支那に遊んで杭州の西湖せいこへ往った者は、その北岸の山の上と南岸の湖縁こべりとに五層となった高い大きな塔の聳えているのを見るであろう。そして、南岸の湖縁の丘の上に聳えたあかい塔の夕陽に照された雄大な姿には、わけて心をひかれるであろう。その南岸の雄大な塔は、西湖十景の一つにかぞえられた雷峯塔らいほうとうで、北岸のは保叔塔ほうしゅくとうである。そのうちで雷峯塔は呉越王妃ごえつおうひ黄氏こうし建立こんりゅうしたものであるが、西湖の伝説を集めた『西湖佳話』では奇怪な因縁から出来あがったものとなっている。

 宋の高宗帝が金の兵に追われて、揚子江を渡って杭州に行幸ぎょうこうした際のことであった。杭州城内過軍橋かぐんきょう黒珠巷こくじゅこうという処に許宣きょせんという若い男があったが、それは小さい時に両親をくして、あねの縁づいている李仁りじんという官吏のもとに世話になっていた。この李仁は南廊閣子庫なんろうかくしこ幕事ばくじであった。許宣はその李幕事の家にいて、日間ひるま官巷かんこうで薬舗をやっている李幕事の弟の李将仕りしょうしという人の家へ往って、そこの主管ばんとうをしていた。
 許宣はそのとき二十二であった。きゃしゃな綺麗な顔をした、どこか貴公子然たる処のある男であった。それは清明せいめいの節に当る日のことであった。許宣は保叔塔寺ほうしゅくとうじへ往って焼香しようと思って、宵に姐に相談して、朝早く起きて、紙の馬、抹香、赤い蝋燭ろうそく経幡はた馬蹄銀ばていぎんの形をした紙の銭などを買い調え、飯をい、新しく仕立てた着物を著、くついのを穿いて、官巷のみせへ往って李将仕に逢った。
「今日、保叔塔へお詣りしたいと思います、一日だけお暇をいただきとうございます」
 清明の日には祖先の墓へ行って祖先の冥福を祈るのが土地の習慣であるし、両親のない許宣が寺へ往くことはもっとものことであるから、李将仕は機嫌好く承知した。
「いいとも、往ってくるがいい、往ってお出で」
 そこで許宣は舗を出て、銭塘門せんとうもんの方へ往った。初夏のようなひかりの強い陽の照る日で、仏寺に往き墓参に往く男女が街路に溢れていた。その人びとの中には輿に乗る者もあれば、きょうに乗る者もあり、また馬やろばに乗る者もあり、舟で往く者もあった。
 許宣は銭塘門を出て、石函橋せっかんきょうを過ぎ、一条路ひとすじみちを保叔塔の聳えている宝石山へのぼって寺へ往ったが、寺は焼香の人で賑わっていた。許宣も本堂の前で香をくゆらし、紙馬しば紙銭しせんを焼き、赤い蝋燭に灯をともしなどして、両親の冥福を祈った。そして、寺の本堂へ往き、客堂へあがってときい、寺への布施ふせもすんだので山をおりた。
 山の麓に四聖観という堂があった。許宣が四聖観へまでおりた時、急に陽の光がかすれて四辺あたりがくすんできた。許宣はおやと思って眼をみはった。西湖の西北の空に鼠色の雲が出て、それが陽の光を遮っていた。東南の湖縁の雷峯塔のあるあたりには霧がかかって、その霧の中に塔が浮んだようになっていた。その霧はまだ東に流れて蘇堤そていをぼかしていた。眼の下の孤山は燻銀いぶしぎんのくすんだ線を見せていた。どうも雨らしいぞ、と思う間もなく、もう小さな白い雨粒がぽつぽつと落ちてきた。許宣は四聖観の簷下のきしたへ往って立っていたが、雨はしだいに濃くなってきて、雨隙あますきがきそうにも思われなかった。空には薄墨色をした雲が一めんにゆきわたっていた。許宣はしかたなしにくつを脱ぎくつしたも除って、それをいっしょに縛って腰にけ、赤脚はだしになって四聖観の簷下を離れて走りおりた。
 許宣は湖縁から舟を雇うて湧金門ゆうきんもんへまで帰るつもりであった。不意の雨に驚いて濡れながら走っている人の姿が、黒い点になってそこここに見えた。湖の中にも小舟が左に右にあたふたと動いていた。それは皆俗に杭州舟と言っているとまを屋根にした小舟であった。その小舟の中にへさきを東の方へ向けて老人が艪を漕いでいる舟があって、それがすぐ眼の前を通りすぎようとした。許宣はどの舟でもいいから近い舟を呼ぼうと思って、その舟に声をかけようとしたところで、どうもその船頭に見覚えがあるようだから、竹子笠たけのこがさを冠っている顔に注意した。それは張河公ちょうかこうという知合いの老人であった。許宣はうれしくてたまらなかった。
「張さん、張さん、おい張さん」
 許宣の声が聞えたとみえて、船頭は顔をあげておかの方を見た。
「おれだ、おれだ、張さん、湧金門まで乗っけてくれないか」
 船頭は許宣を見つけた。
「ほう、主管ばんとうさん……」
 船頭は驚いたように言って艪をぐいとひかえて、舳を陸にして一押し押した。と、舟はすぐ楊柳の浅緑の葉の煙って見える水際みぎわすなにじゃりじゃりと音をさした。許宣は水際へ走りおりた。
「気の毒だが、湧金門までやっておくれ、保叔塔へ焼香に往ってて雨をったところだ」
「そいつは大変でしたね、早くお乗んなさい、わっしも湧金門へいくところじゃ」
「そうか、そいつはちょうどいい、乗っけてもらおう」
 許宣は急いで足を洗って舟へ乗った。船頭は水棹みさおを張って舟を出し、舳を東へ向けて艪を立てた。
「もし、もし、船頭さん、すみませんが、乗せてってくださいまし」
 ふくらみのある女の声がするので許宣は笘の隙から陸の方を見た。背のすらりとした綺麗な女が青い上衣を著た小婢こおんなに小さな包みを持たせて雨に濡れて立っていた。
「張さん、乗っけてやろうじゃないか、困ってるじゃないか」
「そうですな、ついでだ、乗っけてやりましょうや」
 船頭はまた舟を陸へやった。絹糸のような小雨の舳に降るのが見えた。
「どうもすみません、俄に雨になったものですから……」
 なまめかしい声がして女達は舟へあがってきた。そして、綺麗な女の顔がもう笘屋根の下にくっきりと見えた。
「どうもすみません、お邪魔をさせていただきます」
 女はおちついた物腰であいさつをした。許宣はきまりがわるかった。彼はあわてて女のあいさつに答えながら体を後ろの方へのけた。
「さあ、どうぞ」
 女はそのまま入ってきてその膝頭にくっつくようにして坐った。女の体に塗った香料の匂いがほんのりとした。許宣は眩しいので眼を伏せていたが、女の顔をはっきりと見たいという好奇心があるのでそろそろと眼をあげた。黒い潤みのある女の眼がじっと自分の方を見ているのにぶっつかった。許宣はあわててまた眼をそらした。
「あなたは、どっちにお住居でございます」
 女は執著を持ったようなことばで言った。許宣のきまりのわるい思いはやや薄らいできた。
「過軍橋の黒珠巷です。許という姓で、名は宣と言います、あなたは」
「私は白と申します、私の家は白三班はくさんぱんで、私は白直殿はくちょくでんの妹で、張という家へ嫁いておりましたが、主人がくなりましたので、今日はその墓参をいたしましたが、こんな雨になって、困っているところを、お陰さまでたすかりました」
「そうでしたか、私の両親も早く没っておりますので、今日は保叔塔寺へ往ったところで、この雨ですから、舟を雇おうと思って、来て見ると知合いの舟がいたので、乗ったところでした、ちょうど宜しゅうございました」
 舟は府城の城壁に沿うて南へ南へと往った。絹糸のような雨が絶えず笘屋根の外にあった。
「家を出る時は、好いお天気でしたから、雨のことなんか、ちょっとも思わなかったものですから、困ってしまいました、ほんとにありがとうございました」
 小婢が主人の横脇でもそもそと体を動かす気配がした。
「私も姐の家に世話になって、日間は親類の薬舗へ勤めておりますので、暇をもらって、やっぱり雨のことは考えずに、来たものですから、ひどい目に逢いました、皆、今日は困ったでしょうよ」
 許宣は気もちをいじけさせずに女と話すことができた。
 舟はもう湧金門の外へ来ていた。小さな白い雨は依然として降っていた。女は何か思いだしたように自分の体のまわりをじっと見た後で、小婢の耳へ口を著けて小声で囁いて困ったような顔をした。と、小婢の眼元が笑って女に囁きかえした。それでも女は困ったような顔をしていた。
「あのね、なんですが」
 小婢の顔が此方を見た。許宣は何事だろうと思った。
「今朝、家を出る時に、急いだものですから、おあしを忘れてまいりました、誠に恐れ入りますが、どうか船賃を拝借させていただきとうございますが、家へ帰りましたなら、すぐお返しいたしますが」
「そんなことはいいのですよ、私が払いますから」
 舟はもう水際へ著いていた。女はきまりわるそうにもじもじしていた。
「さあ舟が著きました、あがりましょう」
 許宣は腰につけた銭袋からいくらかの銭を取って舟の上に置いた。
「どうもすみません」
 女はそう言ってくつ穿いて小婢といっしょにあがって往った。許宣もその後からあがったが、それは赤脚はだしのままであった。
 もう日没ひぐれになっているのか四辺あたりが灰色になって見えた。女は許宣のあがってくるのを楊柳の陰で待っていた。
「あの、なんですけど、雨もこんなに降りますし、もう日も暮れかけましたから、私の家へまいりましょうじゃありませんか、拝借したお銭もお払いしとうございますから」
 許宣は女の家へも往きたかったが、姐の家に気がねがあるので往けなかった。
「もう遅うございますから、またこの次に伺います」
「そうですか、……それでは、また、お眼にかかります、どうもありがとうございました」
 女はのこり惜しそうな顔をして別れて往った。小婢は包みを持って後から歩いていた。許宣ものこり惜しいような気がするので、そのまま立っていて眼をやると、もう、二人の姿は見えなかった。許宣は気がいて船頭に一言二言別れの詞をかけて、楊柳の陰から走り出て湧金門を入り、ぎっしり簷を並べた民家の一方の簷下を歩いた。彼はそうして近くの親類へ往って傘を借りようとしているのであった。彼の眼の前にはさっきの女の姿が花のように映っていた。
 許宣は三橋巷さんきょうこうの親類へ往った。親類では夕飯の時刻だからと言って引留めようとしたが、許宣は家の外に幸福が待っているような気がして、家の内に置かれるのが厭だから、強いて傘ばかり借りて外へ出た。ぱっとさした傘に絡まる軽い爽かな雨の音。
 洋場頭ようじょうとうへ往ったところで、聞き覚えのある優しい女の声がした。
「おや、あなた」
 許宣は左の方を振り向いた。そこの茶館の簷下にさっきの白娘子はくじょうしが独り雨を避けて立っていた。
「や、あなたでしたか、さっきは失礼しました」
「さきほどはありがとうございました、どうも雨がひどいものですから、じょちゅうに傘を取りに往ってもらって、待ってるところでございます」
「そうですか、それは……、では、この傘を持っていらっしゃい、私はすぐそこですから、傘がなくってもいいのです」
 許宣は自分の手にした傘を女に渡そうとしたが、女は手を出さなかった。
「ありがとうございますが、それではあんまりでございますから、もう婢がまいりましょうから」
「なに、いいのです、私は、もう、すぐそこですから、傘をさすほどのことはないのです、さあお持ちなさい、傘は私が明日でも取りにあがりますから」
「でも、あんまりですわ」
「なに、いいのです」
 許宣は強いてを女の前へ持っていった。
「ではすみませんが、拝借いたしましょうか、私の家は荐橋そんきょう双茶坊そうさぼうでございます」
 女は細そりした長い指を柄にからませた。
「そうですか、それではまたお眼にかかります」
 許宣は女に気をもまさないようにと、傘を渡すなり簷下に添うてとかとかと歩きだした。それといっしょに女も簷下を離れて石を敷いた道の上へ出て往った。

 許宣はその夜寝床に入ってからも白娘子はくじょうしのことを考えていた。綺麗な眼鼻立の鮮やかな女の姿が心ありそうにして此方を見ていた。彼は誘惑に満ちた女の詞を一つ一つ思いだしていた。物の気配がして寝室のとばりを開けて入って来た者があった。許宣はびっくりしてその方へ眼をやった。そこには日間のままの白娘子の艶かしい顔があった。許宣は嬉しくもあればきまりもわるいので、何か言わなくてはわるいと思ったが、言うべき詞が見つからなかった。
 女は寝床の上にいつの間にかあがってしまった。許宣は呼吸いき苦しいほどの幸福に浸っていたが、ふと気が注くとそれは夢であった。
 翌朝になって許宣はいつものように早くからみせへ往ったが、白娘子のことが頭に一ぱいになっていて仕事が手につかないので、午飯ひるめしの後で口実をこしらえて舗を出て、荐橋の双茶坊へ往った。
 許宣はそうして白娘子の家を訪ねて歩いたが、それらしい家は見つからなかった。人に訊いても何人だれも知っている者はなかった。許宣は場処の聞きあやまりではないかと思って考えてみたが、どうしても双茶坊であるから、やめずに町の隅から隅へと訪ねて往った。しかし、それでもどうしてもそうした家がなかった。彼はしかたなしに諦めて、くたびれた足を引擦るようにして帰りかけた。東西になった街の東の方から青い上衣の小婢が来た。
「おや、いらっしゃいまし」
「傘をもらっていこうと思って、今、来たところですが、どこです」
 許宣は腹の裏を見透かされるように思って長い間探していたとは言えなかった。彼はそうして小婢にれられて歩いた。
 大きな楼房にかいやがあって高いへいを四方にめぐらしていた。小婢はその前へ往ってちょっと足を止めて許宣の顔を見た。
「ここですわ」
 許宣はこんな大きな家に住んでいる人が何故判らなかったろうと思って不審した。彼はそのまま小婢にいてそこの門を潜った。
 二人は家の内へ入って中堂ざしきの口に立った。
「奥様、昨日御厄介になった方が、いらっしゃいました」
 小婢が内へ向いて言った。すると内から白娘子の声がした。
「そう、では、此方へね、さあ、あなた、どうかお入りくださいまし」
 白娘子の詞に随いて小婢が言った。
「さあ、どうかお入りくださいまし」
 許宣はきまりがわるいので躊躇していた。小婢が追いたてるように促した。
「奥様もあんなにおっしゃってますから、どうぞ」
 許宣はそこで心を定めて入った。へやの両側は四扇しまいびらき隔子とびらになって、一方の狭い入口には青いきぬとばりがさがっていた。小婢は白娘子に知らすためであろう、その簾を片手で掲げて次の室へ往った。許宣はそこに立って室の容子を見た。中央の卓の上に置いた虎鬚菖蒲はしょうぶの鉢がまず女の室らしい感じを与えた。そして、両側の柱には四幅の絵をけて、その中間になった処にも何かの神の像を画いた物を挂けてあった。神像の下には香几こうづくえがあって、それには古銅の香炉と花瓶を乗せてあった。
 白娘子が濃艶な顔をして出てきた。許宣はなんだかもう路傍の人でないような気がしていたが、その一方では非常にきまりがわるかった。
「よくいらっしゃいました、昨日はまたいろいろ御厄介になりまして、ありがとうございました」
「いや、どういたしまして、今日はちょっとそこまでまいりましたから、お住居はどのあたりだろうと思って、何人かに訊いてみようと思ってるところへ、ちょうどじょちゅうさんが見えましたから、ちょっとお伺いいたしました」
 二人が卓に向きあって腰をかけたところで、小婢が茶を持ってきた。許宣はその茶を飲みながらうっとりした気もちになって女の詞を聞いていた。
「では、これで……」
 許宣は動きたくはなかったが、いつまでも茶に坐っているわけにゆかなかった。腰をあげたところで、小婢が酒と菜蔵果品さかなを持ってきた。
「何もありませんが、お一つさしあげます」
「いや、そんなことをしていただいてはすみません、これで失礼いたします」
「何もありません、まあお一つ、そうおっしゃらずに」
 許宣は気のどくだと思ったが女の傍にいたくもあった。彼はまた坐って数杯の酒を飲んだ。
「これで失礼いたします、もうだいぶん遅くなったようですから」
 許宣は遅くなったことに気が注いたので、思い切って帰ろうとした。
「もうお止めいたしますまいか、あまり何もありませんから、それでは、もう、ちょっとお待ちを願います。昨日拝借したお傘を、家の者が知らずに転貸またがしをいたしましたから、すぐ取ってまいります、お手間は取らせませんから」
 許宣はすぐ今日もらって往くよりは、置いていく方がまたここへ来る口実があっていいと思った。
「なに、傘はそんなに急ぎませんよ、また明日でも取りにあがりますから、今日でなくってもいいのです」
「では、明日、私の方からお宅へまでお届けいたしますから」
「いや、私があがります、店の方も隙ですから」
「では、お遊びにいらしてくださいまし、私は毎日相手がなくて困っておりますから」
「それでは明日でもあがります、どうも御馳走になりました」
 許宣は白娘子に別れ、小婢に門口まで見送られて帰ってきたが、心はやはり白娘子の傍にいるようで、自分で自分を意識することができなかった。そして、翌日舗に出ていても仕事をする気になれないので、また口実を設けて外へ出て、そのまま双茶坊の白娘子の家へ往った。
 許宣の往く時間を知って待ちかねていたかのように小婢が出てきた。
「ようこそ、さあどうかお入りくださいまし、今、奥様とお噂いたしておったところでございます」
「今日は傘だけいただいて帰ります。傘をください、ここで失礼します」
 許宣はそう言ったものの早く帰りたくはなかった。彼は白娘子が出てきてくれればいいと思っていた。
「まあ、そうおっしゃらずに、ちょっとお入りくださいまし」
 小婢はそう言ってから内へ入って往った。許宣は小婢が白娘子を呼びに往ったことを知ったので嬉しかった。彼は白娘子の声が聞えはしないかと思って耳を傾けた。
 人の気配がして小婢が引返してきた。小婢の後から白娘子の顔が見えた。
「さあ、どうぞ、お入りくださいまし、もしかすると、今日いらしてくださるかも判らないと思って、朝からお待ちしておりました」
「今日はもうここで失礼します、毎日お邪魔をしてはすみませんから」
「私の方は、毎日遊んでおりますから、お客さんがいらしてくださると、ほんとに嬉しゅうございますわ、お急ぎでなけりゃ、お入りくださいましよ」
「私もべつに用事はありませんが、毎日お邪魔をしてはすみませんから」
「御用がなけりゃ、どうかお入りくださいまし、さあ、どうか」
 許宣はきまりわるい思いをせずに、白娘子に随いて昨日の室へ往くことができた。室へ入って白娘子と向き合って坐ったところで、小婢がもう酒と肴を持ってきた。
「もうどうぞ、一本の破傘のために、毎日そんなことをしていただいては、すみません、今日はすぐ帰りますから、傘が返っているならいただきます」
 許宣はなんぼなんでも一本の傘のことで、二日も御馳走になることはできないと思った。
「まあ、どうか、何もありませんが、召しあがってくださいまし、お話ししたいこともございますから」
 白娘子はそう言って心持ち顔をあからめた。それは夢に見た白娘子の艶かしい顔であった。許宣は卓の上に眼を落した。
「さあ、おあがりくださいまし、私もいただきます」
 白娘子の声に随いて許宣は盃を口のふちへ持っていったが、何を飲んでいるか判らなかった。許宣はそうして自分の顔のほてりを感じた。
「さあ、どうぞ」
 許宣は白娘子の言うなりに盃を手にしていたが、ふと気が注くとひどく長座したように思いだした。
「何かお話が、……あまり長居をしましたから」
「お話ししたいことがありますわ、では、もう一杯いただいてくださいまし、それでないと申しあげにくうございますから」
 白娘子はそう言って許宣の眼に自分の眼を持ってきた。それは白いぬめぬめする輝きを持った眼であった。許宣はきまりがわるいので盃を持ってそれをまぎらした。同時に香気そのもののような女の体が来て、許宣の体によりかかった。
「神の前でお話しすることですから、決して冗談じゃありませんから、本気になって聞いてくださいまし、私は主人を没くして、独りでこうしておりますが、なにかにつけて不自由ですし、どうかしなくちゃならないと思っていたところで、あなたとお近づきになりました、私はあなたにお願いして、ここの主人になっていただきたいと思いますが」
 貧しい孤児の前に夢のような幸福が降って湧いた。許宣は喜びに体がふるえるようであったが、しかし、貧しい自分の身を顧みるとこうした富豪の婦人と結婚することは思いもよらなかった。彼はそれを考えていた。
「お厭でしょうか、あなたは」
 許宣はもう黙っていられなかった。彼は吃るように言いだした。
「そんなことはありませんが、私は、家もない、何もない、姐の家に世話になって、それで、日間は親類の鋪へ出ているものですから」
「他に御事情がなければ、他に御事情があればなんですが、そんなことなら私の方でどうにでもいたしますから」
 そう言って白娘子は顔をあげて婢を呼んだ。小婢がもうそこに来ていた。白娘子は何か小声で言いつけた。
 小婢はそのまま室を出て往ったが、まもなく小さな包みを持ってきて白娘子に渡した。白娘子はそれをそのまま許宣の前へ置いた。
「これを費用にしてくださいまし、足りなければありますから、そうおっしゃってくださいまし」
 それは五十両の銀貨であった。許宣は手を出さなかった。
「それをいただきましては」
「いいじゃありませんか、費用ですもの」
 白娘子はそれを許宣の手に持っていった。許宣は受けて袖の中へ入れた。
「それでは、今日はもう遅いようですから、お帰りになって、またいらしてくださいまし」
 小婢がそこへ傘を持って出てきた。許宣はふらふらと起って傘を持って出た。


 許宣は夜になって姐の許へ帰って、結婚の相談をしようと思ったが、人生の一大事のことをせけんばなしのようにして話したくないので、その晩は何も言わずに寝て、翌朝起きるなりそれまで貯えてあった僅な銭を持って市場へ往き、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の肉やがちょうの肉、魚、菓実くだもの、一樽の佳い酒まで買ってきて、それを自分の室へ並べて李幕事夫婦を呼びに往った。
「今朝は、私の処で御飯をべてください」
 李幕事夫婦は不思議に思いながら許宣の室へ来たが、卓の上の御馳走を見るとまた驚いた。
「今日は、ぜんたいどうしたというのだ、へんじゃないか」
 李幕事は突っ立ったなりに言った。
「すこしお願いしたいことがありますからね、どうか、まあお掛けください」
 許宣はとりすまして言った。
「どんなことだ、さあ言ってみるがいい」
「まあ、二三杯あがってください、ゆっくりお話しますから」
 許宣は李幕事夫婦に酒を勧めた。酒は二まわり三巡した。許宣はそこで李幕事の顔を見た。
「私は、これまで御厄介をかけて、こんなに大きくなりましたが、その御厄介ついでに、も一つお願いしなくてはならないことがあります、私は、婚礼したいと思います」
「婚礼か、婚礼は大事だから、一つ考えて置こう、なあお前」
 李幕事は細君の顔を見たが、それっきり婚礼のことに就いては何も言わなかった。もすこし具体的な話をしようと思っていた許宣は、もどかしかったがどうすることもできなかった。
 酒がすむと李幕事は逃げるように室を出て往った。許宣はしかたなしに李幕事の返辞を待つことにして待っていたが、二日経っても三日経っても何の返辞もなかった。そこで許宣は姐の処へ往った。
「姐さん、この間のことを、兄さんと相談してくれましたか」
「まだしてないよ」
「なぜしてくれないのです」
「兄さんが忙しかったからね」
「忙しいよりも、兄さんは、私が婚礼すると、金がかかると思って、それで逃げてるのじゃないでしょうか、金のことなら大丈夫ですよ、ありますから」
 許宣はそう言って袖の中から五十両のかねを出して姐の手に渡した。
「一銭も兄さんに迷惑はかけませんよ、ただ親元になって、儀式をあげてもらえばそれでいいのですよ」
 姐は金を見て笑顔になった。
「おかしいね、お前はどっかのお婆さんと婚礼するのじゃないかね、まあいいわ、私がこれを預ってて、兄さんが帰ってきたなら、話をしよう」
 許宣はそれから姐の室を出てきた。姐はその夜李幕事の帰ってくるのを待っていて、許宣の置いて往った金を見せた。
「あれは、何人かと約束しているのですよ、親元になって、儀式さえあげてやればいいのですよ、早く婚礼をさそうじゃありませんか」
「じゃ、この金は、女の方からもらったのだね」
 李幕事はそう言って銀を手に取りあげた。そして、その銀の表に眼を落した。
「た、たいへんだ」
 李幕事は眼を一ぱいに瞠って驚いた。
「何を、そんなにびっくりなさるのです」
 細君には合点がいかなかった。
「この金は、邵大尉しょうたいいの庫の金だ、盗まれた金なのだ、庫の内へ入れてあった金が、五十錠なくなっているのだ、封印はそのままになってて、内の金がなくなっているのだ、臨安府りんあんふでは五十両の賞をかけて、その盗人を探索しているところなのだ、宣には気の毒だがしかたがない、我家うちから訴えて出よう、これが他から知れようものなら、一家の者は首がない、こいつはえらいことになったものだ」
 李幕事は朝になるのを待ちかねて、許宣の置いて往った金を持って臨安府へ往った。府では韓大尹かんたいいんが李幕事の出訴を聞いて、銀を一見したところで、確かに盗まれた銀錠であるから、時を移さず捕卒をやって許宣を捉えさせ、それを庁前に引据えて詮議をした。
「李幕事の訴えによって、その方が邵大尉の庫の中の金を盗んだ盗賊と定まった、後の四十九錠の金はどこへ隠した、包まずに白状するがよかろう」
 捕卒がふみこんできた時から、もう気が転動して物の判別を失っていた許宣は、邵大尉庫中の盗賊と言われて、はじめて自分に重大な嫌疑のかかっていることを悟った。
「私は、決して、人の物を盗むような者ではありません、それは人違いです」
 許宣は一生懸命になって分弁いいわけをした。
「いつわるな、その方が邵大尉の庫の中から金を盗んだということは、その方が姐に預けた、五十両の金が証拠だ、あの金はどこにあったのじゃ」
「あの金は、荐橋そんきょう双茶坊そうさぼう秀王墻しゅうおうしょう対面たいめんに住んでおります、白という女からもらいました」
 許宣はそこで白娘子と近づきになったことから、結婚の約束をするようになったいきさつをくわしく話した。その許宣のことばには詐りもないようであるから、韓大尹は捕卒をやって白娘子を捉えさした。
 捕卒は縄つきのままで許宣を道案内にして双茶坊へ往って、秀王墻の前になって高いへいに囲まれた黒い楼房にかいやの前へ往った。それはもう古い古い家で、人が住んでいそうには思われなかった。許宣は不思議に思って眼を瞠っていた。捕卒の一人は隣家へ走って往ってその家の事情を聞いてきた。それは毛巡検もうじゅんけんという者の住んでいた家で、五六年前に瘟疫はやりやまいで一家の者が死に絶えて、今では住んでいる者はないはずであるが、それでも時どき童子こどもが出てきて東西ものを買うのを見たことがあるから、何人かが住んでいるだろうが、しかし、この地方には白という姓の者はないという事であった。
 捕卒は家の前へ立って手筈を定め、門を開いて入って往った。扉はなくなりのきは傾き、しきがわらの間からは草が生え茂って庭内はひどく荒れていて、二三日前に見た家屋の色彩はすこしもなかった。許宣は驚くばかりであった。
 捕卒は別れ別れになって室の中へ入った。荒れ崩れて陰々として見える室の中には、人の足音を聞いて逃げる鼠の姿があるばかりで、どこにも人の影はなかった。別れていた捕卒はいつの間にかいっしょになって、最後の奥まった離屋はなれに往った。そこは一段高い室になって、一人の色の白い女が坐っていた。着物の赤や青の綺麗な色彩が見えた。その女はこしかけの上に坐っているらしかった。捕卒は不審しながら進んで往った。
「われわれは、府庁やくしょからまいった者だが、その方は何者だ、白氏なら韓大爺かんたいや牌票はいひょうがある、その方が許宣にやった銀のことに就いて尋ねることがあるから、いっしょに伴れて往く」
 女はじっと顔をあげたが、何も言わなければ驚いた容子もなかった。
「あのおちつきすましたところは、曲者だ、捉えろ」
 捕卒は一斉に走りかかって往った。と、同時に雷のような一大音響がした。捕卒はびっくりしてそこへ立ち縮んだ。そして、気が注いて女の方を見た。女の姿はもう見えなかった。捕卒は逃がしてはならないと思って、今度は腹を定めて室の内へ飛びこんで往った。女の姿は依然として見えなかったが、牀の傍に銀の包みを積みあげてあった。それは紛失していたかの四十九個の銀錠であった。
 捕卒は銀錠をって臨安府の堂上へ搬んできた。許宣はそこで盗賊の嫌疑は晴れたが、素性の判らない者からひそかに金をもらったというかどで、蘇州へ配流ついほうせられることになった。
 一方邵大尉の方では、約束の通り懸賞金五十両を出してそれを李幕事に与えたが、李幕事は義弟に苦痛を見せることによって得た金であるから、心苦しくてたまらないので、牢屋の内にいる許宣に面会して、その金を旅費に与え、李将仕りしょうしと相談して、二つの手簡てがみを持って往かすことにした。その手簡の一つは、蘇州の押司おうし范院長はんいんちょうという者に与えたもので、一つは吉利橋下きちりきょうかに旅館をやっている王という者に与えたものであった。
 その日になると許宣は二人の護送人に連れられて牢屋を出た。府庁の門口には李幕事夫婦をはじめ、李将仕などが来て待っていた。許宣は涙をこぼしてその人びとに別れの詞をかわして出発した。
 三日ばかりして蘇州府へ着いた。李将仕の手簡を見た范院長と王主人は、金を使って奔走したので、許宣は王主人の許へ預けられることになった。

 許宣は王主人の許に世話になってから半年ばかりになった。彼はそこで毎日無聊ぶりょうに苦しめられていた。と、ある日、王主人が室へ入ってきた。
「轎に乗った女がきて、お前さんを尋ねている、了鬟じょちゅうも一人れている」
 許宣は心当りはなかったが、好奇ものずきに門口へ出てみた。門口にはかの白娘子と青い上衣を着た小婢が立っていた。許宣は驚きと怒りがいっしょになって出た。
「この盗人どろぼう、俺をこんな目に逢わしておいて、またここへ何しに来たのだ」
「私は、決して、そんな悪いものではありません、それをあなたに分弁いいわけしたくてまいりました」
 白娘子は心もち綺麗な首を傾げてさも困ったというようにした。
「いくら俺をだまそうとしたって、もうその手に乗るものかい、この妖怪ばけもの
 許宣の後から出てきた王主人は、許宣に門前でやかましく言われては、隣家へつけてもていさいがわるいので、その傍へ往って言った。
「遠くからいらした方らしいじゃないか、まあ内へ入れて、話をしたらどうだね」
 王主人はそう言ってから白娘子の方を見た。
「さあ、どうかお入りください」
 白娘子は体を動かそうとした。許宣がその前に立ち塞がった。
「こいつを、家の中へ入れてはだめです、こいつが、私を苦しめた妖怪ばけものです」
 白娘子は小婢の方を見て微笑した。王主人は女のそうした綺麗なやさしい顔を見て疑わなかった。
「こんな妖怪があるものかね、まあいい、後で話をすれば判る、さあお入りなさい」
 許宣は王主人がそういうものを、自分独りで邪魔をするわけにもいかないので、自分で前に入って往った。白娘子は小婢を伴れて王主人に随いて内へ入った。家の内では王主人の媽媽にょうぼうが入ってくる白娘子のしとやかな女ぶりに眼を注けていた。白娘子は媽媽におっとりした挨拶をした後で、傍に怒った顔をして立っている許宣を見た。
「私は、あなたに、この身を許しているじゃありませんか、どうして、あなたを悪いようにいたしましょう、あの銀は、今考えてみますと、私の先の夫です、私はすこしも知らないものですから、あなたにさしあげてあんなことになりました、私はそれを言いたくてあがりました」
 許宣にはまだ一つ不思議に思われることがあった。
「臨安府の捕卒が往った時、あなたは牀の上にいて、大きな音がするとともに、いなくなったじゃありませんか、あれはどうしたのです、おかしいじゃないか」
 白娘子は笑声を出した。
「あれはじょちゅうに言いつけて、板壁を叩かしたのですよ、その音で捕卒がまごまごしてよりつかなかったから、その隙に逃げて、華蔵寺前の姨娘おばさんの家に隠れていたのです、あなたはちっとも、私のことなんか考えてくださらないで、あべこべに私を妖怪あつかいにするのですもの、でも私はあなたの疑いさえ解けるならいいのです、これで失礼いたします」
 白娘子は小走りに走って外へ出ようとした。王主人の媽媽があわてて走って往って止めた。
「まあ、遠い処をいらしたのですから、二三日お休みになって、もっとお話しするがいいじゃありませんか」
 白娘子は引返しそうにしなかった。小婢が傍から言った。
「奥さん、御親切にあんなに言ってくださいますから、もすこしお考えなすったら如何です」
 白娘子は小婢の方を見た。
「でも、あの方は、もう私のことなんか、思ってくださらないのですもの」
 王主人の媽媽は白娘子を放そうとしなかった。
「もうすっかり事情も判ったのですから、許宣さんだって、いつまでも判らないことは言わないですよ」
 許宣はもう白娘子に対する疑念が解けていた。王主人の媽媽は、白娘子を許宣の室へ伴れて往った。許宣と白娘子はその夜から夫婦となった。

 許宣の許へ白娘子が来てからまた半年ばかりになった。ある日、それは二月の中旬のことであった。許宣は二三人の朋友と散策して臥仏寺がふつじへ往った。その日は風の暖かな佳い日であったから参詣人が多かった。許宣の一行は、その参詣人に交って臥仏の前へ往き、それから引返して門の外へ出た。そこには売卜者えきしゃや物売る人達が店を並べていた。その人びとの間に交って一人の道人が薬を売り符水ふすいを施していた。道人は許宣の顔を見ると驚いて叫んだ。
「あなたの頭の上には、一すじの邪気が立っている。あなたの体には、怪しい物がまとうている、用心しなくては命があぶない」
 許宣は非常に体が衰弱して気分がすぐれなかった。それに白娘子に対して抱いている疑念もあった。彼はそれを聞くと恐ろしくなった。地べたに頭をすりつけるようにして言った。
「どうか私を助けてください」
 道人は頷いてふだを二枚出した。
「これをあげるから、何人にも知らさずに、一枚は髪の中へ挟み、一枚は今晩三更よなかに焼くがいい」
 許宣はそれをもらうと朋友に別れて家へ帰り、一枚は頭の髪に挟み、一枚は三更になって焼こうと思って、白娘子に知らさずに時刻のくるのを待っていた。
「あなたは、また私を疑って、符を焼こうとしていらっしゃるのですね、こうして、もう長い間、いっしょにいるのに、どこが怪しいのです、あんまりじゃありませんか」
 傍にいた白娘子が不意に怒りだした。許宣はどぎまぎした。
「いや、そんなことはない、そんなことがあるものか」
 白娘子の手が延びて許宣の袖に中に入れてあった符にかかった。白娘子はその符を傍の灯の火に持っていって焼いた。符はめらめらと燃えてしまった。
「どう、これでも私が怪しいのですの」
 白娘子は笑った。許宣はしかたなしに分弁した。
「臥仏寺前の道人がそう言ったものだから、彼奴あいつ俺をからかったな」
「ほんとに道人がそんなことを言ったなら、明日二人で往ってみようじゃありませんか、怪しいか怪しくないか、すぐ判るじゃありませんか」
 翌日許宣と白娘子は、伴れ立って臥仏寺の前へ往った。臥仏寺の境内はその日も参詣人で賑わっていた。かの道人の店頭にも一簇の人が立っていた。白娘子はその道人がかの道人だということを教えられると、そのまま走って往った。
「この妖道士、人をたぶらかすと承知しないよ」
 符水ふすいを参詣人の一人にやろうとしていた道人はびっくりして顔をあげた。そして、白娘子の顔をじっと見た。
「この妖怪ばけもの、わしは五雷天心正法ごらいてんしんしょうほうを知っておるぞ、わしのこの符水を飲んでみるか、正体がすぐ現われるが」
 白娘子は嘲るように笑った。
「ちょうどいい、ここに皆さんが見ていらっしゃる、私が怪しい者で、お前さんの符水がほんとうにいて、私の正体が現われるというなら飲みましょうよ、さあください、飲みますよ」
「よし飲め、飲んでみよ」
 道人は盃に入れた水を白娘子の前へ出した。白娘子はそれを一息に飲んで盃を返して笑った。
「さあ、そろそろ正体が現われるのでしょうよ」
 許宣をはじめ傍にいた者は、またたきもせずに白娘子の顔を見ていたが、依然としてすこしも変らなかった。
「さあ、妖道士、どこに怪しい証拠がある、どこが私が怪しいのだ」
 道人は眼を瞠って呆れていた。
「つまらんことを言って、夫婦の間をさこうとするのは、けしからんじゃありませんか、私がこれから懲らしてあげる」
 白娘子はそう言って口の裏で何か言って唱えた。と、かの道人は者があって彼を縄で縛るように見えたが、やがて足が地を離れて空にあがった。
「これでいい、これでいい」
 そう言って白娘子が口から気を吐くと道人の体は地の上に落ちた。道人は起きあがるなりどこともなく逃げて往った。

 四月八日の仏生日たんじょうびがきた。許宣が興が湧いたので、承天寺へ往って仏生会ぶっしょうえを見ようと思って白娘子に話した。白娘子は新しい上衣と下衣を出してそれを着せ、金扇を持ってきた。その金扇には珊瑚の墜児たまが付いていた。
「早く往って、早く帰っていらっしゃい」
 そこで許宣は承天寺へ往った。寺の境内には演劇しばいなどもかかって賑わっていた。許宣は参詣人の人波の中にもまれて彼方此方していたが、そのうちに周将仕家しゅうしょうしけ典庫しちぐらの中へ賊が入って、金銀珠玉衣服の類を盗まれたという噂がきれぎれに聞えてきたが、自分に関係のないことであるからべつに気にも止めなかった。
「もし、もし、ちょっとその扇子を見せてください」
 許宣と擦れ違おうとした男がふと立ちどまるとともに、許宣の扇子を持った手を掴んだ。許宣はびっくりしてその男の顔を見た。男は扇子と扇子につけた珊瑚の墜児をじっと見てから叫んだ。
盗人どろぼう、盗人をつかまえたから、皆来てくれ」
 許宣はびっくりして分弁いいわけしようとしたがその隙がなかった。彼の体にはもう縄がひしひしと喰いいってきた。彼はその場から府庁に曳かれて往った。
「その方の衣服と扇子は、それで判っておるが、その余の贓物ぞうぶつは、どこへ隠してある、早く言え、言わなければ、拷問にかけるぞ」
 許宣は周将仕家の典庫の盗賊にせられていた。
「私の着ている衣服も、持っている扇子も、皆家内がくれたもので、決して盗んだものではありません」
 府尹ふいんは怒って叱った。
「詐りを言うな、その方がいくら詐っても、その衣服と扇子が確かな証拠だ、それでも家内がくれたというなら、家内を伴れてくる、どこにおる」
「家内は吉利橋の王主人の家におります」
「よし、そうか」
 府尹は捕卒に許宣を引き立てて王主人の家へ往かした。家にいた王主人は、許宣が捕卒に引き立てられて入ってきたのを見てびっくりした。
「どうしたというのです」
「あの女にひどい目に逢わされたのです、今家におりましょうか」
 許宣は声をふるわして怒った。
「奥様は、あなたの帰りが遅いと言って、婢さんと二人で、承天寺の方へ捜しに往ったのですよ」
 捕卒は白娘子の代りに王主人を縛って許宣といっしょに府庁へ伴れて往った。堂の上には府尹が捕卒の帰るのを待っていた。府尹は白娘子を捕えてきた後に裁判をくだすことにした。府尹の傍には周将仕がきてその将来なりゆきを見ていた。
 そこへ周将仕の家の者がやってきた。それは盗まれたと思っていた金銀珠玉衣服の類が、庫の空箱の中から出てきたという知らせであった。周将仕はあわただしく家へ帰って往ったが、家の者が言ったように盗まれたと思っていたものはみなあった。ただ扇子と墜児はなかったが、そんな品物は同じ品物が多いので、そればかりでは許宣を盗賊とすることができなかった。周将仕は再び府庁へ往ってそのことを言ったので、許宣は許されることになったが、許宣を置く地方が悪いということになって、鎮江の方へ配を改められた。
 そこで許宣は鎮江へ送られることになったところへ、折よく杭州から邵大尉の命で李幕事が蘇州へ来た。李幕事は王主人の家へ往って許宣が配を改められたことを聞くと、鎮江の親類へ手簡を書いて、それを許宣に渡した。鎮江の親類とは、親子橋の下に薬舗を開いている李克用りこくようという人の許であった。
 許宣は護送人といっしょに鎮江へ往って、李克用の家へ寄った。李克用は親類の手簡を見て、護送人に飯をわし、それからいっしょに府庁へ往って、それぞれ金を使って手続をすまし、許宣を家へ伴れてきた。
 許宣は李克用の家へおちつくことができた。心がおちついてくるとともに彼は恐ろしい妖婦に纏わられている自分の不幸を思いだして、悲しみも憤りもした。李克用は許宣が杭州で薬舗の主管ばんとうをしていたことを知ったので、仕事をさしてみると、することがしっかりしていて、あぶなかしいと思うことがなかった。
 そこで主管にして使うことにしたが、他の店員にねたまれてもいけないと思ったので、許宣に金をやって店の者を河の流れに臨んだ酒肆さかやへ呼ばした。
 やがて酒を飲み飯を喫って皆が帰って往ったので、許宣は後で勘定をすまして一人になって酒肆を出たが、苦しくない位の酔があって非常に好い気もちであった。彼は夕暮の涼しい風に酒にほてった頬を吹かれて家いえの簷の下を歩いていた。
 一軒の楼屋にかいやがあってその時窓を開けたが、そのひょうしに何か物が落ちてきてそれが許宣の頭に当った。許宣はむっとしたので叱りつけた。
「この馬鹿者、気を注けろ」
 楼屋の窓には女の顔があった。女は眼を落してじっと許宣の顔を見たが、何か言って引込んだ。許宣が不思議に思っていると、かの女は門口からあたふたと出てきた。それは白娘子であった。
「この妖婦、また来て俺を苦しめようとするのか、今度はもう承知しない、つかまえて引きわたすからそう思え」
 白娘子は眼に笑っていた。
「まあそんなにおっしゃらないで、私の言うことを聞いてくださいよ、二度もあなたをまきぞえにしてすみませんが、あの衣服と扇子は、私の先の夫の持っていたものですよ、決して怪しいものじゃありません、だから疑いが晴れたじゃありませんか」
「それじゃ、俺が王主人の処へ帰った時に、何故いなかったのだ」
「それは、あなたの帰りが遅いものですから、婢と二人であなたを捜しに往ったところで、あの騒ぎでしょう、私は恐ろしくなったから、船で婢の母の兄弟のいる、この家へ来ていたのです」
 許宣の白娘子に対する怒りは解けた。許宣は白娘子に随いてその家へ往ってそこに一泊したが、それからまた元のとおりの夫婦となった。
 そのうちに李克用の誕生日がきた。許宣夫婦も進物を持って李家へ祝いに往った。李克用は筵席えんせき按排あんばいして親友や知人を招いていた。
 この李克用は一個の好色漢であった。彼は白娘子を一眼見てたちまちその本性を現わした。白娘子が東厠べんじょへ往ったことを知ると、そっと席をはずして後からつけて往った。そして、花のような女のその中にいることを想像してそっと内へ入った。内には桶の胴のような大きな白い蛇がとぐろを捲いていた。その蛇の両眼は燈盞かわらけのように大きくて金光を放って輝いていた。李克用はびっくりして逃げだしたが、逃げるひょうしにつまずいて倒れてしまった。
 李克用の家に養われている娘が、李克用の倒れて気絶しているのを見つけた。家の内は大騒ぎになって皆が集まってきた。そして、薬を飲ましたりして介抱しているとやっと気が注いた。家の者がどうしたかと言って訊くと、彼は連日の疲れで体を痛めたためだと言った。
 李克用の気もちが好くなったので、宴席も元のとおりになったが、やがてその席も終って客は帰って往った。白娘子はいつの間にか家へ帰っていたが、許宣に話したいことがあるのかそっと舗へ来た。
「今晩は、みょうに気もちがわるいから、来たのですよ」
「今晩は御馳走になっていい気もちじゃないか」
「いい気もちじゃありませんよ、あなたは、ここの旦那を老実な方だと言いましたが、どうしてそうじゃありませんよ、私が東厠へ往ってると、後からつけてきて手籠めにしようとしたのです、ほんとに厭な方ですよ」
「しかし、べつにどうせられたというでもなかろう、まあいいじゃないか、早く帰ってお休みよ」
「でも、私はあの旦那が恐いわ、これからさき、まだどんなことをせられるか判らないのですもの、それよりか、私が二三十両持ってますから、ここを出て、碼頭はとばのあたりで、小さな薬舗を開こうじゃありませんか」
 許宣も人の家の主管をして身を縛られているよりも、自由に自分で舗を持ちたかった。彼は白娘子の詞に動かされた。
「そうだな、小さな舗が持てるなら、そりゃその方がいいが」
「では持とうじゃありませんか」
「そうだね、持ってもいいな、じゃ、暇をくれるかくれないか、明日旦那に願ってみよう」
 許宣は翌日李克用に相談した。李克用は自分の弱点があるうえに奇怪な目に逢っているので、許宣の言うことに反対しなかった。そこで許宣は白娘子と二人で、碼頭の傍へ手ごろの家を借りて薬舗をはじめた。許宣ははじめて一家の主人となっておちつくことができた。
 七月の七日になった。その日は英烈竜王の生日えんにちであった。許宣は金山寺へ焼香に往きたいと思って、再三白娘子に同行を勧めたが白娘子は往かなかった。
「あなた一人で往ってらっしゃい、しかし、方丈へ往ってはいけないのですよ、あすこには、坊主が説経してますから、きっと布施を取られますよ、いいですか、きっと方丈へ往ってはいけないのですよ」
 許宣は独りで往くことにして、舟を雇い、上流約一里の処にある金山寺の島山へ往った。揚子江の赤濁りのした流れを上下して、金山寺へ往来する参詣人の舟が水鳥の群のように浮んでいた。京口瓜州一水きょうこうかしゅういっすいの間、前岸瓜州ぜんがんかしゅうの楊柳は青々として見えた。
 許宣は金山寺へあがって竜王堂へ往き、そこで焼香をすまして、彼方此方を歩いているうちに、多くの参詣人が和尚の説経を聞いている処へ往った。許宣はここが白娘子の往ってはいけないと言った方丈だと思った。彼は急いで方丈の中を出て往った。許宣の引返そうとする顔を説経していた和尚がちらと見た。
「あの眼に妖気がある、あれを呼べ」
 侍者の一人が呼びに往ったが、許宣はもう山をおりかけていたので聞えなかった。すると和尚はいきなり禅杖を持ってたちあがるなり、許宣を追っかけて往った。
 山の麓では大風が起って波が出たので、参詣人は舟に乗ることができずに困っていた。山をおりた許宣もその人びとに交って岸に立って風の静まるのを待っていた。と、一艘の小舟がその風の中を平気で乗切ってきて陸へ著けかけた。許宣は神業のような舟だと思って、ふいと見ると、その中に白娘子と小婢の二人が顔を見せていた。その白娘子と許宣の眼が合った。
「あなた、早くお乗りなさい、風が吹きだしたから、あなたを迎えにきたのです」
 舟は同時に陸へ著いた。許宣は喜んで水際へおりた。許宣の後ろには許宣を追っかけてきた和尚がいた。
「この※(「薛/子」、第3水準1-47-55)ちくしょう、ここへ来やがって何をしようというのだ」
 和尚は舟の中を見て怒鳴りながら禅杖を振りあげた。と、白娘子と小婢は、そのまま水の中へもんどり打って飛び込んでしまった。許宣はびっくりして眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。そうして許宣は夢が覚めたようになった。
「あの和尚さんは、なんという和尚さんでしょう」
 許宣は気が注いて傍の人に訊いた。
「あれが、法海禅師様だ、活仏いきぼとけだ」
 和尚の侍者が許宣を呼びにきた。許宣はそれに伴れられて和尚の前へ往った。
「お前さんは、あの女達とどこであわっしゃった」
 許宣はそこではじめからのことを話した。和尚はそれを聞いて言った。
「宿縁だ、しかし、お前さんの欲念が深いからだ、だが、災難はもうすぎたらしい、これから杭州へ帰って、修身立命の人にならなくてはいけない、もし再びこんなことがあったら、湖南の浄慈寺じょうじじに来てわしを尋ねるがいい、今、わしがを言って置くから、覚えているが宜い、本是れ妖蛇婦人に変ず、西湖岸上婦身を売る、汝欲重きに因って他計に遭う、難有れば湖南老僧を見よ、宜いかね、この偈を忘れないように」

 許宣は法海禅師に別れて、身顫いしながら帰り、親子橋の李克用の家へ往った。李克用は許宣から白娘子の話を聞いて、はじめて誕生日の夜に見た妖蛇の話をした。そこで、許宣は碼頭はとばの家を畳んで再び李克用の家へうつったが、十日と経たないうちに朝廷から恩赦の命がくだって、十悪大罪を除く他の者は皆赦された。許宣もそれと同時に赦されたが、法海禅師の詞もあるから急いで杭州へかえって往った。
 李幕事夫婦は許宣の帰ってくるのを待っていた。李幕事は許宣の挨拶が終るのを待って言った。
「お前も今度は、えらい目に逢った、私はお前が蘇州へ往く時も、蘇州から鎮江へ往く時も、できるだけのことをしてやったが、それでも苦しかったのだろう、それというのも、お前が一人でぶらぶらしてるからだ、はやく妻室かないをもらって身を固めるがいい、そうなれば怪しい者だって寄りつかない」
 許宣はそれよりもじっとおちつきたかった。
「私は、もう懲りましたから、妻室はもらいません」
 許宣のその詞が終るか終らないかに人声がして、そこへ入ってきた者があった。それは許宣の姐が白娘子と小婢を伴れてきたところであった。
「あなたは、妻室があるくせに、そんな嘘をいうものじゃありません、私はあなたの妻室じゃありませんか」
 許宣はがたがた顫えだした。そして、声を顫わし顫わし言った。
「姐さん、そいつは妖精です、そいつのいうことを聞いてはいけないです」
 白娘子は許宣の傍へ往った。
「あなたは、私と夫婦でありながら、人の言うことを聞いて私を嫌うとは、ひどいじゃありませんか、でも、私はあなたの妻室ですから、他へはまいりません」
 白娘子は泣きだした。許宣は急いで起って李幕事の袖を曳いて外へ出た。
「あれが白蛇の精です。どうしたらいいのでしょう」
 許宣はまだ口にしなかった鎮江に於ける怪異を話して聞かした。
「ほんとうに蛇なら、いい人がいる、白馬廟の前に、蛇捉へびとりたいという先生がいる、この人に頼もうじゃないか」
 李幕事は前に立って許宣を伴れて白馬廟の前へ往った。戴先生は折よく家の前に立っていた。
「お二方とも何か私に御用ですか」
 李幕事はいそがしそうに言った。
「私の家へおおきな白蛇が来て、災をしようとしております、どうか捉ってください」
 李幕事はそう言って腰から一両の銀を出して、戴先生の掌に載せた。
「今これだけさしあげておきます、もし捉ってくだすったら、後でまたべつにお礼をいたします」
 戴先生は喜んで銀を収めた。
「では、すぐ後から準備したくをしてあがります。お二方は一足お前へ」
 李幕事と許宣はすぐ帰った。戴先生は間もなく後から来たが、その手には雄黄いおうを入れた瓶と薬水を入れた瓶を持っていた。
「どこに白蛇がおります」
 李幕事は白娘子のいる室を教えた。戴先生は教えられたとおりその室へ往ったが、室の扉は締っていた。戴先生は何かぶつぶつ言いながらその扉を開けようとしていると、扉は内から開いた。戴先生は内へ入って往った。内には桶の胴のような白い※蛇うわばみ[#「虫+(くさかんむり/天/廾)、146-7]がいて、それが燈盞かわらけのような両眼を光らし、焔のような舌を出して、戴先生を一呑みにしようとするように口を持ってきた。戴先生は手にした瓶の落ちるのも知らずに逃げだした。
 李幕事と許宣は戴先生の結果を見にきたところであった。戴先生は二人に往きあたりそうになって気が注いた。李幕事が言った。
「先生、捉れたでしょうか」
 戴先生は呼吸をはずましていた。
「蛇なら捉れるが、あれは妖怪です、私はすんでのことに命を取られるところでした、あの銀はお返しします」
 こう言って戴先生は逃げるように出て往った。李幕事と許宣は顔を見合わして困っていた。
「あなた、ここへいらしてください」
 室の中から白娘子の声がした。許宣は体がぶるぶると顫えた。しかし、往かずにいてはどんなことをするかも判らないと思ったので、恐る恐る入って往った。中には白娘子が平生いつもと同じような姿で小婢と二人で坐っていた。
「あなたはほんとに薄情な方ですわ、あんな蛇捉の男なんか伴れてきて、あなたがそんなにわたしをいじめるなら、私にも考えがありますよ、この杭州一城の人達の命にかかわりますよ」
 許宣は恐ろしくてじっとして聞いていられなかった。彼はそのまま外へ出たが足を止めるのが恐ろしいので、足の向くままに歩いた。彼はもう清波門の外へ往っていた。彼はそこへ往ってから気が注いて、これからどうしたものだろうかと考えた。しかし、それからどうしていいか、どういう手段を取っていいかという考えはちょっと浮ばなかった。と、金山寺の法海禅師の言った偈の句が浮んできた。それと同時に再び※(「薛/子」、第3水準1-47-55)ちくしょうに纏われたなら、湖南の浄慈寺にわしを尋ねてこいと言った法海禅師の詞が浮んできた。彼はそれに力を得て浄慈寺の方へ往った。
 浄慈寺には監寺の僧がいた。許宣は監寺に法海禅師のことを訊いた。
「法海禅師にお眼にかかりたいですが」
「法海禅師は、この寺へいらしたことはないのです」
 許宣は力を落して帰った。そして長橋の下まで来た。許宣はそれからどうしていいか判らなかった。彼は湖水の水に眼を注けた。俺が一人死んでしまえば何人だれにも迷惑をかけないですむと思いだした。彼の眼の前には暗い淋しい世界があった。彼はいきなり欄干に足をかけて飛びこもうとした。と、後ろから声をかける者があった。
「堂々たる男子が、何故生を軽んじる、事情があるなら商量そうだんにあずかろうじゃないか」
 法海禅師が背に衣鉢を負い手に禅杖を提げて立っていた。許宣はその傍へ飛んで往った。
「どうか私の一命を救うてくださいまし」
「では、またあの※(「薛/子」、第3水準1-47-55)畜が纏わってきたとみえるな、どこにおる」
「姐の夫の李幕事の家に来ております」
「よし、では、この鉢盂はちをあげるから、これを知らさずに持って往って、いきなりその女の頭へかぶせて、力一ぱいに押しつけるが宜い、どんなことがあっても、手をゆるめてはならない、わしは、今、後から往く」
 許宣は禅師から鉢盂をもらって李幕事の家へ帰った。李幕事の家の一室では白娘子が何か言って罵っていた。許宣はしおしおとしたさまをしてその室へ往った。白娘子は許宣を見るとしとやかな女になって、許宣に何か言いかけようとした。隙を見て許宣は袖の中に隠していた鉢盂を出して、不意に女の頭に冠せて力まかせに押しつけた。女は叫んでそれを除けようとしたが、除けられなかった。女の形はだんだんに小さくなっていった。そして、許宣がなおも力を入れて押しつけていると、女の形はとうとうなくなって鉢盂ばかりとなった。
「苦しい、苦しい、どうか今まで夫婦となっていたよしみに、すこし除けてください、私は死にそうだ」
 鉢盂の中からそうした声が聞えてきた。と、その時李幕事が来て言った。
「和尚さんが、怪しい者を捉りにきたと言って見えたよ」
「それは法海禅師です、早くお通ししてください」
 李幕事は急いで出て往ったが、やがて法海禅師を伴れて入ってきた。
「妖蛇は、この下に伏せてあります」
 禅師はそこで口の中で何か唱えていたが、それが終ると鉢盂を開けた。七八寸ぐらいある傀儡にんぎょうのようなものがぐったりとなっていた。禅師はその傀儡に向って言った。
「その方は、何故に人に纏わるのじゃ」
「私は風雨の時に、西湖に来た※蛇うわばみ[#「虫+(くさかんむり/天/廾)、149-14]です、青魚せいぎょといっしょになっておりましたところで、許宣を見て心が動いたので、こんなことになりました。それでも、かつて物の命をそこのうたことがございませんから、どうか許してください」
「淫罪がもっとも大きいからいけない、それでも千年間修練するなら命は助かる、とにかく本の形を現わすが宜い」
 それとともに傀儡は白い蛇となって、その傍に青い魚の姿も見えてきた。
 禅師はその蛇と魚を鉢盂に入れて、それに褊衫けさを被せて封をし、それを雷峯寺の前へ持って往って埋め、その上に一つの塔をこしらえさして、白蛇と青魚を世に出られないようにした。禅師はそれに四句の偈を留めた。
雷峯塔倒れ、西湖水乾れ、江潮起たず、白蛇世に出ず
 許宣は法海禅師の弟子となって雷峯塔の下におり、その塔を七層の大塔にしたが、後、業を積んで坐化ざけしてしまった。朋輩の僧達はがんを買ってその骨を焼き、骨塔を雷峯の下に造ったのであった。

底本:「中国の怪談(一)」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年5月6日初版発行
底本の親本:「支那怪談全集」桃源社
   1970(昭和45)年11月30日発行
※「覚えているが宜い」は、底本では「覚えているが宣い」ですが、親本を参照して直しました。
入力:Hiroshi_O
校正:門田裕志、小林繁雄
2003年8月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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