ほんとうのことは、あの世で言え、という言葉がある。まことの愛の実証は、この世の、人と人との仲に於いては、ついに、それと指定できないものなのかもしれない。人は、人を愛することなど、とても、できない相談ではないのか。神のみ、よく愛し得る。まことか?
 みなよくわかる。君の、わびしさ、みなよくわかる。これも、私の傲慢ごうまんの故であろうか。何も言えない。

 中谷孝雄氏の「春の絵巻」出版記念宴会の席上で、井伏氏が低い声で祝辞を述べる。「質実な作家が、質実な作家として認められることは、これは、大変なことで、」語尾が震えていた。

 たまに、すこし書くのであるから、充分、考えて考えて書かなければなるまい。ナンセンス。

 カントは、私に考えることのナンセンスを教えてれた。わば、純粋ナンセンスを。
 いま、ふと、ダンデスムという言葉を思い出し、そうしてこの言葉の語根は、ダンテというのではなかろうか、と多少のときめきを以て、机上の辞書を調べたが、私の貧しい英和中辞典は、なんにも教えて呉れなかった。ああ、ダンテのつよさを持ちたいものだ。否、持たなければならない。君も、私も。
 ダンテは、地獄の様々の谷に在る数しれぬ亡者たちを、ただ、見て、とおった。

 人は、人を救うことができない。まことか?

 何を書こうか。こんな言葉は、どうだ。「愛は、この世に存在する。きっと、在る。見つからぬのは、愛の表現である。その作法である。」

 泣き泣きX光線は申しました。「私には、あなたの胃袋や骨組だけが見えて、あなたの白いはだが見えません。私は悲しいめくらです。」なぞと、これは、読者へのサーヴィス。作家たるもの、なかなか多忙である。

 ルソオの懺悔録ざんげろくのいやらしさは、その懺悔録の相手の、(誰か、まえに書いたかな?)神ではなくて、隣人である、というところに在る。世間が相手である。オーガスチンのそれと思い合わせるならば、ルソオの汚さは、一層明瞭である。けれども、人間の行い得る最高至純の懺悔の形式は、かのゲッセマネの園に於ける神の子の無言の拝跪はいきの姿である、とするならば、オーガスチンの懺悔録もまた、俗臭ふんぷんということになるであろう。みな、だめである。ここに言葉の運命がある。
 安心するがいい。ルソオも、オーガスチンも、ともに、やさしい人である。人として、能うかぎり、ぎりぎりの仕事を為した。

 私は、いま、ごまかそうとしている。なぜ、ルソオの懺悔録が、オーガスチンのそれより世人に広く読まれているか、また読まれて当然であるか。
 答えていわく、言うだけ野暮やぼさ。ほんとうだよ、君。

 宿題ひとつ。「私小説と、懺悔。」

 こう書きながら、私は、おかしくてならない。八百屋の小僧が、いま若旦那から聞いて来たばかりの、うろ覚えの新知識を、お得意さきのおなべどんに、鹿爪しかつめらしく腕組して、こんこんと説き聞かせているふうの情景が、眼前に浮んで来たからである。けれども、とまた、考える。その情景、なかなかいいじゃないか。

 どうも、ねえ。いちど笑うと、なかなか、真面目な顔に帰れないもので、ねえ、てのひらを二つならべて一きくの水を貯え、その掌中の小池には、たくさんのおたまじゃくしが、ぴちゃぴちゃ泳いでいて、どうにも、くすぐったく、仁王立ちのまま、その感触にまいっている、そんな工合いの形である。

 いままで書いて来たところを読みかえそうと思ったのであるが、それは、やめて、(もう笑ってはいない。)私の一友人が四五日まえ急に死亡したのであるが、そのことに就いて、ほんの少し書いてみる。私は、この友人を大事に、大事にしていた。気がひけて、これは言い難い言葉であるが、「風にもあてず」いたわって育てた。それが、私への一言の言葉もなく、急死した。私は、恥ずかしく思う。私の愛情の貧しさを恥ずかしく思うのである。おのれの愛への自惚うぬぼれを恥ずかしく思うのである。その友人は、その御両親にさえ、一ことも、言わなかった。私でさえこんなに恥ずかしいのだから、御両親の恥ずかしさは、くるしさは、どんなであろう。

 権威をもって命ずる。死ぬるばかり苦しき時には、なんじの母に語れ。十たび語れ。千たび語れ。

 千たび語りても、なお、母はいわおの如く不動ならば、――ばかばかしい、そんなことないよ、何をそんなに気張っているのだ、親子は仲良くしなくちゃいけない、あたりまえの話じゃないか。人の力の限度を知れ。おのれの力の限度を語れ。

 私は、いま、多少、君をごまかしている。他なし、君を死なせたくないからだ。君、たのむ、死んではならぬ。自ら称して、盲目的愛情。君が死ねば、君の空席が、いつまでも私の傍に在るだろう。君が生前、腰かけたままにやわらかくくぼみを持ったクッションが、いつまでも、私の傍に残るだろう。この人影のない冷い椅子は、永遠に、君の椅子として、空席のままに存続する。神も、また、この空席をふさいで呉れることができないのである。ああ、私の愛情は、私の盲目的な虫けらの愛情は、なんということだ、そっくり我執の形である。

 路を歩けば、いわく、「れざるはなし。」みんなのやさしさ、みんなの苦しさ、みんなのわびしさ、ことごとく感取できて、私の辞書には、「他人」の文字がない有様。誰でも、よい。あなたとならば、いつでも死にます。ああ、この、だらしない恋情の氾濫はんらん。いったい、私は、何者だ。「センチメンタリスト。」おかしくもない。

 ことしの春、妻とわかれて、私は、それから、いちど恋をした。その相手の女のひとは、私を拒否して、言うことには、「あなたは、私ひとりのものにするには、よすぎます。」私は、あわてて失恋の歌を書き綴った。以後、女は、よそうと思った。

 何もない。失うべき、何もない。まことの出発は、ここから? (苦笑。)

 笑い。これは、つよい。文化の果の、花火である。理智も、思索も、数学も、一切の教養の極致は、所詮しょせん、抱腹絶倒の大笑いに終る、としたなら、ああ、教養は、――なんて、やっぱりそれに、こだわっているのだから、大笑いである。

 もっとも世俗を気にしている者は、芸術家である。

 約束の枚数に達したので、ペンを置き、なしの皮をむきながら、にがり切って、思うことには、「こんなのじゃ、仕様がない。」

底本:「太宰治全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年6月27日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
初出:「文芸」
   1937(昭和12)年12月1日発行
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2005年3月17日作成
2006年7月2日修正
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