二人の男の写真は仏壇の中から発見されたのである。それが、もう現世にいない人間であることは、ひとりでに分っているのだが、こうして、死んだ後までも彼らが永えに、彼女の胸に懐かしい思い出の影像となって留まっていると思えば、やっぱり、私は、捕捉することの出来ないような、変な嫉妬を感じずにはいられなかった。そして今、何人にも妨げられないで、彼女を自分ひとりの所有にして楽しんでいる限りなき歓びが、そのためにたちまち索然として、生命にも換えがたい大切な宝がつまらない物のような気持になった。しかし、また思いなおすと、彼らは、どのくらい女に思われていたか、私よりは深く思われていたか、そうでなかったか、わからぬにしても写真を仏壇に祀られるようになったのでは、結局この私よりもあの男たちは不幸な人間であった。そう思うと、死んだ人間が気の毒にもなった。
「そんなに隠さないで、ちょっと見せたっていいじゃないか。それは好きな人の写真だろう。どうせここへ祀ってあるくらいだから、死んだ人に相違ない。生きているころ世話になった人なら、祀って上げるのが当りまえだ」さばけた気持でそう言って、私は写真の面影をなお追うような心持になったが、女は瞬く間に、数の多い、どこかそこらの箪笥の小抽斗にそれを隠してしまった。
羽織袴を着けている三十恰好の男はくりくりした二重瞼の、鼻の下の髭を短く刈っていたりするのが、あとの四十年配の洋装の男よりも安っぽく思われた。そしてそれが、ずっと前から、ちょいちょい私の耳に入っていた、女と大分深い関係であったという男のように直感させた。ある日本画の画家で女と噂の高かった男が去年の夏ごろ死んだということを聞いていたので、それを思いうかべた。
「和服を着ていた人間は、何だか活動の弁士のようじゃないか」私は幾らか胸苦しい反感をもってそういうと、
「何でも構いまへん。あの人たちが生きてたら、私、もうとうにこんな商売してえしまへん」
女は向うをむいて、せっせと、取り拡げた着物を畳みながらこちらの言葉にわざと反抗するように、そう言っている。私は、そんな言葉を聴かされると、また、あまり好い心地はしなかった。そして腹の中で、
「それじゃ、四、五年も前から、自分ばかりに、身体の始末をつけてもらいたいようにいって頼んでいたのは、みんなであったかも知れぬ」と思ったが、女の厭がるようなことを、くどく追窮して訊くのはかえって好くないと思って、黙っておいた。
けれども、もう此間から訊こう訊こうと思って、幾度もいい出しかけては、差し控えていた、女の借金が今どうなっているか、また自分が長い間仕送った金が、その借金を減らすために、どういう具合に有効に使用せられているか否かを明細に訊きたいと思った。女は、そのことを突っ込んで訊かれるのが、痛いところへ触られるようで、なるたけ訊かれずに、そうっとしておきたい風があるのは、今年のまだ正月時分から、その金の使途について、急にやかましく、私から訊ねてよこした再三再四の手紙に対する返事で一向要領を得なかったのでも、それがわかっているし、今度京都に来て、先日から、祇園町の茶屋で久しぶりに逢った時にも、それを言うと、妙に話を脇へそらすようにするし、そうかといって、女のいうままに下河原の旅館の方にいって要領を得た話を訊こうとしても、そこでもなるべくそんな話はいい出さないようにして、一寸遁れに逃れておりたいのが見えていた。そして、あの晩とうとう自分をこの二階に伴れて来たのであったが、こうして、しばらくでも女と一緒にいて、母親にもともどもに大事にせられていると、長い間自分の望んでいた願いが叶ったようなものであるが、女の身体が今におき、やっぱり、借金のために廓に繋がっているのであっては、目前の歓楽はうたかたのごとくはかない。
「着物がそんなに出来たのも好いことだが、あんたの借金の方は一体どうなっているの? 着物は、あんたの身が自由になった後に、ぽつぽつ出来る。それよりも急ぐのは今の商売を廃して、綺麗に脚を洗うことじゃないか」
しばらくしてから私はなんどり訊いてみた。すると女も母親も黙っていたが、私が繰り返して、
「ねえ、どうなっているの」というので、女は、
「借金はまだ大分あります」という。
「大分ありますって、どのくらいあるの」
「さあ、まだ千円ちかくありますやろ」
彼女は、わざと陽に反抗の意を表わして、誠意の籠もらないような口吻で、そういう。それで私はまたむっとなり、
「千円?」自分の耳を疑うように、重ねて、言葉を強くして訊いた。
けれども女は黙りこくっている。
「まだそんなにあるの?」私の声は、自然に上ずってきた。「そんなにあるはずがないじゃないか。私があんたを初めて知った四、五年前にそのくらいあると言っていた。そしてそれだけの物は私から一度に纏めてではないが確かに来ている。あれから四、五年も稼いでいて、そのうえそれだけの金も手に入っていて、今になってもやっぱり四、五年前と少しも借金が減っていないというようなことで、それで、あんた、どうするつもりなの?」私は、次の間の長火鉢のところにいる母親にも聞えるように、畳みかけて問いつめた。
すると女はまた棄て鉢のように、
「そやからもうあんたはんの世話になりまへん。私自分で自分の体の解決をつけますよって、どうぞ心配せんとおいとくれやす」
私は呆れた顔をして、そんなことをいう女の顔をしばらくじっと見ていた。
「もうあんたはんのお世話になりまへんて、それじゃお前、今までどんな考えで私にいろんなことを頼んでいたの。あんたの体の解決をするために、私は出来るだけのことをしたのじゃないか。今になってそんなことをいっては、何のことはない、まるで私を騙っていたようなものじゃないか」
そういうと、女は返答に窮したように黙って焦れ焦れしながら、肩で大きな息をしているばかりである。
「ねえ、私の送って上げた金は一体何に使ったの、……そりゃ、こんな着類をこしらえるにもいったろうが、私自身にも欲しい物や買いたいものが幾らもあるのを、そんな物より何より私には、ただただお前という者が欲しいために、出来ぬ中から私の力に能う限りのことをして来たのじゃないか。まとまっていないといっても、二百円三百円と纏まった金を送ったこともある。それは、あんたも覚えているはずだ。私にとっては血の出るようなその金を、これと言って使い途のわからぬようなことに使って、今になってもまだそんなに借金がある。……私はこうしてあんたに逢うのも、何度もいうとおり、去年の一月からちょうど一年と半歳ぶりだ。始終この京都の土地に居付いているわけじゃないから委しいことは知らぬが、あんたが私から貰う金をほかの人間に貢いでいるという噂を、ちらちら耳にしたこともあったけれども、私はそれを真実とは思わないが、どうも、借金がなおそんなにあるはずはないと思う。もっと私の納得するように本当のことをいって聴かしてもらいたい。私が今までお前に尽している真心がお前にわかっているなら、もっと本当のことを打ち融けて聴かしてくれてもいいと思う」私はそれでもなるべく女の気に障らぬように、言葉のはしばしを注意しながら、そういった。
すると彼女は、いよいよ言うことに詰ったと思われて、畳んでしまった着物をそこに積み重ねたまま、箪笥の前に凭れかかってじっとしていたが、ヒステリックに、黒い、大きな眼を白眼ばかりのようにかっといて、
「わたし何も、引いてからあんたはんのところへ行く約束した覚えありまへん」と、早口にいった。
そのあまりに凄まじい相好に私はびっくりして、そのままややしばらく口を噤んでいたが、
「今になってそんなことを言っている」と、言葉を和らげていうと、女もすぐ静かな調子になって、
「あんたはんが、ただ自分ひとりでそうお思いやしたのどすやろ」
「私が自分ひとりでそう思った?……あんたの体を解決することを」
「ええ、そうどす」
「私が自分ひとりでそう思ったって、あんたの方でも依頼したから送る物を送っていたのじゃないか。いくら私がお前を好いていたって、そっちでも頼まないものを、どこに、自分の身を詰めてまで仕送る道理がない」
「そやけど、あんたはん、初めの時分は、私にそうおいいやしたやおへんか。自分はお前を可哀そうや思うて恵んでやるさかい。後になって私のところにお前が来る気があったら来てもええ、その気がなかったら来てもらわいでもええ。……私そのつもりでいました」彼女は静かな調子ですこし人を戯弄うようにいう。
なるほどそう言えば、ぼんやりしているようでも、女がよく記憶しているとおりに、彼女に、ずっと初めに金品などをくれてやった時分には、そんなことを言ったように思う。それは、女にどんな深い関係の人間があるかわからないための、こちらの遠慮であると同時に、また自分の方へ彼女を靡き寄せようとする手もまじっていたのであった。けれども女の方でも後には、そんな考えでのみこちらの扶助を甘んじて受けていなかったことは、長い間の経緯で否応なしに承知しているはずであった。
「うむ、それは、あんたのいうとおり、初めはそんなことを言っていたことも覚えている。けれどもお前もだんだん、そんなつもりばかりで私に長い間依頼していたのではなかったろう」
そういうと、女はそれに何といって応えたらいいかと、ちょっと考えているようであったが、
「そない金々て、お金のことをいわんとおいとくれやす」と、また口を突いていった。
それで、大分心が平静に復っていた自分はまた感情が激してきて、
「金のことをいわんとおいてくれて、私は好んで金のことをいいたくはない。けれども出来ぬ中から無理をして出来る限りのことをして上げたというのは、そこに、とても一口では言い尽すことのできぬ私の真心が籠もっているからじゃないか。何も金が惜しいのでいうのじゃない」
女はやっぱり箪笥に凭りかかりながら、
「それはようわかってます。……そやからお金をお返ししますいうてます。何ぼお返ししまよ」
「いや、私は金が返してほしいのじゃない。今お前がいうように、私がこれまでしたことが、ようわかっているなら、少しも早くその商売を止めてもらいたい」
女はそれに対して確答を与えようとはしないで、
「お金をお返ししさえすりゃ、あんたはんに、そんな心配してもらわんかてよろしいやろ」
私の静まりかけている心はまたしても女の言いようで激してくるのであった。
「お前は、お金をどれだけか私に戻しさえすれば、それで私と今までのことが済むと思っているのか」
私は金を返そうと主張する女の心の奥に潜んでいる何物かをじっと疑ってみた。それで、そうなれば、どんなに金を山ほど積んでもますます、金では済まされないということになる。けれども、そんな者が、もしあっては、彼女が私に対してとかく真実のある返答を避けようとするのもそのはずである。よし、それならこちらにもそのつもりがある。
「私は金が取り戻したいなどとは少しも思っていない。けれども、あんたが真意を打ち明けて、私のところに来てくれようという心が全くないものなら、私もあり余る金ではないから、それで済ますというわけには行かぬ。金でも返してもらうよりしかたがない」
「ほんなら何ぼお返ししまよ」
女は本当に金を返す気らしい。
そうなると、やっぱり自分は元々金よりも女の方にあくまで未練があるので、口の中で言い澱んでいると、女は重ねて、
「なんぼでよろしい」と、いって、こちらの意向を測りかねたように私の顔を見守りながら、
「私もそうたんとのことは出来まへんけど、何ぼくらいか、言うてみとくれやす」
女が金で済まそうとするらしい意向が見えればみえるほど自分は、この女は金銭などには替えられない、自分にとっては何物にも優る、欲しい物品であるのだと思うと、どんなにしても自分の所有にしたい。
「私は金は返して欲しいとは思わない。けれどもあんたが金を返して私との約束を止めようというのなら、私は初めから上げた金を全部返してもらう」
「初めからの金て、どのくらいどす」
「それは、あんた自分でも知っているはずだ。いつかの手紙にも書いたくらいはあるだろう」
すると、女はむっとして、
「わたし、そんなに貰うてえしまへん」と白々しそうに言う。
「いや、たしかにそれくらいは来ているけれども幾度もいうとおり私は金は一文も返してほしくはないのだ。ただ、あんたが私のところに来てくれぬというなら、それを皆な戻してもらわねばならぬ」
すると、女はまた棄て鉢のようになって、
「もうあんたはんの心はようわかりましたから、ほんなら返します。私も御覧のとおりどすよって、一度にはよう返しまへんけど追い追いにお返しします。……おかあはん、これ、あそこへ持っていとくれやす」と、ぷりぷりしながら、突然起ち上って、やけに箪笥の抽斗をあけて、中から唐草模様の五布風呂敷を取り出してそこに積み重ねていた衣類をそれに包んだうえに、またがちゃがちゃと箪笥を引き出して、ほかの品物まで入れ足そうとする。どこかへ持って往ってすぐ金を融通しようというのであろう。
私はすこしも金など欲しいとは思わないので、飛んだことになったと、はらはらしながら、眉に皺を寄せて宥めるように、
「これ、何をするの。そんなことはしないがいい。そうしてせっかく出来ている物をそんなことをしないでもいいじゃないか。私はお前から金を戻してもらいたくないのだ」
と、手を差し出して女の手を捉らんばかりにしていうと、彼女はそれには答えず、「おかあはん、これすぐ持っていとくれやす」と、荒々しく風呂敷を包んでいる。
私は、母親はどんな心持でいるのかと、そっちを振り顧ってみると、母親は次の間の火鉢の傍で人の好さそうな顔をして、微笑しながら娘のすることを黙って遠くから見ているばかりである。そして、女が幾度も急き立てるように、
「持っていとくれやす。さあ今すぐ持っていとくれやす」というのを、母親は「ええええ」とばかりいって、起とうとはしない。
私は母親の火鉢の前に立っていって、
「おかあはん、どうぞ持っていかないようにして下さい」
というと、母親はうなずきながら、
「ええ、心配せんとおいとくれやす。またあとであの娘によういいますよって」と、事もなげに笑っている。
彼女はまるで母親と私と二人に向ってだだを捏ねるように、なおしばらくの間、
「はよう持って往とくれやす」と、幾度も母親を催促していた。
女の機嫌を傷つけてしまったので、どうか、そんな衣類の入った大風呂敷などを外に持ち出すような浅ましいことをしてくれなければよい、ここへ初めて来た夜彼女がいったように、長いことあんたはんにもお世話かけましたお蔭で、私もちょっと楽になったとこどす。というのが本当ならば、せっかくいくらか幸福になりかけている彼女の境遇を、そんなことをして、また情けない思いをさせたくない。それにしても、自分から少しは楽になったといっているのだから、もう借金もそう多くあるはずがない。なぜこの女は私に真実の心を明かさないのであろうか。
それで、私はしばらくそこにいない方が女の焦立った気分を和らげるによかろうと思って、重ねて、母親に風呂敷包みなどを持ち出さぬようにいいおいて、そのまま外に出ていき、東山の方をぶらりと一とまわりして帰って来た。
二
唐草模様の五布の風呂敷はそのまま箪笥の上に載せてその後三、四日は目についていたが、私の知らぬ間に、外に持ち出したのか、それとも中の物をまた箪笥に蔵ったのか、やがていつものところに見えなくなった。そして、それに懲りて私は、彼女の体の解決のことについては幾ら心に思っていても口には出さなくしていた。母子の間ではどんな話をしていたか知れぬが、女の気持もすぐまたもとのとおりになった。それのみならず、そのことがあった夜、母親が長く外に出ていって帰らなかったので、風呂敷包みを持ち出したのかと思って気をつけると、それは無事にあるので、そうでもないと思って安心していた。すると、その翌日母親は、娘がちょっと主人のところへ帰ってくるといって、出ていって留守になっている間に、
「昨日はえらい、お気の毒どした」と、次の間の長火鉢のところから声をかけた。私は、
「お気の毒て、何のことです」と、そちらを振り向くと、母親は微笑しながら、
「あの娘があんな我儘いうて、あんたはんに、えらい済まんことどした」
「なに、そんなことはちっとも心配いりません。機嫌さえ直ればいいです」
母親はそれでも腹から憂わしげな顔をして、
「わたし、もう心配で。あの娘が、あのとおりあんまり我儘いうて、あんたはんに後で愛想尽かされるようなことがありゃしまへんかと思うて、心配でならんどすさかい、昨夜あとであちらの主人のところへ相談に往て来ましたのどす。そしたら、あちらの姐さんのおいいやすには、お母はん、なんもそないに心配することはない、そんなこというて、あんたはんに甘えるんやさかい、構わんとおきやすいうてくりゃはりましたけど、私はそれが心配になって、ゆうべも、よう寝られしまへんのどす。ほて、お母はん一遍本人を越しやす、私からよう言うて聴かすさかい、いうておくれやすので、それで今日あの子もちょっと屋形へいとります。また姐さんから、あんじょう言うて聴かしておくれやすやろ思うてますけど」
私は母親が正直そうにそういって心配しているのを聴くと、ひとしお打ち解けた好い気持になって、
「どうぞ、そんなに心配しないで下さい。だだを捏ねているのはよくわかっているんです」
といって、自分も一緒に笑っていたが、そのついでに前日女に向って訊いたようなことを重ねて母親に話しかけてみたけれど、
「さあ、どないなっていますことどすか、私はこうしてあの娘に養うてもろうてる身どすさかい、何もかもあの娘がひとりで承知してるのどすよって、あんたはんから、また機をお見やしてよういうて聴かしとくれやす」といって、彼女自身では、娘の体のことについての金銭の出入りのことなど委しく知らぬような口ぶりであったが、
「屋形の主人さんもあんたはんのことを昨夜もそういうてはりました。おかあはん、その方大事にしてお上げやす、自分で来ずと、金だけ長い間送って越すというのはよほど量見が広うないと出来んことやさかい。そない言うてはりました」
母親はそういって、私を喜ばすようなことをいっていた。私もそのとおりに聴いていた。
今日はついでに花にでも行くのかと思っていたら、女はその晩屋形から早く戻ってきたが、昨日から何となく沈んで眉根を顰めたようにしていたのが、帰ってくると、にわかに打って変ったように好い気分になっていた。
私も、二人が大事にしてくれるからといって、あまり好い気になって、いつまでもそこにいては外聞もあるし、母子の者が迷惑するであろうとは思いながらも、居心が好いので、すっかり心が落ち着いていた。女も打ち融けて、よく、私が凭っている机の傍に来て坐って、自分もそこで楽書きなどをしたりしてよく話していた。そして、そこが居心地の好いことを私がまたしても繰り返していうと、
「そんなによかったら、ここをあんたはんのまあにしときまひょうか」
「まあとは。……ああ間か、ああどうぞ居間にしておいてもらいたい」
などといっていたが、日は瞬く間に経って、そこに来てから半月ばかりして、私は六月の中旬しばらく山陰道の方の旅行をしていた。けれど、梅雨のころの田舎は悒欝しくって、とても長くは辛抱していられないので、京都の女のいる二階座敷の八畳の間が、広い世界にそこくらい住み好いところはないような気がするので、いずれ夏には紀州の方の山の上に行くつもりではあるが、一週間ばかりして、またそこへ舞い戻って来た。
その日は欝陶しい五月雨のじめじめと降りしぶいている日であった。ステーションからすぐ俥で女の家に帰って来て、薄暗い入口をはいって、玄関から音なうと、階下の家主の老女はもとより、上も下も家中みんな留守と思われるほどひっそりとしている。それでも黙って上がって行くのは厚かましいようで、二、三度大きな声をかけると、やがて階段を下りて来る足音がして、外から開かぬように、ぴたりと閉めた奥の潜戸の彼方で、
「どなたはんどす」という、母親の声がする。
「私、わたしです」というと、潜戸をそっと半分ほど開けながら母親が胡散そうに外を覗くようにして顔を出した。そして、その瞬間、先だって中の待遇から推して期待していたような、あまり好い顔をして見せなかった。
「私です。今帰りました」というと、
「ああ、あんたはんどすか」といったが、「さあお上がりやす」というかと思っていると、「ちょっと待っとくれやす。今ちょっとお客さんどすよって」
といって、ちょうど留守でいない階下の家主の老婆の表の六畳の座敷に案内して、「どうぞちょっとここでお待ちやしてとくれやす」といって、私をそこに置いといて、間の襖をぴしゃりと閉めて、自分は二階へ上って行った。
するとしばらく待つ間もなく母親と入れちがいに女がそこへ入って来て、笑顔を作りながら、
「おかえりやす」と懐かしそうにいって、私の膝の前に近く寄ってぺったり坐った。そして二言三言口をきき交わしているうちに、客というのが襖の外の茶の間を通って、中庭から帰ってゆくと思われて、母親も後から入口まで送って出たらしい。私は、何の気もなく、どんな人間が帰ってゆくのかと思って、ちょっと起ち上がって縁側の障子を開いて、小さい前栽と玄関口の方の庭とを仕切った板塀の上越しに人の帰るのを見ると、蝙蝠傘を翳して新しい麦藁帽子を冠り、薄い鼠色のセルの夏外套を着た後姿が、肩から頭の方の一部だけわずかに見えたばかりで、どんな人間かよく分らなかった。
そこへ母親も入って来て、
「お帰りやす」と、今度はいつかのとおりに愛想のよい調子で、あらためて挨拶をしながら、「今ちょっと知った呉服屋さんが来てましたので、あんたはんまた顔がさすと悪い思うて、ちょっとここで待ってもらいましたんどす。……階下のお婆さんも今日は出やはりましてお留守どす。さあ、どうぞ二階にお上がりやして」
と、母親は、さっき私が入って来た時、潜戸の中から覗いた時の様子とは、まるで違った調子でいう。
私は、ただ何ということもなく、さっきのその顔色が気になりながら、
「へえ、ありがとう。上がります。……何もこんな雨の降る日に戻って来なくとも好いのですけれど……」といいかけると、母親は、妙に感疑ったか、
「あんたはんのお留守の間に誰か来ている思いやして?」と、笑顔しながら言う。
「いや、そんなことはちっとも思ってやしませんけれど、こんな雨の降る日に戻らなくってもいいのですけれど、田舎は何としても蚊がいる、蝿がいる、とても辛抱出来ませんから……」
母親とそうして口を利き交わしていると、娘はそれきり黙ってしまった。それから私は二階の八畳に上がって来て母親が今言ったことから妙に気がさしたので、それとなく注意してよく見ると座敷の中央に今まで人の坐っていた夏座蒲団が、女もそこにいたらしく二つ火鉢の傍に出ていて、火鉢の中には敷島の吸殻がたくさん灰の中にしてあった。私は腹の中で、ただ呉服物の用ばかりで来ていた客かどうかと自然に疑ってみる気になった。が、もちろんそんなことを口には出さなかった。
そして、またここへ舞い戻って来てしばらく厄介をかけることのさぞ迷惑であろうということを繰り返して詫びて、女には、私には少しも構わず、主人の思惑もあるから店に帰って勤めの方を大事にするようにいった。
私が田舎に往ったあとは、私のいる間いろいろ気を使ったために疲れあんばいで、あれからずっと休んでいたので、
「今日久しぶりに店へかえります。ほんならちょっといてきます」
といって、出て往ったが、女は、その晩からかけて翌日の晩も戻って来なかった。それから半月ばかりして、私が山の方に出立するまで彼女は多くは主人の方にいっていたが、立つ前にはまた二、三日休んで、私のために別れを惜しんでくれたのであった。
三
あれほど母子二人して歓待しておきながら、今度居処を変ったのに、なぜ知らしてくれないであろうと、少なからず淋しい気持になって、せめてこの欝いだ心を慰めるには、明るく温かい感じのする、行きとどいた旅館に往って泊るのが何よりよいと思ってその家へ投宿した。
するとちょうど古い馴染みの、気の利いた女中が出て来て、気持よく世話をしてくれた。私はさっきステーションに着いてから欝陶しい空模様と同じようにほとんど泣き出したいばかりに悲しくなっていたのが、やっと、そのためにいくらか心をまぎらすことができた。そして心地の好い風呂に入って柔かい蒲団の中に横たわって、都会的情趣に浸りながら早くから寝に就いた。七月の初めからほとんど三カ月に近い、高い山の上の枯淡な僧房生活の、心と体との飢渇から、すっかり蘇生したような気持になった。外では夜に入るとともに豪雨にひどい嵐が吹き添って来たと思われて、よっぴて荒れ狂うていたが、私はそれとは反対にかえって安らかに眠りに陥ちた。
翌日は午前はまだ暴風雨の名残りがつづいていたが、午過ぎから風も次第に歇み、雨も晴れた。女のことは始終念頭にあったけれど、実はあまりにそのことばかり長い間思い続けて、思いに疲れているので、たまにはほかのことで気を晴らしたく、そのころちょうど東都から京都に来ていた知人のところを訪ねたりしてその日は一日消した。
その翌日は、昨日の暴風雨の名残りは痕跡もなく綺麗に拭い取ったような朗らかな晴天になった。紺碧の空は高く澄み渡って、一昨日の豪雨に洗い清められた四囲の景色が、暑くも寒くもない初秋の太陽の光を一杯浴びているのが、平常でさえ美しいその街の眺めを、今日はあたかも玻璃の中の物を窺いて見てるように明麗であった。
今日は一つ女の先にいた家の様子を見て来よう。――無論女からの手紙を信じてもうそこにはいないものと思っていたから――と思って、私は午少し前に衣服を更めて、旅館からはすぐ近いところにある、電車通りを向うに渡った横町にある路次の中に入って往ってみた。すると、その日は好いあんばいに階下の家主の老婆が内にいたので、私は玄関の上り框に腰を掛けながら、老婆と久しぶりの挨拶を交わして、しばらく話していた。すると、そこへ女の母親が、寺詣りでもするらしい巾着をさげて入って来た。
「ああ、おかあはんお久しゅう。私、一昨日の晩紀州から帰って来ました。このごろはもうここにいないんですって」
といって、訊くと、母親もそこに腰を掛けながら、もう先月の末からそこの所帯を畳んでしまって、自分は上京の方の親類の家に厄介になっているようなことを言っていた。私は、そこでも、そんな親類の家に厄介になっているよりも、何とかして私が自分で適当な家を一軒借りて京都に住みたいから、そしたら、おかあはんに、そこへ来てもらいたいというような意向を洩らすと、家主の老婆も傍から、
「そうおしやしたら、ほんよろしいがな」といって、口を添えていたが、母親はいつも愛想よくにこにことはしていたが、
「そのこともあの娘がどない言いますか、あの娘の腹一つにきまることどすさかい」といって、いつものとおりに何もかも自分では要領を得た返事をしなかった。
それでも私は、一昨日雨模様の欝陶しい晩方にこの街にかえって来て、ここの路次を覗いて見た時とちがい、もうここにはいないと思っていた母親に偶然また会ったので、さながら彼女に会ったと同じような喜びを感じたのであった。
「今日は死んだ息子の命日どすよって、ちょっとお墓詣りに来たついでにここのお婆さんとこへもお寄りしましたのどす」といっている。
「そうですか、今日はちょうどお寺詣りに好い彼岸びよりだ。私も一緒にまいってもいいな」と、私はひとりごとのようにいったが、母親にはまた会って話す機会もあるだろうと思って、その時はそのまま家主の老婦人のところを出て戻った。
そして、女に会おうと思えば、どこかへ行って知らしさえすれば会えるのだが、こちらの心はそれではないので、それから一、二度女を電話口まで呼び出して話したことがあった。紀州の方の山から帰ってきた、この間おかあはんにも先の家でちょっと遭った、ここへ来てもらいたい、来ないか、と言ったけれど、そのうち都合して行きますと言ったきり、向うから電話を掛けてくれるようなこともなく、いつもこちらの言うことを柳に風のように受け流しているようであった。後には、帳場に近いところで、女中や番頭などの耳に入るのが厭で、外の自動電話にいって呼び出したりしたこともあったが、いつも返事は同じことで、少しも要領を得なかった。何だか、池の水の中に泳いでいる美しい金魚か何ぞのように、あまり遠くへ逃げもせず、すぐに手に捕まりそうで、さて容易に捉まらないというような心地のするのがその女であった。
どちらにしても纏まった金を幾らか調えてからでなければ、たとい会ってみたところで、今までのとおりであると思って、格別逢おうともせず、ただ、籠の中に飼われている鳥のように、番をしていないからとて、めったに、いなくなることもあるまいと、常に心には関りながら、強いて安心して、せめて同じ土地の、しかも女のいるところとは目と鼻との近いところにいるというので満足していた。そして、夏の前いた、女の家の路次の中が何となく恋しくって、宿からは近いところではあるしするので、ときどき階下の親切そうな老婦人のもとを訪ねて往って、玄関先きで話して帰ることがあった。家主の老婦人は、
「あれから姉さんにお会いしまへんのどすか」
といって訊いてくれるのであった。
「ええ、まだ逢いません」というと、
「そうどすか」と、老婦人は呆れるようにいって、「何であんたはんに会わんのどっしゃろなあ。ここで、私のところでちょっとお会いしやしたらよろしがな」と、同情するようにいってくれるので、私は、その老婦人には、夏の前その二階がりの女のところに一カ月あまりいる時分にも話したことのなかった、女との長い間の入りわけを打ち開けて愚痴まじりに聴いてもらうこともあった。母親にもその後またそこで一、二度出会ったことがあった。彼女は、ちょっとそこまで来たついでに立ち寄ったというような様子であった。私は母子の言葉を信じて、無論もうその二階には八月以来いないのだが、娘の奉公しているところがそこから近いので、そんなにして、すぐ隣家へでも行くようにして会いに来た足ついでに、以前厄介になっていたこの老婦人のところへも立ち寄るのだと思っていた。
「あんたはんのこの間おいいやしたこと、あの娘に話してみましたら、あの娘のいうのには、あんたはんがまた上京の方へおいでやしたら、一遍話しに寄せてもらいます言うていました」母親は、私が家を持つから、そこへ来てもらいたいという話を、顔を見るたびに言うと、そんな返事をしていた。
その間に月が変って十月になり、長い間降りつづいた秋霖が霽れると、古都の風物は日に日に色を増して美しく寂びてゆくのが冴かに眼に見えた。それとともに、街の灯の色は夜ごと夜ごとに明麗になってきて、まして瀟洒とした廓町の宵などを歩いていると、暑くも寒くもない快適な夜気の肌触りは、そぞろに人の心を唆って、ちょうど近松の中の、恋と小袖は一模様、身に引き締めて抱いて寝ねてこそなつかしいということが思われて、どうかして一と目なりとも彼女の姿が見たいと思って、私は折々女の勤めている家の前を、宵暗にまぎれてそっと通ってみることもあったが、一度も途中で出会わなかった。
その内にも秋は次第に闌けて旅寝の夜の衾を洩れる風が冷たく身にしむようになってくるにつれて、いつになったら、果てしの着くとも思われない愛欲の満たされない物足りなさに、私はちょうど移りゆく四囲の自然と同じように沈んだ心持に胸を鎖されていた。そうして一と月ばかりつまらない日を過しているうちに高い山に囲まれた京都の周囲には冬の襲うてくるのも早かった。旅館の二階の縁側に立って遠くの西山の方を眺めると、ついこの間まで麗らかに秋の光の輝いていたそちらの方の空には、もういつしか、わびしい時雨雲が古綿をちぎったように夕陽を浴びてじっと懸かっている。陰気な冬はそこから湧いてくるのである。この四、五年来そのことのみを思いつづけて、ほとほと思い疲れてしまった私は、どうかして女のことをなるべく思うまいとして、いくら掻き消すようにしても綿々として思い重なってくる女のことを胸から追い払うようにして、洛中洛外をさまよい歩いて、時としては人気のない古い寺院などに入っていって、疲れ爛れた脳を休めるようにしていた。
四
十月の末から私はまた一と月ばかり中国の方の田舎に帰っていた。心に浮かぬことがあるので田舎は少しも面白いこともなかったが――もっとも面白かろうと思って往ったのではなかったけれど――ことに、この年は初めて悪性の世界的流行感冒が流行った秋のことで、自分もその風邪に罹ったが、幸いにして四、五日の軽い風邪で済んだ。けれども、その年はそんな悪性の風邪が流行するほどあって、例年ならば美しい小春日の続くころに、毎日じめじめとした冷たい雨ばかり降りつづいていたので、私は京の女のことが毎日気にかかりながらも、しばらく故郷の生まれた家に滞留していた。田舎でも四囲の山々が日々に紅に色づいて、そして散り落ちていった。私は何となく、気忙しくなった。その年の五月から六月にかけて、女の家にいて以来、もうどこへ往っても彼女の傍にいるくらい好いところはなかった。彼女と一緒にいるところのほかは自分の満足して住むべき世界はないような気がするのであった。
私は冷たい冬雨の降りそぼつ中をも厭わず、また田舎から京都に出て来た。そして今度は先にいた旅館には行かず、ずっと上京の方の、気の張らない、以前から馴染みのある家に往って滞泊することにした。そこは、先の下河原の方の意気な都雅な家とは打って変り、堅気一方の、陰気な宿で、そうなくてさえヒポコンドリイのように常に気の欝いでいる自分の症状に対してはますます好くないと思ったけれど、先だって田舎に往く前にちょっと女と自動電話で話した時にも、
「上京の方の気の張らん宿にお変りやしたら、私一ぺん寄せてもらいます」
と、女が言っていたので、女を宿に訪ねて来さしたいばっかりに、そこへ宿を定めたのであった。欲しい女が思うように自分の所有にならぬためにそんなに気が欝いでいるせいか、そのころ私はちょっとしたことにもすぐ感傷的になりやすくなっていた。田舎から出て来て宿に着いたその晩も、そうして京都に出て来てみると、しばらく滞留していた田舎のことなどが、胸に喰い入るように哀れに感じられたりして、私は、どうすることも出来ないような漂泊の悲哀と寂寞とに包まれながら、ようやくのことで、その宿で第一の夜を明かしたのであった。
そして明けても暮れても女のことばかり一途に思いつめていると気が苦しくなってしかたがないので、かねてからこの秋は、見ごろの時分をはずさず高雄の紅葉を見に往きたいと思っていると、幸い翌日はめずらしい朗らかな晩秋の好晴であったので、宿にそれといいおいて、午少し前からそっちへ遊山に出かけていった。時は十一月の二十四日であった。電車のきく北野の終点まで行って、そこから俥で洛西の郊外の方に出ると、そこらの別荘づくりの庭に立っている楓葉が美しい秋の日を浴びて真紅に燃えているのなどが目についた。それから仁和寺の前を通って、古い若狭街道に沿うてさきざきに断続する村里を通り過ぎて次第に深い渓に入ってゆくと、景色はいろいろに変って、高雄の紅葉は少し盛りを過ぎていたが、見物の群衆は、京から三里も離れた山の中でも雑沓していた。私は、高い石磴を登って清洒な神護寺の境内に上って行き、そこの掛け茶屋に入って食事をしたりしてしばらく休息をしていたが、碧く晴れた空には寒く澄んだ風が吹きわたって、茶褐色のうら枯れた大木の落葉がちょうど小鳥の翔るように高い峰と峰との峡を舞い上がってゆく。愛宕の山蔭に短い秋の日は次第にかげって、そこらの茶見世から茶見世の前を、破れ三味線を弾きながら、哀れな声を絞って流行唄を歌い、物を乞うて歩く盲いた婦の音調が悪く腸を断たしめる。侘しい心にはどこに行っても明るく楽しいところがなかった。
五
田舎へ往ってからも二、三度手紙を出して、今、悪い風邪が流行っているが、変りはないかと訊ねて越したりしたが無論何とも言って来なかった。京都に出てくると、その晩すぐ手紙を出して、今度はこういうところにいるから、一度訪ねて来てもらいたいと言ってやったけれど、例のとおりに何ともいって来なかった。そして、今度の宿は、先のところとちがい気の張らないだけに、土地柄からいっても、何からいっても陰気で、気が晴れ晴れとしないので私は部屋の中にじっとしているのがいたたまらなくなって、高雄の紅葉を見にいった翌晩祇園町の方に出て往き、夜にまぎれて女の勤めている家の前をそっと通ってみた。
すると、不思議ではないか。入口の格子戸の上のところに、家に置いている妓の名札が濃い文字で掲げてあるのに、しかもその女の札は、もう七、八年もそこに住み古しているので、七、八人も並んで札の掲っている一番筆頭であるのに、なぜか、そこのところだけ、ちょうど歯の脱けたようになっているではないか。察するところ、札を外してからまだ幾日も日が経ぬのでまだ名札をはずすだけはずして後を揃えず、そのままにしているのらしい。私は寒い夜風の中に釘付けにされたような気持で、そこへ突っ立ったまま、
「はて、不思議だ。どうしたのだろう?」と、思った。彼女を知ってから五年の長い間、不安に思う段になれば、随分不安なわけであった。日夜数知れぬ多くの人に名を呼ばれている境涯の身であれば、商売を廃めるからとて、一々馴染みの客に断って往くわけのものでもない。けれども自分は、初めから度胸を据えて、女は私に黙って、そこから姿を消して往かないと[#「往かないと」は底本では「住かないと」]信じていた。百に一つ、そんな場合がありはせぬだろうかと、遠く離れていて、ふと不安に襲われることがあっても、何となく、そんなことはめったになさそうに思われたのであった。しかるに、今、まぎれる方もなく、明らかに彼女の名札が取れているのを見ると、近いうちにここにいなくなったに相違ない。籠に飼われた小鳥と同じく容易に逃げていなくなる気づかいはないと思っていたのは、もとよりこちらの不覚であった。そんなことがありはせぬか、せぬかと不安に思いながら、今までなかったから、あるまいと思っていたら、とうとう籠の鳥は、いつの間にか逃げてしまった。
私は、そこに棒立ちになったまま、幾度か自分の眼を疑って、札の取れているのが、どうぞ悪い夢であれかしと念じたが、たしかに札は取れている。よほど思いきって、そのままその家へ入って行って訊ねてみようかと思った。彼女に自分という者が付いているのは、ここの家でもよく知っているはずである。構いはしないだろうと思ったが、自分は、彼女と関係の出来た最初から、どこまでも蔭の者になって、そっと自分の所有にしてしまうつもりであったので、今さら、女がいなくなったといって、そこの家へ訪ねて往き、自分のほかに、もっと深いふかい男があって、その男に落籍されたのに、こちらが、男は自分ひとりのような顔をしていて、裏にうらのある、そんな稼業のものの真唯中に飛んだ恥を曝らすようなことがあってはならぬ。自分は、彼女をこそ、生命から二番めに愛していたけれど、それとともに自分の外聞をも遠慮しなければならぬ。
と、焦躁く胸をじっと抑えながら急いで、そこの小路を表の通りに出てきて、そこから近い、とある自動電話の中に入って、そこの家の番号を呼び出して訊ねてみた。いつも、その女の本姓をいって電話をかけたので、電話口へ出た婢衆らしい女に、こちらの名をいわず、それとなく、
「もしもし、あなたは松井さんですか。藤村さんはおいでですか」といってきくと、いつでも、その松井の家の定まった返事の通りに、婢衆は、
「藤村さんは今留守どす」という。
これまでとても、彼女が家にいてさえ一応はそんな返事をするのが癖なのであったが札が取れているのでは、留守であることは問わずとも知れている。それでも、女がそこの家にいる時分と同じように、いつもの「留守どす」で、返事を済ませている。もちろんこちらが誰であるか、知っているはずもないのだが、もし知れていたならば、一層不愛想な返事をしたかも知れぬ。私は、ひたすら紙よりも薄い人情の冷たさを、夜の冷気とともに身に沁みて感じながら、重ねて委しいことを訊こうとする気力も抜けてしまい、胸の中が空洞になったような心持で、足の踏み度も覚えず、そのまま喪然として電車に乗り、上京の方の宿に戻ってきた。とてもその勢いで取って返し、その家に訪ねていって、名札の取れて、もういなくなってしまった事情を訊ねてみる力は失くなってしまったのである。そして足かけ五年の間真実死ぬほど思いつめたあげくが、こんなことになってしまったと思うと、何より自分という者が可哀そうになって来て、冬の夜の寒い電車の中にじっと腰を掛けていてさえ、ひとりでに悲しい涙が流れ出た。
名札が取れて女がいなくなったにしても、もとよりどこを当てに訊ねるわけにも行かず、ましてそれが他の男に落籍されてしまったのであるとすれば、今ごろは、こちらのことを――もし知っているとすれば――「阿呆め」とでもいって、好い心持になっているであろう。それを思いこれをおもい、この冬の寒い夜風の中を気狂いになって飛びまわってもしかたがない。今夜はこのまま宿に帰り、哀れな自分をいたわりながら、どうかじっと寝ながらよく考えよう。
そう思って、宿にかえり、自分の部屋に通って、火鉢の傍に一旦坐って、心を落ち着けようとしてみたが、とても、もっと委しい事情を訊き糺さねばそのままに寝られるどころではない。それで、その宿には電話がないので、いつも借りつけになっている、近処の家まで出ていって、また彼女のいた祇園町の家へ電話を掛けてみた。
すると、初めはやっぱりさっきと同じことをいっていたが、こちらの名を明かして、実は、さっきそちらの前を通りかかって、ふと見ると、藤村の名札が取れているのを見てはじめて気がついたのであるといって、
「留守じゃない、もうあんたの家にはいないんだろう」
と訊ねると向うの婢衆は、
「ほんならちょっと待ってくれやす」といって、しばらくして今度は変った、すこし年をとった女の声で、
「藤村さんは、もう内にいやはりゃしまへんのどっせ」という。
「どうしていなくなったの。だれかお客さんに引かされたの?」
「さあ、わたし、そんなこと、どや、よう知りまへんけど、病気でもうとうに引かはりました」
「そして、病気で廃めて、藤村さんのおかあさんが連れて去ったの?」
「ちがいます。小父さんが来て連れていかはりました」
小父さんが来て連れて往った。どんな小父さんか知れたものじゃないと思ったが、それ以上、電話でそんな婢衆などに訊いても委しいことの知られようわけもなく、また真実のことをいって明かすはずもないと思って、私はそれで電話を切ってしまった。そして、仮ににしても……にちがいないと思うが……病気で廃めたというだけのことに、せめて幾らか頼みの綱が繋がっているような気がして、それだけに心に少し勢いがついて、宿にとって返し、夜の寒さに風邪を恐れながら、思いきって厚着になり、また祇園町へと出かけていった。今から二た月前の九月の末、紀州の旅から京都に帰って来て、久しぶりに会ったばかりの、多年東京で懇親にしていた知人がつい二十日ばかり前、自分も田舎に往って流行風邪で臥せっている時に流行感冒であえなく死んだということが強く胸に刻みつけられているので、不幸なる自分がまた風邪にでも罹って、このまま死にでもしたら、どんなに悲惨であろう、そんなことがあったら執念が残ってとても死にきれはせぬ。
そんなことまでも考えながらまた祇園町まで出て来ると、十一月末の夜は闌けていても、廓の居まわりはさすがにまだ宵の口のように明るくて、多勢の抱妓を置いているうえに、お茶屋を兼ねている松井の内では今がちょうど潮時のようないそがしさである。
小父さんといっても、何だか分りはせぬ。ほかの男に引かされたものを、よく恥かしげもなく、商売していた女の廃めた後を探ねて来る阿呆な男と笑われはせぬかという気が先きに立って、心が後れるのを、そんなことを恥かしいと思って、引込み思案でいては、ますます自分の身一つを苦しめるばかりであると思い直して、勇気をつけ、松井の入口に立って、その夏の初め、女の家にいたころちょっと顔を見て、言葉を交わしたことのあるお繁さんという婆さんにお目にかかりたいと、そこに出て来た婢衆に取次ぎを頼むと、お繁婆さんは、すぐ奥から出て来た。
それはもう五十を少し過ぎた女であったが、何でも聞くところによると、もと此家の女あるじと同じく今から二、三十年前にやっぱり祇園町で商売に出ていたことのある女で、松井の主人が運の好いのに反して、この方は運が[#「運が」は底本では「連が」]悪かった。そして以前朋輩であった人間の内へ女中頭のような相談相手のようにして住み込んでいるのであった。松井の女あるじの今なお一見、二、三十年前この土地で全盛を謡われたことを偲ばしめるに反して、お繁婆さんの方は標致もわるく、見るから花車婆さんのような顔をしていた。それでも話してみると、わけは割合によくわかる方で、お繁さんは笑顔で、
「おこしやす。えらいお久しぶりどす」と、いって、打ち融けて挨拶をして、
「えらい端の方でお気の毒さんどすが、今ちょっと奥が取り込んでいますよって、ここで失礼いたします」と、いって、婢衆に座蒲団を持って来さして、私にすすめる。
「ええ、もう、どうぞ構わないで下さい」と、私は小さくなって、そこの玄関の二畳の間に差し向って坐った。
そこで、さっき電話で聞いた女のことを改めて問い糺すと、お繁さんは、率直な調子で、
「お園さんはもう半月ばかり前にひどい病気になりまして、それで引きました」
「はあ、ひどい病気で……」私は、そういって、すぐ心の中ではあの繊細い彼女の美しく病み疲れた容姿を思い描きながら、
「この土地に長くいると、そんなことになるだろうと思っていたのだ。だから……」と、ひとり言のようにいって、もう、私の眼には涙がにじんで来た。
「そして、ひどい病気とはどんな病気でした?」静かに訊いた。私は、彼女の体質や容姿から想像すると、多分肺でも悪くなったのではあるまいかと思った。そして、もしそうであったならば、一層可憐でたまらないような気がしてくるのであった。
するとお繁さんは黙って意味ありげに笑いながら、私の顔を見るだけで、その病気が何であるか言おうとしない。それで、これは真実は病気ではない。病気というのは偽りで、やっぱり旦那にでも引かされて、今ごろはどこかそこらに好い気持で納まっているのだなと感疑りながら、こちらも、つとめて心を取り乱さぬようにわざと平気に笑いにまぎらわして、
「でしょう、病気というのは」重ねて訊くと、
「いえ、病気はほんまどす」といって、まだ笑って真相を語ろうとせぬ。
「どんな病気です?」私は、今度は、商売柄恥かしいひどい病気でもあるのかとも思った。
すると、お繁婆さんはやっぱり笑いながら、
「お園さん、気狂いになったのどす」と率直にいう。
「へえ、気狂いになった!」私は、しばらく呆然として対手の顔をじっと見つめていた。
「一体どうして、そんなことになったのです」
お繁婆さんが話して聴かすところによると、先月の末か今月の初めごろ、彼女も、瞬く間に流行してきた流行感冒に襲われて一時は三十九度から四十度近い発熱で心配するほどであったが、熱は間もなく下り、風邪も一週間くらいで癒るにはなおったが、すっかり熱が除れて、ようよう起き上がることが出来るようになった時分に、ふっと間違ったことを口に言い出した。初めは皆なも、平常から、あんな温順しいに似ず、どうかすると、よく軽い戯談などを言ったりすることもあるので、
「お園さん、何いうてはるのや」と、笑って、いつもの戯談かと思っていると、本人はあくまでも真顔でいるので、これは、どうもいつもとは少し様子が違って変だなと思っていると、彼女はだんだん妙な違ったことをいうようになった。そして眼つきがおそろしく据ったようになって、そうなくてさえ、平常から陰欝になりがちの顔が、一層恐い顔になった。家にいる他の妓たちはまたそれを面白がって、対手になって戯弄うと、彼女は生真面目な顔をしてそれに受け応えをしているという有様である。
お繁さんはおかしそうに笑いながら、
「そんな具合でもう気の毒で見ていられまへんがな。ほて、もう、わたし、あんた方、そんなつまらんこと言うてお園さん戯弄らんとおいとくれやすいうて、小言いうてました」
私は、それを聴いて身にしみて悲惨を感じながら、じっと涙を飲み込むようにして、
「飛んだことになってしまったものですなあ」と、あとの言葉も出でずに黙って太息を吐いていた。
「もう、どだい、いうことがなってへんのどすもの」お繁婆さんは変なハイカラの言葉に力を入れていう。
そんな有様で、とてもこの先続けて商売など出来そうにないところから、母親のほかに西京の方にいるという母方の叔父にも来てもらって、話を着け、お繁さんが附き添うて管轄の警察署へ行って、営業の鑑札を返納して来たというのである。お繁婆さんはなおおかしそうに、
「警察へいても、お園さん真面目な顔をして役人に怒鳴りつけるようなことをいうもんやから、わたし、傍に付き添うていてはらはらしてました」
私は思わず寂しい笑いを洩らしながら、
「なるほどそういうわけじゃしようがありませんな。そして、今どこにいるでしょう」
「さあ、その時叔父さんに伴れられて帰ったきり、どこにいるのかそれなりでちょっとも音信がないそうにおす。わたしもそれから用事で大阪の方に往てきまして、今日帰ったばかりのとこどすよって。今日も、あんたはんから訊かれる前に、お園さん、ちょっとも音信がないなあ、どないしてはるやろ言うて噂してましたところどす」
なるほど叔父のあることは前から知っていたけれど、私はなおもその叔父さんというのははたして真実の叔父さんに違いあるまいかと疑ったので、念を押すように、
「叔父さんといって、その実旦那じゃありませんか。こんな土地じゃ、こう申しちゃ、何ですが、裏にうらがあるのが習わしですからな」と、捌けた調子で、対手の口うらを引いてみたが、お繁は言下に、
「あの人旦那なんてありゃしまへん。そりゃ本当の叔父さんどす」
「その叔父のいるところはどこでしょう。あんた知っていませんか」
「さあ、それも、わたしどこや、よう知りまへんけど」と、小頸を傾けるようにして、「何でも三条とか、油の小路とか聴いたように思うけど、委しいことは、よう知りまへん」と、真実知っていなそうである。
私はなお、もっと委しいことを、ああもこうもと訊ねたいと思ったが、家の内が急がしそうにしているのと、向うがはたして誠意をもって話してくれているのか、どうか半信半疑なので、いい加減にして出て戻ろうとして、まだ立ちにくそうにしながら、
「いろいろありがとうございました。あなたにお眼にかかって、様子が一と通り分りました」
私は、この上にもなお向うの誠意を哀求するような心持で丁寧にお礼をいった。幾度思ってみても、全く自分の生命にも換えがたい女である。その女のゆえならば、いかなる屈辱をあえてしても決して厭わないと思っていたのである。
お繁婆さんは、
「ああそれからあんたはんのお手紙が来ているのも知ってます。たしか二度来てたかと思ってます。前のはお園さんが自分で受け取ってたしか見ていました。後のはここにおらんようになってから来ましたよって、私が預かっておきました」
といって、彼女は奥に立って往き、三、四本の、女にあてて来ている封書を、私から越したのと一緒に持って出てきた。それを見ると、中の一つは自分のちょっと知っている、ある男からの文であった。私は、それを一目みると何とも言えない厭な気持になって、「あの人間が!」と、ちょうどウロンスキイが、自分の熱愛しているアンナの夫のカレニンの風貌を見て穢らわしい心持になったと同じような気がして、その瞬間たちまち、自分が長い年月をかけて宝玉のごとくに切愛していた彼女が終生いかんともすべからざる傷物になったかのように思われて、またもやがっかり失望してしまった。女がいなくなったことがすでに自分には生命を断たれたと同じ心地がしているのに、自分が一面識のある人間とも知っていたのかと思うと、私はあまりに運命の神の冷酷やら皮肉やらを悲しみかつ嘆かずにはいられなかった。しかし、それも、皆な自分の愚かゆえである。こうした売笑の女に恋するからは、それはありがちのことである。西鶴もとうの昔にそれを言っている。今こんなことがあると知ったのを好い思いきり時に、いっそここで、これっきり女を綺麗さっぱりと思い断ってしまおうか、そうすると、この心の悩ましさを解脱することが出来て、どんなに胸が透くであろう。そして決然としてすぐにも東京へ帰って行って、多年女ゆえに怠っている自分の天職に全心を傾倒しよう。どうかして、そういう心になりたい、と思いながら、私は、膝の前に置かれたそれらの男からの手紙をじっと見つめながら、封の中にどんなことを書いてあるのか、出来ることならば、封を切って中を読んでみたいように思った。差し出したところを見ると、どこか地方に行っていて、その旅先から出したものらしいから、その男も、女が気が変になって、商売を廃めてこの土地から消え失せたことは知らずにいるのであろう。……私がそうして、じっとそれらの封書に見入っているので、お繁はどう思ったか、
「この人はほんの五、六度知ってるだけどす。私もちょっと顔を見て知ってます。あれはどこのお客やったか」と考えるようにして、
「たしか、井の政のお客やったと思う。去年の春からのお客どした。……こうして人さんの手紙どすさかい、中を読んで見るわけにもいきまへんしなあ」と、私を慰め顔に言う。
「いえいえ、なにこの手紙を見たいと思ってるわけじゃありません。……ただお園が、叔父さんに連れられていったきりで、今どこにいるのか、私も、あなたも御存じのとおり、もう長い間心配していた、あの女のことですから、ぜひ一遍会って、病気の様子を見たいと思って……」と、私は、どこへ取りつく島もないような気がして、そういうと、お繁婆さんも、さすがに同情のある調子でうなずきながら、
「ええええ、あんたはんのことは、皆な、もうよう知ってます。どこにいやはるか、ここにおらんようになってからでも、もう半月くらいになりますよってなあ」
私はなおも繰り返して、そのうちにも自然居処が知れるようなことがあったら、是非知らしてほしいとくれぐれも嘆願するように頼んでおいて、ようようそこを出て戻った。
六
外に出ると、もう十二時を過ぎているので、お茶屋へ往き交う者のほかは人脚も疎らになって、冷たい夜の風の中に、表の通りの方を歩く下駄の足音ばかりが、凍てついた地のうえに高くひびいているばかりであった。
そして、気が狂って叔父に連れられて、どこへ往ったとも分らなくなった女の身の上が、今は可愛い、いじらしいというよりも、その可愛い、自分にとっては、自分がこの世に生存している唯一の理由でもあり楽しみであると思っていた女が、自分が一、二度会ったことのある男とも知っていたのであったのであったかということのみが、胸の中一杯に蔓って、これほど愚かしいことはない、何の因果で、あの女が思いきれぬのであろうと、自分の愚かしさを咎めつつも、やっぱり思いきることが出来ず、その愚かしい煩悩に責め苛まれる思いをしながら、うかうかと道を歩いていた。
そこから祇園町の一郭をちょっと出はずれると女の先にいたところまではすぐなので、たとい今はもうそこにいなくなったにしても、その階下の家主の老婦人は性格の良い女性であるから、その人に会って訊ねたならば、もしや知っているかも知れないと思って、一旦戻りかけた足をまたそちらへ向きかえて、そこの暗い路次の中に入ってみたが、門は堅く締っていて、あたりはいずこももう寝静まっている。
「ああ、われながら愚かしい。今時分この辺に起きている家もないはずであった」と、心づいて、「ともかく今晩は帰って寝て考えよう。気が狂ったといううえに、今晩になって、はじめて気がついたわけでもないが、知らぬうちこそ清浄だが、だんだんあとからいろいろなことが分ってくると、この先まだまだ厭な思いをしなければならぬ。自分に強い意思があるなら、今晩という今晩こそ、彼女を潔く思いきって、彼女をはじめて知って以来、足かけ五年の間片時も心の安まらなかった苦患を免かれて、快い睡眠を得ることが出来るのだが。……今、あんな人間から来ている手紙を見たのは、冷酷で皮肉と思われる運命の神がその実深切に、自分に誡告してくれたのかも知れぬ。……それにしても、運命はあまりに皮肉で悪戯なことをする」と、私は気ちがいになった、憐れな彼女を愛しようとしても、皮肉な悪戯な悪魔がいて、愛することを妨げられているような、何ともいえない辛い思いに胸を拉がれながら、やっと終い際の電車に乗って、上京の方の宿に戻って来た。
その夜はほとんど微睡もせずに苦しみのうちに明かして、翌日は幸い気候も暖かであったので、ゆうべ一と夜寝ずにああこうと考えていた順序に従って、朝飯の箸を置くとそのまま出て往き、どこよりも先ず祇園町の裏つづきの、例の、女が先にいた家にいって、階下の家主の老婦人のもとを訪ねてみたが、今朝は宅にいるはずだと思っていたのに、昨夜のとおりにやっぱり門に錠がおりている。しかたなく路次の入口の店屋で訊くと、
「お婆さんは、上京の方の親類とかに病人があるとかいうて、一週間ほど帰らんいうてお往きやして、そうどんなあ、それがもう二、三日前のことどす」といってくれる。
私は、そこに突っ立ちながら、「二、三日前」それなら何という残念なことをしたろう。田舎から京都に戻ったあの翌日高雄へ紅葉を見に行かずに、ここへ来たら、何とか女の様子も分ったろうに、と、思ったがしかたがない。それにもうここには三月も前からいなくなっているのだから、家主のお婆さんがいたとて委しいことは分らないかも知れぬ。昨夜松井の内のお繁婆さんの話の端に、叔父さんというのは、油の小路とか三条とか言っていた。それに、ずっと以前に女から一人の叔父は油の小路とかで悉皆屋とか糊屋とかをしていると聞いていたように思う。母親が上京の方の親類に同居して厄介になっているといったのも、そこかも知れぬ。姓も彼女の姓とは異っている、名も知らないが、もし神という者がこの私の真心を知ってくれるならば何とかしたら分るすべもないこともあるまい。これから油の小路に往って、悉皆屋と糊屋とを一軒一軒探ねて歩いてみよう。そう決心して、それからすぐ油の小路に廻っていった。そして三条四条を中心にして、その上下を幾回となく往きつ戻りつして一々両側を歩いてみたが、もとより雲を掴むような話で、悉皆屋と糊屋とは幾らもあるが、手がかりのあろうはずもない。そしてほとんど半日以上も一つのところをお百度を踏むようにして、ついに歩き疲れて屈託しながらひとまず宿まで引き揚げて来た。
そのまた翌日、むやみに探ね歩いてもしかたがない、何とか好い思案はあるまいかと一日外へ出ずに考えていたが、暮れ方になって、やっぱりあの先にいた路次の中の家主のところに行ってみるのがいいように思われるので、一日内にとじ籠もっているよりもと思って出かけていったが、一週間ほど不在といいおいていって、まだ三、四日にしかならぬのであるから、老婦人はまだ帰っていない。相変らず門の扉にはさびしく錠がおろしてある。するとその路次の中に立っていると、そこへ路次の入口の米屋の女房が共用水道の水を汲みに出てきたので、そのおかみは東京者で、一度も口をきいたことはなかったが、夏の初め以来、顔だけ見知っていたので、もちろん先きでは、これが、あそこの二階にいる女の旦那と思って、こちらよりも一層注意して見ていたかも知れぬ。それで、そのおかみに、
「ここのお婆さんはお留守でしょうか」と、昨日も出口の店屋で訊いているので無駄だと知りつつも、そう言って訊ねると、おかみは、バケツを提げたまま、
「あの、あそこの二階にいたお婆さんですか」と、門の外から女のいた二階の方を指さしながら、訊き返した。それで私は腹の中で、階下のお婆さんのことを訊ねたのだが、それを訊くのも、やっぱり階上にいた女の母親のことを訊ねようとてであるから、これは、うまい具合だと思って、
「ええそうです」と、いうと、
「あのお婆さんは、つい五、六日前に、すぐそこの、安井の金比羅様のあちら側にお越しになりました」という。
私は、心の中で肯いて、それじゃ、八月の末にここの所帯を畳んでしまって母親もいなくなったと言ったのは、皆なこしらえごとであったかと、合点しながら、さあらぬ風に、
「ああそうですか。五、六日前に変りましたか」
「ええ、ついこの間です。たくさんに荷物を持って。お婆さん、私にも挨拶をして下すって、今までは二階借りをしていましたけれど、今度は自分で一軒借りました。気兼ねがなくなりましたから、どうぞ遊びに来て下さいというて行かれましたけれど、私もわざわざ行く用もありませんから、まだ往っては見ませんが、なんでもすぐそこの横町の通りからちょっと入った、やっぱり路次の中だそうです」
私は、はっと胸を刺すように思い当って、自分でも、顔から血の気が一時に失せたかと思った。今までは二階借りであったけれど、今度は一軒借りきりで、気兼ねがない。たとい病気というにはないにしても、背後に誰か金を出す者が付いているに定っている。……心の中ではそんなことが鶯梭のごとく往来する。それをじっと堪えて、
「はあ、一軒借りて。……」と、私は思わずその一事に満身の猜察力を集中しながら、独り言のようにいっていると、委しいわけを知らぬおかみは、多分夏の初めそこに私の姿を時々見ていた以来、私たちの関係に変りのないことと思ったのであろう。
「もしおいでになるなら、あそこの俥屋でお訊きになると、すぐ分ります。あそこの俥屋が荷物を運んでゆきましたから、よく知っています」
と、深切に教えてくれたので、私は幾度も礼を繰り返しながら、路次を出て、横町の廻り角の俥屋にいって訊ねると、俥屋の女房がいて、自分は行かないが、そこをどう行って、こういってと、委しく教えてくれた。きけば、なるほどすぐ近いところである。
私は、心に勇みがついて、その足ですぐ金毘羅様の境内を北から南に突き抜けて、絵馬堂に沿うたそこの横町を、少し往ってさらに石畳みにした小綺麗な路次の中に入って行ってみると、俥屋の女房は小さい家だと教えたが、三、四軒並んだ二階建ての家のほかには、なるほど三軒つづきの、小さい平家があるけれど、入口の名札に藤村という女の姓も名も出ていない。それでまた引き返してもう一度俥屋にいってもっと委しく訊くと、その三軒の平家の中央の家がそれだという。
「ああ、そうですか?」と、いって、俥屋の女房には、逆らわずそのまままたもとの路次の方に引き返したが、今の先き見たところでは、その中央の家には、なるほど、まだ白木のままの真新しい名札が出ていたが、それには飯田とのみ誌してあった。私は不審さに小頸を傾げながら、もう一度路次に入って来てその飯田という名札の掲っている中央の家の前に立って、しばらく考えていた。
ああ読めた! 飯田というのは旦那の姓であろう、こうして、この旦那は、可哀そうな私とは正反対に好きな女をうまうまと自分の持物にしおおせて、この新しい表札を打ったのであろう、と、向うの、その嬉しい気の内を想像するだけ、自分は恐ろしい修羅に身を燃やしながら、もう生命がけであくまでも自分の悪運に突撃してゆこうとする涙ぐむような意地になって来た。三尺をまた半分にした、ようよう体のはいられるだけの小さい潜戸は、まだ日も暮れぬのに、緊く閉めきって、留守かと思うほどひっそりしている。
「もしもし、御免なさい」二、三度声をかけると、やがて、内から、
「どなたはんどす?」という声がする。たしかに母親の声である。じゃ、この家がそれにちがいなかったと思いながら、
「私です、わたしです」と自分の名をいうと、母親はそうっと、五、六寸潜戸を開けて、内から胡散そうに外を窺いて見たが、そこには私が突っ立っているので、
「ああ、あんたはんどすか」と、気まずい顔をしていいながら、がらりと潜戸を開けて外に出るや否や身体で入口に立ち塞がるような恰好をして、後手にぴしゃりと潜戸を閉めてしまった。
そして五歩六歩入口を遠ざかりながら、
「あんたはん、私がここに来ているのがよう分りました。どなたにお訊きやした?……ここは人さんのお家どすよって。私ちょっと雇われて来ていますのどす」というようなことを、弁解がましくいいつつ、なるたけ私を家の前から遠ざけるように、路次を出ようとする。
私は、つい一と月ばかり前時々会っていた時と打って変ったようなその、あまりによそよそしい様子に、そうなくてさえ失望のあまり、ひどく弱くなっている心を押し潰されたような心地がしたが、努めて気を励ましながら、
「お母はん、お園さんが飛んでもない病気になったというじゃありませんか」と、まるで泣きかかるような調子で言葉をかけた。
すると母親ももう鼻声になって、
「私、あの娘にあんな病気しられて、もう、どないしょうかと思うてます。同じ病気かで、糞尿の世話をするくらいどしたら、わたし何ぼか嬉しいか知れしまへん。あの娘の病気の世話やったら、どないに私骨が折れたかて、ちょっとも厭やしまへん。私もあの娘と一緒に死んだかて本望どすけど、あんたはん、何の因果であんな病気になりましたか思うて私、もうここ半月ほどの間というもの、夜もろくに寝られやしまへんのどす。ちょっと油断してる間にどんなことをするか知れまへんよって」母親は悲しい声で立てつづけに泣きごとをいう。そういう顔をよく見ると、なるほど娘の病気に心痛すると思われて、顔に血の気は失せて真青である。
私は一々うなずきながら、一昨日の夜から、病気ということをはじめて聞いて、居処が知れないためにほとんど京都中を探して歩いていたことを怨みまじりに話して、
「そして、今少しは良い方なのですか、どんなです? 私も一遍様子を見たいです」と、いうと、母親は、それを遮るような口吻で、
「今もう誰にも会わしてならんとお医者さんがいわはりますので、どなたにも会わせんようにしています。仲の好い友達が気の毒がって、見舞いに行きたいいうてくりゃはりますのでも、みんな断りいうてるくらいどすよって。あの病気は薬も何もいらんさかい、ただじっと静かにしてさえおけばええのやそうにおす。この二、三日やっとすこし落ち着いて来たとこどす」
「ああそうですか。何にしても心配です。……そして、今ひとりで静かに寝ていますか」私は、どうかして、よそながらにでも、そうっと様子を見たそうにいうと、母親は、また一生懸命に捲し立てるような調子で、
「ほて、今、京都におらしまへんのどす」
「えッ、あそこに寝ているんじゃないんですか。そして、どこにいるんです?」
「違います。あそこは、あんたはん、よその金持ちのお婆さんがひとりで隠居しておいでやすところどす。もうお年寄りのことどすさかい、この間からえらい病気でむつかしい言うて息子はんたち心配してはりますところへ、知った人さんから頼まれて私が付添いに来てますのどす。そしてあの娘は遠いところの親類に預けてしまいました」母親がおろおろ声で誠しやかにそういうので、私は心の中で、道理で、取ってもつかぬ飯田という表札が出ているのである。そして、そんな精神に異状のある、たった一人きりの娘の傍に付き添うていないで、他人の年寄りの病人に付き添うているのを不思議に思いながら、
「遠い親類に預けた!……あんた、そしてまたなぜ傍に付いて介抱してやらないのです?」
「あんたはん、私が傍について介抱してやりとうても、あの娘がそんな病気で、たんとお金がかかりますよって、私が人さんの家へ雇われていてでも少しくらいのお金を儲けんことにはどもならしまへんがな」母親は泣くようにいう。
私はつくづくと彼ら母子の者の世にも薄命の者であることを思いながら、眉を顰めるようにして、
「あんた、銭を儲けなければならないなんて、それは何とか出来るじゃありませんか。あんたただ一人きりの大切な娘がそんな一通りならぬ病気をしているのに、傍に付いていて介抱してやらないということがありますか」と小言をいうようにいうと、母親は、少し顔を和らげて、
「ええ、私も付いていてやりたいは山々どすけど、今いうとおり、医者に見せることもいらん、薬も飲まないでもええ、ただ静かにしておりさえすりゃ好えのやそうにおすさかい、親類のおかみさんが、お母はん、もうちょっとも心配することはない、確かに癒してあげますよって、安心しといでやすいうてくりゃはりますので、そこへ委せてあります」
「遠い親類て、どこです?」
そういって訊ねても、母親ははっきりどこということをいわずに、ただ、
「ずっと遠いところどす。田舎の方どす」という。
「田舎て、どこの田舎です? お母はん、あなたにも、あんなにいうておったじゃありませんか、私と一処に家を持って、お園さんが廃めるまで待っていましょうって。そんな病気をなぜ私に知らしてくれなかったのです」
私が、怨言まじりに心配して訊くので、母親も返事を否むわけにも行かず、折々考えるようにしながら、「あんたはんにも一遍相談したい思いましたけど、そうしておられしまへんがな。そんな病気どすよって。田舎というのは京から二、三里離れたお百姓の家どす。私の弟の家どすさかい、そこの嫁はんが、ほん深切にしてくりゃはりますよって」
「二、三里の田舎じゃ、あんまり遠い家でもありません」
「私も、二、三日前にちょっと行って来たきり、こちらの御隠居さんが病院に入ろうかどうしようかいうてはりますくらいで、少しも手が引けませんよって、一遍あとの様子を見に行かんならん思うてもまだ、あんたはん、よう往かれまへんがな。私も、あんたはんがおいでやしたんで、今家を黙って出て来ましたよって、早う去なんと、年寄りの病人さんが、用事があるといけまへんさかい……」
母親は鼻声で、あっちもこっちも心のせくように言う。私は一層同情に堪えない心持で、
「いくら、あんた、親類に預けて安心だといって、一人の親が一人の娘の病気の世話をしないで、よその他人の介抱に雇われているということがあるものですか。まあ、今ここで委しい話も出来ませんから、何とか繰り合わして暇ができたら、お母はん一遍今度の私の宿まで来て下さい。そして、もっとくわしい病気の様子も訊きたいし、いろいろな御相談もしましょう」
そういって、宿の名とところとをくわしく教えると、母親は少し考えるようにして、明日はちょっと都合が悪くてゆけないから明後日はきっと訪ねて行きますという。その約束を堅めて、
「あんたはんもまた風邪ひかんように早う往んでお休みやす」
「お母はんもあまり心配せんと。そのうえ自分がまた患ったら困りますよ」
挨拶を交わして、そのままそこで立ち別れた。日はもうとっぷり暮れて、寒い寒い乾いた夕風が薄暗の中を音もなく吹いていた。
七
母親の居処が知れて、まず一と安心したものの、路次の出口の女房のはなしでは、つい五、六日前に先の二階借りのところから引き移って行ったという。それを母子の者はなぜ私に対して隠していたか、考えて見ると水くさいしうちである。それにさっき飯田と表札を打った家の潜り戸を開けて母親が中から出て来ながら、ちょうどこちらが押し入ってゆこうとするのを先廻りをして入れまいとでもするような様子をしたのが疑ってみればみるほど変である。まあ、しかし、そんなことをあくどく根問いせぬ方が美しくっていい、委細は明後日宿へ訪ねて来た時に、よくわかるように、なんどりと話してみよう、と、それからそれへと、疑ってみたり、また思いなおして安心してみたりしながら宿へ帰って来た。
それから中一日置いて、約束の明後日になって、今に来るかくるかと一日どこへも出ず晩まで待っていたけれど母親は訪ねて来ないので、とうとう待ちあぐねて、日暮れ方にまたこちらからそこまで出かけて往ってみた。と、一昨日見た飯田と誌した表札は取りはずしてしまって、相変らず潜戸は寂然と閉まっている。ややしばらくそのままそこに佇んで思案をしていると、すぐ左隣りの二十七、八のおかみさんが、入口から顔を出して、
「お隣りはもうお留守どっせ」という。
「ああそうですか。もうお留守て、誰もいないのですか」と重ねて訊くと、
「ええ、私、どやよう知りませんけど、何でも病人さんが、えらい悪うて入院してはりますとかいうて、お婆さんも昨日付いて行かはりまして、今どなたもいやはりゃしまへん。何や知らん、お婆さんこの二、三日えらい忙しそうにいうてはりました」という。
私は、何だか狐につままれたようで、茫然としていたが、そういえば、母親が一昨日話していた隠居のお婆さんが入院したというのかも知れぬと思いながら、なおそこを立ち去りかねて、一、二度表から潜り戸を引っ張ってみたり、子窓の磨り硝子の障子の隙から家の中を窺いてみようとしたけれど、隣家の女房が見ているので、押してそうすることもならず、そのまま引き返して路次を出て来た。そして群疑はまた雲のごとく湧き上った。けれども、母親のいったように付き添うている隠居の婆さんと、自分の娘と二人の病人を持っているのが真実ならば、急しい道理である。今日は私を訪ねるという約束が一日二日延びても無理はないと、また思い直して、悄然として宿の方に戻ってきた。
その翌日、たしかに当てにはならぬが、もしか今日は来はせぬかと、また一日外へ出ぬようにして心待ちに待ちながら、不安と疑いとに悩まされて欝ぎ込んでいると、二、三時ごろになって、宿の者が、お年寄りの御婦人の方がお見えになりましたと知らして来たので、とうとう来たなと、すぐ通してくれるようにいって待っていると、表の方から、長い廊下を伝うて部屋に入って来たのは、母親のほかに今一人、かつて見も知らぬ、人相がはなはだ好くない五十余りの、背のひょろ高い、痩せぎすの男である。見ると蒼白い顔色に薄い痘痕がある。
私はその男の様子を見ると同時に、はっとした感じが頭に閃いた。それで、じっと心を落ち着けて、態度を崩さぬようにしながら、平らやかな顔をしてわざと丁寧に一応の挨拶を交わしてみると、その男は懐中から一枚の名刺を取り出して私の前に差し出しながら、
「私はこういう者です」という。
「ああそうですか」といいつつ、それを手に取り上げて読んでみると、「京都市何々法律事務所事務員小村何某」と仰山に書いている。私は、
「ああそうですか」と重ねてうなずいて見せたがこんな男が二人や三人組んで来たくらいで、びくともするのじゃないが、それにしても一昨々日の晩、母親と立ち話をして別れた時にも、自分はどこまでも人情ずくで、真実母子二人の者の身を哀れに思ったのであった。そして、哀れに思えばこそ一人愛しんで長い間尽していたのである。それゆえたとい精神に異状を来たしていようが気狂いであろうが、あんな繊美しい女が狂人になっているとすれば、そんな病人になったからといって、今さら棄てるどころか、一層可愛い。いかなる困難を排しても女を自分の手中の物にして、病気をも癒してやらねばならぬと思っているのに、もし、自分のこの体たらくを見知っている者があって、自分を痴愚とも酔狂ともいわば言え、自分ながら感心するほどの真実を傾け尽して女のことを思っているのに、こんな男を同伴して来る母親の心が怨めしい。なぜ自分のこの胸の内が母親には分らぬのであろう。自分一人で来て打ち融けた談合をしようとせずに、訊くまでもなくもう底意は明らかに見えている。その母親の心が、もうすっかり私と絶縁しているということが、惨めに私の胸に打撃を与えた。
それを思いながら、私は黙り込んでいると、その男は、
「僕は、この藤村の親類の者に依頼せられて今日来たのだが、君がこの藤村の娘を大変脅迫したために、精神に異状を来たしたといって、ひどく立腹をしている。それで、君がどうしても女が欲しいなら、銭を五百何十円出してもらわねばならん」と、横柄な調子でいう。
私は、それを聴くと、もう、むらむらとなった。そして、腹の中で、「何を吐かしやがる。盗人猛々しいとは、その言い分である」と、思ったが、それはじっと抑えて口には出さず、
「はあ、私が藤村の娘を脅迫したために精神に異状を来たしたというのですか。……なお、女が欲しいようなら、銭を五百何十円出せ? 私にはよく合点がゆかぬ」と、言葉は、なるべく静かにしながら、きっとなって問い返した。
するとその男は、
「自分はただ頼まれたので、委しいわけは知らんが、君が当人をひどく嚇かしたのが原因で気が狂ったそうじゃないか。そのために親類一同の者が大変君を怨んでいる」と、頭から押っ被せようとする。
それを聴いて私は、あまりの腹立たしさに顔が痙攣するかと思うほど硬くなったのを、強いて笑いながら、
「戯談をいっている!」と、語気を強めて吐き出すように言った。「なるほど今年の一月以来、……それまで、もう何年という長い年月の間私の方からさんざん尽して心配していることが、いつまで経っても少しも埒があかぬので、一体どうなっているかと、随分厳しいことを、手紙でいってよこしたことはたびたびあります。しかし、それは私としては当然のことで、もちろん、あんな商売をしている女に山ほど銭を入れ揚げたって、それは入れ揚げる方が愚ではあるが、たとい幾ら泥水稼業の女にしても、ただむやみに男を騙して金を捲き上げさえすればいいというわけのものでもありますまい。私がこの藤村の娘に対してしたことを最初からずっとお話をするとこうなのです。まあ聴いて下さい」
と、いって、対手が妙に生齧りの法律口調で話しかけるのを、こちらは、わざと捌けた伝法な口の利きようになって、四、五年前からの女との経緯を、その男には、口をし入れる隙もないくらいに、二時間ばかり、まるで小説の筋でも話して聴かすように、ところどころ惚気まで交えて、立てつづけに話してきかせた。私の顔は熱して、頬には紅が潮してきた。
するとその男は、だんだん私の話に釣り込まれてしまい、初めの変に四角張っていた様子はいつか次第に打ち融けて、私の話が惚気ばなしのようになって来ると、たまらず、噴き出しながら、
「君は女に甘い。君は下手だ。そんな君、女にただ遠方から金を送るということがあるものか。そういう時には君が自分で金を持って京都に来て、さあ、金はここに用意してある。廃めて自分の方に来るかどうするかと向うの腹を確かめて、こっちのいうことを聴くなら、金を出してやろうという調子で行かにゃ駄目じゃ」と意見するようにいって、笑っている。
私はまた、半ばはわざとそうして見せるところもあったが、男が笑っているのを見て、むっとなり、あくまでも真剣な調子で、
「いや、笑いごとじゃありません。また惚気を言うつもりでもありません。他人から見れば馬鹿と見えるくらい、およそそれほどまでに、私は、相手を信じきって尽して来たことをお話するのです。惚気を聴かすようですが、それも私たちの間がそれほどまでに打ち融けておったことを説明しているのです。それにもかかわらず、……」と、なお後を継ごうとすると、その男は、一層笑い出して、
「いや、君は馬鹿だ。はははは君、出ている女は君、君一人だけが客じゃない、ほかにも多勢そんな男があるもの……」と笑い消してしまう。
母親も傍から口を出して、
「世話になった人はあんたはんばかりやおへん。まだまだもっと他に、いうに言えんお世話になったお人がありますのどす」と、その男にも聴いてくれというようにいう。
「うむ、そりゃそうやろとも」男はもっともというようにうなずいている。
私は、それを不快に思いながら聴いていたが、
「そりゃ、私のほかに、もっと世話になっていた男があるかも知れない。何も自分一人が色男のつもりでいたわけじゃないが、自分もこの年になって、女に引っ掛かったのは、これが初めてじゃない。随分女の苦労は東京にいてたびたびして来ているんだ。しかし今度のような御念の入った騙され方をしたのは初めてだ。それに何ぞや、私が嚇かしたために気が狂ったなぞと、聞いて呆れる。それどころじゃない、私の方であの女のことを思いつめて患わぬが不思議なくらいに自分でも、思っているのです。私が嚇かしたためにそんな病気になったという苦情があるなら私の方で悦んで引き取って癒してやりましょう。しかし、さっきのお話で銭を五百円出せというのはどういうわけです?」
きっぱり、そういうと、その男はまたうなずいて、妙な東京弁を交えながら、
「うむ、そりゃ君の心持も私にはようわかっている。だから、病気になったことについては、情状を酌量して、どうしてくれとは言わぬから、女のことは諦めてもらいたい。それでも、どうしても君の方へ連れて来たいというなら、五百五十円か、それだけの金を君の方から出してもらわねばならん。その金が出来るか」
人を馬鹿扱いにして宥めるような、また足もとを見透かして軽蔑したようなことをいう。私は、情状を酌量するもあったものではないと心の中でその浅薄な言い草を腹を立てるよりも笑いながら、
「へえ、五百何十円! それはどうした金です?」と訊き返しながら、今までさんざん人を騙して、金を搾れるだけ絞っておきながら――もっとも本人は何にも知らずにいるのかも知れぬが――どこまで虫の好いことを言うと思った。
すると、母親はまた興奮した顔で傍から口を出して、
「その金はどうした金て、あんたはん、まだ松井さんにあの娘の借金がおすがな。あんたはんも私のところにおいやした時に、何度もあの娘に訊いておいやしたやおへんか、まだたんとの借金おした。その金を返さんことには、あんたはん松井さんかて、あの娘を廃めさしてくりゃはりゃしまへんがな」真顔でいう。
「その借金を五百五十円今度親類から出してもらったのだ」傍の男が後を受け取って言う。
私には、どうも、はっきり腑に落ちぬ。
「へえ?……しかし、この間私が松井へ行って、お繁さんに会って訊いた時には、そんなに借金はもうなさそうな口ぶりであったが」
「あの人何も知らはりゃしまへん。ないどころか、まだ仰山あって、あの娘はそんな病気になる……親一人、子ひとりの私の身になったら、あんたはん、泣くに泣かりゃしまへんがな。それで南山城の旧い親類に頼んで、証文書いて、それだけの金を今度貸してもろうたのどす」母親は、傍の男にも訴え顔にいう。
私は、黙ってそれを聴いていたが、なるほど彼女たちの先祖はもと府下の南山城の大河原というところであったとは、自分が女を知って間もない時分から聞いていることであった。その大河原というのは関西線の木津川の渓流に臨んだ、山間の一駅で、その辺の山水は私のつとに最も好んでいるところで、自分の愛する女の先祖の地が、あんな景色の好いところであるかと思うと、一層その辺の風景が懐かしい物に思われていたのであった。そして女の祖父に当る人間が、彼女の父親の弟分にして、も一人他人の子を養子にしていたが、祖父が死に、今からざっと三十年も前に父親が一家を挙げて京都に移って来る時分に、所有していた山林田畑をその義弟の保管に任しておくと、彼はその財産を全部失くしてしまい、自分は伊賀の上野在の農家に養子に行って、なお存命である。ほかに兄弟とてなかった父方の親類といえば言われるのはそこきりで、血こそ繋がっていないが今でも親類づき合いをしているのであった。……それだけのことはたびたび母子の者から聴かされて自分も知っているが、その他に南山城に、不断親しい往来をしないでいて、突然金を貸してくれるようたところがありそうに思えぬ。
「へえ?……そんな親類があるのですか。伊賀の上野にはあると、あなた方から私もかねて聞いていたが」と、私が訝しそうにいうと、母親は、引ったくるような調子で、
「あんたはん、そんな委しいこと知らはりゃしまへん。そんな親類ありますがな」という。
「へえ? 何という親類です? やっぱり大河原の?」と重ねて訊くと、傍の男は、またそれを受け取って、
「自分で、藤村の親類で、やっぱり藤村利平という者だというとった。その人間がわざわざ私のところに来て依頼して帰った」
「あんたはん、あんな遠いところからそのことで出て来てくれたのどす」二人は調子の合ったことをいっている。
私も、心の中で、ああいうのだから、そんな親類があるのかも知れぬと思った。
「じゃ、私がその藤村利平という人に一応会って話しましょう」
「いや、もうこの間ちょっと来て、すぐ帰ってしもうた」といってしまう。
ついに、どちらのいい分も要領を得ずにそんな取り留めのない話になったが、私の心は、どうあっても女を思い絶たない、女に会わなければ承知しないが腹一ぱいで、たといこの天地が摧けるとも女を見なければ気が済まぬのである。それで、とうとう三、四時間も話し込んでいる内に暗くなってしまったので、その男は、忙しいといって立ちそうにするのを、私はどこまでも一度女に会って、差向いで納得するような話をしなければ何といってもこのままに済ますわけにはゆかぬといい張った。
すると、母親もその男も遅くなって心が急くのと両方で、
「そやから、病気さえ良うなったら、あんたはんにも会わせますいうてるやおまへんか」
「きっと会わせますな」
ということにして、二人は帰った。
八
この間母親と一緒に来た小村という男が、十日か十五日経ったら会わせましょうと受け合ったので、自分もそれで幾らか安心して、なるべく他のことに気をまぎらすように努めながら、その十日間の早く経つのを待っていた。そして約束の十日が過ぎると、もうそのことばかりが考えられて心が急くので、宿からあまり遠くないところと聞いていた、その小村の家を訪ねて往って、この間母親と一緒に来た時に聴き残した、もっと委しいことをあれこれと訊ねてみた。そして、金を出したのはやっぱり南山城の大河原字童仙房というところの藤村利平という人間であって、その人間が、自分の事務に携わっている室町竹屋町の法律事務所にわざわざ訪ねて来て、親戚関係の藤村の娘のことを依頼していったのである。大河原の童仙房というところにそういう人間があるかどうか、自分は委しいことは知らぬが、事務所の方には四、五年前に他の事件を依頼して来たことがあるので、今度はその縁故で来たのである、という。
私は、それを、この間はじめて聞いた時から幾度となく疑ってみた。そんな親類があって、こんどそれだけの金を出してくれるくらいならば、そもそもあんな卑しい境涯に身を沈めない前に泣きついて行くはずである。けれども、そういう親類があるというから、あるいはそうかも知れぬ。そして、
「もう、あれからしばらく経ったから、病気も大分良くなったでしょう。私自分で一遍往って様子を見て来たいと思うんですが」というと、小村は口をきくよりも先きに頭振りをふって、
「いやいやまだなかなかそんなどころでない。母親の話ではどうも良くないらしい」という。
「とにかく、それでは私が自分で往ってみましょう」といって、女の静養しているという山科の方の在所へ往く道順や向うのところを委しく訊ねると、小村は、君が独りで往ったのではとても分らない、ひどく分りにくいところだといっていたが、それでも強いてこちらが訊くので、山科は字小山というところで、大津ゆき電車の毘沙門前という停留場で降りて、五、六町いった百姓家だという。姓はときくと、さあ姓は、自分も一度母親に連れられて一度行ったきりでつい気がつかなかったが、やっぱり藤村といったかも知れぬという。
まるで雲を掴むような当てのないことであるが、私はそれから小村方を出て、寒い空に風の吹く砂塵の道を一心になって、女に食べさすために口馴染みの祇園のいづ宇の寿司などをわざわざ買いととのえて三条から大津行きの電車に乗った。小村のいった毘沙門前の停留場というのは、大津街道の追分からすこし行くとすぐなので、そこで電車を降りて、踏切番をしている女に小山というところへ行くのはどう往ったらよいかと訊ねると、女は合点のいかぬように、
「小山はここから五、六町やききまへんなあ。あこに見えるのが小山どすよって、一里もっとおすやろ」といって指さす方を見ると、田圃の向うの逢阪山の峰つづきにあたる高い山の麓の方に冬の日を浴びて人家の散らばっている村里がある。私は、あそこまでは大変だと思いながら、
「そうですか、毘沙門前の停留場を降りてすぐ五、六町ときいたのですが」と、私は繰り返して独り言を言ってみたが、踏切りの番の女は、ただ、
「ちがいますやろ」
とばかりでしかたがない。そして、自分ながら阿呆な訊ねようだと思ったが、もし京都からかくかくの風体の者で病気の静養に来ている者がこの辺の農家に見当らないであろうかと問うてみたが、それもやっぱり、
「さあ、気がつきまへんなあ」で、どうすることも出来ない。
しかたがないから、私はそこから大津街道の往来の方に出て、京都から携えてきた寿司の折詰と水菓子の籠とを持ち扱いながら、雲を掴むようなことを言っては、折々立ち止まって、そこらの人間に心当りをいって問い問い元気を出して向うの山裾の小山の字まで探ねて往った。十二月の初旬のころでところどころ薄陽の射している陰気な空から、ちらりちらり雪花が落ちて来た。それでも私は両手に重い物を下げているので、じっとり肌に汗をかきながら道を急いで、寂れた街道を通りぬけて、茶圃の間を横切ったり、藪垣の脇を通ったりして、遠くから見えていた、山裾の小山の部落まで来て、そこから中の人家について訊ねたが、そういう心当りはどこにもなかった。それでもなお諦めないで、そこからまた引き返して、ほとんど、山科の部落という部落を、ちらちら粉雪の降っているにもかかわらず私は身体中汗になって、脚が棒のようになるまで探ね廻ったが、もとより住所番地姓名を明細に知っているわけでもないので、ついにどこにもそんな心当りはなく、在所の村々が暗くなりかけたからしかたなく、断念して、失望しながら帰路についた。
あとで小村という男に会ってそのことを話すと、彼は「一人往ったのでは、とても分らん」といっていたが、母親が近いうちにまたその話で来ることになっているから来てくれというので、少しは好い話をするかと思って、楽しんでその日に往くと、母親の調子はこの前会った時より一層険悪になって、こちらが、女に未練があるので、どこまでも下手に優しくして物をいうと、彼女は、理詰めになって来ると、しまいには私に向ってさんざんぱら悪態を吐いた。
そして、山科に娘を預けたというのは、であろうというと、もう、そんなところにいるものか、遠くの親類が引き取ったとか、またこういえば、私が東京へ帰って行くとでも思ったか、世話をする人が家内にするといって東京へ連れて行ったなどといろんなことをいっていた。たしかに南山城に行っているとも思えないが、母親が、いつもよくいうとおりだとすれば、あるいはそうかも知れぬ。あの女が、自分の索り求めえられる世界から外へ身を隠した、もう、とてもどうしても会うことも見ることも出来ぬと思えば、自分は生きている心地はせぬ。そんな思いをして毎日じっとして欝いでばかりいるよりは、当てのないことでも、往って探してみる方がいくらか気を慰めると思って、私は、十二月のもう二十九日という日に、わざわざそちらの方へ出かけていった。木津で、名古屋行きに汽車を乗り換えると、車内は何となく年末らしい気分のする旅行者が多勢乗っている。一体木津川の渓谷に沿うた、そこら辺の汽車からの眺望はつとに私の好きなところなので、私は、人に話すことは出来ないが、しかし、自分の生きているほとんど唯一の事情の縺れから、堪えがたい憂いを胸に包みながら、それらの旅客に交って腰を掛けながら、せめても自分の好める窓外の冬景色に眼を慰めていた。車室がスチームに暖められているせいか、冬枯れた窓外の山も野も見るから暖かそうな静かな冬の陽に浴して、渓流に臨んだ雑木林の山には茜色の日影が澱んで、美しく澄んだ空の表にその山の姿が、はっきり浮いている。間もなく志す大河原駅に来て私は下車した。
かねて南山城は大河原村の字童仙房というところの親類に引き取られていると聞いていたので、大河原の駅に下車すると、そこから村里まで歩いて、村役場について、まず親類という人間の姓名をいって、戸籍簿を調べてもらったが、村役人は、「そんな名前の人は心当りがありませんが」といって、帳簿を私に見せてくれた。そして、童仙房というところは、この大河原村の内であっても、ここから車馬も通わぬ険悪な山路を二、三里も奥へ入って行かねばならぬという。そんな遠い山路を入っていっても童仙房というところにそんな人間がないならば無益なことである。
そして、そんな姓名はこの大河原村にはない。それと同じ姓は、この隣村の何がし村の聞き違えではないか、その村には藤村という姓が多いという。しかしその村もやっぱり鷲峰山という高い山の麓になっているので、そこまで入って行くには、どちらからいっても困難であるが、まだここから行くよりも、ここから三つめの停車場の加茂から入って行った方がいいが、それでも五、六里の道である。そちらからならば俥が通うかも知れぬといって教えてくれた。
大河原ということは、今度の場合に限らずこれまでもたびたび母親の口から聞いているので、そんな人間が実存するなら大河原にちがいはなかろうと思ったが、あの連中の言うことには、どんな虚構があるかも知れぬ。もしや、その隣村ではあるまいかと思案して、ここまで乗りかかったついでに、どこまでも追究せずにはいられない気がするので、私はそこまで探ね入って行く決心をした。南山城の相楽郡といえばほとんど山ばかりの村である。そこに峙っている鷲峰山は標高はようやく三千尺に過ぎないが、巉岩絶壁をもって削り立っているので、昔、役の小角が開創したといわれている近畿の霊場の一つである。その麓を繞って、ほとんど外界と交通を絶ったような別天地が開けているのである。
私はこの寒空にそこまで入って行くことの容易ならぬことを思って、幾度か躊躇して、長い太息を吐いたが、女がもしその深い山の中に行っているとしたら、自分もそこまで入ってゆかねば会うことも見ることも出来ぬのであると思うと、それを中止するのも何だか心残りである。そう思って、大河原駅からまた笠置、加茂と三つ手前の駅まで引き返して戻った。そして、加茂駅に下車して停車場の出口で、そこに客待ちをしながら正月のお飾りをこしらえていた二、三人の車夫に、何がしの村までこれから行ってくれぬかというと、彼らは、呆れた顔をして、笑いながら、
「とっても……」と、一口いったきりで顔を横に振って対手になろうとせぬ。なおよく訊ねると、泥濘が車輪を半分も埋めるので、俥が動かない、荷車ならば行くという。
私は、思案に暮れてしばらくそこに突っ立って考えていたがそうかといって、断念する気にはならぬので必ず行くという決心はなかったがしかたなく駅路の、長い街つづきを向うへ向うへとどこまでも歩いて行った。やがて半道も行くと、街道はひとりでに高い木津川の堤に上がっていった。木津川も先きの大河原駅あたりから、ここまで下って来ると、汪洋とした趣を備えて、川幅が広くなっている。鷲峰山下の村に通う街道は、そこに架した長い板橋を彼方に渡ってゆくのである。私は、ゆこうかゆくまいかと思うよりも、行けるかどうかを気づかいながら、ともかくその長い板橋を向うに渡っていった。それでも、なかなか交通が頻繁だと思われて、相応に人が往来している。私は長い橋の中ほどに佇んで川の上流の方を眺めると、嶮岨な峰と峰とが襟を重ねたように重畳している。時によっては好い景色とも見られるであろうが、午後から何だか、寒さが増して陰気な空模様に変ったと思っていたら、雪花がちらりちらり散って来た。私は、長い橋の上に立って空を見上げながら、「この空模様で、膝を没する泥濘道ではとてもおぼつかない」とまた思案をしたが、ともかく橋を向うに渡ってなお歩いていると、そこへ後からがらがら空車を挽いた若い男の荷馬車がやって来た。私はその男に声をかけた。
「その荷馬車はどこまで行く? 何がしの村まで行かぬか」
と訊ねると、その途中まで帰るのだという。
「君、その荷馬車に乗せてもらえないか」と頼むと、
「ああ、乗って行きなはれ」といいながら、彼はずんずん行く。
それは、何か貨物を運搬した帰りと思われて、粗雑な板箱の中は汚くよごれている。私はそれを見て心を決しかねて、なお後からついてゆくと、彼はしばらく行くと、馬を停めておいて、道傍にあり合わした藁塚から藁を抜き取って来て、それを箱の中に敷いて、
「さあ、乗んなはれ」という。
私は、心に、若い馬子の深切を謝したものの、さすがにその荷車に乗りかねた。自分は、何の因果であの女が諦められぬのであろう、と感慨に迫りながら行く手の方を見ると、灰色空の下に深い山また山が重畳している気勢である。
「いや、もう、止そうか」と、若い馬子にいって、私はとうとう断念して引き返した。そしてまた木津川の長い板橋を渡ってくると、雪を含んだ冷たい川風が頬を斬るように水の面から吹いて来た。
底本:「日本の文学 8 田山花袋 岩野泡鳴 近松秋江」中央公論社
1970(昭和45)年5月5日初版発行
入力:久保あきら
校正:松永正敏
2001年6月4日公開
2006年1月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。