こんなものが出来ました、というより他に仕様が無い。ただ、読者にお断りして置きたいのは、この作品が、沙翁の「ハムレット」の註釈書でもなし、または、新解釈の書でも決してないという事である。これは、やはり作者の勝手な、創造の遊戯に過ぎないのである。人物の名前と、だいたいの環境だけを、沙翁の「ハムレット」から拝借して、一つの不幸な家庭を書いた。それ以上の、学問的、または政治的な意味は、みじんも無い。狭い、心理の実験である。
過去の或る時代に於ける、一群の青年の、典型を書いた、とは言えるかも知れない。その、始末に困る青年をめぐって、一家庭の、(厳密に言えば、二家庭の、)たった三日間の出来事を書いたのである。いちどお読みになっただけでは、見落し易い心理の経緯もあるように、思われるのだが、そんな、二度も三度も読むひまなんか無いよ、と言われると、それっきりである。おひまのある読者だけ、なるべくなら再読してみて下さい。また、ひまで困るというような読者は、此の機会に、もういちど、沙翁の「ハムレット」を読み返し、此の「新ハムレット」と比較してみると、なお、面白い発見をするかも知れない。
作者も、此の作品を書くに当り、坪内博士訳の「ハムレット」と、それから、浦口文治氏著の「新評註ハムレット」だけを、一とおり読んでみた。浦口氏の「新評註ハムレット」には、原文も全部載っているので、辞書を片手に、大骨折りで読んでみた。いろいろの新知識を得たような気もするが、いまそれを、ここでいちいち報告する必要も無い。
なお、作中第二節に、ちょっと坪内博士の訳文を、からかっているような数行があるけれども、作者は軽い気持で書いたのだから、博士のお弟子も怒ってはいけない。このたび、坪内博士訳の「ハムレット」を通読して、沙翁の「ハムレット」のような芝居は、やはり博士のように大時代な、歌舞伎調で飜訳せざるを得ないのではないかという気もしているのである。
沙翁の「ハムレット」を読むと、やはり天才の巨腕を感ずる。情熱の火柱が太いのである。登場人物の足音が大きいのである。なかなかのものだと思った。この「新ハムレット」などは、かすかな室内楽に過ぎない。
なおまた、作中第七節、朗読劇の台本は、クリスチナ・ロセチの「時と亡霊」を、作者が少しあくどく潤色してつくり上げた。ロセチの霊にも、お詫びしなければならぬ。
最後に、此の作品の形式は、やや戯曲にも似ているが、作者は、決して戯曲のつもりで書いたのではないという事を、お断りして置きたい。作者は、もとより小説家である。戯曲作法に就いては、ほとんど知るところが無い。これは、謂わば LESEDRAMA ふうの、小説だと思っていただきたい。
二月、三月、四月、五月。四箇月間かかって、やっと書き上げたわけである。読み返してみると、淋しい気もする。けれども、これ以上の作品も、いまのところ、書けそうもない。作者の力量が、これだけしか無いのだ。じたばた自己弁解をしてみたところで、はじまらぬ。
昭和十六年、初夏。
人物。
クローヂヤス。(デンマーク国王。)
ハムレット。(先王の子にして現王の甥。)
ポローニヤス。(侍従長。)
レヤチーズ。(ポローニヤスの息。)
ホレーショー。(ハムレットの学友。)
ガーツルード。(デンマーク王妃。ハムレットの母。)
オフィリヤ。(ポローニヤスの娘。)
その他。
場所。
デンマークの首府、エルシノア。
クローヂヤス。(デンマーク国王。)
ハムレット。(先王の子にして現王の甥。)
ポローニヤス。(侍従長。)
レヤチーズ。(ポローニヤスの息。)
ホレーショー。(ハムレットの学友。)
ガーツルード。(デンマーク王妃。ハムレットの母。)
オフィリヤ。(ポローニヤスの娘。)
その他。
場所。
デンマークの首府、エルシノア。
[#改ページ]
一 エルシノア王城 城内の大広間
王。王妃。ハムレット。侍従長ポローニヤス。その息レヤチーズ。他に侍者多勢。
王。「皆も疲れたろうね。御苦労でした。先王が、まことに突然、亡くなって、その涙も乾かぬうちに、わしのような者が位を継ぎ、また此の度はガーツルードと新婚の式を行い、わしとしても具合の悪い事でしたが、すべて此のデンマークの為です。皆とも充分に相談の上で、いろいろ取りきめた事ですから、地下の兄、先王も、皆の私心無き憂国の情にめんじて、わしたちを許してくれるだろうと思う。まことに此の頃のデンマークは、ノーウエーとも不仲であり、いつ戦争が起るかも知れず、王位は、一日も空けて置く事が出来なかったのです。王子ハムレットは若冠ゆえ、皆のすすめに依って、わしが王位にのぼったのですが、わしとても先王ほどの手腕は無し、徳望も無ければ、また、ごらんのとおり風采もあがらず、血をわけた実の兄弟とも思われぬくらいに不敏の弟なのですから、果して此の重責に堪え得るかどうか、外国の侮りを受けずにすむかどうか頗る不安に思って居りましたところ、かねて令徳の誉高いガーツルードどのが、一生わしの傍にいて、国の為、わしの力になってくれる事になりましたので、もはや王城の基礎も確固たり、デンマークも安泰と思います。皆も御苦労でした。先王が亡くなられてから今日まで、もう二箇月にもなりますが、わしには何もかも夢のようです。でも皆の聡明な助言に依って、どうやら大過なく、ここまでは、やって来ました。いかにも未熟の者ですから、皆も、今日以後、変らず忠勤の程を見せ、わしを安心させて下さい。ああ、忘れていた。レヤチーズが、わしに何か願いがあるとか言っていましたね。なんですか?」
レヤ。「はい。実は、フランスへ、もう一度遊学に行かせていただきたいと思っているのでございますが。」
王。「その事でしたら、かまいません。君にも此の二箇月間、ずいぶん働いてもらいました。もう、こちらは、どうやら一段落ですから、ゆっくり勉強しておいでなさい。」
レヤ。「恐れいります。」
王。「君の父にも相談した上の事でしょうね。ポローニヤス、どうですか?」
ポロ。「はい。どうにも、うるさく頼みますので、とうとう昨夜、私も根負け致しまして、それでは王さまにお願いして見よと申し聞かせた次第でございます。ヘッヘ、どうも若いものには、フランスの味が忘れかねるようでございます。」
王。「無理もない。レヤチーズ、子供にとっては、王の裁可よりも、父の許しのほうが大事です。一家の和合は、そのまま王への忠義です。父の許しがあったならば、それでよい。からだを損わぬ程度に、遊んでおいで。若い時には、遊ぶのにも張り合いがあるから、うらやましい。ハムレットは、このごろ元気が無いようですが、君もフランスへ行きたいのですか?」
ハム。「僕ですか? からかわないで下さい。僕は地獄へ行くんです。」
王。「何を、ぷんぷんしているのです。あ、そうか。君は、ウイッタンバーグの大学へ、また行きたいと言っていましたね。でも、それは怺えて下さい。わしからお願いします。君は、もうすぐ此のデンマークの王位を継がなければならぬ人です。今は国も、めんどうな時ですから、わしが仮に王位に即きましたが、此の危機が去って、人々の心も落ちつけば、わしは君に跡を継いでもらって、ゆっくり休息したいと思って居ります。それゆえ君は、いまからわしの傍にいて、少しずつ政治を見習うように心掛けなければいけません。いや、わしを助けてもらいたいのです。どうか、大学へ行くのは、あきらめて下さい。これは、父としての願いでもあるのです。君が、いなくなると、王妃だって淋しがるでしょう。君は、このごろ健康を害しているようにも見えます。」
ハム。「レヤチーズ、――」
レヤ。「はい。」
ハム。「君は、いい父を持って仕合せだね。」
王妃。「ハムレット、なんという事を、おっしゃるのです。私には、あなたが、ふてくされているようにしか思われません。そんな厭味な、気障な態度は、およしなさい。不満があるなら男らしく、はっきりおっしゃって下さい。私は、そんな言いかたは、きらいです。」
ハム。「はっきり言いましょうか。」
王。「わかっています。わしは此の機会に、君と二人きりでゆっくり話してみたい。王妃も、そんなに怒るものではありません。若い者には、若い者の正当な言いぶんがある筈です。わしにも、反省しなければならぬ事が、まだまだ、あるように思われます。ハムレット、泣かずともよい。」
王妃。「なに、そら涙ですよ。この子は、小さい時から、つくり泣きが上手だったのです。あまり、いたわらずに、うんとお叱りになって下さい。」
王。「ガーツルード、言葉をつつしみなさい。ハムレットは、あなたひとりの子ではありません。ハムレットは、デンマーク国の王子です。」
王妃。「それだから私も言うのです。ハムレットだって、もう二十三になります。いつまで、甘えているのでしょう。私は生みの母として此の子を恥ずかしく思います。ごらん下さい。きょうは王の初謁見式だというのに、この子ばかりは、わざと不吉な喪服なんかを着て、自分では悲壮のつもりで居るのでしょうが、それがどんなに私たちを苦しめる事なのか、この子は思ってもみないのです。私には、この子の考えている事くらい、なんでもわかります。この喪服だって、私たちへのいやがらせです。先王の死を、もはや忘れたのかという、当てつけのつもりなのでしょう。誰も忘れてやしません。心の中では誰だって、深く悲しんでいるのですが、いまは、その悲しみに沈んでばかりも居られません。私たちは、デンマークの国を思わなければいけません。デンマークの民を思わなければいけません。私たちには、悲しむ事さえ自由ではないのです。自分の身であって、自分のものではないのです。ハムレットには、それが、ちっともわかっていないのです。」
王。「いや、それは酷だ。そんな、追いつめるような言いかたをしては、いけません。人を無益に傷つけるだけの事です。王妃には、生みの母という安心があって、その愛情を頼みすぎて、そんな事を言うのでしょうが、若い者にとっては、陰の愛情よりも、あらわれた言葉のほうが重大なのです。わしにも、覚えがあります。言葉に拠って、自分の全部が決定されるような気がするものです。王妃も、きょうは、どうかしていますよ。ハムレットが喪服を着ていたって、少しも差しつかえ無いと思います。少年の感傷は純粋なものです。それを、わしたちの生活に無理に同化させようとするのは、罪悪です。大事にしてやらなければいけません。わしたちこそ、この少年の純粋を学ばなければいけないのかも知れません。わかるとは思っていながら、いつのまにやら、わしたちは大事なものを失っている場合もあるのです。とにかく、わしはハムレットと二人きりで、ゆっくり話してみたいと思いますから、みんなは暫く向うへ行っていて下さい。」
王妃。「そんなら、お願い致します。私も少し言いすぎたようですが、でも、あなたも義理ある仲だと思って、此の子に優しくしすぎるようです。それでは、いつまで経っても、この子は立派になりません。先王がおいでになったとしても、きょうの此の子の態度には、きっとお怒りになり、此の子をお打ちになったでしょう。」
ハム。「打ったらいいんだ。」
王妃。「また、何をおっしゃる。もっと素直におなりなさい。」
王。ハムレット。
王。「ハムレット、ここへお坐りなさい。厭なら、そのままでいい。わしも立って話しましょう。ハムレット、大きくなったね。もう、わしと脊丈が同じくらいだ。これからも、どんどん大人になるでしょう。でも、も少し太らなければいけませんね。ずいぶん痩せている。顔色も、このごろ、よくないようです。自重して下さいよ。君の将来の重大な責務を考えて下さい。きょうはここで、二人きりで、ゆっくり話してみましょう。わしは前から、二人きりになれる機会を待っていたのです。わしも、思っているところを虚心坦懐に申しますから、君も、遠慮なさらず率直に、なんでも言って下さい。どんなに愛し合っていても、口に出してそれと言わなければ、その愛が互いにわからないでいる事だって、世の中には、ままあるのです。人類は言葉の動物、という哲学者の意見も、わしには、わかるような気がします。きょうは、よく二人で話合ってみましょう。わしも此の二箇月間は、いそがしく、君と落ちついて話をする機会もなかった。全く、そのひまが無かったのです。ゆるして下さい。君のほうでもまた、なんだか、わしと顔を合せるのを避けてばかりいましたね。わしが部屋へはいると、君は、いつでもぷいと部屋から出て行きます。わしは、その度毎に、どんなに淋しかったか。ハムレット! 顔を挙げなさい。そうして、わしの問いに、はっきり、まじめに答えて下さい。わしは、君に聞きたい事がある。君は、わしを、きらいなのですか? わしは、いまでは君の父です。君は、わしのような父を軽蔑しているのですか? 憎んでいるのですか? さ、はっきりと答えて下さい。一言でいい。聞かせて下さい。」
ハム。「A little more than kin, and less than kind.」
王。「なんだって? よく聞きとれなかった。ふざけては、いけません。わしは、まじめに尋ねているのです。語呂合せのような、しゃれた答えかたはしないで下さい。人生は、芝居ではないのです。」
ハム。「はっきり言っている筈です。叔父さん! あなたは、いい叔父さんだったけど、――」
王。「いやな父だというのですね?」
ハム。「実感は、いつわれませんからね。」
王。「いや有難う。よく言ってくれました。そのように、いつでも、はっきり言ってくれるといいのです。真実の言葉に対しては、わしは、決して怒りません。実は、わしも、君とそっくりな実感を持っているのです。何も君、そんなに顔色を変えて、わしを睨む事は無いじゃないか。君は少し表情が大袈裟ですね。わかい頃は誰しもそうなんだが、君は、自分ではずいぶん手ひどい事を他人に言っていながら、自分が何か一言でも他人から言われると飛び上って騒ぎたてる。君が他人から言われて手痛いように、他人だって君にずけずけ言われて、どんなに手痛いか、君はそんな事は思ってもみないのですからね。」
ハム。「そんな、決してそんな、――ばからしい。僕はいつでも、せっぱつまって、くるしまぎれに言ってるのです。ずけずけなんて言った覚えは、ありません。」
王。「だから、それが君だけでは無いと言うのです。わしたちだって、いつでも、せっぱつまって言っているのです。精一ぱいで生きているのです。わしたちには、何か力の余裕と自信が満ちているように君たちには見えるのかも知れないが、同じ事です。君たちと、ほとんど同じ事なのです。一日を息災に暮し得ては、ほっとして神にお礼を申している有様なのです。ことにも、わしはハムレット王家の血を受けて生れて来た男です。君もご存じのように、ハムレット王家の血の中には、優柔不断な、弱い気質が流れて居ります。先王も、わしも、幼い時から泣き虫でした。わしたち二人が庭で遊んでいるのを他国の使臣などが見て、女の子と間違ったものです。二人そろって病弱でした。侍医も、二人の完全な成長を疑っていたようでした。けれども先王は、その後の修養に依って、あのように立派な賢王になられました。宿命を、意志でもって変革する事が出来ると、わしは今では信じて居ります。先王が、そのよいお手本です。わしは今、懸命に努力しています。何とかして、此のデンマークの為に、強い支柱になってやりたいと思っています。本当に、精一ぱいなのです。けれども、いま、わしを一ばん苦しめているものは、ハムレット、ご存じですか、君です。君は、さっき、実感はあらそわれないとか言いましたが、わしも、そのとおり、君を我が子と思えないのです。もっと、はっきり言いましょう。君は可愛い甥でした。わしは君を、利巧な甥としてしんから愛して来ました。君だって、先王がおいでの頃は、この山羊のおじさんに、なついていました。わしの顔が山羊に似ているのを、一ばんさきに見つけたのは、わしの可愛い甥でした。叔父さんも、よろこんで山羊のおじさんになっていました。あの頃が、なつかしいね。いまでは、わしと君は、親子です。そうして心は、千里も万里も離れました。むかしの二人の愛情が、そのまま憎悪に変ってしまった。わしたちが親子になったのが、不仕合せのもとでした。でも、これは、このままにしては置けません。ハムレット、わしには一つお願いがあります。あざむいて下さい。せめて臣下の見ている前だけでも、君の実感をあざむいて下さい。わしと仲の良い振りをしていて下さい。いやな事でしょう。くるしい事です。でも、その他に方法がありません。王家の不和は、臣下の信頼を失い、民の心を暗くし、ついには外国に侮られます。さっき、王妃も言いましたが、わしたちの場合は、自分のからだであって、自分のものではないのです。すべて、此のデンマークの為に、父祖の土の為に、自分の感情は捨てなければなりません。此のデンマークの土も、海も、民も、やがては君の掌に渡されるのです。わしたちは、いま協力しなければいけません。わしを愛してくれとは申しません。わしだって君を、心の底から我が子と呼んで抱きしめる程の愛情は、打ち明けたところ、どうしても感ぜられない状態なのですから、君にだけ、無理に愛せよ等とは言えません。ただ、人の見ている前だけでいいのです。それがお互いのくるしい義務です。天意だと思います。これには従わなければいけません。愛への潔癖よりも、義務への忍従のほうが、神の悦び賞するところだと信じます。また、はじめは身振りだけの愛の挨拶であっても、次第に、そこから本当の愛が滲んで湧いて来る事だってあると思います。」
ハム。「わかりました。それくらいの事は、僕にだって、わかっています。僕は、めんどうくさいんです。僕を、も少し遊ばせて置いて下さい。叔父さん、僕から一つお願いします。僕を、また、ウイッタンバーグの大学へ行かせて下さい。」
王。「二人だけの時は、叔父と呼んでも一向かまいませんが、王妃や臣下のいる前では、必ず父と呼ぶことを約束しなければなりません。こんな、つまらぬ事を、とがめだてするのは、わしは、つらくて恥ずかしいのですが、そんな些細の形式が、デンマーク国の運命にさえ影響します。わしは、此の事を、さっきから君にたのんでいるのです。」
ハム。「そうですか。どうも。」
王。「君は、どうしてそうなんでしょう。わしが、ちょっとでも、むきになって何か言うと、すぐ、ぷんとして、そんな軽薄な返事をして、わしの言葉をはぐらかしてしまいます。」
ハム。「叔父さん、いや、王こそ、僕のお願いを、はぐらかします。僕は、ウイッタンバーグへ行きたいんです。それだけなんです。」
王。「本当ですか? わしは、それを嘘だと思っています。だから、聞えぬ振りをしようと思っていたのです。大学へ、また行きたいというのは、君の本心ではありません。それは、口実にすぎません。君は、そんな事を言って、ただわしに反抗してみているだけなのです。わしだって知っています。若いころの驕慢の翼は、ただ意味も無くはばたいてみたいものです。やたらに、もがきたいのです。わしはそれを動物的な本能だと思っています。その動物的な本能に、さまざま理想や正義の理窟を結びつけて、呻いているのです。わしは断言できる。君は、よし先王が生きておいでになっても、きっと、いまごろは先王に反抗している。そうして、先王を軽蔑し、憎み、わからずやだと陰口をきき、先王を手こずらせているでしょう。そんな年ごろなのです。君の反抗は肉体的なものです。精神的なものではありません。いま君は、ウイッタンバーグへ行っても、その結果が、わしには、眼に見えるようです。君は大学の友人たちから英雄のように迎えられるでしょう。旧弊な家風に反抗し、頑迷冷酷な義父と戦い、自由を求めて再び大学へ帰って来た、真実の友、正義潔白の王子として接吻、乾盃の雨を浴びるでしょう。でも、そのような異様の感激は、なんであろう。わしは、それを生理的感傷と呼びたいのです。犬が芝生に半狂乱でからだをこすりつけている有様と、よく似ていると思います。少し言いすぎました。わしは、その若い感激を、全部否定しようとは思いません。それは神から与えられた一つの時期です。必ずとおらなければならぬ火の海です。けれども人は一日も早く、そこから這いあがらなければいけません。当りまえの事です。充分に狂い、焦げつき、そうして一刻も早く目ざめる。それが最上の道です。わしだって、君も知っているように決して聡明な人間ではありませんでした。いや、実に劣った馬鹿でした。いまでも、わしは、はっきり目ざめているとは言えません。けれども、わしは、君にだけは失敗させたくないと思っています。君は学友たちの、その場かぎりの喝采の本質を、調べてみた事がありますか。あれは、ふしだらの先輩を得たという安堵です。お互いに悪徳と冒険を誇り合い、やがて薄汚い無能の老いぼれに墜落させ合うばかりです。わしは、わしの愚かな経験から君に言い聞かせているのです。わしは、永いあいだ放埒な大学生々活をして来ました。そうして、いまに残っているものは何でしょう。何もありません。ただ、いやらしい思い出です。呻くばかりの慚愧です。惰性の官能です。わしは、その悪習慣をもてあましました。いまだって、なおその処理にくるしんで居ります。レヤチーズの場合は、ちがいます。あれには、出世という希望があります。出世という希望のあるうちは、人はデカダンスに落ちいる事はありません。君には、その希望がありません。落ちてみたい情熱だけです。君は既に三箇年間、大学の生活をして来ました。もう充分なのです。再び昔の学友たちと、あの熱狂を繰り返したら、こんどは取りかえしのつかぬ事になるかも知れません。少年の頃の不名誉の傷は、皆の大笑いのうちに容易になおりますが、二十三歳の一個の男子の失態の傷は、なまぐさく、なかなか拭き取り難いものです。自重して下さい。大学生たちは、無責任な強烈な言葉で、君をそそのかすだけです。わしには、よくわかっています。さっき臣下の前では、わしは、他の理由で君の大学行きを止めましたが、いや、たしかに、あの時申した事も重要な理由でしたが、それよりも、わしには、君のいまの驕慢の翼が心配だったのです。その翼の情熱の行方が心配だったのです。さっき臣下の前で申した事も、君には心掛けて置いてもらいたい、すなわち、わしの傍にいて実際の政治を見習うようにしてもらいたい、けれども、そんな政治上の思惑の他に、わしは君の父として、いや、愚かな先輩の義務として、君の冒険に忠告したかったのです。わしは君に、まことの父としての愛情が実感せられないとも言いましたが、けれども人間の義務感は、また別のものです。わしは、君の役に立ちたい。わしの愚かな経験から、やっと得た結論を、君に教えて、君を守りたいと思っているのです。君を立派に育てたいと念じているのです。それを疑っては、いけません。君は、デンマーク国の王子です。二無き大事な身の上です。もっと自覚を深めて下さい。レヤチーズなどと一緒にして考えてはいけません。レヤチーズは、君の一臣下に過ぎません。フランスへ行くのも、将来その身に箔をつけたい為です。だから、あの抜け目の無い、ポローニヤスだって、ゆるしたのです。君には、そんな必要がありません。どうか、ウイッタンバーグへ行くのは、怺えて下さい。これは、もうお願いではありません。命令です。わしには、君を立派な王に育て上げる義務があります。この王城にとどまり、間もなく佳い姫を迎える事にしようではないか、ハムレット。」
ハム。「僕は何も、レヤチーズの真似をしようとは思っていません。なんでもないんです。僕は、ただ、――」
王。「よし、よし、わかっています。昔の学友たちと逢いたくなったのでしょう。わしにも打ち明けられぬ事が出来たのでしょう。そんならウイッタンバーグまで行く必要は、いよいよありません。ホレーショーを、わしが呼んで置きました。」
ハム。「ホレーショーを!」
王。「うれしそうですね。あれは、君の一ばんの親友でしたね。わしも、あれの誠実な性格を高く評価して居ります。もう、ウイッタンバーグを出発した筈です。」
ハム。「ありがとう。」
王。「それでは握手しましょう。話合ってみると、なんでもない。これから、だんだん仲良くなるでしょう。どうも、きょうは、君にも失礼な事を言いましたが、悪く思わないで下さい。饗宴の合図の大砲が鳴っています。皆も待ちかねている事でしょう。一緒にまいりましょう。」
ハム。「あの、僕は、も少しここで、ひとりで考えていたいんです。どうぞ、おさきに。」
ハムレットひとり。
ハム。「わあ、退屈した。くどくどと同じ事ばかり言っていやがる。このごろ急に、もっともらしい顔になって、神妙な事を言っているが、何を言ったって駄目さ。自己弁解ばかりじゃないか。もとをただせば、山羊のおじさんさ。お酒を飲んで酔っぱらって、しょっちゅうお父さんに叱られてばかりいたじゃないか。僕をそそのかして、お城の外の女のところへ遊びに連れていったのも、あの山羊のおじさんじゃないか。あそこの女は叔父さんの事を、豚のおばけだと言っていたんだ。山羊なら、まだしも上品な名前だ。がらでないんだ。がらでないんだ。可哀そうなくらいだ。資格がないのさ。王さまの資格がないんだ。山羊の王さまなんて、僕には滑稽で仕方が無い。でも、叔父さんは、油断がならん。見抜いていやがった。僕が本当は、ウイッタンバーグなんかに行く気が無いという事を知っていやがった。油断がならん。蛇の路は、へびか。ああ、ホレーショーに逢いたい。誰でもいい。昔の友人に逢いたい。聞いてもらいたい事があるんだ。相談したい事があるのだ! ホレーショーを呼んでくれたとは、山羊のおじさん大出来だ。道楽した者には、また、へんな勘のよさがある。いったい山羊め、どこまで知っているものかな? ああ、僕も堕落した。堕落しちゃった。お父さんが、なくなってからは、僕の生活も滅茶滅茶だ。お母さんは僕よりも、山羊のおじさんのほうに味方して、すっかり他人になってしまったし、僕は狂ってしまったんだ。僕は誇りの高い男だ。僕は自分の、このごろの恥知らずの行為を思えば、たまらない。僕は、いまでは誰の悪口も言えないような男になってしまった。卑劣だ。誰に逢っても、おどおどする。ああ、どうすればいいんだ。ホレーショー。父は死に、母は奪われ、おまけにあの山羊のおばけが、いやにもったいぶって僕にお説教ばかりする。いやらしい。きたならしい。ああ、でも、それよりも、僕には、もっと苦しい焼ける思いのものがあるのだ。いや、何もかもだ。みんな苦しい。いろんな事が此の二箇月間、ごちゃまぜになって僕を襲った。くるしい事が、こんなに一緒に次から次と起るものだとは知らなかった。苦しみが苦しみを生み、悲しみが悲しみを生み、溜息が溜息をふやす。自殺。のがれる法は、それだけだ。」
二 ポローニヤス邸の一室
レヤチーズ。オフィリヤ。
レヤ。「荷作りくらいは、おまえがしてくれたっていいじゃないか。ああ、いそがしい。船は、もう帆に風をはらんで待っているのだ。おい、その哲学小辞典を持って来ておくれ。これを忘れちゃ一大事だ。フランスの貴婦人たちは、哲学めいた言葉がお好きなんだ。おい、このトランクの中に香水をちょっと振り撒いておくれ。紳士の高尚な心構えだ。よし、これで荷作りが出来た。さあ、出発だ。オフィリヤ、留守中はお父さんのお世話を、よくたのんだぞ。何を、ぼんやりしているのさ。此の頃なんだか眠たそうな顔ばかりしているようだが、思春期は、眠いものと見えるね。あたしにも苦しい事があるのよと思う宵にもぐうぐうと寝るという小唄があるけど、そっくりお前みたいだ。あんまり居眠りばかりしてないで、たまにはフランスの兄さんに、音信をしろよ。」
オフ。「すまいとばし思うて?」
レヤ。「なんだい、それあ。へんな言葉だ。いやになるね。」
オフ。「だって、坪内さまが、――」
レヤ。「ああ、そうか。坪内さんも、東洋一の大学者だが、少し言葉に凝り過ぎる。すまいとばし思うて? とは、ひどいなあ。媚びてるよ。いやいや、坪内さんのせいだけじゃない。お前自身が、このごろ少しいやらしくなっているのだ。気をつけなさい。兄さんには、なんでもわかる。口紅を、そんなに赤く塗ったりして、げびてるじゃないか。不潔だ。なんだい、いやに、なまめきやがって。」
オフ。「ごめんなさい。」
レヤ。「ちぇっ! すぐ泣きやがる。兄さんには、なんでも、全部わかっているのだぞ。いままで、わざと知らぬ振りしていたのだが、それでも、遠まわしにそれとなくお前の反省をうながして来た筈なのに、お前は、てんで気にもとめない。のぼせあがっているんだから仕様が無い。僕は、なるべくならば、こんな、くだらない事には口を出したくなかったんだ。けがらわしい。でも、きょうは、どうにも僕の留守の間の事が心配になって、つい言い出してしまったのだが、こうなれば、いっそ全部お前に言って置いたほうがよいかも知れない。いいか、あの人の事は、あきらめろ。馬鹿な事だ。わかり切った事だ。あの人が、どんな身分の方か、それを考えたら、わかる事だ。出来ない相談だよ。断々乎として僕は反対だ。いま、はっきり言って置く。お前のたった一人の兄として、また、なくなられたお母さんの身代りとして、僕は、断然不承知だ。お父さんは、のんきだからまだ御存じないようだが、もしお父さんに知られたら、どんな事になるか。お父さんは責任上、いまの重職を辞さなければならぬ。僕の前途も、まっくらやみだ。お前は、てて無し子を抱えて乞食にでもなるさ。いいか、あの人に、こう言ってくれ、レヤチーズの妹を、なぐさみものにしたならば、どいつこいつの容赦は無い、どのようなお身分の方であっても生かして置けぬと、レヤチーズが鬼神に誓って言っていました、とそう伝えてくれ。」
オフ。「兄さん! そんなひどい事を、おっしゃってはいけません。あの方は、――」
レヤ。「馬鹿野郎。まだそんな寝言を言っていやがる。薄汚い。それでは、もっとはっきり言ってあげる。僕の反対するのは、何もあの人のお身分のせいばかりではないのだ。僕は、あの人を、きらいなのだ。大きらいだ。あの人は、ニヒリストだ。道楽者だ。僕は小さい時から、あの人の遊び相手を勤めて来たから、よく知っている。あの人は、とても利巧だった。ませていた。なんにでも直ぐに上達した。弓、剣術、乗馬、それに詩やら、劇やら、僕には不思議でならぬくらいによく出来た。けれども少しも熱が無い。一とおり上達すると、すぐにやめてしまうのだ。あきっぽいのだ。僕には、あんな性格の人は、いやだ。他人の心の裏を覗くのが素早くて、自分ひとり心得顔してにやにやしている。いやな人だよ。僕たちの懸命の努力を笑っているのだ。あんなのを軽薄才士というのだ。いやに様子ぶっていやがる。その癖、王さまや王妃さまに何か言われると大勢の臣下の前もはばからず、めそめそ泣き出す。女の腐ったみたいな奴だ。オフィリヤ、お前は何も知らない。けれども、僕は知っている。あの人は、全然たのみにならぬ人だ。男は、此のデンマークに、森の木の葉の数よりも多く居るのだ。兄さんは、その中でも一ばん強い、一ばん優しい、一ばん誠実な、そして誰よりも綺麗な顔の青年を、お前の為に見つけてあげる。ね、兄さんを信じておくれ。お前は今まで、兄さんの言う事なら何でも信じてくれたじゃないか。そうして兄さんは、お前を一度も、だました事は無かったね? そうだろう? よし、わかったね? お願いだから、あの人の事は、もうきょう限り、あきらめろ。こんど、あの人が何かお前に、うるさく言ったら、レヤチーズが生かして置けぬと怒っていました、と知らせてやれ。あの人は意気地が無いから、蒼くなって震え上るに相違ない。わかったね? もし万一、まあ、そんな事もあるまいけれど、お前が僕の留守中に、何か恥知らずの無分別でも起したなら、兄さんは、お前たち二人を、本当にそのままでは置かぬぞ。怒ったら、誰よりもこわい兄さんだという事を、お前は知っているね? では、さあ、笑って別れよう。兄さんは、本当は、お前を信頼しているのだよ。」
オフ。「さようなら。兄さんもお元気で。」
レヤ。「ありがとう。留守中は、よろしく頼むよ。なんだか心配だな。そうだ、一つ、神さまの前で兄さんに誓言してくれ。どうも、気がかりだ。」
オフ。「兄さん、まだお疑いになるの?」
レヤ。「いや、そんなわけじゃないけど。じゃ、まあ、いいや。大丈夫だね? 安心していいね? 僕は、こんな問題には、あまり、しつこく口出ししたくないんだ。兄として、みっともない事だからね。」
ポローニヤス。レヤチーズ。オフィリヤ。
ポロ。「なんだ、まだこんなところにいたのか。さっき、いとま乞いに来たから、もうとっくに出発したものとばかり思っていた。さあ、さあ出発。おっと待て、待て。わかれるに当って、もう一度、遊学の心得を申し聞かせよう。」
レヤ。「ああ、それは、すでに三度、いや、たしかに四回うかがいましたけど。」
ポロ。「何度だっていい。十度くりかえしても不足でない。いいか、まず第一に、学校の成績を気にかけるな。学友が五十人あったら、その中で四十番くらいの成績が最もよろしい。間違っても、一番になろうなどと思うな。ポローニヤスの子供なら、そんなに頭のいい筈がない。自分の力の限度を知り、あきらめて、謙譲に学ぶ事。これが第一。つぎには、落第せぬ事。カンニングしても、かまわないから、落第だけは、せぬ事。落第は、一生お前の傷になります。としとって、お前が然るべき重職に就いた時、人はお前の昔のカンニングは忘れても、落第の事は忘れず、何かと目まぜ袖引き、うしろ指さして笑います。学校は、もともと落第させないように出来ているものです。それを落第するのは、必ず学生のほうから、無理に好んで志願する結果なのです。感傷だね。教師に対する反抗だね。見栄だね。くだらない正義感だね。かえって落第を名誉のように思って両親を泣かせている学生もあるが、あれは、としとって出世しかけた時に後悔します。学生の頃は、カンニングは最大の不名誉、落第こそは英雄の仕業と信じているものだが、実社会に出ると、それは逆だった事に気がつきます。カンニングは不名誉に非ず、落第こそは敗北の基と心掛ける事。なあに、学校を出て、後でその頃の学友と思い出話をしてごらん。たいていカンニングしているものだよ。そうしてそれをお互いに告白しても、肩を叩き合って大笑いして、それっきりです。後々の傷にはなりません。けれども落第は、ちがいますよ。それを告白しても、人はそんなに無邪気に笑って聞きのがしては、くれません。お前は、どこやら、軽蔑されてしまいます。出世のさまたげ、卑屈の基。人生は、学生々活にだけあると思うと、とんだ間違い。よくよく気をつけて、抜け目なくやっておくれ。ポローニヤスの子じゃないか。つぎに、学友の選びかたに就いて。これもまた重大です。一学年上の学生を、必ずひとり、友人にして置かなければならぬ。試験の要領を聞くためだ。試験官の採点の癖を教えてもらえる。さらに、もうひとり、同学年の秀才と必ず親交を結ばなければならぬ。ノオトを貸してもらい、また試験の時には、お前の座席のすぐ隣りに坐ってもらうためであります。学友は、その二人だけで充分です。不要の交友は、不要の出費。さて、次は、金銭に就いて。これは、とりわけ注意を要する。金銭の貸借、一切、まかりならん。借りる事は、もとより不埒、貸す事もならん。餓死するとも借金はするな。世の中は、人を餓死させないように出来ています。うき世の人は、娘を嫁にやった事は忘れても、一両を他人に貸してやった事は忘れません。一両を十両にして返されても、やはり自分の貸してやった一両の事だけは忘れません。これまた永く出世のさまたげ。大望を抱く男は、一厘の借金もせぬものです。貸す事もならん。お前から借りた男は、必ずお前の悪口を言うだろう。自分で借りて肩身が狭く、お前をけむったいものだから、必ずどこかで、お前の陰口をたたきます。すなわち、やがて不和の基。お互いの友情に傷つくような事があっては残念ですから、わざとお貸し致しません、とはっきり言って相手の申し込みを断われるくらいの男でなければ、将来の大成は、まずむずかしいね。よいか? 金銭の取りあつかいには気をつけるのですよ。借りても駄目。貸しても駄目。つぎに飲酒。適度に行え。けれども必ず、ひとりで飲むな。ひとりの飲酒は妄想の発端、気鬱の拍車。飲めども飲めども気の晴れるものではない。一週一回、学友と飲め。それも、こちらから誘うのは、まずい。向うから誘われ、渋々応じるように心掛けるのが利巧者だ。意気込んで応じるのは、馬鹿のあわて者です。飲酒の作法は、むずかしい。泥酔して、へどを吐くは禁物。すべての人に侮られる。大声でわめいて誰かれの差別なく喧嘩口論を吹っ掛けるのも、人に敬遠されるばかりで、何一ついい事が無い。なるべくなら末席に坐り、周囲の議論を、熱心に拝聴し、いちいち深く首肯している姿こそ最も望ましいのだが、つい酒を過した時には、それもむずかしくなる。その時には、突然立ち上って、のども破れよとばかり、大学の歌を歌え。歌い終ったら、にこにこ笑って、また酒を飲むべし。相手から、あまりしつこく口論を吹っかけられた場合には、屹っとなって相手の顔を見つめ、やがて静かに、君も淋しい男だね、とこう言え。いかな論客でも、ぐにゃぐにゃになる。けれども、なるべくならば笑って柳に風と受け流すが上乗。宴が甚だ乱れかけて来たならば、躊躇せず、そっと立って宿へ帰るという癖をつけなさい。何かいい事があるかと、いつまでも宴席に愚図愚図とどまっているような決断の乏しい男では、立身出世の望みが全くないね。帰る時には、たしかな学友を選んでその者に、充分の会費を手渡す事を忘れるな。三両の会費であったら、五両。五両の会費であったら十両、置いてさっと引き上げるのが、いい男です。人を傷つけず、またお前も傷つかず、そうしてお前の評判は自然と高くなるだろう。ああ、それから飲酒に於いて最も注意を要する事が、もう一つあります。それは、酒の席に於いては、いかなる約束もせぬ事。これは、よくよく気をつけぬと、とんだ事になる。飲酒は感激を呼び、気宇も高大になる。いきおい、自分の力の限度以上の事を、うかと引き受け、酔いが醒めて蒼くなって後悔しても、もう及ばぬ。これは、破滅の第一歩。酔って約束をしてはならぬ。つぎには、女。これもまた、やむを得ない。ただ、あの、自惚れだけは警戒しなさい。お前は、ポローニヤスの子だ。父と同様に、女に惚れられる柄でない。お前は、小さい時から大鼾きをかく子であった事を忘れてはいけない。あのような大鼾きでは、女房以外の女なら必ず閉口します。女の誘惑に逢った時、お前は、きっとあの大鼾きを思い出す事にしなさい。いいか? フランスできらわれても、デンマークには、お前でなければいけないという綺麗な娘もいるんだから、そこはお父さんにまかせて、向うでは、あまり自惚れないほうがよい。若い時の女遊びは、女を買うのではなく、自分の男を見せびらかしに行くんだから、自惚れこそは最大の敵と思っていなさい。さて、次は、――」
レヤ。「賭博です。五両だけ損して笑って帰る事です。儲けては、いけませんのです。」
ポロ。「その次は、――」
レヤ。「服装の事です。いいシャツを着て、目立たぬ上衣を着るのです。」
ポロ。「その次は、――」
レヤ。「宿のおばさんに手土産を忘れぬ事です。あまり親しくしてもいけないのです。」
ポロ。「その次は、――」
レヤ。「日記をつける事と、固パンを買って置く事と、鼻毛を時々はさむ事と、ああ、もう船が出ます。お父さん、お達者で。むこうに着いたら、ゆっくりお便りを差し上げます。オフィリヤ、さようなら、さっき兄さんの言った事を忘れちゃいかんよ。」
ポロ。「あ、もう行ってしまった。なんて素早い奴だ。でも、まあ、あれくらい言って置いたらいいだろう。送金の限度に就いて言うのを忘れたが、あ、散策の必要も言い忘れたが、まあ、また後で手紙で言ってやる事にしよう。おや、オフィリヤ、顔色がよくないよ。兄さんが何かお前に無理な事を言ったんだね。わかっていますよ。お前にお小使い銭をねだったのでしょう? お父さんから貰うだけでは不足だから、これからも毎月こっそり何程かずつ送るようにお前をおどかして命令したんだ。いや、それに違いない。わるい奴さ。」
オフ。「いいえ、お父さんちがいます。兄さんは、そんな、つまらないお方じゃないわ。大丈夫よ。いまのような、こまかい御注意などなさらなくても、兄さんは、みんな心得ていらっしゃるのに。」
ポロ。「それあ、そうさ。当り前の事だ。二十三にもなって、あれくらいの事を心得ていないで、どうする。同じ年齢でも、ハムレットさまなどに較べると三倍も大人だ。レヤチーズは、此の親爺よりも偉くなる子です。でも、あんなにやかましく、こまごま言ってやるのは、わしの、深く考えた上での計略なんだ。あの子だって、うるさいとは思っていながら、自分に何かとやかましく言ってくれる者が在るという思いは、また、あれにとって生きて行く張り合いになるのです。あれの行末を、ずいぶん心配している者が、ここに一人いるという事を、あれに知ってもらったら、わしはそれで満足なのだ。いろいろ、うるさい注意も与えてやりましたが、なに、みな出鱈目ですよ。どうだっていい事ばかりです。レヤチーズには、レヤチーズの生活流儀があるでしょう。時代も、かわっているでしょう。レヤチーズは、自由にやって行っていいのです。ただ一つ、わしが心配して気をもんでいるのだという事実だけを、知ってもらえたらいいのです。それを覚えている限り、あれは決して堕落しません。わしは、なくなったお母さんと二人分、気をもんでいるのだ。それを、あの子に知ってもらいたかったのです。あの子は、それさえ覚えていたら、それを覚えている限りは、ああ、わしは、同じ事ばかり言っている。老いの繰り言という奴だ。わしも、いつの間にか、としをとったよ。オフィリヤ、ここへお坐り、さあ、お父さんと並んで坐ろう。これで、よし。まあ、もう少しお父さんの愚痴も聞いておくれ。お前は、このごろ、だんだんお母さんに似て来たね。わしは、なんだか、お前のお母さんと話をしているような気がするよ。お母さんも、草葉の蔭で喜んでいるだろう。レヤチーズは、あのように丈夫に育ったし、お前も優しく、おとなしくて、わしの身のまわりの世話をよくしてくれる。お前の事は、お城の外の人たちまで褒めちぎっているそうだ。ポローニヤスのような親から、よくもあんな器量よしが生れたものだと、けしからぬ、が、まあいい、そんな噂さえ、わしは聞いている。本当に、お父さんは、いまは仕合せな筈だ。何ひとつ不足は無い筈なんだが、オフィリヤ、聞いておくれ、お父さんは、このごろ、なんだか、ふっと、とても心細くなる時があるのだ。お父さんは、もう、死ぬんじゃないか。いや、おどろく事は無い。何も、無理に死のうと言うのではない。お父さんは、いつも、百歳、いや百九歳くらいまで、なんとかして生きていたいと大真面目に考えていたものです。レヤチーズの立派に出世した姿を見て、大いに褒めて、これでわしも全く安心したと断言して、それから死にたいと思っていました。慾の深い話さ。でも、お父さんは、本気にそれを念じていました。わしには、いま、わし自身の楽しみというものは何もない。ただ、お前たちのために、生きていなければならぬと思っていたのだ。母のない子というものは、どんなに可愛いものか、レヤチーズだって、お前だって知るまい。わしは、子供のためには、どんな、つらい事だってします。お父さんはね、こんな事まで考えていた。つまり、人生には、最後の褒め役が一人いなければならん。たとえばレヤチーズの場合、レヤチーズも、これから、人に褒められたいばかりに、さまざま努力するだろうが、そんな時に、世の中の人、全部があれを軽薄に褒めても、わしだけは、仲々に褒めてやるまい。早く褒められると、早く満足してしまう。わしだけは、いつまでも気むずかしい顔をしていよう。かえって侮辱をしてやろう。しかし、最後には必ず褒めます。謂わば、最高の褒め役になろう。大いに褒める。天に聞えるほどの大声で褒める。その時あれは、いままで努力して来てよかったと思うだろう。生きている事を神さまに感謝するだろう。わしは、その、最後に褒める大声になりたくて、どうしても百九歳、いや百八歳でもよい、それまで生きているように心掛けて来たものだが、このごろ、それが、ひどくばからしくなって来た。褒めたくても怺えて小言をいうのは、怒りたいところを我慢するのと、同じくらいに、つらいものです。そんなつらい役は、お父さんでなければ引き受ける人はあるまい。親馬鹿というんだね。親の慾だ。お父さんは、レヤチーズを、うんと、もっと立派にさせたくて、そんなつらい役をも引き受けようと、思っていたんだが、なんだか、このごろ、淋しくなった。いや、お父さんは、まだまだ、これからもお前たちには、こごとを言いますよ。さっきも、レヤチーズには、あんなに口うるさく、こごとを言いました。けれども、言った後で、お父さんは、ふっと心細くなるのです。つまりね、教育というものは、そんな、お父さんの考えているような、心の駈引きだけのものじゃないという事が、ぼんやりわかって来たのです。子供は親の、そんな駈引きを、いつの間にか見破ってしまいます。どうだい、わしにしては、たいへんな進歩だろう。レヤチーズは、しっかりしているけれども、やっぱり男だけに、まだ単純なところがあります。お父さんの巧妙な駈引きに乗せられて、むきになって努力するところがあります。それは、あれの、いいところだ。それを知っているから、お父さんも、レヤチーズには時々、駈引きをして、しかも成功しています。さっきお父さんが、大声でさまざまの注意を与えてやりましたが、レヤチーズは、うるさいと思っていながら、やっぱりお父さんの気をもんでいる事を知って、心底に生き甲斐を感じて出発したのです。けれども、オフィリヤ、ねえ、オフィリヤ、もっと、こっちへお寄り。お父さんが、さっきから、何を言いたがっているのか、わかりますか?」
オフ。「あたしを、叱っていらっしゃるのです。」
ポロ。「それだ。すぐ、それだ。お父さんはね、それだから、お前がこわいのです。このごろ、めっきり、こわくなった。お前には、わしの駈引きが通じない。すぐ見破ってしまう。以前は、そうでもなかったがねえ。オフィリヤ。――そうです。さっきからお父さんは、お前の事ばかり言っていたのです。本当に、お前の事ばかり心配して言っていたのです。叱ってやしない。叱ってやしないけれど、なぜ、お父さんに、もっとはっきり言ってくれないのですか? お父さんには、それが淋しいのだ。レヤチーズの事なんか、わしは、そんなに心配していません。あれは大声で叱ってやると、いつでも、しゃんとなる子です。けれども、オフィリヤ、わしは、このごろ、お前を叱る事が出来ない。強い口調で、ものを言いつける事も出来ない。お父さんが、ふっと心細くなるのも、そのためです。百九歳まで生きるのが、いやになって来たのも、そのためです。教育は心の駈引きでないという事がわかって来たのも、そのためです。最高の褒め役なんてものが、ばからしくなったのも、そのためです。もう、死ぬんじゃないかという気がして来たのも、オフィリヤ、何もかも、お前のためです。オフィリヤ、泣く事は無い。さあ、お父さんに、お前の苦しいと思っている事をなんでも言って聞かせなさい。さっきから、お父さんは、お前が言い出すのを今か今かと待っていたのだ。だから、あんな意味もない愚痴めいた事を矢鱈に述べて、お前のほうからも気軽く言い出せるようにしてやっていたのだが、どうも、お父さんは、やっぱり駈引きが多くていけないね。ごめんよ。お父さんは、ずるくていけないね。さあ、もうお父さんも計略はしないから、お前もお父さんを信頼して思い切って言ってみなさい。これ、立ってどこへ行くのだ。逃げなくてもよい。さ、お坐り。それでは、お父さんから言ってあげます。オフィリヤ、お前はさっき兄さんから、ひどく怒られていたようだね。送金の事なんかじゃ無かったんでしょう?」
オフ。「お父さん、ひどい。もう、たくさんです。」
ポロ。「よし、わかった。オフィリヤ! お前は、ばかだねえ。レヤチーズの怒るのも無理はない。わしは、けさ或る下役から、いやな忠告を受けた。寝耳に水の忠告であったが、お前のこのごろの打ち沈んでいる様子と思い合せて、もしや、と思った。わしは、そうでない事を信じたかったが、とにかく、お前の心を傷つけない程度に、それとなく優しく尋ねてみようと思った。わしは、そのとおりに、精一ぱいに優しくいたわって尋ねたつもりだ。けれども、お前は頑固に、だまっていて、おまけにここから逃げて行こうとさえした。けれども、もう、わかりました。オフィリヤ、お前たちの恋愛は卑怯だねえ。少しも無邪気なところが無い。濁っている。なぜ、わしたちに、そんなに隠さなければならなかったのか。相手のお方の態度も見上げたものさ。てんとして喪服なぞをお召しになって、ご自身の不義は棚にあげ、かえって王や王妃に、いや味をおっしゃる。いまの若い者の恋愛とは、そんなものかねえ。好きなら好きでよい。身分のちがいもあるが、それも、いまは昔ほど、やかましくはない筈だ。なぜ、無邪気に打ち明けてくれなかったのです。クローヂヤスさまだって、もののわからぬおかたではない。わしだって、若い時には間違いもやらかした。わるいようには、しなかったのだ。でも、もうおそい。こんなに評判が立ってからだと、具合が悪い。馬鹿だ。お前たちは、馬鹿だ。だめですよ。いくら泣いても、だめですよ。お父さんも、呆れました。それで? レヤチーズは、全部を知っているのかね。」
オフ。「いいえ。兄さんは、そんな事なら生かして置けないと、言っていました。」
ポロ。「そうだろう。レヤチーズの言いそうな事だ。まあ、レヤチーズには黙っているさ。此の上あいつが飛び出して来たら、いよいよ事だ。いやな話だねえ。女の子は、これだから、いやだ。ふん、オフィリヤ。お前は、クイーンの冠を取りそこねた。」
三 高台
ハムレット。ホレーショー。
ハム。「しばらくだったな。よく来てくれたね。どうだい、ウイッタンバーグは。どんな具合だい。みな相変らずかね。」
ホレ。「寒いですねえ、こちらは。磯の香がしますね。海から、まっすぐに風が吹きつけて来るのだから、かなわない。こちらは、毎晩こんなに寒いのですか?」
ハム。「いや、今夜はこれでも暖いほうだよ。一時は、寒かったがねえ。これからは暖くなる一方だ。もう、デンマークも、やがて春さ。ところで、どうだね、みな元気かね。」
ホレ。「王子さま。僕たちの事より、御自身はいかがです。」
ハム。「へんな言いかたをするね。何か、僕に就いて、悪い噂でも立っているのかね。ウイッタンバーグは、口がうるさいからなあ。ホレーショー。君は、へんだよ。何だか、よそよそしいね。」
ホレ。「いいえ、決してへんな事はありません。本当に、王子さま、あんたは大丈夫なんですか? ああ、寒い。」
ハム。「王子さま、か。そんな筈じゃ無かったがねえ。おい、以前のようにハムレットと呼んでくれ。すっかり他人になってしまったね。君は、いったい、何しにエルシノアへ来たんだ。」
ホレ。「ごめん、ごめん。相変らずのハムレットさまですね。すぐ怒る。案外に、お元気だ。大丈夫のようですね。」
ハム。「いやな言いかたをするなあ。何か悪い噂を聞いて来たのに違いない。なんだい? どんな噂だい、言ってごらん。叔父さんが君に、要らない事を言ってやったんだろう。きっとそうだ。ちっとも知りゃしない癖に、要らない事ばかり言いやがる。」
ホレ。「いいえ、王さまのお手紙は、情のこもったものでした。王子が退屈しているから、話相手になりにやって来てくれ、という勿体ない程ごていねいな文面でした。ありがたいお手紙でした。」
ハム。「嘘をつけ。何か他の事も、その手紙に書いてあったに違いない。君だけは、嘘をつかない男だと思っていたがねえ。」
ホレ。「ハムレットさま。ホレーショーは昔ながらの、あなたの親友です。いい加減の事は申しません。それでは、全部、僕がウイッタンバーグで耳にした事を、そのまま申し上げましょう。どうも、ここは寒いですねえ。部屋へ帰りましょう。どうして僕を、こんなところへ引っぱり出して来たのです。顔を見るなり、ものも言わず、こんな寒い真暗なところへ連れて来て、やあ、しばらくだね、とおっしゃるのでは僕だって疑ってみたくなりますよ。」
ハム。「何を疑うのだ。そうか。だいたい、わかったような気がする。でも、それは、驚いたなあ。」
ホレ。「おわかりになりましたか? とにかくお部屋へ帰りましょう。僕は、ジャケツを着て来なかったので。」
ハム。「いや、ここで話してくれ。僕もそれに就いて君に、大いに聞いてもらいたい事があるんだ。山ほどあるんだ。他の人に聞かれちゃまずいんだ。ここなら大丈夫だ。寒いだろうけれど、我慢してくれ。どうも人間は、秘密を持つようになると、壁に耳が本当にあるような気がして来る。僕も、このごろは少し疑い深くなったよ。」
ホレ。「お察し致します。このたびは、お嘆きも深かった事と存じます。故王には、僕も両三度お目にかかった事がございましたけれど、――」
ハム。「それどころじゃないんだ。嘆きがめらめら燃え出したよ。まあ、とにかく君がウイッタンバーグで聞いて来たという事を、まず、話してみないか。寒かったら、ほら、僕の外套をあげるよ。文明国に、あんまり永く留学していると皮膚も上品になるようだね。」
ホレ。「おそれいります。ジャケツを着て来なかったもので、どうもいけません。では外套を、遠慮なく拝借いたします。はあ、もう大丈夫です。だいぶ暖かになりました。ありがとう存じます。」
ハム。「早く話してみないかね。君はデンマークへ寒がりに来たみたいだ。」
ホレ。「まったく寒いですね。どうも失礼いたしました。ハムレットさま。では、申し上げます。おや、そこの暗闇に人が立っているような気がしますけど。」
ハム。「何を言うのだ。あれは、柳じゃないか。その下に幽かに白く光っているのは、小川だ。川幅は狭いけれど、ちょっと深い。ついこないだ迄は凍っていたんだが、もう溶けて勢いよく流れている。僕よりも、もっと臆病だね。どうも文明国に永く留学していると、――」
ホレ。「感覚も上品になるようであります。じゃ、誰も聞いていませんね? どんな大事を申し上げても、かまいませんね?」
ハム。「いやに、もったいをつけやがる。僕がはじめから、ここは絶対に大丈夫だって言ってるじゃないか。それだから、君をここへ引っぱって来たんだ。」
ホレ。「それでは、申し上げます。おどろいてはいけません。ハムレットさま。大学の連中は、あなたの御乱心を噂して居ります。」
ハム。「乱心? それあ、また滅茶だ。僕は艶聞か何かだと思っていた。ばかばかしい。見たら、わかるじゃないか。どこから、そんな噂が出たのだろう。ははあ、わかった。叔父さんの宣伝だな?」
ホレ。「またそんな事をおっしゃる。王さまが、なんでそんな、つまらぬ宣伝をなさいますものか。絶対に、ちがいます。」
ハム。「ばかに、はっきり否定するね。山羊の叔父さんは、あれでなかなかロマンチストだからな。僕と親子になったら、かえって心は千里万里も離れて、愛情は憎悪に変ったなんて、ひとりでひがんで悲壮がっているような人なんだから、こんどはまた、ぐっと趣向を変えて、先王が死に、嗣子のハムレットはその悲しみに堪え得ず気鬱、発狂。この一家の不幸を脊負い敢然立ったる新王こそはクローヂヤス。芝居にしたら、いいところだ。叔父さんの宣伝さ。叔父さんは自分を何とかして引き立て大いに人気を取りたいものだから、僕を此の頃ばか扱いにしているんだ。いろいろ苦心して、もったいをつけているよ。見ていて可哀そうなくらいだ。でも、僕を気違いだなんて言いふらすのは、どうかと思うなあ。ひどい。叔父さんは、悪いひとだ。」
ホレ。「もう一度申し上げますが、これは、王さまの宣伝ではありません。ハムレットさま。お気の毒に。あなたは、何もご存じないのですね? 大学に伝わって来ている噂は、そんな、なまやさしいものではありません。ああ、僕は、もう言えない。」
ハム。「なんだい? いやに深刻ぶった口調じゃないか。君は、叔父さんから何か言いつけられたね? 僕の反省をうながすように、とか何とか。そうなんだろう?」
ホレ。「もう一度、申し上げます。王さまのお手紙には、ただ、話相手になってやってくれ、とだけ書かれてございました。王さまは、よもや僕が、あなたのところに、こんな恐ろしい噂をもたらそう等とは夢にも思召されなかった事と存じます。」
ハム。「そうかなあ。いや、そうかも知れん。もし叔父さんが、大学にそんな噂を撒きちらしたのなら、君を僕のところへ呼び寄せてくれるなんて危い事は、しない筈だからね。君がやって来たら、みんなばれちゃうんだからね。叔父さんでないとすると誰の仕業だろうね。わからなくなって来た。とにかく僕が発狂したというんだから、ひどいや。もっとも今の僕には、いっそ気でも違ったら仕合せだろうと思うくらいに、苦しい事もあるんだけどね。これはまあ、あとで話そう。ホレーショー。噂というのは、それだけかい? なんだか、つづきがあるようじゃないか。言ってごらん。僕は平気だよ。平気だ。」
ホレ。「どうしても言わなければいけないでしょうか。」
ハム。「よせよ。自分から言い出して置きながら、いまになって、そんな卑怯な逃げかたをするなんて。ウイッタンバーグじゃ、そんな呻くような、きざな台詞が流行っているのかね?」
ホレ。「そんなら申し上げます。そんなにホレーショーの誠実を侮辱なさるんだったら申し上げます。本当に、平気でお聞き流し願います。つまらない、とるにも足らぬ噂です。臣ホレーショーは、もとより、そんな不埒な噂は信じていません。」
ハム。「どうだっていいよ、そんな事は。僕は不機嫌になった。君もそんな固くるしい言いかたをするという事を、はじめて知ったよ。」
ホレ。「申し上げます。その噂は、このごろエルシノア王城に幽霊が出るという、――」
ハム。「それあまた、ひどい。ホレーショー、本気かね。僕は、笑っちゃったよ。ばかばかしい。ウイッタンバーグの大学も、落ちたねえ。あの独自の科学精神を、どこへやった。もっとも、このごろ大学では、劇の研究が盛んなそうだから、中でも頭の悪い馬鹿な研究生が、そんな下手なドラマを案出したのかも知れないね。それにしても、幽霊とは、なんて貧弱な想像力だ。それを面白がって、わやわや騒ぎ立てているとは、大学も、このごろは質が落ちたものさ。幽霊に、ハムレットの発狂。三文芝居にでもありそうな外題だ。叔父さんは僕に、大学はつまらないから、よせと言ってくれたが、本当だ。叔父さんのほうが、よっぽど頭がいいや。そんなくだらない連中と交際して僕まで一緒になって幽霊騒ぎをするようになっては、叔父さんもこんどは心底から閉口だろう。も少し、気のきいた噂を立てないものかね。」
ホレ。「僕は信じていないのです。けれども、母校の悪口はおっしゃらないで下さい。僕は、何だか不愉快です。」
ハム。「しっけい。君は別だよ。叔父さんも、君の事だけは、ほめていたよ。誠実な男だと言っていた。わざわざ僕がウイッタンバーグまで行かずとも、ホレーショーひとりをこちらへ呼び寄せたならば、それでいいと言っていた。僕は本当は、大学へなど行きたくなかったんだけど、でも、君にだけは逢いたかった。」
ホレ。「忠誠をお誓い致します。なお、言葉を返すようですが、ただいまの奇怪の噂は、決して我がウイッタンバーグ大学から出たものではありません。それだけは、母校の名誉のために申し上げて置きたいと思います。その噂は、このエルシノアの城下より起り、次第にデンマーク一国にひろがり、とうとう外国の大学にいる者どもの耳にまではいって来たものであります。いかにも無礼な、言語道断の噂なので、このごろはホレーショーも、気が鬱してなりません。ハムレットさまは、きょうまで、少しもご存じなかったのですか?」
ハム。「知らんよ、そんな馬鹿げた事は。それにしても、ずいぶん広くひろがってしまったものらしいねえ。あんまり、ひろがると、馬鹿らしいと笑っても居られなくなるからね。叔父さんや、ポローニヤスたちは知っているのかしら。いったい、あの人たちは、どこに耳を持っているんだろう。聞えても、聞えぬふりをしているのかな? 腹黒いからなあ、あの人たちは。ホレーショー、いったい、それは、どんな幽霊なんだい? 少し気になって来た。」
ホレ。「その前に、はっきり、お伺いして置きたい事があります。かまいませんか?」
ハム。「ホレーショー、僕は君をこわくなって来たよ。早く言ってくれ。なんでもいいから早く言ってしまってくれ。あんまり、そんなに勿体ぶると、僕は君と絶交したくなりそうだ。」
ホレ。「申し上げます。申し上げてしまったら、なんでも無い事なのかも知れません。きっと、また、あなたがひどくお笑いになって、それだけですむ事なのでしょう。何だか僕にも、そんな明るい気がして来ました。それでも、念のために一つお伺いして置きますが、ハムレットさま、あなたは、勿論、現王のお人がらを信じていらっしゃいますね?」
ハム。「意外の質問だね。そいつは、ちょっと難問だ。こまるね。なんと言ったらいいのかなあ。むずかしいんだ。いいじゃないか、そんな事は。どうだって、いいじゃないか。」
ホレ。「いいえ、いけません。この際それを、はっきり伺って置かないと、僕は何も申し上げる事が出来ません。」
ハム。「手きびしいねえ。君は、変ったねえ。ばかに頑固になった。もとは、こんなじゃ無かったがねえ。まあ、いいや。御返事しましょう。なんだって今更、そんな事を僕に聞くんだね? 叔父さんは、だらしないところもあるけど、でも、そんなに悪いひとじゃないんだ。でも人がらを信じるかと聞かれると、僕も、ちょっと困るんだ。何か、叔父さんに就いて悪い噂でもあるのかね? それあ、いろいろ人は言うだろう。なんにしても、こんどは少し、まずかったからね。でも、あれは、もちろん叔父さんひとりできめた訳じゃ無いんだ。そんな事は出来るもんじゃない。ポローニヤスをはじめ、群臣の評定に依って取りきめられた事なんだ。僕だって今すぐ、位に即けるほどの男じゃない。いま、デンマークは、むずかしい時らしいからね。ノーウエーとも、いつ戦争が起るか、わかったものじゃない。僕には、まだ自信が無いんだ。叔父さんが位に即いてくれて、僕はかえって気楽になった。本当だよ。僕は、もう暫く君たちと自由に冗談を言い合って遊んでいたいよ。なんでもないんだ。もともと、叔父と、甥の仲じゃないか。一ばん近い肉親だ。それあ僕は、叔父さんには何かと我がままを言うよ。いやがらせを言ってやる事もある。軽蔑してやる事もある。わざとすねて、ろくに返事もしてやらない時だって、ずいぶんある。でも、それは叔父と甥の間の事だ。僕は、甘えているのかも知れない。でも、それくらいの事は、叔父さんだってわかってくれていると思うんだ。僕は、やっぱり叔父さんを、たよりにしているところもあるんだからね。いい叔父さんだよ。気が弱いんだ。政治の手腕だって、たいした事は無いだろうし、それに、何といったって、もとをただせば山羊のおじさんなんだからね、がっかりしちゃうよ。いろいろ努力しているようだけど、もともと、がらでないんだからね。気の毒なんだ。お父さんと呼べって言うんだけど、僕には出来ない。お母さんもまた、まずい事をしたものさ。ハムレット王家の基礎を固めるためには、それが一ばんいいと皆が言うので、母もその気になったらしいが、どんなものかねえ。あの人たちは、もうとしをとっているし、まあ茶飲友達でも作るような気持で結婚したんだろうが、僕には、やっぱり何だか、てれくさいな。でも僕は、そんな事は、あまり深く考えないようにしているんだ。仕様がないじゃないか。人の子として、あれこれ親の事を下劣に詮索するのは許すべからざる悪徳だ。そんな下等の子は、人間の仲間入り出来ない。そうじゃないかね。一時は、たまらなく淋しかったけれど、僕は今では、考えないようにしている。僕ひとりの愛憎の念に拠って、世の中が動いているものでもないんだしね、まあ、あの人たちの事は、あの人たちに任せるより他は無いよ。どうだね? 答弁は、これくらいで許してくれよ。どうも、いろいろ複雑なんだ。だけど叔父さんは、悪いひとじゃない。それだけは、たしかだ。小さい策士かも知れないけれど、決して大きい悪党じゃない。何が出来るもんか。」
ホレ。「ありがとう。ハムレットさま。それを伺って、僕は、全く安心しました。どうか、これからも王さまを、変らず信じてあげて下さい。僕も、いまの王さまを好きなのです。文化人でいらっしゃる。情の厚いお方だと思う。ハムレットさまの、いまの御意見は、僕に百倍の勇気を与えて下さいました。僕からお礼申します。ハムレットさまは、やっぱり、昔のままに明朗ですねえ。純真の判断には、曇りが無い。いいなあ、僕は嬉しくなっちゃった。」
ハム。「おだてちゃいけない。急に御機嫌がよくなったじゃないか。勝手な奴さ。ホレーショー、君もやっぱり、昔のままの、おっちょこちょいだよ。それで? 噂ってのは、何さ。僕が乱心して、幽霊が出て、それから何が出たんだ。鼠でも出たか。」
ホレ。「鼠どころか、いや実に愚劣だ。言語道断だ。けしからぬ。デンマークの恥だ。ハムレットさま、お話しましょう。いや、どうにも、無礼千万、奇怪至極、尾籠低級!」
ハム。「もういい、そんな下手な形容詞ばかり並べられても閉口だ。君もウイッタンバーグの劇研究会に入会したのかね。」
ホレ。「まず、そんなところです。ちょっと憂国の詩人という役を演じてみたかったのです。僕は、本当は、もう安心しちゃったのです。さっきハムレットさまから、あんな明快な判断を承って、心に遊びの余裕が出ました。ハムレットさま、笑っちゃいけませんよ、実に、ばからしい噂が立っているのです。あなたは、きっとお笑いになるでしょう。でも、これは、デンマークの国中にひろがり、外国の大学にいる僕たちの耳にまではいって来ているんですから、ただ笑ってすます訳にもいかないと思うんです。大いに取りしまりの必要があります。笑っちゃいけませんよ。どうも、僕も、申し上げるのが馬鹿馬鹿しくなって来ました。先王の幽霊が毎晩あらわれて、かたきをとっておくれって頼むんだそうですよ、ハムレットさま、あなたに。」
ハム。「僕にかい? へんだなあ。」
ホレ。「まったく。なっちゃいないんです。その上、ばからしい、まだつづきがあるんです。その幽霊の曰くです、我輩はクローヂヤスに殺された、クローヂヤスは、わが妃に恋慕し、――」
ハム。「そいつあ、ひどい。恋慕はひどい。お母さんは総入歯だぜ。」
ホレ。「だから、笑っちゃいけませんと言ったじゃないですか。まあ、お聞きなさい。つづきがあるんです。妃を横取り、王位も共に得んとして、我輩の昼寝の折に、油断を見すまし忍び寄り、わが耳に注ぎ入れたる大毒薬、というわけなんですがね、念がいってるでしょう? やよ、ハムレット、汝孝行の心あらば此のうらみ、ゆめゆめ忍ぶ事なかれ、と。」
ハム。「よせ! たとえ幽霊にもせよ、父の声色を、やたらに真似るのは止し給え。死者の事は、厳粛にそっとして置いてやってくれ。少し冗談が過ぎたようだね。」
ホレ。「ごめんなさい。うっかり調子に乗りました。決して故王の御遺徳を忘却したわけではありません。あまり馬鹿らしい話なので、つい、ふざけ過ぎてしまいました。ごめんなさい。心ならずも、ハムレットさまの御愁傷の筋に触れてしまいました。どうも、ホレーショーは、おっちょこちょいでいけません。」
ハム。「いや、なんでもないんだ。僕こそ大声で怒鳴ったりなんかして失礼した。わがままなんだよ。気にかけないでくれ。それから、その幽霊は、どうなるんだね? 話してくれよ。奇想天外じゃないか。」
ホレ。「はい、その幽霊は、毎晩のようにハムレットさまの枕もとに立ってそう申しますので、ハムレットさまは、恐怖やら疑心やら苦悶やらで、とうとう御乱心あそばされたという根も葉も無い話でございます。」
ハム。「あり得る事だ。」
ホレ。「え?」
ハム。「あり得る事だろうよ。ホレーショー、僕は何だか、気持が悪くなった。ひどい噂を立てやがる。」
ホレ。「やっぱり、申し上げないほうがよかったんじゃないでしょうか。」
ハム。「いや、聞かせてもらって大いによかった。汝、孝行の心あらば、か。ははん、ホレーショー、その噂は本当だよ。僕は、お人好しだったよ。」
ホレ。「何をおっしゃる。つむじを曲げるとは、その事です。はしたない民の噂に過ぎません。どこに根拠があるのです。」
ハム。「君には、わからん。僕は、くやしいのです。わからんだろうね。根も葉も無い事で侮辱をうけるのと、はっきりした根拠があって噂を立てられるのと、どっちが、くやしいものか、考えてごらん。僕は必ず、その根拠を見つける。ハムレット王家の者、お父さんも、叔父さんも、お母さんも僕も、まるっきり根拠の無い事で、そんなに民に嘲弄されているのは、僕として我慢が出来ん。何か根拠があるのだろうよ。そんなに、まことしやかに言い伝えられている程だから、或いは、本当にあり得る事かも知れないじゃないか。何か根拠があったなら、かえって僕も気が楽だ。根拠も何も無い不当の侮辱には、僕は堪えられない。ハムレット王家は、民に嘲弄せられたのだ。叔父さんも、可哀そうに。せっかく一生懸命努力しているところなのに、そんな噂を立てられちゃ、台無しだ。ひど過ぎる。不愉快だ。僕が直接、叔父さんに尋ねてやる。何か根拠を、突きとめてやらなくちゃ気がすまん。ホレーショー、手伝ってくれるね?」
ホレ。「そんなら、責任は、僕にあります。ああ。僕に任せて下さいませんか。ハムレットさま、失礼ですが、あなたは少し、すねています。僕には、あなたが悪くすねて居られるのだとしか思われない。あなたは、さっきあれほど濁りなくお笑いになっていらっしゃったじゃありませんか。もとより根も葉も無い不埒な噂なのです。王さまに、ぶしつけにお尋ねになるなんて、とんでもない事です。いたずらに王さまを、お苦しめなさるだけです。僕は、あなたの先刻の明快な御判断を、あくまでも信じたい。あなたは、もう、お忘れになったのですか。王さまを、信頼なさっているとおっしゃったじゃありませんか。あれは、出鱈目だったのですか?」
ハム。「程度があるよ。侮辱にも、程度があるよ。僕の父が、幽霊になってそんな、不潔な無智な事をおっしゃるようなお方だと思っているのか。わあ、何もかも馬鹿げている。そんならいっそ、僕も本当に乱心してやろうか。よろこぶだろう。ホレーショー、僕は、すねた。すねてやるとも。わからん、君には、わからん。」
ホレ。「あとで、ゆっくり御相談申したいと思います。臣ホレーショー、一代の失態でした。こんなに興奮なさるとは、思いも寄りませんでした。ハムレットさま、相変らずですね。」
ハム。「ああ、相変らずだよ。相変らずのお天気屋だよ。おっちょこちょいは、僕のほうでもらってもいいぜ。僕は、修養が足りんよ。こんなに馬鹿にされてまで、にこにこ笑って居れるほどの大人物じゃないんだ。ホレーショー、その外套を返しておくれ。こんどは、僕のほうで寒くなった。」
ホレ。「お返し致します。ハムレットさま、いずれ明日、ゆっくりお話いたしたいと存じますが。」
ハム。「望むところだ。ホレーショー、怒ったのかい? ああ、浪の音が聞えるね。ホレーショー、僕は今夜、もっと大事の秘密も君に聞いてもらいたいと思っていたんだけど、も少し、つき合ってくれないか? 今の噂に就いても、もっと話合ってみたいし、それから、も一つ僕には苦しい秘密があるんだよ。」
ホレ。「いずれ、明日、お互いに落ちついてからにしていただきたく存じます。今夜は、おゆるし下さい。僕も、ゆっくり考えてみたいと思っています。僕は、何せ、ジャケツを着て居りませんので。」
ハム。「勝手にし給え。君は人の興奮の純粋性を信じないから駄目だ。じゃ、まあ、ゆっくりお休み。ホレーショー、僕は不仕合せな子だね。」
ホレ。「存じて居ります。ホレーショーは、いつでも、あなたの味方です。」
四 王妃の居間
王妃。ホレーショー。
王妃。「私が、王にお願いして、あなたをウイッタンバーグからお呼びするように致しました。ハムレットには、ゆうべ、もう逢いましたでしょうね。どうでしたか? まるで、だめだったでしょう? どうして急に、あんなになったのでしょう。言う事は、少しも取りとめがなく、すぐ、ぷんと怒るかと思えば、矢鱈に笑ったり、そうかと思えば大勢の臣下のいる前で、しくしく泣いて見せたり、また、あらぬ事を口走って王に、あなた、食ってかかったりするのです。あの子ひとりの為に、私は、どんなにつらい思いをするかわかりません。以前も、気の弱い、どこか、いじけたところのある子でしたが、でも、あれ程ではありませんでした。気がむくと、とても奇抜なお道化を発明して、私たちを笑わせてくれたものでした。たいへん無邪気なところもありました。なくなった父の、としとってからの子ですから、父も、ずいぶん可愛がって、私も、大事な一人きりの子ですし、なんでもあの子の好きなようにさせて育てましたが、それが、あの子の為に、よくなかったようでした。どうも、両親の、としとってからの子は、劣るようです。いつまでも両親を頼りにして、甘えていけません。あの子は、なくなった父を好きでして、大学へはいるようになっても、休暇でお城へ帰ると、もう朝から晩まで父のお居間にいりびたりでした。子供の頃には、尚ひどくて、ちょっとでも父が見えなくなると、もう不機嫌で、どこへいらっしゃったかと、みんなに尋ね廻って閉口でした。その父が、あんな不慮の心臓病とやらで、突然おなくなりになったものですから、あの子は、もう、どうしていいか、わからなくなったのでしょう。先王が、おなくなりになってから、急に目立っていけなくなりました。それに私が、まあ、みっともない事ですが、此のデンマークの為とあって、クローヂヤスどのと、名目ばかりですが、夫婦になったという事も、あの子にとっては意外な事件で、よっぽど気持を暗くさせたのではないかと思います。いろいろ考えてみると、あの子が可哀そうにもなります。無理もないとも思います。でも、あの子だって、デンマーク国の王子ハムレットです。やがては位を継がなければならぬ人です。父や母が、一時に身辺から去ったといって、いつまでも、泣いたり、すねたりしていると、第一、臣下に見くびられます。いまは大事なところだと思います。私がクローヂヤスどのと結婚したとは言っても、別段よそのお城へ行くわけでなし、今までどおりに、やっぱりハムレットの実母として、一緒に暮して行く筈ですし、また、現在の王も、もともと他人ではなし、ハムレットとあんなに仲のよかった叔父上なのですから、ハムレットさえこの頃のひがんだ気持を、ちょっと持ち直してくれたら、すべてが円満に、おだやかに行くものと、私は思います。クローヂヤスどのも、昔のような軽薄の行状をつつしみ、いまは、先王に劣らぬ立派な業績を挙げようとして一生懸命なのです。ハムレットの事も、ずいぶん心配して居られます。義理ある仲ですから、いろいろ遠慮もある事でしょう。私が、その二人の仲にはいって、いつも、はらはらしています。ハムレットは、てんで、もう叔父上を、ばかにしているのですもの。あれでは、いけません。かりにも父となり、子となったからには、ハムレットも、も少し礼儀を弁えなければいけません。もう昔の、山羊のおじさんではないのですものね。デンマークは今、あぶない時なのだそうです。ノーウエーでは、もう国境に兵隊を繰り出しているという噂さえあるじゃありませんか。本当に、そんな大事な時に、なんという事でしょう。ハムレットさえ、機嫌よく私たちに、なついてくれたら、このエルシノア王城の人心も治り、王も意を強うして外国との交渉に専心出来ますのに。ばかな子ですよ。デンマーク国の王子だという、自覚が足りないと思います。二十三にもなって、女の子のように、いつまでも、先王や母の後を追っています。ホレーショー、あなたは、ことしいくつになります。」
ホレ。「はい、おかげさまで、二十二歳になりました。」
王妃。「そうでしょう。ハムレットは、あなたより一つ兄の筈だと思っていました。まるで逆です。あなたのほうが、五つも年上のように見えます。おからだも御丈夫のようだし、学校の成績もいいそうですし、何よりも態度が落ちついていらっしゃる。お父さんも、お母さんも変りなく、お達者でいますか?」
ホレ。「ありがとう存じます。相かわらず田舎の城で、のんきに暮して居ります。御仁政のおかげでございます。」
王妃。「私は、あなたのお母さんを、うらやましく思います。こんな立派なお子さんがおありだと、どんなに楽しみな事でしょう。それに較べてハムレットは、もう私は、あんな具合だと末の見込みも無いような気がします。ささいな悲しみにも動転して、泣くやら、ふてくされるやら、――」
ホレ。「お言葉に逆らうようですが、ハムレットさまは、いや王子さまは、いや、ハムレットさまは、決して、そのように劣ったお方ではございません。僕の尊敬している唯一のお方です。僕こそ、つまらぬ、おっちょこちょいなのです。僕は、いつでも、ハムレットさまに叱られてばかりいるのです。僕は、ハムレットさまを大好きです。だから僕は、ハムレットさまの前に立つと、いつも、しどろもどろになります。ハムレットさまは、とても頭がいいから、僕の言おうとしている事は、言わないさきから御承知になっています。やりきれないくらいです。」
王妃。「それは何も、あの子の美点ではありません。あなたが、親友をかばう気持も、わかりますが、何も、あの子の欠点を特に挙げて褒めるには及びません。あの子は、小さい時から、人の顔いろを読みとるのが素早かったのです。それは、かえって性質のいじけている証拠なのです。立派な男子には、不必要な事です。」
ホレ。「お言葉に逆らうようですが、そんなにいちいち、ハムレットさまを悪くおっしゃるのは、いけないと思います。僕の母は、僕より先に寝室へひっこんだ事は、一度もありませんでした。僕が寝るまでは、起きていました。さきに寝よ、と僕が言っても、お前は私ひとりの子ではない、いまに、王さまの立派なお家来になるべき人です。私はお前を王さまからお預り申しているのです、失礼な事があってはならぬ、と言って、決してさきに寝ませんでした。僕のような取り柄のない子供でも、そんなに、まともに敬愛されると、それでは、しっかりやろうと思うようになります。王妃さまは、あんまりハムレットさまを悪く言いすぎます。それでは、ハムレットさまの立つ瀬が無くなります。王妃さまだって、さきほど、おっしゃったではございませんか。ハムレットさまは、デンマーク国の王子だ、とおっしゃったのをお忘れでございますか。ハムレットさまは、デンマーク国の王子です。王妃さまおひとりのお子ではございません。また、僕たちがこれから身命を献げてお守り申すべき御主人です。ハムレットさまを、もっと大事にしてあげて下さい。」
王妃。「おやおや、あなたから逆に頼まれるとは思い掛けない事でした。ハムレットへの一途の忠誠の気持は、わかりますが、やはり子供ですね。そんな思い上ったものの言いかたは、これからは、許しませんよ。実の親子の真情は、他のものには、わからぬ場合が多いものです。決して、とやかく口出ししてはならぬものです。あなたのお母さんも、本当に賢母のようで、私と流儀が違うようですが、けれどもそれは、私でさえ、とやかく言ってはならぬ事です。親子の事は、親子に任せるのがいいのです。臣下の場合と、王家の場合とでは、ずいぶん事情もちがいますから、一時の熱狂から無礼の指図は、これからは、許しませんよ。時に、ハムレットは、あなたに何か申しましたか。」
ホレ。「はい、別に何も、――」
王妃。「急に、そんなに固くならなくてもいいのです。さっきの元気は、どうしました。ハムレットに似ていると言われますよ。男の子なら男らしく、叱られても悪びれず、はっきり応答するものです。ハムレットは、また、私たちの悪口を言っていたでしょう? そうですね?」
ホレ。「お言葉に逆らう、いや、お言葉に、お言葉に、――お逆らい、――」
王妃。「何を言っているのです。男は、あんまり、びくびくするのも、みっともないものです。無闇な指図の他は、お逆らいでも何でも許してあげますから、男らしく、もっとはっきり言いなさい。ハムレットは、私たちの事を何と言っていました。」
ホレ。「お気の毒だと、御同情申して居られました。」
王妃。「御同情? お気の毒? へんですね。あなたは、また、かばっているのですね? ハムレットから、いろいろ口どめされたのでしょう。」
ホレ。「いいえ、お言葉に逆らうようですが、ハムレットさまは、口どめなどと、そんな卑怯な事をなさるお方ではありません。ハムレットさまは、その人に面とむかって言えない事は、陰でも決して申しません。言いたい事があると、必ず、面と向って申します。大学時代もそうだったし、いまだってそうです。だから、ハムレットさまは、いつも、そんばかりしています。」
王妃。「あなたは、ハムレットの事になると、すぐそんなに口をとがらせて、大声になりますが、よっぽど気が合っているものと見える。ハムレットは、身分を忘れ、もの惜しみという事も知らない質だから、目下の者には人気があるようですね。」
ホレ。「王妃さま。何をか言わむです。僕は、もうお答え致しません。」
王妃。「あなたの事を言ったのではありません。あなたは、ハムレットの親友じゃありませんか。ハムレットだけでなく、私だって、あなたを頼りにしています。こうしてお話を伺っているうちに、いろいろ私にもわかって来る事があるのです。そんなにすぐ怒るところなど、本当にハムレットそっくりです。いまの若い人たちは、少しずつ、どこか似ていますね。そんなに蒼い顔をなさらず、もっと打ち解けて私になんでも話して聞かせて下さい。ハムレットが他人の陰口を言わない子だという事も、あなたから伺ってはじめて知りました。もし、それが本当なら、私だってうれしく思います。あの子にも案外、いいところがあったのかも知れません。」
ホレ。「だから、僕がさっき、――」
王妃。「もうよい。ぶんを越えた、指図はゆるしません。あなたたちは、興奮し易くていけません。ハムレットはまた、何だって私たちを、気の毒だの何だのと、殊勝な事を言っているんでしょう。ふだんの、あの子らしくも無いじゃありませんか。本当かしら。」
ホレ。「王妃さま。僕でさえ、王妃さまをお気の毒に思います。」
王妃。「また、そんな事を言う。としよりをからかうのは、あなたたちの悪い癖です。私が、どうして気の毒なのです。さ、はっきり言ってみて下さい。私は、そんな、思わせぶりの言いかたは大きらいなのです。」
ホレ。「申し上げます。王妃さまは、ハムレットさまのお心を、何もご存じないからです。ハムレットさまは、ゆうべホレーショーに、こう言いました。僕がこのように若冠ゆえ、叔父上にも母上にも御迷惑をおかけする事が多くて、お気の毒だ、としみじみ申して居りました。叔父上が位に即いて下さって、僕はどんなに助かるかわからない、とも申して居りました。ハムレットさまは、現王の愛情を信じていらっしゃるのです。或いは、わがままを申し、或いは、いやがらせをおっしゃる事がありましても、それは叔父上と甥の間の愛情に安心して居られるからであります。一ばん近い肉親じゃないか、なんでもないんだ、僕は、甘えているのかも知れないが、でも叔父上だってわかって下さってもいいものを、愛情が憎悪に変ったなどと叔父上はおひとりで、ひがんでおいでになるのだから可笑しいと申して居られたくらいです。僕は叔父上を本当は好きなんだ、とも申していました。それを伺ってホレーショーは、泣くほど嬉しく有難く思いました。デンマーク万歳を、心の中で叫びました。ハムレットさまは、立派な王子です。みだりに人を疑いません。御判断は麦畑を吹く春の風のように温く、爽やかであります。一点の凝滞もありません。王妃さまの事は、もちろん生みの御母上として絶対の信頼と誇りとを以てホレーショーに語って下さいます。この度の御結婚に就いても、人の子としてとやかくそれを下劣に批判申し上げるのは最大の悪徳、人間の仲間いりが出来ないと申して居ります。」
王妃。「誰が? 誰が、人間の仲間いりが出来ないのです。はっきり、もう一度、言ってみて下さい。」
ホレ。「はっきり申し上げている筈でございます。王妃の御結婚を、人の子として、とやかく卑しく想像するような下等な奴は、死んだほうがいいという意味であります。ハムレットさまの御気質は高潔です。明快であります。山中の湖水のように澄んで居ります。ホレーショーは、ゆうべはハムレットさまから数々の尊い御教訓を得たのであります。ハムレットさまは、僕たち学友一同の手本であります。」
王妃。「たいへんですね。ハムレットを、そんなに褒めていただいては、私まで顔が赤くなります。あなたの尊敬している子は、あの子ではなくて、どこかよその、ハムレットという名前の、立派な子なのでしょう。私には、あの子が、そんな男らしい口をきける子だとは、どうしても思えません。あなたは、どうしてそんなに言い繕うのですか。生みの母ほど、子の性質を、いいえ、子の弱点を、知っているものはありません。それは、そのまま母の弱点でもあるからです。私だって欠点の無い人間じゃないのです。私の人間としての到らなさは、可哀そうにあの子にも伝わっているのです。私は、あの子の事に就いては、あの子の、右足の小指の黒い片端爪まで知り抜いているのです。あなたが私を、うまく言いくるめようたって、それは出来ません。もっと打ち明けた話を聞かせて下さい。あなたは何か隠して居られる。ハムレットが、いまのあなたのおっしゃったように、ものわかりのいい素直な子だったら、私も心配はありません。けれども私には信じられないのです。あなたが私に、まるっきり嘘をついていると思いません。あなたは、嘘の不得手な純真なお子です。また、あの子にも、いまあなたのおっしゃったような、あっさりした一面がたしかにある事も、私はとうから存じて居ります。ゆうべは、あなたに、そのいい一面も見せたのでしょう。けれども、あなたは他に、何か隠して居られる。あの子の此の頃の様子を見たって、すぐにわかる事ですが、あの子の本心は決して、いまのあなたのお言葉どおりに曇りなく割り切れているようでないのです。ただ、肉親という事実に安心し、甘えて駄々をこねているのだとは、どうしても私には思われません。ホレーショー、どうですか。本当のところを知らせて下さい。母としての愛ゆえに、疑い深くなるのです。あなたが、懸命にハムレットを弁護して下さるのは、私も内心は嬉しく思っているのです。なんで嬉しくない事がありましょう。ハムレットは、いいお友達を持って仕合せです。でも、私の心配は、もっと深いところにあるのです。あの子が、何か苦しい事でもあるならば、率直に此の母に打ち明けてくれたらいいと私ひとりは、はらはらしているのに、ハムレットは、言を左右にして、ごまかしてばかりいるのです。ハムレットの今の難儀に、母も一緒に飛び込んで、誰にも知られず解決したいと念じているのです。わかりますか? 母は、おろかなものです。さっきから、あなたに意地の悪いような事ばかり申しましたが、決してハムレットを憎くて言っているのではないのです。こんな事は、あんまり当り前すぎて、言うのも恥ずかしいのですが、私が、此の世で一ばん愛しているのは、あの子です。やっぱり、ハムレットです。愛しすぎているほどです。あの子が、ひとりで悶えているさまを、私は見て居られないのです。お願いです。ホレーショー、私の力になって下さい。ハムレットは、どんな事でくるしんでいるのですか。あなたは、ご存じない筈がありません。」
ホレ。「王妃さま。僕は、存じていないのです。」
王妃。「まだ、そんな、――」
ホレ。「いいえ、残念ながら、僕は、本当に知らないのです。ゆうべ、実は、僕、大失態を致しました。たしかに、ハムレットさまには、王妃さまのおっしゃるように特別な内心の苦悩がおありのようでした。それを僕に、たいへん聞かせたい御様子でありましたが、僕はジャケツを着て居りませんでしたので、非常に寒く、落ちついて承る事が出来ませんでした。僕は、馬鹿であります。なんのお役にも立ちません。お役に立たないばかりか、ゆうべは、かえって罪をさえ犯しました。王妃さま、とんでもない事になってしまいました。僕はウイッタンバーグから、わざわざ放火をしにやって来たようなものでした。ゆうべは僕は、ベッドの中で唸りました。少しも眠られませんでした。責任は、すべて僕にあるのです。此の始末は、なんとしても、僕が必ず致します。きょうは、これからハムレットさまと、ゆっくり話合うつもりであります。」
王妃。「何をおっしゃる事やら。私には、ちっともわかりません。あなたたちのおっしゃる話は、まるで、雲からレエスが降って来るような、わけのわからない事ばかりで、何が何やら、さっぱり見当もつきません。それは一体、どんな意味なのです? 何かハムレットと言い争いでもしたのですか。それならば、私が仲裁をしてあげてもいいのです。わけもない、哲学の議論でもはじめたのでしょう。そんなに心配する事は、ありません。」
ホレ。「王妃さま。僕たちは、子供ではありません。そんな単純な事ではないのです。僕は、平和な御家庭に火を放けました。僕は、ユダです。ユダより劣った男です。僕は、愛している人たち全部を裏切ってしまいました。」
王妃。「急に泣き出したりして、立派な男の子が、みっともない。どうしたらいいのです。あなたたちは、いつでも、そんなユダが火を放けたのなんのとお芝居のような大袈裟な、きざな事を言い合って、そうして泣いたり笑ったりして遊んでいるのですか? けっこうな遊戯です。たのもしい事です。ホレーショー、おさがりなさい。きょうは許してあげますが、これからは気をつけて下さい。」
王。王妃。ホレーショー。
王。「ここにいたのか。ずいぶん捜しました。おお、ホレーショーも。ちょうどよい。けさ挨拶に来てくれた時には、わしは、いそがしくて、ろくに話も出来ませんでしたが、いろいろ君に相談をしたい事もあったのです。元気が無いじゃないか。どうかしたのですか?」
王妃。「ホレーショーは、もう、おさがり。ユダが火を放けたのなんのと言って、大の男が、泣いて見せるのですもの。なんの役にも立ちやしません。」
王。「ユダが火を放けた? 初耳です。何か、わけがあるのでしょう。王妃は、すぐ怒るからいけません。ホレーショーは、まじめな人物です。あとで、ゆっくり話してみましょう。」
ホレ。「失礼いたしました。実に、不覚でありました。王妃さまから、子の母として御真情を承り、つい胸が一ぱいになって、あらぬ事まで口走りました。お許し願いたく存じます。見苦しい姿を、お目にかけました。」
王。「ホレーショー、お待ちなさい。退出せずともよい。ここにいなさい。君にも聞かせて置きたい事があります。もっと、こっちへ来なさい。大きい声では言えない事です。ガーツルード、わしは驚いたよ。わかったのです。ハムレットの、いらいらしているわけが、やっと、わかりました。」
王妃。「そう。やはり私たちの事で?」
ホレ。「いいえ、責任は、すべて僕にあるのです。僕は、必ずや、――」
王。「二人とも、何を言っているのです。まあ、落ちつきましょう。わしも、ここへ坐ります。ホレーショー、おかけなさい。君にも、相談に乗ってもらいたいのです。わしはいま、ポローニヤスから聞いて、驚いたのです。まったく、思いも寄らぬ事でした。ポローニヤスはわしに、辞表を提出しました。わしは、とにかく一応はお預りして置く事にしましたが、王妃、おどろいてはいけませんよ。落ちついて聞いて下さい。困った事です。オフィリヤが、――」
王妃。「オフィリヤが? そうですか。一度、私も疑ってみた事がありました。」
王。「まあ、立たずに、ガーツルード、お坐りなさい。坐って落ちついて、ゆっくり考えてみて下さい。ホレーショー、お聞きのとおり、面目次第も無い事です。」
ホレ。「そうでしたか。やっぱり張本人がいたのですね。オフィリヤといえば、ポローニヤスどのの娘さんですね。あんな美しい顔をしていながら、この平和なハムレット王家に対して、根も葉も無い不埒の中傷を捏造し、デンマーク一国はおろか、ウイッタンバーグの大学まで噂を撒きちらすとは、油断のならぬものですね。で、原因は何でしょう。やはり、かなわぬ恋の恨みとか、または、――」
王妃。「ホレーショー、あなたは、やはり、おさがり下さい。何もわかってやしません。夢のような事ばかり言っています。オフィリヤは、妊娠したというのです。」
王。「王妃! つつしみなさい。わしは、まだ、そこまでは言っていません。男として、言いにくい事でした。はっきり言うのは残酷です。」
王妃。「女は、女のからだには敏感です。オフィリヤの此の頃の不快の様子を見れば誰だって、一度は疑ってみます。ばからしい。ホレーショー、眼が醒めましたか?」
ホレ。「夢のようです。」
王。「無理もない。わしだって、夢のようです。でも、これは、このまま溜息ついて見ているわけに行きません。それで、ホレーショー、君に一つお願いがあります。君は、ハムレットの親友の筈ですね。これまで何でも、互いに打ち明けて語り合っていた仲でしたね。」
ホレ。「はい、きのうまでは、そのつもりで居りましたが、いまは、もう自信がなくなりました。」
王。「そんなに、しょげて見せる必要はありません。落ちついて考えてみると、そんなに意外な大きい事件でもありません。この二箇月間、故王のお葬いやら、わしが位を継いだお祝いやら、また婚儀やらで、城中は、ごったがえしの大騒ぎでした。その混乱の中にハムレットひとりは、故王になくなられた悲しみに堪え得ず、優しい慰めの言葉を或る人に求めたのです。オフィリヤです。悲しみと恋が倒錯したのだと思います。ハムレットだって、いまは、オフィリヤにどんな気持を抱いているか、それはわかりません。おそらく、今は、少し冷くなりかけているのではないかと思う。それだったら簡単です。オフィリヤが、しばらく田舎へ引き籠ったら、それで万事が解決します。城中には、すでに噂もひろまっているようで、ポローニヤスもその事を、いたく恐縮していましたが、どんなひどい噂だって、六箇月経ったら忘れられます。オフィリヤの事は、ポローニヤスが巧みに処理してくれるでしょうし、わしとしても出来るだけの事は、してあげるつもりでいます。それは、わしたちに任せて置いていいのです。オフィリヤの生涯が、台無しになるような、まずい事は決してしません。そこは安心するように。とにかく君から、ハムレットに、よく話してみてくれませんか。ハムレットの、心の底の、いつわりの無いところも、よく聞き訊してみて下さい。決して悪いようには、しないつもりです。」
王妃。「ホレーショー、いやな役ですねえ。私だったら、断ります。ハムレットが、し出かした事ですもの、ハムレットに責任を負ってもらって、一切あの子ひとりにやらせてみたらいいのに。王は、ハムレットに御理解がありすぎるようですね。王のお若い頃お遊びなされた時のお気持と、いまの男の子の気持とは、また違うところもございますからねえ。」
王。「なに、男の気持というものは、昔も今も変りはありません。ハムレットは、いまに此のわしに、心から頭をさげるようになるでしょう。ホレーショー、どう思います。」
ホレ。「僕は、僕は、ハムレットさまに聞いてみたい事があります。」
王。「おお、それがよい。よく、しんそこの、いつわらぬところを聞き訊し、わしたちの意向も、おだやかに伝えてやって下さい。君を見込んで、お願いします。ハムレットは、イギリスから姫を迎える事になっているのですから。」
王妃。「私は、オフィリヤに聞いてみたい事があります。」
五 廊下
ポローニヤス。ハムレット。
ポロ。「ハムレットさま!」
ハム。「ああ、びっくりした。なんだ、ポローニヤスじゃないか。そんな薄暗いところに立って、何をなさっているのです。」
ポロ。「あなたを、お待ち申していました。ハムレットさま!」
ハム。「なんです。気味の悪い。放して下さい。僕は、いま、ホレーショーを捜しているのです。ホレーショーが、どこにいるか、知りませんか?」
ポロ。「他所話は、およし下さい。ハムレットさま。わしは、けさ辞表を提出しました。」
ハム。「辞表を? なぜです。何か、問題が起ったのですか? 軽率ですね。あなたは、いまのエルシノア王城に無くてはかなわぬ人です。」
ポロ。「何をおっしゃる。あなたの、その無心なお顔に、ポローニヤスは、いま迄だまされて来ました。わしは城中の残念な噂を、やっと、きのう耳にしました。」
ハム。「噂を? なあんだ、その事か。でも、あれは重大です。僕だって、あなたをだましていたわけではないのです。あんないやな噂を聞かされて、それでも知らぬ振りしてとぼけている事など、とても僕には出来ません。本当に、僕も知らなかったのです。実は、ゆうべ或る人から、はじめて聞かされ、おどろいたのです。けれども、あなたが今まで、ご存じなかったとは意外です。日頃のあなたらしくも無いじゃありませんか。ちょっと、迂濶でしたね。本当に、ご存じなかったのですか? そんな事は無いでしょう。もし、本当に、ご存じなかったとしたら、それは、引責辞職の問題も起るでしょうけど、でも、あなたほどの人が、ご存じなかったという筈は無い。」
ポロ。「ハムレットさま、失礼ながら、正気でいらっしゃいますか?」
ハム。「なんですって? ばかにしないで下さい。見ればわかるじゃないですか。まさか、あなたまで、あの噂を信じていらっしゃるわけじゃないでしょうね。」
ポロ。「嘘の天才! よくもそんな、白々しい口がきけるものだ。ハムレットさま、そんな浅墓な韜晦は、やめて下さい。若い者なら若い者らしく、もっと素直におっしゃったら、いかがです。とても隠し切れるものでは、ありません。わしは、きのう直接、当人から聞いてしまいました。」
ハム。「なんです、いったい、なんの事を言っているのです。ポローニヤス、言葉が過ぎやしませんか? 僕は、あなたの主人だとか何とか、そんな事は考えていませんが、あなたの言葉は、たとい親しい友人同志の間であっても笑っては済まされん。僕は、御推量のとおり、だらしのない、弱虫の、道楽者です。何一つ、あなた達のお手伝いが出来ません。けれども、僕だってデンマーク国の為には、いつでも命を捨てるつもりなのだ。ハムレット王家の将来に就いても、心をくだいている筈だ。ポローニヤス、言葉が過ぎます。何をそんなにこわい顔をして怒っているのです。失敬ですよ。」
ポロ。「見上げたものです。涙も出ません。これが、わしの二十年間、手塩にかけてお育て申したお子さまか。ハムレットさま、ポローニヤスは夢のようです。」
ハム。「困りますね。ポローニヤスも、おとしをとられたようですね。往年の智慧者も、僕の乱心などを信じるようじゃ、おしまいだ。」
ポロ。「乱心? そうです、あなたは、たしかに気が狂って居られる。むかしのハムレットさまは、なんぼなんでも、これほどじゃなかった。」
ハム。「寄ってたかって、僕を本物の気違いにしようとしている。それではポローニヤス、あなた迄が、あの噂を本当に全部、信じているのですね?」
ポロ。「信じるも何も。いまさら、何をおっしゃる。もういい加減に、そんな卑怯な言いかたは、およしなさい。」
ハム。「卑怯だと? 何が卑怯だ。僕は、どうして卑怯なのだ。あなたこそ失敬至極じゃないか。僕にはあなたに、おわびしなければならぬ事もあるのだし、これまでずいぶん、あなたには遠慮して来た。いまだって、殴りつけてもやりたい気持を何度も抑えて、あなたと話しているのです。するとあなたは、いよいよ僕を見くびって、聞き捨てならぬ悪口雑言を並べたてる。僕も、もう容赦しません。ポローニヤス、僕は、はっきり言います。あなたは、不忠の臣だ。叔父上の悪事の噂を信じ、母上を嘲笑し、僕を本物の気違いにしようとしている。ハムレット王家の、おそるべき裏切者だ。辞表を提出するまでも無い。即刻、姿を消してもらいたい。」
ポロ。「なるほど、いろいろの手があるものだ。そういう出方をなさろうとは、智慧者のポローニヤスにも考え及ばぬ事でした。ポローニヤスも、お言葉のように、としをとったものと見えます。なるほど、いやな噂が、もう一つあった。此の際に、そのほうだけを騒ぎ立て、ご自分の不仕鱈な噂のほうは二の次にしようとなさる。ご自分の悪事を言われたくないばかりに、やたらに他人の噂を大事件のように言いふらし、困ったことさ等と言って思案投首、なるほど聡明な御態度です。醜聞の風向を、ちょいと変える。クローヂヤスさまこそ、いい迷惑だ。あ、痛い! ハムレットさま、ひどい、何をなさる。殴りましたね。おう痛い。気違いにあっちゃ、かなわない。」
ハム。「もう一方の頬を殴ってやろうか。あなたの頬は、ひどく油切っているから、殴り甲斐があります。僕は、あなたと、これ以上話をしたくない。」
ポロ。「お待ちなさい。逃げようたって、逃がしません。ハムレットさま、あなたは卑怯です。あなたのおかげで、わしの一家は滅茶滅茶です。わしは田舎にひっこんで貧乏な百姓親爺として余生を送らなければならなくなりました。レヤチーズも、可哀想に。いさんでフランスへ出かけていったのに、呼び戻さなければなりますまい。あの子の将来も、まっくら闇です。それから、あの、――」
ハム。「オフィリヤは、僕と結婚します。御心配に及びません。ポローニヤス、あなたがそれほどまで僕を憎んでいるんだったら、僕も、はっきり申しましょう。僕はあなたを、もっと濶達な文化人だと思っていた。もっと軽快な、ものわかりのいい人だと思っていました。やがては僕の味方になってくれる人だろうとさえ思っていました。あなたには、おわびしなければならぬ事がありました。その事に就いては、いずれゆっくり相談をするつもりで居りました。あなたに、力になっていただきたいと思っていました。ご存じのように僕は今、叔父上とも母上とも、どうしても、うまく折合いが附かず困って居ります。僕だって何も、好きこのんで、あの人たちと気まずくしているわけではないのですが、どうも、いけないのです。こだわりを感じるのです。しっくり行かないのです。僕は、あの人たちに、僕のくるしい秘密を打ち明ける事が、どうしても出来ず、夜も眠られぬ程ひとりで悶えていました。何としても、あの人たちを、信頼する事が出来ぬのです。打ち明けて相談すると、かえって、ひどく悪い結果になるような気がして、僕は此の頃あの人たちと逢うのを、避けるようにさえなりました。こわいのです。なんだか、とても暗い、いやな気がするのです。あの人たちと顔を合せると、僕は、ただ、おどおどするばかりです。なんにも言えなくなるのです。あの人たちだって、悪い人ではない。いつも僕の事を、心配してくれています。それは、わかっている。あるいは深く愛していて下さるのかも知れないが、けれども、僕はいやなんだ。相談するのがいやなんだ。ポローニヤス、僕は、あなたを最後の力とたのんでいました。どうにも仕様が無くなれば、あなたに何もかも打ち明けて、おゆるしを願い、今後の事も相談しようと思っていました。あなたは、きっと僕たちの事を、ゆるして下さるだろうと、なぜだか、そんな気がしていたのです。さっき、あなたに呼びとめられ、ひやっとしました。来たな、と思いました。ちょうどよい機会だ、こちらから全部、打ち明けてやろうと覚悟して、あなたの顔を見ると真蒼で、ひどく取乱して居られる様子なので、急にいやになり、逃げようとしたら、あなたが僕の腕をつかんで辞表を出したのなんのと、大変な事を言うので僕は、他にも何か事件が起きたのかしらんと思い、あなたに尋ねたら、あなたは城中の噂、とおっしゃったので、ああ、あれか、と早合点してしまったわけなのです。決して、故意にはぐらかしたのではありません。僕は卑怯な男ではないのです。」
ポロ。「御弁舌さわやかでございます。なかなか、たくみに言いのがれをなさる。けれども、ポローニヤスは、もう、だまされません。何も、今さらそんなにクローヂヤスさまや、王妃さまの事を、出し抜けに問題になさる必要が無いじゃありませんか。あなたは、それを、てれ隠しの道具に使っていらっしゃるのだ。こじつけです。やはり、なんだか、ごまかそうとしていらっしゃる。もっと、当面の問題を、はっきりお伺いしたいのです。」
ハム。「疑い深いね。そんなに、しつっこく追及されると、僕も開き直って、もっと馬鹿正直に言ってやりたくなります。きのう迄は、僕の悩みは一つしか無かった。オフィリヤ。それだけです。けれどもゆうべ、僕は、もう一つの不愉快極まる話を聞いてしまったのです。もうオフィリヤどころでは無い、と言えば、あなたはすぐに醜聞の風向きを変えるの、てれ隠しの道具に使うのと冷笑しますが、決して、そんなことはない。僕は、ゆうべは、くるしみましたよ。淋しかった。たまらなく淋しかった。ベッドの中で泣きました。何もかも、ばからしく、腹立たしく、やり切れない思いでした。二つの問題が、異様にからみ合って、手がつけられない。オフィリヤどころでは無い、というのは言いかたが、まずいので、オフィリヤの事も念頭より離れず、それに今度の恐ろしい疑惑が覆いかぶさり、乱雲が、もくもく湧き立ち、流れ、かさなり、僕の苦しみが三倍にも五倍にも、ふくれあがって、ゆうべは、本当に、一睡も出来ませんでした。発狂したら、いっそ気楽だ。ポローニヤス、わかりますか? あなたから、城中の残念な噂、と言われて、オフィリヤの事か? とちらと考えてもみたのですが、僕には、その事よりも、もっと色濃く、もう一つの噂のほうが問題だったので、ついそのほうに話を持って行きましたが、決して故意に、そらとぼけたわけではないのです。そんな出方もあったか、などと言われると、僕は実に、どうにも不愉快だ。殴ったのは、僕の失態でした。ごめんなさい。かっとしちゃったのです。でも、あなたも、これからは、あんな不愉快な言いかたは、しないで下さい。オフィリヤの事なら、心配は要りません。結婚します。あたり前の事です。どんな障害があっても、結婚しなければいけません。僕は、オフィリヤを愛しています。ただ、僕のくるしんでいるのは、王と王妃に僕たちの事を告白し、そのおゆるしを得る事です。僕は、あの人たちに打ち明けて、お願いするのは、なんとしても、いやなのです。死んだほうがいい。ことにも、ゆうべ、あんな噂を耳にしたので、なおさら打ち明けるのが苦痛になった。僕は、とにかく、あの噂の根元を、突きとめてみたい。何か、ある。きっと、ある。僕には、そんな予感がする。根も葉も無い噂だとしたなら、僕は幸福だ。かえって、それを機会に、あの人たちに僕の日頃の無礼を素直に詫びて釈然と笑い合う事が出来るようになるかも知れない。とにかく僕は、あの噂の真偽を、もっと追及してみたい。すべては、それからだ。ポローニヤス、わかりますか? オフィリヤの事は、しばらく、そっとして置いて下さい。無責任な事は、致しません。ああ、ポローニヤス、僕もなんだか勇気を得ました。きょうから僕は、勇気のある男になるんだ。くるしさの、とても逃げられぬどん底まで落ちると、人は新しい勇気を得るものだね。」
ポロ。「どうだか、あぶないものです。ハムレットさま、あなたは、お若い。あなた達のおっしゃる事は、なんだか、わしには信用できない。新しい勇気、とおっしゃるけれど、勇気ばかりで、もの事が、うまく行くものではありません。また、勇気を得たのなんのと、その場かぎりの興奮から軽薄な大袈裟な事ばかりを言い散らす人は、昔から、なまけものの、お体裁屋にきまって居ります。くるしいの、淋しいの、乱雲が湧き立ったのという気障な言葉は、見どころのある男子の口にせぬものです。とても本気では聞いて居られぬ言葉です。もう薄鬚も生えているのに、情無い。いつまで、いい気な夢を見ているのでしょう。もっと、しっかりして下さい。いまのあなたのお話で、とにかく、オフィリヤを一時のなぐさみものになさるおつもりでは、無かったという事だけは、わかりました。あなたを、お痛わしく思います。けれども、真の難関は、これからです。及ばずながら、ポローニヤスも御助勢申し上げますが、あなたも、もっと、しっかりして下さらなければ困ります。本当に、お願い致します。乱雲がもくもく湧き立ったのなんのという言葉は、これからは、なるべくおっしゃらないように。とても、まともには聞いて居られません。なんという、まずい事ばかりおっしゃるのでしょう。あなたも、そろそろ子供の父になるのですよ。」
ハム。「だから、だから、それだから僕は、くるしんでいるのです。くるしい時に、くるしいと言ってはいけないのですか? なぜですか? 僕は、いつでも、思っていることをそのまま言っているだけです。素直に言っているのです。本当に、淋しいから、淋しいと言うのです。勇気を得たから、勇気を得たと言うのです。なんの駈け引きも、間隙も無いのです。精一ぱいの言葉です。乱雲が覆いかぶさったという言葉も、あなたには、大袈裟な下手な形容のように聞えるかも知れませんが、僕にとっては、そのまま、目に見えるような事実なのです。皮膚感触なのです。真実、といっていいかも知れない。僕は、あなたを、オフィリヤとの血のつながりに依って、やっぱり愛しているのだから、それで安心して、僕の真実をそのままお伝えしようと思っているのだ。ちぇっ! 僕は、どうも、人を信頼し過ぎる。愛に夢中になりすぎる。」
ポロ。「どうだっていいじゃありませんか、ハムレットさま。世の中は、哲学の教室でもなし、あなただって、失礼ながら聖人賢者におなりになるおつもりでもございますまい。愛だの真実だの乱雲だのと、賢者の口真似をなさっている間にも、オフィリヤのおなかが、刻一刻と大きくなります。それだけは、たしかに、目に見える事実です。わしは、いまあなたに愛されたって、安心されたって、ちっとも有難い事は、ありません。かえって迷惑ですよ。いまは、ただ、オフィリヤの事が、――」
ハム。「だから、それだから、ああ、わからん、あなたには、わからん。それは安心していても、いいのですよ。ただ、僕のくるしさは、――」
ポロ。「くるしさという言葉は、ない事にしましょう。脊中がぞくぞくする。あなたは、さっきからその言葉を、もう百回は、おっしゃっています。くるしいのは、あなただけでは、ありません。わしの一家だって、あなたのおかげで滅茶滅茶なのですよ。わしは、もう辞表を提出しました。あすにも此の王城から出て行かなければなりません。事態は切迫しているのです。ハムレットさま、お力を貸していただきとう存じます。第一に、あなたのため、それからポローニヤス一家のために、執るべき手段は、ひとつしかありません。わしも、ゆうべ、眠らずに考えました。執るべき手段を考えました。ハムレットさま、お力を貸していただきとう存じます。」
ハム。「ポローニヤス、急にあらたまって、どうしたのです。僕みたいな若輩が、あなたの力になるなんて、とんでもない。からかわないで下さい。あなたこそ夢でも見ているのでは、ありませんか?」
ポロ。「ゆめ? そう、夢かも知れません。けれども、これこそは窮余の一策だ。ハムレットさま、ポローニヤスの忠誠を信じますか? いや、そんな事は、どうでもいい。つまらぬ事を言いました。ハムレットさま、あなたは正義を愛しますか?」
ハム。「気味が悪い。急にロマンチストになりましたね。まるで逆になった。こんどは僕が現実主義者になりそうだ。あなたの口から、正義だの忠誠だのという言葉を伺えるとは思いませんでした。いったい、どうしたのです。そんなに、うなだれてしまって、どうしたのです。何を考えているのです。」
ポロ。「ハムレットさま、わしは悪い人間ですねえ。おそろしい事を考えていました。娘の幸福のためには、王をさえ裏切ろうとする人間です。全部、打ち明けて申し上げます。ああ、いけない、ホレーショーがやって来ました。」
ホレーショー。ハムレット。ポローニヤス。
ホレ。「ハムレットさま、ひどい、ひどいなあ。僕は、大恥をかきましたよ。だまっているのだから、ひどいよ。もっとも、ゆうべは僕もいけませんでした。僕が要らない事ばかりおしゃべりして、それに何せ寒かったものですから、あなたのお話をよく聞こうとしなかったのが、失敗のもとでした。でも、もう、わかりました。ポローニヤスどの、このたびは、どうもとんだ事でしたねえ。御心配でしょう。それで? ハムレットさまは、いったい、どういう御意向なのですか? 此の際、ハムレットさまの御意向が、一ばん問題になると思うのですがね。」
ハム。「ひとりで何を早合点しているのだ。相変らず、そそっかしいねえ、君は。何をそんなに騒いでいるのだ。僕が君に恥をかかせた覚えは、無いよ。」
ホレ。「だめ、だめ。とぼけたって駄目です。僕は、いま王さまから一切を聞いて来たのですからね。いや、笑い事じゃない。慎重に考えなければ、いけない事です。」
ハム。「そういう君こそ、なんだか、にやにや笑っているじゃないか。ひやかしちゃ、だめだよ。いったい何を、聞いて来たのさ。」
ホレ。「なあんだ、そんなにお顔を赤くなさっている癖に、まだ、とぼけようとしている。かえって僕のほうで、てれくさくって、くすぐったくて、つい、笑わざるを得ざる有様でございます。」
ハム。「畜生め。とうとう、見破りやがったな。畜生め、行くぞ!」
ホレ。「よし来た、組打ちならば、負けやしません。さあ、どうだ! これでもか。」
ハム。「平気、平気。畜生め、一ひねりだ。おっちょこちょいの、此の咽を、こんな具合にしめつけると、ぴいと鳴るから奇妙なものさ。」
ポロ。「およしなさい、およしなさい。なんです。こんな廊下でいきなり組打ちをはじめるなんて、乱暴じゃありませんか。お二人とも、悪ふざけは、およしなさい。わけがわからん。そんなに、お二人とも、げらげら笑って、掴み合いして、いったい、どうしたのです。よして下さい。いまは、そんな悪ふざけをしている場合ではありません。お互いに、も少し緊張する事にしましょうよ。さあさ、もういい加減におよしなさい。ホレーショーどのも、いったい、どうしたのです。ここは、大学と違うのですよ。」
ハム。「ポローニヤス、あなたには、わからんよ。僕たちは、ひどく、てれくさい時には、こうして滅茶な組打ちをする事にしているんだ。こうでもしなけれあ、おさまりがつかんじゃないか。」
ホレ。「まったくですよ。僕は、まんまと、だまされていたのだからなあ。ハムレットさま、ひどいよ。」
ハム。「そんなでもないさ。これにも、いろいろ、わけがありましてね。へッへ。」
ポロ。「ああ、そんな下品な笑いかたをなさって、なんという事です。わけもなんにもありゃしない。事件は、実に単純です。ホレーショーどの、まあ、もっとこっちへおいでなさい。おやおや、あなたの上衣の裾は破れたじゃありませんか。どうも、あなたがたは乱暴でいけません。うちのレヤチーズも、ずいぶん乱暴者のようですが、でも、あなたがた程ではありませんよ。まあ、ハムレットさまも落ちつきなさい。いまは、重大な時です。笑って、ふざけている場合ではありません。ホレーショーどのも、これからは、わしたちの力になって下さらなければいけません。これからは、此の三人で、さまざま相談も致したいと思います。それで? ホレーショーどのは、いま王さまから、どんな事を伺って来たのです。聞かせて下さい。わしは、きょうからハムレットさまのお味方なのですから、信頼して、なんでも知らせて下さい。王さまは、あなたに、なんとおっしゃったのですか?」
ホレ。「おどろいた、夢のようだと、おっしゃっていましたよ。」
ハム。「それから、僕の悪口も言っていたろう。」
ホレ。「ひがんじゃ、いけません。王さまは、なかなか、わかっていらっしゃる。いや、どうだかな? とにかく、おどろいていらっしゃる。」
ポロ。「要領を得ない。もっと、はっきりおっしゃって下さい。王さまの御意見は、どうなんですか?」
ホレ。「いや、それが、その、いや、実に古くさい。ばかばかしい。僕は、あきれましたよ。僕には、ハムレットさまのお気持は、わかっているんだ。けれども王さまは、ひどい勘違いをなさっているので、僕は呆れました。おそれつつしんで退出したのですけれど、いや、ひどいなあ。」
ハム。「わかったよ。とても許されぬ、と言うんだろう? イギリスから姫を迎える、と言うんだろう? わかっているよ。」
ホレ。「そのとおり。いや、まだひどい。ハムレットさまのお気持も、そろそろ冷くなっている筈だと思う、とおっしゃっておいででした。だから、オフィリヤさんを、しばらく田舎へ引き籠らせて、それで万事を解決させる。人の噂も、二箇月だとか、五箇月だとか、いや六箇月だったかな? とにかくそんな具合の御意見でした。悪いようにはしないそうです。王さまも、決して悪意でおっしゃっているのではないのです。それだけは、誤解なさらぬように。ただ、王さまは、勘違いなさって居られるだけなんだ。僕は、とにかく、ハムレットさまに、王さまの御厚志をお伝えするように言いつかったというわけなのです。王妃さまは、なんだか、ひとりで笑って居られました。ハムレットさまのお気持を、よくわかっておいでの御様子でありました。だから決して、絶望というわけではないのです。此の際、王妃さまにお願いするのですね。王さまは、だめです。根っから、いけません。つまり、古いという事になりますかねえ。」
ハム。「ホレーショー、いい加減の事を言うのは、よせよ。古い、新しいの問題じゃない。現世主義者は、いつでもそうなんだ。叔父さんは、現世の幸福を信じているんだ。叔父さんとしては当然の意見だ。僕だって、それくらいの事は、はじめっから知っていたさ。問題は、そこだよ。そこが苦しいところなんだ。忍従か、脱走か、正々堂々の戦闘か、あるいはまた、いつわりの妥協か、欺瞞か、懐柔か、to be, or not to be, どっちがいいのか、僕には、わからん。わからないから、くるしいのだ。」
ポロ。「二度! くるしいという言葉を、二度もおっしゃいました。あなたは、すぐにそんな大袈裟な哲学めいた事を、口走って意味も無い溜息ばかり吐いて、まるで下手な役者の真似みたいな表情をなさいますが、実にみっともない。王さまのお言葉は、わしだって覚悟していました。これしきの事で、取乱してはいけません。ポローニヤスには、王さまの御処置がわかっていました。だから、わしも、辞表を提出したのです。いまは、たのみとすべきは、ハムレットさま、あなただけです。わしには、わしの考えがあります。ホレーショーどのも、御助勢下さい。すべて、ハムレットさまのためです。さあ、ホレーショーどの、誓って下さい。わしの、これから言う事を必ず他言しないと誓って下さい。」
ホレ。「どうしたのです。ポローニヤスどの、急に鹿爪らしくなってしまいましたね。」
ポロ。「ハムレットさまのためです。誓言は、おいやなのですか?」
ホレ。「誓いますよ、誓いますよ。なんだか、木に竹を継いだみたいに唐突なので、めんくらったのです。誓いますよ。ハムレットさまのためなら、どんないやな事だって致します。」
ポロ。「あなたを信頼します。それでは、申し上げます。ハムレットさま、さっき、ちょっと言いかけて、ホレーショーどのが来たので止しましたが、実は、このごろの城中の、もう一つの暗い噂、あれを、ポローニヤスは信じています。」
ハム。「なに? 信じている? ばかめ! あなたこそ気が狂った。さもなくば、あなたこそ、いやな噂を種に王をおどかし、無理矢理オフィリヤを僕の妃に押しつけようとする卑劣下賤の魂胆なのだ。きたない、きたない。ポローニヤス、あなたは、さっき言いましたね。わしは娘の幸福のためには、王をさえ裏切ろうとする人間だ、わしは悪い人間だ、と呟いていましたね。僕は、あの時は、なんの事やらわけがわからなかったが、もう、はっきりわかりました。ポローニヤス、あなたは、おそろしい人だ。」
ポロ。「ちがう! ちがいます。わしの気持が変ったのです。はじめから、全部、申し上げましょう。わしが先王の幽霊の噂を耳にしたのは、ごく最近の事でした。困った事だと思っていました。そのうち王にも御相談申し上げ、適当の対策を講ずるつもりで居りましたが、このごろ、王の御様子を窺うと、なんだか曇りがあるのです。わしは、相談を躊躇しました。なぜだか、相談しにくいのです。はっきり申し上げましょう。わしは、少しずつ王さまを疑うようになって来たのでした。まさか、と思いながらも、王の御様子を拝見していると、なんだか、いやな、暗い気持がして来るのです。わしは、その気持を、いままで誰にも打ち明けず、自分ひとりの胸に畳んで、おのずから明朗に解決される日を待っていました。杞憂であってくれたらいいと、ひそかに念じていたのです。けれども、さっき、娘が不憫のあまり、ふいと恐ろしい手段を考えました。ただいまハムレットさまのおっしゃったような陋劣な事を考えました。けれども、ポローニヤスは、不忠の臣ではありません。それは、信じて下さい。ほんの一瞬、ちらと考えてみただけです。ゆうべ一晩、眠らずに考えたというのは嘘でした。つい興奮して、心にも無い虚飾を申しました。としは、とっても、子供の事になると、わしもハムレットさまのように大袈裟な言葉を、つい言いたくなります。一瞬、ほんの一瞬だけ考えて、すぐにその陋劣に身震いし、こんどは逆に、猛烈に、正義という魂魄を好きになりました。たまらなく好きになりました。オフィリヤの事よりも、まず、あの不吉な噂の真偽をたしかめる。その事こそ、臣下の義務、いや人間の義務だと気が附きました。ハムレットさま、いまでは、わしは、あなた達の味方です。きょうからは、わしも青年の仲間に入れていただくつもりなのです。青年の正義。世の中に、信頼できるものは、それだけです。」
ハム。「へんですねえ。こっちが、てれてしまいます。なんだか、へんだ。ホレーショー、人生には、予期せぬ事ばかり起るものだねえ。」
ホレ。「僕は、信じます。ポローニヤスどの、ありがとう。僕は、信じますよ。感激しました。でも、なんだか、へんだなあ。唐突すぎる。」
ポロ。「へんな事はありません。あなた達こそ、臆病なのです。わしは、もう、破れかぶれなのかも知れません。いや、ちがう。正義だ。正義! いい言葉だ。わしは、突貫しますよ。お力を貸して下さい。三人で、まず王さまを、ためしてみましょう。失礼な事かも知れないが、何も皆、正義のためだ。王さまの顔色を探ってみましょう。たしかな証拠をつきとめましょう。いかがです。わしには、一つ、いい考えがあるのです。相談に乗って下さい。何も皆、正義のためです。わしの行くべき路は、それだけです。」
ハム。「正義のほうで、顔負けしますよ。ポローニヤス、あなたは錯乱しています。いいとしをして、みっともない。落ちつきなさい。あなたは、いったい、あのばかな噂を本気に信じているのですか? 嘘でしょう? なんだか、底に魂胆がありそうですね。」
ポロ。「情無い事を、おっしゃる。ハムレットさま、あなたは、可哀想なお子です。なんにも御存じないのです。」
ホレ。「ああ、いけない。ポローニヤスどの、もう、およし下さい。王さまは、いいお方です。ハムレットさまだって、心の底では王さまを、お慕い申しているのですよ。いまさら、そんな、薄気味わるい事は、おっしゃらないで下さい。いけない、いけない、ああ、僕は、また寒くなって来ました。震える。全身が、震える。」
ハム。「ポローニヤス、重大な事ですよ。浮薄な言動は、つつしみなさい。たしかに、信ずべき節が、あるのですか?」
ポロ。「残念ながら、――ございます。」
ハム。「ははん、ホレーショー、僕たちが冗談に疑って遊んでいたら、それが、本当だってさ。なんて事だい。馬鹿笑いが出るよ。」
六 庭園
王妃。オフィリヤ。
王妃。「あたたかになりましたね。ことしは、いつもより、春が早く来そうな気がします。芝生も、こころもち、薄みどり色になって来た様じゃありませんか。早く、春が来ればよい。冬は、もう、たくさんです。ごらん、小川の氷も溶けてしまった。柳の芽というものは、やわらかくて、本当に可愛いものですね。あの芽がのびて風に吹かれ、白い葉裏をちらちら見せながらそよぐ頃には、この辺いっぱいに様々の草花も乱れ咲きます。金鳳花、いらくさ、雛菊、それから紫蘭、あの、紫蘭の花のことを、しもじもの者たちは、なんと呼んでいるか、オフィリヤは、ご存じかな? 顔を赤くしたところを見ると、ご存じのようですね。あの人たちは、どんな、みだらな言葉でも、気軽に口にするので、私には、かえって羨やましい。オフィリヤたちは、あの、紫蘭の花を何と呼んでいるのですか? まさか、あの露骨な名前で呼んでいるわけでもないでしょう。」
オフ。「いいえ、王妃さま、あたしたちだって、やっぱり、同じ事でございます。幼い時に無心に呼び馴れてしまいましたので、つい、いまでも口から滑って出るのです。あたしばかりではなく、よそのお嬢さん達だって、みんな平気で、あの露骨な名を言って澄まして居ります。」
王妃。「おやおや、そうですか。いまの娘さん達の、あけっぱなしなのには、驚きます。そのほうが、かえって罪が無くて、さっぱりしているのかも知れませんけど。」
オフ。「いいえ。でも、男のひとの居る前では気を附けて、死人の指、なぞという名で呼んでいますの。」
王妃。「なるほど、そうでしょうね。さすがに男のひとの前では言えない、というのも面白い。けれども、死人の指とはまた考えたものですね。死人の指。なるほどねえ。そんな感じがしない事もない。可哀そうな花。金の指輪をはめた死人の指。おや、悲しくもないのに涙が出ました。こんな歳になって、つまらぬ花の事で涙を流すなんて、私もずいぶんお馬鹿ですね。女は、いくつになっても、やっぱり甘えたがっているものなのですね。女には、かならず女の、くだらなさがあるものなのでしょう。どう仕様も無いものですね。こんな歳になっても、まだ、デンマークの国よりは雛菊の花一輪のほうを、本当は、こっそり愛しているのですもの。女は、だめですね。いいえ、女だけでなく、私にはこのごろ、人間というものが、ひどく頼りなくなって来ました。よっぽど立派そうに見える男のかたでも、なに、本心は一様にびくびくもので、他人の思惑ばかりを気にして生きているものだという事が、やっとこのごろ、わかって来ました。人間というものは、みじめな、可哀そうなものですね。成功したの失敗したの、利巧だの、馬鹿だの、勝ったの負けたのと眼の色を変えて力んで、朝から晩まで汗水流して走り廻って、そうしてだんだんとしをとる、それだけの事をする為に私たちは此の世の中に生れて来たのかしら。虫と同じ事ですね。ばかばかしい。どんな悲しい、つらい事があっても、デンマークのため、という事を忘れず、きょうまで生きて努めて来たのですが、私は馬鹿です。だまされました。先王にも、現王にも、またハムレットにも、みんなに、だまされていたのです。デンマークのため、という言葉は、なんだか大きい崇高な意味を持っているようで、私はいつでも、デンマークのためとばかり思って、くるしい事でも悲しい事でも怺えて来ました。神さまからいただいた尊い仕事をしているのだという誇りがあったものですから、ずいぶん淋しい時でも我慢が出来たのです。私が神さまから特に選ばれて重い役目を言いつけられている人間だという自負があったからこそ忍従の生活を黙って続けて来たのですが、いま考えてみると、ばからしい。私のような弱い腕で、どんな仕事が出来るものですか。人は、私のひそかな懸命の覚悟なぞにはお構い無しに、勝ったの負けたのと情ない、きょろきょろ細かい気遣いだけで日を送って、そうして時々、なんの目的も無しに卑劣な事件などを起して、周囲の人の運命を、どしどし変えて行くのです。それから後が、また、お互い責任のなすり合いでたいへんです。私ひとりが、デンマークの為だのハムレット王家の為だのと緊張してみたところで、濁流に浮んでいる藁のようです、押し流されてしまいます。本当に、ばからしい。オフィリヤ。からだの調子は、どうですか?」
オフ。「え? べつに。」
王妃。「隠さずとも、よい。私は知っているのですから。御安心なさい。私だって、ハムレットの母として、あなたをいとしく思っています。きょうは、顔色もいいようですね。もう気分が、わるくなるような事は無くなりましたか。」
オフ。「はい。王妃さま、お礼の言葉もございません。実は、けさ眼が覚めたら、すっと胸がひらけて、ものの臭いも平気になりました。きのう迄は、自分のからだの匂いも、夜具やら、下着やらの臭いも、まるで韮のようで、どんなに香水を振りかけても、我慢が出来ず、ひとりで泣いて居りました。でも、けさは、悪い夢から覚めたように、すっとからだも軽くなり、スウプも、幾日ぶりかで本当においしかった。何かの拍子に、また、きのう迄のあんな地獄の気分に落ちるのではないかと、まだ少し心配でございます。自分のからだが、こわれもののような気がして、はらはらしています。いまだって、おっかなびっくりで、なるべく静かに呼吸しながら一歩一歩、こわごわ芝生を踏んでいます。もう、大丈夫なのかしら。あんな、つらい思いを二度くりかえすのは、いやでございます。」
王妃。「ええ、もう大丈夫ですとも。これからは、食慾もすすむ一方です。本当に、あなたは、なんにもご存じないのですねえ。無理もない。これからは、私が相談相手になってあげてもよい。あなたは、さっきから何でも思ったとおりに、正直におっしゃるので、私は可愛くなりました。悪びれず、大胆に言う人を、私は好きです。」
オフ。「いいえ、王妃さま。あたしは、きのう迄、嘘ばかりついていましたの。ひとをだますという事ほど、くるしい、つらい地獄はございませぬ。でも、もう嘘をつく必要は無くなりました。みんなに知られてしまいました。からだの具合も、さいわい今朝から、こんなにすっきりして来ましたし、もうこれからは、いじけずに、昔のとおりにお転婆なオフィリヤになるのです。本当に、此の二箇月、毎日毎日、意外な事ばかり続いて、ゆめのようでございます。」
王妃。「なに、ゆめのような思いは、あなたばかりではありません。誰もかれも、此の二箇月間は、おそろしい夢を見ているような気持でした。先王がおいでなされた頃の平和は、いま考えると、まるで嘘のような気さえ致します。あんなに、お城の中も、またデンマークの国も、希望に満ちて一日一日を送り迎えしていたような時代は、もう二度と帰って来る事はありますまい。誰が、どうわるいというのでも無いのに、すっかり陰気に濁ってしまって、溜息と、意地悪い囁きだけが、エルシノアの城にも、またデンマークの国中にも満ち満ちているような気がします。きっと、何か、ひどく悪い事が起る、悲惨な事が起る、というような、不吉な予感を覚えます。せめて、ハムレットだけでも、しっかりしていてくれるといいのですけれど、あの子は、あなたの事で半狂乱の様子ですし、他の人だって、自分の地位や面目の事ばかり心配して、あちこち走り廻っているような具合ですから、ちっとも頼りになりません。女も、浅墓なものですが、男のひとも、あんまり利巧とは言えませんね。あなた達には、まだ、わかっていないでしょうが、男のひとは、それは気の毒なくらい、私たちの事を考えているものなのですよ。そんなに、お笑いになっては、いけません。本当なんです。私は、自惚れて言っているわけではありません。男のひとは、口では何のかのと、立派そうな事を言っていながら、実のところはね、可愛い奥さんの思惑ばかりを気にして、生きているものなのです。立身も、成功も、勝利も、みんな可愛い奥さんひとりを喜ばせたい心からです。いろんな理窟をつけて、努力して居りますが、なに、可愛い女に、ほめられたいばかりなのです。だらしの無い話ですね。可哀想なくらいです。私は此の頃それに気がついて、びっくりしました。いいえ、がっかりしました。私は、男の世界を尊敬してまいりました。私たちには、とてもわからぬ高い、くるしい理想の中に住んでいるものとばかり思っていました。及ばずながら、私たちは、その背後で、せめて身のまわりのお世話でもしてあげて、わずかなお手伝いをしたいと念じていたのですが、ばかばかしい、その背後のお手伝いの女こそ、男のひとたちの生きる唯一の目当だったとは、まるで笑い話ですね。背後からそっとマントを着せてあげようとすると、くるりとこちらを向いてしまうのですから、まごついてしまいます。理想だの哲学だの苦悩だのと、わけのわからんような事を言って、ずいぶん空の高いところを眺めているような恰好をしていますが、なに、実は女の思惑ばかりを気にしているのです。ほめられたい、好かれたいばかりの身振りです。私には此の頃、男がくだらなく見えて仕様がありません。オフィリヤたちには、わからない事です。あなたなどには、まだ、ハムレットなんかが、いい男に見えて仕様がないのでしょうね。あの子は、馬鹿な子です。周囲の人気が大事で、うき身をやつしているのです。わかい頃には、お友達や何かの評判が一ばん大事なものらしい。馬鹿な子です。根からの臆病者のくせに、無鉄砲な事ばかりやらかしてお友達や、オフィリヤには、ほめられるでしょうが、さて後の始末が自分では何も出来ないものですから、泣きべそをかいて、ひとりで、すねているのです。そうして内心は私たちを、あてにしているのです。私たちが後の始末をしてくれるのを、すねながら待っているのです。気障な、思いあがった哲学めいた事ばかり言って、ホレーショーたちを無責任に感服させて、そうして蔭では、哲学者どころか、私たちに甘えてお菓子をねだっているような具合なんですから、話になりません。甘えっ子ですよ。朝から晩まで、周囲の者に、ほめられて可愛がられていたいのです。その場かぎりの喝采が欲しくて、いつも軽薄な工夫をしています。あんな出鱈目な生きかたをして、本当に、将来どうなることでしょう。あなたの兄さんのレヤチーズなどは、ハムレットと同じ歳なのに、もう、ちゃんと世の中のからくりを知っていらっしゃる。」
オフ。「いいえ、それが兄の、かえって悪いところでございます。王妃さまは、たったいま、よほど立派そうに見える男のかたでも、本心は一様にびくびくもので、他人の思惑ばかりを気にして生きているものだ等とおっしゃっていながら、すぐそのお口の裏から、レヤチーズをおほめになるなんて、可笑しゅうございます。兄だって、やっぱり本心は、そんなところでございましょう。それは兄が、ハムレットさまに較べては、少し武骨で、しっかり者のところもありますけれど、でも、あんまり、はっきり割り切れた気持で涼しく生きている者は、かえって私たちを淋しくさせます。あたしは兄を、決してきらいではないのですけど、でも、兄に何でも打ち明けて語ろうという親しい気持は起りません。父に対しても同じ事でございます。あたしは、わるい娘、いけない妹なのかも知れません。仕方が無いのでございます。肉親に、したしみを感じないで、かえって、――」
王妃。「ハムレットだけに、親しみを感じているというわけですね。つまらない。およしなさいよ。恋に夢中になっている時には、誰だって自分の父や兄を、きらいになります。当り前の事じゃありませんか。本当に、あなた達の言うことを、真面目に聞いていると馬鹿を見ます。何を言う事やら。」
オフ。「いいえ、王妃さま。あたしは、夢中ではございませぬ。あたしは、こんな事になってしまう前から、ずっと以前から、おしたい申して居りました。いいえ、ハムレットさまでなく、王妃さまを、こっそり、懸命に、おしたい申して居りました。そのうちに、つい、ハムレットさまと、こんなになって喜びやら、くるしみやら、意外の思いやら、いろんな事がございましたが、あたしには、失礼ながら王妃さまを母上とお呼びして甘える事が出来るようになるのではないかしらという淡い期待が何にも増して、うれしかったのでございます。お信じ下さいませ。あたしは小さい時から王妃さまを、どんなに敬い、そうしてどんなに好きで好きでたまらなかったか、王妃さまには、おわかりになりますまい。あたしは今まで、身振りでも、ものの言い様でも、何でもかでも王妃さまの真似ばかりしてまいりました。ごめんなさい。王妃さまのお身分のせいでは無しに、ただ、女性として魅力あるおかた、いいおかた、すばらしいおかた、ああなんと申し上げたらいいのでしょう、王妃さま、あたしをお笑い下さいませ。あたしは、馬鹿な娘です。ハムレットさまが、もし、王妃さまのお子でなかったら、あたしだって、こんな間違いは起こさなかったろうと思います。あたしは、みだらな女ではございませぬ。王妃さまの大事な大事なお子さまですから、あたしも、大事におあずかりしようと思ったのです。」
王妃。「可愛い冗談ばかりおっしゃる。あなた達は、ふいと思いついた言葉を、そのまま、まことしやかに言い出すので、いつも私たちは閉口します。あなたが私を、少しでも好きだとしたら、それは、やっぱり私の身分のせいです。身分がきらきらしているので、それに眼がくらんで、のぼせ気味になって何でもかでも矢鱈に素晴らしく見えるようになったのでしょう。私は、つまらないお婆さんです。あなたが、ハムレットを拒み得なかったのも、ハムレットの身分のせいです。王妃の大事な子供だから、あなたも大事にしようと思いました等という突飛な意見は、私ひとりは笑って聞き流して、許してもあげますが、他のひとにそんな事を言ったら、あなたは白痴か気違い扱いにされてしまいます。あなたが私を母と呼んで甘えたい、それが一ばんの喜びだと無邪気そうにおっしゃっていましたが、わかり切った事です。それは、あなたがデンマーク国の王子の妃になる事の喜びを、申し述べているのに過ぎません。王子の妃になって、王妃を母と呼べる身分になるのは、デンマーク国の女の子と生れて最上のよろこびの筈です。あたり前の話です。あなた達は、自分の俗な野心を無邪気な甘えた言いかたで、巧みに塗りかえるから油断がなりません。うっかり、だまされます。今の若い人たちは、なんにも知らぬ振りをして子供っぽい口をきいて私たちを笑わせながら、実は、どうして、ちゃっかり俗な打算をしているのだから、いやになります。ほんとうに、抜け目がなくて、ずるいんだから。」
オフ。「ちがいます、王妃さま。どうしてそんなに意地わるく、どこまでもお疑いになるのでしょう。あたしには、そんな大それた浅墓な野心などは、ございません。あたしは、ただ王妃さまを、本当に、好きなのでございます。泣くほど好きです。あたしの生みの母は、あたしの小さい時になくなりましたけれど、いま生きていても、王妃さまほどではないだろうと思います。王妃さまには、あたしのなくなった母よりも、もっと優しく、そうして素晴らしい魅力がございます。あたしは、王妃さまのためには、いつ死んでもいいと思っています。王妃さまのようなおかたを、母上とお呼びして一生つつましく暮したいと、いつも空想して居りました。ご身分の事などは、いちども考えたことがございません。不忠の娘でございます。やっぱり、あたしには母が無いので一そう、お慕いする気持が強いのかも知れません。本当に、あたしには、なんの野心もございません。なさけ無い事をおっしゃいます。あたしは、ハムレットさまのご身分をさえ忘れていました。ただ、王妃さまのお乳の匂いが、ハムレットさまのおからだのどこかに感ぜられて、それゆえ、たまらなくおいとしく思われ、とうとう、こんな恥ずかしい身になりました。あたしは、ちっとも打算をしませんでした。それは、神さまの前ではっきり誓うことが出来ます。王子さまの妃になって出世しようなどと、そんな大それた野心は、本当に、夢に見たことさえございません。あたしは、ただ、王妃さまの遠いつながりを、わが身に感じている事が出来れば、それで幸福なのでございます。あたしは、もうみんな、あきらめて居ります。いまは、王妃さまのお孫を無事に産み、お丈夫に育てる事だけが、たのしみでございます。あたしは、自分を仕合せな女だと思って居ります。ハムレットさまに捨てられても、あたしは、子供と二人で毎日たのしく暮して行けます。王妃さま。オフィリヤには、オフィリヤの誇りがございます。ポローニヤスの娘として、恥ずかしからぬ智慧も、きかぬ気もございます。あたしは、なんでも存じて居ります。ハムレットさまに、ただわくわく夢中になって、あのおかたこそ、世界中で一ばん美しい、完璧な勇士だ等とは、決して思って居りません。失礼ながら、お鼻が長過ぎます。お眼が小さく、眉も、太すぎます。お歯も、ひどく悪いようですし、ちっともお綺麗なおかたではございません。脚だって、少し曲って居りますし、それに、お可哀そうなほどのひどい猫脊です。お性格だって、決して御立派ではございません。めめしいとでも申しましょうか、ひとの陰口ばかりを気にして、いつも、いらいらなさって居ります。いつかの夜など、信じられるのはお前だけだ、僕は人にだまされ利用されてばかりいる、僕は可哀想な子なのだからお前だけでも僕を捨てないでおくれ、と聞いていて浅間しくなるほど気弱い事をおっしゃって、両手で顔を覆い、泣く真似をなさいました。どうして、あんな、気障なお芝居をなさるのでしょう。そうしてちょっとでもあたしが慰めの言葉を躊躇している時には、たちまち声を荒くして、ああ僕は不幸だ、誰も僕のくるしみをわかってくれない、僕は世界中で一ばん不幸だ、孤独だ等とおっしゃって、髪の毛をむしり、せつなそうに呻くのでございます。ご自分を、むりやり悲劇の主人公になさらなければ、気がすまないらしい御様子でありました。突然立ち上って、壁にはっしとコーヒー茶碗をぶっつけて、みじんにしてしまう事もございます。そうかと思うと、たいへんな御機嫌で、世の中に僕以上に頭脳の鋭敏な男は無いのだ、僕は稲妻のような男だ、僕には、なんでもわかっているのだ、悪魔だって僕を欺く事が出来ない、僕がその気にさえなれば、どんな事だって出来る、どんな恐ろしい冒険にでも僕は必ず成功する、僕は天才だ等とおっしゃって、あたしが微笑んで首肯くと、いやお前は僕を馬鹿にしている、お前は僕を法螺吹きだと思っているのに違いない、お前は僕を信じないからだめだ、こんどは、ひどく調子づいて御自分の事を滅茶苦茶に悪くおっしゃいます。僕は、実は法螺吹きなんだ。山師だよ。いんちきだ。みんなに見破られて、笑われているのだ。知らないのはお前だけだよ。お前は、なんて馬鹿な奴だ。だまされているのだよ。僕に、まんまと、だまされているのさ。ああ、僕も、みじめな男だ。世の中の皆から相手にされなくなって、たったひとり、お前みたいな馬鹿だけをつかまえて威張っている。だらしがないねえ等と、それはもう、とめどもなく、聞いているあたしのほうで泣きたくなる程、御自分の事を平気で、あざ笑いつづけるのです。そうかと思うと一時間も鏡の前に立って、御自分のお顔をさまざまにゆがめて眺めていらっしゃる事もございます。長いお鼻が気になるらしく、鏡をごらんになりながら、ちょいちょい、つまみ上げてみたり等なさるので、あたしも噴き出してしまいます。けれども、あたしは、あのお方を好きです。あんなお方は、世界中に居りません。どこやら、とても、すぐれたところがあるように、あたしには思われます。いろいろな可笑しな欠点があるにしても、どこやらに、神の御子のような匂いが致します。あたしだって、誇りの高い女です。ただ、やたらに男のかたを買い被り有頂天になるような事はございません。たとい御身分が王子さまであっても、むやみに御胸におすがりするような事は致しません。ハムレットさまは、此の世で一ばんお情の深いおかたです。お情が深いから、御自分を、もてあましてしまって、お心もお言葉も乱れるのです。きっとそうです。王妃さまだって、ハムレットさまのいいところは、ちゃんとご存じの癖に。」
王妃。「何が何やら、あなた達の言う事は、まるで筋道がとおっていません。私を慕っているからハムレットをも好きになった等とへんな理窟を言うかと思うと、こんどは、ひどくハムレットの悪口をおっしゃって、すぐにまたその口の下から、ハムレット程いいひとは世の中にはいない、神の御子だ、なんて浅間しい勿体ない事をおっしゃる。私のようなお婆さんをつかまえて、素晴らしい魅力があるのなんのと、馬鹿らしい事を口走るかと思えば、いいえ、ちっとも夢中になっていない、もう諦めている等と殊勝な事をおっしゃる。いったい、どこを、どう聞けばいいのか、私は困ってしまいます。あなたも、ハムレットの影響を受けたのでしょう。第一の高弟とでもいうところでしょうか。ホレーショーだけかと思ったら、あなたも、なかなか優秀なお弟子のようです。」
オフ。「王妃さまから、そんなに言われると、あたしも、しょげてしまいます。あたしは感じた事を、いつわらず、そのまんま申し上げた筈でございます。あたしの申し上げた事は、皆ほんとうなのです。あれこれと食いちがうのは、きっと、あたしの言いかたが下手なせいでしょう。あたしは王妃さまにだけは嘘をつくまいと思っていますし、また、嘘をついても、それにだまされるような王妃さまでもございませんから、あたしは感じた事、思っている事を、のこらず全部申し上げようと、あせるのですが、申し上げたいと思う心ばかりが、さきに走っていって、言葉が愚図愚図して、のろくさくて、なかなか、心の中のものを、そっくり言い現わす事が出来ません。あたしは、神さまに誓って申し上げますが、あたしは正直でございます。あたしは、愛しているおかたにだけは正直になろうと思います。あたしは王妃さまを好きなので、一言も嘘を申し上げまいと努めているのでございますが、努力すればする程あたしの言葉が、下手になります。人間の正直な言葉ほど、滑稽で、とぎれとぎれで、出鱈目に聞えるものはない、と思えば、なんだか無性に悲しくなります。あたしの言葉は、しどろもどろで、ちっとも筋道がとおらないかも知れませんが、でも、心の中のものは、ちゃんと筋道が立っているのです。その、心の中の、まんまるいものが、なんだかむずかしくて、なかなか言葉で簡単には言い切れないのです。だから、いろいろ断片的に申し上げて、その断片をつなぎ合せて全部の感じをお目にかけようと、あせるのですけれども、なんだか、言えば言う程へまになって困ります。あたしは、愛しすぎているのかも知れません。常識を知らないのかも知れません。」
王妃。「みんなハムレットから教えられた理窟でしょう。いまの若い人たちは自己弁解の理窟ばかり達者で、いやになります。そんな、気取った言いかたをなさらず、いっそ、こう言ったらどうですか。あたしは、わからなくなりました、胸が一ぱいです、とだけおっしゃれば、私たちには、かえってよくわかります。あなたは、他の事だと、悪びれず大胆にはきはきおっしゃって、いい子なのに、ハムレットの事になると、へんな理窟ばかりおっしゃって、ご自分の恥ずかしさを隠そうとなさる。あなたは、まだ私に、すみませんというお詫びをさえ言っていません。」
オフ。「王妃さま。心から、すみませんと思って居れば、なぜだか、その言葉が口から出ないものでございます。あたしたちの今度の行いが、すみませんという一言で、ゆるされるものとは思われませぬ。あたしのからだ一めんに、すみませんという文字が青いインキで隙間も無く書き詰められているような気がしているのですけれど、なぜだか、王妃さまに、すみませんと申し上げる事が出来ないのです。白々しい気がするのです。ずいぶんいけない事をしていながら、ただ、すみませんと一言だけ言って、それで許してもらおうなんて考えるのは、自分の罪をそんな意識していない図々しい人のするわざです。あたしにはとても出来ません。ハムレットさまだって、やはり同じ事で、いまお苦しみなさっていらっしゃるのだと思います。何かで、つぐないをしなければいけない、とあせっていらっしゃるのだと思います。ハムレットさまも、あたしも、このごろ考えている事は、どうして王妃さまにお詫びをしようかという苦しみだけでございます。王妃さまは、いま、お淋しい御境遇なのですから、あたしたちは、お慰めしなければならないのに、ついこんな具合になってしまって、かえって、御心配をおかけして、こんな事は、悪いとか馬鹿とかそんな簡単な言葉では、とても間に合いません。死ぬる以上に、つらい思いがございます。あたしは、王妃さまを、ずっと昔から、本当に、お慕い申していたのです。それは、本当でございます。一生に一ぺんでも、王妃さまに、褒められたいと念じて、お行儀にも学問にも努めてまいりましたのに、まあ、あたしは何というお馬鹿でしょう。つい狂って、王妃さまに、一ばんすまない事を致しました。ハムレットさまだって、あたしに負けずに、いいえ、あたし以上に王妃さまを敬い、なつかしがっていらっしゃいます。あたしたちは、王妃さまが、いつまでもお達者で、お元気で居られるように祈っています。生きておいでのうちには、きっと、つぐないをしてお目にかけましょうと、あたしはハムレットさまに、しみじみお話申し上げた夜もございました。王妃さま、王妃さま、あら!」
王妃。「ごめんなさい。泣くまいと、さっきから我慢して心にも無い意地悪い事ばかり言っていました。オフィリヤ、私はあなたから、そんなに優しく言われ、慕われると、せつなくなります。この胸が、張り裂けるようでした。オフィリヤ、あなたは、いい子だね。あなたは、きっと正直な子です。おずるいところもあるようだけど、でもまあ、無邪気な、意識しない嘘は、とがめだてするものでない。そんな嘘こそ、かえって美しいのだからね。オフィリヤ、この世の中で、無邪気な娘の言葉ほど、綺麗で楽しいものはないねえ。それに較べると、私たちは、きたない。いやらしい。疲れている。あなたたちが、それでも私を、しんから愛してくれて、いつまでも生きていてくれと祈っている、という言葉を聞いて、私は、たまらなくなりました。ああ、あなたたちの為にだけでも、私は生きていなければ、ならないのに、オフィリヤ、ゆるしておくれ。」
オフ。「王妃さま、何をおっしゃいます。まるで、あべこべでございます。王妃さまは、何か他の悲しい事を思い出されたのでございましょう。おお、ちょうどよい。ここに腰掛がございます。さ、お坐りなさって、お心を落ちつけて下さいませ。王妃さまが、そんなにお泣きなさると、あたし迄が泣きたくなります。さ、こう並んで腰かけましょう。おや、王妃さま。これは先王さまの御臨終の時の腰掛でございましたね。先王さまが、お庭の此の腰掛にお坐りになって日向ぼっこをなされていると、急に御様子がお悪くなり、あたしたちの駈けつけた時には、もう悲しいお姿になって居られました。あれは、あたしが、新調の赤いドレスをその朝はじめて着てみた日の事でございましたが、あたしは、悲しいやら、くやしいやらで、自分の赤いドレスが緑色に見えてなりませんでした。うんと悲しい時には、赤い色が緑色に見えるようでございます。」
王妃。「オフィリヤ、もう、およし。私は、間違った! 私には、もう、なんにも希望が無いのです。何もかも、つまらない。オフィリヤ、あなたは、これからは気を附けて生きて行くのですよ。」
オフ。「王妃さま、お言葉が、よくわかりませぬ。でも、オフィリヤの事なら、もう御心配いりません。あたしは、ハムレットさまのお子を育てます。」
七 城内の一室
ハムレットひとり。
ハム。「馬鹿だ! 馬鹿だ、馬鹿だ。僕は、大馬鹿野郎だ。いったい、なんの為に生きているのか。朝、起きて、食事をして、うろうろして、夜になれば、寝る。そうして、いつも、遊ぶ事ばかり考えている。三種類の外国語に熟達したが、それも、ただ、外国の好色淫猥の詩を読みたい為であった。僕の空想の胃袋は、他のひとの五倍も広くて、十倍も貪慾だ。満腹という事を知らぬ。もっと、もっとと強い刺戟を求めるのだ。けれども僕は臆病で、なまけものだから、たいていは刺戟へのあこがれだけで終るのだ。形而上の山師。心の内だけの冒険家。書斎の中の航海者。つまり、僕は、とるにも足らぬ夢想家だ。あれこれと刺戟を求めて歩いて、結局は、オフィリヤなどにひっかかり、そうして、それっきりだ。どうやら僕はオフィリヤに、まいってしまっているらしい。だらしの無い話だ。ドンファンを気取って修行の旅に出かけて、まず手はじめにと、ひとりの小娘を、やっとの事で口説き落したが、その娘さんと別れるのが、くるしくて一生そこに住み込んで、身を固めたという笑い話。まず、小手しらべに田舎娘をだましてみて、女ごころというものを研究し、それからおもむろにドンファン修行に旅立とうという所存でいたのに、その田舎娘ひとりの研究に人生七十年を使ってしまったという笑い話。僕は、深刻な表情をしていながら、喜劇のヒロオだ。案外、道化役者の才能があるのかも知れぬ。このごろの僕の周囲は、笑い話で一ぱいだ。たわむれに邪推してみて、ふざけていたら、たしかな証拠があります等と興覚めの恐ろしい事を真顔で言われて、総毛立った。冗談から駒が出たとは、この事だ。入歯のおふくろが、横恋慕されたというのも相当の喜劇だ。ポローニヤスが、急に仔細らしく正義の士に早変りしたというのも噴飯ものだ。僕が、やがてパパになるというのも奇想天外、いや、それよりも何よりも、今夜の此の朗読劇こそ圧巻だ。ポローニヤスは、たしかに少し気が変になっているのだ。一挙に三十年も四十年も若返り、異様にはしゃぎ出して、朗読劇をやろうなんて言い出すのだから呆れる。イギリスの女流詩人のなんだか、ひどく甘ったるい大時代の作品を、ポローニヤスが見つけて来て、これを台本にして三人で朗読劇をやろうと言い出す始末なのだから恐れいる。しかもポローニヤスの役は、花嫁というのだから滅茶だ。なるほどその詩の内容は、いまの叔父上と母にとっては、ちょっと手痛いかも知れない。ポローニヤスは、此の朗読劇に、王と王妃を招待して、劇の進行中にお二人が、どんな顔をなさるか、ためしてみようという魂胆なのだが、馬鹿な事を考えたものだ。たとい真蒼な顔をなさったところで、それが、どんな証拠になるものか。また、平気で笑っていたとて、それが無罪の証拠になるとは限らぬ。お二人の感覚の、鋭敏遅鈍の判定は出来るだろうが、有罪、無罪の判定にはなりやしない。全く、ポローニヤスは、どうかしている。馬鹿らしいとは思っていながら、僕も又だらし無い。オフィリヤの親爺のご機嫌をそこねたくないばかりに、それはいい考えだなんてお追従を言って、ホレーショーにも賛成を強要し、三人で朗読の稽古をはじめたのは、きょうの昼過ぎだ。ホレーショーは、最初あんなに気がすすまないような事を言っていながら、稽古がはじまると急に活気づいて来て、ウイッタンバーグの劇研究会仕込みとかいう奇妙な台詞まわしで黄色い声を張りあげていた。あいつは、本当に正直な男だ。自分の感情を、ちっとも加工しないで言動にあらわす。どんな、へまを演じても何だか綺麗だ。いやらしいところが無い。しんから謙譲な、あきらめを知っている男だ。それに較べて此の僕は、ああ、馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。僕は、あきらめる事を知らない。僕の慾には限りが無い。世界中の女を、ひとり残らず一度は自分のものにしてみたい等と途方も無い事を、のほほん顔で空想しているような馬鹿なのだ。世界中の人間に、しんから敬服されたいものだ、僕の俊敏の頭脳と、卓抜の手腕と、厳酷の人格を時折ちらと見せて、あらゆる人間に瞠目させたい等と頬杖ついて、うっとり思案してもみるのだが、さて、僕には、何も出来ない。世界中の女どころか、お隣りの娘さんひとりを持てあまして死ぬほど苦しい思いをしている。卓抜の手腕どころか、僕には国の政治は、なんにもわからぬ。瞠目されるどころか、人に、だまされてばかりいる。人を、こわがってばかりいる。人を、畏敬してばかりいる。人が、僕にかたちばかりのお辞儀をしても、僕は、そのお辞儀を、まごころからのものだと思い込んで、たちまち有頂天、発狂気味にさえなって、その人の御期待にお報いせずんばあるべからずと、心にも無い英雄の身振りを示し、取りかえしのつかぬ事になったりして、みんなに嘲笑せられるくらいが落ちさ。人に悪口を言われても、その人の敵意には気が附かず、みんな僕の為を思って、言いにくい悪口でも無理に言ってくれるのだ、ありがたい、この御厚情には、いつの日かお報いせずんばあるべからずと、心の中の手帳にその人の名を恩人として明記して置くという始末なのだ。人から軽蔑せられても、かえってそれを敬意か愛情と勘違い恐悦がったりして五、六年経って一夜ふっとその軽蔑だった事に気附いて、畜生! と思うのだが、いや、実に、めでたい! かと思うとその反面に、打算の強いところもあって、友人達に優しくしてやって心の隅では、かならずひそかに、情は人のためならず等と考えているんだから、やりきれない男さ。底の知れない馬鹿とは、僕の事だ。どだい僕には、どんな人が偉いんだか、どんな人が悪いんだかその区別さえ、はっきりしない。淋しい顔をしている人が、なんだか偉そうに見えて仕様が無い。ああ、可哀想だ。人間が可哀想だ。僕も、ホレーショーも可哀想。ポローニヤスも、オフィリヤも、叔父さんもお母さんも、みんな、みんな可哀想だ。僕には、昔から、軽蔑感も憎悪も、怒りも嫉妬も何も無かった。人の真似をして、憎むの軽蔑するのと騒ぎ立てていただけなんだ。実感としては、何もわからない。人を憎むとは、どういう気持のものか、人を軽蔑する、嫉妬するとは、どんな感じか、何もわからない。ただ一つ、僕が実感として、此の胸が浪打つほどによくわかる情緒は、おう可哀想という思いだけだ。僕は、この感情一つだけで、二十三年間を生きて来たんだ。他には何もわからない。けれども、可哀想だと思っていながら、僕には何も出来ないんだ。ただ、そう思ってそれを言葉で上手に言いあらわす事さえ出来ず、まして行動に於ては、その胸の内の思いと逆な現象ばかりがあらわれる。なんの事は無い、僕は、なまけ者の大馬鹿なんだ。何の役にも立ちやしない。ああ、可哀想だ。まったく、笑い事じゃない。ホレーショーも、叔父さんも母も、ポローニヤスも、みんな可哀想だ。僕のいのちが役に立つなら、誰にでも差し上げます。このごろ僕には人間がいよいよ可哀想に思われて仕様がないんだ。無い智慧をしぼって懸命に努めても、みんな、悪くなる一方じゃないか。」
ポローニヤス。ハムレット。
ポロ。「ああ、いそがしい。おや、ハムレットさまは、もうこちらへおいでになっていたのですか。どうです、これは、ちょっとした舞台でしょう? わしが先刻、毛氈やら空箱やらを此の部屋に持ち込んで、こんな舞台を作ったのです。なあに、これくらいの舞台で充分に間に合いますよ。朗読劇でございますから、幕も、背景も要りません。そうでしょう? でも、何も無いというのも淋しいので、ここへ、蘇鉄の鉢を一つ置いてみました。どうです、この植木鉢一つで舞台が、ぐんと引き立って見えるじゃありませんか。」
ハム。「可哀想に。」
ポロ。「なんですって? 何が可哀想なんです。蘇鉄の鉢を、ここへ置いちゃ、いけないとおっしゃるのですか? それじゃ、もっと、舞台の奥のほうに飾りましょうか。なるほど、そう言われてみると、この舞台の端に置かれたんじゃ、蘇鉄の鉢も可哀想だ。いまにも舞台から落っこちそうですものね。」
ハム。「ポローニヤス、可哀想なのは、あなただよ。いや、あなただけでは無く、叔父さんも、母も、みんな可哀想だ。生きている人間みんなが可哀想だ。精一ぱいに堪えて、生きているのに、たのしく笑える一夜さえ無いじゃないか。」
ポロ。「いまさら、また、何をおっしゃる。可哀想だなんて縁起でも無い。あなたは、ひとの折角の計画に水を差して、興覚めさせるような事ばかりおっしゃる。わしは、ただ、あなたのお為を思って、此の度のこんな子供だましのような事をも計画してみたのですよ。わしは、あなた達の正義潔癖の心に共鳴を感じ、真理探求の仲間に参加させてもらったのです。他には、なんの野心もないのです。此の度の、あの怪しからぬ噂が、いったいどこ迄、事実なのか、此の朗読劇を御覧にいれて、ためしてみようという、――」
ハム。「わかった、わかった。ポローニヤス、あなたは、いかにも正義の士だよ。見上げたものです。けれども、自分ひとりの正義感が、他人の平穏な家庭生活を滅茶滅茶にぶちこわす事もあります。どちらが、どう悪いというのでは無い。はじめから、人間は、そんな具合に間がわるく出来ているのだ。叔父さんが、何か悪い事をしているという証拠を得たとて、どうなろう。僕たちみんなが、以前より一そう可哀想になるだけじゃないか。」
ポロ。「いや、ハムレットさま、失礼ながら、まだお若い。もし此のこころみに依って、王さまに何のうしろ暗いところも無かったという事が、わかったら、わしたちは申す迄も無くデンマークの国民ひとしく、ほっと安堵の吐息をもらし、幸福な笑顔が城中に満ちるでしょう。正義は必ずしも、人の非を挙げて責めるものではなく、ある時には、無実の罪を証明してその人を救ってやるものです。ポローニヤスは、その万一の幸福な結果をも期待しているのです。万一! 万一、そんな結果になったら、ああ、それは奇蹟に近い、いや、しかし、まあ、とにかく、やってみましょう。その後の事は、ポローニヤスに任せて下さい。決して悪いようには致しません。」
ハム。「ポローニヤス、一生懸命だね。可哀想に。僕には、みんなわかっているよ。ああ、いやだ。叔父さんが、たといどんな事をしていたって、かまわないじゃないか。叔父さんは、叔父さんの流儀で精一ぱいに生き伸びているだけなんだ。僕の気持は、どうやら、くるりと変ったようだ。けさまで、あんなに叔父さんを悪く言い、あの、いまわしい噂の根元を突きとめなければなんて騒ぎ立てていたのだが、ポローニヤス、あれは、あなたに見事ぐさりと突かれたように、醜聞の風向きを変えるためだったのかも知れぬ。やっぱりてれ隠しの道具に使っているだけの事だったのかも知れぬ。先刻、あなたから、たしかな証拠が、残念ながらありますと言われて、急に叔父さんを可哀想になってしまった。可哀想だ。叔父さんは精一ぱいなのだ。叔父さんは、そんな、馬鹿な、悪い事の出来る人じゃない。叔父さんは、僕以上に弱い人なんだ。一生懸命に努めているのだ。ああ、僕は馬鹿だ。叔父さんを冗談にも一時、疑っていたなんて、僕はおっちょこちょいの、恥知らずだ。ポローニヤス、もう正義ごっこは、やめにしようよ。この軽薄な遊戯が、どんな恐ろしい結果になるか、ああ、その恐ろしい結果を考えると、生きて居られない気持がする。」
ポロ。「どうも、あなたは大袈裟でいけません。けさほどは、くるしいとい言葉の連続、ただいまは、可哀想の連発。どこで教えられて来たのか、ひとつ覚えみたいに、連発していらっしゃる。世の中は、情緒だけのものじゃありません。正義と、意志です。立派に生き果すためには、憐憫や反省は大の禁物。あなたは、オフィリヤの事だけを考えて居れば、それでいいのです。ハムレットさまに較べると、ホレーショーどのなんかは、淡泊で無邪気で、本当に青年らしい単純な夢の中で生きています。少しは見習いなさいよ。ホレーショーどのは、もう、此の朗読劇の底の魂胆を忘れてしまったかのように、ただただ、芝居をするという事の嬉しさに浮かれ、あんなに熱心に稽古をしていたじゃありませんか。あれでいいのです。あなたは、台詞の稽古は充分ですか。間もなくお客さまたちが、ここへお見えになりますよ。ホレーショーどのが、いま皆さまをお誘い申しにあがったのです。あのひとは、たいへんな張りきりかたですね。内心は、花嫁の役のほうをやりたかったらしいんですけど、あの役は、わしでなければ、うまく出来ない。おや、もうお客さまたちが、やって来たようです。」
王。王妃。侍者数名。ホレーショー。ポローニヤス。ハムレット。
王。「やあ、今夜はお招きを有難う。ホレーショーが、ウイッタンバーグ仕込みの名調子を聞かせてくれるというので、皆を連れて拝聴にまいりました。ほんの近親の者たちばかりで、こういう催しをするのは、実にたのしいものですね。一家団欒というものが、やっぱり人生の最高の幸福なのかも知れない。わしには、このごろ、たのしい事がなくなりました。人生は、どうも重苦しい事ばかりです。本当に、今夜は有難う。ハムレットも、きょうは元気のようですね。親友のホレーショーと遊んでいると機嫌もなおるものと見える。これからは時々こんな催し事をするがよい。ハムレットの気も晴れるでしょう。」
ポロ「はい、実は、わしもその積りで、としを忘れて青年の劇団に加入させてもらいました。まず、此のたびの御即位と御婚儀のお祝いのため、つぎには、ハムレットさまのお気晴し、最後に、ホレーショーどのの外国仕込みの発声法御披露のため、この発声法は又、格別に見事なもので。」
ホレ。「ひやかしちゃ困ります。発声法などと言われては、かえって声が出なくなります。さあ、王妃さま、どうぞ。観客席はそちらでございます。どうぞ、お坐り下さいまし。」
王妃。「足もとから鳥が飛び立つように、朗読劇なんか、どうしてはじめる事にしたのでしょう。ハムレットの気まぐれか、ポローニヤスの悪智慧か、ホレーショーは、いい加減におだてられて使われているようですし、何にしても合点のゆかぬ事ですね。」
王。「ガーツルード。芝居の通人は、そんなわかり切った事は言わぬものです。さあ、皆もお坐り。うむ、なかなか舞台もよく出来た。ポローニヤスの装置ですか。意外にも器用ですね。人は、それでも、どこかに取柄があるものだ。」
ポロ。「たしかに。いまに、もっと器用なところを御覧にいれます。さて、それでは、ハムレットさま、舞台へあがりましょう。ホレーショーどのも、どうぞ。」
ハム。「アルプスの山よりも、高いような気がする。断頭台に、のぼるか、よいしょ。」
ホレ。「初演の時は、どなたでも舞台が高くて目まいがします。僕は、三度目だから大丈夫。あ! 足が滑った。」
ポロ。「ホレーショーどの、気を附けて下さい。空箱を寄せ集めて作ったのですから、でこぼこがあるのです。では、皆さま。わたしたち三人、これこそは正義の劇団。こよいは、イギリスの或る女流作家の傑作、『迎え火』という劇詩を演出して御覧にいれまする。不馴れの老爺もまじっている劇団ゆえ、むさくるしいところもございましょうが御海容のほど願い上げます。ホレーショーどのは、外国仕込みの人気俳優、まず、御挨拶は、そちらから。」
ホレ。「え? 僕は、その、何も、いや、困ります。僕は、ただ、花聟の役を演じてみたいと思っているだけなのです。」
ポロ。「かく申す拙者は、花嫁の役を演じ上げます。」
王妃。「気味が悪い。ポローニヤスどのは、お酒に酔っているらしい。」
王。「酒どころか。もっと、ひどい。あの眼つきを見なさい。」
ハム。「僕は、亡霊の役だそうです。ポローニヤス、早くはじめたら、どうですか。観客が、酔っぱらい劇団だと言っていますよ。」
ポロ。「なに、酔ってないのは、わしだけさ。ばかばかしいが、はじめましょう。では、皆さま。」
花嫁。(ポローニヤス。)
恋人よ。やさしいおかた。しっかり抱いて下さいませ。
あの人が、あたしを連れて行こうとします。
ああ、寒い。
松かぜの音のおそろしさ。この冷たい北風は、あたしのからだを凍らせます。
遠い向うの、
遠い向うの、
森のかげから、ちらちら出て来た小さいともし火。
あれは、あたしの迎え火です。
花聟。(ホレーショー。)
おお、抱いてやるとも、私の小鳩。
向うの森のあたりには、星がまばたいているだけだ。
あやしい者は、どこにもいない。
朔風の勁い夜には、星の光も、するどいものです。
亡霊。(ハムレット。)
もし、
もし。
花嫁さん。
一緒においで。よもや、わしを、見忘れた筈はあるまい。
わしの声は、こがらし。わしの新居は泥の底。
わしと一緒に来ておくれ。
氷の寝床に来ておくれ。
呼んでいるのは、私だよ。忘れた筈は、よもや、あるまい。
おいで、と昔ひとこと言えば、はじらいながら寄り添った咲きかけの薔薇。
いまは、重く咲き誇るアネモネ。
綺麗な嘘つき。
おいで。
花嫁。(ポローニヤス。)
あなた。もっと強く抱いて!
あの人は、昔の影で、あたしを苦しめに来ています。
あの人は、冷たい指で、あたしの手頸を掴んでいます。
ああ、あなた。しっかり抱いて下さいませ。あたしのからだが、あなたの腕から、するりと抜けて、あの森の墓地までふわふわ飛んで行きそうです。
あの松籟は、人の声。
ふとした迷いから、結んだ昔の約束を、絶えず囁く。ひそひそ語る。
あなたもっと強く抱いて!
ああ、おろかしい過去のあやまち。
あたしは、だめだわ。
花聟。(ホレーショー。)
私が、ついている。
なくなった人のことを今更おそれるのは、不要の良心。
私が、ついている。
あやしい者は、どこにもいない。
風の音がこわかったら、しばらく耳をふさいでいなさい。
亡霊。(ハムレット。)
おいで。
耳をふさいでも、目をつぶっても、わしの声は聞える筈、わしの姿も見える筈。
行こう。
さあ、行こう。
むかしの約束のとおりに、わしはお前を大事に守ってあげるつもりだ。
お前の寝床の用意もしてある。醒めることの無い、おいしい眠りを与えてくれる佳い寝床だ。
さあ、おいで。
わしの新居は泥の底。ともかくも、ひたむきに一心不乱に歩いて、行きついた道の終りだ。
さあ、行こう。わし達の昔の誓いを果すのだ。
花嫁。(ポローニヤス。)
あなた。
もう、抱いてくださるには及びませぬ。だめなの。
こがらしの声のあの人は、無理矢理あたしを連れて行きます。
左様なら。
あたしがいなくなっても気を落さず、お酒もたんと召し上れ。ひなたぼっこも、なさいませ。
ああ、もう少し。もう一言。
わかれの言葉も髪もキスも、なにも、あなたに残さずに、あたしは連れてゆかれます。
もう、だめなの。
あたしを忘れないで下さいませ。
亡霊。(ハムレット。)
むだな事だ。
そんな、いじらしい言葉は、むだです。
お前は、その花聟の心を知らぬ。
お前の愛するその騎士は、お前が去って三日目に、きっとお前を忘れます。
うつくしい、それゆえ脆い罪のおんなよ。
お前は、やがてあの世で、わしがきょう迄くるしんだ同じ苦しみを嘗めるのだ。
嫉妬。
それがお前の、愛されたいと念じた揚句の収穫だ。
実に、見事な収穫だ。
いまに、その花嫁の椅子には、お前よりもっと若く、もっと恥じらいの深い小さい女が、お前とそっくりの姿勢で腰かけて、花聟にさまざまの新しい誓いを立てさせ、やがて子供を産むだろう。
この世では、軽薄な者ほど、いつまでも皆に愛されて、仕合せだ。
さあ、行こう。
わしとお前だけは、
雨風にたたかれながら、
飛び廻り、泣き叫び、駈けめぐる!
王妃。「よして下さい! ハムレット、いい加減に、およしなさい。これは一体、誰の猿智慧なんです? ばかばかしくて、見て居られません。どうせ、いやがらせをなさる積りなら、も少し気のきいた事でやって下さい。あなたがたは卑怯です。陋劣です。私は、おさきに失礼します。なんだか、吐きそうになりました。」王。「ちっとも怒る事は、ありません。面白いじゃないか。まだ、此のつづきもあるようです。ポローニヤスの花嫁は、お手柄でした。もっと強く抱いて、と息をつめて哀願するところもよかったし、あたしは、だめだわと言って、がくりと項垂れるところなど、実に乙女の感じが出ていました。うまいものですね。」
ポロ。「お褒めにあずかって、おそれいります。」
王。「ポローニヤス、あとで、わしの居間にちょっとおいでを願います。ハムレットは、台本に無い台詞まで言っていましたね。でも、なんだか熱が無かった。表情が投げやりでした。」
王妃。「私は、失礼いたします。こんな下手くその芝居は、ごめんです。ポローニヤスの花嫁には、海坊主の花聟でなければ釣合がとれません。では、おさきに。」
王。「まあ、お待ちなさい。ハムレット、もう此の芝居は、すんだのですか?」
ハム。「ああ、すみました。もっと、つづきもあるんですけど、どうだっていいんです。もうよしましょう。芝居を演ずるのが、真の目的ではなかったのですから。さあ、みなさん、お帰り下さい。どうも今夜は、お退屈さまでした。」
王。「そんなところだろうと思っていました。さあ、ガーツルード、それでは、わしも一緒に失礼しましょう。いや、なかなか面白かった。ホレーショー、ウイッタンバーグ仕込みの名調子は、どもりどもり言うところに特色があるようですね。」
ホレ。「いやしい声を、お耳にいれました。どうも、此の朗読劇に於ては、僕は少し役不足でありました。」
王。「ポローニヤスは、あとでちょっと、わしの居間に。では、失礼。」
ポローニヤス。ハムレット。ホレーショー。
ポロ。「一筋縄では、行かぬわい。」
ホレ。「なにほどの事も、無かったようですねえ。」
ハム。「当り前さ。王妃は怒り、王は笑った。それだけの事がわかったとて、それが、何の鍵になるのだ。ポローニヤス、あなたは、馬鹿だよ。オフィリヤ可愛さに、少し、やきがまわったようですね。わしとお前だけは、雨風にたたかれながら、飛び廻り、泣き叫び、駈けめぐる!」
ポロ。「なに、事件は、これから急転直下です。まあ、見ていて下さい。」
八 王の居間
王。ポローニヤス。
王。「裏切りましたね、ポローニヤス。子供たちを、そそのかして、あんな愚にも附かぬ朗読劇なんかをはじめて、いったい、どうしたのです。気が、へんになったんじゃないですか? 自重して下さい。わしには、たいていわかっています。君は、あんなふざけた事をしてわしたちを、おどかし、自分の娘の失態を、容赦させようとたくらんでいるのでしょう? ポローニヤス、やっぱり、あなたも親馬鹿ですね。なぜ直接に、わしに相談しないのですか。うらみがあるなら、からりとそのまま打ち明けてみたらいいのだ。君は、不正直です。陰険です。それも、つまらぬ小細工ばかり弄して、男らしい乾坤一擲の大陰謀などは、まるで出来ない。ポローニヤス、少しは恥ずかしく思いなさい。あんな、喙の青い、ハムレットだのホレーショーだのと一緒になって、歯の浮くような、きざな文句を読みあげて、いったい君は、どうしたのです。なにが朗読劇だ。遠い向うの、遠い向うの、とおちょぼ口して二度くりかえして読みあげた時には、わしは、全身、鳥肌になりました。ひどかったねえ。見ているほうが恥ずかしく、わしは涙が出ました。君は、もとから神経が繊細で、それはまた君の美点でもあり、四方八方に、こまかく気をくばってくれて、遠い将来の事まで何かと心配し、わしに進言してくれるので、わしは大変たすかり、君でなくてはならぬと、心から感謝し、たのもしくも思っていたのですが、それが同時に君の欠点でもあって、豪放磊落の気風に乏しく、物事にこせこせして、愚痴っぽく、思っていることをそのまま言わず、へんに紳士ふうに言い繕う癖があります。詩人肌とでもいうのでしょうかね。どうも陰気でいけません。胸の中に、いつも、うらみを抱いているように見えるものですから、城中の者どもにも、けむったがられ、あまり好かれないようじゃありませんか。たいして悪い事も出来ない癖に、どこやら陰険に見えるのです。性格が、めめしいのです。濁っているのです。」
ポロ。「この王にして、この臣ありとでも言うところなのでしょう。ポローニヤスのめめしいところは、王さまからの有難い影響でございましょう。」
王。「血迷って、何を言うのです。無礼です。何を言うのです。その、ふくれた顔つきは、まるで別人のように見えます。ポローニヤス、君は、本当に、どうかしているのではないですか。さきほどは、あんな薄気味のわるい黄色い声を出して花嫁とやらの、いやらしい役を演じ、もともと神経が羸弱で、しょげたり喜んだり気分のむらの激しい人だから、何かちょっとした事件に興奮して地位も年齢も忘れて、おどり出したというわけか、でも、それにも程度がある、ポローニヤスとわしとは、三十年間、謂わばまあ同じ屋根の下で暮して来たようなものですが、今夜のように程度を越えた醜態は、はじめてだ、これには、或いは深いわけがあるのかも知れぬ、ゆっくり問いただしてみましょう、と思ってわしは君をここへお呼びしたのですが、なんという事です。一言のお詫びどころか、顔つきを変えて、このわしに食ってかかる。ポローニヤス! さ、落ちついて、はっきり答えて下さい。君は、いったい、なんだってあんな子守っ子だって笑ってしまうような甘ったるい芝居を、年甲斐もなくはじめる気になったのですか。とにかくあの芝居は、いや、朗読劇か、とにかくあの、くだらない朗読劇は、君の発案ではじめたものに違いない。わしには、ちゃんとわかっています。ハムレットだって、ホレーショーだって、もっと気のきいた台本を択びます。あんな大仰な、身震いせざるを得ないくらいの古くさい台本は、君でなくては、択べません。何もかも、君の仕業です。さ、ポローニヤス、答えて下さい。なんだってあんな、無礼な、馬鹿な真似をするのです。」
ポロ。「王さまは御聡明でいらっしゃるのですから、べつにポローニヤスがお答え申さずとも、すべて御洞察のことと存じます。」
王。「こんどは又、ばか丁寧に、いや味を言う。すねたのですか? ポローニヤス、そんな気取った表情は、およしなさい。ハムレットそっくりですよ。君も、ハムレットのお弟子になったのですか? さっき王妃から聞いた事ですが、このごろあちこちにハムレットのお弟子があらわれているそうですね。ホレーショーは、あれは前からハムレットには夢中で、口の曲げかたまでハムレットの真似をしているのですが、このごろはまた、わかい女のお弟子も出来たそうです。それからまた、ただいまは、おじいさんのお弟子も出来たようです。ハムレットも、こんなにどしどし立派な後継者が出来て、心丈夫の事でしょう。ポローニヤス、いいとしをして、そんなにすねるものではありません。不満があるなら、からりと打ち明けてみたら、どうですか。オフィリヤの事なら、わしはもう覚悟をきめています。」
ポロ。「おそれながら、問題は、オフィリヤではございません。あれの運命は、もうきまって居ります。田舎のお城に忍んで行って、ひそかにおなかを小さくするだけの事です。そうしてわしは、職を辞し、レヤチーズの遊学は中止。わしたち一家は没落です。それはもう、きまっている事です。ポローニヤスは、あきらめて居ります。ハムレットさまは、やはりイギリスから姫をお迎えなさらなければなりませぬ。一国の安危にかかわる事です。オフィリヤも不憫ではありますが、国の運命には、かえられませぬ。ポローニヤス一家は、いかなる不幸にも堪え忍んで生きて行くつもりでございますから、その点は御安心下さい。さて、問題は、オフィリヤではございませぬ。問題は、正義です。」
王。「正義? 不思議な事を言いますね。」
ポロ。「正義。青年の正義です。ポローニヤスは、それに共鳴したという形になっているのでございます。王さま、いまこそポローニヤスは、つつまず全部を申し上げます。」
王。「なんだか、朗読劇のつづきでも聞かされているような気がします。へんに芝居くさく、調子づいて来たじゃありませんか。」
ポロ。「王さま、ポローニヤスは真面目です。王さまこそ、そんなに茶化さずに、真剣にお聞きとりを願います。まず第一に、わしから王さまにお伺い申し上げたい事がございます。王さまは、このごろの城中の、実に不愉快千万の噂に就いて、どうお考えになって居られますか。」
王。「なんですか、君の言う事は、よくわからないのですが、オフィリヤの噂だったら、わしは、けさはじめて君から聞いて知ったので、それまでには夢にも思い設けなかった事でした。」
ポロ。「おとぼけなさっては、いけません。オフィリヤの事など、いまは問題でございません。それはもう、解決したも同然であります。わしのいまお伺い申しているものは、もっと大きく、おそろしく、なかなか解決のむずかしい問題でございます。王さまは、本当に何もご存じないのですか。お心当りが無いのでしょうか。そんな筈はない。そんな筈は、――」
王。「知っている。みな知っています。先王の死因に就いて、けしからぬ臆測が囁き交されているという事は、わしも承知して居ります。怒るよりも、わしは、自分の不徳を恥ずかしく思いました。そんな途方も無い滅茶な噂が、まことしやかに言い伝えられるのも、わしの人徳のいたらぬせいです。わしは、たまらなく淋しく思っています。けれども、噂は、ひろがるばかりで、このごろは外国の人の耳にもはいっている様子でありますから、このまま、わしが自らを責めて不徳を嘆いているだけでは、いよいよ噂も勢いを得て、とりかえしのつかぬ事態に立ちいたるかも知れぬと思い、この噂の取締りに就いて、君と相談してみたいと考えていたところでした。わしは、まあ、平気ですが、王妃は、やはり女ですから、ずいぶん此の噂には気を病んで、このごろは夜もよく眠っていない様子であります。このまま荏苒、時を過ごしていたなら、王妃は死んでしまいます。わしたちの、つらい立場を知りもせぬ癖に、わかい者たちは何かと軽薄な当てこすりやら、厭味やらを言って、ひとの懸命の生きかたを遊戯の道具に使っています。なさけ無い事と思っていたら、こんどは君まで、どんな理由か、わかりませんが、わかい者の先に立って躍り狂っているのだから、本当に世の中がいやになります。ポローニヤス、まさか君まで、あの噂を信じているわけじゃないだろうね。」
ポロ。「信じて居ります。」
王。「なに?」
ポロ。「いいえ、信じて居りません。けれども、わしは信じている振りをしていようと思っています。ポローニヤスの、これが置土産の忠誠でございます。王さま、いや、クローヂヤスさま。三十余年間、臣ポローニヤスのみならず、家族の者まで、御寵愛と御庇護を得てまいりました。此度オフィリヤの残念なる失態に依り、おいとましなければならなくなって、ポローニヤスの胸中には、さまざまの感慨が去来いたして居ります。つらい別離の御挨拶を申し上げる前に、一つ、忠誠の置き土産、御高恩の万分の一をお報いしたくて、けさほどから、わかい人たちに対して、最善と思われる手段を講じて置きました。わかい人たちは、あの噂を、はじめは冗談みたいに扱って、たわむれに大袈裟に騒ぎまわっていたのですが、わしはその騒ぎを否定せず、かえって、あの噂には根拠がある、あの噂は本当だと教えてあげました。」
王。「ポローニヤス! それが、なんの忠誠です。若い者をそそのかし、蜚語を撒きちらして、忠誠も御恩報じもないものだ。ポローニヤス、君の罪は、単に辞職くらいでは、すまされません。わしは、君を見そこなった。こんな、くだらぬ男だとは思わなかった。」
ポロ。「お怒りは、あと廻しにしていただきたく思います。もし、ポローニヤスの此度の手段が間違って居りましたら、どんな御処刑でも甘んじてお受け致します。クローヂヤスさま、おそれながら此度の奇怪の噂は、意外なほど広く諸方に伝えられ、もみ消そうとすればするほど、噂の火の手はさかんになり尋常一様の手段では、とても防ぐ事の出来ぬと見てとりましたので、死中に活を求める手段、すなわち、わしが頗る軽率に騒ぎ出して、若い人たちに興覚めさせ、王に同情の集るように仕組んだものでございますが、果して、もうハムレットさまも、ホレーショーも、いまでは、わしが正義、正義と連呼して熱狂する有様に閉口し、王さまの弁護をさえ言い出している始末でございます。この風潮が、城中の奥から起って、やがて、ざわざわ四方に流れていって、噂の火焔を全部消しとめてくれるのも、遠い将来ではございますまい。すべてが、うまく行ったようです。噂というものは、こちらで、もみ消そうとするとかえって拡がり、こちらから逆に大いに扇いでやると興覚めして自然と消えてしまうものでございます。わしだって、いいとしをして、若い人たちにまじって、やれ正義だの、理想だのと歯の浮くような気障な事を言って、とうとう、あの花嫁の役まで演じなければならなくなり、ずいぶんつらい思いをしました。いま考えても、冷汗が湧きます。微衷をお汲み取り願い上げます。」
王。「よく言った。見事な申し開きでありました。けれども、ポローニヤス、わしは子供ではありません。そんな、馬鹿げた弁解を、どうして信じる事が出来ましょう。信じたくても、馬鹿らしくて、つい失笑してしまいます。噂の火の手を消すために、逆に大いに扇いだ、なんて、そんな、馬鹿な、子供だましの言い繕いは、ハムレットあたりに聞かせてあげると、或いは感服させる事が出来るかも知れんが、わしには、ただ滑稽に聞えますよ。たいへんな忠臣も、あったものだ。ポローニヤス、もう何も言うな! ばからしくて聞いて居られぬ。わしから言ってあげます。君は、ガーツルードに、昔から或る特種な感情を抱いて居った筈でした。この度、先王が急になくなって、ガーツルードが悲嘆の涙にくれていた時、君の慰めの言葉には、異様な真情がこもっていたので、わしには、はっきりわかったのです。不埒なやつだ。あわれな男だ、とその時から、わしは君を、ひそかに警戒していたのです。ポローニヤス、君は、ご自分では気が附かず、ただもう、いらいらして、オフィリヤの失態に極度に恐縮してみたり、かと思うと唐突に、正義だの潔癖だのと言い出して子供たちのお先棒をかついで、わしたちに当り散らしたり、または、遽かに忠臣を気取ってみたり、このたびのオフィリヤの事件を転機として、しどろもどろに乱れていますが、それは君のきょうまで堪えに堪えて来た或る種の感情が、いま頗る滑稽な形で爆発したというだけの事です。君は、ご自分では気がつくまい。ただもう、いらいらして、老いのかんしゃく玉を誰かれの区別なくぶっつけてやりたいような気持なのでしょうが、ポローニヤス、その気持は、昔から或る名前で呼ばれて、ちゃんと規定されてあります。さっきの朗読劇でハムレットの読み上げた言葉の中にもありましたね。気がつきましたか。嫉妬、と呼ばれているようですね。」
ポロ。「ぷ! 自惚れもたいがいになさいまし。恋ゆえ人は、盲目にもなるようです。王さまこそ、どうかなさって居られます。ご自分が恋していらっしゃると、人も皆、恋しているもののように見えるらしい。とにかく、その、嫉妬とやらいうお言葉だけは、お返し申し上げます。ポローニヤスは、男やもめの生活こそ永く致してまいりましたが、不面目の色沙汰ばかりは致しませぬ。王さまこそ、へんな嫉妬をなさって居られる。本当に、王さまの只今の御心情こそ、嫉妬とお呼びして然るべきものと存じます。永い間の秘めたる思いが先方にとどいて、王さまも、お喜びなさって居られるのが当然のところ、こんな、わしみたいな野暮ったい老人にまで嫉妬なさるとは、さては、お内の首尾があまり上乗でないと、ポローニヤス拝察つかまつりますが、いかがなものでありましょう。」
王。「だまれ! ポローニヤス、気が狂ったか。誰に向って言っているのだ。娘の失態から、もはや、破れかぶれになっているものと見える。いまの無礼の雑言だけでも充分に、免職、入牢の罪に価いします。けがらわしい下賤の臆測は、わしの最も憎むところのものだ。ポローニヤス、建設は永く、崩壊は一瞬だね。君の三十年間の忠勤も、今宵の無礼で、あとかたも無く消失した。はかないものだね。人の運命なんて、一寸さきも予測出来ないものだね。どんな事になるものか、まるっきり、わからない。宿命を、意志でもって左右できると、わしは之まで信じていたが、やっぱり、どこかに神のお思召しというものもあるらしい。ポローニヤス。わしは、ついさきまで君を、ゆるして上げるつもりで居りました。オフィリヤの事も、わしは最悪の場合を覚悟していたのです。ハムレットが、真実、オフィリヤにまいっていて、わしたちの忠告に耳を傾けてくれそうも無い時には、仕方がありません、イギリスの姫の事は断念して、オフィリヤとの結婚を、ゆるしてあげるつもりでした。王妃は、もはや、オフィリヤの味方になっています。王妃は、きょうの夕刻このわしに、泣いて跪いてたのみました。きょう迄わしを冷笑して来たガーツルードが、はじめて誇りを捨ててたのみました。わしとしても、覚悟せざるを得なかった。イギリスから姫を迎える事は、重大な政策の一つではあったが、わが家を不和にして迄、それを敢行する勇気は、わしには無いのだ。わしは、弱い! 良い政治家ではないようだ。デンマーク国の運命よりも、一家の平和を愛している。よい夫、よい父にさえなれたら、それで満足なのです。わしには、国王の資格が無いのかも知れぬ。わしは君たちを、ゆるしてやろうと思っていました。みんな、弱い者同志だ。助け合って、これからも仲良くやって行こうと覚悟をきめた矢先に、ポローニヤス、君はなんという馬鹿な男だろう。ひとりで、ひがんで、君たち一家が、もう没落するものとばかり思い込み、自暴自棄になってしまって、王妃には、かなわぬ恋の意趣返し、つまらぬ朗読劇などで、あてこすりを言い、また、此のわしには、はじめは忠臣の苦肉の策だ等と言いくるめようとして、見破られると今度は居直って、無礼千万の恐喝めいた悪口雑言をわめき立てる。ポローニヤス、わしは、もう君たちを許すのが、いやになった。君は、おろかだ。見え透いている。わしは、人間の悪を許す事は出来ますが、人間のおろかさは、許す事が出来ない。愚鈍は、最大の罪悪だ。ポローニヤス、此度は、職を辞するくらいでは、済みませんよ。わかっているでしょうね。」
ポロ「嘘だ! 嘘だ。王さまの、おっしゃる事は、みな嘘だ。ハムレットさまとオフィリヤとの結婚を、ゆるす気でいらっしゃったなんて、嘘も嘘、大嘘だ。お弱い? よい政治家ではない? デンマーク国よりも、一家の平和のほうを愛していらっしゃる? 何もかも嘘だ。王さまほどのお強い、卓抜の手腕をお持ちの政治家は、欧洲にも数が少うございます。ポローニヤスは、かねてより、ひそかに舌を巻いて居ります。王さま、おかくしになってはいけません。此の部屋には、王さまと、ポローニヤスと二人きり、他には誰も居りません。時刻も、もはや丑満時です。城内の者は、もとより、軒端に宿る小鳥たち、天井裏に巣くう鼠、のこらずぐっすり眠って居ります。聞いている者は、誰も無い。さあ、おっしゃって下さい。ポローニヤスは何もかも、よく存じ上げて居るのです。王さまは、此の二箇月間、ポローニヤスの失脚の機会を、ひそかにねらって居られた筈です。」
王。「つまらぬ語ばかり言っている。丑満時が、どうしたというのです。恥ずかしげもなく、芝居がかった形容詞を並べたて、いったい、何をそんなに、いきまいているのですか? みっともない。ポローニヤス、もう、おさがりなさい。追って、申し渡す事があります。」
ポロ。「いますぐ、お沙汰を承りましょう。ポローニヤスは、覚悟をしています。とても、のがれられぬと、あきらめて居ります。此の二箇月間、わしは王さまに、つけねらわれて居りました。何か失態は無いものかと鵜の目、鷹の目で、さぐられていたのです。わしはそれを知っていたので、何事も、王さまの御意向にさからわぬよう充分に気をつけて、きのう迄は、どうやら大過なく勤めて来たつもりで居りました。わが子のレヤチーズを、フランスへ遊学にやったのも、一つには、王さまの恐しい穿鑿の眼から、のがれさせてやる為でもありました。わしに失態が無くとも、レヤチーズが若い粗暴の振舞いから何かしくじりを、しでかさぬものでもない。レヤチーズに多少の落度でもあったなら、待っていたとばかりに王さまは、わしの一家を罰して葬り去るのは、火を見るより明かな事ゆえ、わしは万全を期してレヤチーズをフランスへ逃がしてやり、やれ安心と思うまもなく、意外、残念、わしの一ばん信頼していたオフィリヤが、とんでも無い間違いをやらかしているのを、きのう知って、足もとの土が、ざあっと崩れて、もう駄目だと観念いたしました。いまは、せめてオフィリヤの幸福だけでもと、藁一すじに縋る気持で、けさほどハムレットさまに御相談申し上げたところ、失礼ながらハムレットさまは未だお若く、黒雲がもくもく湧き立ったとか、乱雲が覆いかぶさったとか、とりとめのない事を口走るばかりで一向に、たよりにも何もなりませぬ。よくおたずねしてみたら、ハムレットさまは只今、オフィリヤの事よりも、先王の死因に就いてのあの恐ろしい噂の事ばかり気にして居られて、必ず噂の根元を突きとめてみたい、と意気込んでおっしゃるような始末なので、こんな無分別なお若い人たちのなさる事を黙って傍観していると、藪から蛇みたいな、たいへんな結果が惹起するかも知れぬ、ここはポローニヤス、一世一代の策略、または忠誠の置土産、躊躇せずに若い人たちの疑惑を支持し、まっさき駈けて、正義を叫び、あのような甘ったるい朗読劇を提唱し、若い人たちのほうで呆れて、興覚めするように仕組んだのだという事は、まえにも申し上げましたが、王さまは、てんで信じて下さいませんでした。わしの心の奥隅には、やはりオフィリヤがいじらしく、なんとかして、あの子だけでも仕合せになれるように祈っているところもあったのでございましょう。いやな疑惑を一刻も早く、ハムレットさまのお心から追い払ってあげて、そうしてあとはオフィリヤの事ばかりを考えて下さるよう、全力を挙げてオフィリヤの為にたたかって下さるよう、そのような、オフィリヤの為にもよかれ、と思って仕組んだところも無いわけではなかった。けれども、決してそればかりでは、ございません。王さま、お信じ下さい! 人間には、よい事をしたいという本能があります。ひとに感謝をされたいと思って生きているものです。ポローニヤスは、きょう一日、王さまのため、王妃さまのため、ハムレットさまのため、忠誠の立派な置土産をしたつもりで居ります。お褒めにあずかって当然のところ、おろかな言い繕いだの、破れかぶれだのおっしゃって嘲笑なされ、はては、嫉妬なぞと思いも掛けぬ濡衣を着せようとなさるので、ポローニヤスもつい我慢ならず、失礼な雑言を口走りました。ポローニヤスは、もはや観念して居ります。王さまは此の二箇月間、ポローニヤスがこのような窮地に落ちいるのを、待ちに待って居られたのです。さぞ、本懐でございましょう。ポローニヤスは、なるほど馬鹿でございます。デンマーク一ばんの、おろか者でございます。どうせこんな結果になるのが、はじめからわかっていたのに、忠誠の置土産などと要らざる義理立てをしたばかりに、かえって不利な立場に押し込まれました。御処罰も、数段と重くなった事でございましょう。自ら墓穴を掘りました。」
王。「ああ、わしは眠っていました。たくみな台詞まわしに、つい、うっとりしたのです。ポローニヤス、少し未練がましくないかね。いまさら愚痴を並べてみても、はじまらぬ。おさがりなさい。わしの心は、きまっています。」
ポロ。「わるいお方だ。王さま、あなたは、わるいお方です。わしは、あなたを憎みます。申しましょうか。あの事を、わしは知らないと思っているのですか。わしは、見たのです。此の眼で、ちゃんと見たのです。二箇月前、あれを、一目見たばかりに、それ以来わしは不幸つづきなのだ。王さまは、わしに見られた事に気附いて、それからわしを失脚させようと鵜の目、鷹の目になられたのです。わしは、王さまから嫌われてしまった。そのうち必ず、わしは窮地におとされて、此の王城から追い払われるだろうとわしは覚悟をしていました。ああ、見なければよかった。何も、知らなければよかった。正義! 先刻までは見せかけだけの正義の士であったが、もういまは、腹の底から、わしは正義のために叫びたくなりました。」
王。「さがれ! 聞き捨てならぬ事を言う。自分の過失を許してもらいたいばかりに、何やら脅迫がましい事まで口走る。不潔な老いぼれだ。さがれ!」
ポロ。「いや、さがらぬ。わしは見たのだ。ふたつき前の、あの日、忘れもせぬ、朝は凍えるように寒かったが、ひる少しまえから陽がさして、ぽかぽか暖くなって先王は、お庭に、お出ましなさったが、その時だ、その時。」
王。「乱心したな! 処罰は、ただいま与えてやる。」
ポロ。「処罰、いただきましょう。わしは見たのだ。見たから、処罰をもらうのだ。あ! 畜生! 短剣の処罰とは!」
王。「ゆるせ。殺すつもりは無かったが、つい、鞘が走って、突き刺した。さきほどからの不埒の雑言、これも自分の娘可愛さのあまりに逆上したのだ、不憫の老人と思い怺えて聞いていたのだが、いよいよ図に乗り、ついには全く気が狂ったか、奇怪な恐ろしい事までわめき散らすので、前後のわきまえも無く短剣引き抜き、突き刺した。ゆるせ。君の言葉も過ぎたのだ。オフィリヤの事なら心配するな。ポローニヤス、わしの言う事が、わかるか。わしの顔が、わかるか。」
ポロ。「正義のためだ。そうだ、正義のためだ。オフィリヤ、鎧を出してくれ。お父さんは、いけないお父さんだったねえ。」
王。「涙。わしのような者の眼からでも、こんなに涙が湧いて出る。この涙で、わしの罪障が洗われてしまうとよいのだが。ポローニヤス、君は一体なにを見たのだ。君の疑うのも、無理がないのだ。あっ! 誰だ! そこに立っているのは誰だ! 逃げるな。待て! おお、ガーツルード。」
九 城の大広間
ハムレット。オフィリヤ。
ハム。「そうか。ポローニヤスが、昨夜から姿を見せぬか。それは少し、へんだね。でも、まあ、たいした事は無かろう。大人には、おとなの世界があるんだ。見え透いた権謀術数を、見破られていると知りながらも、仔細らしい顔つきをして、あっちでひそひそ、こっちでこそこそ、深く首肯き合ったり、目くばせしたり、なあに、たいした事でも無い癖に、つまりその策略の身振りが楽しくて、こたえられないばかりに、矢鱈に集っては打ち合せとかいう愚劣な芝居をしたがるものさ。叔父さんも、ポローニヤスも、こせこせした権謀術数を、なかなかお好きなようだから、二人でゆうべ打ち合せて、また何か小細工をはじめているのかも知れぬ。ゆうべの朗読劇にしたって、あれにもポローニヤスの深慮遠謀があったのさ。そうでも無ければ、あの人は気が狂ったのだ。何か、抜け目の無い、小ざかしい魂胆があったのさ。僕には、たいてい見当が附いている。あの人たちは、どうして、なかなかの曲者だよ。もっとも、曲者というものは、たいてい浅墓で興覚めな、けち臭い打算ばっかりやっている哀れな、賤しい存在だが、それを見破ったからとて、こちらでただ軽蔑して、のほほん顔でいたならば、ひどい目に遭う。うっかりしていると、してやられる。黙殺したい、いや、蔑棄したい程、いやな存在だが、油断がならん。僕は、はじめ、ポローニヤスの朗読劇を、娘可愛さのあまり逆上して、王や王妃に、いや味を言うための計略、とばかり思っていたが、ゆうべまた、よく考えてみたら、どうもそればかりでも無いらしい。あの人たちのする事は、一から十まで心理の駈引き、巧妙卑劣の詐欺なのだから、いやになる。僕は、ゆうべ、やっと判って、判ったら、ぎょっとした。あの人たちは、おそろしい。一つも信用出来ない。此の世の中には、やっぱり悪い人というものがいたのだ。僕は、このとしになって、やっと、世の中に悪人というものが本当にいるのを発見した。手柄にもなるまい。あたりまえの発見だ。僕は、よっぽど頭が悪い。おめでたい。いまごろ、やっと、そんな当然の事を発見して、おどろいている始末なのだから、たいしたものだよ。底の知れない、めでたい野郎だ。ゆうべの朗読劇は、あれは、もともと叔父さんとポローニヤスと、ひそかに、しめし合せてはじめた事だ。それは、たしかだ。間違っていたら、この眼をくり抜いて差し上げてもよい。もう僕は、だまされない。叔父さんは、僕たちの疑惑の眼を避けたいばかりに、ポローニヤスと相談して、僕たちを瞞着する目的で、あんな不愉快千万の仕組みを案出したのだ。馬鹿にしていやがる。僕たちは、完全に、あの人たちの笛に踊らされたというわけだ。つまり、叔父さんは、自分のうしろ暗さを、ごまかそうとして先手を打ち、ポローニヤスに命じて、僕たちを使嗾させ、あんな愚劣な朗読劇なんかで王をためさせて、それでも王は平気だから僕たちはがっかりして、あの恐ろしい疑いもおのずから僕たちの胸から消え去り、やがては城中の人たちにも、僕たちと同じ気持が、それからそれと伝って、すべての不吉な囁きは消滅するようになるだろうという、浅墓な魂胆があったのだ。僕の見当には、狂いが無い。叔父さんとポローニヤスは、はじめから同じ穴の狢だったのさ。どうして僕は、こんなわかり切った事に気がつかなかったのだろう。どうも、あの人たちのする事は、あくどくて、いけない。そんなにまでして僕たちを、だまさなければいけないのか。僕たちのほうでは、あの人たちを、たのみにもしているし、親しさも感じているし、尊敬さえもしているのだから、いつでも気をゆるして微笑みかけているのに、あの人たちは、決して僕たちに打ち解けてくれず、絶えず警戒して何かと策略ばかりしているのだから、悲しくなる。なんという事だ。二人でしめし合せて、一人は検事に、一人は被告になっていい加減の嘘の言い争いをして見せて、ほどよいところで証拠不充分、無罪放免さ。僕とホレーショーは、その贋の検事に、深刻な顔つきをしてお手伝いをして、いい気持でいたんだから、これは後世までの笑い草にもなるだろう。光栄極まる。けれども、あの人たちの策略は、たしかに一応は成功したのだ。ホレーショーは、もう、これで王さまも晴天白日、ハムレット王家万万歳、僕たちは、たとい一時期でもあの噂を信じ、王さまを疑っていたとは恥ずかしい、あんな失礼な朗読劇なんかをやって、後でお叱りがなければいいが等と言って、全く叔父さんを信用し、かえって自分たちの疑惑に恐縮していたし、城中の人たちも、そろそろ叔父さんを尊敬し直して来たようだ。人の心は、実にたわいが無いものだ。風に吹かれる葦みたいに、右にでも左にでも、たやすく靡く。僕だって、あの朗読劇の直後には、ポローニヤスが逆上し錯乱しているものとばかり思って、叔父さんが気の毒でたまらず王の居間へ行ってお詫びしようかとさえ思ったものだが、あとで落ち附いて考えてみると、冗談じゃない、僕たちは、まんまと一杯くわされたのだという事がわかって、ぞっとした。何か、在るのだ。あの不吉な噂は、嘘でない! 叔父さんとポローニヤスは、悪の一味だ。いまは二人で、腹を合せて悪の露見を必死になって防いでいる。けれども僕には、わかるんだ。僕の眼は、ごまかせない。もう、こうなれば、僕も覚悟をきめなければならぬ。あの人たちは、悪い人だ。ポローニヤスだって、はじめから、何もかも知っていたのだ。それを、正義だの、青年の仲間だのと言って、僕たちを言いくるめて、いい加減に踊らせたのだから天晴れな伎倆だ。あの人が正義の仲間だったら、天国は満員の鮨詰めで、地獄のほうは、がらあきだ。いや、失敬。つい興奮し過ぎて、ポローニヤスが君のお父さんだという事を忘れていました。でも僕は、ことさらに君の父ひとりを悪く言っているんじゃないからね、叔父さんだって同じ事さ、僕は世の中のおとな一般に就いて怒っているのだ。そこは誤解のないように。おや、泣いているね。どうしたのです。お父さんの姿が見えないので、心細いというわけか。やっぱり心配なのかね。大丈夫ですよ。いまごろは、王さまの内密の御命令で、いそがしい仕事に没頭しているに違いない。どんな仕事だか、それは僕にもわからぬが、どうせ、ろくな事でない。」
オフ。「泣いてなんかいないわよ。眼にごみが、はいったので、ハンケチでこすっていたのよ。ほら、もう、ごみがとれました。泣いてなんかいないでしょう? ハムレットさまは、いつでも、あたしの気持を、へんに大袈裟に察して下さるので、あたしは時々、噴き出したくなる事があるの。あたしが、ただうっとりと夕焼けを眺めて、綺麗だなあと思っているのに、ハムレットさまは、あたしの肩にそっとお手を置かれて、わかるよ、くるしいだろうねえ、けれども苦しいのは君だけじゃない、夕焼けの悲しさは、僕にだってよくわかる、けれども、怺えて生きて行こう、もうしばらく、僕ひとりの為にだけでも生きていておくれ、いっそ死にたいという思いを抱いて、それでも忍んで生きている人は、この世に何万人、何十万人もいるのだよ、なんて、まるであたしが、死ぬ事でも考えているかのように、ものものしい事をおっしゃるので、あたしは可笑しくて、くるしくなります。あたしには、いま、悲しい事なんか一つもありませんわ。いつも、あんたは、へんにお察しがよすぎて、ひとりで大騒ぎをなさるので、あたしは、まごついてしまいます。女なんて、そんなに、いつも深い事を考えているものではございません。ぼんやり生きているものです。父がゆうべから姿を見せぬので、少しは心配でございますが、でも、あたしは、父を信じて居ります。父は、ハムレットさまのおっしゃるような、そんな悪い人ではございません。あなたは、気まぐれですから、きょうは、うんと悪くおっしゃっても、また明日は、ひどくお褒めになる事もございますので、あたしは、ハムレットさまのお言葉は、あまり気にかけない事にしているのですが、でも、ただいまのように、滅茶滅茶に父をお疑いになって、こわい事をおっしゃると、あたしだって泣きたくなります。父は、気の弱い人です。とても興奮し易いのです。ゆうべの朗読劇とやらは、あたしはこんなからだですから御遠慮して、拝見しませんでしたけれど、もし父が正義のためだと言ってはじめたものなら、きっと、そのとおり、それは、父の正義心から出た催し事だと思います。父は小さい冗談のような嘘は、しょっちゅう言って、あたしたちをだましますが、決して大きな、おそろしい嘘は言いません。その点は、まじめな人です。潔癖です。責任感も強い人です。きのうは、きっと父が、ハムレットさまたちの情熱に感激して前後の弁えも無く、朗読劇なんかをはじめたのだろうと思います。父を、もう少し信頼してやって下さいませ。」
ハム。「おや、おや、きょうは、どういう風の吹きまわしか、紅唇、火を吐くの盛観を呈している。いつも此の調子でいてくれると、僕も張り合いがあって、うれしいのだが。」
オフ。「すぐそんなに茶化してしまうので、なんにも言いたくなくなります。あたしは、まじめに申し上げているのよ。ハムレットさま。あたしは、きょうから、なんでも思っている事を、そのまま言ってしまうことにしたの。ハムレットさまだって褒めてくださると思うわ。いつも、あたしが愚図愚図ためらったり、言いかけてよしたりすると、ハムレットさまは、御機嫌がお悪くなって、お前は僕を信頼しないからいけない、愛情の打算が強すぎるから、そんなに、どもってしまうのだとお教えになりました。あたしは、此の二箇月間、まるで自信をなくしていたので、つい、めそめそして、言いたい事も言えずに溜息ばかりついていたのです。以前は、そんなでも無かったのですが、苦しい秘密を持つようになってから、めっきり駄目になりました。でも、きのう王妃さまからさまざま優しいお言葉をいただいて、すっかり元気になりました。からだの具合も、きのうから、別のひとのように、すっきりしてまいりましたし、もういまでは、ハムレットさまのお子さまを産んで、丈夫に育てるという希望だけで胸が一ぱいでございます。あたしは、いまは幸福です。とても、なんだか、うれしいの。これからは、昔のお転婆なオフィリヤにかえって、誇りを高くもって、考えている事をなんでもぽんぽん言おうと思うの。ハムレットさま、あなたは少し詭弁家よ。ごめんなさい。だって、あなたのおっしゃる事は、みんな、なんだかお芝居みたいなんですもの。甘ったるいわ。ごめんなさい。あなたは、いつでも酔っぱらってるみたいだわ。ごめんなさい。しょってるわ。いやらしいわ。深刻癖というものじゃないかしら。あなたは、いつでも御自分を悲劇の主人公にしなければ気がすまないらしいのね。ごめんなさい。だって、そうなんですもの。王さまだって、また、あたしの父のポローニヤスだって、決してハムレットさまのおっしゃるような、そんな悪い、下劣な人じゃ無いわ。ハムレットさまが、ひとりでひがんで、すねて居られるものだから、王さまも、あたしの父も、また王妃さまも、とても弱っていらっしゃるのよ。それだけの事だと、あたしは思うの。このごろ、なんだか、いやな噂がお城にひろがっているようですけど、誰も本気に噂しているわけじゃなかったのよ。あたしのところの乳母や女中は、そんな芝居が外国で流行っているそうですね、面白く仕組まれた芝居ですね、なんてのんびり言って居りますよ。まさか、此のデンマークの王さまと王妃さまの事だ等とは、ゆめにも思っていない様子でございます。みんな、のどかに王さまと王妃さまをお慕い申して居ります。それでいいのだと思うわ。本気に疑って、くるしんでいなさるのは此のエルシノア王城で、ハムレットさま、あなたぐらいのものなのよ。父がゆうべ、正義の心から朗読劇をやったそうですが、それはまた、どうした事でしょう。ちょっと、あたしにも、わかりません。きっと父は、興奮したのよ。とても興奮し易い父ですから。あたしには、父のする事を、とやかく詮議立てする資格も無し、また女の子は、父たちのなさることを詮議立てしたって何もわからないのが当り前の事ですから、あたしは、はっきりとは言えませんけれど、でも、あたしは父を信じています。また、王さまをも信じています。王妃さまは、もとからあたしの尊敬の的でした。なんでも無いのよ。ハムレットさまひとりが、計略だの曲者だの、駈引きだのとおっしゃって、いかにも周囲に、悪い人ばかりうようよいるような事をおっしゃって、たいへん緊張して居られますが、滑稽だわ。ごめんなさい。だって、あなたは、敵もいないのに敵の影を御自分の空想でこしらえて、油断がならん、うっかりするとだまされる等と、深刻がっていらっしゃるのですもの。王さまだって、王妃さまだって、とってもハムレットさまを愛していらっしゃるのに、どうして、おわかりにならないのでしょう。悪いお方なんか、どこにもいないわ。ハムレットさま。あなただけが、悪いお方なのかも知れないわ。だって、みんな平和に、なごやかにお暮しなさっているところへ、あなたが、むずかしい理窟をおっしゃって、みなさんを攻撃して、くるしめて、そうしてこの世の中で、あなたの愛情だけが純粋で献身的で、――」
ハム。「オフィリヤ、ちょっと待った。めそめそ泣かれるのも困るが、そんな自信ありげな気焔を、調子づいてあげられても閉口だ。オフィリヤ、君は、きょう、どうかしてるぞ。君には、ちっともわかっていない。そうかなあ。いままで、そんな具合に僕を解釈していたのかなあ。残念だね。女ってのは、いくら言って聞かせても、駄目なものだ。ちっとも、わかっていやしないじゃないか。僕は、甘いさ。あるいは、酔っぱらっているかも知れない。いやらしい。芝居臭い。それも、よかろう。そう見えるんだったら仕方が無い。けれども、僕は、絶対に、いい気になっているわけではないし、自分の愛情だけを純粋で献身的だと思いこみ、人を矢鱈に攻撃してくるしめているわけでも無い。むしろ、その逆だ。僕は、つまらない男なのだ。だらしのない男なのだ。僕は、それが恥ずかしくて、てんてこ舞いをしているのだ。自分のいたらなさ、悪徳を、いやになるほど自分で知っているので、身の置きどころが無いのだ。僕は、絶対に詭弁家ではない。僕は、リアリストだ。なんでも、みな、正確に知っている。自分の馬鹿さ加減も、見っともなさも、全部、正確に知っている。そればかりでは無い。僕は、ひとのうしろ暗さに対しても敏感だ。ひとの秘密を嗅ぎつけるのが早いのだ。これは下劣な習性だ。悪徳が悪徳を発見するという諺もあるけれど、まさしくそのとおり、ひとの悪徳を素早く指摘できるのは、その悪徳と同じ悪徳を自分も持っているからだ。自分が不義をはたらいている時は、ひとの不義にも敏感だ。誇りになるどころか、実に恥ずべき嗅覚だ。僕は、不幸にして、そのいやらしい嗅覚を持っている。僕の疑惑は、いまだ一度も、はずれた事が無いのだ。オフィリヤ、僕は不仕合せな子なんだよ。君には、わかるまい。僕には高邁なところが何も無い。のらくらの、臆病者の、そうして過度の感覚の氾濫だけだ。こんな子は、これから一体、どうして生きて行ったらいいのだ。オフィリヤ、僕が叔父さんや、お母さんや、また、ポローニヤスの悪口を言うのは、何もあの人たちを軽蔑し、嫌悪しているからでは無いのだ。僕には、そんな資格が無い。僕は、うらめしいのだ。いつも、あの人たちに裏切られ、捨てられるのが、うらめしいのだ。僕は、あの人たちを信頼し、心の隅では尊敬さえしているのに、あの人たちは、へんに僕を警戒し、薄汚いものにでも触るような、おっかなびっくりの苦笑の態度で僕に接して、ああ、あの人たちは、そんなに上品な人たちばかりなのかねえ、いつでも見事に僕を裏切る。打ち明けて僕に相談してくれた事が一度も無い。大声あげて、僕をどやしつけてくれた事もかつて無い。どうして僕を、そんなに、いやがるのだろう。僕は、いつでもあの人たちを愛している。愛して、愛して、愛している。いつでも命をあげるのだ。けれども、あの人たちは僕を避けて、かげでこそこそ僕を批判し、こまったものさ、お坊ちゃんには、等と溜息をついて上品ぶっていやがるのだ。僕には、ちゃんとわかっている。僕は、ひがんでなんかいやしない。僕は、ただ正確なところを知っているだけだ。オフィリヤ、少しは、わかったか。君まで、おとなの仲間入りをして、僕に何やら忠告めいた事を言うとは、情ないぞ。孤独を知りたかったら恋愛せよ、と言った哲学者があったけど、本当だなあ。ああ、僕は、愛情に飢えている。素朴な愛の言葉が欲しい。ハムレット、お前を好きだ! と大声で、きっぱり言ってくれる人がないものか。」
オフ。「いいえ。オフィリヤも、こんどは、なかなか負けませぬ。ハムレットさま、あなたは本当に言いのがれが、お上手です。ああ言えば、こうおっしゃる。しょっていると申し上げると、こんどは逆に、僕ほど、みじめな生きかたをしている男は無いとおっしゃる。本当に、御自分の悪いところが、そんなにはっきり、おわかりなら、ただ、御自分を嘲って、やっつけてばかりいないで、いっそ黙ってその悪いところをお直しになるように努められたらどうかしら。ただ御自分を嘲笑なさっていらっしゃるばかりでは、意味ないわ。ごめんなさい。きっと、あなたは、ひどい見栄坊なのよ。ほんとうに、困ってしまいます。ハムレットさま、しっかりなさいませ。愛の言葉が欲しい等と、女の子のような甘い事も、これからは、おっしゃらないようにして下さい。みんな、あなたを愛しています。あなたは、少し慾ばりなのです。ごめんなさい。だって人は、本当に愛して居れば、かえって愛の言葉など、白々しくて言いたくなくなるものでございます。愛している人には、愛しているのだという誇りが少しずつあるものです。黙っていても、いつかは、わかってくれるだろうという、つつましい誇りを持っているものです。それを、あなたは、そのわずかな誇りを踏み躙って、無理矢理、口を引き裂いても愛の大声を叫ばせようとしているのです。愛しているのは、恥ずかしい事です。また、愛されているのも何だか、きまりの悪い事です。だから、どんなに深く愛し合っていても、なかなか、好きだとは言えないものです。それを無理にも叫ばせようとするのは残酷です。わがままです。ハムレットさま、あたしの愛が信ぜられなくとも、せめて王妃さまの御愛情だけでも信じてあげて下さいませ。王妃さまは、お気の毒です。ハムレットさまおひとりを、たよりにしていらっしゃいます。きのうお庭で王妃さまは、あたしの手をお取りになって、ひどくお泣きになりました。」
ハム。「意外だね。君から愛の哲理を拝聴しようとは、意外だね。君は、いつから、そんな物知りになったのですか。いい加減に、やめるがよい。小理窟を覚えた女は、必ず男に捨てられますよ。パウロが言っていますよ。われ、女の、教うる事と、男の上に権を執る事を許さず、ただ静かにすべし、とね。そうして、女もし慎みと信仰と愛と潔きとに居らば、子を生む事に因りて救わるべし、と言い結んである。人にものを教えようと思ったり、男の頭を押えようとしないで、ただ、静かに、生れる子供の事を考えていなさい、という意味だ。いい子だから、二度と再び、変な理窟は言わないでくれ。世界が暗くなってしまう。察するところ、お母さんから悪智慧を附けられて、妙に自信を得たのだろう。お母さんは、あれで、なかなか理論家だからね。いまに、パウロの罰を受けるぞ。こんど君が、お母さんに逢ったら、こう言ってやってくれ。言葉の無い愛情なんて、昔から一つも実例が無かった。本当に愛しているのだから黙っているというのは、たいへん頑固なひとりよがりだ。好きと口に出して言う事は、恥ずかしい。それは誰だって恥ずかしい。けれども、その恥ずかしさに眼をつぶって、怒濤に飛び込む思いで愛の言葉を叫ぶところに、愛情の実体があるのだ。黙って居られるのは、結局、愛情が薄いからだ。エゴイズムだ。どこかに打算があるのだ。あとあとの責任に、おびえているのだ。そんなものが愛情と言えるか。てれくさくて言えないというのは、つまりは自分を大事にしているからだ。怒濤へ飛び込むのが、こわいのだ。本当に愛しているならば、無意識に愛の言葉も出るものだ。どもりながらでもよい。たった一言でもよい。せっぱつまった言葉が、出るものだ。猫だって、鳩だって、鳴いてるじゃないか。言葉のない愛情なんて、古今東西、どこを捜してもございませんでした、とお母さんに、そう伝えてくれ。愛は言葉だ。言葉が無くなれや、同時にこの世の中に、愛情も無くなるんだ。愛が言葉以外に、実体として何かあると思っていたら、大間違いだ。聖書にも書いてあるよ。言葉は、神と共に在り、言葉は神なりき、之に生命あり、この生命は人の光なりき、と書いてあるからお母さんに読ませてあげるんだね。」
オフ。「いいえ、決して王妃さまから教えられて申し上げているのではございません。あたしは、あたしの思っていることを、精一ぱいに申し上げているだけなのです。ハムレットさま、あなたは、おそろしい事をおっしゃいます。もし愛情が、言葉以外に無いものだとしたなら、あたしは、愛情なんかつまらないものだと思います。そんなものは、いっそ無いほうがよい。ただ世の中を、わずらわしくするだけです。あたしには、どうしても、ハムレットさまのおっしゃる事は、信じられません。神さまが、居ります。神さまは、黙っていて、そうして皆を愛して居ります。神さまは、おまえを好きだ! なんて、決して叫びはいたしません。けれども、神さまは愛して居ります。みんなを、森を、草も、花も、河も、娘も、おとなも、悪い人も、みんなを一様に、黙って愛して下さいます。」
ハム。「おさない事を言っている。君の信仰しているものは、それは邪教の偶像だ。神さまは、ちゃんと言葉を持って居られる。考えてごらん。一ばんはじめ僕たちに、神さまの存在を、はっきり教えてくれたものは、なんだろう。言葉じゃないか。福音じゃないか。キリストは、だから、――おや、叔父さんが、多勢の侍者を引きつれて、血相かえてやって来た。きょう、此の大広間で、何か儀式でもあるのかしら。ここは、ふだんめったに使わない部屋だから、オフィリヤとこっそり逢うのに適当だと思って、ちょいちょいオフィリヤを、ここへ呼び出す事にしていたのだが、こんな不意の事もあるから油断が出来ない。オフィリヤ、さあ、そこのドアから早く逃げ出せ。議論は、この次にまた、ゆっくりしよう。これからは、いろいろ教育してあげる。そうだ、そのドアだ。なんて素早い奴だ。風のように逃げちゃった。恋は女を軽業師にするらしい、とは、まずい洒落だ。」
王。侍者多勢。ハムレット。
王。「ああ、ハムレット。はじまりましたよ。戦争が、はじまりましたよ。レヤチーズの船が、犠牲になりました。ただいま知らせが、はいりました。レヤチーズたちの乗って行った船が、カテガット海峡に、さしかかると、いずこからともなく、ノーウエーの軍艦が忽然と姿をあらわし、矢庭に発砲したという。こちらは商船、たまったものでない。けれども、レヤチーズは勇敢であった。おびえる船員を叱咤し、激励し、みずからは上甲板に立って銃を構え、弾丸のあるかぎり撃ちまくったのです。敵の砲弾は、わがマストに命中し、たちまち帆がめらめら燃え上った。さらに一弾は船腹に命中し、鈍い音をたてて炸裂し、ぐらりと船は傾いて、もはや窮した。この時、レヤチーズは、はじめてボートの支度を下知して、四、五の船客をまずボートに抱き乗せ、つぎに船員の、妻子のある者にも避難を命じ、自分は屈強のいのち知らずの若い船員五、六名と共に船に居残り、おのおの剣を抜いて敵兵の襲来を待機した。一兵といえども祖国の船に寄せつけじと、レヤチーズは死ぬる覚悟、ヘラクレスの如く泰然自若たるものがあったという。敵艦の者も此の勇者の姿を望見し、おじ恐れて、ただ、わが帆船のまわりをうろつき、そのおのずから炎上し沈没するのを待つより他はなかったのだ。レヤチーズは、悲壮にも船と運命を共にしたのです。惜しい男だ。父に似ぬ、まことの忠臣、いや、父の名を恥ずかしめぬ天晴れの勇者です。わしたちは、レヤチーズの赤心に報いなければならぬ。いまは、デンマークも立つべき時です。ノーウエーとの永年の不和が、とうとう爆発したのです。わしは、けさその急報に接し、ただちに、決意しました。神は正義に味方をします。戦えば、わがデンマークは必ず勝ちます。なに、前から機会をねらっていたのだ。レヤチーズは、尊い犠牲になってくれました。父子そろって、いや、レヤチーズの霊は必ず手厚く祭ってやろう。それが国王としてのわしの義務だ。」
ハム。「レヤチーズ。僕と同じ、二十三歳。竹馬の友。少し頑固で怒りっぽく、僕には少し苦手だったが、でも、いい奴だった。死んだのか? オフィリヤが聞いたら卒倒するだろう。ここにいなくて、さいわいだった。レヤチーズ。その身に箔をつけるため、将来のおのれの出世に備えるため、フランスに遊学の途端に、降って湧いた災難、その時とっさに自分の野望をからりと捨て、デンマーク国の名誉を守るために、一身を犠牲にして悔いる色が無かった。僕は、負けたよ。レヤチーズ。君は、僕をきらいだったね。僕だって、君を好いてはいなかった。オフィリヤの事が起ってからは、君を恐怖さえしていた。僕たちは、幼い時から、はげしい競争をして来た。好敵手だった。表面は微笑み合いながらも、互いに憎んでいた。僕には、君が邪魔だったよ。けれども、君は、やっぱり、偉いやつだ。父上、――」
王。「はじめて、父上と呼んでくれましたね。さすがに、デンマーク国の王子です。国の運命のためには、すべての私情を捨てましょう。本日これから、この広間に群臣を集めて重大の布告をいたします。ハムレット、立派な将軍振りを見せて下さい。」
ハム。「いいえ、弱い一兵卒になりましょう。僕は、レヤチーズに負けました。ポローニヤスは、どうしていますか? あの人の胸中にも、悲痛なものがあるでしょうね。」
王。「それは、もちろんの事です。わしは、充分になぐさめてやるつもりで居ります。さて、王妃は、いったい、どうしたのでしょう。けさから姿が見えぬのです。いま、ホレーショーに捜させているのですが、君は、見かけませんでしたか? きょうの布告の式には、王妃も列席してないと、具合がわるい。やっぱり、こんな時には、ポローニヤスがいないと不便ですね。」
ハム。「では、ポローニヤスは? もう、此の城にいないのですか? どこかへ出発したのですか? 叔父さん、そんなに顔色を変えてどうしたのです。」
王。「どうもしやしません。このデンマーク国、興廃の大事な朝に、ポローニヤス一個人の身の上などは、問題になりません。そうでしょう? わしは、はっきり言いますが、ポローニヤスは、いまこの城にいないのです。あれは不忠の臣です。もっとくわしい事情は、いまは、言うべき時ではない。いずれ、よい機会に、堂々と、包みかくさず発表します。」
ハム。「何か、あったな? ゆうべ、何かあったな? 叔父さんの、あわてかたは、戦争の興奮ばかりでも無いようだ。僕も、うっかり、レヤチーズの壮烈な最後に熱狂し、身辺の悶着を忘れていた。叔父さんは、御自分のうしろ暗さを、こんどの戦争で、ごまかそうとしているのかも知れぬ。案外、これは、――」
王。「何を、ひとりでぶつぶつ言っているのです。ハムレット! 君は、馬鹿だ! 大馬鹿だ! ふざけるのも、いい加減にし給え。戦争は冗談や遊戯ではないのだ。このデンマークで、いま不真面目なのは君だけだ。君が、それほど疑うなら、わしも、むきになって答えてあげる。ハムレット、あの城中の噂は、事実です。いや、わしが、先王を毒殺したというのは、あやまり。わしには、ただ、それを決意した一夜があった、それだけだ。先王は、急に病気でなくなられた。ハムレット、君は、それでもわしを、罰する気ですか? 恋のためだ。くやしいが、まさに、それだ。ハムレット、さあ、わしは全部を言いました。君は、わしを、罰するつもりですか?」
ハム。「神さまに、おたずねしたらいいでしょう。ああ、お父さん! いいえ、叔父さん、あなたじゃない。僕には、僕のお父さんが、あったのだ。可哀想なお父さん。きたない裏切者の中で、にこにこ笑って生きていたお父さん。裏切者は、この、とおり!」
王。「あ! ハムレット、気が狂ったか。短剣引き抜き、振りかざすと見るより早く、自分自身の左の頬を切り裂いた。馬鹿なやつだ。それ、血が流れて汚い。それは一体、なんの芝居だ。わしを切るのかと思ったら、くるりと切先をかえて自分自身の頬に傷をつけ居った。自殺の稽古か、新型の恐喝か。オフィリヤの事なら、心配せんでもよいのに、馬鹿な奴だ。君が凱旋した時には、必ず添わしてあげるつもりだ。泣く事はない。戦争がはじまれば、君も一方の指揮者なのです。そんなに泣いては、部下の信頼を失いますよ。ああ、それ、上衣にまで血が流れて来た。誰かハムレットを、向うへ連れて行って、手当をしてあげなさい。戦争の興奮で、気がへんになったのかも知れぬ。意気地の無い奴だ。おお、ホレーショー、何事です。」
ホレーショー。王。ハムレット。侍者多勢。
ホレ。「取り乱した姿で、ごめん! ああ、王妃さまが、あの、庭園の小川に、――」
王。「飛び込んだか!」
ホレ。「手おくれでございました。覚悟の御最後と見受けられます。喪服を召され、小さい銀の十字架を右の手のひらの中に、固く握って居られました。」
王。「気が弱い。わしを助けてくれる筈の人が、この大事の時に、馬鹿な身勝手の振舞いをしてくれた。わしが悪いのではない! あの人が、弱かったのだ。他人の思惑に負けたのだ。気の毒な。ええっ! 汚辱の中にいながらも、堪え忍んで生きている男もいるのだ。死ぬ人は、わがままだ。わしは、死なぬ。生きて、わしの宿命を全うするのだ。神は、必ずや、わしのような孤独の男を愛してくれる。強くなれ! クローヂヤス。恋を忘れよ。虚栄を忘れよ。デンマーク国の名誉、という最高の旗じるし一つのために戦え! ハムレット、腹の中では、君以上に泣いている男がいますよ。」
ハム。「信じられない。僕の疑惑は、僕が死ぬまで持ちつづける。」
(昭和十六年七月文藝春秋社刊)