一
儂の村住居も、満六年になった。暦の齢は四十五、鏡を見ると頭髪や満面の熊毛に白いのがふえたには今更の様に驚く。
元来田舎者のぼんやり者だが、近来ます/\杢兵衛太五作式になったことを自覚する。先日上野を歩いて居たら、車夫が御案内しましょうか、と来た。銀座日本橋あたりで買物すると、田舎者扱いされて毎々腹を立てる。後でぺろり舌を出されるとは知りながら、上等のを否極上等のをと気前を見せて言い値でさっさと買って来る様な子供らしいこともついしたくなる。然し店硝子にうつる乃公の風采を見てあれば、例令其れが背広や紋付羽織袴であろうとも、着こなしの不意気さ、薄ぎたない髯顔の間抜け加減、如何に贔屓眼に見ても――いや此では田舎者扱いさるゝが当然だと、苦笑いして帰って来る始末。此程村の巡査が遊びに来た。日清戦争の当時、出征軍人が羨ましくて、十五歳を満二十歳と偽り軍夫になって澎湖島に渡った経歴もある男で、今は村の巡査をして、和歌など詠み、新年勅題の詠進などして居る。其巡査の話に、正服帯剣で東京を歩いて居ると、あれは田舎のお廻りだと辻待の車夫がぬかす。如何して分かるかときいたら、眼で知れますと云ったと云って、大笑した。成程眼で分かる――さもありそうなことだ。鵜の目、鷹の目、掏摸の眼、新聞記者の眼、其様な眼から見たら、鈍如した田舎者の眼は、嘸馬鹿らしく見えることであろう。実際馬鹿でなければ田舎住居は出来ぬ。人にすれずに悧巧になる道はないから。
東京に出ては儂も立派な田舎者だが、田舎ではこれでもまだ中々ハイカラだ。儂の生活状態も大分変った。君が初めて来た頃の彼あばら家とは雲泥の相違だ。尤も何方が雲か泥かは、其れは見る人の心次第だが、兎に角著しく変った。引越した年の秋、お麁末ながら浴室や女中部屋を建増した。其れから中一年置いて、明治四十二年の春、八畳六畳のはなれの書院を建てた。明治四十三年の夏には、八畳四畳板の間つきの客室兼物置を、ズッと裏の方に建てた。明治四十四年の春には、二十五坪の書院を西の方に建てた。而して十一間と二間半の一間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。何れも茅葺、古い所で九十何年新しいのでも三十年からになる古家を買ったのだが、外見は随分立派で、村の者は粕谷御殿なぞ笑って居る。二三年ぶりに来て見た男が、悉皆別荘式になったと云うた。御本邸無しの別荘だが、実際別荘式になった。畑も増して、今は宅地耕地で二千余坪になった。以前は一切無門関、勝手に屋敷の中を通る小学校通いの子供の草履ばた/\で驚いて朝寝の眠をさましたもので、乞食物貰い話客千客万来であったが、今は屋敷中ぐるりと竹の四ツ目籬や、、萩ドウダンの生牆をめぐらし、外から手をさし入れて明けられる様な形ばかりのものだが、大小六つの門や枝折戸が出入口を固めて居る。己と籠を作って籠の中の鳥になって居るのが可笑しくもある。但花や果物を無暗に荒されたり、無遠慮なお客様に擾わさるゝよりまだ可と思うて居る。個人でも国民でも斯様な所から「隔て」と云うものが出来、進んでは喧嘩、訴訟、戦争なぞが生れるのであろう。
「後生願わん者は糂甕一つも持つまじきもの」とは実際だ。物の所有は隔ての原で、物の執着は争の根である。儂も何時しか必要と云う名の下に門やら牆やら作って了うた。まさか忍び返えしのソギ竹を黒板塀の上に列べたり、煉瓦塀上に硝子の破片を剣の山と植えたりはせぬつもりだが、何、程度の問題だ、これで金でも出来たら案外其様な事もやるであろうよ。
二
畑の物は可なり出来る。昨年は陸穂の餅米が一俵程出来たので、自家で餅を舂いた。今年は大麦三俵籾で六円なにがしに売った。田園生活をはじめてこゝに六年、自家の作物が金になったのは、此れが皮切だ。去年は月に十日宛きまった作男を入れたが、美的百姓と真物の百姓とは反りが合わぬ所から半歳足らずで解雇してしまい、時々近所の人を傭ったり、毎日仕事に来る片眼のおかみを使って居る。自分も時々やる。少し労働をやめて居ると、手が直ぐ綺麗になり、稀に肥桶を担ぐと直ぐ肩が腫れる。元来物事に極不熱心な男だが、其れでも年の功だね、畑仕事も少しは上手になった。最早地味に合わぬ球葱を無理に作ろうともせぬ。最早胡麻を逆につるして近所の笑草にもならぬ。甘藷苗の竪植もせぬ。心をとめるものは心をとめ、肥料のやり時、中耕の加減も、兎やら角やら先生なしにやって行ける。毎年儂は蔬菜花卉の種を何円と云う程買う。無論其れ程の地積がある訳でも必要がある訳でも無いが、種苗店の目録を見て居るとつい買いたくなって買うのだ。蒔いてしまうのも中々骨だから、育ったら事だが、幸か不幸か種の大部分は地に入って消えて了う。其度毎に種苗店の不徳義、種子の劣悪を罵るが、春秋の季節になると、また目録をくって注文をはじめる。馬鹿な事さ。然し儂等は趣味空想に生きて、必しも結果には活きぬ。馬鹿な事をしなくなったら、儂が最後だ。
時の経つは速いものだ。越した年の秋実を蒔いた茶が、去年あたりから摘め、今年は新茶が可なり出来た。砂利を敷いたり剪枝をしたり苦心の結果、水蜜桃も去年あたりから大分喰える。苺は毎年移してばかり居たが、今年は毎日喫飽をした上に、苺のシイロップが二合瓶二十余出来た。生籬の萩が葉を見て花を見てあとは苅られて萩籬の料になったり、林の散歩にぬいて来て捨植にして置いた芽生の山椒が一年中の薬味になったり、構わずに置く孟宗竹の筍が汁の実になったり、杉籬の剪みすてが焚附になり、落葉の掃き寄せが腐って肥料になるも、皆時の賜物である。追々と植込んだ樹木が根づいて独立が出来る様になり、支えの丸太が取り去られる。移転の秋坊主になる程苅り込んで非常の労力を以て隣村から移植し、中一年を置いてまた庭の一隅へ移し植えた二尺八寸廻りの全手葉椎が、此頃では梢の枝葉も蕃茂して、何時花が咲いたか、つい此程内の女児が其下で大きな椎の実を一つ見つけた。と見て、妻が更に五六粒拾った。「椎が実った! 椎が実った!」驩喜の声が家に盈ちた。田舎住居は斯様な事が大した喜の原になる。一日一日の眼には見えぬが、黙って働く自然の力をしみ/″\感謝せずには居られぬ。儂が植えた樹木は、大抵根づいた。儂自身も少しは村に根を下したかと思う。
三
少しはと儂は云うた。実は六年村に住んでもまだ村の者になり切れぬのである。固有の背水癖で、最初戸籍までひいて村の者になったが、過る六年の成績を省ると、儂自身もあまり良い村民であったと断言は出来ない。吉凶の場合、兵隊送迎は別として、村の集会なぞにも近来滅多に出ぬ。村のポリチックスには無論超然主義を執る。燈台下暗くして、東京近くの此村では、青年会が今年はじめて出来、村の図書館は一昨年やっと出来た。儂は唯傍観して居る。郡教育会、愛国婦人会、其他一切の公的性質を帯びた団体加入の勧誘は絶対的に拒絶する。村の小さな耶蘇教会にすらも殆ど往かぬ。昨年まで年に一回の月番役を勤めたが、月番の提灯を預ったきりで、一切の事務は相番の肩に投げかけるので、皆迷惑したと見えて、今年から月番を諭旨免職になった。儂自身の眼から見る儂は、無月給の別荘番、墓掃除せぬ墓守、買って売る事をせぬ植木屋の亭主、位なもので、村の眼からは、儂は到底一個の遊び人である。遊人の村に対する奉公は、盆正月に近所の若い者や女子供の相手になって遊ぶ位が落である。儂は最初一の非望を懐いて居た。其は吾家の燈火が見る人の喜悦になれかしと謂うのであった。多少気張っても見たが、其内くたびれ、気恥かしくなって、儂は一切説法をよした。而して吾儘一ぱいの生活をして居る。儂は告白する、儂は村の人にはなり切れぬ。此は儂の性分である。東京に居ても、田舎に居ても、何処までも旅の人、宿れる人、見物人なのである。然しながら生年百に満たぬ人の生の六年は、決して短い月日では無い。儂は其六年を已に村に過して居る。儂が村の人になり切れぬのは事実である。然し儂が少しも村を愛しないと云うのは嘘である。ちと長い旅行でもして帰って来る姿を見かけた近所の子供に「何処へ往ったンだよゥ」と云われると、油然とした嬉しさが心の底からこみあげて来る。
東京が大分攻め寄せて来た。東京を西に距る唯三里、東京に依って生活する村だ。二百万の人の海にさす潮ひく汐の余波が村に響いて来るのは自然である。東京で瓦斯を使う様になって、薪の需用が減った結果か、村の雑木山が大分拓かれて麦畑になった。道側の並木の櫟楢なぞ伐られ掘られて、短冊形の荒畑が続々出来る。武蔵野の特色なる雑木山を無惨拓かるゝのは、儂にとっては肉を削がるゝ思だが、生活がさすわざだ、詮方は無い。筍が儲かるので、麦畑を潰して孟宗藪にしたり、養蚕の割が好いと云って桑畑が殖えたり、大麦小麦より直接東京向きの甘藍白菜や園芸物に力を入れる様になったり、要するに曩時の純農村は追々都会附属の菜園になりつゝある。京王電鉄が出来るので其等を気構え地価も騰貴した。儂が最初買うた地所は坪四十銭位であったが、此頃は壱円以上二円も其上もする様になった。地所買いも追々入り込む。儂自身東京から溢れ者の先鋒でありながら、滅多な東京者に入り込まれてはあまり嬉しい気もちもせぬ。洋服、白足袋の男なぞ工場の地所見に来たりするのを傍見する毎に、儂は眉を顰めて居る。要するに東京が日々攻め寄せる。以前聞かなかった工場の汽笛なぞが、近来明け方の夢を驚かす様になった。村人も寝ては居られぬ。十年前の此村を識って居る人は、皆が稼ぎ様の猛烈になったに驚いて居る。政党騒ぎと賭博は昔から三多摩の名物であった。此頃では、選挙争に人死はなくなった。儂が越して来た当座は、まだ田圃向うの雑木山に夜灯をとぼして賭博をやったりして居た。村の旧家の某が賭博に負けて所有地一切勧業銀行の抵当に入れたの、小農の某々が宅地までなくしたの、と云う噂をよく聞いた。然し此の数年来賭博風は吹き過ぎて、遊人と云う者も東京に往ったり、比較的堅気になったりして、今は村民一同真面目に稼いで居る。其筋の手入れが届くせいもあるが、第一遊んで居られぬ程生活難が攻め寄せたのである。
四
儂の家族は、主人夫婦の外明治四十一年の秋以来兄の末女をもらって居る。名を鶴と云う。鶴は千年、千歳村に鶴はふさわしい。三歳の年貰って来た頃は、碌々口もきけぬ脾弱い児であったが、此の頃は中々強健になった。もらい立は、儂が結いつけ負ぶで三軒茶屋まで二里てく/\楽に歩いたものだが、此の頃では身長三尺五寸、体量四貫余。友達が無いが淋しいとも云わず育って居る。子供は全く田舎で育てることだ。紙鳶すら自由に飛ばされず、毬さえ思う様にはつけず、電車、自動車、馬車、人力車、自転車、荷車、馬と怪俄させ器械の引切りなしにやって来る東京の町内に育つ子供は、本当に惨なものだ。雨にぬれて跣足でけあるき、栗でも甘藷でも長蕪でも生でがり/\食って居る田舎の子供は、眼から鼻にぬける様な怜悧ではないかも知れぬが、子供らしい子供で、衛生法を蹂躙して居るか知らぬが、中々病気はしない。儂等親子三人の外に、女中が一人。阿爺が天理教に凝って資産を無くし、母に死別れて八歳から農家の奉公に出て、今年二十歳だが碌にイロハも読めぬ女だ。東郷大将の名は知って居るが、天皇陛下を知らぬ。明治天皇崩御の際、妻は天皇陛下の概念を其原始的頭脳に打込むべく大骨折った。天皇陛下を知らぬ程だから、無論皇后陛下や皇太子殿下を知る筈が無い。明治天皇崩御の合点が行くと、曰くだ、ムスコさんでもありますかい、おかみさんが嘸困るでしょうねェ。御維新後四十五年、帝都を離るゝ唯三里、加之二十歳の若い女に、まだ斯様な葛天氏無懐氏の民が居ると思えば、イワン王国の創立者も中々心強い訳だ。斯無懐氏の女の外に、テリアル種の小さな黒牝犬が一匹。名をピンと云う。鶴子より一月前にもらって、最早五歳、顎のあたりの毛が白くなって、大分お婆さんになった。毎年二度三疋四疋宛子を生む。ピンの子孫が近村に蕃殖した。近頃畜犬税がやかましいので、子供を縁づけるに骨が折れる。徒歩でも車でも出さえすると屹度跟いて来るが、此頃では東京往復はお婆さん骨らしい。一度車夫が戻り車にのせてやったら、其後は車に跟いて来て疲れると直ぐ車上の儂等を横眼に見上げる。今一疋デカと云うポインタァ種の牡犬が居る。甲州街道の浮浪犬で、ポチと云ったそうだが、ズウ体がデカイから儂がデカと名づけた。デカダンを意味したのでは無い。獰猛な相貌をした虎毛の犬で、三四疋位の聯合軍は造作もなく噛み伏せる猛犬だったので、競争者を追払ってずる/\にピンの押入聟となった訳である。儂も久しく考えた末、届と税を出し、天下晴れて彼を郎等にした。郎等先生此頃では非常に柔和になった。第一眼光が違う。尤も悪い癖があって、今でも時々子供を追かける。噛みはせぬが、威嚇する。彼が流浪時代に子供に苛められた復讎心が消えぬのである。子供と云えば、日本の子供はなぜ犬猫を可愛がらぬのであろう。直ぐ畜生と云っては打ったり石を投げたりする。矢張大人の真似を子供はするのであろう。禽獣を愛せぬ国民は、大国民の資格が無い。犬猫をいじめる子供は、やがて朝鮮人台湾人をいじめる大人である。ある犬通の話に、野犬の牙は飼犬のそれより長くて鋭く、且外方へ向くものだそうだ。生物には飢程恐ろしいものは無い。食にはなれた野犬が猛犬になり狂犬になるのは唯一歩である。野武士のポチは郎等のデカとなって、犬相が大に良くなった。其かわり以前の強味はなくなった。富国強兵兎角両立し難いものとあって、デカが柔和に即ち弱くなったのもれぬ処であろう。以上二頭の犬の外、トラと云う雄猫が居る。犬好きの家は、猫まで犬化して、トラは畳の上より土に寝るが好きで、儂等が出あるくと兎の如くピョン/\はねて跟いて来る。米の飯より麦の飯、魚よりも揚豆腐が好きで、主人を見真似たか梨や甜瓜の喰い残りをがり/\噛ったり、焼いた玉蜀黍を片手で押えてわんぐり噛みつきあの鋭い牙で粒を食いかいてはぼり/\噛ったり、まさに田園の猫である。来客があって、珍らしく東京から魚を買ったら、トラ先生早速口中に骨を立て、両眼に涙、口もとからは涎をたらし、人騒がせをしてよう/\命だけは取りとめた。犬猫の外に鶏が十羽。蜜蜂は二度飼って二度逃げられ、今は空箱だけ残って居る。天井の鼠、物置の青大将、其他無断同居のものも多いが、此等は眷族の外である。(著者追記。犬のデカは大正二年の二月自動車に轢かれて死に、猫のトラは正月行衛不明になり、ピンは五月肥溜に落ちて死んだ。)
猫の話で思い出したが、儂は明治四十二年の春、塩釜の宿で牡蠣を食った時から菜食を廃した。明治三十八年十二月から菜食をはじめて、明治三十九、四十、四十一、と満三年の精進、云わば昔の我に対する三年の喪をやったようなものだ。以前はダシにも昆布を使った。今は魚鳥獣肉何でも食う。猪肉や鯛は尤も好物だ。然し葷酒(酒はおまけ)山門に入るを許したばかりで、平素の食料は野菜、干物、豆腐位、来客か外出の場合でなければ滅多に肉食はせぬから、折角の還俗も頗る甲斐がない訳である。甲州街道に肴屋はあるが、無論塩物干物ばかりで、都会に溢るゝ、秋刀魚の廻って来る時節でもなければ、肴屋の触れ声を聞く事は、殆ど無い。ある時、東京式に若者が二人威勢よく盤台を担いで来たので、珍らしい事だと出て見ると、大きな盤台の中は鉛節が五六本に鮪の切身が少々、それから此はと驚かされたのは血だらけの鯊の頭だ。鯊の頭にはギョッとした。蒲鉾屋からでも買い出して来たのか。誰が買うのか。ダシにするのか。煮て食うのか。儂は泣きたくなった。一生の思出に、一度は近郷近在の衆を呼んで、ピン/\した鯛の刺身煮附に、雪の様な米の飯で腹が割ける程馳走をして見たいものだ。実際此処では魚と云えば已に馳走で、鮮否は大した問題では無い。近所の子供などが時々真赤な顔をして居る。酒を飲まされたのでは無い。ふるい鯖や鮪に酔うたのである。此頃は、儂の健啖も大に減った。而して平素菜食の結果、稀に東京で西洋料理なぞ食っても、甘いには甘いが、思う半分も喰えぬ。最早儂の腸胃も杢兵衛式になった。
五
書が沢山ある家、学を読む家、植木が好きな家、もとは近在の人達が斯く儂の家の事を云うた。儂を最初村に手引した石山君は、村塾を起して儂に英語を教えさせ自身漢学を教え、斯くて千歳村を風靡する心算であったらしい。然し其は石山君の失望であった。儂は何処までも自己本位の生活をした。ある学生は、あなたの故郷は此処では無い、大きな樹木を植えたり家を建てたりはよくない、と切に忠告した。儂は顧みなかった。古い家ながら小人数には広過ぎる家を建て、盛に果樹観賞木を植え、一切永住方針を執って吾生活の整頓に六年を費した。儂は儂の住居が水草を逐うて移る天幕であらねばならぬことを知らぬでは無かった。また儂自身に漂泊の血をもって居ることを否むことは出来なかった。従来儂の住居が五六年を一期とする経歴を記憶せぬでは無かった。だから儂は落ちつきたかった。執着がして見たかった。自分の故郷を失ったからには、故郷を造って見たかった。而して六年間孜々として吾巣を構えた。其結果は如何である? 儂が越して程なく要あって来訪した東京の一紳士は、あまり見すぼらしい家の容子に掩い難い侮蔑を見せたが、今年来て見た時は、眼色に争われぬ尊敬を現わした。其れに引易え、或信心家は最初片っ方しか無い車井の釣瓶なぞに随喜したが、此頃ではつい近所に来て泊っても寄っても往かなくなった。即儂の田園生活は、或眼からは成功で、或眼からは堕落に終ったのである。
堕落か成功か、其様な屑々な評価は如何でも構わぬ。儂は告白する、儂は自然がヨリ好きだが、人間が嫌ではない。儂はヨリ多く田舎を好むが、都会を捨てることは出来ぬ。儂は一切が好きである。儂が住居は武蔵野の一隅にある。平生読んだり書いたりする廊下の窓からは甲斐東部の山脈が正面に見える。三年前建てた書院からは、東京の煙が望まれる。一方に山の雪を望み、一方に都の煙を眺むる儂の住居は、即ち都の味と田舎の趣とを両手に握らんとする儂の立場と慾望を示して居るとも云える。斯慾望が何処まで衝突なく遂げ得らるゝかは、疑問である。此両趣味の結婚は何ものを生み出したか、若くは生み出すか、其れも疑問である。唯儂一個人としては、六年の田舎住居の後、いさゝか獲たものは、土に対する執着の意味をやゝ解しはじめた事である。儂は他郷から此村に入って、唯六年を過ごしたに過ぎないが、それでも吾が樹木を植え、吾が種を蒔き、我が家を建て、吾が汗を滴らし、吾不浄を培い、而してたま/\死んだ吾家の犬、猫、鶏、の幾頭幾羽を葬った一町にも足らぬ土が、今は儂にとりて着物の如く、寧皮膚の如く、居れば安く、離るれば苦しく、之を失う場合を想像するに堪えぬ程愛着を生じて来た。己を以て人を推せば、先祖代々土の人たる農其人の土に対する感情も、其一端を覗うことが出来る。斯執着の意味を多少とも解し得る鍵を得たのは、田舎住居の御蔭である。
然しながら己が造った型に囚われ易いのが人の弱点である。執着は常に力であるが、執着は終に死である。宇宙は生きて居る。人間は生きて居る。蛇が衣を脱ぐ如く、人は昨日の己が死骸を後ざまに蹴て進まねばならぬ。個人も、国民も、永久に生くべく日々死して新に生れねばならぬ。儂は少くも永住の形式を取って村の生活をはじめたが、果して此処に永住し得るや否、疑問である。新宿八王子間の電車は、儂の居村から調布まで已に土工を終えて鉄線を敷きはじめた。トンカンと云う鉄の響が、近来警鐘の如く儂の耳に轟く。此は早晩儂を此巣から追い立てる退去令の先触ではあるまいか。愈電車でも開通した暁、儂は果して此処に踏止まるか、寧東京に帰るか、或は更に文明を逃げて山に入るか。今日に於ては儂自ら解き得ぬ疑問である。
大正元年十二月二十九日
都も鄙も押なべて白妙を被る風雪の夕
武蔵野粕谷の里にて
徳冨健次郎
[#改丁]都落ちの手帳から
千歳村
一
明治三十九年の十一月中旬、彼等夫妻は住家を探すべく東京から玉川の方へ出かけた。
彼は其年の春千八百何年前に死んだ耶蘇の旧跡と、まだ生きて居たトルストイの村居にぶらりと順礼に出かけて、其八月にぶらりと帰って来た。帰って何を為るのか分からぬが、兎に角田舎住居をしようと思って帰って来た。先輩の牧師に其事を話したら、玉川の附近に教会の伝道地がある、往ったら如何だと云う。伝道師は御免を蒙る、生活に行くのです、と云ったものゝ、玉川と云うに心動いて、兎に角見に行きましょうと答えた。そうか、では何日に案内者をよこそう、と牧師は云うた。
約束の日になった。案内者は影も見せぬ。無論牧師からはがき一枚も来ぬ。彼は舌鼓をうって、案内者なしに妻と二人西を指して迦南の地を探がす可く出かけた。牧師は玉川の近くで千歳村だと大束に教えてくれた。彼等も玉川の近辺で千歳村なら直ぐ分かるだろうと大束にきめ込んで、例の如くぶらりと出かけた。
二
「家を有つなら草葺の家、而して一反でも可、己が自由になる土を有ちたい」
彼は久しく、斯様な事を思うて居た。
東京は火災予防として絶対的草葺を禁じてしまった。草葺に住むと云うは、取りも直さず田舎に住む訳である。最近五年余彼が住んだ原宿の借家も、今住んで居る青山高樹町の借家も、東京では田舎近い家で、草花位つくる余地はあった。然し借家借地は気が置ける。彼も郷里の九州には父から譲られた少しばかりの田畑を有って居たが、其土は銭に化けて追々消えてしまい、日露戦争終る頃は、最早一撮の土も彼の手には残って居なかった。そこで草葺の家と一反の土とは、新に之を求めねばならぬのであった。
彼が二歳から中二年を除いて十八の春まで育った家は、即ち草葺の家であった。明治の初年薩摩境に近い肥後の南端の漁村から熊本の郊外に越した時、父が求めた古家で、あとでは瓦葺の一棟が建増されたが、母屋は久しく茅葺であった。其茅葺をつたう春雨の雫の様に、昔のなつかし味が彼の頭脳に滲みて居たのである。彼の家は加藤家の浪人の血をひいた軽い士の末で、代々田舎の惣庄屋をして居て、農には元来縁浅からぬ家である。彼も十四五の頃には、僕に連れられ小作米取立の検分に出かけ、小作の家で飯を強いられたり無理に濁酒の盃をさゝれたりして困った事もあった。彼の父は地方官吏をやめて後、県会議員や郷先生をする傍、殖産興業の率先をすると謂って、女を製糸場の模範工女にしたり、自家でも養蚕製糸をやったり、桑苗販売などをやって、いつも損ばかりして居た。桑苗発送季の忙しくて人手が足りぬ時は、彼の兄なぞもマカウレーの英国史を抛り出して、柄の短い肥後鍬を不器用な手に握ったものだ。弟の彼も鎌を持たされたり、苗を運ばされたりしたが、吾儘で気薄な彼は直ぐ嫌になり、疳癪を起してやめてしまうが例であった。
父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルパ、神樹などの苗を仕入れて帰り、其他種々の水瓜、甘蔗など標本的に試作した。好事となると実行せずに居れぬ性分で、ある時菓樹は幹に疵つけ徒長を防ぐと結果に効があると云う事を何かの雑誌で読んで、屋敷中の梨の若木の膚を一本残らず小刀でメチャ/\に縦疵をつけて歩いたこともあった。子の彼は父にも兄にも肖ぬなまけ者で、実学実業が大の嫌いで、父が丹精して置いた畑を荒らして廻り、甘蔗と間違えて西洋箒黍を噛んで吐き出したり、未熟の水瓜を窃と拳固で打破って川に投げ込んで素知らぬ顔して居たり、悪戯ばかりして居た。十六七の際には、学業不勉強の罰とあって一切書籍を取上げられ、爾後養蚕専門たるべしとの宣告の下に、近所の養蚕家に入門せしめられた。其家には十四になる娘があったので、当座は真面目に養蚕稽古もしたが、一年足らずで嫌になってズル/\にやめて了うた。但右の養蚕家入門中、桑を切るとて大きな桑切庖丁を左の掌の拇指の根にざっくり切り込んだ其疵痕は、彼が養蚕家としての試みの記念として今も三日月形に残って居る。
斯様な記憶から、趣味としての田園生活は、久しく彼を引きつけて居たのであった。
三
青山高樹町の家をぶらりと出た彼等夫婦は、まだ工事中の玉川電鉄の線路を三軒茶屋まで歩いた。唯有る饂飩屋に腰かけて、昼飯がわりに饂飩を食った。松陰神社で旧知の世田ヶ谷往還を世田ヶ谷宿のはずれまで歩き、交番に聞いて、地蔵尊の道しるべから北へ里道に切れ込んだ。余程往って最早千歳村であろ、まだかまだかとしば/\会う人毎に聞いたが、中々村へは来なかった。妻は靴に足をくわれて歩行に難む。農家に入って草履を求めたが、無いと云う。漸く小さな流れに出た。流れに沿うて、腰硝子の障子など立てた瀟洒とした草葺の小家がある。ドウダンが美しく紅葉して居る。此処は最早千歳村で、彼風流な草葺は村役場の書記をして居る人の家であった。彼様な家を、と彼等は思った。
会堂がありますか、耶蘇教信者がありますか、とある家に寄ってきいたら、洗濯して居たかみさんが隣のかみさんと顔見合わして、「粕谷だね」と云った。粕谷さんの宅は何方と云うたら、かみさんはふッと噴き出して、「粕谷た人の名でねェだよ、粕谷って処だよ」と笑って、粕谷の石山と云う人が耶蘇教信者だと教えてくれた。
尋ね/\て到頭会堂に来た。其は玉川の近くでも何でもなく、見晴しも何も無い桑畑の中にある小さな板葺のそれでも田舎には珍らしい白壁の建物であった。病人か狂人かと思われる様な蒼い顔をした眼のぎょろりとした五十余の婦が、案内を請う彼の声に出て来た。会堂を借りて住んで居る人なので、一切の世話をする石山氏の宅は直ぐ奥だと云う。彼等は導かれて石山氏の広庭に立った。トタン葺の横長い家で、一方には瓦葺の土蔵など見えた。暫くすると、草鞋ばきの人が出て来た。私が石山八百蔵と名のる。年の頃五十余、頭の毛は大分禿げかゝり、猩々の様な顔をして居る。あとで知ったが、石山氏は村の博識口利で、今も村会議員をして居るが、政争の劇しい三多摩の地だけに、昔は自由党員で壮士を連れて奔走し、白刃の間を潜って来た男であった。推参の客は自ら名のり、牧師の紹介で会堂を見せてもらいに来たと云うた。石山氏は心を得ぬと云う顔をして、牧師から何の手紙も来ては居ぬ、福富儀一郎と云う人は新聞などで承知をして居る、また隣村の信者で角田勘五郎と云う者の姉が福富さんの家に奉公して居たこともあるが、尊名は初めてだと、飛白の筒袖羽織、禿びた薩摩下駄、鬚髯もじゃ/\の彼が風采と、煤竹色の被布を着て痛そうに靴を穿いて居る白粉気も何もない女の容子を、胡散くさそうにじろじろ見て居た。然し田舎住居がしたいと云う彼の述懐を聞いて、やゝ小首を傾げてのち、それは会堂も無牧で居るから、都合によっては来てお貰い申して、月々何程かずつ世話をして上げぬことはない、と云う鷹揚な態度を石山氏はとった。兎に角会堂を見せてもろうた。天井の低い鮓詰にしても百人がせい/″\位の見すぼらしい会堂で、裏に小さな部屋があった。もと耶蘇教の一時繁昌した時、村を西へ距る一里余、甲州街道の古い宿調布町に出来た会堂で、其後調布町の耶蘇教が衰え会堂が不用になったので、石山氏外数名の千歳村の信者がこゝにひいて来たが、近来久しく無牧で、今は小学教員母子が借りて住んで居ると云うことであった。
会堂を見て、渋茶の馳走になって、家の息子に道を教わって、甲州街道の方へ往った。
晩秋の日は甲州の山に傾き、膚寒い武蔵野の夕風がさ/\尾花を揺する野路を、夫婦は疲れ足曳きずって甲州街道を指して歩いた。何処やらで夕鴉が唖々と鳴き出した。我儕の行末は如何なるのであろう? 何処に落つく我儕の運命であろう? 斯く思いつゝ、二人は黙って歩いた。
甲州街道に出た。あると云う馬車も来なかった。唯有る店で、妻は草履を買うて、靴をぬぎ、三里近い路をとぼ/\歩いて、漸く電燈の明るい新宿へ来た。
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都落ち
一
二月ばかり経った。
明治四十年の一月である。ある日田舎の人が二人青山高樹町の彼が僑居に音ずれた。一人は石山氏、今一人は同教会執事角田新五郎氏であった。彼は牧師に招聘されたのである。牧師は御免を蒙る、然し村住居はしたい。彼は斯く返事したのであった。
彼は千歳村にあまり気がなかった。近いと聞いた玉川は一里の余もあると云う。風景も平凡である。使って居た女中は、江州彦根在の者で、其郷里地方には家屋敷を捨売りにして京、大阪や東京に出る者が多いので、の様に廉い地面家作の売物があると云う。江州――琵琶湖東の地、山美しく水清く、松茸が沢山に出て、京奈良に近い――大に心動いて、早速郷里に照会してもらったが、一向に返事が来ぬ。今時分田舎から都へ出る人はあろうとも、都から田舎にわざ/\引込む者があろうか、戯談に違いない、とうっちゃって置いたのだと云う事が後で知れた。江州の返事が来ない内、千歳村の石山氏は無闇と乗地になって、幸い三つばかり売地があると知らしてよこした。あまり進みもしなかったが、兎に角往って見た。
一は上祖師ヶ谷で青山街道に近く、一は品川へ行く灌漑用水の流れに傍うて居た。此等は彼が懐よりも些反別が広過ぎた。最後に見たのが粕谷の地所で、一反五畝余。小高く、一寸見晴らしがよかった。風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫の木にしばりつけた土間共十五坪の汚ない草葺の家が附いて居る。家の前は右の樫の一列から直ぐ麦畑になって、家の後は小杉林から三角形の櫟林になって居る。地面は石山氏外一人の所有で、家は隣字の大工の有であった。其大工の妾とやらが子供と棲んで居た。此れで我慢するかな、彼は斯く思いつゝ帰った。
石山氏はます/\乗地になって頻に所決を促す。江州からはたよりが無い。財布は日に/\軽くなる。彼は到頭粕谷の地所にきめて、手金を渡した。
手金を渡すと、今度は彼があせり出した。万障一排して二月二十七日を都落の日と定め、其前日二十六日に、彼等夫婦は若い娘を二人連れ、草箒と雑巾とバケツを持って、東京から掃除に往った。案外道が遠かったので、娘等は大分弱った。雲雀の歌が纔に一同の心を慰めた。
来て見ると、前日中に明け渡す約束なのに、先住の人々はまだ仕舞いかねて、最後の荷車に物を積んで居た。以前石山君の壮士をしたと云う家主の大工とも挨拶を交換した。其妾と云う髪を乱した女は、都の女等を憎くさげに睨んで居た。彼等は先住の出で去るを待って、畑の枯草の上に憩うた。小さな墓場一つ隔てた東隣の石山氏の親類だと云う家のおかみが、莚を二枚貸してくれ、土瓶の茶や漬物の丼を持て来てくれたので、彼等は莚の上に座って、持参の握飯を食うた。
十五六の唖に荷車を挽かして、出る人々はよう/\出て往った。待ちかねた彼等は立上って掃除に向った。引越しあとの空家は総じて立派なものでは無いが、彼等はわが有になった家のあまりの不潔に胸をついた。腐れかけた麦藁屋根、ぼろ/\崩れ落ちる荒壁、小供の尿の浸みた古畳が六枚、茶色に煤けた破れ唐紙が二枚、蠅の卵のへばりついた六畳一間の天井と、土間の崩れた一つ竈と、糞壺の糞と、おはぐろ色した溷の汚水と、其外あらゆる塵芥を残して、先住は出て往った。掃除の手をつけようもない。女連は長い顔をして居る。彼は憤然として竹箒押取り、下駄ばきのまゝ床の上に飛び上り、ヤケに塵の雲を立てはじめた。女連も是非なく手拭かぶって、襷をかけた。
二月の日は短い。掃除半途に日が入りかけた。あとは石山氏に頼んで、彼等は匆惶と帰途に就いた。今日も甲州街道に馬車が無く、重たい足を曳きずり/\漸く新宿に辿り着いた時は、女連はへと/\になって居た。
二
明くれば明治四十年二月二十七日。ソヨとの風も無い二月には珍らしい美日であった。
村から来てもらった三台の荷馬車と、厚意で来てくれた耶蘇教信者仲間の石山氏、角田新五郎氏、臼田氏、角田勘五郎氏の息子、以上四台の荷車に荷物をのせて、午食過ぎに送り出した。荷物の大部分は書物と植木であった。彼は園芸が好きで、原宿五年の生活に、借家に住みながら鉢物も地植のものも可なり有って居た。大部分は残して置いたが、其れでも原宿から高樹町へ持て来たものは少くはなかった。其等は皆持て行くことにした。荷車の諸君が斯様なものを、と笑った栗、株立の榛の木まで、駄々を捏ねて車に積んでもろうた。宰領には、原宿住居の間よく仕事に来た善良な小男の三吉と云うのを頼んだ。
加勢に来た青年と、昨日粕谷に掃除に往った娘とは、おの/\告別して出て往った。暫く逗留して居た先の女中も、大きな風呂敷包を負って出て往った。隣に住む家主は、病院で重態であった。其細君は自宅から病院へ往ったり来たりして居た。甚だ心ないわざながら、彼等は細君に別を告げねばならなかった。別を告げて、門を出て見ると、門には早や貸家札が張られてあった。
彼等夫妻は、当分加勢に来てくれると云う女中を連れ、手々に手廻りのものや、ランプを持って、新宿まで電車、それから初めて調布行きの馬車に乗って、甲州街道を一時間余ガタくり、馭者に教えてもらって、上高井戸の山谷で下りた。
粕谷田圃に出る頃、大きな夕日が富士の方に入りかゝって、武蔵野一円金色の光明を浴びた。都落ちの一行三人は、長い影を曳いて新しい住家の方へ田圃を歩いた。遙向うの青山街道に車の軋る響がするのを見れば、先発の荷馬車が今まさに来つゝあるのであった。人と荷物は両花道から草葺の孤屋に乗り込んだ。
昨日掃除しかけて帰った家には、石山氏に頼んで置いた縁無しの新畳が、六畳二室に敷かれて、流石に人間の住居らしくなって居た。昨日頼んで置いたので、先家主の大工が、六畳裏の蛇でものたくりそうな屋根裏を隠す可く粗末な天井を張って居た。
日の暮れ/″\に手車の諸君も着いた。道具の大部分は土間に、残りは外に積んで、荷車荷馬車の諸君は茶一杯飲んで帰って行った。兎も角もランプをつけて、東京から櫃ごと持参の冷飯で夕餐を済まし、彼等夫妻は西の六畳に、女中と三吉は頭合せに次の六畳に寝た。
明治の初年、薩摩近い故郷から熊本に引出で、一時寄寓して居た親戚の家から父が買った大きな草葺のあばら家に移った時、八歳の兄は「破れ家でも吾家が好い」と喜んで踊ったそうである。
生れて四十年、一反五畝の土と十五坪の草葺のあばら家の主になり得た彼は、正に帝王の気もちで、楽々と足踏み伸ばして寝たのであった。
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村入
引越の翌日は、昨日の温和に引易えて、早速田園生活の決心を試すかの様な烈しいからッ風であった。三吉は植木を植えて了うて、「到底一年とは辛抱なさるまい」と女中に囁やいて帰って往った。昨日荷車を挽いた諸君が、今日も来て井戸を浚えてくれた。家主の彼は、半紙二帖、貰物の干物少々持って、近所四五軒に挨拶に廻った。其翌日は、石山氏の息子の案内で、一昨、昨両日骨折ってくれられた諸君の家を歴訪して、心ばかりの礼を述べた。臼田君の家は下祖師ヶ谷で、小学校に遠からず、両角田君は大分離れて上祖師ヶ谷に二軒隣り合い、石山氏の家と彼自身の家は粕谷にあった。何れも千歳村の内ながら、水の流るゝ田圃に下りたり、富士大山から甲武連山を色々に見る原に上ったり、霜解の里道を往っては江戸みちと彫った古い路しるべの石の立つ街道を横ぎり、樫欅の村から麦畑、寺の門から村役場前と、廻れば一里もあるかと思われた。千歳村は以上三の字の外、船橋、廻沢、八幡山、烏山、給田の五字を有ち、最後の二つは甲州街道に傍い、余は何れも街道の南北一里余の間にあり、粕谷が丁度中央で、一番戸数の多いが烏山二百余戸、一番少ないのが八幡山十九軒、次は粕谷の二十六軒、余は大抵五六十戸だと、最早そろ/\小学の高等科になる石山氏の息子が教えてくれた。
期日は三月一日、一月おくれで年中行事をする此村では二月一日、稲荷講の当日である。礼廻りから帰った彼は、村の仲間入すべく紋付羽織に更めて、午後石山氏に跟いて当日の会場たる下田氏の家に往った。
其家は彼の家から石山氏の宅に往く中途で、小高い堤を流るゝ品川堀と云う玉川浄水の小さな分派に沿うて居た。村会議員も勤むる家で、会場は蚕室の階下であった。千歳村でも戸毎に蚕は飼いながら、蚕室を有つ家は指を屈する程しか無い。板の間に薄べり敷いて、大きな欅の根株の火鉢が出て居る。十五六人も寄って居た。石山氏が、
「これは今度東京から来されて仲間に入れておもらい申してァと申されます何某さんで」
と紹介する。其尾について、彼は両手をついて鄭重にお辞儀をする。皆が一人来ては挨拶する。石山氏の注意で、樽代壱円仲間入のシルシまでに包んだので、皆がかわる/″\みやげの礼を云う。粕谷は二十六軒しかないから、東京から来て仲間に入ってくれるのは喜ばしいと云う意を繰り返し諸君が述べる。会衆中で唯一人チョン髷に結った腫れぼったい瞼をした大きな爺さんが「これははァ御先生様」と挨拶した。
やがてニコ/\笑って居る恵比須顔の六十許の爺さんが来た。石山氏は彼を爺さんに紹介して、組頭の浜田さんであると彼に告げた。彼は又もや両手をついて、何も分からぬ者ですからよろしく、と挨拶する。
二十五六人も寄った。これで人数は揃ったのである。煙草の烟。話声。彼真新しい欅の根株の火鉢を頻に撫でて色々に評価する手合もある。米の値段の話から、六十近い矮い真黒な剽軽な爺さんが、若かった頃米が廉かったことを話して、
「俺と卿は六合の米よ、早くイッショ(一緒、一升)になれば好い」
なんか歌ったもンだ、と中音に節をつけて歌い且話して居る。
腰の腫物で座蒲団も無い板敷の長座は苦痛の石山氏の注意で、雑談会はやおら相談会に移った。慰兵会の出金問題、此は隣字から徴兵に出る時、此字から寸志を出す可きや否の問題である。馬鹿々々しいから出すまいと云う者もあったが、然し出して置かねば、此方から徴兵に出る時も貰う訳に行かぬから、結局出すと云う事に決する。
其れから衛生委員の選挙、消防長の選挙がある。テーブルが持ち出される。茶盆で集めた投票を、咽仏の大きいジャ/\声の仁左衛門さんと、むッつり顔の敬吉さんと立って投票の結果を披露する。彼が組頭の爺さんが、忰は足がわるいから消防長はつとまらぬと辞退するのを、皆が寄ってたかって無理やりに納得さす。
此れで事務はあらかた終った。これからは肝心の飲食となるのだが、新村入の彼は引越早々まだ荷も解かぬ始末なので、一座に挨拶し、勝手元に働いて居る若い人達に遠ながら目礼して引揚げた。
*
日ならずして彼は原籍地肥後国葦北郡水俣から戸籍を東京府北多摩郡千歳村字粕谷に移した。子供の頃、自分は士族だと威張って居た。戸籍を見れば、平民とある。彼は一時同姓の家に兵隊養子に往って居たので、何時の間にか平民となって居た。それを知らなかったのである。吾れから捨てぬ先きに、向うからさっさと片づけてもらうのは、魯智深の髯ではないが、些惜しい気もちがせぬでもなかった。兎に角彼は最早浪人では無い。無宿者でも無い。天下晴れて東京府北多摩郡千歳村字粕谷の忠良なる平民何某となったのである。
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水汲み
玉川に遠いのが第一の失望で、井の水の悪いのが差当っての苦痛であった。
井は勝手口から唯六歩、ぼろ/\に腐った麦藁屋根が通路と井を覆うて居る。上窄りになった桶の井筒、鉄の車は少し欠けてよく綱がはずれ、釣瓶は一方しか無いので、釣瓶縄の一端を屋根の柱に結わえてある。汲み上げた水が恐ろしく泥臭いのも尤、錨を下ろして見たら、渇水の折からでもあろうが、水深が一尺とはなかった。
移転の翌日、信者仲間の人達が来て井浚えをやってくれた。鍋蓋、古手拭、茶碗のかけ、色々の物が揚がって来て、底は清潔になり、水量も多少は増したが、依然たる赤土水の濁り水で、如何に無頓着の彼でもがぶ/\飲む気になれなかった。近隣の水を当座は貰って使ったが、何れも似寄った赤土水である。墓向うの家の水を貰いに往った女中が、井を覗いたら芥だらけ虫だらけでございます、と顔を蹙めて帰って来た。其向う隣の家に往ったら、其処の息子が、此家の水はそれは好い水で、演習行軍に来る兵隊なぞもほめて飲む、と得意になって吹聴したが、其れは赤子の時から飲み馴れたせいで、大した水でもなかった。
使い水は兎に角、飲料水だけは他に求めねばならぬ。
家から五丁程西に当って、品川堀と云う小さな流水がある。玉川上水の分派で、品川方面の灌漑専用の水だが、附近の村人は朝々顔も洗えば、襁褓の洗濯もする、肥桶も洗う。何ァに玉川の水だ、朝早くさえ汲めば汚ない事があるものかと、男役に彼は水汲む役を引受けた。起きぬけに、手桶と大きなバケツとを両手に提げて、霜をんで流れに行く。顔を洗う。腰膚ぬいで冷水摩擦をやる。日露戦争の余炎がまださめぬ頃で、面籠手かついで朝稽古から帰って来る村の若者が「冷たいでしょう」と挨拶することもあった。摩擦を終って、膚を入れ、手桶とバケツとをずンぶり流れに浸して満々と水を汲み上げると、ぐいと両手に提げて、最初一丁が程は一気に小走りに急いで行く。耐えかねて下ろす。腰而下の着物はずぶ濡れになって、水は七分に減って居る。其れから半丁に一休、また半丁に一憩、家を目がけて幾休みして、やっと勝手に持ち込む頃は、水は六分にも五分にも減って居る。両腕はまさに脱ける様だ。斯くして持ち込まれた水は、細君女中によって金漿玉露と惜み/\使われる。
余り腕が痛いので、東京に出たついでに、渋谷の道玄坂で天秤棒を買って来た。丁度股引尻からげ天秤棒を肩にした姿を山路愛山君に見られ、理想を実行すると笑止な顔で笑われた。買って戻った天秤棒で、早速翌朝から手桶とバケツとを振り分けに担うて、汐汲みならぬ髯男の水汲と出かけた。両手に提げるより幾何か優だが、使い馴れぬ肩と腰が思う様に言う事を聴いてくれぬ。天秤棒に肩を入れ、曳やっと立てば、腰がフラ/\する。膝はぎくりと折れそうに、体は顛倒りそうになる。と足を踏みしめると、天秤棒が遠慮会釈もなく肩を圧しつけ、五尺何寸其まゝ大地に釘づけの姿だ。思い切って蹌踉とよろけ出す。十五六歩よろけると、息が詰まる様で、たまりかねて荷を下ろす。尻餅舂く様に、捨てる様に下ろす。下ろすのではない、荷が下りるのである。撞と云うはずみに大切の水がぱっとこぼれる。下ろすのも厄介だが、また担ぎ上げるのが骨だ。路の二丁も担いで来ると、雪を欺く霜の朝でも、汗が満身に流れる。鼻息は暴風の如く、心臓は早鐘をたゝく様に、脊髄から後頭部にかけ強直症にかゝった様に一種異様の熱気がさす。眼が真暗になる。頭がぐら/\する。勝手もとに荷を下ろした後は、失神した様に暫くは物も言われぬ。
早速右の肩が瘤の様に腫れ上がる。明くる日は左の肩を使う。左は勝手が悪いが、痛い右よりまだ優と、左を使う。直ぐ左の肩が腫れる。両肩の腫瘤で人間の駱駝が出来る。両方の肩に腫れられては、明日は何で担ごうやら。夢の中にも肩が痛い。また水汲みかと思うと、夜の明くるのが恨めしい。妻が見かねて小さな肩蒲団を作ってくれた。天秤棒の下にはさんで出かける。少しは楽だが、矢張苦しい。田園生活もこれではやりきれぬ。全体誰に頼まれた訳でもなく、誰誉めてくれる訳でもなく、何を苦しんで斯様事をするのか、と内々愚痴をこぼしつゝ、必要に迫られては渋面作って朝々通う。度重なれば、次第に馴れて、肩の痛みも痛いながらに固まり、肩腰に多少力が出来、調子がとれてあまり水をこぼさぬ様になる。今日は八分だ、今日は九分だ、と成績の進むが一の楽になる。
然しいつまで川水を汲んでばかりも居られぬので、一月ばかりして大仕掛に井浚をすることにした。赤土からヘナ、ヘナから砂利と、一丈余も掘って、無色透明無臭而して無味の水が出た。奇麗に浚ってしまって、井筒にもたれ、井底深く二つ三つの涌き口から潺々と清水の湧く音を聴いた時、最早水汲みの難行苦行も後になったことを、嬉しくもまた残惜しくも思った。
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憶出のかず/\
一
跟いて来た女中は、半月手伝って東京へ帰った。あとは水入らずの二人きりで、田園生活が真剣にはじまった。
意気地の無い亭主に連添うお蔭で、彼の妻は女中無しの貧乏世帯は可なり持馴れた。自然が好きな彼女には、田園生活必しも苦痛ばかりではなかった。唯潔癖な彼女は周囲の不潔に一方ならず悩まされた。一番近い隣が墓地に雑木林、生きた人間の隣は近い所で小一丁も離れて居る。引越早々所要あって尋ねて来た老年の叔母は「若い女なぞ、一人で留守は出来ない所ですねえ」と云った。それでも彼の妻は唯一人留守せねばならぬ場合もあった。墓地の向う隣に、今は潰れたが、其頃博徒の巣があって、破落戸漢が多く出入した。一夜家をあけてあくる夕帰った彼は、雨戸の外に「今晩は」と、ざれた男の声を聞いた。「今晩は」と彼が答えた。雨戸の外の男は昨日主が留守であったことを知って居たが、先刻帰ったことを知らなかったのである。大にドキマギした容子であったが、調子を更えて「宮前のお広さん処へは如何参るのです?」と胡魔化した。宮前のお広さん処は、始終諸君が入り浸る其賭博の巣なのである。主の彼は可笑しさを堪え、素知らぬ振して、宮前のお広さん処へは、其処の墓地に傍うて、ずッと往って、と馬鹿叮嚀に教えてやった。「へえ、ありがとうございます」と云って、舌でも出したらしい気はいであった。門戸あけっぱなしで、人近く自然に近く生活すると、色々の薄気味わるい経験もした。ある時彼が縁に背向けて読書して居ると、後に撞と物が落ちた。彼はふりかえって大きな青大将を見た。葺きっぱなしの屋根裏の竹に絡んで衣を脱ぐ拍子に滑り落ちたのである。今一尺縁へ出て居たら、正しく彼が頭上に蛇が降るところであった。
人烟稀薄な武蔵野は、桜が咲いてもまだ中々寒かった。中塗もせぬ荒壁は恣に崩れ落ち、床の下は吹き通し、唐紙障子も足らぬがちの家の内は、火鉢の火位で寒さは防げなかった。農家の冬は大きな炉が命である。農家の屋内生活に属する一切の趣味は炉辺に群がると云っても好い。炉の焚火、自在の鍋は、彼が田園生活の重なる誘因であった。然し彼が吾有にした十五坪の此草舎には、小さな炉は一坪足らぬ板の間に切ってあったが、周囲が狭くて三人とは座れなかった。加之其処は破れ壁から北風が吹き通し、屋根が低い割に炉が高くて、熾な焚火は火事を覚悟しなければならなかった。彼は一月ばかりして面白くない此型ばかりの炉を見捨てた。先家主の大工や他の人に頼み、代々木新町の古道具屋で建具の古物を追々に二枚三枚と買ってもらい、肥車の上荷にして持て来てもろうて、無理やりにはめた。次の六畳の天井は、煤埃にまみれた古葭簀で、腐れ屋根から雨が漏ると、黄ろい雫がぼて/\畳に落ちた。屋根屋に頼んで一度ならず繕うても、盥やバケツ、古新聞、あらん限りの雨うけを畳の上に並べねばならぬ時があった。驚いたのは風である。三本の大きなはりがねで家を樫の木にしばりつけてあるので、風当りがひどかろうとは覚悟して居たが、実際吹かれて見て驚いた。西南は右の樫以外一本の木もない吹きはらしなので、南風西風は用捨もなくウナリをうってぶつかる。はりがねに縛られながら、小さな家はおびえる様に身震いする。富士川の瀬を越す舟底の様に床が跳る。それに樫の直ぐ下まで一面の麦畑である。武蔵野固有の文言通り吹けば飛ぶ軽い土が、それ吹くと云えば直ぐ茶褐色の雲を立てゝ舞い込む。彼は前年蘇士運河の船中で、船房の中まで舞い込む砂あらしに駭いたことがある。武蔵野の土あらしも、やわか劣る可き。遠方から見れば火事の煙。寄って来る日は、眼鼻口はもとより、押入、箪笥の抽斗の中まで会釈もなく舞い込み、歩けば畳に白く足跡がつく。取りも直さず畑が家内に引越すのである。
都をば塵の都と厭ひしに
田舎も土の田舎なりけり
あまり吹かれていさゝかヤケになった彼が名歌である。風が吹く、土が飛ぶ、霜が冴える、水が荒い。四拍子揃って、妻の手足は直ぐ皸、霜やけ、あかぎれに飾られる。オリーヴ油やリスリンを塗った位では、血が止まらぬ。主人の足裏も鯊の顋の様に幾重も襞をなして口をあいた。あまり手荒い攻撃に、虎伏す野辺までもと跟いて来た糟糠の御台所も、ぽろ/\涙をこぼす日があった。以前の比較的ノンキな東京生活を知って居る娘などが逗留に来て見ては、零落と思ったのであろ、台所の隅で茶碗を洗いかけてしく/\泣いたものだ。田舎も土の田舎なりけり
二
主人は新鋭の気に満ちて、零落どころか大得意であった。何よりも先ず宮益の興農園から柄の長い作切鍬、手斧鍬、ホー、ハァト形のワーレンホー、レーキ、シャヴル、草苅鎌、柴苅鎌など百姓の武器と、園芸書類の六韜三略と、種子と苗とを仕入れた。一反五畝の内、宅地、杉林、櫟林を除いて正味一反余の耕地には、大麦小麦が一ぱいで、空地と云っては畑の中程に瘠せこけた桑樹と枯れ茅枯れ草の生えたわずか一畝に足らぬ位のものであった。彼は仕事の手はじめに早速其草を除き、重い作切鍬よりも軽いハイカラなワーレンホーで無造作に畝を作って、原肥無し季節御構いなしの人蔘二十日大根など蒔くのを、近所の若い者は東京流の百姓は彼様するのかと眼を瞠って眺めて居た。作ってある麦は、墓の向うの所謂賭博の宿の麦であった。彼は其一部を買って、邪魔になる部分はドシ/\青麦をぬいてしまい、果物好きだけに何よりも先ず水蜜桃を植えた。通りかゝりの百姓衆に、棕櫚縄を蠅頭に結ぶ事を教わって、畑中に透籬を結い、風よけの生籬にす可く之に傍うて杉苗を植えた。無論必要もあったが、一は面白味から彼はあらゆる雑役をした。あらゆる不便と労力とを歓迎した。家から十丁程はなれた塚戸の米屋が新村入を聞きつけて、半紙一帖持って御用聞きに来た時、彼はやっと逃げ出した東京が早や先き廻りして居たかとばかりウンザリして甚不興気な顔をした。
手脚を少し動かすと一廉勉強した様で、汚ないものでも扱うと一廉謙遜になった様で、無造作に応対をすると一廉人を愛するかの様で、酒こそ飲まね新生活の一盃機嫌で彼はさま/″\の可笑味を真顔でやってのけた。東京に居た頃から、園芸好きで、糞尿を扱う事は珍らしくもなかったが、村入しては好んで肥桶を担いだ。最初はよくカラカフス無しの洋服を着て、小豆革の帯をしめた。斯革の帯は、先年神田の十文字商会で六連発の短銃を買った時手に入れた弾帯で、短銃其ものは明治三十八年の十二月日露戦役果て、満洲軍総司令部凱旋の祝砲を聞きつゝ、今後は断じて護身の武器を帯びずと心に誓って、庭石にあてゝ鉄槌でさん/″\に打破してしまったが、帯だけは罪が無いとあって今に残って居るのであった。洋服にも履歴がある。そも此洋服は、明治三十六年日蔭町で七円で買った白っぽい綿セルの背広で、北海道にも此れで行き、富士で死にかけた時も此れで上り、パレスチナから露西亜へも此れで往って、トルストイの家でも持参の袷と此洋服を更代に着たものだ。西伯利亜鉄道の汽車の中で、此一張羅の洋服を脱いだり着たりするたびに、流石無頓着な同室の露西亜の大尉も技師も、眼を円く鼻の下を長くして見て居た歴史つきの代物である。此洋服を着て甲州街道で新に買った肥桶を青竹で担いで帰って来ると、八幡様に寄合をして居た村の衆がドッと笑った。引越後間もなく雪の日に老年の叔母が東京から尋ねて来た。其帰りにあまり路が悪いので、矢張此洋服で甲州街道まで車の後押しをして行くと、小供が見つけてわい/\囃し立てた。よく笑わるゝ洋服である。此洋服で、鍔広の麦藁帽をかぶって、塚戸に酢を買いに往ったら、小学校中の子供が門口に押し合うて不思議な現象を眺めて居た。彼の好物の中に、雪花菜汁がある。此洋服着て、味噌漉持って、村の豆腐屋に五厘のおからを買いに往った時は、流石剛の者も髯と眼鏡と洋服に対していさゝかきまりが悪かった。引越し当座は、村の者も東京人珍らしいので、妻なぞ出かけると、女子供が、
「おっかあ、粕谷の仙ちゃんのお妾の居た家に越して来た東京のおかみさんが通るから、出て来て見なァよゥ」
と、すばらしい長文句で喚き立てゝ大騒ぎしたものだ。
東京客が沢山来た。新聞雑誌の記者がよく田園生活の種取りに来た。遠足半分の学生も来た。演説依頼の紳士も来た。労働最中に洋服でも着た立派な東京紳士が来ると、彼は頗得意であった。村人の居合わす処で其紳士が丁寧に挨拶でもすると、彼はます/\得意であった。彼は好んで斯様な都の客にブッキラ棒の剣突を喰わした。芝居気も衒気も彼には沢山にあった。華美の中に華美を得為ぬ彼は渋い中に華美をやった。彼は自己の為に田園生活をやって居るのか、抑もまた人の為に田園生活の芝居をやって居るのか、分からぬ日があった。小さな草屋のぬれ縁に立って、田圃を見渡す時、彼は本郷座の舞台から桟敷や土間を見渡す様な気がして、ふッと噴き出す事さえもあった。彼は一時片時も吾を忘れ得なかった。趣味から道楽から百姓をする彼は、自己の天職が見ることと感ずる事と而して其れを報告するにあることを須臾も忘れ得なかった。彼の家から西へ四里、府中町へ買った地所と家作の登記に往った帰途、同伴の石山氏が彼を誘うて調布町のもと耶蘇教信者の家に寄った。爺さんが出て来て種々雑談の末、石山氏が彼を紹介して今度村の者になったと云うたら、爺さん熟々彼の顔を見て、田舎住居も好いが、さァ如何して暮したもんかな、役場の書記と云ったって滅多に欠員があるじゃなし、要するに村の信者の厄介者だと云う様な事を云った。そこで彼はぐっと癪に障り、斯う見えても憚りながら文字の社会では些は名を知られた男だ、其様な喰詰め者と同じには見て貰うまい、と腹の中では大に啖呵を切ったが、虫を殺して彼は俯いて居た。家が日あたりが好いので、先の大工の妾時代から遊び場所にして居た習慣から、休日には若い者や女子供が珍らしがってよく遊びに来た。妻が女児の一人に其家をきいたら、小さな彼女は胸を突出し傲然として「大尽さんの家だよゥ」と答えた。要するに彼等は辛うじて大工の妾のふる巣にもぐり込んだ東京の喰いつめ者と多くの人に思われて居た。実際彼等は如何様に威張っても、東京の喰詰者であった。但字を書く事は重宝がられて、彼も妻もよく手紙の代筆をして、沢庵の二三本、小松菜の一二把礼にもらっては、真実感謝して受けたものだ。彼はしば/\英語の教師たる可く要求された。妻は裁縫の師匠をやれと勧められた。自身上州の糸屋から此村の農家に嫁いで来た媼さんは、己が経験から一方ならず新参のデモ百姓に同情し、種子をくれたり、野菜をくれたり、桑があるから養蚕をしろの、何の角のと親切に世話をやいた。
三
東京へはよく出た。最初一年が間は、甲州街道に人力車があることすら知らなかった。調布新宿間の馬車に乗るすら稀であった。彼等が千歳村に越して間もなく、玉川電鉄は渋谷から玉川まで開通したが、彼等は其れすら利用することが稀であった。田舎者は田舎者らしく徒歩主義を執らねばならぬと考えた。彼も妻も低い下駄、草鞋、ある時は高足駄をはいて三里の路を往復した。しば/\暁かけて握飯食い/\出かけ、ブラ提灯を便りに夜晩く帰ったりした。丸の内三菱が原で、大きな煉瓦の建物を前に、草原に足投げ出して、悠々と握飯食った時、彼は実際好い気もちであった。彼は好んで田舎を東京にひけらかした。何時も着のみ着のまゝで東京に出た。一貫目余の筍を二本担って往ったり、よく野茨の花や、白いエゴの花、野菊や花薄を道々折っては、親類へのみやげにした。親類の女子供も、稀に遊びに来ては甘藷を洗ったり、外竈を焚いて見たり、実地の飯事を面白がったが、然し東京の玄関から下駄ばきで尻からげ、やっとこさに荷物脊負うて立出る田舎の叔父の姿を見送っては、都の子女として至って平民的な彼等も流石に羞かしそうな笑止な顔をした。
彼は田舎を都にひけらかすと共に、東京を田舎にひけらかす前に先ず田舎を田舎にひけらかした。彼は一切の角を隠して、周囲に同化す可く努めた。彼はあらゆる村の集会に出た。諸君が廉酒を飲む時、彼は肴の沢庵をつまんだ。葬式に出ては、「諸行無常」の旗持をした。月番になっては、慰兵会費を一銭ずつ集めて廻って、自身役場に持参した。村の耶蘇教会にも日曜毎に参詣して、彼が村入して程なく招かれて来た耳の遠い牧師の説教を聴いた。荷車を借りて甲州街道に竹買いに行き、椎蕈ムロを拵えると云っては屋根屋の手伝をしたりした。都の客に剣突喫わすことはある共、田舎の客に相手にならぬことはなかった。誰にでもヒョコ/\頭を下げ、いざとなれば尻軽に走り廻った。牛にひかれた妻も、外竈の前に炭俵を敷いて座りながら、かき集めた落葉で麦をたき/\読書をしたりして「大分話せる」と良人にほめられた。
玉川に遠いのが毎も繰り返えされる失望であったが、井水が清んだのでいさゝか慰めた。農家は毎夜風呂を立てる。彼等も成る可く立てた。最初寒い内は土間に立てた。水をかい込むのが面倒で、一週間も沸かしては入り沸かしては入りした。五日目位からは銭湯の仕舞湯以上に臭くなり、風呂の底がぬる/\になった。それでも入らぬよりましと笑って、我慢して入った。夏になってから外で立てた。井も近くなったので、水は日毎に新にした。青天井の下の風呂は全く爽々して好い。「行水の捨て処なし虫の声」虫の音に囲まれて、月を見ながら悠々と風呂に浸る時、彼等は田園生活を祝した。時々雨が降り出すと、傘をさして入ったり、海水帽をかぶって入ったりした。夏休に逗留に来て居る娘なども、キャッ/\笑い興じて傘風呂に入った。
四
彼等が東京から越して来た時、麦はまだ六七寸、雲雀の歌も渋りがちで、赤裸な雑木林の梢から真白な富士を見て居た武蔵野は、裸から若葉、若葉から青葉、青葉から五彩美しい秋の錦となり、移り変る自然の面影は、其日其月の趣を、初めて落着いて田舎に住む彼等の眼の前に巻物の如くのべて見せた。彼等は周囲の自然と人とに次第に親しみつゝ、一方には近づく冬を気構えて、取りあえず能うだけの防寒設備をはじめた。東と北に一間の下屋をかけて、物置、女中部屋、薪小屋、食堂用の板敷とし、外に小さな浴室を建て、井筒も栗の木の四角な井桁に更えることにした。畑も一反四畝程買いたした。観賞樹木も家不相応に植え込んだ。夏から秋の暮にかけて、間歇的だが、小婢も来た。十月の末、八十六の父と七十九の母とが不肖児の田舎住居を見に来た時、其前日夫妻で唖の少年を相手に立てた皮つきのまゝの栗の木の門柱は、心ばかりの歓迎門として父母を迎えた。而してタヽキは出来て居なかったが、丁度彼の誕生日の十月二十五日に浴室の使用初をして、「日々新」と父が其板壁に書いてくれた。
斯くて千歳村の一年は、馬車馬の走る様に、さっさと過ぎた。今更の様だが、愉快は努力に、生命は希望にある。幸福は心の貧しきにある。感謝は物の乏しきにある。例令此創業の一年が、稚気乃至多少の衒気を帯びた浅瀬の波の深い意味もない空躁ぎの一年であったとするも、彼はなお彼を此生活に導いた大能の手を感謝せずには居られぬ。
彼は生年四十にして初めて大地に脚を立てゝ人間の生活をなし始めたのである。
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草葉のささやき
二百円
樫の実が一つぽとりと落ちた。其幽な響が消えぬうちに、突と入って縁先に立った者がある。小鼻に疵痕の白く光った三十未満の男。駒下駄に縞物ずくめの小商人と云う服装。眉から眼にかけて、夕立の空の様な真闇い顔をして居る。
「私は是非一つ聞いていたゞきたい事があるンで」
と座に着くなり息をはずませて云った。
「私は妻に不幸な者でして……斯申上げると最早御分かりになりましょうが」
最初は途切れ/\に、あとは次第に調子づいて、盈ちた心を傾くる様に彼は熱心に話した。
彼は埼玉の者、養子であった。繭商法に失敗して、養家の身代を殆んど耗ってしまい、其恢復の為朝鮮から安東県に渡って、材木をやった。こゝで妻子を呼び迎えて、暫暮らして居たが、思わしい事もないので、大連に移った。日露戦争の翌年の秋である。大連に来て好い仕事もなく、満人臭い裏町にころがって居る内に、子供を亡くしてしまった。
「可愛いやつでした。五歳でした、女児でしたがね、其れはよく私になずいて居ました。国に居た頃でも、私が外から帰って来る、母や妻は無愛想でしても、女児が阿爺、阿爺と歓迎して、帽子をしまったり、其れはよくするのです。私も全く女児を亡くしてがっかりしてしまいました。病気は急性肺炎でしたがね、医者に駈けつけ頼むと、来ると云いながら到頭来ません。其内息を引きとってしまったンです。医者は耶蘇教信者だそうですが、私が貧乏者なんだから、それで其様な事をしたものでしょう。尤も医者もあとで吾子を亡くして、自分が曾て斯々の事をした、それで斯様な罰を受けたと懺悔したそうですがね」
彼は暫く眼をつぶって居た。
「それから?」
「それから何時まで遊んでも居られませんから、夫婦である会社――左様、大連で一と云って二と下らぬ大きな会社と云えば大概御存じでしょう、其会社のまあ大将ですね、其大将の家に奉公に住み込みました。何しろ大連で一と云って二と下らぬ会社なものですから、生活なンかそりゃ贅沢なもンです。召使も私共夫婦の外に五六人も居ました。奥さんは好い方で、私共によく眼をかけてくれました。其内奥さんは何か用事で一寸内地へ帰られました。奥さんが内地へ帰られてから、二週間程経つと、如何も妻の容子が変って来ました。――妻ですか、何、美人なもンですか、些も好くはないのです」と彼は吐き出す様に云った。
「妻の容子がドウも変になりました。私も気をつけて見て居ると、腑に落ちぬ事がいくらもあるのです。主人が馬車で帰って来ます。二階で呼鈴が鳴ると、妻が白いエプロンをかけて、麦酒を盆にのせて持て行くのです。私は階段下に居ます。妻が傍眼に一寸私を見て、ずうと二階に上って行く。一時間も二時間も下りて来ぬことがあります。私は耳をすまして二階の物音を聞こうとしたり、窃と主人の書斎の扉の外に抜足してじいッと聴いたり、鍵の穴からも覗いて見ました。が、厚い厚い扉です。中は寂然して何を為て居るか分かりません。私は実に――」
彼は泣き声になった。一つに寄った真黒い彼の眉はビリ/\動いた。唇は顫えた。
「妻の眼色を読もうとしても、主人の貌色に気をつけても、唯疑念ばかりで証拠を押えることが出来ません。斯様な処に奉公するじゃないと幾度思ったか知れません。また其様妻に云ったことも一度や二度じゃありません。けれども妻は其度に腹を立てます。斯様にお世話になりながら奥様のお留守にお暇をいたゞくなんかわたしには出来ない、其様に出たければあなた一人で勝手に何処へでもお出なさい、何処ぞへ仕事を探がしに御出なさい、と突慳貪に云うンです。最早私も堪忍出来なくなりました」
「そこである日妻を無理に大連の郊外に連れ出しました。誰も居ない川原です。種々と妻を詰問しましたが、如何しても実を吐きません。其れから懐中して居た短刀をぬいて、白状するなら宥す、嘘を吐くなら命を貰うからそう思え、とかゝりますと、妻は血相を変えて、全く主人に無理されて一度済まぬ事をした、と云います。嘘を吐け、一度二度じゃあるまい、と畳みかけて責めつけると、到頭悉皆白状してしまいました」
彼はホウッと長い息をついた。
「それから私は主人に詰問の手紙を書きました。すると翌日主人が私を書斎に呼びまして『ドウも実に済まぬ事をした。主人の俺が斯う手をついてあやまるから、何卒内済にしてくれ。其かわり君の将来は必俺が面倒を見る。屹度成功さす。これで一先ず内地に帰ってくれ』と云って、二百円、左様、手の切れる様な十円札でした、二百円呉れました」
「君は其二百円を貰ったンだね、何故其短刀で其男を刺殺さなかった?」
彼は俯いた。
「それから?」
「それから一旦内地に帰って、また大連に行きました。最早主人は私達に取合いません。面会もしてくれません」
「而して今は?」
「今は東京の場末に、小さな小間物屋を出して居ます」
「細君は?」
「妻は一緒に居るのです」
話は暫く絶えた。
「一緒に居ますが、面白くなくて/\、胸がむしゃくしゃして仕様がないものですから、それで今日は――」
*
忽然と風の吹く様に来た男は、それっきり影も見せぬ。
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百草園
田の畔に赭い百合めいた萱草の花が咲く頃の事。ある日太田君がぶらりと東京から遊びに来た。暫く話して、百草園にでも往って見ようか、と主人は云い出した。百草園は府中から遠くないと聞いて居る。府中まではざッと四里、これは熟路である。時計を見れば十一時、ちと晩いかも知れぬが、然し夏の日永の折だ、行こう行こうと云って、早昼飯を食って出かけた。
大麦小麦はとくに刈られて、畑も田も森も林も何処を見ても緑ならぬ処もない。其緑の中を一条白く西へ西へ山へ山へと這って行く甲州街道を、二人は話しながらさッさと歩いた。太田君は紺絣の単衣、足駄ばきで古い洋傘を手挾んで居る。主人の彼は例のカラカフス無しの古洋服の一張羅に小豆革の帯して手拭を腰にぶらさげ、麦藁の海水帽をかぶり、素足に萎えくたれた茶の運動靴をはいて居る。二人はさッさと歩いた。太田君は以前社会主義者として、主義宣伝の為、平民社の出版物を積んだ小車をひいて日本全国を漫遊しただけあって、中々健脚である。主人は歩くことは好きだが、足は云う甲斐もなく弱い。一日に十里も歩けば、二日目は骨である。二人は大胯に歩いた。蒸暑い日で、二人はしば/\額の汗を拭うた。
府中に来た。千年の銀杏、欅、杉など欝々蒼々と茂った大国魂神社の横手から南に入って、青田の中の石ころ路を半里あまり行って、玉川の磧に出た。此辺を分倍河原と云って、新田義貞大に鎌倉北条勢を破った古戦場である。玉川の渡を渡って、また十丁ばかり、長堤を築いた様に川と共に南東走する低い連山の中の唯有る小山を攀じて百草園に来た。もと松蓮寺の寺跡で、今は横浜の某氏が別墅になって居る。境内に草葺の茶屋があって、料理宿泊も出来る。茶屋からまた一段堆丘を上って、大樹に日をよけた恰好の観望台がある。二人は其処の素床に薄縁を敷いてもらって、汗を拭き、茶をのみ、菓子を食いながら眼を騁せた。
東京近在で展望無双と云わるゝも譌ではなかった。生憎野末の空少し薄曇りして、筑波も野州上州の山も近い秩父の山も東京の影も今日は見えぬが、つい足下を北西から南東へ青白く流るゝ玉川の流域から「夕立の空より広き」と云う武蔵野の平原をかけて自然を表わす濃淡の緑色と、磧と人の手のあとの道路や家屋を示す些の灰色とをもて描かれた大きな鳥瞰画は、手に取る様に二人が眼下に展げられた。「好い喃」二人はかわる/″\景を讃めた。
やゝ眺めて居る内に、緑の武蔵野がすうと翳った。時計をもたぬ二人は最早暮るゝのかと思うた。蒸暑かった日は何時しか忘られ、水気を含んだ風が冷々と顔を撫でて来た。唯見ると、玉川の上流、青梅あたりの空に洋墨色の雲がむら/\と立って居る。
「夕立が来るかも知れん」
「然、降るかも知れんですな」
二人は茶菓の代を置いて、山を下りた。太田君はこれから日野の停車場に出て、汽車で帰京すると云う。日野までは一里強である。山の下で二人は手を分った。
「それじゃ」
「じゃ又」
人家の珊瑚木の生籬を廻って太田君の後姿は消えた。残る一人は淋しい心になって、西北の空を横眼に見上げつゝ渡の方へ歩いて行った。川上の空に湧いて見えた黒雲は、玉川の水を趁うて南東に流れて来た。彼の一足毎に空はヨリ黯くなった。彼は足を早めた。然し彼の足より雲の脚は尚早かった。一の宮の渡を渡って分倍河原に来た頃は、空は真黒になって、北の方で殷々々雷が攻太鼓をうち出した。農家はせっせとほし麦を取り入れて居る。府中の方から来る肥料車も、あと押しをつけて、曳々声して家の方へ急いで居る。
「太田君は何の辺まで往ったろう?」
彼は一瞬時斯く思うた。而して今にも泣き出しそうな四囲の中を、黙って急いだ。
府中へ来ると、煤色に暮れた。時間よりも寧空の黯い為に町は最早火を点して居る。早や一粒二粒夕立の先駆が落ちて来た。此処で夕立をやり過ごすかな、彼は一寸斯く思うたが、こゝに何時霽れるとも知らぬ雨宿りをすべく彼の心はとく四里を隔つる家に急いで居た。彼は一の店に寄って糸経を買うて被った。腰に下げた手拭をとって、海水帽の上から確と頬被をした。而して最早大分硬ばって来た脛を踏張って、急速に歩み出した。
府中の町を出はなれたかと思うと、追かけて来た黒雲が彼の頭上で破裂した。突然に天の水槽の底がぬけたかとばかり、雨とは云わず瀑布落しに撞々と落ちて来た。紫色の光がぱッと射す。直ぐ頭上で、火薬庫が爆発した様に劇しい雷が鳴った。彼はぐっと息が詰った。本能的に彼は奔り出したが、所詮此雷雨の重囲を脱けることは出来ぬと観念して、歩調をゆるめた。此あたりは、宿と村との中間で、雷雨を避くべき一軒の人家もない。人通りも絶え果てた。彼は唯一人であった。雨は少しおだれるかと思うと、また思い出した様にざあドウと漲り落ちた。彼の頬被りした海水帽から四方に小さな瀑が落ちた。糸経を被った甲斐もなく総身濡れ浸りポケットにも靴にも一ぱい水が溜った。彼は水中を泳ぐ様に歩いた。紫色や桃色の電がぱっ/\と一しきり闇に降る細引の様な太い雨を見せて光った。ごろ/\/\雷がやゝ遠のいたかと思うと、意地悪く舞い戻って、夥しい爆竹を一度に点火した様に、ぱち/\/\彼の頭上に砕けた。長大な革の鞭を彼を目がけて打下ろす音かとも受取られた。其度に彼は思わず立竦んだ。如何しても落ちずには済まぬ雷の鳴り様である。何時落ちるかも知れぬと最初思うた彼は、屹度落ちると覚期せねばならなかった。屹度彼の頭上に落ちると覚期せねばならなかった。此街道の此部分で、今動いて居る生類は彼一人である。雷が生き者に落ちるならば即ち彼の上に落ちなければならぬ。雷にうたれて死ぬ運命の人間が、地の此部分にあるなら、其は取りも直さず彼でなくてはならぬ。彼は是非なく死を覚期した。彼は生命が惜しくなった。今此処から三里隔てゝ居る家の妻の顔が歴々と彼の眼に見えた。彼は電光の如く自己の生涯を省みた。其れは美しくない半生であった。妻に対する負債の数々も、緋の文字をもて書いた様に顕れた。彼は此まゝ雷にうたれて死んだあとに残る者の運命を考えた。「一人はとられ一人は残さるべし」と云う聖書の恐ろしい宣告が彼の頭に閃いた。彼は反抗した。然し其反抗の無益なるを知った。雷はます/\劇しく鳴った。最早今度は落ちた、と彼は毎々観念した。而して彼の心は却て落ついた。彼の心は一種自己に対し、妻に対し、一切の生類に対する憐愍に満された。彼の眼鏡は雨の故ならずして曇った。斯くして夕暮の街道二里を、彼は雷と共に歩いた。
調布の町に入る頃は、雷は彼の頭上を過ぎて、東京の方に鳴った。雨も小降りになり、やがて止んだ。暮れたと思うた日は、生白い夕明になった。調布の町では、道の真中に五六人立って何かガヤ/\云いながら地を見て居る。雷が落ちたあとであろう、煙の様なものがまだ地から立って居る。戸口に立ったかみさんが、向うのかみさんを呼びかけ、
「洗濯物取りに出りゃあの雷だね、わたしゃ薪小屋に逃げ込んだきり、出よう/\と思ったけンど、如何しても出られなかったゞよ」
と云って居る。
雷雨が過ぎて、最早大丈夫と思うと、彼は急に劇しい疲労を覚えた。濡れた洋服の冷たさと重たさが身にこたえる。足が痛む。腹はすく。彼は重たい/\足を曳きずって、一足ずつ歩いた。滝坂近くなる頃は、永い/\夏の日もとっぶり暮れて了うた。雨は止んだが、東北の空ではまだ時々ぱッ/\と稲妻が火花を散らして居る。
家へ六七丁の辺まで辿り着くと、白いものが立って居る。それは妻であった。家をあけ、犬を連れて、迎に出て居るのであった。あまり晩いので屹度先刻の雷におうたれなすったと思いました、と云う。
*
翌々日の新聞は、彼が其日行った玉川の少し下流で、雷が小舟に落ち、舳に居た男はうたれて即死、而して艫に居た男は無事だった、と云う事を報じた。
「一人はとられ、一人は残さるべし」の句がまた彼の頭に浮んだ。
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月見草
村の人になった年、玉川の磧からぬいて来た一本の月見草が、今はぬいて捨てる程に殖えた。此頃は十数株、少くも七八十輪宵毎に咲いて、黄昏の庭に月が落ちたかと疑われる。
月見草は人好きのする花では無い。殊に日間は昨夜の花が赭く凋萎たれて、如何にも思切りわるくだらりと幹に付いた態は、見られたものではない。然し墨染の夕に咲いて、尼の様に冷たく澄んだ色の黄、其香も幽に冷たくて、夏の夕にふさわしい。花弁の一つずつほぐれてぱっと開く音も聴くに面白い。独物思うそゞろあるきの黄昏に、唯一つ黙って咲いて居る此花と、はからず眼を見合わす時、誰か心跳らずに居られようぞ。月見草も亦心浅からぬ花である。
八九歳の弱い男の子が、ある城下の郊外の家から、川添いの砂道を小一里もある小学校に通う。途中、一方が古来の死刑場、一方が墓地の其中間を通らねばならぬ処があった。死刑場には、不用になった黒く塗った絞台や、今も乞食が住む非人小屋があって、夕方は覚束ない火が小屋にともれ、一方の古墳新墳累々と立並ぶ墓場の砂地には、初夏の頃から沢山月見草が咲いた。日間通る時、彼は毎に赭くうな垂れた昨宵の花の死骸を見た。学校の帰りが晩くなると、彼は薄暗い墓場の石塔や土饅頭の蔭から黄色い眼をあいて彼を覗く花を見た。斯くて月見草は、彼にとって早く死の花であった。
其墓場の一端には、彼が甥の墓もあった。甥と云っても一つ違い、五つ六つの叔父甥は常に共に遊んだ。ある時叔父は筆の軸を甥に与えて、犬の如く啣えて振れと命じた。従順な子は二度三度云わるゝまゝに振った。叔父はまた振れと迫った。甥はもういやだと頭を掉った。憎さげに甥を睨んだ叔父は、其筆の軸で甥の頬をぐっと突いた。甥は声を立てゝ泣いた。其甥は腹膜炎にかゝって、明くる年の正月元日病院で死んだ。屠蘇を祝うて居る席に死のたよりが届いた。叔父の彼は異な気もちになった。彼ははじめてかすかな Remorse を感じた。
墓地は一方大川に面し、一方は其大川の分流に接して居た。甥は其分流近く葬られた。甥が死んで二三年、小学校に通う様になった叔父は、ある夏の日ざかりに、二三の友達と其小川に泳いだ。自分の甥の墓があると誇り貌に告げて、彼は友達を引張って、甥の墓に詣った。而して其小さな墓石の前に、真裸の友達とかわる/″\跪いて、凋れた月見草の花を折って、墓前の砂に插した。
彼は今月見草の花に幼き昔を夢の様に見て居る。
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腫物
一
人声が賑やかなので、往って見ると、久さんの家は何時の間にか解き崩されて、煤けた梁や虫喰った柱、黒光りする大黒柱、屋根裏の煤竹、それ/″\類を分って積まれてある。近所近在の人々が大勢寄ってたかって居る。件の古家を買った人が、崩す其まゝ古材木を競売するので、其れを買いがてら見がてら寄り集うて居るのである。一方では、まだ崩し残りの壁など崩して居る。時々壁土が撞と落ちて、ぱっと汚ない煙をあげる。汚ないながらも可なり大きかった家が取り崩され、庭木や境の樫木は売られて切られたり掘られたりして、其処らじゅう明るくガランとして居る。
家族はと見れば、三坪程の木小屋に古畳を敷いて、眼の少し下って肥え脂ぎったおかみは、例の如くだらしなく胸を開けはだけ、おはぐろの剥げた歯を桃色の齦まで見せて、買主に出すとてせっせと茶を沸かして居る。頬冠りした主人の久さんは、例の厚い下唇を突出したまゝ、吾不関焉と云う顔をして、コト/\藁を打って居る。婆さんや唖の巳代吉は本家へ帰ったとか。末の子の久三は学校へでも往ったのであろ、姿は見えぬ。
一切の人と物との上に泣く様な糠雨が落ちて居る。
あゝ此家も到頭潰れるのだ。
二
今は二十何年の昔、村の口きゝ石山某に、女一人子一人あった。弟は一人前なかったので婿養子をしたが、婿と舅の折合が悪い為に、老夫婦は息子を連れて新家に出た。今解き崩されて片々に売られつゝある家が即ち其れなのである。己が娘に己が貰った婿ながら、気が合わぬとなれば仇敵より憎く、老夫婦は家財道具万端好いものは皆引たくる様にして持って出た。よく実る柿の木まで掘って持って往った。
痴な息子も年頃になったので、調布在から出もどりの女を嫁にもろうてやった。名をお広と云って某の宮様にお乳をあげたこともある女であった。婿入の時、肝腎の婿さんが厚い下唇を突出したまま戸口もとにポカンと立って居るので、皆ドッと笑い出した。久太郎が彼の名であった。
久さんに一人の義弟があった。久さんが生れて間もなく、村の櫟林に棄児があった。農村には人手が宝である。石山の爺さんが右の棄児を引受けて育てた。棄児は大きくなって、名を稲次郎と云った。彼の養父、久さんの実父は、一人前に足りぬ可愛の息子が行く/\の力にもなれと、稲次郎の為に新家の近くに小さな家を建て彼にも妻をもたした。
ある年の正月、石山の爺さんは年始に行くと家を出たきり行方不明になった。探がし探がした結果、彼は吉祥寺、境間の鉄道線路の土をとった穴の中に真裸になって死んで居た。彼は酒が好きだった。年始の酒に酔って穴の中に倒れ凍死んだのを物取りが来て剥いだか、それとも追剥が殺して着物を剥いだか、死骸は何も告げなかった。彼は新家の直ぐ西隣にある墓地に葬られた。
主翁が死んで、石山の新家はの天下になった。誰も久さんの家とは云わず、宮前のお広さんの家と云った。宮前は八幡前を謂うたのである。外交も内政も彼女の手と口とでやってのけた。彼女は相応に久さんを可愛がって面倒を見てやったが、無論亭主とは思わなかった。一人前に足らぬ久さんを亭主にもったおかみは、義弟稲次郎の子を二人まで生んだ。其子は兄が唖で弟が盲であった。罪の結果は恐ろしいものです、と久さんの義兄はある人に語った。其内、稲次郎は此辺で所謂即座師、繭買をして失敗し、田舎の失敗者が皆する様に東京に流れて往って、王子で首を縊って死んだ。其妻は子供を連れて再縁し、其住んだ家は隣字の大工が妾の住家となった。私も棺桶をかつぎに往きましたでサ、王子まで、と久さん自身稲次郎の事を問うたある人に語った。
三
背後は雑木林、前は田圃、西隣は墓地、東隣は若い頃彼自身遊んだ好人の辰爺さんの家、それから少し離れて居るので、云わば一つ家の石山の新家は内証事には誂向きの場所だった。石山の爺さんが死に、稲次郎も死んだあと、久さんのおかみは更に女一人子一人生んだ。唖と盲は稲次郎の胤と分ったが、彼二人は久さんのであろ、とある人が云うたら、否、否、あれは何某の子でさ、とある村人は久さんで無い外の男の名を云って苦笑した。Husband-in-Law の子で無い子は、次第に殖えた。殖えるものは、父を異にした子ばかりであった。新家に出た時石山の老夫婦が持て出た田畑財産は、段々に減って往った。本家から持ち出したものは、少しずつ本家へ還って往った。新家は博徒破落戸の遊び所になった。博徒の親分は、人目を忍ぶに倔強な此家を己が不断の住家にした。眼のぎろりとした、胡麻塩髯の短い、二度も監獄の飯を食った、丈の高い六十爺の彼は、村内に己が家はありながら婿夫婦を其家に住まして、自身は久さんの家を隠れ家にした。昼は炉辺の主の座にすわり、夜は久さんのおかみと奥の間に枕を並べた。久さんのおかみは亭主の久さんに沢庵で早飯食わして、僕かなんぞの様に仕事に追い立て、あとでゆる/\鰹節かいて甘い汁をこさえて、九時頃に起き出て来る親分に吸わせた。親分はまだ其上に養生の為と云って牛乳なぞ飲んだ。
「俺ァ嬶とられちゃった」と久さんは人にこぼしながら、無抵抗主義を執って僕の如く追い使われた。戸籍面の彼の子供は皆彼を馬鹿にした。久さんのおかみは「良人が正直だから、良人が正直だから」と流石に馬鹿と云いかねて正直と云った。東隣のおとなしい媼さんも「久さん、お広さんは今何してるだンべ?」などからかった。久さんは怪訝な眼を上げて、「え?」と頓狂な声を出す。「何さ、今しがたお広さんがね、甜瓜を食ってたて事よ、ふ」と媼さんは笑った。久さんの家には、久さんの老母があった。然し婆さんはの乱行家の乱脈に対して手も口も出すことが出来なかった。若い時大勢の奉公人を使っておかみさんと立てられた彼女は、八十近くなって眼液たらして竈の下を焚いたり、海老の様な腰をしてホウ/\云いながら庭を掃いたり、杖にすがっての命のまに/\使いあるきをしたり、其れでも其無能の子を見すてゝ本家に帰ることを得為なかった。それに婆さんは亡くなった爺さん同様酒を好んだ。本家の婿は耶蘇教信者で、一切酒を入れなかった。久さんのおかみは時々姑に酒を飲ました。白髪頭の婆さんは、顔を真赤にして居ることがあった。彼女は時々吾儘を云う四十男の久さんを、七つ八つの坊ちゃんかなんどの様に叱った。尻切草履突かけて竹杖にすがって行く婆さんの背から、鍬をかついだ四十男の久さんが、婆さんの白髪を引張ったりイタズラをして甘えた。酒でも飲んだ時は、に負け通しの婆さんも昔の権式を出して、人が久さんを雇いに往ったりするのが気にくわぬとなると、「お広、断わるがいゝ」と啖呵を切った。
四
死んだ棄児の稲次郎が古巣に、大工の妾と入れ代りに東京から書を読む夫婦の者が越して来た。地面は久さんの義兄のであったが、久さんの家で小作をやって居た。東京から買主が越して来ぬ内に、久さんのおかみは大急ぎで裏の杉林の下枝を落したり、櫟林の落葉を掃いて持って行ったりした。買主が入り込んでのちも、其栗の木は自分が植えたの、其韮や野菜菊は内で作ったの、其炉縁は自分のだの、と物毎に争うた。稲次郎の記憶が残って居る此屋敷を人手に渡すを彼女は惜んだのであった。地面は買主のでも、作ってある麦はまだおかみの麦であった。地面の主は、麦の一部を買い取るべく余儀なくされた。おかみは義兄と其値を争うた。買主は戯談に「無代でもいゝさ」と云うた。おかみはムキになって「あなたも耶蘇教信者じゃありませんか。信者が其様な事を云うてようござンすか」とやり込めた。彼女に恐ろしいものは無かった。ある時義兄が其素行について少し云々したら、泥足でぬれ縁に腰かけて居た彼女は屹と向き直り、あべこべに義兄に喰ってかゝり、老人と正直者を任せて置きながら、病人があっても本家として見もかえらぬの、慾張ってばかり居るのと、いきり立った。彼女は人毎に本家の悪口を云って同情を獲ようとした。「本家の兄が、本家の兄が」が彼女の口癖であった。彼女は本家の兄を其魔力の下に致し得ぬを残念に思うた。相手かまわず問わず語りの勢込んでまくしかけ、「如何に兄が本が読めるからって、村会議員だからって、信者だって、理に二つは無いからね、わたしは云ってやりましたのサ」と口癖の様に云うた。人が話をすれば、「、、ふん、ふん」と鼻を鳴らして聞いた。彼女の義兄も村に人望ある方ではなかったが、彼女も村では正札附の莫連者で、堅い婦人達は相手にしなかった。村に武太さんと云う終始ニヤ/\笑って居る男がある。かみさんは藪睨で、気が少し変である。ピイ/\声で言う事が、余程馴れた者でなければ聞きとれぬ。彼女は誰に向うても亡くした幼女の事ばかり云う。「子供ははァ背に負っとる事ですよ。背からおろしといたばかしで、女もなくなっただァ」と云いかけて、斜視の眼から涙をこぼして、さめ/″\泣き入るが癖である。また誰に向っても、「萩原の武太郎は、五宿へ往って女郎買ばかしするやくざ者で」と其亭主の事を訴える。武太さんは村で折紙つきのヤクザ者である。武太さんに同情する者は、久さんのおかみばかりである。「彼様な女房持ってるンだもの」と、武太さんを人が悪く言う毎に武太さんを弁護する。然し武太さんの同情者が乏しい様に、久さんのおかみもあまり同情者を有たなかった。唯村の天理教信者のおかず媼さんばかりは、久さんのおかみを済度す可く彼女に近しくした。
稲次郎のふる巣に入り込んだ新村入は、隣だけに此莫連女の世話になることが多かった。彼女も、久さんも、唖の子も、最初はよく小使銭取りに農事の手伝に来た。此方からも麦扱きを借りたり、饂飩粉を挽いてもらったり、豌豆や里芋を売ってもらったりした。おかみも小金を借りに来たり張板を借りに来たりした。其子供もよく遊びに来た。蔭でおかみも機嫌次第でさま/″\悪口を云うたが、顔を合わすと如才なく親切な口をきいた。彼女の家に集う博徒の若者が、夏の夜帰りによく新村入の畑に踏み込んで水瓜を打割って食ったりした。新村入は用があって久さんの家に往く毎に胸を悪くして帰った。障子は破れたきり張ろうとはせず、畳は腸が出たまゝ、壁は崩れたまゝ、煤と埃とあらゆる不潔に盈された家の内は、言語道断の汚なさであった。おかみはよく此中で蚕に桑をくれたり、大肌ぬぎになって蕎麦粉を挽いたり、破れ障子の内でギッチョンと響をさせて木綿機を織ったり、大きな眼鏡をかけて縁先で襤褸を繕ったりして居た。
五
新村入が村に入ると直ぐ眼についた家が二つあった。一は久さんの家で、今一つは品川堀の側にある店であった。其店には賭博をうつと云う恐い眼をした大酒呑の五十余のおかみさんと、白粉を塗った若い女が居て、若い者がよく酒を飲んで居た。其後大酒呑のおかみさんは頓死して店は潰れ、目ざす家は久さんの家だけになった。己が住む家の歴史を知るにつけ、新村入は彼の前に問題として置かれた久さんの家を如何にす可きかと思い煩うた。色々の「我」が寄って形成して居る彼家は、云わば大きな腫物である。彼は眼の前に臭い膿のだら/\流れ出る大きな腫物を見た。然し彼は刀を下す力が無い。彼は久しく機会を待った。
ある夏の夕、彼は南向きの縁に座って居た。彼の眼の前には蝙蝠色の夕闇が広がって居た。其闇を見るともなく見て居ると、闇の中から湧いた様に黒い影がすうと寄って来た。ランプの光の射す処まで来ると、其れは久さんのおかみであった。彼は畳の上に退り、おかみは縁に腰かけた。
「旦那様、新聞に出て居りましてすか」
と息をはずませて彼女は云った。それは新宿で、床屋の亭主が、弟と密通した妻と弟とを剃刀で殺害した事を、彼女は何処からか聞いたのである。「余りだと思います」と彼女は剃刀の刃を己が肉にうけたかの様に切ない声で云った。
聞く彼の胸はドキリとした。今だ、とある声が囁いた。彼はおかみに向うて、巳代公は如何して唖になったか、と訊いた。おかみは、巳代が三歳までよく口をきいて居たら、ある日「おっかあ、お湯が飲みてえ」と云うたを最後の一言にして、医者にかけても薬を飲ましても甲斐が無く唖になって了うた、と言った。何の故か知って居るか、と畳みかけて訊くと、其頃飼った牛を不親切からつい殺してしまいました、其牛の祟りだと人が申すので、色々信心もして見ましたが、甲斐がありませんでした、と云う。巳代公ばかりじゃ無い、亥之公が盲になったのは如何したものだ、と彼は肉迫した。而して彼はさし俯くおかみに向うて、此家の最初の主の稲次郎と密通以来今日に到るまで彼女の不届の数々を烈しく責めた。彼女は終まで俯いて居た。
それから二三日経つと、彼は屋敷下を通る頬冠の丈高い姿を認めた。其れが博徒の親分であることを知った彼は、声をかけて無理に縁側に引張った。満地の日光を樫の影が黒く染めぬいて、あたりには人の影もなかった。彼は親分に向って、彼の体力、智慧、才覚、根気、度胸、其様なものを従来私慾の為にのみ使う不埒を責め最早六十にもなって余生幾何もない其身、改心して死花を咲かせろと勧めた。親分は其稼業の苦しい事を話し、ぎろりとした眼から涙の様なものを落して居た。
六
然しながら彼癌腫の様な家の運命は、往く所まで往かねばならなかった。
己が生んだ子は己が処置しなければならぬので、おかみは盲の亥之吉を東京に連れて往って按摩の弟子にした。家に居る頃から、盲目ながら他の子供と足場の悪い田舎道を下駄ばきでかけ廻った勝気の亥之吉は、按摩の弟子になってめき/\上達し、追々一人前の稼ぎをする様になった。おかみは行々彼をかゝり子にする心算であった。それから自身によく肖た太々しい容子をした小娘のお銀を、おかみは実家近くの機屋に年季奉公に入れた。
二人の兄の唖の巳代吉は最早若者の数に入った。彼は其父方の血を示して、口こそ利けね怜悧な器用な華美な職人風のイナセな若者であった。彼は吾家に入り浸る博徒の親分を睨んだ。両手を組んでぴたりと云わして、親分とおっかあが斯様だと眼色を変えて人に訴えた。親分とおかみは巳代吉を邪魔にし出した。ある時巳代公は親分の財布を盗んで銀時計を買った。母を窃む者の財布を盗むは何でもないと思ったのであろう。親分は是れ幸と巡査を頼んで巳代公を告訴し、巳代公を監獄に入れようとした。巳代公を入れるより彼二人を入れろ、と村の者は罵った。巳代吉は本家から願下げて、監獄に入れる親分とおかみの計画は徒労になった。然し親分は中々其居馴れた久さんの家の炉の座を動こうともしなかった。親分と唖の巳代吉の間はいよ/\睨合の姿となった。或日巳代吉は手頃の棒を押取って親分に打ってかゝった。親分も麺棒をもって渡り合った。然し血気の怒に任する巳代吉の勢鋭く、親分は右の手首を打折られ、加之棒に出て居た釘で右手の肉をかき裂かれ、大分の痛手を負うた。隣家の婆さんが駈けつけて巳代吉を宥めなかったら、親分は手疵に止まらなかったかも知れぬ。繃帯して右手を頸から釣って、左の手で不精鎌を持って麦畑の草など親分が掻いて居るのを見たのは二月も後の事だった。喧嘩の仲入に駈けつけた隣の婆さんは、側杖喰って右の手を痛めた。久さんのおかみは、詫び心に婆さん宅の竈の下など焚きながら、喧嘩の折節近くに居合わせながら看過した隣村の甲乙を思うさま罵って居た。
七
田畑は勿論宅地もとくに抵当に入り、一家中日傭に出たり、おかみ自身手織の木綿物を負って売りあるいたこともあったが、要するに石山新家の没落は眼の前に見えて来た。「お広さん、大層精が出ますね」久さんが挽く肥車の後押して行くおかみを目がけて人が声をかけると、「天狗様の様に働くのさ」とおかみが答えたりしたのは、昔の事になった。おかみは一切稼ぎを廃した。而して時々丸髷に結って小ざっぱりとした服装をして親分と東京に往った。家には肴屋が出入したり、乞食物貰いが来れば気前を見せて素手では帰さなかった。彼女は癌腫の様な石山新家を内から吹き飛ばすべき使命を帯びて居るかの様に不敵であった。
*
到頭腫物が潰れる時が来た。
おかみは独で肝煎って、家を近在の人に、立木を隣字の大工に売り、抵当に入れた宅地を取戻して隣の辰爺さんに売り、大酒呑のおかみのあとに品川堀の店を出して居る天理教信者の彼おかず媼さん処へ引揚げた後、一人残った腫れぼったい瞼をした末の息子を近村の人に頼み、唯一つ残った木小屋を売り飛ばし、而して最早師匠の手を離れて独立して居る按摩の亥之吉と間借りして住む可く東京へ往って了うた。
酒好きの老母と唖の巳代吉は、家が売れる頃は最早本家へ帰って居た。
嬶に置去られ、家になくなられ、地面に逃げられ、置いてきぼりを喰って一人木小屋に踏み留まった久さんも、是非なく其姉と義兄の世話になるべく、頬冠の頭をうな垂れて草履ぼと/\懐手して本家に帰った。
屋敷のあとは鋤きかえされて、今は陸稲が緑々と茂って居る。
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わかれの杉
彼の家から裏の方へ百歩往けば、鎮守八幡である。型の通りの草葺の小宮で、田圃を見下ろして東向きに立って居る。
月の朔には、太鼓が鳴って人を寄せ、神官が来て祝詞を上げ、氏子の神々達が拝殿に寄って、メチールアルコールの沢山入った神酒を聞召し、酔って紅くなり給う。春の雹祭、秋の風祭は毎年の例である。彼が村の人になって六年間に、此八幡で秋祭りに夜芝居が一度、昼神楽が一度あった。入営除隊の送迎は勿論、何角の寄合事があれば、天候季節の許す限りは此処の拝殿でしたものだ。乞食が寝泊りして火の用心が悪い処から、つい昨年になって拝殿に格子戸を立て、締りをつけた。内務省のお世話が届き過ぎて、神社合併が兎の、風致林が角のと、面倒な事だ。先頃も雑木を売払って、あとには杉か檜苗を植えることに決し、雑木を切ったあとを望の者に開墾させ、一時豌豆や里芋を作らして置いたら、神社の林地なら早々木を植えろ、畑にすれば税を取るぞ、税を出さずに畑を作ると法律があると、其筋から脅されたので、村は遽てゝ総出で其部分に檜苗を植えた。
粕谷八幡はさして古くもないので、大木と云う程の大木は無い。御神木と云うのは梢の枯れた杉の木で、此は社の背で高処だけに諸方から目標になる。烏がよく其枯れた木末にとまる。
宮から阪の石壇を下りて石鳥居を出た処に、また一本百年あまりの杉がある。此杉の下から横長い田圃がよく見晴される。田圃を北から南へ田川が二つ流れて居る。一筋の里道が、八幡横から此大杉の下を通って、直ぐ北へ折れ、小さな方の田川に沿うて、五六十歩往って小さな石橋を渡り、東に折れて百歩余往ってまた大きな方の田川に架した欄干無しの石橋を渡り、やがて二つに分岐して、直な方は人家の木立の間を村に隠れ、一は人家の檜林に傍うて北に折れ、林にそい、桑畑にそい、二丁ばかり往って、雑木山の端からまた東に折れ、北に折れて、六七丁往って終に甲州街道に出る。此雑木山の曲り角に、一本の檜があって、八幡杉の下からよく見える。
村居六年の間、彼は色々の場合に此杉の下に立って色々の人を送った。彼田圃を渡り、彼雑木山の一本檜から横に折れて影の消ゆるまで目送した人も少くはなかった。中には生別即死別となった人も一二に止まらない。生きては居ても、再び逢うや否疑問の人も少くない。此杉は彼にとりて見送の杉、さては別れの杉である。就中彼はある風雪の日こゝで生別の死別をした若者を忘るゝことが出来ぬ。
其は小説寄生木の原著者篠原良平の小笠原善平である。明治四十一年の三月十日は、奉天決勝の三週年。彼小笠原善平が恩人乃木将軍の部下として奉天戦に負傷したのは、三年前の前々日であった。三月十日は朝からちら/\雪が降って、寒い寂しい日であった。突然彼小笠原は来訪した。一年前、此家の主人は彼小笠原に剣を抛つ可く熱心勧告したが、一年後の今日、彼は陸軍部内の依怙情実に愛想をつかし疳癪を起して休職願を出し、北海道から出て来たので、今後は外国語学校にでも入って露語をやろうと云って居た。陸軍を去る為に恩人の不興を買い、恋人との間も絶望の姿となって居ると云うことであった。雪は終日降り、夜すがら降った。主は平和問題、信仰問題等につき、彼小笠原と反覆討論した。而して共に六畳に枕を並べて寝たのは、夜の十一時過ぎであった。
明くる日、午前十時頃彼は辞し去った。まだ綿の様な雪がぼったり/\降って居る。此辺では珍らしい雪で、一尺の上積った。彼小笠原は外套の頭巾をすっぽりかぶって、薩摩下駄をぽっくり/\雪に踏み込みながら家を出て往った。主は高足駄を穿き、番傘をさして、八幡下別れの杉まで送って往った。
「じゃァ、しっかりやり玉え」
「色々お世話でした」
傘を傾けて杉の下に立って見て居ると、また一しきり烈しく北から吹きつくる吹雪の中を、黒い外套姿が少し前俛みになって、一足ぬきに歩いて行く。第一の石橋を渡る。やゝあって第二の石橋を渡る。檜林について曲る。段々小さくなって遠見の姿は、谷一ぱいの吹雪に消えたり見えたりして居たが、一本檜の処まで来ると、見かえりもせず東へ折れて、到頭見えなくなってしもうた。
半歳の後、彼は郷里の南部で死んだ。
漢人の詩に、
歩出城東門、 遙望江南路、
前日風雪中、 故人従此去、
別れの杉の下に立って田圃を見渡す毎に、吹雪の中の黒い外套姿が今も彼の眼さきにちらつく。前日風雪中、 故人従此去、
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白
一
彼の前生は多分犬であった。人間の皮をかぶった今生にも、彼は犬程可愛いものを知らぬ。子供の頃は犬とばかり遊んで、着物は泥まみれになり、裾は喰いさかれ、其様なに着物を汚すならわたしは知らぬと母に叱られても、また走り出ては犬と狂うた。犬の為には好きな甘い物も分けてやり、小犬の鳴き声を聞けばねむたい眼を摩って夜半にも起きて見た。明治十年の西郷戦争に、彼の郷里の熊本は兵戈の中心となったので、家を挙げて田舎に避難したが、オブチと云う飼犬のみは如何しても家を守って去らないので、近所の百姓に頼んで時々食物を与えてもらうことにして本意ない別を告げた。三月程して熊本城の包囲が解け、薩軍は山深く退いたので、欣々と帰って見ると、オブチは彼の家に陣どった薩摩健男に喰われてしまって、頭だけ出入の百姓によって埋葬されて居た。彼の絶望と落胆は際限が無かった。久しぶりに家に還って、何の愉快もなく、飯も喰わずに唯哭いた。南洲の死も八千の子弟の運命も彼には何の交渉もなく、西南役は何よりも彼の大切なオブチをとり去ったものとして彼に記憶されるのであった。
村入して間もなく、ある夜先家主の大工がポインタァ種の小犬を一疋抱いて来た。二子の渡の近所から貰って来たと云う。鼻尖から右の眼にかけ茶褐色の斑がある外は真白で、四肢は将来の発育を思わせて伸び/\と、気前鷹揚に、坊ちゃんと云った様な小犬である。既に近所からもらった黒い小犬もあるので、二の足踏んだが、折角貰って来てくれたのを還えすも惜しいので、到頭貰うことにした。今まで畳の上に居たそうな。早速畳に放尿して、其晩は大きな塊の糞を板の間にした。
新来の白に見かえられて、間もなく黒は死に、白の独天下となった。畳から地へ下ろされ、麦飯味噌汁で大きくなり、美しい、而して弱い、而して情愛の深い犬になった。雄であったが、雌の様な雄であった。
主夫妻が東京に出ると屹度跟いて来る。甲州街道を新宿へ行く間には、大きな犬、強い犬、暴い犬、意地悪い犬が沢山居る。而してそれを嗾しかけて、弱いもの窘めを楽む子供もあれば、馬鹿な成人もある。弱い白は屹度咬まれる。其れがいやさに隠れて出る様にしても、何処からか嗅ぎ出して屹度跟いて来る。而して咬まれる。悲鳴をあげる。二三疋の聯合軍に囲まれてべそをかいて歯を剥き出す。己れより小さな犬にすら尾を低れて恐れ入る。果ては犬の影され見れば、己ところんで、最初から負けてかゝる。それでも強者の歯をのがれぬ場合がある。最早懲りたろうと思うて居ると、今度出る時は、又候跟いて来る。而して往復途中の出来事はよく/\頭に残ると見えて、帰ったあとで樫の木の下にぐったり寝ながら、夢中で走るかの様に四肢を動かしたり、夢中で牙をむき出しふアッと云ったりする。
弱くても雄は雄である。交尾期になると、二日も三日も影を見せぬことがあった。てっきり殺されたのであろうと思うて居ると、村内唯一の牝犬の許に通うて、他の強い大勢の競争者に噛まれ、床の下に三日潜り込んで居たのであった。武智十次郎ならねども、美しい白が血だらけになって、蹌踉と帰って来る姿を見ると、生殖の苦を負う動物の運命を憐まずには居られなかった。一日其牝犬がひょっくり遊びに来た。美しいポインタァ種の黒犬で、家の人が見廻りして来いと云えば、直ぐ立って家の周囲を巡視し、夜中警報でもある時は吾体を雨戸にぶちつけて家の人に知らす程怜悧の犬であった。其犬がぶらりと遊びに来た。而して主人に愛想をするかの様にずうと白の傍に寄った。あまりに近く寄られては白は眼を円くし、据頸で、甚固くなって居た。牝犬はやがて往きかけた。白は纏綿として後になり先きになり、果ては主人の足下に駆けて来て、一方の眼に牝犬を見、一方の眼に主人を見上げ、引きとめて呉れ、媒妁して下さいと云い貌にクンクン鳴いたが、主人はもとより如何ともすることが出来なかった。
其秋白の主人は、死んだ黒のかわりに彼牝犬の子の一疋をもらって来て矢張其れを黒と名づけた。白は甚不平であった。黒を向うに置いて、走りかゝって撞と体当りをくれて衝倒したりした。小さな黒は勝気な犬で、縁代の下なぞ白の自由に動けぬ処にもぐり込んで、其処から白に敵対して吠えた。然し両雄並び立たず、黒は足が悪くなり、久しからずして死んだ。而して再び白の独天下になった。可愛がられて、大食して、弱虫の白はます/\弱く、鈍の性質はいよ/\鈍になった。よく寝惚けて主人に吠えた。主人と知ると、恐れ入って、膝行頓首、亀の様に平太張りつゝすり寄って詫びた。わるい事をして追かけられて逃げ廻るが、果ては平身低頭して恐る/\すり寄って来る。頭を撫でると、其手を軽く啣えて、衷心を傾けると云った様にはアッと長い/\溜息をついた。
二
死んだ黒の兄が矢張黒と云った。遊びに来ると、白が烈しく妬んだ。主人等が黒に愛想をすると、白は思わせぶりに終日影を見せぬことがあった。
甲州街道に獅子毛天狗顔をした意地悪い犬が居た。坊ちゃんの白を一方ならず妬み憎んで、顔さえ合わすと直ぐ咬んだ。ある時、裏の方で烈しい犬の噛み合う声がするので、出て見ると、黒と白とが彼天狗犬を散々咬んで居た。元来平和な白は、卿が意地悪だからと云わんばかり恨めしげな情なげな泣き声をあげて、黒と共に天狗犬に向うて居る。聯合軍に噛まれて天狗犬は尾を捲き、獅子毛を逆立てゝ、甲州街道の方に敗走するのを、白の主人は心地よげに見送った。
其後白と黒との間に如何な黙契が出来たのか、白はあまり黒の来遊を拒まなくなった。白を貰って来てくれた大工が、牛乳車の空箱を白の寝床に買うて来てくれた。其白の寝床に黒が寝そべって、尻尾ばた/\箱の側をうって納まって居ることもあった。界隈に野犬が居て、あるいは一疋、ある時は二疋、稲妻強盗の如く横行し、夜中鶏を喰ったり、豚を殺したりする。ある夜、白が今死にそうな悲鳴をあげた。雨戸引きあけると、何ものか影の如く走せ去った。白は後援を得てやっと威厳を恢復し、二足三足あと追かけて叱る様に吠えた。野犬が肥え太った白を豚と思って喰いに来たのである。其様な事が二三度もつゞいた。其れで自衛の必要上白は黒と同盟を結んだものと見える。一夜庭先で大騒ぎが起った。飛び起きて見ると、聯合軍は野犬二疋の来襲に遇うて、形勢頗る危殆であった。
白と黒は大の仲好になって、始終共に遊んだ。ある日近所の与右衛門さんが、一盃機嫌で談判に来た。内の白と彼黒とがトチ狂うて、与右衛門の妹婿武太郎が畑の大豆を散々踏み荒したと云うのである。如何して呉れるかと云う。仕方が無いから損害を二円払うた。其後黒の姿はこっきり見えなくなった。通りかゝりの武太さんに問うたら、与右衛門さんの懸合で、黒の持主の源さん家では余儀なく作男に黒を殺させ、作男が殺して煮て食うたと答えた。うまかったそうです、と武太さんは紅い齦を出してニタ/\笑った。
ある日見知らぬかみさんが来て、此方の犬に食われましたと云って、汚ない風呂敷から血だらけの軍鶏の頭と足を二本出して見せた。内の犬は弱虫で、軍鶏なぞ捕る器量はないが、と云いつゝ、確に此方の犬と認めたのかときいたら、かみさんは白い犬だった、聞けば粕谷に悪イ犬が居るちゅう事だから、其れで来たと云うのだ。折よく白が来た。かみさんは、これですか、と少し案外の顔をした。然し新参者の弱身で、感情を傷わぬ為兎に角軍鶏の代壱円何十銭の冤罪費を払った。彼は斯様な出金を東京税と名づけた。彼等はしば/\東京税を払うた。
白の頭上には何時となく呪咀の雲がかゝった。黒が死んで、意志の弱い白はまた例の性悪の天狗犬と交る様になった。天狗犬に嗾されて、色々の悪戯も覚えた。多くの犬と共に、近在の豚小屋を襲うと云う評判も伝えられた。遅鈍な白は、豚小屋襲撃引揚げの際逃げおくれて、其着物の著しい為に認められたのかも知れなかった。其内村の収入役の家で、係蹄にかけて豚とりに来た犬を捕ったら、其れは黒い犬だったそうで、さし当り白の冤は霽れた様なものゝ、要するに白の上に凶き運命の臨んで居ることは、彼の主人の心に暗い翳を作った。
到頭白の運命の決する日が来た。隣家の主人が来て、数日来猫が居なくなった、不思議に思うて居ると、今しがた桑畑の中から腐りかけた死骸を発見した。貴家の白と天狗犬とで咬み殺したものであろ、死骸を見せてよく白を教誡していただき度い、と云う意を述べた。同時に白が度々隣家の鶏卵を盗み食うた罪状も明らかになった。
最早詮方は無い。此まゝにして置けば、隣家は宥してくれもしようが、必何処かで殺さるゝに違いない。折も好し、甲州の赤沢君が来たので、甲州に連れて往ってもらうことにした。白の主人は夏の朝早く起きて、赤沢君を送りかた/″\、白を荻窪の停車場まで牽いて往った。千歳村に越した年の春もろうて来て、この八月まで、約一年半白は主人夫妻と共に居たのであった。主婦は八幡下まで送りに来て、涙を流して白に別れた。田圃を通って、雑木山に入る岐れ道まで来た時、主人は白を抱き上げて八幡下に立って遙に目送して居る主婦に最後の告別をさせた。白は屠所の羊の歩みで、牽かれてようやく跟いて来た。停車場前の茶屋で、駄菓子を買うてやったが、白は食おうともしなかった。貨物車の犬箱の中に入れられて、飯がわりの駄菓子を入れてやったのを見むきもせず、ベソをかきながら白は甲州へ往ってしもうた。
三
最初の甲州だよりは、白が赤沢君に牽かれて無事に其家に着いた事を報じた。第二信は、ある日白が縄をぬけて、赤沢君の家から約四里甲府の停車場まで帰路を探がしたと云う事を報じた。然し甲府からは汽車である。甲府から東へは帰り様がなかった。
赤沢君が白を連れて撮った写真を送ってくれた。眼尻が少し下って、口をあんとあいたところは、贔屓目にも怜悧な犬ではなかった。然し赤沢君の村は、他に犬も居なかったので、皆に可愛がられて居ると云うことであった。
*
白が甲州に養われて丁度一年目の夏、旧主人夫妻は赤沢君を訪ねた。其家に着いて挨拶して居ると庭に白の影が見えた。喫驚する程大きくなり、豚の様にまる/\と太って居る。「白」と声をかくるより早く、土足で座敷に飛び上り、膝行匍匐して、忽ち例の放尿をやって、旧主人に恥をかゝした。其日は始終跟いてあるき、翌朝山の上の小舎にまだ寝て居ると、白は戸の開くや否飛び込んで来て、蚊帳越しにずうと頭をさし寄せた。帰りには、予め白を繋いであった。別に菓子なぞやっても、喰おうともしなかった。而して旧主人夫妻が帰った後、彼等が馬車に乗った桃林橋の辺まで、白は彼等の足跡を嗅いで廻って、大騒ぎしたと云うことであった。
翌年の春、夫妻は二たび赤沢君を訪うた。白は喜のあまり浮かれて隣家の鶏を追廻し、到頭一羽を絶息させ、而して旧主人にまた損害を払わせた。
其後白に関する甲州だよりは此様な事を報じた。笛吹川未曾有の出水で桃林橋が落ちた。防水護岸の為一村の男総出で堤防に群がって居ると、川向うの堤に白いものゝ影が見えた。其は隣郡に遊びに往って居た白であった。白だ、白だ、白も斯水では、と若者等は云い合わした様に如何するぞと見て居ると、白は向うの堤を川上へ凡二丁ばかり上ると、身を跳らしてざんぶとばかり濁流、箭の如き笛吹川に飛び込んだ。あれよ/\と罵り騒ぐ内に、愚なる白、弱い白は、斜に洪水の川を游ぎ越し、陸に飛び上って、ぶる/\ッと水ぶるいした。若者共は一斉に喝采の声をあげた。弱い彼にも猟犬即ち武士の血が流れて居たのである。
白に関する最近の消息は斯うであった。昨春当時の皇太子殿下今日の今上陛下が甲州御出の時、演習御覧の為赤沢君の村に御入の事があった。其時吠えたりして貴顕に失礼があってはならぬと云う其の筋の遠慮から、白は一日拘束された。主人が拘束されなかったのはまだしもであった。
四
白の旧主の隣家では、其家の猫の死の為に白が遠ざけられたことを気の毒に思い、其息子が甘藷売りに往った帰りに神田の青物問屋からテリアル種の鼠程な可愛い牝犬をもらって来てくれた。ピンと名をつけて、五年来飼うて居る。其子孫も大分界隈に蕃殖した。一昨年から押入婿のデカと云う大きなポインタァ種の犬も居る。昨秋からは追うても捨てゝも戻って来る、いまだ名無しの風来の牝犬も居る。然し愚な鈍な弱い白が、主人夫妻にはいつまでも忘られぬのである。
白は大正七年一月十四日の夜半病死し、赤沢君の山の上の小家の梅の木蔭に葬られました。甲州に往って十年です。村の人々が赤沢君に白のクヤミを言うたそうです。「白は人となり候」と赤沢君のたよりにありました。「白」は幸福な犬です。
大正十二年二月九日追記
大正十二年二月九日追記
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ほおずき
一
其頃は女中も居ず、門にしまりもなかった。一家総出の時は、大戸を鎖して、ぬれ縁の柱に郵便箱をぶら下げ、
○○行
夕方(若くは明午○)帰る
御用の御方は北隣△△氏へ御申残しあれ
小包も同断
月日 氏名
斯く張札して置いた。稀には飼犬を縁先きの樫の木に繋いで置くこともあったが、多くは郵便箱に留守をさした。帰って見ると、郵便箱には郵便物の外、色々な名刺や鉛筆書きが入れてあったり、主人が穿きふるした薩摩下駄を物数寄にまだ真新しいのに穿きかえて行く人なぞもあった。ノートを引きちぎって、斯様なものを書いたのもあった。夕方(若くは明午○)帰る
御用の御方は北隣△△氏へ御申残しあれ
小包も同断
月日 氏名
君を尋ねて草鞋で来れば
君は在さず唯犬ばかり
縁に腰かけ大きなあくび
中で時計が五時をうつ
君は在さず唯犬ばかり
縁に腰かけ大きなあくび
中で時計が五時をうつ
明治四十一年の新嘗祭の日であった。東京から親類の子供が遊びに来たので、例の通り戸をしめ、郵便箱をぶら下げ、玉川に遊びに往った。子供等は玉川から電車で帰り、主人夫妻は連れて往った隣家の女児と共に、つい其前々月もらって来た三歳の女児をのせた小児車を押して、星光を踏みつゝ野路を二里くたびれ果てゝ帰宅した。
隣家の女児と門口で別れて、まだ大戸も開けぬ内、二三人の足音と車の響が門口に止まった。車夫が提灯の光に、丈高い男がぬっと入って来た。つゞいて女が入って来た。
「僕が滝沢です、手紙を上げて置きましたが……」
其様な手紙は未だ見なかったのである。来意を聞けば、信州の者で、一晩御厄介になりたいと云うのだ。主人は疲れて大にいやであったが、遠方から来たものを、と勉強して兎に角戸をあけて内に請じた。吉祥寺から来たと云う車夫は、柳行李を置いて帰った。
二
ランプの明りで見れば、男は五分刈頭の二十五六、意地張らしい顔をして居る。女は少しふけて、おとなしい顔をして、丸髷に結って居る。主人が渋い顔をして居るので、丸髷の婦人は急いで風呂敷包の土産物を取出し主人夫妻の前にならべた。葡萄液一瓶、「醗酵しない真の葡萄汁です」と男が註を入れた。杏の缶詰が二個。「此はお嬢様に」と婦人が取出したのは、十七八ずつも実った丹波酸漿が二本。いずれも紅いカラのまゝ虫一つ喰って居ない。「まあ見事な」と主婦が歎美の声を放つ。「私の乳母が丹精して大事に大事に育てたのです」と婦人が誇り貌に口を添えた。二つ三つ語を交わす内に、男は信州、女は甲州の人で、共に耶蘇信者、外川先生の門弟、此度結婚して新生涯の門出に、此家の主人夫妻の生活ぶりを見に寄ったと云うことが分かった。畑の仕事でも明日は少し御手伝しましょうと男が云えば、台所の御手伝でもしましょうと女が云うた。
兎に角飯を食うた。飯を食うとやがて男が「腹が痛い」と云い出した。「そう、余程痛みますか」と女が憂わしそうにきく。「今日汽車の中で柿を食うた。あれが不好かった」と男が云う。此大きな無遠慮な吾儘坊ちゃんのお客様の為に、主婦は懐炉を入れてやった。大分落ついたと云う。晩くなって風呂が沸いた。まあお客様からと請じたら、「私も一緒に御免蒙りましょう」と婦人が云って、夫婦一緒にさっさと入って了った。寝ると云っても六畳二室の家、唐紙一重に主人組は此方、客は彼方と頭突き合わせである。無い蒲団を都合して二つ敷いてやったら、御免を蒙ってお先に寝る時、二人は床を一つにして寝てしまった。
三
明くる日、男は、「私共は二食で、朝飯を十時にやります。あなた方はお構いなく」と何方が主やら客やら分からぬ事を云う。其れでは十時に朝飯として、其れ迄ちと散歩でもして来ようと云って、主人は男を連れて出た。
畠仕事をして居る百姓の働き振を見ては、まるで遊んでる様ですな、と云う。彼は生活の闘烈しい雪の山国に生れ、彼自身も烈しい戦の人であった。彼は小学教員であった。耶蘇を信ずる為に、父から勘当同様の身となった。学校でも迫害を受けた。ある時、高等小学の修身科で彼は熱心に忍耐を説いて居たら、生徒の一人がつか/\立って来て、教師用の指杖を取ると、突然劇しく先生たる彼の背を殴った。彼は徐に顧みて何を為ると問うた。其生徒は杖を捨てゝ涙を流し、御免下さい、先生があまり熱心に忍耐を御説きなさるから、先生は実際どれ程忍耐が御出来になるか試したのです、と跪いて詫びた。彼は其生徒を賞めて、辞退するのを無理に筆を三本褒美にやった。
斯様な話をして帰ると、朝飯の仕度が出来て居た。落花生が炙れて居る。「落花生は大好きですから、私が炙りましょう」と云うて女が炙ったのそうな。主婦は朝飯の用意をしながら、細々と女の身上話を聞いた。
女は甲州の釜無川の西に当る、ある村の豪家の女であった。家では銀行などもやって居た。親類内に嫁に往ったが、弟が年若なので、父は彼女夫妻を呼んで家の後見をさした。結婚はあまり彼女の心に染まぬものであったが、彼女はよく夫婿に仕えて、夫婦仲も好く、他目には模範的夫婦と見られた。良人はやさしい人で、耶蘇教信者で、外川先生の雑誌の読者であった。彼女はその雑誌に時々所感を寄する信州の一男子の文章を読んで、其熱烈な意気は彼女の心を撼かした。其男子は良人の友達の一人で、稀に信州から良人を訪ねて来ることがあった。何時となく彼女と彼の間に無線電信がかゝった。手紙の往復がはじまった。其内良人は病気になって死んだ。死ぬる前、妻に向って、自分の死後は信州の友の妻になれ、と懇々遺言して死んだ。一年程過ぎた。彼女と彼の間は、熱烈な恋となった。而して彼女の家では、父死し、弟は年若ではあり、母が是非居てくれと引き止むるを聴かず、彼女は到頭家を脱け出して信州の彼が許に奔ったのである。
*
朝飯後、客の夫婦は川越の方へ行くと云うので、近所のおかみを頼み、荻窪まで路案内かた/″\柳行李を負わせてやることにした。
彼は尻をからげて、莫大小の股引白足袋に高足駄をはき、彼女は洋傘を杖について海松色の絹天の肩掛をかけ、主婦に向うて、
「何卒覚えて居て下さい、覚えて居て下さい」
と幾回も繰り返して出て往った。主人夫妻は門口に立って、影の消ゆるまで見送った。
四
一年程過ぎた。
此世から消え失せたかの様に、二人の消息ははたと絶えた。
「如何したろう。はがき位はよこしそうなものだな」
主人夫妻は憶い出す毎に斯く云い合った。
丁度満一年の新嘗祭も過ぎた十二月一日の午後、珍しく滝沢の名を帯びたはがきが主人の手に落ちた。其は彼の妻の死を報ずるはがきであった。消息こそせね、夫婦は一日も粕谷の一日一夜を忘れなかった、と書いてある。
吁彼女は死んだのか。友の妻になれと遺言して死んだ先夫の一言を言葉通り実行して恋に於ての勝利者たる彼等夫妻の前途は、決して百花園中のそゞろあるきではあるまい、とは期して居たが、彼女は早くも死んだの乎。
聞きたいのは、沈黙の其一年の消息である。知りたいのは、其死の状である。
*
あくる年の正月、主人夫妻は彼女の友達の一人なる甲州の某氏から彼女に関する消息の一端を知ることを得た。
彼等夫妻は千曲川の滸に家をもち、養鶏などやって居た。而して去年の秋の暮、胃病とやらで服薬して居たが、ある日医師が誤った投薬の為に、彼女は非常の苦痛をして死んだ。彼女の事を知る信者仲間には、天罰だと云う者もある、と某氏は附加えた。
*
某氏はまた斯様な話をした。亡くなった彼女は、思い切った女であった。人の為に金でも出す時は己が着類を質入れしたり売り払ったりしても出す女であった。彼女の前夫は親類仲で、慶応義塾出の男であった。最初は貨殖を努めたが、耶蘇を信じて外川先生の門人となるに及んで、聖書の教を文句通り実行して、決して貸した金の催促をしなかった。其れをつけ込んで、近郷近在の破落戸等が借金に押しかけ、数千円は斯くして還らぬ金となった。彼の家には精神病の血があった。彼も到頭遺伝病に犯された。其為彼の妻は彼と別居した。彼は其妻を恋いて、妻の実家の向う隣の耶蘇教信者の家に時々来ては、妻を呼び出してもろうて逢うた。彼の臨終の場にも、妻は居なかった。此時彼女の魂はとく信州にあったのである。彼女の前夫が死んで、彼女が信州に奔る時、彼女の懐には少からぬ金があった。実家の母が瞋ったので、彼女は甲府まで帰って来て、其金を還した。然し其前彼女は実家に居る時から追々に金を信州へ送り、千曲川の辺の家も其れで建てたと云うことであった。
*
彼夜彼女が持て来てくれたほおずきは、あまり見事なので、子供にもやらず、小箪笥の抽斗に大切にしまって置いたら、鼠が何時の間にか其小箪笥を背から噛破って喰ったと見え、年の暮に抽斗をあけて見たら、中実無しのカラばかりであった。
年々酸漿が紅くなる頃になると、主婦はしみ/″\彼女を憶い出すと云うて居る。
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碧色の花
色彩の中で何色を好むか、と人に問われ、色彩について極めて多情な彼は答に迷うた。
吾墓の色にす可き鼠色、外套に欲しい冬の杉の色、十四五の少年を思わす落葉松の若緑、春雨を十分に吸うた紫がかった土の黒、乙女の頬に匂う桜色、枇杷バナナの暖かい黄、檸檬月見草の冷たい黄、銀色の翅を閃かして飛魚の飛ぶ熱帯の海のサッファイヤ、ある時は其面に紅葉を泛べ或時は底深く日影金糸を垂るゝ山川の明るい淵の練った様な緑玉、盛り上り揺り下ぐる岩蔭の波の下に咲く海アネモネの褪紅、緋天鵞絨を欺く緋薔薇緋芥子の緋紅、北風吹きまくる霜枯の野の狐色、春の伶人の鶯が着る鶯茶、平和な家庭の鳥に属する鳩羽鼠、高山の夕にも亦やんごとない僧の衣にもある水晶にも宿る紫、波の花にも初秋の空の雲にも山の雪野の霜にも大理石にも樺の膚にも極北の熊の衣にもなるさま/″\の白、数え立つれば際限は無い。色と云う色、皆好きである。
然しながら必其一を択まねばならぬとなれば、彼は種として碧色を、度として濃碧を択ぼうと思う。碧色――三尺の春の野川の面に宿るあるか無きかの浅碧から、深山の谿に黙す日蔭の淵の紺碧に到るまで、あらゆる階級の碧色――其碧色の中でも殊に鮮やかに煮え返える様な濃碧は、彼を震いつかす程の力を有って居る。
高山植物の花については、彼は呶々する資格が無い。園の花、野の花、普通の山の花の中で、碧色のものは可なりある。西洋草花にはロベリヤ、チヨノドクサの美しい碧色がある。春竜胆、勿忘草の瑠璃草も可憐な花である。紫陽花、ある種の渓、花菖蒲にも、不純ながら碧色を見れば見られる。秋には竜胆がある。牧師の着物を被た或詩人は、嘗て彼の村に遊びに来て、路に竜胆の花を摘み、熟々見て、青空の一片が落っこちたのだなあ、と趣味ある言を吐いた。露の乾ぬ間の朝顔は、云う迄もなく碧色を要素とする。それから夏の草花には矢車草がある。舶来種のまだ我邦土には何処やら居馴染まぬ花だが、はらりとした形も、深い空色も、涼しげな夏の花である。これは園内に見るよりも Corn flower と名にもある通り外国の小麦畑の黄ばんだ小麦まじりに咲いたのが好い。七年前の六月三十日、朝早く露西亜の中部スチエキノ停車場から百姓の馬車に乗ってトルストイ翁のヤスナヤ、ポリヤナに赴く時、朝露にぬれそぼった小麦畑を通ると、苅入近い麦まじりに空色の此花が此処にも其処にも咲いて居る。睡眠不足の旅の疲れと、トルストイ翁に今会いに行く昂奮とで熱病患者の様であった彼の眼にも、花の空色は不思議に深い安息を与えた。
夏には更に千鳥草の花がある。千鳥草、又の名は飛燕草。葉は人参の葉の其れに似て、花は千鳥か燕か鳥の飛ぶ様な状をして居る。園養のものには、白、桃色、また桃色に紫の縞のもあるが、野生の其れは濃碧色に限られて居る様だ。濃碧が褪えば、菫色になり、紫になる。千鳥草と云えば、直ぐチタの高原が眼に浮ぶ。其れは明治三十九年露西亜の帰途だった。七月下旬、莫斯科を立って、イルクツクで東清鉄道の客車に乗換え、莫斯科を立って十日目にチタを過ぎた。故国を去って唯四ヶ月、然しウラルを東に越すと急に汽車がまどろかしくなる。イルクツクで乗換えた汽車の中に支那人のボオイが居たのが嬉しかった。イルクツクから一駅毎に支那人を多く見た。チタでは殊に支那人が多く、満洲近い気もち十分であった。バイカル湖から一路上って来た汽車は、チタから少し下りになった。下り坂の速力早く、好い気もちになって窓から覗いて居ると、空にはあらぬ地の上の濃い碧色がさっと眼に映った。野生千鳥草の花である。彼は頭を突出して見まわした。鉄路の左右、人気も無い荒寥を極めた山坡に、見る眼も染むばかり濃碧の其花が、今を盛りに咲き誇ったり、やゝ老いて紫がかったり、まだ蕾んだり、何万何千数え切れぬ其花が汽車を迎えては送り、送りては迎えした。窓に凭れた彼は、気も遠くなる程其色に酔うたのであった。
然しながら碧色の草花の中で、彼はつゆ草の其れに優した美しい碧色を知らぬ。つゆ草、又の名はつき草、螢草、鴨跖草なぞ云って、草姿は見るに足らず、唯二弁より成る花は、全き花と云うよりも、いたずら子にられたあまりの花の断片か、小さな小さな碧色の蝶の唯かりそめに草にとまったかとも思われる。寿命も短くて、本当に露の間である。然も金粉を浮べた花蕊の黄に映発して惜気もなく咲き出でた花の透き徹る様な鮮やかな純碧色は、何ものも比ぶべきものがないかと思うまでに美しい。つゆ草を花と思うは誤りである。花では無い、あれは色に出た露の精である。姿脆く命短く色美しい其面影は、人の地に見る刹那の天の消息でなければならぬ。里のはずれ、耳無地蔵の足下などに、さま/″\の他の無名草醜草まじり朝露を浴びて眼がさむる様に咲いたつゆ草の花を見れば、竜胆を讃めた詩人の言を此にも仮りて、青空の気滴り落ちて露となり露色に出てこゝに青空を地に甦らせるつゆ草よ、地に咲く天の花よと讃えずには居られぬ。「ガリラヤ人よ、何ぞ天を仰いで立つや。」吾等は兎角青空ばかり眺めて、足もとに咲くつゆ草をつい知らぬ間に蹂みにじる。
碧色の草花として、つゆ草は粋である。
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おぼろ夜
早夕飯のあと、晩涼に草とりして居た彼は、日は暮れる、ブヨは出る、手足を洗うて上ろうかとぬれ縁に腰かけた。其時門口から白いものがすうと入って来た。彼はじいと近づくものを見て居たが、
「あゝM君ですか」
と声をかけた。
其は浴衣の着流しで駒下駄を穿いたM君であった。M君は早稲田中学の教師で、かたわら雑誌に筆を執って居る人である。彼が千歳村に引越したあくる月、M君は雑誌に書く料に彼の新生活を見に来た。丁度樫苗を植えて居たので、ろく/\火の気の無い室に二時間も君を待たせた。君は慍る容子もなく徐に待って居た。温厚な人である。其れから其年の夏、月の好い一夜、浴衣の上に夏羽織など引かけて、ぶらりと尋ねて来た。M君は綱島梁川君の言として、先ず神を見なければ一切の事悉く無意義だ、神を見ずして筆を執るなぞ無用である、との説に関し、自身の懊悩を述べ、自分の様な鈍根の者は、一切を抛擲して先ず神を見る可く全力を傾注する勇気が無い、と嘆息して帰った。
其後久しく消息を聞かなかったが、今夜一年ぶりに突然君は来訪したのであった。
君の所要は、先月茅ヶ崎で物故した一文士に関する彼の感想を聞くにあった。彼は故人について取りとめもない話をした。故人と彼とは同じ新聞社の編輯局に可なり久しく居たのであったが、故人は才華発越、筆をとれば斬新警抜、話をすれば談論火花を散らすに引易え、彼はわれながらもどかしくてたまらぬ程の迂愚、編輯局の片隅に猫の如く小さくなって居たので、故人と心腹を披いて語る機会もなく、故人の方には多少の侮蔑あり、彼の方には多少の嫉妬羨望あり、身は近く心ははなれ/″\に住んだ。其後故人も彼も前後に新聞社を出て、おの/\自家の路を歩み、顔を見ること稀に、消息を聞かぬ日多く打過ぎた。然し彼は一度故人と真剣の話をしたいと久しく思うて居た。日露戦争の終った年の暮、彼は一の心的革命を閲して、まさに東京を去り山に入る決心をして居た時、ある夜彼は新橋停車場の雑沓の中に故人を見出した。何処ぞへ出かけるところと覚しく、茶色の中折をかぶり、細巻の傘を持ち、瀟洒した洋装をして居た。彼は驚いた様な顔をして居る故人を片隅に引のけて、二分間の立話をした。彼は従来の疎隔を謝し、自愛を勧め、握手して別れた。これが最始の接近で、また最後の面会であった。
M君と彼の話は、故人の事から死生の問題に入った。心霊の交感、精神療法と、話は色々に移って往った。
彼等は久しく芝生の縁代で話した。M君が辞し去ったのは、夜も深けて十二時近かった。
彼はM君を八幡下まで送って別れた。夏ながら春の様なおぼろ月、谷向うの村は朦朧とうち煙り、田圃の蛙の声も夢を誘う様なおぼろ夜である。
「それじゃ」
「失礼」
駒下駄の音も次第に幽になって、浴衣姿の白いM君は吸わるゝ様に靄の中に消えた。
*
其後ふっつりM君の消息を聞かなかったが、翌年ある日の新聞に、M君が安心を求む可く妻子を捨てゝ京都山科の天華香洞に奔った事を報じてあった。間もなく君は東京に帰って来たと見え、ある雑誌に君が出家の感想を見たが、やがて君が死去の報は伝えられた。
見神の一義に君は到頭精力を傾注せずに居られなくなったのである。而して生涯の大事、生存の目的を果したので、君は軽く肉の衣を脱いだのであろう。
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ヤスナヤ、ポリヤナの未亡人へ
一
夫人。
私は夙に手紙を差上げねばならなかったのでした。実は幾回も幾回もペンを執ったのでした。ペンを執りは執りながら、如何しても書くことが出来なかったのです。今日、ビルコフさんの書いた故先生小伝の英訳を見て居ましたら、丁度先生の逝去六週間前に撮影されたと云う先生とあなたの写真が出て居ました。熟々見て居る内に、私の眼は霞んで来ました。嗚呼ものが言いたい! 話がしたい! 然し先生は最早霊です。私の拙い言葉を仮らずとも、先生と話すことが出来ます。書くならあなたに書かねばならぬ。そこで此手紙を書きます。私はうちつけに書きます。万事直截其ものでお出のあなたは、私が心底から申すことを容して下さるだろうと思います。
二
何から申しましょうか。書く事があまり多い。最初先生の不可思議な遽かの家出を聞いた時、私は直ぐ先生の終が差迫って来た事を知りました。それで先生の訃に接した時も、少しも驚きませんでした。勿論先生を愛する者にとっては、先生の最期は苦しい最期でした。何故先生は愛妻愛子愛女の心尽しの介抱の中に、其一片と雖も先生を吾有と主張し要求し得ぬものはない切っても切れぬ周囲の中に、穏に死なれる事が何故出来なかったでしょうか? 何故其生の晩景になって、あわれなひとり者の死に様をする為に其温かな巣からさまよい出られねばならなかったのでしょうか? 世故を経尽し人事を知り尽した先生が、何故其老年に際し、否墓に片脚下しかけて、釈迦牟尼の其生の初に為られた処をされねばならなかったか? 世間は誰しも斯く驚き怪みました。不相変主我的だと非難した者も少なくありませんでした。一風変った天才の気まぐれと笑ったのは、まだよい方かも知れません。先生もつらかったでしょう。然し夫人、悲痛の重荷は偏にあなたの肩上に落ちました。あなたの経歴された処は、思うも恐ろしい。長い長い生涯の間、先生と棲んで先生を愛されたあなたが、此世の旅の夕蔭に、見棄てゝしまわれた様な姿になられようとは! 而してトルストイの邪魔物は此であると云った様に白昼世界の眼の前に曝しものになられようとは! 夫人、誰かあなたに同情をさゝげずに居られましょう乎。如何に頑固な先生の加担者でも、如何程苦り切ったあなたの敵対者でも、堪え難いあなたの苦痛と断腸の悲哀とは、其幾分を感ぜずに居られません。彼池の滸りの一刹那を思うては、戦慄せずには居られません。
三
然し夫人、世に先生を非難する者の多かった様に、あなたを非難する者も少くありませんでした。白状します、私も其一人でした。トルストイと云う様な偉大な名は、世界の目標です。先生や先生の一家一門の所作は、万人の具に瞻る所、批評の的であります。そこで先生の哀しい最期前後の出来事は、如何様な微細な事までも、世界中の新聞雑誌に掲載されて、色々の評判を惹起しました。私は漏らさず其記事を見ました。無論誤報曲説も多かったでしょう。針小棒大の記事も沢山あったに違いありません。然し打明けて云えば、其記事については、私は非常に心を痛むる事が多かった。打明けて云えば、夫人、私はあなたに対して少からぬ不平があったのです。勿論白が弥白くなれば、鼠色も純黒に勢なる様なもので、故先生があまりに物的自我を捨てようとせられた為、其反動の余勢であなたは実際以上に自己を主張されねばならぬ様なハメになられたこともありましょう。それでなくても、婦人は自然に物質的になる可き約束の下にあるのです。先生が産を治むる事をやめられてから、一家の主人役に立たれたあなたが、児孫の為に利益を計り権利を主張し、切々と生活の資を積む可く努められたのも、致方はないと云った様な御気の毒なわけで、あなたの方から云えば先生にこそ不平あれ、先生から不足を云われる事はない筈です。と、誰も然申しましょう。然し夫人、生計を立つると云うも、程度の問題です。あなたが家の為を思わるゝあまり、ノーベル賞金を辞された先生に不満を懐かれたり、何万ルーブルの為に先生の声を蓄音器に入れさせようとしたり、其外種々仁人としても詩人としても心の富、霊の自由、人格の尊厳を第一位に置く霊活不覊なる先生の心を傷むるのは知れ切った事まで先生に強られたのは、あまりと云えば無惨ではありますまいか。あなたはトルストイの名を其様に軽いやすっぽいものに思ってお出なのでしょう乎。「吾未だ義人の裔の物乞いあるくを見し事なし」とソロモンは申しました。トルストイの妻は其夫をルーブルにして置かねばならぬ程貧しい者でしょう乎。トルストイの子女は、其父を食わねば生きられぬ程腑甲斐ないものでしょう乎。私にはあなたがハズミに乗って機械的に為られたと思う外、ドウもあなたのお心持が分かりません。全く正気の沙汰とは思われかねるのです。莫斯科の小店なぞに切々と売溜の金勘定ばかりして居るかみさんのマシューリナ、カテーリナならいざ知らず、世界のトルストイの夫人の挙動としては、よく云えばあまりに謙遜な、正しく云えばあまりに信仰がない鄙い話ではありますまい乎。私は先生の心中が思われて、つらくてなりません。昔先生が命をかけて惚れられた美しい素直なソフィ嬢は、斯様な心の香の褪った老伯爵夫人になってしまわれたのでしょう乎。其れから先生逝去後の御家の挙動は如何です? 私はしば/\叫びました、先生も先生だ、何故先生は彼様な烈しい最後の手段を取らずに、犠牲となって穏に家庭に死ぬることが出来なかっただろう乎、あまりに我強い先生であると。然し此は先生がトルストイである事を忘れたからの叫びです。誰にでも其人相応の生き様があり、また其人相応の死に様があります。トルストイの様な人でトルストイの様な境遇にある者は、彼様な断末魔が当然で且自然であります。少しも無理は無い。余人にあっては兎も角も、先生にあっては彼様でなくては生の結末がつかぬのです。一切の人慾、一切の理想が恐ろしい火の如く衷に燃えて闘うた先生には、灰色にぼかした生や死は問題の外なのです。あなたに対する真の愛から云うても、理想に対する操節から云っても、出奔と浪死は必然の結果です。仮に先生が其趣味主張を一切胸に畳んで、所謂家庭の和楽の犠牲となって一個の好々翁として穏にヤスナヤ、ポリヤナに瞑目されたとして、先生は果してトルストイたり得たでしょう乎。其死が夫人、あなたをはじめとして全世界に彼様な警策を与えることが出来たでしょう乎。彼最後彼臨終あるが為に、先生等身の著作、多年の言説に画竜の睛を点じたのではありますまい乎。確に然です。トルストイは手軽に理想を実行してのける実行家では無い、然しトルストイは理想を賞翫して生涯を終る理想家で無い、トルストイは一切の執着煩悩を軽々に滑り脱ける木石人で無い、然しトルストイは最後の一息を以ても其理想を実現すべく奔騰する火の如き霊であると云う事が、墨黒の夜の空に火焔の字をもて大書した様に読まるゝのです。獅子は久しく眼に見えぬ檻の中で獅子吼をしたり、毬を弄んだり、無聊に悶えたりして居ましたが、最後に身を跳らして一躍檻外に飛び出で、万里の野に奔って自由の死を遂げました。惨ましく然も偉大なる死! 先生の死は、先生が最後の勝利でした。夫人、あなたは負けました。だからあなたの煩悶も、御家の沸騰も起きたのです。但今は斯く思うものゝ、其当時私は思いました、先生は先生としても、何故あなたも令息令嬢達も黙って哀しんで居られることが出来なかったのでしょう乎。何故の彼諍論? 何故の彼喧嘩? 無論先生の出奔と死は、云わば爆裂弾を投げたもので、あとの騒ぎが大きいのが自然であるし、また必要でもあるし、石が大きければ水煙も夥しいと云った様なもので、傍眼には醜態百出トルストイ家の乱脈と見えても、あなたの卒直一剋な御性質から云っても、令息令嬢達の腹蔵なき性質から云っても、世界の目の前にある家の立場から云っても、云うべき事は云わねばならず、弁難論諍も致方はもとよりありますまい。苟且の平和より真面目の争はまだ優です。但私は先生の彼惨ましい死を余儀なくした其事情を思うに忍びず、また先生の墓上涙未だ乾かざるに家族の方々が斯く喧嘩さるゝを見るに忍びなかったのであります。然し我々は人間です。人間として衝突は自然の約束であります。先生もよく/\思い込まるればこそ、彼死様をされた。而して偽ることを得為ぬトルストイ家の人々なればこそ、彼争もあったのでしょう。加之、承われば此頃では諸事円滑に運んで居るとやら、愚痴は最早言いますまい。唯先生を中心として起った悲劇に因り御一同の大小浅深さま/″\に受けられた苦痛から最好きものゝ生れ出でんことを信じ、且祷るのみであります。
四
勿論先生があなたを深く深く愛された事は、誰よりもあなたこそ御存じの筈。あなたを離れて出奔される時にも、先生はあなたを愛して居られた。否、深くあなたを愛さるればこそ先生は他人に出来ない事を苦痛を忍んで為られたのです。頗無理な言葉の様ですが、先生の家出の動機の重なる一が、あなたはじめ先生の愛さるゝ人達の済度にあった事は決して疑はありません。人は石を玉と握ることもあれば、玉を石と抛つ場合もあります。獅子は子を崖から落します。我々の捨てるものは、往々我々にとって一番捨て難い宝なのです。先生にとって人の象をとった一番の宝は、あなたでした。臨終の譫言にもあなたの名を呼ばれたのでも分かる。あなたは最後までも先生の恋人でした。あなたの為に先生は彼様な死をされた。あなたは衷心に確にソレを知ってお出です。夫人、あなたは其深い深い愛の下に頭を低れて下さることは出来ないのでしょう乎。人の霊魂は不覊独立なもの、肉体一世の結合は彼若くば彼女の永久の存在を拘束することは出来ないのですから、先生の生前、先生は先生の道、あなたはあなたの路を別々に辿られたのも致方は無いものゝ、先生が肉の衣を脱がれた今日、私は金婚式でも金剛石婚式でもなく、第二の真の結婚が御両人の間に成就されん事を祈って已まないのであります。悲哀を通して我々は浄められるのです。苦痛を経由して我々は智識に達するのです。敬愛する夫人よ、先生はあなたの良人御家族の父君で御出でしたが、また凡そ先生を信愛する者の総ての父でした。敬愛する夫人よ、あなたは今ヤスナヤ、ポリヤナ小王国の皇太后で御出ですが、同時にあなたを識る程の者の母君となられるのである事をお忘れなすってはなりません。夫人、御安心なさい、あなたにお目にかゝった程の者は、誰かあなたの真面目な而して勇敢な霊魂を尊敬せぬ者がありましょう乎。誰かあなたの故先生に対する愛の助勢によって、人類に貢献された働を知らない者がありましょう乎。あなたがお出でなかったら、先生が果して彼偉大なトルストイと熟された乎、否乎、分かりません。先生が不朽である如く、あなたも不朽です。あなたは曾て自伝を書いて居ると云うお話でした。あれは著々進行しつゝあることゝ思います。私は其面白かる可き頁が覗きたくてなりません。出版されたら、種々分明する事があろうと思います。我々一同に対してあなたは楯の一面を示される義務があります。何卒独得の真摯と気力とをもてあなたの御言い分をお述べ下さい。我々一同其一日も早く出版されんことを待って居る者であります。
五
今日は七月の三日です。七年前の丁度今日は、ヤスナヤ、ポリヤナで御厚遇を享けて居ました。其折お目にかゝった方々や色々の出来事を、私は如何様にはっきりと記憶して居るでしょう。正に今日でした、私は彼はなれからペンとインキを持ち出して、彼楓の下の食卓に居られる皆さんの署名を記念の為に求めました。其手帳は今私の手近にあります。私は開けて見ました。皆在焉。先生のも、あなたのも、其他皆さんの手によって署せられた皆さんの名が歴々として其処にあります。インキもまだ乾かないかと思われるばかりです。然るに、想えば先生の椅子は最早永久に空しいのです。此頃は楓の下の彼食卓も嘸淋しいことでしょう。私はマウド氏の先生の伝を見て、オボレンスキー公爵夫人マリーさんも、私がお目にかゝって間もなく死去された事を知りました。私はマリーさんが大好きでした。最早あの方もホンの記憶になってしまわれたのです。先頃莫斯科から帰って来られた小西君に面会しました。小西君は彼哀しい出来事の少し前に先生に会われ、それから葬儀にも出られたそうです。然しあなたや御家族の事については、あまり知って居られないのでした。多分伯アンドリゥ君は御同居だろうと思います。ドウかよろしく、私は時々アンドリゥ君の事を思うて居るとお伝え下さい。レオ君の御一家は聖彼得堡にお住いですか。ヤスナヤ、ポリヤナの園でトチ/\歩みをして居られたお孫達も、最早大きなむすこさん達になられたでしょう。伯令嬢アレキサンドラは如何して居られますか。私は折々あのロンカの川辺で迷子になって、令嬢を煩わして探しに来ていたゞいた事を憶い出します。ミハイル君は如何です。私は唯一度、それもホンの一寸会ったゞけですが、大層好きな方と思いました。ジュリヤ嬢はとくにヤスナヤ、ポリヤナを去られたとか。マコィッキー[「マコィッキー」に傍線]君は今何処に居られるでしょう? スホーチン君は矢張ヂュマの議員でお出ですか。オボレンスキー公爵と、鼻眼鏡をかけて居られる其母堂とは、御息災ですか。イリヤはまだ勤めて居ますか。曾て其人を私も手伝って牧草を掻いた料理番の老細君は達者にして居ますか。
嗚呼彼の楓の下の雪白の布を覆うた食卓、其処に朝々サモルが来り喫む人を待って吟じ、其下の砂は白くて踏むに軟なあの食卓! 先生は読み、あなたは縫うて居られた彼露台の夕! 家の息達と令嬢とマンドリンを弾いて歌われた彼ランダの一夜! 彼ロンカの水浴! 彼涼しい、而して木の葉の網目を洩る日光が金の斑点を地に落すあの白樺の林の逍遙! 先生も其処に眠って居られる。記憶から記憶と群がり来って果しがない。嗟今一度なつかしいヤスナヤ、ポリヤナに往って見たい!
敬愛する夫人よ。私は長い手紙を書いてしまいました。最早こゝでペンを擱かねばなりません。願わくば神あなたの寂寥を慰めて力を与え玉わんことを。願わくばあなたの晩年が、彼露西亜の美わしい夏の夕の様に穏に美しくあらんことを。終に臨み、私の妻もあなたの負われ負わるゝ数々の重荷に対し、真実御同情申上げる旨、呉々も申しました。
一九一二年 七月三日
ヤスナヤ、ポリヤナと其記念を永久に愛する
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安さん
乞食も色々のが来る。春秋の彼岸、三五月の節句、盆なンどには、服装も小ざっぱりした女等が子供を負って、幾組も隊をなして陽気にやって来る。何処から来るのかと聞いたら、新宿からと云うた。浅草紙、やす石鹸やす玩具など持て来るほンの申訳ばかりの商人実際のお貰いも少からず来る。喰いつめた渡り職人、仕事にはなれた土方、都合次第で乞食になったり窃盗になったり強盗になったり追剥になったりする手合も折々来る。曾てある秋の朝、つい門前の雑木林の中でがさ/\音がするので、ふっと見ると、昨夜此処に寝たと見えて、一人の古い印半纏を着た四十ばかりの男が、眠たい顔して起き上り、欠伸をして往って了うた。
一般的乞食の外に、特別名指しの金乞いも時々来る。やりたくても無い時があり、あってもやりたくない時があり、二拍子揃って都合よくやる時もあり、ふかし甘藷二三本新聞紙に包んで御免を蒙る場合もある。然し斯様な特別のは別にして、彼が村居六年の間に懇意になった乞食が二人ある。仙さんと安さん。
仙さんは多少富裕な家の息子の果であろう。乞食になっても権高で、中々吾儘である。五分苅頭の面桶顔、柴栗を押つけた様な鼻と鼻にかゝる声が、昔の耽溺を語って居る。仙さんは自愛家である。飲料には屹度湯をくれと云う。曾て昆布の出しがらをやったら、次ぎに来た時、あんな物をくれるから、醤油を損した上に下痢までした、と嗔った。小婢一人留守して居る処に来ては、茶をくれ、飯をくれ、果てはお前の着て居る物を脱いでくれ、と強請って、婢は一ちゞみになったことがある。主婦が仙さんの素生を尋ねかけたら、「乃公に喧嘩を売るのか」と仙さんは血相を変えた。ある時やるものが無くて梅干をやったら、斯様なものと顔をしかめる。居合わした主人は、思わず勃然として、貰う者の分際で好悪を云う者があるか、と叱りつけたら、ブツ/\云いながら受取ったが、門を出て五六歩行くと雑木林に投げ棄てゝ往った。追かけて撲ちのめそうか、と思ったが、やっと堪えた。彼は此後仙さんを憎んだ。其後一二度来たきり、此二三年は頓斗姿を見せぬ。
我強い仙さんに引易え、気易の安さんは村でもうけがよい。安さんは五十位、色の浅黒い、眼のしょぼ/\した、何処やらのっぺりした男である。安さんは馬鹿を作って居る。夏着冬着ありたけの襤褸の十二一重をだらりと纏うて、破れしゃっぽのこともあり、黒い髪を長く額に垂らして居ることもあり、或は垢染みた手拭を頬冠りのこともある。下駄を片足、藁草履を片足、よく跛曳いてあるく。曾て穿きふるしの茶の運動靴をやったら、早速穿いて往ったが、十日たゝぬ内に最早跣足で来た。
江戸の者らしい。何時、如何な事情の下に乞食になったか、余程話を引出そうとしても、中々其手に乗らぬ。唯床屋をして居たと云う。剃刀の磨ぐのでもありませんか、とある時云うた。主人の髯は六七年来放任主義であまりうるさくなると剪で苅るばかりだし、主婦は嫁して来て十八年来一度も顔を剃ったことがないので、家には剃刀と云うものが無い。折角の安さんの親切も、無駄であった。然し剃刀があった処で、あの安さんの清潔な手では全く恐れ入る。
いつも門口に来ると、杖のさきでぱっ/\と塵を掃く真似をする。其響を聞いたばかりで、安さんと分った。「おゝそれながら……」と中音で拍子をとって戸口に立つこともある。「春雨にィ……」と小声で歌うて来ることもある。ある時来たのを捉えて、笊で砂利を運ぶ手伝をさせ、五銭やったら、其れから来る毎に「仕事はありませんか」と云う。時々は甘えて煙草をくれと云う。此家では喫まぬと云っても、忘れてはまた煙草をくれと云う。正直の仙さんは一剋で向張りが強く、智慧者の安さんは狡獪くて軟な皮をかぶって居た。
夏は乞食の天国である。夏は我儕も家なンか厄介物を捨てゝしもうて、野に寝、山に寝、日本国中世界中乞食して廻りたい気も起る。夏は乞食の天国である。唯蚊だけが疵だが、至る処の堂宮は寝室、日蔭の草は茵、貯えれば腐るので家々の貰い物も自然に多い。ある時、安さんが田川の側に跪いて居るのを見た。
「何をして居るのかね、安さん?」
声をかけると、安さんは寝惚けた様な眼をあげて、
「エ、エ、洗濯をして」
と答えた。麦藁帽の洗濯をして居るのであった。処々の田川は彼の洗濯場で、また彼の浴槽であった。
冬は惨だ。小屋かけ、木賃宿、其れ等に雨雪を凌ぐのは、乞食仲間でも威張った手合で、其様な栄耀が出来ぬやからは、村の堂宮、畑の中の肥料小屋、止むなければ北をよけた崖の下、雑木林の落葉の中に、焚火を力にうと/\一夜を明すのだ。そこでよく火事が起る。彼が隣の墓地にはもと一寸した閻魔堂があったが、彼が引越して来る少し前に乞食の焚火から焼けて了うて、木の閻魔様は灰になり、石の奪衣婆ばかり焼け出されて、露天に片膝立てゝ恐い顔をして居る。鎮守八幡でも、乞食の火が険呑と云うので、つい去年拝殿に厳重な戸締りを設けて了うた。安さんの為に寝所が一つ無くなったのである。それかあらぬか、近頃一向安さんの影を見かけなくなった。
「安さんは如何したろ?」
彼等はしば/\斯く噂をした。
昨日婢が突然安さんの死を報じた。近所の女児が斯く婢に云うたそうだ。
「安さんなァ、安さんな内のお安さんが死んだ些前に、は、死んじまったとよ」
近所のお安さんと云う娘が死んだのは、五月の初であったから、乞食の安さんは桜の花の頃に死んだものと見える。
安さんは大抵甲州街道南裏の稲荷の宮に住んで居たそうだ。埋葬は高井戸でしたと云うが、如何な臨終であったやら。
「あれで中々女が好きでね、女なんかゞ一人で物を持って往ってやるといけないって、皆が云ってました」
と婢が云うた。
安さんが死んだか。乞食の安さんが死んだか。
「死んで安心な様な、可哀想な様な気もちがしますよ」
主婦が云うた。
秋の野にさす雲の翳の様に、淡い哀がすうと主人の心を掠めて過ぎた。
[#改丁]
麦の穂稲穂
村の一年
一
都近い此辺の村では、陽暦陰暦を折衷して一月晩れで年中行事をやる。陽暦正月は村役場の正月、小学校の正月である。いさゝか神楽の心得ある若者連が、松の内の賑合を見物かた/″\東京に獅子舞に出かけたり、甲州街道を紅白美々しく飾り立てた初荷の荷馬車が新宿さして軋らしたり、黒の帽子に紫の袈裟、白足袋に高足駄の坊さんが、年玉を入れた萌黄の大風呂敷包を頸からつるして両手で抱えた草鞋ばきの寺男を連れて檀家の廻礼をしたりする外は、村は餅搗くでもなく、門松一本立つるでなく、至極平気な一月である。唯農閑なので、青年の夜学がはじまる。井浚え、木小屋の作事、屋根の葺き更え、農具の修繕なども、此隙にする。日なたぼこりで孫いじりにも飽いた爺の仕事は、啣え煙管の背手で、ヒョイ/\と野らの麦踏。若い者の仕事は東京行の下肥取りだ。寒中の下肥には、蛆が涌かぬ。堆肥製造には持て来いの季節、所謂寒練である。夜永の夜延べには、親子兄弟大きな炉側でコト/\藁を擣っては、俺ァ幾括だ卿は何足かと競争しての縄綯い草履草鞋作り。かみさんや娘は、油煙立つランプの傍でぼろつぎ。兵隊に出て居る自家の兼公の噂も出よう。東京帰りに兄が見て来た都の嫁入車の話もあろう。
都では晴の春着も夙に箪笥の中に入って、歌留多会の手疵も痕になり、お座敷つゞきのあとに大妓小妓のぐったりとして欠伸を噛む一月末が、村の師走の煤掃き、つゞいて餅搗きだ。寒餅はわるくならぬ。水に浸して置いて、年中の茶受、忙しい時の飯代り、多い家では一石も二石も搗く。縁者親類加勢し合って、歌声賑やかに、東でもぽったん、西でもどったん、深夜の眠を驚かして、夜の十二時頃から夕方までも舂く。陽暦で正月を済ましてとくに餅は食うてしもうた美的百姓の家へ、にこ/\顔の糸ちゃん春ちゃんが朝飯前に牡丹餅を持て来てくれる。辰爺さん家のは大きくて他家の三倍もあるが、搗きが細かで、上手に紅入の宝袋なぞ拵えてよこす。下田の金さん処のは、餡は黒砂糖だが、手奇麗で、小奇麗な蓋物に入れてよこす。気取ったおかず婆さんからは、餡がお気に召すまいからと云って、唯搗き立てをちぎったまゝで一重よこす。礼に往って見ると、奥は正月前らしく奇麗に掃かれて、土間にはちゃんと塩鮭の二枚もつるしてある。
二
二月は村の正月だ。松立てぬ家はあるとも、着物更えて長閑に遊ばぬ人は無い。甲州街道は木戸八銭、十銭の芝居が立つ。浪花節が入り込む。小学校で幻燈会がある。大きな天理教会、小さな耶蘇教会で、東京から人を呼んで説教会がある。府郡の技師が来て、農事講習会がある。節分は豆撒き。七日が七草。十一日が倉開き。十四日が左義長。古風にやる家も、手軽でやらぬ家もあるが、要するに年々昔は遠くなって行く。名物は秩父颪の乾風と霜解けだ。武蔵野は、雪は少ない。一尺の上も積るは稀で、五日と消えぬは珍らしい。ある年四月に入って、二尺の余も積ったのは、季節からも、量からも、井伊掃部さん以来の雪だ、と村の爺さん達も驚いた。武蔵野は霜の野だ。十二月から三月一ぱいは、夥しい霜解けで、草鞋か足駄長靴でなくては歩かれぬ。霜枯れの武蔵野を乾風が々と吹きまくる。霜と風とで、人間の手足も、土の皮膚も、悉く皹赤ぎれになる。乾いた畑の土は直ぐ塵に化ける。風が吹くと、雲と舞い立つ。遠くから見れば正に火事の煙だ。火事もよくある。乾き切った藁葺の家は、此上も無い火事の燃料、それに竈も風呂も藁屑をぼう/\燃すのだからたまらぬ。火事の少ないのが寧不思議である。村々字々に消防はあるが、無論間に合う事じゃない。夜遊び帰りの誰かが火を見つけて、「おゝい、火事だよゥ」と呼わる。「火事だっさ、火事は何処だンべか、――火事だよゥ」と伝える。「火事だよう」「火事だァよゥ」彼方此方で消防の若者が聞きつけ、家に帰って火事袢纏を着て、村の真中の火の番小屋の錠をあけて消防道具を持出し、わッしょい/\駈けつける頃は、大概の火事は灰になって居る。人家が独立して周囲に立木がある為に、人家櫛比の街道筋を除いては、村の火事は滅多に大火にはならぬ。然し火の粉一つ飛んだらば、必焼けるにきまって居る。東京は火事があぶねえから、好い着物は預けとけや、と云って、東京の息子の家の目ぼしい着物を悉皆預って丸焼にした家もある。
梅は中々二月には咲かぬ。尤も南をうけた崖下の暖かい隈なぞには、ドウやらすると菫の一輪、紫に笑んで居ることもあるが、二月は中々寒い。下旬になると、雲雀が鳴きはじめる。チ、チ、チ、ドウやら雲雀が鳴いた様だと思うと、翌日は聞こえず、又の日いと明瞭に鳴き出す。あゝ雲雀が鳴いて居る。例令遠山は雪であろうとも、武蔵野の霜や氷は厚かろうとも、落葉木は皆裸で松の緑は黄ばみ杉の緑は鳶色に焦げて居ようとも、秩父颪は寒かろうとも、雲雀が鳴いて居る。冴えかえる初春の空に白光りする羽たゝきして雲雀が鳴いて居る。春の驩喜は聞く人の心に涌いて来る。雲雀は麦の伶人である。雲雀の歌から武蔵野の春は立つのだ。
三
武蔵野に春は来た。暖い日は、甲州の山が雪ながらほのかに霞む。庭の梅の雪とこぼるゝ辺に耳珍しくも藪鶯の初音が響く。然しまだ冴え返える日が多い。三月もまだ中々寒い月である。初午には輪番に稲荷講の馳走。各自に米が五合に銭十五銭宛持寄って、飲んだり食ったり驩を尽すのだ。まだ/\と云うて居る内に、そろ/\畑の用が出て来る。落葉掻き寄せて、甘藷や南瓜胡瓜の温床の仕度もせねばならぬ。馬鈴薯も植えねばならぬ。
彼岸前の農家の一大事は、奉公男女の出代りである。田舎も年々人手が尠なく、良い奉公人は引張り合だ。近くに東京と云う大渦がある。何処へ往っても直ぐ銭になる種々の工場があるので、男も女も愚図云われると直ぐぷいと出て往って了う。寺本さんの作代は今年も勤続と云うが、盆暮の仕着せで九十円、彼様な好い作代なら廉いもンだ、と皆が羨む。亥太郎さんの末の子は今年十二で、下田さんの子守に月五十銭で雇われて行く。下唇の厚い久さんは、本家で仕事の暇を、大尽の伊三郎さん処で、月十日のきめで二十五円。石山さんが隣村の葬式に往って居ると娘が駈けて来て、作代が逃げ出すと云うので、石山さんは遽てゝ葬式の場から尻引っからげて作代引とめに走って行く。勘さんの嗣子の作さんは草鞋ばきで女中を探してあるいて居る。些好さそうな養蚕傭の女なぞは、去年の内に相談がきまってしまう。メレンスの半襟一かけ、足袋の一足、窃と他の女中の袂にしのばせて、来年の餌にする家もある。其等の出代りも済んで、やれ一安心と息をつけば、最早彼岸だ。
線香、花、水桶なぞ持った墓参が続々やって来る。丸髷や紋付は東京から墓参に来たのだ。寂しい墓場にも人声がする。線香の煙が上る。沈丁花や赤椿が、竹筒に插される。新しい卒塔婆が立つ。緋の袈裟かけた坊さんが畑の向うを通る。中日は村の路普請。遊び半分若者総出で、道側にさし出た木の枝を伐り払ったり、些ばかりの芝土を路の真中に抛り出したり、路壊しか路普請か分からぬ。
四
四月になる。愈春だ。村の三月、三日には雛を飾る家もある。菱餅草餅は、何家でも出来る。小学校の新学年。つい去年まで碌に口も利けなかった近所の喜左坊が、兵隊帽子に新らしいカバンをつるし、今日から小学第一年生だと小さな大手を振って行く。五六年前には、式日以外女生の袴など滅多に見たこともなかったが、此頃では日々の登校にも海老茶が大分殖えた。小学校に女教員が来て以来の現象である。桃之夭々、其葉蓁々、桃の節句は昔から婚嫁の季節だ。村の嫁入婿取は多く此頃に行われる。三日三晩村中呼んでの飲明しだの、「目出度、の若松様よ」の歌で十七荷の嫁入荷物を練込むなぞは、大々尽の家の事、大抵は万事手軽の田舎風、花嫁自身髪結の家から島田で帰って着物を更え、車は贅沢、甲州街道まで歩いてガタ馬車で嫁入るなぞはまだ好い方だ。足入れと云ってこっそり嫁を呼び、都合の好い時あらためて腰入をする家もある。はずんだところで調布あたりから料理を呼んでの饗宴は、唯親類縁者まで、村方一同へは、婿は紋付で組内若くは親類の男に連れられ、軒別に手拭の一筋半紙の一帖も持って挨拶に廻るか、嫁は真白に塗って、掻巻程の紋付の裾を赤い太い手で持って、後見の婆さんかかみさんに連れられてお辞儀をして廻れば、所謂顔見せの義理は済む。村は一月晩れでも、寺は案外陽暦で行くのがあって、四月八日はお釈迦様の誕生会。寺々の鐘が子供を呼ぶと、爺か嬶か姉に連れられた子供が、小さな竹筒を提げて、嬉々として甘茶を汲みに行く。
東京は桜の盛、車も通れぬ程の人出だった、と麹町まで下肥ひきに往った音吉の話。村には桜は少いが、それでも桃が咲く、李が咲く。野はすみれ、たんぽゝ、春竜胆、草木瓜、薊が咲き乱るゝ。「木瓜薊、旅して見たく野はなりぬ」忙しくなる前に、此花の季節を、御岳詣、三峰かけて榛名詣、汽車と草鞋で遊んで来る講中の者も少くない。子供連れて花見、潮干に出かける村のハイカラも稀にはある。浮かれて蝶が舞いはじめる。意地悪の蛇も穴を出る。空では雲雀がます/\勢よく鳴きつれる。其れに喚び出される様に、麦がつい/\と伸びて穂に出る。子供がぴいーッと吹く麦笛に、武蔵野の日は永くなる。三寸になった玉川の鮎が、密漁者の手から窃と旦那の勝手に運ばれる。仁左衛門さん宅の大欅が春の空を摩でて淡褐色に煙りそめる。雑木林の楢が逸早く、櫟はやゝ晩れて、芽を吐きそめる。貯蔵の里芋も芽を吐くので、里芋を植えねばならぬ。月の終は、若葉の盛季だ。若々とした武蔵野に復活の生気が盈ち溢れる。色々の虫が生れる。田圃に蛙が泥声をあげる。水がぬるむ。そろ/\種籾も浸さねばならぬ。桑の葉がほぐれる。彼方も此方も養蚕前の大掃除、蚕具を乾したり、ばた/\莚をはたいたり。月末には早い処では掃き立てる。蚕室を有つ家は少いが、何様な家でも少くも一二枚飼わぬ家はない。筍の出さかりで、孟宗藪を有つ家は、朝々早起きが楽だ。肥料もかゝるが、一反八十円から百円にもなるので、雑木山は追々孟宗藪に化けて行く。
五
五月だ。来月の忙さを見越して、村でも此月ばかりは陽暦で行く。大麦も小麦も見渡す限り穂になって、緑の畑は夜の白々と明ける様に、総々とした白い穂波を漂わす。其が朝露を帯びる時、夕日に栄えて白金色に光る時、人は雲雀と歌声を競いたくなる。五日は餅の節句だ。目もさむる若葉の緑から、黒い赤い紙の鯉がぬうと出てほら/\跳って居る。五月五日は府中大国魂神社所謂六所様の御祭礼。新しい紺の腹掛、紺股引、下ろし立てのはだし足袋、切り立ての手拭を顋の下でチョッキリ結びの若い衆が、爺をせびった小使の三円五円腹掛に捻込んで、四尺もある手製の杉の撥を担いで、勇んで府中に出かける。六所様には径六尺の上もある大太鼓が一個、中太鼓が幾個かある。若い逞しい両腕が、撥と名づくる棍棒で力任せに打つ音は、四里を隔てゝ鼕々と遠雷の如く響くのである。府中の祭とし云えば、昔から阪東男の元気任せに微塵になる程御神輿の衝撞あい、太鼓の撥のたゝき合、十二時を合図に燈明と云う燈明を消して、真闇の中に人死が出来たり処女が女になったり、乱暴の限を尽したものだが、警察の世話が届いて、此頃では滅多な事はなくなった。
落葉木は若葉から漸次青葉になり、杉松樫などの常緑木が古葉を落し落して最後の衣更をする。田は紫雲英の花ざかり。林には金蘭銀蘭の花が咲く。ぜんまいや、稀に蕨も立つが、滅多に見かえる者も無い。八十八夜だ。其れ茶も摘まねばならぬ。茶は大抵葉のまゝで売るのだ。隠元、玉蜀黍、大豆も蒔かねばならぬ。降って来そうだ。桑は伐ったか。桑つきが悪いはお蚕様が如何ぞしたのじゃあるまいか。養蚕教師はまだ廻って来ないか。種籾は如何した。田の荒おこしもせねばならぬ。苗代掻きもせねばならぬ。最早早生の陸稲も蒔かねばならぬ。何かと云う内、胡瓜、南瓜、甘藷や茄子も植えねばならぬ。稗や黍の秋作も蒔かねばならぬ。月の中旬には最早大麦が色づきはじめる。三寸の緑から鳴きはじめた麦の伶人の雲雀は、麦が熟れるぞ、起きろ、急げと朝未明から囀ずる。折も折とて徴兵の検査。五分苅頭で紋付羽織でも引かけた体は逞しく顔は子供した若者が、此村からも彼村からも府中に集まる。川端の嘉ちゃんは甲種合格だってね、俺が家の忠はまだ抽籤は済まねえが、海軍に採られべって事だ、俺も稼げる男の子はなし、忠をとられりゃ作代でも雇うべい、国家の為だ、仕方が無えな、と与右衛門さんが舌鼓うつ。下田の金さん宅では、去年は兄貴が抽籤で免れたが、今年は稲公が彼体格で、砲兵にとられることになった。当人は勇んで居るが、阿母が今から萎れて居る。
頓着なく日は立って行く。わかれ霜を気遣うたは昨日の様でも、最早春蝉が鳴き出して青葉の蔭がそゞろ恋しい日もある。詩人が歌う緑蔭幽草白花を点ずるの時節となって、畑の境には雪の様に卯の花が咲きこぼれる。林端には白いエゴの花がこぼれる。田川の畔には、花茨が芳しく咲き乱れる。然し見かえる者はない。大切の大切のお蚕様が大きくなって居るのだ。然し月の中に一度雹祭だけは屹度鎮守の宮でする。甲武の山近い三多摩の地は、甲府の盆地から発生する低気圧が東京湾へぬける通路に当って居るので、雹や雷雨は名物である。秋の風もだが、春暮初夏の雹が殊に恐ろしいものになって居る。雹の通る路筋はほゞきまって居る。大抵上流地から多摩川に沿うて下り、此辺の村を掠めて、東南に過ぎて行く。既に五年前も成人の拳大の恐ろしい雹を降らした。一昨年も唯十分か十五分の間に地が白くなる程降って、場所によっては大麦小麦は種も残さず、桑、茶、其外青物一切全滅した処もある。可なりの生活をして居ながら、銭になると云えば、井浚えでも屋根葺の手伝でも何でもする隣字の九右衛門爺さんは、此雹に畑を見舞われ、失望し切って蒲団をかぶって寝てしもうた。ゾラの小説「土」に、ある慾深の若い百姓が雹に降られて天に向って拳をふり上げ、「何ちゅう事をしくさるか」と怒鳴るところがあるが、無理はない。此辺では「雹乱」と云って、雹は戦争よりも恐れられる。そこで雹祭をする。榛名様に願をかける。然し榛名様も、鎮守の八幡も、如何ともしかね玉う場合がある。出水の患が無い此村も、雹の賜物は折々受けねばならぬ。村の天に納める租税である。
六
六月になった。麦秋である。「富士一つ埋み残して青葉かな」其青葉の青闇い間々を、熟れた麦が一面日の出の様に明るくする。陽暦六月は「農攻五月急於弦」と云う農家の五月だ。農家の戦争で最劇戦は六月である。六月初旬は、小学校も臨時農繁休をする。猫の手でも使いたい時だ。子供一人、ドウして中々馬鹿にはならぬ。初旬には最早蚕が上るのだ。中旬には大麦、下旬には小麦を苅るのだ。
最早梅雨に入って、じめ/\した日がつゞく。簑笠で田も植えねばならぬ。畑勝ちの村では、田植は一仕事、「植田をしまうとさば/\するね」と皆が云う。雨間を見ては、苅り残りの麦も苅らねばならぬ。苅りおくれると、畑の麦が立ったまゝに粒から芽をふく。油断を見すまして作物其方退けに増長して来た草もとらねばならぬ。甘藷の蔓もかえさねばならぬ。陸稲や黍、稗、大豆の中耕もしなければならぬ。二番茶も摘まねばならぬ。お屋敷に叱られるので、東京の下肥ひきにも行かねばならぬ。時も時とて飯料の麦をきらしたので、水車に持て行って一晩寝ずの番をして搗いて来ねばならぬ。最早甲州の繭買が甲州街道に入り込んだ。今年は値が好くて、川端の岩さん家では、四円十五銭に売ったと云う噂が立つ。隣村の浜田さんも繭買をはじめた。工女の四五人入れて足踏器械で製糸をやる仙ちゃん、長さんも、即座師の鑑札を受けて繭買をはじめた。自家のお春っ子お兼っ子に一貫目何銭の掻き賃をくれて、大急ぎで掻いた繭を車に積んで、重い車を引張って此処其処相場を聞き合わせ、一銭でも高い買手をやっと見つけて、一切合切屑繭まで売ってのけて、手取が四十九円と二十五銭。夜の目も寝ずに五十両たらずかと思うても、矢張まとまった金だ。持て帰って、古箪笥の奥にしまって茶一ぱい飲むと直ぐ畑に出なければならぬ。
空ではまだ雲雀が根気よく鳴いて居る。村の木立の中では、何時の間にか栗の花が咲いて居る。田圃の小川では、葭切が口やかましく終日騒いで居る。杜鵑が啼いて行く夜もある。梟が鳴く日もある。水鶏がコト/\たゝく宵もある。螢が出る。蝉が鳴く。蛙が鳴く。蚊が出る。ブヨが出る。蠅が真黒にたかる。蚤が跋扈する。カナブン、瓜蠅、テントウ虫、野菜につく虫は限もない。皆生命だ。皆生きねばならぬのだ。到底取りきれる事ではないが、うっちゃって置けば野菜が全滅になる、取れるだけは取らねばならぬ。此方も生きねばならぬ人間である。手が足りぬ。手が足りぬ。自家の人数ではやりきれぬ。果ては甲州街道から地所にはなれた百姓を雇うて、一反何程の請負で、田も植えさす、麦も苅らす。それでもまだやり切れぬ。墓地の骸骨でも引張り出して来て使いたい此頃には、死人か大病人の外は手をあけて居る者は無い。盲目の婆さんでも、手さぐりで茶位は沸かす。豌豆や隠元は畑に数珠生りでも、もいで煮て食う暇は無い。如才ない東京場末の煮豆屋が鈴を鳴らして来る。飯の代りに黍の餅で済ます日もある。近い所は、起きぬけに朝飯前の朝作り、遠い畑へはお春っ子が片手に大きな薬鑵、片手に茶受の里芋か餅かを入れた風呂敷包を重そうに提げ、小さな体を歪めてお八つを持て行く。斯季節に農家を訪えば大抵は門をしめてある。猫一疋居ぬ家もある。何を問うても、くる/\とした眼をって、「知ンねェや」と答うる五六歳の女の子が赤ン坊と唯二人留守して居る家もある。斯様な時によく子供の大怪我がある。家の内は麦の芒だらけ、墓地は草だらけで、お寺や教会では坊さん教師が大欠伸して居る。後生なんか願うて居る暇が無いのだ。
七
忙しい中に、月は遠慮なく七月に入る。六月は忙しかったが、七月も忙しい。
忙しい、忙しい。何度云うても忙しい。日は永くても、仕事は終えない。夜は短くてもおち/\眠ることが出来ぬ。何処の娘も赤い眼をして居る。何処のかみさんも、半病人の蒼い顔をして居る。短気の石山さんが、鈍な久さんを慳貪に叱りつける。「車の心棒は鉄だが、鉄だァて使や耗るからナ、俺ァ段々稼げなくなるのも無理はねえや」と、小男ながら小気味よく稼ぐ辰爺さんがこぼす。「違ねえ、俺ァ辰さんよか年の十も下だンべが、何糞ッ若け者に負けるもンかってやり出しても、第一息がつゞかんからナ」と岩畳づくりの与右衛門さんが相槌をうつ。然し耗っても錆びても、心棒は心棒だ。心棒が廻わらぬと家が廻わらぬ。折角苅り入れた麦も早く扱いて撲って俵にしなければ蝶々になる。今日も雨かと思うたりゃ、さあお天道様が出なさったぞ、皆来うと呼ばって、胡麻塩頭に向鉢巻、手垢に光るくるり棒押取って禾場に出る。それっと子供が飛び出す。兄が出る。弟が出る。嫁が出る。娘が出る。腰痛でなければ婆さんも出る。奇麗に掃いた禾場に一面の穂麦を敷いて、男は男、女は女と相並んでの差向い、片足踏出し、気合を入れて、一上一下とかわる/″\打下ろす。男は股引に腹かけ一つ、黒鉢巻の経木真田の帽子を阿弥陀にかぶって、赤銅色の逞しい腕に撚をかけ、菅笠若くは手拭で姉様冠りの若い女は赤襷手甲がけ、腕で額の汗を拭き/\、くるり棒の調子を合わして、ドウ、ドウ、バッタ、バタ、時々群の一人が「ヨウ」と勇みを入れて、大地も挫げと打下ろす。「お前さんとならばヨウ、何処までもウ、親を離れて彼世までもゥ」若い女の好い声が歌う。「コラコラ」皆が囃す。禾場の日はかん/\照って居る。くるり棒がぴかりと光る。若い男女の顔は、熟した桃の様に紅光って居る。空には白光りする岩雲が堆く湧いて居る。
七月中旬、梅雨があけると、真剣に暑くなる。明るい麦が取り去られて、田も畑も緑に返える。然し其は春暮の嫩らかな緑では無い、日中は緑の焔を吐く緑である。朝夕は蜩の声で涼しいが、昼間は油蝉の音の煎りつく様に暑い。涼しい草屋でも、九十度に上る日がある。家の内では大抵誰も裸体である。畑ではズボラの武太さんは褌一つで陸稲のサクを切って居る。十五六日は、東京のお盆で、此処其処に藪入姿の小さな白足袋があるく。甲州街道の馬車は、此等の小僧さんで満員である。
八
暴風にも静な中心がある。忙しい農家の夏の戦闘にも休戦の期がある。
七月末か、八月初か、麦も仕舞い、草も一先ず取りしもうた程よい頃を見はからって、月番から総郷上り正月のふれを出す。総郷業を休み足を洗うて上るの意である。其期は三日。中日は村総出の草苅り路普請の日とする。右左から恣に公道を侵した雑草や雑木の枝を、一同磨ぎ耗らした鎌で遠慮会釈もなく切払う。人よく道を弘むを、文義通りやるのである。慾張と名のある不人望な人の畑や林は、此時こそ思い切り切りまくる。昔は兎に角、此の頃では世の中せち辛くなって、物日にも稼ぐことが流行する。総郷上り正月にも、畑に田にぽつ/\働く影を見うける。
八月は小学校も休業だ。八月七日は村の七夕、五色の短冊さげた笹を立つる家もある。やがて于蘭盆会。苧殻のかわりに麦からで手軽に迎火を焚いて、それでも盆だけに墓地も家内も可なり賑合い、緋の袈裟をかけた坊さんや、仕着せの浴衣単衣で藪入に行く奉公男女の影や、断続して来る物貰いや、盆らしい気もちを見せて通る。然し斯貧しい小さな野の村では、昔から盆踊りと云うものを知らぬ。一年中で一番好い水々しい大きな月が上っても、其れは断片的に若者の歌を嗾るばかりである。まる/\とした月を象どる環を作って、大勢の若い男女が、白い地を践み、黒い影を落して、歌いつ踊りつ夜を深して、傾く月に一人減り二人寝に行き、到頭「四五人に月落ちかゝる踊かな」の趣は、此辺の村では見ることが出来ぬ。
夏蚕を飼う家はないが、秋蚕を飼う家は沢山ある。秋蚕を飼えば、八月はまだ忙しい月だ。然し秋蚕のまだ忙しくならぬ隙を狙って、富士詣、大山詣、江の島鎌倉の見物をして来る者も少くない。大山へは、夜立ちして十三里日着きする。五円持て夜徹し歩るき、眠たくなれば堂宮に寝て、唯一人富士に上って来る元気な若者もある。夏の命は日と水だ。照らねばならず、降らねばならぬ。多摩川遠い此村里では、水害の患は無いかわり、旱魃の恐れがある。大抵は都合よく夕立が来てくれる。雨乞は六年間に唯一度あった。降って欲しい時に降れば、直ぐ「おしめり正月」である。伝染病が襲うて来るも此月だ。赤痢、窒扶斯で草葺の避病院が一ぱいになる年がある。真白い診察衣を着た医員が歩く。大至急清潔法施行の布令が来る。村の衛生係が草鞋ばきの巡査さんと溷、掃溜を見てあるく。其巡査さんの細君が赤痢になったと云う評判が立つ。鉦や太鼓で念仏唱えてねりあるき、厄病禳いする村もある。
其様な騒ぎも何時しか下火になって、暑い/\と云う下から、ある日秋蝉がせわしく鳴きそめる。武蔵野の秋が立つ。早稲が穂を出す。尾花が出て覗く。甘藷を手掘りすると、早生は赤児の腕程になって居る。大根、漬菜を蒔かねばならぬ。蕎麦、秋馬鈴薯もそろ/\蒔かねばならぬ。暫く緑一色であった田は、白っぽい早稲の穂の色になり、畑では稗が黒く、黍が黄に、粟が褐色に熟れて来る。粟や黍は餅にしてもまだ食える。稗は乃木さんでなければ中々食えぬ。此辺では、米を非常、挽割麦を常食にして、よく/\の家でなければ純稗の飯は食わぬ。下肥ひきの弁当に稗の飯でも持って行けば、冷たい稗はザラ/\して咽を通らぬ。湯でも水でもぶっかけてざぶ/\流し込むのである。若い者の楽の一は、食う事である。主人は麦を食って、自分に稗を食わした、と忿って飛び出した作代もある。
九
九月は農家の厄月、二百十日、二百二十日を眼の前に控えて、朔日には風祭をする。麦桑に雹を気づかった農家は、稲に風を気づかわねばならぬ。九月は農家の鳴戸の瀬戸だ。瀬戸を過ぐれば秋の彼岸。蚊帳を仕舞う。おかみや娘の夜延仕事が忙しくなる。秋の田園詩人の百舌鳥が、高い栗の梢から声高々と鳴きちぎる。栗が笑む。豆の葉が黄ばむ。雁来紅が染むを相図に、夜は空高く雁の音がする。林の中、道草の中、家の中まで入り込んで、虫と云う虫が鳴き立てる。早稲が黄ろくなりそめる。蕎麦の花は雪の様だ。彼岸花と云う曼珠沙華は、此辺に少ない。此あたりの彼岸花は、萩、女郎花、嫁菜の花、何よりも初秋の栄を見せるのが、紅く白く沢々と絹総を靡かす様な花薄である。子供が其れを剪って来て、十五夜の名月様に上げる。萱は葺料にして長もちするので、小麦からの一束五厘に対し、萱は一銭も其上もする。そこで萱野を仕立てゝ置く家もある。然し東京がます/\西へ寄って来るので、萱野も雑木山も年々減って行くばかりである。
九月は農家の祭月、大事な交際季節である。風の心配も兎やら恁うやら通り越して、先収穫の見込がつくと、何処の村でも祭をやる。木戸銭御無用、千客万来の芝居、お神楽、其れが出来なければ詮方無しのお神酒祭。今日は粕谷か、明日は廻沢烏山は何日で、給田が何日、船橋では、上下祖師ヶ谷では、八幡山では、隣村の北沢では、と皆が指折数えて浮き立つ。彼方の村には太鼓が鳴る。此方の字では舞台がけ。一村八字、寄合うて大きくやればよさそうなものゝ、八つの字には八つの意志と感情と歴史があって、二百戸以上の烏山はもとより、二十七戸の粕谷でも、十九軒の八幡山でも、各自に自家の祭をせねば気が済まぬ。祭となれば、何様な家でも、強飯を蒸す、煮染をこさえる、饂飩をうつ、甘酒を作って、他村の親類縁者を招く。東京に縁づいた娘も、子を抱き亭主や縁者を連れて来る。今日は此方のお神楽で、平生は真白な鳥の糞だらけの鎮守の宮も真黒になる程人が寄って、安小間物屋、駄菓子屋、鮨屋、おでん屋、水菓子屋などの店が立つ。神楽は村の能狂言、神官が家元で、村の器用な若者等が神楽師をする。無口で大兵の鉄さんが気軽に太鼓をうったり、気軽の亀さんが髪髯蓬々とした面をかぶって真面目に舞台に立ちはだかる。「あ、ありゃ亀さんだよ、まァ」と可笑しざかりのお島がくつ/\笑う。今日自家の祭酒に酔うた仁左衛門さんが、明日は隣字の芝居で、透綾の羽織でも引被け、寸志の紙包を懐中して、芝居へ出かける。毎日近所で顔を合して居ながら、畑の畔の立話にも、「今日は」「今日は」と抑天気の挨拶からゆる/\とはじめる田舎気質で、仁左衛門さんと隣字の幹部の忠五郎さんとの間には、芝居の科白の受取渡しよろしくと云う挨拶が鄭重に交換される。輪番に主になったり、客になったり、呼びつ喚ばれつ、祭は村の親睦会だ。三多摩は昔から人の気の荒い処で、政党騒ぎではよく血の雨を降らし、気の立った日露戦争時代は、農家の子弟が面籠手かついで調布まで一里半撃剣の朝稽古に通ったり柔道を習ったりしたものだが、六年前に一度粕谷八幡山対烏山の間に大喧嘩があって、仕込杖が光ったり怪我人が出来たり長い間揉めくった以来、此と云う喧嘩の沙汰も聞かぬ。泰平有象村々酒。祭が繁昌すれば、田舎は長閑である。
十
十月だ。稲の秋。地は再び黄金の穂波が明るく照り渡る。早稲から米になって行く。性急に百舌鳥が鳴く。日が短くなる。赤蜻蛉が夕日の空に数限りもなく乱れる。柿が好い色に照って来る。ある寒い朝、不図見ると富士の北の一角に白いものが見える。雨でも降ったあとの冷たい朝には、水霜がある。
十月は雨の月だ。雨がつゞいたあとでは、雑木林に茸が立つ。野ら仕事をせぬ腰の曲った爺さんや、赤児を負ったお春っ子が、笊をかゝえて採りに来る。楢茸、湿地茸、稀に紅茸、初茸は滅多になく、多いのが油坊主と云う茸だ。一雨一雨に気は冷えて行く。田も林も日に/\色づいて行く。甘藷が掘られて、続々都へ運ばれる。田舎は金が乏しい。村会議員の石山さんも、一銭違うと謂うて甲州街道の馬車にも烏山から乗らずに山谷から乗る。だから、村の者が甘藷を出すにも、一貫目につき五厘も値がよければ、二里の幡ヶ谷に下ろすより四里の神田へ持って行く。
茶の花が咲く。雑木林の楢に絡む自然薯の蔓の葉が黄になり、藪からさし出る白膠木が眼ざむる様な赤になって、お納戸色の小さなコップを幾箇も列ねて竜胆が咲く。樫の木の下は、ドングリが箒で掃く程だ。最早豌豆や蚕豆も蒔かねばならぬ。蕎麦も霜前に苅らねばならぬ。また其れよりも農家の一大事、月の下旬から来月初旬にかけて、最早麦蒔きがはじまる。後押しの二人もついて、山の如く堆肥を積んだ車が頻に通る。先ず小麦を蒔いて、後に大麦を蒔くのである。奇麗に平した畑は一条一条丁寧に尺竹をあて、縄ずりして、真直ぐに西から東へ畝を立て、堆肥を置いて土をかけ、七蔵が種を振れば、赤児を負った若いかみさんが竹杖ついて、片足かわりに南から北へと足で土をかけて、奇麗に踏んづけて行く。燻炭肥料の、条播のと、農会の勧誘で、一二年やって見ても、矢張仕来りの勝手がよい方でやって行くのが多い。
十一
霜らしい霜は、例年明治天皇の天長節、十一月三日頃に来る。手を浄めに前夜雨戸をあくれば、鍼先を吹っかくる様な水気が面を撲って、遽てゝもぐり込む蒲団の中でも足の先が縮こまる程いやに冷たい、と思うと明くる朝は武蔵野一面の霜だ。草屋根と云わず、禾場と云わず、檐下から転び出た木臼の上と云わず、出し忘れた物干竿の上のつぎ股引と云わず、田も畑も路も烏の羽の上までも、真白だ。日が出ると、晶々とした白金末になり、紫水晶末になるのである。山風をあらしと云えば霜の威力を何に譬えよう? 地の上の白火事とでも云おう。大抵のものは爛れてしまう。桑と云う桑の葉は、ぐったりとなって、二日もすれば、歯がぬける様にひとりでにぼろりと落ちる。生々として居た甘藷の蔓は、唯一夜に正しく湯煎られた様に凋れて、明くる日は最早真黒になり、触ればぼろ/\の粉になる。シャンとして居た里芋の茎も、ぐっちゃりと腐った様になる。畑が斯うだから、園の内も青い物は全滅、色ある物は一夜に爛れて了うのである。霜にめげぬは、青々とした大根の葉と、霜で甘くなる漬菜の類と、それから緑の縞を土に織り出して最早ぼつ/\生えて来た大麦小麦ばかりである。
霜は霽に伴う。霜の十一月は、日本晴の明るい明るい月である。富士は真白。武蔵野の空は高く、たゝけばカン/\しそうな、碧瑠璃になる。朝日夕日が美しい。月や星が冴える。田は黄色から白茶になって行く。此処其処の雑木林や村々の落葉木が、最後の栄を示して黄に褐に紅に照り渡る。緑の葉の中に、柚子が金の珠を掛ける。光明は空から降り、地からも湧いて来る。小学校の運動会で、父兄が招かれる。村の恵比寿講、白米五合銭十五銭の持寄りで、夜徹の食ったり飲んだり話したりがある。日もいよ/\短くなる。甘藷や里芋も掘って、土窖に蔵わねばならぬ。中稲も苅らねばならぬ。其内に晩稲も苅らねばならぬ。でも、夏の戦闘に比べては、何を云っても最早しめたものである。朝霜、夜嵐、昼は長閑な小春日がつゞく。「小春日や田舎に廻る肴売」。「は? ?」「秋刀魚や秋刀魚!」のふれ声が村から村を廻ってあるく。牛豚肉は滅多に食わず、川魚は少し、稀に鼬に吸われた鶏でも食えば骨までたゝいて食い、土の物の外は大抵塩鮭、めざし、棒鱈にのみ海の恩恵を知る農家も、斯様な時には炙れば青い焔立つ脂ぎった生魚を買って舌鼓うつのである。
月の末方には、除隊の兵士が帰って来る。近衛か、第一師団か、せめて横須賀位ならまだしも、運悪く北海道三界旭川へでもやられた者は、二年ぶり三年ぶりで帰って来るのだ。親類縁者は遠出の出迎、村では村内少年音楽隊を先に立て、迎何々君之帰還の旗押立てゝ、村界まで迎いに出かける。二年三年の兵営生活で大分世慣れ人ずれて来た丑之助君が、羽織袴、靴、中折帽、派手をする向きは新調のカーキー服にギュウ/\云う磨き立ての長靴、腰の淋しいのを気にしながら、胸に真新しい在郷軍人徽章をつるして、澄まし返って歩いて来る。面々各自の挨拶がある。鎮守の宮にねり込んで、取りあえず神酒一献、古顔の在郷軍人か、若者頭の音頭で、大日本帝国、天皇陛下、大日本帝国陸海軍、何々丑之助君の万歳がある。丑之助君が何々有志諸君の万歳を呼ぶ。其れから丑之助君を宅へ送って、いよ/\飲食だ。赤の飯、刻※[#「魚+昜」、上巻-147-8]菎蒻里芋蓮根の煮染、豆腐に芋の汁、はずんだ家では菰冠りを一樽とって、主も客も芽出度と云って飲み、万歳と云っては食い、満腹満足、真赤になって祝うのだ。二三日すると帰り新参の丑之助君が、帰った時の服装で神妙に礼廻りをする。軒別に手拭か半紙。入営に餞別でも貰った家へは、隊名姓名を金文字で入れた盃や塗盆を持参する。兵士一人出す家の物入も大抵では無い。
兵隊さんの出代りで、除隊を迎えると、直ぐ入営送りだ。体格がよく、男の子が多くて、陸海軍拡張の今日と来て居るので、何れの字からも二人三人兵士を出さぬ年は無い。白羽の箭が立った若者には、勇んで出かける者もある。抽籤を遁れた礼参りに、わざ/\鴻の巣在の何宮さんまで出かける若者もある。二十歳前後が一番百姓仕事に実が入る時ですから、とこぼす若い爺さんもある。然し全国皆兵の今日だ。一人息子でも、可愛息子でも、云い聞かされた「国家の為」だ、出せとあったら出さねばならぬ。出さぬと云ったら、お上に済まぬ。近所に済まぬ。そこで父の右腕、母のおもい子の岩吉も、頭は五分刈、中折帽、紋付羽織、袴、靴、凜とした装で、少しは怯々した然し澄ました顔をして、鎮守の宮で神酒を飲まされ、万歳の声と、祝入営の旗五六本と、村楽隊と、一字総出の戸主連に村はずれまで見送られ、知らぬ生活に入る可く往ってしまう。二三日、七八日過ぐると、軒別に入営済の御礼のはがきが来る。
十二
兵隊さんの出代りを村の一年最後の賑合にして、あとは寂しい初冬の十二月に入る。
「稼収平野濶」晩稲も苅られて、田圃も一望ガランとして居る。畑の桑は一株ずつ髻を結われる。一束ずつ奇麗に結わえた新藁は、風よけがわりにずらりと家の周囲にかけられる。ざら/\と稲を扱く音。カラ/\と唐箕車を廻す響。大根引、漬菜洗い、若い者は真赤な手をして居る。昼は北を囲うた南向きの小屋の蓆の上、夜は炉の傍で、かみさんはせっせと股引、足袋を繕う。夜は晩くまで納屋に籾ずりの響がする。突然にざあと時雨が来る。はら/\と庇をうって霰が来る。ちら/\と風花が降る。北から凩が吹いて来て、落葉した村の木立を騒々しく鳴らす。乾いた落葉が、遽てゝカラカラと舞い奔る。箒を逆に立てた様な雑木山に、長い鋸を持った樵夫が入って、啣え煙管で楢や櫟を薪に伐る。海苔疎朶を積んだ車が村を出る。冬至までは、日がます/\つまって行く。六時にまだ小暗く、五時には最早闇い。流しもとに氷が張る。霜が日に/\深くなる。
十五日が世田ヶ谷のボロ市。世田ヶ谷のボロ市は見ものである。松陰神社の入口から世田ヶ谷の上宿下宿を打通して、約一里の間は、両側にずらり並んで、農家日用の新しい品々は素より、東京中の煤掃きの塵箱を此処へ打ち明けた様なあらゆる襤褸やガラクタをずらりと並べて、売る者も売る、買う者も買う、と唯驚かるゝばかりである。見世物が出る。手軽な飲食店が出る。咽を稗が通る様に、店の間を押し合いへし合いしてぞろ/\人間が通る。近郷近在の爺さん婆さん若い者女子供が、股引草鞋で大風呂敷を持ったり、荷車を挽いたり、目籠を背負ったりして、早い者は夜半から出かける。新しい莚、筍掘器、天秤棒を買って帰る者、草履の材料やつぎ切れにする襤褸を買う者、古靴を値切る者、古帽子、古洋燈、講談物の古本を冷かす者、稲荷鮨を頬張る者、玉乗の見世物の前にぽかんと立つ者、人さま/″\物さま/″\の限を尽す。世田ヶ谷のボロ市を観て悟らねばならぬ、世に無用のものは無い、而して悲観は単に高慢であることを。
ボロ市過ぎて、冬至もやがてあとになり、行く/\年も暮になる。蛇は穴に入り人は家に籠って、霜枯の武蔵野は、静かな昼にはさながら白日の夢に定に入る。寂しそうな烏が、此樫の村から田圃を唖々と鳴きながら彼欅の村へと渡る。稀には何処から迷い込んだか洋服ゲートルの猟者が銃先に鴫や鵯のけたゝましく鳴いて飛び立つこともあるが、また直ぐともとの寂しさに返える。凩の吹く夜は、海の様な響が武蔵野に起って、人の心を遠く遠く誘うて行く。但東京の屋敷に頼まれて餅を搗く家や、小使取りに餅舂きに東京に出る若者はあっても、村其ものには何処に師走の忙しさも無い。二十五日、二十八日、晦日、大晦日、都の年の瀬は日一日と断崖に近づいて行く。三里東の東京には、二百万の人の海、嘸さま/″\の波も立とう。日頃眺むる東京の煙も、此四五日は大息吐息の息巻荒くる様に見える。然し此処は田舎である。都の師走は、田舎の霜月。冬枯の寂しい武蔵野は、復活の春を約して、麦が今二寸に伸びて居る。気に入りの息子を月の初に兵隊にとられて、寂しい心の辰爺さんは、冬至が過ぎれば日が畳の目一つずつ永くなる、冬のあとには春が来る、と云う信仰の下に、時々竹箆で鍬の刃につく土を落しつゝ、悠々と二寸になった麦のサクを切って居る。
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媒妁
結婚の媒妁を頼まれた。式は宜い様にやってくれとの事である。新郎とは昨今の知合で、新婦は初めて名を聞いた。媒妁なンか経験もなし、断ったが、是非との頼み、諾と面白半分引受けてしもうた。
明治四十年の九月某日、媒妁夫妻は小婢と三人がかりで草屋の六畳二室を清め、赤、白、鼠、婢の有まで借りて、あらん限りの毛布を敷きつめた。家のまわりも一わたり掃いた。隔ての唐紙を取払い、テーブルを一脚東向きに据え、露ながら折って来た野の草花を花瓶一ぱいに插した。女郎花、地楡、水引、螢草、うつぼ草、黄碧紫紅入り乱れて、あばら家も為に風情を添えた。媒妁夫妻は心嬉しく、主人は綿絽の紋付羽織に木綿茶縞の袴、妻は紋服は御所持なしで透綾の縞の単衣にあらためて、徐に新郎新婦の到着を待った。
正午過ぎ、村を騒がして八台の車が来た。新郎新婦及縁者の人々である。新婦は初めて見た。眼のきれの長い佳人である。更衣室も無いので、仕切りの障子をしめ、二畳の板の間を半分占めた古長持の上に妻の鏡台を置いた。鏡台の背には、破簾を下げて煤だらけの勝手を隔てた。二十分の後此楽屋から現われ出た花嫁君を見ると、秋草の裾模様をつけた淡紅色絽の晴着で、今咲いた芙蓉の花の様だ。花婿も黒絽紋付、仙台平の袴、凜として座って居る。
媒妁は一咳してやおら立上った。
「勝田慶三郎」
「松居千代」
卒業免状でも渡す時の様に、声厳に新郎新婦を呼び出して、テーブルの前に立たせた。而して媒妁は自身愛読する創世記イサク、リベカ結婚の条を朗々と読み上げた。
「祈祷を致します」
斯く云って、媒妁がやゝ久しく精神を統一すべく黙って居ると、
「祈祷を致すのでございますか」
と新郎がやゝ驚いた様に小声できく。媒妁は頓着なく祝祷をはじめた。
祈祷が終る。妻が介抱して、新郎新婦を握手させる。一旦新婦の手からぬいて置いた指環を新郎に渡し、あらためて新郎の手ずから新婦の指に嵌めさす。二人ながら震えて居る。
屋敷に門無く、障子は穴だらけである。村あってより見たこともない夥しい車の入来に眼を驚かした村の子供が、草履ばた/\大勢縁先に入り込んで、ぽかんとした口だの、青涕の出入する鼻だの、驚いた様な眼だのが、障子の穴から覗いて居る。「何だ、ありゃ」。「あ、あ、あら、如何するだンべか」なンか云って居る。
六畳の大広間には、新郎新婦相並んで正面赤毛布の上に座って居る。結婚証書を三通新婦の兄者人に書いてもらって、新郎新婦をはじめ其尊長達、媒妁夫妻も署名した。これで結婚式は芽出度終った。小婢が茶を運んで来た。菓子が無いので、有り合せの梨を剥き、数が無いので小さく切って、小楊枝を添えて出した。
四時過ぎお開きとなった。
媒妁の役目相済んだつもりで納まって居ると、神田の料理屋で披露の宴をするとの事で、連れて来られた車にのせられ、十台の車は静かな村を犇めかして勢よく新宿に向った。新宿から電車でお茶の水に下り、某と云う料理店に案内された。
媒妁は滅多に公会祝儀の席なぞに出た事のない本当の野人である。酒がはじまった。手をついたり、お辞儀をしたり、小むつかしい献酬の礼が盛に行われる。酒を呑まぬ媒妁は、ぽかんとして皆の酒を飲むのを眺めて居る。料理が出たが、菜食主義の彼は肉食をせぬ。腹は無闇に減る。新郎の母者人が「ドウカお吸物を」との挨拶が無い前に、勝手に吸物椀の蓋をとって、鱚のムスビは残して松蕈とミツバばかり食った。
九時過ぎやっとお開きになった。媒妁夫婦は一同に礼して、寿の字の風呂敷に包んだ引き物の鰹節籠を二つ折詰を二つもらって、車で送られてお茶の水停車場に往った。媒妁の家は菜食で、ダシにも昆布を使って居るので、二つの鰹節包は二人の車夫にやった。車夫は眼を円くして居た。
新宿に下りると、雨が盛に降って居る。夜も最早十時、甲州街道口に一台の車も居ない。媒妁夫婦は、潜りの障子だけあかりのさした店に入って、足駄と傘とブラ提灯と蝋燭とマッチと糸経を買った。而しておの/\糸経を被り、男が二人のぬいだ日和下駄を風呂敷包にして腰につけ、小婢にみやげの折詰二箇半巾に包んで片手にぶら下げて、尻高々とからげれば、妻は一張羅の夏帯を濡らすまいとて風呂敷を腰に巻き、単衣の裾短に引き上げて、提灯ぶら提げ、人通りも絶え果てた甲州街道三里の泥水をピチャリ/\足駄に云わして帰った。
「如何だ、此態を勝田君に書いてもらったら、一寸茶番の道行が出来ようじゃないか」
夫が笑えば、妻も噴き出し、
「本当にね」
と相槌をうった。
新郎勝田君は、若手で錚々たる劇作家である。
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螢
先刻から田圃に呼びかわす男の子の声がして居たと思うたら、闇の門口から小さな影が二つ三つ四つ縁先にあらわれた。小さな握拳の指の間から、ちら/\碧い光を見せて居る。
皆近所の子で、先夜主人が「ミゼラーブル」の話を聞いて息をのんだ連中である。
「螢を捕ったね」
「え」
と一人が云ったが、
「あ、此れに這わせて見べいや」
と云って、縁先に据えてある切株の上の小さな姫蘆の橢円形の水盤へ、窃と拳の中のものを移した。
すると、余の子供が吾も吾もと皆手を水盤の上に解いた。水を吹いた小さな姫蘆の葉の上、茎の間、蘆の根ざす小さな岩の上に、生きた、緑玉、碧玉、孔雀石の片がほろ/\とこぼれて、其数約二十余、葉末の露にも深さ一分の水盤の水にも映って、光ったり、消えたり、嬉しそうに明滅して、飛び立とうともしない。
「綺麗だ喃」
「綺麗だ喃」
皆嬉々としてしたり貌にほめそやす。
「皆何してるだか」
云って、また二人男の子が草履の音をさせて入って来た。
「あッ綺麗だな、俺がのも明けてやるべ」
と云って、また二人して八九疋螢の島へ螢を放った。
主人と妻と逗留に来て居る都の娘と、ランプを隅へ押しやって、螢と螢を眺むる子供を眺める。田圃の方から涼しい風が吹いて来る。其風に瞬く小さな緑玉の灯でゞもあるように、三十ばかりの螢がかわる/″\明滅する。縁にかけたり蹲んだりして、子供は黙って見とれて居る。
斯涼しい活画を見て居る彼の眼前に、何時とはなしにランプの明るい客間があらわれた。其処に一人の沈欝な顔をして丈高い西洋人が立って居る。前には学生が十五六人腰かけて居る。学生の中に十二位の男の子が居る。其は彼自身である。彼は十二の子供で、京都同志社の生徒である。彼は同窓諸子と宣教師デビス先生に招かれて、今茶菓と話の馳走になって居るのである。米国南北戦争に北軍の大佐であったとか云うデビス先生は、軍人だけに姿勢が殊に立派で、何処やら武骨な点もあって、真面目な時は頗る厳格沈欝な、一寸畏ろしい様な人であったが、子供の眼からも親切な、笑えば愛嬌の多い先生だった。何かと云うと頭を掉るのが癖だった。毎度先生に招かるゝ彼等学生は、今宵も蜜柑やケークの馳走になった。赤い碁盤縞のフロックを着た先生の末子が愛想に出て来たが、うっかり放屁したので、学生がドッと笑い出した。其子が泣き出した。デビス先生は左の手で泣く子の頭を撫で、右手の金網の炮烙でハゼ玉蜀黍をあぶりつゝ、プチヽヽプチヽヽ其はぜる響を口真似して笑いながら頭を掉られた。其つゞきである。先生は南北戦争の逸事を話して、ある夜火光を見さえすれば敵が射撃するので、時計を見るにマッチを擦ることもならず、恰飛んで居た螢を捉えて時計にのせて時間を見た、と云う話をされた。
其れは彼が今此処に居る子供の一番小さなの位の昔であった。其後彼はデビス先生に近しくする機会を有たなかった。先生の夫人は其頃から先生よりも余程ふけて居られた。後気が変になり、帰国の船中太平洋の水屑になられたと聞いて居る。デビス先生は男らしく其苦痛に耐え、宣教師排斥が一の流行になった時代に処して、恚らず乱れず始終一貫同志社にあって日本人の為に尽し、「吾生涯即吾遺言也」との訣辞を残して、先年終に米国に逝かれた。
螢を見れば常に憶い出すデビス先生を、彼は今宵も憶い出した。
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夕立雲
畑のものも、田のものも、林のものも、園のものも、虫も、牛馬も、犬猫も、人も、あらゆる生きものは皆雨を待ち焦れた。
「おしめりがなければ、街道は塵埃で歩けないようでございます」と甲州街道から毎日仕事に来るおかみが云った。
「これでおしめりさえあれば、本当に好いお盆ですがね」と内の婢もこぼして居た。
両三日来非常に蒸す。東の方に雲が立つ日もあった。二声三声雷鳴を聞くこともあった。
「いまに夕立が来る」
斯く云って幾日か過ぎた。
今日早夕飯を食って居ると、北から冷やりと風が来た。眼を上げると果然、北に一団紺色の雲が蹲踞んで居る。其紺の雲を背に、こんもりした隣家の杉樫の木立、孟宗竹の藪などが生々しい緑を浮かして居る。
「夕立が来るぞ」
主人は大声に呼んで、手早く庭の乾し物、履物などを片づける。裏庭では、婢が駈けて来て洗濯物を取り入れた。
やがて食卓から立って妻児が下りて来た頃は、北天の一隅に埋伏し居た彼濃い紺色の雲が、倏忽の中にむら/\と湧き起った。何の艶もない濁った煙色に化り、見る/\天穹を這い上り、大軍の散開する様に、東に、西に、天心に、ず、ずうと広がって来た。
三人は芝生に立って、驚嘆の眼をって斯夥しい雨雲の活動を見た。
あな夥しの雲の勢や。黙示録に「天は巻物を捲くが如く去り行く」と歌うたも無理はない。青空は今南の一軸に巻き蹙められ、煤煙の色をした雲の大軍は、其青空をすら余さじものをと南を指してヒタ押しに押寄せて居る。つい今しがたまで雨を恋しがって居た乾き切った真夏の喘ぎは何処へ往ったか。唯十分か十五分の中に、大地は恐ろしい雨雲の下に閉じこめられて、冷たい黯い冥府になった。
雲の運動は秒一秒劇しくなった。南を指して流るゝ雲、渦まく雲、真黒に屯って動かぬ雲、雲の中から生るゝ雲、雲を摩って移り行く雲、淡くなり、濃くなり、淡くなり、北から東へ、東から西へ、北から西へ、西から南へ、逆流して南から東へ、世界中の煙突と云う煙突をこゝに集めて煤煙の限りなく涌く様に、眼を驚かす雲の大行軍、音響を聞かぬが不思議である。
彼等は驚異の眼をって、此活動する雲の下に魅せられた様に彳んだ。冷たい風がすうっすうっと顔に当る。後れ馳せに雷がそろ/\鳴り出した。北の方で、条をなさぬ紅や紫の電光が時々ぱっぱっと天の半壁を輝して閃めく。近づく雷雨を感じつゝ、彼等は猶頭上の雲から眼を離し得なかった。薄汚い煤煙色をした満天の雲はます/\南に流れる、水の様に、霧の様に、煙の様に。空は皆動いて居る。濶い空の何の一寸四方として動いて居ないのはない。皆恐ろしい勢を以て動いて居る。仰ぎ見る彼等は、流るゝ雲に引きずられてやゝもすれば駈け出しそうになる足を踏みしめ踏みしめ立って居なければならなかった。時々西の方で、或一処雲が薄れて、探照燈の光めいた生白い一道の明が斜に落ちて来て、深い深い井の底でも照す様に、彼等と其足下の芝生だけ明るくする。彼等ははっと驚惶の眼を見合わす。と思うと、怒れる神の額の如く最早真闇に真黒になって居る。妻児の顔は土色になった。草木も人も息を屏めたかの様に、一切の物音は絶えた。何処から来たか、犬のデカが不安の眼つきをして見上げつゝ、大きな体を主人の脚にすりつける。
空は到頭雲をかぶって了った。著しく水気を含んだ北風が、ぱっ/\と顔を撲って来た。やがて粒だった雨になる。雷も頭上近くなった。雲見の一群は、急いで家に入った。母屋の南面の雨戸だけ残して、悉く戸をしめた。暗いのでランプをつけた。
ざあっと降り出した。雷が鳴る。一庭の雨脚を凄じく見せて、ピカリと雷が光る。颯、颯と烈しく降り出した。
見る/\庭は川になる。雨が飛石をうって刎ねかえる。目に入る限りの緑葉が、一葉々々に雨を浴びて、嬉しげにぞく/\身を震わして居る。
「あゝ好いおしめりだ」
斯く云った彼等は、更に
「まだ七時前だよ、まあ」
と婢の云う声に驚かされた。
夕立から本降りになって、雨は夜すがら降った。
(大正元年 八月十四日)
[#改ページ]葬式
一
午前十時と云う触込みなので、十一時に寺本さんの家に往って見ると、納屋と上塗せぬ土蔵の間の大きな柿の木の蔭に村の衆がまだ五六人、紙旗を青竹に結いつけて居る。
「ドウも御苦労さま、此方様でも御愁傷な」
と云う慣例の挨拶を交わして、其の群に入る。一本の旗には「諸行無常」、一本には「是生滅法」、一本には「皆滅々己」、今一本には何とか書いてある。其上にはいずれも梵字で何か書いてある。
「お寺は東覚院ですか」
「否、上祖師ヶ谷の安穏寺です」
其安穏寺の坊さんであろう、紫紺の法衣で母屋の棺の前に座って居るのが、此方から見える。棺は緑色の簾をかけた立派な輿に納めて、母屋の座敷の正面に据えてある。洋服の若い男が坊さんと相対して座って居る。医者であろう。左の腕に黒布を巻いた白衣の看護婦の姿が見える。
「看護婦さんも、癒って帰るじゃ帰り力があるが」と誰やらが嘆息する。
時分だから上れと云わるゝので、諸君の後について母屋の表縁側から上って、棺の置いてある十畳の次ぎの十畳に入る。頭の禿げた石山氏が、黒絽の紋付、仙台平の袴で、若主人に代って応対する。諸君と共に二列に差向って、饌に就く。大きな黒塗の椀に堆く飯を盛ってある。汁椀は豆腐と茄子と油揚のつゆで、向うに沢庵が二切つけてある。眼の凹い、鮫の歯の様な短い胡麻塩髯の七右衛門爺さんが、年増の婦人と共に甲斐しく立って給仕をする。一椀をやっと食い終えて、すべり出る。
二
柿の木蔭は涼しい風が吹いて居る。青苔蒸した柿の幹から花をつけた雪の下が長くぶら下って居る。若い作男が其処にあった二台の荷車を引きのけ、大きな鍵で土蔵の戸前を開けて、蓆を七八枚出して敷いてくれた。其れに座った者もある。足駄ばきのまゝ蹲んで話して居る者もある。彼は納屋の檐下にころがって居る大きな木臼の塵を払って腰かけた。追々人が殖えて、柿の下は十五六人になった。
「何しろむつかしい事がありゃ一番に飛び込もうと云うンだからエライや」
「全くだね。寺本さんはソノ粕谷の人物ばかりじゃねえ、千歳村の人物だからね」
と紺飛白で何処やら品の好い昨年母をなくした仁左衛門さんが相槌をうつ。「俺ァ全くがっかりしちまった。コウ兄か伯父見たいで、何と云いや来ちゃ相談したもンだからな。今後何処へ往って相談したらいゝんだか――勘さん、卿の所へでも往くだね」と縞の夏羽織を着た矮い真黒な六十爺さんの顔を仁左衛門さんは見る。爺さんは黙って左の掌にこつ/\煙管をはたいて居る。
「寺本さんも、こちとら見たいに銭が無かったから何だが、あれで金でも持って居たらソラエライ事をやる人だったが」と隅の方から誰やら云うた。
「他が死にゃ働くなンか全くいやになっちまうね」まだ若い組の浜田の金さんが云う。
「いやになったって、死にゃえゝが、生命がありゃ困っちまうからな」
故人の弟達や縁者の志だと云って、代々木の酒屋の屋号のついた一升徳利が四本持ち出された。茶碗と箸と、それから一寸五分角程に切った冷豆腐に醤油をぶっかけた大皿と、輪ぎりにした朝漬の胡瓜の皿が運ばれた。皆蓆の上に車座になった。茶碗になみ/\と酒が注がれた。彼も座って胡瓜の漬物をつまむ。羽織袴の幸吉さんが挨拶に来た。故人の弟である。故人は丈高い苦み走った覇気満々たる男であったが、幸さんは人の好さそうな矮い男だ。一戸から一銭出した村香奠の礼を丁寧に述べて、盃を重ぬべく挨拶して立つ。
「幸さん一つ」と誰やらが茶碗をさす。
「酒どころかよ、兄貴が死んだンだ、本当に」と来た時から已に真赤な顔して居た辰爺さん――勘さんの弟――が怒鳴る。皆がドッと笑う。
「兄貴が死んだンだ、本当に、酒どころかよ」と辰爺さんは呟く様に繰りかえす。
皆好い顔になって立上った。村中で唯一人のチョン髷の持主、彼に対してはいつも御先生と挨拶する佐平爺さんは、荒蓆の上にころり横になって、肱枕をしたが、風がソヨ/\吹くので直ぐ快い気もちに眠ってしまったと見え、其腫れぼったい瞼はヒタと押かぶさって、浅葱縞の単衣の脇がすう/\息つく毎に高くなり低くなりして居る。
三
母屋の方では、頻に人が出たり入ったりして居る。白襦袢、白の半股引、紺の腹掛、手拭を腰にさげた跣足の若い衆は、忙しそうに高張の白提灯の仕度をしたり、青竹のもとを鉈で削いだりして居る。
二人挽の車が泥塗になって、入って来た。車から下りた銀杏返の若い女は、鼠色のコオトをぬいで、草色の薄物で縁に上り、出て来た年増の女と挨拶して居る。
「井は何処ですかな」
抓んだ手拭で額の汗を拭き/\、真赤になった白襦袢の車夫の一人が、柿の木の下の群に来て尋ねる。
「井かね、井は直ぐ其裏にあるだよ、それ其処をそう往ってもえゝ、彼方へ廻ってもいかれるだ」辰爺さんが顋でしゃくる。
美的百姓は木臼に腰かけたまゝ、所在なさに手近にある大麦の穂を摘んでは、掌で籾を摺って噛って居る。不図気がつくと、納屋の檐下には、小麦も大麦も刈入れた束のまゝまだ扱きもせずに入れてある。他所では最早棒打も済んだ家もある。此家の主人の病気が、如何に此家の機関を停止して居たかが分かる。美的百姓も、黯い気分になった。此家の若主人に妻君があったか如何か、と辰爺さんに尋ねて見た。
「まだ何もありませんや。ソラ、去年の暮に帰って来たばかりだからね」
然だ。若主人は二年の兵役にとられて、去年の十二月初やっと帰って来たのであった。一人息子だったので、彼を兵役に出したあと、五十を越した主人は分外に働かねばならなかった。彼の心臓病は或は此無理の労働の結果であったかも知れぬ。尤も随分酒は飲んで居た。故人は村の兵事係であった。一人子でも、兵役に出すは国家に対する義務ですからと、毎に云うて居た。若主人の留守中、彼の手助けは若い作男であった。故人は其作代が甲斐々々しく骨身を惜まず働く事を人毎に誉めて居た。
時が大分移った。酔った辰爺さんは煙管と莨入を両手に提げながら、小さな体をやおら起して、相撲が四股を踏む様に前を明けはたげ、「のら番は何しとるだんべ。のら番を呼んで来う」と怒鳴った。
「野良番を呼んで来う。のら番は何しとるだンべ。酔っぱらって寝てしまったンべ」と辰爺さんは重ねて怒鳴った。
「何、銀平さんに文ちゃんだから、酔っぱらってなンか居るもンか。最早来る時分だ」仁左衛門さんが宥める。
「いや野ら番ばかりァ酒が無えじゃやりきれねえナ。彼臭いがな」と誰やらが云う。
「来た、来た、噂をすりゃ影だ、野ら番が来た」
墓掘番の四人が打連れて来た。
「御苦労様でしたよ」皆が挨拶する。
「棺が重いぞ。四人じゃ全くやりきれねえや。八人舁きだもの」と云う声がする。
勘爺さんが頷いた。「然だ/\、手代りでやるだな。野良番が四人に、此家の作代に、俺が家の作代に、それから石山さんの作代に、それから、七ちゃんでも舁いてもらうべい」
野良番四人の為に蓆の上に膳が運ばれた。赤児の風呂桶大の飯櫃が持て来られる。食事半に、七右衛門爺さんが来て切口上で挨拶し、棺を舁いで御出の時襷にでもと云って新しい手拭を四筋置いて往った。粕谷で其子を中学二年までやった家は此家ばかりと云う程万事派手であった故人が名残は、斯様な事にまであらわれた。
四
「念仏でもやるべいか」
と辰爺さんが言い出した。「おい、幸さんとこの其児、鉦を持て来いよ」
呼ばれた十二三の子が紐をつけた鉦と撞木を持て来た。辰爺さんはガンと一つ鳴らして見た。「こらいけねえな、斯様な響をすらァ」ガン/\と二つ三つ鳴らして見る。冴えない響がする。
「さあ、念仏は何にしべいか。南ァまァ陀ァ仏にするか。ジンバラハラバイタァウンケンソバギャアノベイロシャノにするか」
「ジンバラハラバイタァが後生になるちゅうじゃねいか」仁左衛門さんが真面目に口を入れた。「辰さん、お前音頭をとるンだぜ」
「、乃公が音頭とるべい。音頭とるべいが、皆であとやらんといけねえぞ。音頭取りばかりにさしちゃいけねえぞ――ソラ、ジンバラハラバイタァ」ガーンと鉦が鳴る。
「ジンバラハラバイタァ――」仁左衛門さんが真面目について行く。多くは唯笑って居る。
「いかん/\、今時の若けい者ァ念仏一つ知んねえからな。昔は男は男、女は女、月に三日宛寄っちゃ念仏の稽古したもンだ」辰爺さん躍起となった。
「教えて置かねえからだよ」若い者の笑声が答える。
「炬火は如何だな。おゝ、久さんが来た。久さん/\、済まねえが炬火を拵えてくんな」
唇の厚い久さんは、やおら其方を向いて「炬火かね、炬火は幾箇拵えるだね?」
「短くて好えからな、四つも拵えるだな。そ、其処の麦からが好いよ」
「」と久さんは答えて、のそり/\檐下から引き出して、二握三握一つにして、トンと地につき揃えて、無雑作に小麦からで縛って、炬火をこさえた。
「まだかな」先刻から焦々して居る辰爺さんが大声に唸やく。
「今本膳が出てる処だからな」母屋の方を見ながら一人が辰さんを宥める。
「それはソウと、上祖師ヶ谷の彦さんは分ったかな」
「分からねえとよ。中隊でも大騒ぎして、平服で出る、制服で出る、何でも空井戸を探してるちゅうこンだ」
「窘められたンですかね?」
「ナニ、中隊では評判がよかったンですよ。正直でね」
「正直者が一番危ねえだ。少し時間に後れたりすると、直ぐ無分別をやるからな」
「違えねえ」
皆一寸黙った。
辰爺さんは、美的百姓に大きな声で囁やいた。「岩もね、上等兵の候補者になりましたってね」
「然かね。岩さんは何処に往っても可愛がられる男だよ」
「毎月ね、」辰爺さんは声を落して囁いた。「毎月ね、三円宛やりますよ。それから兄の所から三円宛ね、くれますよ。ソレ小遣が足りねえと、上祖師ヶ谷の様にならァね」
「月に六円宛、其れは大変だね」
「岩もね、其当座は腹が減って困ったてこぼして居ましたっけ。何しろ麦飯の七八杯もひっかけて居ったンだからね。酒保に飛んで行き/\したって話してました。今じゃ大きに楽になったってますよ。最早あと一年半で帰って来ますだよ」
農家から大切な働き男を取って、其上間接に小使としての税金を金の乏しい農村から月々六円もとる兵役と云うものについて、美的百姓は大に考えざるを得なかった。
五
母屋では、最早仕度が出来たと見え、棺が縁の方に舁き出された。柿の木の下では、寝た者も起き、総立になった。手々に白張提灯を持ったり、紙の幟を握ったり、炬火をとったりした。辰爺さんはやおら煙草入を腰に插して鉦と撞木をとった。
「旗が先に行くかね、提灯かね?」
「冥土の案内じゃ提灯が先だんべ」
「東京じゃ旗が先きに行くようだね、ねえ先生」
「東京は東京、粕谷は粕谷流で行こうじゃねえか」と誰やらの声。
「炬火が一番先だよ」
「応、然だ、炬火が一番先だ」
白無垢を着た女達が、縁から下りて草履をはいた。其草履は墓地でぬぎ棄てるので、帰途の履物がいる。大きな目籠に駒下駄も空気草履も泥だらけの木履も一つにぶち込んで、久さんが背負って居る。
「南無阿弥陀ァ仏」
辰爺さんが音頭をとりながら先に立つ。鉦がガァンと鳴る。講中が「南無阿弥陀ァ仏」と和する。鉦、炬火、提灯、旗、それから兵隊帰りの喪主が羽織袴で位牌を捧げ、其後から棺を蔵めた輿は八人で舁かれた。七さんは着流しに新しい駒下駄で肩を入れて居る。此辺には滅多に見た事も無い立派な輿だ。白無垢の婦人、白衣の看護婦、黒い洋服の若い医師、急拵えの紋を透綾の羽織に張った親戚の男達、其等が棺の前後に附添うた。大勢の子供や、子守が跟いて来る。婆さんかみさんが皆出て見る。
昨夜の豪雨は幸にからり霽れて、道も大抵乾いて居る。風が南からソヨ/\吹いて、「諸行無常」「是生滅法」の紙幟がヒラ/\靡く。「南無阿弥陀ァ仏――南無阿弥陀ァ仏」単調な村の哀の譜は、村の静寂の中に油の様に流れて、眠れよ休めよと云う様に棺を墓地へと導く。
葬列は滞なく、彼が家の隣の墓地に入った。此春墓地拡張の相談がきまって、三畝余りの小杉山を拓いた。其杉を買った故人外二名の人々が、大きな分は伐って売り、小さなのは三人で持って来て彼の家に植えてくれた。其れは唯三月前の四月の事であった。其れから最早墓が二つも殖えた。二番目が寺本さんである。
墓地の樒の木に障るので、若い洋服の医師が手を添えて枝を擡げたりして、棺は掘られた墓の前に据えられた。輿を解くのが一仕事、東京から来た葬儀社の十七八の若者は、真赤になってやっと輿をはずした。白木綿で巻かれた柩は、荒縄で縛られて、多少の騒ぎと共に穴の中に下された。野良番は鍬をとった。どさりと赤土の塊が柩の上に落ちはじめた。
「皆入れてしまうとよ」囁き合うて、行列の先頭に来た紙幟は青竹からはずして、柩の上に投げ込まれた。
土がまたドサ/\落ちる。
*
葬式の五日目に、話題に上った上祖師ヶ谷の行衛不明の兵士の消息を乳屋が告げた。兵士の彦さんは縊死したのであった。代々木の山の中に、最早腐りかけて、両眼は烏につゝかれ、空洞になって居たそうだ。原因は分らぬが、彦さんの実父は養子で、彦さんの母に追出され、今の爺は後夫と云う事であった。
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田川
最初近いと聞いた多摩川が、家から一里の余もある。玉川上水すら半里からある。好い水の流れに遠いのが、幾度も繰り返えさるゝ失望であった。つい其まゝに住むことになったが、流水があったらと思わぬことは無い。せめて掘抜井でも掘ろうかと思うが、経験ある人の言によると、此附近では曾て多額の費用をかけて掘った人があって、水は地面まで来るには来たが、如何しても噴き上らぬと云うのである。水の楽は、普通の井と、家内に居ては音は聞こえぬ附近の田川で満足しなければならぬ。
彼の家から五六丁はなれて品川堀がある。品川へ行く灌漑専用の堀川で、村の為には洗滌の用にしかならぬ。一昨々年の夏の出水に、村内で三間ばかり堤防が崩れ、堤から西は一時首まで浸る程の湖水になり、村総出で防水工事をやった。曾て村の小児が溺死したこともあって、村の為にはあまり有り難くもない水である。品川堀の外には、彼が家の下なる谷を西から東へ流るゝ小さな田川と、八幡田圃を北から南東に流るゝ大小二筋の田川がある。
彼の屋敷下の小さな谷を流るゝ小川は、何処から来るのか知らぬが、冬は大抵涸れて了う。其かわり夏の出水には堤を越して畑に溢れる。其様な時には、村の子供が大喜悦で、キャッ/\騒いで泳いで居る。本当の畑水練である。農としては出水を憂うべきだが、遊び好きなる事に於て村の悪太郎等に劣るまじい彼は、畑を流るゝ濁水の音颯々として松風の如く心耳一爽の快を先ず感じて、尻高々とからげ、下駄ばきでざぶ/\渡って見たりして、其日限りに水が落ちて了うのを毎に残念に思うのである。兎に角此気まぐれな小川でも、これあるが為に少しは田も出来る。堤の萱や葭は青々と茂って、殊更丈も高い。これあるが為に、夏は螢の根拠地ともなる。朝から晩までべちゃくちゃ囀る葭原雀の隠れ家にもなる。五月雨の夜にコト/\叩く水鶏の宿にもなる。
八幡田圃を流るゝ田川の大きな方を、此辺では大川と云う。一間幅しかない大川で、玉川浄水を分った灌漑用水である。此水あるが為に、千歳村から世田ヶ谷かけて、何百町の田が出来る。九十一歳になる彼の父は、若い頃は村吏県官として農政には深い趣味と経験を有って居る。其子の家に滞留中此田川の畔を歩いて、熟々と水を眺め、喟然として「仁水だ喃」と嘆じた。趣味を先ず第一に見る其子の為にも不仁の水とは云われない。此水あるが為に田圃がある。春は紫雲英の花氈を敷く。淋しい村を賑わして蛙が鳴く。朝露白い青田の涼しさも、黄なる日の光を震わして蝗飛ぶ秋の田の豊けさに伴うさま/″\の趣も、此水の賜ものである。こゝにこの水流るゝがために、水を好む野茨も心地よく其の涯に茂って、麦が熟れる頃は枝も撓に芳しい白い花を被る。薄紫の嫁菜の花や、薄紅の犬蓼や、いろ/\の秋の草花も美しい。鮒や鰌を子供が捕る。水底に影を曳いて、メダカが游ぐ。ドブンと音して蛙が飛び込む。稀にはしなやかな小さな十六盤橋を見せて、二尺五寸の蛇が渡る。田に入るとて水を堰く頃は、高八寸のナイヤガラが出来て、蛙の声にまぎらわしい音を立てる。玉川に行くかわりに子供はこゝで浴びる。「蘆の芽や田に入る水も隅田川」然だ。彼の村を流るゝ田川も、やはり玉川、玉川の孫であった。祖父様の玉川の水が出る頃は、この孫川の水も灰がゝった乳色になるのである。乞食は時々こゝに浴びる。去年の夏は照がつゞいたので、村居六年はじめて雨乞を見た。八幡に打寄って村の男衆が、神酒をあげ、「六根清浄………………懺悔」と叫んだあとで若い者が褌一つになって此二間幅の大川に飛び込み、肩から水を浴びて「六根清浄」……何とかして「さんげ」と口々に叫んだ。其声は舜旻天に号泣する声の如くいじらしく耳に響いた。霜の朝など八幡から眺めると、小川の上ばかり水蒸気がほうっと白く騰って、水の行衛が田圃はるかに指さゝれる。
筧の水音を枕に聞く山家の住居。山雨常に来るかと疑う渓声の裡。平時は汪々として声なく音なく、一たび怒る時万雷の崩るゝ如き大河の畔。裏に鳧を飼い門に舟を繋ぐ江湖の住居。色と動と音と千変万化の無尽蔵たる海洋の辺。野にいた彼には、此等のものが時々幻の如く立現われる。然しながら仮にサハラ、ゴビの一切水に縁遠い境に住まねばならぬとなったら如何であろう。また竈に蛭這い蛇寝床に潜る水国卑湿の地に住まねばならぬとなったら如何であろう。中庸は平凡である。然し平凡には平凡の意味があり強味がある。
田川の水よ。に筧の水の幽韻はない。雪氷を融かした山川の清冽は無い。瀑布の咆哮は無い。大河の溶々は無い。大海の汪洋は無い。は謙遜な農家の友である。高慢な心の角を折り、騒がしい気の遽たゞしさを抑えて、心静にの声低く語る教訓を聴かねばならぬ。
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驟雨浴
両三日来、西の地平線上、甲相武信の境を造くる連山の空に当って、屡々黒雲が立った。遠寄の太鼓の様に雷も時々鳴る。黒雲の幕の中で、ぱっ/\と火花を散す様に、電光も射す。夕立が来ると云いながら、一滴も落ちずして二三日過ぎた。
土用太郎は涼しい彼の家でも九十一度と云う未曾有の暑気であった。土用二郎の今日は、朝来少し曇ったが、風と云うものはたと絶え、気温は昨日程上って居ないにも拘わらず、脂汗が流れた。
昼飯を食って汗になったので、天日で湯と沸いて居る庭の甕の水を浴び、籐の寝台に横になって新聞を見て居る内に、快い心地になって眠って了うた。
一寝入して眼をさますと、室内が暗くなって居る。時計を見ると、まだ二時廻ったばかりである。縁側に出て見た。南の方は明るく、午後二時の日がかん/\照って居るが、西の方が大分暗い。近村の二本松を前景にして、いつも近くは八王子在の高尾小仏、遠くて甲州東部の連峰が見ゆるあたりだけ、卵色の横幕を延いた様に妙に黄色になり、其上層は人を脅す様な真黯い色をして居る。西北の空が真暗になって、甲州の空の根方のみ妙に黄朱を抹った様になる時は、屹度何か出て来る。已に明治四十一年の春の暮、成人の握掌大の素晴しい雹が降った時も然だった。斯う思いながら縁から見て居ると、頭上の日はカン/\照りながら、西の方から涼しいと云うより寧冷たい気が吻々と吹っかけて来る。彼の家から、東は東京、南は横浜、夕立は滅多に其方からは来ぬ。夕立は矢張西若くは北の山から来る。山から都へ行く途中、彼が住む野の村を過ぎるのである。
西は本気に曇った。雷様も真面目に鳴り出した。最早多摩川の向うは降って居るのであろう。彼は大急ぎで下りて、庭に乾してあった仕事着やはだし足袋を取り入れた。帰って北の窓をあけると、面が冷やりとした。北の空は一面鼠色になって居る。日傭のおかみが大急ぎで乾し麦や麦からを取り入れて居る。
北の硝子窓をしめて、座敷の南縁に立って居ると、ぽつりと一つ大きな白い粒が落ちて、乾いて黄粉の様になった土にころりところんだ。
「来たぞ、来たぞ」
四十五歳の髯男、小供か小犬の様に嬉しい予期気分になって見て居ると、そろそろ落ち出した。大粒小粒、小粒大粒、かわる/″\斜に落ちては、地上にもんどりうって団子の様にころがる。二本松のあたり一抹の明色は薄墨色に掻き消されて、推し寄せて来る白い驟雨の進行が眼に見えて近づいて来る。
彼は久しく羨んで居た。熱帯を過ぐる軍艦の甲板で、海軍の将卒が折々やると云う驟雨浴「総員入浴用意!」の一令で、手早く制服をぬぎすて、石鹸とタオルを両手に抓んで、真黒の健児共がずらり甲板に列んだ処は、面白い見ものであろう。やがて雷鳴電光よろしくあって、錨索大の雨の棒が瀑布落しに撞々と来る。さあ、今だ。総員鶩の如くきゃッ/\笑い騒いで、大急ぎで石鹸を塗る、洗う。大洋の真中で大無銭湯が開かれるのだ。愚図々々すれば、石鹸を塗ったばかりの斑人形を残して、いたずらな驟雨はざあと駈けぬけて了う。四方水の上に居ながら、バケツ一ぱいの淡水にも中々ありつかれぬ海の子等に、蒸溜水の天水浴とは、何等贅沢の沙汰であろう。世界一の豪快は、甲板の驟雨浴であらねばならぬ。
不幸にして美的百姓氏は、海上ならぬ陸上に居る。熱帯ならぬ温帯に居る。壮快限り無い甲板の驟雨浴に真似られぬが、自己流の驟雨浴なら出来ぬことは無い。やって見るかな、と思うて居ると、妻児が来た。彼は手早く浴衣をぬいで真裸になり、突と走り出て、芝生の真中に棒立ちに立った。
ポトリ肩をうつ。脳天まで冷やりとする。またぽとり。ぽと/\ぽと/\。其たびに肩や腹や背が冷やり/\とする。好い気もちだ。然しまだ夕立の先手で、手痛くはやって来ぬ。
「此れをかぶっていらっしゃいな」
と云って、妻は硝子の大きな盂を持て来た。硝子は電気を絶縁する、雷よけのまじないにかぶれと謂うのだ。諾と受取って、いきなり頭にかぶった。黒眼鏡をかけた毛だらけの裸男が、硝子鉢を冠って、直立不動の姿勢をとったところは、新式の河童だ。不図思いついて、彼は頭上の硝子盂を上向けにし、両手で支えて立った。一つ二つと三十ばかり数うると、取り下ろして、ぐっと一気に飲み乾した。やわらかな天水である。二たび三たび興に乗じて此大觴を重ねた。
「もう上っていらっしゃいよ」
妻児が呼ぶ頃は、夕立の中軍まさに殺到して、四囲は真白い闇になった。電がピカリとする。雷が頭上で鳴る。ざあざあっと落ち来る太い雨に身の内撲たれぬ処もなく、ぐっと息が詰まる。驟雨浴もこれまでと、彼は滝の如く迸る樋口の水に足を洗わして、身震いして縁に飛び上った。
上ると土砂降りになった。庭の平たい甕の水を雨が乱れ撲って、無数の魚児のする様に跳ね上って居たが、其れさえ最早見えなくなった。
「呀、縁が」
と妻が叫んだ。南西からざァっと吹かけて来て、縁は忽川になった。妻と婢は遽てゝ書院の雨戸をくる。主人は障子、廊下の硝子窓をしめてまわる。一切の物音は絶えて、唯ざあと降る音、ざあっと吹く響ばかりである。忽珂と硝子戸が響いた。また一つ珂と響いた。雹である。彼はまだ裸であった。飛び下りて、雨の中から七八つ白いのを拾った。あまり大きなのではない。小指の尖位なのである。透明、不透明、不透明の核をもった半透明のもある。主人は二つ食った。妻は五六個食った。歯が痛い程冷たい。
座敷の縁は川になった。母屋の畳は湿る程吹き込んだ。家内は奥の奥まで冷たい水気がほしいまゝにかけ廻わる。
「あゝ好い夕立だ。降れ、降れ、降れ」
斯う呼わって居る内、夜の明くる様に西の空が明るくなり出した。霽際の繊い雨が、白い絹糸を閃めかす。一足縁へ出て見ると、東南の空は今真闇である。最早夕立の先手が東京に攻め寄せた頃である。二百万の人の子の遽てふためく状が見える様だ。
何時の間にかばったり雨は止んで、金光厳しく日が現われた。見る/\地面を流るゝ水が止まった。風がさあっと西から吹いて来る。庭の翠松がばら/\と雫を散らす。何処かでキリン/\と蜩が心地よく鳴き出した。
時計を見ると、二時三十分。夕立は唯三十分つゞいたのであった。
浴衣を引かけ、低い薩摩下駄を突かけて畑に出た。さしもはしゃいで居た畑の土がしっとりと湿うて、玉蜀黍の下葉やコスモスの下葉や、刎ね上げた土まみれになって、身重げに低れて居る。何処を見ても、うれしそうに緑がそよいで居る。東の方では雷がまだ鳴って居る。
「虹収仍白雨、雲動忽青山」
斯く打吟じつゝ西の方を見た。高尾、小仏や甲斐の諸山は、一風呂浴びて、濃淡の碧鮮やかに、富士も一筋白い竪縞の入った浅葱の浴衣を着て、すがすがしく笑んで居る。
「キリン、キリンキリン!」
蜩がまた一声鳴いた。
隣家の主人が女児を負って畑廻わりをして居る。
「好いおしめりでございました」
と云う挨拶を透垣越しに取りかわす。
二時間ばかりすると、明日は「おしめり正月」との言いつぎが来た。
詩篇を出して、大声に第六十五篇を朗詠する。
『爾地にのぞみて水そゝぎ、大に之をゆたかにし玉へり。神の川に水満ちたり。爾かくそなへをなして、穀物をかれらにあたへたまへり。爾を大にうるほし、畝をたひらにし、白雨にてこれをやはらかにし、その萌え出づるを祝し、また恩恵をもて年の冕弁としたまへり。爾の途には膏したゝれり。その恩滴は野の牧場をうるほし、小山はみな歓びにかこまる。牧場は皆羊の群を衣、もろ/\の谷は穀物におほはれたり。彼等は皆よろこびてよばはりまた謳ふ』
(明治四十五年 七月廿一日)
[#改ページ]村芝居
裏の八幡で村芝居がある。
一昨日は、一字の男総出で、隣村の北沢から切組舞台を荷車で挽いて来た。昨日は終日舞台かけで、村で唯一人の大工は先月来仕かけて居る彼が家の仕事を休んで舞台や桟敷をかけた。今夜は愈芝居である。
十一月も深い夜の事だ。外套を着て、彼等夫妻は家を空虚にして出かけた。
平生から暗くて淋しい八幡界隈が、今夜は光明世界人間の顔の海に化けて居る。八幡横手の阪道から、宮裏の雑木林をかけて、安小間物屋、鮨屋、柿蜜柑屋、大福駄菓子店、おでん店、ずらりと並んで、カンテラやランプの油煙を真黒に立てゝ、人声がや/\噪いで居る。其中を縫うて、宮の横手に行くと、山茶花小さな金剛纂なぞ植え込んだ一寸した小庭が出来て居て、ランプを入れた燈籠が立ち、杉皮葺の仮屋根の下に墨黒々と「彰忠」の二大字を書いた板額が掲って居る。然る可き目的がなければ村芝居の興行は許されぬと云う其筋の御意だそうで、此度の芝居も村の諸君が智慧をしぼって、日露戦役記念の為とこじつけ、漸く役場や警察の許可を得た。其れについて幸い木目見事の欅板があるので、戦役記念の題字を書いてくれと先日村の甲乙が彼に持込んで来たが、書くが職業と云う条あまりの名筆故彼は辞退した。そこで何処かの坊さんに頼んだそうだが、坊さんは佳墨がなければ書けぬと云うたそうで、字を書かぬなら墨を貸してくれと村の人達が墨を借りに来た。幸い持合せの些泥臭いが見かけは立派な円筒形の大きな舶来唐墨があったので、快く用立てた。今夜見れば墨痕美わしく「彰忠」の二字に化って居る。
拝殿には、村の幹部が、其ある者は紋付羽織など引かけて、他村から来る者に挨拶したり、机に向って奉納寄進のビラを書いたりして居る。「さあ此方へ」と招かれる。ビラを書いてくれと云う。例の悪筆を申立てゝ逃げる。
拝殿から見下ろすと、驚く可し、東向きのだら/\坂になって居た八幡の境内が、何時の間にか歌舞伎座か音楽学校の演奏室の様な次第高の立派な観劇場になり済ました。坂の中段もとに平生並んで居る左右二頭の唐獅子は何処へか担ぎ去られ、其あとには中々馬鹿にはならぬ舞台花道が出来て居る。桟敷も左右にかいてある。拝殿下から舞台下までは、次第下りに一面莚を敷きつめ、村はもとより他村の老若男女彼此四五百人も、ぎっしり詰まって、煙草を喫ったり、話したり、笑ったり、晴れと着飾った銀杏返しの娘が、立って見たり座ったり、桟敷からつるした何十と云うランプの光の下にがや/\どよめいて居る。無論屋根が無いので、見物の頭の上には、霜夜の星がキラ/\光って居る。舞台横手のチョボの床には、見た様な朝鮮簾が下って居ると思うたは、其れは若い者等が彼の家から徴発して往った簾であった。花道には、一金何十銭也船橋何某様、一金何十銭也廻沢何某様と隙間もなくびらを貼った。引切りなしに最寄の村々から紋付羽織位引かけた人達がやって来る。拝殿の所へ来て、「今晩は御芽出度う、此はホンの何ですが」と紙包を出す。幹部が丁寧に答礼して、若い者を呼び、桟敷や土間に案内さす。ビラを書く紙がなくなった、紙を持て来うと幹部が呼ぶ。素通し眼鏡をかけたイナセな村の阿哥が走る。「ありゃ好い男だな」と他村の者が評する。耳の届く限り洋々たる歓声が湧いて、理屈屋の石山さんも今日はビラを書き/\莞爾上機嫌で居る。
彼等の来様が些晩かったので、三番叟は早や済んで居た。伊賀越の序幕は、何が何やら分からぬ間に過ぎた。彼等夫妻も拝殿から下りて、土間に割り込み、今幕があいた沼津の場面を眺める。五十円で買われて来た市川某尾上某の一座が、団十菊五芝翫其方退けとばかり盛に活躍する。お米は近眼の彼には美しく見えた。お米の手に持つ菊の花、飾った菊の植木鉢、それから借金取が取って掃き出す手箒も、皆彼の家から若者等が徴発して往ったのである。分かるも、分からぬも、観客は口あんごりと心も空に見とれて居る。平作は好かった。隣に座って居る彼が組頭の恵比寿顔した爺さんが眼を霑まして見て居る。頭上の星も、霜夜も、座下の荒莚も忘れて、彼等もしばし忘我の境に入った。やがてきりと舞台が廻る。床下で若者が五人がゝりで廻すのである。村芝居に廻り舞台は中々贅沢なものだ。
次ぎは直ぐ仇討の幕になった。狭い舞台にせゝこましく槍をしごいたり眉尖刀を振ったり刀を振り廻したりする人形が入り乱れた。唐木政右衛門が二刀を揮って目ざましく働く。「あの腰付を御覧なさい」と村での通人仁左衛門さんが嘆美する。「星合団四郎なンか中々強いやつが向う方に居るのですからナ」と講談物仕入れの智識をふり廻す。
夜は最早十二時。これから中幕の曾我対面がある。彼等は見残して、留守番も火の気も無い家に帰った。平作やお米が踊る彼等が夢の中にも、八幡の賑合は夜すがら海の音の様に響いて居た。
(明治四十年 十一月)
[#改ページ]夏の頌
一
夏は好い。夏が好い。夏ばかりでも困ろうが、四時春なンか云う天国は平に御免を蒙る。米国加州人士の中には、わざ夏を迎えに南方に出かける者もあるそうな。不思議はない。
夏は放胆の季節だ。小心怯胆屑々乎たる小人の彼は、身をめぐる自然の豪快を仮って、纔に自家の気焔を吐くことが出来る。排外的に立籠めた戸障子を思いきり取り払う。小面倒な着物なンか脱いでしもうて、毛深い体丸出しの赤裸々黒条々をきめ込む。大抵の客には裸体若くは半裸体で応接する。一夏過ぎると、背も腹も手足も、海辺に一月も過した様に真黒になる。臆病者も頗英雄になった気もちだ。夏の快味は裸の快味だ。裸の快味は懺悔の快味だ。さらけ出した体の土用干、霊魂の煤掃き、あとの清々しさは何とも云えぬ。起きぬけに木の下で冷たい水蜜桃をもいでがぶりと喰いついたり、朝露に冷え切った水瓜を畑で拳固で破って食うたり、自然の子が自然に還る快味は言葉に尽せぬ。
彼が家では、夏の夕飯をよく芝生でやる。椅子テーブルのこともあり、蓆を敷いて低い食卓の事もある。金を爍かす日影椎の梢に残り、芝生はすでに蔭に入り、蜩の声何処からともなく流れて来ると、成人も子供も嬉々として青芝の上の晩餐の席に就くのである。犬や猫が、主人も大分開けて我党に近くなった、頗話せると云った様な顔をして、主人の顔と食卓の上を等分に見ながら、おとなしく傍に附いて居る。毎常の夕飯がうまく喰われる、永くなる。梢に残った夕日が消えて、樺色の雲が一つ波立たぬ海の様な空に浮いて居る。夏の夕明は永い。まだ暮れぬ、まだ暮れぬ、と思う間に、其まゝすうと明るくなりまさる、眼をあげると、何時の間にか頭の上にまん丸な月が出て居て、団欒の影黒く芝生に落ちて居る。
二
強烈な日光の直射程痛快なものは無い。日蔭幽に笑む白い花もあわれ、曇り日に見る花の和かに落ちついた色も好いが、真夏の赫々たる烈日を存分受けて精一ぱい照りかえす花の色彩の美は何とも云えぬ。彼は色が大好きである。緋でも、紅でも、黄でも、紫でも、碧でも、凡そ色と云う色皆焔と燃え立つ夏の日の花園を、経木真田の帽一つ、真裸でぶらつく彼は、色の宴、光の浴に恍惚とした酔人である。彼は一滴の酒も飲まぬが、彼は色にはタワイもなく酔う。曾て戯れにある人のはがき帖に、
此身蝶にもあるまじけれど
わけもなくうれしかりけり日は午なる
真夏の園の花のいろ/\
三
変化の鮮やかは夏の特色である。彼の郷里熊本などは、昼間は百度近い暑さで、夜も油汗が流れてやまぬ程蒸暑い夜が少くない。蒲団なンか滅多に敷かず、蓙一枚で、真裸に寝たものだ。此様でも困る。朝顔の花一ぱいにたまる露の朝涼、岐阜提灯の火も消えがちの風の晩冷、涼しさを声にした様な蜩に朝涼夕涼を宣らして、日間は草木も人もぐったりと凋るゝ程の暑さ、昼夜の懸隔する程、夏は好いのである。
ヒマラヤを五も積み重ねた雲の峰が見る間に崩れ落ちたり、濃いインキの一点を天の一角にうった雲が十分間に全天空を鼠色に包んだり、電を閃かしたり、雹を撒いたり、雷を鳴らしたり、夕立になったり、虹を見せたり。而して急に青空になったり、分秒を以てする天空の変化は、眼にもとまらぬ早わざである。夏の天に目ざましい変化があれば、夏の地にも鮮やかな変化がある。尺を得れば尺、寸を獲れば寸と云う信玄流の月日を送る田園の人も、夏ばかりは謙信流の一気呵成を作物の上に味わうことが出来る。生憎草も夏は育つが、さりとて草ならぬものも目ざましく繁る。煙管啣えて、後手組んで、起きぬけに田の水を見る辰爺さんの眼に、露だらけの早稲が一夜に一寸も伸びて見える。昨日花を見た茄子が、明日はもうもげる。瓜の蔓は朝々伸びて、とめてもとめても心をとめ切れぬ。二三日打っちゃって置くと、甘藷の蔓は八重がらみになる。如何に一切を天道様に預けて、時計に用がない百姓でも、時には斯様なはき/\した成績を見なければ、だらけてしまう。夏は自然の「ヤンキーズム」だ。而して此夏が年が年中で、正月元日浴衣がけで新年御芽出度も困りものだが、此処らの夏はぐず/\するとさっさと過ぎてしまう位なので、却ってよいのである。
四
夏の命は水だが、川らしい川に遠く、海に尚遠い斯野の村では、水の楽が思う様にとれぬ。
昨年の夏、彼は大きな甕を買った。径三尺、深さは唯一尺五寸の平たい甕である。これを庭の芝生の端に据えて、毎朝水晶の様な井の水を盈たして置く。大抵大きなバケツ八はいで溢るゝ程になる。水気の少い野の住居は、一甕の水も琵琶洞庭である。太平洋大西洋である。書斎から見ると、甕の水に青空が落ちて、其処に水中の天がある。時々は白雲が浮く。空を飛ぶ五位鷺の影も過ぎる。風が吹くと漣が立つ。風がなければ琅の如く凝って居る。
日は段々高く上り、次第に熱して来る。一切の光熱線が悉く此径三尺の液体天地に投射せらるゝかと思われる。冷たく井を出た水も、日の熱心にほだされて、段々冷たくなくなる。生温くなる。所謂日なた水になる。正午の頃は最早湯だ。非常に暑い日は、甕の水もうめ水が欲しい程に沸く。
午後二時三時の交は、涼しいと思う彼の家でも、九十度にも上る日がある。風がぱったり止まる日がある。昼寝にも飽きる。新聞を見るすらいやになる。此時だ、此時彼は例の通り素裸で薩摩下駄をはき、手拭を持って、突と庭に出る。日ざかりの日は、得たりや応と真裸の彼を目がけて真向から白熱箭を射かける。彼は遽てず騒がず悠々と芝生を歩んで、甕の傍に立つ。先眼鏡をとって、ドウダンの枝にのせる。次ぎに褌をとって、春モミジの枝にかける。手拭を右の手に握り、甕から少しはなれた所に下駄を脱いで、下駄から直に大胯に片足を甕に踏み込む。呀、熱、と云いたい位。つゞいて一方の足も入れると、一気に撞と尻餅搗く様に坐わる。甕の縁を越して、水がざあっと溢れる。彼は悠然と甕の中に坐って、手拭を濡らして、頭から面、胸から手と、ゆる/\洗う。水はます/\溢れて流れる。乾いた庭に夕立のあとの如く水が流れる。油断をした蟻や螻が泡を喰って逃げる。逃げおくれて流される。彼は好い気もちになって、じいと眼をつぶる。眼を開いて徐に見廻わす。上には青天がある。下には大地がある。中には赤裸の彼がある。見物人は、太陽と雀と虫と樹と草と花と家ばかりである。時々は褌の洗濯もする。而してそれを楓の枝に曝らして置く。五分間で火熨斗をした様に奇麗に乾く。
十分十五分ばかりして、甕を出る。濡手拭を頭にのせたまゝ、四体は水の滴るゝまゝに下駄をはいて、今母の胎内を出た様に真裸で、天上天下唯我独尊と云う様な大踏歩して庭を歩いて帰る。帰って縁に上って、手拭で悉皆体を拭いて、尚暫くは縁に真裸で立って居る。全く一皮脱いだ様で、己が体のあたりばかり涼しい気がそよぐ。縁から見ると、七分目に減った甕の水がまだ揺々して居る。其れは夕蔭に、乾き渇いた鉢の草木にやるのである。稀には彼が出たあとで、妻児が入ることもある。青天白日、庭の真中で大びらに女が行水するも、田舎住居のお蔭である。
夏は好い。夏が好い。
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低い丘の上から
一
彼は毎に武蔵野の住民と称して居る。然し実を云えば、彼が住むあたりは、武蔵野も場末で、景が小さく、豪宕な気象に乏しい。真の武蔵野を見るべく、彼の家から近くて一里強北に当って居る中央東線の鉄路を踏み切って更に北せねばならぬ。武蔵野に住んで武蔵野の豪宕莽蒼の気を領することが出来ず、且居常流水の音を耳にすることが出来ぬのが、彼の毎々繰り返えす遺憾である。然し縁なればこそ来て六年も住んだ土地だ。平凡は平凡ながら、平凡の趣味も万更捨てたものでもない。
彼の住居は、東京の西三里、玉川の東一里、甲州街道から十丁程南に入って、北多摩郡中では最も東京に近い千歳村字粕谷の南耕地と云って、昔は追剥が出たの、大蛇が出て婆が腰をぬかしたのと伝説がある徳川の御林を、明治近くに拓いたものである。林を拓いて出来た新開地だけに、いずれも古くて三十年二十年前株を分けてもらった新家の部落で、粕谷中でも一番新しく、且人家が殊に疎な方面である。就中彼の家は此新部落の最南端に一つ飛び離れて、直ぐ東隣は墓地、生きた隣は背戸の方へ唯一軒、加之小一丁からある。田圃向うの丘の上を通る青山街道から見下ろす位の低い丘だが、此方から云えば丘の南端に彼の家はあって、東一帯は八幡の森、雑木林、墓地の木立に塞がれて見えぬが、南と西とは展望に障るものなく、小さなパノラマの様な景色が四時朝夕眺められる。
二
三鷹村の方から千歳村を経て世田ヶ谷の方に流るゝ大田圃の一の小さな枝が、入江の如く彼が家の下を東から西へ入り込んで居る。其西の行きどまりは築き上げた品川堀の堤の藪だたみになって、其上から遠村近落の樫の森や松原を根占にして、高尾小仏から甲斐東部の連山が隠見出没して居る。冬は白く、春は夢の様に淡く、秋の夕は紫に、夏の夕立後はまさまさと青く近寄って来る山々である。近景の大きな二本松が此山の鏈を突破して居る。
此山の鏈を伝うて南東へ行けば、富士を冠した相州連山の御国山から南端の鋭い頭をした大山まで唯一目に見られる筈だが、此辺で所謂富士南に豪農の防風林の高い杉の森があって、正に富士を隠して居る。少し杉を伐ったので、冬は白いものが人を焦らす様にちら/\透いて見えるのが、却て懊悩の種になった。あの杉の森がなかったら、と彼は幾度思うたかも知れぬ。然し此頃では唯其杉の伐られんことを是れ恐るゝ様になった。下枝を払った百尺もある杉の八九十本、欝然として風景を締めて居る。斯杉の森がなかったら、富士は見えても、如何に浅薄の景色になってしまったであろう。春雨の明けの朝、秋霧の夕、此杉の森の梢がミレージの様に靄から浮いて出たり、棚引く煙を紗の帯の如く纏うて見たり、しぶく小雨に見る/\淡墨の画になったり、梅雨には梟の宿、晴れた夏には真先に蜩の家になったり、雪霽には青空に劃然と聳ゆる玉樹の高い梢に百点千点黒い鴉をとまらして見たり、秋の入日の空樺色にずる夕は、濃紺濃紫の神秘な色を湛えて梢を距る五尺の空に唯一つ明星を煌めかしたり、彼の杉の森は彼に尽きざる趣味を与えてくれる。
三
彼の家の下なる浅い横長の谷は、畑が重で、田は少しであるが、此入江から本田圃に出ると、長江の流るゝ様に田が田に連なって居る。まだ北風の寒い頃、子を負った跣足の女の子が、小目籠と庖刀を持って、芹、嫁菜、薺、野蒜、蓬、蒲公英なぞ摘みに来る。紫雲英が咲く。蛙が鳴く。膝まで泥になって、巳之吉亥之作が田螺拾いに来る。簑笠の田植は骨でも、見るには画である。螢には赤い火が夏の夜にちら/\するのは、子供が鰌突きして居るのである。一条の小川が品川堀の下を横に潜って、彼の家の下の谷を其南側に添うて東へ大田圃の方へと流れて居る。最初は女竹の藪の中を流れ、それから稀に葭を交えた萱の茂る土堤の中を流れる。夏は青々として眼がさめる。葭切、水鶏の棲家になる。螢が此処からふらりと出て来て、田面に乱れ、墓地を飛んでは人魂を真似て、時々は彼が家の蚊帳の天井まで舞い込む。夏は翡翠の屏風に光琳の筆で描いた様に、青萱まじりに萱草の赭い花が咲く。萱、葭の穂が薄紫に出ると、秋は此小川の堤に立つ。それから日に/\秋風をこゝに見せて、其薄紫の穂が白く、青々とした其葉が黄ばみ、更に白らむ頃は、漬菜を洗う七ちゃんが舌鼓うつ程、小川の水は浅くなる。行く/\年闌けて武蔵野の冬深く、枯るゝものは枯れ、枯れたものは乾き、風なき日には光り、風ある日にはがさ/\と人が来るかの様に響く。其内ある日近所の辰さん兼さんが※々[#「竹/(束+欠)」、上巻-195-4]※[#「「竹/(束+欠)」、上巻-195-4]々と音さして悉皆堤の上のを苅って、束にして、持って往って了う。あとは苅り残されの枯尾花や枯葭の二三本、野茨の紅い実まじりに淋しく残って居る。覗いて見ると、小川の水は何処へ潜ったのか、窪い水道だけ乾いたまゝに残される。
四
谷の向う正面は、雑木林、小杉林、畑などの入り乱れた北向きの傾斜である。此頃は其筋の取締も厳重になったが、彼が引越して来た当座は、まだ賭博が流行して、寒い夜向うの雑木林に不思議の火を見ることもあった。其火を見ぬ様になったはよいが、真正面に彼が七本松と名づけて愛でゝ居た赤松が、大分伐られたのは、惜しかった。此等の傾斜を南に上りつめた丘の頂は、隣字の廻沢である。雑木林に家がホノ見え、杉の森に寺が隠れ、此程並木の櫟を伐ったので、畑の一部も街道も見える。彼が粕谷に住んだ六年の間に、目通りに木羽葺が一軒、麦藁葺が一軒出来た。最初はけば/\しい新屋根が気障に見えたが、数年の風日は一を燻んだ紫に、一を淡褐色にして、あたりの景色としっくり調和して見せた。此丘を甲州街道の滝阪から分岐して青山へ行く青山街道が西から東へと這って居る。青山に出るまでには大きな阪の二つもあるので、甲州街道の十分の一も往来は無いが、街道は街道である。肥車が通う。馬士が歌うて荷馬車を牽いて通る。自転車が鈴を鳴らして行く。稀に玉川行の自動車が通る。年に幾回か人力車が通る。道は面白い。座って居て行路の人を眺むるのは、断片の芝居を見る様に面白い。時々は緑の油箪や振りの紅を遠目に見せて嫁入りが通る。附近に寺があるので、時々は哀しい南無阿弥陀ァ仏の音頭念仏に導かれて葬式が通る。
街道は此丘を東に下りて、田圃を横ぎり、また丘に上って、東へ都へと這って行く。田圃をはさむ南北の丘が隣字の船橋で、幅四丁程の此田圃は長く世田ヶ谷の方へつゞいて居る。田圃の遙東に、いつも煙が幾筋か立って居る。一番南が目黒の火薬製造所の煙で、次が渋谷の発電所、次ぎが大橋発電所の煙である。一度東京から逗留に来た幼ない姪が、二三日すると懐家病に罹って、何時も庭の端に出ては右の煙を眺めて居た。五月雨で田圃が白くなり、雲霧で遠望が煙にぼかさるゝ頃は、田圃の北から南へ出る岬と、南から北へと差出るとが、宛ながら入江を囲む崎の如く末は海かと疑われる。廻沢と云い、船橋と云い、地形から考えても、昔は此田圃は海か湖かであったろうと思われる。
五
谷から向うの丘にかけて、麦と稲とが彼の為に一年両度緑になり黄になってくれる。雑木林が、若葉と、青葉と、秋葉と、三度の栄を見せる。常見てはありとも見えぬ辺に、春来れば李や梅が白く、桃が紅く、夏来れば栗の花が黄白く、秋は其処此処に柿紅葉、白膠木紅葉、山紅葉が眼ざましく栄える。雪も好い。月も好い。真暗い五月闇に草舎の紅い火を見るも好い。雨も好い。春陰も好い。秋晴も好い。降る様な星の夜も好い。西の方甲州境の山から起って、玉川を渡り、彼が住む村を過ぎて東京の方へ去る夕立を目迎えて見送るに好い。向うの村の梢に先ず訪ずれて、丘の櫟林、谷の尾花が末、さては己が庭の松と、次第に吹いて来る秋風を指点するに好い。翳ったり、照ったり、躁いだり、黙ったり、雲と日と風の丘と谷とに戯るゝ鬼子っこを見るにも好い。白鯉の鱗を以て包んだり、蜘蛛の糸を以て織りなした縮羅の巾を引きはえたり、波なき海を縁どる夥しい砂浜を作ったり、地上の花を羞じ凋ます荘厳偉麗の色彩を天空に輝かしたり、諒闇の黒布を瞬く間に全天に覆うたり、摩天の白銅塔を見る間に築き上げては奈翁の雄図よりも早く微塵に打崩したり、日々眼を新にする雲の幻術天象の変化を、出て見るも好い。
四辺が寂しいので、色々な物音が耳に響く。鄙びて長閑な鶏の声。あらゆる鳥の音。子供の麦笛。うなりをうって吹く二百十日の風。音なくして声ある春の雨。音なく声なき雪の緘黙。単調な雷の様で聞く耳に嬉しい籾摺りの響。凱旋の爆竹を聞く様な麦うちの響。秋祭りの笛太鼓。月夜の若い者の歌。子供の喜ぶ飴屋の笛。降るかと思うと忽ち止む時雨のさゝやき。東京の午砲につゞいて横浜の午砲。湿った日の電車汽車の響。稀に聞く工場の汽笛。夜は北から響く烏山の水車。隣家で井汲む音。向うの街道を通る行軍兵士の靴音や砲車の響。小学校の唱歌。一丁はなれた隣家の柱時計が聞こゆる日もある。一番好いのは、春四月の末、隣の若葉した雑木林に朝日が射す時、ぽたり……ぽたりと若葉を辷る露の滴りを聴くのである。
夏秋の虫の音の外に、一番嬉しいのは寺の鐘。真言宗の安穏寺。其れはずッと西南へ寄って、寺は見えぬが、鐘の音は聞こえる。東覚院、これも真言宗、つい向うの廻沢にあって、寺は見えぬが、鐘の音は一番近い。尤も東にあるのが船橋の宝性寺、日蓮宗で、其草葺の屋根と大きな目じるしの橡の木は、小さく彼の縁から指さゝれる。
大木は地の栄である。彼の周囲に千年の古木は無い。甲州の山鏈を突破する二本松と、豪農の杉の森の外、木らしい木は、北の方三丁ばかり畑を隔てゝ欅の杜の大欅が亭々と天を摩して聳えて居る。其若葉は此あたりで春の目じるし、其鳶色は秋も深い目じるしである。北の方は、此欅の中の欅と下枝を払った数本のはら/\松を点景にして、林から畑、畑から村と、遠く武蔵野につゞいて居る。
六
家の門口は東にある。出ると直ぐ雑木林。彼の有ではないが、千金啻ならず彼に愛される。彼が家の背に、三角形をなす小さな櫟林と共に、春夏の際は若葉青葉の隧道を造る。青空から降る雨の様に落葉する頃は、人の往来の足音が耳に立つ。蛇の巣でもあるが、春は香の好いツボスミレ、金蘭銀蘭、エゴ、ヨツドヽメ、夏は白百合、撫子花、日おうぎ、秋は萩、女郎花、地楡、竜胆などが取々に咲く。ヨツドヽメの実も紅の玉を綴る。楢茸、湿地茸も少しは立つ。秋はさながらの虫籠で、松虫鈴虫の好い音はないが、轡虫などは喧しい程で、ともすれば家の中まで舞い込んでわめき立てる。今は無くなったが、先年まで其林の南、墓地の東隣に家があって、十五六の唖の兄と十二三になる盲の弟が、兄が提灯つけて見る眼を働かすれば、弟が聞く耳を立てゝ虫の音を指し、不具二人寄って一人前の虫採をしたものだ。最早其家はつぶれ、弟は東京で一人前の按摩になり、兄は本家に引取られて居るが、虫は秋毎に依然として鳴いて居る。家がさながら虫の音に溺れる様な宵がある。
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[#201ページ、地蔵尊の写真]
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大正十二年九月一日の大震に倒れただけで無事だった地蔵尊が、大正十三年一月十五日の中震に二たび倒れて無惨や頭が落ちました。私共の身代りになったようなものです。身代り地蔵と命名して、倒れたまま置くことにしました。
大正十三年 春彼岸の中日
大正十三年 春彼岸の中日
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ひとりごと
地蔵尊
地蔵様が欲しいと云ってたら、甲州街道の植木なぞ扱う男が、荷車にのせて来て、庭の三本松の蔭に南向きに据えてくれた。八王子の在、高尾山下浅川附近の古い由緒ある農家の墓地から買って来た六地蔵の一体だと云う。眼を半眼に開いて、合掌してござる。近頃出来の頭の小さい軽薄な地蔵に比すれば、頭が余程大きく、曲眉豊頬ゆったりとした柔和の相好、少しも近代生活の齷齪したさまがなく、大分ふるいものと見えて日苔が真白について居る。惜しいことには、鼻の一部と唇の一部にホンの少しばかり欠けがあるが、情の中に何処か可笑味を添えて、却て趣をなすと云わば云われる。台石の横側に、○永四歳(丁亥)十月二日と彫ってある。最初一瞥して寛永と見たが、見直すと寿永に見えた。寿永では古い、平家没落の頃だ。寿永だ、寿永だ、寿永にして措け、と寿永で納まって居ると、ある時好古癖の甥が来て寿永じゃありません宝永ですと云うた。云われて見ると成程宝永だ。暦を繰ると、干支も合って居る。そこで地蔵様の年齢も五百年あまり若くなった。地蔵様は若くなって嬉しいとも云わず、古さが減っていやとも云わず、ゆったりした頬に愛嬌を湛えて、気永に合掌してござる。宝永四年と云えば、富士が大暴れに暴れて、宝永山が一夜に富士の横腹を蹴破って跳り出た年である。富士から八王子在の高尾までは、直径にして十里足らず。荒れ山が噴き飛ばす灰を定めて地蔵様は被られたことであろう。如何でした、其時の御感想は? 滅却心頭火亦涼と澄ましてお出でしたか? 何と云うても返事もせず、雨が降っても、日が照りつけても、昼でも、夜でも、黙って只合掌してござる。時々は馬鹿にした小鳥が白い糞をしかける。いたずらな蜘めが糸で頸をしめる。時々は家の主が汗臭い帽子を裏返しにかぶせて日に曝らす。地蔵様は忍辱の笑貌を少しも崩さず、堅固に合掌してござる。地蔵様を持て来た時植木屋が石の香炉を持て来て前に据えてくれた。朝々其れに清水を湛えて置く。近在を駈け廻って帰ったデカやピンが喘ぎ/\来ては、焦れた舌で大きな音をさせて其水を飲む。雀や四十雀や頬白が時々来ては、あたりを覗って香炉の水にぽちゃ/\行水をやる。時々は家の主も瓜の種なぞ浸して置く。散り松葉が沈み、蟻や螟虫が溺死して居ることもある。尺に五寸の大海に鱗々の波が立ったり、青空や白雲が心長閑に浮いて居る日もある。地蔵様は何時も笑顔で、何時も黙って、何時も合掌してござる。
地蔵様の近くに、若い三本松と相対して、株立ちの若い山もみじがある。春夏は緑、秋は黄と紅の蓋をさし翳す。家の主は此山もみじの蔭に椅子テーブルを置いて、時々読んだり書いたり、而して地蔵様を眺めたりする。彼の父方の叔母は、故郷の真宗の寺の住持の妻になって、つい去年まで生きて居たが、彼は儒教実学の家に育って、仏教には遠かった。唯乳母が居て、地獄、極楽、剣の山、三途の川、賽の河原や地蔵様の話を始終聞かしてくれた。四五歳の彼は身にしみて其話を聞いた。而して子供心にやるせない悲哀を感じた。其様な話を聞いたあとで、つく/″\眺めたうす闇い六畳の煤け障子にさして居る夕日の寂しい/\光を今も時々憶い出す。
賽の河原は哀しい而して真実な俚伝である。此世は賽の河原である。大御親の膝下から此世にやられた一切衆生は、皆賽の河原の子供である。子供は皆小石を積んで日を過す。ピラミッドを積み、万里の長城を築くのがエライでも無い。村の卯之吉が小麦蒔くのがツマラヌでも無い。一切の仕事は皆努力である。一切の経営は皆遊びである。而して我儕が折角骨折って小石を積み上げて居ると、無慈悲の鬼めが来ては唯一棒に打崩す。ナポレオンが雄図を築くと、ヲートルルーが打崩す。人間がタイタニックを造って誇り貌に乗り出すと、氷山が来て微塵にする。勘作が小麦を蒔いて今年は豊年だと悦んで居ると、雹が降って十分間に打散らす。蝶よ花よと育てた愛女が、堕落書生の餌になる。身代を注ぎ込んだ出来の好い息子が、大学卒業間際に肺病で死んで了う。蜀山を兀がした阿房宮が楚人の一炬に灰になる。人柱を入れた堤防が一夜に崩れる。右を見、左を見ても、賽の河原は小石の山を鬼に崩されて泣いて居る子供ばかりだ。泣いて居るばかりなら猶可い。試験に落第して、鉄道往生をする。財産を無くして、狂になる。世の中が思う様にならぬでヤケを起し、太く短く世を渡ろうとしてさま/″\の不心得をする。鬼に窘められて鬼になり、他の小児の積む石を崩してあるくも少くない。賽の河原は乱脈である。慈悲柔和にこ/\した地蔵様が出て来て慰めて下さらずば、賽の河原は、実に情無い住み憂い場所ではあるまいか。旅は道づれ世は情、我儕は情によって生きることが出来る。地蔵様があって、賽の河原は堪えられる。
庭に地蔵様を立たせて、おのれは日々鬼の生活をして居るでは、全く恥かしい事である。
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水車問答
田川の流れをひいて、小さな水車が廻って居る。水車のほとりに、樫の木が一本立って居る。
白日も夢見る村の一人の遊び人が、ある日樫の木の下の草地に腰を下して、水車の軋々と廻るを見つゝ聞きつゝ、例の睡るともなく寤むるともなく、此様な問答を聞いた。
軋と一声長く曳張るかと思えば、水車が樫の木を呼びかけたのであった。
「おい樫君、樫君。君は年が年中其処につくねんと立って居るが、全体何をするのだい? 斯忙しい世の中にさ、本当に気が知れないぜ。吾輩を見玉え。吾輩は君、君も見て居ようが、そりゃァ忙しいんだぜ。吾輩は君、地球と同じに日夜動いて居るんだぜ。よしかね。吾輩は十五秒で一回転する。ソレ一時間に二百四十回転。一昼夜に五千七百六十回転、一年には勿驚約二百十万○三千八百四十回転をやるんだ。なんと、眼が廻るだろう。君は吾輩が唯道楽に回転して居ると思うか。戯談じゃない、全く骨が折れるぜ。吾輩は決して無意味の活動をするんじゃない。吾輩は人間の為に穀も搗くのだ、粉も挽く。吾輩は昨年中に、エヽと、搗いた米がざっと五百何十石、餅米が百何十石、大麦が二千何百石、小麦が何百石、粟が……稗が……黍が……挽いた蕎麦粉が……饂飩粉が……まだ大分あるが、まあざっと一年の仕事が斯様なもんだ。如何だね、自賛じゃないが、働きも此位やればまず一人前はたっぷりだね。それにお隣に澄まして御出の御前は如何だ。如何に無能か性分か知らぬが、君の不活動も驚くじゃないか。朝から晩までさ、年が年中其処にぬうと立ちぽかァんと立って居て、而して一体お前は何をするんだい? 吾輩は決してその自ら誇るじゃないが、君の為に此顔を赧うせざるを得ないね。おい、如何だ。樫君。言分があるなら、聞こうじゃないか」
云い終って、口角沫を飛ばす様に、水車は水沫を飛ばして、響も高々と軋々と一廻り廻った。
其処に沈黙の五六秒がつゞいた。かさ/\かさ/\頭上に細い葉ずれの音がするかと思うと、其れは樫君が口を開いたのであった。
「然つけ/\云わるゝと、俺は穴へでも入りたいが、まあ聞いてくれ。そりゃ此処に斯うして毎日君の活動を見て居ると、羨ましくもなるし、黙って立って居る俺は実以て済まぬと恥かしくもなるが、此れが性分だ、造り主の仕置だから詮方は無い。それに君は俺が唯遊んで昼寝して暮らす様に云うたが、俺にも万更仕事が無いでもない。聞いてくれ。俺の頭の上には青空がある。俺の頭は、日々夜々に此青空の方へ伸びて行く。俺の足の下には大地がある。俺の爪先は、日々夜々に地心へと向うて入って行く。俺の周囲には空気と空間とがある。俺は此周囲に向うて日々夜々に広がって行く。俺の仕事は此だ。此が俺の仕事だ。成長が仕事なのだ。俺の葉蔭で夏の日に水車小屋の人達が涼んだり昼寝をしたり、俺の根が君を動かす水の流れの岸をば崩れぬ様に固めたり、俺のドングリを小供が嬉々と拾うたり、其様な事は偶然の機縁で、仕事と云う俺の仕事ではない。俺は今一人だが、俺の友達も其処此処に居る。其一人は数年前に伐られて、今は荷車になって甲州街道を東京の下肥のせて歩いて居る。他の友達は、下駄の歯になって、泥濘の路石ころ路を歩いて居る。他の一人は鉋の台になって、大工の手脂に光って居る。他の友達は薪になって、とうに灰になった。ドブ板になったのもある。また木目が馬鹿に奇麗だと云って、茶室の床柱なンかになったのもある。根こぎにされて、都の邸の眼かくしにされたのもある。お百姓衆の鍬や鎌の柄になったり、空気タイヤの人力車の楫棒になったり、さま/″\の目に遭うてさま/″\の事をして居る。失礼ながら君の心棒も、俺の先代が身のなる果だと君は知らないか。俺は自分の運命を知らぬ。何れ如何にかなることであろう。唯其時が来るまでは、俺は黙って成長するばかりだ。君は折角眼ざましく活動し玉え。俺は黙って成長する」
云い終って、一寸唾を吐いたと思うと、其はドングリが一つ鼻先に落ちたのであった。夢見男は吾に復えった。而して唯いつもの通り廻る水車と、小春日に影も動かず眠った様な樫の木とを見た。
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農
我父は農夫なり 約翰伝第十五章一節
一
土の上に生れ、土の生むものを食うて生き、而して死んで土になる。我儕は畢竟土の化物である。土の化物に一番適当した仕事は、土に働くことであらねばならぬ。あらゆる生活の方法の中、尤もよきものを択み得た者は農である。
二
農は神の直参である。自然の懐に、自然の支配の下に、自然を賛けて働く彼等は、人間化した自然である。神を地主とすれば、彼等は神の小作人である。主宰を神とすれば、彼等は神の直轄の下に住む天領の民である。綱島梁川君の所謂「神と共に働き、神と共に楽む」事を文義通り実行する職業があるならば、其れは農であらねばならぬ。
三
農は人生生活のアルファにしてオメガである。
ナイル、ユウフラテの畔に、木片で土を掘って、野生の穀を蒔いて居た原始的農の代から、精巧な器械を用いて大仕掛にやる米国式大農の今日まで、世界は眼まぐろしい変遷を閲した。然しながら土は依然として土である。歴史は青人草の上を唯風の如く吹き過ぎた。農の命は土の命である。諸君は土を亡ぼすことは出来ない。幾多のナポレオン、維廉、シシルローヅをして勝手に其帝国を経営せしめよ。幾多のロスチャイルド、モルガンをして勝手に其弗法を掻き集めしめよ。幾多のツェッペリン、ホルランドをして勝手に鳥の真似魚の真似をせしめよ、幾多のベルグソン、メチニコフ、ヘッケルをして盛んに論議せしめ、幾多のショウ、ハウプトマンをして随意に笑ったり泣いたりせしめ、幾多のガウガン、ロダンをして盛に塗り且刻ましめよ。大多数の農は依然として、日出而作、日入而息、掘井而飲、耕田而食うであろう。倫敦、巴里、伯林、紐育、東京は狐兎の窟となり、世は終に近づく時も、サハラの沃野にふり上ぐる農の鍬は、夕日に晃めくであろう。
四
大なる哉土の徳や。如何なる不浄も容れざるなく、如何なる罪人も養わざるは無い。如何なる低能の人間も、爾の懐に生活を見出すことが出来る。如何なる数奇の将軍も、爾の懐に不平を葬ることが出来る。如何なる不遇の詩人も、爾の懐に憂を遣ることが出来る。あらゆる放浪を為尽して行き処なき蕩児も、爾の懐に帰って安息を見出すことが出来る。
あわれなる工場の人よ。可哀想なる地底の坑夫よ。気の毒なる店頭の人、デスクの人よ。笑止なる台閣の人よ。羨む可き爾農夫よ。爾の家は仮令豕小屋に似たり共、爾の働く舞台は青天の下、大地の上である。爾の手足は松の膚の如く荒るゝ共、爾の筋骨は鋼鉄を欺く。烈日の下に滝なす汗を流す共、野の風はヨリ涼しく爾を吹く。爾は麦飯を食うも、夜毎に快眠を与えられる。急がず休まず一鍬一鍬土を耕し、遽てず恚らず一日一日其苗の長ずるを待つ。仮令思いがけない風、旱、水、雹、霜の天災を時に受くることがあっても、「エホバ与え、エホバ取り玉う」のである。土が残って居る。来年がある。昨日富豪となり明日乞丐となる市井の投機児をして勝手に翻筋斗をきらしめよ。彼愚なる官人をして学者をして随意に威張らしめよ。爾の頭は低くとも、爾の足は土について居る、爾の腰は丈夫である。
五
農程呑気らしく、のろまに見える者は無い。彼の顔は沢山の空間と時間を有って居る。彼の多くは帳簿を有たぬ。年末になって、残った足らぬと云うのである。彼の記憶は長く、与え主が忘れて了う頃になってのこ/\礼に来る。利を分秒に争い、其日々々に損得の勘定を為し、右の報を左に取る現金な都人から見れば、馬鹿らしくてたまらぬ。辰爺さんの曰く、「悧巧なやつは皆東京へ出ちゃって、馬鹿ばかり田舎に残って居るでさァ」と。遮莫農をオロカと云うは、天網を疎と謂い、月日をのろいと云い、大地を動かぬと謂う意味である。一秒時の十万分の一で一閃する電光を痛快と喜ぶは好い。然し開闢以来まだ光線の我儕に届かぬ星の存在を否むは僻事である。所謂「神の愚は人よりも敏し」と云う語あるを忘れてはならぬ。
六
農と女は共通性を有って居る。彼美的百姓は曾て都の美しい娘達の学問する学校で、「女は土である」と演説して、娘達の大抗議的笑を博した事がある。然し乾を父と称し、坤を母と称す、Mother Earth なぞ云って、一切を包容し、忍受し、生育する土と女性の間には、深い意味の連絡がある。土と女の連絡は、土に働く土の精なる農と女の連絡である。
農の弱味は女の弱味である。女の強味は農の強味である。蹂躙される様で実は搭載し、常に負ける様で永久に勝って行く大なる土の性を彼等は共に具えて居る。
七
農程臆病なものは無い。農程無抵抗主義なものは無い。権力の前には彼等は頭が上がらない。「田家衣食無厚薄、不見県門身即楽」で、官衙に彼等はびく/\ものである。然し彼等の権力を敬するは、敬して実は遠ざかるのである。税もこぼしながら出す。徴兵にも、泣きながら出す。御上の沙汰としなれば、大抵の事は泣きの涙でも黙って通す。然し彼等が斯くするは、必しも御上に随喜の結果ではない。彼等が政府の命令に従うのは、彼等が強盗に金を出す様なものだ。此辺の豪農の家では、以前よく強盗に入られるので、二十円なり三十円なり強盗に奉納の小金を常に手近に出して置いたものだ。無益の争して怪我するよりも、と詮らめて然するのである。農は従順である。土の従順なるが如く従順である。土は無感覚の如く見える。土の如く鈍如した農の顔を見れば、限りなく蹂躙してよいかの如く誰も思うであろう。然しながら其無感覚の如く見える土にも、恐ろしい地辷りあり、恐ろしい地震があり、深い心の底には燃ゆる火もあり、沸く水もあり、清しい命の水もあり、燃せば力の黒金剛石の石炭もあり、無価の宝石も潜んで居ることを忘れてはならぬ。竹槍席旗は、昔から土にしい無抵抗主義の農が最後の手段であった。露西亜の強味は、農の強味である。莫斯科まで攻め入られて、初めて彼等の勇気は出て来る。農の怒は最後まで耐えられる。一たび発すれば、是れ地盤の震動である。何ものか震動する大地の上に立てようぞ?
八
農家に附きものは不潔である。だらしのないが、農家の病である。然し欠点は常に裏から見た長所である。土と水とが一切の汚物を受け容れなかったら、世界の汚物は何処へ往くであろうか。土が潔癖になったら、不潔は如何なることであろうか。土の土たるは、不潔を排斥して自己の潔を保つでなく、不潔を包容し浄化して生命の温床たるにある。「吾父は農夫也」と耶蘇の道破した如く、神は正しく一の大農夫である。神は一切を好と見る。「吾の造りたるものを不潔とするなかれ」是れ大農夫たる神の言葉である。自然の眼に不潔なし。而して農は尤も正しい自然主義に立つものである。
九
土なるかな。農なるかな。地に人の子の住まん限り、農は人の子にとって最も自然且つ尊貴な生活の方法で、且其救であらねばならぬ。
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蛇
一
虫類で、彼の嫌いなものは、蛇、蟷螂、蠑、蛞蝓、尺蠖。
蠑の赤腹を見ると、嘔吐が出る。蟷螂はあの三角の小さな頭、淡緑色の大きな眼球に蚊の嘴程の繊く鋭い而してじいと人を見詰むる瞳を点じた凄い眼、黒く鋭い口嘴、Vice の様な其両手、剖いて見れば黒い虫の様に蠢く腸を満たしたふくれ腹、身を逆さにして草木の葉がくれに待伏し、うっかり飛んで来る蝉の胸先に噛みついてばた/\苦しがらせたり、小さな青蛙の咽に爪うちかけてひい/\云わしたり、要するに彼はこれ虫界の Iago 悪魔の惨忍を体現した様なものである。引捉えてやろうとすれば、彼は小さな飛行機の如く、羽をひろげてぱッぱた/\と飛んで往って了う。憎いやつである。それから、家を負う蝸牛の可愛気はなくて、ぐちゃりと唯意気地なさを代表した様で、それで青菜甘藍を何時の間にか意地汚なく喰い尽す蛞蝓と、枯枝の真似して居て、うっかり触れば生きてますと云い貌にびちりと身を捩り、あっと云って刎ね飛ばせば、虫のくせに猪口才な、頭と尾とで寸法とって信玄流に進む尺蠖とは、気もちの悪い一対である。此等は何れも嬉しくない連中だが、然しまだ/\蛇には敵わぬ。
二
蛇嫌いは、我等人間の多数に、祖先から血で伝わって居る。話で聞き、画で見、幼ない時から大蛇は彼の恐怖の一であった。子供の時から彼はよく蛇の夢を見た。今も心身にいやな事があれば、直ぐ蛇を夢に見る。現に彼が蛇を見たのは五六歳の頃であった。腫物の湯治に、郷里熊本から五里ばかり有明の海辺の小天の温泉に連れられて往った時、宿が天井の無い家で、寝ながら上を見て居ると、真黒に煤けた屋根裏の竹を縫うて何やら動いて居た。所謂青大将であったが、是れ目に見ていやなものと蛇を思う最初であった。
彼の兄は彼に劣らぬ蛇嫌いで、ある時家の下の小川で魚を抄うとて蛇を抄い上げ、きゃっと叫んで笊を抛り出し、真蒼になって逃げ帰ったことがある。七八歳の頃、兄弟連れ立っての学校帰りに、川泳ぎして居た悪太郎が其時は一丈もあろうと思うた程の大きな青大将の死んだのを路の中央に横たえて恐れて逡巡する彼を川の中から手を拍って笑った。兄が腹を立て、彼の手を引きずる様にして越えようとする。大奮発して二足三足、蛇の一間も手前まで来ると、死んで居る動かぬとは知っても、長々と引きずった其体、白くかえした其段だらの腹を見ると、彼の勇気は頭の頂辺からすうとぬけてしもうて如何しても足が進まぬ。已むを得ず土堤の上を通ろうとすれば、悪太郎が川から上って来て、また蛇を土堤の上に引きずって来る。結局如何して通ったか覚えぬが、生来斯様な苦しい思をさせられたことはなかった。彼の従弟は少しも蛇を恐れず、杉籬に絡んで居るやつを尾をとって引きずり出し、環を廻す様に大地に打つけて、楽々と殺すのが、彼には人間以上の勇気神わざの様に凄じく思われた。十六歳の夏、兄と阿蘇の温泉に行く時、近道をして三里余も畑の畔の草径を通った。吾儘な兄は蛇払として彼に先導の役を命じた。其頃は蛇より兄が尚恐かったので、恐ず/\五六歩先に立った。出るわ/\、二足行ってはかさ/\/\、五歩往ってはくゎさ/\/\、烏蛇、山かゞし、地もぐり、あらゆる蛇が彼の足許から右左に逃げて行く。まるで蛇を踏分けて行くようなものだ。今にも踏んで巻きつかれるのだと観念し、絶望の勇気を振うて死物狂に邁進したが、到頭直接接触の経験だけは免れた。阿蘇の温泉に往ったら、彼等が京都の同志社で識って居た其処の息子が、先日川端の湯樋を見に往って蝮に噛まれたと云って、跛をひいて居た。彼の郷里では蝮をヒラクチと云う。ある年の秋、西山に遊びに往って、唯有る崖を攀じて居ると、「ヒラクチが居ったぞゥ」と上から誰やら警戒を叫んだ。其時の魂も消入る様な心細さを今も時々憶い出す。
三
村住居をする様になって、隣は雑木林だし、墓地は近し、是非なく蛇とは近付になった。蝮はまだ一度も見かけぬが、青大将、山かゞし、地もぐりの類は沢山居る。最初は生類御憐みで、虫も殺さぬことにして居たが、此頃では其時の気分次第、殺しもすれば見しもする。殺しても尽きはせぬが、打ちゃって置くと殖えて仕様がないのである。書院の前に大きな百日紅がある。もと墓地にあったもので、百年以上の老木だ。村の人々が五円で植木屋に売ったのを、すでに家の下まで引出した時、彼が無理に譲ってもらったのである。中は悉皆空洞になって、枝の或ものは連理になって居る。其れを植えた時、墓地の東隣に住んで居た唖の子が、其幹を指して、何かにょろ/\と上って行く状をして見せたが、墓地にあった時から此百日紅は蛇の棲家であったのだ。彼の家に移って後も、梅雨前になると蛇が来て空洞の孔から頭を出したり、幹に絡んだり、枝の上にトグロをまいて日なたぼこりしたりする。三疋も四疋も出て居ることがある。百日紅の枝其ものが滑っこく蛇の膚に似通うて居るので、蛇も居心地がよいのであろう。其下を通ると、あまり好い気もちはせぬ。時々は百日紅から家の中へ来ることもある。ある時書院の雨戸をしめて居た妻がきゃっと叫んだ。南の戸袋に蛇が居たのである。雀が巣くう頃で、雀の臭を追うて戸袋へ来て居たのであろう。其翌晩、妻が雨戸をしめに行くと、今度は北の戸袋に居た。妻がまたけたゝましく呼んだ。往って繰り残しの雨戸で窃と当って見ると、確に軟らかなものゝ手答がする。釣糸に響く魚の手答は好いが、蛇の手応えは下さらぬ。雨戸をしめれば蛇の逃所がなし、しめねばならず、ランプを呼ぶやら、青竹を吟味するやら、小半時かゝって雨戸をしめ、隅に小さくなって居るのを手早くたゝき殺した。其れが雌でゞもあったか、翌日他の一疋がのろ/\と其侶を探がしに来た。一つ撲って、ふりかえる処をつゞけざまに五六つたゝいて打殺した。殺してしもうて、つまらぬ殺生をしたと思うた。
彼が家のはなれの物置兼客間の天井には、ぬけ殻から測って六尺以上の青大将が居る。其家が隣村にあった頃からの蛇で、家を引移すと何時の間にか大将も引越して、吾家貌に住んで居る。所謂ヌシだ。隣村の千里眼に見てもらったら、旧家主の先代のおかみの後身だと云うた。夥しい糞尿をしたり、夜は天井をぞろ/\重い物曳きずる様な音をさせてあるく。梅雨の頃、ある日物置に居ると、パリ/\と音がした。見ると、其処に卵の殻を沢山入れた目籠に、彼ぬしでは無いが可なり大きな他の青大将が来て、盛に卵の殻を食うて居るのである。見て居る内に、長持の背からまた一疋のろ/\這い出して来て、先のと絡み合いながら、これもパリ/\卵の殻を喰いはじめた。青黒い滑々したあの長細い体が、生き縄の様に眼の前に伸びたり縮んだりするのは、見て居て気もちの好いものではない。不図見ると、呀此処にも、梁の上に頭は見えぬが、大きなものが胴から下波うって居る。人間が居ないので、蛇君等が処得貌に我家と住みなして居るのである。天井裏まで上ったら、右の三疋に止まらなかったであろう。彼は其日一日頭が痛かった。
ある時栗買いに隣村の農家に往った。上塗をせぬ土蔵の腰部に幾個の孔があって、孔から一々縄が下って居る。其縄の一つが動く様なので、眼をとめて見ると、其縄は蛇だった。見て居る内にずうと引込んだが、またのろ/\と頭を出して、丁度他の縄の下って居ると同じ程にだらりと下がった。何をするのか、何の為に縄の真似をするのか。鏡花君の縄張に入る可き蛇の挙動と、彼は薄気味悪くなった。
勇将の下に弱卒なし。彼が蛇を恐れる如く、彼が郎党の犬のデカも獰猛な武者振をしながら頗る蛇を恐れる。蛇を見ると無闇に吠えるが、中々傍へは寄らぬ。主人が勇気を出して蛇を殺すと、デカは死骸の周囲をぐる/\廻って、一足寄ってはワンと吠え、二足寄っては遽てゝ飛びのいてワンと吠え、ワンと吠え、ワンと吠え、廻り廻って、中々傍へは寄らぬ。ある時、麦畑に三尺ばかりの山かゞしが居た。山かゞしは、やゝ精悍なやつである。主人が声援したので、デカは思切ってワンと噛みにかゝったら、口か舌かを螫されたと見え、一声悲鳴をあげて飛びのき、それから限なく口から白泡を吐いて、一時は如何なる事かと危ぶんだ。此様な記憶があるので、デカは蛇を恐るゝのであろう。多くの猫は蛇を捕る。彼が家のトラはよく寝鳥を捕ってはむしゃ/\喰うが、蛇をまだ一度もとらぬ。ある時、トラが何ものかと相対し貌に、芝生に座って居るので、覗いて見たら、トグロを巻いた地もぐりが頭をちゞめて寄らば撃たんと眼を怒らして居る。トラが居ずまいを直すたびに、蛇は其頭をトラの方へ向け直す。トラは相関せざるものゝ様に、キチンと前足を揃えて、何か他の事を案じ顔である。彼が打殺す可く竿をとりに往った間に、トラも蛇も物別れになって何処かへ往ってしもうた。
四
斯く蛇に近くなっても、まだ嫌悪の情は除れぬ。百花の園にも、一疋の蛇が居れば、最早園其ものが嫌になる。ある時、書斎の縁の柱の下に、一疋の蛇がにょろ/\頭を擡げて、上ろうか、と思う様子をして居た。遽てゝ蛇打捧を取りに往った間に、蛇が見えなくなった。びく/\もので、戸袋の中や、室内のデスクの下、ソファの下、はては額の裏まで探がした。居ない。居ないが、何処かに隠れて居る様で、安心が出来ぬ。枕を高くして昼寝も出来ぬ。其日一日は終に不安の中に暮らした。蛇を見ると、彼が生活の愉快がすうと泡の様に消える。彼は何より菓物が好きで、南洋に住みたいが、唯蛇が多いので其気にもなれぬ。ボア、パイゾンの長大なものでなく、食匙蛇、響尾蛇、蝮蛇の毒あるでもなく、小さい、無害な、臆病な、人を見れば直ぐ逃げる、二つ三つ打てば直ぐ死ぬ、眼の敵に殺さるゝ云わば気の毒な蛇までも、何故斯様に彼は恐れ嫌がるのであろう? 田舎の人達は、子供に到るまで、あまり蛇を恐れぬ。卵でも呑みに来たり、余程わるさをしなければ滅多に殺さぬ。自然に生活する自然の人なる農の仕方は、おのずから深い智慧に適う事が多い。
奥州の方では、昔蛇が居ない為に、夥しい鼠に山林の木芽を食われ、わざ/\蛇を取寄せて山野に放ったこともあるそうだ。食うものが無くて、蛇を食う処さえある。好きとあっては、ポッケットに入れてあるく人さえある。
悪戯に蛇を投げかけようとした者を已に打果すとて刀の柄に手をかけた程蛇嫌いの士が、後法師になって、蛇の巣と云わるゝ竹生島に庵を結び、蛇の中で修行した話は、西鶴の物語で読んだ。東京の某耶蘇教会で賢婦人の名があった某女史は、眼が悪い時落ちた襷と間違えて何より嫌いな蛇を握り、其れから信仰に進んだと伝えられる。糞尿にも道あり、蛇も菩提に導く善智識であらねばならぬ。
「世の中に這入かねてや蛇の穴」とは古人の句。醜い姿忌み嫌わるゝ悲しさに、大びらに明るい世には出られず、常に人目を避けて陰地にのたくり、弱きを窘めて冷たく、執念深く、笑うこともなく世を過す蛇を思えば、彼は蛇を嫌う権理がないばかりではなく、蛇は恐らく虫に化って居る彼自身ではあるまいか。己が醜くさを見せらるゝ為に、彼は蛇を忌み嫌い而して恐るゝのであるまいか。
生命は共通である。生存は相殺である。自然は偏倚を容さぬ。愛憎は我等が宇宙に縋る二本の手である。好悪は人生を歩む左右の脚である。
好きなものが毒になり、嫌いなものが薬になる。好きなものを食うて、嫌いなものに食われる。宇宙の生命は斯くして有たるゝのである。
好きなものを好くは本能である。嫌いなものを好くに我儕の理想がある。
「天の父の全きが如く全くす可し」
本能から出発して、我等は個々理想に向わねばならぬ。
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露の祈
今朝庭を歩いて居ると、眼が一隅に走る瞬間、はッとして彼は立とまった。枯萩の枝にものが光る。玉だ! 誰が何時撒いたのか、此枝にも、彼枝にも、紅玉、黄玉、紫玉、緑玉、碧玉の数々、きらり、きらりと光って居る。何と云う美しい玉であろう! 嗟嘆してやゝしばし見とれた。近寄って一の枝に触ると、ほろりと消えた。何だ、露か。そうだ、やはりいつもの露であった。露、露、いつもの露を玉にした魔術師は何処に居る? 彼はふりかえって、東の空に杲々と輝く朝日を見た。
あゝ朝日!
爾の無限大を以てして一滴の露に宿るを厭わぬ爾朝日!
須臾の命を小枝に托するはかない水の一雫、其露を玉と光らす爾大日輪!
「爾の子、爾の栄を現わさん為に、爾の子の栄を顕わし玉え」
の祈は彼の口を衝いて出た。爾の無限大を以てして一滴の露に宿るを厭わぬ爾朝日!
須臾の命を小枝に托するはかない水の一雫、其露を玉と光らす爾大日輪!
「爾の子、爾の栄を現わさん為に、爾の子の栄を顕わし玉え」
天つ日の光に玉とかがやかば
などか惜まん露の此の身を
などか惜まん露の此の身を
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草とり
一
六、七、八、九の月は、農家は草と合戦である。自然主義の天は一切のものを生じ、一切の強いものを育てる。うっちゃって置けば、比較的脆弱な五穀蔬菜は、野草に杜がれてしまう。二宮尊徳の所謂「天道すべての物を生ず、裁制補導は人間の道」で、こゝに人間と草の戦闘が開かるゝのである。
老人、子供、大抵の病人はもとより、手のあるものは火斗でも使いたい程、畑の草田の草は猛烈に攻め寄する。飯焚く時間を惜んで餅を食い、茶もおち/\は飲んで居られぬ程、自然は休戦の息つく間も与えて呉れぬ。
「草に攻められます」とよく農家の人達は云う。人間が草を退治せねばならぬ程、草が人間を攻めるのである。
唯二反そこらの畑を有つ美的百姓でも、夏秋は烈しく草に攻められる。起きぬけに顔も洗わず露蹴散らして草をとる。日の傾いた夕蔭にとる。取りきれないで、日中にもとる。やっと奇麗になったかと思うと、最早一方では生えて居る。草と虫さえ無かったら、田園の夏は本当に好いのだが、と愚痴をこぼさぬことは無い。全体草なンか余計なものが何になるのか。何故人間が除草器械にならねばならぬか。除草は愚だ、うっちゃって草と作物の競争さして、全滅とも行くまいから残っただけを此方に貰えば済む。というても、実際眼前に草の跋扈を見れば、除らずには居られぬ。隣の畑が奇麗なのを見れば、此方の畑を草にして草の種を隣に飛ばしても済まぬ。近所の迷惑も思わねばならぬ。
そこでまた勇気を振起して草をとる。一本また一本。一本除れば一本減るのだ。草の種は限なくとも、とっただけは草が減るのだ。手には畑の草をとりつゝ、心に心田の草をとる。心が畑か、畑が心か、兎角に草が生え易い。油断をすれば畑は草だらけである。吾儕の心も草だらけである。四囲の社会も草だらけである。吾儕は世界の草の種を除り尽すことは出来ぬ。除り尽すことは、また我儕人間の幸福でないかも知れぬ。然しうっちゃって置けば、我儕は草に埋もれて了う。そこで草を除る。己が為に草を除るのだ。生命の為に草をとるのだ。敵国外患なければ国常に亡ぶで、草がなければ農家は堕落して了う。
「爾我言に背いて禁菓を食いたれば、土は爾の為に咀わる。土は爾の為に荊棘と薊を生ずべし。爾は額に汗して苦しみて爾のパンを食わん」
斯く旧約聖書は草を人間の罰と見た。実は此の罰は人の子に対する深い親心の祝福である。
二
美的百姓の彼は兎角見るに美しくする為に草をとる。除るとなれば気にして一本残さずとる。農家は更に賢いのである。草を絶やすと地力を尽すと云う。草をとって生のまゝ土に埋め、或は烈日に乾燥させ、焼いて灰にし、積んで腐らし、いずれにしても土の肥料にしてしまう。馴付けた敵は、味方である。「年々や桜を肥す花の塵」美しい花が落ちて親木の肥料になるのみならず、邪魔の醜草がまた死んで土の肥料になる。清水却て魚棲まず、草一本もない土は見るに気もちがよくとも、或は生命なき瘠土になるかも知れぬ。本能は滅す可からず、不良青年は殺さずして導く可きであることを忘れてはならぬ。誰か其懐に多少の草の種を有って居らぬ者があろうぞ?
畑の草にも色々ある。つまんでぬけばすぽっとぬけて、しかも一種の芳しい香を放つ草もある。此辺で鹹草と云う、丈矮く茎紅ぶとりして、頑固らしくって居ても、根は案外浅くして、一挙手に亡ぼさるゝ草もある。葉も無く花も無く、地下一尺の闇を一丈も二丈も這いまわり、人知れず穀菜に仇なす無名草もある。厄介なのは、地縛り。単弁の黄なる小菊の様に可憐な花をしながら、蔓延又蔓延、糸の様な蔓は引けば直ぐ切れて根を残し、一寸の根でも残れば十日とたゝずまた一面の草になる。土深く鍬を入れて掘り返えし、丁寧に根を拾う外に滅す道は無い。我儕は世を渡りて往々此種の草に出会う。
草を苅るには、朝露の晞かぬ間。露にそぼぬれた寝ざめの草は、鎌の刃を迎えてさく/\切れて行く。一挙に草を征伐するには、夏の土用の中、不精鎌と俗に云う柄の長い大きなカマボコ形の鎌で、片端からがり/\掻いて行く。梅雨中には、掻く片端からついてしまう。土用中なら、一時間で枯れて了う。
夏草は生長猛烈でも、気をつけるから案外制し易い。恐ろしいのは秋草である。行末短い秋草は、種がこぼれて、生えて、小さなまゝで花が咲いて、直ぐ実になる。其遽しさ、草から見れば涙である。然し油断してうっかり種をこぼされたら、事である。一度落した草の種は中々急に除り切れぬ。田舎を歩いて、奇麗に鍬目の入った作物のよく出来た畑の中に、草が茂って作物の幅がきかぬ畑を見ることがある。昨年の秋、病災不幸などでつい手が廻らずに秋草をとらなかった家の畑である。
草を除ろうよ。草を除ろうよ。
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不浄
上
此辺の若者は皆東京行をする。此辺の「東京行」は、直ちに「不浄取り」を意味する。
東京を中心として、水路は別、陸路五里四方は東京の「掃除」を取る。荷車を引いて、日帰りが出来る距離である。荷馬車もあるが、九分九厘までは手車である。ずッと昔は、細長い肥桶で、馬に四桶附け、人も二桶担って持って来たが、後、輪の大きい大八車で引く様になり、今は簡易な荷車になった。彼の村では方角上大抵四谷、赤坂が重で、稀には麹町まで出かけるのもある。弱い者でも桶の四つは引く。少し力がある若者は、六つ、甚しいのは七つも八つも挽く。一桶の重量十六貫とすれば、六桶も挽けば百貫からの重荷だ。あまり重荷を挽くので、若者の内には眼を悪くする者もある。
股引草鞋、夏は経木真田の軽い帽、冬は釜底の帽を阿弥陀にかぶり、焦茶毛糸の襟巻、中には樺色の麁い毛糸の手袋をして、雨天には簑笠姿で、車の心棒に油を入れた竹筒をぶらさげ、空の肥桶の上に、馬鈴薯、甘薯の二籠三籠、焚付疎朶の五把六束、季節によっては菖蒲や南天小菊の束なぞ上積にした車が、甲州街道を朝々幾百台となく東京へ向うて行く。午後になると帰って来る。両腕に力を入れ、前俛みになって、揉みあげに汗の珠をたらして、重そうに挽いて帰って来る。上荷には、屋根の修繕に入用のはりがねの二巻三巻、棕櫚縄の十束二十束、風呂敷かけた遠路籠の中には、子供へみやげの煎餅の袋も入って居よう。かみさんの頼んだメリンスの前掛も入って居よう。或は娘の晴着の銘仙も入って居よう。此辺の女は大抵留守ばかりして居て、唯三里の東京を一生見ずに死ぬ者もある。娘の婚礼着すら男親が買うことになって居る。「阿爺、儂ァ此縞ァ嫌だ」と、毎々阿娘の苦情が出る。其等の車が陸続として帰って来る。東京場末の飯屋に寄る者もあるが、多くは車を街道に片寄せて置いて、木蔭で麦や稗の弁当をつかう。夏の日ざかりには、飯を食うたあとで、杉の木蔭に々焉と寝て居る。荷が重いか、路が悪い時は、弟や妹が中途まで出迎えて、後押して来る。里道にきれ込むと、砂利も入って居らぬ路はひどくぬかるが、路が悪い悪いとこぼしつゝ、格別路をよくしようともせぬ。其様な暇も金も無いのである。
甲州街道の新宿出入口は、町幅が狭い上に、馬、車の往来が多いので、時々肥料車が怪我をする。帰りでも晩いと、気が気でなく、無事な顔見るまでは心配でならぬと、村の婆さんが云うた。水の上を憂うる漁師の妻ばかりではない。平和な農村にも斯様な行路難がある。
東京界隈の農家が申合せて一切下肥を汲まぬとなったら、東京は如何様に困るだろう。彼が東京住居をして居た時、ある日隣家の御隠居婆さんが、「一ぱいになってこぼるゝ様になってるものを、せっせと来てくれンじゃ困るじゃないか」と疳癪声で百姓を叱る声を聞いた。其は権高な御後室様の怒声よりも、焦れた子供の頼無げな恨めしげな苦情声であった。大君の御膝下、日本の中枢と威張る東京人も、子供の様に尿屎のあと始末をしてもらうので、田舎の保姆の来ようが遅いと、斯様に困ってじれ給うのである。叱られた百姓は黙って其糞尿を掃除して、それを肥料に穀物蔬菜を作っては、また東京に持って往って東京人を養う。不浄を以て浄を作り、廃物を以て生命を造る。「吾父は農夫なり」と神の愛子は云ったが、実際神は一大農夫で、百姓は其型を無意識にやって居るのである。
衆議院議員の選挙権位は有って居る家の息子や主人が掃除に行く。東京を笠に被て、二百万の御威光で叱りつくる長屋のかみさんなど、掃除人の家に往ったら、土蔵の二戸前もあって、喫驚する様な立派な住居に魂消ることであろう。斯く云う彼も、東京住居中は、昼飯時に掃除に来たと云っては叱り、門前に肥桶を並べたと云っては怒鳴ったりしたものだ。園芸を好んだので、糞尿を格別忌むでも賤むでもなかったが、不浄取りの人達を糞尿をとってもらう以外没交渉の輩として居た。来て其人達の中に住めば、此処も嬉し哀しい人生である。息子を兵役にとられ、五十越した与右衛門さんが、甲州街道を汗水滴らして肥車を挽くのを見ると、仮令其れが名高い吾儘者の与右衛門さんでも、心から気の毒にならずには居られぬ。而して此頃では、むッといきれの立つ堆肥の小山や、肥溜一ぱいに堆く膨れ上る青黒い下肥を見ると、彼は其処に千町田の垂穂を眺むる心地して、快然と豊かな気もちになるのである。
下
「新宿のねェよ、女郎屋でさァ、女郎屋に掃除を取りに行く時ねェよ、饂飩粉なんか持ってってやると、そりゃ喜ぶよ」
辰爺さんは斯う云うた。
同じ糞でも、病院の糞だの、女郎屋の糞だのと云うと、余計に汚ない様に思う。
不潔を扱うと、不潔が次第に不潔でなくなる。葛西の肥料屋では、肥桶にぐっと腕を突込み、べたりと糞のつくとつかぬで下肥の濃薄従って良否を験するそうだ。此辺でも、基肥を置く時は、下肥を堆肥に交ぜてぐちゃ/\したやつを盛った肥桶を頸からつるし、後ざまに畝を歩みつゝ、一足毎に片手に掴み出してはやり、掴み出してはやりする。或は更に稀薄にしたのを、剥椀で抄うてはざぶり/\水田にくれる。時々は眼鼻に糞汁がかゝる。
「あっ、糞が眼ン中へ入っちゃった」と若いのが云う。
「其れが本当の眼糞だァ」爺は平然たるものだ。
平然たる爺が、ある時三四歳の男の子を連れて遊びに来た。誰のかと云えば、お春のだと云う。お春さんは爺さんの娘分になって居る若い女だ。
「お春が拾って来たんでさァ」と爺さんがにや/\笑いながら曰うた。
「拾って来た? 何処で?」
野暮先生正に何処かで捨子を拾って来たのだと思うた。爺は唯にや/\笑って居た。其は私生児であった。お春さんの私生児であった。
お春さん自身が東京芸者の私生児であった。里子からずる/\に爺さんの娘分になり、近所に奉公に出て居る内に、丁度母の芸者が彼女を生んだ十六の年に、彼女も私生児を生んだ。歴史は繰り返えす。細胞の記憶も執拗なものである。十六の母は其私生児を負って、平気に人だかりの場所へ出た。無頓着な田舎でも、「ありゃ如何したンだんべ?」と眼を円くして笑った。然し女に廃物は無い。お春さんは他の東京から貰われて来た里子の果の男と出来合うて、其私生児を残して嫁に往った。而して二人は今幸福に暮らして居る。
ある爺さんのおかみは、昔若かった時一度亭主を捨てゝ情夫と逃げた。然し帰って来ると、爺さんは四の五の云わずに依然かみさんの座に坐らした。太公望の如く意地悪ではなかった。夫婦に娘が出来て、年頃になった。其娘が出入の若い大工と物置の中に潜む日があった。昔男と道行の経験があるおかみは頻と之を気にして、裏口から娘の名を呼び/\した。爺さんの曰く、うっちゃっておけやい、若ェ者だもの、些ァ虫もつくべいや。此は此爺さんのズボラ哲学である。差別派からは感心は出来ぬが、中に大なる信仰と真理がある。
甲吉が嬶をもらう。其は隣村の女で、奉公して居る内主人の子を生んだのだと云う。乙太郎の女が嫁に行く。其は乙の妻が東京から腹の中に入れて来たおみやげの女だ。東京の糞尿と共に、此辺はよく東京のあらゆる下り物を頂戴する。すべての意味に於ての不浄取りをするのだ。此辺の村でも、風儀は決して悪くない。甲州街道から十丁とは離れて居ぬが、街道筋の其れと比べては、村は堅いと云ってよい。男女の間も左程に紊れては居らぬ。然し他の不始末に対しては概して大目である。だから疵物でもずん/\片づいて行く。尤も疵物は大抵貧しい者にやられる。潔癖は贅沢だ。貧しい者は、其様な素生調に頓着しては居られぬ。金の二三十両もつければ、懐胎の女でももらう。もと誰の畑であっても、自分のものになればさっさと種を蒔く。先の蒔き残りのものがあっても、仔細なしに自分のにして了う。種を蒔くに必しも Virgin Soil を要しない。要するに東京の尻を田舎が拭う。田舎でも金もちが吾儘をして、貧しい者が後尻を拭うにきまって居る。何処までも不浄取りが貧しい農の運命である。
神は一大農夫である。彼は一切の汚穢を捨てず、之を摂取し、之を利用する。神程吝嗇爺は無い。而して神程太腹の爺も無い。彼に於ては、一切の不潔は、生命を造る原料である。所謂不垢不浄、「神の潔めたるものを爾浄からずとするなかれ」一切のものは土に入りて浄まる。自然は一大浄化場である。自ら神心に叶う農の不浄観について、我等は学ぶ所なくてはならぬ。
生命は共通である。潔癖は吾儘者の鄙吝な高慢である。
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美的百姓
彼は美的百姓である。彼の百姓は趣味の百姓で、生活の百姓では無い。然し趣味に生活する者の趣味の為の仕事だから、生活の為と云うてもよい。
北米の大説教家ビーチアルは、曾て数塊の馬鈴薯を人に饗して曰くだ、此は吾輩の手作だ、而して一塊一弗はかゝって居るのだ、折角食ってくれ玉えと。美的百姓は憚りながらビーチアル先生よりも上手だ。然し何事にも不熱心の彼には、到底那須野に稗を作った乃木さん程の上手な百姓は出来ぬ。川柳氏歌うて曰く、釣れますか、などと文王傍へ寄り、と。美的百姓先生の百姓も、太公望の釣位なものだ。太公望は文王を釣り出した。美的百姓は趣味を掘り出さんとして手に豆をこさえる。
百姓として彼は終に落第である。彼は三升の蕎麦を蒔いて、二升の蕎麦を穫たことがある。彼が蒔く種子は、不思議に地に入って雪の如く消えて了う。彼が作る菜は多く苦い。彼が水瓜は九月彼岸前にならなければ食われない。彼が大根は二股三股はまだしも、正月の注連飾の様に螺旋状にひねくれ絡み合うたのや、章魚の様な不思議なものを造る。彼の文章は格に入らぬが、彼の作る大根は往々芸術の三昧に入って居る。
彼は仕事着にはだし足袋、戦争にでも行く様な意気込みで、甲斐々々しく畑に出る。少し働いて、大に汗を流す。鍬柄ついて畑の中に突立った時は、天も見ろ、地も見ろ、人も見てくれ、吾れながら天晴見事の百姓振りだ。額の汗を拭きもあえずほうと一息入れる。曇った空から冷やりと来て風が額を撫でる。此処が千両だ、と大きな眼を細くして彼は悦に入る。向うの畑で、本物の百姓が長柄の鍬で、後退りにサクを切るのを熟々眺めて、彼運動に現わるゝリズムが何とも云えぬ、と賞翫する。小雨ほと/\雲雀の歌まじり、眼もさむる緑の麦畑に紅帯の娘が白手拭を冠って静に働いて居るを見ては、歌か句にならぬものか、と色彩故に苦労する。彼自身肥桶でも担いで居る時、正銘の百姓が通りかゝれば、彼は得意である。農家のおかみに「お上手ですねえ」とお世辞でも云われると、彼は頗る得意である。労働最中に美装した都人士女の訪問でも受けると、彼はます/\得意である。
稀に来る都人士には、彼の甲斐々々しい百姓姿を見て、一廉其道の巧者になったと思う者もあろう。村の者は最早彼の正体を看破して居る。田圃向うのお琴婆さんの曰くだ、旦那は外にお職がおありなすって、お銭は土用干なさる程おありなさるから、と。一度百円札の土用干でもしたいものと思うが、兎に角外にお職がおあんなさる事は、彼自身欺く事が出来ぬ。彼は一度だって農事講習会に出たことは無い。
美的百姓の家は、東京から唯三里。東の方を望むと、目黒の火薬製造所や渋谷発電所の煙が見える。風向きでは午砲も聞こえる。東京の午砲を聞いたあとで、直ぐ横浜の午砲を聞く。闇い夜は、東京の空も横浜の空も、火光が紅く空に反射して見える。東南は都会の風が吹く。北は武蔵野である。西は武相それから甲州の山が見える。西北は野の風、山の風が吹く。彼の書院は東京に向いて居る。彼の母屋の座敷は横浜に向いて居る。彼の好んで読書し文章を書く廊下の硝子窓は、甲州の山に向うて居る。彼の気は彼の住居の方向の如く、彼方にも牽かれ、此方にも牽かれる。
彼は昔耶蘇教伝道師見習の真似をした。英語読本の教師の真似もした。新聞雑誌記者の真似もした。漁師の真似もした。今は百姓の真似をして居る。
真似は到底本物で無い。彼は終に美的百姓である。
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過去帳から
墓守
一
彼は粕谷の墓守である。
彼が家の一番近い隣は墓場である。門から唯三十歩、南へ下ると最早墓地だ。誰が命じたのでもない、誰に頼まれたのでもないが、家の位置が彼を粕谷の墓守にした。
墓守と云って、別に墓掃除するでもない。然し家が近くて便利なので、春秋の彼岸に墓参に来る者が、線香の火を借りに寄ったり、水を汲みに寄ったりする。彼の庭園には多少の草花を栽培して置く。花の盛季は、大抵農繁の季節に相当するので、悠々と花見の案内する気にもなれず、無論見に来る者も無い。然し村内に不幸があった場合には、必庭園の花を折って弔儀に行く。少し念を入れる場合には、花環などを拵えて行く。
墓守のついでに、墓場を奇麗にして、花でも植えて置こうかと思うが、それでは皆が墓参に自家の花を手折って来ても引立たなくなる。平生草を茂らして、春秋の彼岸や盆に墓掃除に来るのも、農家らしくてよい。墓地があまりにキチンとして居るのも、好悪である。と思うので、一向構わずに置く。然し整理熱は田舎に及び、彼の村人も墓地を拡張整頓するそうで、此程周囲の雑木を切り倒し、共有の小杉林を拓いてしもうた。いまにの生牆を遶らし、桜でも植えて奇麗にすると云うて居る。惜しい事だ。
二
彼は墓地が好きである。東京に居た頃は、よく青山墓地へ本を読みに夢を見に往った。粕谷の墓地近くに卜居した時、墓が近くて御気味が悪うございましょうと村人が挨拶したが、彼は滅多な活人の隣より墓地を隣に持つことが寧嬉しかった。誰も胸の中に可なり沢山の墓を有って居る。眼にこそ見えね、我等は夥しい幽霊の中に住んで居る。否、我等自身が誰かの幽霊かも知れぬ。何も墓地を気味悪がるにも当らない。
墓地は約一反余、東西に長く、背は雑木林、南は細い里道から一段低い畑田圃。入口は西にあって、墓は※[横線に長い縦線四本の記号、上巻-241-12]形に並んで居る。古い処で寛文元禄位。銀閣寺義政時代の宝徳のが唯一つあるが、此は今一つはりがねで結わえた二つに破れた秩父青石の板碑と共に、他所から持って来たのである。以前小さな閻魔堂があったが、乞食の焚火から焼けてしまい、今は唯石刻の奪衣婆ばかり片膝立てゝ凄い顔をして居る。頬杖をついて居る幾基の静思菩薩、一隅にずらりと並んだにこ/\顔の六地蔵や、春秋の彼岸に紅いべゝを子を亡くした親が着せまつる子育地蔵、其等が「長十山、三国の峰の松風吹きはらふ国土にまぢる松風の音」だの、上に梵字を書いて「爰追福者為蛇虫之霊発菩提也」だのと書いた古い新しいさま/″\の卒塔婆と共に、寂しい賑やかさを作って居る。植えた木には、樒や寒中から咲く赤椿など。百年以上の百日紅があったのは、村の飲代に植木屋に売られ、植木屋から粕谷の墓守に売られた。余は在来の雑木である。春はすみれ、蒲公英が何時の間にか黙って咲いて居る。夏は白い山百合が香る。蛇が墓石の間を縫うてのたくる。秋には自然生の秋明菊が咲く。冬は南向きの日暖かに風も来ぬので、隣の墓守がよくやって来ては、乾いた落葉を踏んで、其処に日なたぼこりをしながら、取りとめもない空想に耽る。
三
田舎でも人が死ぬ。彼が村の人になってから六年間に、唯二十七戸の小村で、此墓場にばかり葬式の八つもした。多くは爺さん婆さんだが、中には二八の少女も、また傷い気の子供もあった。
ある爺さんは八十余で、死ぬる二日前まで野ら仕事をして、ぽっくり往生した。羨ましい死に様である。ある婆さんは、八十余で、もとは大分難義もしたものだが辛抱しぬいて本家分家それ/″\繁昌し、孫曾孫大勢持って居た。ある時分家に遊びに来て帰途、墓守が縁側に腰かけて、納屋大小家幾棟か有って居ることを誇ったりしたが、杖を忘れて帰って了うた。其杖は今カタミになって、墓守が家の浴室の心張棒になって居る。ある爺さんは、困った事には手が長くなる癖があった。さまで貧でもないが、よく近所のものを盗んだ。野菜物を採る。甘藷を掘る。下肥を汲む。木の苗を盗む。近所の事ではあり、病気と皆が承知して居るので、表沙汰にはならなかったが、一同困り者にして居た。杉苗でもとられると、見附次第黙って持戻ったりする者もあった。此れから汁の実なぞがなくならずにようござんしょう、と葬式の時ある律義な若者が笑った。さる爺さんは、齢は其様なでもなかったが、若い時の苦労で腰が悉皆俛んで居た。きかぬ気の爺さんで、死ぬるまでに世話はかけぬと婆さんに云い云いしたが、果して何人の介抱も待たず立派に一人で往生した。其以前、墓守が家の瓜畑に誰やら入込んでごそ/\やって居るので、誰かと思うたら、此爺さんが親切に瓜の心をとめてくれて居たのであった。よく楢茸の初物だの何だの採っては、味噌漉しに入れて持って来てくれた。時には親切に困ることもあった。ある時畑の畔の草を苅ってやると云って鎌を提げて来た。其畑の畔には萱薄が面白く穂に出て、捨て難い風致の径なので其処だけわざ/\草を苅らずに置いたのであった。其れを爺さんが苅ってやると云う。頭を掻いて断わると、親切を無にすると云わんばかり爺さんむっとして帰って往ったこともある。最早楢茸が出ても、味噌漉しかゝえて、「今日は」と来る腰の曲った人は無い。
四
燻炭肥料と云う事が一時はやって、芥屑を燻焼する為に、大きな深い穴が此処其処に掘られた。其穴の傍で子を負った十歳の女児と六歳になる女児が遊んで居たが、誤って二人共穴に落ちた。出ることは出たが、六になる方は大火傷をした。一家残らず遠くの野らへ出たあとなので、泣き声を聞きつける者もなく、十歳になる女児は叱られるが恐さに、火傷した女児を窃と自家へ連れて往って、火傷部に襤褸を被せて、其まゝにして置いた。医者が来た頃は、最早手後れになって居た。墓守が見舞に往って見ると、煎餅の袋なぞ枕頭に置いて、アアン幽かな声でうめいて居た。二三日すると、其父なる人が眼に涙を浮めて、牛乳屋が来たら最早牛乳は不用と云うてくれと頼みに来た。亡くなったのである。此辺では、墓守の家か、博徒の親分か、重病人でなければ牛乳など飲む者は無い。火傷した女児は、瀕死の怪我で貴い牛乳を飲まされたのである。父なる人は神酒に酔うて、赤い顔をして頭を掉る癖がある人である。妙に不幸な家で、先にも五六歳の女児が行方不明で大騒ぎをした後、品川堀から死骸になって上ったことがある。火傷した女児の低いうめき声と、其父の涙に霑んだ眼は、いつまでも耳に目にくっついて居る。
牛乳と云えば、墓守の家から其家へとしばらく廻って居た配達が、最早其方へは往かなくなった。牛乳をのんで居た娘は、五月の初に亡くなったのである。墓守夫婦が村の人になった時、彼女は十一であった。体を二ツ折にしてガックリお辞儀するしゃくんだ顔の娘を、墓守夫婦は何時となく可愛がった。九人の兄弟姉妹の真中で、あまり可愛がられる方ではなかった。可愛がられる其妹は、姉の事を云って、「おやすさんな叱られるクセがある」と云った。やゝ陰気な、然し情愛の深い娘だった。墓守の家に東京から女の子が遊びに来ると、「久ちゃん」「お安さん」とよく一緒に遊んだものだ。彼女も連れて玉川に遊びに往ったら、玉川電車で帰る東京の娘を見送って「別れるのはつらい」と黯然として云った。彼女は妙に不幸な子であった。ある時村の小学校の運動会で饌立競走で一着になり、名を呼ばれて褒美を貰ったあとで、饌立の法が違って居ると女教員から苦情が出て、あらためて呼び出され、褒美を取り戻された。姉が嫁したので、小学校も高等を終えずに下り、母の手助をした。間もなく彼女は肺が弱くなった。成る可く家の厄介になるまいと、医者にも見せず、熟蚕を拾ったり繭を掻いたり自身働いて溜めた巾着の銭で、売薬を買ったりして飲んだ。
去る三月の事、ある午後墓守一家が門前にぶらついて居ると、墓地の方から娘が来る。彼女であった。「あゝお安さん」と声をかけつゝ、顔を見て喫驚した。其処の墓地の石の下から出て来たかと思わるゝ様な凄い黯い顔をして居る。「あゝ気分が悪いのですね、早く帰ってお休み」と妻が云うた。気分が悪くて裁縫の稽古から帰って来たのであった。彼女は其れっきり元気には復さなかった。彼女の家では牛乳をとってのませた。彼女の兄は東京に下肥引きに往った帰りに肴を買って来ては食わした。然し彼女は日々衰えた。遠慮勝の彼女は親兄弟にも遠慮した。死ぬる二三日前、彼女はぶらりと起きて来て、産後の弱った体で赤ん坊を見て居る母の背に立ち、わたしが赤ん坊を見て居るから阿母は少しお休みと云うた。死ぬる前日は、父に負われて屋敷内を廻ってもらって喜んだ。其翌日も父は負って出た。父が唯一房咲いた藤の花を折ってやったら、彼女は枕頭の土瓶に插して眺めて喜んだ。其夜彼女は父を揺り起し、「わたしが快くなったら如何でもして恩報じをするから、今夜は苦艱だから、済まないが阿爺さん起きて居てお呉れ、阿母は赤ん坊や何かでくたびれきって居るから」と云うた。而して翌朝到頭息を引取った。彼女は十六であった。彼女の家は、神道禊教の信徒で、葬式も神道であった。兄の二人、弟の一人と、姉婿が棺側に附いて、最早墓守夫妻が其亡くなった姉をはじめて識った頃の年頃になった彼女の妹が、紫の袴をはいて位牌を持った。六十前後の老衰した神官が拍手を打って、「下田安子の命が千代の住家と云々」と祭詞を読んだ。快くなったら姉の嫁した家へ遊びに行くと云って、彼女は晴衣を拵えてもらって喜んで居たが、到頭其れを着る機会もなかった。棺の上には銘仙の袷が覆うてあった。其棺の小さゝを見た時、十六と云う彼女の本当にまだ小供であったことを思うた。赤土を盛った墓の前には、彼女が常用の膳の上に飯を盛った茶碗、清水を盈たした湯呑なぞならべてあった。墓が近いので、彼女の家の者はよく墓参に来た。墓守の家の女児も時々園の花を折って往って墓に插した。三年前砲兵にとられた彼女の二番目の兄は、此の春肩から腹にかけて砲車に轢かれ、已に危い一命を纔にとりとめて先日めでたく除隊になって帰った。「お安さんは君の身代りに死んだのだ、懇に弔うて遣り玉え」墓守は斯く其の若者に云うた。
五
墓地が狭いので、新しい棺は大抵古い骨の上に葬る。先年村での旧家の老母を葬る日、墓守がぶらりと墓地に往って見たら、墓掘り役の野ら番の一人が掘り出した古い髑髏を見せて、
「御覧なさい、頬の格好が斯う仁左衛門さんに肖てるじゃありませんか。先祖ってえものは、矢張り争われないもんですな」
と云うた。泥まみれの其の髑髏は、成程頬骨の張り方が、当主の仁左衛門さんそっくりであった。土から生れて土に働く土の精、土の化物とも云うべき農家の人は、死んで土になる事を自然の約束として少しも怪むことを為ない。ある婆さんを葬る時、村での豪家と立てられる伊三郎さんが、野ら番の一人でさっさと赤土を掘りながら、ホトケの息子の一人に向い、
「でも好い時だったな、来月になると本当に忙しくてやりきれンからナ」と極めて平気で云うて居た。息子も平気で頷いて居た。死人の手でも借りたい程忙しい六七月に葬式があると、事である。村の迷惑になるので、小供の葬式は、成るべくこっそりする。ある夜、墓守が外から帰って来ると、墓地に一点の火光が見える。やゝ紅い火である。立とまってじいと見て居た彼は、突と墓地に入った。其は提灯の火であった。黒い影が二つ立って居る。近づいて、村の甲乙であることを知った。側に墓穴が掘ってある。「誰か亡くなられたのですか」と墓守が問うた。「えゝ、小さいのが」と一人が答えた。彼等は夜陰に墓を掘り終え、小さな棺が来るのを待って居たのである。
六
古家を買って建てた墓守が二つの書院は、宮の様だ、寺の様だ、と人が云う。外から眺めると、成程某院とか、某庵とか云いそうな風をして居る。墓地が近いので、ます/\寺らしい。演習に来た兵士の一人が、青山街道から望み見て、「あゝお寺が出来たな」と云った。居は気を移すで、寺の様な家に住めば、粕谷の墓守時には有髪の僧の気もちがせぬでも無い。
然し此れが寺だとすれば、住持は恐ろしく悟の開けぬ、煩悩満腹、貪瞋痴の三悪を立派に具足した腥坊主である。彼は好んで人を喰う。生きた人を喰う上に、亜剌比亜夜話にある「ゴウル」の様に墓を掘って死人を喰う。彼は死人を喰うが大好きである。
無論生命は共通である。生存は喰い合いである。犠牲なしでは生きては行かれぬ。犠牲には、毎に良いものがなる。耶蘇は「吾は天より降れる活けるパンなり。吾肉は真の喰物、吾血は真の飲物」と云うたが、実際良いものゝ肉を喰い血を飲んで我等は育つのである。粕谷の墓守、睡眠山無為寺の住持も、想い来れば半生に数限りなき人を殺し、今も殺しつゝある。人を殺して、猶飽かず、其の死体まで掘り出して喰う彼は、畜生道に堕したのではあるまいか。墓守実は死人喰いの「ゴウル」なのではあるまいか。彼は曾て斯んな夢を見た。誰やら憤って切腹した。彼ではなかった様だ。無論去年の春の事だから、乃木さんでは無い。誰やら切腹すると、瞋恚の焔とでも云うのか、剖いた腹から一団のとろ/\した紅い火の球が墨黒の空に長い/\尾を曳いて飛んで、ある所に往って鶏の嘴をした異形の人間に化った。而して彼は其処に催うされて居る宴会の席に加わった。夢見る彼は、眼を挙げてずうと其席を見渡した。手足胴体は人間だが、顔は一個として人間の顔は無い。狼の頭、豹の頭、鯊の頭、蟒蛇の頭、蜥蜴の頭、鷲の頭、梟の頭、鰐の頭、――恐ろしい物の集会である。彼は上座の方を見た。其処には五分苅頭の色蒼ざめた乞食坊主が Preside して居る。其乞食坊主が手を挙げて相図をすると、一同前なる高脚の盃を挙げた。而して恐ろしい声を一斉にわッと揚げた。彼は冷汗に浸って寤めた。惟うに彼は夢に畜生道に堕ちたのである。現の中で生きた人を喰ったり、死んだ死骸を喰ったりばかりして居る彼が夢としては、ふさわしいものであろう。
彼は粕谷の墓守である。彼の住居は外から見てのお寺である。如何様なお寺にも過去帳がある。彼は彼の罪亡ぼしに、其の過去帳から彼の餌になった二三亡者の名を写して見よう。
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綱島梁川君
明治四十年九月某の日、柄杓が井に落ちた。女中が錨を下ろして探がしたが、上らぬ。妻が代って小一時間も骨折ったが、水底深く沈んだ柄杓は中々上ろうともしない。最後に主人の彼が引受け、以前相模の海で鱚を釣った手心で、錨索をとった。偖熱心に錨を上げたり下げたりしたが、時々はコトリと手答はあっても、錨の四本の足の其何れにも柄杓はかゝらない。果ては肝癪を起して、井の底を引掻き廻すと、折角の清水を濁らすばかりで、肝腎の柄杓は一向上らぬ。上らぬとなるとます/\意地になって、片手は錨、片手は井筒の縁をつかみ、井の上に伸しかゝって不可見水底の柄杓と闘って居ると、
「郵便が参りました」
と云って、女中が一枚のはがきを持て来た。彼は舌打して錨を引上げ、其はがきを受取った。裏をかえすと黒枠。誰かと思えば、綱島梁川君の訃であった。
彼は其はがきを持ったまゝ、井戸傍を去って母屋の縁に腰かけた。
*
程明道の句に「道通天地有形外」と云うのがある。梁川君の様な有象から無象に通う其「道」を不断に歩いて居る人は、過去現在未来と三生を貫通して常住して居るので、死は単に此生態から彼生態に移ったと云うに過ぎぬ。斯く思うものゝ、死は矢張哀しい而して恐ろしい事実である。
彼は梁川君と此生に於て唯一回相見た。其は此春の四月十六日であった。梁川君の名は久しく耳にして居た。其「見神の実験」及び病間録に収められた他の諸名篇を、彼は雑誌新人の紙上に愛読し、教えらるゝことが多かった。木下尚江君がある日粕谷に遊びに来た時、梁川君の事を話し、「一度逢って御覧なさい、あの病体に恐入った元気」と云うた。丁度四月十六日には、救世軍のブース大将歓迎会が東京座に開かるゝ筈で、彼も案内をうけて居たので、出京のついでに梁川君を訪うことにしたのであった。
肺患者には無惨な埃まじりの風が散り残りの桜の花を意地わるく吹きちぎる日の午後、彼は大久保余丁町の綱島家の格子戸をくゞった。梁川先生発熱の虞あり、来訪諸君は長談を用捨されたく云々、と主治医の書いた張札が格子戸に貼ってある。食事中との事で、しばらく薄暗い一室に待たされた。「自彊不息」と主人の嘱によって清人か鮮人かの書いた額が掛って居た。やがて案内されて、硝子戸になって居る縁側伝いに奥まった一室に入った。古い段通を敷いた六畳程の部屋、下を硝子戸の本棚にして金字の書巻のギッシリ詰まった押入を背にして、蒲団の上に座って居る浅黒い人が、丁寧に頭を下げて、吸い込む様なカスレ声で初対面の挨拶をした。処女の様なつゝましさがある。たゞ其の人を見る黒い眸子の澄んで凝然と動かぬ処に、意志の強い其性格が閃めく様に思われた。最初其カスレた声を聞き苦しく思い、斯人に談話を強うるの不躾を気にして居た彼は、何時の間にかつり込まれて、悠々と話込んだ。話半に家の人が来客を報ぜられた。綱島君は名刺を見て、「あゝ丁度よい処だった。御紹介しようと思って居ました」と云う。やがて労働者の風をした人が一青年を連れて入って来た。梁川君は、西田市太郎君と云うて紹介し、「実地の経験には、西田さんに学ぶ所が多い」と附け加えた。話は種々に渉った。彼は聖書に顕れた耶蘇基督について不満と思う所は、と梁川君に問うた。例せば実なき無花果を咀った様な、と彼は言を添えた。梁川君は「僕も丁度今其事を思うて居たが、不満と云う訳ではないが、耶蘇の一特色は其イラヒドイ所謂 Vehement な点にある」と答えた。話は菜食の事に移って、彼は旅順閉塞に行く或船で、最後訣別の盃を挙ぐるに、生かして持って来た鶏を料理しようとしたが、誰云い出すともなく、鶏は生かして置こうじゃァないかと、到頭其まゝにして置いた、と云う逸話を話した。梁川君は首を傾げて聴いて居たが、「面白いな」と独語した。一座の話は多端に渉ったが、要するに随感随話で、まとまった事もなかった。唯愉快に話し込んで思わず時を移し、二時間あまりにして西田君列と前後に席を立った。
其れから其足で三崎町の東京座に往って、舞台裏で諸君のあとから彼もブース大将の手を握るの愉快を獲た。大将は肉体も見上ぐるばかりの清げな大男で、其手は昨年の夏握ったトルストイの手の様に大きく温であった。午後には梁川君と語り、夜はブース大将の手を握る。四月十六日は彼にとって喜ばしい一日であった。嬉しいあまりに、大将の演説終って喜捨金集めの帽が廻った時、彼は思わず乏しい財布を倒にして了うた。
其後梁川君とははがきの往復をしたり、回光録を贈ってもらったりしたきり、彼も田園の生活多忙になって久しく打絶えて居た。そこで此訃は突然であった。精神的に不朽な人は、肉体も例令其れが病体であっても猶不死の様に思われてならなかったのである。梁川君が死ぬ、其様な事はあまり彼の考には入って居なかった。一枚の黒枠のはがきは警策の如く彼が頭上に落ちた。「死ぬぞ」と其はがきは彼の耳もとに叫んだ。
*
梁川君の葬式は、秋雨の瀟々と降る日であった。彼は高足駄をはいて、粕谷から本郷教会に往った。教会は一ぱいであった。やがて棺が舁き込まれた。草鞋ばきの西田君の姿も見えた。某嬢の独唱も、先輩及友人諸氏の履歴弔詞の朗読も、真摯なものであった。牧師が説教した。「美人の裸体は好い、然しこれに彩衣を被せると尚美しい。梁川は永遠の真理を趣味滴る如き文章に述べた」などの語があった。梁川、梁川がやゝ耳障りであった。
彼は棺の後に跟いて雑司ヶ谷の墓地に往った。葬式が終ると、何時の間にか車にのせられて綱島家に往った。梁川君に親しい人が集って居て、晩餐の饗があった。西田君、小田君、中桐君、水谷君等面識の人もあり、識らない方も多かった。
新宿で電車を下りた。夜が深けて居る。雨は止んだが、路は田圃の様だ。彼は提灯もつけず、更らに路を択ばず、ザブ/\泥水を渉って帰った。新宿から一里半も来た頃、真闇な藪陰で真黒な人影に行合うた。彼方はずうと寄って来て、顔をすりつける様にして彼を覗く。彼は肝を冷やした。
「君は誰だ?」
先方から声をかけた。彼は住所姓名を名乗った。而して「貴君は?」ときいた。
「刑事です。大分晩く御帰りですな」
八幡近くまで帰って来ると、提灯ともして二三人下りて来た。彼の影を見て、提灯はとまったが、透かして見て「福富さんだよ」と驚いた様な声をして行き過ぎた。此は八幡山の人々であった。先日八幡山及粕谷の若者と烏山の若者の間に喧嘩があって、怪我人なぞ出来た。其のあとがいまだにごたごたして居るのだ。
帰ると、一時過ぎて居た。
*
其後梁川君の遺文寸光録が出た。彼の名がちょい/\出て居る。彼の事を好く云うてある。総じて人は自己の影を他人に見るものだ。梁川君が彼にうつした己が影に見惚れたのも無理はない。
梁川君が遺文の中、病中唯一度母君に対してやゝ苛の言を漏らしたと云って、痛恨して居る。若し其れをだに白璧の微瑕と見るなら、其白璧の醇美は如何であろう。彼の様な汚穢な心と獣的行の者は慙死しなければならぬ。
*
梁川君の訃に接した其日井底に落ちた柄杓は、其の年の暮井浚えの時上がって来た。
然し彼は彼の生前に於て宇宙の那辺にか落したものがある。彼は彼の生涯を献げて、天の上、地の下、火の中、水の中、糞土の中まで潜っても探し出ださねばならぬ。梁川君は端的に其求むるものを探し当てゝ、堂々と凱旋し去った。鈍根の彼はしば/\捉え得たと思うては失い、攫んだと思うては失い、今以て七転八倒の笑止な歴史を繰り返えして居る。但一切のもの実は大能掌裡の筋斗翻に過ぎぬので人々皆通天の路あることを信ずるの一念は、彼が迷宮の流浪に於ける一の慰めである。
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梅一輪
一
「お馨さんの梅が咲きましたよ」
斯く妻が呼ぶ声に、彼は下駄を突っかけて、植木屋の庭の様に無暗に樹木を植え込んだ園内を歩いて、若木の梅の下に立った。成程咲いた、咲いた。青軸また緑萼と呼ばるゝ種類の梅で、花はまだ三四輪、染めた様に緑な萼から白く膨らみ出た蕾の幾箇を添えて、春まだ浅い此の二月の寒を物ともせず、ぱっちりと咲いて居る。極の雪の様にいさゝか青味を帯びた純白の葩、芳烈な其香。今更の様だが、梅は凜々しい気もちの好い花だ。
白っぽい竪縞の銘仙の羽織、紫紺のカシミヤの袴、足駄を穿いた娘が曾て此梅の下に立って、一輪の花を摘んで黒い庇髪の鬢に插した。お馨さん――其娘の名――は其年の夏亜米利加に渡って、翌年まだ此梅が咲かぬ内に米国で亡くなった。
其れ以来、彼等は此梅を「お馨さんの梅」と呼ぶのである。
二
米国の画家ヂャルヂ、ヘンリー、バウトンの描いた「メェフラワァの帰り」と云う画がある。メェフラワァは、約三百年前、信仰、生活の自由を享けん為に、欧洲からはる/″\大西洋を越えて、亜米利加の新大陸に渡った清教徒の一群ピルグリム、ファザァスが乗った小さな帆前船である。画は此船が任務を果してまた東へ帰り去る光景を描いた。海原の果には、最早小さく小さくなった船が、陸から吹く追手風に帆を張って船脚軽く東へ走って居る。短い草が生えて、岩石の処々に起伏した浜にはピルグリムの男女の人々が、彼処に五六人、此処に二三人、往く船を遙に見送って居る。前景に立つ若い一対の男女は、伝説のジョン、アルデンとメーリー、チルトンででもあろうか。二人共まだ二十代の立派な若い同士。男は白い幅濶の襟をつけた服を着て、ステッキをついた左の手に鍔広のピュリタン帽を持つ右の手を重ね、女は雪白のエプロンをかけて、半頭巾を冠り、右の手は男の腕に縋り、半巾を持った左の手をわが胸に当てゝ居る。二人の眼はじっと遠ざかり行くメェフラワァ号の最後の影に注がれて居る。メェフラワァは故国との最後の連鎖である。メェフラワァの去ると共に故国の縁は切れるのである。なつかしい過去、旧世界、故国、歴史、一切の記念、其等との連鎖は、彼船脚の一歩に切れて行くのである。彼等の胸は痛み、眼には涙が宿って居るに違いない。然しながら彼等は若い。彼等は新しい大陸に足を立てゝ居る。彼等の過去は、彼船と共に夢と消ゆる共、彼等の現在は荒寥であるとも、彼等は洋々たる未来を代表して居る。彼等は新世界のアダム、イヴである。
此の画を見る毎に、彼はお馨さんと其恋人葛城勝郎を憶い出さぬことは無い。
三
葛城は九州の士の家の三男に生れた。海軍機関学校に居る頃から、彼は外川先生に私淑して基督を信じ、他の進級、出世、肉の快楽にあこがるゝ同窓青年の中にありて、彼は祈祷し、断食し、読書し、瞑想する青年であった。日露戦争に機関少尉として出陣した彼は、戦争が終ると共に海軍を見限って、哲学文学を以て身を立つる可く決心した。寡婦として彼を育て上げた彼の母、彼の姉、彼の二兄、家族の者は皆彼が海軍を見捨つることに反対した。唯一人満腔の同情を彼に寄せた人があった。其れは其頃彼の母の家に寄寓して居る女学生であった。女学生の名はお馨さんと云った。
お馨さんは、上総の九十九里の海の音が暴風の日には遠雷の様に聞ゆる或村の小山の懐にある家の娘であった。四人の兄、一人の姉、五人の妹を彼女は有って居た。郷里の小学を終えて、出京して三輪田女学校を卒え、更に英語を学ぶべく彼女はある縁によって葛城の母の家に寄寓して青山女学院に通って居た。彼女も又外川先生の門弟で、日曜毎に隅の方に黙って聖書の講義を聴いて居た。富裕な家の女に生れて、彼女は社会主義に同情を有って居た。葛城が軍艦から母の家に帰って来る毎に、彼は彼女と談話を交えた。信仰を同じくし、師を同じくし、同じ理想を趁う二人は多くの点に於て一致を見出した。彼女は若い海軍士官が軍籍を脱することについて家族総反対の中に唯一人の賛成者であった。斯くて二人は自然に相思の中となった。二人は時に青山から玉川まで歩いて行く/\語り、玉川の磧の人無き所に跪いて、流水の音を聞きつゝ共に祈った。身は雪の如く、心は火の如く、二人の恋は美しいものであった。
四
本文の筆を執る彼は、明治三十九年の正月、逗子の父母の家で初めて葛城に会った。恰も自家の生涯に一革命を閲した時である。間もなく彼は上州の山に籠る。ついで露西亜に行く。外国から帰った時は、葛城は已に海軍を退いて京都の大学に居た。
明治四十年の初春、此文の筆者は東京から野に移り住んだ。八重桜も散り方になり、武蔵野の雑木林が薄緑に煙る頃、葛城は渡米の暇乞に来た。一夜泊って明くる日、村はずれで別れたが、中数日を置いて更に葛城を見送る可く彼は横浜に往った。港外のモンゴリヤ号は已に錨を抜かんとして、見送りに来た葛城の姉もお馨さんもとくに去り、葛城独甲板の欄に倚って居た。時間が無いので匆々に別を告げた。此時初めて葛城はお馨さんの事を云うた。ゆく/\世話になろうと思うて居ると云うた。而して今後度々上る様に云って置いたから宜しく頼む、と云うた。斯くて葛城は亜米利加に渡った。
其年夏休前にお馨さんは初めて粕谷に来た。美しいと云う顔立では無いが、色白の、微塵色気も鄙気も無いすっきりした娘で、服装も質素であった。其頃は女子英学塾に寄宿して居たが、後には外川先生の家に移った。粕谷に遊びに往ったと云うてやると、米国から大層喜んでよこす、と云ってよく遊びに来た。今日は学校から玉川遠足をしますから、私は此方へ上りました、と云って朝飯前に来た事もあった。体質極めて強健で、病気と云うものを知らぬと云って居た。新宿から三里、大抵足駄をはいて歩いた。日がえりに往復することもあった。彼女は女中も居ぬ家の不自由を知って居るので、来る時に何時も襷を袂に入れて来た。而して台所の事、拭掃除、何くれとなく妻を手伝うた。家の事情、学校の不平、前途の喜憂、何も打明けて語り、慰められて帰った。妻は次第に彼女を妹の如く愛した。
葛城は新英州の大学で神学を修めて居た。欧米大陸の波瀾万丈沸えかえる様な思潮に心魂を震蕩された葛城は、非常の動揺と而して苦悶を感じ、大服従のあと大自由に向ってあこがれた。彼が故国の情人に寄する手紙は、其心中の千波万波を漲らして、一回は一回より激烈なるものとなった。彼はイブセンを読む可く彼女に書き送った。彼女を頭が固いと罵ったりした。而して彼女をも同じ波瀾に捲き込むべく努めた。斯等の手紙が初心な彼女を震駭憂悶せしめた状は、傍眼にも気の毒であった。彼女は従順にイブセンを読んだ。ツルゲーネフも読んだ。然し彼女は葛城が堕落に向いつゝあるものと考えた。何ともして葛城を救わねばならぬと身を藻掻いた。彼女は立っても居ても居られなくなった。而して自身亜米利加に渡って葛城を救わねばならぬと覚期した。
粕谷の夫妻は彼女を慰めて、葛城が此等の動揺は当に来る可き醗酵で、少しも懸念す可きでないと諭した。然しお馨さんの渡米には、二念なく賛同した。彼葛城の為にも、彼女自身の鍛錬の為にも、至極好い思立と看たのである。彼女は葛城の渡米当時已に自身も渡米す可く身を悶えたが、父の反対によって是非なく思い止まったのであった。
米国からは、あまり乗気でもないが、来るなら紐育ブルックリンの看護婦学校に口があると知らして来た。彼女の師外川先生も、自身新英蘭で一時白痴院の看護手をしたことがあると云うて、彼女の渡米に賛同した。お馨さんは母の愛女であった。母は愛女の為に其望を遂げさすべく骨折る事を諾した。彼女の長兄は、其母を悦ばす可く陰に陽に骨折る事を妹に約した。残る所は彼女の父の承諾だけであった。彼女の父は田舎の平相国清盛として、其小帝国内に猛威を振うている。彼女と葛城の縁談も、中に立って色々骨折る人があったが、彼女の父は断じて許さなかった。葛城の人物よりも其無資産を慮ったのである。葛城の母、兄姉も皆お馨さんの渡米には不賛成であった。葛城の勉強の邪魔になると謂うた。静かにこゝで勉強して葛城の帰朝を待てと勧めた。然しお馨さんは如何しても思い止まることが出来なかった。それに、日本に愚図々々して居れば、心に染まぬ結婚を父に強いられる恐れがあった。
斯様な事情と彼女の切なる心情を見聞する粕谷の夫妻は、打捨てゝ置く訳に行かなかった。葛城が家族の反対に関せず、何を措いても彼女の父の結婚及渡米の許諾を獲べく、単刀直入桶狭間の本陣に斬込まねばならぬと考えた。
五
朧月の夜、葛城家の使者と偽る彼は、房総線の一駅で下りて、車に乗ってお馨さんの家に往った。長い田舎町をぬけて、田圃沿いの街道を小一里も行って、田中路を小山の中に入って、其山ふところの行止りが其家であった。大きな長屋門の傍の潜りを入って、勝手口から名刺を出した。色の褪めた黒紋付の羽織を着た素足の大きな六十爺さんが出て来た。お馨さんの父者人であった。
其夜は烈しい風雨であった。十二畳の座敷に寝かされた彼は、夢を結び得なかった。明くる早々起きて雨戸をあけて見た。庭には大きな泉水を掘り、向うの小山を其まゝ庭にして、蘇鉄を植えたり、石段を甃んだり、石燈籠を据えたりしてある。下駄突かけて、裏の方に廻って見ると、小山の裾を鬼の窟の如く刳りぬいた物置がある。家は茅葺ながら岩畳な構えで、一切の模様が岩倉と云う其姓にふさわしい。まだ可なり吹き降りの中を、お馨さんによく似た十四五、十一二の少女が、片手に足駄を提げ、頭から肩掛をかぶり、跣足で小学校に出かけて行く。座敷に帰って、昼の光であらためて主翁と対面した。住居にふさわしい岩畳なかっぷくである。左の目が眇かと思うたら、其れは眼の皮がたるんでいるのであった。其れが一見人を馬鹿にした様に見える。芳野金陵の門人で、漢学の素養がある。其父なる人は、灌漑用の潴水池を設けて、四辺に恩沢を施して居る。お馨さんの父者人は、十六にして父に死なれ、一代にして巨万の富をなした。六十爺の今日も、名ある博士の弁護士などを顧問に、万事自身で切って廻わして居る。此辺は数名の博士、数十名の学士を出して居る位で、此富豪翁も子女の教育には余程身を入れて居るのであった。
障子に日がさして来た。障子を明けると、青空に映る花ざかりの大きな白木蓮が、夜来の風雨に落花狼藉、満庭雪を舗いて居る。推参の客は主翁に対して久しぶりに嘘と云うものを吐いた。彼は葛城家の使者だと云うた。お馨さんを将来葛城勝郎の妻に呉れと云うた。旅費学資は一切葛城家から出すによって、お馨さんを米国へ遣ってくれと云うた。学校は師範学校見た様なもので、育児衛生を旨とすると云うた。主翁は逐一聞いた上で、煙管をポンと灰吹にはたき、十二三の召使の男児を呼んで御寮様に一寸御出と云え、と命じた。やがてお馨さんの母者人が出て来た。よくお馨さんに肖て居る。十一人の子供を育て、恐ろしい吾儘者の良人に仕えて、しっかり家を圧えて行く婦人の尋常の婦人であるまいと云う事は、葛城家の偽使者も久しく想う処であった。主翁は今一応先刻の御話をと云うた。似而非使者は、試験さるゝ学生の如く、真赤な嘘を真顔で繰り返えした。母者人は顔の筋一つ動かさず聴いて居た。主翁は兎も角忰や親戚の者共とも相談の上追って御返事すると云うた。「六ヶ敷いな」彼は斯く思いつゝ帰途に就いた。
然しながら天はお馨さんに味方するかと思われた。彼女の父は意外にも承諾を与えた。旅券も手に入った。而して葛城が米国へ向け乗船した二年と三月目の明治四十二年の七月六日、横浜出帆の信濃丸で米国に向うた。葛城の姉、お馨さんの長兄夫婦、末の兄、お馨さんによく肖た妹達は、桟橋でお馨さんを見送った。粕谷の夫妻も見送り人の中にあった。妹達は涙を流して居た。水草の裾模様をつけた空色絽のお馨さんは、同行の若い婦人と信濃丸の甲板から笑みて一同を見て居た。彼女は涙を堕し得なかった。其心はとく米国に飛んで居るのであった。船はやおら桟橋を離れた。空色衣の笑貌の花嫁は、白い手巾を振り/\視界の外に消えた。
六
乗船いたしましてから五日目になりますが、幸に海は非常に静かで……友人と同室で御座いますから心配もなく、朝より夕まで笑いつゞけて居る次第にて、非常に幸福で愉快に暮して居ります。互に語り、読書し、議論し、歌を唱い、少しも淋しき事はなく暮して居ります。非常に元気なる故、隣室よりうらやましがられて居る程で御座います。……然し葛城は下等で荷物同様な取扱いをされて非常に苦しんで参りましたのに、私は上等室にて御客様扱いを受けて安楽に暮らして居りますから済まぬような申訳なきような心地がいたして居ります。
七月十日
七月十日
信濃丸にて