此頃、自然美の讚美され出して来た事は、自然美崇拝の私にとってまことに嬉しく感じる事である。
 どうして今まで、ああして、そうもかまわれずに片隅になげた様にされて居たものかしらんと思う。
 静かに太陽の健な呼吸を聞き、月の深遠な光明に身をひたして居ると口にまでつくせぬ、複雑な美に打たれるのである。
 日々を、心ならずもいやな事、心を悩ます事の多い中で暮して居るのであるから、どこの廃市にも、満ち満ちて居る自然美になつかしむ心さえあれば、何もことさらの金と時間を費さずとも、霊の洗われ、清められる慰めを得るのであるのに……。
 私は殊に、芸術家の如何なる階層の人もこの自然美の観賞と云う事に敏い眼を持って居て欲しいと思う。
 私共がすでに自然の産物である以上、その親をしたうに何の批評が入用ろう、
 何の思考が入ろう。
 或人は室中に何も置かない方がまとまると云う、
 又、私の様に、何かしら、心をこめて集めたものとか美くしいものがなければ、その部屋には居られないと云う者もある。
 どちらが好いか悪いかと云う事は別として、どうしてそう云う気分になって来るかと云うと、前者は、美に対する執着なり要求が少ないので、後者になると、絶えず美に対する渇仰が心に湧いて居るのである。
 美を要求すると云う事は、人性の自然だなどと云う学者めいた事をぬきにしても日常生活に必要なものであると思う。
 美を少しも愛さぬと同時に、それについて何の意見も持たない人は、世の中の非常に高尚な一面を、一生見ずに過す事になる。
 私の意見では、自分の部屋はあくまで自分の箇性の表われた美くしさで充分飾られて居なければならない。
 其故に私は、玩具を好み、すこやかな泥人形などに思をよせて居る。


 まるで、異った事の様であるが、人をいましめる時に叱るのと、恥かしめるとの差を明かにとくして居る人が少ないのに驚いた。
 まして、女に……。
         ――○――
 青年期に達する時に男でも女でも非常に頭がデリケートに芸術的になるものである。
 天才と呼ばれる様な人は、その時の美くしい発露を永遠につづけ得るのである。
 即ち、その時の若さが不朽なのである。
         ――○――
 小剣氏の様に又、鈴木氏の様にあまり物事がきっぱりきっぱりがすきと云う人は、私のきらいな人である。
 あまりきっちりきっちりして居るところに驚くべき美がないと同時に、驚歎するだけの生活もないものである。
 宇宙の真、美が、すべて直線で定規で引いた様には出来て居ない。
         ――○――
 自分の専門以外の事について、あまり明らからしい批評的な又、断定的な言葉を放つものではない。
 大抵の時には、悪い結果のみを多く得るものである、それだから、何かの話ついでに、分りもしない人が戯曲の主人公の性格や経路を引き出したりすると、思わぬあて違いをするものだ。
 そう云う癖は一体に少し文学などをかじりかけた中年の男女が、自分より若い者共に何か云いきかせたりひやかしたりする時に出る。
 その人の品格を下げると同時に、
「なあんの事だ
 とその話全体をけ落して見させてしまう。
 気をつけるべき事である。

底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
   1986(昭和61)年3月20日初版発行
※1915(大正4)年8月5日執筆の習作です。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2008年2月28日作成
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