何ほどの事を見出すならんと夫(それ)のみを楽みて再び又口を開かず、歩み/\て遂に彼の藻西太郎が模造品の店を開けるビビエン街(まち)に到着せり、此町の多く紳士貴婦人の粧飾(そうしょく)品を鬻(ひさ)げる事は兼(かね)てより知る所なれど、心に思いを包みて見渡すときは又一入(ひとしお)立派にして孰(いず)れの窓に飾れる品も、実に善(ぜん)尽(つく)し美(び)尽(つく)し、買度(た)き心の起らぬものとては一個(ひとつ)も無し、藻西太郎の妻倉子は此上も無き衣服(なり)蕩楽とか聞きたり斯(かゝ)る町に貧く暮しては嘸(さぞ)かし欲き者のみ多かる可く爾(さ)すれば夫等(それら)の慾に誘(いざな)われ、終(つい)に貧苦に堪え得ずして所天(おっと)に悪事を勧むるにも至りし歟(か)あゝ目科の細君が言し所は余の思いしより能く当(あたれ)り藻西の無罪を証拠立んとする余の目的は全く外(はず)れんとするなる歟、余は此町の麗(うる)わしさに殆ど不平の念を起し藻西が何故身の程をも顧(かえり)みず此町を撰びたるやとまで恨み初めぬ、目科も立留りて暫(しば)し彼方此方(かなたこなた)を眺め居たるが頓(やが)て目指せる家を見出せし如く突々(つか/\)と歩去(あゆみさ)るにぞ藻西の家に入る事かと思いの外、彼は縁も由縁(ゆかり)も無き蝙蝠(こうもり)傘屋に入らんとす「君夫(それ)は門違いで無いか」と殆ど余の唇頭(くちびる)まで出(いで)たれど茲(こゝ)が目科の誡(いまし)めたる主意ならんと思い返して無言の儘(まゝ)に従い入るに、目科は此店の女主人(じょしゅじん)に向い有らゆる形の傘を出させ夫(それ)も了(いけ)ぬ是も気に叶わずとて半時間ほども素見(ひやか)したる末、終(つい)に明朝見本を届くる故其見本通り新(あらた)に作り貰う事にせんと云いて、此店を起出(たちいで)たり、余は茲(こゝ)に至り初て目科が毎(いつ)もより着飾(きかざり)たる訳を知れり、彼は斯(か)く藻西が家の近辺にて買物を素見(ひやか)しながら店の者に藻西の平生(へいぜい)の行いを聞集めんと思えるなり、身姿(みなり)の立派だけ厚く遇(もて)なさるゝ訳なれば扨(さて)も賢き男なるかな、既に蝙蝠傘屋の女主人なども目科が姿立派なると注文の最(いと)六(むず)かしきを見て是こそは大事の客と思い益々世辞沢山に持掛けながら知(しら)ず識(しら)ず目科の巧みなる言葉に載せられ藻西夫婦の平生の行いに付き己れの知れる事柄だけは惜気も無く話したり、斯(かく)て目科は幾軒と無く又別の店に入り同じ手段にて問掛るに、藻西太郎の捕縛一条は昨夜より此近辺の大問題と為(な)れる事なれば問ざるも先より語り出る程にして中に口重き者あらば実際に少しばかりの買物を為し※(「研のつくり」、第3水準1-84-17)(そ)を餌に話の端緒(いとぐち)を釣出すなど掛引万々抜目なし、六七軒八九軒凡(およ)そ十軒ほど素見(ひやか)し廻りたる末、藻西夫婦が事に付き此辺の人が知れるだけの事は残り無く聞集めたるが其大要を摘(つま)めば藻西太郎は此上も無き正直人(しょうじきじん)なり何事ありとも人を殺す如きことは決して無く必ず警察の見込違いにて捕縛せられし者ならん遠からず放免せらるゝは請合なり、彼(か)れ其妻に向いては殆ど柔(やわら)か過るほど柔かにして全く鼻の先にて使われ居し者なり、斯(かく)も妻孝行の男は此近辺に二人と見出し難し、等(とう)の事柄にして殆ど異口同音なり、唯(た)だ彼れの妻お倉に就きては人々の言葉に多少の違い有れど引括(ひきくゝ)れば先ず、お倉は美人なり、身体に似合ぬほど其衣類立派なり、去(さ)れど悪き癖とては少しも無し、身持は極めて真面目なり、亭主に向いては威権(いけん)甚(はなは)だ強過れど爾(さ)ればとて恭(うやま)わざるに非(あら)ず、人附(ひとづき)も甚(はなは)だ好ければ猥(いやら)しき振舞は絶(たえ)て無く、近辺の戯(たわむ)れ男の中(うち)には随分お倉に思いを掛け彼れ是(こ)れ言寄らんとする者あれどお倉は爾(さ)る人と噂を立られたる事も無ければ少したりとも所天(おっと)に嫉妬を起させる如き身持を為(な)したる事なし、妻として充分安心の出来る女なり、など云うだけなり。
 是だけ集め得て目科は最(いと)も満足の体(てい)にて「何(ど)うだ君、斯(こう)して集めたのが本統の事実だぜ若(も)し探偵と分る様な風をして来て見たまえ、少し藻西を悪(にく)む者は実際より倍も二倍も悪く言い又悪(にく)みも好みもせぬ者は成(な)る可(べ)く何事も云うまいとするから本統の事は到底聞き出す事が出来ぬ、さあ之(これ)から愈々(いよ/\)藻西の家に行き細君に直々(じき/\)逢うのだ」と云う、藻西の店は余等(よら)が立てる所より僅か離れしのみにして店先の硝子(がらす)に書きたる「模造品店、藻西太郎」の金文字も古びて稍(や)や黒くなれり目科は余を従え先(ま)ず其店の横手に在る露路の所に立ち暫し店の様子を伺う体なる故、余は気短かく「直(すぐ)に中へ這ろうじゃ無いか」と云う目「いや兎(と)に角細君が店へ出て来る様子を見度(た)い、夫(それ)まで先ず辛抱したまえ」とて是より凡(およ)そ二十分間ほど立たれど細君は出来(いできた)る様子なし目「是だけ待て出て来ねば此上待つにも及ぶまい、来たまえ、さア行(ゆこ)う」と云い直ちに店の前に進めば十六七なる下女一人、帳場の背後(うしろ)より立来り「何を御覧に入ましょう目「いや買物では無い、外の用事だ、内儀(ないぎ)は内か下女「はいお内です、是へお呼申しましょう」とて、早や奥に入んとするを目科は逸早(いちはや)く引留めて自ら其店に上(のぼ)り、無遠慮に奥の間に進み入る、余も何をか躊躇(ためら)う可(べ)き目科の後に一歩も遅れず引続きて歩み入れば奥の室(ま)と云えるは是れ客室(きゃくま)と居室と寝室(ねま)とを兼たる者にして彼方の隅には脂染(あかじみ)たる布を以て覆える寝台(ねだい)あり、室中何と無く薄暗し、中程には是も古びたる切(きれ)を掛し太き卓子(てえぶる)あり、之を囲める椅子の一個は脚折れて白木の板を打附けあるなど是だけにても内所向(ないしょむき)の豊ならぬは思い遣(や)らる。
 去(さ)れど是等(これら)の道具立てに不似合なる逸物(いちもつ)は其汚れたる卓子(てえぶる)に※(「馮/几」、第4水準2-3-20)(よ)り白き手に裁判所の呼出状を持ちしまゝ憂いに沈める一美人なり是ぞこれ噂に聞ける藻西太郎の妻倉子なり、倉子の容貌は真に聞きしより立優(たちまさ)りて麗(うるわ)しく、其目其鼻其姿、一点の申分無く、容貌室中に輝くかと疑われ、余は斯(かゝ)る美人が如何でか恐しき罪を計(もくろ)みて我が所天(おっと)に勧めんやと思いたり、殊に其身に纏(まと)えるは愁(うれ)いを表する黒衣にして能(よ)く今日の場合に適し又最も倉子の姿に適したり、倉子の美くしきは生れ附の容貌に在りとは云え衣類の為に一入(ひとしお)引立たる者にして色も其黒きに反映して益々白し余は全く感心し暫(しば)し見惚(みと)るゝのみなりしが、感心の薄らぐと共に却て又一種の疑いを生じたり、此女愁(うれ)いに沈めるには相違なきも真実愁いに沈みし人が衣類に斯くも注意する暇あるや、倉子が撰びに選びて最も似合しきものを着けしは殊更に其憂いを深く見せ掛る心には非ざるか、目科も内心に幾分か余と同じ疑いを起したること眼(まなこ)の光にて察せらる、倉子は余等が突然に入来るを見、驚きて飛立ちつ、涙に潤む声音にて「貴方がたは何の御用事です」と問う、目科は最(い)と厳格に「はい警察署から送られました、私(わたく)しは其筋の探偵です」と答う探偵との返事を聞き倉子は絶望せし人のごとく元の椅子に沈み込み殆ど泣声(なみだごえ)を洩さんとせしも、思直(おもいなお)してか又起上(たちあが)り、今度は充分に怒を帯びたる声鋭く「あゝ私しを捕縛するため来たのですね、さあお縛なさいお連なさい、連て行て所天(おっと)とともに牢の中へ投込んで戴きましょう、罪無き所天を殺すなら私しも一緒に殺して下さい、さあ、さあ」と詰寄する、是が真実此女の誠心(まごゝろ)ならば誰か又此女を所天に勧めて其伯父を殺させし者と思わん、唯之だけにて無罪の証拠は充分なり、流石(さすが)の目科も持余(もてあま)して見えたるが此時彼方なる寝台の下にて狗(いぬ)の怖(こわ)らしく※(「口+曹」、第3水準1-15-16)(うな)るを聞く、是なん兼(かね)て聞きたる藻西太郎の飼犬(かいいぬ)プラトとやら云えるにして今しも女主人が身を危(あやう)しと見、余等二人に噛附んとするなる可(べ)し、倉子は一声に「これ、プラト、怒るのじゃ無いよ、此お二人は恐しい方じゃ無いから」と、叱り附る、叱る心を暁(さとり)てか犬は再び寝台の下に隠れたれども、猶(な)お少しでも女主人の危きを見れば余等二人に飛附ん心と見え暗がりにて見張れる眼(まなこ)、宛(あたか)も二個(ふたつ)の星の如くに光れり、目科は倉子の言葉を機会(しお)に「ほんに吾々は恐しい人じゃ有(あり)ません、斯(こう)して来たのも捕縛など云う恐る可(べ)き目的では無いのです」是だけ聞きて倉子は少し安心の色を現すかと思いしに少しも爾(さ)ること無く、目科の言葉を聞ざりし如くに、我手に持(もて)る呼出状を一寸(ちょっ)と眺めて「今朝裁判所から此通り私しを午後の三時に出頭しろと云て来ましたが、裁判官は虫も殺さぬ私しの所天へ人殺の罪を被(き)せ、夫(それ)で未(ま)だ飽足(あきたら)ず、私しをまで何(ど)うか仕ようと云うのでしょう」目科は今までに余が見し事なきほど厳そかなる調子にて「裁判所は決して貴女の敵では有ません唯問糺(といたゞ)す丈(だけ)の事です、貴女に問えば若しも藻西太郎の罪の無い証拠が上ろうかと思う為です、私しの来たのも矢張(やはり)唯(た)だ夫(それ)だけの目的で、色々貴女に問うのです、貴女の答え一つに依り嫌疑が益々重くもなり、又全く無罪にも成りますから腹臓(ふくぞう)なく返事するのが肝腎です、さ何(ど)うか腹臓なく」と云(いわ)れて倉子は凡そ一分間が程も其青き眼(まなこ)を挙(あ)げ目科の顔を見詰るのみなりしが、漸(ようや)くにして「さアお問なさい」と云う、あゝ目科は如何なる問を設けて倉子を罟(わな)に落さんとするや、定めし昨夜藻西太郎を問し如く敵の備え無き所を見て巧みに不意の点のみを襲うならんと、余は窃(ひそ)かに堅唾(かたず)を呑みしに彼れは全く打て変り、正面より問進む目「えー、藻西太郎の伯父梅五郎(ばいごろう)老人の殺されたのは一昨夜の九時から十二時までの間ですが其間丁度藻西太郎は何所(どこ)に居ました何をして」倉子は煩悶に堪えぬ如く両の手を握り〆(し)め「是が本統に、運の尽(つき)と、云う者です」と言掛けて涙に咽(むせ)ぶ目「運の尽とは何(ど)う云う者です、所天(おっと)が何所に何をして居たか、貴女が知らぬ筈(はず)は有りますまい倉「はい」と漸く言(いわ)んとして泣声に胸(むね)塞(ふさ)がり暫し言葉も続かざりしが漸くに心を鎮め「はい所天は一昨夜外へ出まして目「外へ出て何所へ行きました倉「モントローグまで参りました、兼(かね)て同所に此店の職人が住で居まして、先日得意先から注文された飾物を其職人に誂(あつら)えて置きました所(とこ)ろ、一昨日が其出来揚(あが)りの期限ですのに、夜(よ)に入るまで届けて来ませんから、若(も)し此上遅れては注文先から断られるかも知れぬと云い夫(それ)を所天(おっと)は心配しまして九時頃から其職人の所へ催促に出掛ました尤(もっと)も私しもリセリウ街(がい)の角まで送て行ッたから確かです其所(そこ)から所天がモントローグ行きの馬車に乗る所まで私しは見て帰りました」余は傍より此返事を聞き、是ぞ正しく藻西が無罪の証拠なると安心の息を発(ほっ)と吐(つ)きたり、目科も少し調子を柔げ「爾(そう)すると其職人に問えば分りますね、十一時頃までは多分其職人と一緒に居たでしょうから」実に然り、彼(か)の老人が殺されし家の店番の証言にては藻西太郎が九時頃に老人の室(へや)に来り十二時頃まで老人と話して帰りたりとの事なれば、若(も)し藻西が十一時前後頃に其職人と一緒に居たりとの事分らば、老人の許(もと)を問いしは藻西太郎に非(あら)ずして藻西に似たる別人なること明かなれば、老人を殺せしも矢張(やはり)其別人にして藻西の無罪は明白に分り来らん、目科が念を推(お)す言葉に倉子は却(かえっ)て落胆し「さア夫(それ)が分らぬから運の尽だと申すのです目「え、え、夫が分らぬとは、又何(ど)う云う訳で倉「生憎其職人が内に居なくて所天(おっと)は逢ずに帰ッて参りました」目科も失望せしと見え急しく煙草を嚊ぐ真似して其色を隠し「成るほど夫は不運ですね、でも其家の店番か誰かゞ貴方の所天を認めたでしょう倉「夫が店番の有る様な家では無いのです。自分の留守には戸を〆(しめ)て置くほどの暮しですから」ああ読者よ、如何にも是は運の尽なり、実際には随分あり勝の事柄なれど、裁判の証拠には成難(なりがた)し、証拠と為らざるのみならで若(も)し裁判官に此事を聞せては却(かえっ)て益々疑わしと云い藻西太郎に罪のある証拠に数えん、之を思えば藻西太郎が、直(すぐ)に自ら白状したるも之が為に非ざるか、有(あり)の儘(まゝ)を言立たりとて不運に不運の重なりし事なれば信ぜらるゝ筈は無く却ッて人を殺せし上裁判官をまで欺(あざむ)く者と認められて二重の恥を晒(さら)す理(り)なれば、我身に罪は無しとは云え、孰(いず)れとも免れぬ場合、潔(いさぎ)よく伏罪し苦しみを短かくするに如(し)くなしと無念を呑(のみ)て断念(あきら)めし者ならぬか、余が斯(か)く考え廻すうちに目科は又問を発して「だが藻西は何時頃に帰て来ました倉「十二時過る頃でした目「何故其様に遅かッたでしょう倉「はい私しも少し遅過ると思いましたから問いましたが或(ある)珈琲店(かひいてん)へ寄り麦酒(ばくしゅ)を飲(のん)で居たと云いました目「帰ッた時は何(ど)の様な様子でした倉「少し不機嫌では有ましたが、夫は尤(もっと)もの次第です目「着物は何の様なのを被(き)て居ました倉「昨日捕えられた時と同一(ひとつ)の着物でした目「夫にしても彼の様子か顔附に何か変ッた所は有りませんでしたか倉「少しも有りませんでした」


 余は初めより目科の背後(うしろ)に立てる故、気を落着けて充分に倉子の顔色を眺むるを得(え)、少しの様子をも見落さじと勉(つと)めたるに、倉子が幾度も泣出さんとし殆(ほとん)ど其涙を制し兼る如き悲みの奥底に何処(どこ)と無く微(かすか)に喜びの気を包むに似たる心地せらるゝにぞ、若しもや目科夫人の言いし如く此女に罪あるに非ざるやと疑う念を起しはじめ、幾度か自ら抑えて又幾度か自ら疑い、終(つい)に目科の誡(いまし)めを打忘れて横合より口を出(いだ)せり余「ですが内儀(ないぎ)、老人の殺された夜、太郎どのが其職人の家へ行かれた留守に貴女(あなた)は何所(どこ)に居たのです」倉子は宛(あたか)も余が斯く問うを怪む如く其眼(まなこ)を余が顔に上げ来り最(いと)柔(やわら)かに「私しは此家に留守をして居ました、夫(それ)には証人も有る事です余「え、証人が倉「はい有ります、御存(ごぞんじ)の通り一昨夜は毎(いつ)もより蒸暑くて夫(それ)にリセリウ街(がい)で所天(おっと)に分れ内(うち)まで徒歩(あるい)て帰りました為(た)め大層咽(のど)が乾きまして、私しは氷を喫(たべ)ようと思いましたが一人では余り淋しい者ですから右隣の靴店(くつみせ)の内儀(ないぎ)と左隣の手袋店(てぶくろみせ)の内儀を招きました所(とこ)ろ、二人とも早速(さっそく)に参りまして十一時過までも茲(こゝ)に居ました、夫は直々(じき/\)其両女(ふたり)にお問成(といな)されば分ります、斯(こ)う云う事に成(なっ)て見ますと何気なく二人を招(まねい)たのが天の助けでゞも有たのかと思います」あゝ是れ果して何気なく招きたる者なるや、真に何気なかりしとすれば倉子の為に此上も無き好き証拠なれど心なき身が僅か氷ぐらいの為めに両隣の内儀を招くべしとも思われず、其実深き仔細ありて真逆(まさか)の時の証人にと心に計(たく)みて呼びし者に非ざるか、斯く疑いて余は目科の顔を見るに目科も同じ想いと見えちらりと余と顔を見交せたり、去(さ)れど今は目配(めくばせ)して倉子が心に疑を起さしむ可(べ)き時に非ず、目科は又真面目になり「いや内儀決して貴女を疑うのでは有ませんが唯(たゞ)吾々の心配するには若しや藻西太郎が犯罪の前に何か貴方に話した事は有る舞(ま)いかと思うのです、何か罪でも犯し相(そう)な事柄を倉「何(ど)うして其様な事が有りましょう、爾(そ)うお問なさるのは吾々夫婦を御存無いのです目「いやお待なさい、噂に聞けば此頃商売も思う様に行かず、随分困難して居たと云いますから若(もし)や夫等(それら)の話から自然彼(か)の老人の事にでも移り――倉「はい如何(いか)にも商売の暇なのは真事(まこと)ですが、幾等(いくら)商売が暇だからとて目「いえ藻西太郎も自分一身の事では無し最愛の妻も有て見れば妻に不自由をさせるのが可哀相で、夫や是(これ)から何(ど)うかして一日も早く楽に成り度(た)い財産を手に入れ度いと云う事情は有(あっ)たに違い有ますまい倉「其様な事情が有たにせよ何で伯父などを殺しましょう、所天(おっと)に罪の無い事は何所(どこ)までも私しが受合ます」目科は徐(おもむ)ろに煙草を噛ぐ真似して「藻西太郎に罪が無いとすれば彼れが白状したのは何(ど)う云う訳でしょう、真実罪を犯さぬ者が爾(そ)う易々(やす/\)と白状する筈は有りますまい」今まで如何なる問に合ても澱(よど)み無く充分の返事を与えたる倉子なるに此問には少し困りし如く忽(たちま)ち顔に紅を添え殊(こと)に其眼(まなこ)まで迷い出せり、之れ罪の有る証跡と見る可きや否(いな)、暫(しばら)くして亦(また)も涙の声と為り「余り恐ろしい疑いを受けた為め気が転倒したのかと私しは思いますが目「いや其様な筈は有りません縦(たと)い一時は気が転倒したにもせよ夫は少し経てば治(おさま)ります、藻西太郎は一夜眠た今朝に成(なっ)ても矢張り自分が犯したと言張ッて居ますから」此言葉にて察すれば目科は今朝(こんちょう)余の室を叩く前に既に再び牢屋に行き藻西太郎に逢来りしものと見ゆ、何しろ此言葉には充分の力ありて倉子の心を打砕きし者とも云う可く、他(か)れ面色を灰の如くにし「何(ど)うしたら好(よ)う御坐(ござ)いましょう所天(おっと)は本統に気が違ッて仕舞いました」と絶叫せり、あゝ藻西太郎の白状は果して気の狂いたる為なるか余は爾(そう)と思い得ず、思い得ぬのみにあらで余は益々倉子の口と其心と同(おなじ)からぬを疑い、他(か)れが悲みも他(か)れが涙も他(か)れが失望の絶叫も総(すべ)て最(いと)巧(たくみ)なる狂言には非ざるや、藻西太郎の異様なる振舞も幾何(いくら)か倉子の為めに由(よ)れるには非ざるや、倉子自ら真実の罪人を知れるには非ざるやと余は益々疑いて益々惑(まど)えり。
 目科は如何に思えるや知ざれど彼れ嚊煙草のお蔭にて何の色をも現さず、徐々(しず/\)と倉子を慰めし末「いえ此事件は余り何も彼も分ら無さ過るから詰(つま)り方々へ疑いが掛るのです、事が分れば分るだけ疑われる人も減る訳ですから此上申兼(もうしかね)たお願ながら何(ど)うか私しに此家の家捜をさせて下されますまいか」と大胆な事を言出せり、余は目科が何の目的にて屋捜せんと欲するにや更に合点行かざれど無言の儘(まゝ)控ゆるに倉子は快よく承諾し「はい爾(そう)して疑いを晴せて戴く方が私しも何れほど有難いか知れません」と云(いう)が否(いな)や其衣嚢(かくし)を掻探(かいさぐ)りて戸毎(とごと)の鍵を差出す様(さま)、心に暗き所ある人の振舞とは思われず、目科は其鍵を受取りて戸棚押入は申すに及ばず店より台所の隅までも事細かに調べしかど怪む可(べ)き所更に無く「此上捜すのは唯穴倉一つです」と云い又も倉子の顔を見るに倉子は安心の色をこそ示せ、気遣う様子更に無し、去(さ)れど目科は落胆せず、倉子に燭(しょく)を秉(と)らせて前に立たせ余を背(うしろ)に従えて、穴倉の底まで下り行くに、底の片隅に麦酒(びいる)の瓶あり少し離れて是よりも上等と思わるゝ酒類の瓶を置き、猶(な)お四辺(あたり)には様々の空瓶を堆(うずたか)きほど重ねあり、目科は外の品よりも是等(これら)の瓶に尤(もっと)も其眼を注ぎ殊に其瓶の口を仔細に検(あらた)むる様子なれば余は初て合点行けり、彼れは此家の瓶の中(うち)に若し彼(か)の曲者(くせもの)が老人の室に投捨て去りし如き青き封蝋の附きたるコロップあるや否(いな)を探究(さぐりきわ)めんと思えるなり、凡(およ)そ二十分間ほども探りて全く似寄りたるコロップの無きことを確め得たれば、彼れ余に向い「何も無い、探すだけは探したから最(も)う出よう」と云う、今度は余が最先に立ち梯子(はしご)を上り、頓(やが)て元の室(ま)に達すれば、件(くだん)のプラトが又寝台の下より出来り歯を露(むき)出して余を目掛け飛掛らんとす、余は其剣幕に驚きて一足背後(うしろ)に退下(ひきさが)らんとする程なりしが、斯(かく)と見て倉子は遽(あわたゞ)しく「プラトやこれ」と制するに犬は忽(たちま)ち鎮りて寝台の所(した)に退けり、余は漸(ようや)く安心して進みながら「随分険呑(けんのん)な犬ですね」と云う「なに爾(そう)では有(あり)ません心は極(ごく)優いですが番犬(ばんいぬ)の事ですから私し共夫婦の外は誰を見ても油断せぬ様に仕附(しつけ)て有ります、商売が商売で雇人にも気の許されぬ様な店ですから」余は成る程と思いつゝも声を柔げて「来い/\プラト」と手招するに彼れ応ずる景色(けしき)なし「駄目ですよ、今申す通りわたくしか所天(おっと)の外は誰の言う事も聞きませんから」
 読者よ是等の言葉は当前の事にして少しも怪むにも足らず又心に留むるにも足らざれども、余は此言葉に依り宛(あたか)も稲妻の光るが如く我が脳髄に新しき思案の差込み来るを覚えたり、一分の猶予も無く熱心に倉子に向い「では内儀(ないぎ)犯罪の夜に此犬は何所(どこ)に居ましたか」と打問えり。
 不意に推掛(おしかけ)たる此問に倉子の驚きたる様は実に譬(たと)うるに物も無し、余は疑いも無く他(か)れの備えの最も弱き所を衝(つ)きたり、灸所(きゅうしょ)とは斯(かゝ)るをや云うならん、倉子は今も猶お手に持てる燭台を取落さぬばかりにて「はい此犬は、此犬は、爾(そう)です何所に居ましたか、存じませんいや思い出しませんが」と綴る言葉も覚束(おぼつか)なし余「夫(それ)とも太郎殿に随(つい)て行きでもしましたか」此添(そえ)言葉に力を得倉「あゝ思い出しました、爾々(そう/\)全く所天に随て行たのです余「では馬車に乗ても矢張其後に随て行く様に仕込で有ますか、何でも太郎殿はリセリウ街(まち)から馬車に乗たと仰有(おっしゃ)ッた様でしたが」倉子は一言の返事無し、余は益々切込みて充分に問詰んとするに、何故か目科は此時邪魔を入れ「詰らぬ事を問い給うな、内儀も酷(ひど)く心を痛められる際と云い三時からは又裁判所の呼出しにも応ぜねば成らぬ事だから最(も)う少しは休息なさらねば能(よ)く有る舞(ま)い、家捜(やさがし)までして何も見出さぬから最う吾々の役目は済(すん)だじゃ無いか、好い加減にお遑(いとま)に仕様(しよう)、さア君、さア」余は実に合点行かず、折角敵の灸所を見出し今たゞの一言にて底の底まで問詰る所なるに、目科は夫を詰らぬ事と言い無理に余を遮(さえぎ)らんとす、余はむッとばかりに憤(いきどおり)しかども目科は眼にて余を叱り、二言と返させずして匆々(そこ/\)倉子に分れを告げ、余を引摺(ひきず)らぬばかりにして此家を起立(たちいで)たり。
「君は心を失ッたか」とは此家を出て第一に目科が余に向い発したる言葉なりしが、余は彼を佶(きっ)と見詰て「夫は僕の方で云う言(こと)だ、君こそ心を失ッたのだろう、僕が発見した敵の灸所は今まで詮策した中(うち)で第一等の手掛じゃ無いか、返事に窮して倉子のドギマギした様が君の目に見えなんだか、今一思いと云う所で何故無理に僕を制した、君はあの女に加担する気か、え君、夫とも犬が非常の手掛りだと云う事が猶(ま)だ君には分らぬか」鋭き言葉に目科は別に怒りもせず「夫だから前以て誡(いまし)めて置たのだ、成るほど犬に目を附けたは実に感心だ、多年此道で苦労した僕も及ばぬ程の手柄だ、吾々の拠(よ)る所は是から唯(たゞ)あの犬ばかり、夫にしても君の様に短兵急に問詰ては敵が直様(すぐさま)疑うから事が破れる、今夜にも倉子があの犬を殺して仕舞うか夫とも何所かへ隠して仕舞えば何うするか」成る程と感心して余は猶お我腕前の遙(はるか)に目科より下なるを会得したり。


 兎(と)に角(かく)も犬と云う一個(ひとつ)の捕え所を見出したれば之を本(もと)にして此後の相談を固めんものと余等二人は近辺の料理屋に入たるが二人とも朝からの奔走に随分腹も隙(す)きし事なれば肉刺、小刀(ないふ)を我(われ)劣(おとら)じと働かせながらも様々の意見を持出し彼是(かれこれ)と闘わすに、余も目科も藻西太郎を真実の罪人に非ずと云うだけ初より一致して今も猶お同じ事なり、罪人に非(あらざ)る者が何故に白状したるや是れ二人とも合点の行かぬ所なれど個(こ)は目下の所にて後廻しとする外無ければ先ず倉子の事より考うるに、倉子も彼(あ)の夜両隣の細君と共に我家に留りし事なれば実際此罪に手を下せし者にあらぬは必定(ひつじょう)なり、去ればとて犬の返事に詰りたる所と云い猶お其外の細かき様子など考合(かんがえあわ)せば余も目科も大(おおい)に疑いあり、手は自ら下さぬにせよ、目科の細君が言し如く此犯罪の発起人なるやも知れず、縦(よ)し発起人と迄に至らずとも真(まこと)の罪人を知れるやも知れず、否(いな)多分は知れるならん。
 爾(さ)すれば罪人は誰なるや此罪人がプラトを連居(つれい)たる事は店番の証(しょう)茲(こゝ)にて明白なれば何しろプラトが我主人の如く就従(つきしたが)う人なるには相違なしプラトは余等に向(むか)いても幾度か歯を露出(むきいだ)せし程なる故、容易の人には従う可(べ)しとも思われず、然(しか)らば家内同様に此家に入込てプラトを手懐得(てなずけう)る人の中(うち)と認るの外なく、凡そ斯(かゝ)る人なれば益々以て倉子が知れる筈なるに露ほども其様子を見せぬのみかは勉(つとめ)て其の人を押隠さんとする所を見れば倉子のためには我が所天(おっと)より猶お大切の人としか思われず、あゝ我が所天よりも猶お大切のひとあるや、有らば是れ何者なるぞ。
 茲まで考え来るときは倉子に密夫(みっぷ)あるぞとは何人(なんびと)にも知(しら)るゝならん、密夫にあらで誰が又倉子が身に我所天(おっと)よりも大切ならんや、唯(た)だ近辺の噂にては倉子の操(みさお)正しきは何人も疑わぬ如くなれど此辺の人情は上等社会の人情と同じからず上等の社会にては一般に道徳最(い)と堅固にして少しの廉(かど)あるも直(たゞち)に噂の種と為(な)り厳しく世間より咎めらるれど此辺にては人の妻たる者が若き男に情談口を開く位は当前の事にして見る人も之を怪(あやし)と思わねば操が操に通らぬなり、殊に又美人の操ほど当(あて)に成らぬ者は無く厳重なる貴族社会に於てすらも幾百人の目を偸(ぬす)みて不義の快楽に耽(ふけ)りながら生涯人に知(しら)れずして操堅固と褒(ほめ)らるゝ貴婦人も少なからず、物を隠すには男子も遙に及ばぬほど巧なるが凡て女の常なれば倉子も人知れず如何なる情夫を蓄(たくわ)うるや図られず、若し情夫ありとせば其情夫誰なるや、如何にして見破るべきや。
 是れ実に難中の至難なり、余は及ぶだけ工夫せし末「何うだ目科君、倉子へ見え隠れに探偵一人を附けて置ては、え君、必ず此犯罪の前に情夫と打合せて有るのだから当分其情夫が此辺へ尋ねて来る事は有るまいけれど、女と云う者は心も細く所天が牢に入られ、其筋からも時々(しば/\)異様な人が来て尋問するなどの事が有ては独(ひとり)で辛抱が出来なく成り必ず忍で其情夫に逢に行くだろうと思うが」目科は余が言葉に返事もせず只管(ひたすら)に考うるのみなりしが忽然(こつぜん)として顔を上げ「いや了(いけ)ぬ、了ぬ、俚諺(ことわざ)にも鉄の冷(さめ)ぬうちに打てと云う事が有る、余温(ほとぼり)を冷ましては何も彼も後の祭だ余「では余温の冷めぬうちに甘(うま)く見破る工夫が有るのか目「随分険呑な工夫だけれど一か八か当(あたっ)て砕けるのさ余「夫にしても何う云う工夫だ目「工夫は唯だあの犬ばかりだ、犬を利用する外無いから旨(うま)く行けば詰る所君の手際だ、犬に目を附け初めたのは君だから、夫にしても遣(やっ)て見るまで黙(だまっ)て居たまえ、今に直ぐ分る事だ余「今に直なら夫まで無言で問ずにも居ようが真に今直遣るのかえ目「左様(さよう)、裁判所から倉子に出頭を命じたのが午後三時だから倉子は二時半に家を出るだろう、家を出れば其留守はあの下女が一人だから吾々の試験す可きは其間だ余「と云て今既に二時を打たぜ目「爾だ、さア直に行う」と云い早や勘定を済せて立上れり、目科が当ッて砕けろとは如何なる工夫なるや知ざれど、余は又も無言の儘従い行く、行きて藻西の家より遠からざる所に達し、再び但(と)ある露路に潜みて店の様子を伺い居るに、幾分間か経ちし頃、倉子は店口より立出たり、先ほどの黒き衣服に猶お黒き覆面を施せしは死せし所天(おっと)の喪に服せる未亡夫人かと疑わる、目科は口の中にて「仲々食えぬ女だわえ、悲げな風をして判事に憫(あわれ)みを起させようと思ッて居る」と呟きたり、暫くするうち倉子は足早に裁判所の方(かた)へと歩み行き其姿も見えずなりしが是より猶も五分間ほど過せし後、目科は「さア時が来た」と云い余を引きて此隠場を出で一直線に藻西の店先に到るに果せるかな先刻見たる下女唯一人帳場に据(すわ)りて留守番せり、目科の姿を見て立来るを、目科は無雑作なる言葉にて「これ/\、内儀(ないぎ)を一寸(ちょっ)と呼で呉れ下「内儀(おかみ)さんは最(も)う出て仕舞いましたよ」目科は驚きたる風を示し「其様な筈は無いよお前先程来た己の顔を忘れたな下「いえ爾では有ませんが、全く内儀(おかみさん)は出て仕舞たのです、虚(うそ)と思えば奥の間へ行て御覧なさい、最う誰も居ませんから目「やれ/\、あゝ夫は困ッたなア実に困(こまっ)た、己よりも先(ま)ア内儀が嘸(さぞ)かし失望する事だろう、困たなア」と頭を掻く其様如何にも誠(まこと)しやかなり、下女は何事かと怪しむ如く、開きたる眼に目科の顔を打眺む、目科は猶も失望せし体にて「実は己が余り粗匆(そゝっか)しく聞て行たから悪かッたよ、折角内儀の言伝(ことづけ)を受(うけ)て、先の番地を忘れるとは、爾々(そう/\)お前若しあの人の番地を覚えて居やア仕無いか、何でもお前も傍で聞て居たかと思たが女「いえ私しは初めから店へ出て居たから聞(きゝ)ませんでしたが、でも何方(どなた)の番地ですか目「何方ッてそれ彼(あ)の人よ」と言掛て目科は忽(たちま)ち詰り「えゝ己の様な疎匆(そゝっ)かしい男が有うか、肝腎の名前まで忘れて仕舞ッた、えゝ何とかさんと言たッけよあの、それ何とかさんよあの、えゝ自裂(じれっ)たい口の先に転々(ころ/\)して居て出て来ない、えゝ何とかさん、何とかさん、おうそれ/\彼のプラトが大変に能く懐(なじ)んで居る人よプラトが己に噛附(かみつこ)うとした時内儀が爾(そう)云た、他人で此犬の従うのは唯何とかさんばかりですッて」下女は合点の行きし如く「あゝ分りました夫なら生田(いくた)さんでしょう、生田さんなら久しく此家の旦那と共に職人を仕て居ましたからプラトを自由に扱います」目科は真実に喜びの色を浮(うか)め「あゝ生田さん生田さん、其生田さんを忘れてさ、今度は能く覚えて行う、其生田さんの居る所は何所(どこ)とか云(いっ)たッけなア」下女は唯此返事一つが己れの女主人には命より大切なる秘密と知らず易々(やす/\)と口に出(いだ)し「生田さんならロイドレ街二十三番館に居るのです目「爾々、爾云たよロイドレ街二十三番館だと、夫を全(すっ)かり忘れて居た、難有(ありがた)い/\、お前のお影で助かッた内儀が帰ッて来れば必ずお前を褒(ほめ)るだろう」と反対の言葉を残して戸表(おもて)へと走り出たり。
 あゝ、ロイドレ街二十三番館に住む生田と云える男こそ吾々の当(とう)の敵(かたき)なり、此上は一刻も早く其館に推行(おしゆき)て生田を捕縛する外なしと余は思えど目科は「是から裁判所へ行て逮捕状を得て来ねば何事もする訳に行かぬ」と云う余「ダッて君、裁判所へ行けば倉子が既に行て居るから吾々が逮捕状を得るのを見て、生田を逃す様な工夫を廻(めぐ)らせるかも知れぬぜ、夫に又ぐず/\する間に倉子が内へ帰り下女の言葉を聞くとしても吾々の目的は破れて仕舞う目「何が何でも逮捕状が無い事には此上一歩も運動が出来ぬから」と云い、早くも通り合す馬車を呼留め、之に乗りて僅か三十分と経ぬうちに裁判所に達すれば先ず其小使を呼びて問うに判事は今正に倉子を尋問しつゝありとの事なり、目科は更に手帳の紙を破り之に数行の文字を認(したゝ)め是非とも別室にて面会したしとの意を云い入るゝに、暫くして判事は別室に入来り目科が撥摘(かいつま)みて云う報告を聞き「成る程夫は面白いが最(も)う藻西太郎が白状して仕舞たよ、全(すっ)かり白状したから外に何の様な疑いが有ても自然に消滅する訳だ」と云い取上る景色も無きを猶も目科が喋々(くしゃ/\)と説立(ときたて)て漸くの事に「然(しか)らば」との変事(へんじ)を得、生田なる者に対する逮捕状を認(したゝ)めて差出すや目科は受取るより早く、余と共に狂気の如く裁判所を走り出、待(また)せある馬車に乗り、ロイドレ街を指して馬の足の続く限り走(はしら)せたり、頓(やが)てロイドレ街に達(たっす)れば町の入口に馬車を待せ、幾度か彼の嚊煙草にて強(しい)て顔色を落着けつゝ、二十三番と記したる館を尋ねて、先ず其店番に向い「生田さんは居るか」と問う店「はいお内(うち)です、四階へ上れば直(すぐ)に分ります」と答う、目科は階段(はしごだん)に片足掛けしが忽(たちま)ち何事をか思い出せし如く又も店番の許(もと)に引返し「今日は生田に一杯振舞う積りで来たが生田は毎(いつ)も何の様な酒を呑む店「何の様な酒ですか、常に此筋向うの酒屋へは能く行きますが目「好し、彼所(あすこ)で問うたら分るだろう」と云い大足に向うの酒店(さかみせ)に馳(は)せて入る、余は薄々と其目的を察したれば同じく酒店に馳て入るに目科は給仕に向い「あの青い口を仕て有る銘酒を持て来い」と云う、給仕が心得て持来るを目科は受取るが否(いな)直(たゞ)ちに其口なるコロップを抜き其封蝋の青き所を余に示してにッこと笑み、瓶は酒の入たる儘にて幾法(いくふらん)の銀貨と共に卓子(ていぶる)の上に残し置き、コロップを衣嚢(かくし)に入れて再び二十三番館に帰り、今度は案内を請わずして四階の上に飛上る、成るほど生田の室は「飾職(かざりしょく)生田」と記(しる)したる表札にて明かなれば、直ちに入口の戸を叩くに内より「さアお這入(はい)り成(な)さい」との声聞ゆ、鍵は錠の穴に差込みしまゝなれば二人は遠慮なく戸を開きて内に入(い)る、内には窓の下なる卓子(ていぶる)に打向い、今現に金の指環に真珠を嵌(は)むる細工に掛れる、年三十二三の優(や)さ男、成るほど女にも好かれ相(そう)なる顔恰好は是れが則ち曲者生田なるべし、生田は二人の入来るを見て別に驚く様子も無く立来りて丁寧に「何の御用でお出に成りました」と問う、目科は斯(かゝ)る事に慣れし丈(だ)け、突然進みて生田の腕を捕え大喝(だいかつ)一声に「法律の名に於て其方(そのほう)を捕縛する」と叱り附る、生田は初て驚きたるも猶お度胸を失わず「御笑談(ごじょうだん)を為(な)さるな私しが何をしました」目科は肩を聳(そびやか)して「これ/\今と成て仮忘(とぼ)けても了(いけ)ないよ、其方が一昨夜梅五郎老人を殺し其家を出て行く所を確かに認めた者も有り、殊に其方が短剣の刃の欠けぬ様、其剣先に差して行て帰る時に忘れて来たコロップも持て居る、其証拠を見せて遣(やろ)うか」鋭き言葉に敵し得ず全く逃るゝ道なきに失望せし如く、蹌踉(よろめ)きて卓子(ていぶる)に仆(たお)れ掛り、唯口の中にて「私しでは有りません、私しでは有りません」と呟くのみ。
 目「其様な事は判事の前へ出た上で云うが好い、云た所で迚(とて)も採用はせられ舞(ま)い、既に其方の共謀者藻西倉子が何も彼も白状して仕舞たから」此言葉に生田は電気にでも打れし如く跳(はね)返り「え、え、あの女が、其様な事は有りません、少しもあの女の知ッた事で無いのですから」驚きの余り辷(すべ)らせたる此言葉は充分の白状に同じければ目「して見ると其方が一人で計(たく)んで一人で行ッたと云うのだな、夫だけ聞けば沢山だ」と云い目科は更に余に向いて「君、あの卓子(ていぶる)の中(うち)などを検(あらた)めたまえ必ず藻西倉子の写真や艶書(ふみ)などが入(いっ)て居るから」と云う、余は其(その)命(めい)に従わんとするに生田は痛く憤(いきどお)り拳(こぶし)を握りて目科に打て掛らんとせしかども、二人に一人の到底及ばぬを見て取りし如く唯(た)だ悔しげなる溜息を洩すのみ、果して卓子(ていぶる)其他の抽斗(ひきだし)よりは目科の推量せし通り倉子よりの艶書(ふみ)も出で且(かつ)其写真も出たる上、猶お争われぬ大(だい)の証拠と云う可きは血膏(ちあぶら)の痕を留めし最(いと)鋭き両刃(もろは)の短剣なり、殊に其形はコロップの裏の創にシックリ合えり、生田の罪は最早(もは)や秋毫(しゅうごう)の疑い無し。
 是より半時間と経ぬうちに生田は目科と余の間にはさまりて馬車に乗せられ警察本署へと引立られしが余は其道々も余り捕縛の容易なりしに呆(あき)れ「あゝ案じるより産むが易い」と呟けば目科は「先(ま)ア探偵に成て見たまえ斯う易々と捕縛されるのは余り無いから」と答えたり。
 斯(かく)て生田は直(たゞ)ちに牢屋へ入られしが、牢の空気は全く彼れの強情を挫(くじ)きし者と見え彼れ何も彼も白状したり其大要を掻摘(かいつま)めば彼れは久しく藻西太郎と共々に飾物の職人を勤めしだけ太郎の伯父なる梅五郎老人とも何時(いつ)頃よりか懇意に成りたり、此度老人を殺したる目的は全く藻西太郎を憎むの念より出しものにて彼れに人殺しの疑いを被(き)せ其筋の手を借りて亡き者とし其後にて倉子と添遂(そいとげ)ると云う黙算なれば、職人の衣類を捨て故々(わざ/\)藻西の如き商人の風に打扮(いでた)ちプラトを連れて老人の許へ問行(といゆ)きしなり、是だけにて充分藻西に疑いの掛るならんと思いたれど猶お念の上にも念を入れ、老人の死骸の手を取り、傷より出る血に染めて、宛(あたか)も老人自らが書きし如く床に血の文字を書附て立去りしとなり、是だけ語りて生田は最(いと)誇顔(ほこりがお)に「仲々能(うま)く計(たくん)だと思いましたが老人を殺せば倉子の亭主は疑いを受けて亡き者に成り其上老人の財産は倉子に転(ころが)り込(こん)で倉子は私しの妻に成ると云う趣向ですから石一個(ひとつ)で鳥二羽を殺す様な者でした、夫が全く外れて仕舞い此通り成たとは悪い事は出来ぬ者です」目科は是だけ聞き「成るほど趣向は旨(うま)いけれど仕舞際(しまいぎわ)に成て其方の心が暗み大失策を遣(やらか)したから仕方が無い、其方は自分の右の手で直に老人の手を取たから老人の左の手であの文字を書せた事に成て居る」此評を聞き生田は驚きて飛上り「何と仰有(おっしゃ)る、だッて夫が為に私しへ疑いの掛ッた訳では有ますまい目「夫が為に掛ッたのさ、左の手だから老人が自分で書たので無いのは明白で、既に曲者が書たとすれば藻西太郎が自分で自分の名を書附ける筈は無いから」生田は宛(あたか)も伯楽(はくらく)の見落(おとさ)れたる千里の馬の如く呆れて其顔を長くしつ「是は驚た、あゝ美術心が有ても駄目だ、余り旨く遣過(やりすぎ)ても無益の事だ、貴方は猶(ま)だあの老人が左得手(ひだりえて)で、筆を持つまで左の手だと云う事を御存じないと見えますな」あゝ/\扨(さて)は彼の老人左きゝにして曲者の落度と見しは却(かえっ)て其手際なりしか、目科の細君が最(いと)賢き説を立てながらも其説の当らざりしは無理に非ず、後に至りて聞糺(きゝたゞ)せしに老人は全く左利(きゝ)なりしに相違なし、左(さ)すれば余が自ら大発見大手柄と心の中にて誇りたる事柄も実は全くの間違いなり、夫を深くも正さゞりし余と目科の手落も浅しと云う可からず、探偵の事件には往々(おう/\)斯(かく)までに意外なる事多し此一事は此後余が真実探偵社会の一員と為りてよりも大(おおい)に余をして自ら省(かえりみ)る所あらしめたり、既に実(まこと)の罪人の捕まりし事なれば倉子の所天(おっと)藻西太郎は此翌朝放免せられたり、判事は放免言渡しのとき、彼れが我身に覚えも無き事を易々(やす/\)と白状して殆ど裁判を誤らしめんとするに至りし其不心得を痛く叱るに彼れ屡々(しば/\)首(こうべ)を垂れ「私しは自分より女房が可哀相です、自分で一層(そ)罪を引受け、女房を助ける積でした、はい実は一図に最(も)う女房が殺した事と思い詰めましたので、はい畢竟(ひっきょう)云えば女房が私しに貧しい暮しをさせて置くのが可愛相で夫ゆえ伯父を殺して呉れたと思いまして、はい爾とすれば其志ざしに対しても女房を懲役に遣(やっ)ても済ぬと思いまして、はい夫でも昨夜探偵吏(たんていり)のお話に曲者が犬を連れて行たと聞き若しや生田では有る舞いかと思い附き忌々(いま/\)しくて成ませんでしたが能く考えて見ると生田が其様な事をする筈は無く、矢張り女房が犬を連て行たのだと斯う思いまして其儘思い止まりました」此説明には判事も其女房孝行に苦笑いを催しつ、以後を誡(いまし)めて放免したりとなん。
 藻西太郎は此外に何事をも言立ざりしかど彼が己の女房を斯(かく)も罪人と思い詰めたる所を見れば、何か女房に疑う可き廉(かど)の有りしには相違なく、多分は倉子が一たび太郎に向い伯父を殺せと説勧(ときすゝ)めたる事ありしならん、如何に女房孝行とは云え真逆(まさか)に唯一人の伯父を殺すほどの悪心は出し得ざりし故、言葉を托して一月(ひとつき)二月(ふたつき)と延し居るうち女房は我所天(おっと)の活智(いくじ)なきを見、終(つい)に情夫の生田に吹込みたる者ならん、生田は藻西太郎と違い老人を縁も由因(ゆかり)も無き他人と思えば左(さ)まで躊躇する事も無く、殊に又之を殺せば日頃憎しと思う藻西は死し老人の身代(しんだい)は我愛する美人倉子の持参金と為りて我が掌底(たなそこ)に落(ころ)がり込む訳なれば承知したるも無理ならず。
 個は余と目科の考えにして孰(いず)れとも倉子が此罪の発起人なるに相違なけれど倉子の自由自在に湧出る涙は能く陪審員の心を柔げ倉子は関係無き者と宣告せられ生田は情を酌量し懲役終身に言渡されたり。
 藻西太郎は妻に代りて我身を捨んとまで決心したる男なれば倉子が放免せらるゝや直(たゞ)ちに引取りて元の通りに妻とせり、梅五郎老人の身代は藻西太郎の手に落たれど倉子の贅沢増長したれば永く続く可しとも思われず、此頃は其金にてトローンの近辺へ不評判なる酒店を開業し倉子は日夜酒に沈溺せる有様なれば一時美しかりし其綺倆(きりょう)も今は頽(くず)れて見る影なし、太郎も倉子が酔たる時は折々機嫌を取損ね打擲(ちょうちゃく)せらるゝ事もありと云えば二人(ににん)はそろ/\零落の谷底に堕落し行く途中なりとぞ。
(以上、後の探偵吏カシミル、ゴヲドシル記(しる)す)
(終)
(小説集『綾にしき』明治二十五年八月刊収載)
了

底本:「日本探偵小説全集1 黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集」創元推理文庫、東京創元社
   1984(昭和59)年12月21日初版
   1996(平成8)年8月2日8版
初出:「綾にしき」
   1892(明治25)年8月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:川山隆
2006年4月30日作成
2012年9月14日修正
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