去年オスカア・ワイルドが巴里の穢い宿屋で窮死した時も、その後二三ヶ月経つてから、あつちこつちで、ワイルドを見かけたといふ人がちよいちよいあつた。
伊勢は寂照寺の画僧月僊は、乞食月僊と言はれて、幾万といふ潤筆料を蓄め込んだ坊さんだが、その弟子に谷口月窓といふ男がゐた。沈黙家で石のやうに手堅い生れつきであつた。
その月窓に母親が一人あつた。この母親がある時芝居へ行くと、隣桟敷に予て知合の某といふ女が来合せてゐた。その女は大の芝居好きで、亭主に死別れてからは、俳優の顔ばかり夢に見るといふ風な女であつた。
その日も二人は夢中になつて、芝居や俳優の噂をした。翌日になつて、月窓の母親が挨拶かたがたその女を訪ねてゆくと、鼻の尖つた嫁さんが出て来て不思議さうな顔をした。
「お母さんですか、お母さんは貴女、亡くなりましてから、今日で三月あまりにもなりますよ。」
「え、お亡くなりですつて。でも、私は昨夜芝居でお目に懸りましたが……」
「まさか。」
と言つて嫁さんは相手にしなかつた。そしてどうかすると、こちらを狂人扱ひにしさうなので、月窓の母親は黙つて帰つたが、途中蹠は地に著かなかつた。
底本:「日本の名随筆 別巻64 怪談」作品社
1996(平成8)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「薄田泣菫全集 第四巻」創元社
1939(昭和14)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2006年3月20日作成
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